高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正、再校正
[#4字下げ][#大見出し]第六章 清洲會議の前後[#大見出し終わり]
[#5字下げ][#中見出し]【二三】織田氏の諸將[#中見出し終わり]
扨《さて》も柴田《しばた》、瀧川《たきがは》の諸將《しよしやう》は奈何《いかん》。柴田《しばた》は即今《そくこん》佐々成政《さつさなりまさ》、前田利家《まへだとしいへ》、佐久間盛政等《さくまもりまさら》を率《ひき》ゐ、越中《ゑつちゆう》にて景勝《かげかつ》と合戰最中《かつせんさいちゆう》であつた。然《しか》も景勝《かげかつ》は、信州口《しんしうぐち》より、森長可《もりながよし》來襲《らいしふ》するを聞《き》き、退却《たいきやく》し、勝家等《かついへら》は此《これ》に乘《じよう》じて、追撃《つゐげき》し。愈《いよい》よ越後《ゑちご》を征服《せいふく》せんと勇《いさ》みつゝある際《さい》に、六|月《ぐわつ》四|日《か》、思《おも》ひきや本能寺《ほんのうじ》の事變《じへん》を聞《き》かんとは。されば勝家《かついへ》は部將等《ぶしやうら》を留《とゞ》めて、景勝《かげかつ》に當《あた》らしめ、自《みづ》から兵《へい》を率《ひき》ゐて、直《たゞ》ちに上洛《じやうらく》の途《と》に就《つ》いたが、越前《ゑちぜん》、近江《あふみ》の堺《さかひ》、柳瀬《やながせ》に到《いた》るの際《さい》、山崎合戰《やまざきかつせん》の捷報《せふはう》に接《せつ》した。此《こゝ》に於《おい》て路《みち》を轉《てん》じて、清洲《きよす》に赴《おもむ》いた。
彼《かれ》は織田氏《おだし》の將校中《しやうかうちゆう》、隨《ずゐ》一の出頭人《しゆつとうにん》であつた。然《しか》るに舊主《きうしゆ》の弔合戰《とむらひかつせん》に手後《ておく》れしたる事《こと》は、彼《かれ》の怠慢《たいまん》の罪《つみ》にあらざる迄《まで》も、彼《かれ》の威信《ゐしん》を失墜《しつつゐ》したる事《こと》は、掩《おほ》ふ可《べ》からざる事實《じじつ》であつた。
關東管領瀧川一益《くわんとうくわんれいたきがはかずます》は、六|月《ぐわつ》七|日《か》、其變《そのへん》を聞《き》いた。併《しか》し彼《かれ》は容易《ようい》に、脚《あし》を擧《あ》ぐることを得《え》なかつた。凡《およ》そ瀧川程《たきがはほど》前半生《ぜんはんせい》、後半生《こうはんせい》の差異《さい》の、甚《はなは》だしきものはない。彼《かれ》の晩節《ばんせつ》は、如何《いか》にも見劣《みおと》りのした、凡骨《ぼんこつ》であつたが、其《そ》の前半《ぜんはん》は、實《じつ》に目醒《めざま》しきものであつた。されば小瀬甫菴《こせほあん》も、彼《かれ》を評《ひやう》して、
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信長公御在世《のぶながこうございせい》の時《とき》は、先《さき》をかくるにも瀧川《たきがは》、又《また》殿《しんがり》も瀧川《たきがは》とて、佳名《かめい》いと香《かんば》しく、果敢決斷《くわかんけつだん》もいみじかりしが、今《いま》の有樣《ありさま》いと憐《あは》れなり。呼《あゝ》、時《とき》なるかな、時《とき》なるかな。
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と云《い》うて居《を》る。蓋《けだ》し彼《かれ》が信長事變《のぶながじへん》の報《はう》に處《しよ》したる、手際《てぎは》の如《ごと》きは、實《じつ》に彼《かれ》が英雄時代《えいゆうじだい》、掉尾《たうび》の振舞《ふるまひ》と云《い》ふ可《べ》きであらう。
扨《さて》も瀧川《たきがは》は、六|月《ぐわつ》七|日《か》の晩《ばん》、急飛脚《きふびきやく》に接《せつ》し、其《そ》の重臣等《ぢゆうしんら》と評議《ひやうぎ》した。彼等《かれら》は姑《しば》らく之《これ》を隱密《いんみつ》にせられよと云《い》うたが、瀧川《たきがは》は首《くび》を掉《ふ》りて、否々《いな/\》惡事《あくじ》千|里《り》を走《はし》る、とても隱《かく》し了《をほ》せるものではない。寧《むし》ろ我《われ》より進《すゝ》んで、關東《くわんとう》の諸將《しよしやう》を招《まね》き、此事《このこと》を披露《ひろう》し、人質《ひとじち》を還《かへ》し、我身《わがみ》は一|日《にち》も早《はや》く上京《じやうきやう》して、亡君《ばうくん》の仇《あだ》を報《むく》ゆ可《べ》しとて、斯《か》く斷行《だんかう》した。彼《かれ》は諸將《しよしやう》に向《むか》つて、上方《かみがた》不慮《ふりよ》の大變《たいへん》あり、人質《ひとじち》は箕輪《みのわ》の城《しろ》に入《い》れ置《お》きたれば、悉《こと/″\》く之《これ》を返《かへ》す可《べ》し。若《も》し御身等《おんみら》一益《かずます》を打《うつ》て、それを手柄《てがら》に、北條《ほうでう》に降參《かうさん》せんとならば、此首《このくび》を進上《しんじやう》す可《べ》し。然《しか》らざれば小田原《をだはら》に使者《ししや》を遣《つかは》し、厩橋《うまやばし》を渡《わた》さんと云《い》はゞ、氏政父子《うぢまさふし》早々《さう/\》出馬《しゆつば》すべし。其時《そのとき》一|戰《せん》して上洛《じやうらく》する乎《か》、討死《うちじに》する乎《か》、運《うん》を天《てん》に任《まか》すべしと云《い》うた。
諸將《しよしやう》何《いづ》れも、貮心《じしん》なきを明答《めいたふ》した。此《かく》の如《ごと》くして瀧川《たきがは》は、六|月《ぐわつ》十九|日《にち》、北條勢《ほうでうぜい》と神流川《じんりうがは》に相戰《あひたゝか》うた。彼《かれ》は戰《たゝか》ひ敗《やぶ》れ、其《そ》の珍器《ちんき》を、悉《ことごと》く上州《じやうしう》の諸將士《しよしやうし》に頒與《はんよ》し、七|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、始《はじ》めて伊勢長島《いせながしま》に還《かへ》り、次《つい》で清洲《きよす》に來《きた》つた。而《しか》して信州海津《しんしううみつ》の城主森長可《じやうしゆもりながよし》、同《どう》飯田《いひだ》の城主毛利秀頼等《じやうしゆまうりひでよりら》亦《ま》た、前後《ぜんご》來《きた》り會《くわい》した。却説《さて》秀吉《ひでよし》は奈何《いかん》。
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筑前守殿所《ちくぜんのかみどのところ》より、大坂《おほさか》の御番衆《ごばんしゆう》え|被[#二]仰聞[#一]御内證《おほせきけられしごないしよう》は、其御城何方《そのおしろいづかた》へも|被[#二]相渡[#一]《あひわたされ》まじく候《さふらふ》。其子細《そのしさい》は、上樣《うへさま》の|御跡御次可[#レ]被[#レ]成天下人《おんあとおつぎなさるべきてんかびと》え、|目出度可[#レ]被[#二]相渡[#一]候《めでたくあひわたさるべくさふらふ》。其内《そのうち》は|御番御油斷不[#レ]可[#レ]有候事《ごばんごゆだんあるべからずさふらふこと》、御尤《ごもつとも》に候《さふらふ》と|被[#二]仰渡[#一]候故《おほせわたされさふらふゆゑ》、御留守居衆《おるすゐしゆう》、御門《ごもん》/\を相《あひ》かため、中々聊爾《なか/\れうじ》に|可[#二]相渡[#一]共《あひわたすべしとも》見《み》えざりければ、三七|殿《どの》(信孝)[#「(信孝)」は1段階小さな文字]も、丹羽《には》五|郎左衞門殿《らうざゑもんどの》も、國々《くに/″\》へ一|先御入候事《まづおんいりさふらふこと》。丹羽《には》五|郎左衞門殿《らうざゑもんどの》へ、卒度御内證《そつとごないしよう》と聞《きこ》え申候事《まをしさふらふこと》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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秀吉《ひでよし》の目《め》は、既《すで》に大阪《おほさか》に注《そゝ》いだ。此《こ》の要地《えうち》は、彼《かれ》が他日《たじつ》天下制馭《てんかせいぎよ》の策源地《さくげんち》だ。彼《かれ》が天下人《てんかびと》へ相渡《あひわた》す可《べ》しとは、隱然《いんぜん》自《みづ》から其人《そのひと》を以《もつ》て任《にん》じたることが、判知《わか》る。而《しか》して彼《かれ》と、丹羽長秀《にはながひで》とは、此時《このとき》に於《おい》て、既《すで》に秘密同盟《ひみつどうめい》が、出來《でき》て居《ゐ》たものらしく思《おも》はる。彼《かれ》は戰捷《せんせふ》の祝杯《しゆくはい》に醉《ゑ》うて、一|切《さい》を閑却《かんきやく》するが如《ごと》き、空々漢《くう/\かん》でない、彼《かれ》の身《み》は此處《ここ》にあれば、彼《かれ》の心《こゝろ》は彼處《かしこ》にあつた。
秀吉《ひでよし》は六|月《ぐわつ》十六|日《にち》以來《いらい》、安土《あづち》にあつたが、一|通《とほ》りの跡始末《あとしまつ》を附《つ》けたれば、岐阜《ぎふ》に赴《おもむ》き、國中諸士《こくちゆうしよし》の人質《ひとじち》を徴《ちよう》して、之《これ》を長松《ながまつ》に措《お》き、堀秀政《ほりひでまさ》をして、岐阜城《ぎふじやう》を守《まも》らしめ、自《みづ》から清洲《きよす》に至《いた》りて、三|法師丸《ぽふしまる》に謁《えつ》した。此《こ》れは信忠《のぶたゞ》の子《こ》で、本能寺《ほんのうじ》の變故《へんこ》に際《さい》し、前田玄以《まへだげんい》が、信忠《のぶたゞ》の二|條御所《でうごしよ》に於《おい》て、生害《しやうがい》の際《さい》、其《そ》の遺命《ゐめい》を奉《ほう》じ、岐阜《ぎふ》より清洲《きよす》に移《うつ》したのであつた。
此《こゝ》に於《おい》て愈《いよい》よ織田氏諸將《おだししよしやう》の、清洲會議《きよすくわいぎ》の段取《だんどり》となつて來《き》た。此《こ》れは信長死後《のぶながしご》の善後策《ぜんごさく》に就《つい》て、實《じつ》に重要《ぢゆうえう》なる會議《くわいぎ》であつた。
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[#6字下げ][#小見出し]瀧川一益北條氏に敗戰質子を還して出發す[#小見出し終わり]
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今月七日[#割り注]○天正十年六月[#割り注終わり]上方の飛脚來て故大臣家の御事を告く一益[#割り注]○瀧川[#割り注終わり]諸家老と談じ、上州の諸將を招て情を顯し告て曰ふは、去る二日主君信長、逆臣光秀の爲に弑せられ給ふ、是に依て一益愁涙を押へ乍ら、彼逆徒退治の爲に當國[#割り注]○上野[#割り注終わり]を去て上洛を企つ、各※[#二の字点、1-2-22]の心底承度と云、上州の諸將等何れも一益か至剛を感じ、各※[#二の字点、1-2-22]一味の旨今以て違變すべからざるの趣を諾し、面々居城より人質を呼寄せ、一益に獻して二心なきの由を示す、一益此旨一悦す、然れども相州小田原の北條は、當時關東の大敵なれば、是と一戰を快くし、勇威を近隣に顯し見せ、其上の儀に任すべしとて、同月十七日手勢八千餘人、並に國人箕輪の城主内藤大和守[#割り注]○秋宣[#割り注終わり]、新田の城主由良信濃守[#割り注]○國繁[#割り注終わり]、松山の城主上田安獨齋[#割り注]○政相[#割り注終わり]、忍の城主成田下總守[#割り注]○氏長[#割り注終わり]、館林の城主長尾新五郎[#割り注]○顯長[#割り注終わり]、嶺の城主小幡上總介[#割り注]○信貞[#割り注終わり]、倉賀野淡路守[#割り注]○秀景[#割り注終わり]、深谷の城主上杉左兵衞尉[#割り注]○深谷憲盛[#割り注終わり]等一萬餘人、都合一萬八千人を將て、一益即厩橋[#割り注]○今の前橋[#割り注終わり]の城を立て相州[#割り注]○相州は誤[#割り注終わり]へ赴き、翌十八日和田[#割り注]○上野西群馬郡[#割り注終わり]に着陣す、北條氏政[#割り注]○氏直下同[#割り注終わり]之を聞て自身多勢を率し、相州小田原の城を出馬し、武州甲山[#割り注]○横見郡[#割り注終わり]に出迎ふ、先陣松田尾張守[#割り注]○憲秀[#割り注終わり]大道寺駿河守[#割り注]○政繁[#割り注終わり]芳賀[#割り注]○一に堀和[#割り注終わり]伊賀守等、氏政に先立つ事坂東路五里を隔つ、武州鉢形の城主北條安房守[#割り注]○氏邦[#割り注終わり]三千人を率し、甲山の手合として今月十九日未明に打立、倉賀野川を渡り來るを瀧川勢合戰を始め、先陣篠岡平右衞門、瀧川儀太夫、堀田武助、富田喜太郎、牧野傳藏、日置五左衞門、谷崎忠右衞門、栗田金右衞門等槍を合せ頻に戰ひ勇み討て、安房守等敗軍せしめ、悉く追散らされ、瀧川勢一戰に勝利を得て相悦ぶの所に、甲山の先陣松田、芳賀、大道寺二千餘の人數を窪地に隱し、神奈川[#割り注]○神流川[#割り注終わり]に相待つ、津田、篠岡等又懸て合戰を挑むの所に、伏兵起て是を遮り、一戰に利を失て瀧川方敗北す、于[#レ]時津田次右衞門、篠岡平右衞門防矢射て處々にて討死し、一益自身は殘兵を集て何事なく倉賀野の城へ引入れ、城主淡路守に謁し、其外、國人等に暇乙し、各※[#二の字点、1-2-22]今日の苦戰、某に於て大悦なり、某上國の後は皆以て北條に相屬し、居城に安堵致さる可し、武門の禮儀是迄也と云終て、各※[#二の字点、1-2-22]人質を返し遺し、其夜は猶勇氣を顯し當城に於て猿樂を興業し、一益自身鼓を打て安堵の體を自他に示し、今日討死の輩、供養の料と云て金百兩を寺院に寄附し、城主倉賀野淡路守に記念として吉光の小脇指を授與して、翌廿日上國の爲め倉賀野の城を發騎す、津田小平次、稻田九藏に後殿を命じ、笛吹《ウスヒ》峠を打越、同夜追分[#割り注]○信濃[#割り注終わり]に宿陣、廿一日信州の小室に着て、滯留すること五日、人馬の息を相休め、當城を本人蘆田下野守[#割り注]○依田信蕃[#割り注終わり]に渡し、廿六日小室を立て、路次中一揆の用心をし押通るの處に、同國上田の城主眞田安房守[#割り注]○昌幸[#割り注終わり]等路次を警固し一益を相送る、廿七日一益又下の諏訪に着陣して祝部《ハウリ》方へ使を立、又福島の城主木曾義政[#割り注]○義昌[#割り注終わり]へも使を遣し、廿八日諏訪を立て福島に到着し、義政に對談し、信州所々の人質共を殘り無く返し遣し、終に路次恙なくして同七月朔同尾州[#割り注]○今は伊勢[#割り注終わり]長島の居城に歸る、今度一益途にての計ひ哀れ武門の骨柱哉と、都鄙遠近に於て其勇名美稱せずと云者なし。〔總見記、小瀬本信長記、北條五代記〕
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[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【二四】清洲會議(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]
清洲會議《きよすくわいぎ》は、如何《いか》に信長《のぶなが》の跡《あと》を處分《しよぶん》すべき乎《か》の、大評定《だいひやうぢやう》ぢや。其《そ》の事件《じけん》の重大《ぢゆうだい》なるは、決《けつ》して山崎合戰《やまざきかつせん》の下《しも》ではなかつた。秀吉《ひでよし》は既《すで》に戰鬪《せんとう》の勝利者《しようりしや》であつた、今《いま》や彼《かれ》は、平和《へいわ》の勝利者《しようりしや》たらんとするのぢや。吾人《ごじん》は川角太閤記《かはかくたいかふき》の記事《きじ》に、悉《こと/″\》く信《しん》を措《お》くものではない。第《だい》一|該書《がいしよ》は、清洲會議《きよすくわいぎ》を誤《あやま》つて、岐阜會議《ぎふくわいぎ》と傳《つた》へて居《ゐ》る。併《しか》し其《そ》の會議《くわいぎ》を叙《じよ》し來《きた》りて、神采奕々《しんさいえき/\》、何《なん》となく其《そ》の光景《くわうけい》を、眼前《がんぜん》に髣髴《はうふつ》せしめる趣《おもむき》がある。吾人《ごじん》は大體《だいたい》に於《おい》て、斯《か》くありしならむと思《おも》はざるを得《え》ない。
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一、柴田修理殿《しばたしゆりどの》、總大名衆《そうだいみやうしゆう》え御觸《おふれ》には、明日登城候《みやうにちとじやうさふら》へ、|於[#二]御城[#一]各申談《おしろにおいておの/\まをしだんじ》、天下人《てんかびと》を|可[#二]相定[#一]《あひさだむべし》との前日《ぜんじつ》のふれと聞《きこ》え申候《まをしさふらふ》。|翌日柴田殿如[#二]指圖[#一]御城《よくじつしばたどのさしづのごとくおしろ》へ|被[#レ]詰候處《つめられさふらふところ》に、|柴田殿被[#二]申出[#一]候樣子《しばたどのまをしいでられさふらふやうす》は、|上樣御父子之儀者不[#レ]及[#二]是非[#一]次第也《うへさまごふしのぎはぜひにおよばざるしだいなり》。目出度天下人《めでたくてんかびと》を定《さだ》め、上樣《うへさま》と|可[#レ]奉[#レ]仰《あふぎたてまつるべし》と|被[#二]申出[#一]候事《まをしいでられさふらふこと》。
[#地から1字上げ]〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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柴田勝家《しばたかついへ》が、大評定《だいひやうぢやう》の觸頭《ふれがしら》でもあり、議長《ぎちやう》でもあり、又《ま》た肝煎《きもいり》でもあつた。彼《かれ》は殆《ほと》んど其《そ》の威力《ゐりよく》を以《もつ》て滿場《まんぢやう》を壓倒《あつたう》した。
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一、總大名衆《そうだいみやうしゆう》も御尤《ごもつとも》に存候《ぞんじさふらう》と計《ばかり》にて、誰《たれ》を|可[#レ]然《しかるべし》と|被[#二]申出[#一]衆中《まをしいでられしはしゆうちゆう》一|人《にん》も|無[#二]御座[#一]候《ござなくさふらう》。それより互《たがひ》に目《め》を|被[#二]見合[#一]《みあはされ》たりと聞《きこ》え申候《まをしさふらふ》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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如何《いか》にも評定場《ひやうぢやうば》の模樣《もやう》が、手《て》に取《と》る樣《やう》だ。
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稍有《やゝあつ》て|勝家被[#二]申出[#一]《かついへまをしいでられ》けるは、三七|樣《さま》(信孝)[#「(信孝)」は1段階小さな文字]|可[#レ]然《しかるべ》からんと存候《ぞんじさふらふ》。御年《おんとし》の比《ころ》と申《まをし》、御覺御利發《おんおぼえごりはつ》の有樣《ありさま》、|殘所無[#二]御座[#一]候《のこるところござなくさふらふ》と|被[#二]申出[#一]候處《まをしいでられさふらふところ》に、筑前守殿勝家御見合《ちくぜんのかみどのかついへおみあひ》は|無[#二]殘所[#一]候《のこるところなくさふらふ》。|乍[#レ]去御筋目《さりながらおんすぢめ》を|被[#レ]立候者《たてられさふらへば》、御嫡男御尤《ごちやくなんごもつとも》かと存候《ぞんじさふらふ》。其子細《そのしさい》は、城之助樣《じやうのすけさま》の若君御座候上者《わかぎみござさふらふうへは》、吉法《きつぽふ》(三法?)[#「(三法?)」は1段階小さな文字]樣《さま》を|御取立可[#レ]被[#レ]成事《おんとりたてなさるべきこと》、御尤《ごもつとも》かと存候《ぞんじさふらふ》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
勝家《かついへ》も始《はじ》めて其《そ》の本音《ほんね》を吐《は》いた。彼《かれ》は信孝《のぶたか》と結託《けつたく》して居《ゐ》た。信孝《のぶたか》は信雄《のぶを》と其《そ》の生誕《せいたん》の年月《ねんげつ》―永祿元年正月《えいろくぐわんねんしやうぐわつ》―を同《おなじ》うした。然《しか》も其《そ》の日《ひ》は二十|日《か》も早《はや》かつた。但《た》だ信雄《のぶを》の母《はゝ》は、生駒氏《いこまし》であり、信忠《のぶたゞ》と同胞《どうはう》であつたに反《はん》し、彼《かれ》の母《はゝ》は賤《いや》しく、且《か》つ其《そ》の生産《せいさん》の報告《はうこく》遲《おく》れたる爲《た》め、却《かへつ》て第《だい》三|子《し》と定《さだ》められたのだ。彼《かれ》は信雄《のぶを》に比《ひ》すれば、覇氣《はき》もあり、自《みづ》から信長《のぶなが》の後繼者《こうけいしや》を以《もつ》て、擬《ぎ》して居《ゐ》た。而《しか》して勝家《かついへ》は、恐《おそ》らくは彼《かれ》と既《すで》に此事《このこと》を、協定《けふてい》して居《ゐ》たのであらう。然《しか》るに今《いま》や突如《とつじよ》として、秀吉《ひでよし》の異論《いろん》に出會《しゆつくわい》した。秀吉《ひでよし》は信孝《のぶたか》の人格《じんかく》に就《つい》て、何等《なんら》の反對《はんたい》はせなかつた。但《た》だ何處迄《どこまで》も筋目《すぢめ》の一|點張《てんば》りであつた。蓋《けだ》し家督相續《かとくさうぞく》の上《うへ》に於《おい》ては、所謂《いはゆ》る此《こ》の筋目《すぢめ》より大切《たいせつ》なるものはない。而《しか》して秀吉《ひでよし》の持出《もちいだ》した理由《りいう》は、左《さ》の通《とほ》りぢや。
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只今者御幼少《たゞいまはごえうせう》たりとは申《まをし》ながら、御《ご》一|門中《もんちゆう》、勝家《かついへ》、|扨其外於[#二]同心仕[#一]者《さてそのほかどうしんつかまつるにおいては》、御幼少《ごえうせう》なるは苦《くる》しからず、なしかは|不[#レ]奉[#レ]仰者下萬人《あふぎたてまつらざるものしもばんにん》としては御座有《ござある》まじく候《さふらふ》。只御筋目《たゞおんすぢめ》を|被[#レ]立候者《たてられさふらはゞ》、以下《いか》に至《いた》るまで、不足御座有《ふそくござある》まじと|於[#二]拙者[#一]《せつしやにおいて》は、か樣《やう》に|奉[#レ]存候事《ぞんじたてまつりさふらふこと》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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如何《いか》にも尤《もつとも》ではない乎《か》、如何《いか》に幼弱《えうじやく》とても、何時迄《いつまで》も幼弱《えうじやく》ではあるまじ。其《そ》の成長迄《せいちやうまで》は、後見《こうけん》も、輔佐《ほさ》も、それ/″\其《そ》の任《にん》に當《あた》る者《もの》、多《おほ》かるに於《おい》ては、何《なん》の差支《さしつかへ》ある可《べ》き。
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一、勝家《かついへ》は内證氣《ないしようき》に|不[#レ]合《あはず》と見《み》え申候《まをしさふら》へど、色《いろ》には|不[#レ]被[#レ]出候《いだされずさふらふ》。總大名衆《そうだいみやうしゆう》それより猶以無言《なほもつてむごん》の仕合《しあひ》なり。稍暫《やゝしばらく》あり丹羽《には》五|郎左衞門殿《らうざゑもんどの》、|被[#二]申出[#一]樣子者《まをしいでられしやうすは》、勝家又《かついへまた》は各《おの/\》も|被[#レ]成[#二]御聞[#一]候《おきゝなされさふら》へ。筑前守申條《ちくぜんのかみまをすでう》も筋目涼敷相聞《すぢめすゞしくあひきこ》え申候《まをしさふらふ》。その子細《しさい》は、城之助樣《じやうのすけさま》(信忠)[#「(信忠)」は1段階小さな文字]に|若君無[#二]御座[#一]候《わかぎみござなくさふら》へば、|不[#レ]及[#二]是非[#一]候《ぜひにおよばずさふらふ》。たとへ御息女《ごそくぢよ》にて御座候《ござさふらふ》とも、御《ご》一|門中《もんちゆう》に|御縁邊可[#レ]被[#二]仰合[#一]《ごゑんぺんおほせあはさるべき》に、ましてや御《おん》二ツの若君樣也《わかぎみさまなり》と、|被[#二]申出[#一]候《まをしいでられさふらへ》ば。筑前守殿《ちくぜんのかみどの》、|追而被[#レ]申《おつてまをされ》けるは、城之助樣御前方《じやうのすけさまごぜんがた》などに、御懷姙《ごくわいにん》の方《かた》も御座候《ござさふら》はゞ、御産《おさん》のひぼを御《おん》とき|被[#レ]成候《なされさふらふ》を、|御待被[#レ]成《おんまちなされ》、男女《なんによ》の|次第御見分可[#レ]被[#レ]成事《しだいごけんぶんなさるべきこと》こそ、五|常筋目《じやうすぢめ》も|可[#レ]然《しかるべき》かと存候處《ぞんじさふらふところ》、ましてや若君御座候上《わかぎみござさふらふうへ》は、|御取立可[#レ]被[#レ]成事《おんとりたてなさるべきこと》、御尤《ごもつとも》かと存候事《ぞんじさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
秀吉《ひでよし》は、長秀《ながひで》に於《おい》て、其《そ》の有力《いうりよく》なる味方《みかた》を見出《みいだ》した。長秀《ながひで》の賛成《さんせい》は、彼《かれ》の發議《はつぎ》をして、山《やま》よりも重《おも》からしめた。彼《かれ》は此《こ》の賛成《さんせい》に頼《よ》りて、更《さ》らに其《そ》の論法《ろんぱふ》を進《すゝ》めた。
羽柴《はしば》、丹羽《には》の同盟《どうめい》は、織田《おだ》、徳川《とくがは》の同盟以上《どうめいいじやう》に、秀吉《ひでよし》をして、天下人《てんかびと》たらしむるの便宜《べんぎ》となつた。長秀《ながひで》は、固《もと》より主動者《しゆどうしや》ではなかつた、併《しか》し脇役《わきやく》としては、申分《まをしぶん》なき大役者《だいやくしや》であつた。秀吉《ひでよし》は其《そ》の獨立獨歩《どくりつどくぽ》の出來《でき》る迄《まで》、此《こ》の脇役《わきやく》を、十二|分《ぶん》に利用《りよう》した。
[#5字下げ][#中見出し]【二五】清洲會議(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]
評定《ひやうぢやう》は秀吉《ひでよし》の異論《いろん》にて、愈《いよい》よ面倒《めんだう》となつた。丹羽長秀《にはながひで》は、秀吉《ひでよし》に左袒《さたん》した。然《しか》も柴田《しばた》の意向《いかう》は、依然《いぜん》信孝擁立《のぶたかようりつ》にある乎《か》、否乎《いなか》、未《いま》だ測《はか》り知《し》る可《べ》からずだ。
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一、柴田殿《しばたどの》を始《はじ》めとし、其外《そのほか》の大名衆《だいみやうしゆう》、筑前守申通筋目立申候《ちくぜんのかみまをすとほりのすぢめたちまをしさふらふ》とは、|各被[#レ]存候《おの/\ぞんぜられさふら》へども、|又被[#二]申出[#一]衆《またまをしいでらるゝしゆう》もなく相見《あひみ》え候處《さふらふところ》の爲體《ていたらく》、|秀吉御覽被[#レ]付《ひでよしごらんつけられ》。いや/\此座敷《このざしき》に|秀吉於[#レ]有[#レ]之《ひでよしこれあるにおいて》は、惣《そう》(相)[#「(相)」は1段階小さな文字]談《だん》しにくかるべき也《なり》と思召《おぼしめし》、いつもの虫氣《むしげ》少《すこ》し指出申候《さしいでまをしさふらふ》と|被[#二]申出[#一]候而《まをしいでられさふらひて》、御座敷《おざしき》を|被[#レ]立候《たゝれさふらひ》て、それよりだいすの間《ま》へ御座候《ござさふらひ》て、茶坊主共《ちやぼうずども》に、枕《まくら》を御取《おとり》よせ|被[#レ]成御休候《なされおやすみさふらひ》て、湯《ゆ》など御取寄《おんとりよせ》、香薫散《かうくんさん》などまいり、ゆる/\と|御休足被[#レ]成候《ごきうそくなされさふらふ》。御心《おんこゝろ》には定《さだ》めし跡《あと》にて、詮議《せんぎ》まち/\たるべきと|被[#二]思召[#一]候處《おぼしめされさふらふところ》に、|如[#レ]案評定《あんのごとくひやうぢやう》はとり/″\也《なり》。其中《そのうち》に丹羽《には》五|郎左衞門殿被[#二]申出[#一]樣子《らうざゑもんどのまをしいでられしやうす》は、勝家斯樣《かついへかやう》に申候《まをしさふらふ》とて、|御腹立被[#レ]成間敷候《おはらだちなされまじくさふらふ》。筑前守申條《ちくぜんのかみまをすでう》、筋目《すぢめ》たゞしきかと存候事《ぞんじさふらふこと》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
機《き》を見《み》るに敏《びん》なる秀吉《ひでよし》は、其場《そのば》を外《はづ》して、其《そ》の成行《なりゆき》を眺《なが》めた。果然《くわぜん》評議《ひやうぎ》は區々《くゝ》として、歸著《きちやく》する所《ところ》を見出《みいだ》さなかつた。然《しか》も秀吉《ひでよし》は、其《そ》の代表者《だいへうしや》に丹羽長秀《にはながひで》を留《とゞ》めた。彼《かれ》は其《そ》の位置《ゐち》、勢望《せいばう》よりすれば、柴田《しばた》の下《した》、瀧川《たきがは》の上《うへ》であつた。彼《かれ》は尾州閥《びしうばつ》の一|人《にん》であつた。即《すなは》ち尾州丹羽郡《びしうにはごほり》の生《うまれ》にて、信長《のぶなが》より一|歳《さい》少《わか》く、四十八|歳《さい》の分別盛《ふんべつざか》りの男《をとこ》であつた。信長《のぶなが》の庶兄《しよけい》信廣《のぶひろ》の女《むすめ》を娶《めと》り、織田氏將校中《おだししやうかうちゆう》の故參者《こさんしや》にて、元龜《げんき》二|年《ねん》江州佐和山城《がうしうさわやまじやう》に封《ほう》ぜられ、信長《のぶなが》の信寵《しんちよう》を得《え》たる一|人《にん》であつた。彼《かれ》は表面《へうめん》中立者《ちゆうりつしや》の位置《ゐち》に立《たつ》て、其《そ》の實《じつ》は秀吉《ひでよし》の味方《みかた》であつた。されば彼《かれ》が發言《はつげん》は、其《そ》の公平《こうへい》なる第《だい》三|者《しや》と云《い》ふ意味《いみ》に於《おい》て、頗《すこぶ》る有力《いうりよく》であつたに相違《さうゐ》ない。
[#ここから1字下げ]
一、五|郎左衞門殿又申次第《らうざゑもんどのまたまをすしだい》、右《みぎ》に|如[#レ]申候《まをすごとくにさふらふ》。|勝家御腹立被[#レ]成《かついへおはらだちなされ》まじく候《さふらふ》。|上樣於[#二]京都[#一]御切腹被[#レ]成候折節《うへさまきやうとにおいてごせつぷくなされさふらふをりふし》、筑前守《ちくぜんのかみ》は中國備中《ちゆうごくびつちゆう》に大敵《たいてき》の輝元《てるもと》と差向《さしむかひ》、其身《そのみ》に指當《さしあた》る大事《たいじ》をのがれ、播州《ばんしう》え歸城《きじやう》し、三|日《か》とも|休息不[#レ]遂《きうそくをとげず》して、即時《そくじ》に打《うつ》てのぼり、我人《われひと》の主《しゆ》のかたき無道人《むだうにん》を討果事《うちはたせしこと》、天命《てんめい》にも叶《かな》ひ申《まをす》、筑前守《ちくぜんのかみ》かと存候《ぞんじさふらふ》。勝家《かついへ》と筑前守《ちくぜんのかみ》とをくらべ候得《さふらえ》ば、半分《はんぶん》にも|不[#レ]及身上也《およばざるみのうへなり》。上樣御切腹《うへさまごせつぷく》、|勝家御聞付被[#レ]成候《かついへおんきゝつけなされさふらふ》とひとしく、御《おん》かる羽《は》をもつかはれ、|早速御登被[#レ]成候《さつそくおのぼりなされさふら》はゞ、惟任程《これたふほど》なるもの二三|人《にん》は、御踏《おんふ》み潰《つぶ》し|可[#レ]被[#レ]成《なさるべき》ものを、御油斷故《ごゆだんゆゑ》と存候《ぞんじさふらふ》と、五|郎左衞門殿被[#レ]申候得《らうざゑもんどのまをされさふらえ》ば勝家《かついへ》も理《り》につまり、あやまりて候《さふらふ》。五|郎左被[#レ]申通《らうざまをされしとほり》に候《さふらふ》とこそ挨拶《あいさつ》と聞《きこ》え申候《まをしさふらふ》。勝家暫工夫《かついへしばしくふう》して、いや/\善《ぜん》は急《いそ》げと申《まを》すたとへを、おもひ|被[#レ]出《いだされ》けるが、|筑前守被[#二]申出[#一]通《ちくぜんのかみまをしいでられしとほり》、筋目立候間《すぢめたちさふらふあひだ》、吉《きち》(三)[#「(三)」は1段階小さな文字]法師樣《ほふしさま》を、天下人《てんかびと》に|可[#レ]奉[#レ]仰者也《あふぎたてまつるべきものなり》。筑前守《ちくぜんのかみ》虫氣《むしげ》も能候《よくさふら》はゞ、是《これ》へ|被[#レ]出《いでられ》よ、|談合可[#二]相澄[#一]《だんがふあひすますべし》(濟)[#「(濟)」は1段階小さな文字]と儀《ぎ》(議)[#「(議)」は1段階小さな文字]定候事《ぢやうさふらふこと》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
長秀《ながひで》の論《ろん》、吐《は》き來《きた》りて痛快《つうくわい》だ。是《こ》れは人々《ひと/″\》の意中《いちゆう》を、道破《だうは》したものぢや。獲物《えもの》は戰捷者《せんせふしや》に歸《き》す。如何《いか》に勝家《かついへ》威張《ゐば》りても、主君《しゆくん》の讎《あだ》を復《ふく》した者《もの》は、彼《かれ》にあらずして、秀吉《ひでよし》だ。況《いは》んや秀吉《ひでよし》の申分《まをしぶん》が、所謂《いはゆ》る筋目《すぢめ》の正《たゞ》しきに、叶《かな》うて居《を》るに於《おい》てをやだ。勝家《かついへ》の屈服《くつぷく》も、決《けつ》して不思議《ふしぎ》とも思《おも》はれぬ。
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一、五|郎左衞門殿《らうざゑもんどの》、是《これ》を聞《きゝ》、座敷遙《ざしきはるか》に相隔申處《あひへだてまをすところ》の、だいすの間《ま》へ御出候而《おんいでさふらひて》、|筑前守被[#レ]起候《ちくぜんのかみおきられさふら》へ、霍亂《かくらん》もよく候哉《さふらふや》。貴所御存分之通《きしよごぞんぶんのとほり》に勝家合點候《かついへがてんさふらふ》、はや/\とて、五|郎左衞門殿《らうざゑもんどの》と打連《うちつれ》、本《もと》の座敷《ざしき》へ御歸候《おかへりさふらふ》。|勝家被[#二]申出[#一]候《かついへまをしいでられさふらふ》は、虫氣《むしげ》もよく候哉《さふらふや》。|先程貴所被[#二]仰出[#一]筋目可[#レ]然《さきほどきしよおほせいでられしすぢめしかるべし》と、各《おの/\》も同心候間《どうしんさふらふあひだ》、目出度《めだたく》吉《きち》(三)[#「(三)」は1段階小さな文字]法師樣《ほふしさま》を、天下人《てんかびと》に、各我等《おの/\われら》を始《はじ》めとして、|可[#レ]奉[#レ]仰覺悟也《あふぎたてまつるべきかくごなり》。目出度《めでたし》/\と|被[#二]申出[#一]候事《まをしいでられさふらふこと》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
事實《じじつ》果《はた》して、此《かく》の如《ごと》き順序《じゆんじよ》によりて、此《こ》の問題《もんだい》は落著《らくちやく》したるや、否《いな》やは、保證《ほしよう》の限《かぎ》りでないが。兎《と》も角《かく》も勝家方《かついへがた》の意見《いけん》が破《やぶ》れ、秀吉方《ひでよしがた》の意見《いけん》が立《た》ち、信孝《のぶたか》は其《そ》の野心《やしん》を滿足《まんぞく》する能《あた》はず、却《かへつ》て二|歳《さい》(或は云ふ三歳)[#「(或は云ふ三歳)」は1段階小さな文字]の三|法師《ぽふし》を、信長《のぶなが》の後繼者《こうけいしや》と定《さだ》むる事《こと》となつた。蓋《けだ》し此《こ》れは、言論《げんろん》の勝利《しようり》と云《い》はんよりも、寧《むし》ろ山崎合戰《やまざきかつせん》必然《ひつぜん》の效果《かうくわ》と云《い》ふ可《べ》きであらう。秀吉《ひでよし》が總《すべ》ての人《ひと》に率先《そつせん》して、義兵《ぎへい》を提《ひつさ》げ、萬障《ばんしやう》を排《はい》して東上《とうじやう》したる效果《かうくわ》は、此《こゝ》に至《いた》つて其《そ》の一|端《たん》を現《あらは》して來《き》た。
[#5字下げ][#中見出し]【二六】清洲會議(三)[#「(三)」は縦中横][#中見出し終わり]
吾人《ごじん》は信孝《のぶたか》が、信長《のぶなが》の後繼者《こうけいしや》たるを得《え》ざる、一|原因《げんいん》をば、信雄《のぶを》の反對《はんたい》に歸《き》せねばならぬ。信雄《のぶを》は信孝《のぶたか》に比《ひ》すれば、凡骨《ぼんこつ》であつた。但《た》だ彼《かれ》は信長《のぶなが》の嗣子《しし》たる、信忠《のぶたゞ》の胞弟《はうてい》で、信孝《のぶたか》より後《のち》に生《うま》れたるに拘《かゝは》らず、信孝《のぶたか》の兄《あに》たる位置《ゐち》を占《し》めて居《ゐ》た。彼《かれ》に果《はた》して信孝程《のぶたかほど》の、積極的野心《せききよくてきやしん》があつた乎《か》、否乎《いなか》は、分明《ぶんみやう》でない。然《しか》も信孝《のぶたか》をして己《おのれ》に超《こ》えて、信長《のぶなが》の相續者《さうぞくしや》たらしむるは、彼自《かれみづ》から耐《た》ふる所《ところ》ではなかつたであらう。
此《こ》れは秀吉《ひでよし》に取《と》りては、大《だい》なる便宜《べんぎ》であつたに相違《さうゐ》ない。即《すなは》ち信雄《のぶを》を以《もつ》て、信孝《のぶたか》を制《せい》し、秀吉《ひでよし》、及《およ》び長秀《ながひで》を以《もつ》て、勝家等《かついへら》を制《せい》し。嫡孫承祖《ちやくそんしようそ》の筋目論《すぢめろん》を論據《ろんきよ》とし、山崎合戰《やまざきかつせん》の功勞《こうらう》を、後楯《うしろだて》とし、以《もつ》て清洲會議《きよすくわいぎ》に於《おい》て、其《そ》の勝利《しようり》を制《せい》したものと思《おも》はる。
川角太閤記《かはかくたいかふき》には、秀吉自《ひでよしみづ》から三|法師《ぽふし》の保傳役《ほふやく》を望《のぞ》み、勝家始《かついへはじ》め一|同《どう》、異議《いぎ》なく、之《これ》を承認《しようにん》したが。其《そ》の結果《けつくわ》は意外《いぐわい》にも、左《さ》の如《ごと》くなつたと記《しる》してある。
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一、心《こゝろ》の付《つき》たる衆中《しゆうちゆう》見出《みいだし》、目引鼻引《めひきはなひき》かげにて|笑被[#レ]申候《わらひまをされさふらふ》子細《しさい》は、御《ご》一|家衆《けしゆう》の御禮《おんれい》を初《はじめ》として、御直參《ごぢきさん》なり、謹《つゝしん》で頭《かしら》を地《ち》へ|被[#レ]付《つけられ》|御禮被[#レ]成候《おんれいなされさふら》へども、筑前守殿《ちくぜんのかみどの》は、若君樣《わかぎみさま》を、御膝《おんひざ》の上《うへ》に|被[#レ]置《おかれ》、少《すこ》しうなづき|被[#レ]成迄《なされしまで》にて、誠《まこと》に上樣《うへさま》の|御禮御請被[#レ]成樣《おんれいおうけなさるやう》なる作法《さはふ》に、ちつとも|不[#レ]違樣《たがはざるやう》に禮《れい》を|御請被[#レ]成候《おうけなされさふらふ》。柴田修理亮《しばたしゆりのすけ》、瀧川左近《たきがはさこん》、丹羽《には》五|郎左《らうざ》などへは、猶以《なほもつて》上樣位《うへさまぐらゐ》の樣《やう》に拜見申候《はいけんまをしさふらふ》。右《みぎ》に|如[#二]申上[#一]《まをしあげしごとく》、心《こゝろ》の付《つき》たる衆《しゆう》あれ見給《みたま》へ、筑前守《ちくぜんのかみ》を上樣《うへさま》にあがむるは、則《すなはち》筑前《ちくぜん》こそ上樣《うへさま》。御《ご》一|家衆《けしゆう》、又《また》柴田《しばた》を始《はじめ》とし、皆《みな》/\筑前《ちくぜん》にたらされたるよと、内證《ないしよう》にて|笑被[#レ]申候《わらひまをされさふらふ》と聞《きこ》え申候事《まをしさふらふこと》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
とある。此《こ》れは如何《いか》にも小説《せうせつ》らしく、信《しん》ずるに足《た》らぬが、さりとて自然《しぜん》の權勢《けんせい》が、秀吉《ひでよし》に推移《すゐい》する模樣《もやう》は、聊《いさゝ》か之《これ》にて察《さつ》せられぬ事《こと》はないでもない。
勝家等《かついへら》は、上記《じやうき》の事《こと》に憤慨《ふんがい》し、『勝家《かついへ》苦《に》がりたる顏《かほ》にて、其段《そのだん》ははやはや|不[#レ]及[#二]是非[#一]候《ぜひにおよばずさふらふ》。か樣《やう》なるてくらふ氣轉《きてん》の廻《まは》し申候《まをしさふらふ》は、後《のち》には如何樣《いかやう》なる|事仕可[#レ]出《ことしいづべく》も|覺不[#レ]申候《おぼえまをさずさふらふ》。』とて、愈《いよい》よ三|日目《かめ》の御祝儀《ごしうぎ》の節《せつ》、二の丸《まる》にて秀吉《ひでよし》に切腹《せつぷく》せしむ可《べ》き内相談《ないさうだん》をした。然《しか》るに丹羽長秀《にはながひで》は、此事《このこと》を與《あづか》り聞《き》き、
[#ここから1字下げ]
一、丹羽《には》五|郎左衞門殿《らうざゑもんどの》、宿《やど》へ|被[#レ]歸《かへられ》世間《せけん》夜《よ》も靜《しづ》まりければ、小姓《こしやう》までを一|兩人《りやうにん》|被[#二]召連[#一]《めしつれられ》、ひそかに筑前守殿《ちくぜんのかみどの》御屋形《おんやかた》へ|被[#レ]成[#レ]入候處《いらせられさふらふところ》に、番之衆《ばんのしゆう》書院《しよゐん》へ請《しやう》じ奉《たてまつ》り候處《さふらふところ》、筑前守殿《ちくぜんのかみどの》はいかにと御尋《おたづね》あり。はや|被[#レ]伏《ふせられ》(臥)[#「(臥)」は1段階小さな文字]候《さふらふ》と申候《まをしさふら》へば、起《おこ》されよ、さらば|可[#二]申聞[#一]候《まをしきけべくさふらふ》とて、五|郎左衞門殿《らうざゑもんどの》の是《これ》へ御入候《おんいりさふらひ》て、案内《あんない》をとげ候《さふらふ》。ひとしく|御出合被[#レ]成《おんであひなされ》、何《なに》かは|不[#レ]存《ぞんぜず》ひそかに|御談合被[#レ]成《ごだんがふなされ》、五|郎左衞門殿《らうざゑもんどの》は、其《その》まゝ|御歸被[#レ]成候《おかへりなされさふらふ》。筑前守殿《ちくぜんのかみどの》は、五|郎左衞門殿《らうざゑもんどの》の御歸《おかへり》の時《とき》、御手《おて》を|被[#レ]合《あはされ》、禮拜《らいはい》の樣《やう》に見《み》え申候事《まをしさふらふこと》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
斯《か》くて秀吉《ひでよし》は、當夜《たうや》より直《たゞち》に發足《はつそく》歸國《きこく》し。翌日《よくじつ》は病氣《びやうき》と稱《しよう》して、閉居《へいきよ》の體《てい》を裝《よそほ》はしめ、愈《いよい》よ三|日目《かめ》祝儀《しうぎ》の當日《たうじつ》に、其《そ》の持病《ぢびやう》の爲《た》め、有馬入湯《ありまにふたう》の事《こと》を、發表《はつぺう》したとある。
是等《これら》は信《しん》ずるも可《か》、信《しん》ぜざるも不可《ふか》なし。但《た》だ此《これ》を以《もつ》て見《み》ても、如何《いか》に清洲會議《きよすくわいぎ》が險惡《けんあく》であつた事《こと》が想像《さうざう》せらるゝ。而《しか》して此間《このかん》に處《しよ》して、秀吉《ひでよし》の爲《た》めに影《かげ》となり、日向《ひなた》となりて、擁護《ようご》した者《もの》は、實《じつ》に丹羽長秀《にはながひで》であつた。
[#5字下げ][#中見出し]【二七】清洲會議の結果[#中見出し終わり]
清洲會議《きよすくわいぎ》に參列《さんれつ》したる諸將《しよしやう》は、勝家《かついへ》、秀吉《ひでよし》、長秀《ながひで》、一益《かづます》、細川藤孝《ほそかはふぢたか》、池田勝入《いけだしようにふ》、筒井順慶《つゝゐじゆんけい》、蒲生氏郷《がまふうぢさと》、蜂屋頼隆《はちやよりたか》、及《およ》び信雄《のぶを》、信孝等《のぶたから》であつた。而《しか》して其《そ》の評定《ひやうぢやう》の結果《けつくわ》として、信忠《のぶたゞ》の子《こ》三|法師《ぽふし》を以《もつ》て、信長《のぶなが》の後《のち》を承《う》けしめ、近江《あふみ》の内《うち》三十|萬石《まんごく》を、其《そ》の食邑《しよくいふ》となし、前田玄以《まへだげんい》、長谷川丹波守《はせがはたんばのかみ》を、其《そ》の守役《もりやく》となし、安土《あづち》─|假館《かりやかた》成《な》る迄《まで》、岐阜《ぎふ》に置《お》く※[#こと、135-8]とした─に居《を》らしめ。信雄《のぶを》、信孝《のぶたか》を後見《こうけん》となし、柴田《しばた》、羽柴《はしば》、丹羽《には》、池田《いけだ》の四|將《しやう》各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》其《そ》の役人《やくにん》を京都《きやうと》に措《お》き、庶政《しよせい》を裁決《さいけつ》せしむることゝなし。何《いづ》れも協力《けふりよく》一|致《ち》、幼君《えうくん》を奉戴《ほうたい》す可《べ》しと、誓書《せいしよ》を納《い》れた。而《しか》して其《そ》の闕國《けつこく》を、それ/″\處分《しよぶん》した。
[#6字下げ]明地《あきち》闕國之地《けつこくのち》預《あづか》り侍《はべ》る目録《もくろく》
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一、信雄卿《のぶをきやう》尾州《びしう》。一、信孝《のぶたか》濃州《のうしう》。一、秀吉《ひでよし》丹波《たんば》。一、勝家《かついへ》江州之内《がうしうのうち》長濱《ながはま》六|萬石《まんごく》。一、池田父子《いけだふし》大坂《おほさか》尼崎《あまがさき》兵庫《ひやうご》十二|萬石《まんごく》。一、長秀《ながひで》若州《じやくしう》竝《ならびに》江州内《がうしうのうち》高島《たかしま》志賀《しが》二|郡《ぐん》。一、瀧川《たきがは》五|萬石《まんごく》加増《かぞう》、此外《このほか》北伊勢《きたいせ》を領《りやう》す。一、蜂屋《はちや》三|萬石《まんごく》加増《かぞう》。或《あるひは》云《いふ》、此外《このほか》明地《あきち》多《おほ》かりしは、悉《こと/″\》く秀吉《ひでよし》へ何《なん》となく自由《じいうに》せられしやうに成行《なりゆき》しなり。是《これ》は天正《てんしやう》十|年中《ねんちゆう》の事《こと》なり。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
抑《そもそ》も長濱《ながはま》は秀吉《ひでよし》の領地《りやうち》にして、彼《かれ》が中國征伐《ちゆうごくせいばつ》の際《さい》にも、其《そ》の家族《かぞく》は、尚《な》ほ此地《このち》に留《とゞ》め置《お》いた程《ほど》ぢや。〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]彼《かれ》が此地《このち》を大切《たいせつ》に考《かんが》へた事《こと》は、云《い》ふ迄《まで》もない。然《しか》るに彼《かれ》は何故《なにゆゑ》に、之《これ》を勝家《かついへ》に渡《わた》したる乎《か》。
或《あるひ》は曰《いは》く、秀吉《ひでよし》は勝家《かついへ》の需《もとめ》に應《おう》じ、さらば勝家《かついへ》の義子《ぎし》、勝豐《かつとよ》に讓《ゆづ》らんと申答《まをしこた》へたと。蓋《けだ》し勝豐《かつとよ》は、秀吉《ひでよし》と親善《しんぜん》の間柄《あひだがら》であつたからぢや。何《いづ》れにせよ勝家《かついへ》は、秀吉《ひでよし》と覇《は》を爭《あらそ》ふ底意《そこい》があつたに相違《さうゐ》ない。彼《かれ》は長濱《ながはま》が、越前《ゑちぜん》より京都《きやうと》に出《い》づる咽喉《いんこう》たるが故《ゆゑ》に、之《これ》を得《え》んことを欲《ほつ》したのだ。秀吉《ひでよし》が之《これ》を承知《しようち》の上《うへ》で與《あた》へたのは、彼《かれ》の著眼《ちやくがん》は、大局《たいきよく》にありて、此《かく》の如《ごと》き小問題《せうもんだい》で、勝家《かついへ》と爭《あらそ》ふの、無益《むえき》なるを知《し》つて居《ゐ》たからだ。
當時《たうじ》勝家《かついへ》の態度《たいど》の、頗《すこぶ》る穩當《をんたう》を缺《か》きたることは、
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例《いつも》のくせなれば、柴田勝家《しばたかついへ》道《みち》に兵《へい》を匿《かく》し、秀吉《ひでよし》を討《う》つべきと、ひそかに告《つげ》ければ、引違《ひきちがへ》津島《つしま》に赴《おもむ》き、まし江《え》いもらの渡《わた》りをして、美濃國長松《みののくにながまつ》と云所《いふところ》に一|夜《や》明《あか》し、夜《よ》をかけて爰《こゝ》に出《い》で、長濱《ながはま》の城《しろ》に至給《いたりたま》ふ。〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れは前掲《ぜんけい》、川角太閤記《かはかくたいかふき》の所記《しよき》と同《おな》じからざるも、勝家《かついへ》が秀吉《ひでよし》に對《たい》して、禍心《くわしん》を包藏《はうざう》したる事《こと》は、何《いづ》れにしても一|致《ち》して居《を》る。
兎《と》にも角《かく》にも清洲會議《きよすくわいぎ》は、宛《あたか》も鴻門《こうもん》の會《くわい》の如《ごと》く、秀吉《ひでよし》に取《と》りては、危險《きけん》千|萬《ばん》の會《くわい》であつたに相違《さうゐ》ない。而《しか》して彼勝家《かれかついへ》も亦《ま》た、自《みづ》から頗《すごぶ》る疑惧《ぎぐ》する所《ところ》があつた。彼《かれ》は其《そ》の歸路《きろ》に於《おい》て、當惑《たうわく》した。
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柴田勝家《しばたかついへ》、越前《ゑちぜん》へ歸《かへ》らんとするに、長濱《ながはま》の附近《ふきん》を通《とほ》らんこと危《あやふ》しと云《いひ》あへりければ、美濃《みの》の垂井《たるゐ》と云所《いふところ》にたゆたひて、通《とほ》り得《え》ざりけり。秀吉《ひでよし》聞《きゝ》て討《うつ》べきいはれなし、おそれず通《とほ》り給《たま》ふべし。覺束《おぼつか》なくば養子次丸《やうしつぎまる》(信長の子秀勝、或は信勝と稱す。)[#「(信長の子秀勝、或は信勝と稱す。)」は1段階小さな文字]を送《おく》らすべしとて、出《いだ》し給《たま》へば、勝家《かついへ》心《こゝろ》おちゐ、次丸《つぎまる》を木下邊《きのもとへん》まで具《ぐ》して、越前《ゑちぜん》へ歸《かへ》り、秀吉《ひでよし》も上洛《じやうらく》し給《たま》へり。〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]
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斯《か》くて柴田《しばた》、羽柴《はしば》、丹羽《には》、池田《いけだ》の四|將《しやう》、各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》其《そ》の吏《り》を京都《きやうと》に措《お》いて、庶政《しよせい》を宰《さい》せしめたが。秀吉《ひでよし》は、敢《あへ》て姫路《ひめぢ》に歸休《ききう》せず、城《しろ》を山崎《やまざき》に築《きづ》き─|寶寺城《たからでらじやう》と云《い》ふ、工事中《こうじなか》ばにして止《や》む─|常《つね》に京都《きやうと》にありて、專《もつぱ》ら其任《そのにん》に膺《あた》りたれば、中央《ちゆうあう》の政權《せいけん》は、自《おのづ》から全《まつた》く秀吉《ひでよし》一|人《にん》に歸《き》するの姿《すがた》となつた。十|月《ぐわつ》三|日《か》、朝廷《てうてい》は秀吉《ひでよし》の功《こう》を賞《しやう》して、從《じゆ》五|位下《ゐげ》に叙《じよ》し、左近衞少將《さこんゑせうしやう》に任《にん》ぜられた。始《はじ》め右近衞中將《うこんゑちゆうじやう》との御沙汰《ごさた》があつたが、秀吉《ひでよし》は特《とく》に之《これ》を辭《じ》した。秀吉《ひでよし》の武勳《ぶくん》は、既《すで》に九重《こゝのへ》をも動《うごか》した。此《かく》の如《ごと》くして天下《てんか》の大勢《たいせい》は、暗旋默移《あんせんもくい》、駸々乎《しん/\こ》として秀吉《ひでよし》に趨《おもむ》いた。秀吉《ひでよし》が天下人《てんかびと》となるは、只《た》だ時日《じじつ》の問題《もんだい》となつた。
[#5字下げ][#中見出し]【二八】信長の葬儀(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]
秀吉《ひでよし》は確《たし》かに其《そ》の大經《たいけい》、大綸《たいりん》に於《おい》て、信長《のぶなが》の衣鉢《いはつ》を相續《さうぞく》した。彼《かれ》が誰《たれ》よりも先《さ》きに、中央《ちゆうあう》の舞臺《ぶたい》に乘《の》り込《こ》み、誰《たれ》よりも長《なが》く、中央《ちゆうあう》の舞臺《ぶたい》を占領《せんりやう》したる機轉《きてん》と、手際《てぎは》とは、信長《のぶなが》の一|子相傳《しさうでん》と云《い》うても、差支《さしつかへ》あるまい。彼《かれ》が天正《てんしやう》十|年《ねん》十|月《ぐわつ》三|日附《かづけ》を以《もつ》て、從《じゆ》五|位下《ゐげ》(或は從五位上とも云ふ。)[#「(或は從五位上とも云ふ。)」は1段階小さな文字]左近衞少將《さこんゑせうしやう》に敍任《じよにん》せらるゝや、朝廷《てうてい》よりは、左近衞中將藤原慶視《さこんゑちゆうじやうふぢはらよしみ》をして、左《さ》の御沙汰書《ごさたしよ》を給《たま》はつた。
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去《さる》六|月《ぐわつ》二|日《か》、信長父子上洛之所《のぶながふしじやうらくのところ》、|明智日向守企[#二]逆意[#一]討果《あけちひふがのかみぎやくいをくはだてうちはたし》、殊《ことに》二|條御所《でうごしよ》へ亂入事《らんにふのこと》、前代未聞《ぜんだいみもん》、|狼藉無[#二]是非[#一]次第候《らうぜきぜひなきしだいにさふらふ》。然所秀吉《しかるところひでよし》、|爲[#二]西國征敗[#一]《さいこくせいばいとして》、備中城取卷《びつちゆうじやうをとりまき》、|初[#二]城守[#一]雖[#二]對陣候[#一]《じやうしゆをはじめたいぢんさふらふといへども》、|不[#レ]移[#二]時日[#一]馳上《じじつをうつさずはせのぼり》、明智《あけちの》一|類悉追伐《るゐこと/″\くつゐばつして》、天下泰平《てんかたいへい》に申付候段《まをしつけさふらふだん》、|完古今稀有之武勇如[#レ]之哉《まつたくここんけうのぶゆうこれにしかんや》、因茲官意之儀《よつてこゝにくわんいのぎ》、|度々雖[#レ]爲[#二]仰出[#一]辭退候《たび/\おほせいださるゝといへどもじたいさふらふ》。|爲[#二]後代[#一]候條《こうだいのためにさふらふでう》、昇殿《しようでん》、|並敍[#二]爵少將[#一]之儀《ならびにせうしやうにじよしやくのぎ》、|所[#レ]被[#二]仰下[#一]也《おほせくださるゝところなり》。|仍執達如[#レ]件《よつてしつたつくだんのごとし》。
[#ここで字下げ終わり]
[#3字下げ]天正十年十月三日[#地から3字上げ]左中將
[#7字下げ]羽柴筑前守殿
同時《どうじ》に甘露寺大納言《かんろじだいなごん》をして、口宣案《くせんあん》を賜《たま》はつた。秀吉《ひでよし》が此《かく》の如《ごと》く、寵榮《ちようえい》を辱《かたじけな》くしたるは、畢竟《ひつきやう》中原《ちゆうげん》の大舞臺《だいぶたい》に於《おい》て、大立者《おほだてもの》たる位地《ゐち》を、占《し》めたるが爲《た》めである。占《し》めつゝある證據《しようこ》でもある。何《いづ》れにしても、信長《のぶなが》の死後《しご》、未《いま》だ半歳《はんさい》ならざるに、其《そ》の相續者《さうぞくしや》は、事實《じじつ》に於《おい》て、殆《ほと》んど秀吉《ひでよし》と定《さだま》つた。
茲《こゝ》に秀吉《ひでよし》が、信長《のぶなが》の相續者《さうぞくしや》であることを、事實《じじつ》の上《うへ》にて、證明《しようめい》すべき出來事《できごと》がある。そは彼《かれ》が自《みづ》から率先《そつせん》して、信長《のぶなが》の葬儀《さうぎ》を營《いとな》んだ事《こと》だ。此《これ》に關《くわん》しては、川角太閤記《かはかくたいかふき》は、如何《いか》にも面白《おもしろ》き話《はなし》を傳《つた》へて居《ゐ》る。その要領《えうりやう》は左《さ》の如《ごと》しだ。
柴田《しばた》は清洲會議《きよすくわいぎ》(川角太閤記は岐阜會議と云うて居る。)[#「(川角太閤記は岐阜會議と云うて居る。)」は1段階小さな文字]にて、秀吉《ひでよし》に切腹《せつぷく》せしむる企《くはだて》が破《やぶ》れて、無念《むねん》やる方《かた》なく、何《なん》とかして秀吉《ひでよし》を誘《いざな》ひ出《いだ》し、其《そ》の目的《もくてき》を果《はた》すべく、信長《のぶなが》の葬儀《さうぎ》に事寄《ことよ》せて、秀吉《ひでよし》を誘《いざな》うた。秀吉《ひでよし》は其裏《そのうら》をかき、故《ことさ》らに時日《じじつ》を遷延《せんえん》せしむ可《べ》く、新《あら》たに寺院《じゐん》を設《まう》くる事《こと》、信長《のぶなが》の木像《もくざう》を作《つく》る事《こと》を提議《ていぎ》した。柴田《しばた》は秀吉《ひでよし》を誘出《いうしゆつ》せんとの、底意《そこい》なれば、異存《いぞん》なく其意《そのい》に任《まか》せた。其《そ》の間《あひだ》に、秀吉《ひでよし》は一|切《さい》の對抗準備《たいかうじゆんび》を整《とゝの》へた。
却説《さて》愈《いよい》よ寺院《じゐん》も、木像《もくざう》も出來《しゆつたい》したれば、柴田《しばた》、瀧川《たきがは》、其他《そのた》銘々《めい/\》兵《へい》を引具《ひきぐ》して上京《じやうきやう》した。而《しか》して頻《しき》りに秀吉《ひでよし》の上京《じやうきやう》を待《ま》つた。然《しか》も秀吉《ひでよし》は、其《そ》の催促《さいそく》にも關《くわん》せず、故《ことさ》らに遲延《ちえん》し、却《かへつ》て莫大《ばくだい》の宿札《やどふだ》を拵《こしら》へ、鐵砲大將《てつぱうたいしやう》、弓頭《ゆみがしら》、あらゆる名字《みやうじ》を書《か》き連《つら》ね、大津《おほつ》、八|幡《はた》、伏見《ふしみ》、深草《ふかくさ》、醍醐《だいご》、山科《やましな》、嵯峨等《さがとう》、京都《きやうと》の周圍《しうゐ》に隙間《すきま》もなく打《う》ち※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《めぐ》らしめた。斯《か》くて其《そ》の聲《こゑ》を大《だい》にして、柴田等《しばたら》を驚《おどろ》かし、軈《やが》て二|萬許《まんばかり》の兵《へい》を引率《いんそつ》して、上京《じやうきやう》の途《と》に就《つ》いた。柴田等《しばたら》の入《い》れ置《お》きたる目付共《めつけども》、至急《しきふ》此《こ》の旨《むね》を報告《はうこく》したれば、柴田等《しばたら》は藪蛇《やぶへび》の思《おもひ》をなし、三|法師《ぽふし》を擁《よう》して、信孝《のぶたか》も、柴田《しばた》も、敗軍《はいぐん》の體《てい》にて、岐阜《ぎふ》に逃《に》げ戻《もど》つた。秀吉《ひでよし》は其跡《そのあと》より悠々《ゆう/\》と入京《にふきやう》し、更《さ》らに信孝《のぶたか》、柴田等《しばたら》に催告状《さいこくじやう》を發《はつ》し、其《そ》の上洛《じやうらく》を促《うなが》した。然《しか》も彼等《かれら》は、何等《なんら》の返答《へんたふ》を與《あた》へなかつた。否《い》な彼等《かれら》は面目《めんぼく》なくして、與《あた》へ得《え》なかつたのだ。此《こゝ》に於《おい》て京都《きやうと》は、秀吉《ひでよし》の獨舞臺《ひとりぶたい》となり、彼《かれ》の思《おも》ふ儘《まゝ》に、獨力《どくりよく》にて信長《のぶなが》の葬儀《さうぎ》を營《いとな》んだ。
以上《いじやう》は洵《まこと》に興味《きようみ》ある物語《ものがたり》だが、此《こ》れは恐《おそ》らく小説《せうせつ》であらう。
(第《だい》一)秀吉《ひでよし》は七|月《ぐわつ》清洲會議《きよすくわいぎ》の後《のち》、長濱《ながはま》を經《へ》て入京《にふきやう》し、爾來《じらい》山崎《やまざき》の寶寺《たからでら》に寓《ぐう》して、京都《きやうと》に往來《わうらい》し、遂《つ》ひに姫路《ひめぢ》に還《かへ》るに遑《いとま》なかつた。(第《だい》二)柴田《しばた》も、信孝《のぶたか》も、何《いづ》れも、其《そ》の分國《ぶんこく》にありて、遂《つ》ひに入洛《じゆらく》せなかつた。(第《だい》三)信長《のぶなが》の葬儀《さうぎ》は、全《まつた》く秀吉《ひでよし》の發意《ほつい》で、又《ま》た秀吉《ひでよし》之《これ》を營《いとな》み、信孝《のぶたか》や、柴田等《しばたら》は、當初《たうしよ》より何等《なんら》干係《かんけい》はなかつた。
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十|月《ぐわつ》十|日比《かごろ》より、信長卿《のぶながきやう》の葬《はうむ》りのみわざ營《いとな》まん事《こと》を、秀吉《ひでよし》催《もよほ》し給《たま》へり。さきに先《まづ》總見院《そうけんゐん》と云《いふ》寺《てら》を、都《みやこ》の北《きた》紫野《むらさきの》に作《つく》り給《たま》ふ。信雄《のぶを》、信孝《のぶたか》は云《いふ》に及《およ》ばず、柴田《しばた》、丹羽《には》、池田《いけだ》など有《あり》けれども、葬《とむらひ》の心《こゝろ》ざしなかりしに、秀吉《ひでよし》かく執行給《とりおこなひたま》ふ。尊靈《そんれい》もよろこび給《たま》ふべしとぞ覺《おぼ》ゆ。
[#ここで字下げ終わり]
と『豐鑑《ほうかん》』に記《しる》したるは、全《まつた》く記實《きじつ》の文字《もんじ》にして、又《また》自《おのづ》から春秋《しゆんじう》の筆法《ひつぱふ》を得《え》たものぢや。
[#5字下げ][#中見出し]【二九】信長の葬儀(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]
大村由己《おほむらいうき》の『惟任退治記《これたふたいぢき》』に曰《いは》く、
[#ここから1字下げ]
|秀吉所[#レ]生《ひでよしのうまるゝところ》、|元是非[#レ]貴《もとこれたふときにあらず》。然將軍推擧《しかるにしやうぐんのすゐきよ》、|蒙[#二]御恩惠[#一]事《ごおんけいをかうむること》、|曾以無[#二]其比類[#一]《かつてもつてそのひるゐなし》。剩相公第五男御次丸《あまつさへしやうこうのだいごなんおつぎまる》、|爲[#二]猶子[#一]被[#レ]下處也《いうしとしてくださるゝところなり》。然者秀吉《さらばひでよし》、同胞合體之侍也《どうぱうがつたいのさむらひなり》。|不[#レ]可[#レ]無[#二]御葬禮[#一]《ごさうれいなかるべからず》。|乍[#レ]去歴々年寄衆《さりながられき/\のとしよりしゆう》、|殊御連枝多[#レ]之《ことにごれんしこれおほく》、|依[#レ]之《これによつて》一|端省[#二]其憚[#一]《たんそのはゞかりをかへりみ》、|至[#二]十月[#一]不[#レ]行[#二]法事[#一]《じふぐわつにいたるもほふじをおこなはず》。|猶以思[#レ]之《なほもつてこれをおもふに》、昨友今日怨讎《さくのともこんにちのゑんしう》、昨花今日塵埃《さくのはなこんにちのぢんあい》、|有[#レ]誰期[#二]來日[#一]乎《たれあつてからいにちをきせんや》。|誠至[#二]下劣貧士貧女[#一]《まことにげれつのひんしひんによにいたるまで》、|非[#下]無[#二]其弔志[#一]者[#上]《そのてうしなきものあらず》、|况於[#二]人君[#一]乎《いはんやじんくんにおいてをや》。|今不[#レ]相[#二]勤之[#一]《いまにしてこれをあひつとめずんば》、千變萬化《せんぺんばんくわ》、|不[#レ]可[#レ]量[#レ]之《これをはかるべからず》。仍《よつて》十|月初《ぐわつはじめ》、|於[#二]紫野龍寳山大徳寺[#一]《むらさきのりゆうはうざんだいとくじにおいて》、|催[#二]一七日法事[#一]《いちしちにちのほふじをもよほす》。
[#ここで字下げ終わり]
とある。此《こ》れは恰《あたか》も、秀吉《ひでよし》の云《い》はんと欲《ほつ》する所《ところ》を、道破《だうは》したものぢや。乃《すなは》ち秀吉《ひでよし》は、信長公《のぶながこう》の恩誼《おんぎ》を辱《かたじけな》うし、義坐視《ぎざし》す可《べ》きでないが、連枝方《れんしがた》や、歴々《れき/\》の年寄衆《としよりしゆう》の手前《てまへ》もあれば、此迄《これまで》は差控《さしひか》へて居《ゐ》たのだ。然《しか》も十|月《ぐわつ》にもなりて、誰一人《たれひとり》之《これ》を營《いとな》まんとする者《もの》なきに於《おい》ては、最早《もはや》一|刻《こく》も遷延《せんえん》す可《べ》きでないと云《い》うのだ。
正親町天皇《あふぎまちてんわう》は、此《こ》の機會《きくわい》に於《おい》て、御宸翰《ごしんかん》を賜《たま》ひ、信長《のぶなが》に從《じゆ》一|位《ゐ》、太政大臣《だいじやうだいじん》を贈位《ぞうゐ》、贈官《ぞうくわん》あらせらる。此《こゝ》に於《おい》て信長《のぶなが》を諡《おくりな》して總見院殿贈大相國《そうけんゐんでんそうだいしやうこく》一|品《ぽん》、泰巖大居士《たいがんだいこじ》と云《い》ふ。其《そ》の宣命《せんみやう》に曰《いは》く、
[#ここから1字下げ]
|天皇[#(我)]《すめらが》|詔旨[#(良方止)]《みことのらまくと》故右大臣《もとのうだいじん》|正二位平朝臣信長[#(爾)]《しやうにゐたひらのあそんのぶながに》|詔[#(倍止)]《のらへと》|勅命[#(乎)]《みことのりを》衆《もろ/\》|聞食[#(止)]《きこしめせと》宣《のる》。|策[#二]一人扶翼之功[#一]《いちにんふよくのこうをはかり》、|數[#二]萬邦鎭撫之徳[#一][#(須)]《ばんぱうのちんぶのとくをます》允《まことに》|惟朝[#(乃)]《いてうの》重臣《ぢゆうしん》|中興良士[#(奈利止)]《ちゆうこうのりやうしなりと》|慮[#(志爾)]《おもはししに》|不[#レ]量[#(爾)]《はからざるに》天運《てんうん》|相極[#(※[#「低のつくり」、第3水準1-86-47])]《きはまりて》惟命《これめい》空《むなしく》|逝[#(奴)]《ゆきぬ》|昨[#(者)]《きのふは》|旌旗[#(乎)]《せいきを》|輝[#二]東海[#一][#(志)]《とうかいにかゞやかし》今者《いまは》|晏駕[#(乎)]《あんがを》|馳[#二]西雲[#一][#(須)]《さいうんにはす》爰《こゝに》|贈[#二]崇號[#一][#(※[#「低のつくり」、第3水準1-86-47])]《さうがうををくりて》|照[#二]冥恪[#一][#(古止者)]《めいかくをてらすことは》先王之令典《せんわうのれいてん》、|歴代之恒規[#(多利)]《れきだいのこうきたり》故《かるがゆゑに》是以《こゝをもつて》重而《かさねて》|太政大臣從一位[#(爾)]《だいじやうだいじんじゆいちゐに》|上給[#(比)]賜[#(布)]《のぼせたまひたまふ》|天皇[#(我)]《すめらが》|勅命[#(乎)]《みことのりを》|遠聞[#(止)]《とほくきけと》宣《のる》。
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信長《のぶなが》としては、惟朝《ゐてう》の重臣《ぢゆうしん》、中興《ちゆうこう》の良士《りやうし》の宣命《せんみやう》、洵《まこと》に身《み》に餘《あま》る光榮《くわうえい》ぢや。而《しか》して、秀吉《ひでよし》も亦《ま》た、全力《ぜんりよく》を傾《かたむ》けて、此《こ》の葬儀《さうぎ》を莊嚴《さうごん》にした。
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十一|日《にち》より御《おん》わざ始《はじま》り、樣々《さま/″\》に尊《たふ》とき限《かぎり》盡《つく》し給《たま》ふ。十|刹《さつ》の僧《そう》ども、經《きやう》を捧《さゝ》げ諷經《ふうきん》をなせり。十五|日《にち》には野邊《のべ》の送《おく》りの御《おん》わざ始《はじま》り、蓮臺野《れんだいの》に火屋《ほや》れいがんたうなどいかめしく作《つく》り、まはりに竹垣《たけがき》をゆへり。大徳寺《だいとくじ》より蓮臺野《れんだいの》まで、道《みち》の警固《けいご》きびしく、武士《ぶし》どもかためたり。弟《おとうと》美濃守秀長《みののかみひでなが》奉行《ぶぎやう》をなせり。棺槨《くわんくわく》のよそほひ、金繍《きんしう》をかざり、玉《たま》のやうらくをかがやかせり。ながえのさきは、池田古新《いけだこしん》(輝政)[#「(輝政)」は1段階小さな文字]跡《あと》をば次丸《つぎまる》(秀勝)[#「(秀勝)」は1段階小さな文字]これをかく。〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]
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又《ま》た惟任退治記《これたふたいぢき》には、
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|就[#レ]中《なかんづく》十五|日《にち》、御葬禮之作法《ごさうれいのさはふ》、|所[#レ]驚[#レ]目也《めをおどろかすところなり》。|先棺槨以[#二]金紗金襴[#一]裹[#レ]之《まづくわんくわくはきんしやきんらんをもつてこれをつゝみ》、軒之瓔珞《のきのやうらく》、欄干之擬寳珠《らんかんのぎぼしゆ》、|皆鏤[#二]金銀[#一]《みなきん/″\をちりばめ》、八|角之楹畫[#二]丹青[#一]《かくのはしらたんせいをゑがき》、八|軒之間到[#二]彩飾[#一]《けんのあひださいしよくをいたし》。|御骨以[#二]沈香[#一]《おんこつはぢんかうをもつて》、|彫[#二]刻佛像[#一]《ぶつざうをてうこくして》、|奉[#二]納棺槨之中[#一]《くわんくわくのうちにはうなふし》。彼蓮臺野《かのれんだいの》、|續[#二]路中[#一]《ろちゆうにつゞき》、|有[#二]方百二間之火屋[#一]《はうひやくにけんのほやあり》、方形造之堂《はうけいづくりのだう》、|總廻[#レ]結[#レ]埒《すべてらちをゆひめぐらし》。羽柴小《はしばこ》一|郎秀長爲[#二]警固之大將[#一]自[#二]大徳寺[#一]《らうひでながけいごのたいしやうとしてだいとくじより》千五百|軒之間《けんのあひだ》、警固之侍《けいごのさむらひ》、三|萬許《まんばかり》、|守[#二]護路之左右[#一]《みちのさいうをしゆごし》、|立[#二]續弓箙鑓鐵炮[#一]《ゆみえびらやりてつぱうをたてつゞけ》。葬禮之場《さうれいのば》、秀吉分國之徒黨《ひでよしぶんこくのとたうは》、|不[#レ]及[#レ]言[#レ]之《これをいふにおよばず》、諸侍悉皆馳集《しよさむらひこと/″\くみなはせあつまり》、其外見物之輩《そのほかけんぶつのやから》、|貴賤如[#二]雲霞[#一]《きせんうんかのごとし》。|御輿前轅池田古新輝政舁[#レ]之《おんこしまへながえはいけだこしんてるまさこれをかき》、|後轅羽柴於次丸秀勝舁[#レ]之《あとながえははしばおつぎまるひでかつこれをかき》、|御位牌御太刀秀吉持[#レ]之《おんゐはいおんたちはひでよしこれをもつ》、彼不動國行也《かのふどうくにゆきなり》。西行相聯者《さいぎやうあひつらなるもの》、三千|餘人《よにん》、|皆著[#二]烏帽子藤衣[#一]《みなゑぼしふぢごろもをつく》。|始[#二]于五岳[#一]洛中洛外禪律《ごがくにはじまりらくちゆうらくぐわいのぜんりつ》、八|宗《しゆう》九|宗之僧侶《しゆうのそうりよ》、|不[#レ]知[#二]幾千萬[#一]《いくせんまんなるをしらず》、|其宗々調[#二]威儀[#一]《そのしゆう/\ゐぎをとゝのへ》、叉手問訊《さしゆもんじん》、集會行道《しふゑぎやうだう》、|五色天蓋輝[#レ]日《ごしきのてんがいひにかゞやき》、|一樣幢旛翻[#レ]風《いちやうのどうばんかぜにひるがへり》、|沈木烟如[#レ]雲《ぢんぼくのけむりくものごとく》、|灯明光似[#レ]星《とうみやうのひかりほしにゝたり》。供具盛物《くぐのもりもの》、龍足造花《りゆうそくのざうくわ》、|作[#二]七寳莊嚴[#一]《しちはうさうごんをなす》、寔九品淨土《まことにくほんのじやうど》、五百阿羅漢《ごひやくあらかん》、三千|佛弟子《ぶつでし》、|如[#レ]在[#二]目前[#一]矣《もくぜんにあるがごとし》。
佛事役者《ぶつじやくしや》 鎖龕《さがん》、宗悦怡雲大和尚《そうえついうんだいをしやう》。掛眞《くわしん》、宗※[#「王+秀」、第3水準1-88-1]玉仲大和尚《そうしうぎよくちゆうだいをしやう》。記龕《きがん》、宗陳古溪和尚《そうちんこけいをしやう》。念誦《ねんじゆ》、宗園春屋和尚《そうゑんしゆんをくをしやう》。奠湯《てんたう》、宗哲明寂和尚《そうてつみやうじやくをしやう》。奠茶《てんちや》、宗洞仙岳和尚《そうどうせんがくをしやう》。拾骨《しふこつ》、宗紋竹澗和尚《そうもんちくかんをしやう》。秉炬《ひんこ》、宗訴笑嶺和尚《そうきんせうれいをしやう》。
偈曰《げにいはく》
四十九|年《ねん》夢《ゆめ》一|場《ぢやう》、|威名説[#二]什麼存亡[#一]《ゐめいいかんかそんばうをとかん》。請看火裡烏曇鉢《こふみよくわりのうどんばつ》。|吹作[#二]梅花[#一]遍界香《ふいてばいくわとなつてへんかいにかんばし》。
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如何《いか》にも非常《ひじやう》、大仕掛《おほじかけ》の葬式《さうしき》であつた。此《こ》の偈辭《げじ》は、信長《のぶなが》其《そ》の人《ひと》に尤《もつとも》も相應《さうおう》した文字《もんじ》だ。信長《のぶなが》の一|生《しやう》は、四十九|年《ねん》の夢《ゆめ》と消《き》えずして、吹《ふ》いて梅花《ばいくわ》となりて、遍界《へんかい》に香《かんば》しい。彼《かれ》が著手《ちやくしゆ》した、日本統一《にほんとういつ》の事業《じげふ》は、其《そ》の皇室中心主義《くわうしつちゆうしんしゆぎ》と與《とも》に今日迄《こんにちまで》も香《かんば》しく馨《かを》りて居《を》る。
要《えう》するに此《こ》の葬儀《さうぎ》は、或《あ》る意味《いみ》に於《おい》ては、秀吉《ひでよし》の京洛《きやうらく》に於《お》ける、一|大示威運動《だいじゐうんどう》であつた。他《た》の意味《いみ》に於《おい》ては、信長《のぶなが》の跡相續《あとさうぞく》の、一|大廣告《だいくわうこく》であつた。信長《のぶなが》の二|子《し》信雄《のぶを》、信孝《のぶたか》や、柴田《しばた》、瀧川等《たきがはら》が、地方《ちはう》に於《おい》て、何《なに》や斯《か》やに取紛《とりまぎ》れて、齷齪《あくさく》しつゝ在《あ》る間《あひだ》に、秀吉《ひでよし》は時々刻々《じゝこく/\》、其《そ》の爲《な》す可《べ》き事《こと》を爲《な》しつゝあつた。秀吉《ひでよし》は青錢《あをせん》一|萬貫《まんぐわん》、白米《はくまい》一千|石《ごく》を大徳寺《だいとくじ》に施《ほどこ》し、又《ま》た大徳寺《だいとくじ》に於《おい》て、總見院《そうけんゐん》を建立《こんりふ》し、銀《ぎん》千百|枚《まい》を其《そ》の經始《けいし》の費《ひ》に供《きよう》し、五十|石《こく》の寺領《じりやう》を寄附《きふ》し、別《べつ》に一千|貫《ぐわん》の太刀代《たちだい》を與《あた》へた。彼《かれ》が如何《いか》に此《こ》の葬儀《さうぎ》の爲《た》めに、其力《そのちから》を竭《つく》したるかは、此《こ》れにても其《そ》の一|斑《ぱん》を知《し》ることが能《あた》ふ。
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