第十一章 小牧役の端緒
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高島秀彰、入力
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[#4字下げ][#大見出し]第十一章 小牧役の端緒[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【五三】小牧役の緒論[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》の一|生《しやう》に於《おい》て、其《そ》の主君《しゆくん》たりし信長以外《のぶながいぐわい》、眞《しん》に畏《おそ》れたるは、只《た》だ家康《いへやす》であつた、家康《いへやす》一|人《にん》のみであつた。而《しか》して小牧役《こまきえき》は、實《じつ》に秀吉《ひでよし》と、家康《いへやす》との大取組《おほとりくみ》ぢや。即《すなは》ち横綱同士《よこづなどうし》の取組《とりくみ》ぢや。信玄《しんげん》、謙信《けんしん》の川中島合戰《かはなかじまかつせん》も、面白《おもしろ》いには相違《さうゐ》ないが。彼《かれ》は專《もつぱ》ら戰鬪《せんとう》が本位《ほんゐ》であつて、此役《このえき》の外交《ぐわいかう》と戰鬪《せんとう》と、錯綜《さくそう》、混淆《こんかう》して、愈《いよい》よ出《い》でて、愈《いよい》よ奇《き》なるものとは、到底《たうてい》比較《ひかく》にはならぬ。但《た》だ其《そ》の顛末《てんまつ》を記《しる》したる者《もの》、概《おほむ》ね徳川氏《とくがはし》盛時《せいじ》の産物《さんぶつ》であれば、徳川氏《とくがはし》に偏頗《へんぱ》の傾向《けいかう》あるは、已《や》むを得《え》ぬ。況《いはん》や秀吉方《ひでよしがた》の池田勝入父子《いけだしようにふふし》、鬼武藏《おにむさし》の稱《しよう》ある森長可《もりながよし》を馘《くびき》つた、顯著《けんちよ》なる事實《じじつ》は、天下晴《てんかは》れての大勝利《だいしようり》たる象徴《しやうちよう》として、家康《いへやす》の誇《ほこ》る可《べ》きに於《おい》てをやだ。
併《しか》し徐《おもむ》ろに考《かんが》ふれば、如何《いか》に暴《あば》れ廻《まは》るも、家康《いへやす》は、袋《ふくろ》の中《なか》の鼠《ねずみ》たるを免《まぬか》れなかつた。彼《かれ》は勝利《しようり》を得《え》つゝ、漸次《ぜんじ》に秀吉《ひでよし》の爲《た》めに致《いた》されて、のつぴきならぬ所《ところ》に落《お》ち込《こ》む可《べ》く、餘儀《よぎ》なくせられた。或《あるひ》は秀吉《ひでよし》は戰爭《せんさう》に破《やぶ》れて、外交《ぐわいかう》に捷《か》つたとも云《い》ふ可《べ》き歟《か》。將《は》た小局《せうきよく》に負《ま》けて、大局《たいきよく》に勝《か》つたとも云《い》ふ可《べ》き歟《か》。局部《きよくぶ》の成敗《せいはい》は兎《と》も角《かく》も、最後《さいご》には土俵《どへう》の多《おほ》くを秀吉《ひでよし》が占領《せんりやう》した。即《すなは》ち此《こゝ》に到《いた》りて流石《さすが》の家康《いへやす》も、手《て》も足《あし》も出《で》ぬ窮境《きゆうきやう》に陷《おちい》つた。併《しか》し此《こ》の窮境《きゆうきやう》に立《た》ちつゝ、尚《な》ほ降參者《かうさんしや》の態度《たいど》を取《と》らず、講和者《かうわしや》たる資格《しかく》を把持《はぢ》し、秀吉《ひでよし》に對《たい》して、殆《ほと》んど對等《たいとう》の地歩《ちほ》を占《し》めたる、家康《いへやす》の手際《てぎは》も亦《ま》た他《た》に比類《ひるゐ》はあるまい。
秀吉《ひでよし》が外交《ぐわうかう》に老《お》いたりと雖《いへど》も、決《けつ》して軍事《ぐんじ》に素人《しろうと》とは云《い》はれぬ。家康《いへやす》が軍事《ぐんじ》に老《お》いたりと雖《いへど》も、亦《ま》た決《けつ》して外交《ぐわいかう》に素人《しろうと》とは云《い》はれぬ。但《た》だ秀吉《ひでよし》には秀吉流《ひでよしりう》あり、家康《いへやす》には家康流《いへやすりう》あり。此《こ》の小牧役《こまきえき》にて、兩者《りやうしや》の特色《とくしよく》は、殆《ほと》んど遺憾《ゐかん》なく發揮《はつき》せられた。吾人《ごじん》は今《いま》茲《こゝ》に、彼等《かれら》の優劣《いうれつ》を論《ろん》ずる必要《ひつえう》を認《みと》めない。寧《むし》ろ其《そ》の對照《たいせう》によつて、愈《いよい》よ兩者《りやうしや》の面目《めんもく》が鮮明《せんめい》、精采《せいさい》あるを認《みと》む可《べ》きのみ。而《しか》して兩者《りやうしや》ともに、我《わ》が大和民族《やまとみんぞく》の誇《ほこ》りたる可《べ》き、英雄漢《えいゆうかん》であることは、斷《だん》じて異辭《いじ》はない。

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本能寺《ほんのうじ》の變《へん》によりて、最《もつと》も奇利《きり》を占《し》めたのは、申《まを》す迄《まで》もなく秀吉《ひでよし》だ。而《しか》して其次《そのつぎ》は、家康《いへやす》と云《い》はねばならぬ。毛利《まうり》、上杉杯《うへすぎなど》も、其惠《そのめぐみ》に預《あづか》つた。されどそは概《おほむ》ね、消極的《せうきよくてき》の利益《りえき》であつた。若《も》し秀吉《ひでよし》が此《こ》の事變《じへん》の爲《た》めに、大成金《だいなりきん》となつたならば、家康《いへやす》は小成金《せうなりきん》となつた。有體《ありてい》に云《い》へば、秀吉《ひでよし》の大《だい》に比較《ひかく》して、未《いま》だ中《ちゆう》と云《い》ふ可《べ》き程《ほど》には、到《いた》らなかつた。併《しか》し小成金《せうなりきん》でも、成金《なりきん》は矢張《やはり》成金《なりきん》だ。他《た》の者《もの》は信長《のぶなが》の死《し》した爲《た》めに、身代《しんだい》を潰《つぶ》すの厄《やく》を免《まぬか》れた。但《た》だ家康《いへやす》は此《これ》が爲《た》めに、身代《しんだい》を増殖《ぞうしよく》した。
元來《ぐわんらい》信長《のぶなが》と家康《いへやす》の位置《ゐち》は、漸次《ぜんじ》に距離《きより》が加《くはは》つて來《き》た。永祿《えいろく》四|年《ねん》、織徳同盟《しよくとくどうめい》の當初《たうしよ》は、織田《おだ》も徳川《とくがは》も、一は一|國《こく》の首《しゆ》、他《た》は半國《はんこく》の首《しゆ》たるに止《とゞま》つた。然《しか》も天正《てんしやう》十|年《ねん》、本能寺變《ほんのうじへん》の頃《ころ》は、織田《おだ》は殆《ほと》んど天下人《てんかびと》で、家康《いへやす》は未《いま》だ漸《やうや》く參《さん》、遠《ゑん》、駿《すん》の主《しゆ》であつた。今後《こんご》信長《のぶなが》が、中國《ちゆうごく》より九|州《しう》を討平《たうへい》する曉《あかつき》に於《おい》ては、兩者《りやうしや》の間隔《かんかく》は愈《いよい》よ甚《はなはだ》しきを加《くは》へ、家康《いへやす》も殆《ほと》んど信長《のぶなが》の一|被官《ひくわん》たらずんば、已《や》まなかつたであらう。
然《しか》るに本能寺變《ほんのうじへん》の爲《た》めに、家康《いへやす》の頭上《づじやう》を壓《あつ》する、信長《のぶなが》てふ一の大《だい》なる邪魔者《じやまもの》を、偶然《ぐうぜん》にも取《と》り除《の》けた。而《しか》して此《こ》れと同時《どうじ》に、一|兵《ぺい》に衂《ちぬ》らずして、甲州《かふしう》を確實《かくじつ》に占領《せんりやう》し、更《さ》らに信州《しんしう》を勢圜《せいくわん》に加《くは》ふることを得《え》た。彼《かれ》は最早《もはや》天下《てんか》に立《たつ》て、他《た》に叩頭《こうとう》する必要《ひつえう》もなくなつた。彼《かれ》は此《こ》れよりして、頂天立地《ちやうてんりつち》、一|本立《ぽんだち》の覇主《はしゆ》となつた。偶《たまた》ま秀吉《ひでよし》が、信長《のぶなが》の衣鉢《いはつ》を相續《さうぞく》せんとするも、我《われ》に於《おい》て何《なに》かあらんやだ。官位《くわんゐ》に於《おい》ても、資格《しかく》に於《おい》ても、家康《いへやす》と秀吉《ひでよし》とは、是迄《これまで》同日《どうじつ》の論《ろん》ではなかつた。家康《いへやす》は信長《のぶなが》の客分《きやくぶん》である。漸次《ぜんじ》附庸《ふよう》の姿《すがた》ではあつたが、先《ま》づ對等《たいとう》である。秀吉《ひでよし》は信長《のぶなが》の一|將校《しやうかう》だ、家康《いへやす》が、秀吉《ひでよし》の下《もと》に就《つ》かねばならぬ約束《やくそく》は、先天《せんてん》にも、後天《こうてん》にも、決《けつ》して是《こ》れなかつた。
斯《かゝ》る不羈《ふき》の地歩《ちほ》を占《し》め得《え》たる家康《いへやす》をして、遂《つ》ひに我《わ》が部下《ぶか》に羅致《らち》したる、秀吉《ひでよし》の手腕《しゆわん》に至《いた》りては、實《じつ》に驚嘆《きやうたん》の他《ほか》はない。然《しか》もそれが、勝利《しようり》の必然《ひつぜん》の結果《けつくわ》でなくして、勝利《しようり》は彼《かれ》にありて、却《かへつ》て斯《かゝ》る成行《なりゆき》を來《きた》したるに到《いた》りては、愈《いよい》よ秀吉《ひでよし》の大器《たいき》なるに驚嘆《きやうたん》せざるを得《え》ぬ。

[#5字下げ][#中見出し]【五四】甲信に於ける家康[#中見出し終わり]

家康《いへやす》は幸運兒《かううんじ》ぢや。已《すで》に成人《せいじん》して、一|人前《にんまへ》の男《をとこ》となれば、信長《のぶなが》の手《て》を藉《か》りて、頭上《づじやう》の盆《ぼん》たる、今川義元《いまがはよしもと》を除《のぞ》き去《さ》つた。已《すで》に擴大《くわくだい》して、三|國《ごく》の主《しゆ》となれば、明智光秀《あけちみつひで》の手《て》を藉《か》りて、頭上《づじやう》の盆《ぼん》たる、信長《のぶなが》を除《のぞ》き去《さ》つた。已《すで》に勢威《せいゐ》豐滿《ほうまん》して、天下《てんか》に覇《は》たる位置《ゐち》に達《たつ》すれば、病《やまひ》の手《て》を藉《か》りて、其《そ》の頭上《づじやう》の盆《ぼん》たる、秀吉《ひでよし》を除《のぞ》き去《さ》つた。家康《いへやす》が自助《じじよ》の人《ひと》であつたことは、云《い》ふ丈《だけ》が野暮《やぼ》だ。併《しか》し彼《かれ》の成功《せいこう》には、恒《つね》に幸運《かううん》が伴《ともな》うて居《ゐ》た。如何《いか》に乘除《じようぢよ》しても、成功《せいこう》には幸運《かううん》の要素《えうそ》を、無視《むし》する譯《わけ》には參《まゐ》らぬ。家康《いへやす》が適例《てきれい》ぢや。
家康《いへやす》が途中《とちゆう》にて、九|死《し》一|生《しやう》の目《め》に遇《あ》ひ、漸《やうや》く境《さかひ》の見物《けんぶつ》より、岡崎《をかざき》に還《かへ》り著《つ》いたのは、天正《てんしやう》十|年《ねん》六|月《ぐわつ》七|日《か》であつた。或《あるひ》は五|日《か》とも云《い》ふ。而《しか》して彼《かれ》は其《そ》の軍隊《ぐんたい》を催《もよほ》して、十四|日《か》鳴海《なるみ》に抵《いた》つた。此《こ》れは光秀《みつひで》討伐《たうばつ》の爲《た》めと云《い》ふ説《せつ》もあるが、恐《おそ》らくは用心深《ようじんぶか》き家康《いへやす》は、警備《けいび》の爲《た》めに、兵《へい》を境上《きやうじやう》に示《しめ》したのであらう。彼《かれ》は十九|日《にち》に、秀吉《ひでよし》より山崎《やまざき》の捷報《せうはう》に接《せつ》し、此《こ》の方面《はうめん》の心配《しんぱい》はなきものと諦《あきら》め、直《たゞ》ちに其《そ》の眼《まなこ》を甲州《かふしう》に轉《てん》じた。而《しか》して彼《かれ》が手《て》に唾《だ》して、甲州《かふしう》を取《と》つた事《こと》は、既記《きき》の通《とほ》りである。〔參照 二二、本能寺事變後の家康〕[#「〔參照 二二、本能寺事變後の家康〕」は1段階小さな文字]
若《も》し火事場泥坊《くわじばどろばう》の、大名人《だいめいじん》を投票《とうへう》せば、家康《いへやす》も高點者《かうてんしや》の一|人《にん》であらう。而《しか》して彼《かれ》は更《さ》らに信濃《しなの》に手《て》を出《いだ》した。併《しか》し信濃《しなの》は、甲斐程《かひほど》樂《らく》には參《まゐ》らなかつた。謙信以來《けんしんいらい》、歴史的因縁《れきしてきいんえん》よりして、上杉景勝《うへすぎかげかつ》は、川中島《かはなかじま》四|郡《ぐん》に徇《とな》へ、更《さ》らに小縣《ちいさがた》、佐久《さく》に及《およ》んだ。北條氏政《ほうでううぢまさ》、氏直父子《うぢなほふし》は、關東管領瀧川《くわんとうくわんれいたきがは》を撃《う》ち掃《はら》ひ、更《さ》らに兵《へい》を甲信《かふしん》に進《すゝ》めた。信州《しんしう》は上杉《うへすぎ》、北條《ほうでう》、徳川《とくがは》の混戰状態《こんせんじやうたい》を呈《てい》した。而《しか》して眞田昌幸《さなだまさゆき》の如《ごと》き、地方的策士《ちはうてきさくし》は、此《こ》の混戰《こんせん》に乘《じよう》じて、奇利《きり》を博《はく》す可《べ》く、或《あるひ》は景勝《かげかつ》に屬《ぞく》し、或《あるひ》は氏直《うぢなほ》に附《つ》き、傾危《けいき》の運動《うんどう》を縱《ほしいまゝ》にした。
家康《いへやす》も甲信《かふしん》の形勢《けいせい》の、容易《ようい》ならぬを見《み》て、天正《てんしやう》十|年《ねん》七|月《ぐわつ》三|日《か》、濱松《はままつ》を發《はつ》し、甲州《かふしう》に向《むか》うた。
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小田原《をだはら》の北條新《ほうでうしん》九|郎氏直《らううぢなほ》は、甲州《かふしう》の一|揆共《きども》をかたらひ、其國《そのくに》を侵掠《しんりやく》せんと、五|萬《まん》の大軍《たいぐん》を引《ひき》つれ、信州海野口《しんしううみのくち》より甲州《かふしう》に向《むか》へば、君《きみ》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]も濱松《はままつ》を打立給《うちたちたま》ひ、同《おな》じく甲州《かふしう》に臨《のぞま》せ給《たま》ふに、其國人等《そのくにびとら》粮米《れうまい》薪《たきゞ》を献《けん》じ、御迎《おむかひ》に出《いづ》る者《もの》、道《みち》もさりあへず。古府《こふ》に陣《ぢん》をすゑられたり。此《こ》れよりさき、信濃《しなの》の諏訪《すは》をせめよとて、つかはされたる酒井《さかゐ》、大久保《おほくぼ》、本多《ほんだ》、大須賀《おほすが》、石川《いしかは》、岡部等《をかべら》、氏直《うぢなほ》が後詰《ごづめ》すと聞《きこ》えしかば、一|先《まづ》引《ひき》かへせとて、乙骨《おつこつ》ヶ|原《はら》まで引《ひき》とる所《ところ》に、氏直《うぢなほ》案《あん》の外《ほか》近《ちか》く追《お》ひ來《きた》りしかば。こなたは謀《はかりごと》を設《まう》け、勢《せい》を七|隊《たい》に別《わか》ち、敵《てき》の大軍《たいぐん》嵩《かさ》にかゝりて、先《さき》を遮《さへぎ》らんとすれば、七|隊《たい》一|度《ど》に立歸《たちかへ》り、旗《はた》を立《た》て踏《ふみ》こたへ、敵《てき》進《すゝ》み兼《かね》るとみれば、鐵砲《てつぱう》をかけながら引退《いんたい》する程《ほど》に、敵《てき》みだりに追事《おふこと》あたはず。敵《てき》は五|萬《まん》に餘《あま》る大軍《たいぐん》、味方《みかた》は三千の人數《にんず》にて、七|里《り》が間《あひだ》、敵《てき》を引《ひき》つけ、手《て》を負《お》ふ者《もの》一|人《にん》もなく引取《ひきとり》しは、昔《むかし》も今《いま》もたぐひまれなる退口《のきぐち》とて、世《よ》いたく稱讃《しようさん》す。〔徳川實記〕[#「〔徳川實記〕」は1段階小さな文字]
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北條《ほうでう》の五|萬《まん》に、徳川《とくがは》の三千を以《もつ》て、對抗《たいかう》すとは、餘《あま》りに懸隔《けんかく》ある話《はなし》なれども。兎《と》も角《かく》も北條《ほうでう》の大軍《たいぐん》が、案外《あんぐわい》振《ふる》はなかつた事《こと》は、相違《さうゐ》あるまい。家康《いへやす》の兵《へい》は、武田氏《たけだし》を以《もつ》て、實地演習《じつちえんしふ》の對手《あひて》とした精兵《せいへい》であれば、到底《たうてい》北條兵《ほうでうへい》の及《およ》ぶ所《ところ》ではなかつた。
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氏直《うぢなほ》若御子《わかみこ》に著陣《ちやくぢん》すれば、君《きみ》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]も古府《こふ》を立《た》たせ給《たま》ひ、淺生原《あさふがはら》へおはして對陣《たいぢん》し給《たま》へども、氏直方《うぢなほがた》は、御備《おんそなへ》のきびしきに恐《おそ》れて、手《て》も出《いだ》さねば、君《きみ》は新府《しんぷ》に移《うつら》せ給《たま》ふ。此《これ》より數旬《すじゆん》の間《あひだ》、五|萬《まん》に餘《あま》る大軍《たいぐん》と、八千|不[#レ]足《たらず》の御人數《ごにんず》にて對陣《たいぢん》まし/\、帷幄《ゐあく》の外《ほか》へも出給《いでたま》はず、ゆる/\として、彼《かれ》より和議《わぎ》を結《むす》ばせ引取給《ひきとりたま》ふ。天晴《あつぱれ》不思議《ふしぎ》の名將《めいしやう》かなと、世《よ》に感《かん》ぜぬ者《もの》ぞなかりける。
[#地から2字上げ]〔徳川實紀〕[#「〔徳川實紀〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
家康《いへやす》は氏直《うぢなほ》と、甲州韮崎《かふしうにらざき》にありて、對陣《たいぢん》し、持久《ぢきう》の計《はかりごと》をなした。
[#ここから1字下げ]
北條美濃守氏規《ほうでうみのゝかみうぢのり》[#ルビの「ほうでうみのゝかみうぢのり」は底本では「ほうでうみのゝのかみうぢのり」]は、君《きみ》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]今川《いまがは》が許《もと》におはしたる時《とき》よりの御好《おんよし》みありければ、氏規《うぢのり》はかりて、上州《じやうしう》をば一|圓《ゑん》に北條《ほうでう》に渡《わた》され、甲信兩國《かふしんりやうこく》は御領《ごりやう》と定《さだ》められ、又《また》姫君《ひめぎみ》一|所《しよ》を氏直《うぢなほ》に賜《たま》はりなんことを約《やく》し、永《なが》く兩家《りやうけ》の御《おん》したしみを結《むす》び、神無月《かんなづき》[#ルビの「かんなづき」は底本では「なんなづき」]廿九|日《にち》、氏直勢《うぢなほぜい》を駿府《すんぷ》に引《ひき》とれば、君《きみ》も濱松《はままつ》へ御馬《おうま》を納《をさ》め給《たま》ふ。
[#地から2字上げ]〔徳川實紀〕[#「〔徳川實紀〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《かく》の如《ごと》く上州《じやうしう》を北條《ほうでう》に、甲信《かふしん》を家康《いへやす》に、其《そ》の勢力範圍《せいりよくはんゐ》を定《さだ》め、且《か》つ氏直《うぢなほ》に家康《いへやす》の女《むすめ》を娶《めあは》すことを約《やく》し、愈《いよい》よ北條《ほうでう》、徳川《とくがは》の講和《かうわ》は成就《じようじゆ》した。然《しか》も信州《しんしう》を確實《かくじつ》に領有《りやういう》するには、尚《な》ほ景勝《かげかつ》の勢力《せいりよく》を、此《こ》の方面《はうめん》より驅逐《くちく》す可《べ》き必要《ひつえう》があつた。

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[#6字下げ][#小見出し]南方勢與[#二]濱松衆[#一]對陣の事[#小見出し終わり]

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同年(天正十年)七月十九日、大神君遠州引間の郡濱松の城を御進發有て、同じき廿四日甲州へ御著陣、柏坂の際勝山と云處へ御旗を建られ、服部半藏正成を差置せ玉ひ、古府中の一條右衞門大夫信達が舊宅に入せられ、若神子口へ大須賀五郎左衞門康高、榊原小平太康政、本多豐後守廣孝三頭を遣はされ守らせらる、是は敵を古府中へ寄せ附ざらんが爲の御式略なり、然して同月廿九日より氏直と御對陣、所々に於て御家人切勝、北條家利なきが故、戰ひ倦で霜月に至り、氏政氏直の命を受て、豆州韮山の城主北條美濃守氏規双方和融の懇望を大神君へ申入るに付て、漸く其首尾成て氏直退陣あるべき時節に臨み、平澤の朝日山に砦を築き番兵を居ゑ置の由相聞るが故、大神君御機色損じ、氏直表裏の仕形其意を得ず、此上は是非に於て一戰を遂げ、有無の勝負を決すべし、元來今度の和睦の事、家康望む處にあらずと云へ共、往年今川義元全盛の折柄、美濃守も吾儕も人質として駿府へ相詰、互に幼少の良友たりし、因て以て丁寧の扱ひ據なく其旨に應じて無事をなせる義なれば、今亦破れに及と云ふ共、更※[#二の字点、1-2-22]殘念の所存にあらず、然れば兎に角一戰の上、運否天に任せらるべしとの御文章にて、朝比奈彌太郎泰勝に御書を給りければ、彌太郎御書翰の匣を首に懸、只一騎敵陣へ馳行く、此時大神君は新府の城に御在馬、御家人の面々戰を待ち、物見を出し、若神子より長澤まで備を立固めたり、北條家は平澤のあなたに入亂て陣を敷けり、朝比奈[#「朝比奈」は底本では「朝此奈」]何の會釋もなく、大道寺駿河守直宗が陣所へ乘かけ、徳川家康よりの使の者たり、北條美濃守殿の陣所は何方ぞと荒らかに呼はりければ、駿河守是を聞て案内を差副し故、彌太郎美濃守が備に入り、面會して件の旨趣を述べ御書を亘しければ、氏規早速氏直の陣營へ赴き、和平彌相違あるべからざる支證として、大道寺が嫡子新四郎を人質に進らするとの義にて、美濃守同道し、朝比奈と打連れ、新府の城へ相越、榊原小平太康政を奏者として其赴を言上しければ、大神君御承諾有て、美濃守に御對面あり、先年駿府にて御遊ありし事、亦は當時の御物がたり隔心なく御懇切の體にて、御機嫌斜ならず、氏規も雀躍し、御談話畢て平澤へ歸りけるが、大道寺新四郎は鳥居彦右衞門元忠が預りとして、陣所へ留置れたり、其内又美濃守新府へ來り、御交和相整るの上、三州西郡の領主鵜殿長門守長持の娘の腹に御出生の姫君を氏直へ婚儀有べきの約を定めて、不日に北條家甲信の陣を拂ひ、十一月下旬小田原へ振旅なり、然して後大道寺新四郎をも南方へ送り歸されけり。〔關八州古戰録〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【五五】家康、秀吉、及び信雄(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

天正《てんしやう》十|年《ねん》の下半《しもはん》より、天正《てんしやう》十一|年《ねん》の上半《かみはん》にかけては、家康《いへやす》は專《もつぱ》ら甲信方面《かふしんはうめん》に働《はたら》いた。而《しか》して柴田《しばた》と秀吉《ひでよし》の葛藤《かつとう》には、傍觀者《ばうくわんしや》であつた。柴田《しばた》は、家康《いへやす》を味方《みかた》に引《ひ》き入《い》る可《べ》く、天正《てんしやう》十|年《ねん》十二|月《ぐわつ》十一|日《にち》には、使者《ししや》を古府《こふ》に遣《つかは》し、甲斐《かひ》の平定《へいてい》を賀《が》し、唐織《からおり》二十|端《たん》、綿《わた》百|把《ぱ》、鱈《たら》五|尾《び》を贈《おく》つた。然《しか》も家康《いへやす》は、柴田《しばた》に對《たい》して、何等《なんら》の好意《かうい》をも酬《むく》ゆる所《ところ》がなかつた。而《しか》して彼《かれ》は却《かへつ》て、天正《てんしやう》十一|年《ねん》正月《しやうぐわつ》十八|日《にち》、岡崎《をかざき》に於《おい》て、織田信雄《おだのぶを》と會見《くわいけん》した。武徳編年集成《ぶとくへんねんしふせい》に曰《いは》く、『人《ひと》其故《そのゆゑ》を知《し》らず』と。此《こ》れは偶然《ぐうぜん》の出會《しゆつくわい》でなく、家康《いへやす》は濱松《はままつ》より、信雄《のぶを》は清洲《きよす》より、互《たが》ひに岡崎迄《をかざきまで》出掛《でか》けて、會見《くわいけん》したものであつた。されば何《なに》かの魂膽《こんたん》がなくてはならぬ事《こと》ぢや。併《しか》し當初《たうしよ》に於《おい》ては、誰《た》れしも其《そ》の何故《なにゆゑ》たるには、氣附《きづか》なかつた。
家康《いへやす》は局外《きよくぐわい》中立《ちゆうりつ》とは申《まを》しながら、信雄《のぶを》、秀吉《ひでよし》對《たい》信孝《のぶたか》、勝家《かついへ》の交鬪《かうとう》には、寧《むし》ろ前者《ぜんしや》に好意《かうい》を表《へう》した。彼《かれ》は小栗又《をぐりまた》一を使《つか》はして、秀吉《ひでよし》を江北《かうほく》に勞問《らうもん》せしめ、又《ま》た自《みづ》から兵《へい》を率《ひき》ゐて、濱松《はままつ》を發《はつ》したが、勝家《かついへ》敗亡《はいばう》すと聞《き》き、兵《へい》を班《かへ》したと云《い》ふ説《せつ》もある。而《しか》して彼《かれ》は五|月《ぐわつ》廿一|日《にち》、石川數正《いしかはかずまさ》を以《もつ》て、柴田《しばた》退治《たいぢ》を賀《が》し、初花《はつはな》の茶壺《ちやつぼ》を贈《おく》つた。而《しか》して秀吉《ひでよし》も亦《ま》た、八|月《ぐわつ》六|日《か》には、津田信勝《つだのぶかつ》を濱松《はままつ》に遣《つかは》し、不動國行《ふどうくにゆき》の名刀《めいたう》をば、此《これ》に酬《むく》いた。
此《かく》の如《ごと》く家康《いへやす》と秀吉《ひでよし》の關係《くわんけい》は、極《きは》めて圓滿《ゑんまん》であつた。秀吉《ひでよし》は家康《いへやす》の何者《なにもの》たるを解《かい》した、家康《いへやす》も亦《ま》た然《しか》りだ。されば彼等《かれら》は成《な》る可《べ》くは、衝《あた》らず、觸《さは》らず、七|分《ぶ》三|分《ぶ》のかね合《あひ》にて、其《そ》の調子《てうし》を取《と》り居《ゐ》たのであらう。十一|年《ねん》十|月《ぐわつ》、家康《いへやす》が正《しよう》四|位下《ゐげ》左近衞權中將《さこんゑごんちゆうじやう》に昇進《しようしん》し、同《どう》十二|年《ねん》二|月《ぐわつ》、更《さら》に從《じゆ》三|位《み》參議《さんぎ》に任叙《にんじよ》したるも、偏《ひとへ》に秀吉《ひでよし》の取成《とりなし》であらう。當時《たうじ》秀吉《ひでよし》は、從《じゆ》四|位下《ゐげ》參議《さんぎ》であつたれば、家康《いへやす》の位階《ゐかい》は、其上《そのかみ》であつた。秀吉《ひでよし》が十一|年《ねん》十|月《ぐわつ》二十五|日《にち》附《づけ》を以《もつ》て、書《しよ》を與《あた》へ、日向巣鷹《ひふがすたか》を贈《おく》りたるが如《ごと》きも、出來得《できう》る限《かぎ》りに於《おい》て、家康《いへやす》の驩心《くわんしん》を繋《つな》いだものと察《さつ》せらるゝ。
信長死後《のぶながしご》に於《お》ける、秀吉《ひでよし》の大活躍《だいくわつやく》、大成功《だいせいこう》は、沈深《ちんしん》なる家康《いへやす》をも、驚《おどろ》かしたであらう。彼《かれ》も血性《けつせい》ある男兒《だんじ》だ。其《そ》の身分《みぶん》を質《たゞ》せば、同列《どうれつ》さへ覺束《おぼつか》なき秀吉《ひでよし》が、中央大舞臺《ちゆうあうだいぶたい》に立《たつ》て、天下《てんか》を我物顏《わがものがほ》に振舞《ふるま》ふは、家康《いへやす》としても癪《しやく》に障《さは》らぬ事《こと》はあるまじきぢや。然《しか》も彼《かれ》が尚《な》ほ隱忍《いんにん》したのは、何故《なにゆゑ》であらう。
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此年中《このねんちゆう》(天正十年)[#「(天正十年)」は1段階小さな文字]神君《しんくん》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]には、甲信《かふしん》を御手《おんて》に入《いれ》させられる積《つも》り也《なり》。最《もつと》も神君《しんくん》にも、秀吉《ひでよし》と御《ご》一|戰《せん》の思召《おぼしめし》はあれども、如何《いか》にしても小身故《せうしんゆゑ》、もそつと時節《じせつ》を御見合《おみあは》せの積《つもり》にて、先《ま》づ北條氏直《ほうでううぢなほ》と、御取合《おとりあ》ひにて、甲信《かふしん》の兩國《りやうこく》の面々《めん/\》、悉《こと/″\》く御幕下《ごばくか》になさる。さるにより上方筋《かみがたすぢ》の御頓着《ごとんちやく》なく、甲信兩國《かふしんりやうこく》の※[#こと、276-13]に御掛《おんか》かりなり。是《こ》れにて天正《てんしやう》十|年《ねん》も事終《ことをは》り、明《あ》くれば天正《てんしやう》十一|年《ねん》癸未《みづのとひつじ》正月《しやうぐわつ》十六|日《にち》に、神君《しんくん》遠州濱松《ゑんしうはままつ》を御立《おたち》、三|州岡崎《しうをかざき》の城《しろ》へ御出《おんいで》、是《これ》は御下心《おんしたごゝろ》有《あつ》てのこと也《なり》。
然《しか》る所《ところ》に此旨《このむね》清須《きよす》信雄《のぶを》の元《もと》へ聞《きこ》えければ、信雄《のぶを》存《ぞん》じらるゝは、家康《いへやす》の岡崎《をかざき》へ出《いで》らるゝは、別《べつ》の事《こと》にて有《あ》る間敷《まじ》く、上方筋《かみがたすぢ》の事《こと》と存付《ぞんじつ》かれ、信雄《のぶを》思《おも》はるゝは。某《それがし》は信長《のぶなが》の跡《あと》を相續《さうぞく》の筈《はず》なるに、漸《やうや》く尾張《をはり》一|國《こく》に、秀吉《ひでよし》の計《はから》ひにて、領地《りやうち》の仕合《しあはせ》なれば、斯《か》くは有《あ》る間敷《まじ》き事《こと》と、最《いと》鈍《にぶ》き人《ひと》なれども、憤《いきどほ》りありて、神君《しんくん》の岡崎《をかざき》へ御入城《ごにふじやう》と聞《き》くや否《いな》や。御目《おんめ》に掛《かゝ》り度《た》し迚《とて》、清須《きよす》を立《たち》て正月《しやうぐわつ》十八|日《にち》に、岡崎《をかざき》に參《まゐ》らる。
神君《しんくん》には信長《のぶなが》と深《ふか》く|被[#二]仰合[#一]《おほせあはされ》、御好身《おんよしみ》有《あ》るに依《よつ》て、御饗應《ごきやうおう》樣々《さま/″\》、御懇意《ごこんい》の埒《らち》にて、奧深《おくぶ》かに入《い》りて、夜《よ》の更《ふく》る迄《まで》、物靜《ものしづ》かに良《やゝ》久《ひさ》しく御密談《ごみつだん》あり。勿論《もちろん》其分《そのわ》けは知《し》れねども、併《しか》し察《さつ》しみるに、上方筋《かみがたすぢ》の埒《らち》と相聞《あいきこ》ゆ。畢竟《ひつきやう》秀吉《ひでよし》の仕方《しかた》にては、始終《しじゆう》保《たも》つことは成《な》り難《がた》く、末々《すゑ/″\》は□□と相見《あひみ》ゆる、然《しか》る時《とき》はどうこうと云《い》ふ埒《らち》を、御相談《ごさうだん》と聞《きこ》ゆ。信雄《のぶを》にも咄《はな》し事《こと》終《をは》り、岡崎《をかざき》より清須《きよす》へ歸城也《きじやうなり》。
[#地から2字上げ]〔小牧陣始末記〕[#「〔小牧陣始末記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》の想像《さう/″\》は、中《あた》らずと雖《いへど》も遠《とほ》からずだ。家康《いへやす》は到底《たうてい》秀吉《ひでよし》とは、衝突《しようとつ》の已《や》む可《べ》からざるを覺悟《かくご》したのであらう。而《しか》して信雄《のぶを》とは、此時《このとき》から攻守《こうしゆ》秘密同盟《ひみつどうめい》を、結《むす》んだものであらう。信雄《のぶを》は庸劣《ようれつ》、一|疋《ぴき》の男《をとこ》として、何等《なんら》價値《かち》はない。されど彼《かれ》には信忠死後《のぶたゞしご》に於《おい》て、織田家《おだけ》の相續者《さうぞくしや》として、多量《たりやう》の要請權《えうせいけん》が附屬《ふぞく》して居《を》る。家康《いへやす》の問題《もんだい》は、獨力《どくりよく》で秀吉《ひでよし》と戰《たゝか》ふ乎《か》、將《は》た信雄《のぶを》と與《とも》に戰《たゝか》ふ乎《か》である。果《はた》して然《しか》らば、信雄《のぶを》との交驩《かうくわん》は、却《かへつ》て家康《いへやす》より進《すゝ》んで、求《もと》めたのではあるまい乎《か》。

[#5字下げ][#中見出し]【五六】家康、秀吉、及び信雄(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

家康《いへやす》は天正《てんしやう》十一|年《ねん》正月《しやうぐわつ》には、信雄《のぶを》と結《むす》んだ。同年《どうねん》七|月《ぐわつ》には、其《そ》の二|女《ぢよ》徳姫《とくひめ》を北條氏直《ほうでううぢなほ》の夫人《ふじん》として、小田原《をだはら》に入輿《にふよ》せしめた。而《しか》して其《そ》の甲信《かふしん》の占領《せんりやう》は、家康《いへやす》の領土《りやうど》を擴張《くわくちやう》したるのみならず、信玄以來《しんげんいらい》訓練《くんれん》したる甲州侍《かふしうざむらひ》を、悉《こと/″\》く其《そ》の旗下《きか》に羅致《らち》し得《え》たるを以《もつ》て、此《これ》が爲《た》めに徳川《とくがは》の武力《ぶりよく》は、頗《すこぶ》る亢進《かうしん》した。家康《いへやす》は正《ま》さに此《こ》の武力《ぶりよく》を、試《こゝろ》む可《べ》き機會《きくわい》を待《ま》つた。
翻《ひるがへ》つて秀吉《ひでよし》を見《み》れば、一|戰《せん》して光秀《みつひで》を斃《たふ》し、二|戰《せん》して柴田《しばた》を斃《たふ》し、信孝《のぶたか》を斃《たふ》し、西《にし》は毛利《まうり》と和《わ》し、東《ひがし》は景勝《かげかつ》と結《むす》び、大阪《おほさか》に龍蟠虎踞《りゆうばんこきよ》して、殆《ほと》んど信長《のぶなが》の遺烈《ゐれつ》を凌《しの》ぐの概《がい》があつた。斯《かゝ》る場合《ばあひ》に於《おい》て、若《も》し秀吉《ひでよし》の覇業《はげふ》に、妨《さまた》[#ルビの「さまた」は定本では「はまた」]げあるものを擧《あ》げば、信雄《のぶを》と、家康《いへやす》であらう。然《しか》も彼等《かれら》を同時《どうじ》に退治《たいぢ》するは、秀吉《ひでよし》の欲《ほつ》せぬ所《ところ》であつた。されば秀吉《ひでよし》が、信雄《のぶを》と既《すで》に事端《じたん》を啓《ひら》きたる後《のち》に於《おい》てさへ、尚《な》ほ家康《いへやす》の官位昇進《くわんゐしやうしん》を奏請《そうせい》したるが如《ごと》き、(天正十二年二月)[#「(天正十二年二月)」は1段階小さな文字]其《そ》の用意《ようい》の尋常《じんじやう》ならざる事《こと》が判知《わか》る。而《しか》して愈《いよい》よ信雄《のぶを》との破裂《はれつ》の後《のち》にも、人《ひと》を家康《いへやす》に遣《つかは》し、若《も》し我《われ》に加擔《かたん》せば、濃尾《のうび》二|州《しう》を與《あた》へんと云《い》はしめた。〔日本戰史〕[#「〔日本戰史〕」は1段階小さな文字]
家康《いへやす》は今《いま》や、唇《くちびる》亡《ほろ》ぶれば齒《は》寒《さむ》しの眞理《しんり》を、我《わ》が一|身《しん》の上《うへ》に會得《ゑとく》した。今日《こんにち》信雄《のぶを》亡《ほろ》ぶれば、明日《みやうにち》家康《いへやす》亡《ほろ》ぶる事《こと》を覺悟《かくご》した。彼《かれ》が一|年《ねん》前《ぜん》に豫想《よさう》して、準備《じゆんび》したる計畫《けいくわく》(信雄と岡崎城に於ての會見)[#「(信雄と岡崎城に於ての會見)」は1段階小さな文字]は、今《いま》や正《まさ》しく的中《てきちゆう》した。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》よりの誘拐《いうかい》を斥《しりぞ》け、信雄《のぶを》の懇請《こんせい》する迄《まで》もなく、奮《ふる》うて信雄《のぶを》に加擔《かたん》した。即《すなは》ち天正《てんしやう》十二|年《ねん》二|月《ぐわつ》上旬《じやうじゆん》、彼《かれ》は酒井重忠《さかゐしげたゞ》を、信雄《のぶを》に遣《つかは》し、密議《みつぎ》する所《ところ》があつた。〔小牧陣始末記〕[#「〔小牧陣始末記〕」は1段階小さな文字]
秀吉《ひでよし》は何故《なにゆゑ》に、信雄《のぶを》と事端《じたん》を啓《ひら》いたの乎《か》。丹羽《には》、池田等《いけだら》從來《じゆうらい》の儕輩《せいはい》たるもの、悉《こと/″\》く皆《み》な我《われ》に叩頭《こうとう》するに、信雄《のぶを》は舊主《きうしゆ》の子《こ》として、我《われ》に臨《のぞ》むからである乎《か》。兎《と》も角《かく》も信雄《のぶを》と、秀吉《ひでよし》とは、何《いづ》れが中央《ちゆうあう》の主人《しゆじん》である乎《か》、明白《めいはく》に之《これ》を解決《かいけつ》する必要《ひつえう》があつた。信雄《のぶを》は庸劣《ようれつ》ではあつたが、斯《かゝ》る凡骨《ぼんこつ》に限《かぎ》りて、自惚心《うぬぼれしん》は少《すくな》くない。彼《かれ》は如何《いか》に周邊《しうへん》の形勢《けいせい》が、激變《げきへん》したるかに氣附《きづ》かず、相《あ》ひ變《かは》らず、自《みづ》から先君《せんくん》の公子《こうし》たる資格《しかく》を、矜持《きようぢ》した。秀吉《ひでよし》が信雄《のぶを》を排除《はいぢよ》するのは、自個《じこ》の天下人《てんかびと》たる位置《ゐち》を明白《めいはく》にし、確實《かくじつ》にし、堅固《けんこ》にする爲《た》めには、彼《かれ》としては、餘儀《よぎ》なき必要《ひつえう》であつた。
目的《もくてき》既《すで》に定《さだ》まれば、之《これ》を遂行《すゐかう》するには、如何《いか》なる手段《しゆだん》をも擇《えら》まず、又《ま》た如何《いか》なる手段《しゆだん》にも窮《きゆう》せぬが、秀吉《ひでよし》の流儀《りうぎ》ぢや。彼《かれ》は流言《りうげん》を放《はな》つて、信雄《のぶを》を疑惧《ぎぐ》せしめた。彼《かれ》は信雄《のぶを》の老臣等《らうしんら》を誘拐《いうかい》した。信雄《のぶを》は著々《ちやく/\》秀吉《ひでよし》の手《て》に乘《の》つた。
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天正《てんしやう》十二|年《ねん》三|月《ぐわつ》三|日《か》、|於[#二]尾州長島之城[#一]《びしうながしまのしろにおいて》、津川玄蕃允《つがはげんばのすけ》(勢州松島城主)[#「(勢州松島城主)」は1段階小さな文字]岡田長門守《をかだながとのかみ》(尾州星崎城主)[#「(尾州星崎城主)」は1段階小さな文字]淺井田宮丸《あさゐだみやまる》(尾州刈安賀城主)[#「(尾州刈安賀城主)」は1段階小さな文字]生害《しやうがい》させ給《たま》ふ。其起《そのおこ》りは秀吉《ひでよし》より、此《この》三|人《にん》は、武略《ぶりやく》兼備《かねそなは》りたる者《もの》なれば、懇《ねんごろ》に事問《こととひ》かはす事《こと》多《おほく》して、其聞《そのきこ》え目出侍《めでたくはべ》れば、つねづね寵《ちよう》を爭《あらそ》ふ近習《きんじふ》折《をり》を得《え》、逆意《ぎやくい》有《あ》るやうに沙汰《さた》せしに依《よつ》てなり。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
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或《あるひ》は曰《いは》く、信雄《のぶを》と秀吉《ひでよし》との疎隔《そかく》を調停《てうてい》す可《べ》く、池田勝入《いけだしようにふ》、蒲生氏郷等《がまふうぢさとら》、天正《てんしやう》十二|年《ねん》正月《しやうぐわつ》、兩人《りやうにん》をして三井寺《みゐでら》に會見《くわいけん》せんことを謀《はか》つた。秀吉《ひでよし》直《たゞ》ちに大阪《おほさか》より大津《おほつ》に抵《いた》り、期《き》に先《さきだ》ち信雄《のぶを》の老臣《らうしん》岡田重孝《をかだしげたか》[#「岡田」は底本では「岡出」]、津川義冬《つがはよしふゆ》、淺井長時《あさゐながとき》、瀧川雄利《たきがはかつとし》を招《まね》き、密談《みつだん》數刻《すうこく》、其《そ》の起請文《きしやうもん》を徴《ちよう》した。瀧川《たきがは》獨《ひと》り之《これ》に同意《どうい》せず、遂《つひ》に還《かへ》りて其旨《そのむね》を信雄《のぶを》に報《はう》じた。此《こゝ》に於《おい》て信雄《のぶを》は怒《いか》りて、安土《あづち》より長島《ながしま》に還《かへ》り、密《ひそ》かに徳川家康《とくがはいへやす》と諮《はか》り、秀吉《ひでよし》を討《う》たんと企《くはだ》て、先《ま》づ饗宴《きやうえん》に託《たく》して、三|月《ぐわつ》六|日《か》、三|老臣《らうしん》を登城《とじやう》せしめ、之《これ》を殺《ころ》し、兵《へい》を派《は》して、彼等《かれら》の城《しろ》を圍《かこ》ましめた。〔日本戰史〕[#「〔日本戰史〕」は1段階小さな文字]
或《あるひ》は又《ま》た曰《いは》く、秀吉《ひでよし》は信雄《のぶを》と會見《くわいけん》し、予《われ》は御身《おんみ》に恩《おん》あれども怨《うらみ》なし、何故《なにゆゑ》に予《われ》を殺《ころ》さんとし給《たま》ふやと云《い》ふ。信雄《のぶを》其《そ》の然《しか》らざるを辯《べん》じたが、秀吉《ひでよし》は之《これ》を聞《き》き入《い》れず、予《われ》は夢想《むさう》にて之《これ》を知《し》れりと云《い》ふ。此《こゝ》に於《おい》て信雄《のぶを》は、憤然《ふんぜん》として鐵槌《かなづち》と申《まを》す良馬《りやうめ》に打《う》ち騎《の》り、急《きふ》に長島《ながしま》に去《さ》つた。此《こゝ》に於《おい》て秀吉《ひでよし》は、跡《あと》に殘《のこ》りし三|老臣《らうしん》を要《えう》して、之《これ》と會盟《くわいめい》した。此《こゝ》に於《おい》て信雄《のぶを》は、三|老臣《らうしん》の秀吉《ひでよし》と私《わたくし》あるを猜《さい》して、之《これ》を誅《ころ》した。〔小牧陣始末記〕[#「〔小牧陣始末記〕」は1段階小さな文字]
其《そ》の手續《てつゞき》は何《いづ》れにもせよ、此《かく》の如《ごと》くして秀吉《ひでよし》と、信雄《のぶを》との間《あひだ》は、愈《いよい》よ敵對行爲《てきたいかうゐ》が成立《せいりつ》した。

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[#6字下げ][#小見出し]瀧川雄利の忠節[#小見出し終わり]

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[#ここから2字下げ]
織田内府公今度大阪へ四人の家老を秀吉呼寄候は、定めて天下を内府に相渡すべき相談にて有るべしと、内々は左樣の御心中にて御待成され候所に、長門守[#割り注]○岡田[#割り注終わり]玄蕃頭[#割り注]○津川[#割り注終わり]三郎兵衞[#割り注]○瀧川雄利[#割り注終わり]田宮[#割り注]○淺井[#割り注終わり]四人の家老、大阪より尾張へ罷歸り候路次中にて、信雄へ大阪の樣子を申入るべき議を談合仕り置、尾張へ參着致し、信雄公へ目見仕候へば、秀吉我等に天下を相渡すべき儀に候やと尋られ候へば、四人の家老道にて談合の如く何かと僞を申候て、内府公へ腹を御切成され候樣に、四人の衆談合仕置候、然る處四人の内にて瀧川三郎兵衞裏返り候て、内府公へ大阪にて秀吉相談の通り殘らず申入れ、起請仕り請負候へども、御主の儀にて候間、起請を背き底意を殘さず信雄公へ申入候へば、涙を流し御滿足成され、瀧川三郎兵衞をば伊賀國へ御戻し成され候、此瀧川三郎兵衞と申候は、伊勢國木造と申所の地侍にて候、忰の時分より木造の源常寺と申す草菴坊主にて候へども、俗氣出候て木造左衞門佐子を一人竊み出し、信長公へ人質として進候、源常寺忠節故瀧川三郎兵衞と名字を下され、其後御取立候て大名に成され、内府へ御附け、御家老に仰付られ候御恩を忘れず、三郎兵衞抽でたる忠節を仕り候。〔藩鑑引[#二]見聞書[#一]〕
天正十二年の春、信雄始めて秀吉の謀を知りて軍を起さんとする始め、雄利、脇坂[#割り注]○安治[#割り注終わり]が許に來りて妻が疾病《い○はり》以ての外に侍れば、霎時が程子息を給ひて、此世の名殘をも惜ませばやと望みて、己が質を取返し、伊賀國に馳せ歸る、秀吉斯くと聞て大に怒り給ひしかば、脇坂手勢二十騎許りを引具し、鞭鐙を合せて、追て伊賀國に入りて、瀧川を討ち參らせたらん者は、勸賞請ふに依るべしと呼はりて馳せ行く、國人等此處彼處にて馳付々々する程に、其夜上野城に押寄る、雄利箇程小勢なるべしとは思ひも寄らず、取る物も取り敢へず城を落て伊勢國に赴く、信雄頓て松が島の城を賜はりしかば、同き三月雄利軍勢を引具し押寄せ、彼城を取りて日置大膳亮と共に籠る。〔藩翰譜〕
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