第二十章 秀吉家康の暗鬪
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高島秀彰、入力
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[#4字下げ][#大見出し]第二十章 秀吉家康の暗鬪[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【九六】徳川と眞田(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

天正《てんしやう》十二|年《ねん》十一|月《ぐわつ》、秀吉《ひでよし》の信雄《のぶを》と講和《かうわ》し、同《どう》十二|月《ぐわつ》家康《いへやす》の子《こ》於義丸《おぎまる》の、秀吉《ひでよし》の養子《やうし》として大阪《おほさか》に至《いた》りし以來《いらい》、天正《てんしやう》十三|年《ねん》六|月《ぐわつ》十一|日《にち》、信雄《のぶを》は家康《いへやす》に書《しよ》を與《あた》へ、秀吉《ひでよし》の北國征伐《ほくこくせいばつ》近《ちか》きにあるを告《つ》げ、其《そ》の重《おも》なる家臣《かしん》の質子《ちし》、二三|人《にん》を出《いだ》さん※[#こと、475-5]を、勸告《くわんこく》したるも、家康《いへやす》は之《これ》に應《おう》ぜず。同年《どうねん》十|月《ぐわつ》二十八|日《にち》に至《いた》り、將士《しやうし》を濱松《はままつ》に會《くわい》し、其《そ》の可否《かひ》を議《ぎ》したるが、諸將《しよしやう》何《いづ》れも之《これ》を不可《ふか》として、其儘《そのまゝ》となつた。此《こ》れは秀吉側《ひでよしがは》より、再應《さいおう》催告《さいこく》の結果《けつくわ》であつたと、認定《にんてい》せらるゝ。
此《かく》の如《ごと》くして天正《てんしやう》十三|年《ねん》は、秀吉《ひでよし》と家康《いへやす》とは、空《むな》しく睨合《にらみあひ》の姿《すがた》にて、相《あ》ひ暮《く》れた。然《しか》も此《こ》の一|年《ねん》は、秀吉《ひでよし》に取《と》りては、洵《まこと》に收穫《しうくわく》多《おほ》き年《とし》であつた。此《こ》の一|年間《ねんかん》に、彼《かれ》は紀州《きしう》を平《たひら》げた、四|國《こく》を平《たひら》げた、北國《ほくこく》を平《たひら》げた。此《こ》の一|年間《ねんかん》に、彼《かれ》は内大臣《ないだいじん》に進《すゝ》み、關白《くわんぱく》となり、七百五十|年來《ねんらい》の新例《しんれい》を作《つく》りて、豐臣姓《とよとみせい》を賜《たま》はつた。
人生《じんせい》は五十|年《ねん》と稱《しよう》するが、秀吉《ひでよし》は五十|歳《さい》にして、既《すで》に人間《にんげん》の成《な》す可《べ》き仕事《しごと》の、過半《くわはん》を成就《じようじゆ》した。然《しか》も其《そ》の前路《ぜんろ》に一|個《こ》の難題《なんだい》が横《よこた》はつて居《ゐ》る。それは家康《いへやす》だ。唯《た》だ家康《いへやす》が隱然《いんぜん》一|敵國《てきこく》として、秀吉《ひでよし》に叩頭《こうとう》せざるが爲《た》めに、安心《あんしん》して西國《さいこく》に出掛《でか》くる譯《わけ》にも參《まゐ》らず。將《は》た東國《とうごく》へも手《て》を出《いだ》すに便宜《べんぎ》がない。されば家康《いへやす》の處分《しよぶん》は、唯《た》だ一|個《こ》の徳川氏《とくがはし》の處分《しよぶん》に止《とゞま》らずして、天下《てんか》大局《たいきよく》の打算《ださん》に關《くわん》する、大事件《だいじけん》だ。秀吉《ひでよし》が之《こ》れが爲《た》めに、其《そ》の有《あ》る限《かぎ》りの知慧《ちゑ》を絞《しぼ》り、方便《はうべん》を盡《つく》し、力《ちから》を傾《かたむ》けたるも、決《けつ》して怪《あや》しむ可《べ》きではない。乃《すなは》ち眞田事件《さなだじけん》、石川事件《いしかはじけん》の如《ごと》きも、要《えう》するに秀吉《ひでよし》が、家康《いへやす》に對《たい》する一|種《しゆ》の方便《はうべん》ぢや。
眞田昌幸《さなだまさゆき》は、彈正幸隆《だんじやうゆきたか》の三|男《なん》であつた。幸隆《ゆきたか》は一|徳齋《とくさい》と號《がう》し、武田信玄《たけだしんげん》の客將《かくしやう》となり、其《そ》の信州《しんしう》經略《けいりやく》に貢献《こうけん》したる所《ところ》、多大《ただい》であつた。長子《ちやうし》信綱《のぶつな》、二|男《なん》昌輝《まさてる》、何《いづ》れも武田氏《たけだし》の騎將《きしやう》として、天正《てんしやう》三|年《ねん》、長篠《ながしの》の軍《いくさ》に戰死《せんし》した。昌幸《まさゆき》は幼《えう》より信玄《しんげん》の近侍《きんじ》となり、足輕大將《あしがるたいしやう》となり、武藤喜兵衞《むとうきへゑ》と稱《しよう》したが、後《のち》に其《そ》の兄《あに》の家《いへ》を繼《つ》ぎ、信州《しんしう》上田《うへだ》の城《しろ》に在《あ》りて、眞田安房守《さなだあはのかみ》と名乘《なの》つた。武田氏《たけだし》の亡後《ばうご》は、信長《のぶなが》に屬《ぞく》し、其《そ》の本領《ほんりやう》を安堵《あんど》し、信長死後《のぶながしご》は、先《ま》づ上杉《うへすぎ》に結《むす》び、更《さら》に北條《ほうでう》に便《たよ》り、又《ま》た徳川《とくがは》に倚《よ》り、其《そ》の立場《たちば》は、四|圍《ゐ》の形勢《けいせい》と與《とも》に變遷《へんせん》した。彼《かれ》は自《みづ》から天下《てんか》を爭《あらそ》ふには、餘《あま》りに其氣《そのき》局小《きよくせう》に、さりとて他《た》の群雄《ぐんゆう》の爪牙《さうが》となるには、餘《あま》りに謀略《ぼうりやく》が多《おほ》く、謀反氣《むほんぎ》が澤山《たくさん》に、且《か》つ手腕《しゆわん》に富《と》んで居《ゐ》た。彼《かれ》も亦《ま》た時世《じせい》が産《う》んだ、一|種《しゆ》の畸形兒《きけいじ》であつた。
武田氏《たけだし》の謀臣《ぼうしん》、宿將《しゆくしやう》、概《おほむ》ね武田氏《たけだし》と前後《ぜんご》して亡《ほろ》びたが、彼《かれ》は武田氏《たけだし》の亡後《ばうご》に於《おい》て、寧《むし》ろ最《もつと》も振《ふる》うた。彼《かれ》は信州《しんしう》に於《おい》て、其《そ》の本領《ほんりやう》たる上田城《うへだじやう》を保《たも》ち、別《べつ》に上州《じやうしう》に於《おい》て、沼田城《ぬまたじやう》に據《よ》つた。而《しか》して此《こ》れは彼《かれ》の自力《じりき》にて、取得《しゆとく》した領土《りやうど》であつた。即《すなは》ち彼《かれ》は家康《いへやす》對《たい》北條《ほうでう》の交鬪《かうとう》を利用《りよう》して、自《みづ》から其《そ》の領土《りやうど》を開拓《かいたく》した。是《こ》れは天正《てんしやう》十|年《ねん》、信長死後《のぶながしご》の事《こと》であつた。
然《しか》るに爾後《じご》家康《いへやす》と、北條《ほうでう》と和睦《わぼく》し、家康《いへやす》は信州《しんしう》を取《と》り、北條《ほうでう》は上州《じやうしう》を取《と》る事《こと》に、互讓《ごじやう》した。其《そ》の結果《けつくわ》として、北條《ほうでう》は信州《しんしう》の佐久郡《さくごほり》を、徳川《とくがは》に致《いた》した。然《しか》も沼田《ぬまた》は依然《いぜん》眞田《さなだ》が據守《きよしゆ》した。北條《ほうでう》は約束通《やくそくどほ》りに之《これ》を得《え》んことを、徳川《とくがは》に請求《せいきう》した。此《こ》れは天正《てんしやう》十三|年《ねん》の春《はる》の事《こと》だ。眞田《さなだ》は家康《いへやす》より、沼田《ぬまた》を北條《ほうでう》に交付《かうふ》す可《べ》く命《めい》ぜられた。然《しか》も眞田《さなだ》は、容易《たやす》く其命《そのめい》を奉《ほう》ぜなかつた。此《こ》れが家康《いへやす》對《たい》眞田《さなだ》の、葛藤《かつとう》の原因《げんいん》となつた。
眞田《さなだ》にも一|廉《かど》の申分《まをしぶん》はあつた。上田城《うへだじやう》は、父兄以來《ふけいいらい》の本領《ほんりやう》である、先年《せんねん》家康《いへやす》、北條氏直《ほうでううぢなほ》との戰《たゝかひ》の砌《みぎり》、眞田《さなだ》が家康《いへやす》に與《くみ》し、碓氷《うすひ》の險《けん》を要《えう》し、北條氏《ほうでうし》の粮道《りやうだう》を絶《た》ち、氏直《うぢなほ》の兵《へい》を遮《さへぎ》つたる戰功《せんこう》の賞《しやう》として、纔《わづか》に此《こ》の本領《ほんりやう》を安堵《あんど》したのみでは、相當《さうたう》ではない。特《とく》に沼田《ぬまた》は、全《まつた》く我《わ》が槍先《やりさき》の手柄《てがら》にて、取得《しゆとく》したる領地《りやうち》である。今《い》ま故《ゆゑ》なく、之《これ》を北條《ほうでう》に明《あ》け渡《わた》す可《べ》き、理由《りいう》はない。若《も》し強《し》ひて其《そ》の必要《ひつえう》があらば、何處《どこ》にても、替地《かへち》が欲《ほ》しい。此《こ》れが眞田《さなだ》の理窟《りくつ》である。されど大蟲《だいちう》の前《まへ》には、小蟲《せうちう》を殺《ころ》さねばならぬ。
小牧役《こまきえき》には、北條《ほうでう》は中立《ちゆうりつ》の態度《たいど》を取《と》り、動《やゝ》もすれば徳川氏《とくがはし》の後《うしろ》を衝《つ》かんとするの虞《おそれ》があつた。今《いま》や家康《いへやす》は、秀吉《ひでよし》なる大敵《たいてき》を前《まへ》に控《ひか》へて居《を》る。萬《まん》一の事《こと》ある場合《ばあひ》には、是非共《ぜひとも》北條《ほうでう》を味方《みかた》に引入《ひきい》れ置《お》く、必要《ひつえう》がある。即《すなは》ち彼《かれ》は萬障《ばんしやう》を排《はい》しても、北條《ほうでう》の驩心《くわんしん》を博《はく》し置《お》く可《べ》き、必要《ひつえう》がある。されば彼《かれ》は替地《かへち》の事《こと》は、他日《たじつ》の問題《もんだい》として、兎《と》も角《かく》も沼田《ぬまた》を明《あ》け渡《わた》せと、眞田《さなだ》に命令《めいれい》した。
是《こゝ》に於《おい》て眞田《さなだ》は、之《これ》を腹《はら》に据《す》ゑ兼《か》ね、若《も》し沼田《ぬまた》を明渡《あけわた》し、其上《そのうへ》にて、更《さ》らに上田《うへだ》をも明渡《あけわた》せと云《い》はれ、而《しか》して後《のち》敵對《てきたい》せんより、現状《げんじやう》の儘《まゝ》にて、家康《いへやす》と手《て》を切《き》るに若《し》かずとなし。〔武家事紀〕[#「〔武家事紀〕」は1段階小さな文字]上杉景勝《うへすぎかげかつ》の家人《けにん》須田相模《すださがみ》、島津淡路等《しまづあはぢら》を以《もつ》て、秀吉《ひでよし》に款《くわん》を通《つう》じた。是《こ》れは秀吉《ひでよし》に取《と》りて、其《そ》の事《こと》小《せう》なりと雖《いへど》も、快報《くわいはう》であつた。秀吉《ひでよし》は直《たゞ》ちに之《これ》を嘉納《かなふ》し、更《さ》らに景勝《かげかつ》に向《むか》つて、眞田《さなだ》に助勢《じよせい》す可《べ》く、密旨《みつし》を授《さづ》けた。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]是《これ》を聞《き》ける家康《いへやす》は、此儘《このまゝ》傍觀坐視《ばうくわんざし》する譯《わけ》には、參《まゐ》らなかつた。此《こ》れが天正《てんしやう》十三|年《ねん》七|月《ぐわつ》の事《こと》であつた。

[#5字下げ][#中見出し]【九七】徳川と眞田(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

眞田昌幸《さなだまさゆき》は、大部隊《だいぶたい》の運動《うんどう》に、如何《いか》なる手腕《しゆわん》を有《いう》したる乎《か》。そは分明《ぶんみやう》でない。併《しか》しながら所謂《いはゆ》る小戰《せうせん》にかけては、天下無類《てんかむるゐ》の巧者《こうしや》であつた。彼《かれ》は打物《うちもの》を取《と》つては、其前《そのまへ》に立《た》つ者《もの》なき參河武士《みかはぶし》をば、屡《しばし》ば惱《なやま》し困《くる》しめた。
扨《さて》も徳川家康《とくがはいへやす》は、眞田《さなだ》が沼田城《ぬまたじやう》を、北條《ほうでう》に致《いた》さゞるのみならず、景勝《かげかつ》に與《くみ》し、秀吉《ひでよし》に通《つう》じたるを聞《き》き、大久保忠世《おほくぼたゞよ》、鳥居元忠《とりゐもとたゞ》、平岩親吉等《ひらいはちかよしら》を大將《たいしやう》とし、其勢《そのせい》七千|餘人《よにん》に、柴田康忠《しばたやすたゞ》を差添《さしそ》へ、天正《てんしやう》十三|年《ねん》閏《うるふ》八|月《ぐわつ》二|日《か》、信州《しんしう》上田《うへだ》に、眞田討伐《さなだたうばつ》の爲《た》め發向《はつかう》せしめた。眞田《さなだ》は豫《かね》てより此事《このこと》を期《き》したれば、上杉《うへすぎ》と打《う》ち合《あは》せ。景勝《かげかつ》より河田《かはだ》攝津《せつつ》、本庄《ほんじやう》豐前《ぶぜん》、安田《やすだ》上總《かづさ》、其他《そのた》川中島衆《かはなかじましゆう》六千五百|人《にん》を派遣《はけん》し、先月《せんげつ》十七|日《にち》頃《ごろ》より上田城《うへだじやう》に屯《たむろ》して、徳川勢《とくがはぜい》の寄《よ》せ來《きた》るを、待《ま》ち受《う》けつゝあつた。
大久保等《おほくぼら》は斯《かゝ》る準備《じゆんび》ありとは、夢《ゆめ》にも知《し》らず、著陣《ちやくぢん》すると同時《どうじ》に、眞田《さなだ》に向《むか》つて、先非《せんぴ》を悔《く》いて、降參《かうさん》する乎《か》、左《さ》なくば一踏《ひとふみ》に踏《ふ》み潰《つぶ》す可《べ》しと申《まを》し送《おく》つた。眞田《さなだ》は辭《ことば》を卑《ひく》くし、禮《れい》を恭《うや/\し》うして、數日《すうじつ》の猶豫《いうよ》を請《こ》ひ、更《さ》らに種々《しゆ/″\》の辭柄《じへい》を藉《か》りて、決答《けつたふ》を遷延《せんえん》し、愈《いよい》よ其《そ》の機會《きくわい》を見濟《みす》まし、手切《てぎれ》の返事《へんじ》をして、故《ことさ》らに徳川勢《とくがはぜい》を憤怒《ふんど》せしめた。大久保等《おほくぼら》はおめ/\と貴重《きちよう》の數日《すうじつ》を、眞田《さなだ》の爲《た》めに、欺《あざむ》かれて空過《くうくわ》したることを瞋《いか》り、いざ一|揉《も》みにせよと推《お》し寄《よ》せた。眞田《さなだ》は故《ことさ》らに弱《よわ》きを示《しめ》し、寄手《よせて》を城内《じやうない》近《ちか》くに引附《ひきつ》けた。
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昌幸《まさゆき》采配《さいはい》取《とつ》て、城門《じやうもん》を開《ひら》かせ突《つい》て出《いで》、首《くび》は取《と》るに及《およ》ばず、たゞ|驅立《かりたて》よと下知《げち》し、總勢《そうぜい》鬨《とき》の聲《こゑ》を發《はつ》し、縱横《じゆうわう》に突《つい》て廻《まは》る。寄手《よせて》の諸將《しよしやう》も、爰《こゝ》を先途《せんど》と下知《げち》するといへども、先手《さきて》散々《さん/″\》に突立《つきたて》られ、小路《こうぢ》は狹《せま》し、進退《しんたい》途《みち》を失《うしな》ふ所《ところ》に、眞田《さなだ》は相圖《あひづ》の小旗《こはた》を、段々《だん/\》ふるとひとしく、戸石《といし》の城《しろ》より嫡子《ちやくし》源次郎信幸《げんじらうのぶゆき》、矢澤《やざは》の城《しろ》より長臣《ちやうしん》矢澤但馬《やざはたじま》、五百|人《にん》づゝ引連《ひきつ》れて、海野平《うんのたひら》に推《お》し出《いだ》し、寄手《よせて》の後《うしろ》を取切《とりき》らんと、備《そなへ》を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《めぐら》すを見《み》て、寄手《よせて》は勢《せい》を分《わけ》て、前後《ぜんご》の敵《てき》に當《あた》らんとすれば、眞田《さなだ》は兼《かね》て謀《はかりごと》を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《めぐ》らし、小野山《をのやま》、犬間村邊《いぬまむらへん》に伏置《ふせおき》たる郷人《がうじん》二千ばかり、鬨《とき》の聲《こゑ》を揚《あ》げ、鐵砲《てつぽう》をつるべ懸《かけ》る。寄手《よせて》心《こゝろ》は矢丈《やたけ》にはやれども、三|方《ぱう》の敵《てき》を防兼《ふせぎかね》、一|同《どう》どつと河原表《かはらおもて》へ敗軍《はいぐん》す。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れは閏《うるふ》八|月《ぐわつ》十八|日《にち》の事《こと》だ。寄手《よせて》は全《まつた》く眞田《さなだ》の罠《わな》に罹《かゝ》つたのだ。翌《よく》十九|日《にち》、寄手《よせて》の諸將《しよしやう》相議《あひぎ》して、上田《うへだ》の枝城《えだしろ》鞠子《まりこ》を攻《せ》めんとしたが、眞田父子《さなだふし》は上杉《うへすぎ》の援兵《ゑんぺい》と與《とも》に、中途《ちゆうと》に出張《しゆつちやう》して、戰《たゝかひ》を挑《いど》んだ。然《しか》るに寄手大將《よせてたいしやう》の一|人《にん》、大久保忠世《おほくぼたゞよ》は、之《これ》に應戰《おうせん》せんとしたが、鳥居《とりゐ》、平岩等《ひらいはら》は、昨日《さくじつ》の敗北《はいぼく》に懲《こ》りて、容易《ようい》に兵《へい》を動《うご》かすを欲《ほつ》せず。其爲《そのた》め小迫合《こぜりあひ》にて過《す》ぎた。
爾來《じらい》徳川勢《とくがはぜい》は、上田城《うへだじやう》を遠捲《とほま》きして、持久《ぢきう》の策《さく》を取《と》つた。此《こゝ》に於《おい》て眞田《さなだ》は其《そ》の次男《じなん》幸村《ゆきむら》を人質《ひとじち》として、景勝《かげかつ》の出馬《しゆつば》を促《うなが》した。景勝《かげかつ》も之《これ》に同意《どうい》した。眞田《さなだ》は之《これ》を待《ま》つて、愈《いよい》よ堅守《けんしゆ》して出《い》でなかつた。而《しか》して秀吉《ひでよし》も亦《ま》た、頻《しき》りに景勝《かげかつ》に移牒《いてふ》して、其《そ》の實行《じつかう》を要《もと》めた。此《こ》の事《こと》濱松《はままつ》に聞《きこ》えければ、家康《いへやす》は眞田《さなだ》一|城《じやう》の事《こと》が火元《ひもと》となりて、今更《いまさ》ら天下《てんか》の大事《だいじ》を惹起《じやくき》せんことを慮《おもんばか》り、九|月《ぐわつ》廿四|日《か》、諸將《しよしやう》に向《むかつ》て軍《ぐん》を旋《かへ》さんことを命《めい》じた。此《こゝ》に於《おい》て諸將《しよしやう》は、廿六|日《にち》の拂曉《ふつげう》より、追々《おひ/\》と陣拂《ぢんばらひ》して、退却《たいきやく》した。眞田《さなだ》が兵《へい》は、之《これ》を追撃《つゐげき》せんと逸《はや》つたが、昌幸《まさゆき》は之《これ》を制止《せいし》し、士卒《しそつ》一|人《にん》も、城外《じやうぐわい》へ出《いだ》さなかつた。彼《かれ》は實《じつ》に兵事《へいじ》に老功《らうこう》なる漢《をのこ》であつた。此《かく》の如《ごと》くして家康《いへやす》の眞田征伐《さなだせいばつ》は、全《まつた》く失敗《しつぱい》に終《をは》つた。
併《しか》しながら家康《いへやす》が、見切《みき》りを附《つ》け、早《はや》く退軍《たいぐん》を命《めい》じたのは、流石《さすが》に、大局《たいきよく》の明《めい》があつたと云《い》はねばならぬ。若《も》し此《こ》の方面《はうめん》に、上杉景勝《うへすぎかげかつ》、自《みづ》から出馬《しゆつば》し、大取組《おほとりくみ》とならば、家康《いへやす》も亦《ま》た出馬《しゆつば》せねばなるまい。然《しか》る時《とき》には、秀吉《ひでよし》が又《ま》た如何《いか》なる手段《しゆだん》を用《もち》ふる乎《か》、知《し》る可《べか》らずだ。况《いは》んや北條《ほうでう》とても、親和《しんわ》したりとは云《い》へ、其《そ》の底意《そこい》は、未《いま》だ測《はか》り知《し》る可《べか》らざるに於《おい》てをやだ。されば家康《いへやす》としては、眞田《さなだ》の豎子《じゆし》に、一|時的《じてき》の名《な》を成《な》さしめても、此際《このさい》は征討軍《せいたうぐん》を引揚《ひきあ》ぐるを、上策《じやうさく》としたるや、言《げん》を竢《ま》たぬ譯《わけ》ぢや。

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[#6字下げ][#小見出し]神君眞田御征伐[#小見出し終わり]

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眞田安房守昌幸は、蘆田右衞門佐信蕃がはからいを以て源君に屬し奉、碓氷峠をさしふさぎ、北條家の粮道を絶て氏直の兵をさへきる、其後昌幸自分の働を以て沼田、悉高《しつたか》、名來美《なくるみ》、小河、猿ヶ境、新城、中條、岩櫃なと云處を乘取、[#割り注]元三萬石、此切取合而六萬石[#割り注終わり]天正十一年八月廿四日、源君より信州上田の城を賜て、上州は北條家の領分可[#レ]爲と去年國切の約束なれば、眞田持沼田をは北條へ可[#レ]渡の旨命せらる、北條家より信州佐久郡諏訪郡切とりの所及び甲州都留郡をも源君へわたしまいらせければ、彌上州沼田は北條へ引渡し可[#レ]然とのこと也、然るに昌幸所存に源君より上田を賜るといへとも、大勢の人數を一所に入をくへき所狹ければ、沼田の替地を何方にてなりとも賜らんことを乞、當分替地を可[#レ]賜の所あらさる事ゆへ、昌幸重て云けるは、替地無[#レ]之段承届、幸川中島は上杉景勝きり取の地なれば、これを手柄次第切取可[#レ]仕、沼田の人數を飯田邊へうつし、此所を替地に可[#レ]賜と言上す、源君仰に川中島は敵地なれば、其方切取の望次第とゆるさせ玉ふへきことなれとも、只今上方秀吉と弓矢を取結ばれ、又其方景勝と取合、若昌幸勝利を失時加勢なくては棄をかれ難し、然ば是も赦し與へられがたし、先沼田をあけわたし、時宜を考へ可[#レ]然との※[#こと、484-10]也、北條家よりは沼田の※[#こと、484-11]度々申來る、これゆゑ沼田を引拂ふやうにと眞田への使節也、[#割り注]北條家沼田を請取次第加勢を遠三(參津)へ出し、信雄を援はんと議[#割り注終わり]こゝに昌幸一族をあつめ詮議しけるは、先年蘆田を以て源君に屬する時、信州一郡を可[#レ]賜と云、約束の筋目相違、殊に沼田の替地に敵地を望といへども不[#レ]肯、然らば沼田を渡しての上に又上田をも明渡せとあらんには敵に可[#レ]成、其時敵に成より沼田を指置て源君へ手切いたす※[#こと、484-14]可[#レ]然と云、いづれも此儀に同じければ、乃使を上方にのぼせ秀吉へ降參して、上杉景勝へ和を乞て家康より攻撃あらんには、景勝これを可[#レ]救と示合す、此事きこへければ天正十三年七月末に源君兵を出され眞田征伐の※[#こと、484-17]あり、信州の奉行大久保七郎右衞門忠世、柴田七九郎に、保科彈正忠昌一、同肥後守正光父子、小笠原掃部大夫信嶺、松平源十郎康國、[#割り注]後號[#二]松平修理大夫[#一][#割り注終わり]諏訪安藝守忠頼、并に晴近衆、知久衆、其外信濃先方寄合勢相從ふ、甲州の奉行鳥井彦右衞門元忠、平岩七之助親吉、岡部彌二郎長盛、曾根下野守昌世、又このものともの外今福和泉、駒井右京、三枝平右衞門、矢代越中守、玉蟲二郎右衞門、城伊菴、子息織部、遠山及武田、近習衆、并、跡部大炊助、井伊直政、與力四組、伊奈の松岡都合一萬八千餘也、眞田昌幸が兵は二千にたらず、侍わづかに二百餘ありといへども赤庄伊豆守、高槻備中守、小池淡路守、根津長右衞門、大熊源右衞門など云老功の者多し、ことに東條又五郎、米澤大隈守と兩家老すぐれたる勇士のもの也、沼田に須野原伊賀守を留守居と定め、勇士七十九人をこめをいて北條ををさゆ、而して地下人の内老弱を一にして一手とし、年壯のわかものをゑらんで一手と致、都合地下諸卒ともに八千の人數をそろへ、地下の者には六人の奉行をつけ、相圖の鐵炮、相づの旗を定め對陣、丸子の城には、昔の丸子衆ををく、根《ねつ》子村には二男左衞門佐幸村[#割り注]十八歳[#割り注終わり]を指置、戸石城に嫡子源三郎[#割り注]後改[#二]伊豆守信之[#一][#割り注終わり]矢澤城に矢澤但馬を入置、此比板垣修理亮[#割り注]信形庶子[#割り注終わり]小縣に浪人にて有[#レ]之けるが、昌幸にしたしみ、此城にあつて戰法を議す、昌幸云けるは、寄手大軍なれば加賀川《かんかは》[#割り注]筑摩川の枝流也[#割り注終わり]を越きられては大事なれば、川をこす半途を打ば勝利あるべしと云、板垣聞て此度の戰は我下知にまかせられ可[#レ]然、凡そかん川まで城より一里あり、これを小勢にて出て打ば、人衆をみきられ不[#レ]可[#レ]然也、尤中途を伐も一旦の勝利あるべし、此小勢にて只一旦の勝利までを貪ては後道の利あるべからず、敵をたふ/\と入たて宿城までつけ入にとらせて、宿城放火の烟下に突て出大覆を以てうたば、寄手大軍なりとも、寄合勢なれば下知一擧すべからず、然らば大利無[#レ]疑と云、昌幸これに從て所々に覆を置、合圖を定めて寄手を待、閏八月二日寄手平岩、鳥居、大久保、何も不知なれば我先にと川をこして寄掛る、城より東條又五郎に富澤主水と云足輕大將をさしそへ[#割り注]富澤後仕[#二]越前の秀康[#一][#割り注終わり]て、よは/\とあいしらふて引取、よせ手我先にと付こみ宿城を乘取、[#割り注]或云、城兵高槻出[#二]餌兵[#一]誘之[#割り注終わり]大久保忠世は宿城に火を放て可[#レ]然と云、柴田七九郎宿城に火をかけ引取かたかるべし、放火不[#レ]可[#レ]仕と云、[#割り注]一云、柴田欲[#二]放火[#一]、忠世不[#レ]從、今據[#二]三河記所[#一レ]説[#割り注終わり]其内に城中より相圖の鐵炮をうちければ、城兵門を開いて出つ、しばらくせり合、初は急に城陷るべき體なりしが、次第に城兵つよくて寄手危、平岩が兵くづれ。同心尾崎左門、弟市十郎ともに殿して打死、鳥居が兵、大久保が兵、足なみ不[#レ]定、その内に城より相圖の旗を振て大覆起合、一同に凱歌を發す、これに驚寄手敗軍の處、三千の大覆追立て追打にうつ、寄手二千餘うたるゝ、鳥居は一段高き處に備けるが、城中相圖の旗に從い、戸石城より眞田源三郎突て出たるに、追立られ川原へ押下しければ、惣勢一つになつて、神野川、筑摩川折節水まさり、ことごとく川へ追ひはめられ、二千餘流死、八百計頭をとられ、鳥井兵小見孫七郎をり布で鎗をくり出し、膝車にまはし大勢と突合て戰死す、忠世が兵乙部藤吉、本多主水兩人弓、黒柳孫左衞門鐵炮にてあとを殿して退、忠世も加賀川のかはにて取てかへす、つゞいて弟平介忠考[#割り注]後改[#二]彦左衞門[#一][#割り注終わり]兩人金の蝶羽[#割り注]忠世[#割り注終わり]銀蝶羽[#割り注]平介[#割り注終わり]二の差物にて川原にこたゆ、これを見て松平七郎左衞門、足立善市郎、木下隼人、太田源藏、松平彌四郎、天野小八郎、下つか久助、後藤惣平、けた甚六郎、江坂茂介、矢方喜三郎いづれも返し合、それより上の臺へ登上る、眞田昌幸父子下の矢澤、三手は時田の臺に三ヶ所に備へ、如[#二]見物[#一]也、寄手を伐とる輩皆地下の伏也、忠世軍使をはせて、平岩、鳥居が兵を、川をこしてあとをつめさせるか無[#レ]左とも川際まで備をくり出さしめ、忠世が兵を以て眞田と一戰せんことを乞と云へども、寄手大勢うたれ、士卒皆氣をくれければ事不[#レ]叶、然らば保科彈正が兵をすゝめしめよと云けれども、事不[#レ]叶して各川を引こしかへる、昌幸もかるく働て川をこさず、翌日丸子へはたらかんため、筑摩川をこして八重原へ押上る、眞田兵を出して一騎打に、手しろづかまで働く、此時忠世又軍使を以て、鳥居、平岩を筑摩川迄引出すといへども不[#レ]肯、味方八重原に陣してければ、眞田は尾野山に對陣す、[#割り注]自[#二]上田[#一]二里[#割り注終わり]此間所々にをいて二日三日に一度宛せり合あり、閏八月廿日岡部孫二郎斥候番[#割り注]諸手番々に出兵守[#レ]之[#割り注終わり]にあたりし時、昌幸父子丸子表へ出勢、岡部が兵力戰して有功のもの多し、乃源君感書を賜ふ、而して此城急に難[#レ]攻に付て、各陣を打拂ふべき旨嚴命ありといへども事なりにくし、このゆへに内藤四郎左衞門、丹羽六太夫をつかわされて御出馬の催ありといへども、源君たとへ御出馬なりとも、地利、要害、手配速に埒明體にあらず、しかれば御出馬の上不首尾は秀吉、景勝、北條家へのきこへもいかゞ也、若景勝出馬して加勢にも及ば御出馬されんことも可[#レ]然、しからずば不[#レ]入ことなりとて、大須賀五郎左衞門康高、牧野右馬允康成、松平周防守康元、菅沼藤藏定政、井伊兵部少輔直政以上五頭、同廿三日彼地に至る、昌幸衆を集め評しけるは、寄手柵を付陣城を用意の體は必家康の出勢を待なるべしとて、三州勢の内より生捕をいたしこれを尋ければ、御出馬の沙汰はあらず、井伊直政寄來ると云、その内に上杉景勝方の加勢藤田能登守|天淵《あまがふち》城へ着、直政こゝに來て攻撃の備ありけれども、越後勢すでに加り、城兵氣を得けるゆへ、其日に岡部が兵三所に備て丸子の河原町を燒立、そのいきをいを以て廿四日に悉引入る、[#割り注]河原宿燒働、大須賀これをつとむといへども、宿老をいかゞとて、牧野、菅沼望[#レ]之、然ども丸子表初より岡部攻口ゆへ、岡部これをつとむ、直政下[#二]知之[#一]、岡部同勢、大須賀、牧野、菅沼也、直政同勢松平康元也、[#割り注終わり]其夜は勝間ヶ曾利に取出城をいたし引入、海野平にも要害四ヶ所をかまふ、直政勝間ヶ曾利、海野平の番手等詳に仕置也、此時木曾并小笠原、眞田を助て信州鹽尻に至る、直政一手にてこれを追ちらし、木曾衆三十六人討取也、松平源十郎は天神林に至て敵ををさへ、大久保忠世は猶小諸にとゞまつて信州を仕置す、翌年七月源君|自《みづから》眞田征伐を催るゝの處、八月秀吉より使節を以て、眞田昌幸既に秀吉に屬し奉るの間、干戈を動かさるまじき旨止來るに付て、八月十日に濱松へ引かへさせ玉ふ。〔武家事始〕
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[#5字下げ][#中見出し]【九八】石川數正の出奔[#中見出し終わり]

若《も》し徳川家康《とくがはいへやす》にして、尋常人《じんじやうじん》の度胸《どきよう》を持《も》たしめば、彼《かれ》は追々《おひ/\》と心細《こゝろぼそ》くなつたであらう。彼《かれ》の周邊《しうへん》は、恰《あたか》も氷塊《ひようくわい》が日光《につくわう》に融《と》くる如《ごと》く、漸次《ぜんじ》に減《げん》じつゝある。怪《あや》しき味方《みかた》の北條《ほうでう》を除《のぞ》けば、彼《かれ》は全《まつた》く天下《てんか》に孤立《こりつ》した。而《しか》して曾《かつ》て我《わ》が被官《ひくわん》たりし、眞田昌幸《さなだまさゆき》は、我《われ》に反《そむ》きしのみか、我《わ》が討伐軍《たうばつぐん》を撃破《げきは》して、我《われ》に痛手《いたで》を負《お》はしめた。而《しか》して是《こ》れよりも、尚《な》ほ忍《しの》び難《がた》きは、酒井忠次《さかゐたゞつぐ》と與《とも》に、徳川家《とくがはけ》の二|大《だい》年寄《としより》たる石川數正《いしかはかずまさ》の出奔《しゆつぽん》である。
數正《かずまさ》は眞田《さなだ》の如《ごと》き、覊旅《きりよ》の臣《しん》でない。彼《かれ》は徳川家譜代《とくがはけふだい》の舊臣《きうしん》であつた。而《しか》して數正《かずまさ》は、家康《いへやす》が六|歳《さい》にして、駿河《するが》の今川氏《いまがはし》に質《ち》たる可《べ》く、行旅《かうりよ》の途中《とちゆう》、他《た》の騙計《へんけい》の爲《た》めに、織田氏《おだし》の奪《うば》ふ所《ところ》となり、熱田《あつた》に拘致《こうち》せられたる際《さい》にも、其《そ》の隨員《ずゐゐん》の一|人《にん》であつた。爾來《じらい》彼《かれ》は家康《いへやす》の戰陣《せんぢん》ある毎《ごと》に、未《いま》だ曾《かつ》て從《したが》はざるなく、從《したが》ふ毎《ごと》に、未《いま》だ曾《かつ》て戰功《せんこう》あらざるなき、徳川家《とくがはけ》隨《ずゐ》一の勳臣《くんしん》となつた。
殊《こと》に彼《かれ》が永祿《えいろく》四|年《ねん》、石瀬《いはせ》刈屋《かりや》の戰《たゝかひ》に、水野信元《みづののぶもと》の士《し》、高木清秀《たかぎきよひで》と鎗《やり》を合《あは》せたる、手際《てぎは》の如《ごと》きは、最《もつと》も世間《せけん》の稱美《しようび》する所《ところ》となつた。更《さ》らに此《こ》れよりも大《だい》なるは、數正《かずまさ》が虎穴《こけつ》に入《い》りて、虎兒《こじ》を獲《え》たる※[#こと、489-8]である。家康《いへやす》の一|子《し》信康《のぶやす》が、今川家《いまがはけ》に質《ち》となり、而《しか》して家康《いへやす》が今川家《いまがはけ》と絶《た》つて、織田氏《おだし》と結《むす》びたるが爲《た》めに、信康《のぶやす》の安危《あんき》心元《こゝろもと》なきに際《さい》し。數正《かずまさ》自《みづ》から一|死《し》を分《ぶん》とし、信康《のぶやす》に殉《じゆん》するの覺悟《かくご》を以《もつ》て、駿河《するが》に赴《おもむ》き、遂《つひ》に信康《のぶやす》を岡崎《をかざき》に伴《ともな》ひ還《かへ》つた事《こと》である。〔參照 織田氏時代前篇、六一、家康氏眞と絶つ〕[#「〔參照 織田氏時代前篇、六一、家康氏眞と絶つ〕」は1段階小さな文字]
若《もし》夫《そ》れ、三|方原《がたがはら》の大敗軍《だいはいぐん》に際《さい》しても、數正《かずまさ》の一|隊《たい》は、皆《み》な折敷《をりしき》て膝《ひざ》を立《たて》、鎗《やり》ぶすまを作《つくつ》て、一|足《あし》も引《ひ》かず。此《これ》が爲《た》めに、勝《か》ち誇《ほこ》りたる武田勢《たけだぜい》も辟易《へきえき》した。且《かつ》又《ま》た家康《いへやす》が武田氏《たけだし》と戰《たゝか》ひ、兵《へい》を駿河《するが》に出《いだ》し、退却《たいきやく》の際《さい》、遠目城主朝比奈駿河守《とほめじやうしゆあさひなするがのかみ》の兵《へい》、城《しろ》を出《い》でゝ|追撃《つゐげき》するや、數正《かずまさ》殿《しんがり》をなし、城兵《じやうへい》三十二|人《にん》を打捕《うちと》つた。此《かく》の如《ごと》き軍功《ぐんこう》は、殆《ほと》んど枚擧《まいきよ》に遑《いとま》あらぬ程《ほど》であつた。〔武家事紀〕[#「〔武家事紀〕」は1段階小さな文字]彼《かれ》は戰場《せんぢやう》に出《い》づる毎《ごと》に、一|番《ばん》に進《すゝ》み、諸人《しよにん》に先立《さきだ》ち、備《そなへ》の下知《げち》をした。人《ひと》其《そ》の冐險《ばうけん》を危《あやぶ》めば、彼《かれ》曰《いは》く、勝敗《しようはい》の機《き》は、最初《さいしよ》の一|著《ちやく》にあり、一の備《そなへ》破《やぶ》れて、二の備《そなへ》にて盛《も》り返《かへ》し、勝《かち》を得《う》るが如《ごと》きは、殆《ほと》んど希有《けう》の事《こと》なり。是《こ》れ予《よ》が恒《つね》に陣頭《ぢんとう》に進《すゝ》み、指揮《しき》する所以《ゆゑん》なりと云《い》うた。〔前橋舊藏聞書〕[#「〔前橋舊藏聞書〕」は1段階小さな文字]
されば家康《いへやす》も、彼《かれ》を以《もつ》て徳川家棟梁《とくがはけとうりやう》の一|人《にん》となし、最《もつと》も重要《ぢゆうえう》なる岡崎城《をかざきじやう》を守《まも》らしめ、人質《ひとじち》をも預《あづ》からしめた。然《しか》るに此《こ》の老臣《らうしん》が、今更《いまさ》ら家康《いへやす》に反《そむ》いて、秀吉《ひでよし》に趨《はし》つたと云《い》ふは、實《じつ》に意外《いぐわい》千|萬《ばん》である。然《しか》も事實《じじつ》は小説《せうせつ》よりも奇《き》なりとは、此事《このこと》だ。彼《かれ》は天正《てんしやう》十三|年《ねん》十一|月《ぐわつ》十三|日《にち》、妻子《さいし》眷屬《けんぞく》を拉《たずさ》へ、岡崎《をかざき》の城《しろ》を出發《しゆつぱつ》し、大阪《おほさか》に赴《おもむ》いた。而《しか》して信州《しんしう》深志《ふかし》の城主小笠原貞慶《じやうしゆをがさはらさだよし》の質子《ちし》をも、引《ひ》き連《つ》れた。此《こ》れは豫《かね》て小笠原《をがさはら》と、打合《うちあは》せ居《ゐ》たる事《こと》であつたらう。或《あるひ》は云《い》ふ、數正《かずまさ》は天正《てんしやう》十二|年《ねん》六|月《ぐわつ》八|日《か》、書《しよ》を秀吉《ひでよし》に寄《よ》せ、款《くわん》を通《つう》じて居《ゐ》たと。〔日本戰史〕[#「〔日本戰史〕」は1段階小さな文字]何《いづ》れにもせよ、彼《かれ》は出奔《しゆつぽん》したのぢや。
此事《このこと》は徳川氏《とくがはし》に取《と》りては、縱令《たとひ》青天《せいてん》の霹靂《へきれき》にあらずとするも、少《すくな》くとも一|場《ぢやう》の驚異《きやうゐ》であつたに相違《さうゐ》ない。數正《かずまさ》は大給《おほぎふ》なる松平近正《まつだひらちかまさ》をも、同行《どうかう》せんと、使《つかひ》を以《もつ》て誘《いざな》うた。近正《ちかまさ》は其《そ》の宗家《そうけ》の乘勝《のりかつ》幼年《えうねん》なりしが故《ゆゑ》に、其《そ》の家政《かせい》を沙汰《さた》して居《ゐ》たが、其《そ》の使者《ししや》を斥《しりぞ》け、我《わ》が嫡子《ちやくし》一生《かずなり》に、乘勝《のりかつ》家人《けにん》二|人《にん》を添《そ》へて、濱松《はままつ》に其事《そのこと》を注進《ちゆうしん》し、其《そ》の嫡子《ちやくし》を人質《ひとじち》として差出《さしいだ》した。家康《いへやす》は其志《そのこゝろざし》を嘉《よ》みし、短刀《たんたう》を賜《たま》ひ、其《そ》の嫡子《ちやくし》を歸還《きくわん》せしめた。松平重勝《まつだひらしげかつ》も亦《ま》た、此事《このこと》を急報《きふはう》し、家康《いへやす》の感賞《かんしやう》に預《あづか》つた。松平家忠《まつだひらいへたゞ》は、深溝《ふかみぞ》より三|里《り》の路《みち》を、汗馬《かんば》に鞭《むちう》ち、岡崎《をかざき》に驅《か》け付《つ》けた。當時《たうじ》岡崎《をかざき》には一|人《にん》の三|河武士《かはぶし》も、未《いま》だ參著《さんちやく》せなかつたから、家忠《いへたゞ》は其《そ》の家人《けにん》を配置《はいち》して、城門《じやうもん》を守《まも》らしめた。十四|日《か》には、酒井忠次《さかゐたゞつぐ》始《はじ》め、追々《おひ/\》參著者《さんちやくしや》も多《おほ》く、十六|日《にち》には、家康《いへやす》自《みづ》から岡崎城《をかざきじやう》に抵《いた》り、松平家忠《まつだひらいへたゞ》が、速《すみや》かに馳參《はせさん》じ、城《しろ》を守《まも》りたる功《こう》を賞《しやう》し、彼《かれ》を還《かへ》らしめ。從來《じゆうらい》石川數正《いしかはかずまさ》に屬《ぞく》せしめたる八十|騎《き》をば、内藤家長《ないとういへなが》に屬《ぞく》せしめた。而《しか》して信州《しんしう》小諸《こもろ》の城代《じやうだい》たりし、大久保忠世《おほくぼたゞよ》を召還《せうくわん》し、彼《かれ》をして岡崎城《をかざきじやう》を守《まも》らしめた。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
蓋《けだ》し信雄《のぶを》と提携《ていけい》の際《さい》には、清洲城《きよすじやう》が、對敵《たいてき》の第《だい》一|線《せん》であつたが、信雄《のぶを》既《すで》に秀吉《ひでよし》と握手《あくしゆ》したる今日《こんにち》に於《おい》ては、岡崎《をかざき》が其《そ》の第《だい》一|線《せん》たらざるを得《え》ず、是《こ》れ老巧《らうこう》無《む》二の大久保忠世《おほくぼたゞよ》を、此城《このしろ》の鎭將《ちんしやう》たらしめた所以《ゆゑん》ぢや。

[#5字下げ][#中見出し]【九九】小笠原と水野[#中見出し終わり]

小笠原貞慶《をがさはらさだよし》が、石川數正《いしかはかずまさ》と諜謀《てふぼう》して、秀吉《ひでよし》に與《く》みした事《こと》は、家康《いへやす》にも多少《たせう》の衝動《しようどう》を與《あた》へたに相違《さうゐ》ない。彼《かれ》は北條氏直《ほうでううぢなほ》に特使《とくし》を派《は》し、『上方《かみがた》之|申合仔細《まをしあはせのしさい》に付《つき》、此《かく》の如《ごと》き樣子《やうす》と存候間《ぞんじさふらふあひだ》、|不[#レ]可[#レ]會[#二]御油斷[#一]候《ごゆだんあるべからずさふらふ》。』と申《まを》し送《おく》つた。
抑《そもそ》も小笠原貞慶《をがさはらさだよし》は、何者《なにもの》であつた乎《か》。彼《かれ》は武田信玄《たけだしんげん》と、天文《てんぶん》二十二|年《ねん》五|月《ぐわつ》、信州《しんしう》桔梗《ききやう》ヶ|原《はら》にての合戰《かつせん》に打負《うちま》け、深志《ふかし》の城《しろ》に立《た》て籠《こも》り、遂《つ》ひに此處《こゝ》をも開城《かいじやう》し、會津《あひづ》の蘆名氏《あしなし》に身《み》を寄《よ》せたる、小笠原長時《をがさはらながとき》の三|男《なん》である。彼《かれ》は父《ちゝ》の命《めい》にて、信長《のぶなが》に屬《ぞく》し、信長《のぶなが》の死後《しご》、甲信《かふしん》の動亂《どうらん》に際《さい》し、家康《いへやす》の意《い》を承《う》けて、信州《しんしう》に馳《は》せ下《くだ》り、舊家人等《きうけにんら》を驅《か》り催《もよ》ほして、深志《ふかし》の城《しろ》を恢復《くわいふく》した。彼《かれ》は二|歳《さい》の時《とき》に、國《くに》を去《さ》り、今《いま》や再《ふたゝ》び歸國《きこく》するを得《え》、其父《そのちゝ》長時《ながとき》を、會津《あひづ》より迎《むか》へんとするの際《さい》、父《ちゝ》は端《はし》なくも、其《そ》の近侍《きんじ》の小童《せうどう》の爲《た》めに、横死《わうし》を遂《と》げた。
斯《か》くて上杉景勝《うへすぎかげかつ》が、大兵《たいへい》を率《ひき》ゐて、信州《しんしう》に亂入《らんにふ》するの風聞《ふうぶん》あるや、彼《かれ》は眞田等《さなだら》と、上杉氏《うへすぎし》に恭順《きようじゆん》を約《やく》し。而《しか》して北條氏直《ほうでううぢなほ》が、上州《じやうしう》厩橋《うまやばし》の一|戰《せん》に打《う》ち勝《か》ち、碓氷峠《うすひたうげ》を越《こ》え來《きた》るや、更《さ》らに眞田等《さなだら》と與《とも》に、上杉《うへすぎ》に反《そむ》きて、北條《ほうでう》に與《く》みした。斯《か》くて彼《かれ》は、川中島《かはなかじま》に打《うつ》て出《い》で、龍王城《りゆうわうじやう》を攻《せ》めて、上杉《うへすぎ》の大將清野入道《たいしやうきよのにふだう》に破《やぶ》られ。鹽尻《しはじり》に引《ひ》き返《かへ》して、徳川方《とくがはがた》なる保科正直《ほしなまさなほ》に破《やぶ》られ。鹽尻《しほじり》に引《ひ》き返《かへ》して、徳川方《とくがはがた》なる保科正直《ほしなまさなほ》に破《やぶ》られ。斯《か》くて北條《ほうでう》、徳川《とくがは》の對戰《たいせん》に於《おい》て、北條側《ほうでうがは》の恒《つね》に不利《ふり》なるを見《み》、更《さら》に北條《ほうでう》を去《さ》りて、徳川《とくがは》に歸《き》した。
看來《みきた》れば、彼《か》れ小笠原貞慶《をがさはらさだよし》は、如何《いか》にも反覆《はんぷく》の小人《せうじん》の樣《やう》だが、當時《たうじ》地方割據《ちはうかつきよ》の群雄《ぐんゆう》は、何《いづ》れも自衞《じゑい》に急《きふ》なるが爲《た》めに、恒《つね》に其《そ》の來※[#「にんべん+福のつくり」、第4水準2-1-70]《らいひよく》する優勢者《いうせいしや》に、叩頭《こうとう》したるは、寧《むし》ろ餘儀《よぎ》なき事情《じじやう》であつたと云《い》ふ可《べ》きであらう。されば彼《か》れが秀吉《ひでよし》、徳川《とくがは》の確執《かくしつ》に際《さい》し、事大的打算《じだいてきださん》よりして、※[#「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31]《くわん》を秀吉《ひでよし》に通《つう》じたるは、從來《じゆうらい》の行《ゆ》き掛《かゝ》りよりすれば、決《けつ》して不思議《ふしぎ》はあるまい。果然《くわぜん》天正《てんしやう》十三|年《ねん》十一|月《ぐわつ》、彼《かれ》の質子《ちし》が、石川數正《いしかはかずまさ》に携《たづさ》へられて、大阪《おほさか》に赴《おもむ》くや。翌《よく》十二|月《ぐわつ》には、彼《かれ》は兵《へい》を起《おこ》して、高遠《たかとほ》の城《しろ》を攻《せ》め、其《そ》の附近《ふきん》の村落《そんらく》を放火《はうくわ》した。
復《ま》た此《こ》の前後《ぜんご》に、家康《いへやす》の叔父《をぢ》たる、水野忠重《みづのたゞしげ》も、秀吉《ひでよし》に趨《おもむ》いた。彼《かれ》は小笠原貞慶《をがさはらさだよし》の如《ごと》き、家康《いへやす》と朝去暮就《てうきよぼしう》の關係《くわんけい》ではなかつた。彼《かれ》は家康《いへやす》の生母《せいぼ》、水野氏《みづのし》の兄弟《きやうだい》である。彼《かれ》は其《そ》の兄《あに》刈屋《かりや》の城主信元《じやうしゆのぶもと》と快《こゝろよ》からず、鷲塚《わしづか》に閉居《へいきよ》したりしが、永祿《えいろく》六|年《ねん》の冬《ふゆ》、門徒《もんと》一|揆《き》蜂起《ほつき》し、家康《いへやす》頗《すこぶ》る苦境《くきやう》に陷《おちい》りつゝあるを見《み》、其《そ》の家人《けにん》を引具《ひきぐ》して、家康《いへやす》を扶《たす》け、引《ひ》き續《つゞ》き恒《つね》に家康《いへやす》の軍《ぐん》に從《したが》うて、戰功《せんこう》を立《た》てた。天正《てんしやう》三|年《ねん》、兄《あに》信元《のぶもと》死《し》して後《のち》、同《どう》八|年《ねん》九|月《ぐわつ》、信長《のぶなが》は刈屋《かりや》が、水野氏《みづのし》の累代《るゐだい》の地《ち》なればとて、之《これ》を忠重《たゞしげ》に與《あた》へた。
爾來《じらい》彼《かれ》は、或《あるひ》は織田氏《おだし》の爲《た》めに、或《あるひ》は徳川氏《とくがはし》の爲《た》めに、其《そ》の軍役《ぐんえき》を勤《つと》めたが。天正《てんしやう》十|年《ねん》六|月《ぐわつ》、信長《のぶなが》死《し》して以來《いらい》、鳥居元忠《とりゐもとたゞ》と與《とも》に、徳川氏《とくがはし》の將《しやう》として、甲斐《かひ》に於《おい》て、北條勢《ほうでうぜい》を打破《うちやぶ》り。天正《てんしやう》十二|年《ねん》、小牧役《こまきえき》に於《おい》ては、信雄《のぶを》の爲《た》めに星崎城《ほしざきじやう》を攻落《せめおと》し、又《ま》た長久手《ながくて》に戰《たゝか》ひ、蟹江城《かにえじやう》を攻《せ》め。同年《どうねん》十|月《ぐわつ》、秀吉《ひでよし》伊勢《いせ》に入《い》るを聞《き》くや、其《そ》の手勢《てぜい》を率《ひき》ゐて、秀吉《ひでよし》の大軍《たいぐん》と水《みづ》を阻《へだ》てゝ|對陣《たいぢん》し。爲《た》めに秀吉《ひでよし》をして、桑名《くはな》に入《い》るを得《え》ざらしめた。
然《しか》るに彼《かれ》も亦《ま》た石川《いしかは》の如《ごと》く、小笠原《をがさはら》の如《ごと》く、家康《いへやす》を去《さ》りて、秀吉《ひでよし》に就《つ》いた。秀吉《ひでよし》は彼《かれ》が平生《へいぜい》の武勇《ぶゆう》にめでゝ、石川《いしかは》と與《とも》に、彼《かれ》を武者奉行《むしやぶぎやう》とした。
新井白石《あらゐはくせき》は、『忠重《たゞしげ》の關白家《くわんぱくけ》へ屬《ぞく》せし事《こと》は、如何《いか》なる故《ゆゑ》にや。』〔藩翰譜〕[#「〔藩翰譜〕」は1段階小さな文字]と訝《いぶ》かれども、そは別段《べつだん》穿鑿《せんさく》する程《ほど》の必要《ひつえう》もあるまい。當時《たうじ》成敗《せいはい》を觀望《くわんばう》する者《もの》に於《おい》ては、家康《いへやす》を去《さ》りて、秀吉《ひでよし》に就《つ》くを以《もつ》て、最《もつと》も出世《しゆつせ》の道《みち》と考《かんが》へたであらう。當時《たうじ》酒井忠次《さかゐたゞつぐ》を除《のぞ》けば、自餘《じよ》の徳川《とくがは》の臣下《しんか》は、概《おほむ》ね田舍漢《でんしやかん》にて、固《もと》より上國《じやうこく》の事情《じじやう》に通《つう》ぜず。唯《た》だ徳川家《とくがはけ》あるを知《し》りて、他《た》あるを知《し》らざる輩《やから》なれば、自《おのづか》ら石川《いしかは》、水野《みづの》の後《あと》を追《お》うて、上方《かみがた》に奔《はし》る者《もの》もなかつたであらう。家康《いへやす》の脚下《あしもと》より、餘《あま》りに多《おほ》くの鳥《とり》の立《た》たなかつたのは、強《あなが》ち參河武士《みかはぶし》の忠義《ちうぎ》、骨髓《こつずゐ》を貫《つらぬ》きたるが爲《た》めのみとも限《かぎ》るまい。

[#5字下げ][#中見出し]【一〇〇】石川數正出奔の動機(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

抑々《そも/\》石川數正《いしかはかずまさ》は、如何《いか》なる動機《どうき》によりて、岡崎城《をかざきじやう》より大阪《おほさか》に奔《はし》つた乎《か》。彼《かれ》は利慾《りよく》に目《め》が暗《くら》み、譜代《ふだい》の主君《しゆくん》たる家康《いへやす》を打棄《うちす》てゝ、秀吉《ひでよし》に就《つい》たとは、人面獸心《にんめんじうしん》の漢《をのこ》であると云《い》へば、只《た》だそれ迄《まで》の話《はなし》に止《とゞま》るが。彼《かれ》をして此處《こゝ》に到《いた》らしめたには、定《さだ》めて若干《じやくくわん》の事情《じじやう》と、理由《りいう》がなくてはならぬ。
由來《ゆらい》酒井忠次《さかゐたゞつぐ》[#ルビの「さかゐ」が底本では「さみゐ」]が、家康《いへやす》の爲《た》めに、信長《のぶなが》に使《つかひ》したるが如《ごと》く、石川數正《いしかはかずまさ》も亦《ま》た家康《いへやす》の爲《た》めに、秀吉《ひでよし》に使《つかひ》した。彼《かれ》は天正《てんしやう》十一|年《ねん》五|月《ぐわつ》、秀吉《ひでよし》が柳瀬役《やながせえき》に於《おい》て、柴田《しばた》を退治《たいぢ》し、武威《ぶゐ》を京畿《けいき》に振《ふる》ふに際《さい》し。家康《いへやす》の命《めい》を奉《ほう》じ、其《そ》の駕儀《がぎ》を述《の》ぶ可《べ》く、初花《はつはな》の茶入《ちやいれ》を齎《もたら》して、京都《きやうと》に赴《おもむ》いた。元來《ぐわんらい》人蕩《ひとたら》しの名人《めいじん》なる秀吉《ひでよし》が、如何《いか》に數正《かずまさ》[#ルビの「かずまさ」が底本では「かづまさ」]を優遇《いうぐう》し、彼《かれ》の心《こゝろ》を動《うご》かしたかは、想像《さうざう》する迄《まで》もない。同年《どうねん》八|月《ぐわつ》、秀吉《ひでよし》が答禮《たふれい》として、津田左馬允《つださまのすけ》を濱松《はままつ》に到《いた》らしめ、不動國行《ふどうくにゆき》の名刀《めいたう》を家康《いへやす》に贈《おく》るや、數正《かずまさ》に向《むかつ》ても、信問《しんもん》懇厚《こんこう》を極《きは》めた。
斯《か》くて秀吉《ひでよし》、家康《いへやす》と相戰《あひたゝか》ひ、小牧《こまき》樂田《がくでん》數日《すじつ》對陣《たいぢん》の際《さい》、石川《いしかは》が金《きん》の馬藺《ばりん》の馬印《うまじるし》、甚《はなは》だ壯觀《さうくわん》なりとて、秀吉《ひでよし》は使《つかひ》を遣《つかは》して之《これ》を請《こ》うた。數正《かずまさ》異議《いぎ》なく之《これ》を與《あた》ふるや、秀吉《ひでよし》は之《これ》に酬《むく》ゆるに、重金《ぢゆうきん》を以《もつ》てした。數正《かずまさ》[#ルビの「かずまさ」が底本では「かづまさ」]は之《これ》を家康《いへやす》に告《つ》げ、家康《いへやす》は之《これ》を受納《じゆなふ》せよと允《ゆる》したれども、數正《かずまさ》は物議《ぶつぎ》を憚《はゞか》つて、之《これ》を返却《へんきやく》した。其《そ》の後《ご》家康《いへやす》側《がは》に於《おい》ては、敵《てき》の二|重堀《ぢゆうぼり》を燒《や》くの議《ぎ》があつたが、數正《かずまさ》は之《これ》を肯《うけが》はず、人《ひと》皆《み》な彼《かれ》が秀吉《ひでよし》に通《つう》じたを疑《うたが》うた。爾來《じらい》秀吉《ひでよし》との間《あひだ》、和睦《わぼく》の交渉《かうせふ》、行《ゆ》き惱《なや》みつゝあるの際《さい》、群臣《ぐんしん》何《いづ》れも此《こ》れを好機《かうき》として、手切《てぎ》れす可《べ》きを勸《すゝ》めたが、數正《かずまさ》獨《ひと》りは專《もつぱ》ら和議《わぎ》を主張《しゆちやう》し、此《これ》が爲《た》めに愈《いよい》よ群臣《ぐんしん》の疑《うたがひ》を招《まね》き遂《つひ》に出奔《しゆつぽん》するに至《いた》つた。〔武家事記〕[#「〔武家事記〕」は1段階小さな文字]
果《はた》して上記《じやうき》の通《とほ》りとすれば、石川數正《いしかはかずまさ》が岡崎城《をかざきじやう》を遁《に》げ出《いだ》したるは、周邊《しうへん》の壓迫《あつぱく》の爲《た》めに、餘儀《よぎ》なくせられたとも云《い》ひ得《う》可《べ》き、事情《じじやう》ありだ。石川《いしかは》の立場《たちば》よりすれば、痛《いた》くもなき腹《はら》を探《さぐ》られ、鵜《う》の目《め》、鷹《たか》の目《め》にて、裏切人視《うらぎりにんし》せられ、針《はり》の蓆《むしろ》に坐《ざ》する思《おも》ひをなすよりも、寧《むし》ろ天空海濶《てんくうかいくわつ》の秀吉《ひでよし》の幕下《ばくか》となり、十|萬石《まんごく》の大名《だいみやう》となるに若《し》かずと、觀念《くわんねん》したとも云《い》ひ得可《うべ》き、理由《りいう》ありだ。
然《しか》も徳川側《とくがはがは》よりすれば、石川《いしかは》とも云《い》はるゝ|徳川家《とくがはけ》の元老《げんらう》が、秀吉《ひでよし》と懇親《こんしん》を累《かさ》ね、兎角《とかく》秀吉側《ひでよしがは》の便宜《べんぎ》のみを謀《はか》る形跡《けいせき》あるは、容赦出來《ようしやでき》ぬと云《い》ふ議論《ぎろん》も立《た》つであらう。要《えう》するに石川數正《いしかはかずまさ》は、秀吉《ひでよし》に内通《ないつう》したから、疑《うたが》はれた乎《か》。疑《うたが》はれたから、内通《ないつう》した乎《か》。そは一寸《ちよつと》水掛論《みづかけろん》として、双方《さうはう》の言前《いひまへ》を預《あづか》り置《お》くも。石川《いしかは》が、秀吉《ひでよし》との和親論者《わしんろんしや》であり、自餘《じよ》の參河侍《みかはざむらひ》共《ども》が、主戰論者《しゆせんろんしや》であつた事《こと》は、斷《だん》じて疑《うたがひ》を容《い》るゝ|餘地《よち》がない。此《こ》の意見《いけん》の背馳《はいち》が、彼等《かれら》の分岐點《ぶんきてん》と見《み》る可《べ》きであらう。
參河侍《みかはざむらひ》共《ども》の目《め》には、主君家康《しゆくんいへやす》は、信長《のぶなが》と對等《たいとう》の大將《たいしやう》である。秀吉《ひでよし》は信長《のぶなが》の臣下《しんか》たる、成上《なりあが》り者《もの》である。我等《われら》は岡崎以來《をかざきいらい》、百|戰《せん》の精兵《せいへい》である。秀吉《ひでよし》は烏合《うがふ》の衆《しゆう》である。此際《このさい》我《わ》が主君《しゆくん》が、秀吉《ひでよし》に叩頭《こうとう》せらるゝ|抔《など》は、單《ひと》り主君《しゆくん》の不面目《ふめんもく》のみでなく、亦《ま》た我等《われら》の不面目《ふめんもく》である。如何《いか》に秀吉《ひでよし》が、日本《にほん》半州《はんしう》の大軍《たいぐん》を率《ひき》ゐ來《き》たればとて、參河《みかは》、遠江《とほたふみ》、駿河《するが》、甲斐《かひ》、信濃《しなの》を一|個《こ》の城郭《じやうくわく》とし、譜代《ふだい》の面々《めん/\》必死《ひつし》の覺悟《かくご》にて對抗《たいかう》せば、何《なん》の畏《おそ》るゝ|事《こと》か是《こ》れあらんとは、恐《おそ》らく彼等《かれら》の輿論《よろん》であつた。
併《しか》し此《こ》れは己《おのれ》を知《し》りて他《た》を知《し》らざる、田舍漢《でんしやかん》の愚見《ぐけん》として、石川數正《いしかはかずまさ》[#ルビの「かずまさ」が底本では「かづまさ」]には受取《うけと》られた。如何《いか》に公平《こうへい》に考《かんが》へても、秀吉《ひでよし》は豪傑《がうけつ》である。彼《かれ》を成上《なりあが》り者《もの》と云《い》ふが、その成上《なりあが》りは、決《けつ》して僥倖《げうかう》でない。是《こ》れが却《かへつ》て彼《かれ》の異常《いじやう》、卓越《たくえつ》したる證據《しようこ》である。參河武士《みかはぶし》は、武士中《ぶしちゆう》の花《はな》であらう。されど勝敗《しようはい》の數《すう》は、個人的《こじんてき》勇氣《ゆうき》のみにては定《さだま》らぬ。兵《へい》の大小《だいせう》も計較《けいかく》せねばならぬ、物資《ぶつし》の多寡《たくわ》も比量《ひりやう》せねばならぬ、大勢《たいせい》の向背《かうはい》も考慮《かうりよ》せねばならぬ。如何《いか》に目前《もくぜん》の勝利《しようり》は、我《われ》に在《あ》りても、最後《さいご》の勝利《しようり》は、秀吉《ひでよし》にあり。秀吉《ひでよし》が天下人《てんかびと》たることは、最早《もはや》疑《うたがひ》もなき事實《じじつ》である。
されば今日《こんにち》に於《おい》て、秀吉《ひでよし》と握手《あくしゆ》するは、徳川氏《とくがはし》保全《ほぜん》の長策《ちやうさく》、良計《りやうけい》と云《い》はねばならぬ。此《こ》れが恐《おそ》らくは、石川數正《いしかはかずまさ》の意見《いけん》であつたらう。されど斯《かゝ》る意見《いけん》は、血眼《ちまなこ》になりつゝある參河侍《みかはざむらひ》共《ども》の、諒解《りやうかい》す可《べ》き筈《はず》がない。何《なに》を申《まう》すも當時《たうじ》の彼等《かれら》は、未《いま》だ上國《じやうこく》の形勢《けいせい》には、殆《ほと》んど沒交渉《ぼつかうせふ》の沒分曉漢《ぼつぶんげうかん》である。

[#5字下げ][#中見出し]【一〇一】石川數正出奔の動機(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

大久保彦左衞門《おほくぼひこざゑもん》は、『石川伯耆守《いしかははうきのかみ》逆心《ぎやくしん》をして、女子《によし》を引連《ひきつ》れて、岡崎《をかざき》より引退《ひきのき》ける。』〔參河物語〕[#「〔參河物語〕」は1段階小さな文字]と云《い》ひ。井伊直政《ゐいなほまさ》は、秀吉《ひでよし》が其《そ》の舊友《きういう》なるを以《もつ》て、特《とく》に石川數正《いしかはかずまさ》を饗宴《きやうえん》の接伴《せつぱん》たらしめたが、彼《かれ》と一|言《ごん》をも交《まじ》へず。秀吉《ひでよし》自《みづ》から點茶《てんちや》の席《せき》にも、數正《かずまさ》をして、接伴《せつぱん》せしめたが、直政《なほまさ》は其《そ》の傍人《ばうじん》に向《むか》つて、『此《こゝ》にさふらふ數正《かずまさ》は、譜代相傳《ふだいさうでん》の主君《しゆくん》に反《そむ》き參《まゐ》らせ、殿下《でんか》に從《したが》ふ大臆病《だいおくびやう》の男《をとこ》なれば、直政《なほまさ》彼《か》れと肩《かた》を並《なら》べ、膝《ひざ》を組《く》まん事《こと》、御免《ごめん》を蒙《かうむ》るべきにて候《さふらふ》。』〔藩翰譜〕[#「〔藩翰譜〕」は1段階小さな文字]と云《い》うた。徳川側《とくがはがは》の人々《ひと/″\》が數正《かずまさ》を爪彈《つまはぢ》きし、彼《かれ》を以《もつ》て人面獸心《にんめんじうしん》の不義漢《ふぎかん》としたのも、良《まこと》に當然《たうぜん》と云《い》はねばならぬ。
石川數正《いしかはかずまさ》は、參河武士《みかはぶし》の面汚《つらよご》しである。吾人《ごじん》は別段《べつだん》彼《かれ》を辯護《べんご》す可《べ》き必要《ひつえう》を認《みと》めない。併《しか》しながら彼《かれ》は本來《ほんらい》、秀吉《ひでよし》との和親論者《わしんろんしや》であり、其《そ》の和親論《わしんろん》の、單《たん》に彼《かれ》一|人《にん》の利害《りがい》のみより、打算《ださん》したでなかつた事《こと》は、之《これ》を尋酌《しんしやく》せねばならぬ。彼《かれ》は上國《じやうこく》の事情《じじやう》に、明《あき》らかなるの程度《ていど》に於《おい》て、自餘《じよ》の參河侍《みかはざむらひ》と天地《てんち》の懸隔《けんかく》があつた。參河侍《みかはざむらひ》は當時《たうじ》依然《いぜん》たる、田舍武士《ゐなかぶし》であつたが、彼《かれ》は既《すで》に半《なかば》は上方化《かみがたくわ》して居《ゐ》た。彼《かれ》が秀吉《ひでよし》との關係《くわんけい》は、天正《てんしやう》十一|年《ねん》五|月《ぐわつ》、家康《いへやす》の特使《とくし》として、秀吉《ひでよし》に赴謁《ふえつ》したる以來《いらい》の事《こと》ぢや。爾來《じらい》秀吉《ひでよし》は、石川《いしかは》が徳川氏《とくがはし》の老臣《らうしん》たるの故《ゆゑ》に、殊更《ことさ》らに彼《かれ》を優遇《いうぐう》し、而《しか》して石川《いしかは》に於《おい》ても、之《これ》に對《たい》して、不快《ふくわい》の念《ねん》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《さしはさ》む可《べ》き理由《りいう》は、些《すこ》しもなかつた。斯《かく》の如《ごと》くして彼《かれ》は、追々《おひ/\》と上方化《かみがたくわ》し了《をは》つたのぢや。
家康《いへやす》が何故《なにゆゑ》に石川數正《いしかはかずまさ》をば、屡《しばし》ば秀吉《ひでよし》に差《さ》し向《む》けたる乎《か》の事情《じじやう》は、明白《めいはく》でない、恐《おそ》らくは彼《かれ》が徳川家臣《とくがはかしん》の筆頭《ひつとう》であり、且《か》つ秀吉《ひでよし》にも受《う》けが善《よ》かつたからであらう。併《しか》し神《かみ》ならぬ家康《いへやす》も、此《こ》れが數正《かずまさ》出奔《しゆつぽん》の原因《げんいん》とは、夢《ゆめ》にも豫見《よけん》しなかつた。彼《かれ》は天正《てんしやう》十二|年《ねん》十一|月《ぐわつ》十六|日《にち》、石川數正《いしかはかずまさ》を、秀吉《ひでよし》に遣《つかは》し、信雄《のぶを》との和《わ》成《な》るを駕《が》せしめた。而《しか》して同年《どうねん》十二|月《ぐわつ》十二|日《にち》には、數正《かずまさ》は家康《いへやす》の子《こ》於義丸《おぎまる》─|秀康《ひでやす》─を護衞《ごゑい》し、濱松《はままつ》を發《はつ》し、二十六|日《にち》大阪《おほさか》に著《ちやく》した。一|行中《かうちゆう》には、數正《かずまさ》の子《こ》勝千代《かつちよ》、本多重次《ほんだしげつぐ》の子《こ》仙千代等《せんちよら》もあつた。而《しか》して數正《かずまさ》は、翌《よく》十三|年《ねん》三|月《ぐわつ》、於義丸《おぎまる》に陪《ばい》し、紀州征伐《きしうせいばつ》の役《えき》に從《したが》ひ、而《しか》して後《のち》歸東《きとう》した。
此《こ》の天正《てんしやう》十二|年《ねん》の尾《をはり》より、天正《てんしやう》十三|年《ねん》の首《はじめ》にかけては、秀吉《ひでよし》の威勢《ゐせい》に於《おい》て、一|大躍進《だいやくしん》の期間《きかん》であつた。此《こ》の期間《きかん》に於《おい》て、數正《かずまさ》は日夕《にちせき》秀吉《ひでよし》に親炙《しんしや》し、若《もし》くは其《そ》の雰圍氣《ふんゐき》の中《うち》にあつた。彼《かれ》が秀吉《ひでよし》に心醉《しんすゐ》し來《きた》つたのも、若《も》し必然《ひつぜん》と云《い》ふ語《ご》が、妥當《だたう》でないならば、少《すくな》くとも、不自然《ふしぜん》ではなかつたと云《い》ひ得《え》らるゝであらう。
所謂《いはゆ》る魚心《うをごゝろ》あれば水心《みづごゝろ》で、彼《かれ》と秀吉《ひでよし》との間《あひだ》には、既《すで》に靈犀《れいさい》一|點《てん》、相通《あひつう》じたのであらう。彼《かれ》の立場《たちば》から見《み》れば、其《そ》の主君《しゆくん》たる家康《いへやす》を始《はじ》めとして、家康《いへやす》を圍繞《ゐねう》する參河武士《みかはぶし》の面々《めん/\》が、天下人《てんかびと》たる秀吉《ひでよし》に對抗《たいかう》せんとするは、盲者《まうじや》蛇《へび》を怖《おそ》れざるの類《るゐ》だ。若《も》し石川《いしかは》に臆病心《おくびやうしん》があつたとすれば、其《そ》の幾許《いくばく》は、餘《あま》りに上國《じやうこく》の形勢《けいせい》に通《つう》じたるが爲《た》めぢや。若《も》し自餘《じよ》の參河武士《みかはぶし》に自恃心《じじしん》が横溢《わういつ》したとすれば、其《そ》の若干《じやくかん》は、己《おのれ》あるを知《し》りて、他《た》を知《し》らざる爲《た》めとも、云《い》ひ得可《うべ》きぢや。
石川《いしかは》と、彼等《かれら》と互《たが》ひに相《あ》ひ容《い》れず。遂《つひ》に石川《いしかは》をして、斯《か》かる莫迦者共《ばかものども》の仲間《なかま》に彷徨《はうくわう》して、身《み》を亡《うしな》ひ、家《いへ》を滅《ほろ》ぼさんよりも、寧《むし》ろ十|萬石《まんごく》の大名《だいみやう》に取《と》り立《た》てられて、關白《くわんぱく》の被官《ひくわん》たらんと決心《けつしん》さしたのも、戰國時代《せんごくじだい》に於《おい》ては、強《あな》がち不思議《ふしぎ》はない。
但《た》だ石川《いしかは》は徳川《とくがは》の譜代《ふだい》であり、特《とく》に數正《かずまさ》は家康《いへやす》六|歳《さい》の時《とき》より、其《そ》の側《かたはら》に奉仕《ほうし》し、其《そ》の功名《こうみやう》手柄《てがら》を顯《あら》はし、徳川家《とくがはけ》隨《ずゐ》一の勳臣《くんしん》たる位置《ゐち》を占《し》め、徳川家《とくがはけ》の雄鎭《ゆうちん》たる、岡崎城《をかざきじやう》の守將《しゆしやう》たる身《み》を以《もつ》て、此《かく》の如《ごと》き輕擧妄動《けいきよまうどう》を爲《な》したるは、所謂《いはゆ》る天魔《てんま》の魅入《みい》りたりとも云《い》ふ可《べ》き歟《か》。

[#5字下げ][#中見出し]【一〇二】家康の決心奈何[#中見出し終わり]

水野《みづの》や、小笠原《をがさはら》やは、論《ろん》ずる迄《まで》もない。但《た》だ石川《いしかは》は、實《じつ》に其《そ》の方向《はうかう》を誤《あやま》つた。彼《かれ》は必《かなら》ずしも大久保彦左衞門《おほくぼひこざゑもん》の、所謂《いはゆ》る逆心者《ぎやくしんしや》ではなかつた。將《は》た井伊直政《ゐいなほまさ》の、所謂《いはゆ》る大臆病漢《だいおくびやうかん》でもなかつた。其《そ》の然《しか》らざる所以《ゆゑん》は、彼《かれ》が從來《じゆうらい》の經歴《けいれき》、之《これ》を證《しよう》して餘《あま》りありだ。彼《かれ》は自《みづ》から死《し》を決《けつ》して、今川氏《いまがはし》に赴《おもむ》き、家康《いへやす》の長子《ちやうし》信康《のぶやす》と艱苦《かんく》を共《とも》にし、遂《つひ》に信康《のぶやす》を連《つ》れ返《かへ》つた。忠義《ちうぎ》も此《こゝ》に到《いた》つて、徹底《てつてい》して居《を》るではない乎《か》。彼《かれ》が三|方原《かたがはら》に於《お》ける戰功《せんこう》を見《み》ても、彼《かれ》が萬夫不當《ばんぷふたう》の勇者《ゆうしや》たる事《こと》は、分明《ぶんみやう》ぢや。
此《かく》の如《ごと》き百|錬《れん》の心膽《しんたん》を有《いう》する石川《いしかは》が、一|朝《てう》にして心《こゝろ》を變《へん》じて、徳川《とくがは》を去《さ》り、秀吉《ひでよし》に與《く》みしたのは、要《えう》するに前記《ぜんき》の事情《じじやう》、及《およ》び理由《りいう》に基《もとづ》くとしてもが、石川《いしかは》其者《そのもの》に取《と》りては、此《こ》の飛躍《ひやく》は、確《たし》かに一|大失策《だいしつさく》であり、又《ま》た一|大失敗《だいしつぱい》であつた。彼《かれ》も徳川氏《とくがはし》の臣《しん》としてこそ、年寄《おとな》と云《い》はれ、絶特《ぜつとく》の位置《ゐち》を占《し》めたるなれ。降《くだ》りて秀吉《ひでよし》に仕《つか》へては、全《まつた》くの新參者《しんざんもの》である。如何《いか》に秀吉《ひでよし》が彼《かれ》を優遇《いうぐう》せんとしても、其《そ》の周圍《しうゐ》が之《これ》に反抗《はんかう》するに於《おい》ては、致方《いたしかた》がない。彼《かれ》は全《まつた》く一|個《こ》の巣《す》なき旅烏《たびがらす》である。
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徳川《とくがは》の家《いへ》に傳《つた》ふる古箒《ふるはうき》落《おち》ての後《のち》は木《き》の下《した》をはく
家康《いへやす》のはき捨《すて》られし古箒《ふるはうき》都《みやこ》へ來《き》てはちりほどもなし
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは彼《かれ》が都《みやこ》なる住宅《ぢゆうたく》の門前《もんぜん》の扉《とびら》に、落首《らくしゆ》したるものと云《い》ふ。〔武徳編年集成〕[#「〔武徳編年集成〕」は1段階小さな文字]何《いづ》れにしても、石川《いしかは》の出奔《しゆつぽん》は、大《おほ》いに彼男《かれ》の氣量《きりやう》を下《さ》げた、彼《かれ》は實《じつ》に一|生《しやう》を誤《あやま》つた。彼《かれ》は名教《めいけう》の罪人《ざいにん》となつたのみならず、併《あは》せて自《みづ》からの立場《たちば》を失《うしな》うた。從前《じゆうぜん》の功名《こうみやう》手柄《てがら》を臺《だい》なしにした、帳消《ちやうけ》しにした。彼《かれ》としては、縱令《たとひ》自己《じこ》の意見《いけん》が、容《い》れられなかつたにせよ、將《は》た自《みづか》らは愚策《ぐさく》の骨頂《こつちやう》と思《おも》うたにせよ。己《おのれ》の涯分《がいぶん》を竭《つく》して、其《そ》の譜代《ふだい》の主《しゆ》たる、家康《いへやす》の節度《せつど》の下《もと》に服《ふく》し、進退《しんたい》を與《とも》にす可《べ》きであつた。彼《かれ》が其《そ》の晩節《ばんせつ》を誤《あやま》つたのも、其《そ》の重《おも》なる原因《げんいん》は、恐《おそ》らくは日暮《ひく》れ道《みち》遠《とほ》く、餘《あま》りに其《そ》の功名《こうみやう》、利慾《りよく》の念《ねん》に、驅遣《くけん》せられたが爲《た》めであらう。
家康《いへやす》に於《おい》ては、全《まつた》く脚下《あしもと》から鳥《とり》が立《た》つたのである。如何《いか》に思慮《しりよ》周密《しうみつ》の家康《いへやす》でも、從來《じゆうらい》身《み》も、魂《たましひ》も、吾家《わがや》に献《さゝ》げ來《きた》りたる石川《いしかは》が、一|旦《たん》其志《そのこゝろざし》を變《へん》ず可《べ》しとは、思《おも》ひ及《およ》ばなかつたであらう。
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權現樣《ごんげんさま》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]御爪《おつめ》を御噛《おか》み成《な》され、不平《ふへい》の御氣色《みけしき》あり。侍坐《じざ》の者《もの》申上《まをしあ》げるは、伯耆守《はうきのかみ》御威光《ごゐくわう》に因《よ》りて、名《な》を得《え》たり。太閤《たいかふ》に屬從《ぞくじゆう》すと雖《いへど》も、何事《なにごと》をか成《な》し行《おこな》ふべきと申上《まをしあ》ぐ。權現樣《ごんげんさま》御意《ぎよい》に、我《われ》に背《そむ》くの志《こゝろざし》不忠也《ふちうなり》。然《しか》れども武夫《ものゝふ》の業化《げふげ》は、侮《あなど》るべからずとの御意《ぎよい》なり。〔玉音抄〕[#「〔玉音抄〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れ或《あるひ》は然《しか》らむ歟《か》。家康《いへやす》は數正《かずまさ》の行動《かうどう》を賤《いや》しむも、其《そ》の手腕《しゆわん》は、尚《な》ほ認《みと》めざるを得《え》なかつた。されば彼《かれ》は徳川家《とくがはけ》の軍機《ぐんき》が、一|切《さい》秀吉方《ひでよしがた》に暴露《ばくろ》せらるゝを豫期《よき》し。更《さ》らに此際《このさい》に於《おい》て、其《そ》の軍法《ぐんぽふ》を一|變《ぺん》す可《べ》く、甲州郡代鳥居彦右衞門《かふしうぐんだいとりゐひこうゑもん》をして、信玄《しんげん》の軍法《ぐんぽふ》、書物《しよもつ》、武器《ぶき》、兵具類《ひやうぐるゐ》を、甲州《かふしう》より蒐集《しうしふ》せしめた。井伊直政《ゐいなほまさ》、榊原康政《さかきばらやすまさ》、本多忠勝《ほんだたゞかつ》を總奉行《そうぶぎやう》となし、成瀬吉左衞門《なるせきちざゑもん》、岡部次郎右衞門《をかべじらううゑもん》を下奉行《したぶぎやう》となし、從來《じゆうらい》採用《さいよう》したる甲州武士等《かふしうぶしら》を集《あつ》め、信玄《しんげん》の軍法《ぐんぽう》を詮議《せんぎ》、潤色《じゆんしよく》せしめた。而《しか》して爾後《じご》徳川氏《とくがはし》の軍法《ぐんぱふ》を、武田流《たけだりう》に改《あらた》むる※[#こと、507-1]とした。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]家康《いへやす》は軍事上《ぐんじじやう》に於《おい》ては、本來《ほんらい》信玄《しんげん》の弟子《でし》とも云《い》ふ可《べ》き、因縁《いんえん》があつた。其《そ》の武田流《たけだりう》の軍法《ぐんぱふ》を採用《さいよう》したのは、寧《むし》ろ自然《しぜん》の成行《なりゆき》と云《い》ふ可《べ》きであらう。
眞田《さなだ》と云《い》ひ、石川《いしかは》と云《い》ひ、其《そ》の向背《かうはい》は、別段《べつだん》家康《いへやす》の存亡《そんばう》には、大關係《だいくわんけい》なしとするも、秀吉《ひでよし》の怪手腕《くわいしゆわん》が、漸次《ぜんじ》家康《いへやす》の身邊《しんぺん》に、※[#「にんべん+福のつくり」、第4水準2-1-70]《せま》り來《きた》りつゝあることは、強項《きやうかう》、自恃《じゞ》の家康《いへやす》も、之《これ》を感《かん》ぜずには居《を》られまい。知《し》らず家康《いへやす》は、如何《いか》なる廟算《べうさん》かある。秀吉《ひでよし》と乾坤《けんこん》一|擲《てき》の戰爭《せんさう》を開始《かいし》せんとする乎《か》、將《は》た握手《あくしゆ》せんとする乎《か》。
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