第十五章 兩軍の得失
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正、再校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第十五章 兩軍の得失[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【七四】兩軍對峙[#中見出し終わり]

長久手戰爭以來《ながくてせんさういらい》、秀吉《ひでよし》對《たい》家康《いへやす》の對抗《たいかう》は、全《まつた》く双方《さうはう》睨合《にらみあひ》の姿《すがた》となつた。彼等《かれら》は大事《だいじ》を取《と》り、敵《てき》より打《う》ち掛《かゝ》らば、其機《そのき》に乘《じよう》ぜんと待《ま》ち構《かま》へつゝあつたが、何《いづ》れも容易《ようい》に動《うご》く可《べ》くもなかつた。四|月《ぐわつ》十一|日《にち》、秀吉《ひでよし》は小松寺山《こまつでらやま》に進《すゝ》み、全軍《ぜんぐん》六|萬《まん》二千|餘人《よにん》を、十七|隊《たい》に分《わか》ち、機《き》を見《み》て家康方《いへやすがた》を攻撃《こうげき》せんとしたが、家康方《いへやすがた》は少《すこ》しも動《うご》く氣色《けしき》なく、爲《た》めに秀吉《ひでよし》も手《て》を出《いだ》しかね。其《そ》の後《のち》、上奈良《かみなら》、高屋《たかや》、福塚《ふくづか》、羽黒等《はぐろとう》に築壘《ちくるゐ》し、二|重堀《ぢゆうぼり》以下《いか》の各壘《かくるゐ》と與《とも》に、彌《いよい》よ防備《ばうび》を嚴《げん》にして、唯《た》だ戰機《せんき》の熟《じゆく》するのを待《ま》つて居《ゐ》た。二十二|日《にち》には、家康《いへやす》は一|萬《まん》八千|人《にん》を、十六|隊《たい》とし、二|重堀《ぢゆうぼり》の前面《ぜんめん》より迂回《うくわい》して、東方《とうはう》に出《い》でたれば、二|重堀《ぢゆうぼり》の守將《しゆしやう》、蒲生氏郷《がまふうぢさと》、堀秀政等《ほりひでまさら》、使《つかひ》を小松寺山《こまつでらやま》の本營《ほんえい》に遣《つかは》し、之《これ》を撃《う》たんと請《こ》うたが、秀吉《ひでよし》は敵方《てきがた》より掛《かゝ》らば、之《これ》と戰《たゝか》へ、左《さ》なくば守《まも》りて出《い》づる勿《なか》れと令《れい》し。家康方《いへやすがた》も亦《ま》た戰《たゝか》はずして、兵《へい》を收《をさ》めた。
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時《とき》に敵方《てきがた》にては、大人數《おほにんず》向《むか》ふにより、急《きふ》に小松寺《こまつでら》へ告《つ》げ、何卒《なにとぞ》後詰《ごづめ》を|奉[#レ]頼《たのみたてまつる》と云《い》へ共《ども》、秀吉《ひでよし》曾《かつ》て人數《にんず》も|不[#レ]出《いださず》、敵《てき》の掛《か》かり來《きた》るを待《ま》つべしと下知計《げちばか》りにて、構《かま》はれぬと也《なり》。其秀吉《そのひでよし》の人數《にんず》を出《いだ》さぬは、如何《いか》にとなれば、神君《しんくん》の御人數《ごにんず》を、御出《おんいだ》しの譯《わけ》を、秀吉《ひでよし》は合點《がてん》しての事也《ことなり》。名將《めいしやう》は巧者故也《こうしやゆゑなり》。然《しか》るに兩陣《りやうぢん》小川《をがは》を隔《へだて》て、互《たがひ》に相挑合《あひいどみあ》ひ、最《もつとも》勝負《しようぶ》はなし。然《しか》るに午《うま》の刻《こく》に及《およ》んで、兎角《とにかく》御人數《ごにんず》を引揚《ひきあ》ぐべしと、御下知故《ごげちゆゑ》、何《いづ》れも小牧山《こまきやま》に引取《ひきと》る。此時《このとき》秀吉《ひでよし》は小松寺山《こまつでらやま》に、碁《ご》を打《う》つて居《を》られ、碁戯言《ごたはごと》に、敵《てき》が出《で》たら、向《むか》ふぞ向《むか》ふぞと云《い》はれしとは、此時《このとき》の事《こと》か。兎角《とかく》此時《このとき》は、秀吉《ひでよし》は取合《とりあ》ひなし。後年《こうねん》朝鮮陣《てうせんぢん》の時分《じぶん》に、神君《しんくん》の、秀吉《ひでよし》と御咄序《おはなしついで》の御挨拶《ごあいさつ》に、先年《せんねん》長久手《ながくて》の時分《じぶん》、其元《そのもと》には、其節《そのせつ》何《なに》として出《いで》られなんだと、秀吉《ひでよし》|被[#レ]申《まをされ》ければ。神君《しんくん》されば其儀《そのぎ》にて候《さふらふ》、御前《ごぜん》の御馬《おうま》が出《いで》ましたらば、私儀《わたくしぎ》も出馬《しゆつば》と存《ぞん》じ罷在《まかりあ》り候《さふらふ》との、御挨拶《ごあいさつ》あれば、秀吉《ひでよし》も最《もつとも》此方《このはう》も其通《そのとほ》りなりと|被[#レ]申《まをされ》しとなり。されば名將《めいしやう》は、符節《ふせつ》を合《あは》すと云《い》うて、同《おな》じ考《かんがへ》あるもの也《なり》。〔小牧陣始末記〕[#「〔小牧陣始末記〕」は1段階小さな文字]
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如何《いか》にも彼等《かれら》兩人《りやうにん》は、互《たが》ひに相手《あいて》の手許《てもと》のみ眺《なが》めて、其《そ》の隙《すき》に飛《と》び込《こ》まんと企《くはだ》て、遂《つ》ひに其《そ》の機會《きくわい》を得《え》なかつたのであらう。斯《か》くて秀吉《ひでよし》も、彌《いよ/\》心機《しんき》を一|轉《てん》し、二十九|日《にち》大浦《おほうら》に砦《とりで》を築《きづ》き、晦日《みそか》諸隊《しよたい》に向《むか》つて、明日《みやうにち》大決戰《だいけつせん》の準備《じゆんび》を令《れい》し。翌《よく》五|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、遂《つ》ひに撤退《てつたい》の命《めい》を發《はつ》し、午前《ごぜん》四|時《じ》二|重堀《ぢゆうぼり》、田中等《たなかとう》の守備兵《しゆびへい》を、青塚附近《あをづかふきん》に收《をさ》め、此《こゝ》に黒田孝高《くろだよしたか》、明石則實等《あかしのりざねら》の隊《たい》を留《とゞ》め、細川忠興《ほそかはたゞおき》、日根野兄弟《ひねのきやうだい》、長谷川秀一《はせがはひでかず》、加藤光泰《かとうみつやす》、蒲生氏郷等《がまふうぢさとら》を後衞《こうゑい》とし、六|時頃《じごろ》、全軍《ぜんぐん》約《やく》六|萬人《まんにん》の背進《はいしん》を開始《かいし》し。堀秀政《ほりひでまさ》を樂田《がくでん》に、加藤光泰《かとうみつやす》を犬山《いぬやま》に駐屯《ちゆうとん》せしめ、自餘《じよ》の諸隊《しよたい》は、鵜沼《うぬま》の船橋《ふなばし》を通過《つうくわ》し、各務原《かゞみがばら》を經《へ》て、大浦《おほうら》に入《い》り。それより信雄《のぶを》の領土《りやうど》を攻略《こうりやく》するの、手段《しゆだん》を取《と》つた。
秀吉《ひでよし》の背進《はいしん》に際《さい》しては、家康《いへやす》の麾下《きか》には、之《これ》を迫撃《つゐげき》せんと逸《はや》つた者《もの》も多《おほ》かつた。されど家康《いへやす》は、之《これ》を制《せい》して容《ゆる》さなかつた。家康《いへやす》は秀吉《ひでよし》に對《たい》しては、始終《しじゆう》防禦《ばうぎよ》の位地《ゐち》を保持《ほぢ》した。彼《かれ》の兵《へい》は自《みづ》から守《まも》るには餘《あま》りあり、敵《てき》を攻《せ》むるには不足《ふそく》であつた。されば彼《かれ》は、敢《あへ》て勝敗《しようはい》を一|擲《てき》に決《けつ》するが如《ごと》き、冐險《ばうけん》を做《な》さなかつた。家康《いへやす》の如《ごと》きは、實《じつ》に我《われ》を知《し》り、彼《かれ》を知《し》るの明《めい》ありと言《い》ふべきぢや。

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[#6字下げ][#小見出し]秀吉の剛膽[#小見出し終わり]

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東照宮の小牧の陣を、秀吉二重湟の城の櫓に上り見遣りて、高山右近大夫幸任[#割り注]○房長[#割り注終わり]を呼で、書翰を送り一戰せんと思ふなり、十三萬の軍兵、陣を整へて押出し、後に柵の木結て引退ざる手立せんは如何にと云はれしかば、高山是は思召止まられ給へ、小牧よりの返書必らず怒らせ給はんことを申し來るべしと云へとも、秀吉、増田長盛に書翰を書せ、長岡忠興に敵陣の木戸なる道に立てよと下知せらる、高山色を變じ仰也とも行くなとぞ制しける、秀吉、忠興は弓箭の烈しき所へは思ひも寄らじ、剛の者を使にせんと言はれしかば、忠興、高山を睨みてツと立つて馬に乘り、竹に書翰を挾み乘行て村立つたる松原の小塚の上に押立て歸るを見て、秀吉悦ばる、稍あつて小牧の陣より月毛の馬に乘り、紅の母衣掛たる武者書翰を取て歸る、暫く有りて金の枇杷篦の指物差し鹿毛なる馬に乘たる武者書翰を竹に挾み元の所に立てけり、アレ取り來れと云はれしかば、忠興又馬に乘り馳行て取歸るを、秀吉披て讀るゝに東照宮の返書には無く渡邊半藏重綱[#割り注]○守綱[#割り注終わり]水野太郎作正重が書翰にて、其詞に後に柵結て一足も引くまじきと思ひ定めて軍あらん事兎も角もの事に候、三河者下部に至る迄一足も逃ると申す事露計りも不[#レ]存候とぞ書たりけり、秀吉讀みも終らず怒られければ、高山左れば斯く候はんとて申たる事よと居丈高に成て申す、秀吉冷笑ひ馬牽出させひたと乘り、僅か四五騎計りにて松原の小塚に上り、臀を打叩き敵の大將是れ喰へと呼はるを、小牧より唐冠の冑に孔雀の尾の羽織着たるは秀吉よ、餘すなとて鐵砲を打掛くる、秀吉、天下の大將軍には矢の中るものかはと言て靜々と歸られけり。〔常山紀談、大川三志〕
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[#5字下げ][#中見出し]【七五】一得一失[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は先《ま》づ、加賀野井城《かがのゐじやう》を攻《せ》めた。此《こ》れは木曾川《きそがは》の左岸《さがん》に在《あ》つて、清洲城《きよすじやう》西北《せいほく》の重鎭《ぢゆうちん》であつた。信雄《のぶを》の被官《ひくわん》加賀野井重宗父子《かがのゐしげむねふし》、援將《ゑんしやう》伊勢神戸城主《いせかんべじやうしゆ》神戸正武等《かんべまさたけら》、兵《へい》二千|餘人《よにん》を以《もつ》て、之《これ》を守《まも》つた。秀吉《ひでよし》は五|月《ぐわつ》三|日《か》、大浦《おほうら》を發《はつ》し、木曾川《きそがは》を越《こ》えて、富田《とだ》に移《うつ》り、聖徳寺《しやうとくじ》に陣《ぢん》し、細川忠興等《ほそかはたゞおきら》を第《だい》一|隊《たい》とし、蒲生氏郷等《がまふうぢさとら》を第《だい》二|隊《たい》とし、自《みづか》ら豫備隊《よびたい》を率《ひき》ゐて、之《これ》を指揮《しき》した。四|日《か》黎明《れいめい》、細川忠興等《ほそかはたゞおきら》は追手《おふて》に、蒲生氏郷等《がまふうぢさとら》は搦手《からめて》に向《むか》ひ、直《たゞ》ちに攻撃《こうげき》を開始《かいし》し、秀吉《ひでよし》は馬《うま》を富田《とだ》附近《ふきん》の高地《かうち》に立《た》てゝ|之《これ》を監視《かんし》した。細川等《ほそかはら》の隊《たい》は、外郭《ぐわいくわく》を破《やぶ》り、城主《じやうしゆ》重宗《しげむね》を殺《ころ》した。然《しか》も城兵《じやうへい》屈《くつ》せず、善《よ》く戰《たゝか》うた。此《こゝ》に於《おい》て寄手《よせて》は、數重《すうぢゆう》の柵《さく》を樹《た》てゝ、四|面《めん》を包圍《はうゐ》し、弓銃《きゆうじゆう》を亂射《らんしや》して、之《これ》を攻《せ》めた、城兵《じやうへい》は和《わ》を請《こ》うたが、秀吉《ひでよし》之《これ》を許《ゆる》さなかつたから、愈《いよい》よ突出《とつしゆつ》に決《けつ》し、五|日《か》夜半《やはん》、暗黒《あんこく》に乘《じやう》じ、追手門《おふてもん》より出《い》でた。寄手《よせて》は之《これ》を掩撃《えんげき》した。斯《か》くて六|日《か》の曉《あかつき》、城《しろ》は全《まつた》く秀吉《ひでよし》の手《て》に落《お》ちた。
竹《たけ》ヶ|鼻城《はなじやう》は、加賀野井城《かがのゐじやう》の西北《せいほく》に在《あ》つて、木曾川《きそがは》を隔《へだ》てゝ|相對《あひたい》し、城主《じやうしゆ》は不破廣綱《ふはひろつな》であつた。秀吉《ひでよし》は戰勝《せんしよう》の勢《いきほひ》に乘《じよう》じ、五|月《ぐわつ》六|日《か》、三柳《みつやなぎ》に移《うつ》り、木曾川《きそがは》を渡《わた》り、小熊《をぐま》を經《へ》て、間島《まじま》に陣《ぢん》し、諸隊《しよたい》をして竹《たけ》ヶ|鼻城《はなじやう》を圍《かこ》ましめた。翌《よく》七|日《か》、秀吉《ひでよし》自《みづ》から其《そ》の地形《ちけい》を見《み》、濠《ほり》深《ふか》く、沼《ぬま》多《おほ》く、攻撃《こうげき》に便《べん》ならざるを察《さつ》し、其《そ》の慣用手段《くわんようしゆだん》たる水攻《みづぜめ》に決《けつ》し、約《やく》十|萬《まん》の役夫《えきふ》を使用《しよう》して、堤防《ていばう》を築《きづ》き、木曾川《きそがは》の右岸《うがん》を決《けつ》して、之《これ》に灌《そゝ》いだ。果然《くわぜん》城中《じやうちゆう》の人《ひと》は、魚《うを》たらんとした。城兵《じやうへい》は簀《す》を樹上《じゆじやう》に結《むす》び、之《これ》に棲《す》んだ。偶《たまた》ま堤防《ていばう》缺潰《けつくわい》し、水《みづ》洩《も》れたが、秀吉《ひでよし》は更《さ》らに修築《しうちく》して、之《これ》に灌《そゝ》いだ。是《こゝ》に於《おい》て城主《じやうしゆ》廣綱《ひろつな》は、六|月《ぐわつ》七|日《か》、使《つかひ》を一柳直末《ひとつやなぎなほすゑ》の營《えい》に遣《つかは》し、開城《かいじやう》を申《まを》し入《い》れた。秀吉《ひでよし》乃《すなは》ち其請《そのこひ》を允《ゆる》し、十|日《か》悉《こと/″\》く城兵《じやうへい》を解散《かいさん》し、城主以下《じやうしゆいか》は一宮《いちのみや》に退《しりぞ》いた。而《しか》して直末《なほすゑ》をして此城《このしろ》を守《まも》らしめ、兵《へい》を大垣《おほがき》に班《かへ》した。
翌十一|日《にち》には、秀吉《ひでよし》多藝郡《たげごほり》を巡視《じゆんし》し、壘《るゐ》を直江《なほえ》に築《きづ》き、丸毛長隆《まるもながたか》をして之《これ》を守《まも》らしめ、十三|日《にち》大垣《おほがき》に還《かへ》り、二十一|日《にち》近江《あふみ》に入《い》り、二十八|日《にち》には大阪《おほさか》に歸《かへ》つた。此《こ》れは信長《のぶなが》の屡《しばし》ば行《おこな》うた、出直《でなほ》し策《さく》を襲用《しふよう》したものであらう。
飜《ひるがへ》つて聨合軍側《れんがふぐんがは》を見《み》れば、信雄《のぶを》は秀吉《ひでよし》の撤退後《てつたいご》、長島《ながしま》に還《かへ》つたが、家康《いへやす》は、依然《いぜん》小牧山《こまきやま》に留《とゞま》つた。然《しか》も家康《いへやす》は、何故《なにゆゑ》に加賀野井《かがのゐ》、竹《たけ》ヶ|鼻《はな》の警《けい》を聽《き》くも、其《そ》の後詰《ごづめ》をせなかつたのであらう乎《か》。そは敵兵《てきへい》が樂田《がくでん》、犬山等《いぬやまとう》に猶《な》ほ駐屯《ちゆうとん》したるを以《もつ》て、容易《ようい》に兵《へい》を動《うご》かし得《え》ざりしが爲《た》め乎《か》。將《は》た赴援《ふゑん》の結果《けつくわ》、却《かへつ》て秀吉《ひでよし》の大軍《たいぐん》に遭遇《さうぐう》するの、危險《きけん》を憚《はゞか》りたる爲《た》め乎《か》。而《しか》して竹《たけ》ヶ|鼻《はな》愈《いよい》よ陷《おちい》り、秀吉《ひでよし》亦《ま》た去《さ》ると聞《き》き、六|月《ぐわつ》十二|日《にち》、家康《いへやす》も亦《また》酒井忠次《さかひたゞつぐ》を小牧山《こまきやま》に留《とゞ》め、清洲城《きよすじやう》に入《い》つた。
飜《ひるがへ》つて伊勢方面《いせはうめん》を見《み》れば、三|月《ぐわつ》二十九|日《にち》、松《まつ》ヶ|島《しま》開城《かいじやう》以來《いらい》、姑《しば》らく戰鬪《せんとう》無《な》かりしが、四|月《ぐわつ》十二|日《にち》に至《いた》り、關《せき》及《およ》び蒲生《がまふ》の兵《へい》、再《ふたゝ》び峰城《みねじやう》を攻《せ》め、佐久間正勝《さくままさかつ》、遂《つ》ひに城《しろ》を棄《す》てゝ|尾張《をはり》に去《さ》つた。尋《つい》で神戸《かんべ》、國府《こくぶ》、千草《ちぐさ》、濱田《はまだ》、楠等《くすのきとう》の諸城《しよじやう》皆《み》な潰《つひ》え、七|日《か》市城《いちじやう》も、亦《また》陷《おちい》つた。澤城主神戸友盛《さはじやうしゆかんべとももり》は、織田信包《おだのぶかね》に頼《よ》りて降《くだ》つた。斯《か》くて伊勢全國《いせぜんこく》は、殆《ほと》んど秀吉方《ひでよしがた》の手《て》に入《い》つた。但《た》だ木造長政《きづくりながまさ》のみが、戸木《とぎ》、新美《にひみ》の兩城《りやうじやう》に據《よ》りて、尚《な》ほ屈《くつ》せなかつた。
以上《いじやう》の形勢《けいせい》を、概括《がいくわつ》して觀察《くわんさつ》すれば。聨合軍《れんがふぐん》は長久手《ながくて》に於《おい》て、目覺《めざま》しき勝利《しようり》を博《はく》したるも、そは只《た》だ敵將《てきしやう》の元《かうべ》を獲《え》た迄《まで》にて、實質《じつしつ》に於《おい》ては、却《かへつ》て秀吉《ひでよし》の方《はう》が、所得《しよとく》は多《おほ》かつた。乃《すなは》ち全《まつた》く美濃《みの》を收《をさ》め、且《か》つ信雄《のぶを》の領土《りやうど》たる伊賀《いが》、伊勢《いせ》を取《と》つた。六|月《ぐわつ》十三|日《にち》秀吉《ひでよし》は、蒲生氏郷《がまふうぢさと》に松《まつ》ヶ|島城《しまじやう》十二|萬石《まんごく》を與《あた》へて、生駒親正《いこまちかまさ》に神戸《かんべ》を與《あた》へ、織田信包《おだのぶかね》に木造《きづくり》、小倭等《こやまととう》の數邑《すいう》を贈與《ぞうよ》した。
約言《やくげん》すれば、物質上《ぶつしつじやう》に於《おい》ては秀吉《ひでよし》の勝《かち》であり、精神上《せいしんじやう》に於《おい》ては、家康《いへやす》の勝《かち》であつた。但《た》だ秀吉《ひでよし》をして、存分《ぞんぶん》に其《そ》の所志《しよし》を果《はた》すを、得《え》せしめなかつたのは、家康《いへやす》の力《ちから》と云《い》はねばならぬ。然《しか》も家康《いへやす》をして、其《そ》の力《ちから》を逞《たくまし》うするを、得《え》せしめなかつたのも、亦《ま》た實《じつ》に秀吉《ひでよし》の及《およ》ぶ可《べ》からざる所《ところ》と云《い》はねばなるまい。先《ま》づ勝負《しようぶ》は五|分《ぶ》五|分《ぶ》で、兩軍《りやうぐん》互《たが》ひに一|得《とく》一|失《しつ》と見《み》るが、平允《へいいん》であらう。

[#5字下げ][#中見出し]【七六】蟹江城の攻守(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

吾人《ごじん》は今《いま》茲《こゝ》に、蟹江城《かにえじやう》攻守《こうしゆ》の事《こと》に就《つい》て、少《すこ》しく語《かた》らねばならぬ。人《ひと》は一たびけちが附《つ》けば、容易《ようい》に脱《だつ》せられぬものぢや。信長時代《のぶながじだい》に、羽振《はぶり》善《よ》かりし瀧川一益《たきがはかずます》も、柴田勝家《しばたかついへ》、織田信孝《おだのぶたか》の一|味《み》敗亡後《はいばうご》は、秀吉《ひでよし》の情《なさ》けによりて、越前大野《ゑちぜんおほの》に閉居《へいきよ》したが。今回《こんくわい》秀吉《ひでよし》對《たい》信雄《のぶを》家康《いへやす》との、葛藤《かつとう》に際《さい》し、秀吉《ひでよし》の諭旨《ゆし》に應《おう》じ、其《そ》の舊領《きうりやう》を恢復《くわいふく》す可《べ》く活動《くわつどう》した。而《しか》して其《そ》の舞臺《ぶたい》の重《おも》なる一が、即《すなは》ち蟹江城《かにえじやう》攻守《こうしゆ》の件《けん》である。
蟹江城《かにえじやう》は、尾張海東郡《をはりかいとうごほり》にあり、清洲《きよす》の南方沿海《なんぱうえんかい》を扼《やく》し、前田《まへだ》、下市場《しもいちば》、大野《おほの》の諸城《しよじやう》と與《とも》に、清洲《きよす》、長島《ながしま》の聯絡《れんらく》を掩護《えんご》する要鎭《えうちん》にて、信雄《のぶを》の被官《ひくわん》、佐久間正勝《さくままさかつ》(信盛の子、甚九郎)[#「(信盛の子、甚九郎)」は1段階小さな文字]之《これ》を戌《まも》つたが、當時《たうじ》正勝《まさかつ》は、信雄《のぶを》の命《めい》を承《う》けて、伊勢《いせ》に赴《おもむ》き、萱生《かやふ》の築壘《ちくるゐ》を監督《かんとく》し。彼《かれ》の外叔父《ぐわいしゆくふ》前田種利《まへだたねとし》が、三百|人《にん》を以《もつ》て、其《そ》の留守《るす》をした。
然《しか》るに瀧川一益《たきがはかずます》は、當時《たうじ》伊勢神戸城《いせかんべじやう》に在《あ》つたが、種利《たねとし》が我《わ》が從兄《じゆうけい》なる縁《えん》を辿《たど》り、重賞《ぢゆうしやう》を約《やく》して、味方《みかた》に引《ひ》き入《い》る可《べ》く、書《しよ》を送《おく》つた。此《こゝ》に於《おい》て種利《たねとし》は、其子《そのこ》前田城主《まへだじやうしゆ》長種《ながたね》、弟《おとうと》下市場城主《しもいちばじやうしゆ》治利《はるとし》と共《とも》に之《これ》に應《おう》じ、秀吉方《ひでよしがた》の出兵《しゆつぺい》を促《うなが》した。此《こゝ》に於《おい》て瀧川一益《たきがはかずます》は、伊勢鳥羽《いせとば》の城主《じやうしゆ》九|鬼嘉隆《きよしたか》と相謀《あひはか》り、長島《ながしま》、清洲《きよす》の聯絡《れんらく》を中斷《ちゆうだん》せんと欲《ほつ》し、兩將《りやうしやう》の兵《へい》三千|人《にん》、六|月《ぐわつ》十五|日《にち》、白子浦《しらこのうら》より發船《はつせん》し、十六|日《にち》早朝《さうてう》、蟹江沖《かにえおき》に至《いた》り、一益《かずます》は、先《ま》づ七百|人《にん》を率《ひき》ゐて、蟹江城《かにえじやう》に入《い》つた。
此迄《こゝまで》は上首尾《じやうしゆび》であつた。然《しか》るに一益《かずます》、種利等《たねとしら》は、人《ひと》を遣《つかは》して、大野城主山口重政《おほのじやうしゆやまぐちしげまさ》に説《と》かしめたが、彼《かれ》は其《そ》の老臣《らうしん》が、人質《ひとじち》として蟹江《かにえ》に在《あ》るにも拘《かゝは》らず、斷然《だんぜん》之《これ》を拒絶《きよぜつ》した。一益《かずます》は乃《すなは》ち海上《かいじやう》の兵《へい》をして、大野川《おほのがは》を溯《さかのぼ》りて、之《これ》を攻《せ》めしめたが、重政《しげまさ》は善《よ》く拒《ふせ》ぎ、炬火《きよくわ》を投《とう》じて、敵船《てきせん》二|隻《せき》を燒《や》いた爲《た》め、他船《たせん》亦《ま》た進《すゝ》むを得《え》なかつた。
重政《しげまさ》は警《けい》を長島《ながしま》なる信雄《のぶを》、清洲《きよす》なる家康《いへやす》、及《およ》び萱生《かやふ》なる佐久間勝正《さくまかつまさ》に告《つ》げ、其《そ》の來援《らいゑん》を乞《こ》うた。當時《たうじ》井伊直政《ゐいなほまさ》は、松葉《まつば》に在《あ》つたが、大野方面《おほのはうめん》の火光《くわくわう》、天《てん》に燭《しよく》するを見《み》。扨《さ》ては敵兵《てきへい》沿海《えんかい》村落《そんらく》を、焚掠《ふんりやく》する乎《か》と判斷《はんだん》し、其旨《そのむね》を家康《いへやす》に報《はう》ずると同時《どうじ》に、自《みづ》から大野附近《おほのふきん》に赴《おもむ》き、敵情《てきじやう》を偵察《ていさつ》し、柵《さく》を海口《かいこう》に列《れつ》し、船《ふね》の進入《しんにふ》、兵士《へいし》の上陸《じやうりく》を防止《ばうし》した。信雄《のぶを》も亦《ま》た、梶川秀盛《かぢかはひでもり》、小阪雄吉等《こさかたかよしら》をして、赴援《ふゑん》せしめた。されば九|鬼等《きら》の兵《へい》は、上陸《じやうりく》するを得《え》ず、退《しりぞ》いて蟹江沖《かにえおき》を遊弋《いうよく》した。
戰局《せんきよく》大體《だいたい》の上《うへ》より見《み》れば、此《こ》の方面《はうめん》に於《お》ける得失《とくしつ》は、秀吉方《ひでよしがた》に於《おい》ては、さしたる大事《だいじ》ではない。取《と》れば得《とく》であり、失《うしな》へば損《そん》である。併《しか》し秀吉《ひでよし》の立場《たちば》より考《かんが》ふれば、何《いづ》れにしても、局部《きよくぶ》の利害《りがい》に他《ほか》ならぬ。されど聯合軍側《れんがふぐんがは》に取《と》りては、之《これ》を失《うしな》へば、非常《ひじやう》の痛手《いたで》である。されば家康《いへやす》は、其《そ》の報《はう》に接《せつ》するや、否《いな》や、兵士《へいし》の出發準備《しゆつぱつじゆんび》の了《をは》るを俟《ま》たず、馬廻《うままはり》數騎《すき》を從《したが》へ、快馬《くわいば》一|鞭《べん》、馳《は》せ出《いだ》した。其《そ》の戸田村《とだむら》に到《いた》る頃《ころ》、兵士《へいし》の來《きた》り屬《ぞく》したるもの、僅《わづ》かに五百|人《にん》であつた。一益《かずます》の兵士《へいし》若干《じやくかん》、蟹江《かにえ》に上陸《じやうりく》したが、沿岸《えんがん》一|帶《たい》は干潟《ひがた》にて、潮汐《てうせき》干滿《かんまん》の差《さ》甚《はなは》だしく、今《いま》や退潮《ひきしほ》に際《さい》して、大部隊《だいぶたい》の上陸《じやうりく》未《いま》だ畢《をは》らず、况《いは》んや糧食《りやうしよく》、彈藥《だんやく》をやだ。家康《いへやす》は之《これ》を察知《さつち》し、急《きふ》に其兵《そのへい》を分《わか》つて、海濱《かいひん》に派《は》し、城《しろ》と海上《かいじやう》との聯絡《れんらく》を絶《た》たしめた。斯《か》くて信雄《のぶを》も亦《ま》た、長島《ながしま》より兵《へい》を率《ひき》ゐて、大野《おほの》に抵《いた》つた。
十八|日《にち》、徳川《とくがは》の部將《ぶしやう》榊原康政等《さかきばらやすまさら》、信雄《のぶを》の支隊長《したいちやう》織田長益等《おだながますら》は、山口重政《やまぐちしげまさ》を嚮導《きやうだう》となし、正午《しやうご》下市場城《しもいちばじやう》を攻《せ》めた。城主前田冶利《じやうしゆまへだはるとし》善《よ》く奮鬪《ふんとう》したが、重政《しげまさ》の兵《へい》、城後《じやうご》の蘆葦中《ろゐちゆう》を渉《わた》り肉薄《にくはく》し、遂《つひ》に午後《ごご》八|時《じ》に至《いた》りて、落城《らくじやう》した。冶利《はるとし》は搦手《からめて》より脱出《だつしゆつ》せんとしたが、殺《ころ》された。家康《いへやす》は岡部政綱《をかべまさつな》をして、此城《このしろ》を守《まも》らしめた。
九|鬼嘉隆《きよしたか》は、下市場《しもいちば》の急《きふ》を聞《き》き、水路《すゐろ》之《これ》を赴援《ふゑん》せんとしたが、退潮《ひきしほ》の爲《た》めに果《はた》さず。蟹江《かにえ》の海上《かいじやう》より、一益《かずます》に使《つかひ》を致《いた》し、孤城《こじやう》嬰守《えいしゆ》の利《り》なきを説《と》き、退去《たいきよ》を勸告《くわんこく》したが。偶《たまた》ま織田信雄《おだのぶを》の兵船《へいせん》、追撃《つゐげき》し來《きた》るに遭《あ》ひ、且《か》つ戰《たゝか》ひ、且《か》つ走《はし》つた。一益《かずます》も到底《たうてい》事《こと》の爲《な》す可《べ》からざるを見《み》て、船《ふね》に搭《たふ》じて脱出《だつしゆつ》を謀《はか》つたが、信雄《のぶを》の兵船《へいせん》に逼《せま》られて、已《や》むなく再《ふたゝ》び蟹江《かにえ》の城《しろ》に入《はひ》つた。

[#5字下げ][#中見出し]【七七】蟹江城の攻守(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

不運《ふうん》なる瀧川一益《たきがはかずます》は、奇功《きこう》を奏《そう》せんと欲《ほつ》して、却《かへつ》て重圍《ぢゆうゐ》の裡《うち》に陷《おちい》つた。六|月《ぐわつ》十九|日《にち》、聨合軍《れんがふぐん》は蟹江城《かにえじやう》を取《と》り捲《ま》いた。其《そ》の南部《なんぶ》海門寺口《かいもんじぐち》には、榊原康政《さかきばらやすまさ》、丹羽氏次等《にはうぢつぐら》あり。其《そ》の北部《ほくぶ》戌亥口《いぬゐぐち》には、水野忠重《みづのたゞしげ》、大須賀康高等《おほすがやすたから》あり。其《そ》の東部《とうぶ》前田口《まへだぐち》には、徳川家康《とくがはいへやす》自《みづ》から之《これ》に當《あた》り、本多忠勝《ほんだたゞかつ》、石川康通等《いしかはやすみちら》之《これ》に屬《ぞく》した。西部《せいぶ》には織田信雄《おだのぶを》あり。又《ま》た前田城《まへだじやう》の監視《かんし》としては、石川數正《いしかはかずまさ》があつた。而《しか》して柵《さく》を樹《た》て、望樓《ばうろう》を設《まう》け、頻《しき》りに弓銃《きゆうじゆう》を發《はつ》して、晝夜《ちうや》の別《べつ》なく攻撃《こうげき》した。
一益《かずます》は老巧《らうこう》の兵者《つはもの》なれば、一千|人《にん》の兵《へい》を以《もつ》て、善《よ》く防《ふせ》いだ。二十二|日《にち》には、寄手《よせて》は總攻撃《そうこうげき》を行《おこな》ひ、竹楯《ちくじゆん》を列《れつ》して、城壁《じやうへき》に逼《せま》つた。一益《かずます》は三|之丸《のまる》が、其《そ》の廣《ひろ》き割合《わりあひ》に、兵員《へいゐん》の少《すくな》きを慮《おもんぱか》り、守備《しゆび》を二|之丸《のまる》に合《がつ》せんとしたが、敵《てき》が之《これ》に追躡《つゐせふ》して入《い》らんことを惧《おそ》れ。先《ま》づ各方面《かくはうめん》より、敵《てき》の不意《ふい》を窺《うかゞ》ひ突出《とつしゆつ》し、其機《そのき》に乘《じよう》じて、此《こ》の企圖《きと》を遂《と》げんとし、黄昏《くわうこん》諸隊《しよたい》に命《めい》じ、各門《かくもん》より突撃《とつげき》せしめた。寄手《よせて》は少《すこ》しも驚《おどろ》かず、之《これ》に應戰《おうせん》して、之《これ》を撃退《げきたい》した。前田口《まへだぐち》、戌亥口《いぬゐぐち》の守兵《しゆへい》は、豫期《よき》の如《ごと》く、二|之丸《のまる》に退却《たいきやく》したが、海門寺口《かいもんじぐち》の兵《へい》は、寄手《よせて》より攻《せ》め立《た》てられ、背進《はいしん》するを得《え》ず、門外《もんぐわい》に苦鬪《くとう》した。一益《かずます》出《い》でゝ|之《これ》を收容《しうよう》し、稍《やうや》く二|之丸《のまる》に入《い》るを得《え》たが、然《しか》も寄手《よせて》は、遂《つひ》に三|之丸《のまる》を占領《せんりやう》した。
此《こゝ》に於《おい》て寄手《よせて》は、望樓《ばうろう》を三|之丸《のまる》に設《まう》け、本丸《ほんまる》及《およ》び二|之丸《のまる》を俯瞰《ふかん》して、鐵砲《てつぱう》を發《はな》ち、火箭《ひや》を飛《と》ばし、ひた攻《ぜめ》に攻《せ》め附《つ》けた。而《しか》も敵《てき》は多勢也《たぜいなり》、味方《みかた》は小勢也《こぜいなり》、後詰《ごづめ》の見込《みこみ》とても、差《さ》し當《あた》り是《こ》れ無《な》く、糧食《りやうしよく》、彈藥《だんやく》も追々《おひ/\》缺乏《けつばふ》し、今《いま》は城中《じやうちゆう》も士氣《しき》沮喪《そさう》し、如何《いかん》ともす可《べ》からず。此《こゝ》に於《おい》て六|月《ぐわつ》廿九|日《にち》、津田藤《つだとう》三|郎《らう》を使《つかひ》とし、織田長益《おだながます》に就《つい》て降《かう》を乞《こ》うた。信雄《のぶを》は家康《いへやす》と議《ぎ》し、使《つかひ》を城《しろ》に入《い》れ、約《やく》して曰《いは》く、種利《たねとし》の首級《しゆきふ》を献《けん》じ、今後《こんご》我《われ》に屬《ぞく》せば、退去《たいきよ》を許《ゆる》さんと。一益《かずます》之《これ》を諾《だく》し、誓書《せいしよ》を納《い》れた。
七|月《ぐわつ》三|日《か》一益《かづます》は、其姪《そのをひ》瀧川詮益《たきがはのります》、及《およ》び津田藤《つだとう》三|郎《らう》を人質《ひとじち》として、寄手《よせて》に致《いた》した。家康《いへやす》は又《ま》た大須賀康高《おほすがやすたか》を城《しろ》に致《いた》した。此《こ》れは當座《たうざ》の質《ち》として、且《か》つは城兵《じやうへい》を監視《かんし》する爲《ため》であつた。種利《たねとし》は危險《きけん》の身《み》に迫《せま》れるを察《さつ》し、遁逃《とんたう》せんとしたが、殺《ころ》された。一益《かずます》乃《すなは》ち其《そ》の首級《しゆきふ》を贈《おく》りて開城《かいじやう》し、人質《ひとじち》を交換《かうくわん》して伊勢《いせ》に還《かへ》つた。一益《かずます》が、蟹江城《かにえじやう》の留守居《るすゐ》、前田種利《まへだたねとし》を招降《せうかう》し、而《しか》して其《そ》の開城《かいじやう》の已《や》む可《べ》からざるに際《さい》し、種利《たねとし》を殺《ころ》して、自《みづ》から一|命《めい》を完《まつた》うしたるは、如何《いか》にも笑止《せうし》千|萬《ばん》の事《こと》である。一|説《せつ》には、
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扨《さて》加樣《かやう》に事《こと》を御極《おき》めの上《うへ》。(開城約束の決定)[#「(開城約束の決定)」は1段階小さな文字]今度《このたび》の張本人《ちやうほんにん》前田與《まへだよ》十|郎《らう》(種利)[#「(種利)」は1段階小さな文字]が首《くび》を切《き》りて出《いだ》すべし、然《しか》らば瀧川《たきがは》を何分《なにぶん》にも、御取持《おとりもち》なさるべしと|被[#二]仰遣[#一]《おほせつかはさる》。是《これ》は萬事《ばんじ》を濟《すま》して置《お》きてのことなり。是等《これら》が|乍[#レ]恐《おそれながら》御功者《ごこうしや》と云《い》ふものなり。此儀《このぎ》を前方《ぜんぱう》に|被[#二]仰遣[#一]《おほせつかはされ》ては、如何《いか》なれば。事《こと》落著《らくちやく》の上《うへ》にて、仰《おほせ》つかはされし故《ゆゑ》、今更《いまさら》瀧川《たきがは》も致方《いたしかた》なく、前田《まへだ》が首《くび》を切《き》りて、差上《さしあぐ》るに事《こと》極《き》まる。然處《しかるところ》に前田《まへだ》此樣子《このやうす》を察《さつ》して、城《しろ》を落行《おちゆ》かんとせし時《とき》、瀧川《たきがは》の手歩行《てかち》の者《もの》、その體《てい》を見取《みと》りて、追掛《おひか》け、與《よ》十|郎《らう》を討《う》ち、神君《しんくん》へ差出《さしいだ》すによりて、瀧川《たきがは》御赦免《ごしやめん》にて、同《どう》四|日《か》に城《しろ》を退《の》く。〔小牧陣始末記〕[#「〔小牧陣始末記〕」は1段階小さな文字]
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前田《まへだ》の首《くび》を切《き》る事《こと》が、開城《かいじやう》の條件《でうけん》であつたか、條件後《でうけんご》の追加《つゐか》であつたか、其邊《そのへん》の事《こと》は、何《いづ》れにもせよ。瀧川《たきがは》と云《い》ふ男《をとこ》は、武士《ぶし》の風上《かざかみ》にも措《お》き難《がた》き一|人《にん》ぢや。人《ひと》も落《お》ちぶれ來《きた》れば、隨分《ずゐぶん》味氣《あぢき》なく墮落《だらく》するものである。
斯《か》くて彼《かれ》は木造《きづくり》に赴《おもむ》いたが、富田知信《とだとものぶ》は、彼《かれ》が秀吉《ひでよし》の許容《きよよう》なく、開城《かいじやう》したるを咎《とが》めて、之《これ》を容《い》れなかつた。而《しか》して瀧川《たきがは》は、遂《つひ》に京都《きやうと》の妙心寺《めうしんじ》に匿《かく》れ、後《のち》越前《ゑちぜん》の丹羽氏《にはし》に寄食《きしよく》して、落寞《らくばく》として終《をは》つた。
是《これ》より先《さき》、前田城《まへだじやう》監視《かんし》の任《にん》に當《あた》りたる石川數正《いしかはかずまさ》は、六|月《ぐわつ》二十三|日《にち》、安部信勝《あべのぶかつ》、及《およ》び信雄《のぶを》の兵《へい》、若干《じやくかん》と與《とも》に城《しろ》を攻《せ》め、汲路《きふろ》を斷《た》ち、城主前田長種《じやうしゆまへだながたね》をして開城《かいじやう》せしめた。此《こゝ》に於《おい》て蟹江《かにえ》、前田《まへだ》、下市場《しもいちば》の三|城《じやう》、悉《こと/″\》く又《ま》た聨合軍方《れんがふぐんがた》に恢復《くわいふく》せられた。家康《いへやす》は前田《まへだ》、下市場《しもいちば》二|城《じやう》を破毀《はき》せしめ、正勝《まさかつ》に蟹江城《かにえじやう》の守備《しゆび》を命《めい》じ、七|月《ぐわつ》五|日《か》、信雄《のぶを》と與《とも》に伊勢《いせ》に入《い》り、桑名《くはな》に陣《ぢん》し、神戸《かんべ》、白子附近《しらこふきん》を巡視《じゆんし》し、濱田《はまだ》に築壘《ちくるゐ》し、石川數正《いしかはかずまさ》を桑名城《くはなじやう》に、瀧川雄利等《たきがはかつとしら》を濱田《はまだ》に措《お》き、十三|日《にち》清洲《きよす》に還《かへ》つた。

          ―――――――――――――――
[#6字下げ][#小見出し]瀧川一益の末路[#小見出し終わり]

[#ここから1段階小さな文字]
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(上略)斯くて蟹江之城には人數兵粮玉藥共無ければ、城を持つ事難[#レ]成、織田友樂[#割り注]○長益[#割り注終わり]を以て信雄へ降參す、信雄より家康公へ色々被[#二]仰達[#一]候に付、家康公御好には前田與十郎叛逆の者なれば切て出し、瀧川は信雄へ對し弓を引間敷と誓紙可[#レ]仕旨被[#レ]仰ければ、瀧川難儀に及べ共流石命の惜きにや、敢なく與十郎を切て出し、其身誓紙を仕り、七月二日に城を明け伊勢の神戸へ歸りけり、瀧川も是より彌※[#二の字点、1-2-22]浪々して終に餓死すと聞えし。〔小牧戰話〕
信長の時は天下の政道四人の手に在り、柴田、秀吉、瀧川、丹羽也、左近武勇は無雙の名ありて、度々關八州を引受て合戰す、關八州の者は瀧川の名を聞ても畏れし程なりし、末に至て散々の體也。
[#地から1字上げ]〔老人雜話〕
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