第十三章 兩軍戰鬪の發端
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[#4字下げ][#大見出し]第十三章 兩軍戰鬪の發端[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【六一】戰爭の開始[#中見出し終わり]

戰爭《せんさう》は先《ま》づ伊勢《いせ》、及《およ》び尾張《をはり》の西南部方面《せいなんぶはうめん》より開始《かいし》せられた。信雄《のぶを》が岡田《をかだ》、津川《つがは》、淺井《あさゐ》の三|老臣《らうしん》を殺《ころ》すや、其《そ》の遺族《ゐぞく》、遺臣等《ゐしんら》は、何《いづ》れも其《そ》の城邑《じやういふ》に據《よ》りて、信雄《のぶを》に抗《かう》した。信雄《のぶを》は其叔父《そのをぢ》織田信照《おだのぶてる》をして、徳川《とくがは》の援將《ゑんしやう》水野忠重《みづのたゞしげ》、酒井重忠等《さかゐしげたゞら》と共《とも》に、岡田《をかだ》の星崎城《ほしざきじやう》(尾張愛知郡)[#「(尾張愛知郡)」は1段階小さな文字]を攻《せ》め、瀧川雄利《たきがはかつとし》、木造長政《きづくりながまさ》をして、津川《つがは》の松《まつ》ヶ|島城《しまじやう》(伊勢一志郡)[#「(伊勢一志郡)」は1段階小さな文字]を攻《せ》めしめた。松《まつ》ヶ|島城《しまじやう》開城《かいじやう》し、淺井《あさゐ》の苅安賀城《かるあかじやう》(尾張中島郡)[#「(尾張中島郡)」は1段階小さな文字]亦《ま》た降《くだ》るや、苅安賀《かるあか》を、森久《もりきう》三|郎《らう》に與《あた》へ、松《まつ》ヶ|島《しま》を瀧川雄利《たきがはかつとし》に與《あた》へ、更《さら》に蟹江城主佐久間正勝《かにえじやうしゆさくままさかつ》(甚九郎、佐久間信盛の子)[#「(甚九郎、佐久間信盛の子)」は1段階小さな文字]等《ら》五千|餘人《よにん》を伊勢《いせ》に派遣《はけん》し、峰《みね》の古城《こじやう》を修理《しうり》して之《これ》に據《よ》り、以《もつ》て秀吉《ひでよし》の來襲《らいしふ》に備《そな》へしめた。
果然《くわぜん》秀吉《ひでよし》は、信雄《のぶを》の戰鬪《せんとう》開始《かいし》を聞《き》くや、蒲生氏郷《がまふうぢさと》、長谷川秀一《はせがはひでかず》、堀秀政等《ほりひでまさら》、約《やく》一|萬人《まんにん》を發《はつ》し、關盛信父子《せきもりのぶふし》、及《およ》び瀧川一益等《たきがはかずますら》と與《とも》に、先《ま》づ峰城《みねじやう》に向《むか》はしめ、其弟《そのおとうと》秀長《ひでなが》を守山《もりやま》に進《すゝ》め、其《そ》の監視《かんし》に充《あ》てたる事《こと》は、秀吉《ひでよし》の丹羽長秀《にはながひで》に當《あ》てたる書状《しよじやう》に説《と》いた通《とほ》りである。
然《しか》るに峰城《みねじやう》の修理《しうり》は、未《いま》だ出來上《できあが》らざるに、早《はや》くも敵兵《てきへい》來《きた》り逼《せま》るの警報《けいはう》に接《せつ》した。仍《よつ》て正勝等《まさかつら》は、之《これ》を城外《じやうぐわい》に邀撃《むかへう》つことに評決《ひやうけつ》し、三|月《ぐわつ》十四|日《か》、兵《へい》約《やく》四千を出《いだ》し、安樂川《あらかは》を隔《へだ》て、拒《ふせ》ぎ戰《たゝか》ふこと數時《すうじ》。衆寡《しゆうくわ》相《あ》ひ敵《てき》せず、城兵《じやうへい》稍※[#二の字点、1−2−22]《やゝ》退却《たいきやく》の色《いろ》を現《あらは》すや、瀧川一益《たきがはかずます》は之《これ》を看取《かんしゆ》し、急《きふ》に諸隊《しよたい》をして突撃《とつげき》せしめた。此《こゝ》に於《おい》て城兵《じやうへい》は全《まつた》く敗走《はいそう》し、關甚《せきじん》五|兵衞《べゑ》は、殿《しんがり》して之《これ》に死《し》し、正勝等《まさかつら》は僅《わづ》[#ルビの「わづ」は底本では「わづか」]かに身《み》を以《もつ》て免《まぬか》れて、城《しろ》に入《い》るを得《え》た。此《こ》の時《とき》偶《たまた》ま徳川《とくがは》の援兵《ゑんぺい》來《きた》るを聞《き》き、寄手《よせて》は城《しろ》に肉薄《にくはく》するを遲疑《ちぎ》した。然《しか》も徳川《とくがは》の援兵《ゑんぺい》は、犬山城《いぬやまじやう》陷落《かんらく》の報《はう》を聞《き》き、途中《とちゆう》より引《ひ》き返《かへ》した。
却説《さて》、岡田《をかだ》の星崎城《ほしざきじやう》は、織田《おだ》、徳川《とくがは》聯合軍《れんがふぐん》の包圍《はうゐ》を受《う》け、岡田長門守《をかだながとのかみ》の弟《おとうと》善同《よしあつ》は苦戰《くせん》の餘《あまり》、十七|日《にち》遁《のが》れて伊勢《いせ》に奔《はし》つた。星崎城《ほしざきじやう》が聨合軍《れんがふぐん》の手《て》に落《お》ちたと與《とも》に、松《まつ》ヶ|島城《しまじやう》は遂《つひ》に秀吉方《ひでよしがた》の有《いう》となつた。
三|月《ぐわつ》十六|日《にち》秀長《ひでなが》、秀勝《ひでかつ》、氏郷《うぢさと》、筒井順慶《つゝゐじゆんけい》、織田信包等《おだのぶかねら》、松《まつ》ヶ|島城《しまじやう》を圍《かこ》んだ。城主《じやうしゆ》の瀧川雄利《たきがはかつとし》、及《およ》び信雄方《のぶをがた》の援將《ゑんしやう》日置大膳亮《へきだいぜんのすけ》、徳川方《とくがはがた》の援將《ゑんしやう》服部正成等《はつとりまさなりら》、兵《へい》三千を以《もつ》て、之《これ》を拒《ふせ》いだ。十七|日《にち》秀吉《ひでよし》は、新附《しんぷ》の伊勢《いせ》岩出城主田丸具安《いはでじやうしゆたまるともやす》をして、九|鬼嘉隆《きよしたか》と與《とも》に、水軍《すゐぐん》を以《もつ》て松《まつ》ヶ|島《しま》の海路《かいろ》を封鎖《ふうさ》せしめた。同日《どうじつ》日置大膳亮《へきだいぜんのすけ》は、寄手《よせて》の筒井陣《つゝゐぢん》を襲《おそ》ひ、又《ま》た其《そ》の翌日《よくじつ》も、日置《へき》は服部正成《はつとりまさなり》と與《とも》に、突出《とつしゆつ》して、寄手《よせて》を惱《なやま》した。此《かく》の如《ごと》く松《まつ》ヶ|島城兵《しまじやうへい》は、二十|餘日《よじつ》、善《よ》く拒《ふせ》ぎ戰《たゝか》うたに拘《かゝは》らず、漸次《ぜんじ》粮食《りやうしよく》の缺乏《けつばふ》を來《きた》し、到底《たうてい》其《そ》の保《たも》つ可《べ》からざるを見《み》、尼《あま》慶法《けいほふ》(信長の士星合左衞門尉の女)[#「(信長の士星合左衞門尉の女)」は1段階小さな文字]の周旋《しうせん》にて、廿九|日《にち》城《しろ》を致《いた》して、海路《かいろ》より尾張《をはり》に去《さ》つた。
此《かく》の如《ごと》く尾張《をはり》の西南部《せいなんぶ》、及《およ》び伊勢方面《いせはうめん》に、幾許《いくばく》の大戰《たいせん》、小戰《せうせん》、連續《れんぞく》しつゝある際《さい》に、意外《いぐわい》にも戰局《せんきよく》を一|變《ぺん》す可《べ》き事件《じけん》が、北尾張《きたをはり》の一|角《かく》に起《おこ》つた。そは申《まを》す迄《まで》もなく、池田勝入《いけだしようにふ》が、秀吉方《ひでよしがた》に與《くみ》して、犬山城《いぬやまじやう》を取《と》つた事《こと》ぢや。
池田勝入《いけだしようにふ》は、當時《たうじ》四十九|歳《さい》、秀吉《ひでよし》と同年《どうねん》である。彼《かれ》は當初《たうしよ》首鼠兩端《しゆそりやうたん》であつた。彼《かれ》は信長《のぶなが》と乳兄弟《ちきやうだい》であつた。一|時《じ》は柴田《しばた》、丹羽《には》、羽柴《はしば》、池田《いけだ》四|人《にん》にて、信長《のぶなが》死後《しご》の京都《きやうと》の庶政《しよせい》は、分擔《ぶんたん》する事《こと》となつた程《ほど》の位置《ゐち》である。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》とは、姻戚《いんせき》の關係《くわんけい》があつた。即《すなは》ち彼《かれ》の女《むすめ》は、秀吉《ひでよし》の姪《をひ》秀次《ひでつぐ》に嫁《か》した。彼《かれ》の二|男《なん》輝政《てるまさ》は、信雄《のぶを》の許《もと》に質《ち》として居《ゐ》た。然《しか》るに信雄《のぶを》は、斯《かゝ》る場合《ばあひ》に人質抔《ひとじちなど》を取《と》り置《お》くは、水臭《みづくさ》い感《かん》がある、寧《むし》ろ之《これ》を返《かへ》した方《はう》が、却《かへつ》て勝入《しようにふ》の志《こゝろざし》を堅《かた》くするであらうと、輝政《てるまさ》を還《かへ》らしめた。勝入《しようにふ》は却《かへつ》て之《これ》を奇貨《きくわ》とし、秀吉《ひでよし》が其《そ》の三|男《なん》長吉《ながよし》を義子《ぎし》とし、且《か》つ與《あた》ふるに尾《び》濃《の》參《さん》三|州《しう》を以《もつ》てす可《べ》しとの、甘言《かんげん》に乘《じよう》じ、老臣伊木忠次《らうしんいきたゞつぐ》の言《げん》を聞《き》き、家《いへ》を興《おこ》し、利《り》を占《し》むるは、唯《た》だ此時《このとき》を然《しか》りとすとなし、三|月《ぐわつ》十|日《か》、意《い》を決《けつ》して秀吉《ひでよし》に與《くみ》した事《こと》は、既記《きき》の通《とほ》りである。既《すで》に與《くみ》すれば、何《なに》か奇功《きこう》を奏《そう》せねばならぬ。犬山城《いぬやまじやう》は即《すなは》ち、彼《かれ》が第《だい》一|著《ちやく》の手柄《てがら》であつた。

[#5字下げ][#中見出し]【六二】犬山城の襲取[#中見出し終わり]

抑《そもそ》も犬山城《いぬやまじやう》は美濃《みの》、尾張《をはり》の間《あひだ》を流《なが》るゝ|木曾川《きそがは》に枕《のぞ》み、其《そ》の渡津鵜沼《としんうぬま》を扼《やく》し、要害《えうがい》の地《ち》である。本來《ほんらい》信雄《のぶを》の士《し》中川雄忠《なかがはたかたゞ》の戌《まも》る所《ところ》であつたが、彼《かれ》は伊勢《いせ》峰城《みねじやう》應援《おうゑん》の爲《た》めに出掛《でか》け、三|月《ぐわつ》十四|日《か》の夜《よ》、犬山《いぬやま》に還《かへ》らんとする途中《とちゆう》、其《そ》の仇《あだ》池尻平左衞門尉《いけじりへいざゑもんのじよう》の爲《た》めに殺《ころ》されたれば、今《いま》は雄忠《たかたゞ》の叔父《をぢ》、禪僧清藏主《ぜんそうせいざうす》が、寡兵《くわへい》を以《もつ》て守《まも》るのみだ。即今《そくこん》大垣城《おほがきじやう》に居《を》る池田勝入《いけだしようにふ》は、曾《かつ》て犬山城主《いぬやまじやうしゆ》であつたれば、一|切《さい》の事《こと》は、熟知《じゆくち》して居《ゐ》た。彼《かれ》は其虚《そのきよ》に乘《じよう》じて、之《これ》を乘《の》り取《と》る可《べ》く企《くはだ》てた。
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舊因《きういん》なれば犬山町人《いぬやまちやうにん》、其邊《そのへん》の親《したし》き者《もの》の方《はう》へ、日置《へき》三|藏《ざう》を遣《つかは》し、其城《そのしろ》を|可[#二]乘取[#一]《のつとるべく》、才覺《さいかく》頼《たの》み入由申《いるよしまを》されしかば、則《すなはち》同心《どうしん》し、明後《みやうご》十三|日《にち》の夜《よ》、船《ふね》を渡《わた》し引入《ひきいれ》|可[#レ]申候《まをすべくさふらふ》。必《かならず》御人數《ごにんず》を出《いだ》させ給《たま》へ。確《たしか》になければ、御人數《ごにんず》出《いだ》しかねらるべうもや、おはしまさんとて、人質《ひとじち》二人《ふたり》渡《わた》し候《さふらひ》て、三|月《ぐわつ》十一|日《にち》の未明《みめい》に、日置《へき》を大柿《おほがき》(垣)[#「(垣)」は1段階小さな文字]へ歸《かへ》し侍《はべ》りぬ。勝入《しようにふ》其由《そのよし》打聞《うちきゝ》て、おどり上《あが》りはねあがり、悦《よろこ》びぬる事《こと》かぎりなし。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れは寔《まこと》に池田《いけだ》に取《と》りて、奇策《きさく》であつた。
さるにても徳川《とくがは》、織田《おだ》の聨合軍《れんがふぐん》は。、何故《なにゆゑ》に此《こ》の要害《えうがい》を閑却《かんきやく》した乎《か》、彼等《かれら》は專《もつぱ》ら木曾川下流《きそがはかりう》の戰鬪《せんとう》に、氣《き》を取《と》られ、却《かへつ》て上流《じやうりう》の方面《はうめん》は、看過《かんくわ》し去《さ》つたのではあるまい乎《か》。何《いづ》れにもせよ、敵《てき》の虚《きよ》は、我《われ》の乘《じよう》ず可《べ》き利《り》だ。而《しか》して勝入《しようにふ》は、確《たし》かに其利《そのり》を占《し》めた。
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斯《かく》て陣觸《ぢんぶ》れ有《あり》けるは、明後《みやうご》十三|日《にち》|至[#二]東美濃[#一]《ひがしみのにいたりて》發向《はつかう》し、其日《そのひ》に歸陣《きぢん》すべく候條《さふらふでう》、腰兵粮《こしびやうらう》のみ用意《ようい》せよとなり。十三|日《にち》大柿《おほがき》(垣)[#「(垣)」は1段階小さな文字]を立《たつ》て打《うち》けるに、北方《ほくはう》の渡《わた》りの邊《へん》より、小舟《こぶね》を數多《あまた》荷《にな》ひ、東《ひがし》さして行《ゆく》あり。是《これ》は池田紀伊守《いけだきいのかみ》(勝入長男之助當時岐阜城に在り)[#「(勝入長男之助當時岐阜城に在り)」は1段階小さな文字]獵船《れふせん》を十|艘許《そうばかり》調《とゝのへ》つゝ、大豆戸《まめと》の渡《わたり》へ運《はこ》び遣《つかは》しけり。夜《よ》に入《いり》しかば、使番《つかひばん》の者《もの》、|向[#二]諸勢[#一]《しよぜいにむかひ》、宇留馬《うるま》の川端《かはばた》に、陣《ぢん》を取待候《とりてまちさふら》へ。東美濃《ひがしみの》へは通《とほ》るまじき旨《むね》、ふれ通《とほ》りけり。亥《ゐ》の刻《こく》(午後十時)[#「(午後十時)」は1段階小さな文字]とおぼしきに、紀伊守《きいのかみ》十|艘《そう》の舟《ふね》に打乘《うちのつ》て河《かは》を渡《わた》し、城《しろ》へ忍《しの》び寄《より》、凱歌《がいか》を唱《となふ》れば、城中《じやうちゆう》思《おも》ひも寄《よ》らぬ事《こと》にはあり、十方《とはう》にくれて在《あり》し處《ところ》を、乘入向《のりいれむか》ふ者《もの》あれば、引組《ひきくん》で首《くび》を取《とり》、逃《にぐ》る者《もの》は、伐捨《きりすて》にけり。勘右衞門尉《かんうゑもんのじよう》(中川雄忠)[#「(中川雄忠)」は1段階小さな文字]が叔父《をぢ》清藏主《せいざうす》、堅横《たてよこ》十|文字《もんじ》に切《きつ》て廻《まは》り、八|字《じ》に追廻《おひまは》しゝか共《ども》、多勢《たぜい》入替《いりかはり》/\攻入《せめいり》、終《つひ》に清藏主《せいざうす》をも打捕《うちとり》てけり。斯《か》くて池田父子《いけだふし》城《しろ》に入《いり》しかば、十四|日《か》の朝《あさ》、町人《ちやうにん》近邊《きんぺん》の長《おとな》、百|姓《しやう》、|如[#二]前々[#一]《まへ/\のごとく》御入城《ごにふじやう》目出《めでたく》こそおはしませとて、祝儀《しうぎ》を申上《まをしあげ》、樽《たる》肴《さかな》を捧《さゝ》げ、門前《もんぜん》に市《いち》をなす。
[#地から2字上げ]〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
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勝入《しようにふ》の策《さく》は、甘《うま》くも的中《てきちゆう》した。彼《かれ》は手《て》に唾《だ》して、木曾川《きそがは》を渡《わた》り、突嗟《とつさ》の間《あひだ》に、犬山城《いぬやまじやう》を取《と》つた。徳川時代《とくがはじだい》の兵學者流《へいがくしやりう》は、曰《いは》く、
[#ここから1字下げ]
之助《ゆきすけ》を先手《さきて》に用《もち》ひて、勝入《しようにふ》路《みち》に控《ひか》へて居《を》る埒《らち》、至極《しごく》巧者也《こうしやなり》。最《もつとも》人質《ひとじち》取置《とりお》く故《ゆゑ》、氣遣《きづか》ひはなけれども、若《も》し謀事《はかりごと》有《あ》りては、父子《ふし》一|同《どう》に入《い》りて利《り》を失《うしな》ふては如何《いかゞ》と思《おも》ひ、之助《ゆきすけ》を先《さ》きに立《た》て遣《つかは》す事《こと》、巧者《こうしや》の至《いた》り也《なり》。稻葉山《いなばやま》の稻葉伊豫守通朝《いなばいよのかみみちとも》一|鐵《てつ》に申付《まをしつ》け、城門《じやうもん》を堅《かた》めさす、是又《これまた》ぬからぬ仕方也《しかたなり》。古《いにしへ》より落城《らくじやう》の後《のち》、又《また》城《しろ》を取返《とりかへ》されしこと、數多《あまた》[#ルビの「あまた」は底本では「あたた」]あり。夫《それ》を思《おも》ひての事成《ことな》る可《べ》し。〔小牧陣始末記〕[#「〔小牧陣始末記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
果《はた》して此程《これほど》の深慮《しんりよ》ありての事《こと》なるや、否《いな》やを知《し》らざれども。勝入《しようにふ》は豫定《よてい》の如《ごと》く奇功《ここう》を奏《そう》して、之《これ》を秀吉《ひでよし》に報《はう》じた。而《しか》して翌《よく》十五|日《にち》は、午前《ごぜん》六|時頃《じごろ》より勝入父子《しようにふふし》犬山《いぬやま》を出《い》でて、小口《をぐち》、樂田《らくでん》に放火《はうくわ》した。十三|日《にち》清洲《きよす》に於《おい》て、信雄《のぶを》と會見《くわいけん》したる家康《いへやす》は、信雄《のぶを》と與《とも》に、遙《はるか》に其烟《そのけむり》を望《のぞ》み、急《きふ》に兵《へい》を率《ひき》ゐて、小牧地方《こまきちはう》に赴《おもむ》いたが、半途《はんと》にして敵《てき》既《すで》に去《さ》れりと聞《き》き、馬首《ばしゆ》を回《めぐ》らした。此《かく》の如《ごと》く開戰《かいせん》の當初《たうしよ》に於《おい》ては、伊勢《いせ》、及《およ》び尾張《をはり》の總《すべ》ての方面《はうめん》に於《おい》て、概《がい》して秀吉方《ひでよしがた》の利《り》であつた。

[#5字下げ][#中見出し]【六三】羽黒の敗軍[#中見出し終わり]

犬山城《いぬやまじやう》の襲取《しふしゆ》は、確《たし》かに秀吉方《ひでよしがた》の濃尾方面《のうびはうめん》に於《お》ける、第《だい》一|著《ちやく》の勝利《しようり》であつた。然《しか》るに勝入《しようにふ》の聟《むこ》森長可《もりながよし》は、之《これ》を聞《きい》て、いかで我《われ》も亦《ま》た、此《これ》に優《まさ》る可《べ》き殊勳《しゆくん》を奏《そう》せんと焦《い》ら立《だ》ち、十五|日《にち》秀吉《ひでよし》の軍目附尾藤知定《いくさめつけびとうともさだ》と與《とも》に、兵《へい》三千を率《ひき》ゐ、金山《かなやま》を發《はつ》し、十六|日《にち》羽黒《はぐろ》に抵《いた》り、池田父子《いけだふし》と諜《しめ》し合《あは》せて、前進《ぜんしん》せんとしたが。彼等《かれら》の來《きた》らざりしが爲《た》めに、近村落《きんそんらく》に放火《はうくわ》し、姑《しば》らく八|幡林《まんばやし》に陣《ぢん》した。惟《おも》ふに長可《ながよし》の目的《もくてき》は、小牧山《こまきやま》を取《と》りて、之《これ》に據《よ》らんとするにあつたであらう。蓋《けだ》し小牧《こまき》は、兩軍《りやうぐん》接觸《せつしよく》の要地《えうち》であるからぢや。
十六|日《にち》には徳川勢《とくがはぜい》は、落合郷《おちあひがう》に駐屯《ちゆうとん》して居《ゐ》たが、家康《いへやす》は當日《たうじつ》伊勢應援《いせおうゑん》の途中《とちゆう》、津島《つしま》より召還《せうくわん》せられたる、酒井忠次《さかゐたゞつぐ》に命《めい》じて、小牧山方面《こまきやまはうめん》の敵状《てきじやう》を偵察《ていさつ》せしめた。酒井《さかゐ》は復命《ふくめい》して曰《いは》く、敵將《てきしやう》森《もり》は、孤軍《こぐん》にて羽黒《はぐろ》にあり、彼《かれ》は上方《かみがた》に聞《きこ》えたる武者《むしや》にて、鬼武藏《おにむさし》の名《な》轟《とゞろ》いて居《ゐ》る。敵《てき》の大軍《たいぐん》集《あつま》らざるに先《さきだ》ち、之《これ》を打破《うちやぶ》り、三|河武士《かはぶし》の手並《てなみ》を示《しめ》し、上方勢《かみがたぜい》の膽《たん》を破《やぶ》るは、唯《た》だ此《こ》の機會《きくわい》にて候《さふらふ》と。家康《いへやす》は早速《さつそく》之《これ》を嘉納《かなふ》した。
[#ここから1字下げ]
神君《しんくん》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]聞召《きこしめし》、是《これ》は能《よく》仕者也《つかまつるものなり》、一あてあてゝ|見《み》せよと仰《おほせ》らるれば。左衞門尉《さゑもんのじよう》(酒井忠次)[#「(酒井忠次)」は1段階小さな文字]を一|番《ばん》とし、奧平《おくだひら》九八|郎信昌《らうのぶまさ》、大須賀《おほすが》五|郎左衞門景高《らうざゑもんかげたか》、榊原小平太康政《さかきばらこへいだやすまさ》、本多彦《ほんだひこ》二|郎康重《らうやすしげ》、深溝松平主殿助家忠《ふかみぞまつだひらとのものすけいへたゞ》、形原松平又《かたはらまつだひらまた》七|郎家信《らういへのぶ》、櫻井松井内膳家廣《さくらゐまつゐないぜんいへひろ》、丹羽勘助氏次《にはかんすけうぢつぐ》、總勢《そうぜい》五千|餘人《よにん》。信雄《のぶを》の家人天野周防守雄光《けにんあまのすはうのかみたかみつ》を案内《あんない》とし、深夜《しんや》に清洲《きよす》を打立《うちたつ》て、樂田《らくでん》、羽黒《はぐろ》、九|郎丸邊《らうまるへん》に押向《おしむか》ひ、十七|日《にち》の曉《あかつき》、森《もり》が陣所《ぢんしよ》近《ちか》く押寄《おしよせ》たり。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》の曉襲《げうしふ》は、森《もり》に於《おい》ては、全《まつた》く意外《いぐわい》であつた。彼《かれ》は隊伍《たいご》を立《た》て直《なほ》すに遑《いとま》あらず、直《たゞ》ちに應戰《おうせん》した。
[#ここから1字下げ]
清洲《きよす》より小牧《こまき》へ一|里半《りはん》、小牧《こまき》より小幡《をばた》へ二|里《り》、小幡《をばた》より長久手《ながくて》へ一|里《り》、小牧《こまき》より樂田《らくでん》へは三十|町《ちやう》、樂田《らくでん》より羽黒《はぐろ》へ三十|町《ちやう》、羽黒《はぐろ》より犬山《いぬやま》へ三十|町《ちやう》の道程《みちのり》なり。又《ま》た羽黒村《はぐろむら》南方《なんぱう》東西《とうざい》へ流《なが》るゝ|小川《をがは》あり、其川《そのかは》を前《まへ》とし、羽黒村《はぐろむら》を後《うしろ》にし、八|幡林《まんばやし》の鳥居《とりゐ》の前《まへ》に、森《もり》は陣《ぢん》を張《は》る。徳川勢《とくがはぜい》は其《そ》の川端《かはばた》へ押付《おしつけ》、先《まづ》輕卒《けいそつ》を進《すゝ》ませて、鐵炮矢軍《てつぱうやいくさ》し、姑《しば》らく時刻《じこく》を移《うつ》す。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
今《い》ま兩軍《りやうぐん》小川《をがは》を隔《へだ》てゝ|砲戰《はうせん》し、未《いま》だ其《そ》の勝敗《しようはい》を見《み》ざるに、偶《たまた》ま森《もり》の侍《さむらひ》鍋田内藏助《なべたくらのすけ》、馬上《ばじやう》にて兩軍《りやうぐん》の間《あひだ》を馳驅《ちく》し、兵《へい》を指揮《しき》するを見《み》、奧平信昌《おくだひらのぶまさ》、狙撃《そげき》せしめて之《これ》を殪《たふ》した。此《こゝ》に於《おい》て森《もり》の先列《せんれつ》、稍※[#二の字点、1-2-22]《やゝ》動搖《どうえう》し始《はじ》めた。信昌《のぶまさ》其機《そのき》を逸《いつ》せず、川《かは》を渉《わた》りて其《そ》の中堅《ちゆうけん》を衝《つ》いた。忠次《たゞつぐ》は其隊《そのたい》に總攻撃《そうこうげき》を命《めい》じて、悉《こと/″\》く川《かは》を渉《わた》らしめた。
[#ここから1字下げ]
奧平《おくだひら》が旗奉行川井次郎太夫《はたぶぎやうかはゐじろだいふ》、旗《はた》を敵《てき》の後《うしろ》へ廻《まは》せば、森《もり》、尾藤《びとう》が兩勢《りやうぜい》裏崩《うらくづれ》して三|町《ちやう》ばかり追立《おひたて》らる。されども森《もり》も、尾藤《びとう》も上方《かみがた》にては、人《ひと》に知《し》られし剛《がう》の者《もの》、羽黒村《はぐろむら》の際《きは》にて大返《おほがへ》しに返《かへ》し、左右《さいう》に目《め》を配《くば》り。弓鐵炮《ゆみてつぱう》を手前《てまへ》へ出《だ》し、矢玉《やだま》を惜《をし》まず、雨《あめ》の如《ごと》く射立《いたて》打立《うちたて》戰《たゝか》ふに、奧平《おくだひら》が人數《にんず》は、杉《すぎ》なりに眞黒《まつくろ》に成《なつ》て鑓《やり》を入《いれ》、兩方《りやうはう》地烟《ちけむり》を立《たて》て、雌雄《しゆう》を分《わか》たず。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
上方勢《かみがたぜい》も、羽黒村附近《はぐろむらふきん》の古壘《こるゐ》に據《よ》りて、頗《すこぶ》る奮鬪《ふんとう》した。然《しか》も酒井隊《さかゐたい》二千|人《にん》が、其《そ》の左方《さはう》より迂回《うくわい》して、背後《はいご》を絶《た》たんとするに及《およ》んで、遂《つ》ひに金山《かなやま》、及《およ》び犬山方面《いぬやまはうめん》に向《むか》つて、潰走《くわいそう》した。徳川勢《とくがはぜい》は追撃《つゐげき》して、今井《いまゐ》、前原《まへばら》に至《いた》つた。上方勢《かみがたぜい》の打死《うちじに》三百|餘人《よにん》であつた。
却説《さて》も此報《このはう》に接《せつ》したる、池田勝入父子《いけだしようにふふし》は、稻葉《いなば》一|鐵等《てつら》と與《とも》に、犬山西南《いぬやませいなん》の低地段之平《ていちだんのひら》に出《い》で、將《ま》さに羽黒《はぐろ》に進《すゝ》み、決戰《けつせん》せんと逸《はや》つた。一|鐵《てつ》之《これ》を諫《いさ》め、其《そ》の高地段之上《かうちだんのうへ》に陣《ぢん》して、敵《てき》の來攻《らいこう》を待《ま》たしめたが、其《そ》の來《きた》り逼《せま》らざるを見《み》て、軍《ぐん》を犬山《いぬやま》に還《かへ》した。而《しか》して徳川勢《とくがはぜい》も同夜《どうや》小牧山《こまきやま》に營《えい》し、翌《よく》十八|日《にち》清洲《きよす》に還《かへ》つた。
此《こ》の敗北《はいぼく》は、秀吉方《ひでよしがた》に取《と》りては、其《そ》の出鼻《でばな》を挫《くじ》かれたる趣《おもむき》があつて、甚《はなは》だ面白《おもしろ》からぬ影響《えいきやう》を來《きた》した。
[#ここから1字下げ]
同日《どうじつ》(十七日)[#「(十七日)」は1段階小さな文字]の夕暮《ゆふぐれ》秀吉《ひでよし》よりの書簡《しよかん》來《きた》る。
態《わざ/\》|令[#レ]申候《まをさしめさふらふ》。然《しから》ば信雄《のぶを》家康《いへやす》雖[#三]望挑[#二]合戰[#一]《のぞみてかつせんをいどむといへども》、必《かならず》|不[#レ]可[#レ]應[#二]其機[#一]候《そのきにおうずべからずさふらふ》。殊《ことに》池田勝入《いけだしようにふ》、森武藏者《もりむさしは》、前々《まへ/\》|侮[#レ]敵《てきをあなどり》、|矜[#二]武勇[#一]人候條《ぶゆうにほこるひとにさふらふでう》、能々《よく/\》|諫可[#レ]申候《いさめまをすべくさふらふ》、其段《そのだん》肝要也《かんえうなり》。謹言《きんげん》。
[#2字下げ]三月十三日[#地から2字上げ]秀吉 判
[#6字下げ]尾藤甚右衞門殿
これ秀吉《ひでよし》兼《かね》て森《もり》、池田等《いけだら》武勇《ぶゆう》に誇《ほこ》り、卒忽《そこつ》の働《はたらき》あるべきかとて、斯《か》く曉諭《げうゆ》せられしが、果《はた》して秀吉《ひでよし》出馬以前《しゆつばいぜん》、麁忽《そこつ》の軍《いくさ》して、大敗《たいはい》を取《と》りしなり。是《これ》に付《つけ》ても秀吉《ひでよし》の明察《めいさつ》の程《ほど》、寄手《よせて》の惣軍《そうぐん》感《かん》じたりとぞ。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》の書簡《しよかん》の眞否《しんぴ》は、姑《しば》らく疑問《ぎもん》とするも、秀吉《ひでよし》が輕擧《けいきよ》を誡《いまし》めたのは、寔《まこと》に此《こ》の通《とほ》りであらう。然《しか》も秀吉《ひでよし》、自《みづか》ら總軍《そうぐん》の指揮《しき》をせざる丈《だけ》が、既《すで》に立《た》ち後《おく》れと云《い》はねばならぬ。池田《いけだ》、森輩《もりはい》は、勇《ゆう》は則《すなは》ち勇《ゆう》でも、決《けつ》して家康《いへやす》の敵《てき》ではない。

[#5字下げ][#中見出し]【六四】秀吉の立場[#中見出し終わり]

小牧山《こまきやま》は、尾張《をはり》の東春日井郡《ひがしかすがゐごほり》と、丹羽郡《にはごほり》の堺《さかひ》に孤立《こりつ》する、標高《へうかう》二百八十四|尺《しやく》の小山《こやま》にて、其《そ》の形状《けいじやう》は圓《まる》く、東西《とうざい》稍《やゝ》長《なが》く、長徑《ちやうけい》六|町許《ちやうばかり》で。曾《かつ》て一|時《じ》は信長《のぶなが》築城《ちくじやう》して、城下《じやうか》を、清洲《きよす》より此處《ここ》に移《うつ》したこともあつたが、軈《やが》て岐阜《ぎふ》に轉《てん》じて以來《いらい》は、殆《ほと》んど顧《かへり》みられなかつた。今《いま》や秀吉《ひでよし》と、家康《いへやす》の對抗《たいかう》に際《さい》しては、此《こ》れが兩軍《りやうぐん》攻守《こうしゆ》の要衝《えうしよう》となつた。
地形《ちけい》を察《さつ》するに於《おい》て、恒《つね》に非凡《ひぼん》の眼孔《がんこう》を有《いう》する秀吉《ひでよし》が、何故《なにゆゑ》に之《これ》を看逃《みのが》したの乎《か》。否《い》な恐《おそ》らくは、彼《かれ》が脚下《きやくか》に於《お》ける根來《ねごろ》、雜賀《さいが》の一|揆《き》に對《たい》する措置《そち》、其他《そのた》の仕事《しごと》に取《と》り紛《まぎ》れ、其《そ》の出足《であし》の後《おく》れたるが爲《た》めに、空《むな》しく家康《いへやす》に之《これ》を占有《せんいう》せられたであらう。
[#ここから1字下げ]
榊原小平太康政《さかぎばらこへいだやすまさ》申《まをし》けるは、當城《たうじやう》(清洲)[#「(清洲)」は1段階小さな文字]に近《ちか》き小牧山《こまきやま》、東西《とうざい》二百八十六|間《けん》、(東西山脚三百八間、山頂廿一間)[#「(東西山脚三百八間、山頂廿一間)」は1段階小さな文字]南北《なんぼく》百四十|間《けん》、(南北山脚二百四十八間、山頂二十五間)[#「(南北山脚二百四十八間、山頂二十五間)」は1段階小さな文字]高《たか》さ二十二|間《けん》、西北《せいほく》に沼《ぬま》あり、東《ひがし》は野《の》なり。國中《こくちゆう》一|圓《ゑん》に見渡《みわた》し候《さふらふ》地《ち》なり。敵《てき》に取敷《とりしか》れては惡《あ》しかりなん、早々《さう/\》味方《みかた》の砦《とりで》を補理《ほり》し然《しか》るべしと申《まをす》。忠次《たゞつぐ》(酒井)[#「(酒井)」は1段階小さな文字]始《はじ》め皆《みな》尤《もつとも》なりと同意《どうい》せり。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
とあれば、聨合軍《れんがふぐん》は、清洲會議《きよすくわいぎ》(三月十三日)[#「(三月十三日)」は1段階小さな文字]の當初《たうしよ》より、此處《こゝ》に本陣《ほんぢん》を構《かま》ふる覺悟《かくご》にてありしならむ。されば三|月《ぐわつ》十八|日《にち》より、榊原康政《さかきばらやすまさ》をして築壘《ちくるゐ》に著手《ちやくしゆ》せしめ、二十二|日《にち》には竣工《しゆんこう》した。更《さら》に二十三|日《にち》、其《そ》の附近《ふきん》に蟹清水《かにしみづ》、北外山《きたとやま》、宇田津等《うたつとう》の數壘《するゐ》を築《きづ》き、松平家忠《まつだひらいへたゞ》、同《どう》家信《いへのぶ》、菅沼定盈《すがぬまさだみつ》、西郷家員等《さいがういへかずら》をして、交番《かうばん》に之《これ》を守《まも》らしめた。又《ま》た小幡《をばた》の舊城《きうじやう》を修繕《しうぜん》し、本多廣孝父子等《ほんだひろたかふしら》を措《お》き、參河《みかは》の交通路《かうつうろ》を掩護《えんご》せしめ、比良《ひら》の舊城《きうじやう》を修繕《しうぜん》し、安倍信勝《あべのぶかつ》、森川氏俊兄弟等《もりかわうぢとしきやうだいら》を置《お》き、清洲《きよす》との連絡《れんらく》を取《と》らしめた。
秀吉《ひでよし》は其《そ》の世帶《しよたい》の大《だい》にして、且《か》つ散漫《さんまん》なる丈《だけ》、其《そ》の擧動《きよどう》が輕快《けいくわい》なるを得《え》なかつた。彼《かれ》は伊勢方面《いせはうめん》に出兵《しゆつぺい》の後《のち》、一|切《さい》諸方《しよはう》に對《たい》する手配《てくばり》を爲《な》し、池田勝入《いけだしようにふ》犬山《いぬやま》占領《せんりやう》の報《はう》を聞《き》き、十九|日《にち》、愈《いよい》よ趾《あし》を擧《あ》げんとするに際《さい》し。紀州《きしう》の畠山貞政《はたけやまさだまさ》は、根來《ねごろ》、雜賀《さいが》の一|揆《き》と與《とも》に、織田《おだ》、徳川《とくがは》の使者《ししや》を得《え》、互《たが》ひに策應《さくおう》して、大阪《おほさか》に薄《せま》らんとした。三|月《ぐわつ》十八|日《にち》、海《うみ》より進《すゝ》みし者《もの》の一|部《ぶ》、淡州《たんしう》に據《よ》り、和泉大津《いづみおほつ》に向《むか》うたが、城主眞鍋員成《じやうしゆまなべかずなり》、打《うつ》て之《これ》を退《しりぞ》けた。又《ま》た他《た》の一|部《ぶ》は、二|萬《まん》三千を二|方面《はうめん》に分《わか》ち、一|手《て》は東《ひがし》の山際《やまぎは》より堺《さかひ》に進《すゝ》み、他《た》の一|手《て》は岸和田《きしわだ》を攻《せ》めたが、岸和田城主中村一氏《きしわだじやうしゆなかむらかずうぢ》は、蜂須賀家政《はちすかいへまさ》、黒田孝高《くろだよしたか》と力《ちから》を協《あは》せ、悉《こと/″\》く之《これ》を破《やぶ》つた。此《これ》は三|月《ぐわつ》廿二|日《にち》の事《こと》だ。
秀吉《ひでよし》は羽黒《はぐろ》の敗報《はいはう》を聞《きい》て、今《いま》は油斷《ゆだん》ならずと、三|月《ぐわつ》廿一|日《にち》を以《もつ》て、大阪《おほさか》を發《はつ》した。其兵《そのへい》凡《およ》そ十二|萬《まん》五千と號《がう》した。
若《も》し夫《そ》れ秀吉側《ひでよしがは》より觀察《くわんさつ》したる戰局《せんきよく》は、秀吉《ひでよし》が三|月《ぐわつ》廿六|日附《にちづけ》を以《もつ》て、常陸《ひたち》太田《おほた》の城主佐竹義重《じやうしゆさたけよししげ》に與《あた》へたる一|書《しよ》、之《これ》を盡[#「盡」は底本では「悉」]《つく》して居《を》る。
[#ここから1字下げ]
近日者《きんじつは》|不[#レ]申[#レ]承候《うけたまはりまをさずさふらふ》。仍《なほ》家康《いへやす》|構[#二]表裏[#一]《へうりをかまへ》、信雄若輩仁與申掠《のぶをはじやくはいのじんとまをしかすめ》、譜代之家老者《ふだいのからうなるもの》兩三人《りやうさんにん》、|無[#レ]謂去《いはれなくさんぬる》六日《むいか》、|於[#二]長島[#一]《ながしまにおいて》|被[#レ]爲[#二]切腹[#一]候條《せつぷくせしめられさふらふでう》、|不[#二]相屆[#一]儀與存《あひとゞかざるぎとぞんじ》、則《すなはち》|至[#二]伊賀伊勢[#一]《いがいせにいたり》、|差[#二]遣人數[#一]候處《にんずをさしつかはしさふらふところ》、佐久間甚《さくまじん》九|郎《らう》(正勝)[#「(正勝)」は1段階小さな文字]中川勘右衞門《なかがはかんうゑもん》(雄忠)[#「(雄忠)」は1段階小さな文字]林與《はやしよ》五|郎《らう》(神戸正武)[#「(神戸正武)」は1段階小さな文字]池尻平左衞門《いけじりへいざゑもん》、深井以下《ふかゐいか》取出候處《とりいでさふらふところ》、先手者《さきては》|及[#二]一戰[#一]《いつせんにおよび》、即時《そくじ》に切崩《きりくづし》、悉《こと/″\く》討捕《うちとり》、峰《みね》、神戸《かんべ》、楠《くすのき》、外《ほかの》城々《しろ/″\》、或《あるひは》責果《せめはたし》、或《あるひは》|令[#二]赦免[#一]《しやめんせしめ》、一國《いつこく》平均《へいきん》に申付候事《まをしつけさふらふこと》。
一、伊賀之國事[#「伊賀」は底本では「他賀」]《いがのくにこと》、是又《これまた》平均《へいきん》に申付候事《まをしつけさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは開戰《かいせん》の理由《りいう》、及《およ》び伊賀《いが》、伊勢方面《いせはうめん》の勝利《しようり》を、聲言《せいげん》したのぢや。
[#ここから1字下げ]
一、尾州表儀《びしうおもてぎ》、池田紀伊守《いけだきいのかみ》、森武藏守《もりむさしのかみ》相働《あひはたらき》、去《さんぬる》十三|日《にち》犬山城《いぬやまじやう》其外《そのほか》數《す》ヶ|所《しよ》責崩《せめくづし》、悉《こと/″\く》|刎[#レ]首《くびをはね》、過半《くわはん》|任[#二]存分[#一]候事《ぞんぶんにまかせさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは楯《たて》の半面《はんめん》だ。秀吉《ひでよし》は何故《なにゆゑ》に、羽黒《はぐろ》の敗北《はいぼく》を語《かた》らざりし乎《か》。
[#ここから1字下げ]
一、去《さんぬる》二十二|日《にち》|至[#二]泉州面[#一]《せんしうおもてにいたり》、根來寺《ねごろでら》、雜賀《さいが》、玉木《たまき》、湯川《ゆがは》、其外《そのほか》一揆《いつき》三萬計《さんまんばかり》に而《て》取出候處《とりいでさふらふところ》、岸和田先番共《きしわださきばんとも》切懸《きりかゝり》、首《くび》五千|餘《よ》討捕候《うちとりさふらふ》。|以[#二]其競[#一]《そのきそひをもつて》、敵城《てきじやう》|不[#レ]殘《のこらず》乘取《のつとり》、紀州面迄《きしうおもてまで》存分《ぞんぶん》申付《まをしつけ》、隙明候事《ひまあきさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは八|分通《ぶどほ》り事實《じじつ》ぢや。
[#ここから1字下げ]
一、家康《いへやす》清洲《きよすに》|令[#二]居陣[#一]條《きよぢんせしむるのでう》、即《すなはち》|出[#二]人數[#一]《にんずをいだし》|可[#二]押詰[#一]處《おしつむべきのところ》、大河《たいが》數《す》ヶ|所《しよ》|有[#レ]之而《これありて》、多勢《たぜい》|依[#レ]難[#二]相越[#一]《あひこえがたきにより》、舟《ふね》を寄並《よせならべ》、舟橋《ふなばし》を懸申付而《かけまをしつけて》進《すゝ》み候《さふらふ》。明日《みやうにち》二十七|日《にち》秀吉《ひでよし》|越[#レ]河《かはをこし》清須《きよす》近邊迄《きんぺんまで》|可[#二]押寄[#一]候《おしよすべくさふらふ》。自然《しぜん》家康《いへやす》|於[#二]執出[#一]者《とりいだすにおいては》、|遂[#二]一戰[#一]《いつせんをとげ》|可[#二]討果[#一]事《うちはたすべきこと》、案《あん》[#(ノ)]内《うち》に候事《さふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは將來《しやうらい》の豫言《よげん》なれば、當《あて》にはならぬが、秀吉《ひでよし》の決心《けつしん》は、固《もと》より此《こ》の通《とほり》であつたであらう。
[#ここから1字下げ]
一、家康《いへやす》表裏《へうり》|無[#二]是非[#一]候《ぜひなくさふらふ》。然上者《しかるうへは》向後《きやうご》如何樣之儀候共《いかやうのぎさふらふとも》、重而《かさねて》|許容不[#レ]可[#レ]申候《きよようまをすべからずさふらふ》。定《さだめ》て貴邊《きへん》へも、毎邊《まいへん》|可[#レ]爲[#二]右之分[#一]候《みぎのぶんたるべくさふらふ》。此時《このとき》東州《とうしう》各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》|被[#二]相談[#一]《さうだんせられ》、御計畫尤候事《ごけいくわくもつともにさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
發信《はつしん》の大主旨《だいしゆし》、恐《おそ》らくは此《こゝ》に在《あ》らむ歟《か》。秀吉《ひでよし》の外交《ぐわいかう》の掛引《かけひき》、實《じつ》に驚《おどろ》く可《べ》く、畏《おそ》る可《べ》しだ。
[#ここから1字下げ]
一、信州《しんしう》木曾《きそ》(義昌)[#「(義昌)」は1段階小さな文字]越後《ゑちご》景勝《かげかつ》(上杉)[#「(上杉)」は1段階小さな文字]|對[#二]此方[#一]《このはうにたいし》無二《むにの》入魂候間《じゆこんにさふらふあいだ》、是又《これまた》|被[#二]仰合[#一]《おほせあはされ》|可[#レ]被[#レ]及[#二]御行[#一]事《おんてだてにおよばるべきこと》肝要《かんえう》に候《さふらふ》。委細《ゐさい》此使者《このししやに》[#ルビの「このししやに」は底本では「このしやに」]口上申含候《こうじやうまをしふくめさふらふ》。恐惶謹言《きようくわうきんげん》。
[#3字下げ]三月廿六日(天正十二年)[#「(天正十二年)」は1段階小さな文字][#地から2字上げ]秀吉(華押)
[#7字下げ]佐竹殿
[#ここで字下げ終わり]
木曾《きそ》、上杉迄《うへすぎまで》も援《ひ》き來《きた》りて、如何《いか》に秀吉方《ひでよしがた》が、優勢《いうせい》であるかを示《しめ》し。佐竹《さたけ》をして、我《われ》に歸向《きかう》せしめ、關東《くわんとう》の諸雄《しよゆう》をして、與《とも》に力《ちから》を一にし、家康方《いへやすがた》に反對《はんたい》せしめんとす。觀來《みきた》れば秀吉《ひでよし》、家康《いへやす》の對抗《たいかう》は、半《なか》ば外交的戰爭《ぐわいかうてきせんさう》と云《い》うても可《か》なりだ。而《しか》して秀吉《ひでよし》の小牧《こまき》出陣迄《しゆつぢんまで》の立場《たちば》は、此《こ》の書簡《しよかん》が、最《もつと》も其《そ》の要領《えうりやう》を説明《せつめい》して居《を》る。

          ―――――――――――――――
[#6字下げ][#小見出し]榊原康政の檄文[#小見出し終わり]

[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
(上略)依[#レ]之三月七日家康殿、尾州表へ進發の時、康政[#割り注]○榊原[#割り注終わり]先手にて地理を量り、進め參らせて小牧山を陣所と定めらる、即ち康政一手を以て彼山を取敷旗を立、同十六日柵圍落成相圖の狼煙を揚しかば、則ち陣所を爰に移さる、此節敵の鋭氣を挫かん爲め、檄文を作て以て之を觸達す、其文に云ふ、
[#ここから3字下げ]
夫羽柴秀吉者、野人之子、出[#二]於草莱[#一]、而僅爲[#二]馬前之走卒[#一]、信長公寵異之遇、一旦特擧、拜[#二]於將帥[#一]、食[#二]於大邦[#一]、其恩高[#レ]似[#一]天、深[#レ]於[#レ]海、此擧[#レ]世所[#レ]知也、然信長公卒、而秀吉忽忘[#二]主恩[#一]、遂因[#二]際會[#一]謀[#二]非企[#一]、冀[#レ]將[#下]滅[#二]其君後[#一]奪[#中]其國家[#上]、慘哉、向殺[#二]信孝公[#一]、今又與[#二]信雄公[#一]結[#レ]兵、大逆無道、不[#レ]可[#二]勝言[#一]、其誰不[#レ]疾─[#二]視之[#一]、今我寡君[#割り注]此指[#二]家康殿[#一][#割り注終わり]深懷[#二]信長公舊好[#一]、切恤[#二]信雄公之微弱[#一]赫然整[#レ]旅、、不[#レ]量[#二]勢之衆寡[#一]、仗[#二]大義之當然[#一]、仗[#二]天人之所[#一レ]惡、人々豈可[#下]黨[#二]彼暴惡[#一]以汚[#中]乃祖佳名於千載[#上]乎、惟尚專合[#二]力於義軍[#一]、速討[#二]彼逆賊[#一]、以快[#二]海内之人心[#一]、因以告、[#割り注]大旨蓋如[#レ]此カ[#割り注終わり]
[#5字下げ]天正十二歳[#割り注]月日未詳[#割り注終わり][#地から1字上げ]〔榊原家譜〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【六五】横綱の立合[#中見出し終わり]

横綱《よこづな》の立合《たちあひ》は、容易《ようい》に四つに取組《とりく》むものではない。彼等《かれら》は何《いづ》れも、大事《だいじ》に大事《だいじ》をとるのぢや。秀吉《ひでよし》は二十一|日《にち》(天正十二年三月)[#「(天正十二年三月)」は1段階小さな文字]に大阪《おほさか》を發《はつ》し、近江路《あふみぢ》より美濃《みの》に進《すゝ》み、二十六|日《にち》岐阜《ぎふ》を發《はつ》し、鵜沼《うぬま》に抵《いた》り、木曾川《きそがは》に船橋《ふなばし》を架《か》し、翌《よく》廿七|日《にち》正午頃《しやうごごろ》、犬山城《いぬやまじやう》に入《い》つた。彼《かれ》が容易《ようい》に木曾川《きそがは》を渡《わた》るを得《え》たのは、畢竟《ひつきやう》池田勝入《いけだしようにふ》が、犬山城《いぬやまじやう》を襲取《しふしゆ》したからである。『此城《このしろ》を得《え》ざらましかば、輙《たやす》く川《かは》を越《こえ》て、軍立《いくさだち》せん事《こと》難《かた》かるべし。偏《ひとへ》に池田勝入《いけだしようにふ》心《こゝろ》をはげましける故《ゆゑ》なりと感《かん》じ給《たま》へり。』〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]とは、さもあるべき事《こと》である。
秀吉《ひでよし》は犬山城《いぬやまじやう》に入《い》ると間《ま》もなく、躬《みづか》ら數騎《すき》を具《ぐ》して、大物見《おほものみ》に出掛《でか》け、羽黒《はぐろ》を經《へ》て二|宮山《のみややま》に上《のぼ》り、聨合軍側《れんがふぐんがは》の營《えい》を展望《てんばう》し。其《そ》の對壘《たいるゐ》を構《かま》ふ可《べ》く、小松寺《こまつでら》、久保《くぼ》一|色《しき》、岩崎《いはさき》、青塚《あをづか》、小口等《をぐちとう》を巡視《じゆんし》し、其《そ》の位置《ゐち》を指點《してん》し、二十九|日《にち》には、愈《いよい》よ其《そ》の諸砦《しよさい》が出來《しゆつたい》した。其《そ》の守兵《しゆへい》の部署《ぶしよ》を示《しめ》せば、二|重堀《ぢゆうぼり》には、日根野兄弟《ひねのきやうだい》あり、田中《たなか》には堀秀政《ほりひでまさ》、細川忠興《ほそかはたゞおき》、長谷川秀一《はせがはひでかず》、蒲生氏郷《がまふうぢさと》、加藤光泰《かとうみつやす》あり。小松寺山《こまつでらやま》には秀吉《ひでよし》の姪《をひ》三|好秀次《よしひでつぐ》あり、外久保山《そとくぼやま》には丹羽長秀《にはながひで》あり、内久保山《うちくぼやま》には蜂屋頼隆《はちやよりたか》、金森長近《かなもりながちか》[#ルビの「かなもりながちか」は底本では「なかもりながちか」]あり。岩崎山《いはさきやま》には稻葉《いなば》一|鐵父子等《てつふしら》あり。青塚《あをづか》には森長可《もりながよし》あり、小口《をぐち》には筒井定次《つゝゐさだつぐ》、伊東祐時《いとうすけとき》あり。其《そ》の兵數《へいすう》、約《やく》八|萬《まん》に上《のぼ》つたと云《い》ふことである。
家康《いへやす》は豫《あらか》じめ小牧山《こまきやま》を以《もつ》て、其《そ》の牙營《がえい》の地《ち》と選定《せんてい》した。二十七|日《にち》午後《ごご》四|時《じ》、秀吉《ひでよし》の既《すで》に犬山城《いぬやまじやう》に入《い》りたるの諜報《てうはう》に接《せつ》するや、清洲城《きよすじやう》を内藤信成《ないとうのぶしげ》、三|宅康貞等《やけやすさだら》に守《まも》らしめ、二十八|日《にち》、自《みづ》から小牧山《こまきやま》に移《うつ》つた。而《しか》して小山村《こやまむら》に砦《とりで》を築《きづ》き、小牧山《こまきやま》の左側方《さそくはう》、及《およ》び清洲《きよす》の交通路《かうつうろ》を掩護《えんご》せしめた。二十九|日《にち》には、信雄《のぶを》も亦《ま》た、長島《ながしま》より小牧山《こまきやま》に徙《うつ》つた。家康《いへやす》は又《ま》た田樂《たらか》に砦《とりで》を築《きづ》き、二|重堀《ぢゆうぼり》の敵《てき》に備《そな》へ、軍用道路《ぐんようだうろ》を田樂《たらか》、宇田津《うたつ》の兩壘間《りやうるゐかん》に造《つく》り、小牧山《こまきやま》との聯絡《れんらく》を固《かた》くした。
四|月《ぐわつ》四|日《か》の夜《よ》、秀吉《ひでよし》は岩崎山《いはさきやま》、二|重堀間《ぢゆうぼりかん》二十|餘町《よちやう》の厚《あつ》さ一|間《けん》二|尺《しやく》、高《たか》さ二|間《けん》三|尺《じやく》の壘《るゐ》を築《きづ》き、其間《そのあひだ》に數個《すこ》の門《もん》を設《まう》け、出入《しゆつにふ》に便《べん》ならしめ、以《もつ》て聨合軍《れんがふぐん》の來襲《らいしふ》に備《そな》へ、持久《ぢきう》の意《い》を示《しめ》した。五|日《か》には田樂《たらか》の古壘《こるゐ》を修築《しうちく》して、本陣《ほんぢん》となし、犬山《いぬやま》より之《これ》に轉《てん》じた。此夜《このよ》家康《いへやす》も亦《ま》た、小牧山《こまきやま》の北麓《ほくろく》より、八|幡塚《まんづか》に亙《わた》る六七|町《ちやう》の壘《るゐ》を築《きづ》いた。
今《いま》や秀吉《ひでよし》は田樂《たらか》にあり、信雄《のぶを》、家康《いへやす》は小牧山《こまきやま》にあり。其《そ》の相距《あひさ》る約《やく》一|里餘《りよ》、互《たが》ひに防禦《ばうぎよ》專《せん》一にして、偶《たまた》ま小《こ》ぜり合《あひ》あるも、戰爭《せんさう》と云《い》ふ可《べ》き程《ほど》の事《こと》なく、何《いづ》れも鳴《なり》を靜《しづ》めて、敵《てき》の乘《じよう》ず可《べ》き機會《きくわい》を待《ま》つのみであつた。乃《すなは》ち双方《さうはう》何《いづ》れも長篠役《ながしのえき》に於《お》ける、信長《のぶなが》の態度《たいど》に出《い》で、更《さ》らに正面突撃《しやうめんとつげき》の、勝頼《かつより》たらんとする者《もの》は無《な》かつた。若《も》し此儘《このまゝ》にして經過《けいくわ》せば、唯《た》だ睨合《にらみあひ》にて、何時《いつ》勝負《しようぶ》が決《けつ》す可《べ》しとは見《み》えなかつた。
然《しか》も此《こ》の平板《へいばん》なる局面《きよくめん》に、一の波瀾《はらん》を捲《ま》き起《おこ》す可《べ》き事件《じけん》は生《しやう》じた。そは家康《いへやす》の本據《ほんきよ》たる岡崎城《をかざきじやう》をば、間道《かんだう》より襲《おそ》ひ取《と》るの策《さく》であつた。
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勝入《しようにふ》曰《いは》く、我《われ》案《あん》ずるに三|河《かは》の諸軍《しよぐん》過半《くわはん》は、小牧山《こまきやま》に集《つどひ》しならん。さては本國《ほんごく》三|河《かは》は、空虚《くうきよ》なるべし。いざや此虚《このきよ》を伺《うかが》ひ、軍兵《ぐんぴやう》を潜《ひそ》めて、三|州《しう》に亂入《らんにふ》して、國中《こくちゆう》を燒討《やきうち》せば、小牧山《こまきやま》に屯《たむろ》したる將卒共《しやうそつども》は仰天《ぎやうてん》し、忽《たちまち》に敗北《はいぼく》せん事《こと》掌《たなごゝろ》を指《さす》が如《ごと》し。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
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誰《たれ》が聞《き》いても、面白《おもしろ》き考案《かうあん》に相違《さうゐ》ない。此《こ》の策《さく》は何人《なんびと》の發意《ほつい》に出《い》でたのである乎《か》、或《あるひ》は秀吉《ひでよし》の思附《おもひつき》であるか、其《そ》の仕損《しそんじ》を慮《おもんぱか》りて、池田父子《いけだふし》に押《お》しつけたと云《い》ふ説《せつ》もある。然《しか》も一|般《ぱん》に通用《つうよう》する説《せつ》は、勝入《しようにふ》が其聟《そのむこ》森長可《もりながよし》の、羽黒《はぐろ》の敗軍《はいぐん》を傍觀《ばうくわん》して、怯耄《けふまう》の嗤《わらひ》を招《まね》きたるを※[#「りっしんべん+乍」、第3水準1-84-42]《は》ぢ、其《そ》の不名譽《ふめいよ》を雪《すゝ》がんが爲《た》めに、之《これ》を企《くはだ》て。四|月《ぐわつ》四|日《か》の夜《よ》、秀吉《ひでよし》に向《むか》つて、其策《そのさく》を献《けん》じ、自《みづ》から其《そ》の實行者《じつかうしや》たらんことを請《こ》ひ、翌朝《よくてう》重《かさ》ねて其《そ》の斷行《だんかう》を促《うなが》し、遂《つひ》に允可《いんか》を得《え》たと云《い》ふ※[#「こと」の合字、326-6]になつて居《を》る。

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[#6字下げ][#小見出し]池田勝入中入りの策を建つ[#小見出し終わり]

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四月四日の日、池田勝入父子家臣其外重立つ人々を召集め評議有り、其趣きは、敵家康は小牧山に入りて日々に人數増すにより、領分の三州遠州は空國成る可し、何れも何と存ずる、其空國へ人數を指向けて、討取るやうにしては如何あるべき、なんと何れもは存ぜらる、是は上方筋にては中入りの手段と云ふ物也と評議あり、([#割り注]此中入りの手段と云ふは異國本朝の書に見へず、古より中入の手段と云ふ事なし、織田信長の仕口出して、毎度勝利を得る、然れども家臣等は何れも中入りの手段をして仕損ず、既に志津ヶ嶽にて柴田が中入りをして敗走す、すれば常體の人の及ばぬ手段也、[#割り注終わり])時に右の通り勝入中入りの手段の事を評議有りければ、家臣等成程一段可[#レ]然奉[#レ]存、御意の通り日々小牧山には敵の人數増すからは空國なるべし、何れも其虚に乘ずべし迚一決すると也、是は又如何にと云ふに、前方羽黒の合戰に勝入後詰も不[#レ]叶、眼前に森武藏守長可を敗軍させ、無念骨髓に存じ、何卒此鬱憤を散じ耻辱を雪ぎ度、去れど小牧山は御取布き故掛りて攻むることも不[#レ]叶、日暮しにしてもならねば、旁箇樣の埒を思ひ立つて評議す、然れ共一分の心計りにはならねば、秀吉に此事を願ひ度く存じ、其夜犬山の城へ參りて右段々申して願ひしに、秀吉成程申す處は一理有り、併し事を仕應すれば何かあるべき、若し自然仕損ずる時は如何也、幾重も篤と思案有るべしと被[#レ]申ければ、勝入成程御意の趣き御最至極也、然れども此議は何卒右の通りに致し度奉[#レ]存、其上大草村の一揆の大將森川權右衞門其勢三千鐵炮六百挺を以て西尾道榮屋敷に楯籠り候、是を此方の味方に致度存ず、私家來日置才藏を遣して味方に可[#レ]屬の由頼みしに此方へ隨ひ可[#レ]申の由、すれば三州へ働くに付けては其地の人味方になくては不[#レ]叶、味方にするときは大な調法と云ふもの也、其上彼者の願ひのことあり、御味方に成るからは尾州の内にて五萬石の御朱印秀吉公より拜領仕度旨に候、此者味方に成るに付ては三州への教導を致さすべし、何卒御朱印を被[#レ]遣可[#レ]被[#レ]下と願ひければ、秀吉夫は兎も角もすべし、三州表へ働くことは思案可[#レ]被[#レ]致、某も能々思案の上のことゝ、勝入が存ずる旨には一と先づ應ぜられず、然れども勝入は秀吉へ此義をひたと願ひしと也。〔小牧陣始末記〕[#「〔小牧陣始末記〕」は1段階小さな文字]
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