第五章 山崎合戰の顛末
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[#4字下げ][#大見出し]第五章 山崎合戰の顛末[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【一八】山崎合戰(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

討伐軍《たうばつぐん》は、秀吉《ひでよし》指揮《しき》の下《もと》に、十二|日《にち》高山《たかやま》、中川《なかがは》を先鋒《せんぽう》とし、池田《いけだ》之《これ》に次《つ》ぎ、各《おの/\》山崎方位《やまざきはうゐ》に前進《ぜんしん》し、其《そ》の斥候《せきこう》は、勝龍寺《しようりゆうじ》の西《にし》に到《いた》り、銃《じゆう》を放《はな》ち、附近《ふきん》村落《そんらく》を火《や》き。高山《たかやま》、中川《なかがは》兩隊《りやうたい》は、山崎《やまざき》に屯《たむろ》し、池田以下《いけだいか》、秀吉《ひでよし》の諸隊《しよたい》は、天神馬場《てんじんばば》、芥川《あくたがは》の間《あひだ》に宿營《しゆくえい》し、秀吉《ひでよし》は富田《とだ》に次《じ》し、使《つかひ》を大阪《おほさか》に派《は》し、明日《みやうにち》山崎附近《やまざきふきん》にて、光秀《みつひで》と決戰《けつせん》する旨《むね》を信孝《のぶたか》、長秀《ながひで》に告《つ》げ、其《そ》の來會《らいくわい》を促《うなが》した。
十二|日《にち》に於《お》ける、討伐軍《たうばつぐん》の兵數《へいすう》を略記《りやくき》すれば、第《だい》一|隊《たい》の高山《たかやま》二千|人《にん》、第《だい》二|隊《たい》の中川《なかがは》二千五百|人《にん》、第《だい》三|隊《たい》の池田信輝《いけだのぶてる》(十二日剃髮勝入と號す)[#「(十二日剃髮勝入と號す)」は1段階小さな文字]四千|人《にん》、豫備隊《よびたい》として秀吉《ひでよし》の兵《へい》一|萬人《まんにん》であつた。而《しか》して翌《よく》十三|日《にち》の午後《ごご》に至《いた》り、蜂屋隊《はちやたい》一千|人《にん》、丹羽隊《にはたい》三千|人《にん》、信孝隊《のぶたかたい》四千|人《にん》を加《くは》へ、總計《そうけい》二|萬《まん》六千五百|人計《にんばか》りとなつた。
飜《ひるがへ》つて十三|日《にち》に於《お》ける、明智軍《あけちぐん》を見《み》れば、第《だい》一|隊《たい》は齋藤利三《さいとうとしかず》の二千|人《にん》、第《だい》二|隊《たい》は阿閉貞明《あべさだあき》、明智茂朝等《あけちしげともら》の三千|人《にん》。豫備隊《よびたい》の中央《ちゆうあう》には、光秀《みつひで》五千|人《にん》を率《ひき》ゐ、其《そ》の右翼《うよく》には、藤田行政《ふぢたゆきまさ》、伊勢貞興等《いせさだおきら》二千|人《にん》、左翼《さよく》には、津田信春《つだのぶはる》、村上清國等《むらかみきよくにら》二千|人《にん》。而《しか》して別《べつ》に山《やま》の手《て》支隊《したい》並河易家《なみかはやすいへ》、松田政近等《まつだまさちから》二千|人《にん》、合計《がふけい》一|萬《まん》六千|人計《にんばか》りであつた。
前《まへ》にも陳《の》べたる如《ごと》く、高山《たかやま》、中川等《なかがはら》は已《すで》に山崎驛《やまざきえき》に宿營《しゆくえい》し、明智軍《あけちぐん》も、齋藤《さいとう》、阿閉《あべ》、明智茂朝等《あけちしげともら》は、十三|日《にち》の朝《あさ》、山崎驛《やまざきえき》の東方《とうはう》圓明寺川附近《ゑんみやうじがはふきん》に來《きた》り屯《たむろ》し、兩軍《りやうぐん》の先頭《せんとう》は、既《すで》に接觸《せつしよく》して居《ゐ》たが、午後《ごご》に至《いた》るも、互《たが》ひに滿《まん》を持《ぢ》して、戰鬪《せんとう》を開始《かいし》せなかつた。秀吉《ひでよし》は十三|日《にち》(陽暦七月十二日)[#「(陽暦七月十二日)」は1段階小さな文字]正午《しやうご》、信孝《のぶたか》の大阪《おほさか》より來《きた》れるを淀川《よどがは》に迎《むか》へ、相伴《あひともな》うて午後《ごご》四|時頃《じごろ》、山崎《やまざき》に到著《たうちやく》し、諸隊《しよたい》に向《むか》つて、進撃《しんげき》の號令《がうれい》を下《くだ》した。此《こゝ》に於《おい》て高山《たかやま》、中川等《なかがはら》は街道《かいだう》より、池田《いけだ》は淀川右岸《よどがはうがん》の細徑《さいけい》より、豫備隊《よびたい》の一|部《ぶ》たる、羽柴秀長等《はしばひでながら》は、天王山附近《てんわうざんふきん》より前進《ぜんしん》した。
秀吉《ひでよし》は其士《そのし》加藤光泰《かとうみつやす》の隊《たい》を、右翼《うよく》なる池田隊《いけだたい》に、堀秀政《ほりひでまさ》の隊《たい》を、中央《ちゆうあう》なる高山中川隊《たかやまなかがはたい》に加《くは》へ、自《みづ》から豫備隊《よびたい》を率《ひき》ゐて、信孝《のぶたか》、長秀等《ながひでら》の兵《へい》と共《とも》に進《すゝ》んだ。
明智軍《あけちぐん》は死物狂《しにものぐる》ひであつた。齋藤《さいとう》、阿閉等《あべら》の兩隊《りやうたい》は突進《とつしん》して、高山隊《たかやまたい》と相撃《あひう》ち、其勢《そのいきほ》ひ猛烈《まうれつ》を極《きは》めた。中川隊《なかがはたい》は、其《そ》の左方《さはう》に展開《てんかい》して、之《これ》を援《たす》け、堀隊《ほりたい》も亦《ま》た之《これ》に協力《けふりよく》した。齋藤《さいとう》、阿閉《あべ》は、頗《すこぶ》る奮鬪《ふんとう》したが、池田隊《いけだたい》が其《そ》の左側《さそく》を衝《つ》くに※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53]《およ》んで、遂《つひ》に餘儀《よぎ》なく退却《たいきやく》した。
明智軍《あけちぐん》の山《やま》の手支隊《てしたい》は、天王山《てんわうざん》に向《むか》つて驀進《ばくしん》し、此《こ》の形勝《けいしよう》を占領《せんりやう》し、山崎《やまざき》を瞰制《かんせい》せんとした。秀長等《ひでながら》の隊《たい》、之《これ》を邀《むか》へて劇戰《げきせん》し、松田政近以下《まつだまさちかいか》數《す》百|人《にん》を殪《たふ》した。
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光秀方《みつひでかた》よりも、山崎《やまざき》の東町《ひがしまち》のかしら迄《まで》、人數《にんず》を打出《うちいだ》し、互《たがひ》に備《そなへ》をたて候處《さふらふところ》に、山崎松山《やまざきまつやま》へ明智鐵炮大將《あけちてつぱうたいしやう》を、彼松山《かのまつやま》へさし登《のぼ》せし處《ところ》に、はや孫平次《まごへいじ》見出《みいだ》し、件《くだん》のおりかけの目當所《めあてどころ》へ、引《ひき》かけしばしかためて、五|匁《もんめ》すはひを、孫平次《まごへいじ》能時分《よきじぶん》と計《はから》ひ、眞中《まんなか》とおぼしき所《ところ》に、孫平次《まごへいじ》鐵炮《てつぱう》をかけ、自身《じしん》討留《うちとめ》たちあがり、ざいをとり、弓手《ゆんで》め手《て》へ言葉《ことば》をかけ、はや打《う》てや者《もの》どもと下知《げち》して、ざいをふりければ、左右《さいう》一|度《ど》につるべかけ、矢先下《やさきさが》りに討掛《うちかけ》ければ、明智方《あけちがた》の鐵炮《てつぱう》は、一|討《うち》もなじかはたまるべき、眞逆樣《まつさかさま》に足並《あしなみ》を立《たて》て敗北《はいぼく》す。
[#地から2字上げ]〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
明智軍《あけちぐん》の豫備隊《よびたい》の兩翼《りやうよく》は、齋藤《さいとう》、阿閉等《あべら》の後《のち》を承《う》け、其《そ》の右翼《うよく》たる伊勢等《いせら》は、討伐軍《たうばつぐん》の高山《たかやま》、中川《なかがは》、堀等《ほりら》の中央隊《ちゆうあうたい》と接戰《せつせん》し、其《そ》の左翼《さよく》たる津田等《つだら》は、池田隊《いけだたい》と接戰《せつせん》し、互《たが》ひに火水《ひみづ》となつて相當《あひあた》つた。然《しか》も討伐軍《たうばつぐん》の兵力《へいりよく》は、漸次《ぜんじ》に戰線《せんせん》に増加《ぞうか》し來《きた》り、伊勢等《いせら》は一たび信孝《のぶたか》の隊《たい》を撃《う》つて、之《これ》を卻《しりぞ》けたが、更《さ》らに中川隊《なかがはたい》が、之《これ》に代《かは》りて奮鬪《ふんとう》し、而《しか》して加藤光泰《かとうみつやす》の一|隊《たい》、亦《ま》た迂回《うくわい》して、久我繩手《くがなはて》より、其《そ》の背面《はいめん》を衝《つ》かんとするに至《いた》り、遂《つひ》に伊勢貞興等《いせさだおきら》將校《しやうかう》數名《すめい》、何《いづ》れも討死《うちじに》した。而《しか》して山《やま》の手《て》支隊《したい》も全《まつた》く敗北《はいぼく》し、並河易家《なみかはやすいへ》以下《いか》數《す》百|人《にん》、何《いづ》れも斃《たふ》れた。明智軍《あけちぐん》右翼隊《うよくたい》の部將《ぶしやう》、御牧兼顯《みまきかねあき》は、戰況《せんきやう》の益※[#二の字点、1-2-22]《ます/\》非《ひ》なるを見《み》、一|軍《ぐん》の全滅《ぜんめつ》を憂《うれ》へ、使《つかひ》を光秀《みつひで》の許《もと》に馳《は》せて、退却《たいきやく》を勸《すゝ》め、自《みづ》から其《そ》の掩護《えんご》の爲《た》めに、殘兵《ざんぺい》二百|餘人《よにん》と踏《ふ》み留《とゞま》り、力戰《りよくせん》して死《し》した。

[#5字下げ][#中見出し]【一九】山崎合戰(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

或《あるひ》は曰《いは》く、此《こ》の戰爭《せんさう》には、信孝《のぶたか》、長秀《ながひで》、蜂屋頼隆等《はちやよりたから》は、參加《さんか》せず、否《い》な池田勝入《いけだしようにふ》さへも、恐《おそ》らくは同然《どうぜん》ならむ。兎《と》も角《かく》も、此《こ》の戰爭《せんさう》は、秀吉《ひでよし》の一|手《て》の戰爭《せんさう》にて、されば川角太閤記《かはかくたいかふき》にも豐鑑《ほうかん》にも、彼等《かれら》の名《な》を逸《いつ》したではない乎《か》と。〔山路愛山豐太閤〕[#「〔山路愛山豐太閤〕」は1段階小さな文字]併《しか》し兩書與《りやうしよとも》に、最《もつと》も戰功《せんこう》の多《おほ》かつた者《もの》の、姓名《せいめい》のみを擧《あ》げたので、必《かなら》ずしも此《こ》の以外《いぐわい》の者《もの》は、一|切《さい》參加《さんか》せなかつたと云《い》ふ、理由《りいう》はあるまい。
乃《すなは》ち秀吉《ひでよし》の祐筆《いうひつ》大村由己《おほむらいうき》の惟任退治記《これたふたいぢき》の如《ごと》きは、『秀吉人數《ひでよしのにんず》、備中《びつちゆう》、備前《びぜん》、|相後者多[#レ]之《あひおくるゝものこれおほし》、|依[#レ]之不[#レ]過[#二]一萬餘騎[#一]《これによりいちまんよきにすぎず》、然皆究竟之精兵也《しかれどもみなくつきやうのせいへいなり》。此外織田《このほかおだ》三七|信孝《のぶたか》、惟住《これずみ》五|郎左衞門尉長秀《ろうざゑもんのじようながひで》、堀久太郎秀政《ほりきうたらうひでまさ》、並攝州之人數《ならびにせつしうのにんず》、相加者也《あひくはゝるものなり》。』と特筆《とくひつ》してあるを見《み》れば、彼等《かれら》が參加《さんか》したのは、決《けつ》して間違《まちがひ》はない。否《い》な、高山《たかやま》、中川《なかがは》の徒《と》は、開戰《かいせん》に逸《はや》りたれども、秀吉《ひでよし》は信孝《のぶたか》の來著《らいちやく》を待《ま》ち受《う》く可《べ》く、十二|日《にち》の夜《よ》を富田《とだ》に過《すご》し、而《しか》して十三|日《にち》の正午頃《しやうごごろ》に、彼《かれ》を淀川《よどがは》に迎《むか》へた。〔秀吉の信孝老臣、齋藤、岡本に與へたる書翰に據る。〕[#「〔秀吉の信孝老臣、齋藤、岡本に與へたる書翰に據る。〕」は1段階小さな文字]此《これ》にて證據《しようこ》は明白《めいはく》だ。
且《か》つ常識《じやうしき》を以《もつ》て判斷《はんだん》しても、如何《いか》に彼等《かれら》自《みづ》から率先《そつせん》して、光秀《みつひで》を討伐《たうばつ》せざるも、秀吉《ひでよし》が討伐軍《たうばつぐん》を率《ひき》ゐて、其《そ》の附近《ふきん》を經過《けいくわ》するに、知《し》らぬ振《ふ》りにて看過《かんくわ》す可《べ》き理由《りいう》は、決《けつ》してある間敷事《まじきこと》ぢや。併《しか》し此《こ》の戰爭《せんさう》が、秀吉《ひでよし》を中心《ちゆうしん》としたる戰爭《せんさう》で、云《い》はゞ|秀吉《ひでよし》一|個《こ》の戰爭《せんさう》と云《い》ふも、差支《さしつかへ》なき程《ほど》であつた事《こと》は、固《もと》より彼等《かれら》の參加《さんか》不參加《ふさんか》の論《ろん》なく、何《いづ》れにしても承認《しようにん》す可《べ》き事《こと》と思《おも》ふ。
        *  *  *  *  *
扨《さて》も光秀《みつひで》は、御坊塚《ごばうづか》に陣取《ぢんどつ》て居《ゐ》たが、遙《はる》かに其軍《そのぐん》の不利《ふり》を見《み》、之《これ》を救《すく》ふ可《べ》く、豫備隊《よびたい》の殘部《ざんぶ》に命《めい》じ、突喊《とつかん》して前進《ぜんしん》せしめた。其《そ》の途中《とちゆう》に於《おい》て、御牧兼顯《みまきかねあき》よりの、退却勸告《たいきやくくわんこく》の使者《ししや》に接《せつ》し、又《ま》た從士《じゆうし》比田則家《ひだのりいへ》が、大勢《たいせい》已《すで》に非《ひ》なり、此上《このうへ》は勝龍寺《しようりゆうじ》を守《まも》るか、夜《よ》に乘《じよう》じて、坂本城《さかもとじやう》に歸《かへ》る可《べ》しとの諫《いさめ》を聞《き》き、遂《つひ》に餘儀《よぎ》なく馬首《ばしゆ》を東北《とうほく》にした。
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秀吉《ひでよし》御馬《おうま》の先手衆《さきてしゆう》、鑓合《やりあはせ》申《まをす》とひとしく、日向守《ひふがのかみ》備《そなへ》つき|被[#レ]崩《くづされ》、一|町許《ちやうばか》り引退《ひきの》く處《ところ》え、又《ま》た先手《さきて》詰懸《つめかけ》戰《たゝか》ひ候處《さふらふところ》へ、秀吉《ひでよし》味方《みかた》もしや|可[#二]押掛[#一]《おしかくべし》とおぼし召《めし》、味方《みかた》の鑓《やり》の石突《いしづき》の|不[#レ]働程《はたらかざるほど》に御馬印《おうまじるし》ふくべを御詰《おんつめ》かけ|被[#レ]成《なされ》、それより又《また》敵《てき》をつきたて候《さふら》へば、御自身《ごじしん》右《みぎ》の如《ごと》く後詰《ごづめ》を|被[#レ]成《なされ》、正龍《しやうりゆう》(勝龍)[#「(勝龍)」は1段階小さな文字]寺《じ》に、少《すこし》かまへのやうなる所《ところ》まで、押込《おしこ》み、そこにて半時《はんとき》ばかりの、戰《たゝかひ》と聞《きこ》え申候《まをしさふらふ》。然《され》ば山《やま》の手《て》の孫平次《まごへいじ》と一つになり、光秀《みつひで》人數《にんず》も、十|文字《もんじ》に|被[#二]掛破[#一]《かけやぶられ》思《おも》ひおもひに散《ちり》/\に罷成候所《まかりなりさふらふところ》に、追討《おひうち》に押《おし》つけ、おひまはし討取申候《うちとりまをしさふらふ》。其後《そのゝち》桂川《かつらがは》へ、おひはめ、川《かは》にての死人《しにん》、數《かず》をつくすと聞《きこ》え申候事《まをしさふらふこと》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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如何《いか》に秀吉《ひでよし》が、自《みづ》から奮鬪《ふんとう》したるかは、味方《みかた》の槍《やり》の石突《いしづき》の働《はたら》かぬ迄《まで》に、其《そ》の瓢《ふくべ》の馬印《うまじるし》を推《お》し進《すゝ》めたと云《い》ふにて判知《わか》る。彼《かれ》は一|寸《すん》一|分《ぶ》の虚隙《きよげき》なき程《ほど》に、其《そ》の先鋒《せんぽう》の後《あと》より押《お》し進《すゝ》んだ。されば光秀《みつひで》の軍《ぐん》は、其《そ》の主將《しゆしやう》の退却《たいきやく》と同時《どうじ》に、全《まつた》く潰亂《くわいらん》し、相從《あひしたが》ふ者《もの》は、七百|餘人《よにん》、在城《ざいじやう》の兵《へい》、及《およ》び敗歸者《はいきしや》を合算《がふさん》するも、一千|餘人《よにん》には過《す》ぎなかつた。而《しか》して自餘《じよ》の敗兵《はいへい》は、皆《みな》路《みち》を爭《あらそ》うて、近江《あふみ》、丹波《たんば》に向《むか》つて走《はし》り、征討軍《せいたうぐん》に追撃《つゐげき》せられ、久我繩手《くがなはて》、及《およ》び老坂附近《おいさかふきん》に死《し》する者《もの》が多《おほ》かつた。此日《このひ》の戰爭《せんさう》に、明智軍《あけちぐん》の死者《ししや》三千|餘人《よにん》、征討軍《せいたうぐん》又《ま》た三千三百|餘人《よにん》、其《そ》の死傷《ししやう》の數《すう》より云《い》へば、以《もつ》て兩軍《りやうぐん》の激戰《げきせん》を知《し》るべしぢや。
勝敗《しようはい》の數《すう》は、戰前《せんぜん》に於《おい》て殆《ほと》んど分明《ぶんみやう》であつた。然《しか》も明智軍《あけちぐん》が、一|切《さい》不利《ふり》の地《ち》を占《し》めつゝ、善《よ》く戰《たゝか》うたのは、光秀《みつひで》が亦《ま》た、部下《ぶか》の士心《ししん》を得《え》たことが判知《わか》る。彼《かれ》は大勢《たいせい》の達觀《たつくわん》に暗《くら》く、大局《たいきよく》の掛引《かけひき》に鈍《にぶ》く、云《い》はゞ|自個《じこ》の怠慢《たいまん》によりて、其《そ》の敗亡《はいばう》を招《まね》いたのだ。小瀬甫菴《こせほあん》さへも、彼《かれ》を評《ひやう》して、
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齋藤内藏助《さいとうくらのすけ》が諫《いさめ》に任《まか》せ、今日《こんにち》の合戰《かつせん》を止《やめ》、坂本《さかもと》に入《い》りて、籠城《ろうじやう》し侍《はべ》らば、事《こと》の外《ほか》むづかしく有《ある》べし。又《また》明智左馬助《あけちさまのすけ》二千|餘騎《よき》を進退《しんたい》せし大將《たいしやう》なるを、安土山《あづちやま》に殘《のこ》し置《おき》し事《こと》、至愚《しぐ》の長《ちやう》ぜるなり。日比《ひごろ》蓄《たくは》へおきし勢《せい》を、一|手《て》になし、心《こゝろ》を一|致《ち》に定《さだ》め、苦戰《くせん》せば、かほどに脆《もろ》くは負《ま》くまじきを、勢《せい》を方々《はう/″\》へ分《わけ》つかはせし事《こと》、以外《もつてのほか》の淺知也《せんちなり》。光秀《みつひで》此比《このごろ》思《おも》ふ所《ところ》の圖《づ》、萬違《よろづちが》ひし事共《ことども》多《おほ》かりしは、|背[#二]天理[#一]《てんりにそむき》し故《ゆゑ》なるべし。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
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と云《い》へる者《もの》、良《まこと》に理《ことわり》ありと云《い》ふ可《べ》し。光秀《みつひで》も恐《おそ》らくは、一|言《ごん》の辯解《べんかい》もあるまい。

[#5字下げ][#中見出し]【二〇】山崎合戰の餘波[#中見出し終わり]

十三|日《にち》の山崎合戰《やまざきかつせん》に、光秀《みつひで》は脆《もろ》くも破《やぶ》れ、午後《ごご》七|時頃《じごろ》、勝龍寺城《しようりゆうじじやう》に遁《のが》れ入《い》つたが、此城《このしろ》は固《もと》より征討軍《せいたうぐん》に對《たい》して、防守《ばうしゆ》するの準備《じゆんび》なく、然《しか》も味方《みかた》は逃亡相接《たうばうあひせつ》し、敵兵《てきへい》は追々《おひ/\》と來《きた》り圍《かこ》み、今《いま》は如何《いかん》ともすべき樣《やう》なく。十三|日《にち》の夜《よ》、深更《しんかう》、漸《やうや》く左右《さいう》數人《すにん》を具《ぐ》して、圍《かこみ》を脱《だつ》し、坂本城《さかもとじやう》に赴《おもむ》く可《べ》く、間道《かんだう》を取《と》り、伏見《ふしみ》の北《きた》を過《す》ぎ、大龜谷《おほかめだに》より小栗栖《をぐるす》を通過中《つうくわちゆう》、土寇《どこう》の要撃《えうげき》に遭《あ》ひ、槍《やり》に刺《さ》されて死《し》した。時《とき》に年《とし》五十五であつた。
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親《した》しき從者《ずさ》五六|人《にん》具《ぐ》して、城《しろ》を紛出《まぎれいで》坂本城《さかもとじやう》の館《やかた》へぞ落行《おちゆき》ける。常《つね》に人通《ひとかよ》ふ道《みち》は自《みづか》ら咎《とが》むることもやと、道《みち》を替《かへ》て伏見《ふしみ》の北《きた》、大龜谷《おほかめだに》に掛《かゝ》り、山中《さんちゆう》にて物具《もののぐ》をば脱《ぬ》ぎ捨《すて》、勸修寺《くわんしうじ》を過《すぎ》、小栗栖《をぐるす》を通《とほ》りしに、野伏共《のぶせども》の聲《こゑ》して、夜更《よふけ》馬《うま》の音《おと》するは、如何樣《いかやう》にも落人《おちうど》にこそあらめ、いざ物具《ものゝぐ》とらんといふ者《もの》あり。よしなしといふものあり。水無月《みなづき》十三|日《にち》、月《つき》はたけ登《のぼ》りぬれど、いたう曇《くも》りてくらかりけり。里《さと》の中道《なかみち》の細《ほそ》きを歩行《あゆみゆく》に、垣越《かきごし》に突《つき》ける鑓《やり》、明智光秀《あけちみつひで》が脇《わき》にあたりぬ、されどさらぬ體《てい》にて掛通《かけとほ》りて、三|町許《ちやうばか》りゆき、里《さと》のはづれにて馬《うま》よりころび落《おち》けり。隨《したが》ひし者《もの》立《たち》より、こはいかにといふに、里《さと》の中《なか》の野伏《のぶせり》の聲《こゑ》にて、突《つ》き出《いだ》せし鑓《やり》あたりぬ。其《それ》にていはゞ|野伏《のぶせり》も猶《なほ》慕《した》ひ來《く》べきと思《おも》ひ、さらぬ樣《さま》にて、是《これ》まで過《すぎ》ぬ。今《いま》は行《ゆく》べき樣《やう》にもあらず、首《くび》を切《きつ》て顏《かほ》を深《ふか》くかくすべしと絶入《たえいり》たり。さわぎけれども爲方《せんかた》なし、いひしに任《まか》せ、首《くび》を切《きつ》て乘《のり》たる馬《うま》の鞍覆《くらおほひ》に包《つゝみ》、道《みち》より一|町計《ちやうばか》り傍《かたはら》なる藪《やぶ》のしげれる溝《みぞ》にかくし、死骸《むくろは》人《ひと》の見知《みしる》べきにあらねばとて、道《みち》の少《すこし》わきに取《とり》かくして、隨《したが》ふものは、其《それ》より思《おも》ひ/\に落行《おちゆき》けり。〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]
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斯《か》く光秀《みつひで》に隨行《ずゐかう》し、最後《さいご》の處分《しよぶん》をしたるは、明智茂朝《あけちしげとも》であつた。
秀吉《ひでよし》は、山崎合戰《やまざきかつせん》の勝利《しようり》と與《とも》に、追撃《つゐげき》して勝龍寺城《しようりゆうじじやう》を圍《かこ》み、更《さ》らに堀隊《ほりたい》を山科《やましな》及《およ》び粟田口《あはだぐち》に派《は》して、坂本《さかもと》と、安土《あづち》との交通路《かうつうろ》を扼《やく》せしめた。而《しか》して十四|日《か》に至《いた》りて、勝龍寺城《しようりゆうじじやう》は、全《まつた》く其《そ》の占領《せんりやう》に歸《き》した。秀吉《ひでよし》は此《こゝ》に於《おい》て、堀隊《ほりたい》を近江《あふみ》に進《すゝ》め、高山《たかやま》、中川《なかがは》二|隊《たい》を、丹派《たんば》に派《は》し、自《みづか》ら信孝《のぶたか》と與《とも》に、京都《きやうと》に入《い》り、信長《のぶなが》の遺骨《ゐこつ》を索《もと》めて之《これ》を殯※[#「歹+僉」、第4水準2-78-2]《ひんれん》し。更《さ》らに兵《へい》を山科《やましな》、醍醐《だいご》、逢坂《あふさか》、吉田《よしだ》、白川《しらかは》、山中等《やまなかとう》に配置《はいち》し、京都《きやうと》の内外《ないぐわい》を搜索《そうさく》し、明智《あけち》の殘黨《ざんたう》を捕斬《ほざん》せしめた。
明智光春《あけちみつはる》は安土城《あづちじやう》に在《あ》つたが、山崎《やまざき》の戰況《せんきやう》を聞《き》き、十四|日《か》、兵《へい》一千|人《にん》を率《ひき》ゐ、光秀《みつひで》赴援《ふゑん》として出掛《でか》けたが、大津《おほつ》に於《おい》て、堀隊《ほりたい》と出會《しゆつくわい》し、打出《うちで》ノ濱《はま》に於《おい》て戰《たゝか》うた。光春《みつはる》は戰《たゝかひ》利《り》あらず、殘兵《ざんぺい》八十|餘騎《よき》と與《とも》に、湖水《こすゐ》の汀《みぎは》を掛拔《かけぬ》けて、坂本城《さかもとじやう》に入《はい》つた。〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]或《あるひ》は馬《うま》を湖水《こすゐ》に乘《の》り入《い》れ、湖面《こめん》を徑《けい》したとの説《せつ》もある。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]秀吉《ひでよし》は信孝《のぶたか》と與《とも》に、十四|日《か》京都《きやうと》より園城寺《をんじやうじ》に次《じ》した。信孝《のぶたか》は進《すゝ》んで草津《くさつ》に抵《いた》り、秀吉《ひでよし》は留《とゞま》りて坂本城《さかもとじやう》攻撃《こうげき》の計畫中《けいくわくちゆう》、明智《あけち》の首級《しゆきふ》を得《え》た。
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十四|日《か》、秀吉《ひでよし》三井《みゐ》に至《いた》り給《たま》ひぬ。明智《あけち》が落人《おちうど》の首《くび》切《きり》て、方々《はう/″\》より持《もち》きたる中《なか》に、小栗栖《をぐるす》の里人《さとびと》、明智光秀《あけちみつひで》が首《くび》を持《もち》きたり、如何《いか》にしてかくぞと問給《とひたま》へば、今朝《けさ》里人《さとびと》の外《そと》に出《いで》、落人《おちうど》ありやと方々《はう/″\》見廻《みまはり》しに、藪《やぶ》くろにして首《くび》を見《み》つけぬ。物《もの》につゝみし樣《さま》、いかさま常《つね》の人《ひと》にはあらじと思《おも》ひ、彼是《かれこれ》見《み》し程《ほど》に、中《なか》に見知《みしり》たる者《もの》有《あり》て、是《これ》なんといへば、いそぎ持來《もちきたり》ぬと答《こたへ》ぬ。秀吉《ひでよし》悦《よろこ》び、信長《のぶなが》を討《うち》し報《むくい》はや來《きたり》けりと、杖《つゑ》を持《もち》て首《うび》をうち給《たま》ひけり。〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]
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光春《みつはる》は、光秀《みつひで》が安土《あづち》より掠奪《りやくだつ》し來《きた》れる、珍玩《ちんぐわん》、寳器《はうき》を取《と》り揃《そろ》へ、目録《もくろく》を添《そ》へて之《これ》を寄手《よせて》に渡《わた》し、而《しか》して後《のち》天守《てんしゆ》に火《ひ》を掛《か》け、光秀《みつひで》の夫人《ふじん》妻木氏《つまきし》、及《およ》び其《そ》の子女《しぢよ》五|人《にん》を刺《さ》して、切腹《せつぷく》した。明智光忠《あけちみつたゞ》、明智茂朝等《あけちしげともら》も亦《ま》た、之《これ》に殉《じゆん》じた。
斯《か》くて信雄《のぶを》は、土山《つちやま》より安土《あづち》に至《いた》り、明智《あけち》の餘類《よるゐ》を驅逐《くちく》す可《べ》く、安土町《あづちまち》に放火《はうくわ》した。火《ひ》は安土城《あづちじやう》に移《うつ》りて、信長《のぶなが》多年《たねん》の經營《けいえい》を、乍《たちま》ち焦土《せうど》とした。甫菴太閤記《ほあんたいかふき》に明智光春《あけちみつはる》が、出立《しゆつたつ》の際《さい》、之《これ》を燒《や》いたとあるは、事實相違《じじつさうゐ》ぢや。十六|日《にち》秀吉《ひでよし》、大津《おほつ》より往《ゆい》て之《これ》に會《くわい》し、信孝《のぶたか》も亦《ま》た來《きた》つた。長濱《ながはま》の妻木範賢《つまきのりかた》は城《しろ》を棄《す》てゝ|遁《のが》れ、佐和山《さわやま》の荒木行重《あらきゆきしげ》は丹羽長秀《にはながひで》によりて投降《とうかう》し、山本山《やまもとやま》の阿閉貞明《あべさだあき》は、山崎《やまざき》より歸城《きじやう》したりしが、秀吉《ひでよし》の兵《へい》の來攻《らいこう》に際《さい》し、質《ち》を致《いた》して歸順《きじゆん》した。此《かく》の如《ごと》くして、近江《あふみ》は悉《こと/″\》く平定《へいてい》した。而《しか》して高山《たかやま》、中川等《なかがはら》は、六|月《ぐわつ》十四|日《か》龜山城《かめやまじやう》を拔《ぬ》き、光秀《みつひで》の長子《ちやうし》光慶《みつよし》を殺《ころ》し、丹波《たんば》を平定《へいてい》した。
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齋藤内藏助《さいとうくらのすけ》は、明智《あけち》が二なき者《もの》なり。軍場《いくさば》をのがれ、江西堅田《かうせいかただ》の井貝《ゐがひ》(猪飼)[#「(猪飼)」は1段階小さな文字]といへるを頼《たの》み、身《み》をかくさんとせしを、井貝《ゐがひ》(猪飼)[#「(猪飼)」は1段階小さな文字]搦《からめ》て、秀吉《ひでよし》へ參《まゐ》らせけり。光秀《みつひで》がむくろを求《もと》め、首《くび》を續《つぎ》て、粟田口《あはだぐち》に張付《はりつけ》にせられ、内藏助《くらのすけ》も其《その》かたはらに然《しか》なり。京童《きやうわらべ》落書《らくしよ》をなせり。明智《あけち》、氏《うぢ》を惟任《これたふ》に改《あらた》む、明智《あけち》とかける事《こと》は、人《ひと》みなしれゝば、惡《あく》を知《し》らせんとにや。
主《しゆ》の首切《くびきる》より早《はや》き討死《うちじに》は、これたうばつのあたる成《なり》けり。
諍《あらそひ》に負双六《まけすごろく》の齋藤《さいとう》は、七目《なゝめ》くゝられ恥《はぢ》をこそかけ。〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]
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憐《あはれ》む可《べ》し、明智光秀《あけちみつひで》は、本能寺討入以來《ほんのうじうちいりいらい》、未《いま》だ二|週間《しうかん》を經《へ》ざるに、全滅《ぜんめつ》した。世《よ》未《いま》だ彼《かれ》が如《ごと》く速《すみや》かに成功《せいこう》して、速《すみや》かに失敗《しつぱい》したるものはない。彼《かれ》の仕事《しごと》は、全《まつた》く暗夜《あんや》に、花火《はなび》を打揚《うちあ》げたると、同樣《どうやう》である。

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[#6字下げ][#小見出し]光秀の自害と辭世の事[#小見出し終わり]

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斯て三町計往過たれども、彼鑓疵痛手なれば、光秀道の傍に馬を乘寄、槍を田の中に立置ける、是は槍を棄て迯たると後人に謗られじと也、扨溝尾庄兵衞茂朝に申しけるは、唯今手負たれば坂本迄は行付難し、然れば爰にて自害せんと思ふなり、是は辭世なり、汝に與へんとて鎧の引合より一紙を取出す、溝尾謹て之を見るに 逆順無[#二]二門[#一]。大道徹[#二]心源[#一]。五十五年夢。覺來歸[#二]一元[#一]。 明窓玄智禪定門 とぞ書ける、是を讀ける間に光秀脇差を拔て腹一文字に掻切ければ、茂朝驚き乍ら即ち介錯しけり。〔明智軍記〕
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[#5字下げ][#中見出し]【二一】山崎合戰の影響[#中見出し終わり]

光秀《みつひで》は畢竟《ひつきやう》秀吉《ひでよし》の爲《た》めに、立身《りつしん》の機會《きくわい》を作《つく》りたるに過《す》ぎぬ。其《そ》の結果《けつくわ》より云《い》へば、彼《かれ》は秀吉《ひでよし》の敵《てき》でなく、秀吉《ひでよし》の恩人《おんじん》ぢや。光秀《みつひで》微《なか》りせば、秀吉《ひでよし》は長《なが》く信長《のぶなが》の一|將校《しやうかう》として、止《とゞま》つたであらう。切言《せつげん》すれば、光秀《みつひで》は天下《てんか》を取《と》りて、之《これ》を秀吉《ひでよし》に渡《わた》したものと云《い》うても、可《か》なりだ。併《しか》し此《こ》の機會《きくわい》は、必《かなら》ずしも秀吉《ひでよし》のみに限《かぎ》つた事《こと》ではなかつた。但《た》だ信長《のぶなが》の諸子《しよし》一|門《もん》、及《およ》び其《そ》の他《た》、諸將校《しよしやうかう》一として自《みづ》から進《すゝ》んで、之《これ》を攫《つか》み得《う》る者《もの》なかつたのだ。されば秀吉《ひでよし》が、山崎合戰以後《やまざきかつせんいご》に於《おい》て、隱然《いんぜん》信長《のぶなが》の後繼者《こうけいしや》となつたのも、決《けつ》して秀吉《ひでよし》の僭越《せんゑつ》でもなく、僥倖《げうかう》でもなかつた。獲物《えもの》は戰捷者《せんせふしや》に歸《き》す、而《しか》して秀吉《ひでよし》は、實《じつ》に隨《ずゐ》一の―|若《も》し唯《ゆゐ》一のと云《い》ふ能《あた》はずんば―|戰捷者《せんせふしや》であつた。
委曲《ゐきよく》の事情《じじやう》は、秀吉《ひでよし》が天正《てんしやう》十|年《ねん》十|月《ぐわつ》十八|日《にち》附《づけ》を以《もつ》て、信孝《のぶたか》の老臣《らうしん》、齋藤利堯《さいとうとしたか》、岡本重政《をかもとしげまさ》に答《こた》へたる書状《しよじやう》に、縷述《るじゆつ》されて居《を》る。今《い》ま其《そ》の數節《すせつ》を掲《かゝ》ぐれば、
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一、明智《あけち》め|構[#二]逆心[#一]《ぎやくしんをかまへ》、上樣《うへさま》京都《きやうと》に御座候《ござさふらふ》を、夜討同前《ようちどうぜん》に致《いた》し、御腹《おんはら》をめさせ候《さふらふ》。我等《われら》在京《ざいきやう》をもいたし|於[#レ]在[#レ]之《これあるにおいては》は、小者《こもの》一|僕《ぼく》にて成共《なりとも》、御座所《ござしよ》へ走《はし》り入《い》り、腹《はら》十|文字《もんじ》に切申候《きりまをしさふら》はゞ、本意《ほんい》の上《うへ》にて御座候《ござさふら》へども、其刻《そのとき》備中《びつちゆう》の國《くに》へ罷在《まかりあり》‥‥六|月《ぐわつ》二|日《か》に|於[#二]京都[#一]《きやうとにおいて》上樣《うへさま》御腹《おんはら》めされ候由《さふらふよし》、同《どう》四|日《か》に注進御座候《ちゆうしんござさふらふ》。筑前驚入存候《ちくぜんおどろきいりぞんじさふらふ》といへども、御腹《おんはら》の御供《おんとも》こそ|不[#レ]仕候共《つかまつらずさふらふとも》、|於[#二]此陣[#一]《このぢんにおいて》は、|任[#二]本意[#一]《ほんいにまかせ》城主《じやうしゆ》(清水宗治)[#「(清水宗治)」は1段階小さな文字]事《こと》は|不[#レ]及[#レ]申《まをすにおよばず》、毛利《まうり》を切崩《きりくづし》、|刎[#レ]首申候《くびをはねまをしさふら》はゞ、明智《あけち》め退治之儀安御座候《たいぢのぎやすくござさふらふ》と存切《ぞんじきり》、六日|迄《まで》|致[#二]逗留[#一]《たうりういたし》、終《つひに》城主事《じやうしゆこと》は|不[#レ]及[#レ]申《まをすにおよばず》、悉《こと/″\く》|刎[#レ]首候事《くびをはねさふらふこと》。
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此《こ》れは秀吉《ひでよし》が、高松《たかまつ》包圍中《はうゐちゆう》の心意氣《こゝろいき》を言明《げんめい》したのだ。
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一、手前《てまへ》隙《すき》を得申候間《えまをしさふらふあひだ》、毛利陣所《まうりぢんしよ》へ切懸《きりかけ》|可[#二]切崩[#一]《きりくづすべく》と相定候處《あひさだめさふらふところ》、毛利《まうり》|令[#二]懇望[#一]《こんまうせしめ》、國《くに》五つ筑前《ちくぜん》に出《いだ》し、人質《ひとじち》兩人迄《りやうにんまで》相渡《あひわた》し|可[#レ]申《まをすべし》と申候《まをしさふら》へ共《ども》、許容申間敷《きよようまをすまじく》と|雖[#二]相定[#一]《あひさだむるといへども》、明智《あけち》め討果申度《うちはたしまをしたき》に付《つき》、毛利《まうり》一|書《しよ》並《ならびに》血判《けつぱん》、人質《ひとじち》兩人迄《りやうにんまで》請取《うけとり》、同《おなじく》七日に、廿七|里之所《りのところ》を、一|日《にち》一|夜《や》に播州姫路《ばんしうひめぢ》へ打入候事《うちいりさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは講和《かうわ》より、姫路歸城迄《ひめぢきじやうまで》の事《こと》を語《かた》つたのだ。此《これ》によりても講和《かうわ》の提議《ていぎ》は、最初《さいしよ》毛利《まうり》より持《も》ち出《いだ》したことが判知《わか》る。
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一、人馬《じんば》をも相休切上《あひやすめきりのぼ》り|可[#レ]申《まをすべく》と存候處《ぞんじさふらふところ》、信孝樣《のぶたかさま》大坂《おほさか》に御座候《ござさふらふ》を、明智《あけち》め河内《かはち》に|令[#二]亂入[#一]《らんにふせしめ》、はや大坂《おほさか》を取卷《とりまき》、御腹《おんはら》めさすべき由《よし》、八|日之酉刻《かのとりのこく》(午前六時)[#「(午前六時)」は1段階小さな文字]に風《かぜ》の便《たよ》りに注進候間《ちゆうしんさふらふあひだ》、若《もし》信孝樣《のぶたかさま》御腹《おんはら》を|被[#レ]召候《めされさふらう》ては、何《なに》かも|不[#レ]入儀《いらざるぎ》と存《ぞんじ》、夜晝《よるひる》なしに、十一|日《にち》辰《たつ》の刻《こく》(午前八時)[#「(午前八時)」は1段階小さな文字]に尼崎迄《あまがさきまで》|令[#二]著陣[#一]《ちやくぢんせしめ》、人數《にんず》|不[#二]相揃[#一]《あひそろはず》、討死仕候共《うちじにつかまつりさふらふとも》、川《かは》を越《こし》、|到[#二]後卷[#一]可[#レ]申《あとまきいたしまをすべき》に相究候事《あひきはめさふらふこと》。
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是《こ》れ信孝《のぶたか》の危急《ききふ》を聞《き》き、萬障《ばんしやう》を排《はい》して、彼《かれ》を救《すく》はんが爲《た》めに、自《みづ》から一|死《し》を分《ぶん》として、東上《とうじやう》した事《こと》を言《い》うたのぢや。此書《このしよ》は信孝《のぶたか》を對手《あひて》としての辯疏《べんそ》なれば、特《とく》に重《おも》きを彼《かれ》に措《お》いたのぢや。
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一、同《おなじく》十二|日《にち》池田《いけだ》(勝入)[#「(勝入)」は1段階小さな文字]を|致[#二]同道[#一]《どうだういたし》、同《おなじく》中川瀬兵衞《なかがはせへゑ》、高山右近《たかやまうこん》|令[#二]談合[#一]《だんがふせしめ》、山崎表《やまざきおもて》へ馳上《はせのぼ》り申候《まをしさふら》へ共《ども》、高山《たかやま》と瀬兵衞《せへゑ》と御先《おんさき》を爭《あらそ》ひ候間《さふらふあひだ》。筑前申樣《ちくぜんまをすやう》は、高山申《たかやままをす》も、|無[#二]餘儀[#一]候《よぎなくさふらふ》、手先之儀《てさきのぎ》に候條《さふらふでう》、一|番合戰之所《ばんかつせんのところ》に陣取《ぢんどり》を固《かた》め、瀬兵衞《せへゑ》と申談《まをしだんじ》、合戰之陣取尤由申候而《かつせんのぢんどりもつとものよしまをしさふらうて》、兩人《りやうにん》山崎之内《やまざきのうち》に陣取《ぢんどり》を固《かた》めさせ。其《その》次々《つぎ/\》に天神之馬場迄《てんじんのばゞまで》、我等者《われらもの》を取續《とりつゞき》陣取《ぢんどら》せ、大坂《おほさか》へ人《ひと》を進上申候間《しんじやうまをしさふらふあひだ》、|働可[#レ]申候《はたらきまをすべくさふらふ》といへども、信孝樣《のぶたかさま》を相待《あひまち》、富田《とだ》に一|夜陣相懸申候事《やぢんあひかけまをしさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れにて山崎合戰《やまざきかつせん》の準備《じゆんび》が、分明《ぶんみやう》ぢや。秀吉《ひでよし》は信孝《のぶたか》を待受《まちう》く可《べ》く、特《とく》に一|夜《や》を過《すご》した。
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一、次之《つぎの》十三|日《にち》、晝時分《ひるじぶん》に川《かは》(淀川)[#「(淀川)」は1段階小さな文字]を|被[#レ]爲[#レ]越候條《こさせられさふらふでう》、筑前《ちくぜん》も御迎《おむかへ》に馳向《はせむかひ》、|懸[#二]御目[#一]候《おんめにかゝりさふら》へば、御落涙《ごらくるゐ》、筑前《ちくぜん》もほへ申候儀《まをしさふらふぎ》、限《かぎ》り|無[#二]御座[#一]候事《ござなくさふらふこと》。
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此《これ》にて信孝《のぶたか》が兎《と》も角《かく》も、山崎合戰《やまざきかつせん》に參加《さんか》したるは、分明《ぶんみやう》である。
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一、其《その》十三|日之晩《にちのばん》に、山崎《やまざき》に陣取申候《ぢんどりまをしさふらふ》高山右近《たかやまうこん》、瀬兵衞《せへゑ》(中川)[#「(中川)」は1段階小さな文字]久太郎《きうたらう》(堀)[#「(堀)」は1段階小さな文字]手《て》へ明智《あけち》め、段々《だん/\》に人數《にんず》をたて切懸候處《きりかゝりさふらふところ》を、道筋《みちすぢ》は高山《たかやま》、瀬兵衞《せへゑ》、久太郎《きうたらう》切崩《きりくづし》。南之手者《みなみのては》池紀《いけき》(池田勝入信輝)[#「(池田勝入信輝)」は1段階小さな文字]我等者《われらもの》加藤作内《かとうさくない》(光泰)[#「(光泰)」は1段階小さな文字]木村隼人《きむらはやと》、中村孫平次《なかむらまごへいじ》切崩《きりくづし》。山手《やまのて》は小《こ》一|郎《らう》(羽柴秀長)[#「(羽柴秀長)」は1段階小さな文字]黒田官兵衞《くろだくわんべゑ》、神子田半左衞門《かみこだはんざゑもん》、前野將右衞門《まへのしやううゑもん》、木下勘解由《きのしたかげゆ》、其外《そのほか》人數《にんず》を以《もつて》切崩候《きりくづしさふらう》て、則《すなはち》勝龍寺《しようりゆうじ》を取卷候事《とりまきさふらふこと》。
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此《こ》れが山崎合戰《やまざきかつせん》の要領《えうりやう》ぢや。此《これ》によれば川角太閤記《かはかくたいかふき》に特筆《とくひつ》したる、其《そ》の前日《ぜんじつ》より天王山《てんわうざん》を占領《せんりやう》し、兵《へい》を伏《ふ》せ、陣地《ぢんち》を布《し》き、敵《てき》の來《きた》るを待《ま》ち構《かま》へて、之《これ》を撃破《げきは》したる中村孫平次《なかむらまごへいじ》は、寧《むし》ろ淀川右岸《よどがはうがん》を迂廻《うくわい》した中《うち》にあつた。而《しか》して天王山《てんわうざん》の方面《はうめん》は、全《まつた》く秀長《ひでなが》の一|隊《たい》にて片付《かたづ》けたことが判知《わか》る。
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一、即《すなはち》勝龍寺《しようりゆうじ》を取卷候《とりまきさふら》へば、明智《あけち》め夜落《よおち》に退散候處《たいさんさふらふところ》を、悉《こと/″\く》首《くび》を取《とり》、或《あるひ》は河《かは》へ追籠候儀者《おひこめさふらふぎは》、我等《われら》覺悟《かくご》にて仕候歟《つかまつりさふらふか》。|就[#レ]夫《それにつき》明智《あけち》め山科之藪之中《やましなのやぶのなか》へ北入《にげいり》、百姓《ひやくしやう》に首《くび》を拾《ひろ》はれ申候事《まをしさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れ光秀《みつひで》の最後《さいご》を語《かた》りたるもの、事實《じじつ》全《まつた》く此《こ》の通《とほ》りぢや。
[#ここから1字下げ]
一、|信孝樣之致[#二]御先[#一]《のぶたかさまのおさきをいたし》、御無念《ごむねん》をやめさせられ候事《さふらふこと》は、我等《われら》覺悟《かくご》にて候《さふらふ》と存候《ぞんじさふらふ》。筑前《ちくぜん》|不[#二]罷上[#一]候共《まかりのぼらずさふらふとも》、終《つひ》には信孝樣《のぶたかさま》、明智《あけち》めが首《くび》を刎《はね》させらるべき事《こと》、案之内《あんのうち》とは|可[#レ]被[#二]思召[#一]候《おぼしめさるべくさふら》へ共《ども》。筑前《ちくぜん》早《はや》く毛利《まうり》をも物之數《もののかず》にせず、馳上《はせのぼり》、信孝樣《のぶたかさま》天下《てんか》の譽《ほまれ》を取《と》らせられ候《さふらふ》は、筑前《ちくぜん》覺悟《かくご》にて候間《さふらふあひだ》、何樣《なにやう》にも|有[#二]御馳走[#一]《ごちそうあり》、かはゆがらせらるべきと存候《ぞんじさふら》へば、其御感《そのぎよかん》は|無[#二]御座[#一]候而《ござなくさふらうて》、人並《ひとなみ》に|被[#二]思召[#一]候儀《おぼしめされさふらふぎ》、迷惑仕候事《めいわくつかまつりさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れ明智征討《あけちせいたう》の成功《せいこう》は、全《まつた》く秀吉《ひでよし》の努力《どりよく》による事《こと》を、當面《たうめん》に喝破《かつぱ》したもの。此《こ》の一|句《く》には、信孝《のぶたか》は勿論《もちろん》、柴田《しばた》でも瀧川《たきがは》でも、何人《なんびと》も一|點《てん》異議《いぎ》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《さしはさ》む可《べ》き餘地《よち》はない。されば山崎合戰《やまざきかつせん》の終《をは》りに、秀吉《ひでよし》が乘物《のりもの》の中《うち》より、中川等《なかがはら》の床几《しやうぎ》に腰《こし》かけ居《ゐ》たるを見《み》て、瀬兵衞《せへゑ》骨折《ほねをり》と、挨拶《あいさつ》したのを聞《き》きて、中川《なかがは》が推參也《すゐさんなり》、早《は》や天下取《てんかとり》の顏《かほ》をするかと云《い》うた。〔烈公物語〕[#「〔烈公物語〕」は1段階小さな文字]との逸話《いつわ》は、其《そ》の事《こと》の眞否如何《しんぴいかん》は兎《と》も角《かく》、秀吉《ひでよし》の氣分《きぶん》は、固《もと》より此通《このとほ》りであつたに相違《さうゐ》あるまい。

[#5字下げ][#中見出し]【二二】本能寺事變後の家康[#中見出し終わり]

本能寺《ほんのうじ》の事變《じへん》は、宛《あたか》も靜《しづ》かなる池中《ちちゆう》に、石《いし》を投《とう》じた樣《やう》であつた。一|波《ぱ》生《しやう》じ、萬波《ばんぱ》隨《したが》うた。是迄《これまで》信長《のぶなが》の大壓力《だいあつりよく》の下《もと》に、抑《おさ》へられたる、各種《かくしゆ》の勢力《せいりよく》は、何《いづ》れも之《これ》を好機《かうき》として、各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》其《そ》の頭首《とうしゆ》を擡《もた》げた。若《も》し此《こ》の際《さい》、秀吉《ひでよし》あらざりしならば、日本統《にほんとう》一の氣運《きうん》は、少《すくな》くとも當分《たうぶん》頓挫《とんざ》したかも知《し》れぬ。然《しか》も天《てん》英雄《えいゆう》を生《しやう》ずる、必《かなら》ず其時《そのとき》ありで、秀吉《ひでよし》出《い》で來《きた》りし爲《た》め、却《かへ》つて日本統《にほんとう》一の速力《そくりよく》を加《くは》へて來《き》た。
蓋《けだ》し信長《のぶなが》は風《かぜ》の神《かみ》で、秀吉《ひでよし》は太陽《たいやう》である。信長《のぶなが》は夏日《かじつ》恐《おそ》るべく、秀吉《ひでよし》は冬日《とうじつ》愛《あい》す可《べ》し。信長《のぶなが》は專《もつぱ》ら力《ちから》を用《もち》ひ、秀吉《ひでよし》は寧《むし》ろ調略《てうりやく》を用《もち》ひた。信長《のぶなが》が荒《あら》ごなしにやりつけたる跡《あと》を、秀吉《ひでよし》が之《これ》を整理《せいり》した。果《はた》して然《しか》らば本能寺《ほんのうじ》の事變《じへん》は、寧《むし》ろ日本統《にほんとう》一の目的《もくてき》に向《むか》つて、一|歩《ぽ》を轉《てん》ずる便宜《べんぎ》を與《あた》へたのだ。併《しか》し此《こ》れは秀吉《ひでよし》ありての事《こと》だ。若《も》し此人《このひと》微《なか》りせば、當分《たうぶん》は又《ま》たしも群雄割據《ぐんゆうかつきよ》に、後戻《あともど》りしたかも知《し》れぬ。斯《か》く觀來《みきた》れば、時《とき》ありての人《ひと》、又《ま》た人《ひと》ありての時《とき》ぢや。

        *  *  *  *  *  *  *
本能寺《ほんのうじ》の事變《じへん》を聞《き》いて、隨處《ずゐしよ》に大小《だいせう》の火事場泥坊《くわじばどろぼう》が、出《い》で來《きた》つた。而《しか》して其中《そのうち》にて、重《おも》なる者《もの》は、徳川家康《とくがはいへやす》と、北條氏政《ほうでううじまさ》であつた。
家康《いへやす》は穴山梅雪《あなやまばいせつ》と與《とも》に、堺《さかひ》を見物《けんぶつ》し、京都《きやうと》に還《かへ》らんとする途中《とちゆう》にて、本能寺事變《ほんのうじじへん》の急報《きふはう》に接《せつ》し、踵《きびす》を回《めぐら》して、間道《かんだう》より歸國《きこく》の途《と》に上《のぼ》つた。梅雪《ばいせつ》は途中《とちゆう》より別《わか》れ、土寇《どこう》の爲《た》めに殺《ころ》された。家康《いへやす》は二|日《か》河内《かはち》を經《へ》て、山城《やましろ》の普賢寺《ふげんじ》の南《みなみ》、山田村《やまだむら》に著《ちやく》し、三|日《か》木津川《きづがは》を渡《わた》り、四|日《か》宇治川《うぢがは》の上流《じやうりう》を渡《わた》りて、江州信樂《がうしうしがらき》に至《いた》り、五|日《か》伊賀上柘植《いがかみつげ》を經《へ》、六|日《か》勢州白子《せいしうしらこ》より乘船《じようせん》し、三|河《かは》の大濱《おほはま》に著《ちやく》し、七|日《か》岡崎《をかざき》に歸著《きちやく》し始《はじ》めて安堵《あんど》の思《おも》ひをした。
家康《いへやす》は光秀討伐《みつひでたうばつ》の爲《た》め、十四|日《か》尾州熱田迄《びしうあつたまで》進發《しんぱつ》したが、十九|日《にち》秀吉《ひでよし》よりの使者《ししや》來《きた》り、光秀《みつひで》伏誅《ふくちゆう》の報《はう》を齎《もたら》したれば、岡崎《をかざき》に引返《ひきかへ》した。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]然《しか》るに家康《いへやす》に取《と》りて、仕合《しあは》せなる擾亂《ぜうらん》が、甲斐《かひ》に發生《はつせい》した。
甲斐《かひ》は天正《てんしやう》十|年《ねん》四|月《ぐわつ》以來《いらい》、河尻秀隆《かはじりひでたか》(鎭吉、)[#「(鎭吉、)」は1段階小さな文字]古府《こうふ》に在《あ》りて、之《これ》を支配《しはい》した。元來《ぐわんらい》甲人《かふじん》は慓悍《へうかん》にして、治《をさ》め易《やす》くない。然《しか》るに河尻《かはじり》は、信長《のぶなが》の威光《ゐくわう》を笠《かさ》に著《き》、自個《じこ》の武勇《ぶゆう》を恃《たの》み、頗《すこぶ》る暴政《ばうせい》をやつた。されば國人《こくじん》は、何《いづ》れも怨嗟《ゑんさ》已《や》む能《あた》はなかつた。家康《いへやす》は元來《ぐわんらい》、甲人《かふじん》を制御《せいぎよ》するの呼吸《こきふ》を、心得《こゝろえ》て居《ゐ》た。隨《したが》つて、何《なん》となく甲人《かふじん》は、河尻《かはじり》に背《そむ》きて、徳川《とくがは》を慕《した》ふの傾向《けいかう》があつた。河尻《かはじり》も聊《いさゝ》か之《これ》に氣附《きづ》かぬではなかつた。されば、家康《いへやす》が本多信俊《ほんだのぶとし》を、本能寺事變後《ほんのうじじへんご》、相談相手《さうだんあひて》として、河尻《かはじり》に遣《つかは》し。又《ま》た若《も》し上京《じやうきやう》の志《こゝろざし》あらば、信州路《しんしうぢ》は、一|揆《き》蜂起《ほうき》したれば、徳川領《とくがはりやう》を、本多《ほんだ》を案内者《あんないしや》として、通過《つうくわ》せしむ可《べ》しと、申《まを》し遣《つかは》したるに際《さい》し。故《ことさ》さに本多《ほんだ》を醉《ゑ》はしめ、之《これ》を殺《ころ》した。而《しか》して彼《かれ》は其《そ》の手兵《しゆへい》を引具《ひきぐ》して、甲府《かふふ》を立《た》ち去《さ》らんとした、此《こゝ》に於《おい》て甲人《かふじん》は大《おほ》いに怒《いか》り、河尻主從《かはじりしゆじゆう》を攻《せ》め殺《ころ》した。〔徳川實紀〕[#「〔徳川實紀〕」は1段階小さな文字]
此《こ》れは徳川側《とくがはがは》の云《い》ひ前《まへ》ぢや。若《も》し河尻《かはじり》をして云《い》はしむれば、必《かなら》ず何《なん》とか申分《まをしぶん》があらう。死人《しにん》に口《くち》なし、致《いた》し方《かた》はない。家康《いへやす》は兎《と》も角《かく》も此《こ》の内亂《ないらん》に乘《じよう》じて、甲州《かふしう》を占領《せんりやう》し、武田氏《たけだし》の舊徒《きうと》を召撫《せうぶ》した。此《こ》の形勢《けいせい》を見《み》て、北條氏《ほうでうし》も、いかで袖手傍觀《しうしゆばうくわん》す可《べ》き。氏直《うぢなほ》は大軍《たいぐん》を率《ひき》ゐて、信州海野口《しんしううみのくち》より甲州《かふしう》に向《むか》うた。家康《いへやす》も亦《ま》た、自《みづ》から甲州《かふしう》の古府《こうふ》に滯陣《たいぢん》した。而《しか》して乙骨《おつこつ》ヶ|原《はら》にて、徳川《とくがは》、北條《ほうでう》の兵《へい》衝突《しようとつ》し、更《さ》らに家康《いへやす》は淺生原《あさふがはら》に、氏直《うぢなほ》は若御子《わかみこ》に、互《たが》ひに對峙《たいじ》したが、軈《やが》て家康《いへやす》は、新府《しんぷ》に移《うつ》つた。
斯《か》くて家康《いへやす》と舊好《きうかう》ある、北條氏規《ほうでううぢのり》の計《はから》ひにて、家康《いへやす》は甲信兩國《かふしんりやうこく》を取《と》り、北條《はうでう》は上州《じやうしう》一|國《こく》を取《と》り、而《しか》して氏直《うぢなほ》に、家康《いへやす》の女《むすめ》を嫁《とつ》がしむる事《こと》を約《やく》し、十一|月《ぐわつ》の末《すゑ》に、互《たが》ひに撤兵《てつぺい》した。乃《すなは》ち本能寺事變《ほんのうじじへん》に際《さい》して、秀吉《ひでよし》以外《いぐわい》の成功者《せいこうしや》は、首《しゆ》として、家康《いへやす》であつた。彼《かれ》は手《て》に唾《だ》し、一|朝《てう》にして、兩國《りやうこく》を取《と》つた。彼《かれ》は正《まさ》しく光秀《みつひで》に向《むか》つて、感謝《かんしや》すべき理由《りいう》がある。併《しか》し其《そ》の所得《しよとく》は、秀吉《ひでよし》に比《ひ》すれば、九|牛《ぎう》の一|毛《まう》だ。
秀吉《ひでよし》と家康《いへやす》の位置《ゐち》は、本能寺事變後《ほんのうじじへんご》、忽《たちま》ち顛倒《てんたう》した。從前《じゆうぜん》家康《いへやす》は、信長《のぶなが》よりも客禮《かくれい》を以《もつ》て待《ま》たれて居《ゐ》た。彼《かれ》は信長《のぶなが》の臣下《しんか》たる、秀吉《ひでよし》の上《かみ》に坐《ざ》す可《べ》きは、當然《たうぜん》であつた。然《しか》も事變後《じへんご》に於《おい》ては、秀吉《ひでよし》は隱然《いんぜん》信長《のぶなが》の後繼者《こうけいしや》たる位置《ゐち》を占《し》め、以《もつ》て家康《いへやす》に臨《のぞ》まんとした。一|言《げん》すれば、秀吉《ひでよし》は大成金《だいなりきん》で、家康《いへやす》は小成金《せうなりきん》ぢや。

          ―――――――――――――――
[#6字下げ][#小見出し]河尻秀隆の狐疑[#小見出し終わり]

[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
信長他界に付、上州厩橋[#割り注]○今ノ前橋[#割り注終わり]の瀧川左近[#割り注]○一益[#割り注終わり]など關東を捨上洛すとの説あれども、河尻[#割り注]○秀隆[#割り注終わり]彌※[#二の字点、1-2-22]甲州に在領也、家康公被[#二]聞召及[#一]、本多庄左衞門[#割り注]○信俊[#割り注終わり]に諸事の儀を被[#二]仰含[#一]甲州へ被[#レ]遣、何事に不[#レ]依心置なく相談被[#レ]致、若も上方へ可[#レ]被[#レ]登との存念に於ては、此時節信濃通は危く候、此庄左衞門を案内にて手前領分へ可[#レ]被[#レ]出、心易上洛致され候樣に取計ふ可しと被[#二]仰遣[#一]處に、河尻大きに疑を生じ、奸曲の意地を以て小姓に申付、六月十四日[#割り注]○天正十年[#割り注終わり]の夜寅刻寐首を掻かせけるを、本多召仕共走散て人に告るを、御家[#割り注]○徳川[#割り注終わり]へ身上片付妻子など引越の爲め甲州へ歸合居輩、是を聞て早々濱松へ注進を申上る、扨甲州諸浪人、是を聞河尻不届なる由を申觸、家康公へさへ右の仕形の上は憚所なしとて、忽一揆を起し河尻を攻殺し、首をば三井十右衞門と言、甲州士討捕る、此刻濱松に於て本多事、河尻が宅にて相果るとの注進の状御披見被[#レ]遊、家康公被[#レ]仰けるは、我信長と申合たる筋目を立、隨分、河尻が爲を思ふとてする處に其れを過分と思はず、萬ツの相談抔にもせよかしと思ひ遣したる本多を殺害致事不[#レ]及[#二]是非[#一]儀なり、去迚は惜き士を河尻めに殺させけるもの哉と被[#レ]仰御落涙被[#レ]遊、家老中被[#二]申上[#一]けるは信長と一旦の被[#二]仰合[#一]迄相濟候、此上は御人數を被[#二]指向[#一]、河尻を御討果被[#レ]遊より外は御座有間敷と各※[#二の字点、1-2-22]達て申上處、其れは河尻が二の舞にて、家康抔がする事にて無し、先其通よとの御諚なれば、重て可[#二]申上[#一]樣も無[#レ]之。〔岩淵夜話別集、總見記〕
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