高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正、再校正
[#割り注]近世日本國民史[#割り注終わり]豐臣氏時代 甲篇
[#地から3字上げ]蘇峰學人
[#4字下げ][#大見出し]第一章 秀吉の素生[#大見出し終わり]
[#5字下げ][#中見出し]【一】時代の寵兒寵兒の時代[#中見出し終わり]
大正《たいしやう》八|年《ねん》一|月《ぐわつ》一|日《にち》、初日《はつひ》の出《で》に向《むか》つて、本文《ほんぶん》を書《か》き始《はじ》む。吾人《ごじん》が今《いま》茲《こゝ》に、豐臣氏時代《とよとみしじだい》と稱《しよう》するは、天正《てんしやう》十|年《ねん》六|月《ぐわつ》、信長《のぶなが》本能寺《ほんのうじ》遭難《さうなん》以來《いらい》、慶長《けいちやう》三|年《ねん》八|月《ぐわつ》、秀吉《ひでよし》が伏見城《ふしみじやう》にて病死《びやうし》する迄《まで》、足掛《あしか》け十七|年間《ねんかん》の事《こと》である。即《すなは》ち秀吉《ひでよし》が四十七|歳《さい》より、六十三|歳《さい》迄《まで》の事《こと》である。
泰平無事《たいへいぶじ》の時代《じだい》には、十六七|年《ねん》は、一|瞬《しゆん》の間《ま》と云《い》うても差支《さしつかへ》ない。各人各個《かくじんかくこ》が著衣《ちやくい》、喫飯《きつぱん》を繰《く》り返《かへ》しつゝある間《あひだ》に、忽《たちま》ち經過《けいくわ》し去《さ》る。併《しか》し世運《せうん》の?忽急轉《しゆくこつきふてん》する場合《ばあひ》には、一|瞬《しゆん》も百|年《ねん》の如《ごと》しだ。豐臣氏時代《とよとみしじだい》の、約《やく》十六|年間《ねんかん》の如《ごと》きも、亦《ま》た此《こ》の例《れい》に漏《も》れぬ。信長《のぶなが》によりて創《はじ》められたる、日本統《にほんとう》一の事業《じげふ》は、此《こ》の十六|年間《ねんかん》に、殆《ほと》んど完成《くわんせい》した。否《いな》全《まつた》く成就《じやうじゆ》したと云《い》うてもよい。織田氏時代《おだしじだい》に割據《かつきよ》したる、關東《くわんとう》の北條《ほうでう》、四|國《こく》の長曾我部《ちやうそかべ》、中國《ちゆうごく》の毛利《まうり》、九|州《しう》の島津《しまづ》、東北《とうほく》の伊達《だて》、其他《そのた》處々《しよ/\》に取《と》り殘《のこ》されて、其《そ》の餘喘《よぜん》を保《たも》ちつゝあつた、幾多《いくた》の土著《どちやく》の勢力《せいりよく》も、悉《こと/″\》く豐臣氏時代《とよとみしじだい》に於《おい》て、蕩平《たうへい》せられたではない乎《か》。此《かく》の如《ごと》き大業《たいげふ》を、此《この》僅《わづ》かなる十六|年間《ねんかん》に成就《じようじゆ》したる、秀吉《ひでよし》の大手腕《だいしゆわん》は、誰《たれ》しも驚異《きやうい》す可《べ》きであるが。そは又《ま》た日本《にほん》一|統《とう》の氣運《きうん》、既《すで》に熟《じゆく》して、宛《あたか》も水到渠成《みづいたつてきよなる》の趣《おもむき》があつた事《こと》をも、忘却《ぼうきやく》してはならぬ。
秀吉《ひでよし》は實《じつ》に、時代《じだい》の寵兒《ちようじ》であつた。彼《かれ》が山崎合戰以來《やまさきかつせんいらい》、朝鮮征伐《てうせんせいばつ》に至《いた》る迄《まで》、小牧山役《こまきやまえき》に於《お》ける、家康《いへやす》との衝突《しようとつ》にて、一寸《ちよつと》頓挫《とんざ》した事《こと》はあつたが。概説《がいせつ》すれば、する事《こと》、なす事《こと》、一として當《あた》らざるはなく、頓々拍子《とん/\びやうし》に進《すゝ》んで來《き》た。即《すなは》ち秀吉《ひでよし》は、全《まつた》くの當《あた》り屋《や》であつた。併《しか》し此《これ》が爲《た》めに、秀吉《ひでよし》を僥倖漢《げうかうかん》と見做《みな》すは、大《だい》なる間違《まちがひ》だ。彼《かれ》は成功者《せいこうしや》たる丈《だけ》の腕前《うでまへ》があつた。彼《かれ》は其《そ》の氣魄《きはく》に於《おい》ても、襟度《きんど》に於《おい》ても、智能《ちのう》に於《おい》ても、才略《さいりやく》に於《おい》ても、天下《てんか》を統《とう》一す可《べ》き、資格《しかく》を具有《ぐいう》した。即《すなは》ち彼《かれ》は此《こ》の未曾有《みぞう》の、好氣運《かうきうん》に乘《の》る可《べ》き、好運兒《かううんじ》たる器《うつは》であつた。秀吉《ひでよし》も彼《かれ》が如《ごと》き氣運《きうん》に乘《じよう》ぜねば、此《かく》の如《ごと》き働《はたら》きが出來《でき》ぬが。又《ま》た彼《かれ》が如《ごと》き人物《じんぶつ》でなければ、此《こ》の氣運《きうん》に乘《じよう》ずる事《こと》も出來《でき》ぬ。一|言《げん》すれば、人《ひと》と舞臺《ぶたい》とが、全《まつた》く調合《てうがふ》したから、豐臣氏時代《とよとみしじだい》の如《ごと》き、我《わ》が近世史上《きんせいしじやう》に、最《もつと》も光輝《くわうき》ある時代《じだい》を生《しやう》じたのだ。
秀吉《ひでよし》は信長《のぶなが》の臣下《しんか》であつたと與《とも》に、其《そ》の衣鉢《いはつ》の相續者《さうぞくしや》である、其《そ》の門人《もんじん》である。彼《かれ》は織田大學《おだだいがく》の得業生《とくげふせい》であつて、出藍《しゆつらん》の材《ざい》であつた。彼《かれ》は天下統《てんかとう》一の指畫《しくわく》、經綸《けいりん》に於《おい》ては、殆《ほと》んど悉《こと/″\》く信長《のぶなが》の先蹤《せんしよう》を、蹈襲《たふしふ》した。然《しか》も之《これ》を實行《じつかう》する手段《しゆだん》、方法《はうはふ》に於《おい》ては、殆《ほと》んど悉《こと/″\》く自個《じこ》の流儀《りうぎ》で遣《や》り附《つ》けた。別言《べつげん》すれば、先人《せんじん》の長《ちやう》を採《と》りて、其《そ》の短《たん》を捨《す》てた。然《しか》も信長《のぶなが》の長所《ちやうしよ》は、秀吉《ひでよし》の短所《たんしよ》で、秀吉《ひでよし》の長所《ちやうしよ》は、信長《のぶなが》の短所《たんしよ》であつた。されば信長《のぶなが》の短《たん》を捨《す》つるは、秀吉《ひでよし》自個《じこ》の長《ちやう》を、發揮《はつき》する所以《ゆゑん》であつた。好兒爺《かうじぢゝ》の錢《ぜに》を使《つか》はずで、秀吉《ひでよし》は實《じつ》に理想的《りさうてき》の、信長《のぶなが》の相續者《さうぞくしや》であつた。
我《わ》が日本《にほん》の平民主義《へいみんしゆぎ》は、秀吉《ひでよし》によりて、最《もつと》も大《だい》なる凱歌《がいか》を奏《そう》した。信長《のぶなが》も、家康《いへやす》も、其《そ》の門地《もんち》は、必《かなら》ずしも高《たか》しとは云《い》はれぬ。併《しか》し信長《のぶなが》は、尾洲半國《びしうはんごく》を切《き》り從《したが》へ、參河《みかは》、尾張《をはり》、美濃《みの》の間《あひだ》に、虎視眈々《こしたん/\》たりし、信秀《のぶひで》の子《こ》であった。家康《いへやす》も一|時《じ》は、今川家《いまがはけ》の食客《しよくかく》の樣《やう》であつたが、それでも參河岡崎《みかはをかざき》には、其《そ》の傳來《でんらい》の城《しろ》と、其《そ》の譜代《ふだい》の武士《ぶし》とを、有《いう》して居《ゐ》た。單《ひと》り秀吉《ひでよし》のみは、全《まつた》くの草奔《さうまう》から出《で》たものであつた。全《まつた》くの徒手《としゆ》、空拳《くうけん》の成《な》り上《あが》り者《もの》であつた。彼《かれ》の資本《しほん》は、只《た》だ彼《かれ》の一|身《しん》であつた。然《しか》るに彼《かれ》は其《そ》の努力《どりよく》、奮鬪《ふんとう》の結果《けつくわ》によりて、遂《つひ》に天下《てんか》を掌握《しやうあく》し、人臣《じんしん》の極位《きよくゐ》に躋《のぼ》つた。日本《にほん》の平民主義《へいみんしゆぎ》は、昔《むかし》ながらの平民主義《へいみんしゆぎ》ぢや。其《そ》の歴然《れきぜん》たる證人《しようにん》には、秀吉《ひでよし》がある。
秀吉《ひでよし》は信長《のぶなが》よりも、特《とく》に家康《いへやす》よりも、最《もつと》も芝居氣《しばゐぎ》が多《おほ》かつた。彼《かれ》は一|種《しゆ》の大役者《だいやくしや》であつた。併《しか》し大役者《だいやくしや》たるには、單《た》だに技巧《ぎかう》の末《すゑ》を趁《お》ふのみならず、亦《ま》た其《そ》の心持《こゝろもち》が、其役《そのやく》に當《あ》て嵌《はま》らねばならぬ。別言《べつげん》すれば、其《そ》の扮《ふん》する役目《やくめ》に、心《こゝろ》からならねばならぬ。左《さ》なくば徒《いたづ》らに假裝者《かさうしや》たるに止《とゞま》るのだ。吾人《ごじん》は秀吉《ひでよし》を大役者《だいやくしや》と云《い》ふ、決《けつ》して大假裝者《だいかさうしや》とは云《い》はぬ。秀吉《ひでよし》は大假裝者《だいかさうしや》となるには、餘《あま》りに其《そ》の心腸《しんちやう》が多《おほ》かつた。切言《せつげん》すれば、秀吉《ひでよし》の全身《ぜんしん》の一|半《ぱん》は、心腸《しんちやう》であつた。彼《かれ》の此《こ》の心腸《しんちやう》には、奸雄《かんゆう》も、猛將《まうしやう》も、美人《びじん》も、才子《さいし》も、其《そ》の他《た》苟《いやし》くも彼《かれ》と接觸《せつしよく》する者《もの》は、悉《こと/″\》く皆《み》な彼《かれ》に致《いた》された。彼《かれ》が微賤《びせん》より起《おこ》りて、日本統《にほんとう》一の業《げふ》を成就《じやうじゆ》したのは、要《えう》するに總《すべ》ての人《ひと》をして、彼《かれ》に愛著《あいぢやく》するを禁《きん》ずる能《あた》はざらしめたる、此《こ》の心腸《しんちやう》の力《ちから》であつた。而《しか》して彼《かれ》の遺業《ゐげふ》が、彼《かれ》と與《とも》に亡《ほろ》びたのも、亦《ま》た恐《おそ》らくは、此《こ》れが爲《た》めであらう。所謂《いはゆ》る其《その》人《ひと》亡《ほろ》ぶれば、其《その》政《まつりごと》亡《ほろ》ぶとの適例《てきれい》は、彼《かれ》に於《おい》て之《これ》を見《み》る。
[#5字下げ][#中見出し]【二】秀吉の素生 (一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]
尾張《をはり》は日本歴史《にほんれきし》に、重大《ぢゆうだい》なる因縁《いんえん》ある、英雄《えいゆう》の産地《さんち》だ。頼朝《よりとも》も此地《このち》に産《さん》した。信長《のぶなが》、秀吉《ひでよし》に至《いた》りては、云《い》ふ迄《まで》もない。特《とく》に奇《き》なるは信長《のぶなが》と、秀吉《ひでよし》とが、殆《ほと》んど同時《どうじ》、同所《どうしよ》に産《さん》した事《こと》である。秀吉《ひでよし》の素生《すじやう》は、宛《あたか》も一|種《しゆ》の神話《しんわ》として傳《つた》へられた。併《しか》し彼《かれ》が尾張《をはり》愛知郡《あいちごほり》の中村《なかむら》に産《さん》した丈《だけ》は、明白《めいはく》ぢや。但《た》だ『祖父物語《そふものがたり》』には、清須《きよす》みずのゝ(中島郡水野)[#「(中島郡水野)」は1段階小さな文字]がう戸《と》と申所《まをすところ》にて出生《しゆつしやう》し給《たま》ふとあれど、中村《なかむら》を以《もつ》て正《たゞ》しとすることは、史家《しか》の一|致《ち》したる所《ところ》ぢや。
中村《なかむら》は元來《ぐわんらい》熱田神領《あつたしんりやう》にて、名古屋市《なごやし》の西《にし》一|里《り》。庄内川《しやうないがは》、其《そ》の北西《ほくせい》を流《なが》れて、海東郡《かいとうごほり》と相限《あひかぎ》り、北《きた》は西春日井郡《にしかすがゐこほり》枇杷島《びはじま》に接《せつ》し、濃尾平原《のうびへいげん》の低地《ていち》で。秀吉《ひでよし》の氣象《きしやう》が坦々《たん/\》、蕩々《たう/\》として、山國《さんごく》の嶮《けは》しき、隘《せま》き、窮屈《きゆうくつ》なる痕《あと》なきは、或《あるひ》は此《こ》の地勢《ちせい》に因《よ》るとも云《い》ふ可《べ》き歟《か》。信長《のぶなが》の生《うま》れたる那古野城《なごやじやう》とは、指顧《しこ》の間《あひだ》なる近隣《きんりん》であつた。
彼《かれ》の素生《すじやう》に就《つい》ては、林道春《はやしだうしゆん》の『豐臣秀吉譜《とよとみひでよしふ》』には、
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|不[#レ]知[#二]其所[#一レ]生《そのうまれところをしらず》、或曰《あるひはいはく》尾張國《をはりのくに》愛知郡《あいちごほり》中村郷《なかむらのがう》筑阿彌子《ちくあみのこ》、|其母夢[#三]日輪入[#二]懷中[#一]而生[#レ]之《そのはゝにちりんのくわいちゆうにいるをゆめみてこれをうむ》、|故名[#二]日吉[#一]《ゆゑにひよしとなづく》。
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と云《い》ひ。甫菴《ほあん》『太閤記《たいかふき》』には、
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父《ちゝ》は尾張國《をはりのくに》愛知郡《あいちごほり》中村《なかむら》の住人《ぢゆうにん》、筑阿彌《ちくあみ》とぞ申《まを》しける。或時《あるとき》母《はゝ》懷中《くわいちゆう》に日輪《にちりん》入給《いりたま》ふと夢《ゆめ》み、已《すで》にして懷姙《くわいにん》し、誕生《たんじやう》しけるにより、童名《どうみやう》を日吉丸《ひよしまる》と云《い》ひしなり。
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と記《しる》し。松永貞徳《まつながていとく》の『戴恩記《たいおんき》』には、
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秀吉公《ひでよしこう》曰《いは》く、我《われ》尾州《びしう》の民間《みんかん》より出《いで》たれば、草刈《くさか》るすべは知《し》りたれども、筆《ふで》とる事《こと》は得《え》しらず。但《たゞ》我母《わがはゝ》若《わか》き時《とき》、内裏《だいり》のみづし所《どころ》の下女《しもめ》たりしが、ゆくりなく玉體《ぎよくたい》に近《ちか》づき奉《たてまつ》りし事《こと》あり。其夜《そのよ》の夢《ゆめ》に幾千萬《いくせんまん》の御祓箱《みはらいばこ》、伊勢《いせ》より播磨《はりま》をさしてすき間《ま》もなく、天上《てんじやう》を飛行《とびゆく》と見《み》て我《われ》を懷胎《くわいたい》しぬ。
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とあり。又《ま》た秀吉《ひでよし》の天正《てんしやう》十八|年《ねん》、朝鮮國王《てうせんこくわう》に與《あた》へたる書中《しよちゆう》に、
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|予當[#二]于托胎之時[#一]《われたくたいのときにあたり》、|慈母夢[#三]日輪入[#二]懷中[#一]《じぼにちりんくわいちゆうにいるをゆめむ》。相士曰《さうしのいはく》、|日光之所[#レ]及《につくわうのおよぶところ》、|無[#レ]不[#二]照臨[#一]《せうりんせざるなし》、|壯年必八表聞[#二]仁風[#一]《さうねんかならずはつへうにじんぷうをきかん》、|四海蒙[#二]威名[#一]者《しかいにゐめいをかうむるもの》、其何疑乎《それなんぞうたがはんや》。
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とある。其《そ》の他《た》或《あるひ》は秀吉《ひでよし》の母《はゝ》を持萩中納言《もちはぎちゆうなごん》の息女《そくじよ》と云《い》ひ、或《あるひ》は藪中納言保廣《やぶちゆうなごんやすひろ》の息女《そくぢよ》と云ひ、若《も》しくは僧侶《そうりよ》、若《も》しくは無名氏《むめいし》の野合《やがふ》の子《こ》と云《い》ふ説《せつ》もある。併《しか》しながら此《こ》れは、漢高祖《かんのかうそ》の母《はゝ》が、大澤《たいたく》の陂《は》に息《いこ》うて、夢《ゆめ》に神《かみ》と遇《あ》うて、高祖《かうそ》を孕《はら》んだと云《い》ふ傳説《でんせつ》と同樣《どうやう》で、何《いづ》れも事後《じご》に於《おい》て、製作《せいさく》せられたるものに、相違《さうゐ》あるまい。朝鮮國王《てうせんこくわう》に與《あた》へたる文句《もんく》は、外人《ぐわいじん》に對《たい》する、示威的飾辭《じゐてきしよくじ》と見《み》る可《べ》きだ。戴恩記《たいおんき》の話《はなし》は、假令《たとひ》親《した》しく、秀吉《ひでよし》の口《くち》より出《で》たとするも、小説《せうせつ》として聞《き》く可《べ》きだ。
何《いづ》れの英雄《えいゆう》にも、意想外《いさうぐわい》の邊《へん》より、彼等《かれら》が出《で》て來《く》る場合《ばあひ》には、必《かなら》ず意想外《いさうぐわい》を打消《うちけ》す丈《だけ》の、申譯的《まをしわけてき》小説《せうせつ》が、構造《こうざう》せらるゝものぢや。秀吉《ひでよし》にして若《も》し、せめて信長程《のぶながほど》の門地《もんち》に生《うま》れたらば、斯《かゝ》る餘計《よけい》な小説《せうせつ》にて、其《そ》の素生《すじやう》を五|里霧中《りむちゆう》に埋沒《まいぼつ》せしむる、必要《ひつえう》はなかつたであらう。何《いづ》れにもせよ、一|切《さい》の葛藤《かつとう》を割截《かつさい》し去《さ》りて、秀吉《ひでよし》の素生《すじやう》を語《かた》れば、『豐鑑《ほうかん》』に掲《かゝ》げたる、
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羽柴筑前守豐臣秀吉《はしばちくぜんのかみとよとみひでよし》、天文《てんぶん》六|年《ねん》丁酉《ひのととり》に生《うま》れ、後《のち》には關白《くわんぱく》になり昇給《のぼりたま》ふは、尾張國愛知郡中村《をはりのくにあいちごほりなかむら》とかやにて、熱田《あつた》の宮《みや》より五十|町計《ちやうばかり》乾《いぬゐ》(西北)[#「(西北)」は1段階小さな文字]にて、萱《かや》ぶきの民《たみ》の屋《いへ》わづか五六十|計《ばか》りやあらん。郷《がう》のあやしの民《たみ》の子《こ》なれば、父母《ふぼ》の名《な》も誰《たれ》かは知《し》らむ、一|族《ぞく》などもしかなり。
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と云《い》へるを以《もつ》て、確實《かくじつ》とす可《べ》しだ。但《た》だ天文《てんぶん》六|年《ねん》丁酉《ひのととり》は、姑《しば》らく世間多數《せけんたすう》の史家《しか》と與《とも》に、『豐臣太閤素生記《とよとみたいかうすじやうき》』の『天文《てんぶん》五|丙申正月大朔日日出《ひのえさるしやうぐわつだいさくじつひので》と均《ひとし》く誕生《たんじやう》、幼名《えうみやう》猿《さる》、改《あらた》めて藤吉郎《とうきちらう》。』の説《せつ》に從《したが》ふことゝして措《お》く。蓋《けだ》し秀吉《ひでよし》を猿《さる》と稱《しよう》したるは、單《た》だ彼《かれ》の容貌《ようばう》が、猿《さる》に似《に》たとか、又《ま》た其《そ》の小敏捷《こざか》しさが、猿《さる》に類《るゐ》したとか云《い》ふ許《ばか》りでなく。實際《じつさい》申《さる》の歳《とし》の生《うま》れで、その爲《た》めに猿《さる》と云《い》ひ、又《ま》た猿《さる》が、日吉《ひえ》の神《かみ》の使《つかひ》たる傳説《でんせつ》よりして、日吉丸《ひよしまる》とも云《い》うたのであらう。併《しか》し果《はた》して、元旦《ぐわんたん》の日出《ひので》と同時《どうじ》に生《うま》れたるや、否《いな》やは、固《もと》より保證《ほしよう》の限《かぎ》りでない。
又《ま》た秀吉《ひでよし》の直話《ぢきわ》として、その祐筆《いうひつ》大村由己《おほむらいうき》が、記録《きろく》したる文句《もんく》には、彼《かれ》の出生《しゆつしやう》を以《もつ》て、天文《てんぶん》六|年《ねん》丁酉《ひのととり》二|月《ぐわつ》六|日《か》とある。されば此方《こなた》が信據《しんきよ》す可《べ》しと云《い》ふ説《せつ》もある。〔豐太閤と其家族〕[#「〔豐太閤と其家族〕」は1段階小さな文字]吾人《ごじん》は必《かなら》ずしも何《いづ》れとも固執《こしつ》せぬ。申《さる》の歳《とし》でも、酉《とり》の歳《とし》でも、正月《しやうぐわつ》でも、二|月《ぐわつ》でも、大問題《だいもんだい》ではない。
要《えう》するに非凡《ひぼん》の人《ひと》の子《こ》に、不肖《ふせう》の子《こ》の生《うま》るゝが、珍《めづ》らしくなければ、平凡《へいぼん》の人《ひと》の子《こ》に、非凡《ひぼん》の人《ひと》の生《うま》るゝのも、不思議《ふしぎ》はない。王公《わうこう》將相《しやうしやう》寧《なん》ぞ種《たね》あらんやだ。人間《にんげん》の血《ち》は、長《なが》く久《ひさ》しく、流《なが》れ來《きた》りたるもので、單《たん》に一|代《だい》のみで、總勘定《そうかんぢやう》が附《つ》く可《べ》きものではない。秀吉《ひでよし》が不世出《ふせいしゆつ》の大人物《だいじんぶつ》たるが故《ゆゑ》に、是非《ぜひ》とも其《そ》の父母《ふぼ》をえらくせねばならぬ理由《りいう》は、毛頭《まうとう》ない。吾人《ごじん》は寧《むし》ろ平正《へいせい》なる事實《じじつ》を、其儘《そのまゝ》に受取《えけと》りて、茲《こゝ》に始《はじ》めて愈※[#二の字点、1-2-22]《いよ/\》秀吉《ひでよし》の大《だい》なる所以《ゆゑん》を、理會《りくわい》せねばならぬ。
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[#6字下げ][#小見出し]『太閤の素生』の一節[#小見出し終わり]
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
素生に關する史料は正確なるものは少ないが、世間普通傳ふるものは古來少くないのである。先づ第一は私生兒説、第二は貴種の落胤説、第三は筑阿彌の子、第四は木下彌右衞門の子とする四説があるのである。
第一の私生兒に就ては尾州志略と平豐小説との二つがあつて、(一)尾州志略では太閤を尾張蜂須賀蓮華寺の僧の子として、(二)平豐小説では太閤を野合の子即ち私生兒とするのである。
この尾州志略は何時頃に作られたものであるか明かでないが、之はその地方に於ける傳説に基いて書かれたものであらうと思ふ。而して蜂須賀蓮華寺という寺は全く無いが、愛知郡に蓮華院といふのがある、果して之を指して云ふのであらうか、假に蓮華寺は蓮華院の誤としても、太閤が其の僧の子であると云ふことも、此の外に何等の證據とすべきものはないのである。史料の價値から云へば、元より信用すべき程のものでないことは勿論であつて、毫も根據のあるものとは思はれぬ。
又(二)平豐小説には其の素生に關して次の如く説いてある。
[#ここから3字下げ]
秀吉は其母野合の子なり、そのいとけなかりしとき、つれ子にして木下彌右衞門に嫁したるに、彌右衞門早く世を去りければ、其の頃織田家の茶坊主にて筑阿彌といひしもの、浪人して近村にあるをもつて、すなはち之を入夫したり、此の故に彌右衞門は秀吉の繼父にして、筑阿彌は假父なり、秀吉も亦此を悟りて、吾には父なしと云はれしなり、若し彌右衞門にもせよ、筑阿彌にもあれ、生の父ならんには、はや世を去りて年を經るとも、秀吉武運比類なく富四海をたもつに至りて、父の廟を建立し贈官の追福あるべし、然るに其事なかりしは、野合の子なりしなれば也。
[#ここから2字下げ]
之は太閤をば全く野合の私生兒であると云ふのであつて、理由は一應尤の樣であるけれども、是も何處まで信用すべきであるか疑はしいものである。平豐小説は江戸時代中比以後に作られたものであると思はれるから、其の著作の年代より云つても、史料としての價値少きものであれば、之に依つて太閤の素生を説くことは出來ぬのである、殊に太閤が武運比類なく富四海を保ち、天下の事を意の儘に計ふに當り、父の廟を建立せず、贈官の追福をもなさざりしと云ふを理由として、直ちに太閤を野合の子となすのは、餘りに太閤の心事を諒解せざるものと云はなければならぬ。
第二の貴族の落胤とするの説は、(一)公卿の落胤とするものと、(二)皇胤とせるものとの二である。公卿の落胤とするものは、東國太平記と白華隨筆とである、又皇胤とするものには戴恩記と鹽尻と秀吉事記とがある、それで第一の公卿の落胤であると云ふ説の根據となつて居る東國太平記の説は次の通である。
[#ここから3字下げ]
傳曰、秀吉は此姓不[#レ]詳、大徳を賞せん爲に種々の奇説を記すと云へども皆不[#レ]信[#割り注]○中略[#割り注終わり]或説曰、秀吉父は本織田信長の鐵砲の者に木下彌右衞門と云ふ人なるが奉公を辭し其の在所なる尾州愛知郡中村に歸住す、同母は同郡御器所村の人なり、持萩中納言の息女なりとかや、其の故は中納言罪ありて尾州村雲之里へ配流せられ、息女一人ありて、二歳の時中納言卒去せらる、依[#レ]之後室は娘を誘ひて京へ上りしが、年經て洛陽兵起り在京成りがたく、よりて息女十六歳の時又尾州へ下り居り給ひしが、十八歳の時彌右衞門に嫁して、女子一人と其の次に天文五丙申春正月元日の朝男子をまうけ給ふ、是即ち秀吉なり[#割り注]○中略[#割り注終わり]秀吉の姉は成人後、同國乙之村の民彌介に嫁す、彌介後に三好武藏守三位法印一露と稱す、是即ち關白秀次の實父なり。
[#ここから2字下げ]
又白華隨筆の説は次の通である。
[#ここから3字下げ]
天正記を按ずるに、豐臣秀吉の母は持萩中納言の息女なり、尾張の國飛保の村雲と云ふ所に配せられ、其後上洛す。
[#ここから2字下げ]
東國太平記の所説は太閤生母の出生地を村雲の里とし、白華隨筆は飛保の村雲といつて居る。試に村雲と呼ぶ地を尾張に於て求めて見るに斯く呼べる所は無いやうに思はれる、或は此名は太閤の姉が後に得度して瑞龍院日秀と號し、京都上京の村雲の地に寺院を建立したことがあるので、是等から訛傳したことであらうかと思ふ、又太閤の生母が持萩中納言の息女といふことになつて居るが、持萩中納言などと云ふ人は固よりあるべき筈はない、されば是れ亦虚構の説と思はれる、これ等所説の本となつた東國太平記に就て考ふるに、其の奧書に次の通に書いてある。
[#1字下げ]此者聞及見及候實義書顯者也、
[#3字下げ]寛永元年甲子孟春吉日
[#地から3字上げ]杉原彦左衞門親清
之に據つて考ふるに、これは太閤出生後八十七年後にその前のことを書いたものであつて、全く當時傳説の儘を書いたものであらう、これが全くの傳説である丈けに、餘り信ぜられぬものであらうと思はれる、若し太閤の母にして果して實際に公卿の息女であつたならば、何かそれに關することが、他に多く傳へられる筈であると思ふ、而かも斯ることの書かれたものは他にないのであるからして、單に太閤が公卿の落胤であると云ふが如きは、全く捏造した説であらうと思ふのである。
それから第二の皇胤とする戴恩記の文は次の通である。
[#ここから3字下げ]
ある時秀吉公いつも御參内の時、御裝束めしかへらるゝ御やど施藥院にて曰く、我尾州の民間より出たれば草かるすべは知りたれども、筆とることは得知らず、元より、歌連歌の道には猶遠しといへども、不慮に雲上の交をなす、但わが母若き時、内裏のみづし所の下女たりしが、ゆくりかに玉體に近づき奉りしことあり、其の夜の夢に幾千萬のおはらひ箱、伊勢より播磨をさしてすき間もなく天上を飛行、又ちはやぶる神の見てぐらてにとりてと云ふ御夢想を感じて吾々を懷胎しぬ、此の夢想あえぬと覺えて、信長公より御からかさを許され、播州に發向し云々。
[#ここから2字下げ]
是は太閤に從ひ、親しく左右に侍して居つた松永貞徳が書留めたものであるから、太閤のことを書いたものとしては餘程信ずべきものと云はねばならぬ、併し戴恩記の記事に就いて考ふるに、太閤が生母の最初の子なら又考ふべき餘裕があつて、皇胤説を考慮する餘地があるかも知れぬが、太閤には既に實の姉があつて、天文三年即ち太閤に先立つ三年前に出生して居る、此の子供があるにも拘らず、宮中に仕へて次の太閤が皇胤となつたと云ふに至つては、甚だ矛盾したことゝ云はなければならぬ、固より太閤は自ら尊きものであると云ふことを世に知らしめんが爲に、朝鮮に遣はした書状に、生母日輪懷中に入るを夢みて生ると説き、又播州征伐にはおはらひ箱が伊勢より播磨を指して行つて、其の爲に母が姙娠したと説いたのである、これ等は皆自己が尊きものであると云ふことを世に誇張せんとした爲である。併し斯ることは往昔は能く傳へられたことであるけれども、斯ることで太閤を以て皇家の落胤であると説くが如きは、毫も價値なきものであらうと思ふ。
又秀吉事記には次の通に説いて居る。
[#ここから3字下げ]
尋[#二]其素生[#一]、祖父祖母侍[#二]禁闕[#一]、萩中納言申哉、今之大政所三歳秋依[#二]或之讒言[#一]被[#レ]處[#二]遠流[#一]、尾州飛保村雲云所謫居、送[#二]春秋[#一]矣、又老者物語、村雲在所而都人有[#二]一首詠[#一]、讀人不知也。
[#1字下げ]なかめやる都の月にむら雲のかゝるすまゐも浮世なりけり
彼中納言歌哉、大政所幼年有[#二]上洛[#一]、禁中傍宮仕給事兩三年、有[#二]下國[#一]無[#レ]程一子誕生、今殿下是也。
[#ここから2字下げ]
此の説に依れば太閤を公卿の落胤とするものと、皇胤とするものとを混交したものであつて、太閤の母は萩中納言の女であつて、禁中に宮仕して子を妊んだのが太閤であると云ふのである。秀吉事記は大村由己法橋の作つたものであつて、由己は梅庵と號し、太閤の左右に侍して常に祐筆をも勤めた者であるが、之は天正十三年に太閤の直話を其の儘に書いたものである、然らばさきに述べた松永貞徳の戴恩記と共に、史料としては最も確實のものと言はなければならぬもので、太閤は此の説の通に皇室の落胤であると云ふことに一致しなければならぬのである、併しながら是は太閤が自から普通の人でなく、尊きものであると説いて、自己を如何にも偉大ならしめんと努めたものと考へられるから、果して實際の歴史事實であるかどうかを疑はなければならぬのである。
第三の筑阿彌の子と云ふのは朝日物語及び豐臣系圖等の説である、即ち朝日物語には次の通に書いてある。
太閤御父は尾州ハサコ村の生れ竹アミと申して信長公の同朋なり、太閤は申の年六月十五日清須ミスのガウ戸と申所に出生した云々。
又豐臣系圖には次の通に書いてある。
[#ここから3字下げ]
父彌助入道號[#二]竹阿彌[#一]、祖父彌助、曾祖父彌助元居[#二]叡山西塔學林院[#一]、名昌盛法印、還俗稱[#二]字彌助[#一]、移[#二]住中村[#一]。
[#ここから2字下げ]
是等は太閤を筑阿彌の子であると説くのであるが、太閤が筑阿彌を父としたことは太閤素生記にも、説いてあるのである、是は勿論生父でないので唯後の繼父である事が説いてある、從つて筑阿彌を父と説くのは理由がないのではないが、これは生父ではないのである、曾祖父、祖父共に叡山に居つたと云ふは、太閤の幼名が日吉丸であると云ふ傳説に捉はれて作つたのであつて、根據のないものであらうと思ふ。
第四説の木下彌右衞門の子とするの説は、明良洪範、太閤素生記等の説である、即ち明良洪範には次の通に書いてある。
[#ここから3字下げ]
太閤秀吉公は織田備後守信秀の足輕木下彌右衞門が子也、母は尾州愛知郡曾根村の農民の娘也、天文五年丙申正月朔日辰時に出生す、面體猿に似たればとて父母も他人も猿々と云、終に字を猿之助と名付く、父彌右衞門は或時戰場に鐵砲に打たれ片足きかず相成、勤仕を辭して同郡中村へ引込み居たるに、同十六年に病死す、其後彌右衞門後家猿之助を連れて織田家の同朋竹阿彌に再嫁す、其後男子を生む小十郎と云ふ、後年大和大納言秀長是、其後女子を生む、此女子後年家康公に嫁し濱松城へ入輿す、病死して南明院と稱す、秀吉に姉一人あり、木下彌助に嫁す、此彌助後年三好武藏守三位法印一路と云ふ。
[#ここから2字下げ]
又遺老物語の説もこれと略同樣で敢て背馳しないのである、それから太閤素生記には次の通に書いてある。
[#ここから3字下げ]
天文五年丙申正月大朔日[#割り注]丁巳[#割り注終わり]日出と均しく誕生、父は木下彌右衞門と云ふ、中々村の人、信長公の親父信秀鐵砲足輕也、爰かしこにて働あり、就夫手を負五體不叶、中々村へ引込百姓と成る、太閤と瑞龍院を子に持ち、其後秀吉八歳の時父彌右衞門死す、
秀吉母公も同國ゴキソ村と云所に生れて木下彌右衞門へ嫁し、秀吉と瑞龍院とを持、木下彌右衞門死去之のち後家と成て二人の子をはごぐみ中々村に居る。
信秀織田備後守家に竹阿彌と云ふ同朋あり、中々村の生れの者なり、病氣故中々村へ引込む、所の者是を幸に木下彌右衞門後家秀吉母の方へ入る[#割り注]○中略[#割り注終わり]大和大納言幼時竹阿彌子たるに依りて小竹と云ひしと、後所の者物語聞之。
[#ここから2字下げ]
是等の洪範及び素生記等の説は共に事實であらうと信ぜられるのである、是は太閤が其の弟である秀長に對する態度、及び其の妹を徳川家康に嫁せし時の事實などに據つて考察すれば然か考へらるゝのである。初め太閤が其の繼父竹阿彌と不和となつた時に、生母に嘆きを掛くるを虞れ、郷里を辭して遠州、漂泊するに至つたのであらうと思はれるのである、東京帝國大學史料編纂掛に京都瑞龍寺書出しの木下家系圖がある、之を參考するに全く素生記の説と一致するのである、其の文は次の通である。
┌日秀、羽柴武藏守一路室、一路法名建性院殿、三位法師日海大居士、慶長十七年壬子年八月十五日逝去、御父妙雲院殿榮本虚(靈)儀[#割り注]天文十二癸卯一月二日逝去[#割り注終わり]御母天瑞寺殿一位春巖桂尊儀[#割り注]天正二十年壬辰七月二十一日逝去[#割り注終わり]
├秀吉
└秀政(長)[#「(長)」は行右書き]
これは太閤の實姉日秀の開いた瑞龍寺の記録であつて、日秀は文祿二年正月得度し、豐臣家の諸靈を祀つたのであつて、其の父妙雲院と母天瑞院とを茲に祀り、これをその過去帳に書き系圖に書き留めて置いたものであつて、この記事には毫も疑を夾む餘地がない、而して妙雲院といふのは即ち彌右衞門の法號であつて、天文十二年一月二日に歿したので、實に太閤六歳の時と思はれる、又天瑞院は大政所であつて、文祿元年七月二十一日に薨ぜられたものである、それでこの系圖の記事は素生記とも略ぼ一致し、太閤の弟秀長は彌右衞門の子でなく、竹阿彌の子であつて、世に小竹と云つたのも竹阿彌の頭字を取つたものであることも素生記所説の通であらう。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]〔渡邊世祐著『豐太閤と其家族』〕
[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【三】秀吉の素生 (二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]
抑《そもそ》も秀吉《ひでよし》は、筑阿彌《ちくあみ》の子《こ》として、知《し》られて居《を》るが、〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]そは彼《かれ》の繼父《けいふ》で、實父《じつぷ》は木下彌右衞門《きのしたやゑもん》と云《い》ふ、織田信秀《おだのぶひで》の小臣《せうしん》であつた。太閤素生記《たいかふすじやうき》には、鐵砲足輕《てつぱうあしがる》とあれども、鐵砲輸入以前《てつぱうゆにふいぜん》に鐵砲足輕《てつぱうあしがる》のある可《べ》き樣《やう》もない。彼《かれ》は手《て》を負《お》ひ身體不具《しんたいふぐ》となりたれば、其《そ》の故郷《こきやう》の中村《なかむら》に歸住《きぢゆう》し、百姓《ひやくしやう》となり、同國《どうこく》ごきそ村《むら》より妻《つま》を娶《めと》り、一|女《ぢよ》一|子《し》を生《うま》した。それが關白秀次《くわんぱくひでつぐ》の母《はゝ》瑞龍院《ずゐりゆうゐん》と、秀吉《ひでよし》とである。彼女《かれ》は中村《なかむら》の士《し》、加藤彈正左衞門清忠妻《かとうだんじやうざゑもんきよたゞつま》―加藤清正《かとうきよまさ》の母《はゝ》―の從妹《じゆうまい》であると云《い》へば、是亦《これま》た全《まつた》くの土百姓《どびやくしやう》でなかつたらしい。彌右衞門《やゑもん》は、秀吉《ひでよし》八|歳《さい》の時《とき》死《し》んだ。
當時《たうじ》織田信秀《おだのぶひで》の同朋《どうほう》で、筑阿彌《ちくあみ》と云《い》ふ者《もの》、又《また》病氣《びやうき》で、中村《なかむら》に歸養《きやう》して居《ゐ》た。因《よつ》て同人《どうにん》を入夫《にふふ》せしめた。而《しか》して更《さ》らに一|男《だん》一|女《ぢよ》が生《うま》れた。それが秀吉《ひでよし》の異父弟《いふてい》大和大納言秀長《やまとだいなごんひでなが》と、徳川家康《とくがわいへやす》に嫁《か》したる南明院《なんみやうゐん》だ。されば秀吉《ひでよし》の幼時《えうじ》、筑阿彌《ちくあみ》の子《こ》であるから、小竹《こちく》と呼《よ》んだと云《い》ふ説《せつ》もあるが、そは秀長《ひでなが》を斯《か》く稱《しよう》したのぢや。〔太閤素生記〕[#「〔太閤素生記〕」は1段階小さな文字]豐鑑《ほうかん》の作者《さくしや》の如《ごと》く、『あやしの民《たみ》の子《こ》なれば、父母《ふぼ》の名《な》は、誰《たれ》かは知《し》らむ。』と一|句《く》にて打切《うちき》れば、それ迄《まで》の話《はなし》なれども。秀吉《ひでよし》が當初《たうしよ》、木下氏《きのしたし》を名乘《なの》りたるより考《かんが》ふれば、恐《おそ》らく前記《ぜんき》の事實《じじつ》に、大過《たいくわ》なからうと思《おも》はる。
秀吉《ひでよし》の母《はゝ》は、其子《そのこ》の偉大《ゐだい》なると、自個《じこ》の長生《ちやうせい》と、而《しか》して秀吉《ひでよし》が、當代《たうだい》の英雄《えいゆう》に、比類《ひるゐ》なき親思《おやおも》ひとによりて、歴史《れきし》に記憶《きおく》せらるゝ、所謂《いはゆ》る大政所《おほまんどころ》ぢや。彼女《かれ》は信長《のぶなが》の母《はゝ》六|角氏《かくし》よりも、家康《いへやす》の母《はゝ》水野氏《みづのし》よりも、寧《むし》ろ幸福《かうふく》であつた。秀吉《ひでよし》は實《じつ》に孝行兒《かうかうじ》であつた。古人《こじん》は五十にして親《おや》を慕《した》ふを、孝行《かうかう》の極致《きよくち》と云《い》うたが、秀吉《ひでよし》は六十|歳《さい》に垂《なんな》んとして尚《な》ほ其《そ》の老母《らうぼ》を慕《した》うた。
秀吉《ひでよし》の幼時《えうじ》にも、亦《ま》た種々《しゆ/″\》の傳説《でんせつ》がある。彼《かれ》は平凡《へいぼん》なる境遇《きやうぐう》に生《うま》れたる、非凡兒《ひぼんじ》であつた。彼《かれ》は八|歳《さい》の頃《ころ》、同國《どうこく》光明寺《くわうみやうじ》の徒弟《とてい》に遣《や》られた。固《もと》より僧侶《そうりよ》となる心《こゝろ》でないから、勝手《かつて》の振舞《ふるまひ》をした。寺僧共《じそうども》彼《かれ》を家《いへ》に還附《くわんぷ》せんとしたが、秀吉《ひでよし》は乍《たちま》ち不良少年《ふりやうせうねん》の本色《ほんしよく》を發揮《はつき》し、彼等《かれら》を逆襲《ぎやくしふ》し、若《も》し我《われ》を追《お》ひ出《いだ》すならば、其《そ》の坊主共《ばうずども》を殘《のこ》らず打《う》ち殺《ころ》し、寺々《てら/″\》を燒拂《やきはら》ふべしと威嚇《ゐかく》した。子供《こども》ながらも斯《かゝ》る權幕《けんまく》に、寺僧共《じそうども》恐《おそ》れをなし、兎《と》も角《かく》も餞別《せんべつ》など與《あた》へて、體善《ていよ》く追《お》ひ出《いだ》し。それより彼《かれ》は、放浪生活《はうらうせいくわつ》を送《おく》つた。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
秀吉《ひでよし》の放浪生活《はうらうせいくわつ》に就《つ》いては、當人以外《たうにんいぐわい》何人《なんびと》も知《し》る者《もの》はない。彼《かれ》は此《こ》の十|歳《さい》前後《ぜんご》より、二十|歳《さい》前後迄《ぜんごまで》、定《さだ》めて人生《じんせい》の苦《にが》き經驗《けいけん》を、滿喫《まんきつ》したであらう。然《しか》も此《かく》の如《ごと》き者《もの》に限《かぎ》りて、其《そ》の心膓《しんちやう》は全《まつた》く冷却《れいきやく》し、硬化《かうくわ》し去《さ》るに拘《かゝは》らず、單《ひと》り秀吉《ひでよし》は、生《うま》れながらの温情《をんじやう》と、柔味《やはらかみ》とを失《うしな》はなかつたのは、意外《いぐわい》と云《い》へば、意外《いぐわい》である。然《しか》も彼《かれ》が信長《のぶなが》の相續者《さうぞくしや》たる所以《ゆゑん》は、半《なかば》は此《こ》の寛裕《くわんゆう》、温柔《をんじう》なる襟懷《きんくわい》に負《お》ふ所《ところ》少《すくな》くない。
多《おほ》くの異説中《いせつちゆう》に、唯《た》だ秀吉《ひでよし》が遠州《ゑんしう》に赴《おもむ》き、松下氏《まつしたし》に仕《つか》へたる一|事《じ》丈《だけ》は、何《いづ》れも認《みと》めて居《ゐ》る。甫菴太閤記《ほあんたいかふき》には、二十|歳《さい》の比《ころ》、遠江國《とほたふみのくに》の住人《ぢゆうにん》松下加兵衞尉《まつしたかひやうゑのじよう》に仕《つか》ふとあり、豐臣秀吉譜《とよとみひでよしふ》には十六|歳《さい》とあり。豐鑑《ほうかん》には二八|計《ばかり》の年《とし》、只《たゞ》ひとり遠江《とほたうみ》の國《くに》までさそらへ行《ゆき》て、松下氏石見守《まつしたしいはみのかみ》とかやに仕《つか》ふとあり。今《いま》茲《こゝ》に太閤素生記《たいかふすじやうき》に據《よ》りて記《しる》さんに、彼《かれ》は天文《てんぶん》二十|年《ねん》の春《はる》、十六|歳《さい》の折《をり》、父《ちゝ》の形見《かたみ》として、遺《のこ》し置《お》きたる永樂錢《えいらくせん》一|貫文《くわんもん》を少《すこ》し分《わ》け持《も》ち、先《ま》づ清洲《きよす》に赴《おもむ》き、木綿布子《もめんぬのこ》を縫《ぬ》ふ大《だい》なる針《はり》を調《とゝの》へ、之《これ》を旅費《りよひ》とし、鳴海《なるみ》にて賣《う》り、食《しよく》と草鞋《わらぢ》とに代《か》へ、途中《とちゆう》も此《こ》の通《とほ》りにて、恙《つゝが》なく濱松《はままつ》の町外《まちはづ》れ、牽馬川《ひくまがは》の邊《ほとり》に、白《しろ》き垢附《あかづ》きたる木綿布子《もめんぬのこ》を著《き》て、立《た》ち廻《まは》つて居《ゐ》た。
當時《たうじ》濱松城代《はままつじやうだい》は飯尾豐前《いひをぶぜん》、久能城主《くのうじやうしゆ》は松下加兵衞《まつしたかへゑ》、何《いづ》れも今川家《いまがはけ》の被官《ひくわん》であつた。松下《まつした》偶《たまた》ま久能《くのう》より、濱松《はままつ》に來《きた》る途中《とちゆう》、異形《いぎやう》の青年《せいねん》を見《み》、『猿《さる》かと思《おも》へば人《ひと》、人《ひと》かと思《おも》へば猿《さる》なり。』とは、餘《あま》りに小説《せうせつ》じみた書《か》き方《かた》だが。秀吉《ひでよし》の當時《たうじ》の風采《ふうさい》が、兎《と》も角《かく》も思《おも》ひやらるゝではない乎《か》。山路愛山《やまぢあいざん》は、松下氏《まつしたし》が久能《くのう》に移《うつ》りたるは、後《のち》の事《こと》にて、當時《たうじ》長上郡《ながかみごほり》(今は濱名郡)[#「(今は濱名郡)」は1段階小さな文字]川輪莊市場村《かはわのしやういちばむら》なるべしと云《い》へり。何《いづ》れにしても、彼《かれ》が青雲《せいうん》の志《こゝろざし》を立《た》て、一|個《こ》の才覺《さいかく》にて、木綿針《もめんばり》を賣《う》りつゝ路用《ろよう》を辨《べん》じ、尾張《をはり》より遠江《とほたふみ》に立身《りつしん》の途《みち》を求《もと》め、松下氏《まつしたし》に奉公《ほうこう》したる丈《だけ》は、間違《まちが》ひがない樣《やう》ぢや。
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