第八章 柳ヶ瀬役
戻る ホーム 上へ 進む

 

高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正、再校正

[#4字下げ][#大見出し]第八章 柳ヶ瀬役[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【三五】兩軍の對抗[#中見出し終わり]

柴田勢《しばたぜい》と、秀吉勢《ひでよしぜい》とは、柳瀬附近《やながせふきん》に於《おい》て、互《たが》ひに嶮岨《けんそ》に據《よ》りて、睨合《にらみあひ》の姿《すがた》であつた。豐鑑《ほうかん》にも、『此所《ここ》は山《やま》深《ふかく》して道《みち》細《ほそ》く、谷《たに》に續《つゞき》ぬれば、敵《てき》も味方《みかた》も、輙《たやす》くかけ合《あは》すべき樣《やう》にもあらず。陣《ぢん》を堅《かた》くして互《たがひ》に日《ひ》を過《すご》しけり。』と云《い》うて居《を》る。今《いま》試《こゝろ》みに兩軍《りやうぐん》の勢力《せいりよく》を比較《ひかく》すれば、概《がい》して左《さ》の如《ごと》しと思《おも》はる。
去年《きよねん》(天正十年)[#「(天正十年)」は1段階小さな文字]の上半期迄《かみはんきまで》は、總《すべ》ての點《てん》に於《おい》て、柴田《しばた》第《だい》一、羽柴《はしば》第《だい》二であつた。然《しか》も山崎合戰以來《やまざきかつせんいらい》、秀吉《ひでよし》の威望《ゐばう》は頓《とみ》に加《くはは》り、其《そ》の勢圜《せいくわん》は、爾後《じご》半年間《はんねんかん》に、長足《ちやうそく》の進歩《しんぽ》をなした。要《えう》するに勝家《かついへ》の勢力《せいりよく》は、別段《べつだん》減退《げんたい》したるにあらざるも、秀吉《ひでよし》の勢力《せいりよく》は、非常《ひじやう》に増進《ぞうしん》した。此《こゝ》に於《おい》て兩者《りやうしや》勢力《せいりよく》の權衡《けんかう》は、全《まつた》く顛倒《てんたう》して、更《さ》らに其《そ》の差異《さい》の程度《ていど》を、劇甚《げきじん》ならしめた。
當時《たうじ》秀吉方《ひでよしがた》は、播州姫路《ばんしうひめぢ》を根據《こんきよ》とする秀吉《ひでよし》、但馬出石《たじまいづし》にある秀長《ひでなが》、丹波龜山《たんばかめやま》にある秀勝《ひでかつ》、攝津大阪《せつつおほさか》の池田勝入《いけだしようにふ》、大和郡山《やまとこほりやま》の筒井順慶《つゝゐじゆんけい》、近江長溝《あふみながみぞ》の丹羽長秀《にはながひで》、同《おなじく》日野《ひの》の蒲生氏郷《がまふうぢさと》、丹後田邊《たんごたなべ》の細川藤孝《ほそかはふぢたか》、美濃兼山《みのかねやま》の森長可《もりながよし》、攝津茨木《せつついばらき》の中川清秀《なかがはきよひで》、同《おなじく》高槻《たかつき》の高山長房《たかやまながふさ》、因幡鳥取《いなばとつとり》の宮部繼潤《みやべけいじゆん》、淡路洲本《あはぢすもと》の仙石秀久《せんごくひでひさ》、近江肥田《あふみひだ》の蜂屋頼隆《はちやよりたか》、同《おなじく》佐和山《さわやま》の堀秀政《ほりひでまさ》、同《おなじく》長濱《ながはま》の柴田勝豐《しばたかつとよ》にて、其《そ》の石高《こくだか》は二百六七十|萬石《まんごく》にして、其《そ》の兵數《へいすう》は六|萬《まん》六七千|人《にん》に上《のぼ》つた。之《これ》に加《くは》へ與國《よこく》としては、織田信雄《おだのぶを》の尾張《をはり》、伊勢《いせ》、伊賀《いが》に蟠《わだかま》るあり。宇喜多秀家《うきたひでいへ》の備前《びぜん》、備中美作《びつちゆうみまさか》に蔓《はびこ》るあり。是等《これら》の兵數《へいすう》を合計《がふけい》すれば、十|萬餘《まんよ》にも上《のぼ》るであらう。然《しか》も秀吉《ひでよし》は、其《そ》の兵力《へいりよく》を擧《あ》げて、來《き》た譯《わけ》ではない。彼《かれ》は池田《いけだ》、筒井《つゝゐ》、宇喜多《うきた》、宮部《みやべ》、仙石等《せんごくら》をして、各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》留《とゞま》りて、其《そ》の隣境《りんきやう》に備《そな》へしめたが爲《た》め、實際《じつさい》此《こ》の戰役《せんえき》に、使用《しよう》し得《え》たる兵數《へいすう》は、恐《おそ》らくは六|萬《まん》内外《ないぐわい》であつたらう。
却説《さて》柴田方《しばたがた》は、越前北莊《ゑちぜんきたのしやう》の勝家《かついへ》、能登七尾《のとなゝを》の前田利家《まへだとしいへ》、加賀尾山《かゞをやま》の佐久間盛政《さくまもりまさ》、越前大野《ゑちぜんおほの》の金森長近《かなもりながちか》、加賀松任《かゞまつたふ》の徳山則秀《とくやまのりひで》、越中富山《ゑつちゆうとやま》の佐々成政等《さつさなりまさら》にして、其《そ》の石高《こくだか》は百七八十|萬石《まんごく》、其《そ》の兵數《へいすう》は四|萬《まん》四五千|人《にん》たりしならむ。此《こ》の外《ほか》美濃伊勢《みのいせ》に於《お》ける織田信孝《おだのぶたか》、伊勢《いせ》に於《お》ける瀧川一益等《たきがはかずますら》の所領《しよりやう》を加《くは》へば、合計《がふけい》にて六|萬《まん》二千|内外《ないぐわい》ならむ。然《しか》も佐々《さつさ》は上杉景勝《うへすぎかげかつ》に備《そな》ふる必要《ひつえう》よりして、此《こ》の戰爭《せんさう》には直接《ちよくせつ》參加《さんか》せなかつた。
此《かく》の如《ごと》く兩軍《りやうぐん》は、未《いま》だ戰鬪《せんとう》を交《まじ》へざる以前《いぜん》に於《おい》て、既《すで》に兵力《へいりよく》の上《うへ》に、少《すくな》からざる等差《とうさ》があつた。而《しか》して更《さら》に士氣《しき》の上《うへ》より觀察《くわんさつ》すれば、秀吉《ひでよし》の軍《ぐん》は、其《そ》の客將《かくしやう》丹羽長秀《にはながひで》を除《のぞ》けば、何《いづ》れも秀吉《ひでよし》によりて、前途《ぜんと》の運命《うんめい》を、開拓《かいたく》せんとする者共《ものども》であつた。而《しか》して長秀《ながひで》の如《ごと》きも、此《こ》の糾紛《きうふん》したる時局《じきよく》を、收拾《しうしふ》するの任《にん》に勝《た》ふるは、只《た》だ秀吉《ひでよし》である※[#こと、175-9]を認定《にんてい》し、中心《ちゆうしん》より秀吉《ひでよし》に味方《みかた》したるものであつた。
之《これ》に反《はん》して柴田方《しばたがた》は、佐々成政《さつさなりまさ》の如《ごと》きは、單《たん》に秀吉《ひでよし》に快《こゝろよ》からざる爲《た》めに、柴田《しばた》に味方《みかた》したる迄《まで》であつて、特《とく》に前田利家《まへだとしいへ》の如《ごと》きは、其《そ》の領土《りやうど》が柴田《しばた》に隣《とな》りする關係上《くわんけいじやう》、餘儀《よぎ》なく參加《さんか》したる迄《まで》で、秀吉《ひでよし》とは、其《そ》の交情《かうじやう》尤《もつと》も親密《しんみつ》であれば、飽迄《あくまで》秀吉《ひでよし》と戰《たゝか》はんとする意志《いし》なきは勿論《もちろん》、寧《むし》ろ局外中立《きよくぐわいちゆうりつ》を本意《ほんい》としたる者《もの》であらう。されば其《そ》の士氣《しき》の上《うへ》に於《おい》ても、秀吉方《ひでよしがた》は、積極的《せききよくてき》に振《ふる》ひ、柴田方《しばたがた》は、消極的《せうきよくてき》に現状《げんじやう》を維持《ゐぢ》した。
さりながら柴田勢《しばたぜい》を以《もつ》て、文弱《ぶんじやく》の朝倉勢《あさくらぜい》と、同《どう》一|視《し》す可《べ》きでない。柴田《しばた》は當年《たうねん》五十四|歳《さい》の老兵《らうへい》で、壯年《さうねん》の鬼柴田《おにしばた》の威風《ゐふう》は、尚《な》ほ凛々《りん/\》として存《そん》して居《ゐ》た。其《そ》の部將《ぶしやう》佐久間盛政《さくまもりまさ》の如《ごと》きは、萬夫不當《ばんぷふたう》の驍將《げうしやう》であつた。彼等《かれら》は輕擧《けいきよ》せず、躁進《さうしん》せず、徐《おもむ》ろに其《そ》の乘《じよう》ずべき機會《きくわい》を俟《ま》つた。是亦《これま》た與《くみ》し易《やす》からざる強敵《きやうてき》ぢや。

[#5字下げ][#中見出し]【三六】兩軍決戰の導火線[#中見出し終わり]

今《い》ま兩軍《りやうぐん》對峙《たいじ》の模樣《もやう》を示《しめ》せば、秀吉軍《ひでよしぐん》は、其《そ》の第《だい》一|線《せん》に、堀秀政《ほりひでまさ》五千|人《にん》、東野山《ひがしのやま》に屯《たむろ》し、小川祐忠《をがはすけたゞ》千|人《にん》、北國街道中之郷《ほくこくかいだうなかのがう》の北《きた》に屯《たむろ》し、山路正國《やまぢまさくに》、木下半右衞門《きのしたはんうゑもん》五百|人《にん》、堂木山《だんぎやま》に屯《たむろ》し、木村重茲《きむらしげとし》、大金藤《おほがねとう》八|郎《らう》五百|人《にん》、神明山《しんめいやま》に屯《たむろ》し。東野山《ひがしのやま》の麓《ふもと》より堂木山《だんぎやま》に至《いた》る迄《まで》、壕《ほり》を鑿《うが》ち、堤《つゝみ》を築《きづ》き、柵《さく》を構《かま》へ、用心堅固《ようじんけんご》であつた。當時《たうじ》柴田勝豐《しばたかつとよ》は、病《やまひ》を京都《きやうと》に養《やしな》ひ─|幾《いくばく》もなく死《し》す─つゝありしを以《もつ》て、其《そ》の部將《ぶしやう》大金《おほがね》、山路等《やまぢら》之《これ》に代《かは》つた。
第《だい》二|線《せん》は、岩崎山《いはさきやま》高山長房《たかやまながふさ》千|人《にん》、大岩山《おほいはやま》中川清秀《なかがはきよひで》千|人《にん》、賤岳《しづがたけ》桑山重晴《くはやましげはる》千|人《にん》、田上山《たがみやま》羽柴秀長《はしばひでなが》一|萬《まん》五千|人《にん》、内《うち》若干《じやくかん》は木之本《きのもと》に分屯《ぶんとん》した。而《しか》して秀吉《ひでよし》は、丹羽長秀《にはながひで》に矚《しよく》するに、湖北《こほく》の警備《けいび》を以《もつ》てし、海津《かいづ》に長秀《ながひで》七千|餘人《よにん》を屯《たむろ》し、其子《そのこ》長重《ながしげ》三千|人《にん》を率《ひき》ゐて、敦賀方面《つるがはうめん》の監視《かんし》に任《にん》じた。秀吉《ひでよし》は又《ま》た細川忠興《ほそかはたゞおき》に命《めい》じ、丹後《たんご》に還《かへ》り、舟師《しうし》を以《もつ》て、越前《ゑちぜん》の沿海《えんかい》を脅制《けふせい》せしめた。
柴田方《しばたがた》は、別所山《べつしよやま》に前田利家《まへだとしいへ》、其子《そのこ》利長《としなが》、橡谷山《とちだにやま》に徳山則秀《とくやまのりひで》、同《おなじく》金森長近《かなもりながちか》、林谷山《はやしだにやま》に不破勝光《ふはかつみつ》、中谷山《なかたにやま》に原房親《はらふさちか》第《だい》一|線《せん》たり。第《だい》二|線《せん》には、佐久間盛政等兄弟《さくまもりまさらきやうだい》、行市山《ゆきいちやま》に屯《たむろ》し、此《これ》より柴田本陣《しばたほんぢん》中尾山迄《なかをやままで》、幅《はゞ》二|間《けん》の交通路《かうつうろ》を、山上《さんじやう》に拓《ひら》いた。而《しか》して柴田勢《しばたぜい》は、持重《ぢちよう》して容易《ようい》に動《うご》く可《べ》き模樣《もやう》も、見《み》えなかつた。
秀吉《ひでよし》は、柴田勢《しばたぜい》の出《い》で來《きた》るを聞《き》き、三|月《ぐわつ》十七|日《にち》、伊勢陣《いせぢん》より柳瀬附近《やながせふきん》に來《きた》り、自《みづ》から敵情《てきじやう》を偵察《ていさつ》して、守備《しゆび》の部署《ぶしよ》を定《さだ》め、二十七|日《にち》長濱《ながはま》に還《かへ》り、四|月《ぐわつ》中旬迄《ちゆうじゆんまで》約《やく》二十|日間《かかん》此處《このところ》にありて、敵軍《てきぐん》の動靜《どうせい》を候察《こうさつ》しつゝあつたが。其《そ》の容易《ようい》に現状《げんじやう》に變化《へんくわ》を來《きた》さゞるを見《み》、四|月《ぐわつ》十七|日《にち》、二|萬《まん》の兵《へい》を率《ひき》ゐて、信孝《のぶたか》を攻《せ》む可《べ》く、美濃《みの》に赴《おもむ》いた。そは信孝《のぶたか》が去年末《きよねんまつ》、城下《じやうか》の盟《めい》をなしたるに拘《かゝは》らず、柴田勢《しばたぜい》の出《い》で來《きた》るを聞《き》くや、瀧川《たきがは》と策應《さくおう》して、兵《へい》を擧《あ》げ、氏家《うぢいへ》、稻葉等《いなばら》の所領《しよりやう》に放火《はうくわ》し、秀吉軍《ひでよしぐん》の側背《そくはい》を、脅《おびやか》さんとしたからであつた。
秀吉《ひでよし》は四|月《ぐわつ》十八|日《にち》、氏家《うぢいへ》、稻葉等《いなばら》に命《めい》じ、岐阜地方《ぎふちはう》に放火《はうくわ》せしめ、十九|日《にち》には、一|擧《きよ》して岐阜城《ぎふじやう》を陷《おとしい》る可《べ》く、總攻撃《そうこうげき》に著手《ちやくしゆ》せんとしたが、夜半《やはん》より大雨《たいう》にて、呂久川《ろくがは》、河渡川《かはとがは》共《とも》に漲《みなぎ》り、遂《つ》ひに其《そ》の目的《もくてき》を果《はた》し得《え》なかつた。然《しか》るに此際《このさい》に於《おい》て、意外《いぐわい》の出來事《できごと》が、突起《とつき》した。事《こと》の發端《ほつたん》は、柴田勝豐《しばたかつとよ》の部將《ぶしやう》山路將監正國《やまぢしやうげんまさくに》が裏切《うらぎり》から來《き》た。
山路《やまぢ》は勝家《かついへ》が、佐久間盛政《さくまもりまさ》と相議《あひぎ》し、丸岡城《まるをかじやう》、及《およ》び其《そ》の附近《ふきん》十二|萬石《まんごく》を與《あた》ふ可《べ》しとの、誘拐《いうかい》にて、其心《そのこゝろ》を變《へん》じ、先《ま》づ木村重茲《きむらしげとし》を殺《ころ》し、且《か》つ同僚《どうれう》の大金《おほがね》、木下等《きのしたら》を誘《いざな》ひ、遁走《とうそう》せんとしたが。偶《たまた》ま其事《そのこと》を木村《きむら》に告《つ》ぐる者《もの》あり、その爲《た》め、僅《わづ》かに身《み》を以《もつ》て、柴田勢《しばたぜい》に投《とう》じ、其《そ》の妻子《さいし》七|人《にん》は、四|月《ぐわつ》十六|日《にち》に磔殺《たくさつ》せられた。
[#ここから1字下げ]
本山之要害《もとやまのえうがい》に、心《こゝろ》を變《へん》ずる者《もの》有由《あるよし》、誰共《たれとも》なしに云出《いひいで》しかば、木村小隼人佐《きむらこはやとのすけ》(重茲)[#「(重茲)」は1段階小さな文字]を本丸《ほんまる》へ入《いれ》、大金藤《おほがねとう》八|郎《らう》、木下半右衞門《きのしたはんゑもん》、山路將監《やまぢしやうげん》を、外輪《そとわ》へ出《いだ》し、用心《ようじん》きび敷《しく》見《み》えし處《ところ》に、山路《やまぢ》卯月《うづき》(四月)[#「(四月)」は1段階小さな文字]十三|日之朝《にちのあさ》、小隼人佐《こはやとのすけ》へ茶《ちや》を申《まを》さんと約《やく》し、用意《ようい》しきりなり。此企《このくはだて》は木村《きむら》を討《うつ》て、柴田《しばた》が勢《せい》を本山《もとやま》へ引入《ひきいれ》んとの陰謀《いんぼう》とかや。然《しか》るを其夜《そのよ》子之刻《ねのこく》(午前零時)[#「(午前零時)」は1段階小さな文字]計《ばかり》に、木村《きむら》が門《もん》を叩《たゝ》く者《もの》あり。誰《たれ》ぞと番之者共《ばんのものども》問《とひ》ければ、御本陣《ごほんぢん》より急用之事《きふようのこと》にて有《ある》ぞ、先《まづ》門《もん》を啓《ひら》き候《さふら》へ。と云《い》ひしまゝ、隼人《はやと》に其旨《そのむね》告《つげ》し處《ところ》、大崎宇右衞門尉《おほさきうゑもんのじよう》聞候《きゝさふら》へと有《あり》しかば、即《すなはち》出向《いでむか》ひ何用之御事《なにようのおんこと》ぞ承候《うけたまはりさふらふ》べしと云《いひ》し時《とき》、いや御本陣《ごほんぢん》よりの御用《ごよう》には非《あら》ず候《さふらふ》。伊賀守《いがのかみ》(柴田勝豐)[#「(柴田勝豐)」は1段階小さな文字]具臣《ぐしん》野村勝次郎《のむらかつじらう》是《これ》まで參《まゐり》たる由《よし》申候《まをしさふら》へと有《ある》に因《よつ》て、大崎《おほさき》立歸《たちかへ》り、其由《そのよし》申《まをし》ければ、さらば内《うち》へ入《いれ》よとて、近習《きんじゆ》十|人計《にんばかり》、野村《のむら》が左右《さいう》に隨《したが》ひ屋裏《をくり》へ入《いり》しかば。野村《のむら》刀脇差《かたなわきざし》を大崎《おほさき》に渡《わた》し、密《ひそ》かに申上候《まをしあげさふら》はんと、やほら立寄《たちより》さゝやきけるは、山路將監《やまぢしやうげん》變心《へんしん》して候《さふらふ》。明朝《みやうてう》御茶《おちや》を申《まをし》、數寄屋《すきや》にて、御邊《ごへん》を|奉[#レ]討《うちたてまつり》、本山城《もとやまじやう》へ柴田《しばた》が勢《せい》を引入《ひきいれ》んとの事《こと》に、相極《あひきはま》りたる由《よし》云《いひ》ければ、木村《きむら》實《げに》左《さ》もあらんと覺《おぼ》えたり。さらば只今《たゞいま》逆寄《さかよせ》に|可[#二]討果[#一]《うちはたすべし》と有《あり》しを、野村《のむら》承《うけたまはり》、先《まづ》蒙氣之由《もうきのよし》|被[#二]仰遣[#一]《おほせつかはされて》、|被[#二]相延[#一]《あひのべられ》、明朝《みやうてう》御仕懸候《おんしかけさふら》はゞ、同類《どうるゐ》|不[#レ]殘《のこらず》討果《うちはた》され候《さふら》はんやと、差圖《さじづ》せしかば。尤《もつとも》なりとて、山路方《やまぢかた》へ、頓《にはか》に虫《むし》さし出《いで》痛候間《いたみさふらふあひだ》、明朝《みやうてう》は參《まゐる》まじき旨《むね》、使者《ししや》を遣《つかは》しければ、扨《さて》は此事《このこと》推量《すゐりやう》ありし也《なり》。反忠《かへりちゆう》を|無[#二]心許[#一]《こゝろもとなく》思《おも》ひ、密談之者共《みつだんのものども》、誰《たれ》かれと呼《よぶ》に、野村勝次郎《のむらかつじらう》ぞ居《をら》ざりける。反忠《かへりちゆう》此《こ》やつなんめり、時刻《じこく》移《うつ》りなばあしかりなんと。長濱《ながはま》の宿所《しゆくしよ》に、母《はゝ》や妻子共《さいしども》有《あり》し者《もの》は、山路《やまぢ》が甥《をひ》と、舊臣《きうしん》二|人《にん》つかはし、船《ふね》にて早《はや》く退候《のきさふら》へ、財寳等《ざいはうとう》に少《すこ》しも相構《あひかま》はず、片時《へんじ》も早《はや》く退候《のきさふら》へとて出《いだ》し、其身《そのみ》は密談之同類《みつだんのどうるゐ》三|人《にん》同道《どうだう》し、鷄《にはとり》の聲《こゑ》初《はじめ》て聞《きこ》えし折節《をりふし》落《おち》にけり。將監《しやうげん》が陣所《ぢんしよ》ひそ/\とさわぎ出《いで》たる由《よし》、野村《のむら》が宿《やど》より告知《つげしら》せける間《あひだ》、即《すなはち》かくと隼人佐《はやとのすけ》に申《まをし》ければ、すは退《のき》たる物《もの》有《あ》るぞとて、くる/\と引卷《ひきまき》尋《たづ》ぬれば、|如[#レ]案《あんのごとく》見《み》えざりけり。|在[#二]長濱[#一]《ながはまにある》母《はゝ》などからめに、馬上《ばじやう》五六|騎《き》つかはしみれば、はや舟《ふね》にて忍《しの》びたりとなん。番船之者《ばんせんのもの》も熟睡《じゆくすゐ》してありしを、山路將監《やまぢしやうげん》が母《はゝ》の乘《の》りたる舟之櫓《ふねのろ》、番船《ばんせん》の碇《いかり》のつなにあたりしかば、十|艘之番船《そうのばんせん》一|度《ど》にゆられ出《いで》、是《これ》はいか樣《さま》舟《ふね》がとほるにこそと、聲々《こゑ/″\》にのゝしり出《いで》ければ。案《あん》の如《ごと》く、|不[#レ]知《しらざる》船《ふね》見《み》えつるに因《よつ》て、追掛《おひかけ》、舟《ふね》をとめ見《み》れば、山路《やまぢ》が母《はゝ》、妻子共《つまこども》なり。彼是《かれこれ》七|人《にん》番船《ばんせん》へ取入《とりいれ》こぎもどり、隼人佐《はやとのすけ》使者共《ししやとも》に渡《わた》し侍《はべ》りけり。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
山路《やまぢ》は其《そ》の目的《もくてき》の齟齬《そご》し、其《そ》の家族《かぞく》の磔殺《たくさつ》せられたるに拘《かゝは》らず、茲《こゝ》に佐久間盛政《さくまもりまさ》に向《むか》つて、献策《けんさく》した。而《しか》して此《こ》れが愈《いよい》よ賤岳合戰《しづがたけかつせん》の、導火線《だうくわせん》となつた。即《すなは》ち彼《かれ》は秀吉方《ひでよしがた》を叛《そむ》き去《さ》りて、偶然《ぐうぜん》にも、却《かへつ》て秀吉方《ひでよしがた》に、大捷《たいせふ》の好機會《かうきくわい》を與《あた》へた。觀《くわん》じ來《きた》れば、世《よ》の中《なか》の事《こと》は、何《なに》が利《り》やら、害《がい》やら、損《そん》やら、得《とく》やら、容易《ようい》に先知《せんち》す可《べ》き事《こと》ではない。

[#5字下げ][#中見出し]【三七】佐久間の奇襲[#中見出し終わり]

山路正國《やまぢまさくに》の反覆《はんぷく》は、柴田方《しばたがた》に一の好報《かうはう》を齎《もたら》した。そは秀吉《ひでよし》が、信孝《のぶたか》退治《たいぢ》の爲《た》め、四|月《ぐわつ》十七|日《にち》、長濱《ながはま》を發《はつ》して、岐阜《ぎふ》に赴《おもむ》いた事《こと》である。血氣《けつき》に逸《はや》る佐久間盛政《さくまもりまさ》は、四|月《ぐわつ》十九|日《にち》の朝《あさ》之《これ》を聞《き》き、如何《いか》で之《これ》を看過《かんくわ》す可《べ》き。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》の虚《きよ》に乘《じよう》じて、奇功《きこう》を收《をさ》めんと欲《ほつ》し、敵状《てきじやう》を山路《やまぢ》に質《たゞ》した。山路《やまぢ》は具《つぶ》さに、秀吉方《ひでよしがた》の陣形《ぢんけい》を説明《せつめい》した。曰《いは》く、諸《もろも》ろの砦《とりで》の中《なか》にて、他砦《たさい》と掛《か》け隔《へだ》て、然《しか》も防禦《ばうぎよ》の手《て》薄《うす》きは、大岩山《おほいはやま》にある中川砦《なかがはとりで》と、岩崎山《いはさきやま》にある高山砦《たかやまとりで》である。此兩砦《このりやうさい》は、他《た》の諸砦《しよさい》の中央《ちゆうあう》に位《くらゐ》し、且《か》つ我《わ》が陣地《ぢんち》を距《さ》る最《もつと》も遠《とほ》ければ、必《かなら》ず油斷《ゆだん》を做《な》し居《を》るに相違《さうゐ》ない。今《いま》若《も》し兵《へい》を潜《ひそ》めて間道《かんだう》より之《これ》を襲《おそ》はゞ、必《かなら》ず意外《いぐわい》の獲物《えもの》あらむと。此言《このげん》を聞《き》いて、盛政《もりまさ》の肉《にく》は躍《をど》つた。彼《かれ》は同日《どうじつ》正午《しやうご》、自《みづか》ら中尾山《なかをやま》の本陣《ほんぢん》に赴《おもむ》き、柴田《しばた》に面《めん》し、其事《そのこと》を告《つ》げ、允可《いんか》を請《こ》うた。
柴田《しばた》は老巧《らうこう》の士《し》ぢや。彼《かれ》は弧兵《こへい》を提《ひつさ》げて、敵砦《てきさい》の連亙《れんこう》せる眞中《まんなか》に突入《とつにふ》するの、甚《はなは》だ危險《きけん》なるを見《み》て、容易《ようい》に承引《しよういん》しなかつた。然《しか》も佐久間《さくま》の苦請《くせい》に對《たい》し、漸《やうや》く方《これ》を許《ゆる》し、途中《とちゆう》の敵砦《てきさい》に對《たい》しては、それぞれ監視兵《かんしへい》を附《ふ》す可《べ》く、評議《ひやうぎ》し。其《そ》の方略《はうりやく》を左《さ》の如《ごと》く定《さだ》めた。
先《ま》づ攻撃隊《こうげきたい》の先鋒《せんぽう》は、不破勝光《ふはかつみつ》、徳山則秀等《とくやまのりひでら》四千|人《にん》、本隊《ほんたい》佐久間《さくま》四千|人《にん》、計《けい》八千|人也《にんなり》。監視隊《かんしたい》としては、賤岳方面《しづがたけはうめん》は、柴田勝政《しばたかつまさ》三千|人《にん》。堂木山《だんぎやま》、神明山《しんめいやま》より、鹽津方面《しほつはうめん》にかけては、前田利家父子《まへだとしいへふし》二千|人《にん》。東野山方面《ひがしのやまはうめん》は、柴田勝家《しばたかついへ》七千|人《にん》、計《けい》一|萬《まん》二千|人《にん》とした。
柴田《しばた》は盛政《もりまさ》を誡《いまし》め、目的《もくてき》を達《たつ》せば、速《すみや》かに兵《へい》を旋《かへ》せ、決《けつ》して他砦《たさい》を攻撃《こうげき》する勿《なか》れと、繰《く》り返《かへ》した。柴田《しばた》は此策《このさく》の奇策《きさく》であると共《とも》に、又《ま》た危策《きさく》であるを知《し》つて居《ゐ》た。若《も》し萬《まん》一|引足《ひきあし》が後《おく》るゝに於《おい》ては、袋叩《ふくろだゝき》に遭《あ》ふ可《べ》きを知《し》つて居《ゐ》た。然《しか》る時《とき》には、佐久間《さくま》の兵《へい》のみならず、全軍《ぜんぐん》の覆滅《ふくめつ》であることを知《し》つて居《ゐ》た。
斯《か》くて柴田勢《しばたぜい》は十九|日《にち》の夜《よ》、直《たゞ》ちに準備《じゆんび》した。四|月《ぐわつ》二十|日《か》(陽暦六月十日)[#「(陽暦六月十日)」は1段階小さな文字]午前《ごぜん》一|時《じ》より、何《いづ》れも其營《そのえい》を發《はつ》した。佐久間等《さくまら》の攻撃隊《こうげきたい》は、集福寺坂《しふふくじざか》より鹽津谷《しほつだに》に下《くだ》り[#「下《くだ》り」は底本では「下り」]、足海嶺《あしみがみね》を超《こ》え、余呉湖畔《よごこはん》に出《い》で、其《そ》の西岸《せいがん》を傳《つた》うて前進《ぜんしん》した。監視隊《かんしたい》の勝政《かつまさ》の兵《へい》は、飯浦坂《いひうらざか》の東南《とうなん》に駐《とゞま》つた。前田父子《まへだふし》の兵《へい》は、權現坂《ごんげんざか》より川並村《かはなみむら》の西北《せいほく》に亘《わた》る高地《かうち》─|茂山《しげやま》─に屯《たむろ》し。勝家《かついへ》は北國街道《ほくこくかいだう》を、狐塚迄《きつねづかまで》進《すゝ》んだ。而《しか》して夜《よ》のほの/″\と曙《あ》くるに際《さい》し、攻撃隊《こうげきたい》は、余呉湖《よごこ》の東南岸《とうなんがん》─|尾野路濱《をのぢはま》─に達《たつ》し、湖水《こすゐ》に馬《うま》を洗《あら》へる、中川隊《なかゞはたい》の卒《そつ》二|名《めい》を斬《き》りて、血祭《ちまつり》とし、直《たゞ》ちに中川清秀《なかゞはきよひで》の營《えい》なる、大岩山《おほいはやま》の砦《とりで》に薄《せま》つた。
[#ここから1字下げ]
幸《さいはひ》唯今《たゞいま》秀吉《ひでよし》|赴[#二]濃州[#一]之條《のうしうにおもむくのでう》、其透《そのすきに》先《まづ》此表《このおもてを》|可[#二]打破[#一]《うちやぶるべく》、彼謀叛人山路將監《かのむほんにんやまぢしやうげんを》|爲[#二]按内者[#一]《あんないしやとして》、敵行陣取之樣子《てきのてだてぢんどりのやうす》悉《こと/″\く》尋探《たづねさぐり》。天正《てんしやう》十一|年《ねん》卯月《うづき》廿|日《か》、佐久間玄蕃助《さくまげんばのすけ》|爲[#二]大將[#一]《たいしやうとして》、|通[#二]余呉之海馬手[#一]《よごのうみをめてにとほり》、篠嶽《すゞがたけに》|置[#二]手當[#一]《てあてをおき》、|爲[#レ]押[#二]寄中川瀬兵衞尉清秀陣取所之尾崎[#一]《なかがはせへゑのじようきよひでがぢんどるところのをざきにおしよせたり》、‥‥清秀《きよひで》此先《このさき》|及[#二]度々[#一]《どゞにおよび》武篇《ぶへん》|不[#レ]取[#二]越度[#一]《おちどをとらず》、勇力《ゆうりき》|知[#二]世間[#一]之《せけんにしれたるの》侍也《さむらひなり》。度々之《どゞの》晴師《はれいくさ》、萬《まん》一|於[#レ]得[#二]鈍兵之名[#一]《どんぴやうのなをうるにおいては》、|思[#二]定生涯之不覺[#一]《しやうがいのふかくとおもひさだめ》、|運有[#レ]天《うんはてんにあり》進《すゝんで》|勿[#レ]退《しりぞくなかれ》、|懸[#二]詞於諸卒[#一]《ことばをしよそつにかけ》、一千|餘騎《よき》|離[#レ]壘《るゐをはなれて》衝出《ついていづ》。玄蕃助兵《げんばのすけがへい》|見[#レ]之《これをみて》|不[#レ]餘《あまさず》|不[#レ]漏《もらさず》、乙取籠《おつとりこめ》、數刻《すうこくの》攻戰《こうせん》。清秀《きよひでも》我《われ》|不[#レ]劣《おとらじと》兵《へい》五六十|騎《き》、弓手《ゆんで》馬手《めてに》相並《あひならび》、散々《さん/″\》切合《きりあひ》割入《わつていり》追立《おひたて》、一|旦《たん》|雖[#レ]得[#二]勝利[#一]《しようりをえたりといへども》、敵《てきは》|以[#二]多勢[#一]《たぜいをもつて》|不[#レ]顧[#二]手負死人[#一]《ておひしにんをかへりみず》、|如[#二]風發[#一]《かぜのおこるがごとく》、|如[#二]河決[#一]《かはのけつするがごとく》亂入《らんにふし》、終《つひに》清秀《きよひで》打死《うちじにす》。〔柴田退治記〕[#「〔柴田退治記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
元來《ぐわんらい》中川清秀《なかがはきよひで》の、大岩山《おほいはやま》の砦《とりで》は、右《みぎ》に高山長房《たかやまながふさ》の、岩崎山《いはさきやま》の砦《とりで》を控《ひか》へ、左《ひだり》に桑山重晴《くはやましげはる》の賤岳《しづがたけ》の砦《とりで》を帶《お》び、而《しか》して其《そ》の前線《ぜんせん》には、堀秀政《ほりひでまさ》東野山《ひがしのやま》にあり、木村重茲《きむらしげとし》神明山《しんめいやま》にあり。されば敵兵《てきへい》が黎明《れいめい》に、眞《ま》一|文字《もんじ》に、我《われ》に肉薄《にくはく》し來《きた》る可《べ》しとは、全《まつた》く思《おも》ひ備《まう》けぬ所《ところ》であつた。然《しか》も馬卒等《ばそつら》の、湖畔《こはん》より脱《のが》れ來《きた》りて、其《そ》の警《けい》を報《はう》ずるや、流石《さすが》に彼《かれ》も當代《たうだい》の勇士《ゆうし》であつた。直《たゞ》ちに守兵《しゆへい》を排置《はいち》し、銃《じゆう》を放《はな》つて應戰《おうせん》し。其《そ》の部下《ぶか》菅相雄《すがすけを》、太田平《おほたへい》八|等《ら》數《す》十|人《にん》、槍《やり》を揮《ふる》ひ、突喊《とつかん》して、敵兵《てきへい》を湖岸《こがん》に撃退《げきたい》した。彼《かれ》は賤岳《しづがたけ》の桑山《くわやま》よりも、速《すみや》かに來《きた》りて我營《わがえい》に合《がつ》せよと勸《すゝ》められ、岩崎山《いはさきやま》の高山《たかやま》よりも、退却《たいきやく》を勸《すゝ》められた。けれども、彼《かれ》は其《そ》の陣《ぢん》を固守《こしゆ》して、奮鬪《ふんとう》した。
佐久間《さくま》は中川勢《なかがはぜい》の士氣《しき》を、挫絶《ざぜつ》す可《べ》く、徳山則秀《とくやまのりひで》をして、中川砦下《なかがはさいか》の廠舍《しやうしや》に放火《はうくわ》せしめた。而《しか》して其《そ》の全力《ぜんりよく》を擧《あ》げて、中川砦《なかがはとりで》に迫《せま》つた。兩軍《りやうぐん》相距《あひさ》る一|町《ちやう》に過《す》ぎず、清秀《きよひで》自《みづ》から三百の兵《へい》を指揮《しき》して、再《ふたゝ》び敵《てき》を撃退《げきたい》する約《やく》三|町《ちやう》。偶《たまた》ま徳山兵《とくやまへい》の、廠舍《しやうしや》に放火《はうくわ》したる烈焔《れつえん》、天《てん》を焦《こが》すや、中川隊《なかがはたい》の士氣《しき》、頗《すこぶ》る沮喪《そさう》した。清秀《きよひで》之《これ》を勵《はげま》し、午前《ごぜん》九|時頃迄《じごろまで》、入《い》れ換《かは》り、立《た》ち換《かは》り、向《むか》ひ來《きた》る敵《てき》と戰《たゝか》うたが、遂《つ》ひに戰死《せんし》した。而《しか》して中川重定以下《なかがはしげさだいか》、士卒《しそつ》悉《こと/″\》く之《これ》に殉《じゆん》じた。斯《か》くて十|時頃《じごろ》には、大岩山《おほいはやま》の營《えい》は、陷落《かんらく》した。而《しか》して其《そ》の隣營《りんえい》にありし高山長房《たかやまながふさ》は、大岩山《おほいはやま》の陷《おちい》るを聞《き》き、直《たゞ》ちに退却《たいきやく》した。
[#ここから1字下げ]
高山右近《たかやまうこん》、初《はじ》めの廣言《くわうげん》にも似合《にあ》はずして、寄手《よせて》の大勢《たいぜい》大岩山《おほいはやま》を取圍《とりかこ》み、鬨《とき》を作《つく》り、矢叫《やさけ》びを成《な》すを聞《き》き、叶《かな》はずと思《おも》ひけん、早々《さう/\》開城《かいじやう》して、木《き》ノ本《もと》指《さ》して引退《ひきの》き。田神山《たがみやま》の麓《ふもと》なる大將軍《たいしやうぐん》と云處《いふところ》に到《いた》り、羽柴小《はしばこ》一|郎秀長《らうひでなが》の方《かた》へ使《つかひ》を立《た》て、迚《とて》も岩崎山《いはさきやま》籠城《ろうじやう》叶《かな》ひ難《がた》く存《ぞん》じ、是《これ》まで引退《ひきの》きて候《さふらふ》。其許《そのもと》に、某《それがし》が籠《こも》るべき所《ところ》も候《さふら》はゞ、御城中《ごじやうちゆう》を借《か》りて防禦仕度由《ばうぎよつかまつりたきよし》、申遣《まをしつかは》しければ。秀長《ひでなが》も只今《たゞいま》大岩山《おほいはやま》戰《たゝか》ひ最中《さいちゆう》に、高山《たかやま》が引退《ひきの》くこと、怯弱《けふじやく》の振舞《ふるまひ》とは思《おも》はれけれども、|不[#レ]知《しらざる》體《てい》にもてなして、城中《じやうちゆう》へこそは入《いれ》られけれ。右近《うこん》は辛《から》き命《いのち》助《たす》かりたる心地《こゝち》して、田神山《たがみやま》の城《しろ》に安居《あんきよ》し、清秀《きよひで》は潔《いさぎよ》く討死《うちじに》して、骸《むくろ》は戰場《せんぢやう》に晒《さら》すと雖《いへど》も、佳名《かめい》は末代《まつだい》に高《たか》く聞《きこ》えたるに大《おほい》に劣《おと》りて、臆病《おくびやう》の仕方也《しかたなり》と、汚名《をめい》を蒙《かうむり》て、笑《わら》はぬ人《ひと》こそ無《な》かりけれ。〔余吾物語〕[#「〔余吾物語〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
抑《そもそ》も高山《たかやま》は、信長《のぶなが》の時代《じだい》にも、名《な》ある勇士《ゆうし》の一|人《にん》であつた。山崎合戰《やまざきかつせん》にも、先鋒《せんぽう》として、其《そ》の手柄《てがら》も較著《かくちよ》であつた。然《しか》るに今回《こんくわい》に限《かぎ》りて、一|戰《せん》にも及《およ》ばず逃走《たうそう》したのは、何故《なにゆゑ》であつたらう。高山《たかやま》と、中川《なかがは》とは、同功《どうこう》一|體《たい》の人《ひと》であつた。然《しか》るに今度《こんど》の一|擧《きよ》にて、一|勇《ゆう》、一|怯《けふ》、一|死《し》、一|生《せい》、互《たが》ひに相隔離《あひかくり》したのは、意外《いぐわい》である。然《しか》も彼《かれ》が、後《のち》に前田利家《まへだとしいへ》に、愛用《あいよう》せられたるを見《み》れば、高山《たかやま》必《かなら》ずしも、怯漢《けふかん》と云《い》ふ可《べ》きではあるまい。

          ―――――――――――――――
[#6字下げ][#小見出し]中川瀬兵衞の墓と其の墓誌[#小見出し終わり]

[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
中川瀬兵衞墓 大岩山に在り天正十一年四月十六日[#割り注]○二十日の誤[#割り注終わり]中川瀬兵衞賤ヶ岳居城、北國勢短兵急に攻むる、不破彦三佐久間盛政將たり、清秀防戰して終に盛政が臣近藤無一に討るゝ事は、賤ヶ岳合戰誌に見えたり、傍に瀬兵衞家士の墓あり、瀬兵衞戰死のこと碑陰に見えたり、墓石高さ一丈餘、家士の墓高さ六尺家士の姓名詳ならず、惜むに堪たり、他日中川家に依つて記すべし。
大岩山中川瀬兵衞墓記曰 中川瀬兵衞尉源清秀、攝州人也、在[#二]茨木城[#一]、數有[#二]戰功[#一]、先[#レ]是、天正元年秋、受[#二]信長之命[#一]、誅[#二]和田伊賀守惟政[#一]、武名冠[#二]天下[#一]矣、十年夏、與[#二]秀吉[#一]撃[#二]惟任日向守光秀之軍[#一]、大破[#レ]之矣、自[#レ]此威名漸盛也、其餘雖[#レ]有[#二]軍功[#一]、不[#レ]遑[#二]枚擧[#一]、十一年三月、秀吉使[#三]清秀爲[#二]此城守將[#一]、捍[#二]柴田氏[#一]、時北越魁將佐久間玄蕃允盛政、率[#二]數萬兵[#一]圍[#二]此城[#一]、急欲[#レ]屠[#レ]之、攻戰聲如[#二]雷霆[#一]響[#二]天地[#一]、然清秀膂力絶[#レ]人、沈勇有[#二]大略[#一]、更不[#レ]屑[#レ]之、力戰防[#レ]之、故城中堅固也、高山右近雖[#レ]在[#二]側砦[#一]、與[#二]清禿[#一]不[#レ]并[#レ]力、且不[#レ]及[#二]一戰[#一]而敗走、所[#二]以敵軍乘[#レ]勢競進欲[#一レ]拉[#レ]之也、清秀開[#レ]門出戰、故敵退奔三町餘、敗軍七矣、追[#レ]亡遂[#レ]北、搏殺不[#レ]知[#二]幾數百人[#一]清秀又被[#二]三創[#一]、故家臣諫曰自裁、清秀曰、汝不[#レ]知乎、於[#二]今日之鬪[#一]、縱雖[#レ]授[#二]首於僕卒[#一]、我何辱[#レ]之乎、曾聞、雖[#レ]爲[#二]一人[#一]、以[#レ]滅[#レ]敵爲[#二]勇士[#一]、敢不[#レ]肯焉、家臣引[#二]遏其袂[#一]、清秀奮絶不[#レ]還、復追[#レ]敵矣、凡突[#二]入敵陣[#一]九回、然衆寡不[#レ]遇、見[#二]其遂不[#一レ]可[#レ]勝、歸[#レ]城自殺、享年四十二、歳次癸未四月二十日也、擧[#レ]世感[#二]彼驍勇[#一]也、此地雖[#レ]爲[#二]其舊跡[#一]、年代※[#「宀/(さんずい+駸のつくり)」、第4水準2-8-7]久、古塔頽側、予今在[#レ]于[#レ]此、娟々心目、如[#レ]見[#二]清秀[#一]、况其功之偉哉、盍記[#レ]之乎、茲清秀第五世孫中川佐洲刺史久恒、歎[#二]其古塔頽側[#一]、請[#レ]予曰、是歳幸及[#二]一百年遠忌[#一]、何不[#二]改造[#一レ]之乎、故予新建[#二]一基石浮屠[#一]、換[#二]其古塔[#一]云、
于[#レ]時天和二年壬戌四月廿日淨信寺住雄山誌[#レ]之[#地から3字上げ]〔近江國輿地志略、中川清秀碑文〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
          ―――――――――――――――

[#5字下げ][#中見出し]【三八】戰機の得失[#中見出し終わり]

盛政《もりまさ》は大岩山砦《おほいはやまとりで》を陷《おとしい》れ、中川清秀《なかがはきよひで》を馘《くびき》り、高山長房《たかやまながふさ》を奔《はし》らしめて、岩崎山砦《いはさきやまとりで》を取《と》つた。若《も》し此儘《このまゝ》にて、勝家《かついへ》の命《めい》ぜし如《ごと》く、退陣《たいぢん》せば、秀吉《ひでよし》は柴田《しばた》退治《たいぢ》の目的《もくてき》を達《たつ》するに、更《さ》らに幾何《いくばく》の時日《じじつ》と、苦心《くしん》とを要《えう》したるならむ。然《しか》も盛政《もりまさ》は其勝《そのかち》に驕《おご》つた。彼《かれ》は乃叔《だいしゆく》の訓令《くんれい》を無視《むし》し、狐塚《きつねづか》なる本陣《ほんぢん》に、捷《かち》を報《はう》じて云《い》うた。昨夜來《さくやらい》の行軍《かうぐん》、今曉來《こんげうらい》の合戰《かつせん》にて、兵《へい》も疲《つか》れたれば、今夜《こんや》は此處《ここ》に一|宿《しゆく》す可《べ》しと。而《しか》して其實《そのじつ》は、明《みやう》廿一|日《にち》を以《もつ》て、賤岳砦《しづがたけとりで》を攻撃《こうげき》せんとしたのぢや。
佐久間《さくま》は、只《た》だ眼前《がんぜん》の敵情《てきじやう》を知《し》りて、秀吉《ひでよし》を眼中《がんちゆう》に措《お》かなかつた。然《しか》も勝家《かついへ》は、盛政《もりまさ》の危地《きち》にあるを看取《かんしゆ》し、頻《しき》りに歸陣《きぢん》を促《うなが》した。
[#ここから1字下げ]
昨夜《さくや》山路《さんろ》をたどり/\來《きたり》て、終日《しゆうじつ》戰《たゝか》ひつかれ、大利《だいり》を得《え》たるに、上下《じやうげ》氣《き》ゆるまり、心氣《しんき》以外《もつてのほか》脱《ぬけ》にけり。勝家《かついへ》本陣《ほんぢん》へ廻《まは》れば五六|里《り》、直《すぐ》に行《ゆけ》ば一|里《り》にも|不[#レ]足也《たらざるなり》。玄蕃允《げんばのすけ》是《これ》に|可[#レ]致[#二]在陣[#一]《ざいぢんいたすべき》旨《むね》注進《ちゆうしん》有《あり》ければ、急《いそ》ぎ引納候《ひきいれさふらふ》べし。此上《このうへ》大利《だいり》にほこらざれ。只《たゞ》片時《へんじ》もはやく引取《ひきとり》、吾《わ》が陣旅《ぢんりよ》を固《かた》くし、時《とき》と位《くらゐ》とを見《み》るならば、旬内《じゆんない》に天下《てんか》掌握《しやうあく》に歸《き》すべしとて、再《さい》三|馬上之《ばじやうの》歴々《れき/\》をつかはし、諫《いさめ》しか共《ども》、玄蕃《げんば》勝《かち》に乘《のつ》て、聞《きゝ》も入《いれ》ず。勝家《かついへ》老《らう》してはや/\分別《ふんべつ》も相違《さうゐ》せりとて、下知《げち》をも用《もち》ひず、使者《ししや》五六|度《ど》に及時《およぶとき》は、しか/″\返辭《へんじ》をもせざりしなり。兎《と》や角《かく》せし間《あひだ》に、日《ひ》は晩《く》れぬ。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
恐《おそ》らくは是《こ》れ、盛政《もりまさ》の意中《いちゆう》を、道破《だうは》したるものならむ。又《ま》た、
[#ここから1字下げ]
勝家《かついへ》の方《はう》よりは、士卒《しそつ》を本陣《ほんぢん》へ打入《うちいれ》られ候《さふら》へ、味方《みかた》の勝利《しやうり》之《これ》に過候《すぎさふら》はじ。秀吉《ひでよし》と云者《いふもの》は、猿猴《ましら》の梢《こずゑ》を傳《つた》ふよりも速《はや》き者《もの》なれば、若《も》し士卒《しそつ》を|不[#レ]引入[#一]内《ひきいれざるうち》に懸付《かけつ》けなば、味方《みかた》の敗北《はいぼく》は案《あん》の内《うち》なるべし。是非《ぜひ》に引取候《ひきとりさふら》へと、使櫛《つかひくし》の齒《は》を引《ひ》くが如《ごと》くなれども、玄蕃《げんば》は耳《みゝ》にも|不[#二]聞入[#一]《きゝいれず》、勝家《かついへ》に老《おい》ぼれたる事《こと》を云《い》はずとも、明日《みやうにち》は上洛《じやうらく》する用意《ようい》をせられ候《さふら》へ、賤箇嶽《しづがたけ》は早《は》や開渡《あけわた》すべし。其外《そのほか》敵《てき》の中《なか》にも、内通《ないつう》する者《もの》多《おほ》し。秀吉《ひでよし》驅付來《かけつけきた》るとも、明日《みやうにち》の事《こと》なるべし。此許《ここ》より大垣《おほがき》までは、十二三|里《り》の道《みち》なれば、此表《このおもて》の事《こと》を注進《ちゆうしん》するとも、今日《こんにち》の八ツ時《どき》(午前二時)[#「(午前二時)」は1段階小さな文字]より前《まへ》には、よも驅付《かけつけ》まじ、假令《たとひ》秀吉《ひでよし》驅付來《かけつけきた》るとも、人馬《じんば》疲《つか》れて、軍《いくさ》の用《よう》には|不[#レ]可[#レ]立《たつべからず》とて、引取《ひきとる》べき氣色《けしき》は、更《さら》に無《な》かりけり。勝家《かついへ》餘《あま》りに身《み》を悶《もだ》え、玄蕃《げんば》と云者《いふもの》は、勝家《かついへ》に皺腹《しはばら》を|可[#レ]切《きらすべき》男《をとこ》なり。此勝家《このかついへ》は今日《こんにち》に至《いた》る迄《まで》、一|度《ど》も不覺《ふかく》を|不[#レ]取《とらず》、敵《てき》に總角《あげまき》を見《み》せたることは無《な》きものを、圖方《とはう》も無《な》き玄蕃哉《げんばかな》、是非《ぜひ》に引取候《ひきとりさふら》へ、|無[#レ]左《さなき》に於《おい》ては、勝家《かついへ》迎《むかへ》に行《ゆ》くべしと、云遣《いひや》りけれども、終《つひ》に|不[#二]承引[#一]《うけひかず》、後《のち》には返事《へんじ》もせざりけり。〔賤箇嶽記、小須賀覺書〕[#「〔賤箇嶽記、小須賀覺書〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
扨《さて》も秀吉《ひでよし》は、四|月《ぐわつ》十七|日《にち》以來《いらい》、大垣《おほがき》にありて、岐阜《ぎふ》に對《たい》し、作戰中《さくせんちゆう》であつたが、二十|日《か》正午《しやうご》、秀長《ひでなが》の田神山《たがみやま》より發《はつ》したる警報《けいはう》に接《せつ》した。曰《いは》く、柴田勢《しばたぜい》、間道《かんだう》より大岩山《おほいはやま》を襲《おそ》うたと。秀吉《ひでよし》は宛《あたか》も待《ま》ち設《まう》けたりと云《い》はぬ計《ばか》りの、意氣《いき》にて、扨《さて》は愈《いよい》よ大捷利《だいせふり》を得《え》たぞと、直《たゞ》ちに赴援《ふゑん》の準備《じゆんび》を命《めい》じた。乃《すなは》ち倔強《くつきやう》の卒《そつ》五十|人《にん》を先發《せんぱつ》せしめ、長濱《ながはま》に至《いた》り、其《そ》の二十|人《にん》は、松明《たいまつ》を市町《しちやう》に課《くわ》し、村民《そんみん》を驅《か》りて、之《これ》を江濃《かうぢやう》の途上《とじやう》に點《てん》ぜしめ。他《た》の三十|人《にん》は、長濱領内《ながはまりやうない》の各村《かくそん》に告諭《こくゆ》し、糧秣《りやうまつ》を、行進《かうしん》途次《とじ》に供給《きようきふ》せしめ、午後《ごご》二|時《じ》には、秀吉《ひでよし》自《みづ》から鞭《むち》を揚《あ》げて、先《ま》づ發《はつ》した。而《しか》して四|時《じ》乃至《ないし》五|時《じ》には、一|萬《まん》五千の兵《へい》、悉《こと/″\》く大垣《おほがき》を發《はつ》して西《にし》に馳《か》けた。
[#ここから1字下げ]
秀吉《ひでよし》|聞[#レ]之《これをきゝ》清秀《きよひで》|被[#レ]討之條《うたるゝのでう》、哀憐《あいれん》尤《もつとも》深《ふかし》、|乍[#レ]去《さりながら》此間《このあひだ》柴田《しばた》|欲[#レ]及[#二]一戰[#一]《いつせんにおよばんとほつし》、|引[#二]籠節所[#一]《せつしよにひきこもり》|藏[#レ]行之條《てだてをゝさむるのでう》、|無[#レ]力《ちからなく》|送[#二]數日[#一]《すじつをゝくり》、今也《いまや》|乘[#レ]勝《かちにのつて》出張《しゆつちやうし》、|不[#レ]成[#レ]屯《たむろをなさゞる》以前《いぜんに》切懸《きりかゝり》|可[#二]打果[#一]事《うちはたすべきこと》|在[#二]掌中[#一]《しやうちゆうにあり》、天下雌雄《てんかのしゆう》此節也《このせつなり》。飛龍《ひりゆうに》|添[#レ]鞭走《むちをそへてはしり》。軍卒之《ぐんそつの》面々《めん/\》|逸[#レ]馬《うまをはやめ》、|並[#レ]蹄《ひづめをならべ》續而《つゞいて》前《すゝむ》。垂井《たるゐ》、關原《せきがはら》、藤川《ふぢかは》、|早[#レ]路《みちをはやめ》|逸[#レ]足而《あしをはやめて》|過[#二]伊吹山麓[#一]《いぶきさんろくをすぐ》、乘馬《じようめ》|殺[#二]歩兵[#一]《ほへいをころし》、|切[#レ]息死者《いきをきりてしするもの》多《おほし》。已《すでに》夕日《ゆふひ》西傾《にしにかたむく》、即《すなはち》|可[#レ]倩[#二]魯陽戈手[#一]者也《ろやうくわしゆをやとふべきものなり》。小谷宿而《をだにのしゆくにて》|及[#二]夜陰[#一]《やいんにおよぶ》、申刻《さるのこく》(午後四時)[#「(午後四時)」は1段階小さな文字]|立[#二]大垣[#一]《おほがきをたち》、戌刻《いぬのこく》(午後十時)[#「(午後十時)」は1段階小さな文字]木本《きのもと》著陣《ちやくぢん》、三十六|町路《ちやうみち》十三|里《り》、二|時《とき》半時《はんときに》(五時間)[#「(五時間)」は1段階小さな文字]懸著事《かけつくること》、古今《ここん》希有働也《けうのはたらきなり》。|依[#レ]之相隨《これによつてあひしたがつて》|無[#レ]運[#レ]粮《かてをはこぶなし》、人馬《じんば》|察[#二]飢疲[#一]《うゑつかるゝをさつし》、|終[#レ]道《みちすがら》村々《むら/\》里々《さと/\》|以[#二]飛脚[#一]《ひきやくをもつて》觸遣也《ふれつかはすなり》。秀吉《ひでよし》今夜之曙《こんやのあかつき》|可[#レ]及[#二]一戰[#一]之條《いつせんにおよぶべきのでう》、家《いへ》一|間《けんに》(軒)[#「(軒)」は1段階小さな文字]米《こめ》一|升宛炊《しようづゝかしぎて》|成[#レ]餉《かれひとなし》、木本《きのもとに》|可[#二]持參[#一]《ぢさんすべし》、|不[#レ]忘[#二]其恩賞[#一]《そのおんしやうをわすれず》|可[#二]相計[#一]由《あひはかるべきよし》、方々《はう/″\》告送之間《つげおくるのあひだ》、或《あるひは》二|里《り》三|里《り》、或《あるひは》五|里《り》六|里《り》|運[#レ]之《これをはこぶ》。特《とくに》長濱者《ながはまは》秀吉《ひでよし》舊居地也《きうきよのちなり》、|依[#レ]之《これにより》折足《をれあしの》鐺《なべに》|容[#二]五合[#一]《ごがふをいれ》、陣之輩《ぢんのやから》亦《また》|贈[#レ]之《これをおくる》、野人《やじん》|懷[#レ]惠之故也《けいをおもふのゆゑなり》。|於[#二]木本[#一]《きのもとにおいて》諸卒《しよそつ》悉《こと/″\く》|直[#レ]疲《つかれをなほす》、秀吉智計利《ひでよしのちけいときこと》|如[#レ]此《かくのごとし》、誠《まことに》|所[#レ]不[#レ]及[#二]凡慮[#一]也《ぼんりよにおよばざるところなり》。〔柴田退治記〕[#「〔柴田退治記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
又《ま》た川角太閤記《かはかくたいかふき》には、
[#ここから1字下げ]
一、道々《みち/\》の在々《ざい/\》所々《しよ/\》の庄家《しやうや》、大百姓《おほびやくしやう》ども|被[#二]召寄[#一]《めしよせられ》、藏《くら》を開《ひら》き飯《めし》を燒《たか》せよ。馬《うま》のはみをば合《あはせ》ぬかにせよ、先手《さきて》/\に持《もち》たるたしなみの米《こめ》を出《いだ》し燒《たか》せよ。米《こめ》の算用《さんよう》は、百姓《ひやくしやう》ばら自分《じぶん》の米《こめ》ならば、十|層倍《そうばい》にして後《のち》に|可[#レ]取者也《とらすべきものなり》。急《いそ》げ/\と御自身《ごじしん》御觸候《おふれさふらふ》。飯出來候《めしできさふら》はゞ、明俵《あきたはら》を跡《あと》さき俵端《たはらのはし》をば其儘《そのまゝ》おけ、俵《たはら》を二つに切《き》りあけ、内《うち》へ鹽水《しほみづ》のからきを以《もつて》、よくしめし、食《しよく》を入《いれ》よ。飯出來候《めしできさふら》はゞ、牛馬《ぎうば》に付《つけ》させ、賤岳《しづがたけ》を心掛《こゝろがけ》急《いそ》ぎ|可[#レ]參《まゐるべき》なり。合糠《あはせぬか》には木《き》の枝《えだ》か、紙抔《かみなど》を印《しるし》につけよ、跡《あと》より人數《にんず》續《つゞ》かば、草臥《くたびれ》たるもの多《おほ》く|可[#レ]有《あるべき》なり。是《これ》は食《しよく》にて候《さふらふ》、|可[#レ]參《まゐるべし》|可[#レ]參《まゐるべし》と言聞《いひきか》せよ。定《さだ》め皆《みな》喰《く》ふべき者《もの》多《おほ》く|可[#レ]有者也《あるべきものなり》。ばいとる者《もの》あるならば、其儘《そのまゝ》とらせよ、きるものに御包候《おつゝみさふら》へ、手拭抔《てぬぐひなど》にも御包候《おつゝみさふらう》て|可[#レ]然《しかるべし》と、おしはなしとらすべき也《なり》。縱《たとひ》ばいとる食《しよく》も、先《さき》え持來《もちきた》りなば、皆《みな》用《よう》に|可[#レ]立也《たてべきなり》印《しるし》のある俵《たはら》を、食《しよく》かと思《おも》ひ取《と》る者《もの》あらば、是《これ》は御馬《おうま》の合《あはせ》ぬかにて候《さふらふ》が、御用《ごよう》に候《さふら》はば、|可[#レ]進[#レ]之《これをしんずべし》と、是《これ》も|可[#二]相渡[#一]《あひわたすべき》もの也《なり》。
[#ここで字下げ終わり]
如何《いか》に秀吉《ひでよし》の用意周到《よういしうたう》であつたかは、此《これ》にて判知《わか》るではない乎《か》。彼《かれ》は其《そ》の出足《であし》の迅速《じんそく》なるに於《おい》て、克《よ》く信長《のぶなが》の衣鉢《いはつ》を、繼《つ》ぎ得《え》たるものであつた。彼《かれ》は實《じつ》に天上《てんじやう》より降下《かうか》するの勢《いきほひ》を以《もつ》て、大垣《おほがき》より木之本《きのもと》に、一|氣《き》に驅《か》け附《つ》けた。此《かく》の如《ごと》くして佐久間《さくま》は、退機《たいき》を誤《あやま》り、秀吉《ひでよし》は進機《しんき》を制《せい》した。

[#5字下げ][#中見出し]【三九】佐久間の退却[#中見出し終わり]

中川清秀《なかがはきよひで》の不意《ふい》を襲《おそ》うて、奇捷《きせふ》を博《はく》したる佐久間盛政《さくまもりまさ》は、今《いま》や秀吉《ひでよし》より不意《ふい》を襲《おそ》はれ、全《まつた》く攻守《こうしゆ》の位置《ゐち》を顛倒《てんたう》し、一|敗地《ぱいち》に塗《まみ》るゝに至《いた》つた。彼《かれ》は勝家《かついへ》の訓言《くんげん》を聞《き》かず、其《そ》の命令《めいれい》を用《もち》ひず、廿一|日《にち》を待《ま》つて、一|擧《きよ》賤岳《しづがたけ》の敵砦《てきさい》を拔《ぬ》かんと、自《みづ》から尾野路山《をのぢやま》に野營《やえい》し。其《そ》の他《た》彼《かれ》が率《ひき》ゐたる攻撃軍《こうげきぐん》は、清水谷《しみづだに》より鉢《はち》ヶ|峰《みね》に亘《わた》り、更《さら》に庭戸濱《にはとはま》、大岩山《おほいはやま》にも野營《やえい》した。
然《しか》るに廿|日《か》の夜《よ》に入《い》りて、鉢《はち》ヶ|峰《みね》に營《えい》したる一|隊《たい》、目蚤《めばや》く松明《たいまつ》の萬燈《まんどう》の如《ごと》く、美濃街道《みのかいだう》に簇《むらが》りつゝ|進《すゝ》み來《きた》るを見《み》。扨《さて》は秀吉《ひでよし》大垣《おほがき》より歸著《きちやく》したと判定《はんてい》し、之《これ》を盛政《もりまさ》に報《はう》じた。盛政《もりまさ》大《おほ》いに驚《おどろ》き、其士《そのし》を派《は》して偵察《ていさつ》せしめたるに、果然《くわぜん》木之本《きのもと》附近《ふきん》、人馬《じんば》雜沓《ざつたふ》、填充《てんじゆう》の情報《じやうはう》を復命《ふくめい》した。豫《かね》て秀吉《ひでよし》は蚤《はや》くとも、明日《みやうにち》の午後《ごご》ならでは還《かへ》るまじと、見縊《みくび》りたる盛政《もりまさ》は、其《そ》の神速鬼神《しんそくきしん》の如《ごと》きに、我《わ》が鋭氣《えいき》を挫《くじ》き、急《きふ》に退却《たいきやく》に決《けつ》し、夜《よ》の十一|時《じ》頃《ごろ》より運動《うんどう》を開始《かいし》した。然《しか》も彼《かれ》は既《すで》に戰機《せんき》を逸《いつ》し去《さ》つたのであつた。
却説《さて》も、賤岳砦《しづがたけとりで》の桑山《くはやま》は、大岩山《おほいはやま》、岩崎山《いはさきやま》二|砦《さい》の陷《おちい》りたるを聞《き》き、今《いま》は自《みづ》から防守《ばうしゆ》するの難《かた》きを見《み》て、廿|日《か》の日暮《ひぐれ》を待《ま》ち、砦《とりで》を引揚《ひきあ》げ、木之本《きのもと》に向《むか》つて、背進《はいしん》を始《はじ》め、砦《とりで》を距《さ》る才《わづ》かに十|町《ちやう》許《ばかり》にして、却《かへつ》て賤岳砦《しづがたけとりで》より丹羽長秀《にはながひで》の使者《ししや》を得《え》た。曰《いは》く、長秀《ながひで》此《こゝ》に來《きた》り、御身《おんみ》の還《かへ》るを待《ま》つと。此《こゝ》に於《おい》て桑山《くはやま》は、踵《きびす》を回《めぐら》し、賤岳砦《しづがたけとりで》に復歸《ふくき》した。而《しか》して藤堂高虎《とうだうたかとら》も亦《ま》た、秀長《ひでなが》の命《めい》に依《よ》り、木之本《きのもと》より援助《ゑんじよ》として、來《きた》り投《とう》じた。
蓋《けだ》し賤岳合戰《しづがたけかつせん》に就《つい》て、佐久間《さくま》の冐險《ばうけん》と、秀吉《ひでよし》の神機《しんき》とは、彼我《ひが》勝敗《しようはい》の因《よつ》て分《わか》るる楔子《せつし》であるが、此《こ》れと同時《どうじ》に記憶《きおく》す可《べ》きは、丹羽《には》の援助《ゑんじよ》と、前田《まへだ》の中立《ちゆうりつ》とである。長秀《ながひで》は豫《かね》て秀吉《ひでよし》の依頼《いらい》によりて、海津《かいづ》、及《およ》び敦賀方面《つるがはうめん》を監視《かんし》して居《ゐ》たが、秀吉《ひでよし》の岐阜《ぎふ》に向《むか》ひたるを聞《き》き、其《そ》の留守《るす》を心元《こゝろもと》なく覺《おぼ》え。廿|日《か》の朝《あさ》は、海津《かいづ》より琵琶湖上《びはこじやう》を航《かう》し、葛籠尾崎《つゞらをざき》に至《いた》つた頃《ころ》、余呉湖方位《よごのうみはうゐ》に、戰聲《せんせい》の熾《さかん》なるを聞《き》き、急《きふ》に海津地方《かいづちはう》の兵《へい》、二千を招《まね》き、午後《ごご》二|時《じ》頃《ごろ》、山梨子浦《やまなしのうら》に抵《いた》り、其《そ》の來《きた》るを待《ま》ちつゝありしが、土民《どみん》の報知《はうち》にて、桑山《くはやま》の退去《たいきよ》を知《し》り、直《たゞ》ちに賤岳砦《しづがたけとりで》に入《はひ》つたのであつた。
[#ここから1字下げ]
端船《はしけ》をおろし、海津《かいづ》へ遣《つかは》し、勢《せい》を分《わけ》、三|分《ぶんの》二、急《いそぎ》志津嵩《しづがたけ》へ|可[#レ]相赴[#一]旨《あひおもむくべきむね》、書状《しよじやう》を調《とゝの》へもどしけり。望月《もちづき》曰《いはく》、五|里《り》漕《こぎ》もどつて勢《せい》を催《もよほ》し、五|里《り》來《き》たらん。其勢《そのせい》何《なん》として、此急難《このきふなん》の用《よう》に立申候《たちまをしさふら》はんや。長秀《ながひで》曰《いはく》、それは狹《せま》き存分也《ぞんぶんなり》。物《もの》は期《ご》の延《のぶ》る事《こと》多《おほ》く有物《あるもの》ぞかし。志津嵩之《しづがたけの》城《しろ》、加勢《かせい》として、五|郎左衞門尉《らうざゑもんのじよう》籠《こも》りぬる由《よし》、敵《てき》がたに聞候《きこえさふら》はゞ、多勢《たぜい》ならんと思《おも》ふべし。急《いそ》ぎ漕《こぎ》もどれとて、其身《そのみ》は渚《なぎさ》をさしてはやめけり。斯《か》くて船《ふね》を漕《こぎ》よせ問《と》へば、今曉《こんげう》越前勢《えちぜんぜい》、中川瀬兵衞尉《なかがはせへゑのじよう》高山右近太夫《たかやまうこんだいふ》が要害《えうがい》をせめ候《さふらひ》しが、唯今《たゞいま》落城《らくじやう》したるやらむ、火《ひ》の手《て》擧《あが》り申候《まをしさふらふ》。此城《このしろ》(賤岳砦)[#「(賤岳砦)」は1段階小さな文字]に在《あり》し桑山修理亮《くはやましゆりのすけ》も、見《みて》驚《おどろ》き落《おち》てのがれ候《さふらふ》。未《いま》だ十|町《ちやう》には過《すぎ》じとこそ存候《ぞんじさふら》へ。然間《しかるあひだ》此城《このしろ》へ北國勢《ほくこくぜい》入《いり》かはり、此邊《このへん》の百姓《ひやくしやう》をば、撫切《なでぎり》にせんと、難儀《なんぎ》千|萬《ばん》に存候《ぞんじさふらふ》。急《いそ》ぎ御入城《ごにふじやう》なされ給《たまは》り候《さふらふ》やうにと申《まをし》ければ、即《すなはち》入《いり》ぬ。長秀《ながひで》桑山《くはやま》を散々《さん/″\》に惡口《あくこう》せられけるが、いかゞは思《おも》ひけん、修理亮《しゆりのすけ》かたへ、足《あし》ばやなる者《もの》を遣《つかは》し、五|郎左衞門尉《らうざゑもんのじよう》、當城《たうじやう》|爲[#二]加勢[#一]《かせいとして》、只今《たゞいま》著陣候《ちやくぢんさふらふ》。急《いそ》ぎ歸《かへ》られ候《さふら》へと云《いひ》やりければ、桑山《くはやま》立歸《たちかへつ》て、是《これ》へ御加勢《ごかせい》有《あら》んとは、夢《ゆめ》にも知《しら》ずして、退侍《のきはべ》るなり。是《これ》より申合《まをしあは》せ、隨分《ずゐぶん》|可[#レ]盡[#二]粉骨[#一]《ふんこつをつくすべし》と云《いひ》し時《とき》。長秀《ながひで》申合《まをしあは》せんとは笑《をか》しく思《おも》ひしか共《ども》、其方《そのはう》立歸《たちかへ》り|被[#レ]申《まをされ》しに因《よつ》て、下々《しも/″\》|得[#レ]力候《ちからをえさふらふ》と有《あり》しかば、桑山《くはやま》重《かさね》て言《こと》の葉《は》はなかりけり。
長秀《ながひで》其近邊之在々所々《そのきんぺんのざい/\しよ/\》へ、五|郎左衞門尉《らうざゑもんのじよう》こそ、只今《たゞいま》志津《しづ》ヶ|嵩之《たけの》城《しろ》へ加勢《かせい》として入《いり》たるぞ。安堵《あんど》せよと觸《ふれ》、取出《とりで》/\の城々《しろ/″\》へも、力《ちから》を付《つけ》しかば、味方《みかた》千|騎《き》萬騎《ばんき》のきほひとは、かやうの事《こと》なりと、どつときほひ出《いで》にけり。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
丹羽《には》の來援《らいゑん》は、時《とき》に取《と》りての大冥加《だいみやうが》であつた。賤岳砦《しづがたけとりで》の維持《ゐぢ》されたのは、全《まつた》く彼《かれ》の力《ちから》であつた。持《も》つ可《べ》き者《もの》は、善《よ》き朋友《ほういう》である、秀吉《ひでよし》は朋友《ほういう》に於《おい》て、恒《つね》に大《だい》なる冥加《みやうが》があつた。

          ―――――――――――――――
[#6字下げ][#小見出し]丹羽長秀の戰功[#小見出し終わり]

[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
四月十七日[#割り注]○天正十一年[#割り注終わり]長秀[#割り注]○丹羽[#割り注終わり]老臣等に謂て曰く、聞く秀吉再び濃州に進發すと、思ふに勝家が先陣其隙に乘じ、當さに秀吉備る所の諸營を攻むべし、然らば即ち數所の城兵危急なり、今之れを救はずんば何れの時を期せんや、之を爲す如何、老臣皆可ならんと云ふ、越て二十日三千餘兵を率ゐ、軍鑑を余吾の浦[#割り注]○琵琶湖の誤[#割り注終わり]に泛べて江北に赴く、湖上より諸營を望めば、旌旗亂て調はず、兵卒騷走して狼煙天を掩ひ、砲銃雷の如くに轟く、時に長秀志津嶺、越兵が爲に破らるゝことを知り、將さに之を援けんとす、乃ち舟を盪《お》す、老臣等曰く、如かず兵を坂本に收めて、城を固めて之れを守らんには、長秀色を變じて曰く、夫れ大節に臨んで義を顧みざるときは、則ち啻に譏を今日に受るのみならず、名を後世に辱しめん、是れ士の惡む所なり、今吾れ之れを救はずんばある可からず、乃ち望月某に命じて、海津に置く所の士卒三分の一を分て、志津嶽に遣はす可きの旨、羽檄を鍋丸[#割り注]○長秀の嗣子、後の長重[#割り注終わり]に致す、而して長秀陸に上る時に、村民等曰く、今曉、山路將監、佐久間盛政柳瀬[#割り注]○大岩山の誤[#割り注終わり]を攻む、未だ之を知らず、桑山修理亮は已に城を逃る、然れども未だ十町許に過ぎずと、詳に之を告ぐ、長秀之を聞て使を桑山に遣し、之を呼ぶ、桑山已に木ノ本の城邊に至る、長秀來り援くと聞て、即ち志津嶽に返る、又使を部將及民家に遣はして云く、長秀只今志津嶽に登つて越前の兵を支ふ、肯て心を勞する勿れと、部將村民等之を聞て奮起す。〔丹羽家譜〕[#「〔丹羽家譜〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
          ―――――――――――――――

[#5字下げ][#中見出し]【四〇】秀吉佐久間を追撃す[#中見出し終わり]

佐久間《さくま》の退却《たいきやく》を始《はじ》めたるは、二十|日《か》の午後《ごご》十一|時頃《じごろ》で、秀吉《ひでよし》の進撃《しんげき》に向《むか》ひたるは、廿一|日《にち》午前《ごぜん》二|時頃《じごろ》なれば、其間《そのあひだ》僅《わづ》かに三|時間許《じかんばかり》であつた。秀吉《ひでよし》は麾下《きか》を率《ひき》ゐて、田神山《たがみやま》を下《くだ》り、黒田村《くろだむら》を經《へ》て、觀音坂《くわんおんざか》を上《のぼ》り、其《そ》の跡《あと》より隨《したが》ふ兵《へい》二千|餘人《よにん》に命《めい》じ、西下《さいか》して佐久間隊《さくまたい》を追撃《つゐげき》せしめた。而《しか》して茶臼山《ちやうすやま》には、丹羽長秀《にはながひで》の、賤岳《しづがたけ》より來《きた》り謁《えつ》するに會《くわい》し、午前《ごぜん》四|時《じ》猿《さる》ヶ|馬場《ばば》に駐《とゞま》り、余呉湖畔《よごこはん》を下瞰《かかん》し、戰況《せんきやう》を縱觀《じゆうくわん》し、乘《じよう》ず可《べ》き機《き》を俟《ま》つた。
佐久間等《さくまら》の退却《たいきやく》は、午前《ごぜん》三|時《じ》過迄《すぎまで》に亘《わた》つた。されば兩軍《りやうぐん》の接觸《せつしよく》は、固《もと》より必然《ひつぜん》であつた。
[#ここから1字下げ]
玄蕃允陣中《げんばのすけぢんちゆう》も、彌《いよ/\》さわぎ立《たち》、退《のき》なんとひしめき立出《たちいで》しか共《ども》、廿|日《か》(十九日?)[#「(十九日?)」は1段階小さな文字]之夜《のよ》節所《せつしよ》を窘歩《きんぽ》し來《き》たり、晝《ひる》は終日《ひねもす》戰《たゝか》ひ暮《くら》したり。目《め》ざす共《とも》知《し》らぬ夜《よる》の道《みち》、小篠《をざゝ》が上《うへ》の露《つゆ》もろともに、おちまろび、起《おき》ては倒《たふ》れ、倒《たふ》れては起上《おきあが》り、急《いそ》ぎしが、せめて月《つき》をよすがにせんと、のゝじる内《うち》に、廿|日《か》の夜《よる》の月《つき》、山《やま》のはにほのかなりければ、聊《いさゝ》か道《みち》しるべ有《あり》、南方《なんぱう》の勢《せい》は兼《かね》て支度《したく》を調《とゝの》へ、敵《てき》のきなば、つかんと待得《まちえ》し事《こと》なれば、未《いま》だ陣拂《ぢんばら》ひもせざりし内《うち》に、はやひしと付《つき》て見《み》えたり。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
されば佐久間《さくま》は、原房親《はらふさちか》に後拒《こうきよ》を命《めい》じ、且《か》つ戰《たゝか》ひ、且《か》つ退《しりぞ》いた。秀吉勢《ひでよしぜい》は午前《ごぜん》三|時過《じすぎ》より、余呉湖畔《よごこはん》に於《おい》て、敵軍《てきぐん》に逼《せま》り、攻撃《こうげき》を開始《かいし》し、爾來《じらい》秀吉勢《ひでよしぜい》は、續續《ぞくぞく》と來《きた》り加《くはは》り、無慮《むりよ》六七千となつた。然《しか》も原《はら》亦《ま》た善《よ》く防《ふせ》ぎ、互《たがひ》に一|進《しん》一|退《たい》して、遂《つひ》に六|時頃《じごろ》に至《いた》つた。
却説《さて》、柴田勝政《しばたかつまさ》は、其兄《そのあに》佐久間盛政《さくまもりまさ》の命《めい》により、飯浦坂《いひうらざか》の東《ひがし》に於《おい》て、殿戰《でんせん》しつゝあつたが、七|時過《じすぎ》、其《そ》の西北高地《せいほくかうち》にある盛政《もりまさ》より、更《さ》らに退却《たいきやく》を促《うなが》し來《きた》りたれば、之《これ》に合《がつ》せんと背進中《はいしんちゆう》、秀吉勢《ひでよしぜい》の銃射《じゆうしや》を受《う》け、隊伍《たいご》頗《すこぶ》る動搖《どうえう》の色《いろ》を露《あらは》した。秀吉《ひでよし》は氣迅《きばや》く之《これ》を看取《かんしゆ》し、麾下《きか》の壯士《さうし》を放《はな》つて、突撃《とつげき》せしめた。之《これ》が廿一|日《にち》の午前《ごぜん》八|時過《じす》ぎである。世《よ》に所謂《いはゆ》る賤岳《しづがたけ》の七|本槍《ほんやり》、三|振《ふり》の太刀抔《たちなど》と稱《しよう》するは、此《こ》の場合《ばあひ》に於《お》ける、秀吉《ひでよし》馬廻《うままは》りの連中《れんぢゆう》の働《はたら》きを云《い》ふのぢや。
勝政等《かつまさら》の隊《たい》は、且《か》つ戰《たゝか》ひ、且《か》つ退《しりぞ》く約《やく》二十|町《ちやう》、勝政《かつまさ》は奮鬪《ふんとう》して、途中《とちゆう》に戰死《せんし》した。盛政《もりまさ》は漸《やうや》く茂山《しげやま》の西南《せいなん》─|足海嶺《あしみがみね》─に至《いた》り、前田利家父子《まへだとしいへふし》の駐在《ちゆうざい》するを見《み》て、姑《しば》らく此處《こゝ》に止《とゞま》つた。然《しか》るに前田隊《まへだたい》に馬《うま》の逸《いつ》するありて、陣中《ぢんちゆう》騷《さわ》ぎ出《だ》した。斯《か》くて前田隊《まへだたい》は、鹽津谷《しほつだに》より疋田《ひきだ》、今庄《いましやう》を經《へ》て、府中《ふちゆう》に還《かへ》つた。佐久間勢《さくまぜい》は、前田隊《まへだたい》の動《うご》くを見《み》て、士氣《しき》愈《いよい》よ沮喪《そさう》し、往々《わう/\》遁逃者《とんたうしや》を出《いだ》した。
賤岳砦《しづがたけとりで》に在《あ》りたる丹羽長秀《にはながひで》は、之《これ》を俯瞰《ふかん》し、桑山隊《くわやまたい》と合《がつ》して、其兵《そのへい》を進《すゝ》め、秀吉《ひでよし》の兵《へい》と與《とも》に、總攻撃《そうこうげき》に掛《かゝ》つた。佐久間勢《さくまぜい》は、最早《もはや》一|溜《たま》りも溜《たま》らず、潰走《くわいそう》した。其《そ》の一|部《ぶ》は、柳瀬方位《やながせはうゐ》に、他《た》の一|部《ぶ》は、沓掛越《くつかけごえ》より越前《ゑちぜん》に奔《はし》つた。主將盛政《しゆしやうもりまさ》は、先《ま》づ鹽津方位《しほつはうゐ》に遁《のが》れ、迂回《うくわい》して其《そ》の居城《きよじやう》加洲尾山《かすをやま》に向《むか》うた。斯《かく》の如《ごと》くして、佐久間《さくま》の攻撃軍《こうげきぐん》は勿論《もちろん》、柴田勝政《しばたかつまさ》、前田利家等《まへだとしいへら》の監視兵《かんしへい》も、皆《み》な廿一|日《にち》の午前《ごぜん》十|時頃迄《じごろまで》に、悉《こと/″\》く潰《つひ》えた。秀吉勢《ひでよしぜい》は追撃《つゐげき》三十|餘町《よちやう》、集福寺坂附近《しふふくじざかふきん》に至《いた》つた。秀吉《ひでよし》は之《これ》を中止《ちゆうし》し、鋒《ほこさき》を轉《てん》じ、勝《かち》に乘《じよう》じて、北國街道《ほくこくかいだう》に向《むか》はしめた。蓋《けだ》し此《こ》れよりして、柴田勝家《しばたかついへ》を打《う》たんとするのである。

          ―――――――――――――――
[#6字下げ][#小見出し]賤ヶ嶽七本槍の勇士に加増の事[#小見出し終わり]

[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
賤ヶ嶽七本槍、加藤虎之助後肥後守、平野三十郎後遠江守、脇坂甚内後中務、加藤作内[#割り注]○孫六の誤[#割り注終わり]後左馬之助、戸田三郎四郎後民部、福島市松後左衞門太夫、糟谷内膳等なり、右七人は其節まで領地百五十石づゝ給りける、内膳は播州赤松が者なりしか、赤松死去の後能き事の有ものなりとて、五百石にて抱へ給ひしなり、其後六人には三千石に帷子三十五、黄金五枚づゝ下されける、市松には五千石に帷子二十五、黄金五枚賜はる、杉原伯耆[#割り注]○家次[#割り注終わり]朱印を渡しける、虎之助高聲になりて、市松も御一家、我等も御爪の端なり、何とて二千石劣りたるぞ、今度の槍、市松に少しも劣らず、伯耆に返すとて、朱印を戴かざりける、其聲高ければ、太閤聞召、虎之助は惣じてうつけ者なり、汝預り置け、以來は市松と同樣に取らせんと仰ける、後に播州姫路に御加恩ありて都合五千石の地を下されける、市松太閤の甥[#割り注]○從弟の誤[#割り注終わり]なり、虎之助は從弟[#割り注]○再從弟[#割り注終わり]なり。〔祖父物語〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
          ―――――――――――――――

[#5字下げ][#中見出し]【四一】前田利家の態度[#中見出し終わり]

茲《こゝ》に考慮《かうりよ》す可《べ》き問題《もんだい》は、前田利家父子《まへだとしいへふし》の態度《たいど》だ。前田《まへだ》は信長《のぶなが》の將校《しやうかう》として、武勇《ぶゆう》に於《おい》ては、誰《たれ》にも後《おく》れを取《と》らぬ漢《をのこ》だ。然《しか》るに賤岳《しづがたけ》の一|戰《せん》には、何等《なんら》彼《かれ》が特別《とくべつ》に働《はたら》いた事實《じじつ》がない。彼《かれ》が茂山《しげやま》より退却《たいきやく》の際《さい》、秀吉方《ひでよしがた》より追撃《つゐげき》せられ、若干《じやくかん》の死者《ししや》を生《しやう》じたのは、相違《さうゐ》なき事《こと》であるが、此《こ》れは寧《むし》ろ偶然《ぐうぜん》の怪我《けが》と云《い》ふ可《べ》きであらう。若《も》し利家《としいへ》にして盛政《もりまさ》に戮協《りくけふ》し、死力《しりよく》を盡《つく》して防戰《ばうせん》したならば、縱令《たとひ》戰局《せんきよく》を一|變《ぺん》し、勝敗《しようはい》の數《すう》を顛倒《てんたう》するに至《いた》らざる迄《まで》も、或《あるひ》は今《いま》少《すこ》しく秀吉方《ひでよしがた》に打撃《だげき》を加《くは》へ、痛手《いたで》を與《あた》へ得《え》たかも知《し》れぬ。兎《と》も角《かく》も彼《かれ》が勝家方《かついへがた》にありながら、傍觀者《ばうくわんしや》の態度《たいど》を示《しめ》した事《こと》は、長秀《ながひで》の好《よ》き潮合《しほあひ》に出《い》で來《きた》りたる、援兵《ゑんぺい》と與《よも》に、秀吉《ひでよし》に取《と》りては、無上《むじやう》の仕合《しあはせ》であつたと云《い》はねばなるまい。前田創業記《まへださうげふき》に曰《いは》く、
[#ここから1字下げ]
公《こう》(利家)[#「(利家)」は1段階小さな文字]瑞龍院殿《ずゐりゆうゐんでん》(利長)[#「(利長)」は1段階小さな文字]共《ともに》|進[#レ]軍手《ぐんをすゝめて》|操[#二]節旄[#一]《せつぱうをとり》[#ルビの「せつぱうをとり」は底本では「にせつぱうをとり」]、|麾[#二]敗將疲卒[#一]《はいしやうひそつをさしまねき》、|欲[#二]復來戰[#一]《ふたゝびきたりたゝかはんとほつす》、而《しかして》奮戰《ふんせん》數回《すうくわい》、然《しかれども》衆寡《しゆくわ》|不[#レ]遇《あはずして》、|不[#レ]克[#二]拒戰[#一]《ふせぎたゝかふあたはず》。|於[#レ]是《こゝにおいて》小塚藤兵衞《こづかとうべゑ》、木村《きむら》三|藏《ざう》、富田與《とみたよ》五|郎《らう》、周旋《しうせん》數《しば/\》苦戰《くせんし》、遂《つひに》|殞[#レ]命《めいをおとす》。公《こう》|使[#二]村井長頼、長連龍[#一]《むらゐながよりちやうつらたつをして》|爲[#レ]殿《しんがりをなさしむ》、二|將《しやう》苦戰《くせん》最《もつとも》甚《はなはだし》、其家人《そのけにん》死《しする》者《もの》惟《これ》多《おほし》。瑞龍院殿之《ずゐりゆうゐんでんの》幟奉行《はたぶぎやう》横山半喜《よこやまはんき》、|結[#二]飾旗於木々梢[#一]而《はたをきゞのこずゑにむすびかざりて》|爲[#二]多兵[#一]《たへいとなす》、因《よつて》敵兵《てきへい》少焉《しばらく》踟※[#「足へん+厨」、第3水準1-92-39]《ちゝうして》|不[#レ]進《すゝまず》、|不[#レ]急撃[#一レ]之《きふにこれをうたず》、半喜《はんき》遂《つひに》戰死《せんしす》。公《こう》自《みづから》|以[#レ]戈《ほこをもつて》苦戰《くせんし》、|破[#二]敵軍[#一]《てきぐんをやぶる》若干《じやくかん》、膂力《りよりよく》輙《すなはち》疲《つかれ》殆《ほとんど》危《あやふし》。時《ときに》長連龍之《ちやうつらたつの》兵《へい》阿岸主計《あかしかずへ》、家人《けにん》相浦新助《あひうらしんすけ》|執[#二]公乘馬之《こうがじようめの》七|寸[#一]而《すんをとりて》引退《ひきのく》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れで見《み》れば、頗《すこぶ》る苦戰《くせん》の樣《やう》であるが、それは寧《むし》ろ退却《たいきやく》の際《さい》の事《こと》と見《み》るべきであらう。而《しか》して縱令《たとひ》苦戰《くせん》したるにせよ、其《そ》の死者《ししや》は、決《けつ》して多數《たすう》ではなかつた。
加賀藩史稾《かゞはんしかう》には、
[#ここから1字下げ]
時《とき》に公《こう》世子《せいし》と茂山《しげやま》に陣《ぢん》す。戰《たゝかひ》破《やぶ》るゝに及《およ》び、急《きふ》に軍《ぐん》を收《をさ》む。敵《てき》追撃《つゐげき》す。老臣《らうしん》長連龍《ちやうつらたつ》、村井長頼《むらゐながより》之《これ》を拒《ふせ》ぎ、近臣《きんしん》小塚藤右衞門《こづかとううゑもん》、木村《きむら》三|藏等《ざうら》、力戰《りよくせん》して之《これ》に死《し》す。遂《つひ》に府中城《ふちゆうじやう》に還《かへ》る。
[#ここで字下げ終わり]
とある。乃《すなは》ち其身《そのみ》を全《まつた》うして、還《かへ》つたのみならず、其軍《そのぐん》を全《まつた》うして、還《かへ》つたのである。
されば吾人《ごじん》は利家《としいへ》が、積極的《せききよくてき》に柴田方《しばたがた》の爲《た》めに骨折《ほねを》らず、唯《た》だ其《そ》の退陣《たいぢん》の際《さい》に、自軍《じぐん》の逃路《にげみち》を開《ひら》く可《べ》く、奮鬪《ふんとう》したと認《みと》めざるを得《え》ない。此《こ》れは何故《なにゆゑ》であらう乎《か》。川角太閤記《かはかくたいかふき》は、此《こ》の疑問《ぎもん》に對《たい》して、左《さ》の明答《めいたふ》を與《あた》へて居《を》る。
[#ここから1字下げ]
一、其《そ》の隣《となり》の百姓《ひやくしやう》ども|被[#二]呼出[#一]《よびいだされ》、此中《このぢゆう》の陣取《ぢんどり》の事《こと》に候間《さふらふあひだ》、陣取《ぢんどり》の次第《しだい》|被[#レ]成[#二]御尋[#一]候《おたづねなされさふら》へば、一/\にかくと申上《まをしあぐ》。さらば汝《なんぢ》案内《あんない》よく知《し》らん、筑前守《ちくぜんのかみ》が者《もの》を汝《なんぢ》に|可[#レ]付也《つけべきなり》。頼《たのむ》と|被[#レ]仰《おほせられ》、金《きん》一|枚《まい》|被[#レ]遣候《つかはされさふらふ》。|無[#レ]難《なんなく》戻《もど》り候《さふら》はゞ、又《また》二|枚《まい》|可[#レ]被[#レ]遣候《つかはさるべくさふらふ》。此者《このもの》を召《めし》つれ、前田又左衞門殿《まへだまたざゑもんどの》陣《ぢん》へ紛入《まぎれいれ》よと御意候《ぎよいさふら》へば、大形山《おほかたやま》をつたはり參候《まゐりさふら》はんと御請申《おうけまをす》。状《ぢやう》を|被[#レ]遊《あそばされ》前田又左衞門殿《まへだまたざゑもんどの》へ|被[#レ]遣候《つかはされさふらふ》者《もの》、夜《よ》に紛《まぎ》れ是《これ》まで參着候《さんちやくさふらふ》。人數《にんず》|無[#レ]殘《のこりなく》引付候者《ひきつけさふらへば》、※[#「竹かんむり/冊」、第4水準2-83-34]火《かゞりび》數《すう》を盡《つく》し燒《たか》せ|可[#レ]申候《まをすべくさふらふ》。火《ひ》多《おほ》く見《み》え候《さふら》はゞ、明日《みやうにち》の合戰《かつせん》と|可[#レ]被[#二]思召[#一]候《おぼしめさるべくさふらふ》。合戰《かつせん》に取結《とりむす》び候者《さふらへば》、裏切《うらぎり》|奉[#レ]頼度存候《たのみたてまつりたくぞんじさふら》へども、兼《かね》てより御心中存候通《ごしんちゆうぞんじさふらふとほり》、しろ/″\裏切《うらぎり》は|被[#レ]成間敷候《なされまじくさふらふ》。合戰《かつせん》に御構《おかま》ひなき事《こと》、裏切同然《うらぎりどうぜん》に御座候間《ござさふらふあひだ》、其御心得《そのおこゝろえ》|可[#レ]被[#レ]成《なさるべし》と|被[#二]仰遣[#一]候《おほせつかはされさふらふ》。又左衞門殿《またざゑもんどの》よりは、扨[#底本では扱]《さて》はかや野迄《のまで》夜《よ》に紛《まぎれ》|被[#レ]成[#二]御著[#一]候哉《ごちやくなされさふらふや》。※[#「竹かんむり/冊」、第4水準2-83-34]火事《かゞりびのこと》相心得申候《あひこゝろえまをしさふらふ》。|如[#二]御意[#一]《ぎよいのごとく》裏切《うらぎり》は|可[#レ]被[#レ]成[#二]御免[#一]候《ごめんなさるべくさふらふ》、外聞《ぐわいぶん》如何《いかゞ》と存候《ぞんじさふらふ》。明日之御合戰《みやうにちのごかつせん》|於[#レ]有[#レ]之者《これあるにおいては》、|如[#二]御指圖の[#一]《おさしづのごとく》双方《さうはう》へ構《かま》ひ申間敷候《まをすまじくさふらふ》との、又左衞門殿《またざゑもんどの》より御返事《ごへんじ》と、相聞《あひきこ》え申候事《まをしさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
果《はた》して此通《このとほ》りであれば、秀吉《ひでよし》と、利家《としいへ》との間《あひだ》には、合戰《かつせん》の前夜《ぜんや》に、既《すで》に利家《としいへ》局外《きよくぐわい》中立《ちゆうりつ》の協定《けふてい》が、成立《せいりつ》したと云《い》はねばならぬ。
元來《ぐわんらい》川角太閤記《かはかくたいかふき》は、其《そ》の記事《きじ》極《きは》めて月並的《つきなみてき》でなく、英雄《えいゆう》の片甲《へんかふ》、殘鱗《ざんりん》を閃《ひらめ》かすに妙《めう》を得《え》て居《を》る代《かは》り、又《ま》た往々《わう/\》小説《せうせつ》らしく思《おも》はるゝ節《ふし》も少《すくな》くない。此話《このはなし》も果《はた》して其儘《そのまゝ》受取《うけと》る可《べ》き乎《か》、否乎《いなか》は、別問題《べつもんだい》であるが。兎《と》も角《かく》も秀吉《ひでよし》と、利家《としいへ》との間《あひだ》には、何等《なんら》か多少《たせう》の了解《れうかい》が、出來《でき》て居《ゐ》たには相違《さうゐ》あるまい。利家《としいへ》は決《けつ》して陰險《いんけん》なる狡謀家《かうぼうか》でなかつた。彼《かれ》は決《けつ》して、柴田《しばた》に惡意《あくい》を持《も》つて居《ゐ》なかつた。併《しか》し秀吉《ひでよし》とは、舊友《きういう》である、親友《しんいう》である。されば秀吉《ひでよし》に對《たい》して、何等《なんら》敵意《てきい》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《さしはさ》まなかつた事《こと》も、疑《うたがひ》を容《い》れぬ。彼《かれ》は其《そ》の領土《りやうど》の關係《くわんけい》より、柴田方《しばたがた》に驅《か》り催《もよほ》されて、出陣《しゆつぢん》した丈《だけ》にて、決《けつ》して秀吉《ひでよし》を打《う》ち滅《ほろぼ》さねば、安心《あんしん》せぬと云《い》ふ如《ごと》き意氣込《いきごみ》は、當初《たうしよ》からなかつたであらう。
されば局外《きよくくわい》中立《ちゆうりつ》の協約《けふやく》が、利家《としいへ》と、秀吉《ひでよし》との間《あひだ》に成立《せいりつ》したと、否《いな》とに拘《かゝは》らず、其《そ》の積極的《せききよくてき》に柴田方《しばたがた》の爲《た》めに、奮鬪《ふんとう》せなかつた事《こと》は、是《これ》亦《ま》た疑《うたがひ》を容《い》るゝ餘地《よち》はあるまい。豐鑑《ほうかん》の著者《ちよしや》が『彼《かれ》は柴田《しばた》と同敵《どうてき》でありしか共《ども》、昔《むかし》よりの好《よし》み深《ふか》かりけり、内々《ない/\》秀吉《ひでよし》に志《こゝろざし》を通《つう》じければ也《なり》。』と評《ひやう》したのは、頗《すこぶ》る中覈《ちゆうかく》の言《げん》と思《おも》はるゝ。

[#5字下げ][#中見出し]【四二】勝家北莊に遁る[#中見出し終わり]

柴田勝家《しばたかついへ》は、佐久間等《さくまら》攻撃《こうげき》軍《ぐん》を、大岩山砦《おほいはやまとりで》に向《むか》はしむると與《とも》に、自《みづ》から七千の兵《へい》を率《ひき》ゐ、廿|日朝《かのあさ》より内中尾《うちなかを》を出《で》て、狐塚《きつねづか》に屯《たむろ》し、東野山《ひがしのやま》なる、堀秀政《ほりひでまさ》の兵《へい》を監視《かんし》しつゝあつたが。其夕《そのゆふべ》盛政《もりまさ》が終《つひ》に撤兵《てつぺい》せざるを見《み》て、悔恨《くわいこん》措《お》く能《あた》はず。『豎子《じゆし》大事《だいじ》を誤《あやま》る、秀吉《ひでよし》必《かなら》ず到《いた》らむ、我軍《わがぐん》擒《とりこ》とならむ。』と云《い》ひしが、果然《くわぜん》秀吉《ひでよし》の大垣《おほがき》より到著《たうちやく》したるの報《はう》、夜半《やはん》に達《たつ》し、陣中《ぢんちゆう》動搖《どうえう》大方《おほかた》ならず。既《すで》にして賤岳方面《しづがたけはうめん》の報告《はうこく》を得《え》、慨然《がいぜん》此處《こゝ》に踏《ふ》み止《とゞま》りて、秀吉勢《ひでよしぜい》を支《さゝ》へんと決心《けつしん》した。然《しか》も形勢《けいせい》の非《ひ》なるを見《み》て取《と》りたる、兵士共《へいしども》は、我先《われさき》にと逃亡《たうぼう》し、今《いま》は剩《あま》す所《ところ》、三千を出《い》でなかつた。
[#ここから1字下げ]
柴田《しばた》小姓《こしやう》馬廻《うままはり》其勢《そのせい》七千|餘《よ》騎《き》、堀久太郎《ほりきうたらう》が要害《えうがい》東野《ひがしの》を押《おさ》へ對陣《たいぢん》せしなり。玄蕃允《げんばのすけ》勝《かち》に乘《のり》、|不[#二]引取[#一]《ひきとらざる》を悔《くや》み怒《いか》り、急《いそ》ぎ引取候《ひきとりさふら》へと、使者《ししや》敷波《しきなみ》を立《たて》云遣《いひや》りしか共《ども》|不[#レ]用《もちひずして》、ひかざりしかば、其道《そのみち》に闇《くら》き者《もの》なりと散々《さん/″\》にのゝしり、腹立《ふくりふ》して有《あり》し處《ところ》に、|如[#レ]案《あんのごとく》夜半《やはん》の比《ころ》より、四方《あたり》物《もの》さわがしく成出《なりいで》、何共《なんとも》なふひそめきあへりぬ。是《これ》は如何樣《いかさま》|不[#レ]可[#レ]然事《しかるべからざること》なるべしと、家老共《からうども》勝家《かついへ》の陣《ぢん》に集《あつま》りつゝ、玄蕃《げんば》|不[#二]引取[#一]事《ひきとらざること》に付《つい》て、千|非《ぴ》を悔《くい》ける處《ところ》に、未《いま》だ其舌《そのした》も乾《かは》かざるに、秀吉《ひでよし》前夕《ぜんゆふ》夜通《よどほ》しに多勢《たぜい》を率《そつ》し、濃州《のうしう》より|至[#二]此表[#一]《このおもてにいたり》今晩《こんばん》著陣之由《ちやくぢんのよし》、何方共《いづくとも》なく沙汰《さた》しければ。軍中《ぐんちゆう》雜説《ざつせつ》を云《いひ》、こゝもかしこも以外《もつてのほか》さわぎ出《いで》、怯弱《けふじやく》なる者共《ものども》は、多《おほ》く頓疾虚病《とんしつきよびやう》に事《こと》よせ、夜《よ》の間《ま》に落《おち》しも有《あり》、悉《こと/″\》く色《いろ》を失《うしな》ひ、度《ど》に迷《まよ》ふ體《てい》、はか/″\しき事《こと》はあらじと思《おも》ふ處《ところ》に、余語《よご》(呉)[#「(呉)」は1段階小さな文字]之《の》海邊《うみべ》に當《あたつ》て、鐵砲《てつぱう》の音《おと》ことごとしく鳴出《なりいで》、どよみあへる聲《こゑ》、おびたゞし。彌《いよ/\》陣中《ぢんちゆう》危《あやふ》からん事《こと》急《きふ》に成《なり》、かたづを呑《のん》で有《あり》し折節《をりふし》、水野小右衞門尉《みづのこうゑもんのじよう》が飛脚《ひきやく》來《きたり》て、玄蕃《げんば》今曉《こんげう》志津嵩《しづがたけ》より退候《のきさふら》へば、敵《てき》ひたと付《つき》て、危《あやふ》く見《み》え候《さふらふ》と云《いひ》しかば、勝家《かついへ》聞《きゝ》もあへず、左《さ》もこそあらんと思《おも》ひつれ、任他《さもあらばあれ》我《われ》是《こゝ》にて一|合戰《かつせん》すべきと、勢《せい》を備《そな》へ待《まち》にけり。
[#地から2字上げ]〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
惟《おも》ふに柴田陣《しばたぢん》の樣體《やうだい》は、先《ま》づ此《こ》の通《とほ》りであつたであらう。然《しか》るに東野砦《ひがしのとりで》の守將堀秀政《しゆしやうほりひでまさ》は、昨日來《さくじつらい》柴田勢《しばたぜい》が狐塚迄《きつねづかまで》、乘《の》り出《いだ》し來《きた》るも、泰然《たいぜん》として動《うご》く所《ところ》なく。二十一|日《にち》の朝《あさ》、賤岳方位《しづがたけはうゐ》に戰聲《せんせい》の熾《さかん》なるを聞《き》き、五千の兵《へい》を率《ひき》ゐ、其砦《そのとりで》を下《くだ》りて、北國街道《ほくこくかいだう》の戌將《じゆしやう》、小川祐忠《をがはすけたゞ》の兵《へい》一千、堂木山砦《だんぎやまとりで》の守將《しゆしやう》、木下半右衞門《きのしたはんゑもん》の兵《へい》五百と相合《あひがつ》し、正《ま》さに柴田勢《しばたぜい》に向《むか》ひ、機《き》を見《み》て進撃《しんげき》すべき備《そな》へを立《た》てた。勝家《かついへ》の部將等《ぶしやうら》は、賤岳《しづがたけ》戰況《せんきやう》の、益※[#二の字点、1-2-22]《ます/\》非《ひ》なるを見《み》、衆寡《しゆうくわ》の敵《てき》し難《がた》きを察《さつ》し、勝家《かついへ》に向《むか》つて退却《たいきやく》を苦勸《くくわん》した。
[#ここから1字下げ]
毛受勝介《めんじゆかつすけ》と云《いふ》兵《つはもの》言《いひ》しは、軍兵《ぐんぴやう》やゝ|落《おち》て失《うせ》ぬ。戰給《たゝかひたま》ふとも勝《かつ》べきにあらず。敵《てき》に顏《かほ》さらさせ給《たま》はんよりも、城《しろ》に歸《かへ》り自害《じがい》有《あり》て跡《あと》をかくさせ給《たま》ふべし。某《それがし》殘留《のこりとゞまつ》て御名《おんな》をけがし討死《うちじに》すべしと、頻《しきり》に諫《いさ》めければ、實《げに》とや思《おも》ひけん、馬《うま》をかへして落行《おちゆき》けり。毛受《めんじゆ》柴田《しばた》が馬《うま》じるし金箔《きんぱく》をしたるごへいを取《とつ》て、我《わが》きはにおしたて、敵《てき》をまつ所《ところ》に、木下美作《きのしたみまさか》、小川土佐《をがはとさ》進《すゝ》み來《きた》れば、柴田勝家《しばたかついへ》となのり、思《おも》ふ程《ほど》戰《たゝか》ひ、小川《をがは》が從者《ずさ》に討《うた》れけり。漢《かん》の紀進《きしん》は※[#「螢」の「虫」に代えて「水」、第3水準1-87-2]陽《けいやう》にて、高祖《かうそ》に替《かは》り命《めい》を失《うしな》ひ、我國《わがくに》の佐藤忠信《さとうたゞのぶ》は、義經《よしつね》の爲《た》めに、吉野《よしの》に殘《のこ》り留《とゞま》りぬ。毛受《めんじゆ》が志《こゝろざ》し是《これ》に同《おな》じと、人《ひと》皆《みな》譽《ほ》めのゝしりけり。〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《かく》の如《ごと》く毛受家照《めんじゆいへてる》は、勝家《かついへ》の馬標《うまじるし》金《きん》の五|幣《へい》を請《こ》ひ、勝家《かついへ》は廿一|日《にち》午前《ごぜん》九|時《じ》頃《ごろ》、若干《じやくかん》の士卒《しそつ》と與《とも》に、北莊《きたのしやう》差《さ》して落《お》ち行《ゆ》いた。而《しか》して家照《いへてる》は、決死《けつし》の士《し》三百と與《とも》に、敵《てき》を要害《えうがい》に引《ひ》き受《う》けんと、狐塚《きつねづか》の北《きた》約《やく》十|町《ちやう》なる、北尾崎《きたをざき》の砦《とりで》─|即《すなは》ち林谷山《はやしだにやま》、不破勝光《ふはかつみつ》の守《まも》りし營《えい》─に據《よ》り、秀吉軍《ひでよしぐん》の來《きた》るを待《ま》ち受《う》けた。賤岳《しづがたけ》の勝兵《しようへい》、秀吉《ひでよし》號令《がうれい》の下《もと》に、轉《てん》じて北國街道《ほくこくかいだう》に向《むか》ひ來《きた》るや、堀等《ほりら》の隊《たい》は、時來《とききた》れりとなし、進《すゝ》んで柴田《しばた》の軍《ぐん》に逼《せま》つた。家照《いへてる》は自《みづ》から勝家《かついへ》と稱《しよう》し、數回《すくわい》突出《とつしゆつ》して、敵兵《てきへい》を卻《しりぞ》け、其《そ》の從兵《じゆうへい》亦《ま》た、殆《ほとん》ど全滅《ぜんめつ》に瀕《ひん》して討死《うちじに》した。時《とき》に正午《しやうご》であつた。秀吉《ひでよし》は家照《いへてる》の首《くび》を檢《けん》し、勝家《かついへ》の脱《だつ》し去《さ》れるを知《し》り、直《たゞ》ちに全軍《ぜんぐん》に追躡《つゐせふ》を命《めい》じ、橡木嶺《とちのきのみね》を越《こ》えて、越前《ゑちぜん》に入《はひ》つた。
此日《このひ》の戰爭《せんさう》は、賤岳方面《しづがたけはうめん》に於《おい》ては、午前《ごぜん》四|時《じ》頃《ごろ》より開始《かいし》し、柳瀬方面《やながせはうめん》に於《おい》ては、正午《しやうご》に結了《けつれう》した。柴田勢《しばたぜい》の死者《ししや》、五千|餘《よ》人《にん》であつた。而《しか》して柴田勝家《しばたかついへ》の勢力《せいりよく》は、此《こ》の一|戰《せん》に於《おい》て、殆《ほとん》ど全滅《ぜんめつ》した。
[#改ページ]

 

戻る ホーム 上へ 進む

僕の作業が遅くて待っていられないという方が居られましたら、連絡を頂ければ、作業を引き渡します。また部分的に代わりに入力して下さる方がいましたら、とてもありがたいのでその部分は、何々さん入力中として、ホームページ上に告知します。メールはこちらまで