第二回 一国の生活(総論)
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第二回 一国の生活(総論)
 人間はただ生活せんがためにのみこの世に出で来たりたるものにはあらざるべし。しかれども、もし最初の目的はいかんと問わば我も人も三尺の童子もみな異口同音に生活せんがためなりと答うるのほかはあらざるべし。人の世界にありてなさんと欲するところのもの千緒万端なれどもおよそ生命を有したるうえは必ずまずその生活の道を求めざるべからず。首陽山に薇《び》を採るは伯夷《はくい》・叔斉《しゅくせい》が生活を保たんがためなり。箪食飄飲《たんしひょういん》は顔回《がんかい》が生活を保たんがためなり。さればかのギリシア古代シニカル派哲学の開山たるアンチステネスのごとき精神の快楽と生活の快楽とは相戦うものにして須臾《しゅゆ》も両立すべからずとてつねに生活を敵視したるにもかかわらず、その病んでまさに死せんとするや、彼はそのかすかなる声にて弟子に向かい「汝は余を苦痛より脱するあたわざるか」と請いければその弟子はたちまち短剣をひっさげ「これをもって救わんか」と答えり。彼驚いて曰く「否々余は苦痛より脱するを欲す。生命より脱するを欲せず」と。それ生命は人なり。生活ありてこそ始めてその他の願欲も生ずべし。一国の目的もまたかくのごとし。一国最後の目的に至ってはこれをモンテスキュー、バーク、スタイン、スペンサーの諸氏に問うも満足なる答弁をば得るあたわざれども、その最初の目的に至りてはその組織は白蟻《しろあり》・蜜蜂《みつばち》の社会よりもなお簡易質朴なる太平洋群島の野蛮人も、政治の機関は博大精緻に発達したる欧米社会においても、およそ国家ある以上は自他一様まずその生活を保つの一点に帰せざるべからざることは半文政治家といえども容易に断言しうるところなり。一国にしてその生命あればこそ何事もその分に応じて行なわるべし。もし生命なくんば何事をなさんとするも汝はいかにしてこれを行なうべきか。
 しからばすなわち何人といえども、わが将来の日本を論ぜんと欲するの人は、まずわが邦の将来はいかなる手段によりて生命を保たざるべからざるかの問題をもって尋問の着歩となさざるべからず。けだし一国の生活を保つゆえんのものその手段二あり。一は生産の機関により、一は武備の機関による。生産の機関は内部の供給をなし、武備の機関は外部の妨害を防御す。孔子のいわゆる食に足りて兵に足るものすなわちこれなり。けだしこの二個の機関はいまだ必ずしも始めよりその職務を区別するものにあらずして、むしろ社会の草創においては相混合するものなりといわざるべからず。たとえば無事の日においては農夫となり、戦争の日においては兵士となり、国民も兵士も同一人にしてただその位地にしたがってその称号を異にするの場合においては生産機関も、武備機関も、さらにその相違を見ず。生産すなわち武備、武備すなわち生産にして、かかる実例はかの頼襄《らいじょう》が、わが朝の初めて国を建つるや、政体簡易、文武一途、海内《かいだい》を挙げてみな兵なり。しかして天子これが元帥たり。大臣《おおおみ》・大連《おおむらじ》これが褊裨《へんぴ》たり。いまだかつて別に将帥を置かざるなり。あにまたいわゆる武門武士なる者あらんや、といいしごとく、吾人わが王朝の歴史においてこれを見るなり。しかれども社会の進歩するや、人事いよいよ繁多に赴き、勢い分業の法行なわれざるを得ず。ここにおいてかその区別漸次に生じ、しかして戦争のつねに絶えざる場合においては武備機関はひとりいよいよ開発し、生産の機関はいよいよ収縮するに至るなり。頼襄が、いわゆる光仁・桓武の朝、彊※[#「土へん+易」、第4水準2-4-90]《きょうえき》多事、宝亀中、延議|冗兵《じょうへい》をはぶき、百姓を殷富《いんぷ》にす。才、弓馬に堪うる者は、もっぱら武芸を習い、もって徴発に応ず。その羸弱《るいじゃく》なる者みな農業に就く。しかして兵農まったく分かる、といいしはすなわちこの事実なり。しかしてその勢い一躍して武備機関はただにその外部の敵を防御するに止《とど》まらず。防御の性質一変して攻略の性質となり、ついに生産機関をもその中に籠絡するに至るものなり。これに反し一国もし平和の場合に立つときは生産の機関はたちまちその勢力を増長し、武備の機関はまったくその下に圧伏せらるることもあるなり。
 たとえばローマのごとき、その初めにおいては全国の人士みな兵士となり、みな農夫となり、生産武備相協同していまだ分離するを見ず。さればローマ有名の史家プリニー当時のことを言いて曰くその田地は大将の手にて耕され、その土壌は賞牌《しょうはい》を冠したる犂※[#「金+纔のつくり」、第3水準1-93-44]《れいさん》のもとに開墾せらる。しかして農夫のこれを導く者また戦争の功労ありしものなりと。吾人はまた聞くマニオス・キネリオスなる人あり。武勲|赫々《かくかく》威名四隣を圧するの豪傑なり。しかして身は田閭《でんりょ》に帰り、茅屋《ぼうおく》に住し、掌大の田園を耕し、開散みずから安んずるもののごとし。おりしも氏は竈辺《そうへん》に踞《きょ》し蕪菁《ぶせい》を煮つつありたるに敵国の使者来たり巧言もって黄金を贈る。氏笑ってこれを斥《しりぞ》けて曰く「余はかかる晩餐《ばんさん》をもってみずから足るものなり。なんぞ黄金を須《もち》いん。余はみずから黄金を懐にするよりもこれを懐にするの敵国を征服するをもってむしろ栄光となすなり」と。もって当時の兵すなわち農、農すなわち兵たるの事情を察すべし。しかれども、その近傍の諸種族と生存の競争いよいよ繁くいよいよ激するに従い、市民はことごとく戦争をもってその専業となし、農業のごときはまったく奴隷の手に放任し、これよりして武備の機関いよいよ発達し、防御の性質は一変して攻略となり、その兵鋒向かうところ天下に敵なく、カルタゴを滅ぼし、ギリシアを略し、エジプト、シリア、パレスチナを捲くに及んで、天下の富はことごとくローマに蒐集《しゅうしゅう》したりといえども、その蒐集したるは経済的の吸引すべきの引力ありてしかるにあらず。これみなただローマ人の腕力をもって各地より掠奪し来たるものにして、ローマの都府雄麗天下に冠たりといえども、一の特有産物とてはなく、ローマ人はただその奪掠し来たりし金銀をもって、その奪掠せられたる各邦の産物と交易(もしこれを交易というを得ば)したるのみ。吾人これを聞く。ローマ人の諺《ことわざ》に曰く「鉄を揮《ふる》う者は金を攫《つか》む」と。かくのごとくローマ人はひとり武備をもって外敵を防ぎ、もしくは外敵を攻めこれに勝ちたるものならず。まったくその分取品によりてもってその生活を保てりというべし。勢いここに至る生産機関なるものまたいずくにある。
 かのフェニキアのごときはしからず。地もっとも瘠せ、国もっとも小なるにかかわらず、その生産機関の発達すべき境遇を得たるがゆえにその進歩は実に著しく、なかにもそのツロの人民は航海の知識、製造の熟練、商業の盛大をもって、上古の歴史にその大名を輝かせり。彼みずから地中海の帝王となり、その進取の気象は一躍してヘラクレスの海峡を越え、ブリテン島に赴き、バルチック海湾に達し、至るところその土人をもって得意者となし、至るところその土地をもって故郷とし、ついに植民地を地中海の海岸に設くる四十に越えたり。吾人はかつて『旧約聖書』においてツロの繁昌なるを知れり。
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なんじツロよ。なんじは海門にありて多島衆民の市をなすものか。なんじかつて曰くわれは実に全実なりと。なんじの境は海の中心にあり。しかしてなんじを建造するものはもってなんじの美を尽くせり。彼はセニルの松をもってなんじの板となし、彼はまたレバノンの柏香木を取りてなんじのために檣《ほばしら》を作り、彼はバシャンの橡《つるばみ》をもってなんじの漿《しる》を作る。アッシリアの隊はキッチムの諸島より携え来たるの象牙《ぞうげ》をもってなんじの椅子を作れり。なんじの張りてもって帆とするところのものはすなわちエジプトより来たれる文繍《ぶんしゅう》。かつなんじを覆《おお》い纏《まと》うところのものはすなわちエリシヤ諸島より携え来たれるの青と紺との布なり。シドンとアルワダとの居民はこれなんじの舟子たり。ツロよなんじがうちの知者はなんじの柁師《だし》たり。ゲバルの老練者とその知者とはなんじの舟を修復するの人たり。洋海の諸舟、およびその舟子はみななんじのうちにありてなんじの貿易を経営せんと欲す。
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 実に盛んなりというべし。けだしフェニキア人が商業をもって征服したるの版図は、ローマ人が腕力をもって征服したるの版図に比するも、むしろ過ぐるもあえて及ばざることなからん。以上の実例をしてはたして信ずべきものとせば、生産武備の二機関は決して両立しうるものにあらず。彼盛んなればこれ衰え、彼滅ぶればこれ興るものなるを知るべし。
 かつ職業のいかんはその人の性質によりて制せらるるものなれども、その性質はまた職業のいかんによりて定まるものなることも知らざるべからず。勿論《もちろん》生活の職業を満足に成就したりとて、人間の目的はこれまでなりというべきにはあらざれども、その他の高尚なる目的とこの卑近なる生活の職業はつねに離るべからず、解くべからざるの関係を有するものなり。人事万端なりといえども階を踏んで楼に上るがごとし。一層を上るはさらに一層を上るの地をなすなり。一層を下るはさらに一層を下るの歩をなすなり。層々相接し、節々相連なり、いまだ一として特別分離の運動をなすものにあらず。ゆえに卑近なる職業は一事なり、高尚なる職分は他事なりと相裁判するものは、いまだともに人事を語るに足らざるなり。
 試みに見よ。ここに一個の武士と一個の商人ありとせよ。その人々は一家の兄弟にしてともに家庭の教育を同じゅうし、学校の教育を同じゅうし、その二者の性情行径を同じゅうしたるものとせよ。しかして立身の十字街頭よりしておのおの特別なる職業に従事したりとせよ。しかして今ここにこの二人を一室に対坐せしむるとせよ。その趣味、その感情、その嗜欲、その思想の相異なる、自他相見て茫然《ぼうぜん》たることあらん。知るべし職業の性質はただちにその人の性質に関係を及ぼすことを。ひとりこれにとどまらず、職業の品格いかんはまたただちにその人の品格を定むるものなり。たとえば遊楼の主人も、伝道師も、芸妓《げいぎ》も、女学校の博士も、経済的の眼孔をもって観察するときは毫《ごう》も高下の区別はあらざるべしといえども、社会のことはひとり経済的の眼孔をもって判定すべきものにあらず。生活の職業はただ生活をなさんがためのみなれども、不正の手段によりて生活するものはいかにその人の弁解したればとて、なおこれを不正の人物といわざるをえず。
 国もまたかくのごとし。その生活の職業いかんはただちにその国の性質にも品格にも、至重至大なる関係を有するものなれば、世上の識者ことに一代の創業者たらんものは細心遠慮よろしくその選むところ、採るところを謹まざるべからず。およそ生産武備の二機関はひとりその範囲中においてその勢力を逞しゅうするものにとどまらず、あわせて社会万般のことにもその感化を及ぼすものなり。たとえば食物はただちに消化機関にその刺衝を及ぼすものなれども、これよりして血液となり、血管を注流して四肢五官脳髄に至るまで、すなわち人の全体にその滋養を及ぼすがごとく社会の現象一事一物一としてその感化をこうむらざるものはあらず。すなわち武備機関の発達したるの邦国においては政権はただ少数人の手に専有し、生産機関の発達したるの邦国においては、政権は多数人民の手に分配し、一方においては人民は国家のために生じたるものとなし、他方においては国家は人民のために生じたるものとなし、彼は一国においてはただ一国あるのみ、国家をほかにしては人民あらざるなり。これは一国の中ただ人民あるのみ。人民をほかにしては国家あらざるなり。彼の結合は強迫の結合なり。いかなる位地においても軍隊組織の精神をもって社会を組織すべし。此の結合は自由の結合なり。いかなる位地においても経済世界の法則をもって社会を結合すべし。彼の社会を組織するはただ主人と奴隷との二者あるのみ。此の社会を組織するものはただ同胞兄弟あるのみ。彼の富の分配は人為の分配にして労者つねに泣き逸者つねに笑う。此は自然の分配にして人々ただその過去に下したるの種をば現今に収穫する者なり。彼はあるいは一、二の大なる知者あれども千万の愚人あり。此は大なる知者なきもまた大なる愚者あらず。彼の威権はただ命令あるのみ。此の威権はただ契約あるのみ。彼は人民を犠牲として一国の体面を保つにあり。此は人民に幸福を与えんがために国家の体面を保つにあり。争闘は彼の真面目なり。平和は此の真面目なり。他を損して己れを益するは彼の方便なり。己れを益し他を益するは此の方便なり。彼の政略はただ他国を盗むか、しからざれば他国より盗まれざらんとするの一点に存し、此の政略はただ自国の独立を保ち平和をもって交際するにあり。彼の法則はただ暴逆なり。此の法則はただ正義ない。彼の主義は威力これ権理なり。此れの主義は権理すなわち威力なり。これを要するに武備機関の発達したる社会はただ不平等主義の支配するところなり。生産機関の発達したる社会はただ平等主義の支配するところなり。ゆえに武備社会の現象はことごとく貴族的の現象なり。生産社会の現象はことごとく平民的の現象なり。
 それ一国の生活を保つはただこの二機関にあり。しかして二機関の相両立するあたわざることかくのごとく、その一国の政治・経済・知識・文学・社交、すなわち一国の性質品格におのおの一種特別の感化を及ぼすことかくのごとし。おもうに世上の識者はなんの機関をもってわが将来日本の生活を保たんと欲するか。いかに吾人が希望するところのもの此にあるも、社会情勢の赴くところ彼にあらば、吾人はまたいかんともなすあたわざるべし。ゆえに吾人がいずれを採らんかの問題を解せんと欲せば、勢い一歩を進んでわが邦将来の情勢はいずれに赴くかを推測せざるべからず。いかにしてこれを推測するか、曰く第一、外部社会四囲の境遇はいかん。第二、社会自然の大勢はいかん。第三、わが邦特別の境遇はいかん。第四、わが邦現今の形勢はいかん。すなわちこれなり。もし吾人が将来に希望するところのものこれらの四問題すなわちわが将来の情勢と符合するを得ば、わが邦の前途は実にたのもしきなり。もし不幸にして二者相反対せば、吾人は策を投じて前途の吉凶を卜するに苦しむなり。

 

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