第三章 毛利氏との講和
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[#4字下げ][#大見出し]第三章 毛利氏との講和[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【八】高松城の陷落[#中見出し終わり]

此《こ》れからが、眞《しん》に豐臣氏時代《とよとみしじだい》ぢや。時《とき》は天正《てんしやう》十|年《ねん》五|月《ぐわつ》、高松城《たかまつじやう》の運命《うんめい》は、旦夕《たんせき》に迫《せま》つた。毛利氏《まうりし》よりは、秀吉《ひでよし》に向《むか》つて、講和《かうわ》を申《まを》し込《こ》んだ。秀吉《ひでよし》は戰伐家《せんばつか》よりも、寧《むし》ろ調略家《てうりやくか》だ。彼《かれ》は固《もと》より絶對《ぜつたい》に、之《これ》を排斥《はいせき》せなんだ。但《た》だ面倒《めんだう》は條件《でうけん》だ。吉田物語《よしだものがたり》によれば、此《こ》の和議《わぎ》は、秀吉《ひでよし》より安國寺惠瓊《あんこくじゑけい》を招《まね》きて、發議《はつぎ》したとある。而《しか》して其《そ》の條件《でうけん》は、即今爭地《そくこんさうち》たる因幡《いなば》、美作《みまさか》二|國《こく》は勿論《もちろん》、殘《のこ》る八|個國《かこく》の内《うち》、五|國《こく》を信長《のぶなが》に與《あた》へ、且《か》つ清水長左衞門《しみづちやうざゑもん》に、切腹《せつぷく》せしむ可《べ》しとの事《こと》だとある。而《しか》して毛利輝元《まうりてるもと》、吉川元春《きつかわもとはる》、小早川隆景《こばやかはたかかげ》三|人《にん》、何《いづ》れも之《これ》に應《おう》ぜなかつたとある。日本戰史中國役《にほんせんしちゆうごくえき》には、毛利氏《まうりし》より惠瓊《ゑけい》を、黒田孝高《くろだよしたか》の許《もと》に遣《つかは》し、秀吉《ひでよし》に就《つい》て、和《わ》を請《こ》はしめたとある。而《しか》して其《そ》の條件《でうけん》は、毛利氏《まうりし》より備中《びつちゆう》、備後《びんご》、美作《みまさか》、因幡《いなば》、伯耆《はうき》の五|個國《かこく》を割《さ》きて、織田氏《おだし》に讓《ゆづ》り、織田氏《おだし》は高松城將士《たかまつじやうしやうし》の生命《せいめい》を、保全《ほぜん》す可《べ》しとの事《こと》であつたが、秀吉《ひでよし》が之《これ》を聞入《きゝい》れなかつたとある。然《しか》も講和《かうわ》に熱心《ねつしん》なる惠瓊《ゑけい》は、五|國《こく》を割《さ》いて迄《まで》も、秀吉《ひでよし》が承知《しようち》せぬのは、畢竟《ひつきやう》高松城將《たかまつじやうしやう》の首《くび》を得《え》んが爲《た》めであらうと察《さつ》し、私《ひそ》かに清水長左衞門《しみづちやうざゑもん》に會《くわい》して、其旨《そのむね》を諭《さと》した。清水《しみづ》は慨然《がいぜん》として、一|死《し》を許《ゆる》した。此《こゝ》に於《おい》て惠瓊《ゑけい》は、之《これ》を秀吉《ひでよし》に告《つ》げ、再考《さいかう》を求《もと》めたとある。
吾人《ごじん》は此間《このかん》の消息《せうそく》に就《つい》て、一|道《だう》の光明《くわうみやう》を認《みと》む可《べ》きものがある。そは天正《てんしやう》十八|年《ねん》五|月《ぐわつ》廿二|日《にち》附《づけ》を以《もつ》て、秀吉《ひでよし》が小田原役《おだはらえき》に於《おい》て、淺野長政《あさのながまさ》、木村常陸介《きむらひたちのすけ》に與《あた》へたる書中《しよちゆう》に、
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兩人《りやうにん》の者《もの》は存候哉《ぞんじさふらふや》。總見院殿《そうけんゐんでん》(信長)[#「(信長)」は1段階小さな文字]六|月《ぐわつ》二|日《か》御腹《おんはら》をめされ候事《さふらふこと》、三|日《か》の晩《ばん》に、かの高松表《たかまつおもて》へ相聞候時《あひきこえさふらふとき》、右之高松城主《みぎのたかまつじやうしゆ》、水《みづ》をくらひ|可[#レ]死事《しすべきこと》は無念次第候間《むねんのしだいにさふらふあひだ》、船《ふね》を一|艘《さう》|被[#レ]下候《くだされさふら》はゞ、御前《ごぜん》にて腹《はら》をきり申度候由《まをしたくさふらふよし》、御嘆申候《おんなげきまをしさふらふ》といへども、二|日《か》の日《ひ》、御腹《おんはら》をめされ候《さふらふ》によつて相《あひ》ゆるし、船《ふね》を遣《つかはし》腹《はら》を切《き》らせ候《さふらふ》と、敵味方《てきみかた》の諸卒《しよそつ》存候《ぞんじさふらふ》てはと、|被[#二]思食[#一]候《おほしめされさふらひ》て、六|日《か》(四日?)[#「(四日?)」は1段階小さな文字]の日迄《ひまで》船《ふね》を|不[#レ]被[#レ]遣候處《つかはされずさふらふところ》に。毛利方《まうりがた》より、國《くに》を五ヶ|國《こく》、彼高松城《かのたかまつじやう》に|相添進上可[#レ]申旨《あひそへしんじやうまをすべきむね》、種々懇望申候間《しゆ/″\こんまうまをしさふらふあひだ》、船《ふね》を|被[#レ]遣《つかはされ》、高松城主《たかまつじやうしゆ》腹《はら》をきらせられ候《さふらひ》て、毛利《まうり》を許《ゆる》させられ、|彼逆徒等明智可[#レ]被[#レ]刎[#レ]首事《かのぎやくとらあけちのくびをはねらるべきこと》こそ、道《みち》の道《みち》にて候《さふらふ》と|被[#二]思召[#一]《おぼしめされ》、高松《たかまつ》の城《しろ》其外《そのほか》の城々《しろ/″\》|被[#二]請取[#一]《うけとられ》、|不[#レ]移[#二]時日[#一]馳上《じじつをうつさずはせのぼり》、|光秀被[#レ]刎[#レ]首候事《みつひでのくびをはねられさふらふこと》を、兩人《りやうにん》は忘申候歟《わすれまをしさふらふか》。
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とある。惟《おも》ふに此《こ》れが秀吉側《ひでよしがは》の立言《りつげん》として、第《だい》一の實證《じつしよう》であらう。抑《そもそ》も一|方《ぱう》には安國寺惠瓊《あんこくじゑけい》あり、他方《たはう》には黒田孝高《くろだよしたか》あり。何《いづ》れも天下稀有《てんかけう》の策士共《さくしども》なれば、互《たが》ひに講和《かうわ》の成立《せいりつ》に就《つい》て、交渉《かうせふ》もし、相談《さうだん》もし、妥協《だけふ》もしたであらうと思《おも》ふ。然《しか》も本能寺《ほんのうじ》の變報《へんぱう》、到達《たうたつ》せざる以前《いぜん》は、秀吉《ひでよし》の鼻息《はないき》は頗《すこぶ》る荒《あら》く、其《そ》の提議《ていぎ》の、何《いづ》れより發《はつ》したるに拘《かゝは》らず、此《これ》が爲《た》めに纒《まとま》らなかつた事《こと》は、恐《おそ》らくは事實《じじつ》であらう。然《しか》るに意外《いぐわい》にも、案外《あんぐわい》にも、六|月《ぐわつ》三|日《か》の夜半《やはん》に、京都《きやうと》なる長谷川宗仁《はせがはそうにん》の使者《ししや》は來《き》た。川角太閤記《かはかくたいかふき》には、三|日《か》亥《ゐ》の刻《こく》(午後十時過ぎ)[#「(午後十時過ぎ)」は1段階小さな文字]とある。而《しか》して秀吉《ひでよし》は、直《たゞ》ちに其《そ》の早飛脚《はやびきやく》を蜂須賀彦右衞門《はちすかひこゑもん》に託《たく》して、一|室《しつ》に檻禁《かんきん》したとある。吉田物語《よしだものがたり》には、三|日《か》の晝時《ひるどき》とあり、而《しか》して其《そ》の飛脚《ひきやく》を、雪隱《せついん》に伴《ともな》ひ手打《てうち》にしたとある。何《いづ》れにしても秀吉《ひでよし》は、此《こ》の異變《いへん》を、極力《きよくりよく》秘《ひ》したに相違《さうゐ》ない。而《しか》して彼《かれ》は何氣《なにげ》なき體《てい》にて、其《そ》の陣營《ぢんえい》を巡見《じゆんけん》した。
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御退陣半《ごたいぢんなかば》に、|此事注進在[#レ]之《このことちゆうしんこれあり》、|驚思食事無[#レ]限《おどろきおぼしめすことかぎりなし》、|雖[#レ]然此儘御引拂候《しかりといへどもこのまゝおんひきはらひさふら》はば、|敗軍之樣可[#レ]有[#二]取沙汰[#一]《はいぐんのやうとりざたあるべく》、|被[#レ]加[#二]御賢意[#一]《ごけんいをくはへられ》、彌《いよ/\》水攻《みづぜめ》舟《ぶね》を引入《ひきいれ》責《せめ》させられ、昨日迄之御陣廻《さくじつまでのごぢんまはり》五十|騎《き》、百|騎《き》づゝ、美々敷御伴也《びゝしくおんともなり》。今日者《こんにちは》如何《いか》にも御《おん》ひやしなされ、いつもの御《おん》からかさ御馬印《おうまじるし》、御馬取計《おうまとりばか》り無人《ぶにん》にて、|被[#レ]成[#二]御陣廻[#一]《ごぢんまはりなされ》、爰《こゝ》にて狂歌《きやうか》を遊《あそば》し、毛利家《まうりけ》の陣《ぢん》へ|被[#レ]遣《つかはされ》、『兩川《りやうかは》が一つになつて流《ながる》れば、毛利《まうり》高松《たかまつ》藻屑《もくづ》にぞなる。』とか詠吟也《えいぎんなり》。〔太田牛一雜記〕[#「〔太田牛一雜記〕」は1段階小さな文字]
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兩川《りやうかは》は吉川《きつかは》、小早川《こばやかは》を云《い》ふ。如何《いか》に秀吉《ひでよし》が、信長《のぶなが》本能寺《ほんのうじ》の事變《じへん》を、秘密《ひみつ》にし、且《か》つ特《とく》に餘裕《よゆう》を示《しめ》したかは、此《これ》にて判知《わか》る。尚《な》ほ同樣《どうやう》の記事《きじ》が、大村由己《おほむらいうき》の『惟任退治記《これたふたいぢき》』にもあれば、前掲《ぜんけい》の秀吉《ひでよし》の書簡《しよかん》の一|節《せつ》と、對照《たいせう》して、右《みぎ》は事實《じじつ》として信憑《しんぴよう》するに足《た》ると思《おも》ふ。
斯《か》くて一|面《めん》、斯《かく》の如《ごと》く平氣《へいき》を粧《よそほ》ひつゝ、秀吉《ひでよし》は掛案《くわいあん》となりつゝある、講和問題《かうわもんだい》を、今《いま》は聊《いさゝ》か讓歩《じやうほ》をなして、直《たゞち》に惠瓊《ゑけい》を召《め》し、取《と》り計《はから》はしめた。即《すなは》ち織田軍《おだぐん》の面目上《めんもくじやう》、高松《たかまつ》の城將《じやうしやう》さへ切腹《せつぷく》すれば、其他《そのた》は毛利氏《まうりし》の申出通《まをしいでどほ》りたる可《べ》し。信長《のぶなが》の姫路《ひめぢ》へ出馬《しゆつば》も、一|兩日中《りやうにちちゆう》なれば、至急《しきふ》相談《さうだん》相整《あひとゝの》へよとの事《こと》であつた。
然《しか》るに輝元《てるもと》は、依然《いぜん》清水切腹《しみづせつぷく》の一|事《じ》を承認《しようにん》せなかつた。されば惠瓊《ゑけい》は、再《ふたゝ》び秀吉《ひでよし》に赴《おもむ》き、其旨《そのむね》を陳《ちん》じたるに、蜂須賀彦右衞門《はちすかひこゑもん》、生駒雅樂助等《いこまうたのすけら》は、惠瓊《ゑけい》を別室《べつしつ》に請《しやう》じ、毛利家《まうりけ》の被官中《ひくわんちゆう》にも、疑《くわん》を信長《のぶなが》に通《つう》ずる者《もの》、少《すくな》からず。現《げん》に元春《もとはる》、隆景《たかかげ》の兄弟同樣《きやうだいどうやう》たる上原《うへはら》さへも、此《かく》の如《ごと》しと、其《そ》の誓文《せいもん》を示《しめ》した。此《こゝ》に於《おい》て惠瓊《ゑけい》は、今《いま》は心《こゝろ》に決《けつ》する所《ところ》あり、高松城《たかまつじやう》に入《い》りて、清水長左衞門《しみづちやうざゑもん》に面會《めんくわい》し、其《そ》の事情《じじやう》を有《あり》の儘《まゝ》に陳《の》べた。清水《しみづ》は男《をとこ》らしく一|死《し》を以《もつ》て、兩家《りやうけ》の和議《わぎ》を成《な》す可《べ》く許《ゆる》した。清水《しみづ》既《すで》に此《かく》の如《ごと》く決心《けつしん》する上《うへ》は、輝元《てるもと》、兩川《りやうかは》に於《おい》ても、異議《いぎ》ある可《べ》き樣《やう》はない。〔吉田物語〕[#「〔吉田物語〕」は1段階小さな文字]
此《かく》の如《ごと》くして和議《わぎ》は、秀吉《ひでよし》の思《おも》ふ坪《つぼ》に、進捗《しんちよく》した。而《しか》して此《こ》の和議《わぎ》が、秀吉《ひでよし》の爲《た》めのみならず、毛利家《まうりけ》にも、有利《いうり》であつた事《こと》は、爾後《じご》の事實《じじつ》が、逐《ちく》一|之《こ》れを證明《しようめい》する。

[#5字下げ][#中見出し]【九】清水宗治の死[#中見出し終わり]

高松城《たかまつじやう》に於《お》ける、清水宗治《しみづむねはる》の死《し》は、鳥取城《とつとりじやう》に於《お》ける、吉川經家《きつかはつねいへ》の死《し》と中國武士《ちゆうごくぶし》の雙美《さうび》である。而《しか》して特《とく》に清水《しみづ》の死《し》は、其《そ》の事柄《ことがら》が、秀吉《ひでよし》と、毛利氏《まうりし》との、講和《かうわ》の楔子《せつし》となつたが爲《た》めに、歴史的《れきしてき》著名《ちよめい》の事件《じけん》となつた。彼《かれ》が如《ごと》きは、實《じつ》に其《そ》の死處《ししよ》を得《え》たものと云《い》ふ可《べ》きぢや。
清水《しみづ》は、安國寺惠瓊《あんこくじゑけい》の言《げん》を聽《き》きて、一|議《ぎ》にも及《およ》ばず、切腹《せつぷく》を承諾《しようだく》し、然《しか》も明《みやう》四|日《か》午時《うまのとき》に決行《けつかう》す可《べ》しと言明《げんめい》した。而《しか》して其《そ》の將士《しやうし》に向《むか》つて、其旨《そのむね》を告《つ》げた。彼等《かれら》は固《もと》より、吉田《よしだ》(輝元)[#「(輝元)」は1段階小さな文字]新庄《しんじやう》(元春)[#「(元春)」は1段階小さな文字]三|原《はら》(隆景)[#「(隆景)」は1段階小さな文字]より來援《らいゑん》の者共《ものども》にも、今更《いまさら》おめおめ罷《まか》り還《かへ》る可《べ》き面目《めんもく》なし、何《いづ》れも切腹《せつぷく》す可《べ》しと申《まを》し出《い》でた。されど宗治《むねはる》は、諸君《しよくん》は今後《こんご》、毛利家《まうりけ》の安危《あんき》に任《にん》ず可《べ》き身《み》である、此度《このたび》は我等《われら》一|人《にん》にて事足《ことた》れば、諸君《しよくん》を煩《わづら》はすに及《およ》ばず。但《た》だ末近左衞門太夫殿《すゑちかさゑもんだいふどの》は、御檢使《ごけんし》なれば、同道致《どうだういた》す可《べ》しと言《い》ひ切《き》つた。宗治《むねはる》の兄《あに》月清《げつしやう》も、是非《ぜひ》切腹《せつぷく》す可《べ》しと云《い》ひ、宗治《むねはる》は桑門《さうもん》なれば、其儀《そのぎ》に及《およ》ばずと理《ことわ》りたれども、強《ひ》ひての望《のぞみ》にて其意《そのい》に任《まか》せた。それで愈《いよい》よ三|人《にん》切腹《せつぷく》の事《こと》に極《きま》つた。
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|謹而奉[#レ]述[#二]愚意[#一]《つゝしんでぐいをのべたてまつる》、|當地永々御在陣諸卒勞力乍[#レ]恐奉[#レ]察候《たうちなが/\ございぢんしよそつらうりよくおそれながらさつしたてまつりさふらふ》。|然者當地極運之儀彌近奉[#レ]覺候《さればたうちごくうんのぎいよ/\ちかくおぼえたてまつりさふらふ》。清水兄弟末近左衞門太夫《しみづきやうだいすゑちかさゑもんだいふ》、此等《これら》三|人者代[#二]衆命[#一]可[#レ]致[#二]切腹[#一]之條《にんのものしゆうめいにかはりせつぷくいたすべくのでう》、|被[#レ]垂[#二]御憐憫[#一]《ごれんびんをたれられ》、籠城之輩《ろうじやうのやから》、|被[#レ]施[#二]於寛仁之君徳[#一]《くわんじんのくんとくをほどこされ》、|悉於[#二]御助[#一]者《こと/″\くおんたすけにおいては》、|忝可[#レ]奉[#レ]存候《かたじけなくぞんじたてまつるべくさふらふ》。|依[#二]回章[#一]《くわいしやうによつて》、明《みやう》四|日之日中《かのにつちゆう》、|可[#レ]及[#二]切腹[#一]候《せつぷくにおよぶべくさふらふ》。然者小船《さればこぶね》一|艘並美酒佳肴聊預[#二]恩賜[#一]候者《さうならびにびしゆかかういさゝかおんしにあづかりさふらはゞ》、|且忘[#二]籠城之辛苦[#一]《かつはろうじやうのしんくをわすれ》、|且可[#レ]散[#二]老兵之疲勞[#一]候《かつはらうへいのひらうをさんずべくさふらふ》。恐恐謹言《きようきようきんげん》。
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[#3字下げ]天正十年六月三日
[#地から3字上げ]清水長左衞門尉宗治判
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蜂須賀彦右衞門尉殿
杉原七郎左衞門尉殿
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而《しか》して兩人《りやうにん》の返状《かへしじやう》には、
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御状之趣《ごじやうのおもむき》、筑前守《ちくぜんのかみ》へ|令[#二]相達[#一]候之處《あひたつせしめさふらふのところ》、各《おの/\》三|人代[#二]衆命[#一]籠城之諸人可[#レ]有[#二]御助[#一]之結構《にんしゆうめいにかはりろうじやうのしよにんおんたすけあるべきのけつこう》、|一入被[#二]相感[#一]候《ひとしほあひかんぜられさふらふ》。|則可[#レ]應[#二]御意[#一]之旨候《すなはちぎよいにおうずべきのむねにさふらふ》。然者小船《しかればこぶね》一|艘酒肴《さうしゆかう》十|荷《か》、並上林《ならびにじやうりん》(茶)[#「(茶)」は1段階小さな文字]|極上三袋令[#二]進入[#一]候《ごくじやうみふくろしんじいれしめさふらふ》。明日檢使出候樣《みやうにちけんしをいだしさふらふやう》にと|御使者被[#レ]申候得[#二]其意[#一]存候《おししやまをされさふらふそのいをえんとぞんじさふらふ》。|被[#二]仰越[#一]候外《おほせこされさふらふほか》、|縱雖[#レ]爲[#二]長男連枝[#一]《たとひちやうなんれんしたりといへども》、|切腹有[#レ]之間敷旨被[#レ]申候《せつぷくこれあるまじきむねまをされさふらふ》、恐惶謹言《きようくわうきんげん》。
[#ここで字下げ終わり]
[#3字下げ]六月三日
清水《しみづ》の家老《からう》に、白井與《しらゐよ》三|左衞門《ざゑもん》と云《い》ふ勇士《ゆうし》があつた。大手《おほて》の矢倉《やぐら》を預《あづか》つて居《ゐ》たが、四|月《ぐわつ》廿七|日《にち》の戰《たゝかひ》に、股《もゝ》を打《う》たれたれども、依然《いぜん》元氣《げんき》であつた。彼《かれ》は六|月《ぐわつ》三|日《か》の夜《よ》、本丸《ほんまる》に使《つかひ》を以《もつ》て、宗治《むねはる》の來臨《らいりん》を請《こ》うた。宗治《むねはる》頓《やが》て參《まゐ》りたるに、白井《しらゐ》は明日《みやうにち》は御切腹《ごせつぷく》の由《よし》、其試《そのこゝろ》みに切腹仕候《せつぷくつかまつりさふらふ》に、極《きは》めて易《やす》きものにて候《さふらふ》、腹卷《はらまき》を解《と》きて御覽候《ごらんさふら》へとて、切腹《せつぷく》した腹《はら》を差《さ》し出《いだ》した。清水《しみづ》は、其方《そのはう》にこそ妻子《さいし》の行末《ゆくすゑ》を、頼《たの》む可《べ》しと思《おも》うて居《ゐ》たが、扨《さて》も殘《のこ》り多《おほ》きことよとて、自《みづ》から彼《かれ》を介錯《かいしやく》した。
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扨《さて》天正《てんしやう》十|年《ねん》六|月《ぐわつ》四|日《か》巳《ゐ》の刻《こく》(午前十時)[#「(午前十時)」は1段階小さな文字]長左衞門《ちやうざゑもん》、衣裳《いしやう》を改《あらた》め、小船《こぶね》に乘《の》り、蛙《かへる》ヶ|鼻《はな》と云所迄《いふところまで》船《ふね》を漕出《こぎいだ》す。西《にし》は味方《みかた》の大將輝元公《たいしやうてるもとこう》、吉川元春《きつかはもとはる》、小早川隆景《こばやかはたかかげ》御陣《ごぢん》なり。東《ひがし》は敵《てき》の大將羽柴筑前守秀吉《たいしやうはしばちくぜんのかみひでよし》の御陣《ごぢん》なり。兩陣《りやうぢん》の間《あひだ》に舟《ふね》を留《とゞ》め候時《さふらふとき》、秀吉《ひでよし》よりの檢使《けんし》堀尾茂助《ほりをもすけ》小船《こぶね》に乘來《のりきたつ》て、宗治《むねはる》に相對《あひたい》し、秀吉申候《ひでよしまをしさふらふ》は、|此間申談候首尾無[#二]相違[#一]《このあひだまをしだんじさふらふしゆびさうゐなく》、是迄御出殊勝《これまでおんいでしゆしよう》の至《いたり》に候《さふらふ》。|永々籠城御苦辛令[#二]推察[#一]候《なが/\ろうじやうのごくしんゐさつせしめさふらふ》との儀《ぎ》なり。左《さ》ありて後《のち》、茂助方《もすけかた》よりとて、美酒《びしゆ》佳肴《かかう》差出《さしいだ》しければ、宗治《むねはる》甚《はなはだ》悦《よろこ》び、筑前殿《ちくぜんどの》へ御禮《おんれい》の儀《ぎ》、茂助殿頼存候《もすけどのたのみぞんじさふらふ》。|宜被[#レ]仰可[#レ]被[#レ]下候《よろしくおほせられくださるべくさふらふ》とて、末期《まつご》の盃《さかづき》を順《まは》し、宗治《むねはる》誓願寺《せいぐわんじ》の曲舞《くせまひ》をうたひ出《いだ》せば、舍兄《しやけい》月清《げつしやう》、末近左衞門太夫《すゑちかさゑもんだいふ》、小|者《もの》の七|郎次郎《らうじらう》、同音《どうおん》に謠納《うたひをさ》め、次第《しだい》/\に切腹仕《せつぷくつかまつ》る。介錯《かいしやく》は幸市之丞《かういちのじよう》と申《まをす》、長左衞門《ちやうざゑもん》家來《けらい》なり。此時《このとき》宗治《むねはる》行年《ぎやうねん》四十六|歳《さい》なり。辭世《じせい》の歌《うた》に曰《いはく》、
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浮世《うきよ》をば今《いま》こそわたれ武士《ものゝふ》の名《な》を高松《たかまつ》の苔《こけ》に殘《のこ》して
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宗治《むねはる》其外《そのほか》切腹仕候《せつぷくつかまつりさふら》へば、市之丞《いちのじよう》いづれも介錯仕《かいしやくつかまつ》り、頸桶《くびをけ》に首《くび》を納《おさめ》、假名《かりな》を申《まをし》て、茂助《もすけ》に|渡[#レ]之《これをわたし》、死骸《しがい》を取歸《とりかへ》り、能《よく》納《おさめ》て後《のち》、市之丞《いちのじよう》も殉死仕候《じゆんしつかまつりさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]〔吉田物語〕[#「〔吉田物語〕」は1段階小さな文字]
清水《しみづ》は三|日《か》の夜《よ》、其《そ》の小童《せうどう》の髻《もとゞり》をぬかせて居《ゐ》た。幕下《ばくか》の面々《めん/\》、何《いづ》れも暇乞《いとまごひ》に來《きた》り、此體《このてい》を見《み》て、時節《じせつ》不相應《ふさうおう》の、男振《をとこぶ》りを御作《おつく》り成《な》され候《さふらふ》と云《い》うた。宗治《むねはる》は打笑《うちわら》ひ、此首《このくび》は信長《のぶなが》の見參《けんざん》に入《い》る可《べ》きものぢや。餘《あま》りに見苦《みぐる》しくては、籠城《ろうじやう》一|端《たん》の心遣《こゝろづか》ひにて、失念《しつねん》したと云《い》はれんも口惜《くちをし》ければ、男《おとこ》を作《つく》り候《さふらふ》と、挨拶《あいさつ》した。彼《かれ》は如何《いか》にも心掛《こゝろが》け善《よ》き漢《をのこ》であつた。而《しか》して此《こ》の壯美《さうび》なる悲劇《ひげき》によりて、中國役《ちゆうごくえき》の舞臺《ぶたい》は、茲《こゝ》に其《そ》の幕《まく》を下《おろ》した。

          ―――――――――――――――
[#6字下げ][#小見出し]清水宗治の切腹[#小見出し終わり]

[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
一六月四日高松の城より小早(舟)一艘に乘組かへるがはなと申所まで押出し、味方の大將輝元公隆景公、向は羽柴筑前守殿兩陣の中間にて切腹仕候、其時筑前守殿より爲[#二]檢使[#一]堀尾茂助是も小舟にて罷出、筑前守殿仰らるゝは此中申談候いきとをり相違有[#レ]之まじく候、定て長籠城御難儀に候つる間有候とて、大樽五荷肴上林極上挽茶一袋送り被[#レ]越、互に最後の盃を取かはし、長左衞門誓願寺の曲舞を謠出し、供の者月清末近難波七郎二郎同音に謠納め切腹仕りたる由申候、其時の御感状有[#レ]之、
一切腹以後城中の諸人不[#レ]殘毛利家へ引取申の由に候、其節源三郎(宗治の子)は三原に居候つ 高松死殘の者共妻子の供仕、漸上下七十人許の體にて備中川邊と申處まで引退申候に付て、源三郎も御暇下され 川邊へ集り、先牢人分に隆景公より百人扶持被[#レ]下、一兩年川邊に罷有候、長左衞門より末期に三首の詠歌源三郎へ書送り候、
[#ここから4字下げ]
恩を知り慈悲正直にねかひなく辛勞氣盡し天にまかせよ
朝起や上意算用武具普請人をつかひて事をつゝしめ
談合や公事と書状と異儀法度酒に女に心みたすな
[#ここから5字下げ]
六月四日[#地から2字上げ]清鏡宗心
[#ここから6字下げ]
源 三郎殿
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]〔清水長左衞門尉平宗治由來覺書〕
[#ここで小さな文字終わり]
          ―――――――――――――――

[#5字下げ][#中見出し]【一〇】和議成立[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》が、本能寺《ほんのうじ》の變報《へんぱう》に接《せつ》したのは、三|日《か》の正午頃《しやうごごろ》であつた乎《か》、三|日《か》の夜《よ》であつた乎《か》。何《いづ》れにしても天正《てんしやう》十|年《ねん》六|月《ぐわつ》四|日《か》の一|日中《にちちゆう》に、高松城將清水宗治《たかまつじやうしやうしみづむねはる》は切腹《せつぷく》し、秀吉《ひでよし》と、毛利氏《まうりし》との誓紙《せいし》は、交換《かうくわん》せられ、和議《わぎ》は全《まつた》く成立《せいりつ》し、高松城《たかまつじやう》は秀吉《ひでよし》の手《て》に渡《わた》り、杉原家次《すぎはらいへつぐ》をして、之《これ》を守《まも》らしめた。
此《こ》の誓紙《せいし》の交換《かうくわん》の日附《ひづけ》は、四|日《か》にて、其《そ》の條件《でうけん》は、双方共《さうはうとも》に撤兵《てつぺい》する事《こと》、因幡《いなば》、美作《みまさか》を織田氏《おだし》に渡《わた》し、山陰道《さんいんだう》は伯耆《はうき》の八|橋川《はしがは》を境《さかひ》とし、山陽道《さんやうだう》は備中《びつちゆう》の河邊川《かはべがは》を境《さかひ》とする事《こと》であつた。而《しか》して秀吉《ひでよし》の毛利氏《まうりし》に與《あた》へたる起請文《きしやうもん》は、實《じつ》に左《さ》の通《とほ》りであつた。
[#6字下げ]起請文之事《きしやうもんのこと》
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
一、|被[#レ]對[#二]公儀[#一]《こうぎにたいせられ》、御身上之儀《ごしんじやうのぎ》、我等請取申候條《われらうけとりまをしさふらふでう》、|聊以不[#レ]可[#レ]存[#二]疎略[#一]事《いさゝかもつてそりやくにぞんずべからざること》。
一、|雖[#二]不[#レ]及[#レ]申候[#一]《まをすにおよばずさふらふといへども》、輝元《てるもと》、元春《もとはる》、隆景《たかかげ》、|深重無[#二]如在[#一]《しんちようじよさいなく》、|我等懸[#二]進退[#一]《われらしんたいをかけ》、見放申間敷事《みはなしまをすまじきこと》。
一、|如[#レ]此申談上者《かくのごとくまをしだんずるうへは》、|表裏構公事不[#レ]可[#レ]有[#レ]之事《へうりかまへてくじこれあるべからざること》。
[#ここから1字下げ]
 |右之條々若僞於[#レ]有[#レ]之者《みぎのでう/\もしいつはりこれあるにおいては》、忝《かたじけなく》も日本國中《にほんこくぢゆう》、大小之神祇《だいせうのしんぎ》、殊八幡大菩薩《ことにはちまんだいぼさつ》、愛宕白山摩利支天《あたごはくさんまりしてん》、|別而氏神御罰可[#二]罷蒙[#一]者也《わけてうぢがみのおんばちまかりかうむるべきものなり》。|仍起請如[#レ]件《よつてきしやうくだんのごとし》。
[#ここで字下げ終わり]
[#2字下げ]天正十年六月四日[#地から3字上げ]羽柴筑前守秀吉血判
[#ここから6字下げ]
毛利右馬頭殿
吉川駿河守殿
小早川左衞門佐殿
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》の公儀《こうぎ》とは、固《もと》より信長《のぶなが》を稱《しよう》したることで、假令《たとひ》此《こ》の文案《ぶんあん》は、秀吉《ひでよし》が信長《のぶなが》生前《せいぜん》に起草《きさう》したにせよ、其儘《そのまゝ》襲用《しふよう》したのを見《み》れば、飽迄《あくまで》信長《のぶなが》の死《し》を秘《ひ》したのは、相違《さうゐ》ない。此《これ》を彼《か》の甫菴太閤記《ほあんたいかふき》に、秀吉《ひでよし》は五|日《か》の朝《あさ》、明々地《あからさま》に信長《のぶなが》の變《へん》を、毛利氏《まうりし》に打明《うちあ》け、而《しか》して後《のち》、和議《わぎ》を調《とゝの》へたと云《い》ふは、全《まつた》く事實相違《じじつさうゐ》ぢや。而《しか》して此《こ》の虚説《きよせつ》は、道春《だうしゆん》の秀吉譜《ひでよしふ》、白石《はくせき》の藩翰譜《はんかんふ》、山陽《さんやう》の日本外史《にほんぐわいし》等《とう》にも踏襲《たふしふ》せられ、此《これ》を以《もつ》て秀吉《ひでよし》の氣宇《きう》の濶大《くわつだい》にして、英雄《えいゆう》の襟度《きんど》の及《およ》ぶ可《べ》からざる所以《ゆゑん》となすもの、殆《ほとん》ど世間《せけん》の通説《つうせつ》となつて居《ゐ》るが。事實《じじつ》は上掲《じやうけい》の如《ごと》くにて、全《まつた》く對手《あいて》に我《わ》が弱點《じやくてん》を示《しめ》さず、自《みづ》から有利《いうり》なる地歩《ちほ》を占《し》めて、和議《わぎ》を調《とゝの》へたのであつた。
[#ここから1字下げ]
扨備中表秀吉陣《さてびつちゆうおもてひでよしぢんへ》、六|月《ぐわつ》三|日《か》夜半計《やはんばかり》、|密有[#二]注進[#一]《ひそかにちゆうしんあり》、|秀吉聞[#レ]之心中愁傷雖[#レ]無[#レ]限《ひでよしこれをきゝしんちゆうしうしやうかぎりなしといへども》、|少色不[#レ]出《すこしもいろにいださず》、|彌張[#二]寄陣[#一]《いよ/\よせぢんをはり》、‥‥|從[#二]毛利家[#一]仕[#二]懇望[#一]之條々《まうりけよりこんまうつかまつるのでう/″\》、五|箇國並請[#二]取人質誓詞[#一]《かこくならびにひとじちせいしをうけとり》、|先拂[#二]毛利之陣[#一]《まづまうりのぢんをはらひ》、秀吉心閑持成《ひでよしこゝろのどかにもつことゝなる》。〔惟任退治記〕[#「〔惟任退治記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れ大體《だいたい》に於《おい》て、眞理《しんり》を得《え》たるものと思《おも》はるゝ。
川角太閤記《かはかくたいかふき》には、四|日《か》清水《しみづ》の切腹《せつぷく》するや、否《いな》や、大知坊《だいちばう》なる陣僧《ぢんそう》に、起請文《きしやうもん》を持《も》たせて、毛利《まうり》の陣《ぢん》に使《つか》はしたとある。若《も》し同心《どうしん》に於《おい》ては、其方《そのはう》よりも陣僧《ぢんそう》一|人《にん》、此方《こなた》に遣《つかは》せと言《い》ひ送《おく》つたとある。而《しか》して毛利家《まうりけ》の陣僧《ぢんそう》、惠瓊《ゑけい》の面前《めんぜん》にて、秀吉《ひでよし》は書判《かきはん》をなし、血判《けつぱん》をしたとある。尚《な》ほ又《ま》た、
[#ここから1字下げ]
四月《しがつ》四|日《か》戌刻《いぬのこく》(午後八時)[#「(午後八時)」は1段階小さな文字]計《ばかり》に森勘《もりかん》八を召《めし》、夜《よ》に入《いり》なば、引退《ひきのく》べきものなり。さあるに於《おい》ては、勘《かん》八|殘可[#レ]申候《のこりまをすべくさふらふ》。その樣子《やうす》は、信長公《のぶながこう》御切腹《ごせつぷく》の到來《たうらい》、毛利陣《まうりぢん》へも、はや/\相聞《あひきこ》え|可[#レ]申候《まをすべくさふらふ》。今朝《こんてう》の誓紙《せいし》を破《やぶ》り|可[#レ]被[#レ]付候事《つけらるべくさふらふこと》も尤《もつとも》に候《さふらふ》。其子細《そのしさい》は毛利家《まうりけ》陣《ぢん》へは、|未[#レ]聞先《いまだきこえざるさき》の誓紙《せいし》なり。表裏《へうり》は秀吉《ひでよし》こそ仕《つかまつれ》、毛利家《まうりけ》の表裏《へうり》にては有間敷《あるまじき》ものなり。但《たゞ》かためたる記請文《きしやうもん》にて有《あり》と心得《こゝろえ》、秀吉《ひでよし》國本《くにもと》へ歸城迄《きじやうまで》の誓紙《せいし》を、|被[#レ]立候《たてられさふら》はゞ、律儀《りちぎ》專《せん》一たるべき儀也《ぎなり》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
とある。乃《すなは》ち秀吉《ひでよし》は、縱令《たとひ》毛利氏《まうりし》が、誓紙《せいし》を破《やぶ》りたりとて、其《そ》の責任《せきにん》は、毛利氏《まうりし》にあらざるを識認《しきにん》し。而《しか》してせめて其《そ》の追撃《つゐげき》を免《まぬか》れ、無事《ぶじ》歸國《きこく》せんことを僥倖《げうかう》としたる樣《やう》であつた。
是《こ》れが果《はた》して眞實《しんじつ》であつた乎《か》、否乎《いなか》は、姑《しばら》く措《お》き。秀吉《ひでよし》は、敵《てき》にも、味方《みかた》にも、此《こ》の異變《いへん》を極力《きよくりよく》、隱《かく》したに相違《さうゐ》ない。彼《かれ》が途中《とちゆう》に人《ひと》を派《は》し、來《きた》る飛脚《ひきやく》を追《お》ひ還《かへ》さしめたとは、〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]左《さ》もある可《べ》き事《こと》であらう。『豐鑑《ほうかん》』には、
[#ここから1字下げ]
六|月《ぐわつ》二|日《か》(三日?)[#「(三日?)」は1段階小さな文字]の夜《よ》に及程《およぶほど》に、信長《のぶなが》明知《あけち》(智)[#「(智)」は1段階小さな文字]が爲《ため》に、自害《じがい》し給《たま》ひぬと、秀吉《ひでよし》の陣《ぢん》に聞《きこ》えけり。此先《これよりさき》毛利家《まうりけ》より平《たひらぎ》を請侍《こひはべ》りぬれども、秀吉《ひでよし》用《もちひ》ざりしが。急《いそ》ぎ都《みやこ》に登《のぼ》り、明知光秀《あけちみつひで》と戰《たゝか》はんと思《おも》ひ給《たま》へりければ、毛利《まうり》の媒《なかだち》小寺官兵衞《をでらくわんべゑ》(黒田孝高)[#「(黒田孝高)」は1段階小さな文字]をよび、かう/\京《きやう》より人《ひと》來《きた》りぬ。兼《かね》ていひし如《ごと》く、毛利家《まうりけ》と平《たいらぎ》をなすべし。立越《たちこし》かくとはからふべしと宣《のたま》へば、小寺《をでら》急《いそ》ぎ毛利家《まうりけ》の陣所《ぢんしよ》に行《ゆき》て、かう/\といひ語《かたら》ひ侍《はべ》りぬ。信長《のぶなが》自害《じがい》を未《いま》だ毛利家《まうりけ》にてしらずやあらん、やがて同心《どうしん》なれば誓紙《せいし》のちかひを固《かた》くし、事《こと》なりぬれば、六|月《ぐわつ》六|日《か》、秀吉《ひでよし》播磨《はりま》に歸《かへ》り給《たま》ふ。
[#ここで字下げ終わり]
とある。何《いづ》れにせよ、毛利氏《まうりし》は全《まつた》く、秀吉《ひでよし》に出《だ》し拔《ぬ》かれたる姿《すがた》ぢや。併《しか》し此《こ》の事實《じじつ》は、(第《だい》一)毛利氏《まうりし》が講和《かうわ》を從前《じゆうぜん》より希望《きばう》し居《ゐ》たる事《こと》、(第《だい》二)而《しか》して講和問題《かうわもんだい》は、尚《な》ほ掛案《くわいあん》であつた事《こと》を、自《おのづ》から傍證《ばうしよう》するものと云《い》はねばならぬ。吾人《ごじん》が講和《かうわ》の提議《ていぎ》の、最初《さいしよ》毛利氏《まうりし》より發《はつ》せられたものと推定《すゐてい》するは、決《けつ》して偶然《ぐうぜん》ではない。

[#5字下げ][#中見出し]【一一】秀吉と毛利氏[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》が信長《のぶなが》の死《し》を秘《ひ》し、急遽《きふきよ》の際《さい》に從容《しようよう》として、毛利氏《まうりし》と講和《かうわ》したのは、確實《かくじつ》なる事《こと》であるが。果《はた》して最後迄《さいごまで》秘《ひ》し通《とほ》したのである乎《か》、否乎《いなか》。秀吉《ひでよし》の聰明《そうめい》なる、此《こ》の非常《ひじやう》なる事變《じへん》が、何時迄《いつまで》も毛利氏《まうりし》に現《あらは》れぬ筈《はず》はないと、認《みと》めたであらう。若《も》しそれが避《さ》け難《がた》き事《こと》とすれば、寧《むし》ろ或《あ》る機會《きくわい》に於《おい》て、我《われ》より打《う》ち明《あ》けた方《はう》が、毛利氏《まうりし》を出《だ》し拔《ぬ》きたる責任《せきにん》を、輕《かる》くする所以《ゆゑん》となるを、考《かんが》へたであらう。即《すなは》ち秀吉《ひでよし》は、毛利氏《まうりし》を出《だ》し拔《ぬ》いて、誓紙《せいし》を交換《かうくわん》したる後《のち》、此《こ》の事變《じへん》を、改《あらた》めて毛利氏《まうりし》に向《むか》つて、表白《へうはく》したのではあるまい乎《か》。
川角太閤記《かはかくたいかふき》によれば、『毛利家《まうりけ》上方《かみがた》に|被[#二]付置[#一]候《つけおかれさふらふ》早打《はやうち》、四|日《か》の七つさがりに參著候《さんちやくさふらふ》。』とある。即《すなは》ち四|日《か》の午後《ごご》四|時過《じす》ぎには、既《すで》に毛利方《まうりがた》には、信長《のぶなが》の不慮《ふりよ》の死《し》を承知《しようち》した。此《こゝ》に於《おい》て吉川元春《きつかはもとはる》は、此《こ》の好機《かうき》に乘《じよう》じて、馬《うま》を乘《の》り殺《ころ》す迄《まで》、追撃《つゐげき》せよと勇《いさ》んだが。小早川隆景《こばやかはたかかげ》は、起請文《きしやうもん》を破《やぶ》るの不可《ふか》を説《と》き、遂《つ》ひに泣《な》き寢入《ねい》りとなつたとある。而《しか》して秀吉《ひでよし》は六|月《ぐわつ》五|日《か》、軍隊《ぐんたい》引拂《ひきはらひ》の途中《とちゆう》より、
[#ここから1字下げ]
毛利家《まうりけ》へ早飛脚《はやびきやく》、|御立被[#レ]成候《おたてなされさふらふ》。今度《このたび》其表《そのおもて》に於《おい》て、陣和談《ぢんわだん》と申《まをし》かはし互《たがひ》の誓紙《せいし》をかため罷上候事《まかりのぼりさふらふこと》、ふりやく(不利益)[#「(不利益)」は1段階小さな文字]の樣《やう》に|可[#レ]被[#二]思召[#一]候《おぼしめさるべくさふら》へども、弓場《きゆうば》(の道)[#「(の道)」は1段階小さな文字]には、加樣《かやう》の事《こと》も、互《たがひ》の事《こと》に候《さふらふ》と|可[#レ]被[#二]思召[#一]候《おぼしめさるべくさふらふ》。我君《わがきみ》信長公《のぶながこう》を、明智日向守光秀《あけちひふがのかみみつひで》無道《ぶだう》の故《ゆゑ》により、當月二日《たうげつふつか》に|奉[#レ]討候間《うちたてまつりさふらふあひだ》、此上《このうへ》は光秀《みつひで》と、君《きみ》の弔合戰仕《とむらひがつせんつかまつり》、打死《うちじに》の覺悟《かくご》に御座候《ござさふらふ》。若又《もしまた》拙者《せつしや》武運《ぶうん》もながらへ候《さふら》はゞ、右《みぎ》の申談《まをしだんじ》も候處《さふらふところ》は、目出度以來《めでたくいらい》は|可[#レ]得[#二]御意[#一]覺悟《ぎよいうべきかくご》に候《さふらふ》。天下《てんか》の御望《おんのぞみ》御尤《ごもつとも》かと存候《ぞんじさふらふ》。猶《なほ》|自[#レ]是《これより》|可[#レ]得[#二]御意[#一]候《ぎよいうべくさふらふ》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
と吉川《きつかは》、小早川《こばやかは》、宍戸《しゝど》(備前守)[#「(備前守)」は1段階小さな文字]等《ら》に申送《まをしおく》つたとある。
『吉田物語《よしだものがたり》』は、更《さ》らに異聞《いぶん》を傳《つた》へて居《を》る。秀吉《ひでよし》は高松城《たかまつじやう》に、杉原《すぎはら》七|郎左衞門《らうざゑもん》を籠置《こめお》き、諸將《しよしやう》を集《あつ》めて評定《ひやうぢやう》した。毛利氏《まうりし》に此《こ》の異變《いへん》を、公然《こうぜん》通知《つうち》す可《べ》き乎《か》、否乎《いなか》と。
[#ここから1字下げ]
蜂須賀彦右衞門《はちすかひこゑもん》承《うけたまは》り、|如[#レ]右《みぎのごとく》御和談《ごわだん》相濟《あひすみ》、御誓紙《ごせいし》の上《うへ》、出拔候樣《だしぬきさふらふやう》に御退陣《ごたいぢん》は、如何《いかゞ》|可[#レ]有[#二]御座[#一]候哉《ござあるべくさふらふや》。中國衆《ちゆうごくしゆう》は律義《りちぎ》に御座候《ござさふら》へば、誓紙《せいし》の違變御座有間敷候《ゐへんござあるまじくさふらふ》と申候《まをしさふら》へば、此儀《このぎ》秀吉《ひでよし》氣《き》に合候《あひさふらひ》て、其方《そのはう》申樣《まをすやう》、一|段《だん》|可[#レ]然候《しかるべくさふらふ》。即《すなはち》彦右衞門《ひこゑもん》に參《まい》り候《さふらひ》て、輝元《てるもと》兩川《りやうかは》へ|口上可[#二]申達[#一]《こうじやうまをしたつすべく》と|被[#レ]仰候《おほせられさふらふ》に付《つき》、彦右衞門《ひこゑもん》供《とも》の士《さむらひ》十六|人《にん》素膚《すはだ》にて召連《めしつれ》、此御方《このみかた》御陣所《ごぢんしよ》へ參《まゐ》り、趣申入候《おもむきまをしいれさふら》へば、先《まづ》元春《もとはる》、隆景御出合相成候《たかかげおんいであひあひなりさふらふ》に付《つき》、秀吉《ひでよし》の御口上申上候《ごこうじやうまをしあげさふらふ》。〔吉田物語〕[#「〔吉田物語〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは川角太閤記《かはかくたいかふき》の、途中《とちゆう》よりの早飛脚《はやびきやく》に比《ひ》して、更《さ》らに一|層《そう》手迅《てばや》く、未《いま》だ高松《たかまつ》を引拂《ひきはら》はざる以前《いぜん》の通告《つうこく》である。
[#ここから1字下げ]
其口上《そのこうじやう》に去《さ》る二|日《か》惟任日向守《これたふひふがのかみ》|依[#二]逆意[#一]《ぎやくいによつて》、信長父子《のぶながふし》|於[#二]京都[#一]《きやうとにおいて》|生害被[#レ]仕候《しやうがいつかまつられさふらふ》。|就[#レ]夫《それにつき》我等事《われらこと》、急度《きつと》|令[#二]上洛[#一]《じやうらくせしめ》|遂[#二]義戰[#一]《ぎせんをとげ》、主君《しゆくん》の敵《かたき》を|可[#二]打果[#一]《うちはたすべき》覺悟《かくご》に候《さふらふ》。此間《このあひだ》申談候《まをしだんじさふらふ》誓紙《せいし》の趣《おもむき》、|無[#二]御相違[#一]《おんさうゐなき》に於《おい》ては、|可[#レ]爲[#二]本望[#一]候《ほんもうたるべくさうらふ》。若又《もしまた》御違變《ごゐへん》|有[#レ]之御心底候《これあるごしんていにさふら》はゞ、御返答次第《ごへんたふしだい》|可[#レ]得[#二]其意[#一]候《そのいをうべくさふらふ》との儀《ぎ》に候《さふらふ》。〔吉田物語〕[#「〔吉田物語〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
如何《いか》にも立派《りつぱ》なる言葉《ことば》ぢや。如何《いか》にも堂々《だう/\》として、秀吉《ひでよし》の口吻《こうふん》が偲《しの》ばるゝ。此《こゝ》に於《おい》て毛利家《まうりけ》の評定《ひやうぢやう》は奈何《いかん》。此處《こゝ》にも、隆景《たかかげ》が發言《はつげん》した。
[#ここから1字下げ]
隆景《たかかげ》|被[#二]仰上[#一]候《おほせあげられさふらふ》は、近年《きんねん》秀吉《ひでよし》弓矢《ゆみや》の取《とり》やう、とくと見申候《みまをしさふらふ》に、智謀《ちぼう》ありて勇將《ゆうしやう》たり。大志《たいし》あり。以來《いらい》は天下《てんか》の仕置《しおき》も、秀吉《ひでよし》たるべし。信長父子《のぶながふし》の討死《うちじに》は、秀吉《ひでよし》の幸《さふはひ》|不[#レ]過[#レ]之《これにすぎず》、此時《このとき》當家《たうけ》誓約《せいやく》を違變《ゐへん》するならば、秀吉《ひでよし》遺恨《ゐこん》骨髓《こつずゐ》に徹《てつ》すべし。左《さ》ある時《とき》は、向後《きやうご》當家《たうけ》の滅亡《めつばう》疑《うたがひ》なし。今《いま》彌《いよい》よ和睦《わぼく》を厚《あつ》くして、信長《のぶなが》の死去《しきよ》を弔《とむら》ふに於《おい》ては、秀吉《ひでよし》大慶《たいけい》爰《こゝ》に有《あ》るべしと|被[#二]仰上[#一]候《おほせあげられさふらふ》。〔吉田物語〕[#「〔吉田物語〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れ如何《いか》にも、隆景《たかかげ》の口吻《こうふん》らしい。中國役《ちゆうごくえき》の羽柴筑前守《はしばちくぜんのかみ》は、昔日《せきじつ》の木下藤吉郎《きのしたとうきちらう》にあらず。隆景《たかかげ》の炯眼《けいがん》、いかで彼《かれ》の將來《しやうらい》を察《さつ》せざることあるべき。否《い》な惠瓊《ゑけい》の如《ごと》きは、既《すで》に天正元年《てんしやうぐわんねん》に於《おい》て、秀吉《ひでよし》の未來《みらい》を卜《ぼく》したるにあらずや。
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輝元公《てるもとこう》尤《もつとも》と御同意《ごどうい》にて、御返詞《ごへんじ》には、今月《こんげつ》二|日《か》惟任《これたふ》逆意《ぎやくい》に付《つき》、信長御父子《のぶながごふし》御死去《ごしきよ》の儀《ぎ》、貴殿御惆情察存候《きでんごてうじやうさつしぞんじさふらふ》。急度《きつと》|爲[#レ]被[#レ]遂[#二]義戰[#一]《ぎぜんをとげらるべきため》御上洛《ごじやうらく》の由《よし》、|被[#二]仰越[#一]候《おほせこされさふらふ》、御尤存候《ごもつともにぞんじさふらふ》。此間《このあひだ》申談候《まをしだんじさふらふ》誓約《せいやく》と申《まを》し、殊《こと》に|被[#レ]及[#二]義戰[#一]候《ぎぜんにおよばれさふら》へば、少《すこし》も疎意《そいに》|不[#レ]存候《ぞんぜずさふらふ》。御用《ごよう》に御座候《ござさふら》はゞ、人數《にんず》何程《なにほど》なり共《とも》、加勢《かせい》|可[#レ]仕《つかまつるべく》と|被[#レ]仰《おほせられ》、彦右衞門《ひこゑもん》|被[#二]差返[#一]候《さしかへされさふらふ》。
内藤越前守《ないとうゑちぜんのかみ》を、御悔《おんくやみ》の御使者《おししや》に秀吉御陣所《ひでよしごぢんしよ》へ|被[#レ]遣候處《つかはされさふらふところ》に、秀吉《ひでよし》大悦《おほよろこび》にて、早速《さつそく》對面《たいめん》し、相當《さうたう》の御返詞《ごへんじ》にて、御加勢《ごかせい》の儀《ぎ》|被[#二]仰越[#一]忝存候《おほせこされかたじけなくぞんじさふらふ》。|乍[#レ]去《さりながら》人數《にんず》は|入不[#レ]申候間《いりまをさずさふらふあいだ》、鐵砲《てつぱう》五百|挺《ちやう》、弓《ゆみ》百|張《はり》、旗《はた》三十|本《ぽん》御加勢頼存候通《ごかせいたのみぞんじさふらふとほり》|被[#レ]仰《おほせられ》、越前守《ゑちぜんのかみ》を|被[#二]差返[#一]候《さしかへされさふらふ》。同月《どうげつ》六|日《か》には高松《たかまつ》を出馬《しゆつば》にて、同《どう》八|日《か》姫路《ひめぢ》に著城《ちやくじやう》し給《たま》ふなり。〔吉田物語〕[#「〔吉田物語〕」は1段階小さな文字]
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とある。加勢《かせい》に關《くわん》する記事《きじ》は、甫菴太閤記《ほあんたいかふき》その儘《まゝ》である。

[#5字下げ][#中見出し]【一二】秀吉の撤兵[#中見出し終わり]

要《えう》するに誓紙交換以前《せいしかうくわんいぜん》に、信長《のぶなが》の死《し》を通告《つうこく》したと云《い》ふ説《せつ》〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]と、交換後《かうくわんご》、未《いま》だ高松《たかまつ》を引拂《ひきはら》はざる以前《いぜん》に、通告《つうこく》したと云《い》ふ説《せつ》〔吉田物語〕[#「〔吉田物語〕」は1段階小さな文字]と、途中《とちゆう》より通告《つうこく》したと云《い》ふ説《せつ》〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]との三|者《しや》あるが、何《いづ》れも其《そ》の期日《きじつ》を、六|月《ぐわつ》五|日《か》頃《ごろ》としたるに於《おい》て、一|致《ち》して居《を》る。又《また》吉川元春《きつかはもとはる》が、硬派《かうは》の主張者《しゆちやうしや》と云《い》ふ説《せつ》〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]と、特《とく》に元春《もとはる》の名《な》を示《しめ》さざるも、若手《わかて》の硬派《かうは》ありたる説《せつ》〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]の相違《さうゐ》はあるも。小早川隆景《こばやかはたかかげ》の、意見《いけん》によりて、毛利氏《まうりし》の態度《たいど》が定《さだま》りたる事《こと》は、何《いづ》れも一|致《ち》して居《を》る。當時《たうじ》毛利氏《まうりし》の側《がは》にも、硬派《かうは》の存《そん》したる事《こと》は、慶長《けいちやう》五|年《ねん》九|月《ぐわつ》、吉川廣家《きつかはひろいへ》が、毛利輝元《まうりてるもと》に呈《てい》せし書中《しよちゆう》にも、
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|從[#二]紀州雜賀[#一]《きしうさいがより》、信長不慮之談《のぶながふりよのだん》、慥《たしか》に申越候《まをしこしさふらふ》。下々申樣《しも/″\まをすやう》は、此時《このとき》手《て》を返《かへ》し、矛楯《むじゆん》に及候《およびさふら》はゞ、天下《てんか》即時《そくじ》に|可[#レ]被[#レ]任[#二]御存分[#一]處《ごぞんぶんにまかせらるべきところ》を、隆景《たかかげ》、元春《もとはる》御分別違候《ごふんべつちがひさふらふ》と、|各被[#レ]申候得《おの/\まをされさふらえ》ども、|前日神文被[#二]取替[#一]之趣《ぜんじつしんもんとりかはされたるのおもむき》、|無[#二]御忘却[#一]《ごばうきやくなく》、|被[#二]相屆[#一]之段《あひとゞけられしのだん》、|太閤樣御感被[#レ]成候而《たいかふさまぎよかんなされさふらひて》、|其故御當家于[#レ]今如[#レ]此御安堵候段《それゆゑごたうけいまにかくのごとくごあんどさふらふだん》、隆景折々御物語候而《たかかげをり/\おんものがたりさふらひて》、自慢之《じまんの》一に候《さふらふ》。
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とあるによりて、判知《わか》る。而《しか》して此《こ》の書中《しよちゆう》によりて、誓紙《せいし》の交換《かうくわん》は、毛利氏《まうりし》に於《おい》て、未《いま》だ此《こ》の變報《へんぱう》に接《せつ》しなかつた以前《いぜん》の事《こと》が判知《わか》る。而《しか》して秀吉《ひでよし》の通告以前《つうこくいぜん》に、毛利氏《まうりし》は雜賀《さいが》よりの早打《はやうち》にて、承知《しようち》して居《ゐ》たことが判知《わか》る。
吾人《ごじん》の判斷《はんだん》を手短《てみじか》に云《い》へば、秀吉《ひでよし》は毛利氏《まうりし》を出《だ》し拔《ぬ》いて、誓紙《せいし》を交換《かうくわん》した。毛利氏《まうりし》は、軈《やが》て出《だ》し拔《ぬ》かれた事《こと》を知《し》つた。秀吉《ひでよし》は明々地《あからさま》に出《だ》し拔《ぬ》いた事《こと》を、通告《つうこく》した。毛利氏《まうりし》は評定《ひやうぢやう》の末《すゑ》、誓紙《せいし》を確守《かくしゆ》することを決《けつ》した。大綱《たいかう》は此通《このとほ》りぢや。其《そ》の時《とき》と、場所《ばしよ》との如《ごと》きは、何《いづ》れにしても差支《さしつかへ》ない。秀吉《ひでよし》と、毛利氏《まうりし》との間《あひだ》には、掛引《かけひき》もあつた、魂膽《こんたん》もあつた、併《しか》し大體《だいたい》に於《おい》て、互《たが》ひに信義《しんぎ》を貫徹《くわんてつ》した。
蓋《けだ》し小早川隆景《こばやかはたかかげ》の外交政略《ぐわいかうせいりやく》は、當時《たうじ》の水平《すゐへい》に超出《てうしゆつ》して居《ゐ》た。彼《かれ》は正直《しやうぢき》は、最善《さいぜん》の政策《せいさく》である※[#こと、64-12]を、徹底的《てつていてき》に了解《れうかい》し、之《これ》を毛利氏《まうりし》の爲《た》めに、實行《じつかう》せしめた。凡《およ》そ戰國時代《せんごくじだい》の外交家《ぐわいかうか》として、隆景程《たかかげほど》外交《ぐわいかう》の眞諦《しんてい》を、能《よ》く呑《の》み込《こ》んだ者《もの》はなかつた。
扨《さて》も兩軍《りやうぐん》は六|月《ぐわつ》四|日《か》、誓紙《せいし》を交換《かうくわん》し、夜《よ》に入《い》りて撤兵《てつぺい》に著手《ちやくしゆ》した。備前《びぜん》の宇喜多勢《うきたぜい》は、午後《ごご》八|時《じ》頃《ごろ》より、而《しか》して秀吉自身《ひでよしじしん》は、五|日《か》の午前《ごぜん》二|時《じ》頃《ごろ》に發程《はつてい》した。秀吉《ひでよし》の退陣《たいぢん》は、一|絲《し》紊《みだ》れなかつた。其《そ》の全軍《ぜんぐん》の高松《たかまつ》を引《ひ》き拂《はら》うたのは、六|日《か》の午後《ごご》二|時《じ》であつた。
秀吉《ひでよし》は備前《びぜん》に入《い》り、辛川村《からかはむら》にて、諸隊《しよたい》に行進路《かうしんろ》を指示《しじ》[#ルビの「しじ」は底本では「し」]し、本軍《ほんぐん》をして、山陽道《さんやうだう》の新舊兩線路《しんきうりやうせんろ》より、進《すゝ》ましめた。舊道《きうだう》は宿《しゆく》を經《へ》、西大川《にしおほかわ》を渡《わた》り、可眞上《かまかみ》、和氣《わき》、金谷《かなや》を過《す》ぎ、三|石《いし》に到《いた》り。新道《しんだう》は竹田附近《たけだふきん》より、西大川《にしおほかは》を渡《わた》り、國府市場《こくぶいちば》、沼《ぬま》を經《へ》、福岡《ふくをか》、長船《をさふね》を過《す》ぎ、西片上《にしかたがみ》に出《い》て、三|石《いし》に合《がつ》す。而《しか》して全軍《ぜんぐん》舟坂嶺《ふなさかみね》を越《こ》え、有年《うね》を經《へ》て、姫路《ひめぢ》に歸《かへ》らしめた。
秀吉彼自身《ひでよしかれじしん》は、五|日《か》麾下《きか》の將士《しやうし》を率《ひき》ゐて、本軍《ほんぐん》と別《わか》れ、矢坂《やさか》、野殿《のどの》、野田《のだ》を經《へ》て、岡山城《をかやまじやう》を過《す》ぎ、宇喜多主從《うきたしゆじゆう》を慰勞《ゐらう》し、且《か》つ毛利勢《まうりぜい》の追撃《つゐげき》に向《むか》つて、警戒《けいかい》す可《べ》きを告《つ》げ。
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姫路《ひめぢ》へ歸城候《きじやうさふらふ》とても、三|日《か》と逗留仕《とうりうつかまつる》まじく候《さふらふ》。其儘打出《そのまゝうちいで》、光秀《みつひで》を|可[#二]打果[#一]覺悟《うちはたすべきかくご》なり。吉左右《きつさう》は|自[#レ]是可[#レ]令[#レ]申者也《これよりまをさしむべきものなり》。さらばさらばと御意《ぎよい》にて、岡山《をかやま》えは|無[#二]御寄[#一]《おんよりなく》、直《すぐ》に御通候事《おんとほりさふらふこと》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
同夜《どうや》は沼城《ぬまじやう》に宿《しゆく》した。六|日《か》は福岡《ふくをか》の渡《わたし》にて、雨後《うご》の大水《たいすゐ》に出會《しゆつくわい》した。
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御自分《ごじぶん》の御人數《ごにんず》、一|人《にん》も御取落《おんとりおと》しなく、御道具以下迄《おだうぐいかまで》、恙《つゝが》なく|被[#レ]成[#二]御越[#一]候次第《おんこしなされさふらふしだい》は、先草履取《まづざうりとり》、其次《そのつぎ》は又若黨《またわかたう》、扨《さて》次第《しだい》/\に|御繰越被[#レ]成候《おんくりこしなされさふらふ》。御意《ぎよい》には、加樣《かやう》の時《とき》は人《ひと》一|人《にん》取落《とりおと》し候得《さふらえ》ば、五百も三百も損《そん》じたる樣《やう》に、申《まをし》なすもの也《なり》。荷物《にもつ》は一|荷《か》取《とり》おとし候得《さふらえ》ば、百|荷《か》も二百|荷《か》も流《なが》し候樣《さふらふやう》に、申《まをし》なすものぞや。心靜《こゝろしづか》に川越《かはご》しせよとて、|下知被[#レ]成《げちなされ》、川端《かはばた》に|被[#レ]成[#二]御座[#一]候處《ござなされさふらふところ》へ。森勘《もりかん》八(森高政)[#「(森高政)」は1段階小さな文字]馳著《はせちやくし》、毛利家《まうりけ》も|無[#二]子細[#一]《しさいなく》、五|日《か》の四つ過《すぎ》(十一時頃)[#「(十一時頃)」は1段階小さな文字]に、引退申候《ひきのきまをしさふらふ》、少《すこし》も|子細無[#二]御座[#一]候《しさいござなくさふらふ》。|如[#二]御意[#一]堤《ぎよいのごとくつつみ》をば、十二三ヶ|所《しよ》も切放《きりはな》し申候事《まをしさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
此《こゝ》にて秀吉《ひでよし》も、一|息《いき》附《つ》いたのであらう。而《しか》して川角太閤記《かはかくたいかふき》には、此處《こゝ》よりして早飛脚《はやびきやく》にて、毛利氏《まうりし》に信長《のぶなが》の異變《いへん》を、通告《つうこく》したとある。そは兎《と》も角《かく》も秀吉《ひでよし》は、舟坂《ふなさか》の險《けん》を避《さ》け、西片上《にしかたがみ》より船《ふね》にて赤穗《あかほ》に上陸《じやうりく》し、六|日《か》の夜《よ》姫路《ひめぢ》に歸著《きちやく》した。而《しか》して諸隊《しよたい》は、何《いづ》れも七八|兩日中《りやうじつちゆう》に悉《こと/″\》く到著《たうちやく》した。
尚《な》ほ大村由己《おほむらいうき》の書記《しよき》には、『六|月《ぐわつ》六|日未刻《かひつじのこく》(午後二三時頃)[#「(午後二三時頃)」は1段階小さな文字]|引[#二]備中表[#一]《びつちゆうおもてをひきて》、|至[#二]備前國沼城[#一]《びぜんのくにぬまじやうにいたる》、七|日大雨疾風凌[#二]數箇所大河洪水[#一]《かたいうしつぷうすかしよのたいがかうずゐをしのぎて》、|至[#二]姫路[#一]《ひめぢにいたる》二十|里許《りばかり》、其日著陣《そのひちやくぢんす》。』とあり。又《ま》た秀吉《ひでよし》の書翰《しよかん》には、『毛利《まうりの》一|書並血判人質兩人《しよならびにけつぱんひとじちりやうにん》まで請取《うけとり》、同《どう》七|日《か》、二十七|里《り》の所《ところ》を、一|日《にち》一|夜《や》に播州姫路《ばんしうひめぢ》へ打入候事《うちいりさふらふこと》。』とあれば、或《あるひ》は七|日《か》に秀吉自身《ひでよしじしん》も、姫路《ひめぢ》に到著《たうちやく》したかも知《し》れぬ。然《しか》も彼《かれ》及《およ》び其《そ》の諸隊《しよたい》が、風雨《ふうう》を冐《をか》し、眞驀地《まつしぐら》に強行《きやうかう》し、急行《きふかう》した事《こと》は、何《いづ》れも疑《うたがひ》を容《い》れぬ。
          ―――――――――――――――
[#6字下げ][#小見出し]兩川の信義[#小見出し終わり]

[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
上方勢[#割り注]○羽柴[#割り注終わり]一里許引たりし比、播磨の阿賀[#割り注]○揖西郡英賀[#割り注終わり]の一向坊主休巴が許より、信長切腹の由告來りぬ[#割り注]○毛利の營[#割り注終わり]其外雜賀孫市が所、又東福寺に在ける中國の僧某、又京都の長谷川宗仁が許よりも、櫛の齒を曵樣にこそ注進してけれ、恁れば宇喜多七郎兵衞[#割り注]○忠家[#割り注終わり]岡越前守を先として信長、惟任に被[#レ]弑給候に因て、秀吉被[#二]逃上[#一]候、幾程も被[#二]行延[#一]候まじ、追討にせられ候へ、各※[#二の字点、1-2-22]御先を仕て切上り秀吉を道中にて打止め、直に京都に攻上り、天下に旗を被[#レ]擧候へ、是天下を毛利家に天より被[#レ]與時節にて候、是を取不[#レ]給ば還て禍と可[#レ]成候、各※[#二の字点、1-2-22]全く詭て申に非とて神文を書てぞ申ける、厥外味方の諸侍共一同に追討にし給へと諫めたりけれ共、元春隆景一旦和睦せんと起證文を以て約盟し、血墨の未[#レ]乾に敵の災に乘て約を變ぜん事、大將たる者の所[#レ]耻、且は上天の冥鑑も可[#レ]恐、司馬法曰不[#レ]加[#レ]喪不[#レ]因[#レ]凶、されば楚の共王伐[#レ]陳し時、陳の成公卒し其子哀公弱なりしかば、楚王罷[#レ]兵去りぬ、又春秋にも晋の士※[#「勹<亡」、U+5304、68-8]侵[#レ]齋ける時、齋候卒しゝかば士※[#「勹<亡」、U+5304、68-8]還りぬ、君子大[#二]其不[#一レ]伐[#レ]喪とこそ見えたれ、仁義を知る者は斯くこそ有けれ、吾今何ぞ其災を幸として約を破らんや、各※[#二の字点、1-2-22]重て勿[#レ]言として曾て同心し不[#レ]給、元長は敵急に和を請事不審多端也、いで敵軍の樣體可[#レ]窺とて廂山へ上つて御座《おは》しけるに和睦已に事成ぬ急ぎ歸り給へとて頻に使の有けれ共、何の和平と云事かあらん、今少し事の體を窺給へかしとて、更に廂山を下り不[#レ]給ける中に、敵陣急に引拂信長討れさせ給ぬと到來有ければ、元長さればこそ無[#二]子細[#一]て和を請は不審千萬也と思つるは是故なめり、元春隆景こそ堅き盟書をも取替し給へ、吾は其衆に非らず追て可[#レ]討ぞと頻に進み給しか共、元春隆景強て制し給へば、忿を押へて止り給ふ。〔陰徳太平記〕
[#ここで字下げ終わり]
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