高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正、再校正
[#4字下げ][#大見出し]第七章 秀吉黨對勝家黨の決鬪[#大見出し終わり]
[#5字下げ][#中見出し]【三〇】秀吉と信孝[#中見出し終わり]
天正《てんしやう》十|年《ねん》の秋冬《しうとう》の交《かう》には、信長《のぶなが》の跡目《あとめ》は、自《おのづ》から二|個《こ》に分裂《ぶんれつ》した。一|方《ぱう》は秀吉《ひでよし》を中心《ちゆうしん》とし、信雄《のぶを》を表面《へうめん》の首領《しゆりやう》とし、池田勝入《いけだしようにふ》、織田信包《おだのぶかね》─|信長《のぶなが》の弟《おとうと》─|細川藤孝《ほそかはふぢたか》、同忠興《おなじくたゞおき》、蒲生賢秀《がまふかたひで》、同氏郷《おなじくうぢさと》、筒井順慶《つゝゐじゆんけい》、中川清秀《なかがはきよひで》、高山長房《たかやまながふさ》、森長可《もりながよし》、蜂屋頼隆等《はちやよりたから》にて、丹羽長秀《にはながひで》も、中立《ちゆうりつ》と云《い》ひつゝ、實《じつ》は秀吉黨《ひでよしたう》の大立者《おほだてもの》であつた。
之《これ》に對抗《たいかう》するには、柴田勝家《しばたかついへ》を中心《ちゆうしん》とし、信孝《のぶたか》其《そ》の首領《しゆりやう》たり。其《そ》の黨與《たうよ》の隨一《ずゐいち》は、瀧川一益《たきがはかずます》で、其《そ》の他《た》佐々成政《さつさなりまさ》、前田利家《まへだとしいへ》、佐久間盛政《さくまもりまさ》、金森長近《かなもりながちか》、徳山則秀等《とくやまのりひでら》の北國衆《ほくこくしゆう》は、概《おほむ》ね勝家《かついへ》の幕下《ばくか》であつた。
兩黨《りやうたう》は互《たがひ》に睨合《にらみあひ》の姿《すがた》であつた。然《しか》も秀吉《ひでよし》は、獨《ひと》り中原《ちゆうげん》の本舞臺《ほんぶたい》を占《し》めて、其《そ》の隨意《ずゐい》の施設《しせつ》を做《な》しつゝあれば、柴田《しばた》一|派《ぱ》は、愈《いよい》よ腹《はら》の中《なか》に業《ごふ》を沸《わ》かした。然《しか》も冬期《とうき》に迫《せま》りて、積雪《せきせつ》の爲《た》め、北國《ほくこく》より兵《へい》を出《いだ》すの難《かた》きを見《み》。瀧川一益《たきがはかづます》の策《さく》によりて、姑《しば》らく秀吉《ひでよし》と和《わ》を講《かう》じ、以《もつ》て明春《みやうしゆん》を俟《ま》たんと企《くはだ》て、先《ま》づ信孝《のぶたか》をして、十|月《ぐわつ》八|日附《かづけ》を以《もつ》て、秀吉《ひでよし》に勝家《かついへ》と相軋《あひきし》るの不可《ふか》なるを、警告《けいこく》せしめた。然《しか》も秀吉《ひでよし》は、同《どう》十|月《ぐわつ》十八|日附《にちづけ》にて、信孝《のぶたか》の老臣《らうしん》、齊藤利堯《さいとうとしたか》、岡本重政《をかもとしげまさ》に復書《ふくしよ》し、其《そ》の柴田《しばた》に對《たい》する調停《てうてい》を謝《しや》し、自《みづ》から他意《たい》なきを陳《ちん》じ、却《かへつ》て信孝《のぶたか》、柴田等《しばたら》の清洲會議《きよすくわいぎ》の約定《やくぢやう》に、忠實《ちゆうじつ》ならざるを訴《うつた》へた。
[#ここから1字下げ]
一、日數《ひかず》|幾程無[#二]御座[#一]候《いくほどもござなくさふらふ》に、安土《あづち》へ若君樣《わかぎみさま》を移《うつ》し參《まゐ》らせ間敷由《まじきよし》、信孝樣《のぶたかさま》|被[#二]仰出[#一]候之間《おほせいだされさふらふのあひだ》、|於[#レ]于[#レ]今《いまにおいて》|無[#二]其儀[#一]候事《そのぎなくさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは信孝《のぶたか》が、三|法師《ぽうし》を、岐阜《ぎふ》に抑留《よくりう》し、安土《あづち》に復歸《ふくき》せしめざるを咎《とが》めたのぢや。信孝《のぶたか》は此《こ》の織田家正統《おだけせいとう》の相續者《さうぞくしや》を、秀吉《ひでよし》が擁《よう》して、己等《おのれら》に臨《のぞ》まん※[#こと、149-11]を欲《ほつ》せず、故《ことさ》らに然《し》かしつゝあるので、此《こ》の一|點《てん》に於《おい》ては、何等《なんら》辯解《べんかい》の言葉《ことば》はない。
秀吉《ひでよし》は若《も》し信雄《のぶを》、信孝《のぶたか》が、相續權《さうぞくけん》を爭《あらそ》ふに於《おい》ては、秀勝《ひでかつ》も亦《ま》た、信長《のぶなが》の子《こ》にして、年齡《ねんれい》も丁年《ていねん》に近《ちか》く、且《か》つ戰陣《せんぢん》の經歴《けいれき》も一|通《とほ》りあれば、其《そ》の資格《しかく》は立派《りつぱ》にある。然《しか》も吾《わ》が猶子《いうし》なれば、一|切《さい》其《そ》の要請《えうせい》を抛却《はうきやく》したのだ。然《しか》るに、
[#ここから1字下げ]
一、加樣《かやう》に賢人《けんじん》を捌《さば》き、何《なに》たる儀《ぎ》も信孝樣事者《のぶたかさまことは》|不[#レ]及[#レ]申《まをすにおよばず》、御《ご》一|類迄《るゐまで》も、御進退成候《ごしんたいなりさふら》はぬ者《もの》は、|馳走可[#レ]申《ちそうまをすべく》と存候《ぞんじさふらふ》に、何事《なにごと》にて御座候哉《ござさふらふや》、御兄弟樣《ごきやうだいさま》、其外《そのほか》宿老衆之御惡《しゆくらうしゆうのおにくしみを》うけ申候儀《まをしさふらふぎ》、迷惑《めいわく》に存候事《ぞんじさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
と云《い》ひ。自《みづ》からが献身的《けんしんてき》に、信孝等《のぶたから》の爲《た》めに、力《ちから》を竭《つく》したるに、却《かへつ》て其《そ》の感謝《かんしや》を受《う》けずして、惡意《あくい》を被《かうむ》りつゝあるを述懷《じゆつくわい》した。而《しか》して彼《かれ》は更《さ》らに、中國役《ちゆうごくえき》に於《おい》て、信長《のぶなが》の殊恩《しゆおん》を忝《かなじけな》うしたるを説《と》き、山崎合戰《やまざきかつせん》の委曲《ゐきよく》を語《かた》り、更《さ》らに美濃《みの》、尾張《をはり》を、無事《ぶじ》に手《て》に入《い》れたことを陳《ちん》じ。
[#ここから1字下げ]
一、右之骨《みぎのほね》を折申候儀《をりまをしさふらふぎ》は、悉《こと/″\く》我等《われら》一|人之覺悟《にんのかくご》に|雖[#二]相任候[#一]《あひまかせさふらふといへども》、御國分《ごこくぶん》をいたし、御兄弟樣《ごきやうだいさま》、御兩人樣《ごりやうにんさま》へ、先《まづ》國《くに》を|可[#レ]致[#二]進上[#一]《しんじやういたすべく》と存候而《ぞんじさふらひて》、宿老共《しゆくらうども》に|令[#二]談合[#一]《だんがうせしめ》濃州《のうしう》の儀者《ぎは》、岐阜之御城《ぎふのおんしろ》へは、久太郎《きうたらう》上置候《あげおきさふら》へ共《ども》、御國《おんくに》を相添《あひそ》へ、一|國之《こくの》[#「一|國之《こくの》」は底本では「一|國え《こくの》」]人質共《ひとじちとも》に、信孝樣《のぶたかさま》へ進上申候事《しんじやうまをしさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
此《かく》の如《ごと》き努力《どりよく》に拘《かゝは》らず、自《みづか》ら私《わたくし》せずして、美濃《みの》を信孝《のぶたか》に献《けん》じたと云《い》ひ。又《ま》た信雄《のぶを》へは、
[#ここから1字下げ]
一、尾張《をはり》をも、清洲之城《きよすのしろ》相添《あひそへ》、一|國之人質共《こくのひとじちとも》、三|助《すけ》(信雄)[#「(信雄)」は1段階小さな文字]樣《さま》へ相渡《あひわた》し申候事《まをしさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
尾張《をはり》をも渡《わた》したと云《い》ひ。更《さ》らに、
[#ここから1字下げ]
一、御國々《おんくに/″\》に相殘候知行方《あひのこりさふらふちぎやうかた》、御忠節之者共《ごちゆうせつのものども》、其外宿老共《そのほかしゆくらうども》に、久々召置候《ひさ/″\めしおかれさふらふ》、江州北之郡知行《がうしうきたのこほりちぎやう》、并長濱之城迄《ならびにながはまのしろまで》、柴田誓紙《しばたせいし》を取《とり》、相渡候事《あひわたしさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
江州《がうしう》に於《お》ける所領《しよりやう》は、長濱《ながはま》を首《はじめ》として、悉《こと/″\》く柴田《しばた》に與《あた》へ。又《ま》た、
[#ここから1字下げ]
一、坂本之城《さかもとのしろ》、我等《われら》取口《とりくち》に|可[#レ]仕由《つかまつるべきよし》、各《おの/\》|雖[#二]被[#レ]申候[#一]《まをされさふらふといへども》、坂本《さかもと》を持候《もちさふら》へば、天下《てんか》を抱候而《いだきさふらひて》、筑前《ちくぜん》天下之意見《てんかのいけん》をも|依[#二]申度[#一]《まをしたきにより》て、志賀郡《しがごほり》を相抱候《あひかゝへさふらふ》と人《ひと》も存候《ぞんじさふら》へば少之間《すこしのま》も、其《その》おもはく迷惑《めいわく》に存《ぞんじ》、賢人《けんじん》を捌《さば》き、五|郎左衞門《らうざゑもん》に相渡申候事《あひわたしまをしさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
坂本城《さかもとじやう》を所領《しよりやう》す可《べ》く、衆議《しゆうぎ》相勸《あひすゝ》めたれども、此《こ》の形勝《けいしよう》の地《ち》を占《し》むるは、天下《てんか》に野望《やばう》ありとの思惑《おもわく》も面白《おもしろ》からず。痛《いた》くなき腹《はら》を探《さぐ》られんよりもとて、自《みづ》から之《これ》を辭退《じたい》し、丹羽長秀《にはながひで》に之《これ》を讓《ゆづ》つたと云《い》ひ。更《さ》らに一|歩《ぽ》を進《すゝ》めて、
[#ここから1字下げ]
一、御佛事之儀《ごぶつじのぎ》、御兩人樣《ごりやうにんさま》へ、|從[#二]御次[#一]《おつぎより》(秀勝)[#「(秀勝)」は1段階小さな文字]|被[#二]申上[#一]候《まをしあげられさふら》[#ルビの「まをしあげられさふら」は底本では「まをしられられさふら」]へ共《ども》。兎角《とかく》の御返事《ごへんじ》もなく、又《また》は宿老衆《しゆくらうしゆう》、御佛事之御沙汰《おんぶつじのごさた》も|無[#レ]之候間《これなくさふらふあひだ》、天下之外聞《てんかのぐわいぶん》如何《いかん》と存《ぞんじ》。|如[#二]御存知[#一]《ごぞんぢのごとく》小者《こもの》一|僕《ぼく》の者《もの》を、|被[#二]召上[#一]《めしあげられ》、國々《くに/″\》を|被[#レ]下《くだされ》、人並《ひとなみ》を仕候事《つかまつりさふらふこと》、上樣之御芳情《うへさまのごはうじやう》、須彌山《しゆみせん》よりも重《おも》く、|奉[#レ]存候《ぞんじたてまつりさふらふ》に付《つき》、|不[#レ]叶《かなはざる》御佛事《ごぶつじ》いたし候《さふらふ》。御跡《おんあと》をも能《よく》せられ、六十|餘州《よしう》|被[#レ]治候上《をさめられさふらふうへ》にての御佛事《ごぶつじ》にて御座候《ござさふら》はゞ、筑前者《ちくぜんは》御葬禮過候而《ごさうれいすぎさふらひて》追腹《おひばら》十|文字《もんじ》に切候《きりさふらひ》ても、八|幡大菩薩《まんだいぼさつ》|恨無[#二]御座[#一]候《うらみござなくさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
信孝等《のぶたから》の信長葬儀《のぶながさうぎ》を閑却《かんきやく》したるを咎《とが》め、自《みづ》から不敏《ふびん》を顧《かへり》みず、其《そ》の殊恩《しゆおん》に酬《むく》ゆる爲《た》めに、葬儀《さうぎ》を營《いとな》みたるを辯《べん》じ。若《も》し信長《のぶなが》が、日本統《にほんとう》一の目的《もくてき》を達《たつ》したる後《のち》の事《こと》ならば、殉死《じゆんし》固《もと》より辭《じ》する所《ところ》にあらざるも、大業《たいげふ》中途《ちゆうと》にしての變故《へんこ》に逢《あ》ふ。今尚《いまな》ほ痛恨《つうこん》に勝《た》へずと云《い》うた。
惟《おも》ふに此《こ》れは、秀吉自個《ひでよしじこ》の立場《たちば》を辯明《べんめい》するに於《おい》て、至《いた》れり、盡《つく》せりの文書《ぶんしよ》である。而《しか》して其《そ》の曲直《きよくちよく》を公平《こうへい》に審定《しんてい》すれば、其《そ》の曲《きよく》固《もと》より信孝《のぶたか》にありと云《い》はねばなるまい。
[#5字下げ][#中見出し]【三一】勝家と秀吉[#中見出し終わり]
柴田等《しばたら》の立場《たちば》としては、唯《た》だ秀吉《ひでよし》の專横《せんわう》を攻撃《こうげき》する以外《いぐわい》には、何等《なんら》の筋合《すぢあひ》も立《た》たぬ。今《いま》試《こゝろ》みに、天正《てんしやう》十|年《ねん》十|月《ぐわつ》六|日附《かづけ》にて、勝家《かついへ》が、堀秀政《ほりひでまさ》に與《あた》へたる書簡《しよかん》を見《み》れば、其中《そのうち》に、
[#ここから1字下げ]
一、勝家《かついへ》手前之事《てまへのこと》、長濱付之配分之外《ながはまづきのはいぶんのほか》、一|粒《りう》、一|錢《せん》、並《ならびに》申次之諸侍等之儀《まをしつぎのしよざむらひらのぎ》、聊以《いさゝかもつて》|無[#二]其繕[#一]候《そのつくろひなくさふらふ》。餘恣之由《あまりほしいまゝのよし》、各《おの/\》嘆申付《なげきまをすについ》て、其理《そのことわり》度々《たび/\》申遣候《まをしつかはしさふらふ》。|於[#二]手前[#一]者《てまへにおいては》、順路《じゆんろ》の分配《ぶんぱい》、|可[#レ]在[#レ]之《これあるべし》と存《ぞんずる》によつて、一|切《さい》知行《ちぎやう》にも、諸侍《しよざむらひ》にも|手懸無[#レ]之事《てがゝりこれなきこと》。
[#ここで字下げ終わり]
勝家《かついへ》は長濱《ながはま》を、我《わ》が所領《しよりやう》に配附《はいふ》せられた以外《いぐわい》には、一|切《さい》現状維持《げんじやうゐぢ》である。即《すなは》ち配下《はいか》の徒《と》は、屡《しばし》ば現状改善《げんじやうかいぜん》を嘆願《たんぐわん》するも、何《いづ》れ其《そ》の機會《きくわい》來《きた》る可《べ》しとて、舊態《きうたい》を維持《ゐぢ》しつゝあると云《い》うて居《ゐ》る。
[#ここから1字下げ]
一、若子樣《わこさま》(三法師)[#「(三法師)」は1段階小さな文字]之御事《のおんこと》、惟住《これずみ》五|郎左《らうざ》(丹羽長秀)[#「(丹羽長秀)」は1段階小さな文字]より、一|人《にん》として岐阜《ぎふ》へ|被[#二]申上[#一]由《まをしあげらるゝよし》に付《つい》て、各《おの/\》一|同《どう》に、兼《かね》て|如[#二]約諾[#一]《やくだくのごとく》、|被[#レ]移[#二]御座[#一]候樣《ござをうつされさふらふやう》にと、岐阜《ぎふ》へも、五郎左《ごらうざ》へも、返事申候《へんじまをしさふらふ》。其墨付《そのすみつき》双方《さうはう》に|可[#レ]有[#レ]之事《これあるべきこと》。
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れ柴田《しばた》は決《けつ》して、三|法師《ぽふし》を岐阜《ぎふ》に留置《りうち》するに、贊成《さんせい》する者《もの》にあらず、何處迄《どこまで》も清洲會議《きよすくわいぎ》の約定《やくぢやう》を、確守《かくしゆ》しつゝあることを、辯疏《べんそ》したのだ。
[#ここから1字下げ]
一、今度《このたび》上樣《うへさま》(信長)[#「(信長)」は1段階小さな文字]御不慮之刻《ごふりよのとき》、天下《てんか》|不[#レ]可[#レ]伴之處《ともなふべからざるのところ》、|雖[#二]相治[#一]《あひをさまるといへども》未《いま》だ四|方《はう》に御敵《おんてき》|在[#レ]之上《これあるうへは》、内輪之申事《うちわのまをすこと》、鉾楯《ほこたて》を相止《あひやめ》、|引[#二]切其行[#「其行」は底本では「其行を」][#一]《そのてだてをひききり》、四|方《はう》へ|令[#二]馳走[#一]者《ちそうせしむるは》、上樣《うへさま》|雖[#レ]無[#二]御座[#一]《ござなくといへども》、|可[#レ]爲[#二]本意[#一]處《ほんいたるべきのところ》、|無[#二]是非[#一]次第存候《ぜひなきしだいにぞんじさふらふ》。家康《いへやす》手前之儀《てまへのぎ》、度々《たび/\》|被[#レ]成[#二]御動座[#一]《ごどうざなされ》、武田《たけだ》一|類《るゐ》悉《こと/″\く》|被[#二]討果[#一]《うちはたされ》、平均《へいきん》|被[#レ]仰[#二]付御跡[#一]候《おんあとおほせつけられさふらふ》。殊更《ことさら》北條事《ほうでうこと》、御在世中者《ございせいちゆうは》、毎年《まいねん》|伺[#二]御意[#一]候處《ぎよいうかゞひさふらふところ》、立所《たちどころに》|替[#二]覺悟[#一]《かくごをかへ》、|無[#二]所存[#一]候輩《しよぞんなくさふらふやから》、家康《いへやす》と對陣《たいぢん》、既《すでに》實否《じつぴ》究候條《きはめさふらふでう》、各《おの/\》|遂[#二]相談[#一]懸向《さうだんをとげかけむかひ》、即座《そくざに》追崩《おひくづし》、討果候者《うちはたしさふらはゞ》、誠《まことに》續目之軍忠《つぎめのぐんちゆう》、且者《かつは》御吊《おんとむらひ》にも成《なり》、且者《かつは》一|天下之譽《てんかのほまれ》|不[#レ]可[#レ]過[#レ]之候哉《これにすぐべからずさふらふや》。然而《しかして》其段《そのだん》にも|不[#レ]付[#レ]手《てをつけず》、御分國《ごぶんこく》の内《うち》、|爲[#レ]私《わたくしのため》|構[#二]新城[#一]《しんじやうをかまへ》、種々雅意《しゆ/″\のがい》、何《なに》を敵仕《てきとして》|如[#レ]此候哉《かくのごとくさふらふや》。|於[#レ]如[#二]置目[#一]者《おきめのごときにおいては》、加樣之題目《かやうのだいもく》、|無[#二]勿體[#一]候《もつたいなくさふらふ》。我《われ》人間柄惡候共《にんげんがらあしくさふらふとも》、此般《こんぱん》は入魂仕《じゆこんつかまつり》、近年《きんねん》上樣《うへさま》|以[#二]御苦勞[#一]《ごくらうをもつて》|被[#二]相治[#一]《あひをさめられし》御分國《ごぶんこく》御仕置等《おしおきとう》、|不[#レ]及迄《およばざるまで》も、|可[#二]相守[#一]之處《あひまもるべきのところ》、結句《けつく》友喰《ともぐひ》にて相果《あひはた》し、人之國《ひとのくに》になすべき哉《や》。併《あはせて》|非[#二]本意[#一]《ほんいにあらず》、天道《てんだう》にも|可[#レ]迯歟《はづべきか》。其段※[#二の字点、1-2-22]《そのだん/\》|於[#二]相究[#一]者《あひきはむるにおいては》、無念至極候事《むねんしごくにさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
若《も》し諸將《しよしやう》一|和《くわ》し、相《あ》ひ協戮《けうりく》せば、北條《ほうでう》を討平《うちたひら》げ、以《もつ》て信長《のぶなが》の雄魂《ゆうこん》を弔《とむら》ひ、天下《てんか》の名譽《めいよ》たる可《べ》きに、彼《か》の秀吉《ひでよし》の如《ごと》きは、徒《いたづ》らに私利《しり》を營《いとな》み、寳寺《たからでら》に新城《しんじやう》を構《かま》ふ、知《し》らず誰《たれ》を敵《てき》として然《しか》る乎《か》。予《よ》も平生《へいぜい》秀吉《ひでよし》とは、仲惡《なかあ》しきも、今日《こんにち》となりては、唯《た》だ須《すべか》らく私情《しじやう》を捨《す》てゝ、相互《あひたが》ひに先主《せんしゆ》の遺業《ゐげふ》を把持《はぢ》するに勗《つと》めんことを期《き》す。復《ま》た曷《な》んぞ今日《こんにち》に於《おい》て、同類《どうるゐ》相爭《あひあらそ》ひ、此《こ》の遺業《ゐげふ》を他《た》に委《ゐ》するに忍《しの》びんやと云《い》ふ意味《いみ》ぢや。
勝家《かついへ》の云《い》ひ前《まへ》としては、此《こ》れ以上《いじやう》の言《げん》はあるまい。併《しか》し柴田《しばた》の眼中《がんちゆう》には、北條《ほうでう》もなければ、上杉《うへすぎ》もない。彼《かれ》の眼中《がんちゆう》には、只《た》だ秀吉《ひでよし》あるのみだ。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》を以《もつ》て、眼上《めのうへ》の瘤《こぶ》とした。彼《かれ》が此《こ》の書簡《しよかん》も、要《えう》するに氣休《きやす》め文句《もんく》に過《す》ぎなかつた。勝家《かついへ》は自《みづ》から堀《ほり》に移書《いしよ》し、且《か》つ信孝《のぶたか》をして、書《しよ》を以《もつ》て秀吉《ひでよし》を諭《さと》さしめ、更《さ》らに十|月《ぐわつ》二十八|日《にち》前田利家《まへだとしいへ》、不破勝光《ふはかつみつ》、金森長近《かなもりながちか》を使者《ししや》として、北莊《きたのしやう》を發《はつ》し、秀吉《ひでよし》の許《もと》に赴《おもむ》かしめた。彼等《かれら》は十一|月《ぐわつ》二|日《か》寶寺《たからでら》に著《ちやく》し、秀吉《ひでよし》に勝家《かついへ》の意《い》を通《つう》じ、相與《あひとも》に私憾《しかん》を釋《とい》て、幼主《えうしゆ》を扶《たす》くるを約《やく》せんことを需《もと》めた。秀吉《ひでよし》は欣然《きんぜん》として、之《これ》を容《い》れた。三|使《し》が秀吉《ひでよし》の誓書《せいしよ》を徴《ちよう》するに及《およ》んで、秀吉《ひでよし》は丹羽《には》、池田等《いけだら》と連署《れんしよ》して送《おく》る可《べ》しと答《こた》へた。此《こ》れは固《もと》より秀吉《ひでよし》が、柴田《しばた》の底意《そこい》を察《さつ》し、故《ことさ》らに時日《じじつ》を遷延《せんえん》せしめんが爲《た》めに、斯《か》く推※[#「言+委」、U+8AC9、156-8]《すゐぢ》したのだ。三|使《し》は秀吉《ひでよし》の言《げん》を信《しん》じて、十一|月《ぐわつ》四|日《か》寶寺《たからでら》を發《はつ》し、同《どう》十|日《か》北莊《きたのしやう》に還《かへ》り、復命《ふくめい》した。柴田《しばた》は大《おほい》に喜《よろこ》び、自《みづ》から秀吉《ひでよし》を欺《あざむ》き得《え》たと爲《な》し、唯《た》だ明春《みやうしゆん》積雪《せきせつ》の融《と》くるの日《ひ》を、樂《たの》しんで待《ま》つて居《ゐ》た。
―――――――――――――――
[#6字下げ][#小見出し]柴田羽柴の講和[#小見出し終わり]
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
秀吉の權威春氣之發生するが如く[#「如く」は底本では「知く」]彌増り行を、柴田腹黒に思ひ込めつゝ、キヤツ任他我《さもあらばあれ》武威を以て取消さん事は、卵を石に投ぜんより安かる可きものをと云つゝ、雪の夥しく積りぬるを見ても腹立し、上方の説を聞ては溜息を噴《つ》き、雲の上を飛立計にイラチにけり、初冬の比瀧川左近將監[#割り注]○一益[#割り注終わり]謀りけるは、勝家は若き時より腹の惡しき事大方ならぬ人也、北國は仲冬より仲春までは雪深うして心|八長《やたけ》に思ふとも上方への出勢も成まじき也、イザ年内は秀吉と和睦の調、宜からんと思ひ、勝家へ其趣潜かに云遣りければ、則應[#二]其儀[#一]前田又左衞門[#割り注]○利家[#割り注終わり]不破彦三[#割り注]○勝光[#割り注終わり]金森五郎八[#割り注]○長近[#割り注終わり]並養子伊賀守[#割り注]○勝豐[#割り注終わり]を以て、秀吉へ入魂有べき趣云遣はすべきと思ひつゝ、勝家老臣に相議しければ、何も宜く候はんと也、天正十年十月二十五日小島若狹守、中村文荷齋を以て三人之衆へ右之旨頼入之條、京都へ上り候て信長公如[#レ]此成らせ給ひ、今幾程も無く傍輩と戰を挑まん事も口惜し、唯和睦し若君を取立、先君の御恩を可[#レ]奉[#レ]存旨ヨキに計ひ給り候へと有しかば、何れも左もこそ有べき事にて候へとて、十月二十八日北庄を立ち、江州長濱に至て伊賀守に此趣を語りければ、尤可[#レ]然事に候、吾病の床に在と云共肩輿に助られ上着し、此事を調へ見んと悦び、晦日長濱より同船し出にけり、[#割り注]○一ニ云フ勝豐此行ニ加ハラズト[#割り注終わり]十一月二日至[#二]攝州寳寺[#一]、四使富田左近將監宿所へ尋行、此人を以て羽柴筑前守殿へ右之趣申述候へば、是は忝奉[#レ]存也、何樣にも勝家御差圖次第に御座有べし、信長公老臣之事なれは、何を以て否み申候はんとて、一兩日饗膳ヨキに沙汰し、霜月四日四使を歸しけり、四人之衆秀吉の御存分思ひの外輕くオハシマス也、雖[#レ]然其|證《しるし》なくては遠路上りたる詮《かひ》なしと思ひ、押返し筑前守殿へ申入やうは、迚もの御事に盟の所、如何御座有べく候や、互の御誓紙も能候はんやと有ければ、我も斯く存寄候、丹羽五郎左衞門尉、池田勝入抔とも申談し、宿老共不[#レ]殘其カタメ宜オハサン、各※[#二の字点、1-2-22]へ其趣申遣し、是より一つ書を以て申上候はん、其旨修理殿へ被[#二]仰達[#一]候へと有しかば、四人の衆實に左も有らん事也と思ひ、重ねて不[#レ]及[#二]右之沙汰[#一]歸にけり(中略)十一月八日都を立て大津より船に乘り、其夜の明方に至[#二]長濱[#一]着陣し、直に越府に着て十日之晩北の庄へ參り、秀吉よりの返書之趣勝家へ委く申ければ、寒天之節、楚辛勞力の段、滿足之通、其謝尤懇ろ也、柴田春は時の宜きに順ひなんものをと笑を含み、筑前守を方便《たばか》り濟したるよと悦び思へり、斯て三人之衆は居城へ歸りにけり、筑前殿、蜂須賀彦右衞門、木村隼人に向て仰ける、今度柴田が方より四使を以て和睦之事、察し思ふに仲冬より仲春までは深雪なる故、上方へ出勢も不[#レ]成之條、和談と稱し吾に油斷をさせ、春は雪消ると等しく大波を打せ、※[#「口+童」、第4水準2-4-38]と攻上るべきとの謀也、抑※[#二の字点、1-2-22]吾を方便《たばか》らん者は異朝にては子房、我朝にて近きを云はゞ楠多聞兵衞等が所[#レ]及にも有らんかし、柴田抔が愚意を以て計らん事、蟷螂が斧なる可しと嘲り笑ひにけり。〔甫菴太閤記〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
―――――――――――――――
[#5字下げ][#中見出し]【三二】秀吉勝家の裏を掻く[#中見出し終わり]
愚《おろ》かなる勝家《かついへ》よ、汝《なんぢ》は秀吉《ひでよし》を欺《あざむ》き了《をほ》せたりと、安心《あんしん》したる乎《か》。秀吉《ひでよし》は汝《なんぢ》の裏《うら》を掻《か》いて、却《かへつ》て其《そ》の不意《ふい》に出《い》でんとするに、氣付《きづ》かぬ乎《か》。秀吉《ひでよし》は勝家《かついへ》が、積雪《せきせつ》の爲《た》めに妨《さまた》げられて、兵《へい》を出《いだ》す能《あた》はざるを見《み》、先《ま》づ信孝《のぶたか》を退治《たいぢ》す可《べ》く、信雄《のぶを》の認許《にんきよ》を得《え》た。信孝《のぶたか》は秀吉《ひでよし》に向《むか》つて、勝家《かついへ》と協和《けふわ》す可《べ》く諭《さと》しつゝも、却《かへつ》て自《みづ》から兵備《へいび》を整《とゝの》へ、三|法師《ぽふし》を岐阜《ぎふ》に抑留《よくりう》し。九|月《ぐわつ》には、淺井長政《あさゐながまさ》の寡婦《くわふ》にして、其《そ》の叔母《をば》たるお市御料人《いちごれうにん》を、勝家《かついへ》に嫁《か》せしめ、天下人《てんかびと》たらんとするの跡《あと》、甚《はなは》だ現《あらは》れたれば。秀吉《ひでよし》の出兵《しゆつぺい》も、其《そ》の名義《めいぎ》は充分《じゆうぶん》に立《た》つのぢや。
天正《てんしやう》十|年《ねん》十二|月《ぐわつ》、秀吉《ひでよし》は丹羽《には》、筒井《つゝゐ》と與《とも》に、岐阜《ぎふ》に向《むか》ふに先《さきだ》ち、長濱《ながはま》を取《と》りて越前兵《ゑちぜんへい》の出路《しゆつろ》を扼《やく》す可《べ》く、七|日《か》京都《きやうと》を發《はつ》し、十三|日《にち》近江佐和山城《あふみさわやまじやう》に入《い》つた。細川父子《ほそかはふし》も亦《ま》た來會《らいくわい》した。而《しか》して長濱《ながはま》の周邊《しうへん》に配兵《はいへい》し、勝豐《かつとよ》の老臣等《らうしんら》を誘《いざな》ひ、勝豐《かつとよ》の歸順《きじゆん》を促《うなが》した。勝豐《かつとよ》は柴田《しばた》の義子《ぎし》であるが、勝家《かついへ》が其姪《そのをひ》佐久間盛政《さくまもりまさ》を愛《あい》し、盛政《もりまさ》は其寵《そのちよう》を恃《たの》みて、勝豐《かつとよ》を凌《しの》ぎたるが爲《た》めに、勝豐《かつとよ》平昔《へいせき》勝家《かついへ》を怨望《ゑんばう》して居《ゐ》た。秀吉《ひでよし》の乘《じよう》ず可《べ》き機會《きくわい》は、此《こゝ》であつた。
[#ここから1字下げ]
柴田伊賀守《しばたいがのかみ》、勝家《かついへ》の爲《た》めには養子《やうし》なりしが、背《そむ》きて秀吉《ひでよし》に心《こゝろ》を合《あは》せし事《こと》如何《いか》にも不審《いぶ》かしきに。勝家甥《かついへをひ》なりける佐久間玄蕃《さくまげんば》、加賀《かが》二|群《ぐん》(石川、河北)[#「(石川、河北)」は1段階小さな文字]を知《しつ》て、尾山《をやま》の城《しろ》(金澤)[#「(金澤)」は1段階小さな文字]に在《あ》りければ、富《とみ》も少《すくな》からず。伊賀守《いがのかみ》渠《かれ》に蹴壓《けをと》されて頭《あたま》さし出《いで》ず、妬《ねた》み有《あ》りしに、或歳《あるとし》新玉《あらたま》の春《はる》、祝言《しうげん》せんとて、一|族《ぞく》の輩《やから》集《あつま》り會《あ》うてけり。土器《かはらけ》持來《もちきたり》ければ、勝家《かついへ》取上《とりあ》げ、先《ま》づ玄蕃《げんば》に進《さ》しゝかば、伊賀守《いがのかみ》心得《こゝろえ》ず思《おも》ひて、我《われ》ならで誰《た》れかは飮《の》む可《べ》きぞと、玄蕃《げんば》がつと出《いで》んとせし袖《そで》を取《とつ》て引止《ひきと》め、土器《かはらけ》取上《とりあげ》、差請《さしう》けぬれば、勝家《かついへ》辭《ことば》を出《いだ》さず。玄蕃《げんば》爭《あらそひ》に及《およ》ばず在《あ》りければ、本《もと》の座《ざ》に居《ゐ》けり。是《これ》より愈※[#二の字点、1-2-22]《いよ/\》二人《ふたり》の中《なか》らひ善《よ》からず、彼《かれ》に隨《したが》はんことを憎《にく》みて、勝家《かついへ》に背《そむ》きけるとなん。左《さ》れど父《ちゝ》なれば、不孝《ふかう》の罪《つみ》なかる可《べ》きに非《あ》らず。勝家《かついへ》子《こ》を次《つぎ》にし、甥《をひ》を愛《あい》せしも、序《ついで》違《たが》ひて罪《つみ》ある可《べ》しや。盃《さかづき》一濺《ひとそゝ》ぎの恨《うらみ》に、勝家《かついへ》軍《いくさ》に負亡《まけほろ》びぬること果敢《はか》なし。人《ひと》の上《かみ》たる者《もの》、愼《つゝし》み鑒《かんが》む可《べ》きこと、明《あきら》けし。〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
然《しか》も勝豐《かつとよ》は、啻《た》だに其《そ》の義父《ぎふ》勝家《かついへ》に對《たい》する、怨望《ゑんばう》のみでなく、即今《そくこん》越前《ゑちぜん》よりの援兵《ゑんぺい》は期《き》す可《べ》からず、到底《たうてい》衆寡敵《しゆうくわてき》し難《がた》ければ、本領安堵《ほんりやうあんど》の約束《やくそく》にて、秀吉《ひでよし》に投降《とうかう》するを以《もつ》て、安全《あんぜん》の策《さく》と認《みと》めたのであらう。何《いづ》れにもせよ、秀吉《ひでよし》は七|月《ぐわつ》下旬《げじゆん》、長濱《ながはま》を柴田《しばた》に與《あた》へて、十二|月《ぐわつ》中旬《ちゆうじゆん》には、之《これ》を取《と》り戻《もど》した。
秀吉《ひでよし》は勝豐《かつとよ》を厚遇《こうぐう》し、彼《かれ》の質子《ちし》を徴《ちよう》し、彼《かれ》をして依然《いぜん》長濱城《ながはまじやう》を守《まも》らしめ。十二|月《ぐわつ》十八|日《にち》、丹羽《には》、筒井《つゝゐ》、細川《ほそかは》、池田《いけだ》(三助、勝入の長子)[#「(三助、勝入の長子)」は1段階小さな文字]蜂屋等《はちやら》三|萬《まん》の兵《へい》を率《ひき》ゐ、風雨《ふうう》を冒《をか》し、美濃《みの》に入《い》つた。大垣城主《おほがきじやうしゆ》氏家行廣《うぢいへゆきひろ》、曾根城主《そねじやうしゆ》稻葉《いなば》一|鐡等《てつら》、亦《ま》た來《きた》り屬《ぞく》した。廿一|日《にち》進《すゝ》みて大垣《おほがき》に次《じ》し、兵《へい》を分《わか》ちて諸城《しよじやう》を攻略《こうりやく》し、岐阜《ぎふ》に逼《せま》つた。
信孝《のぶたか》は全《まつた》く狼狽《らうばい》した。彼《かれ》は柴田《しばた》を中心《ちゆうしん》とし、瀧川《たきがは》、其他《そのた》と諜《しめ》し合《あは》せ、以《もつ》て秀吉《ひでよし》を伐《う》たんと企《くはだ》てゝ居《ゐ》た。然《しか》るに今《いま》や秀吉《ひでよし》より、逆《さ》か寄《よ》せに攻《せ》められ、柴田《しばた》、瀧川等《たきがはら》の援兵《ゑんぺい》も來《きた》らず。國中《こくちゆう》の諸城《しよじやう》も、悉《こと/″\》く秀吉《ひでよし》の有《いう》となりたれば、今《いま》は叩頭以外《こうとういぐわい》に、他《た》の手段《しゆだん》は盡《つ》き果《は》てたのだ。乃《すなは》ち丹羽長秀《にはながひで》に頼《よ》りて、其《そ》の生母《せいぼ》阪氏《さかし》、及《およ》び女子《ぢよし》、並《なら》[#「なら」は底本では「ならび」]びに老臣《らうしん》岡本《をかもと》、幸田等《かうだら》の母等《はゝら》を出《いだ》し、人質《ひとじち》となし、和《わ》を求《もと》めた。此《こゝ》に於《おい》て秀吉《ひでよし》亦《ま》た之《これ》を許《ゆる》し、三|法師《ぽふし》、及《およ》び其《そ》の人質《ひとじち》を安土《あづち》に移《うつ》し、三|法師《ぽふし》の擁護《ようご》を信雄《のぶを》に託《たく》し、十二|月《ぐわつ》廿九|日《にち》、寶寺城《たからでらじやう》に凱旋《がいせん》した。而《しか》して信雄《のぶを》は、翌《よく》天正《てんしやう》十一|年《ねん》正月《しやうぐわつ》二十三|日《にち》、清洲《きよす》より安土《あづち》に移《うつ》りて、三|法師《ぽふし》の後見役《こうけんやく》を勤《つと》めた。
[#5字下げ][#中見出し]【三三】賤ヶ岳合戰の楔子[#中見出し終わり]
勝家《かついへ》は長濱《ながはま》、岐阜《ぎふ》の警報《けいはう》に接《せつ》したるも、雪《ゆき》の爲《た》めに封《ふう》じ込《こ》められ、今更《いまさ》ら懊惱《あうなう》禁《や》む能《あた》はず。されば十二|月《ぐわつ》十一|日《にち》、使《つかひ》を家康《いへやす》に遣《つかは》し、(家康時に甲府に在り)[#「(家康時に甲府に在り)」は1段階小さな文字]以《もつ》て信孝《のぶたか》に應援《おうゑん》せんことを求《もと》め。又《ま》た天正《てんしやう》十一|年《ねん》三|月《ぐわつ》四|日《か》附《づけ》を以《もつ》て、書《しよ》を鞆《とも》にある足利義昭《あしかゞよしあき》に與《あた》へ、毛利氏《まうりし》を慫慂《しようよう》して、出兵《しゆつぺい》せんことを求《もと》めた。然《しか》も彼《かれ》の計畫《けいくわく》は、今《いま》や全《まつた》く齟齬《そご》した。而《しか》して秀吉《ひでよし》は、著々《ちやく/\》勝家《かついへ》の意表《いへう》に出《い》で、却《かへつ》て越後《ゑちご》の上杉景勝《うへすぎかげかつ》に結《むす》び、兵《へい》を越中《ゑつちゆう》に出《いだ》し、牽制運動《けんせいうんどう》に著手《ちやくしゆ》す可《べ》く勸誘《くわんいう》した。當時《たうじ》如何《いか》に秀吉《ひでよし》が、精力絶倫《せいりよくぜつりん》であつたかは、左《さ》の記事《きじ》にても、其《そ》の一|班《ぱん》が想像《さうざう》せらるゝ。
[#ここから1字下げ]
天正《てんしやう》十一|年《ねん》元旦之《ぐわんたんの》祝儀《しうぎ》も、物毎《ものごと》に改《あらたま》り、やう/\半日《はんにち》春《はる》の心地《こゝち》して兎《と》や角《かく》やとのゝじる内《うち》に、午後《ごご》より姫路《ひめぢ》へ下向《げかう》し給《たま》ふべきとあれば、猶《なほ》今年《ことし》は忙《いそが》しく有《ある》べき前表《ぜんぺう》かなと思《おも》はれ、豫《あらか》じめ安《やす》き心《こゝろ》なし。夜半計《やはんばかり》に姫路《ひめぢ》へ著《つか》せ給《たま》うて、二|日《か》は悉《こと/″\》くゆるやかに有《ある》べしと、樽《たる》肴《さかな》、或《あるひ》は銀子《ぎんす》、或《あるひ》は八|木《ぎ》など相添給《あひそへたまう》てけり。さもなく共《とも》、去《いに》し年中之《ねんちゆうの》勞《らう》をも慰《なぐさ》まんに、是《これ》は目出度《めでた》き事《こと》にておはしますよとて、朝《あさ》より夜半《やはん》に及《および》て、爰《こゝ》もかしこも謠《うた》ふ聲々《こゑ/″\》、ゆう/\として萬歳《ばんざい》をよばふ。目出《めでた》かりける年《とし》の始《はじめ》なり。
秀吉《ひでよし》は休息《きうそく》もし|不[#レ]給《たまはず》、還《かへつ》て心《こゝろ》に勞《らう》を盡《つく》し、右筆《いうひつ》二三|輩《ばい》召《め》し、誰彼《たれかれ》年々《とし/″\》の恩祿《おんろく》、或《あるひは》馬《うま》、太刀《たち》、小袖《こそで》、或《あるひ》は八木馬之飼料等《やぎうまのかひれうなど》、記《しる》し立見給《たてみたま》へば、八百六十|餘人《よにん》に及《およ》べり。則《すなはち》それ/″\の奉行《ぶぎやう》十|人計《にんばかり》|被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、五ヶ|日之内《にちのうち》に|仕廻可[#レ]申旨《しまひまをすべきむね》、急《きふ》なりけり。其御隙《そのおんひま》二|日《か》の午時《うまのとき》に明《あけ》しかば、朝餉《あさかれひ》祝《しゆく》し給《たま》うて休《やす》み給《たま》ふ。百合若大臣《ゆりわかだいじん》軍《いくさ》にしつかれ、熟睡《じゆくすゐ》せられしにも越《こえ》たり。
傍人《ばうじん》笑止《せうし》に思《おも》ひ侍《はべ》りて云《いふ》、凡《およそ》人《ひと》の氣根《きこん》も續《つゞ》く程《ほど》こそ有《ある》べけれ。去《い》ぬる年《とし》のうちは、終《つひ》に夜《よる》の隙《ひま》さへ穩《おだやか》ならざりし。昨今《さくこん》の熟睡之《じゆくすゐの》體《てい》、思《おも》ひやられて痛《いた》みにけり。三|日《か》之《の》午後《ごご》やう/\よろぼひ出給《いでたま》ひ、聊《いさゝか》休息《きうそく》し侍《はべ》りししるしにや、氣力《きりよく》殊外《ことのほか》付《つき》て、鬼《おに》共《とも》組打《くみうつ》べうぞ覺《おぼ》えける。さらば年頭《ねんとう》の禮《れい》を請候《うけさふらふ》べしと、在姫路《ざいひめぢ》の士計《さむらひばかり》、今日中《こんにちぢゆう》に仕舞候《しまひさふら》へと|被[#レ]仰《おほせられ》しかば、内々《ない/\》其望《そののぞみ》にては有《あり》、我先《われさき》にと進《すゝ》みしに因《より》て、町《まち》より本城迄《ほんじやうまで》せき合《あ》ひ、押《お》し分《わ》けがたくして、時《とき》を移《うつ》せ共《ども》、御前《ごぜん》は絶間《たえま》もなく、拜謁《はいえつ》にぎはひけり。四|日《か》五|日《か》は近國之《きんこくの》衆《しゆう》、或《あるひは》城主《じやうしゆ》、或《あるひは》諸寺《しよじ》、諸社《しよしや》の僧官《そうくわん》、神人《しんじん》集《あつまり》つどひ、其樣《そのさま》おびたゞし。朝《あした》には大名《だいみやう》小名《せうみやう》に對《たい》し、|盡[#二]親愛[#一]《しんあいをつくし》、夕《ゆふべ》には寵臣《ちようしん》近習《きんじゆ》に向《むか》つて、|評[#二]政道之損益[#一]《せいだうのそんえきをひやうし》、天下泰平之工夫《てんかたいへいのくふう》、更《さら》に懈怠《けたい》も無《なか》りけり。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
惟《おも》ふに秀吉《ひでよし》は、山崎合戰《やまざきかつせん》に出陣以來《しゆつぢんいらい》、始《はじ》めて姫路《ひめぢ》に下向《げかう》したる事《こと》なれば、其《そ》の多忙《たばう》も察《さつ》せらるゝのぢや。而《しか》して彼《かれ》は新年《しんねん》※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々《そう/\》、更《さ》らに瀧川征伐《たきがはせいばつ》に著手《ちやくしゆ》した。其《そ》の來歴《らいれき》は左《さ》の如《ごと》しだ。
當時《たうじ》信孝《のぶたか》の部將《ぶしやう》にて、龜山《かめやま》の城主《じやうしゆ》たる關盛信《せきもりのぶ》、其子《そのこ》一致《かずむね》、峯《みね》の城代岡本重政等《じやうだいをかもとしげまさら》、皆《みな》款《くわん》を秀吉《ひでよし》に通《つう》じた。然《しか》るに盛信《もりのぶ》の士《し》岩間《いはま》三|太夫《だいふ》なるもの、盛信父子《もりのぶふし》が、天正《てんしやう》十一|年《ねん》正月《しやうぐわつ》、賀正《がせい》の爲《た》め、秀吉《ひでよし》の許《もと》に赴《おもむ》きたるを好機《かうき》として、兵《へい》を擧《あ》げて龜山城《かめやまじやう》を占領《せんりやう》し、命《めい》を一益《かづます》に聞《き》いた。因《よつ》て一益《かづます》は、長島《ながしま》より出《い》でゝ峯城《みねじやう》を取《と》り、龜山《かめやま》に入《い》り、峰城《みねじやう》に瀧川詮益《たきがはのぶます》、龜山《かめやま》に佐治益氏《さぢますうぢ》、關《せき》に瀧川法忠《たきがはのりたゞ》を措《お》き、鈴鹿口《すゞかぐち》を扼《やく》し、秀吉《ひでよし》の來襲《らいしふ》に備《そな》へた。
秀吉《ひでよし》は姫路《ひめぢ》にありて、此《こ》の警報《けいはう》を聞《き》き、柴田兵《しばたへい》の出《い》で來《きた》らざる以前《いぜん》に、瀧川方面《たきがははうめん》を處分《しよぶん》するの、得策《とくさく》なるを認《みと》め、愈《いよい》よ伊勢經略《いせけいりやく》を企《くはだ》て、閏正月《うるふしやうぐわつ》七|日《か》入洛《じゆらく》し、翌日《よくじつ》安土《あづち》に抵《いた》り、九|日《か》三|法師《ぽふし》に謁《えつ》し、檄《げき》を領國《りやうこく》、及《およ》び友邦《いうはう》の諸將《しよしやう》に傳《つた》へ、與《とも》に其兵《そのへい》を安土《あづち》に集合《しふがふ》せん※[#こと、165-9]を求めた。而《しか》して此《こ》れが愈《いよい》よ、柴田勝家《しばたかついへ》と、勝敗《しようはい》を一|擲《てき》に決《けつ》す可《べ》き、賤《しづ》ヶ|岳《たけ》合戰《かつせん》の楔子《せつし》となつた。
―――――――――――――――
[#6字下げ][#小見出し]勝家足利に結ぶ[#小見出し終わり]
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
先日澤孫太夫歸國刻、淵底雖[#二]言上仕[#一]、羽柴至[#二]勢州[#一]相働、瀧川手前桑名面へ取向候處、則懸合追崩、無[#二]詫際[#一]敗軍候、濃州之者共江北に有[#レ]之、堀久太郎以下者懸歸、其手前々々取紛候、羽柴一手、其外去年以來引退、迫[#二]不請者共[#一]、勢州之内、關古館、龜山表へ被[#レ]寄候、是も瀧川相抱城候、北伊勢失[#レ]利失[#二]外聞[#一]付而、彼城へ取寄處、自[#二]城中[#一]剪而出、數千人討捕、手負不[#レ]知[#二]其數[#一]候、切所へ相懸、可[#二]引取[#一]樣無[#レ]之に仕而、令[#レ]難[#レ]堪、山取仕峙有[#レ]之儀候、依[#レ]之出馬之儀、最前當月十七日限雖[#二]申上候[#一]、去二十八日爲[#二]先手[#一]當國面々到[#二]山中[#一]指遣、路次通雪割候、當月中者深雪に馬足雖[#二]不[#レ]可[#レ]立候[#一]無理に立懸、賀州之者共昨日三日打而通候、次第々々能登越中面々共打續働候、拙者九日に至[#二]江北[#一]可[#レ]致[#二]着陣[#一]候、勢州面に於[#二]相溜[#一]者、悉可[#二]討果[#一]候、敗北勿論候、藝州[#割り注]○毛利[#割り注終わり]に被[#レ]成[#二]上意[#一]、片時も早く御動座御尤に候、調略相揃候條、御入洛此時候、間遠儀候間、筈於[#二]相違[#一]者不[#レ]可[#レ]有[#二]其曲[#一]候、北國者、雪消并雨降候處、大河共水出、中々四五月至迄者、輙人馬之通、人數働等雖[#下]不[#二]相叶[#一]無理此分候[#上]、四ヶ國之人數引率、終出立、手前不[#レ]可[#レ]有[#二]御機遣[#一]候、能被[#レ]達[#二]上聞[#一]、藝州小早川吉川最前御請筈無[#二]相違[#一]早速先勢被[#レ]出、即被[#レ]進[#二]御動座[#一]專用候、遲々に罷成候而者、不[#レ]可[#レ]有[#二]其詮[#一]候、次越後面之事、佐々内藏助相働、越中一篇に申付、切所共相抱、境川を請、荒城と申、越後より相抱候城、岩木藤左衞門と申者、相踏候處に乘取討果、越後地へ恣に令[#レ]行儀、荒城丈夫相抱候條、北國口隙明候、旁以存知之國々、靜謐堅固候條、可[#二]御心易[#一]候、恐々謹言。
[#地から6字上げ]柴田修理大夫
[#ここから4字下げ]
三月四日(天正十一年)[#地から5字上げ]勝家
[#ここから7字下げ]
眞島玄蕃頭[#割り注](○眞木島昭光足利義昭の臣)[#割り注終わり]殿
[#ここから21字下げ]
御宿所[#地から2字上げ]〔古今消息集〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
[#6字下げ][#小見出し]秀吉上杉に結ぶ[#小見出し終わり]
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
二月七日[#割り注]○天正十一年[#割り注終わり]羽柴筑前守の臣石田左吉三成、木村彌市右衞門清久、増田仁右衞門長盛より秀吉の命として、數箇條の覺書を以て西雲寺の住僧下國の序、信州貝津城主須田相模守滿親[#割り注]○上杉景勝の臣[#割り注終わり]まで持參す。(中略)
[#ここから11字下げ]
覺
[#ここから2字下げ]
一 景勝、家康、御間柄之儀、若被[#二]仰分[#一]於[#レ]有[#レ]之者、筑前守是非可[#レ]致[#二]馳走[#一]事
一 筑前守表裏|與《と》於[#二]思召[#一]者、如[#レ]此誓紙御取替候共、不[#レ]及[#レ]申、此度可[#レ]有[#二]御違變[#一]事
一 氏政、景勝、御間柄之儀、對[#二]小田原[#一]、御存分有[#レ]之者、於[#二]當方[#一]|茂《も》、書状取替有[#レ]之間敷事
一 從[#二]此方[#一]、誓紙其方如[#二]御好之[#一]、多賀之牛王而無[#レ]之、熊野牛王而書被[#レ]進[#レ]之事
一 先越中被[#レ]出[#二]御人數[#一]、急可[#レ]有[#二]御手遣[#一]之事
[#ここから7字下げ]
以上
[#地から2字上げ]増田仁右衞門
[#ここから3字下げ]
二月七日[#地から2字上げ]木村彌市右衞門
[#地から2字上げ]石田左吉
[#ここから7字下げ]
四雲寺[#地から4字上げ]〔景勝年譜〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
―――――――――――――――
[#5字下げ][#中見出し]【三四】瀧川征伐[#中見出し終わり]
秀吉《ひでよし》は二|月《ぐわつ》七|日《か》(天正十一年)[#「(天正十一年)」は1段階小さな文字]附《づけ》を以《もつ》て、上杉景勝《うへすぎかげかつ》に音問《いんもん》を通《つう》じ、其《そ》の同盟《どうめい》を約《やく》し、亟《すみや》かに兵《へい》を越中《ゑつちゆう》に出《いだ》し、勝家《かついへ》の背《はい》を衝《つ》かんことを慫慂《しようよう》した。而《しか》して二|月《ぐわつ》十|日《か》、總軍《そうぐん》七|萬《まん》五千を、三|道《だう》より分《わか》ち進《すゝ》ましめた。左縱隊《さじゆうたい》は、異父弟《いふてい》秀長《ひでなが》之《これ》を率《ひき》ゐ、土岐多良越《ときたらごえ》よりし、中央縱隊《ちゆうあうじゆうたい》は、其姪《そのをひ》三|好《よし》秀次《ひでつぐ》之《これ》を率《ひき》ゐ、大君《おほぎみ》ヶ|越《こえ》よりし、右縱隊《うじゆうたい》は、秀吉《ひでよし》自《みづ》から之《これ》を率《ひき》ゐ、安樂越《あんらくごえ》よりし。十二|日《にち》、先《ま》づ峰城《みねじやう》に監視兵《かんしへい》を措《お》き、三|道《だう》の兵《へい》桑名《くはな》に竝《あは》せ進《すゝ》み、附近村落《ふきんそんらく》に放火《はうくわ》し、矢田《やだ》に陣《ぢん》した。一益《かずます》長島《ながしま》より出《い》で來《きた》りて、邀《むか》へ戰《たゝか》うた。秀吉《ひでよし》輕卒《けいそつ》を發《はつ》して逆撃《ぎやくげき》し、交綏《かうすゐ》した。瀧川《たきがは》は夜襲《やしふ》を企《くはだ》てた。然《しか》も秀吉《ひでよし》は、瀧川《たきがは》は兵《へい》に老《お》いたるものなれば、必《かなら》ず夜襲《やしふ》を試《こゝろ》みるならんと、篝火《かゞりび》を盛《さかん》にして、之《これ》を待《ま》ち受《う》けたが爲《た》め、瀧川《たきがは》も遂《つひ》に其志《そのこゝろざし》を果《はた》し得《え》ずして止《や》みた。
十六|日《にち》秀吉《ひでよし》は、愈《いよい》よ龜山城《かめやまじやう》の攻撃《こうげき》に取《と》り掛《かゝ》つた。城將佐治益氏《じやうしやうさぢますうぢ》、善《よ》く防戰《ばうせん》した。諸將《しよしやう》或《あるひ》は火箭《ひや》を飛《と》ばして、敵營《てきえい》を焚《や》き、或《あるひ》は金山掘《かなやまほ》りの坑夫《かうふ》を役《えき》して、壘壁《るゐへき》を鑿《うが》たしめた。細川忠興軍功記《ほそかはたゞおきぐんこうき》には、
[#ここから1字下げ]
秀吉公《ひでよしこう》御馬《おうまを》出《いだし》、先《ま》づ龜山《かめやま》の|城御攻被[#レ]成候《しろをおせめなされさふらふ》。御家中之御人數《ごかちゆうのごにんず》も龜山《かめやま》を攻申候《せめまをしさふらふ》。城中《じやうちゆう》より突《つい》て出申候時《いでまをしさふらふとき》、諸勢《しよぜい》騷《さわ》ぎ申候處《まをしさふらふところ》、米田助右衞門殿《こめたすけうゑもんどの》(是政)[#「(是政)」は1段階小さな文字]|立所不[#レ]去《たちどころにさらず》、御働《おんはたらき》見事《みごと》に見《み》え申《まをす》に付《つき》、秀吉公《ひでよしこう》|御使番衆被[#レ]遣《おんつかひばんしゆうをつかはされ》、|御褒美被[#レ]成候由《ごほうびなされさふらふよし》承及候事《うけたまはりおよびさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
と云《い》ひ。又《ま》た山内家御家中名譽記《やまのうちけごかちゆうめいよき》には、
[#ここから1字下げ]
一豐樣《かずとよさま》は、同國《どうこく》龜山《かめやま》の城《しろ》に|御向被[#レ]成《おむかひなされ》、城主《じやうしゆ》は一益幕下《かずますばくか》の大將佐治新助《たいしやうさぢしんすけ》と申者《まをすもの》、巽《たつみ》の櫓《やぐら》へ仕寄《しよせ》を付《つ》け、御家臣數名高名仕《ごかしんすめいかうみやうつかまつり》、先陣卷手拭《せんぢんまきてぬぐひ》を以《もつ》て、槍《やり》の柄《え》を結固《むすびかた》め、是《これ》を足溜《あしだま》りとして、我《われ》も/\と乘《の》り上《あが》り、一豐樣《かずとよさま》にも、御乘上《おんのりあが》り|被[#レ]成候《なされさふら》へば、敵《てき》も爰《こゝ》を專度《せんど》と相働《あひはたらき》、烈敷《はげしき》御合戰《ごかつせん》に候《さふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
とある。諸將《しよしやう》の奮鬪《ふんとう》以《もつ》て知《し》る可《べ》しぢや。されば城將佐治《じやうしやうさぢ》も、三|月《ぐわつ》三|日《か》、力《ちから》屈《くつ》して降《かう》を乞《こ》ひ、開城《かいじやう》した。此《こゝ》に於《おい》て秀吉《ひでよし》は、佐治《さぢ》を長島《ながしま》に送《おく》り還《かへ》し、其城《そのしろ》を信雄《のぶを》に交付《かうふ》した。
而《しか》して國府城《こくふじやう》も亦《ま》た降《くだ》つた。此《こゝ》に於《おい》て秀吉《ひでよし》は、兵力《へいりよく》を關《せき》、峰《みね》兩城《りやうじやう》に集中《しふちゆう》し、攻撃《こうげき》しつゝある際《さい》、勝家《かついへ》大擧《たいきよ》して、越前《ゑちぜん》より出《い》で來《きた》るの報《はう》に接《せつ》し。伊勢《いせ》の攻略《こうろやく》を織田信雄《おだのぶを》、蒲生氏郷等《がまふうぢさとら》に託《たく》し、自《みづ》から兵《へい》を率《ひき》ゐて、近江《あふみ》に返《かへ》り、三|月《ぐわつ》十五|日《にち》、佐和山《さわやま》に至《いた》り、十六|日《にち》長濱《ながはま》に入《い》つた。
柴田《しばた》は坐《ゐな》がら積雪《せきせつ》の融《と》くるを、待《ま》ち怺《こら》へなかつた。彼《かれ》は前《さき》に勝豐《かつとよ》の誘降《いうかう》を聞《き》き、中《なか》ごろ信孝《のぶたか》の城下《じやうか》の盟《めい》を聞《き》き、今又《いまま》た瀧川《たきがは》が、襲撃《しふげき》せられつゝあるを聞《き》き。最早《もはや》一|刻《こく》も猶豫《いうよ》なり難《がた》しと焦慮《あせ》り、二|月《ぐわつ》廿八|日《にち》、役夫《えきふ》をして、沿道《えんだう》の雪《ゆき》を掃《はら》はしめ、纔《わづ》かに道路《だうろ》の通《つう》ずるや、直《たゞ》ちに兵《へい》を提《ひつさ》げて發足《ほつそく》した。其《そ》の先鋒《せんぽう》は、佐久間盛政《さくまもりまさ》、盛政《もりまさ》の弟《おとうと》保田安政《やすだやすまさ》、柴田勝政《しばたかつまさ》、原房親《はらふさちか》、徳山則秀《とくやまのりひで》、金森長近《かなもりながちか》、不破勝光等《ふはかつみつら》にて、《そ》の兵數《へいすう》は八千五百|人《にん》であつた。
佐久間等《さくまら》は、熊《くま》の穴《あな》を出《い》づるが如《ごと》き勢《いきほひ》にて、出《い》で來《きた》つた。三|月《ぐわつ》二|日《か》、北莊《きたのしやう》を發《はつ》し、五|日《か》には近江柳瀬椿坂附近《あふみやながせつばきざかふきん》に入《い》り、七|日《か》一|部隊《ぶたい》を以《もつ》て、天神山《てんじんやま》の砦《とりで》に逼《せま》らしめ、他《た》の部隊《ぶたい》をして、附近《ふきん》村落《そんらく》今市《いまいち》、下余呉《しもよご》、阪口等《さかぐちとう》に放火《はうくわ》せしめ、退《しりぞ》いて柳瀬附近《やながせふきん》に駐屯《ちゆうとん》し、十|日《か》又《ま》た高時川以北《たかときがはいほく》、即《すなは》ち木之本《きのもと》、高月附近《たかつきふきん》を火《や》かしめた。而《しか》して主將勝家《しゆしやうかついへ》は、三|月《ぐわつ》四|日《か》、前田利家以下《まへだとしいへいか》、二|萬餘人《まんよにん》を率《ひき》ゐ、北莊《きたのしやう》を發《はつ》し、九|日《か》近江《あふみ》に入《い》り、内中尾山《うちなかをやま》に陣《ぢん》し、其南《そのみなみ》に數砦《すうさい》を築《きづ》き、之《これ》に諸隊《しよたい》を配置《はいち》し、以《もつ》て持久《ぢきう》の策《さく》を取《と》つた。
秀吉《ひでよし》は豫《かね》て、柴田《しばた》の出兵《しゆつぺい》を期待《きたい》した。されば天正《てんしやう》十|年《ねん》十二|月《ぐわつ》には、柴田勝豐《しばたかつとよ》を誘降《いうかう》して、長濱《ながはま》を收《をさ》め、以《もつ》て柴田兵《しばたへい》を扼《やく》するの、本據《ほんきよ》としたのみならず。同月《どうげつ》信孝《のぶたか》と城下《じやうか》の盟《めい》を遂《と》げ、兵《へい》を美濃《みの》より還《かへ》すや、柳瀬附近《やながせふきん》を踏査《たふさ》し、十一|年《ねん》閏正月《うるふしやうぐわつ》中旬《ちゆうじゆん》、再《ふたゝ》び此《こゝ》に赴《おもむ》き、二|壘《るゐ》を天神山《てんじんやま》に築《きづ》き、勝豐《かつとよ》の士《し》大金藤《おほがねとう》八|郎《らう》、山路正國等《やまぢまさくにら》をして、之《これ》を守《まも》らしめ、丹羽長秀《にはながひで》に、此《こ》の方面《はうめん》の監視《かんし》を託《たく》して、伊勢《いせ》に赴《おもむ》いたが。三|月《ぐわつ》柴田兵《しばたへい》の柳瀬附近《やながせふきん》に來《きた》るを聞《き》き、急《きふ》に伊勢《いせ》より還《かへ》り。十七|日《にち》自《みづ》から兵《へい》を率《ひき》ゐ、柳瀬方面《やながせはうめん》に進《すゝ》み、銃《じゆう》を發《はつ》して戰《たゝかひ》を挑《いど》みしが、柴田兵《しばたへい》之《これ》に應《おう》ぜず。乃《すなは》ち十八|日《にち》、自《みづ》から天神山西方高地文室山《てんじんやませいはうかうちふむろやま》に上《のぼ》り、敵情《てきじやう》を偵察《ていさつ》し、彼我《ひが》容易《ようい》に接戰《せつせん》し難《がた》きを知《し》り、彼《かれ》も亦《ま》た勝家同樣《かついへどうやう》、持久《ぢきう》の策《さく》を取《と》り、數個《すうこ》の砦《とりで》を築《きづ》きて、柴田勢《しばたぜい》と對峙《たいじ》せしむることゝした。
[#改ページ]