第十二章 兩軍の對抗
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正、再校正

[#4字下げ][#大見出し]第十二章 兩軍の對抗[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【五七】外交的掛引[#中見出し終わり]

信雄《のぶを》の黒幕《くろまく》には、家康《いへやす》があつた。されば此《こ》の聨合軍《れんがふぐん》の、外交的掛引《ぐわいかうてきかけひき》も亦《ま》た、頗《すこぶ》る見《み》る可《べ》きものがあつた。彼等《かれら》は北陸《ほくろく》に於《おい》ては、佐々成政《さつさなりまさ》に結《むす》び、前田《まへだ》、丹羽《には》の領分《りやうぶん》たる加賀《かが》、越前《ゑちぜん》を襲《おそ》はしめんとした。四|國《こく》に於《おい》ては、長曾我部元親《ちやうそかべもとちか》、香宗我部親泰等《かそかべちかやすら》に結《むす》び、淡路《あはぢ》を徑《けい》して、以《もつ》て大阪《おほさか》を衝《つ》かしめんとした。今《いま》試《こゝろ》みに信雄《のぶを》が其臣《そのしん》をして、親泰《ちかやす》に諭《さと》さしめたる書簡《しよかん》を掲《かゝ》ぐれば、
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急度《きつと》|令[#二]啓達[#一]候《けいたつせしめさふらふ》。羽柴《はしば》此中《このぢゆう》|對[#二]三介殿[#一]《さんすけどのにたいし》(信雄)[#「(信雄)」は1段階小さな文字]恣之《ほしいまゝの》仕立《したて》、|不[#レ]及[#二]是非[#一]候《ぜひにおよばずさふらふ》。然者《しかれば》御家中《ごかちゆう》にも、津川玄蕃頭《つがはげんばのかみ》、淺井新《あさゐしん》八、岡田長門守《をかだながとのかみ》、一|廉之者《かどのもの》にて、羽筑《はちく》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]と申談候間《まをしだんじさふらふあひだ》、先《まづ》此兩《このりやう》三|人《にん》、昨日《さくじつ》六日《むいか》長島《ながしま》|於[#二]天守[#一]《てんしゆにおいて》|被[#レ]訖[#二]生害[#一]候《しやうがいしをはられさふらふ》。即《すなはち》徳川三河守《とくがはみかはのかみ》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]關東表《くわんとうおもて》悉《こと/″\く》|被[#二]相堅[#一]《あひかためられ》御供《おんとも》|可[#レ]申候《まをすべくさふらふ》。今明之間《こんみやうのあひだ》、尾州迄《びしうまで》|被[#二]罷越[#一]候《まかりこされさふらふ》。濃州《のうしう》、北國者《ほくこくは》越州《ゑつしう》能州《のうしう》越中《ゑつちゆう》、何《いづれ》も|不[#レ]殘《のこらず》御意《ぎよい》次第《しだい》に御請申候《おうけまをしさふらふ》。徳川家康殿《とくがはいへやすどの》|被[#二]談合[#一]《だんじあはされ》、不日《ふじつ》に|可[#レ]有[#二]御上洛[#一]候《ごじやうらくあるべくさふらふ》。此時《このとき》其表《そのおもて》(土佐)[#「(土佐)」は1段階小さな文字]之《の》儀《ぎ》長宮《ちやうぐう》(長曾我部宮内少輔元親)[#「(長曾我部宮内少輔元親)」は1段階小さな文字]|被[#二]仰談[#一]《おほせだんぜられ》、淡州迄《たんしうまで》|有[#二]御働[#一]《おんはたらきあり》、|可[#レ]成程《なるべきほど》御行專用《おんてだてせんよう》、|從[#二]其方[#一]《そのはうより》藝州《げいしう》(毛利)[#「(毛利)」は1段階小さな文字]迄《まで》、|可[#レ]被[#二]仰屆[#一]候《おほせとゞけらるべくさふらふ》。|未[#レ]被[#二]仰通[#一]候間《いまだおほせつうぜられずさふらふあひだ》、御書《ごしよ》|不[#レ]被[#レ]遣候《つかはされずさふらふ》。其方《そのはう》へは、|以[#二]直書[#一]《ぢきしよをもつて》|被[#レ]仰候《おほせられさふらふ》。自今以後《じこんいご》深重《しんちように》|可[#レ]被[#二]仰通[#一]候《おほせつうぜらるべくさふらふ》。萬方《ばんぱう》入眼候間《しゆがんさふらふあひだ》、|可[#二]御心安[#一]候《おこゝろやすかるべくさふらふ》。此時《このとき》御忠節《ごちゆうせつ》專用候《せんようにさふらふ》。恐々《きよう/\》謹言《きんげん》。
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[#3字下げ]三月七日(天正十二年)[#「(天正十二年)」は1段階小さな文字]
[#地から2字上げ]左兵衞佐(花押)
此《こ》れは信雄《のぶを》の書簡《しよかん》に添《そ》へたる副書《そへがき》である。此《こ》れにて聨合軍《れんがふぐん》の外交掛引《ぐわいかうかけひき》の一|斑《ぱん》が判知《わか》る。乃《すなは》ち四|國勢《こくぜい》をして、中國勢《ちゆうごくぜい》と(毛利氏)[#「(毛利氏)」は1段階小さな文字]相《あ》ひ※[#「特のへん+奇」、U+7284、285-10]角《きかく》して、上國《じやうこく》を衝《つ》かしめんとしたのである。而《しか》して紀州《きしう》雜賀黨《さいがたう》、及《およ》び本願寺門徒等《ほんぐわんじもんとら》を誘《いざな》ひ、四|國勢《こくぜい》と戮協《りくけふ》す可《べ》きを以《もつ》てした。當時《たうじ》本願寺門徒《ほんぐわんじもんと》は、頗《すこぶ》る不遇《ふぐう》の地《ち》に在《あ》つた。大阪《おほさか》は秀吉《ひでよし》の據《よ》る所《ところ》となり、加賀《かが》は前田利家《まへだとしいへ》の占《し》むる所《ところ》となり、往時《わうじ》の繁昌《はんじやう》に較《くら》べて、轉《うた》た落寞《らくばく》の感《かん》に勝《た》へなかつた。されば信雄《のぶを》、家康方《いへやすがた》は、本願寺門徒等《ほんぐわんじもんとら》に陷《くら》はしむるに、若《も》し聨合軍《れんがふぐん》其《そ》の目的《もくてき》を達《たつ》せば、加賀《かが》の舊領《きうりやう》は勿論《もちろん》、大阪迄《おほさかまで》も恢復《くわいふく》せしむ可《べ》きを以《もつ》てした。
家康《いへやす》は既《すで》に北條氏《ほうでうし》と、姻戚關係《いんせきくわんけい》を結《むす》んだ。所謂《いはゆ》る、『徳川三河守《とくがはみかはのかみ》關東表《くわんとうおもて》悉《こと/″\く》|被[#二]相堅[#一]《あひかためられ》』の一|句《く》は、必《かなら》ずしも駄法螺《だぼら》でなかつた。併《しか》し家康自身《いへやすじしん》も、頗《すこぶ》る北條氏《ほうでうし》の態度《たいど》を危《あやぶ》んだ。されば家康《いへやす》は、一|方《ぱう》には北條氏《ほうでうし》の驩心《くわんしん》を繋《つな》ぐ可《べ》く、其《そ》の音問《いんもん》を慇懃《いんぎん》にし。他方《たはう》には、上野《かうづけ》の皆川氏《みながはし》を通《つう》じて、北條氏《ほうでうし》の敵《てき》たる、佐竹氏《さたけし》と結《むす》ばんとした。〔安土桃山時代史〕[#「〔安土桃山時代史〕」は1段階小さな文字]併《しか》し外交《ぐわいかう》にかけては、秀吉《ひでよし》の手腕《しゆわん》は、更《さ》らに一|層《そう》を抽《ぬき》んでた。彼《かれ》は悉《こと/″\》く聨合軍《れんがふぐん》の裏《うら》を掻《か》いた。彼《かれ》は上杉景勝《うへすぎかげかつ》をして、一|方《ぱう》には佐々成政《さつさなりまさ》を牽制《けんせい》し、他方《たはう》には信甲《しんかふ》に於《お》ける、徳川氏《とくがはし》の領土《りやうど》に侵入《しんにふ》せしめ。丹羽《には》、前田等《まへだら》をして、正面《しやうめん》より佐々《さつさ》を退治《たいぢ》せしむ可《べ》く、計畫《けいくわく》した。又《ま》た中村一氏《なかむらかずうぢ》、蜂須賀家政《はちすかいへまさ》、黒田孝高等《くろだよしたから》をして、紀州《きしう》の雜賀《さいが》、根來《ねごろ》の一|揆《き》、及《およ》び本願寺《ほんぐわんじ》に當《あた》らしめた。且《か》つ淡路《あはぢ》に仙石秀久《せんごくひでひさ》ありて、長曾我部等《ちやうそかべら》を遮《さへぎ》り、岡山《をかやま》に宇喜多秀家《うきたひでいへ》ありて、毛利氏《まうりし》の禍心《くわしん》を未萠《みほう》に制《せい》せしめた。而《しか》して更《さ》らに、關東《くわんとう》の佐竹氏《さたけし》に結《むす》び、景勝《かげかつ》と策應《さくおう》して、北條氏《ほうでうし》、徳川氏《とくがはし》を挾撃《けふげき》せしめんとした。
然《しか》も是《これ》皆《み》な外輪《そとわ》の掛引《かけひき》である。秀吉《ひでよし》は手近《てぢか》く大垣《おほがき》の池田勝入《いけだしようにふ》、金山《かなやま》の森長可《もりながよし》を得《え》て、我《わ》が味方《みかた》とした。而《しか》して其手《そのて》は、木曾義昌《きそよしまさ》にも及《およ》んだ。又《ま》た伊賀《いが》、伊勢《いせ》に於《おい》ては、織田信包《おだのぶかね》、田丸具直《たまるともなほ》、九鬼嘉隆《くきよしたか》、關盛信《せきもりのぶ》、皆《み》な應《おう》じ、更《さ》らに瀧川一益《たきがはかずます》を起用《きよう》し、其《そ》の舊領《きうりやう》伊勢《いせ》五|郡《ぐん》を與《あた》ふ可《べ》きを約《やく》し、專《もつぱ》ら信雄《のぶを》の領土《りやうど》たる、伊勢方面《いせはうめん》に働《はたら》かしめた。
凡《およ》そ信長《のぶなが》の將校《しやうかう》にして、丹羽長秀《にはながひで》、前田利家《まへだとしいへ》、細川忠興《ほそかはたゞおき》、稻葉《いなば》一|鐵《てつ》、蒲生氏郷《がまふうぢさと》、堀秀政等《ほりひでまさら》、皆《み》な秀吉《ひでよし》の黨類《たうるゐ》であつた。されば其《そ》の兵力《へいりよく》を以《もつ》てすれば、秀吉《ひでよし》の軍《ぐん》は、信雄《のぶを》、家康《いへやす》の聨合軍《れんがふぐん》に對《たい》して、殆《ほと》んど三|倍《ばい》に近《ちか》かつた。

[#5字下げ][#中見出し]【五八】大義名分[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》對《たい》信雄《のぶを》、家康《いへやす》の葛藤《かつとう》に就《つい》ては、双方《さうはう》より引張《ひつぱ》り凧《だこ》となりて、隨分《ずゐぶん》當惑《たうわく》したる者《もの》もあつた。池田勝入《いけだしようにふ》の如《ごと》きは、其重《そのおも》なる一であつた。
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此時《このとき》信雄《のぶを》より、御使《おんつかひ》給《たまは》りて、勝入《しようにふ》が父子《ふし》並《ならび》に、かの聟《むこ》森武藏守長一《もりむさしのかみながかず》(長可)[#「(長可)」は1段階小さな文字]の方《かた》へも、御方《みかた》に參《まゐ》るべき由《よし》を頼《たのま》る。秀吉《ひでよし》また尾藤甚右衞門尉《びとうじんゑもんのじよう》して、組《くみ》せらるべき由《よし》を申《まを》さる。入道《にふだう》家子郎等《いへのこらうとう》を集《あつ》めて、此事《このこと》を議《ぎ》せらる。片桐半左衞門《かたぎりはんざゑもん》進出《すゝみい》で、いかで信長《のぶなが》の御恩《ごおん》を忘《わす》れ給《たま》ひて、秀吉《ひでよし》の方人《かたうど》たるべきといふ。伊木清兵衞《いきせいべゑ》、是《これ》を聞《きい》て、片桐《かたぎり》が申所理至極《まをすところことわりしごく》せり。去《さり》ながら家《いへ》をも興《おこ》し、子孫《しそん》の後榮《こうえい》を計《はか》らんには、秀吉《ひでよし》に與《くみ》し給《たま》ふに若《し》く可《べか》らずといふ。入道《にふだう》も心惑《こゝろまど》ひして、とやせん、かくやあらんと分《わき》かねし所《ところ》に、秀吉《ひでよし》重《かさ》ねて、津田隼人佐《つだはやとのすけ》を使《つかひ》として、秀吉《ひでよし》に組《く》みせられんには、美濃《みの》、尾張《をはり》兩國《りやうこく》の事《こと》、進退《しんたい》に任《まか》せらるべしといひ送《おく》られし程《ほど》に、忽《たちま》ち動《うご》きて、秀吉《ひでよし》の方人《かたうど》して、いかにもして、功《こう》を顯《あらは》さんと思《おも》ひしとなり。〔藩翰譜〕[#「〔藩翰譜〕」は1段階小さな文字]
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一|事《じ》以《もつ》て萬事《ばんじ》を察《さつ》す可《べ》しぢや。當時《たうじ》の群雄《ぐんゆう》は、何《いづ》れも日和見《ひよりみ》であつた。而《しか》して其《そ》の向背《かうはい》の楔子《せつし》は、只《た》だ成敗利鈍《せいばいりどん》の打算《ださん》であつた。家康《いへやす》の信雄《のぶを》に加擔《かたん》したのを以《もつ》て、義戰《ぎせん》の標本《へうほん》とし、家康《いへやす》を以《もつ》て、高義《かうぎ》の士《し》と稱《しよう》するは、徳川時代《とくがはじだい》の産物《さんぶつ》、所謂《いはゆ》る『御當家《ごたうけ》』筋《すぢ》の諸書《しよ/\》、皆《み》な然《しか》りであるが、其説《そのせつ》は頗《すこぶ》る商量《しやうりやう》を要《えう》する。然《しか》も家康《いへやす》が弱《よわき》を扶《たす》け、強《つよき》に坑《かう》し、信長《のぶなが》の舊誼《きうぎ》に報《むく》ゆ可《べ》く、其《そ》の遺子《ゐし》に竭《つく》したと云《い》ふ名目《みやうもく》は、今尚《いまな》ほ爭《あらそ》ふ可《べ》からずだ。將《は》た秀吉《ひでよし》が、舊主《きうしゆ》の遺子《ゐし》に向《むか》つて、楯《たて》を衝《つ》いたと云《い》ふ事《こと》は、如何《いか》に大義名分《たいぎめいぶん》が、物言《ものい》ふことの少《すくな》き世《よ》の中《なか》でも、秀吉《ひでよし》に取《と》りては、大《だい》なる弱點《じやくてん》であつたに相違《さうゐ》ない。而《しか》して此《こ》の戰爭《せんさう》が、如何《いか》に天下《てんか》の人心《じんしん》をして、恟々《きよう/\》たらしめたるかは、多門院日記《たもんゐんにつき》天正《てんしやう》十二|年《ねん》三|月《ぐわつ》廿二|日《にち》の項《かう》に、
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一、和泉國《いづみのくに》根來寺《ねごろでら》、雜賀《さいがの》奧衆《おくのしゆう》、一|揆《き》數萬《すまん》立候《たちさふらふ》、河州《かうしう》大阪表《おほさかおもて》以外《もつてのほかの》騷動候《さうどうにさふらふ》。如何《いかに》|可[#二]成行[#一]哉覽《なりゆくべきやらん》。勢州《せいしう》林《はやし》が島《しま》の城三郎兵衞《じやうのさぶらうべゑ》五百|計《ばかり》にて立籠《たてこもり》て、筒井《つゝゐ》(順慶)[#「(順慶)」は1段階小さな文字]江州《がうしう》蒲生《がまふ》うつき小《こ》一|郎《らう》取詰《とりつめ》云々《うんぬん》。
筑州《ちくしう》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]は、さほ山《やま》邊《へん》へ人數《にんず》を集《あつめ》、東《ひがし》より家康《いへやす》上《のぼる》に付《つき》、|爲[#二]出迎[#一]《でむかへのため》云々《うんぬん》。
天下動亂色《てんかどうらんのいろ》顯《あらは》る、如何《いかに》|可[#二]成行[#一]哉覽《なりゆくべきやらん》、心細者也《こゝろぼそきものなり》。|任[#二]神慮[#一]《しんりよにまかせ》、闇々《あん/\》として明暮迄也《あけくらすまでなり》。|無[#レ]端事《はしなきこと》/\。
[#ここで字下げ終わり]
とある。所謂《いはゆ》る『天下動亂色《てんかどうらんのいろ》顯《あらは》る、如何《いかに》|可[#二]成行[#一]哉覽《なりゆくべきやらん》、心細者也《こゝろぼそきものなり》。』とは、恐《おそ》らくは當時《たうじ》、一|般《ぱん》の人心《じんしん》を道破《だうは》したものであらう。信長《のぶなが》によりて、天下《てんか》一たび平《たひら》かならんとし、更《さ》らに秀吉《ひでよし》によりて、稍※[#二の字点、1−2−22]《やゝ》其業《そのげふ》を紹《つ》がんとするに際《さい》し、端《はし》なく又《ま》た局部々々《きよくぶ/\》に止《とゞま》らず、諸州《しよしう》に跨《またが》りたる大動亂《だいどうらん》、發生《はつせい》せんとす。其《そ》の天下《てんか》の人心《じんしん》に、不安《ふあん》を生《しやう》じたのも、亦《ま》た宣《む》べなりと云《い》はねばならぬ。
併《しか》し此《こ》の衝突《しようとつ》は、早晩《さうばん》一|度《ど》は來《きた》らねばならぬのぢや。然《しか》も家康《いへやす》の爲《た》めに謀《はか》れば、早《はや》ければ早《はや》き丈《だけ》、得《とく》であつたに相違《さうゐ》ない。最《もつと》も上策《じやうさく》を云《い》へば、柴田《しばた》と策應《さくおう》して、秀吉《ひでよし》を討《う》つたならば、秀吉《ひでよし》は必《かなら》ず斃《たふ》れざる迄《まで》も、痛手《いたで》を負《お》うたであらう。但《た》だ其《そ》の場合《ばあひ》には、大義名分《たいぎめいぶん》を、家康《いへやす》が獨占《どくせん》する譯《わけ》には參《まゐ》らぬ。そは一|方《ぱう》に信孝《のぶたか》を擁立《ようりつ》すれば、他方《たはう》には信雄《のぶを》を擁立《ようりつ》し、詮《せん》する所《ところ》兄弟喧嘩《きやうだいげんくわ》の姿《すがた》となるからだ。然《しか》も今《いま》や秀吉《ひでよし》は、山崎合戰《やまざきかつせん》當時《たうじ》の筑前《ちくぜん》ではない。當時《たうじ》は蛇《じや》であつたが、今《いま》は龍《りゆう》となつた。家康《いへやす》の對抗《たいかう》は、聊《いさゝ》か時機《じき》を失《しつ》した憾《うら》みがある。
併《しか》し家康《いへやす》の對手《あひて》は、秀吉《ひでよし》一|人《にん》でない。家康《いへやす》は秀吉《ひでよし》と戰《たゝか》ふ計《ばか》りが、彼《かれ》の仕事《しごと》ではない、彼《かれ》は自個《じこ》の根據《こんきよ》を固《かた》むる、必要《ひつえう》もあつた。されば彼《かれ》が當分《たうぶん》秀吉《ひでよし》に向《むか》つて、好意的《かういてき》中立《ちゆうりつ》の態度《たいど》を持《ぢ》し、自《みづ》から其勢圜《そのせいくわん》を擴大《くわくだい》ならしめたのも、亦《ま》た遠謀《ゑんぼう》、深慮《しんりよ》と云《い》ふ可《べ》きであつたらう。但《た》だ家康《いへやす》が一|歩《ぽ》進《すゝ》む毎《ごと》に、秀吉《ひでよし》は、十|歩《ぽ》進《すゝ》んだが爲《た》めに、時間《じかん》と與《とも》に、兩者《りやうしや》勢力《せいりよく》の距離《きより》を遠《とほ》からしめたのだ。
然《しか》も彼《かれ》が、喧嘩《けんくわ》の眞對手《しんあひて》でありつゝ、却《かへつ》て信雄《のぶを》を正面《しやうめん》の立役《たてやく》とし、彼《かれ》自《みづ》から其《そ》の援助者《ゑんじよしや》の立場《たちば》を占《し》めたるは、實《じつ》に家康《いへやす》に於《おい》て、一|段《だん》の手際《てぎは》と云《い》はねばならぬ。彼《かれ》が信雄《のぶを》と握手《あくしゆ》し、恒《つね》に信雄《のぶを》を以《もつ》て、對《たい》秀吉《ひでよし》の槓杆《こうかん》としたるは、流石《さすが》に機敏《きびん》なる秀吉《ひでよし》も、舌《した》を捲《ま》いたであらう。有體《ありてい》に云《い》へば、形《かたち》に於《おい》ては信雄《のぶを》は主《しゆ》で、家康《いへやす》は客《かく》であるが、實《じつ》に於《おい》ては家康《いへやす》が主《しゆ》で、信雄《のぶを》は客《かく》である。何處迄《どこまで》も名目《みやうもく》は、信雄《のぶを》援護《ゑんご》の戰爭《せんさう》であるが、事實《じじつ》は家康《いへやす》自衞《じゑい》の戰爭《せんさう》である。切言《せつげん》すれば、信雄《のぶを》は家康《いへやす》に取《と》りて、手品《てじな》の種《たね》であつた。信雄《のぶを》あるが爲《た》めに、家康《いへやす》の旗幟《きし》は、頗《すこぶ》る鮮明《せんめい》であつた。

[#5字下げ][#中見出し]【五九】兩軍の對抗[#中見出し終わり]

所謂《いはゆる》小牧役《こまきえき》は、東西兩横綱《とうざいりやうよこづな》の大取組《おほとりくみ》だ。戰爭《せんさう》それ自身《じしん》は、其《そ》の局面《きよくめん》が餘《あま》りに濶大《くわつだい》に、其《そ》の期間《きかん》が餘《あま》りに延長《えんちやう》したが爲《た》めに、興味《きようみ》が少《すくな》い樣《やう》なれども。其《そ》の虚々《きよ/\》、實々《じつ/\》、千|變萬化《ぺんばんくわ》の掛引《かけひき》、魂膽《こんたん》を吟味《ぎんみ》すれば、秀吉《ひでよし》、家康《いへやす》兩人《りやうにん》の特色《とくしよく》が、極《きは》めて明快《めいくわい》に發揮《はつき》せらるゝ|感《かん》がある。
今《いま》少《すこ》しく兩軍《りやうぐん》の兵勢《へいせい》を概觀《がいくわん》せしめよ。秀吉《ひでよし》の勢圜《せいくわん》は、實《じつ》に二十四|州《しう》に跨《またが》つて居《を》る。山城《やましろ》、大和《やまと》、河内《かはち》、和泉《いづみ》、攝津《せつつ》、志摩《しま》、近江《あふみ》、美濃《みの》、若狹《わかさ》、越前《ゑちぜん》、加賀《かゞ》、能登《のと》、丹波《たんば》、丹後《たんご》、但馬《たじま》、因幡《いなば》、播磨《はりま》、美作《みまさか》、備前《びぜん》、淡路《あはぢ》、及《およ》び伊賀《いが》、伊勢《いせ》、伯耆《はうき》、備中《びつちゆう》の一|部《ぶ》に及《およ》び、其《そ》の石高《こくだか》約《やく》六百三十|萬石《まんごく》内外《ないぐわい》であり、其《そ》の兵數《へいすう》優《いう》に十五六|萬《まん》を出《いだ》すに足《た》るものがあつた。而《しか》して其《そ》の諸將《しよしやう》には、北陸《ほくろく》には丹羽長秀《にはながひで》、前田利家《まへだとしいへ》があり、山陽《さんやう》には宇喜多秀家《うきたひでいへ》あり。丹後《たんご》に細川忠興《ほそかはたゞおき》、近江《あふみ》に蒲生氏郷《がまふうぢさと》、堀秀政《ほりひでまさ》、大和《やまと》に筒井順慶《つゝゐじゆんけい》あり。其《そ》の異父弟《いふてい》秀長《ひでなが》は、山陽《さんやう》、山陰《さんいん》の咽喉《いんこう》たる播但《ばんたん》にあり、養子《やうし》秀勝《ひでかつ》は丹波《たんば》にあり。其他《そのた》和泉《いづみ》に中村一氏《なかむらかづうぢ》、淡路《あはぢ》に仙石秀久《せんごくひでひさ》、志摩《しま》に九|鬼嘉隆《きよしたか》、伊勢《いせ》に織田信包《おだのぶかね》、伯耆《はうき》に南條元續《なんでうもとつぐ》、因幡《いなば》に宮部繼潤等《みやべけいじゆんら》あり。而《しか》して最《もつと》も敵《てき》と接觸《せつしよく》する地點《ちてん》の美濃《みの》には、池田勝入父子《いけだしようにふふし》、森長可等《もりながよしら》があつた。
更《さ》らに其《そ》の正面《しやうめん》の敵以外《てきいぐわい》の隣境《りんきやう》を見《み》れば、西《にし》に毛利氏《まうりし》があつたが、此《こ》れは既《すで》に和親《わしん》したれば、左程《さほど》掛念《けねん》もなく、先《ま》づ宇喜多氏《うきたし》を、其押《そのおさへ》とした。南《みなみ》には堀内氏善《ほりうちうぢよし》が紀州《きしう》新宮《しんぐう》に、畠山貞政《はたけやまさだまさ》が、同《どう》岩室《いはむろ》にあつた。畠山《はたけやま》は小敵《せうてき》ながら雜賀《さいが》、根來《ねごろ》の一|揆《き》と聯合《れんがふ》して、油斷《ゆだん》のならぬ者《もの》であつた。東《ひがし》には飛騨《ひだ》松倉《まつくら》に、姉小路自綱《あねこうぢよりつな》があり、越中《ゑつちゆう》富山《とやま》には佐々成政《さつさなりまさ》があつた。佐々《さつさ》には、丹羽《には》、前田《まへだ》を以《もつ》て之《これ》に當《あ》てた。
飜《ひるがへ》つて家康《いへやす》、信雄《のぶを》の聨合軍側《れんがふぐんがは》を見《み》れば、信雄《のぶを》の所領《しよりやう》は尾張《をはり》全部《ぜんぶ》、及《およ》び伊賀《いが》、伊勢《いせ》の一|部《ぶ》にて、約《やく》百七|萬石《まんごく》となる。其《そ》の兵數《へいすう》は二|萬《まん》六七千|人《にん》であらう。其《そ》の領地《りやうち》の東《ひがし》は參河《みかは》にて、徳川氏《とくがはし》に隣接《りんせつ》したれば、固《もと》より何等《なんら》の防備《ばうび》を要《えう》せぬが。他《た》の山城《やましろ》、大和《やまと》、美濃《みの》、近江《あふみ》に接《せつ》する西《にし》、北方面《きたはうめん》は、何《いづ》れも敵地《てきち》であれば、決《けつ》して油斷《ゆだん》はならぬのだ。
若《も》し夫《そ》れ家康《いへやす》の領土《りやうど》は、天正《てんしやう》十|年《ねん》以來《いらい》、頗《すこぶ》る擴張《くわくちやう》した。其《そ》の舊領《きうりやう》參河《みかは》、遠江《とほたふみ》に加《くは》へ、信長《のぶなが》より駿河《するが》を分配《ぶんぱい》せられ、信長《のぶなが》の死後《しご》、甲斐《かひ》の全部《ぜんぶ》、及《およ》び信濃《しなの》の若干部《じやくかんぶ》を取《と》り、今《いま》や百三四十|萬石《まんごく》の大封《たいほう》となつた。其《そ》の兵數《へいすう》三|萬《まん》四五千|人《にん》を得可《うべ》く、信雄《のぶを》の兵《へい》を合《がつ》すれば、六|萬《まん》一千|餘《よ》となる可《べ》し。而《しか》して東《ひがし》に北條氏政《ほうでううぢまさ》、氏直《うぢなほ》あり、北《きた》に上杉景勝《うへすぎかげかつ》あり。北條《ほうでう》とは親姻《しんいん》の關係《くわんけい》を結《むす》びたれども、動《やゝ》もすれば其虚《そのきよ》に乘《じよう》ぜんとする虞《おそれ》があり、景勝《かげかつ》とは天正《てんしやう》十|年《ねん》以來《いらい》、信州《しんしう》を爭《あらそ》ひつゝあれば、此《こ》の兩方面《りやうはうめん》の防備《ばうび》は、最《もつと》も大切《たいせつ》であつた。
單《たん》に兵數《へいすう》の上《うへ》からすれば、聨合軍《れんがふぐん》は、秀吉軍《ひでよしぐん》の三|分《ぶん》の一|強《きやう》に過《す》ぎなかつた。然《しか》も家康《いへやす》は最《もつと》も軍事《ぐんじ》に老練《らうれん》の大將《たいしやう》である。家康《いへやす》の軍隊《ぐんたい》は、武田氏《たけだし》と互《たが》ひに鎬《しのぎ》を削《けづ》りたる、百|戰《せん》の老兵《らうへい》である。而《しか》して頃《このご》ろの武田氏《たけだし》の遺産《ゐさん》たる、其《そ》の精鋭《せいえい》をも、殆《ほと》んど悉《こと/″\》く相續《さうぞく》した。如何《いか》に秀吉《ひでよし》の兵數《へいすう》が多《おほ》しと稱《しよう》するも、其《そ》の素質《そしつ》よりすれば、近畿《きんき》、中國《ちゆうごく》の兵《へい》であり、其《そ》の統制《とうせい》よりすれば、烏合《うがふ》の衆《しゆう》である。而《しか》して家康《いへやす》の將士《しやうし》は、何《いづ》れも織田信長《おだのぶなが》の遺子《ゐし》を扶《たす》くる大義名分《たいぎめいぶん》と、君國《くんこく》の安危存亡《あんきそんばう》の大危機《だいきき》とを自覺《じかく》しつゝある、生命《いのち》がけの戰爭《せんさう》である。秀吉方《ひでよしがた》は、別段《べつだん》立派《りつぱ》なる名目《みやうもく》もなく、理由《りいう》もなく、池田《いけだ》、森《もり》を始《はじ》め、云《い》はゞ|單《た》だ慾得《よくとく》づくの戰爭《せんさう》である。其《そ》の兩軍《りやうぐん》の意氣込《いきごみ》の淺深《せんしん》、厚薄《こうはく》、眞面目《まじめ》、不眞面目《ふまじめ》は、到底《たうてい》同日《どうじつ》の論《ろん》でない。されば兩軍《りやうぐん》の勢力《せいりよく》を比較《ひかく》するに際《さい》しては、單《たん》に其《そ》の兵數《へいすう》の多寡《たくわ》のみならず、亦《ま》た其兵《そのへい》の素質《そしつ》如何《いかん》、統制《とうせい》の一|致《ち》、不《ふ》一|致《ち》奈何《いかん》、元氣《げんき》の緊張《きんちやう》、弛怠《したい》奈何《いかん》に就《つい》て、考慮《かうりよ》せねばならぬ。
當時《たうじ》信雄《のぶを》は從《じゆ》四|位下《ゐげ》、右近衞權中將《うこんゑごんちゆうじやう》にて二十七|歳《さい》、彼《かれ》は信長《のぶなが》の子《こ》で、役《やく》に立《た》たぬ諸藝《しよげい》には堪能《かんのう》であつたが、主將《しゆしやう》としては庸劣《ようれつ》千|萬《ばん》で、眞《しん》に不肖《ふせう》の子《こ》だ。家康《いへやす》は從《じゆ》三|位《み》參議《さんぎ》、四十三|歳《さい》、秀吉《ひでよし》は從《じゆ》四|位下《ゐげ》參議《さんぎ》、四十九|歳《さい》。秀吉《ひでよし》も、家康《いへやす》も、今《いま》が全《まつた》く油《あぶら》の乘《の》りたる絶頂《ぜつちやう》であつた。彼等《かれら》が其《そ》の有《いう》する一|切《さい》の力《ちから》を[#「てへん+霍」、U+6509、296-2]揮《くわくき》して、互《たが》ひに雌雄《しゆう》を爭《あらそ》うたのは、實《じつ》に面白《おもしろ》くもあり、目覺《めざま》しくもあつた。

[#5字下げ][#中見出し]【六〇】秀吉立ち後れの氣味あるは何ぞや[#中見出し終わり]

家康《いへやす》は秀吉《ひでよし》に就《つい》て、十二|分《ぶん》の知識《ちしき》を有《いう》して居《ゐ》た。されど秀吉《ひでよし》は、果《はた》して家康《いへやす》の何者《なにもの》たるを、當初《たうしよ》より了解《れうかい》したであらう乎《か》。其《そ》の家康《いへやす》の手並《てなみ》を、直接《ちよくせつ》に我《わ》が身《み》の上《うへ》に試《こゝろ》みらるゝ|迄《まで》は、未《いま》だ聊《いさゝ》か見縊《みくび》つて居《ゐ》たのではあるまい乎《か》。何《なに》は兎《と》もあれ、機先《きせん》は悉《こと/″\》く家康《いへやす》の爲《た》めに、制《せい》せられた。先《ま》づ信雄《のぶを》は、天正《てんしやう》十一|年《ねん》の正月《しやうぐわつ》から、既《すで》に家康《いへやす》の手《て》の中《うち》に丸《まる》め込《こ》んだ。爾來《じらい》信雄《のぶを》と、家康《いへやす》との間《あひだ》には、秘密攻守同盟《ひみつこうしゆどうめい》が成《な》りて、何時《いつ》でも秀吉《ひでよし》の御相手《おあひて》をする準備《じゆんび》が、出來《でき》て居《ゐ》た模樣《もやう》がある。されば愈《いよい》よ秀吉《ひでよし》と、信雄《のぶを》との手切《てぎれ》となるや、家康《いへやす》は直《たゞ》ちに出兵《しゆつぺい》した。否《い》な其《そ》の以前《いぜん》に、出兵《しゆつぺい》の準備《じゆんび》を命《めい》じた。即《すなは》ち家康《いへやす》は、天正《てんしやう》十二|年《ねん》三|月《ぐわつ》七|日《か》に濱松《はままつ》を發《はつ》し、八|日《か》に岡崎《をかざき》に至《いた》り、九|日《か》矢作《やはぎ》に滯陣《たいぢん》して、兵力《へいりよく》を集中《しふちゆう》し、十三|日《にち》清洲《きよす》に赴《おもむ》き、信雄《のぶを》に會《くわい》し、一|切《さい》の打合《うちあわせ》をなした。而《しか》して彼《かれ》は機敏《きびん》を以《もつ》て、其《そ》の特色《とくしよく》の重《おも》なる一としたる秀吉《ひでよし》よりも、其《そ》の機敏《きびん》に於《おい》て、打《う》ち勝《か》つた。
家康《いへやす》の清洲《きよす》に於《おい》て、信雄《のぶを》と會見《くわいけん》するの際《さい》は、秀吉《ひでよし》は尚《な》ほ江州《がうしう》坂本《さかもと》にあつた。彼《かれ》は何故《なにゆゑ》に速《すみや》かに戰場《せんぢやう》に出《い》で向《むか》ひ、諸軍《しよぐん》の總指揮《そうしき》を、自《みづ》から行《おこな》はなかつた乎《か》。相手《あひて》が家康《いへやす》なれば、秀吉《ひでよし》自《みづか》ら之《これ》に當《あた》る他《ほか》に、方策《はうさく》のある可《べ》き筈《はず》がない。然《しか》るに尚《な》ほ途中《とちゆう》に濡滯《じゆたい》したるは、何故《なにゆゑ》であらう乎《か》。其《そ》の解説《かいせつ》は、寧《むし》ろ秀吉自身《ひでよしじしん》をして、語《かた》らしめた方《はう》が適切《てきせつ》である。左《さ》に掲《かゝ》ぐるは秀吉《ひでよし》が、天正《てんしやう》十二|年《ねん》三|月《ぐわつ》十三|日《にち》、江州《がうしう》坂本《さかもと》より、越前《ゑちぜん》なる丹羽長秀《にはながひで》に與《あた》へたる返書《へんしよ》である。
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去《さ》る十一|日《にち》(天正十二年三月)[#「(天正十二年三月)」は1段階小さな文字]美濃守《みののかみ》(秀長)[#「(秀長)」は1段階小さな文字]かたへの御状《ごじやう》、今日《こんにち》十三|日《にち》巳刻《みのこく》、|於[#二]坂本[#一]《さかもとにおいて》|令[#二]拜見[#一]候《はいけんせしめさふらふ》。八|個條之《かでうの》御書旨《ごしよのむね》、一々《いち/\》|無[#二]殘所[#一]《のこるところなく》|被[#二]仰越[#一]樣《おほせこさるゝやう》、金《きん》五(金森長近)[#「(金森長近)」は1段階小さな文字]蜂屋《はちや》(頼隆)[#「(頼隆)」は1段階小さな文字]兩人《りやうにん》、|如[#レ]被[#レ]存《ぞんぜらるゝごとく》|入[#二]御意[#一]候儀《ぎよいにいりさふらふぎ》と存《ぞんじ》、涙《なみだ》を翻《こぼし》|令[#二]滿足[#一]候《まんぞくせしめさふらふ》。
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秀吉《ひでよし》は、當時《たうじ》丹羽《には》の驩心《くわんしん》を繋《つな》ぐに、尤《もつと》も努力《どりよく》した。『涙《なみだ》を翻《こぼし》|令[#二]滿足[#一]候《まんぞくせしめさふらふ》』の一|句《く》、如何《いか》に意味深重《いみしんちよう》なるよ。金森《かなもり》と、蜂屋《はちや》とは、即今《そくこん》長秀《ながひで》の附庸《ふよう》で、秀吉《ひでよし》の助勢《じよせい》として、出《い》で來《きた》り居《を》る者共《ものども》ぢや。
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一、五|畿内之儀《きないのぎ》は|不[#レ]及[#レ]申《まをすにおよばず》、西國迄《さいこくまで》丈夫《ぢやうぶ》に坂本《さかもと》に|有[#レ]之而申堅候事《これありてまをしかためさふらふこと》。
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恐《おそ》らくは此《こ》の爲《た》めに、秀吉《ひでよし》の出足《であし》が晩《おく》れたのであらう。
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一、勢州表儀《せいしうおもてぎ》、民部少輔《みんぶせういう》(織田信包)[#「(織田信包)」は1段階小さな文字]龜山之《かめやまの》關安藝守《せきあきのかみ》(盛信)[#「(盛信)」は1段階小さな文字]雲林院《うんりんゐん》始《はじ》め|對[#二]筑前[#一]《ちくぜんにたいし》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]少《すこし》も|無[#二]如在[#一]候《じよさいなくさふらふ》に付而《ついて》、|爲[#二]先手[#一]《さきてとして》蒲生飛騨守《がまふひだのかみ》(氏郷)[#「(氏郷)」は1段階小さな文字]甲賀衆《かふがしゆう》、長谷川藤《はせがはとう》五(秀一)[#「(秀一)」は1段階小さな文字]羽柴左衞門督《はしばさゑもんのかみ》(堀秀政)[#「(堀秀政)」は1段階小さな文字]日根兄弟《ひねきやうだい》(日根野弘就、同彌次右衞門)[#「(日根野弘就、同彌次右衞門)」は1段階小さな文字]多新左《たしんざ》(多賀秀家)[#「(多賀秀家)」は1段階小さな文字]池孫次《いけまごつぐ》(池田秀氏)[#「(池田秀氏)」は1段階小さな文字]山源太《やまげんた》(山崎片家)[#「(山崎片家)」は1段階小さな文字]淺野彌兵衞尉《あさのやひやうゑのじよう》(長吉後に長政)[#「(長吉後に長政)」は1段階小さな文字]一|柳市助《やなぎいちすけ》(直末)[#「(直末)」は1段階小さな文字]加藤作内《かとうさくない》(光泰)[#「(光泰)」は1段階小さな文字]此分《このぶんの》衆《しゆうは》勢州《せいしう》に遣候上《つかはしさふらふうへ》、甲賀《かふが》と伊勢之間《いせのあひだ》に城《しろ》三|箇所《がしよ》、|爲[#二]通路[#一]《つうろとして》城付普請拵申候事《しろつきぶしんこしらへまをしさふらふこと》。
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此《こ》れにて秀吉《ひでよし》が、信雄《のぶを》の領土《りやうど》、伊勢方面《いせはうめん》に對《たい》する、策戰計畫《さくせんけいくわく》を知《し》る可《べ》しぢや。
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一、濃州《のうしう》池勝入《いけしようにふ》(池田信輝)[#「(池田信輝)」は1段階小さな文字]稻葉伊豫《いなばいよ》、森武藏守《もりむさしのかみ》、少《すこし》も|無[#二]別條[#一]候條《べつでうなくさふらふでう》、濃州口《のうしうぐち》へも、人數入候《にんずいれさふら》はゞ、彼方次第《かなたしだい》に|可[#レ]被[#レ]遣《つかはさるべく》と存《ぞんじ》、江州《がうしう》永原《ながはら》に三|好孫《よしまご》七|郎《らう》(秀次)[#「(秀次)」は1段階小さな文字]高山右近《たかやまうこん》、中川藤兵衞《なかがはとうべゑ》(秀政)[#「(秀政)」は1段階小さな文字]氏家源《うぢいへげん》六、同《どう》久左衞門《きうざゑもん》、其外《そのほか》人數《にんず》一|萬《まん》四五千|之《の》積《つも》りに而《て》、陣取《ぢんどら》せ申候事《まをしさふらふこと》。
一、美濃守《みのゝかみ》(秀長)[#「(秀長)」は1段階小さな文字]をば守山《もりやま》に置《おき》、勢州《せいしう》への心當《こゝろあて》に陣取《ぢんどら》せ候事《さふらふこと》。
一、御次《おつぎ》(秀勝)[#「(秀勝)」は1段階小さな文字]をば、草津《くさつ》に、丹波《たんば》一|國之人數《こくのにんず》を|被[#二]召連[#一]《めしつれられ》陣取《ぢんどら》せ候事《さふらふこと》。
一、長岡越中守《ながをかゑつちゆうのかみ》(細川忠興)[#「(細川忠興)」は1段階小さな文字]勢田《せた》に陣取《ぢんどら》せ候事《さふらふこと》。
一、加藤作内《かとうさくない》、木村隼人《きむらはやと》(重茲)[#「(重茲)」は1段階小さな文字]堀尾茂助《ほりをもすけ》、此等《これら》も甲賀《かふが》まん中《なか》に陣取《ぢんどら》せ候事《さふらふこと》。
一、筒井事《つゝゐこと》宇多郡《うたごほり》(大和宇陀郡)[#「(大和宇陀郡)」は1段階小さな文字]表《おもて》へ、伊藤掃部介《いとうかもんのすけ》(祐時)[#「(祐時)」は1段階小さな文字]相副遣候而《あひそへつかはしさふらうて》、澤《さは》(源六)[#「(源六)」は1段階小さな文字]秋山《あきやま》(右近)[#「(右近)」は1段階小さな文字]人質取《ひとじちにとり》、隙明候間《ひまあきさふらふあひだ》、これまた勢州《せいしう》へ遣候事《つかはしさふらふこと》。
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此《こ》れ亦《ま》た秀吉《ひでよし》の、對敵《たいてき》一|般方略《ぱんはうりやく》を叙《じよ》したるものぢや。
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一、西國表之事《さいこくおもてのこと》、城之請取隙明候《しろのうけとりひまあきさふらふ》。西口《にしぐち》|爲[#二]留守居[#一]《るすゐとして》、備前《びぜん》、美作《みまさか》、因幡《いなば》三ヶ|國《こく》の人數者《にんずは》、一|人《にん》も|不[#二]相動[#一]《あひうごかさず》|爲[#二]留守居[#一]置申候事《るすゐとしておきまをしさふらふこと》。
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此《こ》れ毛利氏《まうりし》に備《そな》へんが爲《た》め也《なり》。
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一、紀州事《きしうこと》、種々樣々《しゆ/″\さま/″\》懇望申候《こんまうもをしさふらふ》。岸和田城《きしわだじやう》(和泉)[#「(和泉)」は1段階小さな文字]孫平次《まごへいじ》(中村一氏)[#「(中村一氏)」は1段階小さな文字]三千|計《ばかり》にて|雖[#レ]有[#レ]之《これありといへども》、|爲[#二]加勢[#一]《かせいとして》蜂須賀小《はちすかこ》六(家政)[#「(家政)」は1段階小さな文字]前野將右衞門《まへのしやうゑもん》(長康)[#「(長康)」は1段階小さな文字]赤松殿《あかまつどの》(則房)[#「(則房)」は1段階小さな文字]明石與《あかしよ》四|郎《らう》(則實)[#「(則實)」は1段階小さな文字]生駒甚助《いこまじんすけ》(親正)[#「(親正)」は1段階小さな文字]黒田勘兵衞《くろだかんべゑ》(孝高)[#「(孝高)」は1段階小さな文字]六七千|丈夫《ぢやうぶ》に殘置申候事《のこしおきまをしさふらふこと》。
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此《こ》の方面《はうめん》、尤《もつと》も危險區域《きけんくゐき》たるによつて、秀吉《ひでよし》も最《もつと》も防備《ばうび》に骨折《ほねを》つた樣《やう》である。
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一、大阪《おほさか》には二千|計《ばかり》、|爲[#二]留守居[#一]《るすゐとして》、家手傳申付《いへてつだひまをしつけ》、殘置候事《のこしおきさふらふこと》。
一、淀《よど》には|乍[#二]留守居[#一]《るすゐながら》、倉之普請《くらのふしん》申付候《まをしつけさふらふ》とて、松岡《まつをか》九|郎左《らうざ》小野木清次《をのきせいじ》(重勝)[#「(重勝)」は1段階小さな文字]人數申付置候事《にんずまをしつけおきさふらふこと》。
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此《こ》れは畿内《きない》の防備《ばうび》一|斑《ぱん》である。
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一、|如[#レ]右《みぎのごとく》念《ねん》をやり申候條《まをしさふらふでう》、|可[#二]御心易[#一]候《おこゝろやすかるべくさふらふ》。去年之《きよねんの》武者《むしや》心持《こゝろもち》よりも、(柳瀬役の事ならむ)[#「(柳瀬役の事ならむ)」は1段階小さな文字]氣《き》にて氣《き》をあつめ、分別出來申《ふんべつできまをし》候間《さふらふあひだ》、楚忽成儀者《そこつなるぎは》|無[#二]御座[#一]候《ござなくさふらふ》。何《いづ》かたへ働申候《はたらきまをしさふらふ》も、泊々《とまり/″\》に城《しろ》を拵《こしら》へさせ、筑前《ちくぜん》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]移《うつり》|可[#レ]申候間《まをすべくさふらふあひだ》、御氣遣有間敷候事《おきづかひあるまじくさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは長秀《ながひで》をして、十二|分《ぶん》に安神《あんしん》せしむる樣《やう》、其《そ》の一|切《さい》の手配《てくばり》の拔目《ぬけめ》なく、周到《しうたう》、完全《くわんぜん》に、行《ゆ》き屆《とゞ》きたるを示《しめ》したものである。
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一、其表之儀《そのおもてのぎ》、別儀《べつぎ》|雖[#二]無[#レ]之候[#一]《これなくさふらふといへども》、御身之御用心《おんみのごようじん》、城之御用心《しろのごようじん》|可[#レ]爲[#二]肝要[#一]事《かんえうたるべきこと》。
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此《こ》れは飜《ひるがへ》つて長秀《ながひで》に向《むか》つて、北陸方面《ほくろくはうめん》の事《こと》を、注意《ちゆうい》したものだ。
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一、前又左《まへまたざ》(前田利家)[#「(前田利家)」は1段階小さな文字]方《かた》へ懇《ねんごろ》の使者《ししや》|可[#レ]遣候《つかはすべくさふらふ》と雖《いへど》も、其方《そなた》油斷有間敷《ゆだんあるまじく》と存《ぞんじ》、|不[#レ]遣候《つかはさずさふらふ》。藤《とう》三(藤掛永勝)[#「(藤掛永勝)」は1段階小さな文字]に委細申含《ゐさいまをしふくめ》候間《さふらふあひだ》、彌《いや》慥成者《たしかなるもの》を、|被[#レ]入[#二]御念[#一]《ごねんいれられ》、其氣遣專用候《そのきづかひせんようにさふらふ》。又左《またざ》(利家)[#「(利家)」は1段階小さな文字]|被[#レ]居候處《をられさふらふところ》、其方《そなた》御爲《おんため》に候《さふらふ》。|雖[#二]不[#レ]及[#レ]申候[#一]《まをすにおよばずさふらふといへども》、一|之城戸《のきど》にて候《さふら》へば、御念《ごねん》尤《もつとも》に存候事《ぞんじさふらふこと》。
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前田利家《まへだとしいへ》は、北陸方面《ほくろくはうめん》の第《だい》一|戰《せん》に在《あ》れば、丹羽《には》に取《と》りては、唇齒《しんし》の關係《くわんけい》がある。さればよく氣配《きはい》す可《べ》き旨《むね》を、申《まを》し通《つう》じたのぢや。
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一、此表《このおもて》十四五|日之《にちの》内《うち》に者《は》、世上之物狂《せじやうのものくるひ》も、酒醉之醒《さけのゑひのさめ》たるごとくに、筑前《ちくぜん》|以[#二]覺悟[#一]《かくごをもつて》しづめ|可[#レ]申候間《まをすべくさふらふあひだ》。其間之儀《そのあひだのぎ》は、其國之事《そのくにのこと》は、|不[#レ]及[#レ]申《まをすにおよばず》、自然《しぜん》加賀表《かがおもて》一|揆《き》抔《など》、催《もよほし》おこし候共《さふらふとも》、又左《またざ》(前田利家)[#「(前田利家)」は1段階小さな文字]合戰《かつせん》に|不[#レ]被[#レ]及《およばれず》、彼金澤之惣構《かのかなざはのそうがまへ》を相抱《あひかゝへ》、丈夫之覺悟《ぢやうぶのかくご》|於[#レ]有[#レ]之者《これあるにおいては》、其内《そのうち》に筑前《ちくぜん》隙明《ひまあき》|可[#レ]申候《まをすべくさふらふ》。自然《しぜん》加州表《かしうおもて》人數入候者《にんずいりさふらへば》、蜂屋《はちや》、金《きん》五、|可[#レ]返申[#一]候《かへしまをすべくさふらふ》。それ迄《まで》は、兩人《りやうにん》此方《このはう》に留申候而《とゞめまをしさふらうて》、萬《よろづ》談合《だんがふ》をも申事《まをすこと》に候《さふらふ》。人數事《にんずこと》は五千、一|萬《まん》、何時《いつ》も|可[#レ]進[#レ]之候《これをしんずべくさふらふ》。尚《なほ》兩人《りやうにん》より|可[#レ]被[#二]申付[#一]候《まをしつけらるべくさふらふ》。恐々《きよう/\》謹言《きんげん》。
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此《これ》にて如何《いか》に、世上《せじやう》の人心《じんしん》が恟々《きよう/\》であつたかゞ|推察《すゐさつ》せらるゝ。『世上《せじやう》の物狂《ものくるひ》も、酒醉《さけのゑひ》の醒《さめ》たる如《ごと》く。』二|週間《しうかん》以内《いない》には、鎭定《ちんてい》す可《べ》しと、秀吉《ひでよし》が張膽明目《ちやうたんめいもく》して、申《まを》し遣《つかは》したのを見《み》れば、其《そ》の物狂《ものぐるひ》が、尋常《じんじやう》でなく、如何《いか》なる程度《ていど》であつたかと云《い》ふ事《こと》が、判知《わか》るではない乎《か》。恐《おそ》らくは此度《このたび》の戰爭《せんさう》を以《もつ》て、驚天動地《きやうてんどうち》の事《こと》と見做《みな》したであらう。而《しか》して其《そ》の北陸方面《ほくろくはうめん》に對《たい》する、訓令《くんれい》の慇懃《いんぎん》、懇切《こんせつ》なるを見《み》れば、亦《ま》た以《もつ》て秀吉《ひでよし》が如何《いか》に其心《そのこゝろ》を全局《ぜんきよく》に配《くば》り、其《そ》の手《て》と心《こゝろ》とが、隅《すみ》から隅迄《すみまで》、行《ゆ》き渡《わた》りつゝあるかゞ|判知《わか》る。
果《はた》して然《しか》らば秀吉《ひでよし》が、家康《いへやす》に機先《きせん》を制《せい》せられたのは、幾分《いくぶん》其《そ》の局面《きよくめん》の濶大《くわつだい》にして、爲《た》めに其《そ》の運動《うんどう》が、比較的《ひかくてき》鈍重《どんぢゆう》を免《まぬか》れず。而《しか》して直《たゞ》ちに戰場《せんぢやう》に向《むか》つて、直前《ちよくぜん》勇進《ゆうしん》する能《あた》はざる事情《じじやう》も、あつたものと思《おも》はる。
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