第十八章 南海四國北陸の平定
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[#4字下げ][#大見出し]第十八章 南海四國北陸の平定[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【八四】紀州平定[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は油斷《ゆだん》なく、拔目《ぬけめ》なく、其《そ》の時間《じかん》を利用《りよう》した。
彼《かれ》が信雄《のぶを》と矢田河原《やだがはら》に會見《くわいけん》したのは、天正《てんしやう》十二|年《ねん》十一|月《ぐわつ》十一|日《にち》であつた。家康《いへやす》の一|子《し》於義丸《おぎまる》が、秀吉《ひでよし》の養子《やうし》として─|其實《そのじつ》は人質《ひとじち》として─|大阪《おほさか》に著《ちやく》したるは、十二|月《ぐわつ》二十六|日《にち》であつた。斯《か》くて天正《てんしやう》十三|年《ねん》二|月《ぐわつ》、信雄《のぶを》は伊勢《いせ》を經《へ》て、大阪《おほさか》に抵《いた》り、二十二|日《にち》秀吉《ひでよし》と會見《くわいけん》し、頗《すこぶ》る優遇《いうぐう》を受《う》け。二十六|日《にち》上京《じやうきやう》して、正《しやう》三|位《み》權大納言《ごんだいなごん》に叙任《じよにん》せられ、三|月《ぐわつ》二|日《か》、滿幅《まんぷく》の愉快《ゆくわい》を以《もつ》て、歸途《きと》に就《つ》いた。秀吉《ひでよし》は信雄《のぶを》を懷柔《くわいじう》し、家康《いへやす》を傍觀《ばうくわん》せしめた。乃《すなは》ち此《こ》の一|時《じ》は、彼《かれ》が周圍《しうゐ》の群小《ぐんせう》を蕩掃《たうさう》する、最《さい》好機會《かうきくわい》であつた。
秀吉《ひでよし》は三|月《ぐわつ》廿二|日《にち》平押《ひらおし》に、大軍《たいぐん》を率《ひき》ゐて、紀州《きしう》に亂入《らんにふ》した。根來《ねごろ》の衆徒《しゆうと》は、之《これ》を聞《き》き、岸和田《きしわだ》附近《ふきん》、千|石堀《ごくぼり》、積善寺《しやくぜんじ》、濱城《はまじやう》に砦《とりで》を構《かま》へて、之《これ》を防禦《ばうぎよ》した。秀吉《ひでよし》は翌《よく》廿三|日《にち》、其姪《そのをひ》秀次等《ひでつぐら》をして、千|石堀《ごくぼり》に向《むか》はしめ、細川忠興《ほそかはたゞおき》、蒲生氏郷等《がまふうぢさとら》をして、積善寺《しやくぜんじ》に向《むか》はしめ、中川藤兵衞《なかがはとうべゑ》、高山右近等《たかやまうこんら》をして、濱城《はまじやう》に向《むか》はしめ、堀秀政《ほりひでまさ》、長谷川秀一《はせがはひでかず》、筒井定次等《つゝゐさだつぐら》をして、根來寺《ねごろでら》に向《むか》はしめた。千|石堀《ごくぼり》に楯籠《たてこも》れる兵士《へいし》、五百|出《い》で來《きた》りて、横《よこ》さまに秀政等《ひでまさら》を撃《う》つた。秀次《ひでつぐ》亦《ま》た兵《へい》を進《すゝ》め、秀政等《ひでまさら》の兵《へい》と、之《これ》を挾撃《けふげき》し、北《に》ぐるを遂《お》うて、千|石堀《ごくぼり》に薄《せま》つた。然《しか》も城中《じやうちゆう》善《よ》く拒《ふせ》ぎ、隍塹《くわうざん》甚《はなは》だ深《ふか》く、容易《ようい》に拔《ぬ》く可《べ》くもなかつたが、筒井勢《つゝゐぜい》より發《はつ》したる火箭《ひや》、敵《てき》の火藥庫《くわやくこ》に中《あた》り、城中《じやうちゆう》火《ひ》起《おこ》りて、一|面《めん》の焦土《せうど》となつた。積善寺《しやくぜんじ》、濱城等《はまじやうとう》の守兵《しゆへい》も、亦《ま》た城《しろ》を去《さ》つて遁《のが》れた。
此《こゝ》に於《おい》て秀吉《ひでよし》は、廿三|日《にち》根來寺《ねごろでら》に押《お》し寄《よ》せた。根來《ねごろ》衆徒《しやうと》の精鋭《せいえい》は、固《もと》より外《ほか》に在《あ》りたれば、一|支《さゝ》へも支《さゝ》へず、一|切《さい》の僧房《そうばう》、伽藍《がらん》、纔《わづ》かに傳法院《でんぽふゐん》の一|宇《う》を剩《あま》して、其餘《そのよ》は悉《こと/″\》く灰塵《くわいぢん》に委《ゐ》した。
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彼一乘山《かのいちじようざん》根來寺《ねごろでらは》、覺鑁上人《かくばんしやうにん》在世《ざいせのとき》、|建[#二]立傳法院[#一]《でんぱふゐんをこんりふして》已來《いらい》、專《もつぱら》|鬪[#二]諍隣國近郷[#一]《りんごくきんがうととうさうし》、|取[#二]弓矢[#一]《ゆみやをとるを》|爲[#二]寺法[#一]焉《じほふとなす》。已《すでに》六百|年來《ねんらい》、寺衆《じしゆう》安泰《あんたいに》而《して》|飽[#レ]富《とみにあき》、|恣[#レ]己《おのれをほしいまゝにし》、|無[#レ]向[#二]強敵[#一]《きやうてきにむかふことなく》、|蔑[#二]小敵[#一]《せうてきをさげすみ》、|慣[#二]其趣[#一]《そのおもむきになる》、恰《あたかも》|如[#二]井蛙語[#一レ]海《せいあのうみをかたるがごとし》。故《ゆゑに》一刻《いつこくにして》破却《はきやくす》。折節《をりふし》|有[#二]修行者一首之狂歌[#一]《しゆぎやうじやいつしゆのきやうかありと》云《いふ》。
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似合《にあ》はざる根來法師《ねごろほふし》の腕立《うでたて》は憐《あは》れ弓矢《ゆみや》のはぢをかくらん
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[#地から1字上げ]〔大村由己著紀州御發向之事〕[#「〔大村由己著紀州御發向之事〕」は1段階小さな文字]
秀吉《ひでよし》は信長《のぶなが》の如《ごと》く、寺院《じゐん》撲滅《ぼくめつ》を以《もつ》て、愉快《ゆくわい》と爲《な》す者《もの》ではなかつた。されど根來寺《ねごろでら》に就《つい》ては、勢《いきほ》ひ已《や》むを得《え》なかつたのだ。
此《これ》より雜賀《さいが》に向《むか》うたが、雜賀孫《さいがまご》一|重秀《しげひで》を始《はじ》めとして、重《おも》なる者共《ものども》、悉《こと/″\》く降人《かうにん》に出《い》でたから、異議《いぎ》なく之《これ》を容《い》れた。然《しか》るに北雜賀《きたさいが》太田《おほた》の者共《ものども》、反抗《はんかう》し、四|國《こく》に内通《ないつう》の旨《むね》、聞《きこ》えければ、秀吉《ひでよし》は例《れい》の慣用手段《くわんようしゆだん》の、水責《みづぜめ》に取《と》り掛《かゝ》つた。
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四|方《はう》|築[#レ]堤《つゝみをきづき》、忽《たちまち》廻《めぐる》四十八|町《ちやう》、路《みち》四|里也《りなり》。堤《つゝみの》高《たかさ》六|間《けん》、間中土臺《けんちゆうどだい》十八|間《けん》、而《しかして》上之《うへの》道筋《みちすぢ》廣《ひろさ》五|間《けん》餘《よ》。|下[#二]墨太田之家棟[#一]《おほたのやのむねにさげすみし》、|從[#レ]堤《つゝみより》卑事《ひくきこと》|定[#二]五尺許[#一]《ごしやくばかりとさだむ》。
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[#地から1字上げ]〔紀州御發向之事〕[#「〔紀州御發向之事〕」は1段階小さな文字]
隨分《ずゐぶん》の大仕掛《おほじか》けであつた。四|月《ぐわつ》中旬《ちゆうじゆん》に至《いた》り、大雨《おほあめ》の爲《た》めに、紀川《きのかは》洪水《こうずゐ》し、其《そ》の堤防《ていばう》百四十五|間《けん》を崩壞《ほうくわい》した。されど秀吉《ひでよし》は、諸方《しよはう》より二三十|萬《まん》の俵《たはら》を買《か》ひ寄《よ》せ、土砂《どしや》を詰《つ》め込《こ》み、更《さ》らに以前《いぜん》より廣高《くわうかう》の堤防《ていばう》を修築《しうちく》した。此《こゝ》に於《おい》て城中《じやうちゆう》の者共《ものども》、悉《こと/″\》く魚《うを》となり、蜂須賀正勝《はちすかまさかつ》に頼《よ》りて、降服《かうふく》を申《まを》し出《で》た。秀吉《ひでよし》乃《すなは》ち其《そ》の首長《しゆちやう》五十|餘人《よにん》を、太田《おほた》の郷《がう》にて磔《たく》し、其他《そのた》は總《すべ》て赦免《しやめん》した。而《しか》して更《さ》らに中村一氏《なかむらかずうぢ》、仙石秀久《せんごくひでひさ》、九|鬼嘉隆等《きよしたから》をして、熊野《くまの》を征《せい》せしめ、新宮《しんぐう》、本宮《ほんぐう》の社人《しやびと》、民衆《みんしゆう》、何《いづ》れも膝《ひざ》を束《つか》ねて降《くだ》りたれば、之《これ》を宥《なだ》め。且《か》つ豫《か》ねて熊野《くまの》に關所《せきしよ》多《おほ》くして、旅客《りよかく》の迷惑《めいわく》を聞《き》き居《ゐ》たれば、熊野別當《くまのべつたう》に命《めい》じて、悉《こと/″\》く之《これ》を廢止《はいし》せしめた。
元來《ぐわんらい》信長《のぶなが》と、高野山《かうやさん》とは、相容《あひい》れず。信長《のぶなが》をして今少《いますこ》しく生存《せいぞん》せしめば、高野山《かうやさん》の亡滅《ばうめつ》は、殆《ほと》んど必然《ひつぜん》の數《すう》であつた。但《た》だ其《そ》の對手《あひて》が、秀吉《ひでよし》となつたが爲《た》め、高野山《かうやさん》は纔《わづ》かに譴責《けんせき》、戒飭《かいちよく》のみにて、相濟《あひす》んだ。
秀吉《ひでよし》は高野山《かうやさん》に向《むか》つて、舊領《きうりやう》は其儘《そのまゝ》たるべし、但《た》だ近來《きんらい》押領《あふりやう》したる地《ち》は返納《へんなふ》すべし。寺僧《じそう》行人等《ぎやうにんら》、兵仗《へいぢやう》を蓄《たくは》へ、亂暴《らんばう》を事《こと》とするは、不屆《ふとゞき》千|萬也《ばんなり》。速《すみや》かに自《みづ》から改悔《かいくわい》せずんば、叡山《えいざん》、根來寺《ねごろでら》の覆轍《ふくてつ》を踏《ふ》むべきぞと申《まを》し送《おく》つた。衆徒《しゆうと》は大《おほ》いに恐怖《きようふ》し、興山上人《こうざんしやうにん》を頼《たの》みて、秀吉《ひでよし》に愁訴《しうそ》した。興山《こうざん》辯才《べんさい》ありて、頗《すこぶ》る秀吉《ひでよし》の旨《むね》に叶《かな》ひ、高野山《かうやさん》は單《たん》に其《そ》の本領《ほんりやう》を、安堵《あんど》したるのみならず、興山上人《こうざんしやうにん》の爲《た》めに、秀吉《ひでよし》は、寺院《じゐん》を營造《えいざう》して、之《これ》を與《あた》へ、興山寺《こうざんじ》と稱《しよう》せしめた。興山《こうざん》名《な》は應其《おうき》、所謂《いはゆ》る木食上人《もくじきしやうにん》とは、彼《かれ》のことだ。然《しか》も高野山《かうやさん》が、此《かく》の如《ごと》く其《そ》の運命《うんめい》を、根來寺《ねごろでら》と同《おなじ》うせざりし所以《ゆゑん》の一は、必竟《ひつきやう》平昔《へいへき》より、兩者《りやうしや》互《たが》ひに、相《あ》ひ敵視《てきし》したからであつた。
斯《か》くて秀吉《ひでよし》は、四|月《ぐわつ》二十七|日《にち》に、大阪《おほさか》に歸《かへ》つた。即《すなは》ち約《やく》一|個月《かげつ》にして、四|州《しう》を平定《へいてい》した。
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信長公《のぶながこう》の時《とき》にさへ、|不[#レ]隨《したがはざる》所《ところ》を、斯《かく》廿|日《か》許《ばかり》の内《うち》に、根來寺《ねごろでら》、雜賀《さいが》、熊野山中《くまのさんちゆう》の一|揆等《きとう》、悉《こと/″\》く打《うち》なびけ給《たま》ふ。果敢《くわかん》決斷《けつだん》の程《ほど》、よく勘辨《かんべん》し見《み》るべし。又《また》あらんや。關役所《せきやくしよ》停止之事《ちやうじのこと》、末代《まつだい》旅人《りよにん》の賜《たまもの》なり。智勇才《ちゆうさい》、果敢《くわかん》、決斷之《けつだんの》名將《めいしやう》なるべし。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
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と、小瀬甫菴《こせほあん》が評《ひやう》したるは、必《かなら》ずしも溢辭《いつじ》と云《い》ふ可《べ》からずだ。

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[#6字下げ][#小見出し]秀吉玉津島遊覽の事[#小見出し終わり]

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和歌玉津島の眺望を見給はんとてまうで給ふ、由已法師とて大和唐の歌にすける者したがひし、玉津島にて發句に、
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神代よりことのはすゞし玉津島
名景扶桑此濱冠。   白波緑樹盡[#二]吟呻[#一]。
靈光磨作玉津島。   料得和歌第一神。
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吹上
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風すさぶ松のひゞきもうちそへて浪こゝもとに吹上の濱
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和歌の浦
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古の人もながめの和歌の浦ひろふ貝こそあらまほしけれ
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藤代にいたりて
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南紀壯觀藤代山。  徑廻石上接[#二]林間[#一]。
擧[#レ]頭滿眼海波穩。  乘[#レ]興來興不[#レ]盡還。
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わか山といへる所に城をこしらへ、桑山修理と云る者に預置、大阪に歸給ひけり。〔豐鑑〕
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[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【八五】丹羽長秀の死(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》の紀州《きしう》平定《へいてい》と、四|國《こく》征服《せいふく》との間《あひだ》に、看過《かんくわ》し難《がた》き一|事《じ》は、丹羽長秀《にはながひで》の死《し》である。多聞院日記《たもんゐんにつき》に曰《いは》く、
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宗喜《むねよし》|從[#二]越前[#一]《ゑちぜんより》歸《かへり》了《をはんぬ》。惟住《これずみ》(丹羽)[#「(丹羽)」は1段階小さな文字]長秀《ながひで》は|煩[#二]大事[#一]《だいじをわづらひ》、大《たい》はん必死《ひつし》と覺悟《かくご》して、病死《びやうし》無念《むねん》とて、去《いぬる》十四|日《か》(天正十三年四月)[#「(天正十三年四月)」は1段階小さな文字]に腹切《はらき》り、終《つひ》に十六|日《にち》死去《しきよし》了《をはんぬ》。|無[#二]比類[#一]《ひるゐなき》[#「無[#二]比類[#一]」は底本では「無[#レ]比類[#一]」]働也《はたらきなり》。跡《あと》は秀吉《ひでよし》へ|可[#レ]得[#二]御意[#一]之《ぎよいうべきの》旨《むね》、老衆《らうしゆう》に申置《まをしおき》、子供《こども》は年寄《としより》異見《いけん》次第《しだい》に|可[#レ]仕之《つかまつるべきの》旨《むね》、遺言《ゆゐごん》堅固《けんご》、則《すなはち》遺物《かたみ》を秀吉《ひでよし》へも、|進[#レ]之《これをまゐらす》云々《うんぬん》。
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彼《かれ》の生死《せいし》は、最早《もはや》秀吉《ひでよし》の覇業《はげふ》には、何等《なんら》の得失《とくしつ》もない。されど秀吉《ひでよし》をして、現在《げんざい》の位置《ゐち》に到《いた》らしめたるものは、其主君《そのしゆくん》たりし信長《のぶなが》と、秀吉《ひでよし》彼《かれ》自身《じしん》とを除《のぞ》けば、偏《ひと》へに長秀《ながひで》の力《ちから》と云《い》はねばなるまい。
長秀《ながひで》は本來《ほんらい》、武藏《むさし》の兒玉《こだま》黨《たう》の家《いへ》にて、尾張《をはり》に移《うつ》り、世々《よゝ》武衞《ぶゑい》(斯波氏)[#「(斯波氏)」は1段階小さな文字]の家《いへ》に仕《つか》へたと云《い》へば、其《そ》の家格《かかく》は、織田氏《おだし》と伯仲《はくちゆう》であつたらう。彼《かれ》は十五|歳《さい》より信長《のぶなが》に仕《つか》へ、恒《つね》に一|方《ぱう》の大將《たいしやう》となり、向《むか》ふ所《ところ》破《やぶ》れずと云《い》ふことなかりしと云《い》ふ。されば元龜《げんき》三|年《ねん》二|月《ぐわつ》には、近江《あふみ》佐和山《さわやま》五|萬石《まんごく》の城主《じやうしゆ》とはなつた。
當時《たうじ》信長《のぶなが》の家中《かちゆう》にて、丹羽《には》、柴田《しばた》と云《い》へば、世《よ》に聞《きこ》えたる名譽《めいよ》の士《し》たりし※[#こと、423-7]は、秀吉《ひでよし》が兩人《りやうにん》にあやかり、其《そ》の家名《かめい》を一|字《じ》づゝを|乞《こ》ひ受《う》けて、羽柴《はしば》と名乘《なの》りしを見《み》ても、知《し》る可《べ》しぢや。天正《てんしやう》三|年《ねん》十二|月《ぐわつ》には、信長《のぶなが》の命《めい》にて、故《ことさ》らに筑紫《つくし》の古《ふる》き名家《めいか》、惟住《これずみ》の姓《せい》を改《あらた》め稱《しよう》した。此《こ》れは他日《たじつ》信長《のぶなが》九|州《しう》討平《たうへい》の後《のち》は、其地《そのち》を割《さ》き與《あた》へんとの意《い》であつた乎《か》、將《は》た信長《のぶなが》流《りう》の聲《こゑ》を以《もつ》て他《た》を威嚇《ゐかく》する積《つもり》であつた乎《か》。何《いづ》れにもせよ、彼《かれ》は諸※[#二の字点、1-2-22]《もろ/″\》の大將中《たいしやうちゆう》、尤《もつと》も信長《のぶなが》に親信《しんしん》せられた一|人《にん》であつた。
天正《てんしやう》十|年《ねん》本能寺《ほんのうじ》の變《へん》には、彼《かれ》は信長《のぶなが》の三|男《なん》信孝《のぶたか》を奉《ほう》じて、四|國《こく》征討《せいたう》の途次《とじ》にあつた。爾來《じらい》彼《かれ》が大阪《おほさか》にて、秀吉《ひでよし》の備中《びつちゆう》より上《のぼ》るを待《ま》ち受《う》け、如何《いか》に秀吉《ひでよし》と心《こゝろ》を協《かな》へ、力《ちから》を戮《あは》せ、其《そ》の局面《きよくめん》收拾《しうしふ》に努力《どりよく》したかは、既記《きゝ》の通《とほ》りである。山崎合戰《やまざきかつせん》と云《い》ひ、清洲會議《きよすくわいぎ》と云《い》ひ、何《いづ》れも秀吉《ひでよし》の爲《た》めに、冥々《めい/\》の功《こう》を竭《つく》した事《こと》は、誰《たれ》よりも秀吉《ひでよし》が最《もつと》も先《ま》づ識認《しきにん》し、感謝《かんしや》する所《ところ》であつた。
更《さ》らに信孝《のぶたか》との確執《かくしつ》より、柳《やな》ヶ|瀬役《せえき》に到《いた》りては、長秀《ながひで》の向背《かうはい》は、實《じつ》に秀吉《ひでよし》運命《うんめい》の定《さだ》まる極所《きよくしよ》であつた。秀吉《ひでよし》が自《みづ》から天下《てんか》の權《けん》を握《にぎ》り、事實上《じじつじやう》信長《のぶなが》の相續者《さうぞくしや》たるに際《さい》して、長秀《ながひで》に與《あた》ふるに、其《そ》の本領《ほんりやう》若狹《わかさ》、近江《あふみ》の地《ち》に加《くは》へて、越前《ゑちぜん》及《およ》び加賀《かが》の二|郡《ぐん》を以《もつ》てし、百|萬石《まんごく》の大名《だいみやう》となしたるは、當然《たうぜん》の報酬《はうしう》と云《い》はねばならぬ。乃《すなは》ち小牧《こまき》の役《えき》にも、長秀《ながひで》は八千|人《にん》を率《ひき》ゐて、秀吉《ひでよし》の爲《た》めに美濃《みの》に向《むか》うた。
併《しか》し長秀《ながひで》は、秀吉《ひでよし》の天下人《てんかびと》となるを見《み》て、自《みづ》から其《そ》の附鳳攀龍《ふほうばんりゆう》の榮達《えいたつ》を悦《よろこ》ぶよりも、却《かへつ》て怏々《あう/\》として樂《たの》しまなかつた。彼《かれ》は勇者《ゆうしや》であつた。軍人《ぐんじん》としては、何等《なんら》申分《まをしぶん》なかつた。然《しか》も彼《かれ》は何處《どこ》やら煮《に》え切《き》らぬ漢《をのこ》であつた、其《そ》の所爲《しよゐ》は、何《なん》となく齒切《はぎ》れが惡《あ》しかつた。彼《かれ》は寧《むし》ろ受動的《じゆどうてき》であつて、自發的《じはつてき》でなかつた。兎《と》も角《かく》も思案《しあん》、分別《ふんべつ》に日《ひ》を暮《くら》して、自《みづ》から進《すゝ》んで天下《てんか》を爭《あらそ》ふ程《ほど》の、氣魄《きはく》もなかつた。又《ま》た世《よ》の中《なか》の混亂《こんらん》に乘《じよう》じて、火事場《くわじば》泥坊《どろばう》を働《はたら》かんとする、横著者《わうちやくもの》でなかつた。さりとて一|方《ぱう》に割據《かつきよ》して、お山《やま》の大將《たいしやう》を氣取《きど》る程《ほど》の、呑氣物《のんきもの》でもなかつた。併《しか》し彼《かれ》の位置《ゐち》や、聲望《せいばう》や、勢力《せいりよく》や、信用《しんよう》や、本來《ほんらい》門地《もんち》なく、舊縁《きうえん》なく、赤裸々的《せきらゝてき》の、成上者《なりあがりもの》たる秀吉《ひでよし》に取《と》りては、無《む》二の味方《みかた》であつたことは、想像《さうざう》するに餘《あま》りありだ。
然《しか》も秀吉《ひでよし》が羽翼《うよく》既《すで》に成《な》りて、單獨《たんどく》高飛《かうひ》するの際《さい》は、長秀《ながひで》彼自身《かれじしん》に於《おい》て、寧《むし》ろ意外《いぐわい》の感《かん》があつた。云《い》はゞ|自己《じこ》は、只《た》だ秀吉《ひでよし》の爲《た》めに、利用《りよう》し盡《つく》され了《をは》つたとの感《かん》があつた。深《ふか》く立《た》ち入《い》りて云《い》へば、今更《いまさ》ら莫迦《ばか》を見《み》たと悔恨《くわいこん》した。然《しか》も是《こ》れ自業自得《じごふじとく》である、誰《たれ》に向《むか》つて苦情《くじやう》を持込《もちこ》む所《ところ》もない。彼《かれ》は其《そ》の新境遇《しんきやうぐう》に順適《じゆんてき》し、同輩《どうはい》の地位《ちゐ》を下《くだ》りて、秀吉《ひでよし》に臣事《しんじ》する丈《だけ》の、世間師《せけんし》でもなく、さりとて秀吉《ひでよし》に取《と》りて之《これ》に代《かは》らんとする、大山師《おほやまし》でもなく、而《しか》して又《ま》た飽迄《あくまで》も、舊境遇《きうきやうぐう》に執著《しふちやく》する程《ほど》の、愚直者《ぐちよくもの》、頑冥者《ぐわんめいしや》でもない。反抗《はんかう》するには、餘《あま》りに氣弱《きよわ》く、臣事《しんじ》するには餘《あま》りに氣高《きだか》く。さりとて現状《げんじやう》に安著《あんちやく》するには、餘《あまり》りに氣難《きむづか》しかつた。是《こ》れ彼《かれ》が懊惱《あうのう》、苦悶《くもん》したる所以《ゆゑん》で、彼《かれ》の死病《しびやう》は、實《じつ》に彼《かれ》の救主《すくひぬし》であつた。

[#5字下げ][#中見出し]【八六】丹羽長秀の死(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

川角太閤記《かはかくたいかふき》には、秀吉《ひでよし》が長秀《ながひで》の此《こ》の懊惱《あうのう》、苦悶《くもん》を慰藉《ゐしや》したる顛末《てんまつ》を詳記《しやうき》してある。今《い》ま其《そ》の要領《えうりやう》を摘記《てきき》すれば、長秀《ながひで》は病《やまひ》に託《たく》して、越前《ゑちぜん》を出《い》でなかつた。秀吉《ひでよし》は蜂須賀彦右衞門《はちすかひこゑもん》を使《つかひ》とし、其《そ》の上洛《じやうらく》を慫慂《しようよう》したが、長秀《ながひで》更《さ》らに之《これ》を聽入《きゝいれ》なかつた。而《しか》して彼《かれ》が中國《ちゆうごく》、九|州《しう》、佐々成政等《さつさなりまさら》と通謀《つうぼう》の噂《うはさ》さへ立《た》つた。そこで秀吉《ひでよし》は、頗《すこぶ》る心配《しんぱい》し、
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又《また》重而《かさねて》彦右衞門《ひこうゑもん》に、靈社《れいしや》に起請《きしやう》を|被[#レ]遊《あそばされ》|被[#レ]遣候《つかはされさふらふ》。其樣子《そのやうす》は、只今《ただいま》天下《てんか》にそなはり候事《さふらふこと》は、偏《ひとへ》に長秀《ながひで》御《お》かげ也《なり》。此上《このうへ》は天下《てんか》を長秀《ながひで》と替《かは》り持《もち》に|可[#レ]仕候間《つかまつるべくさふらふあひだ》、御跡《おあと》え秀吉《ひでよし》|可[#レ]參候《まゐるべくさふらふ》。大坂《おほさか》の城《しろは》天下者《てんかものに》相渡《あひわたし》|可[#レ]申候《まをすべくさふらふ》。互《たがひ》にか程《ほど》迄《まで》仕《し》たて、餘人《よにん》に天下《てんか》を|可[#レ]渡事《わたすべきこと》おしく御座候《ござさふらふ》。|如[#レ]此《かくのごとく》入替《いれかへ》、長秀《ながひで》を我等《われら》|奉[#レ]仰候《あふぎたてまつりさふらふ》は、凡《およそ》日本《にほん》には、天下《てんか》の望《のぞみ》の人《ひと》は有《ある》まじきかと覺《おぼえ》申候《まをしさふらふ》と、|被[#二]仰遣[#一]候《おほせつかはされさふら》へば。長秀《ながひで》は感涙《かんるゐ》を流《なが》し、煩《わづらひ》もいつわりにては|無[#レ]之候《これなくさふら》へど、さらば罷上《まかりのぼ》り候《さふら》はんと返事《へんじ》あり。
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斯《か》くて長秀《ながひで》は、人數《にんず》一|萬人《まんにん》許《ばか》り率《ひき》ゐて上洛《じやうらく》し、其《そ》の先手《さきて》の大阪《おほさか》に著《ちやく》するや、秀吉《ひでよし》は二十|騎《き》許《ばか》りの輕裝《けいさう》にて、牧方迄《ひらかたまで》出迎《でむか》へ、相伴《あひともな》うて大阪《おほさか》なる長秀《ながひで》の館《やかた》に入《い》り、驩《くわん》を※[#「磬」の「石」に代えて「缶」、第4水準2-84-70]《つく》し、更《さ》らに長秀《ながひで》を大阪城《おほさかじやう》に迎《むか》へたとある。而《しか》して此《こ》れは、天正《てんしやう》十二|申《さる》の年《とし》としてある。
以上《いじやう》は極《きは》めて秀吉《ひでよし》、長秀《ながひで》兩人《りやうにん》の關係《くわんけい》を、面白《おもしろ》く描《ゑが》き出《いだ》してあるが、事實《じじつ》は聊《いさゝ》か疑《うたが》はしい。天正《てんしやう》十二|年《ねん》の小牧役《こまきえき》には、長秀《ながひで》は兎《と》も角《かく》も參加《さんか》して居《を》る。天正《てんしやう》十二|年《ねん》九|月《ぐわつ》八|日《か》附《づけ》にて、秀吉《ひでよし》が前田利家《まへだとしいへ》に答《こた》へたる書中《しよちゆう》にも、信雄《のぶを》方《かた》よりしか/″\の條件《でうけん》を具《そな》へ、講和《かうわ》申出《まをしい》でたれども、自分《じぶん》に於《おい》ては、許容《きよよう》致《いた》し兼《か》ねたが。
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色々《いろ/\》越前守《ゑちぜんのかみ》(丹羽長秀)[#「(丹羽長秀)」は1段階小さな文字]異見《いけん》|被[#レ]申候條《まをされさふらふでう》、思《おもひ》半之《なかばの》義《ぎ》に候《さふらふ》。
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とあれば、當時《たうじ》長秀《ながひで》は、秀吉《ひでよし》と信雄《のぶを》との居中《きよちゆう》調停《てうてい》に任《にん》じたことが判知《わか》る。而《しか》して當時《たうじ》秀吉《ひでよし》の目的《もくてき》は、長秀《ながひで》をして利家《としいへ》を扶《たす》け、佐々成政《さつさなりまさ》を討伐《たうばつ》するの意《い》ありしことは、(本編、八一、參照)[#「(本編、八一、參照)」は1段階小さな文字]前掲《ぜんけい》の秀吉《ひでよし》が利家《としいへ》に答《こた》へたる、書中《しよちゆう》の一|節《せつ》にて分明《ぶんみやう》だ。それは利家《としいへ》の輕擧《けいきよ》を戒《いまし》め、長秀《ながひで》との戮協《りくけふ》を訓示《くんじ》し、且《か》つ北陸《ほくろく》に於《お》ける、一|般方略《ぱんはうりやく》を示《しめ》したのだ。併《しか》し利家《としいへ》は同月《どうげつ》十三|日《にち》、末森城《すゑもりじやう》に佐々《さつさ》の攻圍兵《こうゐへい》を破《やぶ》り、十三|人《にん》の大將《たいしやう》の首《くび》を、秀吉《ひでよし》に送《おく》つた。〔多聞院日記〕[#「〔多聞院日記〕」は1段階小さな文字]されば長秀《ながひで》の、利家《としいへ》往援《わうゑん》の必要《ひつえう》は、此《これ》が爲《た》めに殆《ほと》んど無《な》くなつた。當時《たうじ》の事情《じじやう》此《こ》の通《とほ》りであれば、川角太閤記《かはかくたいかふき》の記事《きじ》は、餘《あま》りに小説《せうせつ》じみて居《を》る。併《しか》し事實《じじつ》にせよ、小説《せうせつ》にせよ、秀吉《ひでよし》と、長秀《ながひで》との關係《くわんけい》は、從來《じゆうらい》の徑路《けいろ》を辿《たど》れば、其《そ》の約略《やくりやく》は、先《ま》づ此通《このとほ》りであつたと云《い》はねばなるまい。
彼《かれ》が不治《ふぢ》の病《やまひ》に取《と》り附《つ》かれ、寧《むし》ろ病死《びやうし》するよりもと、割腹《かつぷく》して死《し》した事《こと》は、前《まへ》にも記《しる》した通《とほ》りである。此《これ》に就《つい》ては、新井白石《あらゐはくせき》は、
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長秀《ながひで》が自害《じがい》せしは、誠《まこと》に此内府《このないふ》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]と申《まをす》は、故《こ》右大臣《うだいしん》(信長)[#「(信長)」は1段階小さな文字]殿《どの》の下部《しもべ》より擧《あ》げられて、大名《だいみやう》になし給《たま》ひし人《ひと》なれば、如何《いか》なれば故殿《こどの》の御子孫《ごしそん》をば、七|代《だい》迄《まで》も、御後《おんうしろ》めたき事《こと》あるまじき者《もの》をと、長秀《ながひで》がむかし思《おも》ひ誤《あやまつ》て方人《かたうど》せしに、三|法師《ぽふし》(秀信)[#「(秀信)」は1段階小さな文字]殿《どの》の御爲《おんため》ならば、三七(信孝)[#「(信孝)」は1段階小さな文字]殿《どの》失《うしな》ひ參《まゐ》らせしは、さもありなん。何時《いつ》しか三|法師殿《ぽふしどの》を有《あ》る者《もの》ともせず。剩《あまつさ》へ北畠《きたばたけ》(信雄)[#「(信雄)」は1段階小さな文字]殿《どの》をも失《うしな》ひ參《まゐ》らせんとし、終《つひ》に天下《てんか》の事《こと》、自《みづか》ら知《し》り給《たま》ひければ、悔《くやし》き事《こと》に思《おも》ひけり。されど今《いま》此人《このひと》を謀《はか》らん事《こと》、我《わ》が力《ちから》には如何《いか》にも叶《かな》ふべからず。斯《かく》て世《よ》にながらへて、天下《てんか》の人《ひと》に後指《うしろゆび》さゝれんも、恥《はづ》かしと思《おも》ひ死《し》したり。病《やまひ》に犯《おか》されて自害《じがい》しぬと云《い》ふは、子孫《しそん》の後榮《こうえい》を思《おも》ひ、斯《か》くは披露《ひろう》したりとも申《まをす》なり。〔藩翰譜〕[#「〔藩翰譜〕」は1段階小さな文字]
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との一|説《せつ》をも掲《かゝ》げて居《ゐ》る。此《こ》れは確《たし》かに、長秀《ながひで》の心事《しんじ》の一|半《ぱん》を、忖度《そんたく》した説《せつ》である。併《しか》し彼《かれ》は壯健《さうけん》にして切腹《せつぷく》する程《ほど》の、思《おも》ひ切《き》り善《よ》き漢《をのこ》ではなかつた。彼《かれ》は寧《むし》ろ蛇行家《だかうか》であつた、直情徑行家《ちよくじやうけいかうか》でなかつた。但《た》だ彼《かれ》が積聚《せきしう》と云《い》ふ死病《しびやう》に惱《なや》んで、既《すで》に死期《しき》に瀕《ひん》したるを以《もつ》て。半《なかば》は心身《しんしん》双方《さうはう》の苦悶《くもん》に堪《た》へ兼《か》ね、否《い》な其《そ》の死病《しびやう》を、寧《むし》ろ心中《しんちゆう》の悔恨《くわいこん》を解《と》く方便《はうべん》と見做《みな》し、切腹《せつぷく》したるにてはなかりし乎《か》。
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譬《たと》へ如何《いか》なる病《やまひ》なりとも、我《わが》命《いのち》失《うしな》はんずるは、正《たゞ》しき敵《かたき》にこそあれ。如何《いか》で其《そ》の敵《かたき》討《う》たでは、空《むな》しくなるべきとて、腹《はら》かき切《き》り、膓《はらわた》くり出《いだ》して見《み》るに、奇異《きい》の曲者《くせもの》こそ出《いで》たれ。形《かたち》石龜《いしがめ》の如《ごと》くに、喙《くちばし》鷹《たか》の如《ごと》くに尖《とが》り曲《まが》りて、背中《せなか》に刀《かたな》の當《あた》りたる跡《あと》ありけり。〔藩翰譜〕[#「〔藩翰譜〕」は1段階小さな文字]
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との説《せつ》、如何《いか》にも事實《じじつ》たるに庶幾《ちか》し。但《た》だ其《そ》の病症《びやうしやう》の、所謂《いはゆ》る癌腫《がんしゆ》の類《るゐ》であつた乎《か》、否乎《いなか》は、專門家《せんもんか》の吟味《ぎんみ》に一|任《にん》す可《べ》きである。
兎《と》にも角《かく》にも、長秀《ながひで》は、秀吉《ひでよし》をして天下人《てんかびと》たらしむるに、隨《ずゐ》一の大功者《たいこうしや》であつた。此《こ》れが長秀《ながひで》の本意《ほんい》であつた乎《か》、不本意《ふほんい》であつた乎《か》は、姑《しばら》く措《お》き、事實《じじつ》は全《まつた》く事實《じじつ》である。

[#5字下げ][#中見出し]【八七】四國征伐(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》の四|國《こく》征伐《せいばつ》は、信長《のぶなが》の著手《ちやくしゆ》したる仕事《しごと》を、紹成《せうせい》したものに過《す》ぎぬ。信長《のぶなが》の武田氏《たけだし》を滅《ほろぼ》すや、直《たゞ》ちに四|國《こく》の長曾我部氏《ちやうそかべし》を討平《たうへい》す可《べ》く、出兵《しゆつぺい》命令《めいれい》を下《くだ》した。而《しか》して其《そ》の先手《さきて》たる三|好笑巖《よしせうがん》は、阿波《あは》に入《い》り、勝瑞城《しようずゐじやう》に據《よ》り、信長《のぶなが》の三|子《し》信孝《のぶたか》及《およ》び丹羽長秀等《にはながひでら》は、將《ま》さに堺浦《さかひうら》より發航《はつかう》せんとする際《さい》に、本能寺《ほんのうじ》の事變《じへん》は突發《とつぱつ》した。
信長《のぶなが》の四|國《こく》討平《たうへい》は、單《たん》に四|國《こく》を我《わが》手《て》に入《い》るゝ|爲《た》めのみでなかつた。敵《てき》若《も》し四|國《こく》に據《よ》らば、近畿《きんき》は必《かなら》ず此《これ》が爲《た》めに脅《おびやか》さるゝを免《まぬか》れず。即《すなは》ち細川《ほそかは》、三|好《よし》の徒《と》が、恒《つね》に其威《そのゐ》を近畿《きんき》に振《ふる》うたのも、其《そ》の根據《こんきよ》を、四|國《こく》に有《いう》したからだ。且《か》つ此《これ》が爲《た》めに、中國《ちゆうごく》を牽掣《けんせい》し、九|州《しう》の通路《つうろ》を遮斷《しやだん》するの危險《きけん》を免《まぬか》れず。毛利氏《まうりし》が四|國《こく》の海賊《かいぞく》と呼應《こおう》して、上國《じやうこく》に寇《こう》したのも、其《そ》の適例《てきれい》である。信長《のぶなが》既《すで》に然《しか》り、今《いま》や大阪《おほさか》を以《もつ》て其《そ》の根據《こんきよ》とする、秀吉《ひでよし》に於《おい》ては、一|層《そう》四|國《こく》平定《へいてい》の必要《ひつえう》を感《かん》じた。
且《か》つ當時《たうじ》秀吉《ひでよし》の最《もつと》も苦慮《くりよ》したのは、何《なに》よりも徳川家康《とくがはいへやす》の向背《かうはい》であつた。慧眼《けいがん》なる秀吉《ひでよし》には、家康《いへやす》が彼《かれ》の前途《ぜんと》に横《よこた》はる、一|大障礙《だいしやうがい》である※[#こと、432-2]を自覺《じかく》せずには、居《を》られなかつた。されば秀吉《ひでよし》としては、先《ま》づ一|切《さい》の葛藤《かつとう》を排除《はいぢよ》し、自個《じこ》は無礙《むがい》、自在《じざい》となり、家康《いへやす》は孤立無援《こりつむゑん》となり。即《すなは》ち我《わ》が全《まつた》き勢力《せいりよく》を集《あつ》めて、彼《かれ》の單獨《たんどく》なる力《ちから》に當《あた》らんと、企《くはだ》てたに相違《さうゐ》あるまい。即《すなは》ち信雄《のぶを》との單獨《たんどく》講和《かうわ》と云《い》ひ、紀州《きしう》の平定《へいてい》と云《い》ひ、四|國《こく》の討伐《たうばつ》と云《い》ひ、更《さら》に今後《こんご》の北陸《ほくろく》に於《おけ》る、佐々《さつさ》征服《せいふく》と云《い》ひ、一|面《めん》より觀察《くわんさつ》すれば、何《いづ》れも如上《じよじやう》の目的《もくてき》を達《たつ》する手段《しゆだん》に過《す》ぎなかつたものと、見《み》る※[#こと、432-8]も出來《でき》る。
凡《およ》そ對敵《たいてき》の方策《はうさく》としては、先《ま》づ中樞《ちゆうすう》勢力《せいりよく》に、一|大《だい》打撃《だげき》を加《くは》へ、四|邊《へん》の勢力《せいりよく》をして、刄《やいば》を迎《むか》へて解《と》け去《さ》らしむるものもある。又《ま》た先《ま》づ四|邊《へん》の勢力《せいりよく》を蕩掃《たうさう》し、其《そ》の羽翼《うよく》を殺《そ》ぎ、其《そ》の手足《しゆそく》を斷《た》ち、而《しか》して後《のち》其《そ》の首力《しゆりよく》に及《およ》ぼすものもある。秀吉《ひでよし》の方策《はうさく》は、時《とき》と場合《ばあひ》とによりて、兩者《りやうしや》を兼《か》ね用《もち》ひた。山崎合戰《やまざきかつせん》の如《ごと》きは、前者《ぜんしや》である。併《しか》し何《いづ》れかと云《い》へば、柳《やな》ヶ|瀬《せ》と云《い》ひ、中國役《ちゆうごくえき》と云《い》ひ、概《おほむ》ね後者《こうしや》に出《い》でた。乃《すなは》ち四|國《こく》征伐《せいばつ》の對手《あひて》は、長曾我部元親《ちやうそかべもとちか》であるが、其《そ》の目指《めざ》す眞敵《しんてき》は、徳川家康《とくがはいへやす》であつたとも、著眼點《ちやくがんてん》次第《しだい》では、推定《すゐてい》することが可能《かな》ふ。
長曾我部元親《ちやうそかべもとちか》の志《こゝろざし》は、天下《てんか》に在《あ》りと云《い》ふよりも、寧《むし》ろ四|國《こく》に在《あ》りと云《い》ふ可《べ》きだ。彼《かれ》をして四|國《こく》の主《しゆ》たらしめば、彼《かれ》は甘《あま》んじて、信長《のぶなが》の幕下《ばくか》となつたであらう。又《ま》た甘《あま》んじて、秀吉《ひでよし》の幕下《ばくか》ともなつたであらう。彼《かれ》が信雄《のぶを》、家康等《いへやすら》と通謀《つうぼう》して、大阪《おほさか》を擣《つ》かんとしたるは、此《これ》によりて四|國《こく》領有《りやういう》の志《こゝろざし》を、確實《かくじつ》に達《たつ》せんとしたに他《ほか》ならぬ。されば秀吉《ひでよし》の紀州《きしう》發向《はつかう》に際《さい》して、彼《かれ》は其《そ》の臣《しん》谷忠兵衞《たにちゆうべゑ》の言《げん》を聽《き》き、忠兵衞《ちゆうべゑ》を使《つかひ》として、秀吉《ひでよし》に慇懃[#「慇懃」は底本では「慇勤」]《いんぎん》を通《つう》じ、四|國《こく》を領有《りやういう》せんことを請《こ》はしめた。
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忠兵衞《ちゆうべゑ》が申《まを》さく、長曾我部《ちやうそかべ》言上《ごんじやう》する條《でう》は、近年《きんねん》世上《せじやう》蒼忙《さうばう》の故《ゆゑ》に、音問《いんもん》を絶《ぜつ》す。更《さら》に|非[#レ]存[#二]疎意[#一]也《そいをそんするにあらざるなり》。併《しかしながら》尊長《そんちやう》上方《かみがた》御武勇《ごぶゆう》の御太刀陰《おんたちかげ》を以《もつ》て、元親《もとちか》、四|國《こく》を平均《へいきん》す。日後《ひならず》御幕下《ごばくか》に屬《ぞく》し、四ヶ|國《こく》の兵《へい》を引率《いんそつ》して、先鋒《せんぽう》を務《つと》め奉《たてまつ》るべき也《なり》。此旨《このむね》謹《つゝしん》で言上《ごんじやう》せんが爲《た》め、谷忠兵衞《たにちゆうべゑ》を使《つかひ》として、指上《さしのぼ》せ奉《たてまつ》る也《なり》とす。秀吉公《ひでよし》仰《おほせ》に曰《いは》く、長曾我部《ちやうそかべ》四|國《こく》に横行《わうかう》す。是《これ》を追討《つゐたう》せんが爲《た》めに、近日《きんじつ》十|萬人《まんにん》を渡海《とかい》せしめんとす。然《しか》る處《ところ》に使者《ししや》を以《もつて》、拜禮《はいれい》を謝《しや》す。是《これ》を以《もつ》て征伐《せいばつ》を宥《ゆるす》べし。元親《もとちか》には土佐《とさ》一|國《こく》を宛行《あておこな》うて、阿波《あは》、讃岐《さぬき》、伊豫《いよ》三ヶ|國《こく》を召《め》し上《あげ》らるゝ|處也《ところなり》。此旨《このむね》を存知《ぞんぢ》て、早《はや》く上洛《じやうらく》すべし。若《もし》延引《えんいん》せば、不日《ふじつ》に征伐《せいばつ》を加《くはへ》らる可《べ》しと也《なり》。〔南海通紀〕[#「〔南海通紀〕」は1段階小さな文字]
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されど元親《もとちか》は、之《これ》を容《い》れなかつた。彼《かれ》は何處迄《どこまで》も、四|國《こく》に執著《しふちやく》した。それも其《そ》の筈《はず》である。四|國《こく》は全《まつた》く彼《かれ》の腕前《うでまへ》にて、攻略《こうりやく》したる領土《りやうど》ぢや。彼《かれ》は本能寺《ほんのうじ》の變《へん》を奇貨《きくわ》とし、上國《じやうこく》の混亂《こんらん》に乘《じよう》じて、四|國《こく》を我《わ》が思《おも》ふ如《ごと》く切《き》り隨《したが》へた。如何《いか》に秀吉《ひでよし》の兵力《へいりよく》を以《もつ》て威嚇《ゐかく》すればとて、利得《りとく》を以《もつ》て諭《さと》せばとて、其儘《そのまゝ》叩頭《こうとう》する譯《わけ》には參《まゐ》らなかつた。

[#5字下げ][#中見出し]【八八】四國征伐(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は何時《いつ》も、大仕掛《おほじかけ》の仕事《しごと》をした。彼《かれ》の極意《ごくい》は、戰《たゝか》はずして他《た》を屈服《くつぷく》せしむるにあつた。それには先《ま》づ聲《こゑ》を大《だい》にし、次《つ》ぎに勢《いきほひ》を大《だい》にし、而《しか》して愈《いよい》よ極所《きよくしよ》に於《おい》て、打撃《だげき》を加《くは》ふるにあつた。四|國《こく》征伐《せいばつ》も全《まつた》く其《そ》の順序《じゆんじよ》を趁《お》うた。
彼《かれ》は長曾我部《ちやうそかべ》を威壓《ゐあつ》するに、餘《あま》りある大兵《たいへい》を發《はつ》した。總帥《そうすゐ》は舍弟《しやてい》秀長《ひでなが》であつた。先《ま》づ大和《やまと》、紀伊《きい》、和泉《いづみ》の兵《へい》は、波路《あはぢ》洲本《すもと》に著《ちやく》し、攝津《せつつ》、丹波《たんば》の兵《へい》は、其姪《そのをひ》秀次《ひでつぐ》之《これ》を率《ひき》ゐて、播州《ばんしう》明石《あかし》より淡路《あはぢ》岩屋《いはや》に著《ちやく》し、兩者《りやうしや》相合《あひがつ》して、阿波《あは》に進《すゝ》んだ。浮田秀家《うきたひでいへ》、蜂須賀正勝《はちすかまさかつ》、同《どう》家政《いへまさ》、黒田孝高等《くろだよしたから》は、讃岐《さぬき》八|島《しま》に上陸《じやうりく》した。毛利輝元《まうりてるもと》、吉川元春《きつかはもとはる》、小早川隆景等《こばやかはたかかげら》は、伊豫《いよ》新麻《にひま》に至《いた》つた。此《かく》の如《ごと》く三|方《ぱう》より四|國《こく》に攻《せ》め入《い》つた。其勢《そのせい》八|萬餘騎《まんよき》と稱《しよう》した。〔大村由己著四國御發向〕[#「〔大村由己著四國御發向〕」は1段階小さな文字]
總帥《そうすゐ》秀長《ひでなが》は、淡路《あはぢ》福良《ふくら》より大船《たいせん》六百|艘《そう》、小船《せうせん》百三|艘《ぞう》にて、秀次《ひでつぐ》と與《とも》に、鳴門《なると》の險《けん》を冐《おか》し、阿波《あは》の土佐泊《とさどまり》に抵《いた》り、此地《このち》に城《しろ》を築《きづ》き、其《そ》の根據《こんきよ》とした。或《あるひ》は曰《いは》く秀長《ひでなが》、秀次《ひでつぐ》の兵《へい》六|萬人《まんにん》、浮田等《うきたら》の兵《へい》二|萬《まん》三千|人《にん》、毛利等《まうりら》の兵《へい》四|萬人《まんにん》と。〔南海通紀〕[#「〔南海通紀〕」は1段階小さな文字]如何《いか》に長曾我部《ちやうそかべ》が、四|國《こく》の險要《けんえう》に據《よ》るも、此《こ》の上國《じやうこく》の大兵《たいへい》に對《たい》して、抗戰《かうせん》するは、頗《すこぶ》る困難《こんなん》であつた。否《い》な流石《さすが》に強頑《がうぐわん》なる元親《もとちか》も、未《いま》だ戰《たゝか》はざるに、既《すで》に其氣《そのき》を呑《の》まれたる趣《おもむき》があつた。
當時《たうじ》四|國兵《こくへい》と、上國兵《じやうこくへい》との相違《さうゐ》は、最初《さいしよ》より講和《かうわ》の主張者《しゆちやうしや》たる、長曾我部《ちやうそかべ》の老臣《らうしん》谷忠兵衞《たにちゆうべゑ》の説《せつ》、之《これ》を盡《つく》して餘蘊《ようん》なしだ。
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上方《かみがた》の軍兵《ぐんぴやう》は、富《とみ》榮《さか》えたる事《こと》、四|國《こく》の相對《あひたい》すべき事《こと》に非《あら》ず。此《この》四|國《こく》は廿|年《ねん》の兵亂《へいらん》に因《よつ》て、民屋《みんをく》を放火《はうくわ》し、村里《むらざと》を打破《うちやぶ》り、田野《でんや》を芒所《ばうしよ》し、五|年《ねん》三|年《ねん》の間《あひだ》には、耕作《かうさく》農業《のうげふ》も|不[#レ]整《とゝのはず》して、五|穀《こく》充滿《じゆうまん》する事《こと》もなからん。民《たみ》疲《つか》れ諸卒《しよそつ》倦《うみ》て、兵具《ひやうぐ》馬具《ばぐ》も切《き》れ腐《くさり》て、かゝりたる物《もの》なし。田牛《でんぎう》行馬《かうば》も痩衰《やせおとろ》へて、上方《かみがた》に對《たい》すべきやうなし。上方《かみがた》は武具《ぶぐ》馬具《ばぐ》綺麗《きれい》にして、光《ひか》り輝《かゞや》き、金銀《きんぎん》を鏤《ちりば》め、馬《うま》は大長《だいちやう》にして眉《まゆ》上《あが》るが如《ごと》し。武者《むしや》は指物《さしもの》小旗《こばた》を背《せ》に屹《き》つとさして、いかめしき體《てい》なり。四|國《こく》は十|人《にん》か七|人《にん》は土佐駒《とさごま》に乘《の》り、曲《まが》り鞍《くら》を敷《し》き、木鐙《きあぶみ》をかけたり。武者《むしや》は鎧毛《よろひげ》切《き》れ腐《くさり》て、麻糸《あさいと》を以《もつ》て綴《つゞ》り集《あつ》めて著《ちやく》し、腰小旗《こしこばた》を横《よこ》たはりに指《さし》て、上方《かみがた》の武者《むしや》には似《に》るべくもなし。國《くに》に兵糧《ひやうらう》乏《とぼ》しくして、上方《かみがた》と永《なが》く取合《とりあ》ふべき用意《ようい》なし。彼我《ひが》の甲乙《かふおつ》を考《かんが》ふるに、十に一《ひと》つも相對《あひたい》すべき事《こと》なし。
[#地から1字上げ]〔南海通紀〕[#「〔南海通紀〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
谷《たに》は此《こ》の理由《りいう》を以《もつ》て、征伐軍《せいばつぐん》の未《いま》だ來《きた》らざる以前《いぜん》、土佐《とさ》一|國《こく》を請受《こひう》けて、秀吉《ひでよし》に降服《かうふく》すべく、元親《もとちか》に勸《すゝ》めた。されど元親《もとちか》は、之《これ》を納《い》れなかつた。然《しか》るに秀長《ひでなが》は、一|宮城《のみやじやう》を攻《せ》めつゝありしが、其《そ》の容易《ようい》に拔《ぬ》けざるを見《み》て、竊《ひそ》かに思《おも》ふ所《ところ》あり、五|月《ぐわつ》十九|日《にち》、敵《てき》の守將《しゆしやう》谷忠兵衞《たにちゆうべゑ》を招《まね》き、速《すみや》かに元親《もとちか》に歸參《きさん》を勸告《くわんこく》す可《べ》く諭《さと》した。忠兵衞《ちゆうべゑ》固《もと》より同説《どうせつ》なれば、彼《かれ》は白地《はくち》なる元親《もとちか》の居城《きよじやう》に赴《おもむ》き、利害《りがい》を説《と》いて、苦諫《くかん》した。元親《もとちか》は頑然《ぐわんぜん》として之《これ》を容《い》れず、却《かへつ》て忠兵衞《ちゆうべゑ》を辱《はづかし》めた。忠兵衞《ちゆうべゑ》は、武邊《ぶへん》と云《い》ひ、知略《ちりやく》と云《い》ひ、拔群《ばつぐん》の漢《をのこ》なれば、未《いま》だ岩倉《いはくら》、一|宮《のみや》の兩城《りやうじやう》陷落《かんらく》せざるに先《さき》んじ、土佐《とさ》一|國《こく》を取《と》り留《と》めて降參《かうさん》する方《はう》、得策《とくさく》である旨《むね》を、家老《からう》連中《れんちゆう》に説得《せつとく》し。遂《つひ》に衆議《しゆうぎ》を以《もつ》て、元親《もとちか》に内談《ないだん》し、稍《やうや》く其《そ》の同意《どうい》を得《え》た。〔南海通紀〕[#「〔南海通紀〕」は1段階小さな文字]
將《は》た大村由己《おほむらいうき》の所記《しよき》によれば、一|宮《のみや》の敵城《てきじやう》、容易《ようい》に下《くだ》らず、征伐軍《せいばつぐん》の進捗《しんちよく》思《おも》はしからず。此《こゝ》に於《おい》て秀吉《ひでよし》は、遂《つひ》に親征《しんせい》を企《くはだ》てたとある。宛《あたか》も其《そ》の首途《かどで》の間際《まぎは》に於《おい》て、秀吉《ひでよし》は尾藤知定《びとうともさだ》を使《つかひ》として、左《さ》の一|書《しよ》を呈《てい》したとある。
[#ここから1字下げ]
秀長《ひでなが》謹《つゝしん》而《で》言上《ごんじやうす》。抑《そも/\》此度《このたび》四國《しこく》御征伐之事《ごせいばつのこと》、|依[#レ]被[#レ]仰[#二]付御代官[#一]《おだいくわんをおほせつけらるゝにより》|令[#二]渡海[#一]《とかいせしめ》、阿州《あしう》讃州《さんしうに》|賦[#二]人數[#一]《にんずをくばり》、|不[#レ]移[#二]時日[#一]《じじつをうつさず》、敵城《てきじやう》所々《しよ/\》|任[#二]存分[#一]之《ぞんぶんにまかするの》條《でう》、天下《てんかの》面目《めんもく》何事《なにごとも》|過[#レ]之《これにすぎん》乎《や》。|雖[#レ]然《しかりといへども》殘黨《ざんたう》|未[#レ]散《いまださんぜざる》之處《のところ》、急度《きつと》|承[#下]可[#レ]有[#二]御動座[#一]由[#上]《ごどうざあるべきよしをうけたまはり》畢《をはり》、|奉[#レ]驚《おどろきたてまつる》者也《ものなり》。|依[#二]秀長弓矢之力不[#一レ]足《ひでながゆみやのちからたらざるにより》、|至[#二]此率度之濱[#一]《このそつどのほとりにいたるまで》御進發之《ごしんぱつの》儀《ぎは》、併《しかしながら》|似[#二]御威光少[#一]《ごゐくわうすくなきににて》、某《それがし》亦《また》|招[#二]當座之耻辱[#一]《たうざのちじよくをまねくを》乎《や》。縱《たとひ》|雖[#レ]送[#二]日限[#一]《にちげんをおくるといへども》、|盍[#レ]屬[#二]御本意[#一]《なんぞごほんいにぞくせざらん》哉《や》、|所[#レ]希《こひねがふところは》|被[#レ]止[#二]御動座[#一]《ごどうざをやめられんことを》。秀長《ひでなが》|勵[#二]忠勤[#一]《ちゆうきんをはげみ》、|於[#レ]終[#二]戰功[#一]者《せんこうををはるにおいては》、一世之《いつせいの》大慶《たいけい》、全《まつたく》|可[#レ]行[#二]御憐愍[#一]《ごれんびんをおこなふべき》者也《ものなり》。仍《よつて》此等《これらの》趣《おもむき》|宜[#レ]預[#二]御披露[#一]《よろしくごひろうにあづかるべし》。誠惶《せいくわう》謹言《きんげん》。
[#2字下げ]七月二日
[#6字下げ]細井中務少輔殿
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》の文句《もんく》は、聊《いささ》か大村由己《おほむらいうき》が修飾《しうしよく》したるにせよ、其《そ》の内容《ないよう》の意味《いみ》は、先《ま》づ此《こ》の通《とほ》りであらう。何《いづ》れにしても秀吉《ひでよし》親征《しんせい》の事《こと》は、多聞院日記《たもんゐんにつき》にも、六|月《ぐわつ》廿七|日《にち》の項《かう》に、『四|國《こく》へ秀吉《ひでよし》自身《じしん》出馬《しゆつば》とて、今日《こんにち》筒井《つゝゐ》四|郎《らう》當國衆《たうごくしゆうを》召具《めしぐして》出陣《しゆつぢんす》。』とあり。同《どう》七|月《ぐわつ》三|日《か》の項《かう》、『秀吉《ひでよし》出馬《しゆつば》とて、先勢《さきぜい》立《た》ち、俄《にはか》に十|日《か》頃迄《ごろまで》延引《えんいん》と、※[#「口+愛」、第3水準1-15-23]《あつかひ》にて歟《か》。』とあるからには、事實《じじつ》であつたらしい。併《しか》し彼《かれ》は秀長《ひでなが》の懇請《こんせい》に對《たい》して、之《これ》を思《おも》ひ止《とどま》つた。或《あるひ》は秀長《ひでなが》を憤發《ふんぱつ》せしむる爲《た》めに、斯《か》く親征《しんせい》の準備《じゆんび》をしたかも判知《わか》らぬ。

[#5字下げ][#中見出し]【八九】四國征伐(三)[#「(三)」は縦中横][#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》四|國《こく》親征《しんせい》の企《くはだて》には、征伐軍《せいばつぐん》の總帥《そうすゐ》秀長《ひでなが》をして、一|層《そう》の奮鬪《ふんとう》、努力《どりよく》を挑起《てうき》せしめた。彼等《かれら》は先《ま》づ一|宮《のみや》附近《ふきん》の諸城《しよじやう》を攻略《こうりやく》して、更《さ》らに一|宮城《のみやじやう》に肉薄《にくはく》した。大村由己《おほむらいうき》は、此事《このこと》を叙《じよ》して曰《いは》く、
[#ここから1字下げ]
一宮大將《いちのみやにはたいしやう》秀長《ひでなが》、魚鱗《ぎよりん》、鶴翼《かくよくに》|張[#レ]陣《ぢんをはり》|盡[#レ]行《てだてをつくす》。‥‥是《こゝに》長曾我部新右衞門尉親吉《ちやうそかべしんうゑもんのじようちかよしの》相保《あひたもつ》脇城《わきじろ》|有[#レ]之《これあり》、官軍《くわんぐん》|於[#レ]取[#二]捲此城[#一]者《このしろをとりまくにおいては》、是非《ぜひ》|爲[#レ]可[#レ]成[#レ]救《すくひをなすべきがために》、阿州《あしう》土州之《としうの》堺《さかひ》|自[#二]大西之城[#一]《おほにしのしろより》、元親《もとちか》、信親《のぶちか》父子《ふし》出張《しゆつちやうす》。此由《このよし》官軍《くわんぐん》聞達《ぶんたつし》、誠《まことに》|所[#レ]希也《こひねがふところなり》、|取[#二]捲脇城[#一]《わきじろをとりまき》、|於[#レ]作[#二]後詰[#一]者《ごづめをなすにおいては》、|及[#二]一戰[#一]《いつせんにおよび》、|於[#二]脇城[#一]《わきじろにおいて》、四國《しこく》|可[#レ]成[#二]一篇[#一]《いつぺんとなるべし》。
[#ここで字下げ終わり]
即《すなは》ち一|宮《のみや》の脇城《わきじろ》を、上方勢《かみがたぜい》攻圍《こうゐ》するや、大西《おほにし》白地《はくち》の城《しろ》に本營《ほんえい》を構《かま》へて、防禦軍《ばうぎよぐん》の總指揮《そうしき》をなしつゝある、長曾我部元親《ちやうそかべもとちか》、信親《のぶちか》父子《ふし》も、其《そ》の援護《ゑんご》の爲《た》めに、遂《つひ》に此處迄《こゝまで》出掛《でか》けて來《き》つゝあつた。此《これ》を聞《き》いたる上方勢《かみがたぜい》は、此機《このき》に乘《じよう》じて、四|國《こく》を一|統《とう》せんとて、愈《いよい》よ勇《いさ》み立《た》ちて、攻《せ》め寄《よ》せた。
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七|月《ぐわつ》十五|日《にち》、秀次《ひでつぐ》|爲[#二]大將[#一]《たいしやうとして》、蜂須賀《はちすか》父子《ふし》、仙石權兵衞尉《せんごくごんぴやうゑのじよう》、羽柴左衞門督《はしばさゑもんのかみ》(堀秀政)[#「(堀秀政)」は1段階小さな文字]長谷川藤《はせがはとう》五|郎《らう》、比禰野《ひねの》(日根野)[#「(日根野)」は1段階小さな文字]兄弟《きやうだい》、淺野彌兵衞尉《あさのやひやうゑのじよう》、前野右衞門尉《まへのうゑもんのじよう》、高山右近重友《たかやまうこんしげとも》、一柳市介《ひとつやなぎいちすけ》、戸田《とだ》三|郎《らう》四|郎等《らうら》、|押[#二]寄脇城[#一]《わきじろにおしよす》。當日《たうじつは》|及[#二]足輕師[#一]《あしがるいくさにおよび》、次《つぎの》日《ひには》|以[#二]仕寄[#一]《しよせをもつて》|打[#二]破外城[#一]《そとじろをうちやぶる》。
[#ここで字下げ終わり]
彼等《かれら》は全力《ぜんりよく》を擧《あ》げて、七|月《ぐわつ》十五|日《にち》より總攻撃《そうこうげき》を開始《かいし》し、初日《しよにち》には足輕《あしがる》の砲戰《はうせん》を以《もつ》てし、次日《じじつ》には外城《そとじろ》を打《う》ち破《やぶ》つた。
[#ここから1字下げ]
五三|日之間《にちのあひだ》、|取[#二]水手[#一]《みづてをとり》、城中《じやうちゆう》|痛[#レ]之《これになやむ》也《なり》。已《すでに》|雖[#レ]成[#二]元親後詰堅約[#一]《もとちかごづめのけんやくなすといへども》、|不[#レ]及[#二]料間[#一]《れうけんにおよばず》(了見)[#「(了見)」は1段階小さな文字]|可[#二]見殺[#一]事《みごろしにすべきこと》、無念之條《むねんのでう》、秀次之《ひでつぐの》陣所《ぢんしよに》|投[#二]入人質[#一]《ひとじちをなげいれ》、|乞[#レ]免[#レ]害《がいをまぬがれんことをこひ》而《て》退城《たいじやうす》。
[#ここで字下げ終わり]
寄手《よせて》は、遂《つ》ひに城中《じやうちゆう》の汲道《きふだう》を絶《た》つた。此上《このうへ》は渇死《かつし》の他《ほか》はない。如何《いか》に元親《もとちか》が、其《そ》の後詰《ごづめ》の約束《やくそく》を實行《じつかう》せんとするも、事《こと》既《すで》に晩《おく》れた。此上《このうへ》見殺《みごろし》にするも遺憾《ゐかん》なればとて、人質《ひとじち》を秀次《ひでつぐ》の陣所《ぢんしよ》に投《とう》じ、秀次《ひでつぐ》によりて、退城《たいじやう》の允許《いんきよ》を請《こ》うた。
[#ここから1字下げ]
則《すなはち》|以[#二]其手次[#一]《そのてつゞきをもつて》|成[#二]降參[#一]《かうさんをなし》、元親《もとちか》進退之事《しんたいのこと》、|相[#二]任秀長秀次[#一]《ひでながひでつぐにあひまかせ》置之條《おくのでう》、偏《ひとへに》|奉[#レ]頼[#二]可[#レ]然御計[#一]《しかるべきおんはからひをたのみたてまつる》者也《ものなり》。
[#ここで字下げ終わり]
元親《もとちか》は城中《じやうちゆう》の爲《た》めに、命《いのち》を乞《こ》ふに止《とゞま》らず、併《あは》せて自己《じこ》の降服《かうふく》をも申《まを》し出《い》でた。而《しか》してその措置《そち》は、一|切《さい》無條件《むでうけん》にて、秀長《ひでなが》、秀次《ひでつぐ》に委任《ゐにん》する旨《むね》をも、申《まを》し出《い》でた。
以上《いじやう》は大村由己《おほむらいうき》の記《き》する所《ところ》に據《よ》つたが。尚《な》ほ『長曾我部覺書《ちやうそかべおぼえがき》』には、左《さ》の如《ごと》き、秀長《ひでなが》の誓文《せいもん》を掲《かゝ》げて居《を》る。
[#ここから1字下げ]
一、長曾我部殿《ちやうそかべどの》身上之《しんじやうの》儀《ぎ》、土州《としう》一|國《こく》にて、御理之《おことわりの》儀《ぎ》、隨分《ずゐぶん》|不[#レ]可[#レ]有[#二]疎略[#一]事《そりやくあるべからざること》。付《つけたり》内府《ないふ》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]御恩《ごおん》同心《どうしん》|無[#レ]之付者《これなきについては》、|非[#二]疎略[#一]事《そりやくあらざること》。
一、五|日之間《かのあひだ》、矢留之事《やどめのこと》。|雖[#下]無[#二]分別[#一]候[#上]《ふんべつなくさふらふといへども》、各《おの/\へ》達《たつし》而《て》|被[#レ]申候間《まをされさふらふあひだ》、是《これ》又《また》|得[#二]其意[#一]候事《そのいをえさふらふこと》。
一、|如[#レ]此之上者《かくのごときのうへは》、|拔[#二]公事[#一]《くじをぬき》、表裏《へうり》聊《いさゝか》|有[#レ]之《これある》間敷事《まじきこと》。
右之條《みぎのでう》數《しば/″\》|於[#レ]僞者《いつはるにおいては》、日本國《にほんこく》大小《だいせう》神祇《しんぎ》別而者《べつしては》、氏神《うぢがみの》御罰《おんばつを》|可[#レ]蒙《かうむるべき》者也《ものなり》。
[#1字下げ]七月(天正十三年)[#「(天正十三年)」は1段階小さな文字]廿五日[#地から1字上げ]美濃守花押(秀長)[#「(秀長)」は1段階小さな文字]
[#ここから6字下げ]
江村孫左衞門殿
谷 忠兵衞殿
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは土佐《とさ》一|國《こく》丈《だけ》は、假令《たとひ》秀吉《ひでよし》に於《おい》て、異存《いぞん》あるも、秀長《ひでなが》手許《てもと》にて保障《ほしやう》する事《こと》。五|日間《かかん》の休戰《きうせん》は、此方《こなた》にて當惑《たうわく》ながら、兎《と》も角《かく》も承引《しよういん》する事等《こととう》である。宛名《あてな》の江村《えむら》、谷《たに》の兩人《りやうにん》は、蓋《けだ》し一|宮城《のみやじやう》の守將《しゆしやう》にして、此《こ》の五|日《か》の休戰《きうせん》間《かん》に、元親《もとちか》との間《あひだ》の議《ぎ》を纒《まと》むる譯《わけ》となつたのであらう。何《いづ》れにしても七|月《ぐわつ》下旬《げじゆん》には、四|國《こく》は平定《へいてい》した。乃《すなは》ち大村由己《おほむらいうき》も、
[#ここから1字下げ]
此旨《このむね》|達[#二]上聞[#一]《じやうぶんにたつし》(元親降伏の事)[#「(元親降伏の事)」は1段階小さな文字]殿下《でんか》御諚《ごぢやうは》、|請[#二]取阿讃豫三箇國[#一]《あさんよさんがこくをうけとり》土佐《とさ》一|國《こくは》|令[#二]扶助[#一]《ふじよせしめ》、軍役《ぐんえき》自身《じしん》相勤《あひつとめ》、子息《しそく》|在[#二]大坂[#一]《おほさかにおくこと》、|於[#レ]不[#レ]及[#二]異議[#一]者《いぎにおよばざるにおいては》、|被[#レ]仰[#下]遣可[#二]赦免[#一]由[#上]《しやめんすべきよしおほせつかはされ》、其實否《そのじつぴを》|不[#二]聞究[#一]《きゝきはめず》、|至[#二]北國[#一]《ほつこくにいたる》、御動座也《ごどうざなり》。
[#ここで字下げ終わり]
と記《しる》して居《ゐ》る。されば秀吉《ひでよし》は、此方《このはう》の條件《でうけん》のみを持《も》ち出《だ》し、未《いま》だ長曾我部《ちやうそかべ》の承否《しようひ》奈何《いかん》を確《たしか》めずして、既《すで》に佐々《さつさ》討伐《たうばつ》の爲《た》めに、北國《ほくこく》へ出征《しゆつせい》したのだ。而《しか》して秀吉《ひでよし》の目的《もくてき》の、佐々《さつさ》退治《たいぢ》に止《とゞま》らずして、家康《いへやす》を孤立《こりつ》せしむるにあつた事《こと》は、固《もと》より知《し》る可《べ》しだ。
秀吉《ひでよし》は四|國《こく》の地《ち》を、分割《ぶんかつ》し、阿波《あは》を蜂須賀正勝《はちすかまさかつ》に、讃岐《さぬき》を仙石秀久《せんごくひでひさ》に、伊豫《いよ》を小早川隆景《こばやかはたかかげ》に與《あた》へた。而《しか》して阿波《あは》の一|萬石《まんごく》を赤松則房《あかまつのりふさ》に、讃岐《さぬき》の二|萬石《まんごく》を、十河在安《そがうまさやす》に、伊豫《いよ》の二|萬《まん》三千|石《ごく》を、安國寺惠瓊《あんこくじゑけい》に與《あた》へた。秀吉《ひでよし》が、隆景《たかかげ》、惠瓊《ゑけい》を待《ま》つ、頗《すこぶ》る厚《あつ》かつたのは、中國役《ちゆうごくえき》以來《いらい》の、彼等《かれら》の態度《たいど》を嘉《よ》みし、其《そ》の功勞《こうらう》に酬《むく》ゆる爲《ため》であつたらう。
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黒田孝高《くろだよしたか》語《かた》つて曰《いは》く、内府公《ないふこう》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]の内意《ないい》に、先年《せんねん》兩川《りやうせん》伊豫《いよ》の河野《かうの》が救《すく》ひとして、數度《すど》出陣《しゆつぢん》の事《こと》聞召《きこしめし》、今度《このたび》豫州《よしう》を隆景《たかかげ》に宛行也《あておこなふなり》。來年《らいねん》は九|州《しう》征伐《せいばつ》の事《こと》思召立《おぼしめした》ちあり、吉川元春《きつかはもとはる》は、隱居《いんきよ》たりと云《い》へども、弓矢《ゆみやの》巧者《こうしや》なれば、先陣《せんぢん》の事《こと》、御頼《おんたのみ》有《あ》るべきと思召《おぼしめ》され候《さふらふ》。九|州《しう》平均《へいきん》の上《うへ》、筑前《ちくぜん》一|國《こく》を、元春《もとはる》に參《まゐらす》べく候《さふらふ》。〔南海通紀〕[#「〔南海通紀〕」は1段階小さな文字]
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是《こ》れ或《あるひ》は、秀吉《ひでよし》の意中《いちゆう》にてありしならむ歟《か》。
四|國《こく》の平定《へいてい》に就《つい》ても、小瀬甫菴《こせほあん》は、左《さ》の如《ごと》き言《げん》を做《な》した。
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三|月《ぐわつ》(?)上旬《じやうじゆん》に出勢《しゆつぜい》有《あり》て、七|月《ぐわつ》中旬《ちゆうじゆん》に四|國《こく》を平均《へいきん》に治《をさ》められし事《こと》、只《たゞ》秀吉公《ひでよしこう》の才智《さいち》|有[#レ]餘《あまりある》より、はかの行事《ゆくこと》、流水《りうすゐ》の如《ごと》く有《ある》に依《よ》つてなり。秀長《ひでなが》、秀次《ひでつぐ》の思慮《しりよ》のみならば、中々《なか/\》かくあらじ。思《おも》へば/\萬事《ばんじ》、上《かみ》一|人《にん》に、下《しも》は應《おう》ずる事《こと》、符節《ふせつ》を合《がつ》するよりも甚《はなはだ》し。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れ實《じつ》に一|理《り》ある讃評《さんぴやう》ぢや。されど秀吉《ひでよし》の成功《せいこう》は、單《たん》に才智《さいち》有餘《あまりある》の四|字《じ》にては盡《つ》きて居《を》らぬ。彼《かれ》が大局《たいきよく》の見渡《みわた》しが能《よ》く附《つ》き、恒《つね》に大勢《たいせい》を支配《しはい》して、能《よ》く之《これ》を指導《しだう》したからぢや。彼《かれ》の大網《おほあみ》には、何物《なにもの》をも籠絡《ろうらく》した。乃《すなは》ち家康《いへやす》の如《ごと》き怪物《くわいぶつ》さへも、遂《つ》ひに已《や》むを得《え》ず籠絡《ろうらく》せられた。是《こ》れ亦《ま》た彼《かれ》が大勢《たいせい》を味方《みかた》にしたからであつた。

[#5字下げ][#中見出し]【九〇】佐々成政の投降[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は未《いま》だ四|國《こく》平定後《へいていご》の、跡始末《あとしまつ》を附《つ》くるに遑《いとま》あらずして、天正《てんしやう》十三|年《ねん》八|月《ぐわつ》四|日《か》、五|日《か》に其《そ》の先手《さきて》を立《た》たしめ、同《どう》六|日《か》に自《みづ》から北國《ほくこく》征討《せいたう》の途《みち》に就《つ》いた。是《こ》れ北國《ほくこく》は冬《ふゆ》の來《きた》る早《はや》くして、其《そ》の期《き》に先《さきだ》つて、活動《くわつどう》するの必要《ひつえう》あるが爲《た》めだ。元來《ぐわんらい》秀吉《ひでよし》は紀州《きしう》平定後《へいていご》、四|國《こく》、北國《ほくこく》の處分《しよぶん》をば、殆《ほと》んど同時《どうじ》に擧行《きよかう》す可《べ》き筈《はず》であつた。されば四|國《こく》の大勢《たいせい》既《すで》に定《さだま》るを見《み》るや、其機《そのき》を逸《いつ》せず、直《たゞ》ちに北國《ほくこく》に出掛《でか》けたのは、其《そ》の豫定《よてい》の行動《かうどう》である。
小牧役《こまきえき》に際《さい》して、加賀《かが》の前田利家《まへだとしいへ》、越後《ゑちご》の上杉景勝《うへすぎかげかつ》は、越中《ゑつちゆう》の佐々成政《さつさなりまさ》を前後《ぜんご》より牽掣《けんせい》した。成政《なりまさ》も末森城《すゑもりじやう》の後詰《ごづめ》失敗《しつぱい》以來《いらい》、遂《つ》ひに大《おほ》いに其力《そのちから》を、逞《たくまし》うするを得《え》なかつたが、虎《とら》の穴《あな》に藏《ざう》する如《ごと》く、越中《ゑつちゆう》に楯《た》て籠《こも》つた。佐々《さつさ》、前田《まへだ》は互《たが》ひに小《こ》ぜり合《あひ》をなしつゝ、相對峙《あひたいじ》した。前田《まへだ》の鳥越城《とりごえじやう》は、往《さき》に佐々《さつさ》の奪《うば》ふ所《ところ》となり、前田《まへだ》は之《これ》を取《と》り返《かへ》さんと、屡《しばし》ば之《これ》を攻《せ》めたが、佐々《さつさ》の守將《しゆしやう》久世但馬守《くぜたじまのかみ》、堅持《けんぢ》して下《くだ》らなかつた。天正《てんしやう》十三|年《ねん》七|月《ぐわつ》廿八|日《にち》、越中《ゑつちゆう》の先方侍《さきがたさむらひ》青城主《あをじやうしゆ》菊池右衞門入道《きくちうゑもんにふだう》、其子《そのこ》八|代《しろ》十|郎《らう》、成政《なりまさ》を背《そむ》いて利家《としいへ》に從《したが》ひ。此《これ》が爲《た》めに久世《くぜ》も鳥越《とりごえ》を致《いた》して、森山《もりやま》に去《さ》つた。而《しか》して七|月《ぐわつ》十七|日《にち》には、秀吉《ひでよし》は蜂屋頼隆《はちやよりたか》を以《もつ》て、其《そ》の親征《しんせい》の期日《きじつ》を利家《としいへ》に報《はう》じ、併《あは》せて軍令《ぐんれい》を頒《わか》つた。
秀吉《ひでよし》は例《れい》の如《ごと》く、大軍《たいぐん》を率《ひき》ゐて來《き》た。そは尾張《をはり》、美濃《みの》、伊勢《いせ》、丹後《たんご》、若狹《わかさ》、因幡《いなば》、越前《ゑちぜん》、加賀《かが》、能登《のと》九|國《こく》の衆《しゆう》にして、其《そ》の部將《ぶしやう》は、織田信雄《おだのぶを》、織田信包《おだのぶかね》、前田《まへだ》父子《ふし》、丹羽長重《にはながしげ》、細川忠興《ほそかはたゞおき》、金森近重《かなもりちかしげ》、蜂屋頼隆《はちやよりたか》、宮部繼潤《みやべけいじゆん》、池田輝政《いけだてるまさ》、稻葉典通《いなばすけみち》、森長一《もりながかず》、蒲生氏郷《がまふうぢさと》、木村重茲《きむらしげとし》、中村一氏《なかむらかずうぢ》、堀尾吉晴《ほりをよしはる》、山内一豐《やまのうちかずとよ》、加藤光泰《かとうみつやす》、九|鬼嘉隆等《きよしたから》であつた。されば佐々《さつさ》の抵抗《ていかう》は、所謂《いはゆ》る陽盤魚《ごまめ》の切齒《はぎしり》にて、勝敗《しようはい》の數《すう》は、未《いま》だ戰《たゝか》はざるに分明《ぶんみやう》であつた。
秀吉《ひでよし》は八|月《ぐわつ》十八|日《にち》に、金澤《かなざは》に著《ちやく》した。佐々方《さつさがた》の防禦《ばうぎよ》に就《つい》ては、大村由己《おほむらいうき》は、
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然《しかるに》越中《ゑつちゆうは》|以[#二]國界[#一]《くにざかひをもつて》|爲[#二]※[#「てへん+總のつくり」、第3水準1-84-90]構[#一]《そうがまへとなし》、|引[#二]出山材[#一]《さんざいをひきいだし》、|切[#二]倒大木[#一]《たいぼくをきりたふして》|成[#レ]柵《さくとなす》、|始[#二]倶利伽羅峠左右[#一]《くりからたうげのさいうをはじめ》、鳥越《とりごえ》、竹《たけ》[#(ノ)]|橋《はし》、小原《をばら》、松根《まつがね》、此外《このほかの》取出《とりで》(砦)[#「(砦)」は1段階小さな文字]城《しろ》三十六|也《なり》。根城《ねじろ》木舟《きぶね》、森山《もりやま》、益山《ますやま》、富山等《とやまとう》十|餘箇所《よかしよ》、以上《いじやう》國中《こくちゆう》東西之《とうざいの》固《かため》、|拵[#二]五十八箇所[#一]《ごじふはちかしよをこしらへて》|防[#レ]之《これをふせぐ》。
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と記《しる》して居《ゐ》る。乃《すなは》ち越中《ゑつちゆう》一|國《こく》を擧《あ》げて城《しろ》となした譯《わけ》だ。然《しか》も亦《ま》た『末森城《すゑもりき》』には、森山《もりやま》、木船《きぶね》、井波《ゐなみ》、其外《そのほか》城々《しろ/″\》を引拂《ひきはら》ひ、富山《とやま》神通川《じんづうがは》を前《まへ》に當《あ》て、萬死《ばんし》一|生《しやう》の合戰《かつせん》して、討死《うちじに》せんと願《ねが》ひけりとある、何《いづ》れにしても佐々《さつさ》に取《と》りては、危急存亡《ききふそんばう》の一|時《じ》であつた。
秀吉《ひでよし》は廿|日《か》に倶利伽羅峠《くりからたふげ》を越《こ》え、砥波山《となみやま》を凌《しの》ぎ、八|幡嶺《まんみね》に上《のぼ》り、越中《ゑつちゆう》一|國《こく》の形勢《けいせい》を縱觀《じゆうくわん》し、諸兵《しよへい》の向《むか》ふ可《べ》き部署《ぶしよ》を定《さだ》めた。廿四|日《か》には、八|幡嶺《まんみね》の假城《かりじやう》成《な》りて、此處《こゝ》に同月《どうげつ》の晦日迄《みそかまで》滯陣《たいぢん》した。而《しか》して當時《たうじ》恰《あたか》も暴風雷雨《ばうふうらいう》にて、洪水《こうずゐ》横流《わうりう》し、戰鬪《せんとう》の便《べん》なく、兩軍《りやうぐん》相《あ》ひ對峙《たいじ》したが。佐々《さつさ》も到底《たうてい》戰《たゝか》ふの不利《ふり》なるを見《み》、織田信雄《おだのぶを》に頼《よ》り、削髮《さくはつ》染衣《せんい》して降《かう》を乞《こ》うた。
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|於[#レ]是《こゝにおいて》佐々陸奧守成政《さつさむつのかみなりまさ》倩《つら/\》|案[#レ]之《これをあんずるに》、|於[#二]本朝[#一]《ほんてうにおいては》、殿下《でんかと》|無[#下]爭[#レ]鋒者[#上]《ほこさきをあらそふものなし》。殊《ことに》今度《このたびの》謀反之事《むほんのこと》、|非[#二]人科[#一]《ひとのとがにあらずして》、吾《わが》|所[#レ]作《なすところの》殃也《わざはひなり》。‥‥|輕[#レ]命《いのちをかろんじて》|凌[#二]木舟川《きぶねがは》、庄川《しやうがは》、神通川所々洪水[#一]《じんつうがはしよ/\のこうずゐをしのぎ》、二十九|日《にち》夜半《やはん》|走[#二]入殿下柳營[#一]《でんかのりうえいにはせいる》者也《ものなり》。織田亞相信雄卿《おだあしやうのぶをきやう》|爲[#レ]之《これがために》|加[#レ]言《ことばをくはへ》、謹《つゝしんで》|乞[#二]赦免[#一]《しやめんをこふ》。殿下《でんか》強《しひて》|雖[#レ]惡[#レ]怨《うらみをにくむといへども》、|以[#二]舊知之故[#一]《きうちのゆゑをもつて》、|憐[#レ]之《これをあはれみ》|助[#レ]命《いのちをたすく》。
[#ここで字下げ終わり]
とは、大村由己《おほむらいうき》の記《き》する所《ところ》である。吾人《ごじん》は秀吉《ひでよし》の寛大《くわんだい》を識認《しきにん》せざらんとするも能《あた》はず。彼《かれ》は前《さき》には瀧川一益《たきがはかずます》の、再度《さいど》の反覆《はんぷく》をも宥恕《いうじよ》して、其《そ》の一|命《めい》を取《と》り留《と》めしめた。乃《すなは》ち佐々成政《さつさなりまさ》の如《ごと》きも、既《すで》に再度《さいど》の降參《かうさん》である。若《も》し信長《のぶなが》をして、此《これ》に處《しよ》せしめば、切腹《せつふく》申附《まをしつけ》の如《ごと》きは、寧《むし》ろ寛典《くわんてん》と云《い》はねばならぬ。然《しか》るに秀吉《ひでよし》は、此《こ》の反側子《はんそくし》を容《い》れ、新川《にひかは》一|郡《ぐん》を與《あた》へ、却《かへつ》て舊友《きういう》として、彼《かれ》を優待《いうたい》し、大阪《おほさか》に伴《ともな》うて、其《そ》の咄相手《はなしあひて》とした。
此《こ》れは彼《かれ》が速《すみや》かに天下《てんか》を統《とう》一したる、英雄《えいゆう》の微權《びけん》、霸者《はしや》の妙機《めうき》とも云《い》ふ可《べ》きであるが。然《しか》も寧《むし》ろ秀吉《ひでよし》其人《そのひと》の本來《ほんらい》の面目《めんもく》が、實《じつ》に此《かく》の如《ごと》きものであつたと見《み》るが、正當《せいたう》の解釋《かいしやく》ではあるまい乎《か》。秀吉《ひでよし》は、英雄《えいゆう》の氣量《きりやう》ありしのみならず、亦《ま》た英雄《えいゆう》の心膓《しんちやう》の持主《もちぬし》であつた。此《こ》の心膓《しんちやう》が、即《すなは》ち彼《かれ》をして百|世《せい》の下《もと》、尚《な》ほ人《ひと》を心醉《しんすゐ》せしむる所以《ゆゑん》ぢや。

          ―――――――――――――――
[#6字下げ][#小見出し]成政秀吉に降る[#小見出し終わり]

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秀吉公御仕留の爲め、御出馬なさる、利家、其時は越中の御先手にて、呉服山の下に御入り候、其時、内藏助御詫言相濟み、秀吉公へ御禮に參られ候、利家の御陣所の前を、十人計り召連れ、罷通り申され候時、笑ひ候へと仰せ候間、皆々笑立て候へば、内藏助殿、面目之なき體にて通られ候て、秀吉公へ御禮申上げられ候、其時新川郡一郡、佐々へ下され、殘る越中三郡、利家へ遣され候時分、御意には、是れ又、又左衞門鑓先にて御取り候へば、指して恩にも請けらるまじと、秀吉公仰せられ候、殊に羽柴筑前守と、御名字御名とも仰付られ候、扨々古今稀なる事共なり、其後、不破彦三、村井又兵衞兩人召出され、金子五枚に御道服下され、度々骨折の由、上形にて聞召され候、其上此度の樣子、利家申聞けられ候由、御懇意なり、其夜、殘る家老共四五人召出され、御道服、時服等、夫々に下され候由に御座候へ共、利家の御咄に承らず候故、こまやかに書付け申さず候、此等秀吉公御歸の節、加賀殿を是非と仰せられ、御※[#「口+羅」、第3水準1-15-31]《もらひ》なされ、御上京なされ候事。〔利家夜話〕
[#ここで字下げ終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【九一】四國北國平定後の處分[#中見出し終わり]

當時《たうじ》秀吉《ひでよし》の手《て》は、四|國《こく》と、北國《ほくこく》とに働《はたら》いたが、其心《そのこゝろ》は恐《おそ》らくは、專《もつぱ》ら家康《いへやす》の處分《しよぶん》如何《いかん》にあつたらう。天正《てんしやう》十三|年《ねん》七|月《ぐわつ》八|日《か》附《づけ》を以《もつ》て、千利休《せんのりきう》が、京都《きやうと》より、丹波《たんば》にある細川忠興《ほそかはたゞおき》の老臣《らうしん》、松井康之《まつゐやすゆき》に答《こた》へたる書中《しよちゆう》にも、『四|國事《こくのこと》は|不[#レ]及[#レ]申《まをすにおよばず》、北國《ほくこく》も相濟候《あひすみさふらふ》。|從[#二]家康[#一]《いへやすより》年寄衆《としよりしゆう》人質《ひとじち》渡《わたし》申候《まをしさふらふ》か。|不[#レ]然《しからざれば》藏助《くらのすけ》(佐々成政)[#「(佐々成政)」は1段階小さな文字]國《くに》を明候《あけさふらふ》て、内府樣《ないふさま》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]へ渡《わた》り申候《まをしさふらふ》、是《この》二つに相定《あひさだまる》。』とある。即《すなは》ち家康《いへやす》の方《はう》より任意的《にんいてき》に、其《そ》の諸老臣《しよらうしん》の質子《ちし》を出《いだ》す乎《か》。左《さ》なくば佐々《さつさ》討伐《たうばつ》の後《のち》を待《まつ》て、秀吉《ひでよし》より強制的《きやうせいてき》に之《これ》を出《いだ》さしむる乎《か》の、二|者《しや》に定《さだま》つたとある。然《しか》も一|歩《ぽ》を進《すゝ》めて考《かんが》へ見《み》よ、家康《いへやす》が之《これ》に應《おう》ぜざる場合《ばあひ》は奈何《いかん》。されば大局《たいきよく》より見《み》れば、佐々《さつさ》征服《せいふく》の如《ごと》きも、要《えう》するに秀吉《ひでよし》對《たい》家康《いへやす》の、取組《とりくみ》の準備行動《じゆんびかうどう》の一と、認《みと》む可《べ》きであらう。
如何《いか》に秀吉《ひでよし》の北國《ほくこく》に於《お》ける、運動《うんどう》の敏快《びんくわい》、迅速《じんそく》なりしかは、大村由己《おほむらいうき》の所記《しよき》にて、分明《ぶんみやう》ぢや。
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閏《うるふ》八|月《ぐわつ》朔日《ついたち》|陣[#二]替宮野[#一]《みやのにぢんがへ》。二|日《か》御服山《ごふくやま》御動座《ごどうざ》、富山《とやまを》|有[#二]台覽[#一]《たいらんあり》。三|日《か》御服山《ごふくやまに》前田《まへだ》|進[#二]御茶[#一]《おんちやをすゝめ》、四|日《か》五|日《か》、|靜[#二]一國中[#一]《いつこくのうちをしづめて》|定[#レ]掟《おきてをさだむ》。|從[#二]越後[#一]《ゑちごより》|有[#二]使札[#一]《しさつあり》、|從[#レ]是《これより》又《また》|遣[#二]使札[#一]《しさつをつかはす》。將又《はたまた》飛騨《ひだの》國司《こくし》姉小路左京太夫頼綱《あねこうぢさきやうだいふよりつな》父子《ふし》、|無[#レ]屬[#二]殿下[#一]《でんかにぞくするなく》、剩《あまつさへ》|成[#二]不思議働[#一]《ふしぎのはたらきをなす》、|依[#レ]之《これにより》|遣[#二]金森五郎八[#一]《かなもりごろはちをつかはし》、彼《かれの》一類《いちるゐに》|切[#レ]腹《はらをきらせ》|取[#レ]首《くびをとり》|備[#二]實檢[#一]《じつけんにそなふ》。兩國《りやうごく》一篇《いつぺん》、六|日《か》還御也《くわんぎよなり》。
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即《すなは》ち秀吉《ひでよし》は、閏《うるふ》八|月《ぐわつ》一|日《じつ》より越中《ゑつちゆう》一|國《こく》の掟《おきて》を定《さだ》め、越後《ゑちご》の上杉景勝《うへすぎかげかつ》と音信《いんしん》を交換《かうくわん》し、飛騨《ひだの》國司《こくし》を處分《しよぶん》し、之《これ》を統《とう》一し、六|日《か》には凱旋《がいせん》の途《と》に就《つ》いたのだ。
秀吉《ひでよし》は同《どう》十|日《か》に、江州《がうしう》坂本城《さかもとじやう》に著《ちやく》し、此處《ここ》にて論功行賞《ろんこうかうしやう》を了《を》へた。秀長《ひでなが》は四|國《こく》總帥《そうすゐ》としての戰功《せんこう》を以《もつ》て、大和《やまと》紀伊《きい》に封《ほう》ぜられ、長曾我部元親《ちやうそかべもとちか》には、土佐《とさ》一|國《こく》を與《あた》へ、筒井定次《つゝゐさだつぐ》には、伊賀《いが》一|國《こく》を與《あた》へ、何《いづ》れも秀長《ひでなが》に屬《ぞく》せしめた。而《しか》して秀長《ひでなが》をして、大和《やまと》郡山《こほりやま》に其《そ》の本城《ほんじやう》を構《かま》へしめた。秀次《ひでつぐ》に近江《あふみ》を與《あた》へ、八|幡山《まんやま》に、居城《きよじやう》を定《さだ》めしめ、中村一氏《なかむらかずうぢ》、堀尾吉晴《ほりをよしはる》、一柳直末《ひとつやなぎなほすゑ》、山内一豐等《やまのうちかずとよら》をして、之《これ》を輔佐《ほさ》せしめた。伊豫《いよ》を小早川隆景《こばやかはたかかげ》に、阿波《あは》を蜂須賀正勝《はちすかまさかつ》、家政《いへまさ》父子《ふし》に、讃岐《さぬき》を仙石秀久《せんごくひでひさ》、十河存保《そがうまさやす》、及《およ》び安富《やすとみ》に、淡路《あはぢ》を脇坂安治《わきさかやすはる》、加藤嘉明《かとうよしあき》に。但馬《たじま》に前野《まへの》、赤松《あかまつ》、別所重棟《べつしよしげむね》、明石則實等《あかしのりざねら》を分封《ぶんぽう》し、播磨《はりま》の一|半《ぱん》を近臣等《きんしんら》に頒與《はんよ》し。其他《そのた》龍野《たつの》を福島正則《ふくしままさのり》に、三木城《みきじやう》に中川秀政《なかがはひでまさ》を移《うつ》し、明石《あかし》を高山右近《たかやまうこん》に、攝津《せつつ》は其《そ》の昵近衆《ぢつきんしゆう》に與《あた》へ。若狹《わかさ》を丹羽長重《にはながしげ》に、越前《ゑちぜん》三十|萬石《まんごく》を堀秀政《ほりひでまさ》に、十五|萬石《まんごく》を長谷川秀一《はせがはひでかず》に、十|萬石《まんごく》を木村重茲《きむらしげとし》に、金森《かなもり》に五|萬石《まんごく》、蜂屋《はちや》に五|萬石《まんごく》を頒《わか》つた。而《しか》して前田利家《まへだとしいへ》には能登《のと》一|國《こく》、加賀《かが》半國《はんごく》に加《くは》へて、其子《そのこ》利長《としなが》に與《あた》ふるに、越中《ゑつちゆう》一|國《こく》を以《もつ》てし、其中《そのうち》の新川郡《にひかはごほり》を割《さ》いて、佐々成政《さつさなりまさ》に與《あた》へ、飛騨《ひだ》を佐藤《さとう》六|左衞門尉《ざゑもんのじよう》に與《あた》へた。
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|渡[#二]以上十七箇國知行[#一]《いじやうじふしちかこくのちぎやうをわたし》、|辨[#二]大綱[#一]《たいかうをわきまへて》、|入[#二]麁細[#一]《そさいにいり》、三|箇日之《がにちの》内《うちに》相究《あひきはむる》者也《ものなり》。寔《まことに》|非[#二]天才[#一]《てんさいにあらざれ》者《ば》、爭《いかでか》|制[#レ]之《これをせいせん》。玄《げんなる》哉《かな》、妙《みやうなる》哉《かな》。〔四國御發向並北國御動座事〕[#「〔四國御發向並北國御動座事〕」は1段階小さな文字]
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とは、大村由己《おほむたいうき》の讃《さん》する所《ところ》。三|日《か》にして、此《こ》の大措置《だいそち》を成就《じようじゆ》したるは、流石《さすが》に遊刄《いうじん》餘《あま》りある、秀吉《ひでよし》の手腕《しゆわん》と云《い》はねばなるまい。
北國《ほくこく》は當初《たうしよ》柴田《しばた》の繩張《なはばり》にて、續《つゞい》て丹羽長秀《にはながひで》越前《ゑちぜん》に、佐々成政《さつさなりまさ》越中《ゑつちゆう》に、前田利家《まへだとしいへ》加賀《かが》にあり。長秀《ながひで》を長老《ちやうらう》として、前田《まへだ》、佐々《さつさ》は互《たが》ひに隣敵《りんてき》として、相下《あひくだ》らなかつた。然《しか》も長秀《ながひで》既《すで》に死《し》し、佐々《さつさ》既《すで》に秀吉《ひでよし》に降《くだ》り、爾後《じご》北國《ほくこく》は、殆《ほと》んど前田《まへだ》の獨舞臺《ひとりぶたい》となつた。大村由己《おほむらいうき》は、長秀《ながひで》の遺言《ゆゐごん》にて、越前《ゑちぜん》は秀吉《ひでよし》に返上《へんじやう》したと記《しる》して居《を》るが。其實《そのじつ》は長秀《ながひで》死後《しご》、其《そ》の老臣《らうしん》成田彌《なりたや》八|郎《らう》、秀吉《ひでよし》の越中《ゑつちゆう》に入《い》るに際《さい》して、佐々《さつさ》と秀吉《ひでよし》を挾撃《けふげき》せんと企《くはだ》て、其議《そのぎ》蚤《はや》くも秀吉《ひでよし》に洩《も》れ聞《きこ》え。此《これ》が爲《た》めに丹羽氏《にはし》は、其遺領《そのゐりやう》を削減《さくげん》せられ、長束《ながつか》、村上《むらかみ》、溝口《みぞぐち》、青山《あをやま》、青木等《あをきら》の諸與力《しよよりき》は、悉《こと/″\》く秀吉《ひでよし》の直參《ぢきさん》となつたと云《い》ふ〔藩翰譜〕[#「〔藩翰譜〕」は1段階小さな文字]説《せつ》もある。
若《もし》夫《そ》れ前田利家《まへだとしいへ》に對《たい》しては、秀吉《ひでよし》は感謝《かんしや》、恩遇《おんぐう》、兩《ふたつ》ながら其《そ》の優渥《いうあく》を極《きは》めた。
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能登《のと》は自《みづか》ら從《したが》へし國《くに》なれば、秀吉《ひでよし》に參《まゐ》らするに及《およ》ばず、知行《ちぎやう》せらる可《べ》きこと勿論《もちろん》なり。其賞《そのしやう》などか無《なか》るべきとて、敍爵《じよしやく》させ、我《わ》が名字《みやうじ》をも官《くわん》をも讓《ゆづ》りて、羽柴筑前守《はしばちくぜんのかみ》と名《な》のらせ、子息《しそく》も劣《おと》らぬ人《ひと》なれば、同《おな》じく名字《みやうじ》をまゐらせ敍爵《じよしやく》させ、羽柴筑前守《はしばちくぜんのかみ》になさる。‥‥秀吉《ひでよし》佐々《さつさ》を攻降《せめくだ》し、越中國《ゑつちゆうのくに》三|郡《ぐん》を割《さ》いて、利家《としいへ》此《これ》を領《りやう》せんこと一|兩年《りやうねん》、其後《そのご》は子息《しそく》利長《としなが》に讓《ゆづ》るべしとてたびてけり。
[#地から1字上げ]〔藩翰譜〕[#「〔藩翰譜〕」は1段階小さな文字]
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爾來《じらい》前田氏《まへだし》は、北國《ほくこく》の雄鎭《ゆうちん》として、一|方《ぱう》に龍蟠虎踞《りゆうばんこきよ》した。然《しか》も其《そ》の中原《ちゆうげん》に向《むか》つて、天下《てんか》を爭《あらそ》ふ機會《きくわい》を得《え》なかつた所以《ゆゑん》も、亦《ま》た恐《おそ》らくは此《これ》が爲《た》めであつたらう。
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