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高島秀彰、入力 [#4字下げ][#大見出し]第十七章 北陸に於ける戰局[#大見出し終わり] [#5字下げ][#中見出し]【八一】北陸方面[#中見出し終わり] 佐々《さつさ》が家康《いへやす》、信雄《のぶを》と談合《だんがふ》したるは、天正《てんしやう》十二|年《ねん》四|月《ぐわつ》頃《ごろ》なるに、其《そ》の兵《へい》を動《うご》かしたるは、八|月《ぐわつ》の末《すゑ》、九|月《ぐわつ》の始《はじめ》なるは、聊《いさゝ》か手後《ておく》れの樣《やう》である。併《しか》し『利家夜話《としいへやわ》』によれば、彼《かれ》は擧兵《きよへい》談合《だんがふ》の後《のち》、故《ことさ》らに其《そ》の娘《むすめ》をば、前田利家《まへだとしいへ》の一|子《し》に嫁《か》せしめ、追々《おひ/\》は其子《そのこ》を婿養子《むこやうし》にし、跡目《あとめ》を讓《ゆづ》る可《べ》しと申込《まをしこ》み、利家《としいへ》の承諾《しようだく》を經《へ》。愈《いよい》よ其《そ》の實行《じつかう》と云《い》ふ間際《まぎは》に於《おい》て、七八|月《ぐわつ》は、祝儀月《しうぎづき》にあらずと、延期《えんき》したとある。惟《おも》ふに其間《そのあひだ》に、擧兵《きよへい》の準備《じゆんび》をしたのであらう。 佐々《さつさ》の陰謀《いんぼう》が、前田方《まへだがた》に偵智《ていち》せられたのは、八|月《ぐわつ》中旬《ちゆうじゆん》で。佐々《さつさ》が利家《としいへ》の長臣《ちやうしん》、村井長頼等《むらゐながよりら》の守備《しゆび》したる朝日山《あさひやま》へ、人數《にんず》を出《いだ》したるは、八|月《ぐわつ》廿八|日《にち》とある。當時《たうじ》村井《むらゐ》は、彼《かれ》を金澤《かなざは》より見舞《みまひ》に來《きた》りし兩士《りやうし》をして、急《きふ》に利家《としいへ》に告《つ》げしめ、且《か》つ傳言《でんごん》した。『各《おの/\》歸《かへつ》て利家《としいへ》へ|被[#二]申上[#一]候《まをしあげられさふら》へ、我等《われら》打死之《うちじにの》沙汰《さた》|有[#レ]之候《これありさふら》はゞ、城《しろ》より内《うち》に骸《むくろ》は有《ある》まじく候《さふらふ》。』と、然《しか》も大雨《たいう》の爲《た》めに、敵《てき》も退《しりぞ》いた。 之《こ》れが爲《た》めに前田氏《まえだし》の、北陸《ほくろく》に於《お》ける一|大武勳《だいぶくん》は、此《こ》の朝日山《あさひやま》に於《おい》てせずして、能州末森《のうしうすゑもり》であつた。此處《こゝ》は能登《のと》、加賀《かが》の堺目《さかひめ》にて、最《もつと》も要衝《えうしよう》の場所《ばしよ》なれば、利家《としいへ》は奧村永福《おくむらながよし》を、侍大將《さむらひだいしやう》として、此《こゝ》に在城《ざいじやう》せしめた。而《しか》して案《あん》の如《ごと》く、佐々成政《さつさなりまさ》の大兵《たいへい》は、天正《てんしやう》十二|年《ねん》九|月《ぐわつ》十一|日《にち》、此城《このしろ》に殺到《さつたう》した。 [#ここから1字下げ] 敵《てき》凱歌《がいか》を唱《とな》へ、きり/\と取廻《とりまは》し、稻麻竹葦《たうまちくゐ》の如《ごと》く取卷《とりまき》、持楯《もちだて》掻楯《かいだて》、つきよせ/\螺鐘《かひがね》を鳴《なら》し、鐵砲《てつぱう》の音《おと》、矢叫《やさけび》の聲《こゑ》、寔《まこと》百千の雷《いかづち》も、唯《たゞ》一|度《ど》に鳴落《なりおつ》る計《ばかり》に、喚叫《わめきさけん》でぞ攻《せめ》たりける。去共《されども》助右衞門尉《すけゑもんのじよう》中《なか》/\事共《こととも》せず、士卒《しそつ》の機《き》を勵《はげま》し、堅固《けんご》にこそは抱《かゝ》へけれ。‥‥奧村《おくむら》が妻《つま》つねは心《こゝろ》もいと靜《しづか》に、萬《よろづ》の事《こと》に物畏《ものおそ》れをし、青柳《おをやぎ》の絲《いと》をも欺《あざむ》く計《ばかり》に、強《つよ》からぬ女性《によしやう》なるが、信長公《のぶながこう》の御母堂《ごぼだう》の事《こと》聞《きゝ》つる事《こと》ありとて、甲斐《かひ》/″\しき女房《にようばう》二三|相伴《あひともな》ひ、長刀《なぎなた》を横《よこ》たへ、夜晝《よるひる》の境《さかひ》を分《わ》かず、城《しろ》を打廻《うちまは》り、戰疲《たゝかひつか》れ眠《ねむ》り勝《がち》なる番衆《ばんしゆう》をば、事《こと》の外《ほか》に怒《いか》り禁《いまし》め、或《あるひ》は穩《おだや》かにも睡《ねむり》を覺《さ》まし、或《あるひ》は忽《ゆるが》せも無《な》く、番《ばん》を勤《つと》めぬる處《ところ》をば、假名《けみやう》實名《じつみやう》を記《しる》し付《つけ》、嘸《さぞ》草臥《くたび》れ候《さふらふ》らめ。頓《やが》て金澤《かなざは》より後卷《うしろまき》なさるべきとの事《こと》にて、御座《おは》します抔《など》と云《い》ひ慰《なぐさ》め、或時《あるとき》は粥《かゆ》を大器《たいき》に入《い》れ抔《など》させつゝ、所勞《しよらう》の程《ほど》を感《かん》じ、或時《あるとき》は夜寒《よざむ》の袖《そで》の露《つゆ》を拂《はら》はんが爲《た》め、紅葉《こうえふ》を焚《た》き、酒《さけ》を煖《あたゝ》め、塀裏《へいうら》の睡《ねむり》を覺《さま》しければ、‥‥諸卒《しよそつ》の心《こゝろ》一|致《ち》し、頼母《たのも》しうぞ見《みえ》たりける。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字] [#ここで字下げ終わり] 奧村夫妻《おくむらふさい》は、必死《ひつし》の覺悟《かくご》にて、籠城《ろうじやう》した。然《しか》も敵《てき》は多《おほ》く、兵粮《ひやうらう》は少《すくな》く、其《そ》の運命《うんめい》も既《すで》に旦夕《たんせき》に迫《せま》つた。利家《としいへ》は奧村《おくむら》を信《しん》じ切《き》つて居《ゐ》た。奧村《おくむら》は信長公《のぶながこう》の御朱印《ごしゆいん》をも用《もち》ひず、荒子《あらこ》の城《しろ》を、他《た》に渡《わた》さゞりし程《ほど》の強《がう》の者《もの》だ。縱令《たとひ》切腹《せつぷく》しても、開城抔《かいじやうなど》は致《いた》さゞること必定《ひつぢやう》である。いざ後詰《ごづめ》せんと、利家《としいへ》は其《そ》の長子《ちやうし》利長《としなが》を催《もよほ》した。 [#ここから1字下げ] 扨《さて》利家御父子《としいへごふし》津幡《つばた》へ御着《おんちやく》|被[#レ]成候《なされさふらふ》時《とき》、前田右近《まへだうこん》|被[#レ]申候《まをされさふらふ》は、末森《すゑもり》は最早《もはや》落城《らくじやう》|可[#レ]仕《つかまつるべし》と存候《ぞんじさふらふ》。是《これ》にて御待《おまち》|被[#レ]成《なされ》|可[#レ]然《しかるべき》由《よし》|被[#レ]申候《まをされさふらふ》。利家《としいへ》御申候《おんまをしさふらふ》は、若《わか》き時《とき》より武篇《ぶへん》は|不[#レ]被[#レ]存《ぞんぜられず》、|於[#二]内藏介[#一]《くらのすけにおいて》は、一|度《ど》も|被[#レ]越《こされ》たる事《こと》|無[#レ]之候《これなくさふらふ》。奧村介右衞門《おくむらすけうゑもん》捨殺候《すてころしさふらふ》ては、我《わが》存命《ぞんめい》も何歟《なにか》せんと、異見《いけん》を御用《おもち》|不[#レ]被[#レ]成候《なされずさふらふ》。 [#地から1字上げ]〔利家夜話〕[#「〔利家夜話〕」は1段階小さな文字] [#ここで字下げ終わり] 利家《としいへ》は又《ま》た、右近《うこん》の進言《しんげん》にて、其《そ》の戰機《せんき》を占《うらな》はしむべく、宗與《そうよ》と云《い》ふ博士《はかせ》を召《め》した。 [#ここから1字下げ] 彼博士《かのはかせ》罷出《まかりいで》、書物抔《しよもつなど》を取出《とりいだ》すを|被[#レ]成[#二]御覽[#一]《ごらんなされ》、兎角《とにかく》此又左衞門《このまたざゑもん》(利家)[#「(利家)」は1段階小さな文字]は後卷《うしろまき》するぞ、能《よ》く見《み》よと御叱《おしか》り聲《ごゑ》に|被[#レ]仰候《おほせられさふら》へば。博士《はかせ》書物《しよもつ》を懷中《くわいちゆう》し、如何《いか》にも時分《じぶん》も本《ほん》も一|段《だん》と能《よ》く御座候《ござさふらふ》、早々《はや/″\》御出馬《ごしゆつば》|被[#レ]遊《あそばされ》|可[#レ]然《しかるべし》。と御氣色《みけしき》に應《おう》じ申上候得《まをしあげさふらえ》ば、扨《さて》も/\機轉《きてん》心得《こゝろえ》たる博士也《はかせなり》。|得[#二]大利[#一]《たいりをえ》頓《やが》て褒美《はうび》|可[#二]申付[#一]《まをしつくべし》と御笑候《おわらひさふらひ》て、御立《おたち》あるを、上下《しようか》能《よ》き大將《たいしやう》哉《かな》と申《まをし》けり。〔利家夜話〕[#「〔利家夜話〕」は1段階小さな文字] [#ここで字下げ終わり] 利家《としいへ》は他日《たじつ》、其《そ》の後輩《こうはい》加藤清正《かとうきよまさ》、淺野幸長等《あさのよしながら》に向《むか》ひ、當時《たうじ》我《わ》が跡《あと》につゞく味方《みかた》、二千五六百に過《す》ぎず、されど必死《ひつし》の二千五六百は、敵《てき》の三|萬《まん》にも相當《あひあた》るべしと覺悟《かくご》して、驀進《ばくしん》したと云《い》ひ、兩人《りやうにん》も至極《しごく》尤《もつとも》と感《かん》じたと云《い》ふ。何《いづ》れにもせよ此《こ》の一|戰《せん》にて、佐々《さつさ》は遂《つ》ひに其志《そのこゝろざし》を、加賀《かが》、能登《のと》に向《むか》つて逞《たくまし》うするを得《え》なかつた。されば小瀬甫菴《こせほあん》が、此《こ》の戰功《せんこう》を評《ひやう》して、 [#ここから1字下げ] 今度《このたび》末森《すゑもり》の後攻《ごぜめ》、敵《てき》の勢《せい》一|萬《まん》五千、味方《みかた》はわづか三四千|之《の》勢《せい》を以《もつて》相戰《あひたゝか》ひ、|達[#二]本意[#一]《ほんいをたつ》せし事《こと》、古今《ここん》稀《まれ》なる後卷《うしろまき》たるべきか。長篠《ながしの》の後攻《ごぜめ》は、武田勢《たけだぜい》三|萬餘騎《まんよき》、信長公《のぶながこう》の勢《せい》は五|萬騎《まんき》なれば、是《これ》は|不[#レ]珍事《めづらしからざること》なるべし。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字] [#ここで字下げ終わり] と云《い》ひしは、至當《したう》の評《ひやう》たるに庶幾《ちか》からん歟《か》。 ――――――――――――――― [#6字下げ][#小見出し]末森城後詰前田利家の武勳[#小見出し終わり] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから2字下げ] 然處に末森よりの注進利家卿へ申處に聞入給と、金澤城には舍弟前田藏人入道、魚住隼人、其外名ある侍共番守として被[#二]殘置[#一]、不破彦三、村井又兵衞兩人を先手大將として金澤を即ち十一日の未の刻に打立給ふ、松任と云所金澤より三里上の方也、利家卿御子息孫四郎、後は肥後守、居城なれば、急出られ候へ、末森の後詰すべしと使者を被[#レ]遣、能州の人數も七尾には前田五郎兵衞父子被[#レ]殘、其外の軍士共不[#レ]殘末森へ可[#二]出向[#一]と被[#二]仰遣[#一]、彼是時刻移り被[#二]打立[#一]候へば未の下刻に成にけり、津幡城まで四里の間を先急がせ給へば、舍弟右近將監御迎に町はづれ迄出向被[#レ]申候、少當城にて人數をも御そろへ又は孫四郎殿をも待請給へと被[#レ]申ければ、去ばとて城に入せ給ふ、とかくの間に戌の刻に利長も津幡城に着せられ、利家卿、利長卿御父子、先手村井又兵衞、不破彦三郎、其外家老大名小名召寄軍の評議あり、先輕々と津幡迄利家出馬ありて軍士共の心を勇め給ふ事、さすが信長公に若年より傍近奉公有て、軍の方便能知て物なれられたる大將と皆一命を捨て討死せん事、露ほども惜からじと勇をなす事かぎりなし、其時大名小名なみ居たる中にて、利家卿御威言には、内藏助とは互に若年より度々の合戰に出會候、然れども此利家をこす事一度もなかりし、其上彼者かぶいたる武邊なれば、敵弱きには得[#二]勝利[#一]事も可[#レ]有[#レ]之、利家を敵にしては中々思もよらず、譬ば夜中の後詰にて候へば、味方の人數小勢、あなたは多勢なりとも討合候に一合戰して大利を得べき事案の内也、かまいて我下知の如くに可[#レ]仕と高らかに宣へば、何れも夜の明たるやうに心も晴て勇けり、扨寺西次郎兵衞入道、前田右近將監など相談して、はや末森城は落去する事可[#レ]有[#レ]之、殊に神保を四千騎にて押へに差出置候ば、とても味方利を失ひ給ふべし、同は末森は捨させ給ひ此所を丈夫に持堅給ひ、秀吉公へ御注進なされ候はゞ此表へ急に出張可[#レ]有[#レ]之、身を全ふして得[#二]大利を[#一]給へと被[#レ]申ければ、利家卿聞召れて殊の外氣色替り、左樣の弱き異見軍士氣を失ふものなり、人は一代名は末代、自國へ一足なり共踏入られ、剩奧村、土井、千秋を捨殺し候へば、天下を知つても人の嘲如何せん、内藏助數萬騎もあらばあれ、我小姓[#「小姓」は底本では「小性」馬廻にてなりとも一合戰して勝負を付べきとの給ひて、頓て村井又兵衞尉を一間所へ召寄られ、とにかくに合戰と思は如何と被[#レ]仰ければ、又兵衞申樣、御意御尤に存候、被[#レ]遂[#二]合戰[#一]然るべきと諫め申せば、利家卿ゑみを含み給ひ、吾心と同事たるは村井にしくはなしと被[#レ]仰はや打立給處に右近將監湯潰御食を取つくろひ上られ、其内に重て被[#二]申上[#一]候は、上手の博士御座候間時取をも見せ御立可[#レ]然と被[#レ]申ければ、御氣色不[#レ]吉ども如何樣共と被[#レ]仰候處に、五十計なる山伏罷出候時、利家卿御覽じて、博士は其方かとの給へば、畏まつて候と山伏ふところより物の本を取出す、其時とかく後詰はする間見よとこは高に被[#レ]仰ければ、彼の入道物の本をふところへ押入、時もよく御座候と利家卿の御氣色見申候て物の本をも見ずして申ければ、事の外御感あり、さても心得たる上手かな、頓得[#二]大利[#一]歸陣候時褒美を遣すべきと被[#レ]仰、御心よげに打立給ふ、利長卿はとかく末森へは御後卷を留給はんと思召、御内の者ども町屋へはいり候故、利家卿俄に打立給ふ故、利長御馬印を津幡町末まで横山三郎持出給ふと聞えし、兼ての如く先手大將不破彦三、村井又兵衞兩人を左右の先をさせ、其付々へ付隨ふ侍大將には原隱岐守、前田又次郎、多野村三郎四郎、式部助十郎、片山内膳、岡島喜三郎、前田慶次、近藤善右衞門、青山與三、其外名ある侍共勇に勇んで懸出たり、「川尻より一里計此方高松と云所にて利家甲の忍ぶ緒を強くしめ、其あまりを切て捨てられければ、何も殿は今日を限りと思召と見えたりとて、中々生て歸らんとて思者はなかりけり。」 爰篠原勘六とて利家卿の傍近召つかはれし者あり、其頃いまだ廿三歳になりしが、ヨコ子を煩起ふしさへ自由ならず候へども、金澤城には舍弟前田藏人と留守仕候べし、合戰の習ひなれば利家討死せば城を隨分持堅め、叶はぬ時は城に火をかけ腹きれと仰けれども、中々請申事は不[#レ]及[#レ]申耳にも不[#二]聞入[#一]、唯々御供可[#レ]仕由、内々は名ある侍共二十騎計利家卿より付置れたる者どもを引具し、乘物にて河尻まで懸つけ爰にて具足着、篠原勘六こそ早來たるよと大音を上進みたる有樣、誠後代まで名を留めんとほめぬ者こそなかりけり、神保安藝守山取して加州勢の押として待かけたれば、利家卿津幡城までは出られたれども、後卷中々なるべからざるに相究りたる由神保より付置目付の者が歸り申に付て、げにもさぞあらんと少油斷して居たる處を、利家卿先手の彦三、又兵衞所へ御出あつて三人被[#レ]成[#二]御談合[#一]見計はれ、濱ばたを一騎討に馬の舌をまかせ懸通「此時川端へ斥候を出し、神保人數を出すや否やを見せしむ、歸て告て曰く、敵こそ備て待候と云々、次に富田越後に被[#レ]仰、勘六を物見に遣す、歸て申云、敵一人も出ず、川杭澤山にして如[#レ]人と云々、利家川杭とは何を見當に仕候やと、越後申すは、武者ならば並そろひ申まじく候、其上指物も有べし、並能くそろひ申候、川中まで馬をのり入心靜に見届申候と云々、諸人尤慥成見樣と感[#レ]之ず、」無[#レ]難旗本までかけ過けり、或はこなたかなた取出に居陣し、又はをくれける侍上下五六百騎、一里ばかりも跡より進かけつけ候を聞付、神保はすは利家こそ只今後詰に通られ候と思ひ鐵砲を打かけさゝへけり、其間利家卿中入して人數押給ふ御いきをい、十商夜百張良が勢ひも是には如何で増るべきと上下感ぜぬものはなかりける、さて今濱と云所の古山なる砂山へ乘上ると、ほの/″\と夜明方になりにけり、其時利家卿御馬を乘廻下知仕給ひ、兵粮つかひ候へと宣ひて味方の人數をつもり見給へば、孫四郎人數七八百騎計、彦三備七百ばかり、又兵衞の備六百騎、御旗本千五百騎餘には過ぎざりけり、利家卿味方の武者いろの御覽じて、はや合戰には勝利をえたるぞと被[#レ]仰ければ、御近所にのりたる徳山五兵衞入道など御意尤と申時、味方人數は六千餘騎あるべきと見えたり、夜中に是へ馳着たる軍士共上下死を輕じたる者なり、敵數萬騎有りとも味方の人數に増るべし、かまへて首ばし取な、唯忠功をはげまし太刀の刄の續くほど打捨にすべしと大音聲にて仰られければ、上下氣をえて夜の明たるやうに覺候けり、扨人數を押給ふ處に道二筋有[#レ]之、一筋は末森へ、今一筋は内藏助本陣つぼゐ山と云所への道也、其にて村井又兵衞、利家卿に向つて申樣は、つぼゐ山に内藏助有[#レ]之、油斷してあるらんなれば、旗下へ切懸り勝負をつけ可[#レ]申由被[#レ]申ければ、利家卿尤に候へどもつぼゐ山にて定て足がゝり能所を見立内藏助陣取るべし、末森は味方の城なれば内外もみ合一戰せば、など勝利を得であるべきとの給ひければ、重而又兵衞身をもだゑて、是非とも内藏助の旗本へ切懸勝負をつけ申さば大將を討事も可[#レ]有と被[#レ]申けれども、利家卿此の合戰の儀は吾下知次第に仕候へと怒て仰ければ、村井力及ばず末森城へ押廻しける、加樣の時分大將に勇を付軍の手立申者一人もなかりけりと、扨もゆゝしき家長かなと利家卿後々迄も感じ給ひける、然處に早村井内にて間野新丞首を取つて來る、小林彌六左衞門、三木十内、屋後太右衞門、其外誰かれと名乘る首十一手に提げ又兵衞に見せ候處に、いそぎ御本陣と被[#レ]申ければ、利家卿の見參に備へけり、物初吉と御感あつて、早今日の軍大利をえんずるしるしには一番首の見樣ありと仰られ候へば、徳山五兵衞入道御尤に御座候、但余御言葉めい/\に御かけ候て御息きれ候へば如何と申されければ、げにもと思召、其後は首持つて參るものにも秀でたる働なきものには大形の御言葉也、扨不破内不破十左衞門、同四郎左衞門、平野齋、其外誰かれと名乘首八つ討取、是も彦三に見せ則利家卿の見參に入ければ、彌御よく思召前後を下知仕給ふ、扨も末森二丸にありける千秋主殿助、瀧澤金右衞門、其外勇士共越中勢責入をふせぎ戰ひ、度々に込入ば追出し手柄を盡すといへども、猛勢なれば事ともせず終に押こまれ、都合百騎計枕をならべ討れにけり、扨こそ本丸計りになりにけり、扨又大手は敵味方入亂村井又兵衞尉、多野村三郎四郎など自身鑓を入散々戰ふ所に、村井又兵衞と越中先手佐々與左衞門と鑓を合、散々につき合ける處に、村井上鑓になりて與左衞門を突伏ける、越中にて先手の大將分なるものなれば兵共助來れり、三十騎計枕をならべ討死す、彌加州勢大將又兵衞自身鑓を合勝利をえたれば、どつとつき崩し勝時を上たりける、搦手より利家卿を越中へ入可[#レ]申とてのぼらせ給ふ所に、成政内にても名を得たる軍士共爰にも取合せ、野々村主水、本庄市兵衞、齋藤半右衞門、櫻勘助、堀田次郎右衞門など爰を最後と防ぎ戰ふ、中にも櫻勘助は鐵砲の上手にてはづるゝ※[#「こと」の合字、408-17]さらになし、利家卿御近處に御小姓篠原勘六、富田六左衞門、北村作内、村井又六、木村久三郎、富田源六郎、御馬廻には半田半兵衞、山崎彦右衞門、野村傳兵衞、小泉彌市郎、井口茂兵衞、奧村彌市郎、阿波加藤八、江見藤十郎、吉川平太、岡本七助、其外勇士五十騎計つゞいたり、互に見合候處に半田半兵衞つゝと立一番鑓を見よと云所を、櫻勘助鐵砲にて打、半兵衞左の手を肩へ懸て打ぬき、鑓をいだきてころびけり、敵味方とは申ながら、半兵衞と勘助は從弟の間なれば打は打たれども、常々指物をも見知名乘たる聲をも聞、さて半兵衞死したるか、不便なると申由後にこそ聞えけり、然處に利家卿加樣の鐵砲すし足をためさせては手負多出來申ものなり、御馬印をふり懸ふりかけと下知仕給ふ、其時野村傳兵衞、山崎彦右衞門、篠原勘六、富田六左衞門、北村作内など鑓を打入暫しがほど黒煙を立て究合しが、越中勢追崩され、其口の大將分には野々村主水、本庄市兵衞、齋藤半右衞門、堀田次郎右衞門、櫻勘助、其外歴々名乘合、鑓下にて七十餘騎討死す、加州勢首共を討捕勝時※[#「口+童」、第4水準2-4-38]と上たりける、さてこそ搦手より利家卿利長卿城の中へ入り給ふ、其後鑓の吟味あつて半田半兵衞一番に鑓場を見立候へども手負申候、山崎彦右衞門、野々村傳兵衞、一番鑓を諍ひ申せしを利家卿御吟味なされ、同鑓と云ながら傳兵衞一番鑓と名乘りたる間、傳兵衞に一番鑓と御感状を被[#レ]下る、さて兩人加増を遣はされ千石づつに被[#レ]成間、加樣の吟味こそ手本なれと上下申あへり、半兵衞も千石になされ其上に母衣十五人與力に付給ふ、加樣に其品々に被[#二]仰付[#一]候へば、上下勇み命をかろんぜざる者もなかりける。さて又末森後詰に利家卿被[#レ]參候由つぼゐ山へ聞えければ、内藏助その儘打出、佐々平左衞門其外宗徒の人々を前にあて、八千騎にて成政懸り來る處、利家卿願ふ所の幸也、唯今内藏助が首を見ること何の疑あるべしと、其内はや軍法を定められ人數もつれたらんづれども、又一番合戰を村井又兵衞に仕候へと被[#レ]仰ければ、又兵衞心よげに御請申ければ、さても弓矢取ての面目とうらやみ褒めぬ人こそなかりける、二番城主奧村助右衞門、多野村三郎四郎、三番不破彦三、四番利長卿、五番利家卿旗本也、加樣に急なる時軍法を定め給ふ事、ためしすくなき名大將と心ある侍ども感じあへり。〔末森記〕 [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] ――――――――――――――― [#5字下げ][#中見出し]【八三】殘局の收拾[#中見出し終わり] 末森城《すゑもりじやう》の後詰《ごづめ》にて、佐々成政《さつさなりまさ》は、前田利家《まへだとしいへ》の爲《た》めに、散々《さん/″\》に其《そ》の出鼻《でばな》を挫《くじ》かれたが。さりとて前田《まへだ》も亦《ま》た自《みづ》から進《すゝ》んで、佐々《さつさ》の領内《りやうない》を侵《おか》すことを敢《あへ》てせなかつた。彼等《かれら》は當初《たうしよ》よりの、喧嘩《けんくわ》相手《あひて》であつたが爲《た》め、互《たが》ひの手並《てなみ》の程《ほど》を知《し》つて居《ゐ》た。されば利家《としいへ》は、部下《ぶか》が追撃戰《つゐげきせん》を爲《な》さんと逸《はや》りたるを制《せい》し、『佐々《さつさ》も信長公《のぶながこう》の取立《とりたて》給《たま》ひし者《もの》なれば、更《さら》に侮《あなど》るべからず。殊《こと》に勝利《しようり》は得《え》つ。負腹《まけばら》立《たて》たる勢《いきほひ》には構《かま》はぬが能《よき》ぞ、唯《たゞ》引歸《ひきかへ》せよ。』〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]と諭《さと》した。如何《いか》にも一|理《り》ある言《げん》である。
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