第十章 秀吉勝家決鬪の落著
戻る ホーム 上へ 進む

 

高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正、再校正

[#4字下げ][#大見出し]第十章 秀吉勝家決鬪の落著[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【四六】北莊の陷落(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は二十二|日《にち》(天正十一年四月)[#「(天正十一年四月)」は1段階小さな文字]府中城《ふちゆうじやう》に抵《いた》り、前田利家《まへだとしいへ》と協和《けふわ》し、二十三|日《にち》には、堀秀政《ほりひでまさ》を先鋒《せんぽう》として北莊《きたのしやう》に進《すゝ》んだ。徳山則秀《とくやまのりひで》、不破光治《ふはみつはる》(勝光の父)[#「(勝光の父)」は1段階小さな文字]等《ら》、何《いづれ》も風《ふう》を望《のぞ》んで降《くだ》つた。柴田勝家《しばたかついへ》は、府中《ふちゆう》を經《へ》て、二十一|日《にち》の夕《ゆふ》に、北莊《きたのしやう》に逃《のが》れ還《かへ》つたが、留守兵《るすへい》、敗還兵《はいくわんへい》、及《およ》び非戰鬪員《ひせんとうゐん》を合《がつ》して、約《やく》三千|人《にん》に過《す》ぎなかつた。彼《かれ》は固《もと》より何等《なんら》の成算《せいさん》もなかつた。唯《た》だ此上《このうへ》は降《くだ》るか、死《し》するかの、二|者《しや》あるのみだ。
秀吉《ひでよし》は自《みづ》から足羽山《あすばやま》に陣《ぢん》し、諸隊《しよたい》をして北莊城《きたのしやうじやう》を包圍《はうゐ》せしめ、其《そ》の外郭《ぐわいくわく》を破《やぶ》り、昨日《さくじつ》生擒《せいきん》したる佐久間盛政《さくまもりまさ》、及《およ》び勝家《かついへ》の義子《ぎし》柴田權《しばたごん》六|勝敏《かつとし》を、城中《じやうちゆう》に示《しめ》した。
[#ここから1字下げ]
廿三|日之《にちの》午前《ごぜん》に、攻皷《せめつゞみ》などを止《やめ》、呼《よばゝ》つて曰《いはく》、昨日《きのふ》二十二|日《にち》之《の》夜《よ》、山中《さんちゆう》にて御子息《ごしそく》權《ごん》六|殿《どの》、並《ならびに》玄蕃允《げんばのすけ》生捕《いけどり》具《ぐ》して參候《まゐりさふらふ》。あな痛《いたは》しき御事《おんこと》にて有由《あるよし》呼《よばゝ》りぬ。是《これ》より城中《じやうちゆう》ひそまつて音《おと》もせず、其後《そののち》は請取《うけとり》し門々《もん/\》を防《ふせ》ぎ守《まも》る計《ばか》りにて、しか/″\鐵砲《てつぱう》もうたず、夜《よ》に入《い》るとひとしく、殿守之上《てんしゆのうへ》にも下《した》にも、ひろま其外《そのほか》櫓々《やぐら/\》などにも、酒宴《しゆえん》初《はじま》りけり。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
蓋《けだ》し盛政《もりまさ》も、勝敏《かつとし》も、何《いづ》れも府中附近《ふちゆうふきん》山中《さんちゆう》の土民《どみん》の爲《た》めに、生擒《せいきん》せられたのだ。彼等《かれら》が如何《いか》に大敗《たいはい》したかは、此《これ》によりても推察《すゐさつ》が能《あた》ふのである。而《しか》して此《これ》を見《み》て、流石《さずが》の勝家《かついへ》も、愈《いよい》よ我事《わがこと》已矣《やむ》と、觀念《くわんねん》したのであらう。
此際《このさい》勝家《かついへ》彼自身《かれじしん》に、降意《かうい》があつた乎《か》、否乎《いなか》は、分明《ぶんみやう》せぬ。又《ま》た前田利家《まへだとしいへ》が、果《はた》して勝家《かついへ》の死《し》を宥《なだ》むるを以《もつ》て、秀吉《ひでよし》と協和《けふわ》の條件《でうけん》となしたる乎《か》、否乎《いなか》。將《は》た利家《としいへ》が自《みづ》から北莊城《きたのしやうじやう》に入《い》りて、勝家《かついへ》を釋《ゆる》さんとしたが、勝家《かついへ》が自殺《じさつ》して果《はた》さなかつた乎《か》、〔加賀藩史稾〕[#「〔加賀藩史稾〕」は1段階小さな文字]否乎《いなか》は、分明《ぶんみやう》せぬ。又《ま》た秀吉《ひでよし》が僧《そう》を使《つかひ》とし、古《いにしへ》の傍輩《はうばい》なり、一|命《めい》を助《たす》くべし、高野山《かうやさん》の麓《ふもと》へ退《の》き給《たま》へ、領地《りやうち》三|萬《まん》石《ごく》扶助《ふじよ》せんと申《まを》し遣《つかは》したる乎《か》、〔祖父物語〕[#「〔祖父物語〕」は1段階小さな文字]否乎《いなか》は、分明《ぶんみやう》せぬ。併《しか》し此《こ》の間際《まぎは》に於《おい》て、城中《じやうちゆう》と、寄手《よせて》との間《あひだ》に、何等《なんら》かの交渉《かうせふ》があつたには、相違《さうゐ》ない樣《やう》だ。それは柴田退治記《しばたたいぢき》の中《うち》に、
[#ここから1字下げ]
二十三|日《にち》|渡[#二]名聞大河[#一]《なにきこえしたいがをわたり》|押[#二]寄北莊城[#一]《きたのしやうのしろにおしよす》。彼城郭《かのじやうくわく》勝家《かついへ》累年《るゐねん》相拵《あひこしらへ》、|爲[#二]定番[#一]《ぢやうばんとして》|入[#二]置兵三千餘人[#一]處也《へいさんぜんよにんをいれおくところなり》。|於[#二]柳瀬表[#一]《やながせおもてにおいて》討殘《うちのこせし》輩《やから》追々《おひ/\》|於[#二]懸入[#一]者《かけいるにおいては》、|可[#レ]得[#レ]力間《ちからをうべきあひだ》、|不[#レ]移[#二]時剋[#一]《じこくをうつさず》|可[#二]攻亡[#一]《せめほろぼすべし》。※[#「てへん+總のつくり」、第3水準1-84-90]構《そうがまへ》即時《そくじ》乘破《のりやぶり》、|隔[#二]城壁十間十五間[#一]《じやうへきじつけんじふごけんをへだて》、取卷《とりまき》|成[#二]夜詰[#一]《よづめをなす》。城中《じやうちゆう》|見[#レ]之《これをみて》、諸卒《しよそつを》|分[#二]此彼[#一]《ここかしこにわけ》|防[#レ]之《これをふせぐ》。然《しかるに》|從[#二]城内[#一]懇望《じやうないよりこんまうし》、秀吉《ひでよし》昵近《じつきん》古老之《こらうの》英雄《えいゆう》評議而《ひやうぎして》云《いはく》、|助[#二]勝家之命[#一]《かついへのいのちをたすけて》|可[#レ]被[#二]相隨[#一]旨《あひしたがへらるべきむね》、|雖[#レ]爲[#レ]諫《いさめをなすといへども》。池邊《ちへんに》|放[#二]毒蛇[#一]《どくじやをはなち》、庭前《ていぜんに》|如[#レ]養[#レ]虎言《とらをやしなふごとしといひて》、|成[#二]千急萬速之攻[#一]《せんきふばんそくのこうをなす》。
[#ここで字下げ終わり]
の文句《もんく》がある。柴田退治記《しばたたいぢき》は、秀吉《ひでよし》祐筆《いうひつ》大村由己《おほむらいうき》が、天正《てんしやう》十一|年《ねん》十一|月《ぐわつ》に、記述《きじゆつ》したるもの。其《そ》の事件《じけん》を距《さ》る、僅《わづ》かに半歳《はんさい》、日本式漢文《にほんしきかんぶん》にて、秀吉《ひでよし》の勳功《くんこう》を講談《かうだん》する爲《た》めに、作《つく》りたるものなれば、若干《じやくかん》の文飾《ぶんしよく》あるを免《まぬか》れざるも、記事《きじ》は概《がい》して精核《せいかく》だ。乃《すなは》ち西郷南洲《さいがうなんしう》城山《しろやま》最期《さいご》の際《さい》さへも、薩軍《さつぐん》より南洲《なんしう》助命《じよめい》の使節《しせつ》を、官軍《くわんぐん》に送《おく》りたる事《こと》あれば、勝家《かついへ》自身《じしん》は兎《と》も角《かく》、城中《じやうちゆう》より開城《かいじやう》の條件《でうけん》として、此事《このこと》を持出《もちいだ》したるも、未《いま》だ知《し》る可《べ》からずだ。而《しか》して秀吉《ひでよし》の帷幄《ゐあく》にも、之《これ》を賛成《さんせい》した者《もの》があつたやも、未《いま》だ知《し》る可《べ》からずだ。但《た》だ勝家《かついへ》を助《たす》くるは、池邊《ちへん》に毒蛇《どくじや》を放《はな》ち、庭前《ていぜん》に虎《とら》を養《やしな》ふ如《ごと》しとの意見《いけん》、勝《かち》を制《せい》し、遂《つひ》には急劇《きふげき》に、之《これ》を攻《せ》め落《おと》すことに一|決《けつ》したのであらう。
秀吉《ひでよし》は信長《のぶなが》とは違《ちが》ひ、頗《すこぶ》る其《そ》の敵《てき》に對《たい》して、寛大《くわんだい》であつた。然《しか》も勝家《かついへ》と、信孝《のぶたか》とに對《たい》しては、決《けつ》して寛大《くわんだい》の美徳《びとく》を、發揮《はつき》したと云《い》はれない。此《こ》れは彼等《かれら》に對《たい》して、舊怨《きうゑん》を修《をさ》めたるが爲《た》め乎《か》、將《は》た彼等《かれら》の材能《ざいのう》を憚《はゞか》りたる爲《た》め乎《か》。何《いづ》れにもせよ秀吉《ひでよし》は、勝家《かついへ》を活《いか》し置《お》く可《べ》き了見《れうけん》は、少《すこ》しもなかつた。彼《かれ》は勝者《しようしや》の權《けん》を、此際《このさい》は飽迄《あくまで》利用《りよう》する覺悟《かくご》であつた。

[#5字下げ][#中見出し]【四七】北莊の陷落(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

柴田《しばた》は恐《おそ》らく柳瀬《やながせ》敗走《はいそう》の際《さい》より、萬事《ばんじ》休矣《きうす》と觀念《くわんねん》したのであらう。彼《かれ》は進撃《しんげき》よりも、寧《むし》ろ防守《ばうしゆ》に、防守《ばうしゆ》よりも、寧《むし》ろ如何《いか》に死花《しにばな》を咲《さか》す可《べ》きかと、掛念《けねん》した。されば二十三|日《にち》の夜《よ》は、秀吉《ひでよし》の攻圍中《こうゐちゆう》にあるに拘《かゝは》らず。北莊城中《きたのしやうじやうちゆう》の上下《しやうか》を擧《あ》げて、何《いづ》れも樂《たの》しき酒宴《しゆえん》をした。
[#ここから1字下げ]
勝家《かついへ》|不[#レ]及[#レ]力《ちからおよばずして》|入[#二]天守[#一]《てんしゆにいり》、|呼[#二]双年來所[#レ]頼股肱臣八十餘人[#一]《ねんらいたのむところのここうのしんはちじふよにんをよびならべ》、勝家運命《かついへのうんめい》明日《みやうにちに》相究《あひきはまる》。今夜《こんや》|及[#レ]曙《あくるにおよび》|成[#二]酒宴遊興[#一]《しゆえんいうきようをなし》、|可[#レ]惜[#二]餘波[#一]《なごりををしむべしとて》、勝家《かついへ》|取[#レ]盃《さかづきをとり》、一族《いちぞく》一家《いつけ》次第々々《しだい/\に》酌流《くみながす》。〔柴田退治記〕[#「〔柴田退治記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
柴田《しばた》の最後《さいご》は、何《なん》となく十一|年《ねん》前《ぜん》の、朝倉《あさくら》の最後《さいご》を聯想《れんさう》せしむる。朝倉《あさくら》は江越《かうゑつ》の堺《さかひ》に出兵《しゆつぺい》し、一|支《さゝへ》も支《さゝ》へず、一|乘谷《じようがたに》に蹈《ふ》み止《とゞま》り、城《しろ》を枕《まくら》に討死《うちじに》することさへ能《あた》はず。宛《あたか》も猛犬《まうけん》に驅《か》られたる弱兎《じやくと》の如《ごと》き、みじめなる最後《さいご》を遂《と》げた。柴田《しばた》の徑路《けいろ》も、略《ほ》ぼ同《どう》一ではあるが、併《しか》し彼《かれ》は北莊《きたのしやう》に籠城《ろうじやう》し、寄手《よせて》を咫尺《しせき》の地《ち》に控《ひか》へ、心《こゝろ》靜《しづ》かに其《そ》の勇士《ゆうし》、郎等《らうとう》と與《とも》に、潔《いさぎよ》き最後《さいご》を遂《と》げた。特《とく》に彼《かれ》の最後《さいご》を文《かざ》るものは、其《そ》の夫人《ふじん》お市《いち》の方《かた》の殉死《じゆんし》である。彼女《かれ》は信長《のぶなが》の妹《いもうと》、淺井長政《あさゐながまさ》の寡婦《くわふ》で、絶世《ぜつせい》の美人《びじん》であつた。
[#ここから1字下げ]
勝家《かついへ》小谷《をだに》の御方《おんかた》に|被[#レ]申《まをされ》ける。御身《おんみ》は信長公《のぶながこう》の御妹《おんいもうと》なれば、出《いで》させ給《たま》へ、恙《つつが》もおはしますまじきと有《あり》しかば、小谷御方《をだにのおんかた》涙《なみだ》ぐませ給《たま》うて、去《いぬる》秋《あき》の終《をは》り、岐阜《ぎふ》よりまゐり、斯《かく》見《み》えぬる事《こと》も、前世《ぜんせ》の宿業《しゆくがふ》、今更《いまさら》驚《おどろ》くべきにあらず、此處《ここ》を出去《いでさ》らん事《こと》、思《おも》ひもよらず候《さふらふ》。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
又《ま》た柴田退治記《しばたたいぢき》にも、
[#ここから1字下げ]
小谷御方《をだにのおんかたは》勝家《かついへの》|雖[#レ]爲[#二]妻女[#一]《さいぢよたりといへども》、將軍《しやうぐんの》御一類而《ごいちるゐにして》所縁《しよえん》多《おほし》。殊更《ことさら》秀吉者《ひでよしは》、|至[#二]相公後縁[#一]《しやうこう/\えんにいたつて》、憐愍《れんみん》|無[#レ]不[#二]相親[#一]者《あひしたしまざるなきもの》、明朝《みやうてう》敵陣《てきぢんに》按内《あんないし》落給《おちたまふも》、|有[#二]何妨[#一]乎《なんのさまたげかあらんや》。|同[#二]其儀[#一]給《そのぎにどうじたまはゞ》、慥《たしかに》|打[#下]語可[#二]送屆[#一]由[#上]《おくりとゞくべきよしをうちかたらふ》。小谷御方《をだにのおんかた》|不[#二]聞敢[#一]泣《きゝあへずしてなく》、洵《まことに》一樹陰《いちじゆのかげ》、一河流《いちがのながれも》|依[#二]他生縁[#一]《たしやうのえんによる》、况《いはんや》我《われ》多年《たねん》契乎《ちぎりたるをや》。冥途《めいど》黄泉《くわうせん》|誓[#二]末從[#一]《まつじゆうをちかふ》。|雖[#レ]爲[#二]女人[#一]《によにんたりといへども》意《こゝろは》|不[#レ]可[#レ]劣[#二]男子[#一]《なんしにおとるべからず》、諸共《もろともに》自害《じがいし》同《おなじく》|相[#二]對蓮臺[#一]事《れんだいにあひたいせんこと》|所[#レ]希也《こひねがふところなり》。其後《そのゝち》|成[#二]昔語[#一]《むかしがたりをなし》、閑然而《かんぜんとして》少《しばし》眞眠程《まどろむほどに》、半天《はんてん》|聞[#二]杜鵑音信[#一]《とけんのいんしんをきく》。
[#ここから2字下げ]
さらぬだに打《うち》ぬるほども夏《なつ》の夜《よ》の、夢路《ゆめぢ》をさそふ時鳥《ほとゝぎす》かな。(小谷御方)[#「(小谷御方)」は1段階小さな文字]
夏《なつ》の夜《よ》の夢路《ゆめぢ》はかなき跡《あと》の名《な》を、雲井《くもゐ》にあげよ山郭公《やまほとゝぎす》。(勝家)[#「(勝家)」は1段階小さな文字]
[#ここから1字下げ]
|如[#レ]此《かくのごとく》讀替《よみかはしたる》心程《こゝろのほど》|可[#二]想像[#一]《さう/″\すべし》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》の文《ぶん》には、お市夫人《いちふじん》の言葉《ことば》として、多年《たねん》の契《ちぎり》とあるも、彼女《かれ》が岐阜《ぎふ》より柴田《しばた》に嫁《か》したるは、天正《てんしやう》十|年《ねん》の九|月《ぐわつ》なれば、未《いま》だ一|年《ねん》にも滿《み》たぬのぢや。されど彼女《かれ》は、曾《かつ》て十一|年《ねん》前《ぜん》(天正元年八月)[#「(天正元年八月)」は1段階小さな文字]其夫《そのをつと》淺井長政《あさゐながまさ》の沒落《ぼつらく》に際《さい》して、其《そ》の三|人《にん》の女兒《ぢよじ》と與《とも》に、小谷城《をだにじやう》を出《い》でた。然《しか》も今《いま》や既《すで》に三十七|歳《さい》である。彼女《かれ》が此際《このさい》其《そ》の經驗《けいけん》を、繰《く》り返《かへ》さなかつたのは、流石《さすが》に賢明《けんめい》な仕方《しかた》であつた。
然《しか》も彼女《かれ》は其《そ》の連子《つれこ》たる、三|人《にん》の女兒丈《ぢよじだけ》は、勝家《かついへ》に乞《こ》うて、出城《しゆつじやう》せしめた。其《そ》の長女《ちやうぢよ》が他日《たじつ》秀吉《ひでよし》の副妻《ふくさい》淀君《よどぎみ》、二|女《ぢよ》が京極高次《きやうごくたかつぐ》の室《しつ》常高院《じやうかうゐん》、三|女《ぢよ》が二|代《だい》將軍《しやうぐん》徳川秀忠《とぐがはひでたゞ》の室《しつ》、三|代《だい》將軍《しやうぐん》家光《いへみつ》の母《はゝ》崇源院《すうげんゐん》であることは、今更《いまさ》ら云《い》ふ迄《まで》もない。彼女《かれ》は美人薄命《びじんはくめい》と云《い》ひつゝも、其《そ》の三|人《にん》の女兒《ぢよじ》によりて、其跡《そのあと》は、後《のち》に愈《いよい》よ聞《きこ》ゆることゝなつた。
扨《さて》も秀吉《ひでよし》は、二十四|日《か》午前《ごぜん》四|時《じ》より、諸隊《しよたい》をして、一|切《さい》進撃《しんげき》せしめた。正午《しやうご》には遂《つ》ひに、内城《ないじやう》に入《はひ》つた。勝家《かついへ》は天守閣《てんしゆかく》に據《よ》りて、最後迄《さいごまで》奮鬪《ふんとう》した。秀吉《ひでよし》は槍手《さうしゆ》を選拔《せんばつ》して、突入《とつにふ》せしめた。午後《ごご》四|時《じ》、勝家《かついへ》は閣《かく》を火《や》き、切腹《せつぷく》した。其《そ》の夫人《ふじん》、及《およ》び老臣等《らうしんら》の之《これ》に殉《じゆん》ずる者《もの》、八十|餘《よ》人《にん》であつた。而《しか》してさしも信長《のぶなが》によりて、繩張《なはば》りせられた北莊城《きやのしやうじやう》も、五|時《じ》に至《いた》りて全《まつた》く陷《おちい》つた。
[#ここから1字下げ]
秀吉《ひでよし》|從[#二]寅一點[#一]《とらのいつてんより》(午前二時)[#「(午前二時)」は1段階小さな文字]|相[#二]揃諸卒[#一]《しよそつをあひそろへ》|攻[#二]入城中[#一]《じやうちゆうにせめいる》。‥‥秀吉《ひでよし》下知而《げちして》|雜兵除[#レ]之《ざふひやうをしてこれをのぞかしめ》、|選[#二]出六具差固勇士數百人[#一]《ろくぐにさしかたむるゆうしすひやくにんをせんしゆつして》、手鑓《てやり》打物《うちもの》許《ばかりにて》|攻[#二]入天守内[#一]《てんしゆないにせめいらしむ》、勝家《かついへ》年來之武勇《ねんらいのぶゆう》、今《いま》|於[#レ]是乎相盡所也《こゝにおいてかあひつくるところなり》。‥‥勝家《かついへ》思切《おもひきり》引寄《ひきよせ》、引伏《ひきふせ》、一々《いち/\》差殺《さしころし》。|見[#二]勝家腹之切樣[#一]《かついへがはらのきりやうをみよと》、|差[#二]立弓手脇[#一]《ゆんでのわきにさしたて》、|引[#二]著右手背骨[#一]《めてをせぼねにひきつけ》、返《かへす》刀《かたなに》|自[#二]心下[#一]迄[#二]臍下[#一]訖《しんかよりほそしたまでをはんぬ》。|掻[#二]出五臟六腑[#一]《ござうろつぷをかきいだし》、|呼[#二]文荷[#一]《ぶんかをよび》(中村文荷齋)[#「(中村文荷齋)」は1段階小さな文字]|請[#レ]打[#レ]首《くびうつをこふ》、文荷《ぶんか》|廻[#レ]後《うしろにまはり》首丁打落《くびをちやうとうちおとし》、其太刀《そのたちにて》|切[#レ]腹《はらをきつて》死《しす》。其外《そのほか》股肱臣《ここうのしん》八十|餘人《よにん》、或差違《あるひはさしちがへ》、或自害《あるひはじがいす》。天正《てんしやう》十一|年《ねん》四|月《ぐわつ》廿四|日《か》申刻《さるのこく》(午後四時─五時)[#「(午後四時─五時)」は1段階小さな文字]|楯[#二]籠彼城[#一]《かのしろにたてこもる》柴田《しばたの》一|類《るゐ》、悉《こと/″\く》相果者也《あひはつるものなり》。〔柴田退治記〕[#「〔柴田退治記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
惟《おも》ふに柴田《しばた》は、實《じつ》に死處《ししよ》を得《え》たと云《い》はねばならぬ。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》と兩立《りやうりつ》せず、又《ま》た秀吉《ひでよし》に打勝《うちか》つ能《あた》はず。されば彼《かれ》としては、秀吉《ひでよし》の爲《た》めに滅《ほろぼ》さる可《べ》き、宿約《しゆくやく》ありと云《い》ふも、不可《ふか》なしだ。果《はた》して然《しか》らば、彼《かれ》の問題《もんだい》は、只《た》だ如何《いか》にして死《し》す可《べ》き乎《か》にあつた。彼《かれ》は一|死《し》の爲《た》めに、其《そ》の價値《かち》を揚《あ》げて居《を》らぬ、併《しか》し彼《かれ》の生前《せいぜん》に贏《か》ち得《え》たる、鬼柴田《おにしばた》の驍名《げうめい》は、死後迄《しごまで》も之《これ》を保持《ほぢ》し得《え》た。
          ―――――――――――――――
[#6字下げ][#小見出し]柴田勝家の末路[#小見出し終わり]

[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
廿三日[#割り注]○四月[#割り注終わり]之午前に攻皷などを止、[#割り注]○南軍[#割り注終わり]呼つて曰、昨日廿二日之夜、山中にて御子息權六殿[#割り注]○勝敏[#割り注終わり]、並玄蕃允生捕具して參候、アナ痛はしき御事にて有る由呼はりぬ、是より城中[#割り注]○北莊[#割り注終わり]ヒソマツテ音もせず、其後は請取し門々を防ぎ守る計にて、シカ々々鐵砲も撃たず、夜に入るとヒトシク、殿守之上にも下にも廣間其外櫓々抔にも酒宴始りけり、勝家盃に向ひつゝ、一族他家之人々を呼並て申されけるは、アノ藤吉猿冠者が爲めに斯く成果る事無念之次第、兎角《とかう》云にも及ばれず、所詮酒呑て明日は浮世の隙を曙の雲と消えなんとて、文荷齋[#割り注]○中村[#割り注終わり]其れ々々と有しかば、名酒の樽共數多置き並べ、種々の肴を出しつゝ酒宴こそ始めけれ、彌右衞門尉[#割り注]○柴田[#割り注終わり]に申付、何れの櫓々にも酒を呑候へと酒肴賜りしかば、何方も酒宴の聲々聞えけり、小谷の御方へ勝家|進《さ》し給へば、一二酌て又返し侍りけるに、匠作[#割り注]○勝家を指す[#割り注終わり]も數盃を傾け、文荷齋に進し給ふ、小島若狹守は酒宴の半にも四方を見廻つゝ、其シナ露心に忘れざりしかば、心を安んじ緩やかに酒をぞ愛しけり、盃も度々囘りければ、漸く終りなんとす、勝家、小谷の御方に被[#レ]申ける、御身は信長公の御妹なれば出させ給へ、恙も御座《おはし》マスまじきと在しかば、小谷御方涙組ませ給うて、去秋の終り、岐阜より參り、斯くマミエぬる事も前世之宿業、今更驚くべきに非ず、爰を出去らん事思ひも寄らず候、然は有れど三人の息女をば出し侍れよ、父の菩提をも聞かせ、又自らが跡をも弔れん爲ぞかしと宣へば、最と安き御事也とて其由姫君に申させ給ふ、姉君イヤとよ母上共に同じ道に行かんものをと啼悲み給ふを、文荷齋其譯をも不[#二]聞入[#一]御手を引立、三人を出し奉りぬ、夜半の鐘聲殿守に至りしかば、御二所深閨に入りぬ、彼四面楚歌の夜の夢、楚王虞氏が深き恨も斯くやと思ひ出にけり、何れも櫓々へ引入マドロまんとすれば、早や郭公雲井に音信《おとづ》れ、別れを催し侍るに さらぬだに打ぬる程も夏の夜の別を誘ふ郭公かな 小谷御方  夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲井に上げよ山郭公 勝家  文荷齋節義に當て不[#レ]變者なれば、同じ道に侍らんとて、契あれや涼しき道に伴ひて後の世までも仕へ々々む となん詠みければ、匠作猛き心も其れならず見えて、更に袖をぞ濕されける、小谷御方其外數々の女房達念誦稱名之聲哀れを留めけり、若狹守[#割り注]○小島[#割り注終わり]文荷齋、殿主の下にコミ草を積置き、豫ての用意殘る所も無く沙汰し置しかば、心靜かに火を掛、半は燃出るに及で雜人原をば出し、偖勝家の御座マシ侍る五重に上り、下は斯く仕廻申候、御心靜かに沙汰し給へと申上しかば、流石最期は善かりけり、男女三十餘人[#割り注]○一に云八十餘人[#割り注終わり]煙と立上りぬ、勝家之氣象常にしも違ふ事なく、其れ々々に感を成し、卯月二十四日申の刻にぞ終りける。〔甫菴太閤記〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
          ―――――――――――――――

[#5字下げ][#中見出し]【四八】柴田勝家[#中見出し終わり]

人《ひと》或《あるひ》は秀吉《ひでよし》と、勝家《かついへ》との勝敗《しようはい》を以《もつ》て、一に佐久間盛政《さくまもりまさ》が、勝《かち》を恃《たの》んで賤岳《しづがたけ》より、撤兵《てつぺい》せざりし事《こと》に歸《き》す。此《こ》れは佐久間《さくま》に取《と》りては、冤罪《ゑんざい》だ。勿論《もちろん》佐久間《さくま》が、勝家《かついへ》の誡《いましめ》を用《もち》ひず、自《みづ》から驕《おご》りて、秀吉《ひでよし》に大捷《たいせふ》の機《き》を與《あた》へたるは、間違《まちがひ》なき事實《じじつ》だ。併《しか》し勝家《かついへ》が秀吉《ひでよし》に到底《たうてい》致《いた》さる可《べ》きは、斷《だん》じて疑《うたがひ》を容《い》れぬ。必《かなら》ずしも此事《このこと》の有無《うむ》に關《くわん》しない。但《た》だ此事《このこと》は、秀吉《ひでよし》をして容易《ようい》に、其《そ》の目的《もくてき》を達《たつ》せしめたのだ。
元來《ぐわんらい》秀吉《ひでよし》と、勝家《かついへ》とは、角力《すまふ》にはならない。織田氏《おだし》の諸將校《しよしやうかう》の總《すべ》てを擧《あ》げ來《きた》るも、決《けつ》して秀吉《ひでよし》の敵《てき》ではない、况《いは》んや勝家《かついへ》をやだ。彼《かれ》は信長《のぶなが》の弟《おとうと》、信行《のぶゆき》に與《くみ》して、信長《のぶなが》を殺《ころ》さんと計《はか》り、後《のち》信長《のぶなが》に與《くみ》して、却《かへつ》て信長《のぶなが》をして、信行《のぶゆき》を殺《ころ》さしめた。彼《かれ》の履歴《りれき》は立派《りつぱ》とは云《い》へない。併《しか》し彼《かれ》は自《みづ》から誇《ほこ》る如《ごと》く、二十六|度《ど》の戰功《せんこう》ありて、信長《のぶなが》より禮《れい》を承《うけたまは》つた。〔利家夜話〕[#「〔利家夜話〕」は1段階小さな文字]
秀吉《ひでよし》を除《のぞ》けば、勝家《かついへ》は織田氏《おだし》の將校中《しやうかうちゆう》にて、傑出《けつしゆつ》の一と云《い》はねばならぬ。兎《と》も角《かく》も秀吉《ひでよし》を向《むか》ふに廻《まは》して、其《そ》の雌雄《しゆう》を決《けつ》せんとする、意氣込《いきごみ》ある者《もの》は、當時《たうじ》に於《おい》て、勝家《かついへ》を除《のぞ》けば殆《ほとん》ど一|人《にん》もなかつた。瀧川一益《たきがはかずます》や、佐々成政《さつさなりまさ》の如《ごと》きは、畢竟《ひつきやう》勝家《かついへ》を押《お》し立《た》てゝ、其《そ》の裡面《りめん》に在《あ》つて働《はたら》かんとしたに過《す》ぎぬ。彼等《かれら》自《みづ》から秀吉《ひでよし》と、天下《てんか》を爭《あらそ》ふ程《ほど》の規模《きぼ》も、氣魄《きはく》もある可《べ》き樣《やう》はなかつた。況《いは》んや其他《そのた》をやだ。
或《あるひ》は勝家《かついへ》の敗北《はいぼく》が、餘《あま》りに脆《もろ》かつたが爲《た》めに、勝家《かついへ》を愚將視《ぐしやうし》する者《もの》があるが、勝家《かついへ》は決《けつ》して愚將《ぐしやう》ではなかつた。彼《かれ》は信長《のぶなが》の出頭人《しゆつとうにん》たるを、辱《はづか》しめざる一|人《にん》であつた。信長《のぶなが》の將校《しやうかう》は、明智《あけち》でも、柴田《しばた》でも、皆《み》なそれ/″\取柄《とりえ》のある人物《じんぶつ》であつた。但《た》だ對手《あひて》が餘《あま》りに非凡《ひぼん》、傑出《けつしゆつ》の秀吉《ひでよし》であつたが爲《た》めに、彼等《かれら》のする事《こと》、なす事《こと》、悉《こと/″\》く皆《み》な莫迦《ばか》らしく成《な》り、間拔《まぬ》けて見《み》えたのだ。されば彼等《かれら》の平凡《へいぼん》を嗤《わら》ふりも、寧《むし》ろ秀吉《ひでよし》の非凡《ひぼん》を嘆賞《たんしやう》す可《べ》きであらう。
特《とく》に柴田《しばた》は、『勝家《かついへ》は若《わか》き時《とき》より、腹《はら》の惡《あ》しき事《こと》大方《おほかた》ならぬ人也《ひとなり》。』と甫菴太閤記《ほあんたいかふき》にも特筆《とくひつ》せられた通《とほ》り、有名《いうめい》な意地惡《いぢわる》であつた。されば秀吉《ひでよし》も、此《こ》の意地惡《いぢわる》とは、相得《あひえ》なかつたらしい。併《しか》し此《こ》の一|事《じ》に於《おい》ても、彼《かれ》が決《けつ》して、碌々者流《ろく/\しやりう》でなかつた事《こと》が判知《わか》る。何《なん》となれば、彼《かれ》が秀吉《ひでよし》を手《て》の中《うち》に丸《まる》める程《ほど》の、氣量《きりやう》はないとしても、秀吉《ひでよし》より手《て》の中《うち》に丸《まる》められぬ、氣量《きりやう》は有《あ》つたものと、云《い》はねばならぬからだ。
彼《かれ》は北陸《ほくろく》に於《お》ける織田家《おだけ》の探題《たんだい》として、決《けつ》して其《そ》の任命《にんめい》を辱《はづか》しめなかつた。而《しか》して治國《ちこく》の材《ざい》も、相應《さうおう》にあつた。
[#ここから1字下げ]
柴田殿《しばたどの》の儀《ぎ》、近年《きんねん》は威勢《ゐせい》盛《さかん》にして、北國《ほくこく》大形《おほかた》治《をさま》るに付《つき》、岐阜安土《ぎふあづち》の通路《つうろ》を近《ちか》くすべしとて、去《いぬ》る寅《とら》(天正六年)[#「(天正六年)」は1段階小さな文字]の年中《としちゆう》に、板取《いたとり》の宿《しゆく》(越前南條郡)[#「(越前南條郡)」は1段階小さな文字]より當國《たうごく》(近江)[#「(近江)」は1段階小さな文字]中河内椿坂《なかかはちつばきざか》(伊香郡)[#「(伊香郡)」は1段階小さな文字]に新道《しんだう》を造《つく》り、柳《やな》ヶ|瀬《せ》の宿《しゆく》へ直《たゞち》に相通《あひとほ》り、又《また》北《きた》ノ庄《しやう》の城郭《じやうくわく》を廣《ひろ》げ、殊《こと》に城下《じやうか》なる足羽川《あすはがは》に大橋《たいけう》を再興《さいこう》し、其上下國《そのじやうげこく》へ往還《わうくわん》黒龍川《こくりゆうがは》(九頭龍川)[#「(九頭龍川)」は1段階小さな文字]に始《はじめ》て、舟橋《ふなばし》を懸《か》け、人民《じんみん》を撫育《ぶいく》せらるゝの故《ゆゑ》、諸人《しよにん》萬歳《ばんざい》を唱《となふ》る由《よし》。〔明智軍記〕[#「〔明智軍記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
と云《い》ひ。又《ま》た彼《かれ》は越前《ゑちぜん》が元來《ぐわんらい》一|揆《き》流行地《りうかうち》にして、其《そ》の禍機《くわき》の、武器《ぶき》の民衆《みんしゆう》の間《あひだ》に、散布《さんぷ》するに存《そん》するを認《みと》め、之《これ》を回收《くわいしう》す可《べ》く、命令《めいれい》を下《くだ》した。
[#ここから1字下げ]
郷民等《がうみんら》委細《ゐさい》承《うけたまは》り、若《も》し遲參《ちさん》に及《およ》びなば、思召《おぼしめし》の程《ほど》如何《いかゞ》とて、鎧《よろひ》、甲《かぶと》、射鞴《こて》、小具足《こぐそく》、弓矢《ゆみや》、鐵砲《てつぱう》、長刀《なぎなた》、太刀《たち》、轡《くつわ》、鞍《くら》、鐙《あぶみ》の類《るゐ》、己々《おのれ/\》が村井《むらゐど》を穿鑿《せんさく》し、或《あるひ》は武道具《ぶだうぐ》微少《びせう》の里々《さと/″\》は、買求《かひもと》め抔《など》して、我《われ》劣《おと》らじと北庄城《きたのしやうじやう》へ持參《ぢさん》致《いた》しけるに因《よ》り、集《あつま》る所《ところ》の兵具《ひやうぐ》、幾《いく》千|萬《まん》と云《いふ》、|不[#レ]知[#レ]數《かずをしらず》、誠《まこと》に山《やま》の如《ごと》くに積上《つみあげ》たり。則《すなはち》其道具《そのだうぐ》を吟味《ぎんみ》有《あつ》て、能《よ》き物《もの》をば城内《じやうない》に納《をさ》め、其外《そのほか》は鐡代《てつだい》として鍛冶《かぢ》を召寄《めしよ》せ、農具共《のうぐども》に打直《うちなほ》させ、人民《じんみん》に與《あた》へ、或《あるひ》は城郭《じやうくわく》の鐡金物《てつかなもの》に拵《こしら》へ、又《また》は黒龍《こくりゆう》(九頭龍川)[#「(九頭龍川)」は1段階小さな文字]舟橋《ふなばし》の※[#「金+樔のつくり」、第4水準2-91-32]《くさり》に、鍛《きた》はせられにけり。恁《かゝ》りしかば、國中《こくちゆう》彌《いよ/\》靜謐《せいひつ》して、一|揆《き》の沙汰《さた》なく、成《なり》にける。智謀《ちぼう》の程《ほど》こそ淺《あさ》からね。〔明智軍記〕[#「〔明智軍記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
と云《い》ふが如《ごと》き、何《いづ》れも彼《かれ》が治國《ちこく》の機略《きりやく》あるを、證《しよう》す可《べ》きぢや。而《しか》して彼《かれ》は外交《ぐわいかう》の掛引《かけひき》に於《おい》ても、相應《さうおう》の手腕《しゆわん》はあつた。其《そ》の東《ひがし》は家康《いへやす》に結《むす》び、西《にし》は毛利《まうり》に結《むす》び、※[#「特のへん+奇」、U+7284、239-13]角《きかく》の勢《いきほひ》を以《もつ》て、秀吉《ひでよし》を扼《やく》せんと企《くはだ》てたるが如《ごと》き、事《こと》は就《な》らなかつたと雖《いへど》も、其志《そのこゝろざし》は見《み》る可《べ》きではない乎《か》。
[#ここから1字下げ]
拙者《せつしや》九|日《か》(天正十一年三月)[#「(天正十一年三月)」は1段階小さな文字]に|至[#二]江北[#一]《かうほくにいたり》、|可[#レ]致[#二]著陣[#一]候《ちやくぢんいたすべくさふらふ》。勢州《せいしう》面《おもて》に|於[#二]相溜[#一]者《あひたまるにおいては》、悉《こと/″\く》|可[#二]討果[#一]候《うちはたすべくさふらふ》。敗北勿論候《はいぼくもちろんにさふらふ》。藝州《げいしう》(毛利)[#「(毛利)」は1段階小さな文字]に|被[#レ]成[#二]上意[#一]《じやういなされ》、片時《へんじ》も早《はや》く御動座御尤《ごどうざごもつとも》に候《さふらふ》。調略相揃候條《てうりやくあひとゝのひさふらふのでう》、御入洛《ごじゆらく》此時候《このときにさふらふ》。間遠儀候間《まどほきぎにさふらふあひだ》、手筈《てはず》|於[#二]相違[#一]者《さうゐするにおいては》、|不[#レ]可[#レ]有[#二]其曲[#一]候《そのきよくあるべからずさふらふ》。北國者《ほくこくは》雪《ゆき》消《きえ》並《ならびに》雨降《あめふり》候處《さふらふ》、大河共《たいがども》水《みづ》出《いで》、中々《なか/\》四五|月《ぐわつを》出迄者《いづるまでは》、輙《たやすく》人馬之《じんばの》通《かよひ》、人數《にんず》働等《はたらきとう》、|雖[#下]不[#二]相叶[#一]無理此分候[#上]《あひかなはずむりこのぶんにさふらふといへども》、四ヶ|國之《こくの》人數《にんず》引率《いんそつして》、終《つひに》出立《しゆつたつす》、手前《てまへ》|不[#レ]可[#レ]有[#二]御機遣[#一]候《おんきづかひあるべからずさふらふ》。能《よく》|被[#レ]達[#二]上聞[#一]《じやうぶんにたつせられ》、藝州《げいしう》小早川《こばやかは》、吉川《きつかは》、最前《さいぜん》御請《おんうけの》筈《はず》|無[#二]相違[#一]《さうゐなく》、早速《さつそく》先《まづ》勢《ぜいを》|被[#レ]出《いだされ》、即《すなはち》|被[#レ]進[#二]御動座[#一]專用候《ごどうざをすゝめらるゝことせんようにさふらふ》。遲々《ちゝ》に罷成候而者《まかりなりさふらうては》、|不[#レ]可[#レ]有[#二]其詮[#一]候《そのせんあるべからずさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れ勝家《かついへ》が、秀吉《ひでよし》の伊勢《いせ》に瀧川《たきがは》征伐《せいばつ》に出掛《でか》けたるを聞《き》き、無理《むり》に積雪《せきせつ》を掃除《さうぢよ》し、其兵《そのへい》を柳瀬《やながせ》に出《いだ》すに際《さい》し、毛利《まうり》に出兵《しゆつぺい》を促《うなが》し、及《およ》び足利義昭《あしかゞよしあき》に、上洛《じやうらく》を勸《すゝ》む可《べ》く、義昭《よしあき》の近臣《きんしん》眞島玄蕃頭《まじまげんばのかみ》に與《あた》へたる、書中《しよちゆう》の一|節《せつ》である。
然《しか》も如何《いかん》せむ、秀吉《ひでよし》は山崎合戰《やまざきかつせん》の捷報《せふはう》を家康《いへやす》に※[#「言+念」、第4水準2-88-65]《つ》げ、一|通《とほ》りの渡《わた》りを附《つ》け、毛利《まうり》とは高松城以來《たかまつじやういらい》、既《すで》に握手《あくしゆ》して居《を》る。勝家《かついへ》の外交術《ぐわいかうじゆつ》も、秀吉《ひでよし》に對《たい》しては、殆《ほと》んど施《ほどこ》すべき餘地《よち》がなかつたのぢや。

[#5字下げ][#中見出し]【四九】柳瀬役の影響(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》の運動《うんどう》は、極《きは》めて神速《しんそく》であつた。彼《かれ》は北莊城《きたのしやうじやう》陷落《かんらく》の翌日《よくじつ》、即《すなは》ち四|月《ぐわつ》二十五|日《にち》、直《たゞ》ちに加賀《かが》に向《むか》つた。
[#ここから1字下げ]
廿五|日《にち》秀吉《ひでよし》賀州《がしうに》|有[#二]出馬[#一]《しゆつばあり》、叛者《そむくものは》|討[#レ]之《これをうち》降者《くだるものは》|近[#レ]之《これをちかづく》、山川澗岳《さんせんかんがく》、難所之地《なんしよのち》|如[#二]草葉隨[#一レ]風《さうえふのかぜにしたがふがごとく》、一篇歸服《いつぺんにきふくす》。故《ゆゑに》越中《ゑつちゆうの》境目《さかひめ》金澤城滯留《かなざはじやうにたいりうし》、北陸《ほくろく》新屬之國々《しんぞくのくに/″\の》|改[#レ]掟《おきてをあらため》|專[#二]政道[#一]《せいだうをもつぱらにす》。其刻《そのとき》越後《ゑちごの》守護《しゆご》長尾喜平次景勝《ながをきへいじかげかつ》、秀吉《ひでよしに》|成[#レ]降《かうをなし》、|屬[#二]幕下[#一]之條《ばくかにぞくするのでう》、|取[#二]人質[#一]《ひとじちをとり》、五|月《ぐわつ》十七|日《にち》|至[#二]安土[#一]者也《あづちにいたるものなり》。〔柴田退治記〕[#「〔柴田退治記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
秀吉《ひでよし》は尾山城《をやまじやう》(金澤)[#「(金澤)」は1段階小さな文字]に入《い》り、加賀《かが》、能登《のと》の諸城《しよじやう》、皆《み》な風《ふう》を望《のぞ》んで降《くだ》つた。此《こゝ》に於《おい》て取《と》り敢《あ》へず、前田利家《まへだとしいへ》に佐久間盛政《さくまもりまさ》の舊領《きうりやう》たる、加賀《かが》の二|郡《ぐん》石川《いしかは》、河北《かはきた》を加封《かほう》した。
富山《とやま》の城主《じやうしゆ》、佐々成政《さつさなりまさ》は、無《む》二の柴田方《しばたがた》であつたが、上杉《うへすぎ》押《おさへ》の爲《た》めに、出兵《しゆつぺい》せなかつた。然《しか》るに柴田《しばた》は敗死《はいし》し、加能《かのう》二|國《こく》も悉《こと/″\》く秀吉《ひでよし》の旗下《きか》に屬《ぞく》したれば、今《いま》は抵抗《ていかう》す可《べ》き由《よし》もなく、秀吉《ひでよし》に降參《かうさん》し、其《そ》の次女《じぢよ》を利家《としいへ》の二|男《なん》利政《としまさ》に嫁《か》せんことを約《やく》し、本領《ほんりやう》を安堵《あんど》した。而《しか》して秀吉《ひでよし》は、四|月《ぐわつ》廿九|日《にち》、使《つかひ》を越後《ゑちご》に遣《つかは》し、上杉景勝《うへすぎかげかつ》の盟約《めいやく》を徴《ちよう》した。景勝《かげかつ》も之《これ》を諾《だく》し、大石播磨守《おほいしはりまのかみ》を使《つかひ》とし、其《そ》の戰捷《せんせふ》を賀《が》した。
此《かく》の如《ごと》く秀吉《ひでよし》は、甘《うま》く勝利《しようり》の餘勢《よせい》を利用《りよう》し、戰《たゝか》はずして、北莊以北《きたのしやういほく》の地《ち》を平定《へいてい》し、五|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、北莊《きたのしやう》に歸《かへ》り、越前《ゑちぜん》を丹羽長秀《にはながひで》に加封《かほう》し、加賀《かが》の江沼郡《えぬまごほり》を、溝口秀勝《みぞぐちひでかつ》に、能美郡《のみごほり》を舊《きう》に仍《よ》りて、村上義明《むらかみよしあき》に與《あた》へ、共《とも》に長秀《ながひで》に屬《ぞく》せしめた。又《ま》た毛受家照《めんじゆいへてる》の遺族《ゐぞく》を祿《ろく》し、五|日《か》長濱《ながはま》に至《いた》り、七|日《か》安土《あづち》に、十一|日《にち》坂本《さかもと》に駐《とゞま》つた。〔日本戰史、柳瀬役〕[#「〔日本戰史、柳瀬役〕」は1段階小さな文字]
却説《さて》、織田信孝《おだのぶたか》は、柴田《しばた》と相應《あひおう》じて、秀吉《ひでよし》を挾撃《けふげき》せんとしたが、却《かへつ》て四|月《ぐわつ》十七|日《にち》に、秀吉《ひでよし》の爲《た》めに逆撃《ぎやくげき》せられ。爾來《じらい》柳瀬《やながせ》の敗報《はいはう》に接《せつ》し、士氣沮喪《しきそさう》の折《をり》から、稻葉《いなば》一|鐡等《てつら》の兵《へい》、逼《せま》り來《きた》り、其《そ》の將士中《しやうしちゆう》にて、一|鐡《てつ》の姪《をひ》たる齋藤利堯《さいとうとしたか》、稻葉刑部少輔等《いなばぎやうぶせういうら》、皆《み》な一|鐡《てつ》によりて秀吉《ひでよし》に降《くだ》り、城兵《じやうへい》は遁逃《とんたう》し、留《とゞま》り從《したが》ふ者《もの》は、僅《わづ》かに二十七|人《にん》となつた。此《こゝ》に於《おい》て信孝《のぶたか》は城《しろ》を出《い》でゝ|長良川《ながらがは》より舟《ふね》に搭《たふ》じ、木曾川《きそがは》を下《くだ》つて、野間《のま》に赴《おもむ》いた。
[#ここから1字下げ]
三七|信孝《のぶたか》、柴田《しばた》をこそ頼《たの》み給《たま》ひしに、亡《ほろび》にしかば、草木《くさき》の根《ね》を絶《たゝ》れし樣《やう》にて、郎從《らうじゆう》ども皆《みな》落《おち》て失《うせ》。日比《ひごろ》惠《めぐみ》の深《ふか》かりしもの計《ばかり》殘《のこ》り留《とゞま》れり。三|介信雄《すけのぶを》、尾張《をはり》の勢《ぜい》を具《ぐ》して、城《しろ》を圍《かこ》み給《たま》ひぬ。使《つかひ》を走《はし》らかし、尾張《をはり》のかたに御座《ござ》せよと、たばかり給《たま》へば、城《しろ》を出《いで》、川舟《かはふね》に乘《のり》て、知田《ちた》(多)[#「(多)」は1段階小さな文字]の宇津美《うつみ》に御座《おはせ》し也《なり》。信雄《のぶを》のずさ中川勘右衞門《なかがはかんうゑもん》主《ぬし》を遣《つか》はし、自害《じがい》し給《たま》へとありしかば、兼《かね》てかくこそと思《おも》ひしとて、靜《しづか》に事《こと》どもしたためおき、手《て》づから刀《かたな》の刄《やいば》かき合《あは》せ、自害《じがい》ありけり。〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《かく》の如《ごと》く、五|月《ぐわつ》二|日《か》信雄《のぶを》は、其士《そのし》中川雄忠《なかがはたかたゞ》を遣《つかは》し、逼《せま》りて信孝《のぶたか》に切腹《せつぷく》せしめた。彼《かれ》は二十六|歳《さい》であつた。彼《かれ》は信雄《のぶを》の優柔《いうじう》、庸劣《ようれつ》に比《ひ》して、較※[#二の字点、1-2-22]《やゝ》英武《えいぶ》であつた。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》の聊《いさゝ》か畏憚《ゐたん》したる所《ところ》であつた。されば秀吉《ひでよし》は信雄《のぶを》の手《て》を藉《か》りて、先《ま》づ此《こ》の厄介物《やくかいもの》を除《のぞ》いたのだ。而《しか》して淺墓《あさはか》なる信雄《のぶを》は、次《つ》ぎに其禍《そのわざはひ》の己《おのれ》に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53]《およ》ぶ可《べ》きを、覺《さと》らなかつた。併《しか》し信雄《のぶを》が豐臣《とよとみ》、徳川《とくがは》の間《あひだ》を通《つう》じて、幾多《いくた》の曲折《きよくせつ》を經《へ》つつも、遂《つひ》に其《そ》の天命《てんめい》を全《まつた》うしたる所以《ゆゑん》は、恐《おそ》らくは彼《かれ》の優柔《いうじう》、庸劣《ようれつ》の爲《た》めであつたらう。若《も》し信雄《のぶを》にして、信孝《のぶたか》の如《ごと》くあらしめば、彼《かれ》は固《もと》より、俎上《そじやう》の肉《にく》となつたに相違《さうゐ》あるまい。
然《しか》も若《も》し彼等兄弟《かれらきやうだい》、毛利氏《まうりし》の兄弟《きやうだい》の如《ごと》く、心《こゝろ》を協《あは》せ力《ちから》を一にし、深謀遠慮《しんぼうゑんりよ》、以《もつ》て其事《そのこと》に從《したが》はゞ、縱令《たとひ》天下《てんか》は他人《たにん》の手《て》に歸《き》するも、彼等《かれら》亦《また》雄藩《ゆうはん》の一として、其《そ》の位置《ゐち》を保持《ほぢ》し得《え》たであらう。秀吉《ひでよし》は決《けつ》して無理《むり》をせぬ男《をとこ》だ。彼《かれ》は抵抗力《ていかうりよく》の多《おほ》き點《てん》は、寧《むし》ろ回避《くわいひ》して、其《そ》の少《すくな》き點《てん》に乘《じよう》ずる男《をとこ》だ。吾人《ごじん》は秀吉《ひでよし》が、織田家《おだけ》の遺孤《ゐこ》に對《たい》して、不人情《ふにんじやう》なるを咨《とが》むるよりも、信雄《のぶを》、信孝《のぶたか》兩人《りやうにん》が、互《たが》ひに相反目《あひはんもく》し、相※[#「爿+戈」、第4水準2-12-83]賊《あひしやうぞく》したるを、遺憾《ゐかん》とせざるを得《え》ないのだ。
秀吉《ひでよし》の行動《かうどう》に就《つい》ては、天下《てんか》概《おほむ》ね其《そ》の不臣《ふしん》を咎《とが》め、僭越《せんゑつ》を尤《とが》む。但《た》だ山鹿素行《やまがそかう》は曰《いは》く、
[#ここから1字下げ]
秀吉《ひでよし》毛利《まうり》和談《わだん》、山崎合戰《やまざきかつせん》、清洲會盟《きよすくわいめい》の時《とき》、豈《あに》天下《てんか》を奪《うばふ》の志《こゝろざし》あらんや。唯《たゞ》信義《しんぎ》の向所《むかふところ》、|不[#レ]得[#レ]止《やむをえざる》の道《みち》を以《もつ》てするのみ。天下《てんか》の大事《だいじ》を終《をは》りて而後《しかしてのち》に、信雄《のぶを》、信孝《のぶたか》の公達《きんだち》、勝家《かついへ》、一益等《かずますら》の舊臣《きうしん》の作略《さくりやく》、悉《こと/″\く》相違《さうゐ》して、信義《しんぎ》ともにかけ、正道《せいだう》こゝに暗《くら》く、智謀《ちぼう》尤《もつとも》疎《そに》して、天下《てんか》を併呑《へいどん》するに、手間入《てまい》るべからざるを考《かんが》へて、遂《つひ》に秀吉《ひでよし》天下《てんか》の競望《きやうばう》をなせり。秀吉《ひでよし》の此《これ》を奪《うばふ》にあらず、信雄《のぶを》、信孝《のぶたか》の自《みづから》|與[#レ]之也《これをあたふるなり》。〔武家事紀〕[#「〔武家事紀〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れ實《じつ》に秀吉側《ひでよしがは》に於《お》ける、有力《いうりよく》なる辯護説《べんごせつ》である。而《しか》して吾人《ごじん》も大體《だいたい》に於《おい》て、之《これ》を是認《ぜにん》せざるを得《え》ない。但《た》だ秀吉《ひでよし》が、天下《てんか》に志《こゝろざし》ありたるは、信長《のぶなが》遭難後《さうなんご》、必然《ひつぜん》の事《こと》にして、信義《しんぎ》の向《むか》ふ所《ところ》、止《や》むを得《え》ざるの一|句《く》を以《もつ》て、之《これ》を概括《がいくわつ》し去《さ》りたるは、秀吉《ひでよし》彼自身《かれじしん》に於《おい》ても、寧《むし》ろ心外《しんぐわい》千|萬《ばん》であらう。

[#5字下げ][#中見出し]【五〇】柳瀬役の影響(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

若《も》し中國役《ちゆうごくえき》に於《おい》て、秀吉《ひでよし》の位置《ゐち》が、柴田《しばた》、丹羽《には》、瀧川等《たきがはら》を壓《あつ》して進《すゝ》ましめたならば、山崎役《やまざきえき》は、確《たし》かに秀吉《ひでよし》をして、彼等《かれら》の上《うへ》に聳《そび》えしめたのだ。而《しか》して柳瀬役《やながせえき》に至《いた》りては、全《まつた》く秀吉《ひでよし》をして、信長《のぶなが》の衣鉢《いはつ》を相續《さうぞく》せしめたのだ。如何《いか》に秀吉《ひでよし》が、此際《このさい》に於《おい》て意氣昂揚《いきかうやう》したるかは、天正《てんしやう》十一|年《ねん》四|月《ぐわつ》十二|日《にち》附《づけ》の、毛利輝元《まうりてるもと》に對《たい》する返書中《へんしよちゆう》に、
[#ここから1字下げ]
前々《まへ/\》せがれの時《とき》さへ、信長《のぶなが》|於[#二]家中[#一]《かちゆうにおいて》は、秀吉《ひでよし》まねを|可[#レ]仕者無[#レ]之候《つかまつるべきものこれなくさふらひ》つる。唯今之儀《たゞいまのぎ》は、中々《なか/\》|於[#二]板東目[#一]《ばんどうめにおいて》筑前守《ちくぜんのかみ》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]少茂《すこしも》|可[#二]立合[#一]者《たちあふべきもの》|無[#レ]之《これなき》に付《つき》、人數之儀《にんずのぎ》は、八|幡大《まんだい》□我等《われら》恣《ほしいまゝ》に御座候間《ござさふらふあひだ》。|可[#二]御心安[#一]候《おこゝろやすかるべくさふらふ》、猶以《なほもつて》播州《ばんしう》より西之事《にしのこと》は|不[#レ]存《ぞんぜず》、|於[#レ]東《ひがしにおいて》は津輕《つがる》、今浦《いまうら》、外濱迄《そとがはままで》、我等《われら》鑓先《やりさきに》|可[#二]相堪[#一]候樣《あひこらへべくさふらふやう》、|依[#レ]無[#レ]之《これなきにより》、羽柴《はしば》|應[#レ]鞭《むちにおうじて》先《まづ》隙明候間《ひまあきさふらふあひだ》、|可[#二]御心安[#一]候《おこゝろやすかるべくさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
と云《い》うて居《を》るにて判知《わか》る。之《こ》れは秀吉《ひでよし》が、柴田《しばた》と江越《かうゑつ》の堺《さかひ》に於《おい》て、持久戰《ぢきうせん》を營《いとな》みつゝ、岐阜《ぎふ》に赴《おもむ》く以前《いぜん》、長濱《ながはま》よりの發信《はつしん》である。又《ま》た約《やく》一|個月《かげつ》、即《すなは》ち五|月《ぐわつ》十五|日《にち》附《づけ》、坂本城《さかもとじやう》より、小早川隆景《こばやかはたかかげ》に與《あた》へたる返書《へんしよ》は、柳瀬役《やながせえき》の顛末《てんまつ》を縷述《るじゆつ》して、最《もつと》も痛快《つうくわい》を極《きは》めて居《を》る。例《れい》せば、
[#ここから1字下げ]
一、柴田《しばた》に息《いき》をつがせ候《さふらう》ては、手間《てま》も|可[#レ]入《いるべき》かと存《ぞんじ》、日本之治《にほんのち》、此時《このとき》に候條《さふらふでう》、兵《へい》をも討死《うちじに》させ候《さふらう》て、筑前守《ちくぜんのかみ》不覺《ふかく》にては有間敷《あるまじく》と存《ぞんじ》、|與[#レ]風《ふと》思切《おもひきり》、廿四|日《か》寅《とら》の刻《こく》、本城《ほんじやう》へ取掛《とりかゝり》、午《うま》の刻《こく》に乘入《のりいれ》、悉《こと/″\く》|刎[#レ]首候事《くびをはねさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
の如《ごと》き、如何《いか》にも秀吉《ひでよし》の心意氣《こゝろいき》を、説明《せつめい》し得《え》て妙《めう》だ。『日本之治《にほんのち》此時《このとき》に候《さふらふ》』の一|句《く》、秀吉《ひでよし》が此《こ》の一|戰《せん》を以《もつ》て、彼《かれ》が信長《のぶなが》の相續者《さうぞくしや》となるべき、最終《さいしゆう》の試驗《しけん》であると、自覺《じかく》したることが判知《わか》る。又《ま》た、
[#ここから1字下げ]
一、總人數《そうにんず》を徒《いたづら》に|可[#レ]置儀《おくべきぎ》も、|不[#レ]入事《いらざること》に候條《さふらふでう》、其御國端《そのおくにはし》へも罷出《まかりいで》、境目《さかひめ》の儀《ぎ》をも相定《あひさだめ》、連々《つれ/″\》|無[#二]等閑[#一]《なほざりなき》胸《むね》をも相見《あひみ》せ|可[#レ]申候間《まをすべくさふらふあひだ》、|有[#二]御分別[#一]《ごふんべつありて》、秀吉《ひでよし》腹《はら》を|不[#レ]立候樣《たてずさふらふやう》に、御覺悟《ごかくご》尤《もつと》もに候事《さふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
の一|節《せつ》の如《ごと》き、如何《いか》にも毛利家《まうりけ》を威嚇《ゐかく》したものぢや。『|有[#二]御分別[#一]《ごふんべつありて》、秀吉《ひでよし》腹《はら》を|不[#レ]立候樣《たてずさふらふやう》に御覺悟《ごかくご》尤《もつと》もに候事《さふらふこと》。』とは、何《なん》たる露骨《ろこつ》の申分《まをしぶん》だ。然《しか》も秀吉《ひでよし》の天眞爛漫《てんしんらんまん》たる特色《とくしよく》は、却《かへつ》て此邊《このへん》に尤《もつと》も發揮《はつき》せられた。
[#ここから1字下げ]
一、東國《とうごく》は氏政《うぢまさ》、北國《ほくこく》は景勝《かげかつ》、筑前守《ちくぜんのかみ》|任[#二]覺悟[#一]體《かくごにまかすてい》に候《さふらふ》。毛利右馬頭殿《まうりうまのかみどの》、秀吉《ひでよし》存分《ぞんぶんの》次第《しだい》|被[#レ]成[#二]御覺悟[#一]候《ごかくごなされさふら》へば、日本治《につぽんのち》、頼朝以來《よりともいらい》爭《いかで》|可[#レ]有[#レ]勝哉《まさるあるべきや》。能々《よく/\》御異見《ごいけん》專用《せんよう》に候《さふらふ》。御存分《ごぞんぶん》|於[#レ]有[#レ]之《これあるにおいて》は、|不[#レ]被[#二]御心置[#一]《おんこゝろおかれず》、七|月《ぐわつ》以前《いぜんに》|可[#二]仰蒙[#一]候《おほせをかうむるべくさふらふ》。八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》秀吉《ひでよし》|如[#二]存分[#一]候《ぞんぶんのごとくさふら》はゞ、彌《いよ/\》互《たがひ》に|可[#二]申承[#一]候事《まをしうけたまはるべくさふらふこと》、右之《みぎの》趣《おもむき》一々《いち/\》輝元《てるもと》へ|可[#レ]被[#二]相達[#一]候事《あひたつせらるべくさふらふこと》、肝要《かんえう》に候《さふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
乃《すなは》ち東國《とうごく》の氏政《うぢまさ》、北國《ほくこく》の景勝《かげかつ》、既《すで》に秀吉《ひでよし》の幕下《ばくか》となつた。若《も》し中國《ちゆうごく》の輝元《てるもと》が幕下《ばくか》とならば、頼朝以來《よりともいらい》の日本《にほん》の治平《ちへい》が出來《でき》るのぢや。此《こ》の意味《いみ》を篤《とく》と輝元《てるもと》に諭《さと》されたし。若《も》し此儀《このぎ》に異存《いぞん》あらば、遠慮《ゑんりよ》に及《およ》ばず、七|月《ぐわつ》以前《いぜん》に通牒《つうてふ》せられたし、旗皷《きこ》の間《かん》に屹度《きつと》相見《あひみ》るであらう。然《しか》も若《も》し同意《どうい》ならば、愈《いよい》よ互《たが》ひに提携《ていけい》せむとの意味《いみ》だ。秀吉《ひでよし》は實《じつ》に眞率《しんそつ》なる言語《げんご》の達人《たつじん》ぢや。智者《ちしや》の小早川《こばやかは》、如何《いか》でか天下《てんか》の形勢《けいせい》を察《さつ》せざる可《べ》き。彼等《かれら》は天《てん》の暦數《れきすう》が、秀吉《ひでよし》に歸《き》して居《を》る事《こと》を、蚤《つと》に察《さつ》して居《ゐ》た。彼等《かれら》は此《こ》の大勢《たいせい》に從《したが》ふを以《もつ》て、自衞《じゑい》の唯一《ゆゐいつ》の策《さく》と心得《こゝろえ》た。此《かく》の如《ごと》くして毛利氏《まうりし》は、談笑《だんせう》の間《あひだ》に、秀吉《ひでよし》無二《むに》の味方《みかた》となつた。同年《どうねん》十|月《ぐわつ》には、毛利家《まうりけ》より吉川經言《きつかはつねとき》(廣家)[#「(廣家)」は1段階小さな文字]毛利元綱《まうりもとつな》(秀包)[#「(秀包)」は1段階小さな文字]を人質《ひとじち》として、秀吉《ひでよし》に送《おく》つた。
瀧川一益《たきがはかずます》は、長島《ながしま》、峰《みね》、關《せき》の諸城《しよじやう》に據《よ》りて、信孝《のぶたか》、勝家《かついへ》と、相《あ》ひ呼應《こおう》し、秀吉《ひでよし》に抗《かう》したが。四|月《ぐわつ》十七|日《にち》に到《いた》り、峰城《みねじやう》は信雄《のぶを》の兵《へい》、及《およ》び蒲生氏郷《がまふうぢさと》、長谷川秀一等《はせがはひでかずら》の兵《へい》に攻陷《こうかん》せられ、長島《ながしま》も亦《ま》た其《そ》の包圍《はうゐ》の爲《た》めに、六|月《ぐわつ》中旬《ちゆうじゆん》開城《かいじやう》して降《くだ》つた。秀吉《ひでよし》は一益《かずます》を宥《なだ》め、越前大野《ゑちぜんおほの》に五千|石《ごく》を給《きふ》した。而《しか》して其《そ》の甥《をひ》瀧川詮益《たきがはのります》、清忠《きよたゞ》を祿《ろく》した。又《ま》た信雄《のぶを》の部將《ぶしやう》、林正武《はやしまさたけ》は、五|月《ぐわつ》神戸城《かんべじやう》を攻《せ》めて之《これ》を下《くだ》した。此《こゝ》に於《おい》て伊勢《いせ》は全《まつた》く平定《へいてい》し、六|月《ぐわつ》信雄《のぶを》は長島《ながしま》に遷《うつ》つた。憐《あは》れむ可《べ》し信雄《のぶを》は、當分《たうぶん》戰捷《せんせふ》の分前《わけまへ》に與《あづか》つて、自《みづ》から得々《とく/\》として居《ゐ》た。

          ―――――――――――――――
[#6字下げ][#小見出し]瀧川一益の赦宥[#小見出し終わり]

[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
瀧川一益へ太閤より使者を以て、今度の儀殘念に可[#レ]被[#レ]存候、乍[#レ]去武士の習無[#二]是非[#一]儀に候、向後は心靜に御一生を被[#レ]暮よとて、近江[#割り注]○一に越前大野[#割り注終わり]にて茶の湯料とて知行五千石被[#レ]遣、金銀など入用の事あれば、如何程も可[#レ]承とて結構のアヒシラヒにて、寛々閑居被[#レ]致し由。〔小須賀覺書、豐鑑〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
          ―――――――――――――――

[#5字下げ][#中見出し]【五一】秀吉大阪に移る[#中見出し終わり]

天正《てんしやう》十|年《ねん》の初夏《しよか》より、天正《てんしやう》十一|年《ねん》の初夏《しよか》に於《お》ける、約《やく》一|個年《かねん》は、秀吉《ひでよし》の奇特《きとく》なる生涯中《しやうがいちゆう》、最《もつと》も奇特《きとく》なる期間《きかん》であつた。乃《すなは》ち彼《かれ》は未《いま》だ全《まつた》く、其《そ》の運命《うんめい》の絶頂《ぜつちやう》には、達《たつ》せなかつたけれども、少《すくな》くとも高根《たかね》を目前《もくぜん》に控《ひか》ふる迄《まで》の位置《ゐち》に、躍進《やくしん》した。固《もと》より彼《かれ》が此《こ》の位置《ゐち》を占得《せんとく》するには、多年《たねん》累積《るゐせき》の功《こう》が、一|朝《てう》にして露《あらは》れたに相違《さうゐ》なきも。併《しか》し其《そ》の効果《かうくわ》の現呈《げんてい》が、餘《あま》りに急激《きふげき》に、餘《あま》りに顯著《けんちよ》であつた事《こと》は、秀吉《ひでよし》彼自身《かれじしん》と雖《いへど》も、恐《おそ》らくは驚《おどろ》かざるを得《え》なかつたであらう。即《すなは》ち一|言《げん》にして云《い》へば、信長《のぶなが》の將校《しやうかう》の一|人《にん》であつた彼《かれ》は、信長《のぶなが》の相續者《さうぞくしや》となつた。
此《こ》の一|年間《ねんかん》に、明智《あけち》を斃《たふ》した、柴田《しばた》を滅《ほろぼ》した、瀧川《たきがは》も、佐々《さつさ》も皆《み》な降《くだ》つた。丹羽長秀《にはながひで》、前田利家《まへだとしいへ》の、秀吉《ひでよし》に對《たい》する關係《くわんけい》も、愈《いよい》よ緊密《きんみつ》となつた。信孝《のぶたか》は自栽《じさい》し、信雄《のぶを》は服從《ふくじゆう》す。凡《およ》そ從來《じゆうらい》信長《のぶなが》の分國内《ぶんこくない》は、一として秀吉《ひでよし》の意《い》の如《ごと》くならざるはなかつた。而《しか》して信長《のぶなが》分國以外《ぶんこくいぐわい》の關係《くわんけい》も、亦《ま》た極《きは》めて良好《りやうかう》であつた。さしもの強敵《きやうてき》毛利《まうり》も、今《いま》は秀吉《ひでよし》に叩頭《こうとう》し、遂《つ》ひに(十月)[#「(十月)」は1段階小さな文字]質子《ちし》を送《おく》ることゝなつた。虎視眈々《こしたん/\》たる徳川家康《とくがはいへやす》も、五|月《ぐわつ》廿一|日《にち》、石川數正《いしかはかずまさ》を使《つかひ》として、柳瀬《やながせ》の戰捷《せんせふ》を賀《が》し、初花《はつはな》の茶壺《ちやつぼ》を贈《おく》つた。府内《ふない》の屋形《やかた》、大友義統《おほともよしむね》も、五|月《ぐわつ》十八|日《にち》書《しよ》を寄《よ》せて、※[#「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31]《くわん》を通《つう》じた。讃岐《さぬき》の十河存保《そがふまさやす》も、内屬《ないぞく》した。而《しか》して上杉景勝《うへすぎかげかつ》も亦《ま》た、毛利氏同樣《まうりしどうやう》、四|月《ぐわつ》に叩頭《こうとう》した。
斯《か》く觀來《みきた》れば、信長死後《のぶながしご》一|個年《かねん》に於《おい》て、秀吉《ひでよし》の收得《しうとく》したる勢圜《せいくわん》は、寧《むし》ろ信長《のぶなが》畢生《ひつせい》の力《ちから》を以《もつ》て、收得《しうとく》したるそれよりも、廣大《くわうだい》であると云《い》はねばならぬ。今日《こんにち》の言葉《ことば》で云《い》へば、秀吉《ひでよし》は大々的《だい/\てき》成金《なりきん》ぢや。然《しか》も秀吉《ひでよし》は、決《けつ》して其《そ》の成功《せいこう》に醉《よ》はなかつた。彼《かれ》は之《これ》を其《そ》の踏臺《ふみだい》として、更《さ》らにより一|層《そう》の大成功《だいせいこう》を目掛《めが》けた。
彼《かれ》は五|月《ぐわつ》二十二|日《にち》に、從《じゆ》四|位下《ゐげ》に叙《じよ》し、參議《さんぎ》に補《ほ》した。彼《かれ》は前田玄以《まへだげんい》を、京都《きやうと》の所司代《しよしだい》として、其《そ》の政令《せいれい》を執行《しつかう》せしめた。而《しか》して六|月《ぐわつ》二|日《か》には、大徳寺《だいとくじ》に於《おい》て、信長《のぶなが》の一|周忌日《しうきじつ》の法會《ほうゑ》を營《いとな》み、軈《やが》て大阪城《おほさかじやう》に赴《おもむ》き之《これ》に據《よ》つた。七|月《ぐわつ》には、所謂《いはゆ》る賤岳《しづがたけ》七|本槍《ほんやり》の連中《れんぢゆう》を初《はじめ》として、論功行賞《ろんこうかうしやう》をした。即《すなは》ち有功《いうこう》の將《しやう》三十六|人《にん》を封《ほう》じ、新《あらた》に分國《ぶんこく》二十|箇國《かこく》に城主《じやうしゆ》を立《た》て、親族《しんぞく》、及《およ》び親近《しんきん》の諸將《しよしやう》を配《はい》して、畿内《きない》五|國《こく》に藩屏《はんぺい》とし。五|月《ぐわつ》より大阪《おほさか》に築《きづ》き、十一|月《ぐわつ》には、此《こゝ》に移《うつ》つた。
[#ここから1字下げ]
山崎《やまざき》も住《すむ》べき所《ところ》にあらずと思《おも》ひ給《たま》ひければ、攝津國《せつつのくに》大坂《おほさか》こそ要害《えうがい》に付《つい》ても、西國舟《さいこくぶね》の出入《しゆつにふ》の便《べん》、都《みやこ》にも遠《とほ》からざれば、爰《こゝ》をなん住所《すみどころ》に定《さだ》め、城《しろ》がまへ殿作《とのつく》りひたゝけきほどにし給《たま》ふ。北方《きたのかた》を移《うつ》し、人々《ひと/″\》住《すむ》べき樣《さま》をおきて給《たま》ふ。〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
秀吉《ひでよし》は山崎役以來《やまざきえきいらい》、寶寺《たからでら》に築城《ちくじやう》して、其《そ》の假居《かきよ》としたが、彼《かれ》の目的《もくてき》は、當初《たうしよ》より大阪《おほさか》にあつた。但《た》だ當初《たうしよ》池田信輝《いけだのぶてる》を、此《こゝ》に措《お》いたが、天正《てんしやう》十一|年《ねん》五|月以來《ぐわついらい》、秀吉《ひでよし》自《みづ》から之《これ》に代《かは》つて、其《そ》の治下《ちか》とした。即《すなは》ち柳瀬役後《やながせえきご》に於《おい》ては、今《いま》は誰憚《たれはゞか》る所《ところ》もなく、天下晴《てんかは》れて、之《これ》を我物《わがもの》とした。此《こゝ》に於《おい》て信長《のぶなが》が、其《そ》の後半生《ごはんせい》、之《これ》を得《え》んと熱中《ねつちゆう》し、千|辛萬苦《しんばんく》の末《すゑ》、漸《やうや》く之《これ》を得《え》て、遂《つ》ひに之《これ》を用《もち》ふるを、果《はた》さなかつた大阪《おほさか》をば、秀吉《ひでよし》は之《これ》を占有《せんいう》し、之《これ》を利用《りよう》した。乃《すなは》ち只《た》だ此《こ》の一|事《じ》を以《もつ》てしても、秀吉《ひでよし》は信長《のぶなが》の定《さだ》め置《お》きたる經綸《けいりん》の、遂行者《すゐかうしや》であると云《い》ふ※[#こと、253-4]が能《あた》ふ。
[#ここから1字下げ]
秀吉者《ひでよしは》、|於[#二]攝津大阪[#一]《せつつおほさかにおいて》|定[#二]城郭[#一]《じやうくわくをさだむ》。彼地五畿内《かのちはごきないの》中央而《ちゆうあうにして》、東大和《ひがしはやまと》、西攝津《にしはせつつ》、南和泉《みなみはいづみ》、北山城《きたはやましろ》、四方《しはう》廣大而《くわうだいにして》中《うちは》※[#「山/歸」、第3水準1-47-93]然《きぜんたる》山岳也《さんがくなり》。|廻[#レ]麓《ふもとをめぐりて》大河《たいが》淀川之末《よどがはのすゑ》、大和川《やまとがは》流合《ながれあひ》、其水《そのみづ》即《すなはち》|入[#レ]海《うみにいる》、大船《たいせん》日々《ひゞ》著岸事《ちやくがんすること》、|不[#レ]知[#二]幾千萬艘[#一]《いくせんまんそうなるをしらず》。平安城十餘里《へいあんじやうにじふより》、南方《なんぱう》平陸而《へいりくにして》天王寺《てんわうじ》、住吉《すみよし》、堺津《さかひつへ》三|里《り》餘《よ》、皆《みな》|立[#二]續町店屋辻小路[#一]《まちにみせやつじにこうぢをたてつゞけ》、|爲[#二]大坂之山下[#一]也《おほさかのやましたとなすなり》。|以[#二]五畿内[#一]《ごきないをもつて》|爲[#二]外構[#一]《そとがまへとなし》、|以[#二]彼地之城主[#一]《かのちのじやうしゆをもつて》|爲[#二]警固[#一]者也《けいごとなすものなり》。故《ゆゑに》大和筒井順慶《やまとにはつゝゐじゆんけい》、和泉中村孫平次《いづみにはなかむらまごへいじ》、攝州三好孫《せつしうにはみよしまご》七|郎秀次《らうひでつぐ》、茨木中川藤兵衞尉秀政《いばらきにはなかがはとうべゑのじやうひでまさ》、山城槇島一柳市助直末《やましろまきのしまにはひとつやなぎいちすけなほすゑ》、洛中《らくちゆう》洛外《らくぐわいを》|所[#二]成敗[#一]者《せいばいするところのものは》、半夢齋玄以也《はんむさいげんいなり》。|從[#二]若年[#一]《じやくねんより》知惠《ちゑ》深而《ふかくして》|無[#二]私曲[#一]《しきよくなく》、秀吉《ひでよし》|依[#レ]知[#レ]之《これをしるによつて》|定[#二]奉行[#一]者也《ぶぎやうにさだむるものなり》。若《もし》又《また》法度之外《はつとのほか》|不[#二]決斷[#一]理非有[#レ]之《けつだんせざるりひこれあれば》、則《すなはち》秀吉《ひでよし》糺明者也《きうめいするものなり》。〔柴田退治記〕[#「〔柴田退治記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
秀吉《ひでよし》の大阪《おほさか》を中心《ちゆうしん》としたる、五|畿《き》經營《けいえい》の概略《がいりやく》は、以上《いじやう》にて想像《さうざう》が附《つ》く。
[#ここから1字下げ]
唯今《たゞいま》|所[#レ]成《なるところの》大坂《おほさかの》普請者《ふしんは》、先《まづ》天主《てんしゆの》土臺也《どだいなり》。其高《そのたかさ》莫大而《ばくだいにして》四方八角《しはうはつかく》、|如[#二]白壁翠屏[#一]《はくへきすゐびやうのごとし》、良匠《りやうしやう》|以[#二]繩墨[#一]《じようぼくをもつて》|雖[#レ]運[#二]斧斤[#一]《ふきんをはこぶといへども》、|不[#レ]過[#レ]焉《これにすぎざるなり》。三十|餘《よ》箇國之《かこくの》人數《にんず》、近國《きんこく》近郷《きんがうに》打散《うちさんじ》、陸地《りくち》舟路《ふなぢより》大石《たいこく》小石《せうこく》集來者《あつまりきたるもの》、|似[#二]群蟻入[#一レ]垤《ぐんぎのあなにいるににたり》、寔《まことに》古今《ここん》奇絶之《きぜつの》大功也《たいこうなり》。皆《みな》人《ひとの》|驚[#二]耳目[#一]《じもくをおどろかす》而已《のみ》。諸國《しよこくの》城持衆《しろもちしゆう》、大名《だいみやう》、小名《せうみやう》悉《こと/″\く》|在[#二]大坂[#一]也《おほさかにあるなり》。人々《ひと/″\》|構[#二]築地[#一]《ついぢをかまへ》、|連[#レ]簷《のきをつらね》|双[#二]門戸[#一]事《もんこをならぶること》、奇麗《きれい》|盡[#二]莊嚴[#一]者也《さうごんをつくすものなり》。〔柴田退治記〕[#「〔柴田退治記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
如何《いか》に秀吉《ひでよし》の大阪城建築《おほさかじやうけんちく》が、五|月《ぐわつ》に始《はじま》り、十一|月《ぐわつ》に移居《いきよ》したるの、速《すみやか》なるを見《み》よ。此《こ》れは專《もつぱ》ら舊城《きうじやう》を本《もと》として、之《これ》を補足《ほそく》修繕《しうぜん》したのであらう。然《しか》も其《そ》の城下《じやうか》の繁昌《はんじやう》や、想《おも》ひ見《み》る可《べ》しぢや。
[#ここから1字下げ]
此先《このさき》|爭[#レ]權《けんをあらそひ》|妬[#レ]威《ゐをねたむ》輩《やからは》、|如[#レ]意《いのごとく》|令[#二]退治[#一]《たいぢせしめ》、|爲[#二]秀吉一人之天下[#一]事《ひでよしいちにんのてんかとなすこと》、快哉快哉《くわいさい/\/\》。是《これ》併《しかしながら》|所[#レ]致[#二]武勇智計[#一]《ぶゆうちけいのいたすところ》、也《なり》。寔《まことに》國家太平《こくかたいへいは》此時也《このときなり》。〔柴田退治記〕[#「〔柴田退治記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは恐《おそ》らくは、當時《たうじ》の秀吉《ひでよし》の思惑《おもわく》を、謠《うた》うたものであらう。然《しか》も彼《かれ》の前路《ぜんろ》には、尚《な》ほ一|人《にん》の大敵《たいてき》を控《ひか》へて居《を》る。此者《このもの》の處分《しよぶん》が附《つ》かねば、未《いま》だ此《こ》の理想通《りさうどほ》りには參《まゐ》るまい。
      *   *   *   *   *   *   *
吾人《ごじん》は此《こ》の機會《きくわい》に於《おい》て、大阪城建築《おほさかじやうけんちく》の事《こと》を語《かた》らねばならぬ。惟《おも》ふに前掲《ぜんけい》大村由己《おほむらいうき》の所記《しよき》は、唯《た》だ秀吉《ひでよし》の移居《いきよ》當時《たうじ》の事《こと》であつた。
耶蘇會師父《ゼスイツトしふ》フロヱー[#「フロヱー」に傍線]の報《はう》ずる所《ところ》によれば、一五八三|年《ねん》─天正《てんしやう》十一|年《ねん》─秀吉《ひでよし》は、至尊《しそん》及《およ》び諸門跡《しよもんぜき》に、大阪《おほさか》移居《いきよ》を請《こ》うた。而《しか》して此歳《このとし》より約三|萬《まん》人《にん》を、日《ひ》となく、夜《よ》となく、大阪城《おほさかじやう》の築造《ちくざう》に使用《しよう》し、其《そ》の成就迄《じやうじゆまで》には、三|年《ねん》以上《いじやう》を費《つひや》し、其《そ》の人夫《にんぷ》も倍加《ばいか》して、六|萬《まん》人《にん》を使用《しよう》した。
現《げん》にフロヱー[#「フロヱー」に傍線]は、天正《てんしやう》十四|年《ねん》の五、六、七(陽暦)[#「(陽暦)」は1段階小さな文字]の三|個月《かげつ》を、日本本土《にほんほんど》に過《すご》したが、當時《たうじ》は城濠《じやうがう》を鑿《ほ》る可《べ》く、六|萬《まん》人《にん》を使用《しよう》して居《ゐ》た。而《しか》して此《こ》れは、以前《いぜん》よりの事《こと》であつたと云《い》ふ※[#こと、255-11]ぢや。城壁《じやうへき》は悉《こと/″\》く石《いし》で、實《じつ》に高大《かうだい》であつた。其《そ》の仕事《しごと》の混雜《こんざつ》を避《さ》くる爲《た》め、各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》組頭《くみがしら》を設《まう》け、其《そ》の持場《もちば》を定《さだ》めた。而《しか》して濠内《がうない》に湧《わ》く水《みづ》を汲《く》み干《ほ》す可《べ》く、夜間《やかん》に多數《たすう》の人夫《にんぷ》を使用《しよう》した。
特《とく》に驚《おどろ》く可《べ》きは、石《いし》なき大阪《おほさか》に、何處《いづこ》より斯《か》く迄《まで》、大小《だいせう》各種《かくしゆ》の石《いし》を、運搬《うんぱん》し得《え》たかであつた。秀吉《ひでよし》は、大阪附近《おほさかふきん》の諸侯《しよこう》に命《めい》じ、何《いづ》れも船《ふね》にて、之《これ》を運《はこ》ばしめた。されば單《たん》に堺《さかひ》の一|港《かう》のみにても、毎日《まいにち》二百|艘《そう》の石船《いしぶね》を出帆《しゆつぱん》せしめた。而《しか》して我等《われら》(フロヱー)[#「(フロヱー)」は1段階小さな文字]の家《いへ》(大阪)[#「(大阪)」は1段階小さな文字]よりは、時《とき》として千|艘《そう》の石船《いしぶね》が、滿帆《まんぱん》に風《かぜ》を孕《はら》み、隊《たい》を成《な》して入港《にふかう》するを見《み》た。而《しか》して其《そ》の一|石《せき》さへも、適當《てきたう》の置所《おきどころ》を間違《まちが》へぬ樣《やう》、細心《さいしん》に注意《ちゆうい》せられ。苟《いやし》くも其元《そのかうべ》を喪《うしな》ふ覺悟《かくご》なくては、何人《なんびと》も之《これ》を他所《よそ》に放置《はうち》する能《あた》はなかつた。
工事《こうじ》の督勵法《とくれいはふ》として、其《そ》の役《やく》を課《くわ》せられたる諸侯《しよこう》の人夫《にんぷ》が不足《ふそく》し、若《も》しくは怠慢《たいまん》に流《なが》れたる時《とき》には、直《たゞ》ちに其《そ》の諸侯《しよこう》は、放逐《はうちく》せられ、其《そ》の所領《しよりやう》を沒收《ぼつしう》せられた。城樓《じやうろう》と城壁《じやうへき》を繞《めぐ》る堡壘《はうるゐ》とは、其《そ》の巍々《ぎゝ》として聳《そび》え、且《か》つ其《そ》の甍《いらか》が悉《こと/″\》く黄金箔《わうごんはく》にて、塗《ぬ》り立《た》てたが爲《た》めに、何《いづ》れも遠方《ゑんぱう》より能《よ》く眼《め》に著《つ》いた。而《しか》して其《そ》の城中《じやうちゆう》には、幾許《いくばく》の壯麗《さうれい》なる建築物《けんちくぶつ》が群《むらが》つた。〔ムルドツク日本史〕[#「〔ムルドツク日本史〕」は1段階小さな文字]
以上《いじやう》はフロヱー[#「フロヱー」に傍線]の目撃《もくげき》、耳聞《じぶん》に出《い》でたる記事《きじ》だ。秀吉《ひでよし》が至尊《しそん》、及《およ》び諸門跡《しよもんぜき》の、大阪《おほさか》移居《いきよ》を請《こ》うたとは、聊《いさゝ》か信《しん》じ難《がた》い筋《すぢ》であるが。それにしても、當時《たうじ》斯《かゝ》る風説《ふうせつ》があつたに、相違《さうゐ》あるまい。此《こ》れを見《み》ても、如何《いか》に秀吉《ひでよし》の築城《ちくじやう》が、大袈裟《おほげさ》であつたかゞ想《おも》ひやらるゝ。
今《い》ま大阪城《おほさかじやう》の概觀《がいくわん》を叙《じよ》すれば、城《しろ》は本丸《ほんまる》、二|丸《のまる》、三|丸《のまる》に分《わか》れ、本丸《ほんまる》の殆《ほと》んど中央《ちゆうあう》に八|層《そう》の高大《かうだい》なる天主閣《てんしゆかく》があつた。天主閣《てんしゆかく》の二|重《ぢゆう》以下《いか》は、塗籠《ぬりこめ》で、五|重《ぢゆう》には廻廊《くわいらう》、勾欄《こうらん》を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《めぐら》し、勾欄《こうらん》の上《うへ》には、鶴虎《かくこ》の彫物《ほりもの》があつた。鴟尾《とびのを》と棟瓦《むねがはら》は、悉《こと/″\》く金箔《きんぱく》を塗《ぬ》つた。本丸《ほんまる》の追手《おふて》、即《すなは》ち櫻門《さくらもん》に面《めん》したる建物《たてもの》に、所謂《いはゆ》る千|疊敷《でふじき》があつた。此《こ》れは其名《そのな》の如《ごと》く、千|枚《まい》の疊《たたみ》を敷《し》き、疊《たたみ》には金《きん》及《およ》び絹《きぬ》の縁《へり》が附《つ》いて、格子形《かうしがた》が置《お》かれてあつた。用材《ようざい》は悉《こと/″\》く嘉木《かぼく》良品《りやうひん》にて、四|面《めん》には、金《きん》にて裝飾《さうしよく》し、宛《あたか》も是《こ》れ黄金世界《わうごんせかい》に入《い》つたる趣《おもむき》があつた。兼見卿記《かねみきやうき》に、『七|珍《ちん》萬寳《ばんぱう》中々《なか/\》|難[#二]書盡[#一]也《かきつくしがたきなり》』とは、如何《いか》にも大阪城《おほさかじやう》の結構《けつこう》を、概括《がいくわつ》したる言葉《ことば》だ。本丸《ほんまる》の周圍《しうゐ》に二丸《にのまる》、二|丸《のまる》の西部《せいぶ》に西丸《にしまる》、二|丸《のまる》を繞《めぐら》して、三|丸《のまる》があつた。東《ひがし》は大和川《やまとがは》、北《きた》は淀川《よどがは》、西《にし》は東横堀川《ひがしよこぼりがは》、南《みなみ》は空濠《からぼり》を限《かぎ》りとして、此《こ》の本丸《ほんまる》、二|丸《のまる》、三|丸《のまる》の周圍《しうゐ》、合計《がふけい》三|里《り》八|町《ちやう》と云《い》ふことぢや。〔安土桃山時代史論〕[#「〔安土桃山時代史論〕」は1段階小さな文字]
さればクラセ[#「クラセ」に傍線]が、秀吉《ひでよし》は信長《のぶなが》に比《ひ》して、其《そ》の權力《けんりよく》大《だい》に、從《したが》つて信長《のぶなが》の安土《あづち》に優《まさ》る此《こ》の都城《とじやう》を、建築《けんちく》せんことを企《くはだ》てたのであると云《い》うたのは、尤《もつとも》の言《げん》と云《い》はねばならぬ。然《しか》も秀吉《ひでよし》をして、大阪城《おほさかじやう》を經營《けいえい》せしめたのは、信長《のぶなが》の安土城《あづちじやう》が、其《そ》の標本《へうほん》を示《しめ》したからであつたことを忘《わす》れてはならぬ。

[#5字下げ][#中見出し]【五二】佐久間盛政[#中見出し終わり]

吾人《ごじん》は今《い》ま、秀吉《ひでよし》と家康《いへやす》との、大角力《おほずまふ》を叙《じよ》するに先《さきだ》ち、柳瀬役《やながせえき》の餘波《よは》として、佐久間盛政《さくまもりまさ》に就《つい》て、一|言《げん》するを禁《きん》じ得《え》ぬ。
世人《せじん》は彼《かれ》を以《もつ》て、柴田《しばた》全滅《ぜんめつ》の責任者《せきにんしや》となすが、そは彼《かれ》に取《と》りて冤罪《ゑんざい》である。彼《かれ》は柳瀬役《やながせえき》、直接《ちよくせつ》に云《い》へば、賤岳合戰《しづがたけかつせん》敗北《はいぼく》の責任者《せきにんしや》に相違《さうゐ》ない。併《しか》し決《けつ》して柴田《しばた》全滅《ぜんめつ》の責任者《せきにんしや》ではない。假《か》りに盛政《もりまさ》が、兵機《へいき》を誤《あやま》らなかつたにせよ、柴田《しばた》の全滅《ぜんめつ》は、免《まぬか》れぬ數《すう》であつた。但《た》だ問題《もんだい》は、此《こ》れが爲《た》めに、其《そ》の期《き》を早《はや》めたに過《す》ぎぬ。然《しか》も其《そ》の差《さ》は、恐《おそ》らくは一|個月《かげつ》、若《もし》くは數個月《すかげつ》の加除《かぢよ》に過《す》ぎまい。
彼《かれ》は柴田家《しばたけ》に取《と》りては、或《あるひ》は惡魔《あくま》であつたかも知《し》れぬ。勝家《かついへ》の義子《ぎし》、勝豐《かつとよ》が、勝家《かついへ》に反《そむ》いたのも、彼《かれ》と其《そ》の信寵《しんちよう》を爭《あらそ》うて、失敗《しつぱい》した結果《けつくわ》であつた。〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]前田利家《まへだとしいへ》が、勝家《かついへ》の幕下《ばくか》でありつゝも、秀吉《ひでよし》に志《こゝろざし》を通《つう》じた一の理由《りいう》としては、盛政《もりまさ》が石動山《いするぎやま》の役《えき》、利家《としいへ》の援軍《ゑんぐん》と稱《しよう》して出兵《しゆつぺい》し、却《かへつ》て利家《としいへ》の後《うしろ》を襲《おそ》ひ、能登《のと》を取《と》らんとしたからだと云《い》ふ説《せつ》もある。〔加賀藩史藁、山路愛山豐太閤〕[#「〔加賀藩史藁、山路愛山豐太閤〕」は1段階小さな文字]兎《と》も角《かく》も彼《かれ》は、勝家《かついへ》門前《もんぜん》の猛犬《まうけん》で、此《こ》れが爲《た》めに勝家《かついへ》が、若干《じやくかん》の好《よ》き顧客《こかく》を失《うしな》うたことは、疑《うたがひ》を容《い》れぬ。併《しか》し其《そ》の得失《とくしつ》の如何《いかん》は、姑《しば》らく措《お》くも、彼《かれ》は其《そ》の末路《まつろ》の、甚《はなは》だ落寞《らくばく》であつた瀧川一益《たきがはかずます》や、佐々成政《さつさなりまさ》に比《ひ》して、頗《すこぶ》る立派《りつぱ》なる死花《しにばな》を咲《さ》かして居《を》る。賤岳《しづがたけ》の敗軍《はいぐん》に際《さい》して、佐久間《さくま》は纔《わづ》かに身《み》を以《もつ》て免《まぬか》れた。
[#ここから1字下げ]
佐久間玄蕃事《さくまげんばこと》、志津《しづ》ヶ|岳《たけ》の御合戰《ごかつせん》より、越前《ゑちぜん》の敦賀《つるが》の奧在郷《おくざいがう》へ主從《しゆじゆう》三|人《にん》にて百|姓《しやう》の家《いへ》へ立寄候《たちよりさふらひ》つるが、山路《やまぢ》を傳《つた》ひ候故《さふらふゆゑ》、ときを踏《ふ》み、杖《つゑ》にすがり、百|姓《しやう》に艾《もぐさ》を貰《もら》ひ候《さふらひ》て、ときの口《くち》に灸《きう》を仕候《つかまつりさふらふ》〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
斯《か》くて彼等《かれら》は、此《こ》の百|姓原《しやうばら》の爲《た》めに、捕虜《ほりよ》となつた。秀吉《ひでよし》は是等《これら》の百|姓《しやう》に向《むか》ひ、褒美《はうび》を取《と》らするから、何《いづ》れも申出《まをしい》でよと達《たつ》した。彼等《かれら》は某《それがし》も手傳《てつだひ》たり、某《それがし》も加勢《かせい》したりと、銘々《めい/\》名乘《なの》り出《いで》、十二|人《にん》となつた。秀吉《ひでよし》は百|姓《しやう》には不似合《ふにあひ》の事《こと》を爲《な》した。見《み》せしめの爲《た》めに、褒美《はうび》には張付《はりつけ》にせよと、悉《こと/″\》く之《これ》を磔殺《たくさつ》した。『明智《あけち》討《うち》たる百|姓《しやう》には|不[#レ]可[#レ]似《にるべからず》、|被[#レ]討《うたるゝ》手《て》に、科《とが》の輕重《けいぢゆう》有《ある》なれば也《なり》。』〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
とは、秀吉《ひでよし》の言前《いひまへ》であつた。
秀吉《ひでよし》は佐久間《さくま》に對《たい》して頗《すこぶ》る同情《どうじやう》を表《へう》した。
[#ここから1字下げ]
秀吉《ひでよし》御心《おこゝろ》には、|無[#レ]情《つれなく》繩《なは》をかけたるよなと思召候《おぼしめしさふら》へども、|不[#レ]及[#二]是非[#一]《ぜひにおよばざる》仕合也《しあはせなり》。秀吉《ひでよし》御心《おこゝろ》には、繩《なは》をとき、身《み》をゆる/\と持《もた》せ、乘物《のりもの》に乘《の》せ、道中《だうちゆう》よきにいたはり、それより直《すぐ》に上《のぼ》せよ。所《ところ》は宇治《うぢ》の槇島《まきしま》におけよと御意《ぎよい》にて、道中《だうちゆう》よきにいたはり、槇島《まきしま》に置《おく》。|乍[#レ]去《さりながら》御番《ごばん》は堅《かたく》|被[#二]仰付[#一]候事《おほせつけられさふらふこと》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此處《こゝ》は流石《さすが》に秀吉《ひでよし》ぢや、信長《のぶなが》では、とても斯《かゝ》る事《こと》は望《のぞ》めない。秀吉《ひでよし》は蜂須賀彦右衞門《はちすかひこうゑもん》をして、佐久間《さくま》を諭《さと》さしめた。勝家《かついへ》は既《すで》に逝《ゆ》く、此上《このうへ》は乃公《だいこう》を勝家《かついへ》と思《おも》へ、軈《や》がて闕國《けつこく》出出《しゆつたい》す可《べ》ければ、大國《たいこく》を一|國《こく》宛行《あておこな》ふ可《べ》しと。然《しか》も佐久間《さくま》は、『勝家《かついへ》自害《じがい》の上《うへ》は、玄蕃《げんば》浮世《うきよ》に留《とゞま》り、縱令《たとひ》天下《てんか》を|被[#レ]下候《くだされさふらふ》とも、勝家《かついへ》に|可[#二]思替[#一]事存《おもひかふべきことぞんじ》もよらず。』と云《い》ひ切《き》つた。而《しか》して予《わ》が自殺《じさつ》せざるは、『我事《われこと》心《こゝろ》如何樣《いかやう》なる究命《きうめい》にも遭《あ》ふ可《べ》き事《こと》を悲《かなし》み、玄蕃《げんば》自害《じがい》したるよと、取沙汰《とりざた》|於[#レ]有[#レ]之《これあるにおいて》は、屍《かばね》の上《うへ》の不覺《ふかく》たるべき爲《た》め、自害《じがい》は止《とゞ》まりたる也《なり》。』速《すみや》かに死罪《しざい》に處《しよ》し給《たま》へと理《ことわ》つた。
秀吉《ひでよし》は感心《かんしん》した。扨《さて》も玄蕃《げんば》に似合《にあひ》たる返事《へんじ》かな、武士《ぶし》に二|言《ごん》なし。さらば腹《はら》を切《き》らせよと命《めい》じた。然《しか》るに佐久間《さくま》は、
[#ここから1字下げ]
是《これ》にて首《くび》を刎《はね》られ候《さふら》へば、ひそかの樣《やう》に候《さふらふ》。願《ねがは》くは車《くるま》に乘《の》せ、繩下之體《なはしたのてい》、上下《じやうげ》に見物《けんぶつ》させ、一|條《でう》の辻《つじ》より下京《しもきやう》に引下《ひきくだ》させ給《たま》ふ程《ほど》ならば、|可[#レ]忝《かたじけなかるべき》もの也《なり》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
と願《ねが》うた。秀吉《ひでよし》は之《これ》を嘉納《かなふ》し、
[#ここから1字下げ]
玄蕃《げんばの》所《ところ》えは、是《これ》を|被[#レ]著候《きられさふら》へとて、御小袖《おこそで》二重《ふたかさね》|被[#レ]遣候《つかはされさふらふ》。玄蕃《げんば》是《これ》を見《み》て、忝存候《かたじけなくぞんじさふらふ》。|乍[#レ]去《さりながら》紋《もん》から仕立樣《したてやう》、氣《き》に入《いり》|不[#レ]申候《まをさずさふらふ》。大紋《だいもん》の紅《べに》の物《もの》の廣袖《ひろそで》、裏《うら》はもみ紅梅《こうばい》の小袖《こそで》|可[#レ]給候《たまはるべくさふらふ》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
斯《か》く裝《よそほ》うて、車《くるま》にて引《ひ》き廻《まは》されなば、宛《あたか》も戰場《せんぢやう》にて大差物《おほさしもの》を指《さ》し、人目《ひとめ》に掛《かゝ》る如《ごと》く、他《た》の注意《ちゆうい》を惹《ひ》く可《べ》し。右《みぎ》の小袖《こそで》にては、銃卒《じゆうそつ》の著物同樣《きものどうやう》、誰《たれ》も氣《き》を附《つ》くるものなかる可《べ》しと云《い》うた。秀吉《ひでよし》は又《ま》た之《これ》を嘉納《かなふ》し、
[#ここから1字下げ]
秀吉《ひでよし》聞召《きこしめし》|被[#レ]屆《とゞけられ》、最期《さいご》まで武邊《ぶへん》の心《こゝろ》忘《わすれ》|不[#レ]置事《おかざること》よな。おし/\と御意《ぎよい》にて望《のぞみ》の如《ごと》く、小袖《こそで》二つ、一つは箔《はく》の小袖《こそで》、何《いづ》れも廣袖《ひろそで》なり。玄蕃《げんばが》宿《やど》へ|被[#レ]遣《つかはさる》、玄蕃《げんば》さし上戴《あげいたゞく》、紅《べに》の物《もの》の大紋《だいもん》を上《うへ》に著《き》、扨《さて》車《くるま》を差寄《さしよ》する時《とき》、熊《わざ》と繩《なは》を掛《か》けよ。
[#地から2字上げ]〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
と云うた。此《こ》れは既《すで》に越前敦賀《ゑちぜんつるが》にて、百|姓原《しやうばら》に召捕《めしと》られ、繩《なは》を掛《か》けられたる事《こと》、天下《てんか》に隱《かく》れなし。今更《いまさ》ら繩《なは》を掛《か》けねば、世人《せじん》は繩詫事《なはわびごと》したと思《おも》はむとは、佐久間《さくま》の申分《まをしぶん》であつた。而《しか》して彼《かれ》は其望《そののぞみ》の如《ごと》く、繩《なは》を掛《か》け、市中《しちゆう》を引《ひ》き廻《まは》され、夜《よ》に入《い》りて、
[#ここから1字下げ]
槇島《まきしま》に著《つき》しかば。直《すぐ》に野《の》に敷皮《しきがは》を敷《しか》せ直《なほ》し、御腹《おはら》|被[#レ]召候得《めされさふらえ》とて、脇差《わきざし》を扇《あふぎ》にすゑ、指出《さしいだ》し候《さふら》へば、腹《はら》を切《き》るなどゝ申事《まをすこと》は、尋常《よのつね》のありかゝりの事《こと》にてこそ候《さふら》へ。腹《はら》を切《きる》べき程《ほど》ならば、何《なん》とて今日《こんにち》の車《くるま》の上《うへ》の繩《なは》を|可[#レ]掛《かくべき》、此上《このうえ》を後手《うしろで》に廻《まは》し、よくいましめられよと|被[#レ]申候《まをされさふら》へども、晝《ひる》の高手《たかて》このいましめの繩迄《なはまで》にて、頭《かうべ》を刎《はね》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
哀《あは》れ盛政《もりまさ》は、勇士《ゆうし》として生《い》き、勇士《ゆうし》として死《し》した。彼《かれ》は單《たん》に死處《ししよ》を得《え》たのみならず、亦《ま》た死《し》する所以《ゆゑん》の道《みち》を得《え》た。
[#改ページ]

 

戻る ホーム 上へ 進む

僕の作業が遅くて待っていられないという方が居られましたら、連絡を頂ければ、作業を引き渡します。また部分的に代わりに入力して下さる方がいましたら、とてもありがたいのでその部分は、何々さん入力中として、ホームページ上に告知します。メールはこちらまで