第九章 秀吉と利家との關係
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[#4字下げ][#大見出し]第九章 秀吉と利家との關係[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【四三】秀吉と利家(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

前田利家《まへだとしいへ》は、退却《たいきやく》の際《さい》には、秀吉軍《ひでよしぐん》の追撃《つゐげき》の爲《た》めに、若干《じやくかん》の犧牲《ぎせい》を拂《はら》ひたれども、兎《と》も角《かく》其《そ》の軍《ぐん》を全《まつた》うして、府中城《ふちゆうじやう》に還《かへ》つた。而《しか》して柴田勝家《しばたかついへ》も亦《ま》た、毛受家照《めんじゆいへてる》を身代《みがは》りとして、四|月《ぐわつ》廿一|日《にち》、辛《から》くも戰地《せんち》を脱《だつ》し、府中城《ふちゆうじやう》に抵《いた》り、利家《としいへ》に面會《めんくわい》した。甫菴太閤記《ほあんたいかふき》に曰《いは》く、
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勝家《かついへ》府中之城《ふちゆうのしろ》に至《いた》り、前田父子《まへだふし》に對面《たいめん》し、此中《このぢゆう》苦勞之《くらうの》一|禮《れい》、念比《ねんごろ》に宣《のべ》つゝ、極運《ごくうん》の攻《せめ》に遇《あう》て、|如[#レ]此之次第《かくのごときのしだい》、更《さら》に言葉《ことば》もおはしまさず候《さふらふ》。急《いそ》ぎ湯漬《ゆづけ》を出《いだ》され候《さふら》へとて、心靜《こゝろしづか》に食《しよく》し、疲《つか》れざる馬《うま》を所望《しよまう》し、急《いそ》ぎ給《たま》へり。利家《としいへ》もおくり候《さふら》はんと立出《たちいで》られしを、辭《じ》して歸《かへ》し候《さふら》ひけるが、又《また》よび返《かへ》し、其方《そなた》は筑前守《ちくぜんのかみ》と前々入魂《まへ/\のじゆこん》他《た》に異《こと》なり、必《かならず》今度之《このたびの》誓約《せいやく》をひるがえし、安堵《あんど》せられ候《さふら》へと、云《いひ》すてゝわかれにけり。
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とある。如何《いか》にも當時《たうじ》の情況《じやうきやう》が、目《め》に見《み》る樣《やう》に想《おも》はるゝ。柴田《しばた》も前田《まへだ》と、秀吉《ひでよし》とが、尋常《じんじやう》一|樣《やう》の交際《かうさい》でなかつたことを、熟知《じゆくち》して居《ゐ》た。さりとて又《ま》た前田《まへだ》が、表裏《へうり》反覆《はんぷく》の小人《せうじん》でないことも、熟知《じゆくち》して居《ゐ》た。前田《まへだ》は柴田《しばた》からも、秀吉《ひでよし》からも、均《ひと》しく信用《しんよう》せられて居《ゐ》た。而《しか》して彼《か》れ利家《としいへ》は、又《ま》たその信用《しんよう》を博《はく》する丈《だけ》の、資格《しかく》が備《そなは》つて居《ゐ》た。
利家夜話《としいへやわ》には、更《さ》らに一|歩《ぽ》を進《すゝ》みて、左《さ》の如《ごと》き記事《きじ》がある。
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一、柳瀬《やながせ》敗軍《はいぐん》、今日《こんにち》利家《としいへ》越前府中《ゑちぜんふちゆう》の城《しろ》へ御入候《おんいりさふら》へば、柴田修理殿《しばたしゆりどの》馬乘《ばじよう》以上《いじやう》八|騎《き》にて、鑓《やり》の柄《え》切折《きりをり》たるを馬《うま》の上《うへ》にて、御持有《おんもちあり》て、御通《おとほ》り候《さふらふ》時《とき》。村井又兵衞《むらゐまたべゑ》(長頼)[#「(長頼)」は1段階小さな文字]利家《としいへ》へ申上候《まをしあげさふらふ》は、是《これ》にて修理殿《しゆりどの》を御討留《おんうちとめ》|被[#レ]成候《なされさふら》はゞ、御忠節《ごちゆうせつ》に|可[#レ]成《なるべし》と申上候得《まをしあげさふらえ》ば、御手《おんて》にて又兵衞《またべゑ》が胸《むね》を御打《おんうち》。沙汰《さた》の限《かぎり》、士《もゝのふ》の作法《さはふ》|不[#レ]知《しらず》と御叱候《おしかりさふらひ》て、御出《おんいで》|被[#レ]成《なされ》、修理殿《しゆりどの》へ御對面《ごたいめん》|被[#レ]成候《なされさふらふ》。又左衞門殿《またざゑもんどの》恥敷候由御申《はづかしくさふらふよしおんまをし》|被[#レ]成候處《なされさふらふところ》、其時《そのとき》利家《としいへ》|被[#レ]仰候《おほせられさふらふ》は、合戰《かつせん》の習《ならひ》|無[#二]是非[#一]《ぜひなき》御仕合《おんしあはせ》に御座候《ござさふらふ》。隨分《ずゐぶん》/″\府中《ふちゆう》を固《かた》め|可[#レ]申候《まをすべくさふらふ》。急《いそ》ぎ北之莊《きたのしやう》へ御歸城《ごきじやう》|有[#レ]之候《これありさふらひ》て、御人數御拵候《ごにんずおんこしらへさふら》へと|被[#レ]仰候由《おほせられさふらふよし》、御物語《おんものがたり》に候《さふらふ》。
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果《はた》して然《しか》るや、否《いな》やを、詳《つまびらか》にせざるも、利家《としいへ》は決《けつ》して、懷《ふところ》に入《い》る窮鳥《きゆうこう》を殺《ころ》す者《もの》ではなかつた。
秀吉《ひでよし》は廿一|日《にち》、柴田《しばた》を追撃《つゐげき》して、今庄《いましやう》に一|泊《ぱく》し、廿二|日《にち》に府中《ふちゆう》に著《ちやく》した。秀吉《ひでよし》が合戰《かつせん》の前夜《ぜんや》、前田《まへだ》と中立《ちゆうりつ》の約束《やくそく》をしたと記《しる》したる、川角太閤記《かはかくたいかふき》は、此際《このさい》の記事《きじ》に於《おい》て、最《もつと》も詳悉《しやうしつ》を極《きは》めて居《を》る。
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一、前田又左衞門殿《まへだまたざゑもんどの》は、我城《わがしろ》越前之府中《ゑちぜんのふちゆう》え|無[#レ]難《なんなく》父子《ふし》共《とも》に入玉《いりたま》ふ也《なり》。此城《このしろ》は柴田殿《しばたどの》家城《いへじろ》より道《みち》五|里《り》隔《へだゝ》り申候《まをしさふらふ》、江州《がうしう》の入口也《いりぐちなり》。又左衞門殿《またざゑもんどの》分別《ふんべつ》には、秀吉《ひでよし》はやはや、是《これ》へきをひ|可[#レ]被[#レ]掛《かゝらるべき》者也《ものなり》。裏切《うらぎり》をも慥《たしか》にして、角《かく》と見《み》えばこそ、秀吉《ひでよし》も御滿足《ごまんぞく》とは|可[#レ]被[#二]思召[#一]《おぼしめさるべき》に、其儀《そのぎ》はなし。身上《みのうへ》も危《あやふ》くもや|被[#レ]思《おぼされ》けん、先《まづ》城《しろ》の總《そう》がまへに鐵砲《てつぱう》くばりをせよとて、子息《しそく》孫《まご》四|郎《らう》殿《どの》|被[#レ]出《いだされ》、そこ/\に鐵砲《てつぱう》くばりして、今《いま》や/\と|被[#二]相待[#一]候《あひまたれさふらふ》。
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利家《としいへ》も分明《ぶんみやう》に、秀吉《ひでよし》に味方《みかた》した譯《わけ》でなければ、或《あるひ》は進撃《しんげき》の餘勢《よせい》に乘《じよう》じて、此城《このしろ》に打《う》ち掛《かゝ》るも知《し》る可《べ》からず、要鎭《えうぢん》に若《し》くはなしだ。
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一、秀吉《ひでよし》はきをひにさしかゝり、城《しろ》ぎわへ御先手《おんさきて》の者《もの》近《ちか》づきける處《ところ》に、惣構《そうがまへ》より鐵砲《てつぱう》きびしく打懸《うちか》くるなり。秀吉《ひでよし》是《これ》を御覽《ごらん》じ、先手《さきて》の御人數《ごにんず》三|町《ちやう》計《ばかり》、引《ひき》とらせ、備《そなへ》をば|不[#レ]立《たてず》して、只《たゞ》人數《にんず》丸《まる》に御置候《おんおきさふらう》て、皆《みな》/\下《しも》に居《ゐ》よ、やすめよと下知《げち》し玉《たま》ひ、事靜《ことしづ》まりて、御馬《おんうま》の口取《くちとり》一|人《にん》も|無[#レ]之《これなく》、御馬印《おうまじるし》一つ、御馬《おうま》の先《さき》え十|間《けん》計《ばかり》御隔《おんへだ》て、只《ただ》一|騎《き》にて彼總構迄《かのそうがまへまで》御馬《おんうま》を近《ちかづ》け|被[#レ]成候《なされさふらふ》。内《うち》よりは、慥《たしか》に御馬印也《おんうまじるしなり》、馬上《ばじやう》は一|騎也《きなり》、是《これ》を討《うつ》も|無[#レ]詮事《せんなきこと》ぞ、討《うつ》なと鐵砲大將共《てつぱうたいしやうども》下知《げち》する也《なり》。
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城内《じやうない》よりは發砲《はつぱう》した、城外《じやうぐわい》よりは攻《せ》め掛《かゝ》らんとした。然《しか》も秀吉《ひでよし》は之《これ》を制《せい》し、自《みづ》から一|騎《き》打《うち》にて、城内《じやうない》に乘《の》り入《い》らんとする也《なり》。
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一、秀吉《ひでよし》は近※[#二の字点、1-2-22]《ちか/″\》と御馬《おんうま》を|被[#レ]寄《よせられ》、御腰《おんこし》よりざいを拔出《ぬきいだ》し、是《これ》は筑前守《ちくぜんのかみ》ぞや、見知《みし》りたるか、鐵砲《てつぱう》討《うつ》な/\と|被[#レ]仰《おほせられ》しかば。内《うち》には皆《みな》見《み》しり奉《たてまつ》りたる人《ひと》多《おほ》し、それより鐵砲《てつぱう》|不[#レ]可[#レ]討《うつべからず》とて、堅《かたく》下知《げち》する也《なり》。
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此《かく》の如《ごと》くして秀吉《ひでよし》は、漸《やうや》く城内《じやうない》に近《ちかづ》いた。

[#5字下げ][#中見出し]【四四】秀吉と利家(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

凡《およ》そ天下《てんか》に豪傑《がうけつ》多《おほ》きも、秀吉程《ひでよしほど》人間《にんげん》を取《と》り扱《あつか》ふの能手《のうしゆ》はあるまい。殆《ほと》んど總《すべ》ての事《こと》に、信長《のぶなが》の足跡《そくせき》を辿《たど》りたるも、此《こ》の一|點《てん》は、信長《のぶなが》も到底《たうてい》秀吉《ひでよし》には及《およ》ばなかつた。彼《かれ》は一|種《しゆ》の魔術師《まじゆつし》であつた、何人《なんびと》も一たび彼《かれ》を見《み》れば、彼《かれ》に心醉《しんすゐ》するを禁《きん》じ得《え》なかつた。而《しか》して一たび心醉《しんすゐ》したる者《もの》は、死《し》に抵《いた》る迄《まで》醒《さ》めなかつた。前田利家《まへだとしいへ》の如《ごと》きは、其《そ》の尤《もつと》も顯著《けんちよ》なる、實例《じつれい》の一と云《い》ふ可《べ》きものぢや。
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一、秀吉《ひでよし》あや表裏《へうり》なく、城《しろ》の大手《おほて》大門《おほもん》まで御馬《おうま》を乘付給《のりつけたま》へば、折節《をりふし》矢倉之《やぐらの》番衆《ばんしゆう》高畠石見《たかばたけいはみ》、奧村助右衞門《おくむらすけうゑもん》、矢倉《やぐら》よりとんでおり、大門《おほもん》の戸《と》びらを兩方《りやうはう》へ押開《おしひら》き、御馬《おうま》を直《すぐ》に|被[#二]召入[#一]《めしいれられ》よと申上候處《まをしあげさふらふところ》に、はや御馬《おうま》よりおりさせ給《たま》ふ所《ところ》え、彼兩人《かのりやうにん》御馬《おうまの》口《くち》を取候《とりさふら》へ者《ば》、兩人《りやうにん》の者《もの》は、内々《ない/\》御存《ごぞん》じの者也《ものなり》。又左衞門殿父子《またざゑもんどのふし》何事《なにごと》なく、歸城候哉《きじやうさふらふや》と御尋《おたづね》|被[#レ]成候處《なされさふらふところ》に。兩人申上候《りやうにんまをしあげさふらふ》は何事《なにごと》なく、父子共《ふしとも》に歸城《きじやう》|被[#レ]仕候《つかまつられさふらふ》と申上候《まをしあげさふら》へば、それより二|人《にん》の者《もの》御共《おんとも》にて、内《うち》え|被[#二]入せ[#一]間《いらせられしま》に、又左衞門殿《またざゑもんどの》者《もの》ども、勝家《かついへ》敗軍《はいぐん》の時《とき》、卷合《まきあひ》に相《あひ》|被[#レ]討《うたれ》たる者《もの》はなきかと御尋《おたづね》ありければ。其儀《そのぎ》にて御座候《ござさふらふ》、内々《ない/\》御存《ごぞんじ》|被[#レ]成候《なされさふらひ》つる、小塚藤左衞門《こづかとうざゑもん》討死仕候《うちじにつかまつりさふらふ》と申上候得《まをしあげさふらえ》ば、其外《そのほか》又《また》は誰々《たれ/″\》ぞ。其外《そのほか》のものは御存《ごぞんじ》|被[#レ]成間敷候《なされまじくさふらふ》、五六|人《にん》も卷合《まきあひ》に|相被[#レ]討候《あひうたれさふらふ》と申上候《まをしあげさふらふ》。秀吉《ひでよし》も心《こゝろ》にはさあるべきとは、思出《おもひいだ》したりつれど、互《たがひ》の亂合戰《みだれかつせん》なれば、|可[#レ]分樣《わくべきやう》更《さら》になし、|不[#レ]及[#二]是非[#一]次第《ぜひにおよばざるしだい》と御意也《ぎよいなり》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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秀吉《ひでよし》の用意《ようい》や、實《じつ》に周到《しうたう》ではない乎《か》。彼《かれ》は先《ま》づ亂軍《らんぐん》の捲添《まきぞへ》に遭《あ》うた者《もの》に就《つい》て、尋問《じんもん》した。
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一、又左衞門殿《またざゑもんどの》は父子《ふし》|被[#二]出向[#一]《いでむかはれ》、是迄《これまで》の御出《おんいで》、目出度《めでた》さ又《また》は忝事《かたじけなきこと》|難[#二]申上[#一]《まをしあげがたく》、候《さふらふ》とて、へい地《ち》もんを開《ひら》き、書院通《しよゐんをとほ》り|奉[#レ]入《いれまつらん》とせうじ玉《たま》ふ所《ところ》に、臺所《だいどころ》かまの前通《まへをとほ》[#ルビの「まへをとほ」は底本では「ほへをとほ」]り御入候《おんいりさふらふ》。御意《ぎよい》には先《まづ》御内儀樣《ごないぎさま》へ御目《おんめ》にかゝり、播磨《はりま》の娘《むすめ》(利家の女を、秀吉養女とす)[#「(利家の女を、秀吉養女とす)」は1段階小さな文字]息災之通《そくさいのとほり》|可[#レ]申候間《まをすべくさふらふあひだ》、直《たゞち》に又左衞門殿《またざゑもんどの》御前《ごぜん》の御座所《ござしよ》へ、草鞋《わらぢ》も御脱《おぬぎ》なく、つゝと|被[#レ]成[#二]御入[#一]候處《おんいりなされさふらふところ》に、又左衞門殿《またざゑもんどの》御前《ごぜん》も御立向《おんたちむかひ》|被[#レ]成候《なされさふら》へば、先《まづ》申上候《まをしあげさふらふ》。今朝之《こんてうの》合戰《かつせん》、亭主《ていしゆ》又左衞門殿《またざゑもんどの》御《おん》かたせ|被[#レ]成候《なされさふらふ》との御意《ぎよい》にて、其《その》[#ルビの「その」は底本では「そゝ」]まゝ|御手《おんて》を|被[#レ]合候《あはされさふらふ》。次《つぎ》の御言葉《おんことば》に、申請候《まをしうけさふらふ》娘《むすめ》、播州《ばんしう》より此中《このぢゆう》も申來候《まをしきたりさふらふ》、一|段《だん》成人《せいじん》仕《つかまつり》、殊《こと》に息災之由《そくさいのよし》、切々《せつ/\》申越候《まをしこしさふらふ》と|被[#レ]仰候《おほせられさふら》へば、又左衞門殿《またざゑもんどの》御前《ごぜん》久《ひさ》/″\|不[#レ]懸[#二]御目[#一]候處《おんめにかゝらずさふらふところ》に、是迄《これまで》の御出《おんいで》は不慮《ふりよ》に|懸[#二]御目に[#一]候《おんめにかゝりさふらふ》。殊《こと》に御合戰《ごかつせん》目出度《めでたく》、御心《おんこゝろ》のまゝの由《よし》、女《をんな》の身《み》にても誠《まこと》に此上《このうへ》の目出度《めでたき》御人《おひと》あるまじきとの、御挨拶《ごあいさつ》にて候處《さふらふところ》に。秀吉《ひでよし》御返事《ごへんじ》右《みぎ》に|如[#二]申上候[#一]《まをしあげさふらふごとく》、合戰《かつせん》心《こゝろ》のまゝに相任《あひまか》せ候事《さふらふこと》、偏《ひとへ》に又左衞門殿《またざゑもんどの》御《お》かげにて御座候《ござさふらふ》。北之庄《きたのしやう》え急申間《いそぎまをすあひだ》、御盃《おさかづき》を|被[#レ]下《くだされ》、早々《さう/\》|可[#二]罷立[#一]候《まかりたつべくさふらふ》。同《おなじく》は是《これ》より亭主《ていしゆ》雇《やとひ》|可[#レ]申《まをすべし》と|被[#レ]仰候内《おほせられさふらふうち》に、御盃《おさかづき》|如[#二]御指圖[#一]《おさしづのごとく》、とりあへず盃《さかづき》の御取《おんと》り換《かは》し|被[#レ]成候《なされさふらふ》。秀吉《ひでよし》御意《ぎよい》には、冷飯御座候《ひやめしござさふら》はゞ|可[#レ]被[#レ]下《くださるべし》と|被[#レ]仰候《おほせられさふらふ》。是《これ》も取《とり》あへずに冷飯《ひやめし》あがり申候《まをしさふらふ》とひとしく、はや|被[#レ]成[#二]御立[#一]候《おたちなされさふらふ》。御意《ぎよい》には孫《まご》四|郎《らう》殿《どの》(利長)[#「(利長)」は1段階小さな文字]は是《これ》に御袋樣《おふくろさま》の御伽《おとぎ》に御置候《おおきさふら》へ、又左衞門殿《またざゑもんどの》は巧者《こうしや》の事《こと》に候間《さふらふあひだ》、同道《どうだう》|可[#レ]申候《まをすべくさふらふ》。さらば目出度《めでたく》歸陣之時《きぢんのとき》罷寄《まかりより》、其時者《そのときは》是《これ》にゆる/\と、五三|日《にち》も逗留《とうりう》|可[#レ]仕候《つかまつるべくさふらふ》と|被[#レ]仰候《おほせられさふら》へば、又左衞門殿《またざゑもんどの》御前《ごぜん》も、臺所《だいどころ》の口迄《くちまで》御打送候事《おんうちおくりさふらふこと》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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政治上《せいぢじやう》に、婦人《ふじん》の勢力《せいりよく》を認《みと》めたのは、秀吉《ひでよし》である。利家《としいへ》の結婚《けつこん》は、秀吉夫婦《ひでよしふうふ》の肝煎《きもいり》に成《な》つたとの傳説《でんせつ》は、果《はた》して信《しん》ずべき乎《か》、否乎《いなか》、又《ま》た政春古兵談《まさはるこへいだん》の所記《しよき》の如《ごと》く、
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芳春院《はうしゆんゐん》(利家夫人)[#「(利家夫人)」は1段階小さな文字]は秀吉公《ひでよしこう》政所樣《まんどころさま》の御肝煎《おんきもいり》にて、御嫁《おんよめ》娶《めとり》、御小身《ごせうしん》より御互《おたがひ》に御知音《ごちいん》にて、安土《あづち》にても、御隣《おとなり》屋敷《やしき》の屏《へい》なり、木槿垣《もくげがき》にて、日《ひ》の内《うち》に幾度《いくたび》も、晝夜《ちうや》此方此方《かなたこなた》え一|刀《たう》にて御往來《ごわうらい》、御咄《おはなし》の由也《よしなり》。備前《びぜん》秀家《ひでいへ》の御内室《ごないしつ》御出立《ごしゆつたつ》の時《とき》は、秀吉公《ひでよしこう》御付《おつき》|被[#レ]成[#二]御座[#一]候《ござなされさふらう》て、男子《なんし》にても、女子《によし》にても、我等《われら》の子《こ》に貰《もらふ》とて、御誕生《ごたんじやう》と等《ひと》しく御懷中《ごくわいちゆう》|被[#レ]成《なされ》、御歸《おかへり》の由也《よしなり》。
[#ここで字下げ終わり]
であつた乎《か》、否乎《いなか》は、姑《しばら》く惜《お》き。其《そ》の關係《くわんけい》の親密《しんみつ》であつた事《こと》は、疑《うたがひ》を容《い》るゝ|餘地《よち》がなかつた。而《しか》して此《こ》の關係《くわんけい》を、最《もつと》も利用《りよう》するに於《おい》て、拔《ぬ》け目《め》のなかつた事《こと》は、實《じつ》に秀吉《ひでよし》の獨特《どくとく》の手腕《しゆわん》と云《い》はねばならぬ。

[#5字下げ][#中見出し]【四五】秀吉と利家(三)[#「(三)」は縦中横][#中見出し終わり]

前田利家《まへだとしいへ》の夫人《ふじん》も亦《ま》た、戰國時代《せんごくじだい》の婦女《ふぢよ》として、最《もつと》も思慮《しりよ》あり、度胸《どきよう》ある賢夫人《けんぷじん》であつた。
[#ここから1字下げ]
一、孫《まご》四|郎《らう》殿《どの》御袋《おふくろ》、孫《まご》四|郎《らう》殿《どの》え|被[#レ]仰候《おほせられさふらふ》は、早々《さう/\》御供《おとも》に|被[#レ]參候《まゐられさふらふ》よ。跡《あと》ははや/\あたり近邊《きんぺん》に、敵《てき》の有事《あること》にてもなし。假令《たとひ》さある事《こと》ありても|不[#レ]苦《くるしからず》、はや/\と|被[#二]仰渡[#一]事《おほせわたされしこと》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
彼女《かれ》は其《そ》の子《こ》利長《としなが》をして、留《とゞま》りて城《しろ》を守《まも》るよりも、速《すみや》かに秀吉《ひでよし》と與《とも》に、北莊《きたのしやう》へ發向《はつかう》す可《べ》く命《めい》じた。蓋《けだ》し府中《ふちゆう》の城《しろ》は、彼女《かれ》自《みづ》から之《これ》を守《まも》るも、決《けつ》して子細《しさい》はなしと、信《しん》じたのであらう。それよりも此《こ》の場合《ばあひ》は、前田家《まへだけ》の安危存亡《あんきそんばう》に關《くわん》する一|大機《だいき》たるを、認《みと》めたからであらう。持《も》つべきものは善《よ》き女房《にようばう》である。
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一、又左衞門殿《またざゑもんどの》は早々《さう/\》出立《しゆつたつ》、孫《まご》四|郎《らう》殿《どの》に|被[#二]仰聞[#一]候《おほせきけられさふらふ》。其樣子《そのやうす》は我等事《われらこと》は、秀吉《ひでよし》先手《さきて》の御人數《ごにんず》よりも先《さき》え通《とほ》るぞよ。汝《なんぢ》は秀吉《ひでよし》の御馬《おうま》の次《つぎ》を|可[#レ]乘《のるべき》なり。但《たゞし》馬取《うまとり》二|人《にん》迄《まで》、かち若黨以下《わかたういか》に至《いた》るまで、其廻《そのまは》りに|不[#レ]可[#レ]置候《おくべからずさふらふ》、申聞通《まをしきけしとほり》にて御供候《おともさふら》へと|被[#レ]仰《おほせらる》。又左衞門殿《またざゑもんどの》は秀吉《ひでよし》先手《さきて》よりも、猶《なほ》又《また》十四五|町《ちやう》も御先《おんさき》え御馬《おうま》を|被[#レ]進《すゝめられ》、勝家居城《かついへきよじやう》へ駒《こま》を速《はや》め給《たま》ふ也《なり》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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利家《としいへ》の用意《ようい》も亦《ま》た、綿密《めんみつ》であつた。彼《かれ》は自《みづ》から先《さき》を駈《か》け、其子《そのこ》を秀吉《ひでよし》の次《つぎ》に隨《したが》はしめ、然《しか》も特《とく》に馬夫《ばふ》二|人《にん》以外《いぐわい》に、何等《なんら》の從者《じゆうしや》をも具《ぐ》せしめず。乃《すなは》ち秀吉《ひでよし》をして疑猜《ぎさい》を容《い》るゝの地《ち》なからしめた。
抑《そもそ》も柴田《しばた》と、秀吉《ひでよし》との戰爭《せんさう》は、全《まつた》く双方《さうはう》に於《おい》て、決死《けつし》の戰爭《せんさう》であつた。此間《このかん》に何等《なんら》調停《てうてい》の餘裕《よゆう》はなかつた。然《しか》るに單《ひと》り利家《としいへ》のみは、柴田《しばた》よりも感謝《かんしや》せられ、秀吉《ひでよし》よりも感謝《かんしや》せられ、而《しか》して此《こ》の險仄《けんそく》の間《かん》に處《しよ》して、其家《そのいへ》を保《たも》つのみならず、却《かへつ》て之《これ》を擴大《くわくだい》したるは、如何《いか》にも彼《かれ》は、世渡《よわた》りの上手者《じやうずもの》と云《い》はねばなるまい。然《しか》も彼《かれ》は故《ことさ》らに、此間《このかん》に功智《こうち》を弄《ろう》したのではなかつた。
所謂《いはゆ》る正直《しやうぢき》は、最善《さいぜん》の政策《せいさく》なりてふ警句《けいく》は、彼《かれ》に於《おい》て其《そ》の實例《じつれい》を見出《みいだ》したのだ。然《しか》も彼《かれ》は決《けつ》して、莫迦正直《ばかしやうぢき》ではなかつた。彼《かれ》は處世《しよせい》の術《じゆつ》に於《おい》ても、決《けつ》して粗笨《そほん》ではなかつた。然《しか》も彼《かれ》は、恒《つね》に自《みづ》から立脚《りつきやく》の地《ち》を占《し》め、他《た》に雷同《らいどう》せず、其《そ》の成《な》す可《べ》きを成《な》し、其《そ》の行《ゆ》く可《べ》きを行《ゆ》いた。彼《かれ》は一|生《しやう》を通《つう》じて、智者《ちしや》の名《な》なく、策士《さくし》の名《な》なく、其《そ》の少壯《せうさう》の時《とき》は、勇者《ゆうしや》として通《とほ》り、中年以後《ちゆうねんいご》は、沈深《ちんしん》、重厚《ぢゆうこう》の長者《ちやうじや》として通《とほ》つた。然《しか》も其實《そのじつ》は、利家《としいへ》には策士《さくし》よりも策《さく》があり、智者《ちしや》よりも智《ち》があつた。以上《いじやう》は川角太閤記《かはかくたいかふき》の記事《きじ》に據《よ》つたが、賤岳合戰記《しづがたけかつせんき》には、
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翌日《よくじつ》廿二|日《にち》に、同國府中《どうこくふちゆう》の城主前田又左衞門尉利家《じやうしゆまへだまたざゑもんのじようとしいへ》方《かた》へ、御小姓《おこしやう》一|人《にん》召具《めしぐ》し、門前《もんぜん》より大聲《おほごゑ》を揚《あ》げ、又左《またざ》/\秀吉《ひでよし》是迄《これまで》來《きた》る也《なり》。對面《たいめん》申《まを》さんと呼《よば》はり給《たま》へば、又左衞門《またざゑもん》立出《たちいで》、面目《めんもく》も|無[#二]御座[#一]候《ござなくさふらふ》。追付《おつつ》け自害《じがい》せしむ可《べ》きと|被[#レ]申《まをされ》ければ、公《こう》の曰《いは》く、利家《としいへ》いや/\其儀《そのぎ》に非《あら》ず。其方《そなた》と我等《われら》とは、年《とし》久《ひさ》しく心底《しんてい》隔《へだて》なく、語《かた》る也《なり》。其《そ》れは他所《よそ》がましき申樣也《まをしやうなり》。侍《さむらひ》の習《ならひ》にて、敵《てき》と成《な》り味方《みかた》となるも、時《とき》の是非《ぜひ》に因《よ》るもの也《なり》。貴殿《きでん》我等《われら》に遺憾《ゐかん》は候《さふら》はじ。柴田《しばた》を亡《ほろぼ》すと云《い》ふとも、天下《てんか》の大事《だいじ》を抱《かゝ》へたり。以來《いらい》頼《たの》み申《まを》さん、北《きた》の庄《しやう》の案内《あんない》し給《たま》へと、御用心《ごようじん》も無《な》き體《てい》なれば、頓《やが》て御請申上《おうけまをしあげ》られける。
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とある。又《ま》た加賀藩市稾《かがはんしかう》には、
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柴田勝家《しばたかついへ》、數騎《すき》を以《もつ》て至《いた》る。公《こう》出《い》でゝ|之《これ》を迎《むか》ふ。勝家《かついへ》愧色《きしよく》あり、公《こう》慰藉《ゐしや》して曰《いは》く、勝敗《しようはい》は兵《へい》の常《つね》、今《いま》將《は》た何《なに》をか言《いは》ん、公《こう》其北莊《それきたのしやう》に歸《かへ》り、更《さら》に守備《しゆび》を爲《な》せ、某《それがし》亦《また》城《しろ》に嬰《よ》り以《もつ》て戰《たゝか》はんと、勝家《かついへ》謝《しや》して去《さ》る。公《こう》乃《すなはち》守備《しゆび》を修《しう》す。既《すで》にして秀吉《ひでよし》の軍《ぐん》來《きた》り圍《かこ》む。銃《じゆう》を發《はつ》し之《これ》を禦《ふせ》ぐ。秀吉《ひでよし》堀秀政《ほりひでまさ》をして來《きた》りて和《わ》を議《ぎ》せしむ。公《こう》肯《がへん》ぜず。會※[#二の字点、1-2-22]《たま/\》公女《こうぢよ》の北莊《きたのしやう》に質《ち》たる者《もの》還《かへ》る。頃之《しばらく》して秀吉《ひでよし》躬《みづか》ら城門《じやうもん》に踵《いた》り面《めん》せんことを請《こ》ふ。公《こう》其《そ》の坦懷《たんくわい》なるに感《かん》じ、城《しろ》を出《い》でゝ|之《これ》に見《まみ》え、首《しゆ》として勝家《かついへ》の死《し》を宥《ゆる》さんことを請《こ》ふ。秀吉《ひでよし》之《これ》を納《い》る、是《こゝ》に於《おい》て和《わ》成《な》る。
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とある。上記《じやうき》各書《かくしよ》の異同《いどう》を辯析《べんせき》することは、姑《しばら》く措《お》き。但《た》だ秀吉《ひでよし》が、親《した》しく利家《としいへ》に面《めん》して、其《そ》の腹心《ふくしん》を披《ひら》き、遂《つひ》に利家《としいへ》をして、全《まつた》く秀吉《ひでよし》に歸服《きふく》せしめたる一|事《じ》は、何《いづ》れも一|致《ち》して居《を》る。此《こ》れよりして利家《としいへ》は、其《そ》の一|生《しやう》を通《つう》じて、秀吉《ひでよし》無《む》二の親友《しんいう》となり、前田氏《まへだし》は、豐臣氏《とよとみし》無《む》二の忠臣《ちゆうしん》となつた。
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