第九回 平民主義の運動 二(同上)
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第九回 平民主義の運動 二(同上)
 そもそもこの平民主義の運動のもっとも著明なるは政治世界にあり。けだし平民主義の政治世界に侵入するあたかも狂瀾怒濤《きょうらんどとう》の海面を捲《ま》いて奔《はし》るがごとく、貴族的の堤防は一時に潰裂せざらんと欲するもあたわざるの勢いにして、すなわち米国革命戦争のごとき、仏国革命のごとき、ギリシア、イタリアの独立のごとき、英国憲法改正案・非穀物条例運動のごとき、みな十目の観るところ、十手の指すところなり。一八六五年、ブライト氏はバーミンガムの公館において議院改正案に関し左の演説をなせり。
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国家の危禍として恐怖すべきものは平民主義にあらずしてむしろ平民の正常なる請求と権理とに敵対する執政者・執権者なり。その名称は彼みずから称して王党といい、民権党ともいうにせよ、その真面目は保守党なるものにしてこの党派こそ実に吾人が戦わざるべからざる真に国家の大危禍なり。渠輩《きょはい》は河流を禦《ふせ》ぐべし。奔水を逆流せしむべし。しかれどもいったん水勢の激昂|氾濫《はんらん》するときにおいて、しかして今やそのときの来たる真に眼前に迫るのときにおいて、もし聡明なる政略をもってこの愚妄《ぐもう》なる政略に代うることなくんばたちまちにしてその堤防を潰破せしむべし。かれみずから揚々として今は平民主義を鎮圧したりと安心するのときにおいてたちまち一致雄決したる人民の猛志をもってこれを一掃するに至るべし。乞う試みに眼を挙げて欧州の表面を見よ。いまだ代議の制度を適用せざるの国はただ二国、すなわちロシア、トルコの二国あるのみ。しかして露国のごときは他の欧州諸国とともに駸々乎《しんしんこ》として自由の域に進めり。代議政体のごときはイタリアにおいても、あるいはオーストリアにさえも、またあるいはほとんどゲルマン諸連邦において、北方の諸国において、ベルギーにおいて、オランダにおいて、フランスにおいて、ポルトガルにおいて、スペインにおいて発見せられざるところなきにあらずや。
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 けだし平民主義は今日政治世界の一大勢力なり。吾人はそのいずれのところより来たり、いずれのところに往くを知らず。しかれどもその威の触るるところ、その気の激するところ、至大至剛ほとんど天地に充塞《じゅうそく》するの勢いなるは吾人がつねに目撃して驚嘆するところのものなり。その気運の趣くところ、あるいは貧賤なる農夫・傭工《ようこう》・職人をして権利を保有せしむるの嘆願書となり、あるいは柔婉《じゅうえん》優美なる婦女をして参政の権を分配せんことを迫るの公訴状となり、あるいは壮烈鬼神を泣かしむる独立|檄文《げきぶん》となり、あるいは万峰飛舞天より来たる雄快の演説となり、これがために俄然として一の大平民国興り、これがために忽然として一の大貴族国滅び、これがために一個の市民はたちまちにして世界万国の敬礼推尊を受くるの大統領となり、これがために朕《ちん》はすなわち国家なりと誇言したる大皇帝の子孫も他国に流寓し天涯の孤客とならざるべからざるに至れり。しかしてそのあるいはこれを激するや天狗《てんぐ》地に堕《お》ちて声、雷のごとき虚無党の爆裂弾となり、等閑に触着すれば火星を飛ばす社会党の猛烈手段となり、ほとんど人をしてそのゆえんを端倪《たんげい》すべからざらしむるのありさまとなれり。これなんの原因ありてしかるか。他なし渠輩《きょはい》が政治上においてかくのごとき願望を有するゆえん、しかしてこの願望は鍾《あつ》まりてかくのごとき大勢力をなすゆえんのものは、ただ彼らがすでに生産上において得たるところのものをば政治上に拡ぐるをもってのゆえなり。すでに商売上においては唯一の購買者と販売者、すなわち唯一の権理者と義務者とあるのみ。ゆえに渠輩はこれを政治上に推し及ぼし、政治上の関係をもただ権理義務の関係をもって支配せんことを欲するなり。生産上において渠輩を使役し、渠輩を運動せしむるものはただ自然の必要あるのみ。ゆえに渠輩は政治上においてただ自然の必要をしてその命令者たらしめんことを欲するなり。生活上の最大威権者はただ正義なり。ゆえに政治上の最大威権者もただ正義にあらんことを願うなり。これを要するに生産上においては渠輩は自由なり、平等なり、自然なり。ゆえに政治上においても自由なり、平等なり、自然ならんことを欲するのみ。それ人は利害もっとも切なるの点に向かってもっともその痛痒《つうよう》を感ず。生活上の利害は直接の利害なり。ゆえに人類は期せずして生活上においてまずその安心立命の地位を得たり。政治上の利害は間接なり。しかれどもすでに直接の利害においてそのところを得ばこれに随ってそのもっとも心を悩ますものは必ず間接の利害ならざるべからず。直接の利害ある間こそ間接の利害なれ。すでに一歩を転じ来たれば間接の利害も一変して直接の利害とならざるべからず。それ青は藍より出でて藍よりも青し。平民主義は生産機関の境遇に生出し、その勢力はほとんど駕《が》してこれに上らんとす。しからばすなわち今日において政治上において平民主義の流行するあにまたうべならずや。今日の社会を維持するには平民主義ならざるべからず。今日の平民主義は社会の元気たらざるべからず。かの貴族社会の武備主義のために武備主義とともに武備主義によりて立たざるべからざるがごとく、またかの生産世界なるものは平民主義のために平民主義とともに平民主義によりて立たざるべからず。ただこの一の必要あり。必要の向かうところ天下に敵なし。今日において平民主義の天下に敵なきもあにまたうべならずや。世の平民主義の仇敵をもってみずから任ずるの士はこれをもってモンテスキュー、ルソー輩の鼓舞煽動《こぶせんどう》に出でたりとて恨めしくその不平を訴うれども、これあにしからんや。かの二氏はその議論|少疵《しょうし》なきにあらずといえども、一世の知勇を推倒し、万古の心胸を開拓す。その豪胆卓識まことに不世出の人物なるは論をまたずといえども、もしその言うところにして人民の実利実益と相反するか、もしくは相関渉なきときにおいては、なにがゆえにかくのごとく一声の霹靂《へきれき》天地を劈《つんざ》くの大革命を生出し来たらんや。かの人民なるものは政治上においてこそ平民主義のいかんをば理解せざりしも、生活上においてはすでにこれを実行し来たりしなり。かの二氏のごときは空中の楼閣を構成し来たりて人民を教唆したるにあらず。ただ人民は実際上の事実を観察し、これを帰納し、これを演繹《えんえき》して、一片の議論を作為したるのみ。釈迦《しゃか》はもとより慈善家なり。しかれども釈迦の来たらざる前に人類の慈善を行なうものそれ幾千人なるか。かの二氏はもとより平民的の政論家なり。しかれども二氏の説法せざる以前にいくばくの人民が事実上に平民主義を実行したるか。それ国家は人民をもって組織したる一大有機体なり。すでにしからば平民主義の分子は国家とともに国家のうちに生出したるや疑うべからず。しかしてそのいまだ発達せざるゆえんのものはなんぞや。その時節いまだ来たらざればなり。その境遇いまだ生ぜざればなり。その機会いまだ熟せざればなり。今やすでにその機会を得たり。二氏なしといえどももとよりこの境遇にはこの現象あらざるべからず。いわんや二氏のごとき案内者あるにおいてをや。
 けだし今日欧州各国において平民主義の運動なるものは、かの東洋の偽英雄が竜驤虎変《りゅうじょうこへん》、手を大沢のうちに揮うてその万一を倖僥《こうぎょう》する大博奕《だいばくち》的《てき》の閑事業にあらず。否、実に人民の利害存亡に大関係を有するものなり。欧州の世界は平民の世界なり。ゆえにかの租を食らい、税を飲み、他人の膏血《こうけつ》を絞りて自家の口腹肉欲を飽かしむるごとき閑生活をなすものはあらず。しからばすなわちなんの暇ありてか我に関係なき事業に無用の心配をなすものあらんや。文明の世界は多忙の世界なり。あに消閑の計なきに苦しむものならんや。しかして彼のごとく憤発激昂みずから進んでやまざるゆえんのものは自家頭上に禍福安危の応報あればなり。ゆえに欧州の平民主義なるものは二、三子の偶爾《ぐうじ》の尽力に出でたる行潦《こうろう》の水にはあらず。かのヴィクトル・ユーゴー氏は曰く「今や、仏国の経過せざるべからざる危機の叢中において卒爾《そつじ》として問う者あり。曰くたれかかくのごとき困阨《こんやく》をば作出したるか。吾人はたれを罰すべきか。欧州の狼狽者《ろうばいしゃ》流は曰く仏国にありと。仏国の狼狽者流は曰くパリにありと。パリの狼狽者流は曰く出版の自由これなりと。しかれども活眼精識の人は曰くその罪人なるものは出版の自由にあらず。パリにあらず。仏国にあらず。すなわちその罪人は深く人間頭脳のうちにあり」と。吾人もまたかくのごとくいわんと欲す。もし今日の平民主義の罪人を問わんと欲せば人民の実利実益にあり。すなわちむしろ人民にありと。それ上古において平民主義の政治世界に流行せざるゆえんのものはただ国家ありて人民なきをもってなり。今日においてその流行するゆえんのものは人民ありて国家はこれがために設けたるをもってなり。しからばすなわちなにゆえに平民主義はその全勝を今日に博するあたわざるか。曰くこれそもそも説あり。
 いやしくも因果の理法宇宙の万物を支配する間は人間といえども、社会といえども、決してその一部分は過去の抑圧を免るることあたわざるべし。それ過去の欧州世界は貴族的の世界なり。しからばすなわち今日においてたといいかにその抑圧を脱せんと欲するも幾分かこれを忍受せざるべからざるは、いまだ現今の社会の産出せざる以前にすでに指定せられたる一の命運といわざるべからず。かのスペンサー氏が冷刺《れいし》したるがごとく、学校の教育において一週の六日間はアキレス〔トロイ戦争の勇将〕をば英雄として崇拝せしめその第七日〔日曜日〕にはキリストを親愛すべしと教え、公館の饗応においてはいまだ国会のために祝杯を傾けずしてかえってまず陸海軍の人のためにこれを傾くるがごとき雑駁《ざっぱく》なる習慣はいかにして生じたるか。傲慢偏僻《ごうまんへんぺき》にして不健全なる愛国心はいかにして生じたるか。門閥を尊び、旧慣を重んずるの風習はいかにして生じたるか。人間の関係は権利義務にあらずして主人と奴隷なりとの妄想はいかにして生じたるか。官吏を鬼神のごとく尊び、武勲のほかにはさらに勲業なしとの迷思はいかにして生じたるか。なにゆえに政府をばなさざるところなきあたわざるところなき無尽蔵の威権者と信じ、なにゆえに国家の威力をもってすれば天体の運動さえ駐止《ちゅうし》しうべきほどの効用ありと信じ、なにゆえに常備軍は国家に欠くべからざるものと信じ、なにゆえに外国とは政治上の交渉をなさざるべからざると信じ、なにゆえに権理は腕力にあらざれば伸張するあたわずと信じ、なにゆえに歴史上の恩怨《おんえん》よりして隣国と相仇し、なにゆえに今日の世界をもっとも悩ます一国の記憶すなわち復讐《ふくしゅう》の念なるものは生じたるか。看よなにゆえにプロシア、フランスの二国においてはつねに宣戦中の休戦時機のごときありさまを今日になすか。過去の遺恨あればなり。なにゆえにアイルランドと英国の関係は今日に至るまで鎮圧令を仮らざるべからざるか。強迫結合の過去に行なわれていまだその痕《あと》を絶たざるがゆえなり。かの人民なるものはもとより決して今日の帝王宰相らの政略に感心悦服するものにあらず。あるいは色を正しゅうし言を高うしてこれを非難し、これを排斥するもの一にして足らず。しかれどもなおそのいまだ雲霧を排して青天を望むがごとく、この世界をして快活なる世界とならしむるあたわざるゆえんのものはただ過去の抑圧あるがゆえのみ。実に過去なるものは最大有力の圧制者なり。しかして今日の欧州においては過去の欧州と現今の欧州とつねに相争い、その新旧二分子の不調和にしてややもすれば相触着し、相格闘するゆえんのものは職としてこれによるなり。例せばかの英国政党の争いのごときその原因は一にして足らずといえども、その重なる原因は過去の分子と、現今の分子と、武備機関の境遇に生じたる貴族的の現象と、生産機関の境遇に生じたる平民的の現象との間の戦争といわざるべからず。彼はこれを与えざらんと欲し、我はこれを採らんと欲す。あにいずくんぞその際において軋轢《あつれき》なきを得んや。第十九世紀英国政治の事実は実にこの二分子交闘の事実なり。かの千古の奇男子たるビーコンスフィールド侯をして神出鬼没の政略を採り、欧州政治の大舞台において咄々《とつとつ》驚くべき怪しむべきの奇舞を演ぜしめたるゆえんのものはこの旧分子の力なり。かのコブデン、ブライトの二氏をして古今の政治演劇中にいまだかつて見ざるかのシェイクスピアの玲瓏《れいろう》なる脳中にすら浮かみ来たらざる新趣向・新脚色の技を演ぜしめ、かの反対者流をして二氏を指して民政の胎内より出で来たりたる近世のグラッカス〔ローマの民権家ティベリウス、ガイウスの兄弟〕と綽号《しゃくごう》せしめたるはこの新分子の力なり。かのグラッドストン氏のごときもとより一世の英豪といえども、エジプトの葛藤《かっとう》、スーダンの遠征、往々その思うところを逞しゅうせざるゆえんのものはただ過去の抑圧あるがゆえなり。その政敵たるビーコンスフィールド侯がそのみずから種を下したる禍機をば氏に遺伝して氏をしてこれを収穫せしめたるゆえなり。けだし保守党の今日においてなお若干の勢力を英国政界の一方隅に有するゆえんのものは、まことにかの旧分子の力にしてことにこれを扶植したるビーコンスフィールド侯の力あるをもってなり。かのソールズベリのよく罵る、チャーチルの傾危なるもちろん弱敵にあらざれども、グラッドストン氏の眼中よりすればこれ児曹《じそう》のみ。いわゆる公ら碌々《ろくろく》の輩のみ。しかして今日において氏をして断々乎としてかのコブデン、ブライト諸氏が主張する純粋潔白なる平民的の政治家となるあたわず、かえって月に一※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]を窃《ぬす》むの姑息《こそく》手段を行なわざるべからざらしめたるゆえんのものはなんぞや。墓中の大敵あるがゆえなり。実にかのウェストミンスターの幽欝《ゆううつ》なる積土の中に沈黙したる一個の死人はかえって議院壁内に起ちて扼腕《やくわん》撃節多々ますます弁ずるの衆多の生人よりも氏が進路を防障するものといわざるべからず。吾人は『三国志』を読み死せる孔明生ける仲達を奔らするの一節に至り、ひそかにその奇談に驚きたり。しかるに今や料《はか》らざりき吾人が眼前においてまたこのことあるを見んとは。

 

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