第十六章 局面一變
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正、再校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第十六章 局面一變[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【七八】兩軍戰鬪に倦む[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は恐《おそ》らくは、自《みづ》から見《み》ること重《おも》きに過《す》ぎ、家康《いへやす》を見《み》ること輕《かる》きに過《す》ぎたであらう。毛利《まうり》、明智《あけち》、柴田《しばた》の徒《と》、皆《み》な悉《こと/″\》く秀吉《ひでよし》の思《おも》ふ通《とほ》りに、處措《しよそ》し去《さ》りたる後《のち》に於《おい》て、單《ひと》り徳川《とくがは》のみが、思《おも》ふ樣《やう》に參《まゐ》らなかつた。されば流石《さすが》の秀吉《ひでよし》も、家康《いへやす》に對《たい》しては、力取《りよくしゆ》す可《べ》からざる次第《しだい》を、彌《いよい》よ觀念《くわんねん》し。此上《このうへ》は外交手段《ぐわいかうしゆだん》を以《もつ》て、其《そ》の目的《もくてき》を達《たつ》す可《べ》く、計策《けいさく》を廻《めぐ》らしたのは、固《もと》より何《なん》の不思議《ふしぎ》もない。然《しか》も秀吉《ひでよし》は決《けつ》して一|本調子《ぽんてうし》ではない、一|方《ぱう》に調略《てうりやく》を用《もち》ふる場合《ばあひ》には、必《かなら》ず他方《たはう》には、兵力《へいりよく》を用《もち》ふることを忘却《ばうきやく》せぬ。
秀吉《ひでよし》は六|月《ぐわつ》の末《すゑ》に、一|先《ま》づ戰地《せんち》より大阪《おほさか》に還《かへ》つたが、七|月《ぐわつ》には美濃《みの》に往復《わうふく》し八|月《ぐわつ》には再《ふたた》び兵《へい》を率《ひき》ゐて、美濃《みの》に入《い》り、先鋒《せんぽう》を尾張《をはり》の小口《をぐち》、樂田《がくでん》に進《すゝ》め、二十六|日《にち》、自《みづ》から木曾川《きそがは》を渡《わた》り、翌日《よくじつ》二|宮山《のみややま》に上《のぼ》り、敵情《てきじやう》を偵察《ていさつ》し、二十八|日《にち》轉《てん》じて小折《こをり》に抵《いた》り、附近《ふきん》村落《そんらく》に放火《はうくわ》し、又《ま》た上奈良《かみなら》、河田《かはだ》、大野《おほの》に築砦《ちくさい》した。而《しか》して家康《いへやす》も亦《ま》た、此報《このはう》に接《せつ》し、二十八|日《にち》信雄《のぶを》と與《とも》に、兵《へい》を率《ひき》ゐて清洲《きよす》より岩倉《いはくら》に進《すゝ》み、再《ふたゝ》び秀吉《ひでよし》と相《あ》ひ對陣《たいぢん》した。
家康《いへやす》は始終《しじゆう》防禦《ばうぎよ》を事《こと》とし、毫《がう》も自《みづ》から進《すゝ》んで、秀吉《ひでよし》の勢力範圍《せいりよくはんゐ》を、侵《おか》さんとするの氣勢《きせい》を示《しめ》さず。さりとて又《ま》た、秀吉《ひでよし》に屈服《くつぷく》す可《べ》き模樣《もやう》もなく。秀吉《ひでよし》も亦《ま》た、家康《いへやす》の抵抗力《ていかうりよく》の堅固《けんこ》にして、容易《ようい》に其《そ》の志《こゝろざし》を逞《たくまし》うす可《べ》からざるを見《み》て、九|月《ぐわつ》二|日《か》、丹羽長秀《にはながひで》を介《かい》して、其《そ》の調停《てうてい》を圖《はか》らしめた。其《そ》の要領《えうりやう》は、九|月《ぐわつ》八|日附《かづけ》を以《もつ》て、秀吉《ひでよし》が前田利家《まへだとしいへ》に答《こた》へたる書中《しよちゆう》に盡《つく》して居《を》る。
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四|日之御状《かのごじやう》、今日《こんにち》到來《たうらい》、|令[#二]披見[#一]候《ひけんせしめさふらふ》。此表之儀《このおもてのぎ》、取々《とり/″\》手堅申付《てがたくまをしつけ》、敵方《てきがた》種々《しゆ/″\》|有[#二]懇望[#一]候《こんまうありさふらふ》。三|介殿《すけどの》御料人《ごれうにん》(信雄の女)[#「(信雄の女)」は1段階小さな文字]家康《いへやす》總領子《そうりやうのこ》(於義丸、後に秀康)[#「(於義丸、後に秀康)」は1段階小さな文字]十一に成候《なりさふらふ》を取出《とりいで》、其上《そのうへ》家康《いへやす》舍弟《しやてい》(異父弟松平定勝)[#「(異父弟松平定勝)」は1段階小さな文字]重而《かさねて》出《いで》、石川伯耆實子《いしかははうきのじつし》、源《げん》五|殿《どの》(織田長益)[#「(織田長益)」は1段階小さな文字]三|郎兵衞《ろべゑ》(瀧川雄利)[#「(瀧川雄利)」は1段階小さな文字]實子《じつし》出《いだ》し、尾張國《をはりのくに》において|雖[#二]懇望候[#一]《こんまうさふらふといへども》、|不[#レ]能[#二]許容[#一]候處《きよようするあたはずさふらふところ》、色々《いろ/\》越前守《ゑちぜんのかみ》(丹羽長秀)[#「(丹羽長秀)」は1段階小さな文字]異見《いけん》|被[#レ]申候條《まをされさふらふでう》、思案半之《しあんなかばの》儀《ぎ》に候《さふらふ》。然《しかれ》ば越州《ゑつしう》(長秀)[#「(長秀)」は1段階小さな文字]廿|日比《かごろ》には、何之道《どのみち》にも|可[#レ]爲[#二]開陣[#一]候《かいぢんなすべくさふらふ》。越中《ゑつちゆう》え行義《ゆくぎ》はや越州《ゑつしう》と|令[#二]談合[#一]相定候間《だんがふせしめあひさだめさふらふあひだ》、佐々内藏助《さつさくらのすけ》山取《やまとり》以下《いか》、何《なに》とぞ聊爾《れうじ》なる働御無用《はたらきごむよう》に候《さふらふ》。うちには|被[#二]相構[#一]《あひかまへられ》、越前守《ゑちぜんのかみ》相越候《あひこしさふらふ》を|可[#レ]被[#レ]待義《またるべきぎ》專用《せんよう》に候《さふらふ》。自然《しぜん》|不[#レ]被[#レ]待《またれざる》に付《つき》越度候而者《おちどさふらうては》、|不[#レ]可[#レ]有[#二]其曲[#一]候《そのきよくあるべからずさふらふ》。猶《なほ》使者《ししや》に申渡候《まをしわたしさふらふ》。恐々謹言《きよう/\きんげん》。
[#2字下げ]九月八日(天正十二年)[#「(天正十二年)」は1段階小さな文字][#地から2字上げ]秀吉(華押)[#「(華押)」は1段階小さな文字]
[#6字下げ]前又左(前田又左衞門尉利家)[#「(前田又左衞門尉利家)」は1段階小さな文字]
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此《こ》れは秀吉《ひでよし》よりの言《い》ひ前《まへ》である。
聨合軍側《れんがふぐんがは》より云《い》へば、和議《わぎ》は秀吉《ひでよし》より懇望《こんまう》したと申《まを》すに相違《さうゐ》あるまい。而《しか》して信雄《のぶを》の女《むすめ》、家康《いへやす》の子《こ》、及《およ》び異父弟《いふてい》、其他《そのた》石川數正《いしかはかずまさ》、織田長益《おだながます》、瀧川雄利《たきがはかつとし》の子弟《してい》を人質《ひとじち》とするが如《ごと》きは、本來《ほんらい》秀吉側《ひでよしがは》よりの要求《えうきう》にして、決《けつ》して聨合軍側《れんがふぐんがは》より持《も》ち出《いだ》したる、相談《さうだん》ではなかつたと、否定《ひてい》したであらう。而《しか》して事實《じじつ》は、寧《むし》ろ此《これ》に庶幾《ちかし》であらう。
兎《と》も角《かく》も丹羽長秀《にはながひで》の周旋《しうせん》も、遂《つひ》には其《そ》の効《かう》無《な》く、秀吉《ひでよし》は上奈良《かみなら》以下《いか》の三|砦《さい》に守兵《しゆへい》を配置《はいち》し、九|月《ぐわつ》十七|日《にち》には大垣《おほがき》に、晦日《みそか》には近江坂本《あふみさかもと》に、十|月《ぐわつ》二|日《か》京都《きやうと》に入《い》り、六|日《か》には大阪《おほさか》に還《かへ》つた。而《しか》して家康《いへやす》は九|月《ぐわつ》廿七|日《にち》、信雄《のぶを》と與《とも》に清洲城《きよすじやう》に入《い》り、十|月《ぐわつ》四|日《か》小牧山《こまきやま》の壘《るゐ》を修繕《しうぜん》せしめ、十六|日《にち》、清洲城《きよすじやう》を酒井忠次《さかゐたゞつぐ》に守《まも》らしめ、小牧《こまき》を榊原康政《さかきばらやすまさ》に守《まも》らしめ、小幡《をばた》を松平家忠《まつだひらいへたゞ》、菅沼定盈《すがぬまさだみつ》に守《まも》らしめ、十七|日《にち》姑《しば》らく岡崎《をかざき》に歸城《きじやう》した。信雄《のぶを》も亦《ま》た、此《こ》の月《つき》中旬《ちゆうじゆん》に長島城《ながしまじやう》に入《はひ》つた。
秀吉《ひでよし》は屡《しばし》ば美濃《みの》、尾張方面《をはりはうめん》に出《い》でたが、家康《いへやす》の爲《た》めに妨《さまた》げられ、其《そ》の力《ちから》を伸《の》ぶることを得《え》なかつた。されば今回《こんくわい》は十|月《ぐわつ》二十|日《か》、坂本《さかもと》に抵《いた》り、路《みち》を轉《てん》じて伊勢《いせ》に出《い》で、二十三|日《にち》羽津《はねつ》に陣《ぢん》し、砦《とりで》を繩生《なはふ》に築《きづ》き、蒲生氏郷《がまふうぢさと》をして、之《これ》を守《まも》らしめ、又《ま》た桑部《くはべ》に築《きづ》き、蜂須賀家政《はちすかいへまさ》に之《これ》を守《まも》らしめた。信雄《のぶを》は其警《そのけい》を聞《き》き、兵《へい》を桑名《くはな》に出《いだ》し、之《これ》を清洲《きよす》なる酒井忠次《さかゐたゞつぐ》に報《はう》じ、忠次《たゞつぐ》は又《ま》た之《これ》を家康《いへやす》に報《はう》じた。十一|月《ぐわつ》九|日《か》家康《いへやす》清洲《きよす》に來《きた》り、酒井忠次等《さかゐたゞつぐら》をして、桑名《くはな》に赴援《ふゑん》せしめた。

[#5字下げ][#中見出し]【七九】秀吉信雄と單獨講和を行ふ[#中見出し終わり]

軍事《ぐんじ》一|天張《てんばり》に於《おい》ては、秀吉《ひでよし》と家康《いへやす》とは、先《ま》づ互角《ごかく》である。單《たん》に戰鬪《せんとう》其物《そのもの》にかけては、家康《いへやす》は始終《しじゆう》武田氏《たけだし》を對手《あひて》として、其鋒《そのほこさき》を磨《みが》きたる丈《だけ》ありて、或《あるひ》は一|日《じつ》の長《ちやう》ありとも云《い》ふ可《べ》しだ。併《しか》し秀吉《ひでよし》の眼中《がんちゆう》には、唯《た》だ全局《ぜんきよく》の打算《ださん》あるのみ。如何《いか》に家康《いへやす》が踏張《ふんば》りたりとて、其《そ》の大風呂敷《おほぶろしき》を、家康《いへやす》の頭上《づじやう》より、打被《うちかぶ》する時《とき》に於《おい》ては、家康《いへやす》も致方《いたしかた》がない。
家康《いへやす》は何處迄《どこまで》も、秀吉《ひでよし》正面《しやうめん》の敵《てき》として、自《みづ》から立《たつ》て居《を》らぬ。織田信雄《おだのぶを》の依頼《いらい》に應《おう》じ、信長以來《のぶながいらい》の厚誼《こうぎ》に酬《むく》ゆる爲《た》め、秀吉《ひでよし》と鎬《しのぎ》を削《けづ》ると云《い》ふが、彼《かれ》の天下《てんか》に對《たい》する大義名分《たいぎめいぶん》であつた。即《すなは》ち信雄《のぶを》は、家康《いへやす》に取《と》りては、手品《てじな》の玉《たま》である。若《も》し家康《いへやす》より信雄《のぶを》を取《と》り去《さ》らん乎《か》、家康《いへやす》は全《まつた》く其《そ》の玉《たま》を奪《うば》はれたのである。神通《じんつう》も、方便《はうべん》も、只《た》だ此《こ》の玉《たま》故《ゆゑ》である。若《も》し此玉《このたま》を亡《うしな》はゞ|家康《いへやす》は、天下《てんか》に對《たい》して、全《まつた》く秀吉《ひでよし》に抗《かう》す可《べ》き理由《りいう》を、失墜《しつつゐ》するのである。烱眼《けいがん》なる秀吉《ひでよし》、いかでか之《これ》に思《おも》ひ及《およ》ばざる可《べ》き。
秀吉《ひでよし》最初《さいしよ》の目算《もくさん》は、信雄《のぶを》退治《たいぢ》の序手《ついで》に、家康《いへやす》をも、一|網《まう》に羅《ら》し去《さ》る積《つも》りであつたらう。然《しか》も其事《そのこと》の不可能《ふかのう》なるを見《み》ては、更《さ》らに局面《きよくめん》を變《へん》じて、家康《いへやす》を立往生《たちわうじやう》せしむ可《べ》き策《さく》を取《と》つた。乃《すなは》ち彼《かれ》は信雄《のぶを》に向《むか》つて、單獨講和《たんどくかうわ》を申《まを》し込《こ》んだ。信雄《のぶを》一たび秀吉《ひでよし》の有《いう》とならば、信雄《のぶを》を逆《ぎやく》に利用《りよう》して、家康《いへやす》に當《あた》るの方便《はうべん》は、幾許《いくら》もある。
十一|月《ぐわつ》七|日《か》、秀吉《ひでよし》は自《みづ》から繩生《なはふ》に來《きた》り、桑名《くはな》の敵《てき》と相對《あひたい》したが、尋《つ》いで富田知信《とだとものぶ》、津田信勝《つだのぶかつ》を、信雄《のぶを》に遣《つかは》し、講和《かうわ》を申《まを》し込《こ》んだ。信雄《のぶを》にして、若《も》し其《そ》の父《ちゝ》信長《のぶなが》の血《ち》を享《う》けたるものならば、せめて此《こ》の重大問題《ぢゆうだいもんだい》に就《つい》ては、家康《いへやす》と評議《ひやうぎ》し、少《すくな》くとも家康《いへやす》の同意《どうい》を得《え》て、而《しか》して後《のち》其《そ》の決答《けつたふ》を做《な》すべきである。然《しか》るに彼《かれ》は、新井白石《あらゐはくせき》が、『信雄《のぶを》大《おほい》に悦《よろこ》び、徳川殿《とくがはどの》に、此由《このよし》を告《つ》げ申《まを》さるゝにも及《およ》ばず、十一|月《ぐわつ》十一|日《にち》中直《なかなほ》りの見參事《けんざんこと》終《をは》りぬ。』〔藩翰譜〕[#「〔藩翰譜〕」は1段階小さな文字]と特筆《とくひつ》したる如《ごと》く、輕卒《けいそつ》にも之《これ》を甘諾《かんだく》した。如何《いか》に秀吉《ひでよし》の言葉《ことば》が、甘《うま》かつたであらう乎《か》は、云《い》ふ迄《まで》もない。其《そ》の條件《でうけん》は、秀吉《ひでよし》は信雄《のぶを》の女《むすめ》を養女《やうぢよ》とする事《こと》。其《そ》の占領《せんりやう》したる北伊勢桑名《きたいせくはな》、員辨《いなべ》、朝明《あさあき》、三|重《へ》の四|郡《ぐん》は信雄《のぶを》に返還《へんくわん》する事《こと》。信雄《のぶを》は織田長益《おだながます》、瀧川雄利《たきがはかつとし》、佐久間正勝《さくままさかつ》、土方雄久《ひぢかたたかひさ》、及《およ》び故《こ》中川雄忠《なかがはたかたゞ》の子《こ》、若《も》しくは母《はゝ》を質《ち》とする事《こと》。伊賀《いが》の阿拜《あはい》、伊賀《いが》、名張《なばり》三|郡《ぐん》、南伊勢《みなみいせ》の鈴鹿《すゞか》、河曲《かはわ》、一|志《し》、飯高《いひだか》、飯野《いひの》、多氣《たけ》、度會《わたらひ》七|郡《ぐん》、及《およ》び尾張犬山城《をはりいぬやまじやう》、河田砦《かはだとりで》を秀吉《ひでよし》に割讓《かつじやう》し。勢尾《せいび》二|州《しう》に於《お》ける臨時築城《りんじちくじやう》は、兩軍共《りやうぐんとも》に之《これ》を破毀《はき》する事等《こととう》であつた。
十一|月《ぐわつ》十一|日《にち》秀吉《ひでよし》は、矢田河原《やだがはら》に於《おい》て、信雄《のぶを》と會見《くわいけん》し、黄金《わうごん》二十|枚《まい》、不動國行《ふどうくにゆき》の刀《かたな》を贈《おく》り、且《か》つ伊勢《いせ》に於《お》ける戰利品《せんりひん》米《こめ》三|萬《まん》五千|苞《ぱう》を遺《おく》つた、如何《いか》に秀吉《ひでよし》が、信雄《のぶを》に對《たい》して、恭敬《きようけい》の態度《たいど》を取《と》つたかは、
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此時《このとき》秀吉《ひでよし》には、町屋川《まちやがは》を越《こ》し、|可[#レ]參《まゐるべし》とて、右川《みぎのかは》を超《こ》え來《きた》りて、床机《しやうぎ》に腰《こし》を懸《か》け、信雄《のぶを》の來《きた》らるゝを相待《あひま》ち居《を》られしに、信雄《のぶを》は馬上《ばじやう》にて參《まゐ》られ、秀吉《ひでよし》を見《み》て馬《うま》より下《お》り給《たま》ふ。秀吉《ひでよし》には床机《しやうぎ》より十|間計《けんばか》り立來《たちきた》りて、殊《こと》の外《ほか》平伏《へいふく》して申《まを》されしは、唯今《たゞいま》如何《いかゞ》仕《つかまつ》り候《さふらふ》やらん、戰《たゝか》ひに及《およ》び候《さふらふ》。今日《こんにち》よりは全《まつた》く主君《しゆくん》と仰《あふ》ぎ|可[#レ]申《まをすべし》。〔小牧陣始末記〕[#「〔小牧陣始末記〕」は1段階小さな文字]
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とあり。又《また》改正參河後風土記《かいせいみかはごふどき》には、
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同《どう》十一|日《にち》桑名《くはな》の西《にし》、矢田河原《やだかはら》に於《おい》て、信雄《のぶを》秀吉《ひでよし》和睦《わぼく》の對面《たいめん》あり。秀吉《ひでよし》砂上《さじやう》に膝《ひざを》屈《くつ》し、平伏《へいふく》し、今日《こんにち》再度《ふたゝび》天日《てんじつ》を拜《はい》し、此恩《このおん》を忘《わす》るべからずと謝《しや》す。
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とある。何《いづ》れにもせよ、秀吉《ひでよし》が信雄《のぶを》の驩心《くわんしん》を得《う》るに勗《つと》めたことは、疑《うたがひ》を容《い》れぬ。而《しか》してお心《こゝろ》よしの信雄《のぶを》は、唯《た》だ自個《じこ》が信長《のぶなが》の子《こ》であると云《い》ふ、自惚心《うぬぼれしん》のみ増長《ぞうちやう》して、却《かへつ》て秀吉《ひでよし》の爲《た》めに、一|杯《ぱい》喰《く》はされた事《こと》には、氣附《きづ》かず、却《かへつ》て好《よ》き氣持《きもち》に成《なつ》て居《ゐ》た。濟度《さいど》す可《べ》からざるは、愚人《ぐじん》である。
但《たゞ》し信雄《のぶを》が斯《か》く突如《とつじよ》として、渡《わた》りに舟《ふね》と、秀吉《ひでよし》の講和《かうわ》の相談《さうだん》に應《おう》じたのは、曠日彌久《くわうじつびきう》、兵氣《へいき》沮喪《そさう》の爲《た》めのみでなく、其《そ》の部下《ぶか》が漸《やうや》く秀吉《ひでよし》の調略《てうりやく》の爲《た》めに、動搖《どうえう》し始《はじ》めたからであらう。『或日《あるひ》信雄卿《のぶをきやう》に、群疑《ぐんぎ》出來《しゆつたい》しける事《こと》有《あり》て、早速《さつそく》和睦之《わぼくの》義《ぎ》、調《とゝのひ》しと也《なり》。』〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]との一|節《せつ》は、恐《おそ》らくは事實《じじつ》であらう。蓋《けだ》し秀吉《ひでよし》の藥《くすり》は、信雄《のぶを》の手元《てもと》にも、家康《いへやす》の手元《てもと》にも、必《かなら》ずそれ/″\廻《まは》りて居《ゐ》たに相違《さうゐ》あるまい。されば吾人《ごじん》は、信雄《のぶを》が講和《かうわ》に應《おう》じたのを、咎《とが》むるのではない、但《た》だ單獨講和《たんどくかうわ》を咎《とが》むるのだ。

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[#6字下げ][#小見出し]秀吉信雄と和睦の事[#小見出し終わり]

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秀吉もと信長のずさなりし富田左近、津田隼人兩人を付て、信長の惠を請、いつくしみの深き事古にも聞ざる程なり、我明知光秀を討て信長の亡魂のいかりをやめ、なき御跡を清めし忠義少にあらざれども、猶いつくしみに及がたし、信雄を始奉り信長の御ぞうは、いかでかおろかに思ひ給はん、我を仇として亡ぼし給はんとし給へる上は力なく此軍をなせり、更に我本意にはあらず、一度|平《たひらぎ》をなし對面し給はんやと思ふ願なりと語給へば、富田、津田涙を流し、げにさぞおぼしめしなりぬらん、さらば信雄のもとに行むかひ、御心の中をも述ばやとて、頓てつれて桑名に立こえ、かう/\と申合ぬれば、信雄我もかくばかりなり、平をなさばやとの給へば、兩人立歸秀吉に告、日を隔てず事なりて、次日桑名の南の河原に出給へば、信雄もともに御座して對面なり、秀吉膝を折手をつかね、詞を出されず、涙をすゝめ給ふと也、秘藏して持し刀を進上し、本の陣に歸給ふ、さてこそ兩軍泰平のうたをなし悦びあへり、尾州犬山の城は本より信雄のしろしめし所なれば、返し遣し都へ歸給へり、秀吉信長の臣として信雄にしたがはず、刄をとぐ事その罪明けし、信雄父の仇を討し秀吉を亡さんとし給ふ事、義にあらざるべし、春秋いかに筆すべきや、愚心わきがたきにこそ。〔豐鑑〕
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[#5字下げ][#中見出し]【八〇】秀吉家康と講和す[#中見出し終わり]

家康《いへやす》は全《まつた》く信雄《のぶを》に出《だ》し拔《ぬ》かれたのだ。彼《かれ》は怒《いか》る可《べ》き乎《か》、苦笑《くせう》す可《べ》き乎《か》。家康《いへやす》も恐《おそ》らくは一|時《じ》呆然《はうぜん》、茫然《ばうぜん》であつたらう。併《しか》し此際《このさい》卒爾《そつじ》の行動《かうどう》に出《い》づれば、愈《いよい》よ器量《きりやう》を下《さ》ぐる事《こと》となる。されば彼《かれ》は寧《むし》ろ平然《へいぜん》として、之《これ》を順受《じゆんじゆ》した。
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信雄《のぶを》此頃《このごろ》軍事《ぐんじ》に倦怠《けんたい》して、心煩《こゝろわづら》はしける折《をり》からゆゑ、徳川家《とくがはけ》へ議《ぎ》せらるゝにも及《およ》ばず、早速《さつそく》同意《どうい》(講和)[#「(講和)」は1段階小さな文字]の返答《へんたふ》あり。神君《しんくん》は此事《このこと》更《さら》に知《し》ろし召《め》さねば、十一|月《ぐわつ》九|日《か》、再《ふたゝ》び信雄《のぶを》を援《たす》け給《たま》はんと、清洲《きよす》まで御出馬《ごしゆつば》ありし時《とき》、酒井左衞門尉忠次《さかゐさゑもんのじようたゞつぐ》、清洲《きよす》にありて、此事《このこと》聞付《きゝつけ》、大《おほい》に驚《おどろ》き、神君《しんくん》へかくと申上《まをしあげ》る。信雄《のぶを》よりも、秀吉《ひでよし》より請《こひ》により、和睦《わぼく》の返答《へんたふ》せし趣《おもむき》を告《つげ》らる。神君《しんくん》夫《それ》は重疊《ちようでふ》の事《こと》、天下《てんか》萬民《ばんみん》の悦《よろこび》なりと答給《こたへたま》ひて、直《たゞち》に岡崎《をかざき》へ御馬《おうま》を納《いれ》られ、石川伯耆守數正《いしかははうきのかみかずまさ》を御使《おんつかひ》として、信雄《のぶを》へも秀吉《ひでよし》へも、賀詞《がし》を仰遣《おほせつか》はさる。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
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家康《いへやす》としては、此《これ》が最善《さいぜん》の方法《はうはふ》である。されど彼《かれ》の胸中《きようちゆう》には、全《まつた》く熱鐵《ねつてつ》を呑《の》んだのだ。但《た》だ之《これ》を茶《ちや》か酒《さけ》を飮《の》む如《ごと》く、平氣《へいき》で飮《の》み干《ほ》した丈《だけ》が、彼《かれ》の及《およ》ぶ可《べ》からざる藝當《げいたう》と云《い》ふ可《べ》きぢや。
秀吉《ひでよし》は更《さ》らに信雄《のぶを》を以《もつ》て、家康《いへやす》と和《わ》を講《かう》じた。家康《いへやす》は其《そ》の名義《めいぎ》が、信雄《のぶを》援護《ゑんご》であれば、信雄《のぶを》既《すで》に秀吉《ひでよし》と握手《あくしゆ》したる上《うへ》は、家康《いへやす》も秀吉《ひでよし》と握手《あくしゆ》す可《べ》きは、必然《ひつぜん》である。家康《いへやす》も此《こ》の必然《ひつぜん》の勢《いきほひ》を、順受《じゆんじゆ》せぬ譯《わけ》には參《まゐ》らなかつた。因《よ》りて其子《そのこ》於義丸《おぎまる》を、養子《やうし》として、秀吉《ひでよし》に與《あた》ふることを承諾《しようだく》した。養子《やうし》は固《もと》より人質《ひとじち》である。
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|如[#レ]此申遣候處《かくのごとくまをしつかはしさふらふところ》、家康儀《いへやすぎ》頻《しきりに》懇望候間《こんまうさふらふあひだ》、人質取相濟候《ひとじちとりあひすみさふらふ》。|可[#レ]被[#レ]得[#二]其意[#一]候《そのいをえらるべくさふらふ》。(此れは左記書翰の追伸である)[#「(此れは左記書翰の追伸である)」は1段階小さな文字]
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一、此表之儀《このおもてのぎ》、長島《ながしま》桑名《くはなに》押詰《おしつめ》、城々《しろ/″\》數《す》ヶ|所《しよ》相拵間《あひこしらへるあひだ》、繩生城《なはふじやう》に秀吉《ひでよし》|令[#二]越年[#一]《をつねんせしめ》、長島《ながしま》へ者《は》申付候《まをしつけさふら》はん體者《ていは》、信雄《のぶを》|被[#二]見及[#一]《みおよばれて》、|就[#二]懇望[#一]《こんまうにつき》、|令[#二]同道[#一]《どうだうせしめ》、相濟候條之事《あひすみさふらふでうのこと》。
一、人質覺《ひとじちおぼえ》、信雄《のぶを》御實子《ごじつし》、並《ならびに》源《げん》五|殿《どの》(織田長益)[#「(織田長益)」は1段階小さな文字]實行《さねゆき》、瀧川《たきがは》三|郎兵衞尉《ろびやうゑのじよう》、中川勘右衞門[#「右衞門」は底本では「左衞門」]《なかがはかんうゑもん》、佐久間甚《さくまじん》九|郎《らう》、土方彦《ひぢかたひこ》三|郎《らう》、松菴以下《しようあんいか》、何《いづれ》も實子《じつし》又《また》は母《はゝを》|出[#二]人質[#一]《ひとじちにいだし》、何樣《いかやう》にも|可[#レ]爲[#二]秀吉次第[#一]《ひでよししだいたるべく》|被[#レ]出[#二]誓紙[#一]候事《せいしをいだされさふらふこと》。
一、北伊勢《きたいせ》四|郡《ぐん》相渡《あひわたし》、今度《このたび》拵候城《こしらへさふらふしろ》は、敵味方《てきみかた》破却《はきやく》の事《こと》。
一、|於[#二]尾州[#一]者《びしうにおいては》、犬山《いぬやま》、甲田《かふだ》(河田)[#「(河田)」は1段階小さな文字]秀吉《ひでよし》人數《にんず》入置《いれおき》、其外《そのほか》新義《しんき》に出來候城者《しゆつたいさふらふしろは》、敵味方《てきみかた》破却《はきやく》の事《こと》。
一、家康儀《いへやすぎ》、是又《これまた》同前《どうぜん》懇望候《こんまうさふらふ》。|雖[#レ]然《しかりといへども》信雄《のぶを》若人《わかびと》を引入《ひきい》れ、|對[#二]秀吉[#一]《ひでよしにたいし》重々《ぢゆう/″\》|不[#二]相屆[#一]儀候條《あひとどかざるぎさふらふでう》、即《すなはち》三|州《しう》表《おもてへ》押詰《おしつめ》、存分《ぞんぶん》に|可[#二]申付[#一]覺悟候處《まをしつくべきかくごにさふらふところ》。家康《いへやす》實子《じつし》石川伯耆《いしかははうき》以下《いか》|出[#二]人質[#一]《ひとじちをいだし》、何樣《いかやう》にも|可[#レ]爲[#二]秀吉次第[#一]由候《ひでよししだいたるべきよしにさふらふ》。併《しかし》信雄御外聞候間《のぶをのごぐわいぶんさふらふあひだ》、侘事由《わびごとのよし》種々《しゆ/″\》信雄《のぶを》懇望候《こんまうさふら》へ共《ども》、秀吉《ひでよし》|對[#二]家康[#一]《いへやすにたいし》、存分《ぞんぶん》深候間《ふかくさふらふあひだ》、思案《しあん》|未[#二]落著[#一]《いまだらくちやくせず》。|就[#レ]不[#二]免置[#一]者《ゆるしおかざるについては》、日來《ひごろの》|可[#レ]散[#二]無念[#一]《むねんをさんずべき》、|雖[#二]心底[#一]《しんていなりといへども》、兎角《とかく》打任《うちまかせの》體《てい》にて候《さふらふ》と聞候《きゝさふら》へば、我々《われ/\》慈悲成《じひなる》覺悟《かくご》にて候條《さふらふでう》、過半《くわはん》|可[#レ]免候歟《ゆるすべくさふらふか》、心中《しんちゆう》|難[#レ]計事《はかりがたきこと》。
一、右之分《みぎのぶん》に候《さふら》へば、悉《こと/″\く》隙明候條《ひまあきさふらふでう》、五三|日中《にちちゆうに》|可[#レ]納[#レ]馬候《うまをいるべくさふらふ》、猶《なほ》追々《おひ/\》|可[#レ]申也《まをすべきなり》。
[#2字下げ]十一月十三日[#地から4字上げ]秀吉(御朱印)[#「(御朱印)」は1段階小さな文字]
[#6字下げ]伊木長兵衞尉殿
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此《こ》の書簡《しよかん》は、秀吉《ひでよし》が故《こ》池田勝入《いけだしようにふ》の老臣《らうしん》に與《あた》へたもので、當時《たうじ》秀吉《ひでよし》の立場《たちば》を、最《もつと》も委曲《ゐきよく》、周到《しうたう》に説明《せつめい》して居《を》る。即《すなは》ち信雄《のぶを》との講和《かうわ》の顛末《てんまつ》より説《と》き起《おこ》し、家康《いへやす》の罪《つみ》は信雄《のぶを》に比《ひ》して、甚《はなは》だ重《おも》く。秀吉《ひでよし》も三|河《かは》迄《まで》攻入《せめい》り、家康《いへやす》を存分《ぞんぶん》に仕置《しおき》せんと欲《ほつ》せざるにあらざるも、家康《いへやす》始《はじ》め、其《そ》の臣下迄《しんかまで》人質《ひとじち》を出《いだ》し、且《か》つ信雄《のぶを》の懇望《こんまう》もあり、如何《いかに》せんと心配中《しんぱいちゆう》であるが、到底《たうてい》は慈悲《じひ》寛大《くわんだい》に出《い》づるであらうと云《い》ひ。更《さ》らに追伸《つゐしん》に於《おい》て、愈《いよい》よ人質《ひとじち》も受取《うけとり》、家康《いへやす》との和議《わぎ》も成立《せいりつ》したと云《い》ふ事《こと》を、確報《かくはう》したのぢや。
伊木《いき》は池田《いけだ》の老臣《らうしん》なれば、家康《いへやす》に對《たい》しては、怨《うら》み骨髓《こつずゐ》に徹《てつ》す可《べ》きである。されば秀吉《ひでよし》も、其《そ》の書簡《しよかん》の文句《もんく》には、若干《じやくかん》伊木《いき》の感情《かんじやう》を、斟酌[#「斟酌」は底本では「尋酌」]《しんしやく》したらしく思《おも》はれる。併《しか》し秀吉《ひでよし》と雖《いへど》も、家康《いへやす》に對《たい》して、固《もと》より釋然《しやくぜん》たるを得《え》ぬのだ。家康《いへやす》微《なか》りせば、信雄《のぶを》は朝飯前《あさめしまへ》に、片附《かたづ》けて仕舞《しま》つたであらう。殆《ほと》んど一|個年《かねん》に亙《わた》りて、秀吉《ひでよし》を苦《くる》しめたのは、只《た》だ家康《いへやす》が此《こ》の舞臺《ぶたい》に、飛《と》び出《だ》したからである。秀吉《ひでよし》が人間《にんげん》である以上《いじやう》、家康《いへやす》に向《むか》つて無念《むねん》を散《さん》ぜんとするは、當然《たうぜん》である。然《しか》も彼《かれ》は此際《このさい》家康《いへやす》と戰《たゝか》ふの、不利《ふり》を熟知《じゆくち》して居《ゐ》た。信雄《のぶを》と講和《かうわ》したのは、畢竟《ひつきやう》すれば、家康《いへやす》と講和《かうわ》せんが爲《た》めであつた、其實《そのじつ》を語《かた》れば、秀吉《ひでよし》は寧《むし》ろ於義丸《おぎまる》を出《いだ》す事《こと》に付《つ》き、家康《いへやす》を承引《しよういん》せしむ可《べ》く、信雄《のぶを》に懇望《こんまう》したのであらう。
家康《いへやす》は十一|月《ぐわつ》廿一|日《にち》、秀吉《ひでよし》の致《いた》せる使者《ししや》富田知信《とだとものぶ》、津田信勝《つだのぶかつ》、及《およ》び信雄《のぶを》の使者《ししや》瀧川雄利《たきがはかつとし》に接《せつ》し。十二|月《ぐわつ》十二|日《にち》、於義丸《おぎまる》をして、濱松《はままつ》を發《はつ》せしめた。石川數正《いしかはかずまさ》の子《こ》勝《かつ》千|代《よ》、本多重次《ほんだしげつぐ》の子《こ》仙《せん》千|代《よ》等《ら》之《これ》に從《したが》ひ、石川數正《いしかはかずまさ》之《これ》を護衞《ごゑい》し、二十六|日《にち》大阪《おほさか》に抵《いた》つた。秀吉《ひでよし》は之《これ》を筒井定次《つゝゐさだつぐ》(順慶の養子、順慶は八月十一日卒す。)[#「(順慶の養子、順慶は八月十一日卒す。)」は1段階小さな文字]の邸《やしき》に館《やかた》せしめ、後《のち》羽柴氏《はしばし》を授《さづ》け、偏諱《へんい》を與《あた》へて、秀康《ひでやす》と稱《しよう》せしめた。河内《かはち》にて一|萬石《まんごく》を給《きふ》した。而《しか》して信雄《のぶを》は、十二|月《ぐわつ》十四|日《か》、濱松《はままつ》に赴《おもむ》き、三|月《ぐわつ》以來《いらい》の勞《らう》を家康《いへやす》に謝《しや》し、二十五|日《にち》歸途《きと》に就《つ》いた。此《こゝ》に於《おい》て、所謂《いはゆ》る小牧《こまき》の役《えき》は、其《そ》の段落《だんらく》を告《つ》げた。
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