第十一回 天然の商業国
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第十一回 天然の商業国(第三 わが邦特別の境遇より論ず)
 全体の境遇はもって一部の境遇を支配せざるべからず。全面の大勢はもって一局の大勢を支配せざるべからず。しからばすなわちわが日本特別の境遇と大勢とはまたいずくんぞ世界一般の境遇と大勢とによりて支配せらるるものなることを疑わんや。
 読者はすでに記憶せらるべし。今日の世界の境遇は実に富の境遇にして、今日の世界の大勢は実に平民主義の大勢なることを。すでにしからば吾人はただこの事実よりしてただちにわが日本の将来は商業国となるべし、また商業国とならざるべからずと断言することを得べきやもとより論をまたず。しかりといえどもかのゲルマンのごとき、露国のごときはその国に固有する一種特別の事情あるがために容易に全体の大勢に従い、全体の境遇に入り全体と共同一致の運動をなすべからざるがごときの観なしとせず。おもうにわが日本においてははたしてこれらの事情あらざるや、否や。これ吾人がわが邦の境遇を観察するにさきだち、思考を労せざるべからざるの点なりとす。
 およそ今日の大勢に抗し武備をもって一国の生活を維持するものは必ず過去のやむべからざる事情あるがゆえなり。しかしてその事情においてもっとも重なるものは、
〔第一〕内部の結合薄弱にしていまだ強迫の威力を仮らざるべからざるもの存すればなり。
 けだし内部の結合薄弱にしてややもすれば分裂の傾向を生ずるゆえんのものその原因一にして足らず。あるいは人種を異にしその性情行径においておのずから氷炭相容れざるものあり。あるいはその腕力をもって征服せられたるにもかかわらず、そのかつて独立国たりし遺風を存し、その国体の記憶を有し、恥を包み愧《はじ》を忍ぶといえどもその心中報復の念いまだ一日も去るあたわず。ために征服者をして一日も鉄火のもとにその国を鎮圧するにあらざれば高枕安臥《こうちんあんが》するあたわざるものあり。あるいは宗教・言語・風俗の相《あい》撞着《どうちゃく》するよりして、あるいは商業上の利益相異なるよりして、あるいはその国家の面積あまりに広漠に過ぎ、政治家の手中において随意の結合を頼んでこれを維持するあたわず。ややもすれば分解せんとするの勢いあるがために、またあるいはその政府なるもの、人民を、すなわち人民の実情実利を代表するあたわず。これがために風声|鶴唳《かくれい》その位置の危険なるに恐れ、ためにやむをえず武力を仮りて国を維持せざるべからざるの苦策を行なうことあり。すなわちオーストリアのハンガリーにおけるはその人種・国体の異なるがためなり。トルコのセルビア、ルーマニアにおける、英国のアイルランドにおける、その人種・国体・風俗・言語・宗教の相異なるあるがためなり。露国のごときは一はその土地一個の政治の版図としてあまりに濶大《かつだい》にして、またことにその人民と政府と相《あい》仇視《きゅうし》するがためなり。米国南北戦争のごときはその南北の利益相反したるがためなり。ゲルマン連邦の今日に強迫の結合を仮らざるべからざるゆえんのものは兵略上の結合なるがためなり。
〔第二〕外国社会の刺激あるがゆえなり。もし過去において二国相|仇《あだ》とし、いわゆる歴史的の記憶なるものを有する場合においては、我より彼に報いずんば、彼必ず我に報うることあるをもって、勢い相互に龍驤虎視《りゅうじょうこし》、武備機関を発達せしめざるべからず。あるいはよし、しかることなきももし強大にしてかつ武備的の国とその境界|犬牙《けんが》相接する場合においては我つねに戒厳するところあらざるべからず。しからずんばたちまちかの封豕長蛇《ほうしちょうだ》もって我をして城下の盟《ちかい》をなさしむべし。またことにその位置において兵略上のいわゆる争地たるの国土はもっとも武備に注目せざるべからず。なんとなれば万邦・万人、みな涎《よだれ》を流し、牙《きば》を磨し、みなその呑噬《どんぜい》の機会をまつをもって少しく我に乗ずべき隙あらばたちまちその国体を亡《うしな》うに至らん。かかる場合においては万々やむをえず、泣く泣くもたとい一国を身代《しんだい》限りの悲堺《ひかい》に沈淪《ちんりん》せしむるも武備の用意をなさざるべからず。すなわち独仏の関係は歴史的の記憶あるがためなり。露独の関係は犬牙相接するがためなり。イタリアのごときはローマ帝国没落以来群雄鹿を逐い、千兵万馬の驟馳《しゅうち》するところ万目一手、みなもってその大いに欲するところを逞しゅうせんと欲するものあるがためなり。試みに思え、わが邦ははたしてかかるやむべからざるの事情あるか。唯一の国体なり。唯一の人種なり。唯一の風俗なり。唯一の言語なり。その結合なるものは利益の結合にして兵略上の結合にあらざればもとより利害をことにするがごときものあることなし。宗教のごときは今日に至るまでほとんど政治家の注意をひくほどの現象にすら進歩することあたわず。たとい将来においてキリスト教の勢力を進歩したりとてこれがために一国の一致を鞏固《きょうこ》ならしむることはあるももって散漫ならしむることはあるべからず。しかしてその面積は二万四七九四方里に出でず。いかなる凡庸政治家といえども、もってこれを掌上に運転することを得べし。しからばすなわちその外部の事情はいかん。四方八面ただ大海の茫々蒼々《ぼうぼうそうそう》たるを見るのみ。三十年前までは鎖国の政略を採りたれば歴史的の記憶とてさらに存するものはあらず。邦土美なりといえどもイタリアの単騎長駆ただちにその城下を陥れらるるがごときにあらず。すでにしからばわが邦を商業国となすにまたなんの妨害的の事情あらんや。もし外部の事情はつねに我に向かって反射の運動を与うるものとせば、わが邦はむしろ武備的の運動をば障碍することあるも商業上の発達を激成するものなりといわざるべからず。これを要するにわが邦は自然の結合によりて自然の国体をなしたるものなり。ゆえにこれを治むるの方略とて別に存せざるなり。ただただ自然の傾向によりてすなわち水の下流に就くがごとくしてこれを治むべきなり。
 しかりといえどもわが邦はひとりかくのごとく自然の境遇に入り、自然の運動をなすにおいていまだ一の妨害物を発見せざるのみにとどまらず、さらに一歩を転じて考うるときには非常に便益なる事情あるを見るべし。乞う試みにこれを説かん。
〔第一〕気候。かの造物主は、わが日本人民を配置するにもっとも便宜なる中帯の地を与えたり。ゆえにわが日本人民は、氷山雪屋のうちに住するエスキモーのごとく鯨油を飲み、海豹《かいひょう》の肉を食《くら》い、寒気と戦わんがためにこの世に生活するものにあらず。また、かのアラビア人のごとく熱天爍地《ねつてんれきち》、一木一草もその自由豊美なる生長をなすあたわず、駝鳥《だちょう》の伴侶となり、駱駝《らくだ》の主人となり、沙漠より出でて沙漠に入るにもあらず。また草木|禽獣《きんじゅう》得意の世界ともいうべきアマゾン河流地方のごとく、いかに斧《おの》をふるうも森々たる高草大木は人を圧して侵し、猛獣毒蛇は人に迫り来たるの地に生活せざるべからざるの命運を有するものにあらず。実にわが邦の気候はもって寒温の適度を得、その空気はもって乾湿の順序を失せず。これがために、人間の生活に必要にして有益なる動植物は便宜に繁殖するを得るのみならず、人類さえももって遺憾なくその天賦の能力を開発する便宜を有するものなり。
〔第二〕地味。かのモーセはカナンの地を指して蜂蜜および牛乳の流れ溢《あふ》るる邦といえり。しかしてわが国のごときは実に生糸および茶の湧き出ずる地といわざるべからず。実にわが桑圃《そうほ》ならびに蚕糸の産出高は左のごとしとなす。
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わが外国輸出貿易品の首位を占めたる生糸の根元とも称すべき桑圃|反別《たんべつ》は、一一万〇一七四町三反三畝歩〔明治十四年の調査〕にして各種の採葉数は、二億四五八一万一六六九貫目にて、平均一反歩につき二二三貫目にあたれり。しかしておよそ養蚕は原紙一枚の払立《はきたて》に桑葉二百貫目を要する由なれば、桑葉二億四五八一万一六六九貫目をもって一二二万九五〇八石の成繭《せいけん》を収め、九八万三二四六貫六八〇目すなわち六一四万五二九二斤の生糸を製造しうることならん。しかるにまた全国養蚕家の数は明治十五年の調査にて七五万二五〇三戸なればこれに桑葉および桑葉製糸を配当すれば、一戸につき桑圃は一反四畝一九歩、桑葉は三二六貫八〇〇目、製糸は八斤強の平均にあたれりという。〔十九年四月八日『中外物価新報』〕
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しかしてその外国輸出の高は、
量    数
十五年 十六年
生糸 二、八八四、〇六八斤 三、一二一、九七五斤
元    価
十五年 十六年
生糸 一六、二三二、一五〇円 一六、一八二、五五〇円
蚕および絹類総計
一九、三七七、八〇〇円 一八、六七八、六一五円
〔『第四統計年鑑』〕
 これに続いてもっとも有益なる産物は問わずして茶なることを知るべし。試みにその外国輸出の高を挙げんに、
量    数
十五年 十六年
茶 二三、五八九、〇九八斤 二四、一四一、七三七斤
元    価
十五年 十六年
茶 六、八五八、七六三円 五、九七六、五九五円
茶類および胡椒《こしょう》合計
七、〇三三、三八〇円 六、一一一、九三九円
〔『第四統計年鑑』〕
しかして茶畠反別は、
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明治十四年各府県の調査統計によるに無慮四万二〇二三町九反とす。
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 これを要するに、明治十六年外国輸出の総計は二八九八万三九三二円にしてうち二四七九万〇五五四円は生糸・茶の諸類なれば、取りも直さずこの二品はわが国輸出のほとんど六分の五の大数を占むるのわが特有産物といわざるべからず。けだしわが国の耕地なるものは四五〇万七四七四町四反四畝一六歩にして、すなわち全面積に対する比例百につき十二を占むるの割合にして、かの桑圃茶圃なるものはこれを合算するに、一五万二一九八町二反三畝歩なれば、慨するにすなわち耕地の三十分の一より出でず。吾人はこれを希望す、もし今日よりしてかの封建世界の訓言たるいかなる場合にても決して一国生活の必要を他に仰ぐべからずという固陋《ころう》なる悪習を去り、天地広大、四海|兄弟《けいてい》、天の時に従い、地の利に随い、分業の便宜をば世界を通じて適用するの自由貿易主義に則《のっと》り、この耕地はもとより山腹水涯、ことごとく桑園茶圃ならざるはなく、わが邦を挙げて養蚕の世界、生糸の故郷となさばわが邦の繁栄もまた期すべきなり。
 ウールジー氏曰く「土地の肥瘠《ひせき》は人民の職業のいかんを制すべく、人民職業のいかんはまたもってその政治のいかんを制すべし」と。実にしかり。わが邦の地味はわが人民をして生産者たらしめんとす。おもうにわが生産的の職業はまた平民国となすべきかな。
〔第三〕形勢。頼襄《らいじょう》曰く「余かつて東西を歴遊し、その山河起伏するところを考え、おもえらくわが邦の地脈東北より来たりて、ようやく西すればようやく小なり。これを人身にたとうれば、陸奥《むつ》、出羽《でわ》はその首なり。甲斐《かい》・信濃《しなの》はその背なり。関東八州および東海諸国はその胸腹、しかして京畿《けいき》はその腰臀《ようでん》なり。山陽南海より西に至っては股《こ》のみ、脛《けい》のみ」と。吾人はこの比喩《ひゆ》のはたして当を得たるや否やを知らず。しかれども実にわが邦の地形はもっとも不同にして東北より西南に向かって蜒々《えんえん》として一の蜻※[#「虫+廷」、第4水準2-87-52]形《せいていけい》をなし、山岳うちに秀で、河海外を繞《めぐ》るがゆえに、その風土もおのずから適度の不同を得、これがために社会生産の発達を刺衝する、一にして足らず。それ形勢の不同よりして上古のギリシアは文明の先鞭者となれり。しからばいずくんぞ今日においてわが邦の前途を疑うものあらんや。しかしてかつわが邦人民はさらに一の記憶しかつ注意せざるべからざることあり。なんぞや曰くわが邦は島国なることこれなり。ギルバート氏はその『古代商業史』において論じて曰く、
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島地の商業に便利を呈するはたいていの場合において大陸諸国よりはるかに大なるものとす。なんとなれば元来|島嶼《とうしょ》なるものはその面積に比すれば大陸諸国よりもはるかに長き海岸を存し、その気候は通例温和にして四時の変化はるかに少なきがゆえに商業の動作、気候のために阻礙《そがい》せらるるの患《うれ》いなく、また海は天然の城・砦《とりで》なるがゆえに、外寇《がいこう》の危難おのずからまれに、したがって兵籍に編入するを要する人口の割合またおのずから少なく、かつ他国との通商は必ずや海によって行なわざるべからざるがゆえに、人民は知らず識らず、海上の習慣を得、その他造船航海の研究せらるることはるかに大陸諸国より一般にして、かつ人民は海上の戦争においてさらに多くの熟練と勇気とを有するがゆえなり。このゆえに古代の歴史においてクレタ、ロードスおよびキプロスの諸島はおのおのその商業をもって世にその名を著わしたりき。
かつ島嶼には海によって諸州の間に貿易を営むを得るの便利あり。このゆえに他国においては内国貿易にして道路と運河の手段をもって行なわるるところのものも島地においては一の沿海貿易たるなり。しかりしこうして一国各地の間において貨物の交易はこれを行なうに船舶をもってせば時と金を費やすことはるかに減少す。
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 この言実に至れり、尽くせり。あにまた吾人が、喋々《ちょうちょう》を要せんや。
〔第四〕位置。試みに輿地《よち》の図を開き見よ。わが邦ははたしていかなる位置を有するや。実に東洋の極東に位するものなり。版図もとより偏少にしてこれをもって各国に雄視するに足らざるはもちろんなりといえどもその位置の便宜を得、将来東洋貿易の中心たる好機会を有するの一点よりして考うれば邦土偏少なりといえども決して遺憾とするに足らず。それ躯幹短小なりといえども才知抜群の人はもって魁然《かいぜん》たる偉男子を制するを得べし。古より商業国なるもの必ずしも大国に限らず。ギリシアのアテネのごとき、ツロのごとき、オランダのごとき、ベルギーのごとき、あるいは英国のごとき、その面積を挙ぐればあるいは我と相均しく、もしくは我の二分、三分の一に出でず。しかしてその百貨の走集するところとなるゆえんのものはその位置を得たるをもってなり。それ長袖《ちょうしゅう》よく舞い、多銭よく賈《か》う。山野にあるもの必ず猟せんことを欲し、河海に浜するもの必ず漁せんことを欲し、市町にあるものは必ず売らんことを欲す。それ天然の位置は我をして東洋貿易の中心市場たらしめんと欲す。わが邦人民たるものはただこの好機会に躊躇《ちゅうちょ》することなく、遅疑することなく、攫取《かくしゅ》するにあるのみ。しかして首を転じて四囲の光景を看よ。その西方には一衣帯水を隔てて世界に無類なる大帝国のシナと相対し、南方においては南洋群島を控えて濠州と相連なり、その北方の国境なる千島はシベリアの岬なるカムチャツカと相望み、呼べば応《こた》えんと欲するがごとく相迫れり。それシナはその本部のみにおいてすら百五十余万方英里の面積を有し、その人口四億になんなんとす。その殷富《いんぶ》繁盛《はんせい》なるは泰西人《たいせいじん》のつねにこれを恐れ、これを羨《うらや》み、これを抓取《そうしゅ》せんとしてやまざるところのものなり。
 濠州のごときはもとより新国なりといえども、それただ新国なるをもって将来わが邦との貿易において大いに希望を有するものなり。その金鉱に富み石炭に富み、牛羊は沢々として烟村《えんそん》に散じ、眼界一望砂糖の天地、小麦の乾坤《けんこん》、今日においてすでに嶄然《ざんぜん》その頭角を顕わせり。かのシベリア地方のごときもとより濠州に比すべきものにあらざれども、そのわが一の得意客たることは決して争うべからざる事実なり。しかしてその我に向かって最大一の得意者なる者はその太平洋向岸なるわが東隣の北米合衆国これなり。今日においてわが輸出品の重なるものはすなわち生糸にして生糸の重なる輸出地はすなわち北米合衆国なり。実に米国と日本とは商業上の関係においては唇歯《しんし》相《あい》扶《たす》け、輔車《ほしゃ》相《あい》倚《よ》る好兄弟といわざるべからず。しかりといえどもひとりこれにとどまらず、もしかのレセップス氏が大計画なるパナマ地峡|開鑿《かいさく》の業はたして氏が予期するところのもののごとく一八八九年に成就し、二大洋の連絡を得、かの四百余年前コロンブスの脳中に浮かみ出でたる大西洋を直航してジパングリー〔日本〕に達せんとの夢もはたしてこれを実行するを得るの運びとならば、これよりして太平洋はもちろん大西洋の両岸に対立する各都府の港湾よりあるいは地中海沿岸の市邑《しゆう》よりジブラルタルの海峡をもって大西太平の二大洋を通じて天水一髪|雲濤渺茫《うんとうびょうぼう》の大道をば千百の蒸気船相来たり相去りたちまちジブラルタルの海峡よりわが港湾に至るまで一線の船橋を架するに至らん。もしこの時節に際せばわが邦はたといみずから好まざるもわが天然の好位置はわが邦を駆って勢い商業国たらしむべし。いわんや旧来の陋習《ろうしゅう》を破り、天地の公道に基づき上下心を一にし盛んに経綸《けいりん》を行ない、断然として武備拡張の主義を廃棄し、吾人がかつて『自由道徳および儒教主義』の小冊子〔明治十七年十二月〕において論じたるごとく、
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もしわが制度をして自由の制度となし、財政を整理して、信用を厚うし、人民所有の権を安全にし、百般の職業を解放して人民の自由に任せ、干渉保護の跡を削り、大いにわが港湾を浚《さら》え、大いにわが関税を減じ、全国を開いて内地雑居を公許し、来るものは拒まず、往くものは追わず、外国の人民も、外国の資本も、外国の貨物をも、自由に注入するを得せしめば、わが国百工の興隆するあたかも霜雪に圧せられたる草卉《そうき》が春風に逢うて俄然《がぜん》としてその芽を発するがごとく、たちまちにして池塘《ちとう》芳草の好時節となるは決して疑うべからず。はたしてかくのごとくんば、耕者みな王の野に耕さんと欲し、商賈《しょうこ》みな王の市に蔵《おさ》めんと欲し、行旅みな王の塗《と》に出でんと欲し、たちまちにして太平洋中の一|埠頭《ふとう》となり、東洋の大都となり、万国商業の問屋となり、数万の烟筒は煙を吐いてために天日を暗からしめ、雲のごとき高楼、林のごとき檣竿《しょうかん》、錐鑿《すいさく》・槓杆《こうかん》・槌鍛《ついたん》の音は蒸気筒の響き、車馬|轣轆《れきろく》の声とともに相和して、晴天白日雷鳴を聞くがごとくならん。あにまた愉快ならずや。
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 かのジョセフ・クック氏はいわずや。「日本は小なれども楫《かじ》のごとし。東洋の大船を揺《うご》かすはすなわちこの楫ならざるべからず」と。実にもっとも道理ある言というべし。以上の理由はたして相違なくんばわが邦は実に天然の商業国たるの境遇を有するものといわざるべからず。しかれどもここに一の疑うべきことあり。わが人民の資格ははたして商業家たるの資格を有するや否やの問題これなり。
 吾人はこれを知る。わが今日の人民は軍隊世界のうちに生長したるの人民にしていまだまったく商業家たるの資格を有せざるものなりと。しかれどもこの一|障碍《しょうがい》あるがために決して吾人が断言したるところのものを更《か》うることあたわざるなり。それわが邦人なるものは初めより商業家・生産家たるあたわざるの命運を有するものなるか。吾人は決してしかりと明言するあたわざるなり。なんとなればかの封建の習慣は実にわが人民をしてもっとも無益にして活用なき人物とならしめたればなり。けだし習慣によりて養成せられたる性質はまた習慣によりてこれを変更するを得べし。一の境遇によりて制せられたる性格はまた他の境遇によりてこれを制するを得べし。試みに看よ。わが封建の士族は維新の大変動のためにその永世の家禄を失い、自力に食《は》まざるべからざるに至れり。しかして今日においてこの士族の餓死したるものほとんどまれなり。なんとなればその境遇の変更とその必要の刺激とは相伴い、相携え、わが士族を強迫してことごとくこれを生産者とならしめたればなり。わが武士にして生産者となるを得ばわが武士国をして商業国となすもなんの難きことかこれあらんや。
 それ前に陳じたるごとく、わが国は世界の境遇のために支配せられ、世界の大勢のために支配せられ、しかしてその支配を妨害するの事情は一も存することなく、かえってこれを激成媒介するところのわが特別天然の境遇のために支配せられ、しかして是非とも世界万国と対立して一国の生活を維持せざるべからざるの必要のために支配せらる。さればこれらの必要はたちまちわが邦人の資格を一変して純然たる商人・貿易者・職工・資本家・事業者となすべし。いかに靄然《あいぜん》たる春風のために化せらるるあたわざる頑石《がんせき》といえども、この切迫なる勢いのために化せらるるべし。いわんやわが邦人のごとき敏捷《びんしょう》円活そのもっとも融通変化、境遇に従い、事情に従い、適用の資格に富むをもって世界に評判高きものにおいてをや。
 それ吾人が先祖は決して徳川氏封建末路の人民のごとく遅鈍・迂濶《うかつ》にしてしかも怯魂軟腸《きょうこんなんちょう》、深窓の婦女子然たる人にあらず。その活溌有為にしてしかもその大胆行険の気象に富むがごときは吾人がかつ誇りかつ羨むところのものなり。
 試みに看よ。かの大友宗麟《おおともそうりん》のごとき、蒲生氏郷《がもううじさと》のごとき、あるいは伊達政宗《だてまさむね》のごとき、その使節をローマ府に遣わし、わが緑髪黒眸《りょくはつこくぼう》の人士は、すでに第十六世紀の終りにおいて、かのローマ大帝国の結構壮麗なる旧都において、各国の貴紳と法王の膝下に近接し、その壮厳神聖なる儀式にあずかり、セントピーターの寺院においてその祭壇の傍をば※[#「皐+栩のつくり」の「白」に代えて「自」、第3水準1-90-35]翔《こうしょう》するを得たりしにあらずや。ことに伊達政宗が「邪法国を迷わし唱えてやまず。蛮国を征せんと欲していまだ功ならず。図南《となん》の鵬翼《ほうよく》いずれのときにか奮わん。久しく待つ扶揺《ふよう》万里《ばんり》の風」の詩を賦《ふ》しその行を送りたる支倉常長《はせくらつねなが》の一行のごときは一六一四年〔慶長十九年〕に太平洋を一直線に航海し、メキシコに至り、スペインに着し、ついにローマに達したり。もし太平洋航海の第一先登者をもってマゼラン〔一五二〇年〕となさばその第二の先登者はすなわちわが支倉常長とせざるべからず。ああわが邦人は千古の豪傑マゼラン以後の一人といわざるべからざるの豪勇無双なる航海をなせり。ひとりこれにとどまらず。シナ海・インド洋の沿岸、西海の群島諸方においてはわが賈舶《こはく》の時々往来するのみならず、わが行険者流はあるいは植民をなし、あるいはその地方の重なる権者となりたることは吾人が喋々《ちょうちょう》をまたずして識者の知るところならん。しかしてかくのごとくわが邦において航海通商の道進歩したるのときにおいてすでに貿易の真理・真主義なるものはその微光を放ちたるがごときを見るなり。慶長年間わが賈舶の安南に赴くや、当時の碩儒《せきじゅ》すなわち徳川時代文学の開山たる藤原|粛《しゅく》はその舟中の規約を作り与えて曰く、
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およそ回易のことは、有無を通じてもって人己れに利するなり。人を損《そこな》いて己れを益するにあらず。利をともにせば小なりといえども還《かえ》りて大なり。利をともにせざれば大なりといえども還りて小なり。いわゆる利とは、義の嘉会《かかい》なり。ゆえに曰く、貪賈《どんこ》はこれを五にし、廉賈はこれを三にす、思え。〔『外交志稿』〕
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 もしこの勢いにして中途に遮断《しゃだん》することなくんば、あに今日において吾人がもってわが邦人が商業者たる資格を有するや否やの議論を喋々し、またわが邦は天然の商業国なりというがごときの問題を喃々《なんなん》するがごとき迂遠の労を採るを要せんや。論より証拠、今日においてはわが邦の人民はみな生まれながら烱眼《けいがん》活溌なる貿易者となり、生まれながらにして波濤の健児とならんものを。これを思いこれを想えば、吾人は実に近時封建の創業者なる徳川家康に向かい、遺憾なきあたわざるなり。しかれどもこれただ一時の妄想のみ。既往|咎《とが》むべからず。しかれどもひとりこの事実はもってわが邦人は決して貿易者・航海者たるの資格を古より有せざるものにあらず。今日においてその人を有するや否やを疑うがごときに至りしはひっきょう人為の抑制のしからしむるところにして、もしこれを截断《せつだん》し除却し、自由にその運動を放任するときは、わが邦人民は他人の鼓舞作興を待たずしてかの先祖のごとく、否、かの先祖よりさらに一層の進歩したる生産者・商業家となるは決して疑うべからざるの道理を説明するの証拠といわざるべからず。

 

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