第十九章 朝臣としての秀吉
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正、再校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第十九章 朝臣としての秀吉[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【九二】秀吉の官位昇進(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

朝廷《てうてい》に對《たい》する態度《たいど》に就《つい》ては、秀吉《ひでよし》は全《まつた》く信長《のぶなが》を蹈襲《たふしふ》した。彼《かれ》は如何《いか》に皇室《くわうしつ》が、應仁《おうにん》の亂《らん》以來《いらい》、式微《しきび》しても、日本《にほん》を統《とう》一するの大經《たいけい》、大綱《たいかう》は、此《こゝ》に存《そん》することを看取《かんしゆ》した。されば自《みづ》から天下人《てんかびと》となるには、皇室《くわういつ》、及《およ》び其《そ》の周邊《しうへん》を圍繞《ゐねう》する公卿《くげ》と、圓滿《ゑんまん》の關係《くわんけい》を持《ぢ》することを、緊要《きんえう》と覺悟《かくご》した。彼《かれ》は本來《ほんらい》の野人《やじん》なれども、衣冠《いくわん》、官階《くわんかい》の、天下《てんか》の人心《じんしん》を籠絡《ろうらく》するに、缺《か》く可《べ》からざるを認知《にんち》した。されば彼《かれ》は此《こ》の方面《はうめん》に對《たい》して、寸毫《すんがう》も拔目《ぬけめ》がなかつた。痒《かゆ》き所《ところ》に手《て》が屆《とゞ》いた。
如何《いか》に當時《たうじ》の朝廷《てうてい》が、無勢力《むせいりよく》であつたかは、信長《のぶなが》が乘《の》り込《こ》めば、信長《のぶなが》に謳歌《おうか》し。光秀《みつひで》が信長《のぶなが》父子《ふし》を殺《ころ》して、乘《の》り込《こ》めば、光秀《みつひで》に謳歌《おうか》し。秀吉《ひでよし》が光秀《みつひで》を討伐《たうばつ》して、乘《の》り込《こ》めば、亦《ま》た秀吉《ひでよし》に謳歌《おうか》した事實《じじつ》で、證明《しようめい》せらるゝ。此《こ》れは朝廷《てうてい》に輔弼《ほひつ》の臣《しん》なく、自立《じりつ》の勢力《せいりよく》なき時代《じだい》として、洵《まこと》に已《や》むを得《え》ぬ次第《しだい》であつた。然《しか》も斯《かゝ》る時代《じだい》に於《おい》て、朝廷《てうてい》を尊崇《そんしう》し、朝廷《てうてい》の威嚴《ゐげん》を増大《ぞうだい》にしたる秀吉《ひでよし》は、假令《たとひ》自《みづ》から朝威《てうゐ》、朝權《てうけん》を利用《りよう》し、覇者《はしや》の政治《せいぢ》を行《おこな》うたとは云《い》へ。其《そ》の皇室《くわうしつ》に勳功《くんこう》ありし一|事《じ》は、正《まさ》しく識認《しきにん》せねばならぬ。
扨《さて》も秀吉《ひでよし》は、山崎合戰《やまざきかつせん》にて、光秀《みつひで》を打破《うちやぶ》り、一|擧《きよ》して京都《きやうと》に入《い》るや、前田玄以《まへだげんい》を所司代《しよしだい》となし、其《そ》の治安《ちあん》を保持《ほぢ》せしめ、爲《た》めに朝廷《てうてい》の倚信《いしん》する所《ところ》となり、天正《てんしやう》十|年《ねん》十|月《ぐわつ》には、左《さ》の綸旨《りんし》を給《たま》はつた。
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去《いぬる》六|月《ぐわつ》二|日《か》、信長《のぶなが》父子《ふし》上洛《じやうらく》之處《のところ》、明智日向守《あけちひふがのかみ》|企[#二]逆意[#一]《ぎやくいをくはだて》|討[#二]果之[#一]《これをうちはたし》、剩《あまつさへ》|亂[#二]入二條御所[#一]《にでうごしよにらんにふし》、狼藉之事《らうぜきのこと》、前代《ぜんだい》|未[#レ]聞《いまだきかず》、|無[#二]是非[#一]《ぜひなき》次第也《しだいなり》。然處《しかるところ》秀吉《ひでよし》西國《さいこくの》|爲[#二]成敗[#一]《せいばいをなし》、備中國《びつちゆうのくにの》敵城《てきじやうを》取卷《とりまき》、|雖[#二]對陣[#一]《たいぢんすといへども》|任[#二]存分[#一]《ぞんぶんにまかせ》、|不[#レ]移[#二]時日[#一]《じじつをうつさず》馳上《はせのぼり》、明智《あけちの》一類《いちるゐを》悉《こと/″\く》誅伐《ちゆうばつし》、|屬[#二]天下泰平[#一]之《てんかをたいへいにぞくするの》段《だん》、寔《まことに》古今《ここん》稀有《けうの》武勇《ぶゆう》、何事《なにごとか》|如[#レ]之《これにしかん》乎《や》。|因[#レ]茲《これによりて》官位之《くわんゐの》儀《ぎ》、|雖[#レ]有[#二]宣下[#一]《せんげありといへども》、|被[#二]辭申[#一]之條《じしまをさるゝのでう》、重《かさねて》昇殿《しようでん》敍爵《じよしやくして》少將之《せうしやうとするの》儀《ぎ》、堅《かたき》天氣候也《てんきにさふらふなり》。仍《よつて》執達《しつたつ》|如[#レ]件《くだんのごとし》。
[#2字下げ]天正十年十月三日[#地から2字上げ]左中將在判
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是《こ》れ實《じつ》に秀吉《ひでよし》に取《と》りては、優渥《いうあく》の恩命《おんめい》と云《い》はねばならぬ。朝廷《てうてい》は彼《かれ》が明智《あけち》を討伐《たうばつ》し、天下《てんか》を泰平《たいへい》ならしめたる功《こう》を賞《しやう》し、彼《かれ》の辭退《じたい》に拘《かゝは》らず、彼《かれ》を從《じゆ》五|位下《ゐげ》に敍《じよ》し、左近衞權少將《さこんゑごんせうしやう》に任《にん》じ給《たま》うた。
其《そ》の翌年《よくねん》、天正《てんしやう》十一|年《ねん》五|月《ぐわつ》廿一|日《にち》には、從《じゆ》四|位下《ゐげ》に敍《じよ》し、參議《さんぎ》に任《にん》ぜられた。大村由己《おほむらいうき》は、『外《ほかは》|以[#二]武事[#一]《ぶじをもつて》|治[#二]天下[#一]《てんかををさめ》、内《うちは》|以[#二]正税[#一]《せいぜいをもつて》|賑[#二]禁中[#一]《きんちゆうをにぎはし》、|有[#レ]闕《けつあれば》則《すなはち》|補[#レ]之《これをおぎなふ》。誠《まことに》未曾有之《みそうの》事也《ことなり》。』と記《しる》して、其《そ》の昇進《しようしん》の理由《りいう》として居《を》る。復《ま》た以《もつ》て如何《いか》に秀吉《ひでよし》が、皇室《くわうしつ》の供御《くご》を、周《あまね》うしたるかを知《し》るに足《た》らむ歟《か》。斯《か》くて天正《てんしやう》十二|年《ねん》十一|月《ぐわつ》廿二|日《にち》には、從《じゆ》三|位《み》權大納言《ごんだいなごん》となつた。彼《かれ》の官位《くわんゐ》は、彼《かれ》の周邊《しうへん》に波及《はきふ》する、勢圜《せいくわん》の擴張《くわくちやう》と與《とも》に累進《るゐしん》した。
慧眼《けいがん》なる秀吉《ひでよし》は、正親町天皇《あふぎまちてんわう》の第《だい》一|皇子《わうじ》誠仁親王《のぶひとしんわう》が、既《すで》に四十|歳《さい》に近《ちか》くならせられ、御即位《ごそくゐ》の期《き》も、近《ちか》きにあることなればとて。先《ま》づ院御所《ゐんのごしよ》を造營《ざうえい》す可《べ》く奏請《そうせい》し、前田玄以《まへだげんい》をして、良辰《りやうしん》を撰《えら》んで、其事《そのこと》を剏《はじ》めしめた。此《こゝ》に於《おい》て朝廷《てうてい》は、大《おほ》いに其志《そのこゝろざし》を嘉《よみ》し給《たま》ひ、天正《てんしやう》十三|年《ねん》三|月《ぐわつ》十|日《か》には、内大臣《ないだいじん》に躋《のぼ》らしめ給《たま》うた。此《こ》れは秀吉《ひでよし》に取《と》りても、無上《むじやう》の光榮《くわうえい》と云《い》はねばならぬ。彼《かれ》は當日《たうじつ》參内《さんだい》し、銀子《ぎんす》千|兩《りやう》、太刀《たち》一|腰《こし》を献《けん》じ、又《ま》た天杯《てんぱい》、天笏《てんしやく》、御劍等《ぎよけんとう》を賜《たまは》つた。彼《かれ》は獨《ひと》り其《そ》の光榮《くわうえい》を專《もつぱ》らにするのみならず、同時《どうじ》に新《あら》たに和親《わしん》したる、織田信雄《おだのぶを》を推擧《すゐきよ》して、權大納言《ごんだいなごん》たらしめた。而《しか》して勅使《ちよくし》は又《ま》た、大阪《おほさか》に赴《おもむ》き、秀吉《ひでよし》の母《はゝ》を大政所《おほまんどころ》に、其夫人《そのふじん》を北政所《きたのまんどころ》に任《にん》ぜしめ給《たま》うた。
秀吉《ひでよし》の官位昇進《くわんゐしようしん》の迅快《じんくわい》なる、實《じつ》に驚《おどろ》く可《べ》きだ。彼《かれ》は天正《てんしやう》十|年《ねん》六|月《ぐわつ》迄《まで》は、信長《のぶなが》の臣下《しんか》、唯《た》だ一|個《こ》の羽柴筑前守《はしばちくぜんのかみ》であつた。然《しか》るに未《いま》だ三|年《ねん》に滿《み》たざるに、既《すで》に正《しやう》二|位《ゐ》内大臣《ないだいじん》となつた。然《しか》も彼《かれ》の勢圜《せいくわん》の擴大《くわくだい》は、更《さ》らに此《これ》よりも目醒《めざま》しくあつた。彼《かれ》は北陸道《ほくろくだう》に於《おい》ては、上杉景勝《うへすぎかげかつ》を、歸服《きふく》せしめ、山陽《さんやう》、山陰《さんいん》に於《おい》ては、浮田氏《うきたし》、毛利氏《まうりし》を歸服《きふく》せしめ、四|國《こく》は既《すで》に平定《へいてい》し、近畿諸國《きんきしよこく》は、悉《こと/″\》く彼《かれ》の親近《しんきん》を分封《ぶんぽう》し。東國《とうごく》の佐竹《さたけ》、西國《さいこく》の大友《おほとも》も、遠《とほ》く其《そ》の威風《ゐふう》に靡《なび》き。其《そ》の向背《かうはい》の未《いま》だ分明《ぶんみやう》ならざるものは、九|州《しう》に於《お》ける島津《しまづ》と、關東《くわんとう》に於《お》ける北條等《ほうでうとう》であつた。否《い》な其他《そのた》には、表《おもて》に和親《わしん》しつゝも、其《そ》の底意《そこい》の測《はか》り難《がた》き、東海《とうかい》の徳川家康《とくがはいへやす》があつた。されば事實《じじつ》に於《おい》ては、秀吉《ひでよし》は既《すで》に天下《てんか》を掌握《しやうあく》しつゝあると云《い》ふも、大《だい》なる溢辭《いつじ》ではなかつた。果《はた》して然《しか》らば、彼《かれ》が内大臣《ないだいじん》たるも、其《そ》の勢力《せいりよく》の釣合上《つりあひじやう》、寧《むし》ろ當然《たうぜん》ではあるまい乎《か》。

[#5字下げ][#中見出し]【九三】秀吉の官位昇進(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は自《みづ》から征夷大將軍《せいいたいしやうぐん》たる可《べ》く希望《きばう》した。然《しか》も此《こ》れは頼朝以來《よりともいらい》、源家《げんけ》專有《せんいう》の官《くわん》たるかの如《ごと》き、慣例《くわんれい》であつた。融通無礎《ゆうづうむげ》の秀吉《ひでよし》は、即今《そくこん》毛利家《まうりけ》に寄食《きしよく》する、前《ぜん》將軍《しやうぐん》足利義昭入道昌山《あしかゞよしあきにふだうしやうざん》を諭《さと》して、其《そ》の養子《やうし》たらんとした。されど飽迄《あくまで》家門《かもん》の崇《たふと》きを誇《ほこ》りとする義昭《よしあき》は、此《これ》を承諾《しようだく》せなかつた。
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如何《いか》に足利家《あしかゞけ》衰廢《すゐはい》の時《とき》に至《いた》りても、義昭《よしあき》一|身《しん》の安富《あんぷ》を求《もと》めん爲《た》め、數世《すせい》傳《つた》へし重職《ぢゆうしよく》を以《もつ》て、氏《うぢ》も姓《せい》もなき卑賤《ひせん》の奴隷《どれい》に讓《ゆづ》り、先祖《せんぞ》の芳躅《はうしよく》を汚《け》がさんや。
[#地から1字上げ]〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
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とは、義昭《よしあき》の意中《いちゆう》であつた。
流石《さすが》の秀吉《ひでよし》も、此《これ》には當惑《たうわく》したが、窮《きゆう》すれば通《つう》ずるで、此處《ここ》に一|個《こ》の智嚢《ちのう》は出《い》で來《きた》つた。
それは菊亭晴季《きくていはるすゑ》である。彼《かれ》は當時《たうじ》右大臣《うだいじん》であつた、當時《たうじ》の公家中《くげちゆう》の策士《さくし》で、秀吉《ひでよし》とも親懇《しんこん》の間柄《あひだがら》であつた。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》に向《むか》つて、一|躍《やく》關白《くわんぱく》たる可《べ》く勸《すゝ》めた。而《しか》して關白《くわんぱく》は、人臣《じんしん》至上《しじやう》の職《しよく》にして、將軍《しやうぐん》に比《ひ》すれば、更《さ》らに尊貴《そんき》の位置《ゐち》たることを示《しめ》した。秀吉《ひでよし》が踴躍《ゆうやく》して、之《これ》に應諾《おうだく》したるは、云《い》ふ迄《まで》もなきことじや。而《しか》して彼《かれ》は其《そ》の望《のぞみ》を果《はた》す可《べ》き、最好《さいかう》の機會《きくわい》に投《とう》じた。そは現職《げんしよく》の關白《くわんぱく》二|條昭實《でうあきざね》に代《かは》る可《べ》く、近衞信輔《このゑのぶすけ》は、待《ま》ち構《かま》へ居《ゐ》たるに、昭實《あきざね》少《すこ》しもそれに頓著《とんぢやく》なく留任《りうにん》し、此《こ》れが爲《た》めに二|條《でう》と、近衞《このゑ》との間《あひだ》に、確執《かくしつ》を生《しやう》じつゝある最中《さいちゆう》、鷸蚌《いつぱう》の爭《あらそひ》、漁人《ぎよじん》の利《り》を占《し》む可《べ》き一|時《じ》であつたからぢや。
朝廷《てうてい》では、當時《たうじ》秀吉《ひでよし》を左大臣《さだいじん》に進《すゝ》めらる可《べ》き、思召《おぼしめし》であつたが。定《さだ》めて晴季等《はるすゑら》運動《うんどう》の結果《けつくわ》であつたらう、愈《いよい》よ前關白《さきのくわんぱく》近衞前久《このゑさきひさ》の猶子《いうし》として、二|條昭實《でうあきざね》に代《かは》り、關白《くわんぱく》の宣下《せんげ》があつた。此《こ》れが天正《てんしやう》十三|年《ねん》七|月《ぐわつ》十一|日《にち》の事《こと》だ。『詔《みことのりに》曰《いはく》、内大臣《ないだいじん》唯今《たゞいま》|相[#二]計天下[#一]者也《てんかをあひはかるものなり》。|於[#レ]令[#レ]關[#二]白萬機之政[#一]《ばんきのまつりごとにくわんぱくたらしむるにおいて》|有[#二]何妨[#一]乎《なんのさまたげかあらんや》。』〔大村由己著、任官之事〕[#「〔大村由己著、任官之事〕」は1段階小さな文字]と。良《まこと》に其通《そのとほ》りである。
秀吉《ひでよし》は事實上《じじつじやう》、既《すで》に天下人《てんかびと》であつた、將軍《しやうぐん》たらしむるも、内大臣《ないだいじん》たらしむるも、關白《くわんぱく》たらしむるも、事實《じじつ》は同《どう》一であつた。秀吉《ひでよし》は關白《くわんぱく》に相當《さうたう》す可《べ》く、内覽《ないらん》、氏長者《うぢのちやうじや》、兵仗《へいぢやう》、牛車《ぎうしや》の四|車《しや》を許《ゆる》された。而《しか》して參内《さんだい》の儀式《ぎしき》に供《きよう》す可《べ》く諸大夫《しよだいふ》として、中村一氏《なかむらかずうぢ》、生駒政勝《いこままさかつ》、小野木縫殿輔《をのぎぬひどのすけ》、尼子宮内少輔《あまこくないせういう》、稻葉兵庫介《いなばひやうごのすけ》、柘植左京亮《つげさきやうのすけ》、津田大炊頭《つだおほゐのかみ》、福島正則《ふくしままさのり》、石田《いしだ》三|成《なり》、大谷嘉隆《おほたによしたか》、古田兵部少輔《ふるたひやうぶせういう》、脇部采女正等《わきべうねめのしやうら》十二|人《にん》を任《にん》じた。七|月《ぐわつ》十三|日《にち》には、右《みぎ》御禮《おれい》として、南殿《なんでん》に於《おい》て猿樂《さるがく》を催《もよほ》し、叡慮《えいりよ》を慰《なぐさ》め奉《たてまつ》つた。主上《しゆじやう》、皇子等《わうじら》を始《はじ》め奉《たてまつ》り、攝家《せつけ》、清華《せいくわ》は固《もと》より、其他《そのた》の公卿《くげ》、地下《ちげ》、諸大夫《しよだいふ》、諸侍迄《しよざむらひまで》も、皆《み》な之《これ》に列《れつ》した。但《た》だ親王《しんわう》、准后《じゆんこう》は、座位《ざゐ》の爭《あらそひ》よりして、之《これ》に參《さん》ずる者《もの》少《すくな》かつた。猿樂《さるがく》は十|時《じ》頃《ごろ》より始《はじま》り、弓《ゆみ》八|幡《はた》、田村《たむら》、三|輪《わ》、紅葉狩《もみぢがり》、呉服等《くれはとう》を演《えん》じ、秀吉《ひでよし》は演者等《えんじやら》に、悉《こと/″\》く其《そ》の演時《えんじ》の衣裳《いしやう》を與《あた》へた。
扨《さ》て其《そ》の演舞《えんぶ》の半《なかば》に於《おい》て、驟雨《しうう》盆《ぼん》を覆《くつがへ》すが如《ごと》く、何《いづ》れも雨除《あまよけ》の隙《ひま》なく、其儘《そのまゝ》見物《けんぶつ》したが。やがて雲《くも》霽《は》れ、夕日《ゆふひ》松間《しようかん》に映《えい》じ、涼風《りやうふう》梧葉《ごえふ》に入《い》り、何《いづ》れも首尾《しゆび》克《よ》く興《きよう》を※[#「磬」の「石」に代えて「缶」、第4水準2-84-70]《つく》して退去《たいきよ》した。而《しか》して其《そ》の翌日《よくじつ》、正親町天皇《あふぎまちてんわう》には、秀吉《ひでよし》に、左《さ》の内勅《ないちよく》を賜《たま》はつた。
[#ここから1字下げ]
昨日《さくじつ》は參内候《さんだいさふらふ》て、ことに申沙汰《まをしざた》、一しほ忘《わす》れがたく思《おも》ひ給候《たまひさふらふ》。終日《しゆうじつ》御心《みこゝろ》を慰《なぐさ》まれ候事《さふらふこと》|被[#レ]仰《おほせられ》、つくしがたく候《さふらふ》。上洛候《じやうらくさふらふ》折節《をりふし》は、再々《さい/\》待《まち》思召候《おぼしめしさふらふ》。尚《なほ》勸修寺大納言《くわんしうじだいなごん》申候《まをしさふら》へかし。かしく。
[#3字下げ]關白どのへ
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れ實《じつ》に秀吉《ひでよし》に於《おい》て、本懷《ほんくわい》の至《いたり》であつたらう。而《しか》して主上《しゆじやう》に於《おい》ても、全《まつた》く此《かく》の如《ごと》く思召《おぼしめ》し給《たま》うたであらう。秀吉《ひでよし》は情《じやう》の人《ひと》であつた。其《そ》の皇室《くわうしつ》に對《たい》しても、決《けつ》して唯《た》だ霸業《はげふ》の方便《はうべん》としたのみでなく、眞《しん》に皇室《くわうしつ》の御爲《おんため》を計《はか》り、且《か》つ中心《ちゆうしん》より尊王《そんわう》の心掛《こゝろがけ》を有《いう》したことゝ|思《おも》はる。而《しか》して彼《かれ》は大徳寺《だいとくじ》に、堂上《だうじやう》の衆《しゆう》を集《あつ》め、論談《ろんだん》の席《せき》を開《ひら》き、舊典故例《きうてんこれい》に徴《ちよう》し、親王《しんわう》、准后《じゆんこう》の座位《ざゐ》如何《いかん》を評定《ひやうぢやう》したが。到底《たうてい》裁決《さいけつ》し難《がた》きを見《み》て、『所詮《しよせんは》隔座《かくざに》|取[#レ]鬮《くじをとり》、今日《こんにち》|可[#レ]爲[#レ]上者《かみたるべきものは》、明日《みやうにち》|可[#レ]爲[#レ]下《しもたるべし》。』と、叡慮《えいりよ》を經《へ》て取《と》り極《き》めた。
彼《かれ》は此《かく》の如《ごと》くして、公平《こうへい》[#ルビの「こうへい」は底本では「こうい」]を事《こと》とし、縉紳家《しんしんけ》の驩心《くわんしん》を得《う》るに勗《つと》めた。而《しか》して其《そ》の秘藏《ひざう》したる定家卿《ていかきやう》眞跡《しんせき》古今和歌集《こきんわかしふ》を、誠仁親王《のぶひとしんわう》に献《けん》じて、左《さ》の直書《ぢきしよ》を賜《たま》はつた。
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古今和歌集《こきんわかしふ》[#割り注]定家卿筆蹟[#割り注終わり]|無双《むさう》の重寳《ぢゆうはう》、御心《おこゝろ》ざしの程《ほど》一入《ひとしほ》詠入候《ながめいりさふらひ》畢《をはんぬ》。さこそ思《おも》ひ寄《よせら》れ候事《さふらふこと》、外聞《ぐわいぶん》實義《じつぎ》祝著《しうちやく》に、御文抔《おふみなど》にては片端《かたはし》も申《まをし》つくし難候《がたくさふらふ》まゝ、必《かな》らず見參《けんざん》の折節《をりふし》を待入計候《まちいるばかりにさふらふ》。猶《なほ》中山大納言《なかやまだいなごん》申《まをす》べく候《さふらふ》。かしく。
[#地から2字上げ]御判
[#6字下げ]關白どのへ
[#ここで字下げ終わり]
親王《しんわう》は近《ちか》き將來《しやうらい》に、皇位繼紹《くわうゐけいせう》の御方《おんかた》なれば、秀吉《ひでよし》は別《わ》けて、其《そ》の實意《じつい》を傾《かたむ》けたものと思《おも》はるゝ。

[#5字下げ][#中見出し]【九四】新たに豐臣氏を稱す[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》が氏《うぢ》も素生《すじやう》もなき、一|匹夫《ひつぷ》より、關白迄《くわんぱくまで》成《な》り上《あが》りたるは、實《じつ》に有史以來《いうしいらい》、異常《いじやう》の出來事《できごと》と云《い》はねばならぬ。六|條天皇《でうてんのう》の御代《みよ》に、平清盛《たいらのきよもり》が太政大臣《だじやうだいじん》となつたのは、古今《ここん》の異例《いれい》として數《かぞ》へられたるも。彼《かれ》は、桓武天皇《くわんむてんわう》の後裔《こうえい》たる平氏《へいし》で、其《そ》の本源《ほんげん》は、立派《りつぱ》なものだ。吾人《ごじん》は殆《ほと》んど戸籍不明《こせきふめい》と云《い》ふ可《べ》き、秀吉《ひでよし》の立身《りつしん》を見《み》て、實力《じつりよく》が門閥《もんばつ》に打克《うちか》ちたる、時代《じだい》の徴象《ちようしやう》と認《みと》めねばならぬ。即《すなは》ち此《こ》の大勢《たいせい》は、信長《のぶなが》の時代《じだい》より繼續《けいぞく》し、秀吉時代《ひでよしじだい》に至《いた》りて、更《さ》らに一|層《そう》其《そ》の力《ちから》を増加《ぞうか》し、秀吉《ひでよし》其人《そのひと》によりて、極度迄《きよくどまで》、之《これ》を發揮《はつき》したるものと認《みと》めねばならぬ。
匹夫《ひつぷ》より起《おこ》りて、人臣《じんしん》の極位《きよくゐ》に躋《のぼ》りたる秀吉《ひでよし》は、單《たん》に一|個《こ》の果報者《くわはうもの》たる許《ばか》りではない。彼《かれ》は實力時代《じつりよくじだい》の代表者《だいへうしや》である。此《こ》の實力《じつりよく》が、門閥《もんばつ》に打克《うちか》ちたる傾向《けいかう》は、當時《たうじ》の社會《しやくわい》の、隅《すみ》から隅迄《すみまで》行《おこな》はれた。然《しか》も此《こ》の氣運《きうん》を促進《そくしん》せしめたのは、信長《のぶなが》であつて、其《そ》の氣運《きうん》の利澤《りたく》を享受《きやうじゆ》したのは、秀吉《ひでよし》であつた。其《そ》の社會《しやくわい》に、革新《かくしん》、進取《しんしゆ》の活力《くわつりよく》横溢《わういつ》したのも、畢竟《ひつきやう》其《そ》の時代《じだい》に貫通《くわんつう》する、大勢《たいせい》と云《い》はねばならぬ。
然《しか》も如何《いか》なる時代《じだい》にも、戀舊《れんきう》要素《えうそ》はあるものだ。就中《なかんづく》公家《くげ》の如《ごと》きは、全《まつた》く格式《かくしき》、門流《もんりう》、舊慣《きうくわん》、故例《これい》を以《もつ》て、其《そ》の城寨《じやうさい》とし、其《そ》の根據《こんきよ》とし、其《そ》の最後《さいご》の隱家《かくれが》とし、其《そ》の生命《せいめい》として居《ゐ》た。彼等《かれら》は何等《なんら》の實力《じつりよく》をも、有《いう》して居《ゐ》なかつた。然《しか》も尚《な》ほ社會《しやくわい》の實力《じつりよく》に對抗《たいかう》して、彼等《かれら》の立場《たちば》を支持《しぢ》するは、唯《た》だ是等《これら》の物《もの》あるが爲《た》めであつた。されば何者《なにもの》にもあれ、彼等《かれら》の繩張《なはば》りを侵《おか》す者《もの》あれば、彼等《かれら》は本能的《ほんのうてき》に、無意識的《むいしきてき》に、之《これ》を撃退《げきたい》せんとした。乃《すなは》ち秀吉《ひでよし》の如《ごと》きは、唯《た》だ抵抗《ていかう》し難《がた》き、偉大《ゐだい》なる實力《じつりよく》を以《もつ》て、此《こ》の繩張《なはばり》を蹂躙《じうりん》したものと云《い》はねばならぬ。されば當時《たうじ》其《そ》の圜内《くわんない》に多少《たせう》の物議《ぶつぎ》を釀《かも》したのは、當然《たうぜん》の事《こと》ぢや。
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一、秀吉《ひでよし》は一|昨日《さくじつ》頃《ごろ》在京《ざいきやう》、今日《こんにち》より京中《きやうちゆう》へ躍申付《をどりまをしつけ》、|於[#二]内裏[#一]《だいりにおいて》見物《けんぶつす》云々《うんぬん》。内大臣《ないだいじん》に成上《なりあがり》、近衞殿《このゑどの》大御所《おほごしよ》の猶子《いうし》に申合了《まをしあはせをはる》、云々《うんぬん》。則《すなはち》關白《くわんぱく》を|可[#レ]持歟《もつべきか》云々《うんぬん》。先代未聞《せんだいみもん》の事也《ことなり》。
一、淨眞《じやうしん》京《きやう》より昨夕《さくゆふ》下《くだる》。躍《をど》りは上下《しやうか》事之外《ことのほか》惱《なやみ》の間《あひだ》閣也《さしおくなり》。十四五|日《にち》藝能《げいのう》云々《うんぬん》。今度《このたび》近衞《このゑ》二|條殿《でうどの》關白申事《くわんぱくのまをすことを》|爲[#二]折仲[#一]《せつちゆうをなし》、秀吉《ひでよし》|任[#二]關白[#一]《くわんぱくににんず》云々《うんぬん》。抑《そも/\》中《なか》/\|不[#レ]及[#二]言慮[#一]事也《げんりよにおよばざることなり》。
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是《こ》れ多聞院日記《たもんゐんにつき》、天正《てんしやう》十三|年《ねん》七|月《ぐわつ》十一|日《にち》の項《かう》に記《しる》したる所《ところ》。又《ま》た其《そ》の翌《よく》十二|日《にち》の項《かう》に左《さ》の記事《きじ》あり。
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秀吉《ひでよし》明日《みやうにち》十三|日《にち》關白《くわんぱく》拜賀《はいが》|在[#レ]之《これあり》、則《すなはち》御能《おのう》|在[#レ]之《これあり》。諸公家《しよくげ》各々《おの/\》禮間《れいのあひだ》、大乘院殿《だいじようゐんでん》も今曉《こんげう》御上洛《ごじやうらく》了《をはる》。物入迄也《ものいりまでなり》。武家《ぶけ》たる爲《ため》に此度《このたび》門跡《もんぜき》ははつる迄也《までなり》。
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何《いづ》れも不平《ふへい》の口吻《こうふん》滿々《まん/\》である。此《こ》れは門跡《もんぜき》、公家等《くげら》の感情《かんじやう》を、代表《だいへう》したものと思《おも》ふ。
併《しか》し如何《いか》なる時代《じだい》も、實力《じつりよく》は最後《さいご》の勝利者《しようりしや》である。公家《くげ》の不平《ふへい》も、秀吉《ひでよし》の實力《じつりよく》には、空《むな》しく泣寢入《なきねい》りとなつた。而《しか》して人心《じんしん》懷柔術《くわいじうじゆつ》の大博士《だいはかせ》たる秀吉《ひでよし》は。亦《ま》た公家《くげ》の心《こゝろ》を慰撫《ゐぶ》する道《みち》をも、解《かい》して居《ゐ》た。そは大村由己《おほむらいうき》が、『|就[#レ]中《なかんづく》|專[#二]禁中之事[#一]《きんちゆうのことをもつぱらにし》、|仰[#二]公卿[#一]《くげをあふぎ》、|憐[#二]諸臣[#一]《しよしんをあはれみ》、|依[#二]其器量[#一]《そのきりようによつて》、|加[#二]増領知[#一]《りやうちをかぞうす》。』〔四國御發向、並北國御動座事〕[#「〔四國御發向、並北國御動座事〕」は1段階小さな文字]と記《しる》したる如《ごと》く、朝廷《てうてい》の供御《くご》を周《あまね》うし、公家《くげ》の賑恤《しんじゆつ》に勗《つと》めたからであつた。然《しか》も其《そ》の潜在的反抗力《せんざいてきはんかうりよく》には、秀吉《ひでよし》も亦《ま》た如何《いかん》ともする能《あた》はなかつた。
秀吉《ひでよし》は最初《さいしよ》は、信長《のぶなが》の臣《しん》として、其主《そのしゆ》と同《おな》じく平姓《たひらせい》を冐《おか》した。而《しか》して關白《くわんぱく》たるに際《さい》して、近衞前久《このゑさきひさ》の猶子《いうし》となりて、藤原姓《ふぢはらせい》を唱《とな》へた。然《しか》も更《さら》に、天正《てんしやう》十三|年《ねん》九|月《ぐわつ》には、菊亭晴季《きくていはるすゑ》と相諮《あひはか》り、豐臣姓《とよとみせい》を制《せい》し、朝廷《てうてい》に請《こ》うて、之《こ》れを稱《しよう》するに至《いた》つた。
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吾《われ》|保[#二]天下[#一]《てんかをたもち》、末代《まつだいまで》|有[#レ]名《なあり》、唯《たゞ》新《あらたに》|定[#二]別姓[#一]《べつせいをさだめて》、|可[#レ]爲[#レ]濫觴[#一]《らんしやうをなすべし》。‥‥古《いにしへ》源平藤橘《げんぺいとうきつの》四|姓《せい》、|依[#二]其人之器用[#一]《そのひとのきようにより》、一姓《いつせい》一姓《いつせい》|制[#レ]之者哉《これをせいせるものならんか》。藤原姓《ふぢはらせいは》、天智朝《てんぢのてう》、鎌足《かまたり》始《はじめて》|賜[#レ]之《これをたまはり》、|至[#レ]今《いまにいたるまで》|及[#二]九百二十年[#一]《くひやくにじふねんにおよぶ》。橘氏《たちばなしは》聖武朝《しやうむのてう》、諸兄公《もろえこう》始《はじめて》|賜[#レ]之《これをたまはり》、|及[#二]八百五十年[#一]《はつぴやくごじふねんにおよぶ》。平家《へいけは》桓武天皇《くわんむてんわう》葛原親王《かつらばらしんわう》始《はじめて》|賜[#レ]之《これをたまはり》、|及[#二]八百年[#一]《はつぴやくねんにおよぶ》。源氏《げんじは》清和天皇《せいわてんわうの》孫《まご》多田滿仲之《ただみつなかの》父《ちゝ》經基王《つねもとわう》始《はじめて》|賜[#レ]之《これをたまはり》、|及[#二]七百五十年[#一]歟《しちひやくごじふねんにおよぶか》。往昔《わうせき》猶《なほ》|如[#レ]此《かくのごとし》、今《いま》又《また》|改[#レ]姓《せいをあらためて》|可[#レ]成[#二]五姓[#一]《ごせいとなすべし》。此時也《このときなり》。〔大村由己著、任官之事〕[#「〔大村由己著、任官之事〕」は1段階小さな文字]
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是《こ》れ秀吉《ひでよし》が新《あら》たに豐臣姓《とよとみせい》を制《せい》し、勅許《ちよくきよ》を請《こ》うたる理由《りいう》である。即《すなは》ち源平藤橘《げんぺいとうきつ》の四|姓《せい》も、其人《そのひと》の器用《きよう》に應《おう》じて、朝廷《てうてい》より賜《たま》はりたるものだ。今《い》ま古人《こじん》に劣《おと》らざる器用《きよう》あるに於《おい》ては、古姓《こせい》を繼《つ》ぐ迄《まで》もなく、新《あら》たに姓《せい》を賜《たま》はらん※[#こと、468-5]を請《こ》ふも、當然《たうぜん》であると云《い》ふ意味《いみ》ぢや。此《こ》の理由《りいう》は、誰《たれ》しも異存《いぞん》のある可《べ》き筈《はず》はない。唯《た》だ秀吉《ひでよし》の如《ごと》く、無遠慮《ぶゑんりよ》に、有《あり》の儘《まゝ》を打《う》ち出《いだ》し、之《これ》を徹底《てつてい》し得《う》る者《もの》無《な》きのみだ。秀吉《ひでよし》の此擧《このきよ》の如《ごと》きは、一|面《めん》より考《かんが》ふれば、平民主義《へいみんしゆぎ》の勝利《しようり》とも云《い》ひ得可《うべ》きだ。兎《と》に角《かく》格式《かくしき》、門流《もんりう》、舊慣《きうくわん》、故例《これい》の眞中《まんなか》に、赤裸々的《せきらゝてき》に沐猴冠《もくこうくわん》を押《お》し出《いだ》したるは、痛快《つうくわい》の事《こと》である。

[#5字下げ][#中見出し]【九五】五奉行の撰定[#中見出し終わり]

信長《のぶなが》の一|生《しやう》は、殆《ほと》んど戰鬪《せんとう》に始終《ししゆう》し。天下《てんか》の政治《せいぢ》を料理《れうり》するにも、其《そ》の抱負《はうふ》、經綸《けいりん》を悉《こと/″\》く實施《じつし》する機會《きくわい》がなかつた。秀吉《ひでよし》に到《いた》りては、其《そ》の遺業《ゐげふ》を紹《つ》ぎ、其《そ》の遺圖《ゐと》を恢《おほい》にし、文治《ぶんぢ》の方面《はうめん》にも、追々《おひ/\》手《て》を伸《の》ばすを得《え》た。而《しか》して此《こ》の方面《はうめん》に於《おい》て、秀吉《ひでよし》の股肱《ここう》となり、腹心《ふくしん》となりたる者《もの》、亦《ま》た其人《そのひと》に乏《とぼ》しからなかつた。其《そ》の隨《ずゐ》一は、所謂《いはゆ》る五|奉行《ぶぎやう》の人々《ひと/″\》であつた。即《すなは》ち其《そ》の筆頭《ひつとう》は、前田玄以《まへだげんい》にして、淺野長政《あさのながまさ》、増田長盛《ますだながもり》、石田《いしだ》三|成《なり》、長束正家《ながつかまさいへ》であつた。
但《た》だ石田《いしだ》、増田等《ますだら》は、何《いづ》れも非徳川派《ひとくがはは》の張本人《ちやうほんにん》として、太閤《たいかふ》の沒後《ぼつご》、空《むな》しく失敗者《しつぱいしや》となり。今《いま》に到《いた》る迄《まで》、彼等《かれら》の名《な》は狎邪《あふじや》の小人《せうじん》、奸曲《かんきよく》の侫者《ねいしや》として、世間《せけん》に通用《つうよう》せられて居《を》る。併《しか》し彼等《かれら》が奉行《ぶぎやう》として、各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》其職《そのしよく》に適《てき》したる事《こと》は、斷《だん》じて疑《うたがひ》を容《い》れぬ。
前田玄以《まへだげんい》は、曾《かつ》て信忠《のぶたゞ》に仕《つか》へ、三|法師《ぽふし》の傳《ふ》となり、山崎合戰後《やまざきかつせんご》、秀吉《ひでよし》の爲《ため》に、京都所司代《きやうとしよしだい》として、其《そ》の職《しよく》に任《にん》じ、秀吉《ひでよし》の信望《しんばう》、威勢《ゐせい》を、京洛《きやうらく》の中《うち》に扶植《ふしよく》したる、練達《れんたつ》、堪能《かんのう》の老功者《らうこうしや》であつた。淺野《あさの》は北政所《きたのまんどころ》の妹《いもうと》、おや屋《や》の婿《むこ》なれば、秀吉《ひでよし》とは、義兄弟《ぎきやうだい》の間柄《あひだがら》である。彼《かれ》は忠直《ちゆうちよく》、篤實《とくじつ》にして、能《よ》く秀吉《ひでよし》に事《つか》へ、人《ひと》と人《ひと》との間《あひだ》を周旋《しうせん》するに於《おい》て、少《すくな》からざる長技《ちやうぎ》があつた、増田《ますだ》、石田《いしだ》、長束《ながつか》に至《いた》りては、何《いづ》れも當代《たうだい》の切《き》れ者《もの》にして、各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》其類《そのるゐ》に於《おい》て、拔群《ばつぐん》の能者《のうしや》であつた。
例《れい》せば秀吉《ひでよし》の紀州平定《きしうへいてい》の際《さい》に於《おい》ても、増田長盛《ますだながもり》は、兵站司令官《へいたんしれいくわん》として、殆《ほと》んど理想的《りさうてき》の後方勤務《こうはうきんむ》を遂《と》げた。
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然《しかし》内府《ないふ》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]|取[#二]國人懷[#一]事《こくじんのくわいをとること》、第一《だいいち》|諸勢遣[#二]兵粮[#一]故也《しよぜいにひやうらうをつかはすがゆゑなり》。古今《ここん》|無[#レ]據次第也《よんどころなきしだいなり》。殊《ことに》今度《このたび》須磨《すま》、明石《あかし》、兵庫《ひやうご》、西宮《にしのみや》、尼崎《あまがさき》、堺津《さかひつ》、其外《そのほか》|以[#二]所々舟[#一]《しよ/\のふねをもつて》|運[#二]兵粮[#一]《ひやうろうをはこぶ》。増田右衞門長盛《ますだうゑもんながもり》|爲[#二]兵粮奉行[#一]《ひやうらうぶぎやうとして》、紀湊《きみなとに》|置[#レ]之《これをおく》、一日《いちにち》八木《やぎ》千俵《せんぺう》、大豆《だいづ》百俵《ひやうぺう》、相渡者也《あひわたすものなり》。〔大村由己著、紀州御發向〕[#「〔大村由己著、紀州御發向〕」は1段階小さな文字]
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一|事《じ》が萬事《ばんじ》だ。五|奉行《ぶぎやう》の文勳《ぶんくん》は、決《けつ》して加藤《かとう》、福島等《ふくしまら》の武勳《ぶくん》には劣《おと》らなかつた。但《た》だ武勳《ぶくん》は、人目《じんもく》に赫灼《かくしやく》たれども、文勳《ぶんくん》は、世俗《せぞく》を聳動《しようどう》せしむるに足《た》るものがない。されど漢高《かんかう》が蕭何《せうか》を以《もつ》て、第《だい》一の功臣《こうしん》としたるは、良《まこと》に所以《ゆゑ》ある事《こと》だ。而《しか》して此《こ》の五|奉行《ぶぎやう》は、優《いう》に秀吉《ひでよし》の爲《た》めに、蕭何《せうか》の任《にん》を盡《つく》した。
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長束《ながつか》は丹羽《には》五|郎左衞門尉《らうざゑもんのじよう》につかへ、毎事《ものごと》の裁判《さいばん》やはらぎ、滯事《とゞこほること》なき者《もの》なり。増田《ますだ》、石田《いしだ》は江州《がうしう》北郡《ほくぐん》入部《にふぶ》の時《とき》より、吾《われ》に勞《らう》を盡《つく》せしなり、殊《こと》に増田《ますだ》は萬事《ばんじ》損益《そんえき》に曉《あかる》うして、其性《そのせい》剛《がう》なり。石田《いしだ》は諫《いさめ》に付《つ》いては、吾氣色《わがけしき》を取《とら》ず、諸事《しよじ》|有[#レ]姿《すがたある》を好《この》みし者《もの》なり。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
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是《こ》れ太閤《たいかふ》が長束《ながつか》、増田《ますだ》、石田《いしだ》を、奉行《ぶぎやう》に任用《にんよう》したる理由《りいう》として、擧《あ》げたるもの。石田《いしだ》の本領《ほんりやう》を以《もつ》て、直諫《ちよくかん》して詭隨《きずゐ》せず、諸事《しよじ》露骨《ろこつ》、眞率《しんそつ》を旨《むね》としたるにありと云《い》ふが如《ごと》きは、後世《こうせい》の石田《いしだ》に對《たい》する、批判《ひはん》とは、全《まつた》く反對《はんたい》である。棺《くわん》を蓋《おほ》うて事《こと》定《さだま》ると申《まを》せども、徳川幕府《とくがはばくふ》三百|年《ねん》の間《あひだ》、徳川氏《とくがはし》に反抗《はんかう》したる者《もの》にして、無實《むじつ》の惡名《あくみやう》を被《かうむ》るも、餘儀《よぎ》なき因縁《いんえん》と云《い》はねばなるまい。併《しか》し此《こ》れのみに止《とゞま》らず、石田等《いしだら》が惡名《あくみやう》を贏《か》ち得《え》たるは、自《みづか》ら文勳者《ぶんくんしや》として、他《た》の武勳者《ぶくんしや》に叩頭《こうとう》せざるのみならず、動《やゝ》もすれば彼等《かれら》を陵駕《りようが》したるが爲《た》めに、當時《たうじ》の武勳者《ぶくんしや》より、嫉視《しつし》せられたるが爲《た》めであらう。而《しか》し又《ま》た、自《みづ》から政務《せいむ》の樞機《すうき》に膺《あた》りつゝあつた爲《た》めに、人間《にんげん》の弱點《じやくてん》として、動《やゝ》もすれば威福《ゐふく》を弄《もてあそ》び、偏私《へんし》を行《おこな》ひ、他《た》の怨《うらみ》を贏《か》ち得《え》たることもあらう。乃《すなは》ち其《そ》の一|半《ぱん》は、自業自得《じごふじとく》と云《い》ふ可《べ》きぢや。
秀吉《ひでよし》は五|奉行《ぶぎやう》の職掌《しよくしやう》を、左《さ》の如《ごと》く分擔《ぶんたん》せしめた。
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一、徳善院僧正《とくぜんゐんそうじやう》(前田玄以)[#「(前田玄以)」は1段階小さな文字]は所司代《しよしだい》として、洛中洛外之出入《らくちゆうらくぐわいのしゆつにふ》、神社佛閣之義《じんじやぶつかくのぎ》に至《いた》るまで、一|人《にん》として裁判《さいばん》|可[#レ]申事《まをすべきこと》。
一、長束《ながつか》は知行方《ちぎやうかた》其外《そのほか》萬《よろづ》算用等之義《さんようとうのぎ》、己之任《おのれのにん》として裁許《さいきよ》|可[#レ]仕之事《つかまつるべきこと》。
一、三|人《にん》は萬端《ばんたん》|可[#レ]然樣《しかるべきやう》に執行《とりおこな》ひ、諸人《しよにん》|不[#レ]痛樣《いたまざるやう》に|令[#二]分別[#一]尤候《ふんべつせしめもつともにさふらふ》。大《だい》なる事《こと》相滯《あひとどこほ》るに於《おい》ては、五|人《にん》として|令[#二]相談[#一]《さうだんせしめ》、其宜《そのよろしき》に付《つい》て極《きめ》|可[#レ]申《まをすべく》、大體《だいたい》定《さだ》まりたる事《こと》をば、一|人《にん》二|人《にん》してもすまし|可[#レ]申候事《まをすべくさふらふこと》。
一、國々之取沙汰《くに/″\のとりざた》萬《よろ》づ出納之儀《すゐたふのぎ》、早速埒明候樣《さつさくらちあきさふらふやう》に、油斷有間敷事《ゆだんあるまじきこと》。
一、訴等之儀《うつたへとうのぎ》に付《つい》ては、心《こゝろ》を虚《きよ》にし、聞屆《きゝとゞけ》|可[#レ]申候《まをすべくさふらふ》。富威《ふゐ》兼備《かねそなは》りたる者《もの》と、才勇《さいゆう》不足《ふそく》にして、殊《こと》に貧者《ひんじや》の公事《くじ》は、|不[#レ]盡[#二]淵底[#一]《ゑんていをつくさず》、聞迷有《きゝまよひあり》て|不[#レ]思《おもはず》も、汚名《をめいを》|立[#レ]可之事《たつべきのこと》。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
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即《すなは》ち前田《まへだ》は京都《きやうと》に於《お》ける、禁裡奉行《きんりぶぎやう》、寺社奉行《じしやぶぎやう》、所司代《しよしだい》たり。長束《ながつか》は大藏大臣《おほくらだいじん》たり。淺野《あさの》、石田《いしだ》、増田《ますだ》の三|人《にん》は、自餘《じよ》一|般《ぱん》の政務《せいむ》の奉行者《ぶぎやうしや》たり。大事《だいじ》は五|奉行《ぶぎやう》の合議《がふぎ》に竢《ま》ち、其《そ》の執行《しつかう》には、當該者《たうがいしや》之《これ》に任《にん》ぜよ。諸事《しよじ》簡捷《かんせふ》、敏活《びんくわつ》を旨《むね》とす可《べ》し。就中《なかんづく》裁判《さいばん》には、周到《しうたう》公平《こうへい》を勗《つと》め、有力者《いうりよくしや》に偏私《へんし》し、無力者《むりよくしや》をして、冤抑《ゑんよく》に苦《くる》しめざらんことを要《えう》すとの意味《いみ》ぢや。而《しか》して秀吉《ひでよし》は、更《さ》らに執政者《しつせいしや》の訓戒《くんかい》として、左《さ》の三|箇條《かでう》を示《しめ》した。
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第一、私慾《しよく》、依怙贔屓《えこひいき》。
第二、|以[#二]私之宿意[#一]《わたくしのしゆくいをもつて》|報[#レ]寇《あだをむくい》、事《こと》をひそかに謀《はか》り、其趣《そのおもむき》を強《しひ》て行《おこな》ふ類《るゐ》。
第三、金銀《きんぎん》を蓄《たくは》へ過《すぎ》、酒宴《しゆえん》遊興《いうきよう》外聞《ぐわいぶん》すぎ、女色《ぢよしよく》美食等《びしよくとう》。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
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右《みぎ》は當時《たうじ》の奉行《ぶぎやう》に取《と》りては、何《いづ》れも頂門《ちやうもん》の一|針《しん》であつたらう。彼等《かれら》五|奉行《ぶぎやう》は、何《いづ》れも秀吉《ひでよし》の師《し》たる資格《しかく》の者《もの》はなかつた。耶律楚材《やりつそざい》や、孔明《こうめい》の位置《ゐち》は、彼等《かれら》の企望《きばう》する所《ところ》ではなかつた。されど秀吉《ひでよし》の指揮《しき》を遵奉《じゆんぼう》して、言《い》はざるに聞《き》き、令《れい》せざるに行《おこな》ふの器能《きのう》は、何《いづ》れも充分《じゆうぶん》に具足《ぐそく》した。但《た》だ秀吉《ひでよし》の下《もと》に、文武《ぶんぶ》の諸材《しよざい》を駕御《がぎよ》し、彼等《かれら》を統《とう》一する、總理大臣格《そうりだいじんかく》の者《もの》がなかつたのは、頗《すこぶ》る遺憾《ゐかん》であつた。
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