第二章 秀吉の出身
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高島秀彰、入力
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[#4字下げ][#大見出し]第二章 秀吉の出身[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【四】青年時代の秀吉[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は、何故《なにゆゑ》に松下氏《まつしたし》を去《さ》つた乎《か》。此《こ》れにも種々《しゆ/″\》の傳説《でんせつ》がある。而《しか》して最《もつと》も人口《じんこう》に膾炙《くわいしや》したるは、甫菴太閤記《ほあんたいかふき》の語《かた》る所《ところ》である。
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或時《あるとき》尾州信長公《びしうのぶながこう》御家中《ごかちゆう》には、いかやうなる具足冑《ぐそくかぶと》やはやるぞと、松下《まつした》尋《たづ》ねしに、秀吉《ひでよし》奉《うけたまは》り、尾張國《をはりのくに》には、桶皮筒《をけかはどう》には事《こと》かはり、胴丸《どうまる》とて、右《みぎ》の脇《わき》にて合《あは》せ、伸縮《のべちゞみ》自由《じいう》なるを以《もつ》て、をしなべて是《これ》を用《もち》ひ侍《はべ》る由《よし》、|被[#レ]申《まをされ》ければ、さらば其具足冑《そのぐそくかぶと》かうて參《まゐ》れよとて、黄金《わうごん》五六|兩《りやう》渡《わた》しつかはしけり。
秀吉《ひでよし》道《みち》すがら思《おも》ひ給《たま》ふやう、|雖[#下]忘[#二]禮節[#一]塵[#中]忠義[#上]矣《れいせつをわすれちゆうぎをけがすといへども》、謀略《ぼうりやく》を以《もつて》|振[#二]威名[#一]持[#二]國家[#一]《ゐめいをふるひこくかをぢする》をば勇士《ゆうし》の本意《ほんい》とする所也《ところなり》。所詮《しよせん》此金《このかね》にて、丈夫《ぢやうぶ》の身《み》と成《なる》べき支度《したく》の賄《まかなひ》とし、天下《てんか》の大器《たいき》とならん人《ひと》を頼奉《たのみたてまつ》り、立身《りつしん》を勵《はげ》み、父母《ふぼ》並《ならびに》親族等《しんぞくら》をも撫育《ぶいく》し、彼胴丸《かのどうまる》をも調《とゝの》へつゝ、松下殿《まつしたどの》に渡《わた》し|申[#レ]可《まをすべし》と思《おも》ひ、先《まづ》其《その》あらましを叔父《をぢ》に尋《たづね》けるに、尤《もつとも》宜《よろ》しからん、其故《そのゆゑ》を按《あん》ずるに、貪夫《どんぷ》は|※[#「けものへん+旬」、U+72E5、24-2][#レ]財《ざいをいとなむ》と、云共《いふとも》、爾《なんぢ》は|是非[#二]貪夫[#一]《これどんぷにあらず》、とかく|勵[#レ]武立[#レ]名《ぶをはげみなをたてん》と欲《ほつ》する者《もの》は、|非[#三]于附[#二]青雲之士[#一]焉能爲[#レ]名乎《せいうんのしにつくにあらずんばいづくんぞよくなをなさんや》。熟《つら/\》思《おも》ふに、信長公《のぶながこう》は武勇《ぶゆう》の道《みち》、晝夜《ちうや》を分《わか》ず嗜《たしな》み、權謀《けんぼう》を事《こと》とし、信《しん》を守《まもり》、其氣象《そのきしやう》愚《ぐ》にして|非[#レ]愚《ぐにあらず》、大《おほ》きにつよき振舞《ふるまひ》のみ有《あり》。又《また》そしる方《かた》も有《あり》けれど、實《じつ》は賢《かしこ》く、寛廣《くわんくわう》なる人《ひと》なり。其上《そのうへ》利《り》をすゝめ、百姓《ひやくしやう》を虐《しへたげ》などする小人《せうじん》をば、事《こと》の外《ほか》にくみ給《たま》へり。此人《このひと》必《かならず》天下《てんか》の主《あるじ》たるべし。只《たゞ》信長公《のぶながこう》につかへ、韓信《かんしん》、張良《ちやうりやう》が如《ごと》く用《もち》ひられ、時《とき》めき出《いで》なば、且《かつ》は一|門《もん》の眉目《びもく》、且《かつ》は國家《こくか》の邪路《じやろ》を正《たゞ》さん爲《ため》にても有《ある》べきか。爾《なんぢ》が思《おも》ふ所《ところ》に任《まか》すべしと諫《いさ》めければ、やがて刀《かたな》脇差《わきざし》衣服《いふく》に至《いた》る迄《まで》調《とゝの》へ、木下藤吉郎秀吉《きのしたとうきちらうひでよし》と名乘《なのり》て、直訴《ぢきそ》の用意《ようい》をぞせられける。
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此《こ》の小説《せうせつ》が、秀吉《ひでよし》をして、一|種《しゆ》の小泥坊《こどろばう》の冤罪《ゑんざい》を、負《お》はしめた。林道春《はやしだうしゆん》の秀吉譜《ひでよしふ》は固《もと》より、頼山陽《らいさんやう》さへも、甫菴《ほあん》に一|杯《ぱい》喰《く》はされて、其儘《そのまゝ》日本外史《にほんぐわいし》にも、採用《さいよう》した。併《しか》し此《かく》の如《ごと》き叔父《をぢ》は、焉《いづ》くにあつた乎《か》、此程《これほど》事理明白《じりめいはく》に、辯《べん》じ立《た》つる叔父《をぢ》であれば、若《も》し果《はた》して眞《しん》に其人《そのひと》あらば、其《そ》の誰《たれ》であるかは、分明《ぶんみやう》しなければならぬではない乎《か》。惟《おも》ふに此《こ》の所謂《いはゆ》る叔父《をぢ》は、甫菴《ほあん》其人《そのひと》の身代《みがは》りで、甫菴《ほあん》の立案《りつあん》を、喋出《しやべりいだ》したのであらう。其《そ》の口吻《こうふん》は、甫菴《ほあん》丸出《まるだ》しぢや。此丈《これだけ》にて既《すで》に甫菴《ほあん》の化《ばけ》の皮《かは》は、剥《は》げて仕舞《しま》ふのぢや。
比較的《ひかくてき》信憑《しんぴよう》に値《あた》ひする太閤素生記《たいかふすじやうき》は、此《こ》の記事《きじ》を駁《ばく》して曰《いは》く、
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太閤《たいかふ》生《うま》れ付《つき》堅《かた》く、理知儀《りちぎ》にして、左樣《さやう》の心《こゝろ》に非《あら》ず。又《また》行衞《ゆくゑ》もなき幼猿《こざる》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]に加兵衞《かへゑ》黄金《わうごん》五|兩《りやう》預《あづ》くべき義《ぎ》に非《あら》ず。又《また》具足《ぐそく》を調《とゝの》へ來《きた》れと其世忰《そのせがれ》に云《いふ》べき理《り》にも非《あら》ず、|猶不[#レ]信《なほしんならず》。
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と。如何《いか》にも尤《もつとも》の理由《りいう》だ。然《しか》らば彼《かれ》は何故《なにゆゑ》に、松下氏《まつしたし》を去《さ》りたる乎《か》。そは
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初《はじめ》は加兵衞《かへゑ》草履取《ざうりとり》など一|所《しよ》に置《お》く。後《のち》は引上《ひきあ》げ、加兵衞《かへゑ》手本《てもと》にて使《つかふ》に、彼《かれ》是《これ》一つとして、加兵衞《かへゑ》が心《こゝろ》に|不[#レ]叶《かなはず》と云事《いふこと》なし。後《のち》は加兵衞《かへゑ》納戸《なんど》の取入《とりいれ》取出《とりだ》しを申《まを》し付《つく》る。先《さき》より居《ゐ》たる小姓共《こしやうども》、是《これ》を妬《ねた》み、香芥《かうがい》(笄《かうがい》)が失《うせ》れば、猿《さる》が盜《ぬす》みたるらんと云《いひ》、小刀《こづか》が失《うせ》れば、猿《さる》が取《とり》たると云《いふ》。印籠《いんろう》、巾著《きんちやく》、鼻紙《はながみ》など失《うせ》れば、猿《さる》を疑《うたが》ふ。加兵衞《かへゑ》慈悲《じひ》なる者《もの》にて、遠國《ゑんごく》行衞《ゆくゑ》も|不[#レ]知者故如[#レ]此《しれざるものゆゑかくのごとく》、無實《むじつ》を云懸《いひかく》ると不便《ふびん》に思《おも》ひ、其《その》品々《しな/″\》を云聞《いひきか》せ、本國《ほんごく》へ歸《かへ》れと云《いひ》て、永樂《えいらく》三十|疋《ぴき》を與《あた》へ、暇《いとま》をくるゝ。是《これ》を路錢《ろせん》として、猿《さる》清洲《きよす》に至《いたる》。猿《さる》奉公《ほうこう》に出《いで》し中《うち》一|年《ねん》有《あり》て、十八|歳《さい》の時也《ときなり》。〔太閤素生記〕[#「〔太閤素生記〕」は1段階小さな文字]
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惟《おも》ふに秀吉《ひでよし》や、才氣《さいき》煥發《くわんぱつ》。目《め》にて聞《き》き、顏《かほ》にて讀《よ》み、言《い》はずして知《し》り、命《めい》ぜずして行《おこな》ふ。されば其《そ》の儕輩《せいはい》が、半《なかば》は妬《ねた》み、半《なかば》は疑《うたが》うたのも、無理《むり》からぬ事《こと》だ。而《しか》して其《そ》の事情《じじやう》を洞察《どうさつ》したる松下《まつした》が、秀吉《ひでよし》に同情《どうじやう》して、小許《せうきよ》の旅費《りよひ》を與《あた》へ、之《これ》を歸國《きこく》せしめたのも、有《あ》り得《う》べき事《こと》ではない乎《か》。豐鑑《ほうかん》には、只《た》だ、『思定《おもひさだ》めざるにや、又《また》もとの里《さと》に歸《かへ》りぬ。』とあり。何《いづ》れにせよ、彼《かれ》は其志《そのこゝろざし》を得《え》ずして、遠州《ゑんしう》より尾張《をはり》に還《かへ》つた。

[#5字下げ][#中見出し]【五】秀吉信長に出仕す[#中見出し終わり]

尾張《をはり》參河《みかは》は、今川氏《いまがはし》と、織田氏《おだし》との接壤地《せつじやうち》であつて、其《そ》の勢力《せいりよく》の消長《せうちやう》によりて境土《きやうど》も變更《へんかう》し、其《そ》の土豪《どがう》も向背《かうはい》した。秀吉《ひでよし》が當初《たうしよ》より、信長《のぶなが》に仕《つか》ふる志《こゝろざし》でなかつたことは、其《そ》の信長《のぶなが》の城下《じやうか》を去《さ》りて、遠州《ゑんしう》に赴《おもむ》いたので判知《わか》る。併《しか》し還《かへ》り來《きた》れば、仕《つか》ふ可《べ》きものは、只《た》だ織田氏《おだし》のみだ。而《しか》して不良少年《ふりやうせうねん》の成長《せいちやう》したる信長《のぶなが》は、今《いま》や既《すで》に英明《えいめい》の主將《しゆしやう》たる徴《ちよう》を、發露《はつろ》しつゝある。秀吉《ひでよし》が之《これ》に身《み》を委《ゆだ》ねんと欲《ほつ》したるも、良《まこと》に偶然《ぐうぜん》ではない。
秀吉《ひでよし》の信長《のぶなが》に仕《つか》へたるは、甫菴太閤記《ほあんたいかうき》には、永祿《えいろく》元年《ぐわんねん》九|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、直訴《ぢきそ》したとある。さすれば二十三|歳《さい》の時《とき》だ。併《しか》し太閤素生記《たいかふすじやうき》には、十八|歳《さい》の時《とき》とある。
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其比《そのころ》信長《のぶなが》小人《こびと》に、がんまく、一|若《わか》と云《い》ひて、小人頭《こびとがしら》三|人《にん》あり。彼《かれ》一|若《わか》中々村《なか/\むら》の者也《ものなり》。猿父《さるのちゝ》猿《さる》共《とも》に|能知[#レ]之《よくこれをしる》、一|若所《わかのところ》へ猿《さる》來《きた》る。一|若《わか》是《これ》を見《み》て驚《おどろき》、此《この》三|年《ねん》何國《いづこく》に有《あり》つるや。母《はゝ》嘆悲《なげきかな》しむ、急《いそ》いで逢《あ》へと云《い》ひ遣《つかは》す。母《はゝ》是《これ》を見《み》て|悦事無[#レ]限《よろこぶことかぎりなし》。夫《それ》より一|若《わか》を頼《たの》み、信長《のぶなが》御草履取《おざうりとり》に出《で》る。少《わづか》の内《うち》に經上《へあが》りて、小人頭《こびとがしら》と成《な》る。がんまく、一|若《わか》、猿《さる》三|人《にん》の小頭《こがしら》の内《うち》、猿《さる》は秀吉也《ひでよしなり》。|依[#レ]之藤吉郎《これによりてとうきちらう》と名《な》を改《あらたむ》。
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又《ま》た豐鑑《ほうかん》には、其《そ》の歳月《さいげつ》なし。但《ただ》し文章《ぶんしやう》の接續《せつぞく》より察《さつ》すれば、十七八|歳《さい》の頃《ころ》なるが如《ごと》し。
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其頃《そのころ》尾張國《をはりのくに》の司《つかさ》は、織田上總守平信長《おだかづさのかみたいらののぶなが》主《あるじ》なり。如何《いか》にして宮仕《みやづかへせ》ばやと思《おも》はれしかど、かくいふべきたつきも、更《さら》になかりければ、如何《いかゞ》はせんと念《ねん》じ給《たま》へりし。信長《のぶなが》川逍遙《かはあそび》して歸《かへ》り給《たま》ふ道《みち》の邊《ほとり》にかくれゐて、宮仕《みやづかへ》の望《のぞみ》あんなると高《たか》く宣給《のりたま》へば、我《われ》に仕《つか》へんや。いかさま思《おも》ふ所《ところ》もありなんと、許《ゆる》し給《たま》へば、やがて清洲《きよす》に供奉《ぐぶ》して、朝夕《てうせき》宮仕《みやづかへ》せり。信長《のぶなが》鷹狩《たかがり》を好《この》み、日毎《ひごと》に狩《かり》に、出給《いでたま》ふに、一|日《にち》も怠《おこた》らず。わら沓《ぐ》をわれととりはく樣《さま》にて物《もの》せしが、賢《かしこ》さ人《ひと》に勝《すぐ》れぬれば、次第《しだい》にときめき出《いで》、ずさ(從者)[#「(從者)」は1段階小さな文字]などを持《もち》て、木下藤吉郎《きのしたとうきちらう》となん呼《よば》れし。
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とありて、直訴《ぢきそ》にて出仕《しゆつし》したものゝ|樣《やう》に、記《しる》してある。
秀吉《ひでよし》の信長《のぶなが》に仕《つか》へたるは、天文《てんぶん》廿二|年《ねん》、十八|歳《さい》の時《とき》である乎《か》。將《は》た永祿元年《えいろくぐわんねん》、二十三|歳《さい》の時《とき》である乎《か》。何《いづ》れにしても彼《かれ》が、二十|歳《さい》前後《ぜんご》より、三十|歳《さい》前後迄《ぜんごまで》は、信長《のぶなが》の下《もと》に於《おい》て、雌伏《しふく》の時代《じだい》と云《い》はねばならぬ。彼《かれ》は決《けつ》して一|躍《やく》して、兵卒《へいそつ》より大將《たいしやう》となつたものではない。彼《かれ》の名《な》が太田牛《おほたうし》一の、信長公記《のぶながこうき》に掲《かゞ》げられたるは、彼《かれ》が三十三|歳《さい》、永祿《えいろく》十一|年《ねん》九|月《ぐわつ》、箕作城攻《みづくりじやうぜめ》の際《さい》だ。又《ま》た豐鑑《ほうかん》にも、秀吉《ひでよし》の武功《ぶこう》を録《ろく》したるは、『永祿《えいろく》十一|年《ねん》四|月《ぐわつ》(九月?)[#「(九月?)」は1段階小さな文字]信長《のぶなが》江南《かうなん》へ軍《ぐん》を發《はつ》し、箕作《みづくり》の城《しろ》を責給《せめたま》ひしに、秀吉《ひでよし》先掛《さきがけ》城《しろ》を破《やぶつ》て敵《てき》を退《しりぞ》く。』の一|節《せつ》を嚆矢《かうし》とする。假《か》りに永祿元年説《えいろくぐわんねんせつ》を採《と》るも、彼《かれ》の雌伏時代《しふくじだい》は、足掛《あしか》け十一|年《ねん》ではない乎《か》。若《も》し天文《てんぶん》廿二|年《ねん》とせん乎《か》、足掛《あしか》け十六|年《ねん》となるのぢや。
戰國時代《せんごくじだい》の英雄《えいゆう》は、何《いづ》れも少壯《せうさう》の成功者《せいこうしや》だ。信長《のぶなが》は二十七|歳《さい》にて、今川義元《いまがはよしもと》を殲《つく》した、家康《いへやす》は二十二|歳《さい》で、一|向宗《かうしう》の亂《らん》を平《たひら》げた。謙信《けんしん》は二十|歳《さい》にて、春日城《かすがじやう》の主《あるじ》となり、越後《ゑちご》一|國《こく》に號令《がうれい》した。信玄《しんげん》は二十一|歳《さい》の時《とき》に、甲斐《かひ》一|國《こく》の主《あるじ》となり、信州《しんしう》の攻略《こうりやく》を始《はじ》めた。而《しか》して秀吉《ひでよし》に至《いた》りては、三十三|歳《さい》にして、漸《やうや》く其名《そのな》を織田氏《おだし》の將校中《しやうかうちゆう》に、列記《れつき》せらるゝに至《いた》つた。彼《かれ》は實《じつ》に晩成《ばんせい》の英雄《えいゆう》である。人《ひと》或《あるひ》は家康《いへやす》を目《もく》して、斯《か》く云《い》ふが、家康《いへやす》は總《すべ》てに於《おい》て―|年齡《ねんれい》以外《いぐわい》―秀吉《ひでよし》の先進《せんしん》である。但《た》だ信長《のぶなが》に本能寺《ほんのうじ》の變《へん》あり、秀吉《ひでよし》に山崎《やまざき》の捷《かち》あり、爲《た》めに家康《いへやす》と、秀吉《ひでよし》との位置《ゐち》を、顛倒《てんたう》せしむるに至《いた》つたのだ。秀吉《ひでよし》と、家康《いへやす》との關係《くわんけい》を察《さつ》するものは、須《すべか》らく、如上《じよじやう》の事情《じじやう》を、尋酌《しんしやく》せねばならぬ。
要《えう》するに十|歳《さい》内外《ないぐわい》より、二十|歳《さい》内外迄《ないぐわいまで》は、一|般的《ぱんてき》放浪時代《はうらうじだい》であり、二十|歳《さい》前後《ぜんご》より、三十|歳《さい》前後迄《ぜんごまで》は、織田家《おだけ》に於《おい》ての、雌伏時代《しふくじだい》である。吾人《ごじん》は此《こ》の二十|有餘年間《いうよねんかん》の、修養《しうやう》に於《おい》て、他日《たじつ》秀吉《ひでよし》が、飛龍昇天《ひりゆうしようてん》の素養《そやう》を、成《な》したる※[#こと、30-9]を疑《うたが》はぬ。但《た》だ其《そ》の如何《いか》なる事《こと》によりて、如何《いか》にして成《な》したる乎《か》は、事實《じじつ》の外《ほか》に於《おい》て、之《これ》を尋《たづ》ね、文字《もんじ》の外《ほか》に於《おい》て、之《これ》を讀《よ》む可《べ》きのみである。

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[#6字下げ][#小見出し]秀吉信長に忠勤を抽んず[#小見出し終わり]

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頓て刀脇差衣服に至る迄調へ、木下藤吉郎秀吉と名乘て、直訴の用意をぞせられける、其比信長公は清洲に御在城ありけるに、永祿元年九月朔日に直訴せられけるは、其父は織田大和守殿に事へ、竹阿彌入道と申候て、愛知郡中村の住人にて御座候、代々武家の姓氏を※[#「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29]すと雖も、父が代に至て家貧しければ、某微小にして方々使令の身と成て不[#レ]能[#レ]達[#二]君門[#一]、唯願くは御蔭を仰奉[#レ]存旨申上しかば、信長公彼が威儀立|翔《ふるま》ひを御覽じて、打笑せ給ひつゝ仰けるは、輔車《つらがまち》は猿にも似たり、心も輕く見えしが氣も善く侍らんとて被[#二]召出[#一]けり、筑阿彌が子なればとて、暫しが程は小筑とぞ呼給ひける、秀吉新參の事なれば、御前近く事へ奉る事は及び無きに因り、近習の人々に近付、其用などを承り、一兩年は左樣の體にて暮し被[#レ]申けるが、或時同國犬山城の近邊燒働として、信長公未明に打出給ふに、馬に乘り勇める者あり、誰ぞと宣へば木下藤吉郎秀吉とぞ名乘りける、其後程經て鴨鷹の爲め曉方出させ給ひつゝ、誰か有ぞと尋させられけるに、藤吉郎是に候と答奉る、敬[#レ]上盡[#二]臣職[#一]者は必公庭に隙なしと聞しが、近年藤吉郎が勤め實《げ》に左も有ぞかしと御感の御萠し始て有けり、如[#レ]此勤め行ひ、漸く日を累ね月を經しかば、直に御用を承る程に成にけり、臣としては君の御心|緒《ばへ》を能知て事へん事、爲[#レ]臣上の樞要と思ひ、朝には信長公の御行ひを見奉り、暮には人にも問ひ、後々は伺もし侍るに、好み給へる品々には、第一大器にして勇才兼備り、國柱にも立べき人、第二名士には非ず共、忠義の志篤く總軍をも易く推廻す可き力も有て、贔負偏頗なき士、第三武名香しく萬事の裁判廉直に於[#二]軍中[#一]可[#レ]勵[#レ]衆才有者也、斯の如くなれば管仲不[#レ]受[#二]鮑叔之智[#一]穰苴不[#レ]候[#二]晏嬰之薦[#一]と見えたり、雜事は得たる事にも驕らず、流石卑下もせず、只有の儘なると物事ハカを遣る者とぞ見えし。〔甫菴太閤記〕
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[#5字下げ][#中見出し]【六】雌伏時代の秀吉[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》雌伏間《しふくかん》の消息《せうそく》は、纔《わづか》に甫菴太閤記《ほあんたいかふき》に於《おい》て、之《これ》を見《み》るのみだ。其他《そのた》は何《いづ》れも之《これ》を原料《げんれう》として、蹈襲《たうしふ》し、若《も》しくは燒《や》き直《なほ》したるものに過《す》ぎぬ。而《しか》して甫菴《ほあん》の所記《しよき》が、何處迄《どこまで》が事實《じじつ》で、何處迄《どこまで》が小説《せうせつ》である乎《か》。頗《すこぶ》る覺束《おぼつか》ない。但《た》だ大略《たいりやく》を摘載《てきさい》すれば左《さ》の如《ごと》し。
或時《あるとき》清洲《きよす》の城塀《じやうへい》、百|間《けん》許《ばか》り崩《くづ》れた。廿|日餘《かあま》りもかゝつて、尚《な》ほ修繕《しうぜん》が出來《でき》ぬ。秀吉《ひでよし》之《これ》を見《み》て浩嘆《かうたん》した。信長《のぶなが》は之《これ》を聞《き》き附《つ》け、やがて普請奉行《ふしんぶぎやう》を命《めい》じた。秀吉《ひでよし》は百|間《けん》を十|組《くみ》に分《わか》ち、割普請《わりぶしん》を申《まを》し附《つ》け、翌日《よくじつ》に出來《しゆつたい》した。信長《のぶなが》之《これ》を嘉《よみ》して、秀吉《ひでよし》に加増《かぞう》した。又《ま》た翌年《よくねん》の夏《なつ》、清洲《きよす》より小牧山《こまきやま》に移轉《いてん》す可《べ》き由《よし》を、申《まを》し出《い》でた。信長《のぶなが》も心《こゝろ》に其《そ》の必要《ひつえう》を認《みと》めて居《ゐ》たが、費用《ひよう》を憚《はゞか》つて、其儘《そのまゝ》に過《すご》しつゝあつた。此言《このげん》を聞《き》いて、餘計《よけい》な差出口《さしでぐち》と叱《しか》つた。
又《ま》た永祿《えいろく》六|年《ねん》夏《なつ》の比《ころ》、信長《のぶなが》は川狩《かはがり》の折《をり》に、敵味方《てきみかた》を分《わか》ち、合戰《かつせん》を挑《いど》み、秀吉《ひでよし》を一|方《ぱう》の將《しやう》としたが、掛引自在《かけひきじざい》、學《まな》ばずして兵法《へいはふ》の妙《めう》を示《しめ》した。
又《ま》た永祿《えいろく》六|年《ねん》秋《あき》の末《すゑ》、信長《のぶなが》西美濃《にしみの》に師《し》を出《いだ》す折《をり》、福富平左衞門尉《ふくとみへいざゑもんのじよう》が金龍《きんりゆう》の面指《めんざし》、紛失《ふんしつ》した。人々《ひと/″\》暗《あん》に秀吉《ひでよし》を疑《うたが》ふ。秀吉《ひでよし》急《きふ》に津島《つしま》に赴《おもむ》き、此品《このしな》を質《しち》に置《お》けるものあらば、告知《こくち》せよ、黄金《わうごん》十|兩《りやう》與《あた》ふ可《べ》しと觸《ふ》れ、知人《ちじん》の富豪《ふがう》堀田孫右衞門尉方《ほつたまごゑもんのじようかた》に止宿《ししゆく》して、其《そ》の樣子《やうす》を待《ま》ち居《ゐ》たるに、果《はた》せるかな、此笄《このかうがひ》を持參《ぢさん》し、錢《ぜに》五|貫文《くわんもん》借《か》りたき由《よし》の者《もの》ありと聞《き》き、直《たゞ》ちに彼《かれ》を捕《とら》へ、信長《のぶなが》の歸陣《きぢん》を待《ま》ち受《う》けて、其《そ》の罪人《ざいにん》を差出《さしいだ》し、斯《か》かる嫌疑《けんぎ》を受《う》け候《さふらふ》も、某《それがし》が貧《ひん》なる故《ゆゑ》にて候《さふらふ》と、涙《なみだ》を流《なが》した。
又《ま》た信長《のぶなが》は一|年《ねん》炭薪《すみまき》の費《ひ》、千|石《ごく》餘《よ》なるを過多《くわた》なりとし、村井長門守《むらゐながとのかみ》に命《めい》じて、其《そ》の奉行《ぶぎやう》を擧《あ》げしむるも、一も其職《そのしよく》に適《てき》せず。乃《すなは》ち秀吉《ひでよし》に命《めい》じたるに、千|石《ごく》は愚《おろ》か、其《そ》の三|分《ぶん》の一にも及《およ》ばずして足《た》りた。又《ま》た信長《のぶなが》美濃《みの》發向《はつかう》の時《とき》、見《み》もなれぬ旗《はた》あり、誰人《たれびと》の物《もの》かと尋《たづぬ》るに、木下藤吉郎《きのしたとうきちらう》が旗《はた》なりと申《まを》す。信長《のぶなが》怒《いか》りて、誰《たれ》が許《ゆる》しを得《え》て、斯《か》くしたるぞとて、旗竿《はたざを》を切《き》り折《を》らしめたが、秀吉《ひでよし》は別段《べつだん》怒《いか》る氣色《けしき》もなく、平氣《へいき》であつた。
又《ま》た信長《のぶなが》美濃經略《みのけいりやく》に就《つい》て、秀吉《ひでよし》に問《と》うた。秀吉《ひでよし》は當國《たうごく》夜討《ようち》強盜《がうたう》を營《いとな》む者共《ものども》を召集《めしあつめ》あれとて、千二百|餘人《よにん》を記《しる》し、其《そ》の番頭《ばんがしら》にと、稻田大炊助《いなだおほゐのすけ》、青山新《あをやましん》七、同小助《どうこすけ》、蜂須賀小《はちすかこ》六、同又《どうまた》十|郎《らう》、河口久助《かはぐちきうすけ》、長江半之丞《ながえはんのじよう》、加冶田隼人兄弟《かぢたはやときやうだい》、日比野《ひびの》六|太夫《だいふ》、松原内匠助等《まつばらたくみのすけら》を擧《あ》げた。而《しか》して若《も》し他《た》に適任者《てきにんしや》なくば、某《それがし》に大將《たいしやう》を命《めい》じ給《たま》へと云《い》うた。信長《のぶなが》は差出《さしで》がましき事《こと》を、申《まを》すものかなと思《おも》うたが、望《のぞみ》の通《とほ》りに任《まか》せた。秀吉《ひでよし》は果《はた》して其言《そのげん》の如《ごと》く、川向《かはむか》ひに要害《えうがい》を構《かま》ふる※[#こと、34-7]を得《え》た。乃《すなは》ち當座《たうざ》の褒美《はうび》として、二千|貫《ぐわん》を與《あた》へた。而《しか》して其後《そののち》敵兵《てきへい》と戰《たゝか》ひ、勝利《しようり》を得《え》、此《こゝ》に於《おい》て御持鎗《おんもちやり》、御持筒《おんもちづゝ》の鐵砲《てつぱう》を|被[#レ]下《くだされ》、特《とく》に旗《はた》をも御許《おゆる》しあつた。
又《ま》た濃州《のうしう》宇留馬《うるめ》の城主大澤次郎左衞門尉《じやうしゆおほさはじろざゑもんのじよう》は、秀吉《ひでよし》調略《てうりやく》を以《もつ》て、味方《みかた》とし、相伴《あひともな》うて信長《のぶなが》に見《まみ》えた。然《しか》るに信長《のぶなが》は、大澤《おほさは》を生害《しやうがい》さす可《べ》く、其旨《そのむね》を竊《ひそか》に秀吉《ひでよし》に漏《もら》した。秀吉《ひでよし》は其宿《そのしゆく》に還《かへ》り、大澤《おほさは》に向《むか》ひ、汝《なんぢ》の身上《みのうへ》心元《こゝろもと》なき事《こと》がある、我《われ》を人質《ひとじち》に取《と》りて、退去《たいきよ》せよと云《い》うた。因《よつ》て大澤《おほさは》は其《そ》の脇差《わきざし》を、秀吉《ひでよし》の胸《むね》にさし當《あ》てつゝ退去《たいきよ》した。
以上《いじやう》は彼《かれ》が永祿《えいろく》十一|年《ねん》九|月《ぐわつ》、江州《がいしう》箕作城攻《みづくりじやうぜめ》先登《せんとう》以前《いぜん》の事《こと》だ。此中《このうち》の幾許丈《いくばくだけ》が、事實《じじつ》として信憑《しんぴよう》に値《あた》ひする乎《か》は、銘々《めい/\》の判斷《はんだん》に任《まか》すより他《ほか》はない。但《た》だ彼《かれ》が如何《いか》なる場合《ばあひ》にも、知《し》りて告《つ》げざるなく、思《おも》うて言《い》はざるなく、然《しか》も信長《のぶなが》に叱《しか》られ、嘲《あざけ》られ、笑《わら》はれ、怒《いか》られて、毫《がう》も怨色《ゑんしよく》なく、唯《た》だ人《ひと》一たびすれば、己《おのれ》之《これ》を十たびする底《てい》の、大勉強《だいべんきやう》、大骨折《おほほねをり》を敢《あへ》てし、毫《がう》も自《みづ》から愛惜《あいせき》せなかつた事《こと》と、其《そ》の何等《なんら》の縁故《えんこ》もなく、何等《なんら》の贔屓《ひゐき》もなく、全《まつた》くの自助《じじよ》、自立《じりつ》で、漸次《ぜんじ》に信長《のぶなが》に登用《とうよう》せられたるとは、明白《めいはく》の事《こと》だ。而《しか》して其《そ》の大澤《おほさは》を、死地《しち》より脱去《だつきよ》せしめたるが如《ごと》き信義《しんぎ》は、彼《かれ》が一|生《しやう》を貫通《くわんつう》して、人心《じんしん》を收攬《しうらん》したる所以《ゆゑん》の一にして、事實《じじつ》に庶幾《ちか》しと云《い》うてもよからう。
甫菴《ほあん》が、『敵味方扱《てきみかたあつかひ》などに、其比《そのころ》周《あまね》く人《ひと》の好《この》みしは、仁羽《には》五|郎左衞門尉長秀《らうざゑもんのじようながひで》と、木下藤吉郎秀吉《きのしたとうきちらうひでよし》とのみ云《いひ》しなり、是《こ》れ信《しん》厚《あつき》が故也《ゆゑなり》。』と云《い》ひしは、蓋《けだ》し尤《もつとも》の言《げん》ならむ。

          ―――――――――――――――
[#6字下げ][#小見出し]秀吉割普請を以て清洲城修築の事[#小見出し終わり]

[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
或時清洲の城郭堀百間計崩れしかば、大名小名等に急ぎ掛直し可[#レ]申旨被[#二]仰付[#一]しか共、事行れず廿日計出來もやらで御用心も惡ければ、秀吉千悔し、此節は高[#レ]壘深[#レ]塹す可き時也、東は今川義元、武田信玄、北は朝倉義景、齋藤山城守[#割り注]○秀龍[#割り注終わり]、西は佐々木承禎、淺井備前守[#割り注]○長政[#割り注終わり]等調略を事とし、武勇を專にして透間を伺ひ、尾張國を望み思ふ事恰如[#二]戰國七雄[#一]、寔に棟梁の士を聘招し介冑の士を用る折節、如[#レ]此延々に掛る事招[#レ]禍に似たり、危き事哉と囁きけるを、何とかしたりけん信長公聞し召、猿メは何を云ぞと問給へ共、流石可[#二]申上[#一]儀に非ざれば猶豫し給へる處に、是非に申候へとて腕《かなひ》を取て捩ぢ曲がめ給ふ、有の儘に申せば宿老共を讒するに似たり、又申さねば君の仰を背くに似たり、嗚呼口は禍の門也と世の諺に傳へし事今思ひ當りたり、唯有の儘に不[#レ]申は惡かりなんと思ひ、御城の堀抔を、今世間不[#レ]穩折節、如[#レ]此延々に掛申事にては有間敷や、深[#レ]堀高[#レ]壘全[#レ]身敵國を併せ平[#二]呑天下[#一]せんと思召大將の恁る事や有と御普請奉行を叱けると申上ければ、尤能ぞ申たりける、武勇の志有る者は斯くこそ有度ものなれ、汝奉行し急ぎ拵可[#レ]申と被[#二]仰付[#一]、斯くて宿老衆へ參て申けるは、御城の堀、下奉行の油斷にて遲々に及條、某奉行仕り早速に出來候樣にと御諚にて御座《おはしま》しけるぞ、其旨下奉行共に堅く被[#二]申付[#一]可[#レ]然候はん由申ければ、唯御邊を頼入條能《よき》に計らひ候へと各※[#二の字点、1-2-22]被[#レ]申けり、左らば割普請に沙汰し申さんとて、下奉行共と相謀り、百間を十組に令[#二]割賦[#一]面々に充《あて》しかば、翌日出來し、腕木毎に松明をも掛置、掃除以下キラ能く見えし折節、信長公御鷹野より歸らせ給ふて、御覽じも敢へず御感有て御褒美不[#レ]淺、其晩に被[#二]召出[#一]御扶持方加増有けるとぞ、終を初に立る微兆なれと後にぞ思知られたる、斯て翌年夏の比、清洲の城は水多くして水乏し、願くは小牧山御城に御移り宜しかりなんと申上奉る、信長も内々左樣に思召寄給へ共、諸人の費を痛み給ふて定かにも不[#レ]被[#二]仰出[#一]に、差出たる事と云、諸人の痛所を不[#レ]省と云、斃[#二]人民[#一]弱[#二]兵器[#一]也、汝が云所似[#レ]諫非[#レ]諫從[#レ]下制[#レ]上謂[#二]之賊[#一]罪死に當れりと有り、左れ共其段をは宥め給ふと仰けるこそ憂タテテけれ、寔に斯く耻しめられし事を怨み奉る事も無く、主君の爲に宜しき事あれば、不[#レ]移[#レ]時申上げる心の内を推察し見るに、自然に忠義に深き素性也、其外差出者よと制し給ふ事|數回《あまたゝび》の事なりしかば、皆人アレ程|頬《つら》の皮の厚かりしは、見も聞きもせぬ抔聞や聞ぬ計に目引鼻引き笑ひけり、其れをも露心に掛給はで、唯忠勤を抽で、善言を奉らんと思召計にて異心は無かりけり、曩|昔《むかし》汲黯と云し者好[#二]直諫[#一]數犯[#二]主顏色[#一]と云傳しが、氣象聊是に似たるか。〔甫菴太閤記〕
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[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【七】將校としての秀吉[#中見出し終わり]

永祿《えいろく》十一|年《ねん》以後《いご》、秀吉《ひでよし》は信長《のぶなが》の將校《しやうかう》として、嶄然《ざんぜん》頭角《とうかく》を露《あらは》した。彼《かれ》が信長《のぶなが》の命《めい》を奉《ほう》じて、永祿《えいろく》十二|年《ねん》、京都《きやうと》の守護《しゆご》として、一|時《じ》駐在《ちゆうざい》したるが如《ごと》きは、儕輩《せいはい》の何《いづ》れも意外《いぐわい》としたる所《ところ》であつた。其後《そののち》の事功《じこう》は、既《すで》に織田氏篇《おだしへん》に陳《の》べ置《お》きたれば、今《いま》茲《こゝ》に之《こ》れを繰《く》り返《かへ》す必要《ひつえう》はない。但《た》だ聊《いさゝ》か一二の事柄《ことがら》を、記《き》するであらう。
抑《そもそ》も木下藤吉郎《きのしたとうきちらう》は、何年頃《なんねんごろ》より、羽柴筑前守《はしばちくぜんのかみ》とはなりたる乎《か》。豐臣秀吉譜《とよとみひでよしふ》には、柴田《しばた》丹羽《には》の二|人《にん》を慕《した》ひ、其《そ》の一|姓《せい》の一|字《じ》づゝを摘《とつ》て、羽柴《はしば》と名乘《なの》つたと記《しる》し、此《これ》を永祿《えいろく》六|年《ねん》以前《いぜん》に繋《つな》いだ。『豐鑑《ほうかん》』には、
[#ここから1字下げ]
其頃《そのころ》信長《のぶなが》の心《こゝろ》に叶《かな》ひののじる柴田修理亮勝家《しばたしゆりのすけかついへ》、丹羽越前守長秀《にはゑちぜんのかみながひで》とかやいひしかば、其人《そのひと》の名字《みやうじ》を、一|字《じ》づゝ賜《たまは》らんとて、丹羽《には》の羽《は》に、柴田《しばた》の柴《しば》をそへ、羽柴筑前守《はしばちくぜんのかみ》と改給《あらためたまひ》しとなり。
[#ここで字下げ終わり]
と記《しる》し、永祿《えいろく》七|年《ねん》以前《いぜん》の事《こと》に繋《つな》いだ。併《しか》し永祿《えいろく》十一|年《ねん》四|月《ぐわつ》十六|日《にち》附《づけ》の、立入文書《たちいりもんじよ》に、木下藤吉郎《きのしたとうきちらう》〔參照、織田氏時代前篇第九章、五九、信長の勤王〕[#「〔參照、織田氏時代前篇第九章、五九、信長の勤王〕」は1段階小さな文字]と記《しる》しあれば、改姓《かいせい》の理由《りいう》は、上記《じやうき》の通《とほ》りにせよ、其事《そのこと》は餘程《よほど》の後《のち》の事《こと》であらう。又《ま》た天正元年《てんしやうぐわんねん》十二|月《ぐわつ》十二|日《にち》附《づけ》の、惠瓊《ゑけい》の書翰《しよかん》にも、藤吉郎《とうきちらう》とあれば、筑前守《ちくぜんのかみ》と改《あらた》めたるは、尚《な》ほ其後《そののち》の事《こと》であらう。
秀吉《ひでよし》が江州《がうしう》に於《お》ける所領地《しよりやうち》たりし、阪田郡《さかたごほり》の古文書《こもんじよ》を閲《えつ》するに、天正《てんしやう》二|年《ねん》三|月《ぐわつ》に、初《はじ》めて羽柴姓《はしばせい》を見出《みいだ》した。其《そ》の筑前守《ちくぜんのかみ》と記《しる》したるは、天正《てんしやう》四|年《ねん》二|月《ぐわつ》十八|日《にち》の觀音寺文書《くわんおんじもんじよ》で、同年《どうねん》十|月《ぐわつ》十五|日《にち》、堀部《ほりべ》の醫王子《いわうじ》に與《あた》へたる文書《もんじよ》には、羽柴筑前守秀吉《はしばちくぜんのかみひでよし》と明記《めいき》してある。且《かつ》又《ま》た太田牛《おほたうし》一の信長公記《のぶながこうき》には、元龜《げんき》三|年《ねん》七|月《ぐわつ》迄《まで》は、木下藤吉郎《きのしたとうきちらう》と記《しる》し、八|月《ぐわつ》に至《いた》りて、始《はじ》めて羽柴藤吉郎《はしばとうきちらう》と記《しる》してある。此《こ》れは偶然《ぐうぜん》である乎《か》。或《あるひ》は此《こ》の間《あひだ》に、木下《きのした》より羽柴《はしば》に改姓《かいせい》したるが爲《た》め乎《か》。何《いづ》れにもせよ、彼《かれ》が羽柴姓《はしばせい》に改《あらた》めたのは、元龜《げんき》の末《すゑ》より天正《てんしやう》の始《はじめ》であり、其《そ》の筑前守《ちくぜんのかみ》と稱《しよう》したるは、天正《てんしやう》三四|年《ねん》の交《かう》であらう。此頃迄《このころまで》尚《な》ほ柴田《しばた》や、丹羽《には》にあやからねばならなかつたのは、彼《かれ》に取《と》りては、隨分《ずゐぶん》笑止《せうし》の事《こと》と云《い》はねばならぬ。
彼《かれ》が逸事《いつじ》として傳《つた》ふ可《べ》きは、北陸陣《ほくろくぢん》より、柴田《しばた》と衝突《しようとつ》して、小谷城《をだにじやう》に閉居《へいきよ》の際《さい》、無遠慮《ぶゑんりよ》に置酒高會《ちしゆかうくわい》した。されば彼《かれ》の幕友《ばくいう》、臣下《しんか》は、何《いづれ》も其《そ》の不謹愼《ふきんしん》を憂《うれ》ひ、苦諫《くかん》した。然《しか》も秀吉《ひでよし》は莞爾《くわんじ》として、多年《たねん》の骨折《ほねをり》寸閑《すんかん》なかりしに、今《いま》や御勘當《ごかんだう》を被《かうむ》り、籠居《ろうきよ》する事《こと》、是亦《これま》た殿《との》の御恩《ごおん》なれば、身《み》の暇《いとま》を利用《りよう》して、積鬱《せきうつ》を散《さん》ぜばやと思《おも》ふなりとて、一|切《さい》取《と》り合《あ》ふすべもなかつた。
此《ここ》に於《おい》て秀吉《ひでよし》の智嚢《ちなう》である、竹中半兵衞《たけなかはんべゑ》に、其事《そのこと》を訴《うつた》へ、彼《かれ》よりして、秀吉《ひでよし》の反省《はんせい》を促《うなが》さんことを求《もと》めた。然《しか》も流石《さすが》は半兵衞《はんべゑ》ぢや、此《こ》れは秀吉《ひでよし》の深《ふか》き考《かんが》へあつての事《こと》だ。筑前殿《ちくぜんどの》は廿|餘萬石《よまんごく》の大名《だいみやう》だ、小谷《をだに》は名高《なだか》き要害《えうがい》だ。若《も》し此《こ》の際《さい》鳴《なり》をひそめ、城門《じやうもん》を閉《と》ぢて、謹愼《きんしん》し給《たま》はん乎《か》。乍《たちま》ち謀反《むほん》の沙汰《さた》は、信長公《のぶながこう》の耳《みゝ》に入《い》らむ。酒宴遊興《しゆえんいうきよう》も、畢竟《ひつきやう》は讒《ざん》を避《さ》け、疑《うたがひ》を去《さ》るの遠慮《ゑんりよ》だと諭《さと》した。それで何《いづ》れも竹中《たけなか》の、今《いま》に始《はじ》めぬ深智《しんち》かなと感《かん》じた。〔重修眞書太閤記〕[#「〔重修眞書太閤記〕」は1段階小さな文字]
此《こ》れは或《あるひ》は小説《せうせつ》かも知《し》れぬ。併《しか》し秀吉《ひでよし》は、實《じつ》に信長學《のぶなががく》の大博士《だいはかせ》だ。彼《かれ》は恒《つね》に信長《のぶなが》の顏《かほ》を犯《をか》して、勝手《かつて》の發言《はつげん》をなしつゝも、其《そ》の逆鱗《げきりん》に觸《ふ》るゝなきの道《みち》を解《かい》して居《ゐ》た。されば一たび信長《のぶなが》の勘氣《かんき》を被《かうむ》れば、更《さ》らに之《これ》を恢復《くわいふく》するの道《みち》を、知《し》つて居《ゐ》た。即《すなは》ち彼《かれ》は、隨《したがつ》て降《ふ》れば隨《したがつ》て拂《はら》ひ、決《けつ》して積雪《せきせつ》の爲《た》めに、枝折《えだをれ》するが如《ごと》き心配《しんぱい》なからしめた。彼《か》の光秀《みつひで》の如《ごと》きは、寧《むし》ろ隨《したがつ》て降《ふ》れば、隨《したがつ》て積《つ》み、遂《つひ》に自《みづか》ら其《そ》の壓力《あつりよく》に、耐《た》へ得難《えがた》きに至《いた》つたのだ。
秀吉《ひでよし》の信長《のぶなが》に於《お》ける前半《ぜんぱん》は、如何《いか》にして出頭人《しゆつとうにん》たらんかとの、努力《どりよく》であつた。此《こ》れが爲《た》めに自《みづか》ら廣告的《くわうこくてき》の手段《しゆだん》も取《と》つた。此《こ》れが爲《た》めに餘計《よけい》なる差出口《さしでぐち》をもきいた。鐡面《てつめん》、厚顏《こうがん》も、便辟《べんぺき》、佞給《ねいきふ》も、決《けつ》して意《い》とする所《ところ》ではなかつたであらう。併《しか》し其《そ》の後半《こうはん》の努力《どりよく》は、如何《いか》にして信長《のぶなが》の信寵《しんちよう》を厚《あつ》うすると與《とも》に、其《そ》の嫌疑《けんぎ》、猜推《さいすゐ》に罹《かゝ》るなからん※[#こと、41-7]にあつた。信長《のぶなが》は火性《くわせい》であり、彼《かれ》は水性《すゐせい》であつた。信長《のぶなが》の烈焔《れつえん》も、彼《かれ》の水《みづ》の爲《た》めに、何時《いつ》しか消《き》え失《う》せた。彼《かれ》の機敏《きびん》は、恒《つね》に信長《のぶなが》の意《い》を、無形《むけい》に察《さつ》し、且《か》つ之《これ》を行《おこな》うた。此《かく》の如《ごと》くして彼《かれ》は、無事《ぶじ》に中國征伐《ちゆうごくせいばつ》の總大將《そうたいしやう》とはなつた。
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