高島秀彰、入力
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[#4字下げ][#大見出し]第四章 光秀對秀吉[#大見出し終わり]
[#5字下げ][#中見出し]【一三】當惑の光秀[#中見出し終わり]
本能寺《ほんのうじ》の變《へん》は、織田氏《おだし》の一|門《もん》、及《およ》び諸將士《しよしやうし》に取《と》りて、驚天動地《きやうてんどうち》の事件《じけん》であつた。否《い》な彼等《かれら》は、悉《こと/″\》く其《そ》の擧措《きよそ》を失《しつ》したるのみならず、張本人《ちやうほんにん》たる光秀《みつひで》さへも、自《みづ》から當惑《たうわく》した。而《しか》して此中《このうち》に於《おい》て、獨《ひと》り大勢《たいせい》を達觀《たつくわん》し、乾坤《けんこん》一|擲《てき》の大覺悟《だいかくご》を爲《な》したる者《もの》は、只《た》だ秀吉《ひでよし》のみであつた。
光秀《みつひで》の本能寺攻撃《ほんのうじこうげき》は、全《まつた》く圖星《づぼし》に中《あた》つた。信長父子《のぶながふし》を討取《うちと》る迄《まで》には、彼《かれ》の計畫《けいくわく》に、何等《なんら》の齟齬《そご》なく、悉《こと/″\》く豫定通《よていどほ》りに遂行《すゐかう》せられた。却説《さて》其次《そのつぎ》は奈何《いかん》。此《こゝ》に到《いた》りて吾人《ごじん》は、疑《うたが》はざるを得《え》ない、光秀《みつひで》は果《はた》して善後《ぜんご》の計畫《けいくわく》が存《そん》した乎《か》、否乎《いなか》と。其《そ》の前後《ぜんご》の模樣《もやう》によりて、之《これ》を察《さつ》すれば、彼《かれ》は信長父子《のぶながふし》を討取《うちと》る爲《た》めに、渾身《こんしん》の智惠《ちゑ》も、分別《ふんべつ》も絞《しぼ》り盡《つく》して。其《そ》の以外《いぐわい》の事《こと》は、全《まつた》く殼《から》になつて居《ゐ》たかと思《おも》はるゝ|節《ふし》がある。吾人《ごじん》が本能寺《ほんのうじ》の變《へん》を以《もつ》て、全《まつた》く光秀《みつひで》の一|時的《じてき》出來心《できごゝろ》より、出來《しゆつたい》したものと、判斷《はんだん》したのは、此《これ》が爲《た》めぢや。言《い》ひ換《か》ふれば、光秀《みつひで》の信長父子《のぶながふし》を殺《ころ》したるは、寧《むし》ろ故殺《こさつ》に近《ちか》く、謀殺《ぼうさつ》とするには、何《なに》やら物足《ものた》らぬ感《かん》がある。
何《いづ》れにせよ、彼《かれ》の本能寺變迄《ほんのうじへんまで》の行動《かうどう》は、猫《ねこ》が鼠《ねずみ》を捉《と》る如《ごと》く、極《きは》めて活溌《くわつぱつ》であつたが。その後《ご》の行動《かうどう》は、その鼠《ねずみ》が餘《あま》りに大《だい》なりしが爲《た》めに、頗《すこぶ》る持《も》て餘《あま》した氣味《きみ》がある。即《すなは》ち爾來《じらい》の行動《かうどう》は、愚劣《ぐれつ》を極《きは》め。改正參河後風土記《かいせいみかはごふどき》の編者《へんじや》が、彼《かれ》を評《ひやう》して、小器《せうき》、短才《たんさい》と云《い》ひし言《げん》の、妥當《だたう》を見《み》る。
彼《かれ》は六|月《ぐわつ》二|日《か》、安土城《あづちじやう》を取《と》る可《べ》く、近江《あふみ》に赴《おもむ》いた。然《しか》るに瀬田城主山岡景隆《せたじやうしゆやまをかかげたか》、其弟《そのおとうと》景佐《かげすけ》と與《とも》に、彼《かれ》の招降《せうかう》の使《つかひ》を斬《き》りて城《しろ》を火《や》き、瀬田橋《せたばし》を毀《こぼ》ちて、甲賀山中《かふがさんちゆう》に逃《のが》れ去《さ》つた。光秀《みつひで》は茲《こゝ》に一|頓挫《とんざ》した。彼《かれ》は坂本城《さかもとじやう》に入《い》り、明智光春《あけちみつはる》をして瀬田橋《せたばし》を修理《しうり》せしめ、五|日《か》橋《はし》成《な》りて、安土城《あづちじやう》を收《をさ》めた。
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光秀《みつひで》は其《そ》の幸運《かううん》を樂《たのし》む日《ひ》の長《なが》からざるを、自覺《じかく》したるにやあらむ。惜氣《をしげ》もなく其《そ》の財寳《ざいはう》を散《ちら》した。此《こ》の城中《じやうちゆう》には、多《おほ》くの財寳《ざいはう》の中《なか》にも、特《とく》に夥《おびたゞ》しき量目《りやうもく》を刻印《こくいん》したる金貨《きんくわ》があつた。光秀《みつひで》は或者《あるもの》には七千|兩《りやう》、或者《あるもの》には三千|兩《りやう》、四千|兩《りやう》、若《も》しくは二百|兩《りやう》、三百|兩《りやう》と、其《そ》の位地《ゐち》に從《したが》つて、それ/″\賞賜《しやうし》した。而《しか》して内裡《だいり》にも、若干《じやくかん》を献《けん》じ、且《か》つ京都《きやうと》の五|山《ざん》に、彼《かれ》が虐殺《ぎやくさつ》したる信長《のぶなが》の追善《つゐぜん》、供養《くやう》の爲《た》めに、各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》七千|兩宛《りやうづゝ》を與《あた》へた。此《かく》の如《ごと》く信長《のぶなが》が、十五|年《ねん》乃至《ないし》二十|年《ねん》の戰爭《せんさう》と、努力《どりよく》とによりて、蓄積《ちくせき》したる財寶《ざいはう》は、二三|日《にち》の間《あひだ》に、悉《こと/″\》く光秀《みつひで》の手《て》にて散逸《さんいつ》した。
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此《これ》は當時《たうじ》の模樣《もやう》を目撃《もくげき》したる、耶蘇會宣教師《ゼスイツトせんけうし》が、本國《ほんごく》への報告書《ほうこくしよ》の一|節《せつ》だ。當時《たうじ》安土《あづち》に在《あ》つたオルガンチノ[#「オルガンチノ」に傍線]は、漸《やうや》く寺院《じゐん》の祭器丈《さいきだけ》を保持《ほぢ》するを得《え》たが、其《そ》の家財《かざい》は悉《こと/″\》く掠奪《りやくだつ》せられ、彼《かれ》は漸《やうや》く翁島《おきなじま》に逃《のが》れた。然《しか》もそは盜賊《たうぞく》の隱家《かくれが》であつて、非常《ひじやう》なる不幸《ふかう》に陷《おちい》つたが。其《そ》の信徒中《しんとちゆう》に、明智《あけち》の縁故者《えんこしや》ありしが爲《た》めに、人《ひと》も、行李《かうり》も、無事《ぶじ》に阪本《さかもと》に著《ちやく》するを得《え》、光秀《みつひで》に面會《めんくわい》した。光秀《みつひで》は温言以《をんげんもつ》て彼《かれ》を諭《さと》し、彼《かれ》の力《ちから》を藉《か》りて、高山右近《たかやまうこん》を招降《せうかう》せんとした。彼《かれ》は面從《めんじゆう》した、然《しか》も私《ひそ》かに高山《たかやま》に向《むか》つて、其《そ》の方向《はうかう》を誤《あやま》るなからんことを誡《いまし》め、若《も》し萬《まん》一|明智《あけち》に興せん乎《か》、我等教徒《われらけうと》は、必《かなら》ず十|字架《じか》に上《のぼ》るの、憂目《うきめ》を見《み》むと警告《けいこく》した。明智《あけち》の運命《うんめい》は、此《こ》の一|外國宣教師《ぐわいこくせんけうし》の目《め》にさへも、果敢《はか》なきものと映《えい》じた。
然《しか》も光秀《みつひで》は、全《まつた》くの明盲目《あきめくら》ではなかつた。彼《かれ》は信長《のぶなが》の故智《こち》を襲《おそ》うて、人心《じんしん》を收攬《しうらん》する所以《ゆゑん》を、解《かい》せぬではなかつた。されば彼《かれ》は本能寺事變《ほんのうじじへん》の即日《そくじつ》に、京都市民《きやうとしみん》に向《むか》つて、減税《げんぜい》の沙汰《さた》をした。
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本能寺《ほんのうじ》事終《ことをは》り、明智殿内《あけちどのうち》溝尾少兵衞殿《みぞをせうべゑどの》、町々《まち/\》靜《しづ》まり候《さふら》へ、別《べつ》の子細《しさい》ならず、惟任日向守殿《これたふひふがのかみどの》、今日《こんにち》より天下殿《てんかどの》に御成候間《おなりさふらふあいだ》、洛中《らくちゆう》の|地子御免被[#レ]成候《ぢしごめんなされさふらふ》と、町々《まち/\》を觸《ふ》るゝにぞ。明智殿《あけちどの》の謀反《むほん》とは知《し》れ申候《まをしさふらふ》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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又《ま》た細川忠興軍功記《ほそかはたゞおきぐんこうき》には、
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光秀公《みつひでこう》は、|具足乍[#レ]召御參内被[#レ]成《ぐそくめしながらごさんだいなされ》。|扨洛中之地子被[#レ]成[#二]御免[#一]《さてらくちゆうのぢしごめんなされ》、|高札御立被[#レ]成候事《かうさつおんたてなされさふらふこと》。
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而《しか》して彼《かれ》は朝廷《てうてい》に奉供《ほうきよう》し、五|山《ざん》の寺院等《じゐんとう》にも、それ/″\|贈遺《ぞうゐ》する事《こと》を忘《わす》れなかつた。然《しか》も彼《かれ》は大計《たいけい》に達《たつ》せなかつた。彼《かれ》は先《ま》づ誰《たれ》を敵《てき》として、其《そ》の雌雄《しゆう》を決《けつ》す可《べ》きやを、明白《めいはく》に、確實《かくじつ》に識得《しきとく》せなかつた。
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[#6字下げ][#小見出し]光秀の失望[#小見出し終わり]
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先づ畿内を平治せんとて、[#割り注]○光秀[#割り注終わり]安土山には明智左馬助を殘し置、佐和山[#割り注]○近江犬山郡[#割り注終わり]に荒木山城[#割り注]○行重[#割り注終わり]子共二人入置、其身は小性馬廻弓鐵砲計にて、順慶[#割り注]○筒井[#割り注終わり]に直談す可き事ありと以[#二]飛札[#一]日限を究め、八幡[#割り注]○山城久世郡[#割り注終わり]に近き洞ヶ峠に參陣し、筒井を待居たり、光秀が二男に阿古[#割り注]○即チ十次郎[#割り注終わり]と云て十二歳に成りしを同道し、之を質心に順慶に出し置、入魂之儀彌※[#二の字点、1-2-22]深うせんと謀りけれども、洞ヶ峠へも不[#二]出合[#一]けれは、日向守諸方の心當多く相違してけり、左れば其夜[#割り注]○六月十日[#割り注終わり]の獨り言に、扨も斯く思ひし事共の違ふもの哉、柴田[#割り注]○勝家[#割り注終わり]は長尾喜平治[#割り注]○上杉景勝[#割り注終わり]と於[#二]越中[#一]對陣、羽柴筑前守は毛利右馬頭[#割り注]○輝元[#割り注終わり]と於[#二]備中[#一]對陣、何も不[#レ]經[#二]年月[#一]は兎角《とかう》の隙は明間敷と思ひつるに、各※[#二の字点、1-2-22]得[#二]勝利[#一]たると也、又長岡越中守[#割り注]○細川忠興[#割り注終わり]筒井順慶などは與すると云にも不[#レ]及、同胞の因[#割り注]○忠興及ヒ順慶ノ嗣定次並ニ光秀ノ女婿[#割り注終わり]に思ひつるに、是又左も侍らず、家康は泉州堺の津より下向せられば、伊賀地に於て一揆として討留よ、其國の儀前々の如く一揆に恩賜す可き旨云遺し侍る處に、是も無[#レ]恙三州下着となん聞し也、織田七兵衞尉[#割り注]○信澄[#割り注終わり]は相果ると云、一つとして捗々數事は無しと呆れ果て囁きにけり。〔甫庵太閤記〕
[#ここで字下げ終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【一四】本能寺事變後の形勢[#中見出し終わり]
光秀《みつひで》は、自《みづ》から悲觀《ひくわん》せざるを得《え》なかつた。彼《かれ》は一たび信長《のぶなが》を斃《たふ》せば、近畿《きんき》は風靡《ふうび》すると考《かんが》へた。然《しか》も其《そ》の最《もつと》も當《あ》てにしたる、愛婿《あいせい》細川忠興《ほそかはたゞおき》、及《およ》び其《そ》の僚友《れういう》にして、寧《むし》ろ彼《かれ》の幕下《ばくか》とも云《い》ふ可《べ》かりし、忠興《たゞおき》の父《ちゝ》藤孝《ふぢたか》さへも、決然《けつぜん》として、之《これ》を拒絶《きよぜつ》した。
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光秀《みつひで》年頃《としごろ》の本意《ほんい》とげて、織田殿父子《おだどのふし》失《うしな》ひぬ。折《をり》ふし攝津《せつつ》闕國《けつこく》に侍《はべ》れば、忠興《たゞおき》に參《まゐ》らする所《ところ》なり。急《いそ》ぎ馳《は》せ來《きたつ》て、力《ちから》あはせ給《たま》ふべしといひしかば、忠興父子《たゞおきふし》大《おほい》に怒《いか》つて、返答《へんたふ》にも及《およ》ばず。信長《のぶなが》の御爲《おんため》に髮《かみ》おし切《き》り、二|心《ごゝろ》なきよしを心《こゝろ》の中《うち》に誓《ちか》ひ、また忠興《たゞおき》おのが妻《つま》に子供《こども》つけて、山深《やまふか》き所《ところ》に押込《おしこ》め、急《いそ》ぎ秀吉《ひでよし》の許《もと》に使《つかひ》たてゝ、共《とも》に心《こゝろ》を合《あは》せて、光秀《みつひで》を誅《ちゆう》すべきよし諜状《てふじやう》して、軍勢《ぐんぜい》を催《もよほ》す。〔藩翰譜〕[#「〔藩翰譜〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
但《た》だ豫《かね》て光秀《みつひで》の親友《しんいう》にして、其子《そのこ》十|次郎《じらう》を、養子《やうし》とするの約束《やくそく》ある、郡山城主筒井順慶《こほりやまじやうしゆつゝゐじゆんけい》は、當時《たうじ》信長《のぶなが》の命《めい》を受《う》けて、六|月《ぐわつ》二|日《か》、信孝《のぶたか》に從《したが》ひ、四|國征伐《こくせいばつ》の途《と》に上《のぼ》つたが、途中《とちゆう》にて本能寺《ほんのうじ》の變《へん》を聞《き》き、奈良附近《ならふきん》に滯在《たいざい》し。四|日《か》其《そ》の舊臣《きうしん》井戸良弘《ゐどよしひろ》(山城槇島城主)[#「(山城槇島城主)」は1段階小さな文字]をして、兵《へい》を率《ひき》ゐ、入京《にふきやう》せしめた。然《しか》も彼自《かれみづか》ら形勢《けいせい》を觀望《くわんばう》して居《ゐ》た。彼《かれ》は味方《みかた》とするも、先《まづ》は怪《あや》しき味方《みかた》であつた。
光秀《みつひで》は安土城《あづちじやう》の留守居《るすゐ》たる、蒲生賢秀《がまふかたひで》を招降《せうかう》したが、彼《かれ》は本能寺《ほんのうじ》の變報《へんぱう》に接《せつ》するや、否《いな》や、六|月《ぐわつ》三|日《か》、信長《のぶなが》の妻《つま》生駒氏《いこまし》以下《いか》を奉《ほう》じて、我《わ》が居城《きよじやう》日野《ひの》に退《しりぞ》き、其子《そのこ》氏郷《うぢさと》―信長《のぶなが》の婿《むこ》―と與《とも》に、堅守《けんしゆ》して、之《これ》に應《おう》ぜなかつた。然《しか》も光秀《みつひで》は、秀吉《ひでよし》の居城《きよじやう》長濱《ながはま》、丹羽長秀《にはながひで》の居城《きよじやう》佐和山《さわやま》を取《と》り、山本山《やまもとやま》の城主阿閉貞秀《じやうしゆあべさだひで》、山崎《やまざき》の城主山崎堅家等《じやうしゆやまざきかたいへら》を降《くだ》し。而《しか》して京極高次等《きやうごくたかつぐら》も、此《こ》の騷《さわ》ぎに乘《じよう》じて、舊領《きうりやう》を恢復《くわいふく》す可《べ》く、光秀《みつひで》に※[#「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31]《くわん》を通《つう》じた。然《しか》も何《いづ》れも斗※[#「竹かんむり/悄のつくり」、第3水準1-89-66]《とせう》の輩《はい》のみにて、豫《かね》て光秀《みつひで》の當《あて》にしたる味方《みかた》は、一|人《にん》も應《おう》ずる者《もの》はなかつた。單《ひと》り織田信澄《おだのぶずみ》は、彼《かれ》の婿《むこ》にて、信澄《のぶずみ》の父《ちゝ》信行《のぶゆき》―信長《のぶなが》の弟《おとうと》―は、信長《のぶなが》に殺《ころ》されたる宿怨《しゆくえん》あれば、彼《かれ》に應《おう》ず可《べ》き色《いろ》を顯《あらは》したが、大阪城《おほさかじやう》に於《おい》て、六|月《ぐわつ》五|日《か》、丹羽長秀《にはながひで》、織田信孝等《おだのぶたから》の爲《た》めに殺《ころ》された。光秀《みつひで》が悲觀《ひくわん》も、今《いま》は是非《ぜひ》なき次第《しだい》ではない乎《か》。
當時《たうじ》家康《いへやす》は、五|月《ぐわつ》廿八|日《にち》に、京都《きやうと》を見物《けんぶつ》し、其《そ》の晦日《みそか》に堺《さかひ》を遊覽《いうらん》し、最早《もはや》信長《のぶなが》も上京《じやうきやう》ある可《べ》しとて、先《ま》づ茶屋《ちやや》四|郎《ろ》二|郎《らう》を遣《つかは》し、六|月《ぐわつ》二|日《か》、本多忠勝《ほんだたゞかつ》を先拂《さきばらひ》として、出立《しゆつたつ》した。忠勝《たゞかつ》は牧方邊《ひらかたへん》にて、四|郎《ろ》二|郎《らう》が本能寺《ほんのうじ》の變《へん》を、還《かへ》り報《はう》じたるに會《くわい》し。相伴《あひともな》うて引返《ひきかへ》し、飯盛山麓《いひもりさんろく》にて家康《いへやす》に面會《めんくわい》し、其旨《そのむね》を告《つ》げた。家康《いへやす》は此《こ》の儘《まゝ》京都《きやうと》に上《のぼ》り、知恩院《ちおんゐん》にて、腹切《はらきつ》て信長《のぶなが》と死《し》を共《とも》にせんと云《い》うたが、本多忠勝等《ほんだたゞかつら》の苦諫《くかん》によりて思《おも》ひ止《とゞま》り、伊賀越《いがごえ》の間道《かんだう》より辛《から》うじて還《かへ》つたとは、改正參河後風土記《かいせいみかはごふどき》、徳川實紀等《とくがはじつきとう》の所説《しよせつ》である。果《はた》して家康《いへやす》が斯《か》く言《い》うた乎《か》、否乎《いなか》は、頗《すこぶ》る疑《うたが》はしい。但《た》だ彼等《かれら》君臣《くんしん》の評議《ひやうぎ》一|決《けつ》して、身《み》を以《もつ》て、此《こ》の厄難《やくなん》より免《まぬか》れた丈《だけ》は事實《じじつ》ぢや。此《これ》には先年《せんねん》門徒《もんと》一|揆《き》の時《とき》より、徳川家《とくがはけ》を去《さ》り、四|方《はう》に流寓《りうぐう》したる本多正信《ほんだまさのぶ》が、歸參《きさん》して、菟道《うぢ》にて家康《いへやす》に謁《えつ》し、其《そ》の嚮導《きやうだう》にて、甚《はなは》だ好都合《かうつがふ》であつた。家康《いへやす》と、正信《まさのぶ》との縁《えん》は、此時《このとき》より再《ふたゝ》び繋《つなが》り初《はじ》めた。
當時《たうじ》瀧川《たきがは》は、關東探題《くわんとうたんだい》とし、上州厩橋《じやうしううまやばし》にありて、北條氏政《ほうでううぢまさ》と相對《あひたい》し。柴田勝家《しばたかついへ》は、佐々《さつさ》、前田等《まへだら》を率《ひき》ゐ、上杉景勝《うへすぎかげかつ》と相對《あひたい》して、越中《ゑつちゆう》にあり。何《いづ》れも此變《このへん》に及《およ》ぶ可《べ》くもない。又《ま》た細川《ほそかは》、高山《たかやま》、中川《なかがは》、池田等《いけだら》は、何《いづ》れも出征《しゆつせい》の準備中《じゆんびちゆう》であつて、直《たゞ》ちに光秀《みつひで》と戰《たゝか》ふ可《べ》きではあるが、其《そ》の勢力《せいりよく》は、何《いづ》れも褊裨《へんぴ》の格《かく》にて、未《いま》だ相當《あひあた》るに足《た》らず。獨《ひと》り織田信雄《おだのぶを》と、信孝《のぶたか》とは、何故《なにゆゑ》に傍觀坐視《ばうくわんざし》したのであつた乎《か》。信雄《のぶを》は伊勢松《いせまつ》ヶ|島城《しまじやう》にありて、伊賀《いが》をも併《あは》せ領《りやう》した。然《しか》も彼《かれ》は蒲生賢秀《がまふかたひで》より、應援《おうゑん》を請《こ》うたるに拘《かゝは》らず、容易《ようい》に出兵《しゆつぺい》せず。其《そ》の質子《ちし》を出《いだ》すに及《およ》んで、漸《やうや》く九|日《か》に兵《へい》を近江土山《あふみつちやま》に出《いだ》した。信孝《のぶたか》は、丹羽長秀《にはながひで》、蜂屋頼隆等《はちやよりたから》を率《ひき》ゐて、大阪《おほさか》に在《あ》り、正《ま》さに四|國《こく》に渡《わた》らんとしつゝあつた。乃《すなは》ち此《こ》の兵力《へいりよく》を以《もつ》て、京都《きやうと》を指《さ》し、諸將《しよしやう》を糾合《きうがふ》するも、決《けつ》して不可能《ふかのう》の事《こと》ではなかつた。然《しか》も彼《かれ》は手《て》を拱《きよう》して、秀吉《ひでよし》の來《きた》るを待《ま》つて居《ゐ》た。
單《たん》に天《てん》の暦數《れきすう》が、秀吉《ひでよし》をして、信長《のぶなが》の後繼者《こうけいしや》たらしめたるのみならず、凡《およ》そ織田家《おだけ》の一|門《もん》、將士《しやうし》が、何《いづ》れも自《みづ》から其《そ》の候補者《こうほしや》たる資格《しかく》を取《と》り消《け》した。
[#5字下げ][#中見出し]【一五】姫路に於ける秀吉[#中見出し終わり]
光秀《みつひで》は思案《しあん》、投首中《なげくびちゆう》に、空《むな》しく一|刻《こく》千|金《きん》の時機《じき》を經過《けいくわ》した。畿甸附近《きでんふきん》の織田家《おだけ》一|門《もん》、諸將士《しよしやうし》は、何《いづ》れも狼狽《らうばい》し、周章《しうしやう》し、失神《しつしん》し、其《そ》の或者《あるもの》は形勢《けいせい》を觀望《くわんばう》し、或者《あるもの》は只《た》だ自衞《じゑい》の謀《はかりごと》を爲《な》し、或者《あるもの》は秀吉《ひでよし》に頼《よ》りて、事《こと》を與《とも》にせんとした。彼等《かれら》は所謂《いはゆ》る、公等《こうら》碌々《ろく/\》人《ひと》に依《よ》りて、事《こと》を成《な》すの徒《と》であつた。然《しか》も光秀《みつひで》は何故《なにゆゑ》に第《だい》一の敵《てき》は秀吉《ひでよし》であり、第《だい》二の敵《てき》も亦《また》、秀吉《ひでよし》であり。到頭《たうとう》の勝敗《しようはい》は、只《た》だ秀吉《ひでよし》との間《あひだ》に、決《けつ》せらる可《べ》きものであることを、會得《ゑとく》せなかつたであらう乎《か》。
秀吉《ひでよし》の姫路《ひめぢ》に歸著《きちやく》したのは、豐鑑《ほうかん》には六|日《か》の夜《よ》とある。大村由己《おほむらいうき》の惟任退治記《これたふたいぢき》及《およ》び秀吉《ひでよし》の書簡《しよかん》には、何《いづ》れも七|日《か》とある。川角太閤記《かはかくたいかふき》には、八|日《か》の午前《ごぜん》十|時頃《じごろ》とある。然《しか》も此《こ》の到著時日《たうちやくじじつ》の相違《さうゐ》は、必《かなら》ずしも問題《もんだい》とするに足《た》らぬ。そは何《いづ》れも其《そ》の姫路城《ひめぢじやう》發程《はつてい》の、天正《てんしやう》十|年《ねん》六|月《ぐわつ》九|日《か》なることに於《おい》て、一|致《ち》して居《を》るからである。而《しか》して此間《このかん》の川角太閤記《かはかくたいかふき》の記事《きじ》は、殆《ほと》んど秀吉《ひでよし》の面目《めんもく》を活躍《くわつやく》して、三百|餘載《よさい》の下《もと》、其《そ》の磊落《らいらく》、豪濶《がうくわつ》なる風神《ふうしん》に、接《せつ》せしむるの感《かん》がある。今《い》ま其《そ》の意味《いみ》を摘記《てきき》すれば、左《さ》の如《ごと》しだ。
彼《かれ》は八|日《か》の午前《ごぜん》十|時頃《じごろ》、姫路城《ひめぢじやう》に到著《たうちやく》するや、否《いな》や、直《たゞ》ちに入浴《にふよく》した。彼《かれ》は同行《どうかう》の堀久太郎《ほりきうたらう》に挨拶《あいさつ》した。(堀は信長の使命を帶びて、信長發向の模樣視察の爲め、高松に罷り下りたる者。)[#「(堀は信長の使命を帶びて、信長發向の模樣視察の爲め、高松に罷り下りたる者。)」は1段階小さな文字]母《はゝ》より早々《さう/\》面會《めんくわい》致《いた》したしと申《まを》すに付《つき》、お先《さき》に失敬《しつけい》する。貴所《きしよ》は信勝《のぶかつ》(信長の子、秀吉の養子)[#「(信長の子、秀吉の養子)」は1段階小さな文字]と緩々《ゆる/\》入浴《にふよく》せられよと、彼《かれ》は入浴《にふよく》し。湯殿《ゆどの》の揚屋《あがりや》に腰打掛《こしうちか》け、一|切《さい》の命令《めいれい》を發《はつ》した。第《だい》一は小姓《こしやう》に向《むか》つて、明日《みやうにち》出陣《しゆつぢん》の軍令《ぐんれい》を觸《ふ》れしめた。次《つぎ》に金奉行《かねぶぎやう》を召寄《めしよ》せ、在高《ありだか》を尋《たづ》ねた。銀子《ぎんす》七百五十|貫《くわん》、金子《きんす》八百|枚餘《まいよ》ありと答《こた》へた。秀吉《ひでよし》は一|分《ぶ》一|厘《りん》も剩《あま》さず、之《これ》を蜂須賀彦右衞門《はちすかひこゑもん》に渡《わた》し、蜂須賀《はちすか》の手《て》より番頭《ばんがしら》、鐵砲《てつぱう》、弓預置場頭等《ゆみあづけおきばがしらとう》地行《ちぎやう》に應《おう》じて、分配《ぶんぱい》せしめよと命《めい》じた。次《つぎ》に藏奉行《くらぶぎやう》を召寄《めしよ》せ、米《こめ》の在高《ありだか》を尋《たづ》ねた。奉行《ぶぎやう》は八|萬《まん》五千|石許《ごくばか》りある可《べ》しと答《こた》へた。秀吉《ひでよし》は今日《こんにち》より大晦日迄《おほみそかまで》、日頃《ひごろ》扶持取《ふちと》る者共《ものども》に、五|倍《ばい》増加《ぞうか》して與《あた》へよ。籠城《ろうじやう》の覺悟《かくご》なければ、兵粮《へうらう》は無用也《むようなり》。足輕《あしがる》、弓《ゆみ》、鐵砲《てつぱう》の者《もの》の妻子《さいし》に、せめてせんじ茶《ちや》をも、ゆるゆるとのむべきため也《なり》と云《い》うた。次《つぎ》に高松陣《たかまつぢん》の會計方《くわいけいかた》を召寄《めしよ》せた。剩餘金《じようよきん》若干《じやくかん》と問《と》うた。銀子《ぎんす》は僅《わづ》か十|貫目《くわんめ》、金子《きんす》は四百六十|枚《まい》と答《こた》へた。此《これ》は明日《みやうにち》持參《ぢさん》せよ、使者飛脚《ししやびきやく》に與《あた》へ、若《もし》くは褒賞《はうしやう》に與《あた》ふ可《べ》き、必要《ひつえう》もあらむと云《い》うた。斯《か》くて彼《かれ》は、入浴《にふよく》を終《をは》ると同時《どうじ》に、出陣《しゆつぢん》に關《くわん》する一|切《さい》の措置《そち》は、既《すで》に辨《べん》じ了《をは》つた。
彼《かれ》の意氣《いき》は、天下《てんか》を呑《の》んだ。彼《かれ》の眼中《がんちゆう》には、光秀《みつひで》は勿論《もちろん》、何者《なにもの》もなかつた。彼《かれ》は堀《ほり》に向《むか》つて、其《そ》の命令《めいれい》を下《くだ》したる始末《しまつ》を語《かた》り、此度《このたび》は大博奕《おほばくち》を打《う》つて、御目《おめ》に懸《か》けむと云《い》うた。堀《ほり》は當年《たうねん》三十にして、信長《のぶなが》の將校中《しやうかうちゆう》、最《もつと》も秀傑《しうけつ》の一|人《にん》であつた。彼《かれ》は風《かぜ》も順風《じゆんぷう》だ、方《ま》さに帆《ほ》を揚《あ》ぐ可《べ》き時《とき》が來《き》た。御身《おんみ》の位置《ゐち》としては、二《ふた》つ掛《が》けの御分別《ごふんべつ》尤《もつとも》であると答《こた》へた。歌人《かじん》幽古《いうこ》は今《いま》が櫻《さくら》の花盛《はなざか》りにて候《さふらふ》、御花見《おはなみ》御尤《ごもつとも》と存《ぞん》ずると和《わ》した。
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|黒田官兵衞指出被[#二]申上[#一]候事《くろだくわんべゑさしいでまをしあげられさふらふこと》、主《しゆ》には申上《まをしあ》げにくき事《こと》を|被[#レ]申《まをされ》たなど、人々《ひと/″\》申《まをし》あへると承候《うけたまはりさふらふ》。
殿樣《とのさま》には御愁嘆《ごしうたん》の樣《やう》には相見《あひみ》え申候得《まをしさふらえ》ども、御《おん》そこ心《ごゝろ》をば、推量仕候《すゐりやうつかまつりさふらふ》。目出度事《めでたきこと》出來《いでく》るよ、御博奕《おんばくち》をも|被[#レ]遊《あそばされ》、|幽古被[#二]申上[#一]候通《ゆうこまをしあげられさふらふとほり》、吉野《よしの》の花《はな》も今《いま》盛《さかり》ぞや。櫻《さくら》の花《はな》寒《さむさ》のうちに|御覽被[#レ]成度《ごらんなされたし》と|被[#二]思召[#一]候《おぼしめされさふらう》ても、時來《ときき》たらでは見《み》られぬ花也《はななり》。春《はる》の雨風《あまかぜ》の陽氣《やうき》を請《うけ》、おのがまゝに咲出《さきい》づるものなれば、心《こゝろ》に任《まか》せぬと相見《あひみ》え申候《まをしさふらふ》。此上《このうへ》は光秀《みつひで》と分目《わけめ》の|御合戰被[#レ]成《ごかつせんなされ》、御尤《ごもつとも》に候《さふらふ》。目出度《めでたい》ぞや、御花見初《おはなみはじめ》と覺申候《おぼえまをしさふらふ》と戯《たはむ》れ|被[#二]申上[#一]候《まをしあげられさふらふ》。秀吉《ひでよし》御心《おこゝろ》のうちには、我心中《わがしんちゆう》と一つと|被[#二]思召[#一]《おぼしめされ》けん、につこと御笑《おわら》ひ|被[#レ]成候《なされさふらふ》と承候事《うけたまはりさふらふこと》。
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[#地から2字上げ]〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
信長《のぶなが》の不幸《ふかう》が、秀吉《ひでよし》の開運《かいうん》たる事《こと》は、敵方《てきがた》には小早川隆景《こばやかはたかかげ》、味方《みかた》には黒田孝高《くろだよしたか》、何《いづ》れも期《き》せずして、觀測《くわんそく》したる所《ところ》だ。惟《おも》ふに秀吉《ひでよし》其人《そのひと》に取《と》りては、恰《あたか》も新《あら》たなる天地《てんち》が、闢《ひら》けたる心地《こゝち》がしたであらう。後人《こうじん》或《あるひ》は光秀《みつひで》の謀反《むほん》を以《もつ》て、秀吉《ひでよし》の教唆《けうさ》に出《い》づる〔柏崎物語〕[#「〔柏崎物語〕」は1段階小さな文字]と云《い》ふものがあるが、それは餘《あま》りに穿《うが》ち過《す》ぎた、想像説《さうざうせつ》ぢや。秀吉《ひでよし》は此《こ》の好機《かうき》を利用《りよう》したには、相違《さうゐ》ないが、此《こ》の好機《かうき》を製造《せいざう》す可《べ》く、信長《のぶなが》を殺《ころ》すに手傳《てつだ》うたとは思《おも》へない。秀吉《ひでよし》はそれ程《ほど》の小丈夫《せうぢやうぶ》ではなかつた。それ程《ほど》の腹黒《はらぐろ》でもなかつた。
[#5字下げ][#中見出し]【一六】秀吉の出陣[#中見出し終わり]
秀吉《ひでよし》は十二|分《ぶん》の覺悟《かくご》をした。此《こ》の一|戰《せん》にて、生死《しやうし》の運命《うんめい》を決《けつ》せんとした。彼《かれ》は絶對《ぜつたい》に退却《たいきやく》の準備《じゆんび》を放棄《はうき》した。金銀《きんぎん》も有《あ》る限《かぎ》り、粮米《りやうまい》も有《あ》る限《かぎ》り、皆《み》な散《さん》じ盡《つく》した。而《しか》して姫路城《ひめぢじやう》の留守居《るすゐ》三|好武藏守《よしむさしのかみ》、小出播磨守《こいではりまのかみ》には、若《も》し萬《まん》一|合戰《かつせん》に負《ま》け、打死《うちじに》せば、秀吉《ひでよし》の母《はゝ》も、秀吉《ひでよし》の妻《つま》も、悉《こと/″\》く處分《しよぶん》をなし、城中《じやうちゆう》に家《いへ》一|宇《う》も殘《のこ》さず、燒拂《やきはら》へと申《まを》し含《ふく》めた。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
其《そ》の歸依僧《きえそう》が、明日《みやうにち》の出陣《しゆつぢん》は面白《おもしろ》からず、何《なん》となれば二度《ふたたび》歸《かへ》らぬ惡日《あくにち》なりと、諫《いさ》めたに對《たい》し。果《はた》して然《しか》る乎《か》、秀吉《ひでよし》の爲《た》めには、一|段《だん》の吉日也《きちにちなり》、固《もと》より打死《うちじに》の覺悟《かくご》なれば、再度《さいど》生《い》きて還《かへ》る間敷也《まじきなり》。若《も》し光秀《みつひで》に打勝《うちか》たば、思《おもひ》の儘《まゝ》に何《いづ》れの國《くに》なりとも居城《きよじやう》を構《かま》へむ。されば何《いづ》れにしても明日《みやうにち》は、我爲《わがた》めには吉日《きちにち》ぢやと云《い》うた。而《しか》して彼《かれ》は黒田孝高《くろだよしたか》に命《めい》じて、臨時《りんじ》に十四五|人《にん》の右筆《いうひつ》を募《つの》り、出陣《しゆつぢん》の著到《ちやくたう》を附《つ》けしむ可《べ》く、用意《ようい》せしめた。
斯《か》くて八|日《か》の午後《ごご》十|時頃《じごろ》には、一|番貝《ばんがひ》を鳴《な》らした、此《こ》れは食事《しよくじ》の支度《したく》であつた。十二|時頃《じごろ》には二|番貝《ばんがひ》にて、人夫以下《にんぷいか》を出立《しゆつたつ》せしめた。三|番貝《ばんがひ》は城外《じやうぐわい》にて人數揃《にんずぞろへ》の爲《た》めであつたが、秀吉《ひでよし》は自《みづ》から城《しろ》の大手口《おほてぐち》の欄干橋迄《らんかんばしまで》出張《しゆつちやう》し、橋《はし》の中程《なかほど》にて、貝《かひ》を吹《ふ》き立《た》てた。而《しか》して彼《かれ》は自《みづ》から眞先《まつさき》に、海道《かいだう》の野《の》に出《い》で、將几《しやうぎ》に腰掛《こしか》け、其《そ》の左右《さいう》に高張提灯《たかはりぢやうちん》を點《てん》じ、將士《しやうし》の出揃《でそろ》ふを待《ま》ち受《う》けた。時《とき》は既《すで》に九|日《か》の午前《ごぜん》二|時頃《じごろ》となつた。
何《いづ》れも追々《おひ/\》に馳來《はせきた》り、姓名《せいめい》を著到《ちやくたう》に附《つ》けた。斯《か》くて日《ひ》は漸《やうや》くほのぼのと曙《あ》け、西風《せいふう》はそよ/\と吹《ふ》き初《そ》め、旗《はた》、吹貫物《ふきぬきもの》とも、何《いづ》れも京《きやう》の方《はう》に吹《ふ》き靡《なび》けた。秀吉《ひでよし》は心地好《こゝちよ》く、此《こ》の光景《くわうけい》を眺《なが》めた。備《そな》へは蜂須賀彦右衞門《はちすかひこゑもん》、黒田官兵衞《くろだくわんべゑ》、森勘《もりかん》八|等《ら》に命《めい》じて、五|段《だん》に立《た》てしめた。鐵炮大將中村孫平次《てつぱうたいしやうなかむらまごへいじ》が、先手《さきて》となつた。堀尾茂助《ほりをもすけ》之《これ》に次《つ》いだ。秀吉《ひでよし》より三|町許《ちやうばか》り先《さき》に、信勝《のぶかつ》は行《ゆ》いた。堀久太郎等《ほりきうたらうら》は、秀吉《ひでよし》の馬《うま》の周圍《しうゐ》に行《ゆ》いた。秀吉《ひでよし》の後《うしろ》八|町許《ちやうばか》り隔《へだ》てゝ、秀吉《ひでよし》の異父弟《いふてい》秀長《ひでなが》は行《ゆ》いた。
秀吉《ひでよし》の攝津《せつつ》に入《い》るや、茨木《いばらき》の中川清秀《なかがはきよひで》は、八|歳《さい》の女《ぢよ》、高槻《たかつき》の高山長房《たかやまながふさ》は、八|歳《さい》の男《だん》を、人質《ひとじち》として送《おく》つた。秀吉《ひでよし》は、兩人《りやうにん》の心掛《こゝろがけ》を嘉《よみ》して、直《たゞ》ちに其《そ》の質子《ちし》を送還《そうくわん》した。而《しか》して秀吉《ひでよし》の尼崎《あまがさき》に著《ちやく》したのは、十一|日《にち》午前《ごぜん》八|時頃《じごろ》であつた。大村由己《おほむらいうき》が、所謂《いはゆ》る『|諸卒雖[#レ]不[#二]相揃[#一]《しよそつあひそろはずといへども》、九|日立[#二]姫路[#一]《かひめぢをたち》、|無[#二]晝夜之堺[#一]《ちうやのさかひなく》、|不[#レ]休[#二]人馬息[#一]《じんばのいきをもやすめず》、|至[#二]尼崎[#一]《あまがさきにいたる》。』とは、文字通《もんじどほ》り精確《せいかく》の事實《じじつ》であつた。
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尼崎《あまがさき》に御著《ごちやく》にて、禪寺《ぜんでら》はなきかと御尋《おたづね》の處《ところ》に、小庵《せうあん》一つ尋《たづ》ね出《いだ》し、御腰《おんこし》を|被[#レ]掛《かけられ》、暫《しばし》御《おん》やすらひ有《あり》て、御諚《ごぢやう》には、信勝《のぶかつ》、久太郎殿《きうたらうどの》は、|被[#レ]聞候《きかれさふら》へ、上樣《うへさま》御切腹《ごせつぷく》の通《とほり》、備中高松《びつちゆうたかまつ》へ注進《ちゆうしん》の時《とき》より、精進《せうじん》けつさいあきらかに仕候《つかまつりさふらふ》。はや敵《てき》相中間《あひちゆうかん》も程近《ほどちか》く罷成候上《まかりなりさふらふうへ》は、|可[#レ]及[#二]合戰[#一]《かつせんにおよぶべき》まで也《なり》。年寄故《としよりゆゑ》此中《このぢゆう》は腹中《ふくちゆう》も相違《あひちがひ》力《ちから》おち申候樣《まをしさふらふやう》に覺候《おぼえさふらふ》。精進《せうじん》をたち|可[#レ]申候《まをすべくさふらふ》。御奉公《ごほうこう》には力付《ちからづけ》鑓《やり》をもとり、太刀打《たちうち》の覺悟也《かくごなり》。信勝《のぶかつ》、久太郎殿《きうたらうどの》は、若《わか》く御座候間《ござさふらふあひだ》、精進《せうじん》を御《おん》たち|被[#レ]成《なされ》まじく候《さふらふ》とて、其次《そのつぎ》に臺所衆《だいどころしゆう》え|魚鳥可[#レ]成程料理仕《ぎよてうをなるべきほどれうりつかまつり》、我前《わがまへ》へ出《いだ》せよ。さらば亭主《ていしゆ》の僧《そう》をよび出《いだ》せよとて、御行水《おんぎやうずゐ》を|被[#レ]成《なされ》、御《お》ぐしをおろされ候《さふらふ》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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彼《かれ》は其《そ》の精力《せいりよく》を著《つ》くる可《べ》く、素菜《そさい》を去《さ》りて、葷肉《くんにく》を喫《きつ》した。而《しか》して信長《のぶなが》の弔合戰《とむらひがつせん》を標徴《へうちよう》す可《べ》く、故《ことさ》らに剃髮《ていはつ》した。而《しか》して堀《ほり》と、信勝《のぶかつ》とには、強《し》ひて剃髮《ていはつ》を止《とゞ》めしめ、僅《わづ》かに其《そ》の前髮《まへがみ》を剪《き》らしめた。彼《かれ》は先《ま》づ信勝《のぶかつ》に盃《さかづき》を與《あた》へ、明智《あけち》は親《おや》の敵《かたき》にして、又《ま》た主《しゆ》の敵也《かたきなり》。卿須《おんみすべか》らく先《ま》づ討死《うちじに》せよ、予《よ》は之《これ》を見屆《みとゞ》けて後《のち》、討死《うちじに》せむと云《い》うた。
秀吉《ひでよし》は與《とも》に光秀《みつひで》を伐《う》つ可《べ》く、附近《ふきん》の諸將《しよしやう》に移檄《いげき》した。十二|日《にち》には池田信輝《いけだのぶてる》、中川清秀《なかがはきよひで》、高山長房等《たかやまながふさら》、皆《み》な來《きた》り會《くわい》した。而《しか》して戰鬪《せんとう》の準備《じゆんび》は既《すで》に出來《しゆつたい》した。
秀吉《ひでよし》が此《かく》の如《ごと》く、急速《きふそく》に攻《せ》め上《のぼ》らんとは、光秀《みつひで》は、夢《ゆめ》には思《おも》ひ及《およ》ばなかつた。彼《かれ》は五|日《か》安土《あづち》に來《きた》つたが、頼《たの》みに思《おも》ひし細川父子《ほそかはふし》は、彼《かれ》と絶《た》ち、筒井《つゝゐ》さへも、其《そ》の底意《そこい》測《はか》り難《がた》く、加《くは》ふるに其婿《そのむこ》織田信澄《おだのぶずみ》は、大阪《おほさか》にて攻殺《せめころ》され。今《いま》は倉皇《さうくわう》として自《みづ》から安《やすん》ぜず、其《そ》の子《こ》十|次郎《じらう》を坂本《さかもと》に措《お》き、荒木行重《あらきゆきしげ》を佐和山《さわやま》に、妻木範賢《つまきのりかた》を長濱《ながはま》に、明智光春《あけちみつはる》を安土《あづち》に配置《はいち》し。自《みづ》から兵《へい》を率《ひき》ゐて。九|日《か》山城《やましろ》に入《い》り、下鳥羽《しもとば》に屯《たむろ》し。伏見《ふしみ》に池田織部《いけだおりべ》、宇治《うぢ》に奧田庄太夫《おくだしやうだいふ》、淀城《よどじやう》に番頭大炊助《ばんがしらおほゐのすけ》を配置《はいち》し。勝龍寺城《しようりゆうじじやう》には三|宅綱朝《やけつなとも》を派《は》し、明智茂朝《あけちしげとも》を召還《せうくわん》し、又《ま》た藤田行政《ふぢたゆきまさ》を、筒井順慶《つゝゐじゆんけい》に送《おく》り、其《そ》の來會《らいくわい》を促《うなが》した。
[#5字下げ][#中見出し]【一七】光秀の違算[#中見出し終わり]
光秀《みつひで》は眞逆《まさか》秀吉《ひでよし》が、毛利氏《まうりし》と講和《かうわ》し、一|鞭《べん》直《たゞ》ちに京都《きやうと》を指《さ》して、攻《せ》め上《のぼ》るものとは、豫想《よさう》せなかつた。彼《かれ》は漸《やうや》く十|日《か》の夜《よ》、此報《このはう》に接《せつ》した。
[#ここから1字下げ]
秀吉著陣之事《ひでよしちやくぢんのこと》、|惟任少不[#レ]知[#レ]之《これたふすこしもこれをしらず》、|勝龍寺西山崎之東口迄取[#レ]陣《しようりゆうじのにしやまざきのひがしぐちまでぢんをとり》。各相談云《おの/\あひだんじいふ》、|秀吉於[#二]西國[#一]拘[#二]留之[#一]條《ひでよしさいこくにおいてこれをこうりうするのでう》、急渡働《きつとはたらき》、|於[#二]播州[#一]可[#二]亂入[#一]《ばんしうにおいてらんにふすべく》、|然者可[#二]敗軍[#一]條《さればはいぐんすべくのでう》、|至[#二]國堺[#一]悉可[#二]討果[#一]之評議半《くにざかひにいたりこと/″\くうちはたすべきのひやうぎなかばに》。秀吉之人數《ひでよしのにんず》、昨今間《さくこんのあひだ》、|到[#二]攝州[#一]《せつしうにいたり》、成富田《なりとみた》、|山崎著陣之由有[#二]注進[#一]《やまざきちやくぢんのよしちゆうしんあり》、惟任案相違《これたふあんにさうゐし》、而俄改行《しかしてにはかにてだてをあらためて》、|立[#二]直人數[#一]《にんずをたてなほし》、|定[#下]可[#レ]及[#二]一戰[#一]覺悟[#上]《いつせんにおよぶべくかくごをさだむ》。〔惟任退治記〕[#「〔惟任退治記〕」は1段階小さな文字]
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光秀《みつひで》は實《じつ》に此《こ》の一|著《ちやく》に、大違算《だいゐさん》を來《きた》した。彼《かれ》は毛利氏《まうりし》と與《とも》に、秀吉《ひでよし》を挾撃《けふげき》せんと志《こゝろざ》した。然《しか》も秀吉《ひでよし》は、彼《かれ》よりも先手《せんて》を打《う》つた。光秀《みつひで》の意氣《いき》の沮喪《そさう》、以《もつ》て知《し》る可《べ》しぢや。
將《は》た日和見《ひよりみ》の筒井《つゝゐ》も、形勢《けいせい》の日《ひ》に光秀《みつひで》に甚《はなは》だ非《ひ》なるを見《み》、當初《たうしよ》井戸良弘《ゐどよしひろ》を、入洛《じゆらく》せしめたるを悔《く》い、急《きふ》に居城《きよじやう》郡山《こほりやま》に糧食《りやうしよく》を貯《たくは》へ、今《いま》は光秀《みつひで》の使《つかひ》を受《う》くるも、之《これ》に答《こた》へなかつた。されば光秀《みつひで》は再《ふたゝ》び使《つかひ》を遣《つかは》し、紀伊《きい》、和泉《いづみ》に増封《ぞうほう》し、且《か》つ其《そ》の子《こ》十|次郎《じらう》を質《ち》と爲《な》さんとしたが、筒井《つゝゐ》は之《これ》に應《おう》ぜざるのみならず、却《かへ》つて秀吉《ひでよし》に款《くわん》を通《つう》じた。而《しか》して井戸良弘《ゐどよしひろ》も、十|日《か》には、京都《きやうと》を退去《たいきよ》した。此《かく》の如《ごと》く光秀《みつひで》の豫想《よさう》は、悉《こと/″\》く彼《かれ》を裏切《うらぎ》つた。
且《か》つ如何《いか》なる時代《じだい》でも、大義名分《たいぎめいぶん》は、一|種《しゆ》の力《ちから》である。何人《なんびと》が如何《いか》に考《かんが》へても、光秀《みつひで》は臣《しん》として、君《きみ》を弑《しい》したるもの、秀吉《ひでよし》は其《そ》の賊臣《ぞくしん》を、誅《ちゆう》せんとするもの、理非曲直《りひぎよくちよく》は、分明《ぶんみやう》ぢや。如何《いか》に力《ちから》の世《よ》の中《なか》なればとて、此《こ》の大義名分《たいぎめいぶん》を、無視《むし》する譯《わけ》には參《まゐ》らぬ。假《か》りに双方《さうはう》の實力《じつりよく》が、五|分々々《ぶ/\》であつたとすれば、此《こ》の大義名分《たいぎめいぶん》の向背《かうはい》が、勝敗《しようはい》の分目《わけめ》と云《い》はねばならぬ。即《すなは》ち此《こ》の大義名分《たいぎめいぶん》を振《ふ》り翳《かざ》して進《すゝ》む秀吉《ひでよし》は、坂《さか》を下《くだ》る車《くるま》の如《ごと》く、之《これ》に反《はん》する光秀《みつひで》は、坂《さか》を上《のぼ》る車《くるま》の如《ごと》く、其《そ》の難易《なんい》は、同日《どうじつ》の論《ろん》ではない。况《いは》んや彼等《かれら》は兵力《へいりよく》に於《おい》ても、既《すで》に懸隔《けんかく》あるに於《おい》てをや。
光秀《みつひで》は百|事《じ》齟齬《そご》し、胸中懊惱《きようちゆうあうなう》の際《さい》に於《おい》て、秀吉《ひでよし》の東上《とうじやう》を聞《き》き、今《いま》は兎《と》も角《かく》も、之《これ》に對抗《たいかう》す可《べ》く。十一|日《にち》には自《みづ》から下鳥羽《しもとば》に退《しりぞ》き、急《きふ》に淀城《よどじやう》の修繕《しうぜん》を命《めい》じ、齋藤利三《さいとうとしかず》を洞《ほら》ヶ|嶺《みね》に留《とゞ》めて、筒井順慶《つゝゐじゆんけい》に備《そな》へしめた。
試《こゝろ》みに兩軍《りやうぐん》の兵力《へいりよく》を概觀《がいくわん》すれば、討伐軍《たうばつぐん》は秀吉《ひでよし》を中心《ちゆうしん》として、神戸《かんべ》(織田《おだ》)信孝《のぶたか》、丹羽長秀《にはながひで》、蜂屋頼隆《はちやよりたか》は、大阪《おほさか》に屯《たむろ》し、其他《そのた》高槻《たかつき》の高山《たかやま》、茨木《いばらき》の中川《なかがは》、有岡《ありをか》の池田等《いけだら》にて、秀吉《ひでよし》は手兵《しゆへい》約《やく》一|萬《まん》、彼《かれ》は實《じつ》に討伐軍《たうばつぐん》の主將《しゆしやう》の位置《ゐち》を占《し》めた。此《こ》の七|將《しやう》の兵《へい》を合《がつ》すれば、二|萬《まん》五六千となる可《べ》く。而《しか》して此《こ》の以外《いぐわい》にも、丹後《たんご》に細川父子《ほそかはふし》あり、伊賀《いが》、伊勢《いせ》に織田信包《おだのぶかね》(信長の弟)[#「(信長の弟)」は1段階小さな文字]北畠《きたばたけ》(織田)[#「(織田)」は1段階小さな文字]信雄《のぶを》あり、近江《あふみ》の南部《なんぶ》に蒲生賢秀《がまふかたひで》、蒲生氏郷《がまふうぢさと》あり、筒井順慶《つゝゐじゆんけい》は、大和《やまと》にあり。何《いづ》れも緩急相應《くわんきふあひおう》ずるに足《た》るものがあつた。
之《これ》に反《はん》して明智軍《あけちぐん》は、其《そ》の全力《ぜんりよく》を擧《あ》ぐるも、其《そ》の兵數《へいすう》は一|萬《まん》七八千に過《す》ぎず。然《しか》も其《そ》の五千|餘《よ》は、山城《やましろ》新附《しんぷ》の兵《へい》にて、固《もと》より猛烈《まうれつ》なる戰鬪《せんとう》に、耐《た》ふ可《べ》くもあらず。されば數《すう》の上《うへ》に於《おい》ても、質《しつ》の上《うへ》に於《おい》ても、將《は》た大義名分《たいぎめいぶん》の上《うへ》に於《おい》ても、士氣《しき》の振《ふる》ふと、否《いな》とに於《おい》ても、其他《そのた》一|切《さい》の點《てん》に於《おい》て、明智軍《あけちぐん》は、未《いま》だ戰《たゝか》はざるに、既《すで》に敗色《はいしよく》ありと云《い》ふべしぢや。
されば光秀《みつひで》の爲《た》めに謀《はか》れば、先《ま》づ秀吉《ひでよし》の鋭鋒《えいほう》を避《さ》け、坂本《さかもと》に退《しりぞ》き、後圖《こうと》を爲《な》す可《べ》きであつた。然《しか》るに彼《かれ》は、それ程《ほど》の餘裕《よゆう》も持《も》たなかつた。彼《かれ》は十二|日《にち》、秀吉等《ひでよしら》の軍《ぐん》が、相接《あひせつ》して北進《ほくしん》するを聞《き》き、之《これ》を迎《むか》へ撃《う》つ可《べ》く、雨《あめ》を衝《つ》きて桂川《かつらがは》を渡《わた》り、御坊塚《ごばうづか》に營《えい》した。彼《かれ》の兵士《へいし》の携帶《けいたい》したる火藥《くわやく》は、此《これ》が爲《た》めに概《おほむ》ね濕《しめ》り濡《ぬ》れて、役《やく》に立《た》たぬ樣《やう》になつた。而《しか》して其《そ》の諸隊《しよたい》は勝龍寺《しようりゆうじ》、西《にし》ノ岡《をか》、淀等《よどとう》に屯《たむろ》して、討伐軍《たうばつぐん》の來《きた》るを待《ま》つた。此《こ》の日《ひ》齋藤利三《さいとうとしかず》は、洞《ほら》ヶ|嶺《みね》より、使《つかひ》を發《はつ》し、光秀《みつひで》に向《むか》つて、坂本籠城《さかもとろうじやう》を勸説《くわんぜい》した。然《しか》も光秀《みつひで》は之《これ》を聞《き》かずして、却《かへ》つて明日拂曉《みやうにちふつげう》、其兵《そのへい》を山崎《やまざき》に集合《しふがふ》せよと命《めい》じた。
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[#6字下げ][#小見出し]京童日向守に粽を捧ぐる事[#小見出し終わり]
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日向守、淀[#割り注]○山城[#割り注終わり]より戰場に赴行に、京都に於て常々恩賞有し者共、粽樣の物など捧げ門出祝せんとて參じけるに、鳥羽に至て行向ひしが、光秀軍勢の揃ひ兼ねぬるを待て、秋山[#割り注]○下鳥羽ノ北[#割り注終わり]に在し也、恁る所へ京童粽を捧げ、今日[#割り注]○光秀ノ下鳥羽ヲ發シ戰場ニ向ヒシハ六月十二日ナリ本文、今日ハ蓋シ今度ノ誤[#割り注終わり]之御合戰大利を得給ふ樣にと祝しければ、皆々聞候へ、其君惡行あれば弑し侍る事吾朝に限らず、異國にも左る例《ためし》あり、周武は其君紂、惡徳有しかば弑しつ、諸人困窮を救ひ、人道を正し、周祚八百六十餘年平安なりしぞかし、洛中安泰に有らしめんぞと云つゝ、粽を取て剥きもし侍らで食したり、京童是を見て此軍捗々敷事よも有らじ、軍の前に大將度に迷ふは亡兆なる由聞傳へり、唯急ぎ歸るに如くは無しとて足早に歸京しけり。〔甫菴太閤記〕
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