第十四章 長久手戰爭の顛末
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正、【六六】、【六七】、【六八】、【六九】、【七〇】、【七一】再校正、以降再校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第十四章 長久手戰爭の顛末[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【六六】岩崎城陷る[#中見出し終わり]

所謂《いはゆ》る間道《かんだう》より、家康《いへやす》の出殼《でがら》たる參河《みかは》を襲《おそ》ふの策《さく》は、秀吉《ひでよし》の發意《ほつい》でなかつたにせよ、あつたにせよ、又《ま》た池田勝入《いけだしようにふ》の切《せつ》なる請望《せいばう》にて、秀吉《ひでよし》が喜《よろこ》んで承諾《しようだく》したるにせよ、餘儀《よぎ》なく之《これ》を允可《いんか》したるにせよ。愈《いよい》よ實行《じつかう》せらるゝ※[#「こと」の合字、328-5]となつた。秀吉《ひでよし》は勝入《しようにふ》に、同人《どうにん》の聟《むこ》森長可《もりながよし》と、三|好秀次《よしひでつぐ》とを、伴《ともな》ふ可《べ》く命《めい》じた。勝入《しようにふ》は何《いづ》れも身内《みうち》の者《もの》なれば、軍監《ぐんかん》を請《こ》うた。秀吉《ひでよし》は堀秀政《ほりひでまさ》を之《これ》に任《にん》じた。
秀吉《ひでよし》は勝入等《しようにふら》の輕※[#「にんべん+票」、第4水準2-1-84]《けいへう》にして、無謀《むばう》なるを慮《おもんぱか》り、明《みやう》六|日《か》を以《もつ》て、參河《みかは》の西部《せいぶ》に向《むか》ひ、根據地《こんきよち》を篠木《しのぎ》、柏井地方《かしはゐちはう》に設《まう》け、妄進《まうしん》せざる可《べ》く誡《いまし》め。而《しか》して六|日《か》は、敵兵《てきへい》の耳目《じもく》を欺《あざむ》く可《べ》く、小牧《こまき》に若干《じやくかん》の兵《へい》を出《いだ》して、戰鬪《せんとう》を挑《いど》ましめた。
勝入《しようにふ》は自《みづ》から六千を率《ひき》ゐて、第《だい》一|隊《たい》に、森《もり》は三千を率《ひき》ゐ、第《だい》二|隊《たい》に、堀《ほり》は三千を率《ひき》ゐ、第《だい》三|隊《たい》に、秀次《ひでつぐ》は八千を率《ひき》ゐ、第《だい》四|隊《たい》に、其《そ》の部署《ぶしよ》を定《さだ》め。四|月《ぐわつ》六|日《か》(陽暦五月十五日)[#「(陽暦五月十五日)」は1段階小さな文字]夜半《やはん》、潜《ひそか》に出發《しゆつぱつ》した。彼《かれ》は意氣踴躍《いきゆうやく》、眼中《がんちゆう》殆《ほとん》ど參河《みかは》なき態《てい》であつた。斯《か》くて七|日《か》午前《ごぜん》十|時頃《じごろ》には、二|宮村《のみやむら》の南《みなみ》より、池《いけ》ノ内村《うちむら》に通《つう》ずる物狂坂《ものぐるひざか》を越《こ》え、大草村《おほくさむら》を經《へ》て、關田村《せきだむら》に出《い》で、篠木《しのぎ》、柏井地方《かしはゐちはう》に到《いた》り、砦《とりで》を上條村《かみでうむら》に築《きづ》き、何《いづ》れも此處《ここ》に宿營《しゆくえい》した。此地《このち》には豫《かね》て諜《しめ》し合《あは》せたる一|揆大將《きたいしやう》、村瀬作右衞門《むらせさくゑもん》、森川權右衞門等《もりかはごんゑもんら》を首《はじめ》として、皆《み》な勝入《しようにふ》を迎《むか》へた。勝入《しようにふ》は秀吉《ひでよし》の命《めい》と稱《しよう》して、五|萬石《まんごく》の賞賜《しうし》を約《やく》した。斯《か》くて勝入等《しようにふら》は、八|日朝《かあさ》、明朝《みやうてう》長久手《ながくて》、藤島附近《ふぢしまふきん》を經《へ》て、參河《みかは》へ前進《ぜんしん》す可《べ》きを觸《ふ》れ、午後《ごご》十|時頃《じごろ》より、行進《かうしん》を初《はじ》めた。乃《すなは》ち全軍《ぜんぐん》を三|縱隊《じゆうたい》に分《わか》ちて、庄内川《しやうないがは》を渡《わた》つた。第《だい》一、第《だい》二|隊《たい》は、左縱隊《さじゆうたい》となり、大留村《おほとめむら》よりし。第《だい》三|隊《たい》は中央縱隊《ちゆうあうじゆうたい》となりて、野田村《のだむら》よりし。第《だい》四|隊《たい》は右縱隊《うじゆうたい》となりて、松河戸村《まつかはどむら》よりした。而《しか》して左縱隊《さじゆうたい》、及《およ》び中央縱隊《ちゆうあうじゆうたい》は、志段味村《しだみむら》に達《たつ》し、此《これ》より本來《ほんらい》の第《だい》一|隊《たい》、第《だい》二|隊《たい》、第《だい》三|隊《たい》の順序《じゆんじよ》に依《よ》りて、諏訪《すは》ヶ|原《はら》を過《す》ぎ、平子山《ひらこやま》の西北《せいほく》より、茶磨《ちやま》ヶ|根《ね》に出《い》で、印場《いんば》、新居兩村《あらゐりやうそん》の間《あひだ》を經《へ》て、矢田川《やたがは》を越《こ》え、熊張《くまばり》の西《にし》を進《すゝ》み、香流川《かなれがは》を渡《わた》り、長久手《ながくて》(蜻蚓狹間《こほろぎはざま》)を過《す》ぎ、九|日未明《かみめい》に、藤島村方面《ふぢしまむらはうめん》に前進《ぜんしん》した。
藤島《ふぢしま》の西北《せいほく》に岩崎城《いはさきじやう》がある、城主丹羽氏次《じやうしゆにはうぢつぐ》は、小牧徳川方《こまきとくがはがた》に從軍《じゆうぐん》して、其弟《そのおとうと》氏重《うぢしげ》が、長久手城主加藤忠景《ながくてじやうしゆかとうたゞかげ》以下《いか》二百三十九|人《にん》と、之《これ》を守《まも》つて居《ゐ》た。
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次郎助《じらうすけ》(氏重)[#「(氏重)」は1段階小さな文字]は、敵《てき》三|州《しう》へ亂入《らんにふ》の事《こと》、小牧山御本陣《こまきやまごほんぢん》にては、未《いま》だ知《し》り給《たま》はざるべし。我々《われ/\》此所《このところ》にて、敵《てき》を喰留《くひとめ》討死《うちじに》するならば、よも小幡《をばた》へは聞《きこ》ゆべし。然《しか》らば小幡《をばた》より小牧《こまき》へ注進《ちゆうしん》せぬことは有《あ》るべからずと、志《こゝろざし》を決《けつ》し、城外《じやうぐわい》へ出《いで》て、敵《てき》へ鐵炮《てつぱう》を打懸《うちかけ》る。敵《てき》は穩便《をんびん》に岡崎《をかざき》まで行《ゆか》んと思《おも》へども、軍《いくさ》をしかけられては、詮方《せんかた》なく、池田《いけだ》が先手《さきて》伊木清兵衞《いきせいべゑ》、片桐半右衞門《かたぎりはんゑもん》二千|餘騎《よき》、引包《ひつつゝ》んで討取《うちと》らんとす。此城《このしろ》僅《わづか》に五十|間《けん》の淺間《あさま》なる掻場《かきば》に、侍《さむらひ》十|騎《き》に過《すぎ》ず籠《こも》りたる事《こと》なれば、次郎助《じらうすけ》始《はじ》め、城兵《じやうへい》悉《こと/″\》く討死《うちじに》す。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》の戰爭《せんさう》は、九|日《か》の午前《ごぜん》四|時頃《じごろ》より始《はじ》まり、六|時頃《じごろ》には、一|切《さい》片附《かたづ》いた。而《しか》して戰爭中《せんさうちゆう》、第《だい》一|隊《たい》の本部《ほんぶ》池田勝入父子等《いけだしようにふふしら》、及《およ》び第《だい》二|隊《たい》の森長可《もりながよし》の兵《へい》は、生牛原《おうしがはら》にて、朝食《てうしよく》を喫《きつ》し、第《だい》三|隊《たい》の堀等《ほりら》は、金萩原《かねはぎがはら》に、第《だい》四|隊《たい》の秀次等《ひでつぐら》は、白山林《はくさんばやし》に駐止《ちゆうし》し、何《いづ》れも前隊《ぜんたい》の行進《かうしん》を起《おこ》すを待《ま》つて居《ゐ》た。而《しか》して神《かみ》ならぬ彼等《かれら》は、固《もと》より聨合軍《れんがふぐん》が、彼等《かれら》を追躡《つゐせふ》し來《きた》る可《べ》しとは、夢《ゆめ》にも氣附《きづか》なかつたのだ。

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[#6字下げ][#小見出し]丹羽氏重の武勇[#小見出し終わり]

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(上略)是時氏重[#割り注]○丹羽[#割り注終わり]患[#二]疱瘡[#一]、膿血尚未[#レ]乾、急執[#レ]刀奮起、氏重之母見[#下]氏重在[#レ]病而尚饒勇無[#レ]所[#二]畏怯[#一]輕[#レ]死將[#上レ]赴[#レ]敵、喜歎交至、日今兄氏次從[#二]神君于小牧[#一]、使[#三]汝守[#二]富城[#一]、[#割り注]○岩崎[#割り注終わり]爲[#レ]任重矣、願善遮駐[#二]勝入等之兵[#一]、以[#レ]死報[#レ]君、則倶死亦不[#二]以爲[#一レ]恨、因取[#レ]鎧授[#二]氏重[#一]、氏重領[#レ]意訣別、乃著[#レ]鎧且指揮、促[#二]老幼婢婦[#一]悉遁[#二]妙仙寺[#一]、[#割り注]家附菩提所在[#二]岩崎城東北[#一][#割り注終わり]氏重及景常[#割り注]○加藤太郎右衞門忠景[#割り注終わり]騎卒以下、里民工商懷[#二]舊恩[#一]者、尊卑凡三百人、同心戮力、各當[#二]各所[#一]、自[#二]城中[#一]放[#二]鐵砲[#一]劫[#二]遮勝入等之兵[#一]、然而勝入等固急[#二]襲入之期[#一]、唯求[#二]無事[#一]而過、故士卒傾[#レ]冑欲[#二]苟進[#一]、而尚矢石如[#レ]雨、則殆不[#レ]得[#レ]進、是時飛丸偶中[#二]勝入之馬[#(ノ)]放※[#「鑞のつくり」の「巛」に代えて「髟」、U+9B1B、331-12][#一]、馬駭風逸、勝入隨[#レ]馬、於[#レ]是勝入大驚且怒、勝入父子森長可等、急攻[#二]岩崎城[#一]、(下略)
[#地から2字上げ]〔丹羽(三草)家譜〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【六七】家康小幡城に入る[#中見出し終わり]

如何《いか》なる奇策《きさく》妙計《めうけい》も、軍事上《ぐんじじやう》に百|錬《れん》の老功《らうこう》なる、家康《いへやす》を對手《あひて》にしては、役《やく》に立《た》たぬのみか、却《かへつ》て其裏《そのうら》を掻《か》かるゝに到《いた》つた。扨《さて》も四|月《ぐわつ》六|日《か》、秀吉方《ひでよしがた》より小戰《せうせん》を仕掛《しか》けたれども、只《た》だ一|通《とほ》りのあしらひのみにて、事濟《ことずみ》となつたが。意外《いぐわい》にも七|日《か》の午後《ごご》四|時《じ》、篠木《しのぎ》の百|姓《しやう》二|人《にん》、小牧山《こまきやま》の本營《ほんえい》に來《きた》り、秀吉方《ひでよしがた》の大軍《たいぐん》、本日《ほんじつ》柏井附近《かしはゐふきん》に來《きた》り屯《たむろ》すと告《つ》げた。家康《いへやす》は猝《には》かに之《これ》を信《しん》ぜず、是《こ》れ或《あるひ》は我《わ》が兵《へい》を分《わか》ち、其虚《そのきよ》に乘《じよう》ぜんとする、敵《てき》の謀計《ぼうけい》にあらずやと疑《うたが》うた。軈《やが》て黄昏《たそがれ》に到《いた》りて、青塚《あをづか》(森長可)[#「(森長可)」は1段階小さな文字]の敵營《てきえい》に入《い》れ置《お》きたる、伊賀《いが》忍《しのび》の者《もの》服部平《はつとりへい》六|歸《かへ》り來《きた》りて、又《ま》た之《これ》を告《つ》げた。此《こゝ》に於《おい》て家康《いへやす》は、密《ひそ》かに諸隊《しよたい》に出發《しゆつぱつ》の用意《ようい》を命《めい》じ、更《さ》らに間諜《かんてふ》や、斥候《せきこう》を柏井方面《かしはゐはうめん》に派遣《はけん》した。
八|日《か》早朝《さうてう》、如意村《によいむら》の土豪《どがう》石黒善《いしぐろぜん》九|郎《らう》來《きた》りて、敵状《てきじやう》を信雄《のぶを》の陣《ぢん》に報告《はうこく》した。前夜《ぜんや》派遣《はけん》の斥候《せきこう》も亦《ま》た、歸《かへ》り來《きた》りて復命《ふくめい》した。此《こゝ》に於《おい》て家康《いへやす》は、愈《いよい》よ敵《てき》の目的《もくてき》は、岡崎城《をかざきじやう》を取《と》るにあるを確《たしか》め、猛然《まうぜん》として之《これ》を途中《とちゆう》に打破《だは》す可《べ》く、軍令《ぐんれい》を發《はつ》した。而《しか》して小牧《こまき》の本營《ほんえい》には、酒井忠次《さかゐたゞつぐ》、石川數正《いしかはかずまさ》、本多忠勝等《ほんだたゞかつら》に兵《へい》五千、及《およ》び信雄《のぶを》の兵《へい》千五百を留《とゞ》めて、之《これ》を守《まも》らしめ。水野忠重等《みづのたゞしげら》に兵《へい》四千五百を附《ふ》して、支隊《したい》となし、先發《せんぱつ》せしめ。自《みづ》から兵《へい》六千三百を率《ひき》ゐ、信雄《のぶを》は三千を率《ひき》ゐ、共《とも》に之《これ》に次《つ》ぐ可《べ》く、部署《ぶしよ》を定《さだ》めた。
家康《いへやす》は支隊《したい》の水野等《みづのら》に向《むか》つて、敵《てき》は今《いま》柏井附近《かしはゐふきん》にあり。汝等《なんぢら》今夜《こんや》(八日の夜)[#「(八日の夜)」は1段階小さな文字]小幡城《をばたじやう》に入《い》り、守將《しゆしやう》本多廣孝《ほんだひろたか》と協力《けふりよく》し、敵《てき》來《きた》り攻《せ》めば、固守《こしゆ》して其《そ》の後詰《ごづめ》を俟《ま》て。敵《てき》若《も》し參河方面《みかははうめん》に向《むか》はゞ、進《すゝ》んで之《これ》を攻撃《こうげき》せよ、予《よ》は首力《しゆりよく》を率《ひき》ゐて之《これ》に赴《おもむ》かんと命令《めいれい》した。此《こゝ》に於《おい》て水野等《みづのら》は、岩崎城主丹羽氏次《いはさきじやうしゆにはうぢつぐ》を嚮導《きやうだう》とし、八|日《か》午後《ごご》七|時頃《じごろ》小牧山《こまきやま》を發《はつ》し、南外山《みなみとやま》、勝川《かちかは》を經《へ》て、敵《てき》の右側《うそく》(當時秀吉方の支隊は、上條附近に宿營しつゝあつた。)[#「(當時秀吉方の支隊は、上條附近に宿營しつゝあつた。)」は1段階小さな文字]を潜行《せんかう》し、遂《つ》ひに其《そ》の覺《さと》る所《ところ》とならず、庄内川《しやうないがは》を徒渉《とせふ》し、川村《かはむら》を過《す》ぎて、十|時《じ》に小幡城《をばたじやう》に入《い》つた。此《こ》れは家康方《いへやすがた》に取《と》りて、第《だい》一の成功《せいこう》ぢや。
家康《いへやす》は小牧本營《こまきほんえい》、及《およ》び北外山《きたとやま》、宇田津等《うたつとう》諸砦《しよさい》の守備《しゆび》を嚴飭《げんちよく》し。其《そ》の寵將《ちようしやう》井伊直政《ゐいなほまさ》を先鋒《せんぽう》とし、彼《かれ》に附屬《ふぞく》せしめたる、甲州流《かうしうりう》一|色《しき》の赤備《あかぞなへ》千八百に、徳川麾下《とくがはきか》の千二百を加《くは》へ、都合《つがふ》三千の兵《へい》を率《ひき》ゐしめ。八|日《か》午後《ごご》八|時《じ》潜《ひそ》かに小牧《こまき》を發《はつ》し、市之久田《いちのくだ》、青山《あをやま》、豐場《とよば》、如意《によい》の諸村落《しよそんらく》を通過《つうくわ》し、味鋺《みま》の東北方《とうほくはう》を經《へ》て、勝川《かちかは》に入《い》り、龍源寺《りゆうげんじ》に少憇《せうけい》し、地理《ちり》を村民《そんみん》に問《と》ひ、篝火《かゞりび》にて小幡城《をばたじやう》と信號《しんがう》を交換《かうくわん》した。
[#ここから1字下げ]
あれは何方《いづく》と御尋《おたづね》あれば、勝川村《かちかはむら》と申上《まをしあげ》る。吉《きち》な名《な》、明日《みやうにち》の軍《いくさ》は勝《か》ちたり。あれで御休《おやす》み|可[#レ]有《あるべし》迚《とて》、殊《こと》の外《ほか》、御機嫌《ごきげん》の由《よし》。‥‥此處《ここ》に龍源寺《りゆうげんじ》と云《い》ふ寺《てら》あり、爰《こゝ》に阿彌陀堂《あみだだう》あり、是《これ》に御腰《おこし》を掛《か》けらる。村《むら》の名《な》吉《きち》なり、敵《てき》は近《ちか》きにより、此所《ここ》に於《おい》て、御鎧《おんよろひ》を召《め》され、御供《おとも》の面々《めん/\》、何《いづ》れも甲《かぶと》を著《ちやく》す。〔小牧陣始末記〕[#「〔小牧陣始末記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
斯《か》くて家康《いへやす》は、勝川《かちかは》を發《はつ》し、庄内川《しやうないがは》の右岸《うがん》を上《のぼ》る、約《やく》五|町《ちやう》にして、之《これ》を渡《わた》り、牛牧《うしまき》を經《へ》て、小幡城《をばたじやう》に入《はひ》つたのは、夜半《やはん》十二|時《じ》の頃《ころ》であつた。

[#5字下げ][#中見出し]【六八】秀次の敗走[#中見出し終わり]

家康《いへやす》が先發《せんぱつ》せしめた支隊《したい》の水野忠重等《みづのたゞしげら》が、小幡城《をばたじやう》に著《ちやく》するや、否《いな》や、守將《しゆしやう》本多廣孝《ほんだひろたか》は、直《たゞち》に斥候《せきこう》を龍泉寺附近《りゆうせんじふきん》、及《およ》び印場《いんば》、大森方面《おほもりはうめん》に出《いだ》し、敵情《てきじやう》を偵察《ていさつ》せしめたが。幾《いくばく》もなく敵兵《てきへい》が絡繹《らくえき》として、南進《なんしん》するの報《はう》を齎《もたら》した。仍《よつ》て軍議《ぐんぎ》を凝《こら》したるに、水野忠重《みづのたゞしげ》申《まを》す樣《やう》、敵《てき》の大軍《たいぐん》に、正面《しやうめん》より打《う》ち掛《かゝ》るは、得策《とくさく》でない、寧《むし》ろ其《そ》の後拒《こうきよ》を襲《おそ》ふ可《べ》きだと。衆議《しゆうぎ》何《いづ》れも之《これ》に一|決《けつ》し、因《よつ》て部署《ぶしよ》を分《わか》ち、其《そ》の右翼隊《うよくたい》は、大須賀康高《おほすがやすたか》、岡部長盛等《をかべながもりら》、其《そ》の左翼隊《さよくたい》は、榊原康政《さかきばらやすまさ》、本多康重《ほんだやすしげ》、穴山勝千代等《あなやまかつちよら》、其《そ》の豫備隊《よびたい》は水野忠重《みづのたゞしげ》之《これ》を率《ひき》ゐ、丹羽氏次《にはうぢつぐ》を嚮導《きやうだう》と定《さだ》めた。斯《かゝ》る折《をり》しも家康《いへやす》は入城《にふじやう》したれば、直《たゞ》ちに此旨《このむね》を稟議《りんぎ》したるに、家康《いへやす》も之《これ》を可《か》とし、自《みづか》らは首力《しゆりよく》を率《ひき》ゐて、敵《てき》の前頭《ぜんとう》を壓《あつ》す可《べ》く決心《けつしん》した。此《かく》の如《ごと》く防禦軍《ばうぎよぐん》は、敵《てき》を知《し》り、己《おのれ》を知《し》り、未《いま》だ戰《たゝかひ》を交《まじ》へざるに、既《すで》に其《そ》の勝算《しようさん》は、歴々《れき/\》たるものがあつた。
之《これ》に反《はん》して、侵入軍《しんにふぐん》は、全《まつた》く無我夢中《むがむちゆう》ぢや。其《そ》の後殿《しんがり》たる三|好秀次《よしひでつぐ》の第《だい》四|隊《たい》は、八|日《か》の夜《よ》、庄内川《しやうないがは》を渡《わた》りて後《のち》、川村《かはむら》を經《へ》て、龍泉寺《りゆうせんじ》の南方《なんぱう》を通過《つうくわ》し、印場《いんば》を經《へ》、矢田川《やたがは》を渉《わた》り、白山林《はくさんばやし》に至《いた》り、此《こゝ》に屯《たむろ》して、前隊《ぜんたい》の行進《かうしん》を開始《かいし》するのを待《ま》つて居《ゐ》た。白山林《はくさんばやし》は、小幡城《をばたじやう》の東南《とうなん》約《やく》一|里《り》の小岡《せうかう》にして、白山宮《はくさんぐう》あり、故《ゆゑ》に白山林《はくさんばやし》と名《なづ》く。
然《しか》るに防禦軍《ばうぎよぐん》の支隊《したい》は、敵《てき》の後拒《こうきよ》を追躡《つゐせふ》す可《べ》く、九|日《か》(陽暦五月十八日)[#「(陽暦五月十八日)」は1段階小さな文字]の午前《ごぜん》二|時頃《じごろ》、密《ひそ》かに小幡城《をばたじやう》を出《い》で、大須賀隊《おほすがたい》、及《およ》び水野隊《みづのたい》は、猪子石原《ゐのこいしはら》を經《へ》て、敵《てき》の右側《うそく》に近《ちか》づき、榊原隊《さかきばらたい》は稻葉《いなば》に赴《おもむ》き、敵《てき》の背後《はいご》に出《い》で、何《いづ》れも敵情《てきじやう》を探《さぐ》りつゝ、天明《てんめい》を俟《ま》つた。
秀次隊《ひでつぐたい》は、其《そ》の附近《ふきん》に敵兵《てきへい》の來《きた》り逼《せま》りつゝあるに氣附《きづ》かず、九|日《か》の拂曉《ふつげう》に、各々《おの/\》兵粮《ひやうらう》を使《つか》ひ、何等《なんら》警戒《けいかい》をも爲《な》さず、極《きは》めて呑氣《のんき》の態《てい》であつた。之《これ》を偵《うかゞ》ひ濟《す》ましたる右翼《うよく》の大須賀隊《おほすがたい》と、嚮導《きやうだう》の丹羽隊《にはたい》は、時《とき》こそ來《きた》れと、弓銃《きゆうじゆう》を亂射《らんしや》して、之《これ》に薄《せま》つた。秀次《ひでつぐ》の部將《ぶしやう》穗富山城守《ほとみやましろのかみ》は、敵兵《てきへい》の我《わ》が右側《うそく》に現出《げんしゆつ》するを見《み》るや、遽《には》かに之《これ》を本部《ほんぶ》の秀次《ひでつぐ》に報《はう》じ、田中吉政等《たなかよしまさら》と、其兵《そのへい》を指揮《しき》して、防戰《ばうせん》した。豫備《よび》の水野隊《みづのたい》、及《およ》び右翼隊《うよくたい》の殘部《ざんぶ》、岡部隊《をかべたい》も亦《ま》た、大須賀《おほすが》、丹羽《には》の兩隊《りやうたい》に力《ちから》を戮《あは》せ、猛烈《まうれつ》に攻《せ》め立《た》てた。秀次《ひでつぐ》は之《これ》を見《み》て、吉政《よしまさ》を召還《せうくわん》し、其《そ》の危急《ききふ》を、池田隊《いけだたい》、堀隊《ほりたい》に報《はう》じ、其《そ》の救《すくひ》を要《もと》めしめた。
防禦軍《ばうぎよぐん》の左翼隊《さよくたい》榊原康政等《さかきばらやすまさら》は、右翼隊《うよくたい》の開戰《かいせん》を見《み》るや、敵《てき》の背後《はいご》より吶喊《とつかん》して、其《そ》の輜重《しちよう》を掩撃《えんげき》した。隊長《たいちやう》朝倉丹後守《あさくらたんごのかみ》は善《よ》く拒《ふせ》いだが、やがて混亂状態《こんらんじやうたい》に陷《おちい》つた。秀次《ひでつぐ》の部將《ぶしやう》長谷川秀一《はせがはひでかず》は、本部《ほんぶ》を掩護《ゑんご》して進《すゝ》んだが、水野隊《みづのたい》、丹羽隊《にはたい》之《これ》を邀《むか》へ撃《う》ち。大須賀《おほすが》、榊原《さかきばら》、本多《ほんだ》の諸隊《しよたい》は、何《いづ》れも本部《ほんぶ》に突《つ》き込《こ》んだ。斯《か》く防禦軍《ばうぎよぐん》は、全力《ぜんりよく》を擧《あ》げて、前後左右《ぜんごさいう》より一|齊《せい》に秀次隊《ひでつぐたい》を壓迫《あつぱく》、攻撃《こうげき》したれば、今《いま》は潰崩《くわいほう》の他《ほか》なく、其《そ》の本部《ほんぶ》は長久手方向《ながくてはうかう》に、自餘《じよ》は岩作方向《やざこはうかう》へ敗走《はいそう》した。彼等《かれら》は尚《な》ほ其《そ》の本部《ほんぶ》を追撃《つゐげき》した。秀次隊《ひでつぐたい》は香流川《かなれがは》を渉《わた》り、細《ほそ》ヶ|根《ね》に據《よ》り拒戰《きよせん》したが、秀次《ひでつぐ》も殆《ほと》んど九|死《し》一|生《しやう》の中《なか》を、僅《わづ》かに麾下諸士《きかしよし》の奮鬪《ふんとう》にて、切拔《きりぬ》けた。
[#ここから1字下げ]
時《とき》に秀次《ひでつぐ》の馬《うま》に離《はな》れ、歩立《かちだち》に成《な》り、引退《ひきの》き兼《か》ぬる處《ところ》に、折節《をりふし》可兒才藏吉長《かにさいざうよしなが》、乘通《のりとほ》りしに、秀次《ひでつぐ》招《まね》き掛《か》け、其馬《そのうま》を貸《か》すべしとあれば、雨降《あめふ》りの傘也《かさなり》とて乘通《のりとほ》る。然《しか》る處《ところ》へ木下勘解由《きのしたかげゆ》(利直)[#「(利直)」は1段階小さな文字]其仕儀《そのしぎ》を見請《みう》けて、我《わ》が乘《の》りたる馬《うま》を秀次《ひでつぐ》に献《けん》じける。是《これ》は同《おな》じ忠《ちゆう》の内《うち》にても勝《すぐ》れたり。そこで其身《そのみ》は歩立《かちだち》になり、指物《さしもの》を地《ち》に立《たて》て討死《うちじに》す。弟《おとうと》木下周防《きのしたすはう》(利匡)[#「(利匡)」は1段階小さな文字]是《これ》も同《おなじ》く此處《ここ》に指物《さしもの》を地《ち》に立《たて》て討死《うちじに》す。木下助右衞門《きのしたすけゑもん》を初《はじ》めとして、岡本彦《をかもとひこ》三|郎《らう》、右《みぎ》何《いづ》れも討死《うちじに》也《なり》。其間《そのあひだ》に秀次《ひでつぐ》危《あやふ》き場《ば》を遁《のが》れて引退《ひきしりぞ》く。若《も》し此面々《このめん/\》討死《うちじに》なくば、秀次《ひでつぐ》討死《うちじに》と見《み》えたり。
[#地から2字上げ]〔小牧陣始末記〕[#「〔小牧陣始末記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
家康方《いへやすがた》の計略《けいりやく》は、全《まつた》く其《そ》の圖《づ》に中《あた》つた。侵入軍《しんにふぐん》は、敵状偵察《てきじやうていさつ》を怠《おこた》り、全《まつた》く油斷《ゆだん》して、其《そ》の失敗《しつぱい》を招《まね》いた。

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[#6字下げ][#小見出し]秀吉秀次の敗戰を責む[#小見出し終わり]

[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
一 此日此秀吉甥子之令[#二]覺悟[#一]人にも慮外之體、沙汰之限候、何れの者にもさし下甥體を見せ候はても爲[#二]何者[#一]も秀吉甥と存可[#レ]崇候に覺悟持專用之事、
一 是巳後は秀吉不[#レ]致[#二]許容[#一]如[#レ]無[#レ]之に可[#レ]仕と存切候へども、又は不便之心出來候間此一書を思立、書付候間心茂なをり人にも人と被[#レ]呼候においては、進退之儀右之外より取上可[#レ]申事、
一 今度木下助左衞門[#割り注]○利直[#割り注終わり]同勘ヶ由[#割り注]○利匡[#割り注終わり]相付候之處、兩人ながら跡に殘討死不便に候、兩人之者殺候事取分迷惑と可[#レ]存處、其心は無[#レ]之一柳市助[#割り注]○直末[#割り注終わり]を以池田監物とやらんをほしき由申候、假令秀吉誰やの者を預候共、今度被[#レ]成[#二]御預[#一]候者一人も不[#レ]殘兩人ながら討死いたさせ、我者のこり候間又御預之義外聞迷惑之由斟酌可[#レ]申處申させ候者は中々不[#レ]及[#レ]申、取次之者無分別之大たわけと存、市助めを手討にもいたし度|與《と》之所存、今迄言葉にも不[#レ]出腹中におり込候|而《て》加[#二]遠慮[#一]候、能々致[#二]分別[#一]諸事にたしなみ有[#レ]之候|而《て》秀吉甥之きれかと被[#レ]呼候|者《はゞ》何より可[#レ]爲[#二]滿足[#一]候、右之守一書心持以下嗜尤候事、
一 覺悟もなをり候はゞ何れの國成共可[#レ]預[#二]奉行[#一]候、只今のことく無分別之うつけにて候|者《はゞ》、命を助遣候共秀吉甥子の沙汰候て、於[#二]秀吉[#一]非[#レ]可[#レ]失[#二]面目[#一]儀候間手討に可[#レ]致候、人を切候事秀吉きらいにて候得共、其方を他國させ候へば耻のはぢにて候間、人手には懸申間敷候事、
一 此中者人にも不[#レ]言器用又はこさかしく物をも申付武者をも可[#レ]致と見及候|者《は》、お次[#割り注]○羽柴秀勝[#割り注終わり]は病者候之條秀吉代をも可[#レ]爲[#レ]致歟共存候に、其方加樣に覺悟持仕候|者《はゞ》、秀吉名字を不[#レ]可[#レ]殘と天道よりのはからいにて候かと存候へば、不[#レ]及[#二]是非[#一]さとりを搆候間くやみも無[#レ]之候、右五ヶ條之通是以後分別候|而《て》嗜於[#レ]無[#レ]之者、八幡大菩薩人手にはかけ申間敷候、委細善淨坊[#割り注]○宮部繼潤[#割り注終わり]蜂須賀彦右衞門[#割り注]○正勝[#割り注終わり]兩人に申含遣候間せかれにて候とも其意得專用候、
[#6字下げ]巳上
[#5字下げ]九月二十三日[#割り注]○天正十二年[#割り注終わり]
[#ここで字下げ終わり]
[#地から4字上げ]秀吉(書判)[#割り注]私に此書秀次への可[#レ]爲[#二]書状[#一]也[#割り注終わり]
[#地から1字上げ]〔武家事紀〕
[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【六九】堀秀政の戰鬪振[#中見出し終わり]

扨《さて》も侵入軍《しんにふぐん》第《だい》三|隊《たい》の堀秀政《ほりひでまさ》は、九|日《か》未明《みめい》より金萩原《かねはぎがはら》に野立《のだち》し、前隊《ぜんたい》岩崎城《いはさきじやう》攻撃《こうげき》の濟《す》むを待《ま》つて、行進《かうしん》す可《べ》く待《ま》ち居《ゐ》たりしが、端《はし》なく銃聲《じゆうせい》の後邊《こうへん》に轟《とゞろ》くを聞《き》き、一|揆原《きばら》が、第《だい》四|隊《たい》を要撃《えうげき》するのであらうと思《おも》ひ、斥候《せきこう》を出《いだ》した。間《ま》もなく其《そ》の歸報《きはう》によりて、家康方《いへやすがた》の追躡《つゐせふ》であることを知《し》り。此《こ》れは容易《ようい》ならぬ事《こと》と驚《おどろ》き、急《きふ》に部隊《ぶたい》の方向《はうかう》を轉《てん》じて、其《そ》の應援《おうゑん》に赴《おもむ》く途中《とちゆう》に於《おい》て、長谷川秀一《はせがはひでかず》よりの警報《けいはう》に接《せつ》し、又《ま》た秀次《ひでつぐ》よりの急使《きふし》、田中吉政《たなかよしまさ》に出會《しゆつくわい》した。
堀《ほり》は長久手《ながくて》に到《いた》り、其《そ》の陣地《ぢんち》を檜《ひのき》ヶ|根《ね》に占《し》め、香流川《かなれがは》を前《まへ》にし、隊《たい》を二|列《れつ》にして、敵《てき》を待《ま》ち受《う》けた。時《とき》に午前《ごぜん》七|時過《じすぎ》であつた。彼《かれ》は味方《みかた》の敗軍《はいぐん》の餘《あまり》、必《かなら》ず敵兵《てきへい》が勝《かち》に乘《じよう》じ、浮足《うきあし》となつて來《きた》るを豫想《よさう》した。されば其《そ》の部下《ぶか》に向《むか》つて、敵《てき》の十|間以内《けんいない》に近《ちかづ》くを待《まつ》て、一|齊《せい》に發火《はつくわ》せよ、若《も》し騎士《きし》一|人《にん》を殪《たふ》す者《もの》は、百|石《こく》を加増《かぞう》せんと申《まを》し渡《わた》した。
案《あん》の如《ごと》く、秀次隊《ひでつぐたい》を打破《うちやぶ》りたる徳川勢《とくがはぜい》は、勝《かち》に乘《じよう》じて進《すゝ》み來《きた》り、再《ふたゝ》び之《これ》を細《ほそ》ヶ|根《ね》に破《やぶ》り、北《に》ぐるを追《お》うて、高根《たかね》の北麓《ほくろく》を過《す》ぎた。水野忠重《みづのたゞしげ》は、頻《しき》りに之《これ》を制《せい》したれども、血氣《けつき》に逸《はや》る壯士《さうし》、如何《いか》でか之《これ》を聞《き》き入《い》る可《べ》き、大須賀《おほすが》、榊原《さかきばら》の二|隊《たい》、先《さき》を爭《あらそ》うて進《すゝ》み來《きた》つた。此《こゝ》に於《おい》て水野《みづの》、岡部《をかべ》、丹羽《には》の諸隊《しよたい》も、餘儀《よぎ》なく、之《これ》に繼《つい》で進《すゝ》んだが。思《おも》ひきや大將堀秀政《たいしやうほりひでまさ》は、檜《ひのき》ヶ|根《ね》の高地《かうち》を占《し》め、形勝《けいしよう》に據《よ》りて隊伍《たいご》を排列《はいれつ》し、筒口《つゝぐち》を揃《そろ》へて、徳川勢《とくがはぜい》の來《きた》るを、一|齊射撃《せいしやげき》す可《べ》く、待《ま》ち構《かま》へて居《を》らんとは。
追兵《つゐへい》は之《これ》を見《み》て逡巡《しゆんじゆん》した。堀《ほり》は矢頃《やごろ》を計《はか》りて、發射《はつしや》せしめた。秀次《ひでつぐ》の殘兵《ざんぺい》─|秀次《ひでつぐ》も亦《ま》た此中《このうち》にあつた─|亦《ま》た高根《たかね》に上《のぼ》りて、堀隊《ほりたい》と力《ちから》を合《あは》せた。大須賀隊《おほすがたい》、榊原隊《さかきばらたい》は、此《こ》の新手《あらて》に對《たい》して、打《う》ち惱《なやま》された。本多康重《ほんだやすしげ》は、部兵《ぶへい》を率《ひき》ゐ、敵《てき》の側面《そくめん》に出《い》でんとしたが、身《み》に七|瘡《さう》を被《かうむ》り、遂《つひ》に撃退《げきたい》せられた。堀《ほり》の部將《ぶしやう》、堀直政《ほりなほまさ》[#ルビの「ほりなほまさ」は底本では「ほりなほさま」]、柴田勝定等《しばたかつさだら》は、士卒《しそつ》を指揮《しき》吶喊《とつかん》して、追撃《つゐげき》した。水野隊《みづのたい》、大須賀隊等《おほすがたいら》は猪子石方向《ゐのこいしはうかう》に、榊原隊《さかきばらたい》は岩作方面《やざこはうめん》に潰走《くわいそう》した。堀《ほり》は其兵《そのへい》を分《わか》つて、猪子石方面《ゐのこいしはうめん》に向《むか》はしめ、自《みづか》ら麾下《きか》六百を指揮《しき》して、岩作方面《やざこはうめん》の敗敵《はいてき》を追撃《つゐげき》した。
[#ここから1字下げ]
小牧《こまき》の時《とき》、堀久太郎《ほりきうたらう》(秀政)[#「(秀政)」は1段階小さな文字]跡《あと》にて、鐵砲《てつぱう》の音致候《おといたしさふらふ》を、何事《なにごと》かと思《おも》ひ居候處《をりさふらふところ》へ、田中久兵衞《たなかきうべゑ》(吉政)[#「(吉政)」は1段階小さな文字]來《きたつ》て、跡《あと》は總敗軍也《そうはいぐんなり》。早《はや》く取《とつ》て返《かへ》せと云《い》ふ。久太郎《きうたらう》聞《きゝ》て、其方《そのはう》は使番《つかひばん》にては無《な》し、逃《にげ》て來《き》たかと云《い》ふ。久兵衞《きうべゑ》剛臆《がうおく》は|不[#レ]知《しらず》、敗軍《はいぐん》を知《し》らすると云捨《いひすて》、先《さき》へ行《ゆき》段々《だん/″\に》知《し》らする。久太郎《きうたらう》思《おも》ふに、使番《つかひばん》の來《きた》るべき所《ところ》へ、番頭《ばんがしら》の久兵衞《きうべゑ》來《きた》るは、散々《さん/″\》の敗軍《はいぐん》と思《おも》ふ。然《さ》らばと小高《こだか》き處《ところ》(檜ヶ根)[#「(檜ヶ根)」は1段階小さな文字]へ上《のぼ》り、むざと鐵炮《てつぱう》打《う》つな、十|間程《けんほど》も引寄《ひきよせ》て打《うつ》べし。我等《われら》が下知《げち》を待《ま》てと云《いつ》て、待《まつ》て居《ゐ》る處《ところ》へ、榊原《さかきばら》、大須賀《おほすが》、水野《みづの》、丹羽《には》と追來《おひきた》り候《さふらふ》。大將達《たいしやうたち》は、やれ長追《ながおひ》するなと申候《まをしさふら》へども、大須賀《おほすが》、榊原《さかきばら》の人數《にんず》、勵《はげ》み合《あ》ひ先《さき》へ/\と出《いづ》る故《ゆゑ》、終《つひ》に追過《おひすぎ》る。久太郎《きうたらう》は馬上《ばじやう》一|騎《き》討《う》たば、百|石《こく》|可[#レ]遣《つかはすべし》と云《い》ひながら、追過《おひす》ぎ來《きた》り白《しら》む處《ところ》へ、久太郎《きうたらう》見澄《みすま》し、夫《そ》れ蒐《かゝ》れと討《うつ》て蒐《かゝ》る。故《ゆゑに》其儘《そのまゝ》崩《くづ》れ追返《おひかへ》され、立泉寺川《りふせんじがは》(龍泉寺川)[#「(龍泉寺川)」は1段階小さな文字]の方《かた》へ逃《にぐ》るも有《あ》り、小幡《をばた》の方《はう》へ逃《にぐ》るもあり。二分《ふたわかれ》に成《なつ》て逃《にげ》る。大須賀《おほすが》、榊原《さかきばら》、水野總兵衞《みづのそうべゑ》(忠重)[#「(忠重)」は1段階小さな文字]本多豐後守《ほんだぶんごのかみ》(康重)[#「(康重)」は1段階小さな文字]岡部彌次郎《をかべやじらう》(長盛)[#「(長盛)」は1段階小さな文字]等《ら》悉《こと/″\》く追破《おひやぶ》られ候《さふらふ》。餘《あま》り烈《はげ》しきに小平太《こへいだ》(榊原康政)[#「(榊原康政)」は1段階小さな文字]は馬上《ばじやう》にて、長刀《なぎなた》を後《うし》ろ樣《ざま》にし薙拂《なぎはら》ひ乍《なが》ら退《の》く。大須賀《おほすが》も鑓《やり》を拂《はらつ》て退《の》きに退《の》く。刻限《こくげん》五つ時分《じぶん》(午前八時─九時)[#「(午前八時─九時)」は1段階小さな文字]にても有《あ》るべし。〔柏崎物語〕[#「〔柏崎物語〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
時《とき》に家康《いへやす》は小幡城《をばたじやう》を出《い》でゝ、黎明《れいめい》既《すで》に色《いろ》ヶ|根迄《ねまで》進《すゝ》んだ。堀《ほり》が敵《てき》を追撃《つゐげき》して、岩作附近《やざこふきん》に至《いた》るや、忽《たちま》ち富士《ふじ》ヶ|根山《ねやま》に、家康《いへやす》の金扇《きんせん》馬標《うまじるし》の閃《ひらめ》くを見《み》。此《こ》の大敵《たいてき》と出會《しゆつくわい》せば、萬事《ばんじ》休《きう》すと諦《あきら》め。且《か》つ秀次《ひでつぐ》は既《すで》に徳川勢《とくがはぜい》敗走《はいそう》を機《き》として、稻葉《いなば》に退却《たいきやく》したれば、直《たゞ》ちに分遣兵《ぶんけんへい》を召還《せうくわん》し、岩作《やざこ》の北部《ほくぶ》に退《しりぞ》いた。家康《いへやす》の麾下《きか》小栗忠政《をぐりたゞまさ》、成瀬正成等《なるせまさなりら》追撃《つゐげき》して、首級《しゆきふ》若干《じやくかん》を得《え》た。
却説《さて》も池田隊《いけだたい》、森隊《もりたい》は、秀次隊《ひでつぐたい》援助《ゑんじよ》の爲《た》め、踵《きびす》を回《めぐ》らして、長久手附近《ながくてふきん》に來《きた》り、使《つかひ》を堀隊《ほりたい》に致《いた》し、其《そ》の協力《けふりよく》を求《もと》めたが。堀《ほり》は吾隊《わがたい》の士卒《しそつ》既《すで》に過半《くわはん》死傷《ししやう》し、且《か》つ秀次《ひでつぐ》の安否《あんぴ》心元《こゝろもと》なしとて、之《これ》を謝絶《しやぜつ》し、稻葉《いなば》を過《す》ぎ、新居《あらゐ》に放火《はうくわ》し。秀次《ひでつぐ》の退路《たいろ》に尾《び》して、篠木《しのぎ》、柏井《かしはゐ》を經《へ》て、二|重堀《ぢゆうぼり》に還《かへ》つた。秀次《ひでつぐ》も又《ま》た同日《どうじつ》、樂田《がくでん》に還《かへ》つた。

[#5字下げ][#中見出し]【七〇】家康の戰鬪開始[#中見出し終わり]

扨《さて》も防禦軍《ばうぎよぐん》の首力《しゆりよく》たる家康《いへやす》は、信雄《のぶを》と與《とも》に、九|日《か》午前《ごぜん》二|時過《じすぎ》、井伊直政《ゐいなほまさ》の隊《たい》を先鋒《せんぽう》とし、織田信雄《おだのぶを》の隊《たい》を後衞《こうゑい》とし、自《みづ》から其《そ》の本部隊《ほんぶたい》を率《ひき》ゐて、小幡城《をばたじやう》を出《で》た。大森《おほもり》、印場《いんば》を經《へ》、稻葉《いなば》附近《ふきん》にて矢田川《やたがは》を渉《わた》り、四|時頃《じごろ》迂回《うくわい》して、本地村《もとぢむら》の南方《なんぱう》權道寺山《ごんだうじやま》附近《ふきん》を過《す》ぎ、日出《につしゆつ》の後《のち》、市坂《いちざか》より色《いろ》ヶ|根《ね》に進《すゝ》み、其《そ》の獲物《えもの》に接觸《せつしよく》するの機會《きくわい》を待《ま》つて居《ゐ》たが。端《はし》なく先發支隊《せんぱつしたい》の白山林《はくさんばやし》に於《おい》て、秀次《ひでつぐ》の隊《たい》を打破《だは》したる捷報《せふはう》に接《せつ》した。
然《しか》も軈《やが》て又《ま》た支隊《したい》が、檜《ひのき》ヶ|根《ね》方向《はうかう》に於《おい》て、堀秀政《ほりひでまさ》の兵《へい》に、追《お》ひ立《た》てられた敗報《はいはう》に接《せつ》した。此《こゝ》に於《おい》て家康《いへやす》は、内藤正成《ないとうまさなり》、高木清秀《たかぎきよひで》をして、敵情《てきじやう》を偵察《ていさつ》し、地形《ちけい》を踏査《たふさ》せしめ、彼我《ひが》相對《あひたい》の現状《げんじやう》を詳《つまびらか》にし。敵《てき》の先頭部隊《せんとうぶたい》たる、池田隊《いけだたい》、森隊《もりたい》が、未《いま》だ中央部隊《ちゆうあうぶたい》たる、堀隊《ほりたい》に合《がつ》せざるに先《さきだ》ち、其《そ》の中間《ちゆうかん》を遮斷《しやだん》し、個々《こゝ》に之《これ》を迎撃《げいげき》する爲《た》め、急《きふ》に色《いろ》ヶ|根《ね》を下《くだ》り、岩作《やざこ》を潜行《せんかう》し、香流川《かなれがは》を渉《わた》りて、富士《ふじ》ヶ|根《ね》に上《のぼ》り、部兵《ぶへい》をして、其正面《そのしやうめん》なる高地線《かうちせん》、前山《まへやま》、及《およ》び佛《ほとけ》ヶ|根《ね》を占領《せんりやう》せしめた。
恰《あたか》も此時《このとき》に堀隊《ほりたい》と戰《たゝか》うたる榊原康政《さかきばらやすまさ》、岡部長盛等《をかべながもりら》は、其《そ》の敗兵《はいへい》を收拾《しうしふ》して來《きた》り合《がつ》した。時《とき》に午前《ごぜん》八|時過《じすぎ》であつた。即《すなは》ち其《そ》の右翼《うよく》は前山《まへやま》にあつて、家康《いへやす》自《みづ》から之《これ》を率《ひき》う、其兵《そのへい》三千三百。左翼《さよく》は佛《ほとけ》ヶ|根《ね》の東北端《とうほくたん》にあつて、井伊直政《ゐいなほまさ》其他《そのた》前衞《ぜんゑい》の士《し》此《こゝ》に在《あ》り、其兵《そのへい》三千。同《どう》西北方《せいほくはう》切通附近《きりどほしふきん》は、豫備兵《よびへい》として信雄《のぶを》の兵《へい》があつた、此《こ》れも亦《ま》た三千。彼等《かれら》は鷲鳥《してう》の其《そ》の獲物《えもの》を目掛《めが》けて、將《まさ》に摶《う》たんとする意氣込《いきごみ》を示《しめ》した。
あな笑止《せうし》や、侵入軍《しんにふぐん》の第《だい》一|隊《たい》池田勝入《いけだしようにふ》は、斯《かゝ》る事《こと》とは夢《ゆめ》にも知《し》らず。彼《かれ》は今曉來《こんげうらい》岩崎城《いはさきじやう》を攻落《せめおと》し、午前《ごぜん》七|時頃《じごろ》、其《そ》の首級《しゆきふ》二百|餘《よ》を六|坊山《ばうやま》に實驗《じつけん》し、其《そ》の眼中《がんちゆう》既《すで》に岡崎城《をかざきじやう》無《な》き態《てい》であつた。然《しか》るに第《だい》二|隊《たい》の森長可《もりながよし》は、生牛原《おうしがはら》に休憇《きうけい》しつゝあるに際《さい》し、秀次隊《ひでつぐたい》の田中吉政《たなかよしまさ》親《した》しく來《きた》りて、後拒軍《こうきよぐん》潰亂《くわいらん》の模樣《もやう》を告《つ》げ、又《ま》た堀隊《ほりたい》よりも、其報《そのはう》に接《せつ》したれば、取《と》り敢《あ》へず、之《これ》を池田隊《いけだたい》に遞報《ていはう》して、直《たゞち》に背進《はいしん》した。八|時過《じすぎ》前山《まへやま》附近《ふきん》に到《いた》れば、家康《いへやす》の金扇《きんせん》馬標《うまじるし》は、既《すで》に富士《ふじ》ヶ|根《ね》の上《うへ》に、朝暉《てうき》に映《えい》じ、其《そ》の兵《へい》陸續《りくぞく》前進《ぜんしん》しつゝあつた。
此《こゝ》に於《おい》て森隊《もりたい》は、先《ま》づ陣地《ぢんち》を岐阜嶽《ぎふがだけ》に措《お》き、兎《と》も角《かく》も、池田隊《いけだたい》の來著《らいちやく》を待《ま》ち合《あは》せて居《ゐ》た。而《しか》して池田勝入《いけだしようにふ》も、此《こ》の警報《けいはう》に接《せつ》し、急《きふ》に背進《はいしん》し、佛《ほとけ》ヶ|根《ね》の東南高地《とうなんかうち》に備《そなへ》を配《くば》り、佛《ほとけ》ヶ|根池《ねいけ》、及《および》烏《からす》ヶ|狹間《はざま》を隔《へだ》てゝ、以《もつ》て家康《いへやす》の軍《ぐん》に對《たい》した。時《とき》に午前《ごぜん》九|時頃《じごろ》であつた。池田隊《いけだたい》は途中《とちゆう》より使《つかひ》を岩作《やざこ》なる堀隊《ほりたい》に馳《は》せ、其《そ》の協戮《けふりく》を求《もと》めたが、秀政《ひでまさ》が之《これ》に應《おう》ぜなかつたことは、既記《きき》の通《とほ》りである。今《い》ま池田《いけだ》、森《もり》兩隊《りやうたい》の兵力配置《へいりよくはいち》を見《み》れば、其《そ》の右翼《うよく》は田《た》ノ尻《しり》の東南高地《とうなんかうち》に、池田之助《いけだゆきすけ》、輝政兄弟《てるまさきやうだい》、四千の兵《へい》を以《もつ》て屯《たむろ》し、左翼《さよく》岐阜嶽《ぎふがだけ》には、森長可《もりながよし》三千の兵《へい》を以《もつ》て屯《たむろ》し、池田勝入《いけだしようにふ》は、二千の兵《へい》を擁《よう》し、豫備隊《よびたい》として顱狹間《かうべはざま》にあつた。
家康《いへやす》の之《これ》に對《たい》する措置如何《そちいかん》。
[#ここから1字下げ]
時《とき》に池田父子《いけだふし》、森等《もりら》備《そな》へたるを聞召《きこしめ》し、此方《こなた》へ掛《か》かり來《きた》るか、如何《いか》にとあれば、物見《ものみ》の面々《めん/\》、歸《かへ》り來《きた》りて、敵《てき》は合戰《かつせん》を待《ま》つて罷在《まかりあ》るの段《だん》を申上《まをしあげ》る。其故《それゆゑ》御先手《おんさきて》足輕大將《あしがるたいしやう》、軍《いく》さ初《はじ》めあり。此時《このとき》が巳《み》の刻《こく》(午前十時)[#「(午前十時)」は1段階小さな文字]と也《なり》。時《とき》に軍《いく》さ初《はじま》るに付《つい》て、神君《しんくん》、信雄《のぶを》御人數《ごにんず》を、富士《ふじ》ヶ|根山《ねやま》の切通《きりどほ》しより、佛《ほとけ》ヶ|根山《ねやま》に御移《おんうつ》しあり。前《さ》きには富士《ふじ》ヶ|根山《ねやま》に御馬《おうま》を立《たて》らるれども、富士《ふじ》ヶ|根山《ねやま》にては、敵《てき》の右《みぎ》へはよけれども、左《ひだり》へ惡《わる》き故《ゆゑ》、佛《ほとけ》ヶ|根山《ねやま》の西《にし》の方《はう》へ御移《おんうつ》りあり。さて井伊直政《ゐいなほまさ》は、御旗本《おんはたもと》の前備《まへぞなへ》なれども、此節《このせつ》御先手《おんさきて》に|被[#レ]成《なされ》、其勢《そのせい》四千|餘《よ》の人數《にんず》を、三|列《れつ》にして備《そな》ふ。神君《しんくん》にも、此備《このそなへ》大切《たいせつ》に思召《おぼしめ》すに付《つい》て、直政《なほまさ》年若《としわか》なればと有《あり》て、内藤《ないとう》四|郎左衞門《らうざゑもん》、高木主水《たかぎもんど》兩輩《りやうはい》を、此節《このせつ》後見《こうけん》として御付《おつけ》|被[#レ]成《なさる》。〔小牧陣始末記〕[#「〔小牧陣始末記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《かく》の如《ごと》く家康《いへやす》は、其《そ》の陣地《ぢんち》を富士《ふじ》ヶ|根《ね》より前山《まへやま》、及《およ》び佛《ほとけ》ヶ|根山《ねやま》に移《うつ》し、愈《いよい》よ開戰《かいせん》せしめた。迅雷《じんらい》一|發《ぱつ》、忽《たちま》ち侵入軍《しんにふぐん》の第《だい》一|線《せん》たる、池田兄弟《いけだきやうだい》、及《およ》び森隊《もりたい》を破《やぶ》りて、二三百|人《にん》を殪《たふ》した。

[#5字下げ][#中見出し]【七一】池田父子森の討死[#中見出し終わり]

池田勝入《いけだしようにふ》は、徳川勢《とくがはぜい》の最左側《さいさそく》を脅《おびや》かさんが爲《た》めに、田《た》ノ尻《じり》より迂回《うくわい》して、長久手村《ながくてむら》に向《むか》はんとしたが。其子《そのこ》之助《ゆきすけ》、輝政《てるまさ》の隊《たい》が、苦戰《くせん》の状態《じやうたい》に陷《おちい》り、旗幟《きし》の既《すで》に亂《みだ》れたるを見《み》、之《これ》を救《すく》ふ可《べ》く、先《ま》づ決死《けつし》の士《し》二三十|人《にん》をして、正面《しやうめん》の狹隘《けふあい》より突貫《とつくわん》せしめたが。徳川勢《とくがはぜい》の銃火《じゆうくわ》劇《はげ》しく、部隊《ぶたい》逡巡《しゆんじゆん》、進《すゝ》むを得《え》ずして、其《そ》の目的《もくてき》を果《はた》さなかつた。
然《しか》るに防禦軍《ばうぎよぐん》の右翼《うよく》たる、家康《いへやす》の率《ひき》ゐる兵《へい》は、侵入軍《しんにふぐん》の左翼《さよく》たる森隊《もりたい》を監視《かんし》し、其《そ》の前進《ぜんしん》を待《ま》ち構《かま》へて、敢《あへ》て動《うご》かなかつたが。森隊《もりたい》は又《ま》た田《た》ノ尻方面《じりはうめん》に於《お》ける徳川勢《とくがはぜい》が、漸《やうや》く戰鬪《せんとう》面倒《めんだう》となれば、家康《いへやす》は必《かなら》ず其《そ》の兵力《へいりよく》を割《さ》きて、之《これ》を赴援《ふゑん》せしむるであらう。其時《そのとき》には直《たゞ》ちに、家康《いへやす》の麾下《きか》なる前山《まへやま》に薄《せま》る可《べ》しと、只管《ひたすら》田《た》ノ尻方面《じりはうめん》の戰況《せんきやう》のみを凝視《ぎようし》した。家康《いへやす》は今《いま》や決戰《けつせん》の機《き》正《まさ》に熟《じゆく》すとなし、其隊《そのたい》を二|分《ぶん》し、右《みぎ》なる一|部隊《ぶたい》を率《ひき》ゐ、森隊《もりたい》に向《むか》つて打《う》ち掛《かゝ》つた。森隊《もりたい》も亦《ま》た、之《これ》に應戰《おうせん》し、互《たが》ひに狹隘《けふあい》にて衝突《しようとつ》した。
[#ここから1字下げ]
神君《しんくん》には森長可《もりながよし》が手《て》へ御掛《おんかゝ》り、段々《だん/\》敵《てき》を御討取《おんうちと》り、御旗本《おはたもと》の人數《にんず》を以《もつ》て追崩《おひくづ》す。森《もり》も跡手《あとで》に控居《ひかへを》りしが、散々《さん/″\》に遁《に》げ崩《くづ》るゝ|人數《にんず》を、採配《さいはい》振《ふ》りて、比興者《ひきようもの》返《かへ》せ/\と※[#「鞫のつくり」、U+8A07、349-9]《のゝし》り、馬上《ばじやう》の者《もの》を止《とゞ》めて下知《げち》す。此時《このとき》長可《ながよし》が出立《いでたち》は白裝束《しろしやうぞく》故《ゆゑ》に、目《め》に立《た》つて見《み》ゆるにより、見《み》すまして、鐵炮《てつぱう》を打《う》ちしにより、内甲《うちかぶと》にはたと當《あた》り、馬上《ばじやう》より打落《うちおと》さる。生年《しやうねん》二十七|歳《さい》。此鐵炮《このてつぱう》は何《いづ》れの手《て》より打《う》ちしと云《い》ふに、井伊直政《ゐいなほまさ》の手《て》三千|挺《てう》の足輕頭《あしがるがしら》、熊井戸半右衞門組《くまゐどはんうゑもんぐみ》の柏原與兵衞《かしはばらよへゑ》と云者《いふもの》の、放《はな》つ鐵炮也《てつぱうなり》。是《これ》は横合《よこあひ》に打《う》つ玉《たま》當《あた》りしと也《なり》。時《とき》に長可《ながよし》馬《うま》より落《おち》たる所《ところ》を、森《もり》が手《て》の者《もの》、肩《かた》に引掛《ひつか》[#ルビの「ひつか」は底本では「かつか」]けて退《の》かんとす。然《しか》る所《ところ》大久保《おほくぼ》七|郎右衞門《らうゑもん》手《て》の本多《ほんだ》八|藏《ざう》、追落《おひおと》して、是《これ》を討取《うちと》る。〔小牧陣始末記〕[#「〔小牧陣始末記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
或《あるひ》は曰《いは》く、水野忠重《みづのたゞしげ》の卒《そつ》、杉山孫《すぎやままご》六|之《これ》を狙撃《そげき》〔四戰紀聞〕[#「〔四戰紀聞〕」は1段階小さな文字]したと。それは何《いづ》れにせよ、所謂《いはゆ》る鬼武藏《おにむさし》なる森《もり》は、九|日《か》の正午頃《しやうごごろ》正《まさ》しく討死《うちじに》した。此《こゝ》に於《おい》て、信雄《のぶを》の兵《へい》三千の新手《あらて》は、勝《かち》に乘《じよう》じて、森隊《もりたい》の退却《たいきやく》を追《お》ひ、池田勝入《いけだしようにふ》の控《ひか》へたる、左方《さはう》に出《い》でた。
却説《さて》池田勝入《いけだしようにふ》は、森隊《もりたい》の旗色《はたいろ》惡《あ》しきを見《み》、之《これ》を救《すく》はんとしたが、既《すで》に其機《そのき》を失《しつ》し。而《しか》して我《わ》が隊《たい》も亦《ま》た、士卒《しそつ》概《おほむ》ね散亡《さんばう》し、勝入《しようにふ》彼自身《かれじしん》亦《ま》た負傷《ふしやう》し、今《いま》は僅《わづ》かに左右《さいう》百五十|餘人《よにん》と顱狹間《かうべはざま》の陣地《ぢんち》を固守《こしゆ》したが、此《こ》れも亦《ま》た遂《つひ》に散亂《さんらん》した。
[#ここから1字下げ]
然《しか》る處《ところ》に池田勝入《いけだしようにふ》、馬《うま》放《はな》れ引退《ひきの》くこと|不[#レ]叶《かなはず》、牀机《しやうぎ》に腰《こし》を掛《か》け、兼《かね》て箇樣《かやう》の仕儀《しぎ》ならば、討死《うちじに》す可《べ》しと思《おも》ひ定《さだ》めて居《を》る故《ゆゑ》に、黒糸《くろいと》の鎧《よろひ》、頭形《づなり》の甲《かぶと》を着《ちやく》し、旄《はた》を持《もつ》て進《すゝ》む敵《てき》を待受《まちう》けし處《ところ》に、永井傳《ながゐでん》八|郎《らう》進《すゝ》んで、槍《やり》を持《もつ》て突伏《つきふ》せ、首《くび》を取《と》る。永井《ながゐ》は能《よ》き敵《てき》もあらばと垰《かせ》ぐ内《うち》に、山《やま》の上《うへ》に勝入《しようにふ》牀机《しやうぎ》に腰《こし》を掛《か》けて呼《よばゝ》りしは、夫《それ》へ參《まゐ》るは、敵《てき》ではなきか。敵《てき》ならば我《わ》が首《くび》を取《と》りて、高名《かうみやう》にすべしと呼掛《よびか》くる。傳《でん》八|振《ふ》り仰向《あふむ》きて是《これ》を見《み》るに、天晴《あつぱれ》大將《たいしやう》と思《おぼ》しき人《ひと》故《ゆゑ》、進《すゝ》んで鑓《やり》を付《つ》くる。勝入《しようにふ》は太刀《たち》の柄《つか》に、手《て》も掛《か》けず、神妙《しんめう》に首《くび》を切《き》られしと也《なり》。時《とき》に年《とし》四十九|歳《さい》。勝入《しようにふ》が死《し》を決《けつ》したるは、如何《いか》にとなれば、前《さき》の羽黒合戰《はぐろかつせん》に後詰《ごづめ》も|不[#レ]叶《かなはず》、是《これ》を無念《むねん》に存《ぞん》じ、雪《すゝ》がん爲《た》めに、三|州《しう》へ赴《おもむ》く。然《しか》るに是《これ》も|不[#レ]叶《かなはず》しては、秀吉《ひでよし》の手前《てまへ》の申譯《まをしわ》けなきにより討死《うちじに》す。森《もり》も其譯《そのわけ》故《ゆゑ》に、白裝束《しろしやうぞく》で出軍《しゆつぐん》討死也《うちじになり》と申《まを》す事《こと》。
偖《さて》池田紀伊守之助《いけだきいのかみゆきすけ》は、備場《そなへば》より二|町程《ちやうほど》引下《ひきさが》りて、家人《けにん》に何《な》んと勝入樣《しようにふさま》はと尋《たづ》ねければ、いやとく御討死《おんうちじに》と申《まを》しければ。夫《それ》は情《なさけ》なき義《ぎ》とて、取《とつ》て返《かへ》し、安藤彦兵衞《あんどうひこべゑ》に出合《であ》ひ、之助《ゆきすけ》は山《やま》へ上《のぼ》らんとす、安藤《あんどう》は下《した》へ下《お》りんとする所《ところ》故《ゆゑ》、安藤《あんどう》手《て》もなく突落《つきおと》して首《くび》を取《と》る。之助《ゆきすけ》行年《ぎやうねん》廿六|歳《さい》、又《また》廿三|歳《さい》とも云《い》ふ。
[#地から1字上げ]〔小牧陣始末記〕[#「〔小牧陣始末記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
斯《か》く勝入《しようにふ》は永井直勝《ながゐなほかつ》の爲《た》めに、其《そ》の長子《ちやうし》之助《ゆきすけ》は、安藤直次《あんどうなほつぐ》の爲《た》めに討死《うちじに》し、二|子《し》輝政《てるまさ》は、退却《たいきやく》し、其他《そのた》の士卒《しそつ》は潰亂《くわいらん》して、志段味《しだみ》、水野《みづの》、篠木《しのき》、柏井《かしはゐ》方向《はうかう》に遁走《とんそう》した。家康《いへやす》は長追《ながおひ》するなと命《めい》じ、其《そ》の追撃《つゐげき》を矢田川《やだがは》にて止《とゞ》めた。時《とき》に午後《ごご》一|時《じ》であつた。
此日《このひ》の秀吉方《ひでよしがた》の討死《うちじに》、二千五百|餘人《よにん》。徳川《とくがは》、織田《おだ》の聨合軍《れんがふぐん》は、五百九十|餘人《よにん》。午後《ごご》二|時《じ》家康《いへやす》は、富士《ふじ》ヶ|根《ね》の切通《きりどほし》より香流川《かなれがは》を渡《わた》り、權道寺山《ごんだうじやま》に移《うつ》り、小山《こやま》ヶ|澤《さは》に於《おい》て、首實驗《くびじつけん》の式《しき》を擧《あ》げた。

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[#6字下げ][#小見出し]安藤直次の殊功[#小見出し終わり]

[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
勝入をは安藤帶刀[#割り注]○直次、御旗本御鐵砲頭今の九郎左衞門伯父なり[#割り注終わり]槍付け、永井右近[#割り注]萬千代直勝[#割り注終わり]後より來り勝入の御首を取る、大勢這《はひ》掛り候故、右近右の人指を被[#レ]切由、成瀬吉右衞門[#割り注]今の吉右父なり[#割り注終わり]帶刀に尋ねて云、勝入は貴方槍付永井に首を被[#レ]取と承候、左樣にて有[#レ]之候かと、帶刀曰敵の大將を討ち首を人に遣る事や有る、槍付候と後より眞黒なる者※[#「てへん+(合/廾)」、第4水準2-13-31]ひ懸ると覺え候、是れ永井也、[#割り注]永井黒母衣也[#割り注終わり]勝入の首透さず永井擧げ候由帶刀被[#レ]申候由、其後武者一騎眞黒に乘來り、餘り急にて披き、少し後より突落す、是れ紀伊守殿也、其次又始の如く乘來り、是も如[#レ]初遣り過し突落す、是れ秋田加兵衞也、[#割り注]岡山に居候秋田と云老女が伯父也此老女延寳七年九十歳にて死[#割り注終わり]私曰安藤と永井は別て間善き故、勝入の御首を讓りし由、又曰安藤に神君被[#レ]仰は井伊萬千代[#割り注]十九[#割り注終わり]歳を何とぞとりかひ申樣にと仰也、依[#レ]之勝入を槍付萬千代々々々と呼ひしと也、永井萬千代無[#二]透間[#一]驅け來ると云々、[#割り注]池田主水家來に秋田五郎四郎と云加兵衞筋の者于[#レ]今有り秋田加兵衞より五郎四郎迄四代也[#割り注終わり]安藤帶刀、紀伊守殿、加兵衞を討被[#レ]申事は、加々爪民部、光政樣[#割り注]○池田[#割り注終わり]へ御物語被[#レ]申由、[#割り注]民部は帶刀の婿なり[#割り注終わり][#地から1字上げ]〔烈公聞書〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【七二】秀吉の赴援[#中見出し終わり]

參河《みかは》侵入軍《しんにふぐん》を派遣《はけん》したる秀吉《ひでよし》は、樂田《がくでん》にありて、家康《いへやす》の軍《ぐん》を牽掣《けんせい》し、侵入軍《しんにふぐん》の運動《うんどう》を、容易《ようい》ならしめんと欲《ほつ》し。九|日《か》の朝《あさ》、細川忠興《ほそかはたゞおき》、日根野弘就等《ひねのひろなりら》をして、兵《へい》を率《ひき》ゐて、小牧《こまき》に逼《せま》らしめたが、家康方《いへやすがた》の爲《た》めに逆撃《ぎやくげき》せられて、失敗《しつぱい》した。然《しか》るに正午頃《しやうごごろ》には、秀次隊《ひでつぐたい》の敗報《はいはう》達《たつ》したから、秀吉《ひでよし》も大《おほい》に驚《おどろ》き、直《たゞ》ちに出發《しゆつぱつ》の準備《じゆんび》を全軍《ぜんぐん》に命《めい》じ、午後《ごご》一|時頃《じごろ》、自《みづ》から兵《へい》二|萬《まん》を率《ひき》ゐて、赴援《ふゑん》の途《みち》に上《のぼ》つた。若《も》し對手《あひて》が、佐久間玄蕃《さくまげんば》であつたならば、宛《あたか》も是《こ》れ秀吉《ひでよし》に向《むか》つて、奇利《きり》を博《はく》する好機《かうき》を與《あた》へたのだ。但《た》だ煮《に》ても、燒《や》いても喰《く》へない家康《いへやす》を、向《むか》ふに廻《まは》しては、如何《いか》に秀吉《ひでよし》の神籌《しんちう》、鬼算《きさん》でも、施《ほどこ》す所《ところ》がなかつた。
秀吉《ひでよし》は其《そ》の途中《とちゆう》で、池田勝入《いけだしようにふ》が、其《そ》の訓令《くんれい》に負《そむ》き、岩崎城《いはさきじやう》を攻《せ》めた顛末《てんまつ》を聞《き》き、扨《さて》は愈《いよい》よ危急《ききふ》なりと觀念《くわんねん》し、無《む》二|無《む》三に、敵《てき》と接觸《せつしよく》す可《べ》く馳[#「馳」は底本では「驅」]《は》せ附《つ》けた。然《しか》るに小牧山《こまきやま》本營《ほんえい》を預《あづか》る、留守番《るすばん》の面々《めん/\》は、偶《たまた》ま樂田《がくでん》の敵軍《てきぐん》が、大擧《たいきよ》して東《ひがし》に進《すゝ》むの諜報《てふはう》に接《せつ》し、茲《こゝ》に評議《ひやうぎ》を凝《こら》した。
[#ここから1字下げ]
左衞門尉忠次《さゑもんのじようたゞつぐ》聞《きい》て、然《しか》らば秀吉本隊《ひでよしほんたい》は空虚《くうきよ》なるべし。今《いま》より羽黒《はぐろ》、樂田方《がくでんかた》を焼討《やきうち》せば、鬼神《きしん》を欺《あざむ》く秀吉《ひでよし》も、前後《ぜんご》に敵《てき》を受《う》け、敗亡《はいばう》疑《うたが》ひなしと云《い》ふ。石川伯耆守數正《いしかははうきのかみかずまさ》、此時分《このじぶん》秀吉《ひでよし》へ内通《ないつう》最中《さいちゆう》なれば、此謀《このはかりごと》を打消《うちけ》し、夫《そ》は以《もつ》ての外《ほか》宜《よろ》しからず、殘《のこ》る兵士《へいし》も多《おほ》からん、付入《つけいり》にされては大事也《だいじなり》、燒討《やきうち》無用《むよう》と押留《おしとゞ》む。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《かく》の如《ごと》く群議《ぐんぎ》區々《まち/\》であつた。然《しか》るに本多忠勝《ほんだたゞかつ》は、慨然《がいぜん》として曰《いは》く、
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平《へい》八|郎忠勝《らうたゞかつ》※[#「蚣のつくり/心」、第3水準1-84-41]然《ふんぜん》として、諸將《しよしやう》は心任《こゝろまか》せにし給《たま》へ。忠勝《たゞかつ》は安閑《あんかん》として居《を》られず。殿樣《とのさま》軍《いくさ》をなさるにも、人數《にんず》を立直《たてなほ》し給《たま》はずしては、兎《と》も角《かく》もなるべからず。足《あし》を亂《みだ》し居《を》る所《ところ》へ、秀吉《ひでよし》の大軍《たいぐん》新手《あらて》を以《もつ》て押懸《おしかゝ》らば、以《もつ》ての外《ほか》の大事也《だいじなり》。忠勝《たゞかつ》一|人《にん》たりとも、長久手《ながくて》に馳行《はせゆき》、もし殿樣《とのさま》御討死《おんうちじに》あらんには、御尸骸《おんしがい》を枕《まくら》とし、討死《うちじに》せんと云《い》へば、石川左衞門大夫康通《いしかはさゑもんのたいふやすみち》同意《どうい》して、忠勝勢《たゞかつぜい》八百(一説に五百又三百)[#「(一説に五百又三百)」は1段階小さな文字]康通勢《やすみちぜい》三百、小牧山《こまきやま》を打立《うちたち》たり。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
流石《さすが》に參河武士《みかはぶし》の精粹《せいすゐ》たる忠勝《たゞかつ》ぢや。彼《かれ》は石川康通《いしかはやすみち》と與《とも》に、僅《わづ》かに五六百の兵《へい》を率《ひき》ゐて、息《いき》をも附《つ》かず、馳《は》せ行《ゆ》き、遂《つひ》に秀吉《ひでよし》の大軍《たいぐん》に追《お》ひ附《つ》き、秀吉《ひでよし》の本部《ほんぶ》と駢行《へいかう》して進《すゝ》み、時々《とき/″\》發砲《はつぱう》して、一|刻《こく》たりとも其《そ》の進行《しんかう》の時期《じき》を、遲延《ちえん》せしめんとした。
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忠勝《たゞかつ》夫《そ》れより龍泉寺川《りゆうせんじがは》の南《みなみ》を行《ゆく》、北《きた》は秀吉《ひでよし》の大軍《たいぐん》追々《おひ/\》夥敷《おびたゞしく》馳加《はせくは》はる。忠勝《たゞかつ》は康通《やすみち》に向《むか》ひ、君《きみ》に奉《たてまつ》る命《いのち》、何方《いづかた》にても同《おな》じ。我々《われ/\》必死《ひつし》に奮戰《ふんせん》し、此所《こゝ》にて討死《うちじに》せば、秀吉《ひでよし》の軍《いくさの》行《てだて》一|時《じ》は邪魔《じやま》をすべし。其間《そのあひだ》には、我君《わがきみ》御人數《ごにんず》も立直《たてなほ》さるべしといへば、康通《やすみち》尤也《もつともなり》と、秀吉《ひでよし》の旗本《はたもと》を目懸《めがけ》、川端《かはばた》へ詰懸《つめかけ》て、八百の人數《にんず》を三|段《だん》に備《そな》へ、鐵砲《てつぱう》を打立《うちたて》合戰《かつせん》をすりかくる。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
秀吉《ひでよし》も此《こ》の大膽不敵《だいたんふてき》なる振舞《ふるまひ》には、少《すくな》からず驚《おどろ》いた。彼《かれ》は何者《なにもの》ぞ。
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流石《さすが》の秀吉《ひでよし》膽《きも》を消《け》し、扨※[#二の字点、1-2-22]《さて/\》大膽不敵者《だいたんふてきもの》もある事《こと》かな。千にも足《た》らぬ人數《にんず》にて、此大軍《このたいぐん》に對《たい》し、あの擧動《ふるまひ》、誰《たれ》か見知《みしり》たる者《もの》はなきかと云《いふ》に、稻葉《いなば》一|鐵《てつ》、鹿角《かづのゝ》前立者《まへたてもの》に、白《しろ》き引廻《ひきまは》しは、先年《せんねん》姉川《あねがは》にて見覺《みおぼ》え候《さふらふ》、徳川内《とくがはうち》本多平《ほんだへい》八に候《さふらふ》と申《まをす》。秀吉《ひでよし》涙《なみだ》を流《なが》し、平《へい》八|爰《こゝ》にて討死《うちじに》し、我旗本《わがはたもと》の邪魔《じやま》をして、主人《しゆじん》に十|分《ぶん》に軍《いくさ》をさせんとの所存《しよぞん》、天晴《あつぱれ》頼母敷《たのもしき》勇士《ゆうし》ならむ。我《われ》終《つひ》には彼《かれ》主從《しゆじゆう》一|同《どう》に被官《ひくわん》とせんと思《おも》ふ也《なり》。汝等《なんぢら》かまへて矢《や》一|筋《すぢ》も射懸《いかく》べからず。平《へい》八に手《て》を出《いだ》すな、平《へい》八に構《かま》ふなと下知《げち》し、一|向《かう》構《かま》はず、人數《にんず》を押行《おしゆけ》ば、味方《みかた》も詮方《せんかた》なく、川《かは》を隔《へだて》て押行《おしゆく》。忠勝《たゞかつ》川端《かはばた》へ馬《うま》を乘下《のりおろ》し、秀吉《ひでよし》の過行《すぎゆく》を見《み》ながら、馬《うま》の口《くち》を洗《あら》はせ居《ゐ》る。秀吉《ひでよし》益々《ます/\》其大勇《そのたいゆう》を感《かん》ぜらる。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
忠勝《たゞかつ》は龍泉寺附近《りゆうせんじふきん》に至《いた》る頃《ころ》、更《さ》らに三|列《れつ》の銃隊《じゆうたい》を以《もつ》て、其《そ》の前進《ぜんしん》を妨《さまた》げんと試《こゝろ》みたが、秀吉《ひでよし》の軍《ぐん》終《つ》ひに應《おう》ぜず。乃《すなは》ち彼等《かれら》は、無事《ぶじ》に家康《いへやす》の歸《かへ》るを、小幡《をばた》に迎《むか》へた。
家康《いへやす》は首實驗《くびじつけん》の後《のち》、秀吉《ひでよし》の必《かなら》ず來《きた》る可《べ》きを期待《きたい》したが、未《いま》だ其報《そのはう》に接《せつ》せざる際《さい》、諸將《しよしやう》の意見《いけん》を容《い》れ、信雄《のぶを》に勸《すゝ》め、渡邊守綱《わたなべもりつな》を後衞《こうゑい》とし、白山林《はくさんばやし》の南《みなみ》を過《す》ぎ、午後《ごご》四|時頃《じごろ》、小幡城《をばたじやう》に入《はひ》つた。

          ―――――――――――――――
[#6字下げ][#小見出し]本多忠勝の勳功[#小見出し終わり]

[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
樂田の方に早貝立て、金の瓢箪の印長久手の方へ赴候を見て、本多平八は家康公小勢にて御出馬候間必定御討死無[#レ]疑候、我等も兎もあれ長久手へ押寄せ、御死骸を枕に可[#レ]仕とて、手勢僅五百餘にて小牧を馳出、揉に揉んで急ぎ川を隔て秀吉御旗本と同樣に長久手へ馳申候、平八は是にて秀吉の軍を摺掛け一戰可[#レ]仕、我等討死仕る程ならば、餘程手間可[#レ]入なり、左候はゞ秀吉出馬滯り、長久手の御一戰御心靜に可[#レ]被[#レ]成候と存じ、平八手勢五百餘にて物見足輕を掛申候、一番物見に三浦九兵衞、梶二郎兵衞、牧惣次郎、二番には平八自身、松下勘左衞門、勾坂與五左衞門、小野田與四郎只七騎にて足輕を連れて罷出、秀吉公八萬餘の大軍へ弓鐵砲を打懸々々挑掛け申候、秀吉公は一刻も早く長久手へと思召候に付、無[#二]御取合[#一]御押候故、平八も秀吉も小川を際に阻て打連立ち、道々迫合ながら長久手へ急ぎ申候、龍泉寺へ十町許りに成候時、平八は川端へ乘下し馬の口洗はせ候を秀吉公御覽被[#レ]成、只今馬の口洗ひたる武者鹿の角の立物の甲を着たるは大將と見えたり、偖も勇士哉、家康好き者を澤山に持ちたり、誰か見知りたるかと御尋候、稻葉伊豫守、先年姉川にて武者出立見覺申候家康内本多平八と申士大將にて候と申上る、秀吉公御涙を被[#レ]流、人數五百餘にて八萬の秀吉に向ひ合戰を摺懸け千に一ツも可[#レ]勝や、然るに怯《ひる》まず軍を摺懸け候は平八爰にて討死し、我等旗本を逗留させ長久手の一戰を主の家康に心の儘にさすべきとの所存也、偖も々々頼母敷士哉、秀吉が運強くば彼等百人家康に在り共終には秀吉利運に可[#レ]成候間、矢の一筋をも射懸くべからず、平八を討つな々々々と御下知故、平八も無[#レ]恙長久手原へ參着申候。〔[#割り注]長久手御陣覺書、國朝大業廣記、四戰紀聞、寛元聞書、大三用志[#割り注終わり]〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【七三】長久手戰爭の影響[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は途中《とちゆう》にて、我《わ》が參河侵入軍《みかはしんにふぐん》の敗兵《はいへい》に出會《しゆつくわい》し、午後《ごご》五|時頃《じごろ》、龍泉寺山《りゆうせんじやま》に上《のぼ》り、先《ま》づ堀尾吉晴《ほりをよしはる》、一柳直末《ひとつやなぎなほすゑ》、木村重茲等《きむらしげとしら》の三|隊《たい》を、長久手方向《ながくてはうかう》に派遣《はけん》した。此《こ》の支隊《したい》は小幡原《をばたがはら》を横《よこ》ぎり、大森村《おほもりむら》を經《へ》、印場村《いんばむら》に到《いた》り、方《ま》さに撤退《てつたい》しつゝある、家康方《いへやすがた》の落後隊《らくごたい》に遭遇《さうぐう》し、其《そ》の二百|餘人《よにん》を殪《たふ》したが、其《そ》の首力《しゆりよく》は既《すで》に小幡城《をばたじやう》に入《はひ》つたを認《みと》め、力《ちから》及《およ》ばず、北《きた》に還《かへ》り、其旨《そのむね》を報《はう》じた。
此《こ》の戰爭《せんさう》に就《つい》ては、家康《いへやす》は始終《しじゆう》先著《せんちやく》にて、秀吉《ひでよし》は悉《こと/″\》く立《た》ち後《おく》れとなつた。家康《いへやす》の來《きた》るや、火《ひ》の如《ごと》く、其《そ》の去《さ》るや、風《かぜ》の如《ごと》く、而《しか》して其《そ》の小幡城《をばたじやう》に據《よ》るや、泰然《たいぜん》として林《はやし》の如《ごと》く、山《やま》の如《ごと》くであつた。秀吉《ひでよし》は其《そ》の侵入軍《しんにふぐん》が、敵情《てきじやう》偵察《ていさつ》を誤《あやま》りたるが爲《た》めに、空《むな》しく大敗北《だいはいぼく》を來《きた》し。之《これ》を好餌《かうじ》として、更《さ》らに第《だい》二の打撃《だげき》を、家康《いへやす》に加《くは》へんとしたるも、彼《かれ》は脱兎《だつと》の如《ごと》く、既《すで》に去《さ》つた後《あと》であつた。秀吉《ひでよし》は小幡城《をばたじやう》を屠《ほふ》り、勝入父子《しようにふふし》、森等《もりら》の弔合戰《とむらひかつせん》を爲《な》さんとしたるも、稻葉《いなば》一|徹《てつ》、蜂須賀家政《はちすかいへまさ》、蒲生氏郷《がまふうぢさと》の徒《と》、午後《ごご》四|時以後《じいご》の攻城《こうじやう》は、兵家《へいか》の禁物《きんもつ》として、之《これ》を諫《いさ》めたから、明朝《みやうてう》を待《ま》つ可《べ》く、龍泉寺《りゆうせんじ》に駐屯《ちゆうとん》した。
小幡城《をばたじやう》にては、本多忠勝《ほんだたゞかつ》、水野忠重等《みづのたゞしげら》、秀吉《ひでよし》の營《えい》を夜襲《やしふ》せんと建議《けんぎ》したが、家康《いへやす》は之《これ》を聽《き》かず。却《かへつ》て同夜《どうや》八|時《じ》、三百|餘人《よにん》を城《しろ》に留《とゞ》め、信雄《のぶを》と與《とも》に、潜《ひそか》に發《はつ》し、迂路《うろ》を取《と》りて、小牧山《こまきやま》に還《かへ》つた。秀吉《ひでよし》は明朝《みやうてう》城攻《しろぜめ》の準備《じゆんび》として、同夜《どうや》斥候《せつこう》を小幡《をばた》に派《は》したが、家康《いへやす》既《すで》に去《さ》れりとの報《はう》に接《せつ》し、夜半《やはん》上條《かみでう》の砦《とりで》に退《しりぞ》き、十|日《か》細川忠興《ほそかはたゞおき》、堀尾吉晴《ほりをよしはる》を後衞《こうゑい》として、樂田《がくでん》に還《かへ》つた。
        *   *   *   *   *
此《こ》の戰爭《せんさう》は、大部隊《だいぶたい》と大部隊《だいぶたい》─|例《れい》せば長篠戰爭《ながしのせんさう》─の衝突《しようとつ》にあらずして、家康《いへやす》の方《はう》は、殆《ほと》んど其《そ》の全力《ぜんりよく》とも云《い》ひ得可《うべ》きであらうが、秀吉《ひでよし》の方《はう》は、僅《わづ》かに其《そ》の一|支隊《したい》に過《す》ぎず。如何《いか》に秀吉《ひでよし》の支隊《したい》が敗北《はいぼく》したりとて、秀吉《ひでよし》の勢力《せいりよく》には、殆《ほと》んど何等《なんら》の影響《えいきやう》をも、與《あた》へぬ樣《やう》に見《み》ゆる。要《えう》するに物質的《ぶつしつてき》打算《ださん》よりすれば、此《こ》の敗軍《はいぐん》は秀吉《ひでよし》に取《と》りて、致命傷《ちめいしやう》でなきのみならず、決《けつ》して重傷《ぢゆうしやう》と云《い》ふ可《べ》きものではあるまい。而《しか》し精神的《せいしんてき》に打算《ださん》すれば、此《こ》の敗軍《はいぐん》は、秀吉《ひでよし》の一|生《しやう》に拂拭《ふつしよく》し難《がた》き、不名譽《ふめいよ》であつて、又《ま》た家康《いへやす》に取《と》りては、評價《ひやうか》し難《がた》き程《ほど》の大強點《だいきやうてん》となつた。即《すなは》ち小牧役《こまきえき》の勝敗《しようはい》は、秀吉《ひでよし》と、家康《いへやす》の一|生《しやう》に附《つ》き纒《まと》うたる大事件《だいじけん》で、家康《いへやす》に得《とく》の多《おほ》き丈《だけ》、それ丈《だけ》、秀吉《ひでよし》に損《そん》が多《おほ》かつた。勝入《しようにふ》、森《もり》の首級《しゆきふ》の評値《ひやうち》は、千|金《きん》や、萬金《まんきん》の相場《さうば》ではない。
秀吉《ひでよし》と、家康《いへやす》とは、軍事上《ぐんじじやう》に於《おい》て、何《いづ》れが長技《ちやうぎ》を有《いう》した乎《か》は、隨分《ずゐぶん》議論《ぎろん》ものだ。併《しか》し從來《じゆうらい》秀吉《ひでよし》は、毛利《まうり》に對《たい》しても、明智《あけち》に對《たい》しても、柴田《しばた》に對《たい》しても、殆《ほと》んど常勝《じやうしやう》の地《ち》を占《し》めた。然《しか》るに今《いま》や家康《いへやす》に對《たい》して、世《よ》にも名高《なだか》き池田勝入《いけだしようにふ》や、鬼武藏《おにむさし》と呼《よ》ばれたる森長可《もりながよし》さへ、失《うしな》うたのは、彼《かれ》の常勝《じやうしよう》の記録《きろく》に、一のけちを附《つ》けない譯《わけ》には參《まゐ》らぬ。而《しか》して此《こ》の常勝軍《じやうしようぐん》の大將《たいしやう》に向《むか》つて、斯《かゝ》るけちを附《つ》けしめたる家康《いへやす》の名譽《めいよ》は、稱讃《しようさん》する丈《だけ》が野暮《やぼ》だ。此《こ》の家康《いへやす》の武勳《ぶくん》は、彼《かれ》の今後《こんご》に於《お》ける、一|大《だい》擔保品《たんぽひん》である、無形的《むけいてき》一|大《だい》財産《ざいさん》である。有力《いうりよく》にして効驗《かうけん》最《もつと》も著大《ちよだい》なる信任状《しんにんじやう》である。
要《えう》するに長久手《ながくて》の戰爭《せんさう》は、戰爭《せんさう》其者《そのもの》としては、何等《なんら》世運《せうん》に影響《えいきやう》を及《およ》ぼす程《ほど》の事《こと》はなかつた。併《しか》し秀吉《ひでよし》、家康《いへやす》の形而上《けいじじやう》の得失《とくしつ》は、實《じつ》に多大《ただい》のものであつた。家康《いへやす》が最後迄《さいごまで》倔強《くつきやう》にして、強情《がうじやう》張《は》り、肯《あへ》て秀吉《ひでよし》に屈下《くつか》せなかつた、自信力《じしんりよく》の若干《じやくかん》は、固《もと》より此賜《このたまもの》と云《い》はねばならぬ。然《しか》も秀吉《ひでよし》は、此《こ》の實物《じつぶつ》教訓《けうくん》にて、能《よ》く家康《いへやす》を理解《りかい》するを得《え》た。
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龍泉寺《りゆうせんじ》の邊《ほと》りにて、軍《いくさ》の状《じやう》を尋《たづね》られしに、徳川殿《とくがはどの》は、既《すで》に小幡《をばた》に引取《ひきと》られしといへば、秀吉《ひでよし》且《か》つ怒《いか》り、且《かつ》感《かん》じ、馬上《ばじやう》にて手《て》をうち、さて/\花《はな》も實《み》もあり。もちにても、網《あみ》にてもとられぬ名將《めいしやう》かな。日本《にほん》廣《ひろ》しといへども、その類《たぐゐ》又《また》と有《あ》るまじ。かゝる人《ひと》を、後來《こうらい》長袴《ながばかま》きせて、上洛《じやうらく》せしめんは、秀吉《ひでよし》が方寸《ほうすん》にありといはれしとか。〔渡邊圖書小牧長久手記〕[#「〔渡邊圖書小牧長久手記〕」は1段階小さな文字]
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果《はた》して此通《このとほ》りであつた乎《か》、否乎《いなか》は、詮議《せんぎ》の限《かぎ》りではないが。秀吉《ひでよし》は家康《いへやす》を、其《そ》の競爭者《きやうさうしや》と見《み》るよりも、寧《むし》ろ彼《かれ》を愛惜《あいせき》し、收《をさ》めて我用《わがよう》と爲《な》さんと工夫《くふう》した。此《こ》の一|點《てん》に於《おい》ては、家康《いへやす》は固《もと》より、信長《のぶなが》とても、到底《たうてい》秀吉《ひでよし》に及《およ》ぶものではない。所謂《いはゆ》る天空海濶《てんくうかいくわつ》の氣象《きしやう》とは、只《た》だ秀吉《ひでよし》に於《おい》て、之《これ》を見《み》ることが可能《かな》ふ。
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