豐臣氏時代を刊行するに就て
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[#4字下げ][#大見出し]豐臣氏時代を刊行するに就て[#大見出し終わり]

桃山時代《もゝやまじだい》は、安土時代《あづちじだい》の繼續《けいぞく》である、延長《えんちやう》である、發展《はつてん》である。されど兩時代《りやうじだい》は、薄紙一重《うすがみひとへ》に接近《せつきん》して居《ゐ》ないから、其《そ》の特色《とくしよく》は、格別《かくべつ》である。否《い》な前者《ぜんしや》を冬《ふゆ》とすれば、後者《こうしや》は春《はる》である。唐人《たうじん》の句《く》に曰《いは》く、『即今河畔氷開日《そくこんかはんこほりとくるのひ》。正是長安花落時《まさにこれちやうあんはなおつるのとき》。』と。兩時代《りやうじだい》の相違《さうゐ》は、正《まさ》しく此《こ》の通《とほ》りである。
一口《ひとくち》に桃山時代《もゝやまじだい》と云《い》へば、長《なが》き樣《やう》であるが、其《そ》の實《じつ》は二十|年《ねん》足《た》らずの歳月《さいげつ》だ。秀吉《ひでよし》の快馬長鞭《くわいばちやうべん》、一|擧《きよ》して光秀《みつひで》を退治《たいぢ》したる、山崎合戰《やまざきかつせん》より、其《そ》の阿彌陀峰《あみだがみね》に、未死《みし》の魂《たましひ》を※[#「やまいだれ+(夾/土)」、第3水準1-88-54]《うづ》める迄《まで》、足掛《あしか》け十七|年《ねん》だ。それに家康《いへやす》の覇業《はげふ》を定《さだ》めたる、關ヶ原役迄《せきがはらえきまで》を、通算《つうさん》するも、足掛《あしか》け十九|年《ねん》のみ。然《しか》るに此《こ》の間《かん》に於《おい》て、秀吉《ひでよし》は殆《ほと》んど空前絶後《くうぜんぜつご》の大事功《だいじこう》を、成就《じようじゆ》した。そは申《まう》す迄《まで》もなく、日本全國《にほんぜんこく》を統《とう》一した事《こと》ぢや。然《しか》もその統《とう》一は、名義上《めいぎじやう》のみならず、實際的《じつさいてき》であつた。史家《しか》は應仁大亂以來《おうにんたいらんいらい》、始《はじ》めて四|海《かい》の混《こん》一を見《み》たと云《い》ふが、吾人《ごじん》の所見《しよけん》によれば、寧《むし》ろ頼朝以來《よりともいらい》と云《い》ふが、適當《てきたう》だ。否《い》な天智天皇以來《てんぢてんわういらい》と云《い》ふも、可《か》なりだ。今《いま》少《すこ》しく立《た》ち入《い》りて云《い》へば、有史以來《いうしいらい》と稱《しよう》するも、餘《あま》りに過言《くわごん》ではあるまいと思《おも》ふ。
要《えう》するに秀吉《ひでよし》は、方隅割據《はうぐうかつきよ》の風《ふう》を打破《だは》し、天下《てんか》の英雄《えいゆう》をして、首《かうべ》を俯《ふ》して、其《そ》の命《めい》を聽《き》かしめたのみならず、日本全國《にほんぜんこく》を取扱《とりあつか》ふ事《こと》、宛《あたか》も我《わ》が庭園《ていゑん》を取扱《とりあつか》ふ如《ごと》くした。四|國《こく》の長曾我部《ちやうそかべ》、九|州《しう》の島津《しまづ》、奧羽《あうう》の伊達等《だてら》、其《そ》の他《た》何人《なんびと》の手《て》にも及《およ》ばぬ群雄《ぐんゆう》も、秀吉《ひでよし》の前《まへ》には猫《ねこ》の如《ごと》くなつた。早雲以來《さううんいらい》、關東《くわんとう》に龍蟠虎踞《りゆうばんこきよ》したる、北條氏《ほうでうし》も、彼《かれ》の命《めい》に抗《かう》した爲《た》めに、忽《たちま》ちに覆滅《ふくめつ》した。謙信《けんしん》の遺業《ゐげふ》を紹成《せうせい》したる、景勝《かげかつ》も、秀吉《ひでよし》の一|言《ごん》には、名殘《なご》り惜《を》しき越後《ゑちご》をば、會津《あひづ》と代《か》へねばならなかつた。乃《すなは》ち家康《いへやす》さへも、其《その》祖先《そせん》發祥《はつしやう》の地《ち》たる、參河《みかは》、及《およ》び百|戰《せん》の餘《よ》、我物《わがもの》としたる遠江《とうたふみ》、駿河《するが》等《とう》を去《さ》りて、江戸《えど》に移《うつ》る可《べ》く餘儀《よぎ》なくせられた。秀吉《ひでよし》が天下《てんか》の梟雄《けうゆう》、悍將《かんしやう》の領土《りやうど》を、變更《へんかう》するの容易《ようい》なるは、我《わ》が庭石《にはいし》を變更《へんかう》するよりも、容易《ようい》であつた。
此《かく》の如《ごと》くして、秀吉《ひでよし》の威權《ゐけん》は、東《ひがし》は津輕《つがる》の端《はて》より、西《にし》は鹿兒島《かごしま》の端迄《はてまで》、殘《のこ》る隈《くま》なく徹底《てつてい》した。固《もと》より中國《ちうごく》の毛利氏《まうりし》と、九|州《しう》の島津氏丈《しまづしだけ》は、舊貫《きうくわん》によりて之《これ》を綏撫《すゐぶ》したが、さりとて彼等《かれら》の所有地《しよいうち》の一|尺《しやく》でも、其《そ》の所得高《しよとくだか》の一|合《がふ》でも、秀吉《ひでよし》の前《まへ》には、之《これ》を隱匿《いんとく》するを、允《ゆる》さなかつた。新井白石《あらゐはくせき》抔《など》は、天正《てんしやう》の丈量《ぢやうりやう》を以《もつ》て、秀吉《ひでよし》惡政《あくせい》の重《おも》なる一と云《い》うて居《を》るが、惡政《あくせい》にせよ、善政《ぜんせい》にせよ、日本全國《にほんぜんこく》の土地《とち》に繩《なは》を入《い》れて、始《はじ》めて日本全國《にほんぜんこく》の目安《めやす》も定《さだま》つた譯《わけ》ぢや。統《とう》一の事業《じげふ》も、此《こゝ》に至《いた》りて、遺憾《ゐかん》なきに庶幾《ちか》しと云《い》はねばならぬ。
若《も》し信長《のぶなが》は、怒鳴《どな》り散《ちら》して、天下《てんか》を經營《けいえい》したから、其《そ》の事業《じげふ》は徹底的《てつていてき》であり、秀吉《ひでよし》は鼻歌《はなうた》謠《うた》うて天下《てんか》を經營《けいえい》したから、不徹底的《ふてつていてき》であると思《おも》ふ者《もの》あらば、それ程《ほど》大《だい》なる間違《まちがひ》はあるまい。天下《てんか》の大經綸《だいけいりん》に於《おい》ては、秀吉《ひでよし》は信長《のぶなが》の高足門人《かうそくもんじん》と云《い》ふ丈《だけ》ぢや。併《しか》し其《そ》の大經綸《だいけいりん》を實行《じつかう》するの手腕《しゆわん》、能力《のうりよく》に至《いた》りては、信長以上《のぶながいじやう》ぢや。信長《のぶなが》は人《ひと》を見《み》るの明《めい》に於《おい》ても、人《ひと》を用《もち》ふるの術《じゆつ》に於《おい》ても、決《けつ》して第《だい》二と下《さが》らぬ英雄《えいゆう》であつた。秀吉《ひでよし》は、古今《ここん》に比類《ひるゐ》なき人間學《にんげんがく》の、大博士《だいはかせ》であつた。信長《のぶなが》は、敵《てき》を退治《たいぢ》するの道《みち》に通《つう》じた。秀吉《ひでよし》は、敵《てき》を味方《みかた》とするの道《みち》を解《かい》した。信長《のぶなが》は人《ひと》を畏服《ゐふく》せしめた、秀吉《ひでよし》は人《ひと》を悦服《えつぷく》せしめた。如何《いか》なる惡黨《あくたう》でも、如何《いか》なる君子《くんし》でも、如何《いか》なる策士《さくし》でも、智者《ちしや》でも。一《ひと》たび秀吉《ひでよし》に接觸《せつしよく》すれば、何《いづ》れも催眠術《さいみんじゆつ》に罹《かゝ》つたも、同樣《どうやう》であつた。秀吉《ひでよし》の下《もと》に働《はたら》くことは、總《すべ》ての人《ひと》の義務《ぎむ》でなく、寧《むし》ろその愉快《ゆくわい》であつた。
頼山陽《らいさんやう》は秀吉《ひでよし》に就《つい》て、他《た》の史家《しか》に比《ひ》し、頗《すこぶ》る見解《けんかい》を持《も》つて居《を》る。曰《いは》く、秀吉《ひでよし》は必《かな》らずしも土地《とち》、金帛《きんぱく》、爵位《しやくゐ》のみを餌《ゑ》として、群雄《ぐんゆう》を駕馭《がぎよ》したのではない。彼《かれ》の所爲《しよゐ》は、時《とき》に群雄《ぐんゆう》の意中《いちう》に出《い》で、之《これ》を感喜《かんき》せしめ、時《とき》に其《そ》の意外《いぐわい》に出《いで》て、之《これ》を畏服《ゐふく》せしめ、此《かく》の如《ごと》くして、一|世《せい》を鼓舞顛倒《こぶてんたふ》せしめたと。此言《このげん》は稍《や》や肯綮《かうけい》に中《あた》りて居《を》る。併《しか》し吾人《ごじん》をして云《い》はしむれば、意中《いちう》でもなく、意外《いぐわい》でもなく、秀吉《ひでよし》は直《たゞ》ちに我《わ》が赤心《せきしん》を以《もつ》て、他《た》の赤心《せきしん》に觸《ふ》れたのだ。此《かく》の如《ごと》くして海《うみ》千、山《やま》千、天下無雙《てんかぶさう》の喰《く》へぬ代物《しろもの》たる、家康《いへやす》さへも、遂《つい》に隨喜《ずゐき》せざるを得《え》なかつた。
大久保忠世《おほくぼたゞよ》は、彦左衞門《ひこざゑもん》の兄《あに》で、忠義《ちうぎ》一|徹《てつ》、徳川譜代《とくがはふだい》の老臣《らうしん》である。然《しか》も彼《かれ》は一《ひと》たび小田原役《をだはらえき》に於《おい》て、秀吉《ひでよし》に接觸《せつしよく》し、其《そ》の推擧《すゐきよ》に遭《あ》ふや、秀吉《ひでよし》から、今日《けふ》の首尾如何《しゆびいかん》との問《とひ》に答《こた》へて、
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只今迄《たゞいままで》は御前《ごぜん》に盾《たて》を衝《つ》き|可[#レ]申樣《まをすべきやう》に存《ぞんじ》つるが、向後《きやうご》は御前《ごぜん》に對《たい》し弓《ゆみ》を引申樣《ひきまをすやう》の心《こゝろ》も|無[#レ]之候《これなくさふらふ》とて感悦仕候《かんえつつかまつりさふらふ》と、|御請被[#レ]申《おんうけまをさる》。其以後《そのいご》七|郎右衞門殿《らうゑもんどの》(忠世)[#「(忠世)」は1段階小さな文字]|此事咄被[#レ]申候《このごとはなしまをされさふらふ》て、其時《そのとき》何《なん》と致《いた》したる事《こと》に候《さふらふ》や、底心《ていしん》より太閤《たいかふ》の|御心根忝奉[#レ]存候事不[#レ]斜《おんこゝろねかたじけなくぞんじたてまつりさふらふことなゝめならざり》き。兎角《とかく》太閤《たいかふ》は名譽《めいよ》なる大將《たいしやう》にて候《さふらふ》と|被[#レ]申由《まをされしよし》。[#1段階小さな文字][石川主殿頭咄、武功雜記][#小さな文字終わり]
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惟《おも》ふに此《こ》れは忠世《たゞよ》の欺《あざむ》かざる告白《こくはく》であらう。所謂《いはゆ》る『何《なん》と致《いた》したる事《こと》に候《さふらふ》や、底心《ていしん》より太閤《たいかふ》の|御心根忝奉[#レ]存候《おんこゝろねかたじけなくぞんじたてまつりさふらふ》。』もの、天下《てんか》の群雄《ぐんゆう》、殆《ほと》んど皆《み》な是《これ》なりであつたであらう。蓋《けだ》し彼《かれ》は單《たん》に我《われ》の赤心《せきしん》を以《もつ》て、他《た》の赤心《せきしん》に印《いん》するのみならず、其《そ》の印《いん》す可《べ》き要所《えうしよ》に印《いん》したからである。此《こ》の呼吸《こきふ》は釋迦《しやか》でも、孔子《こうし》でも、恐《おそ》らくは企《くはだ》て及《およ》ばぬ所《ところ》であらう。吾人《ごじん》が秀吉《ひでよし》を稱《しよう》して、人間學《にんげんがく》の大博士《だいはかせ》と云《い》ふ所以《ゆゑん》は、固《もと》より此《こ》れが爲《た》めである。島津義久《しまづよしひさ》が、剃髮《ていはつ》、黒衣《こくい》にて、太平寺《たいへいじ》に、秀吉《ひでよし》に謁《えつ》するや、秀吉《ひでよし》は一|見《けん》舊《きう》の如《ごと》く、直《たゞ》ちに其《そ》の佩刀《はいたう》を脱《だつ》して、之《これ》を與《あた》へた。爾來《じらい》島津氏《しまづし》は、秀吉《ひでよし》無《む》二の味方《みかた》となり、關《せき》ヶ|原《はら》の役《えき》さへも、義弘《よしひろ》は種々《しゆ/″\》の事情《じじやう》もあつたであらうが、太閤《たいかふ》の恩義《おんぎ》が、其《そ》の重《おも》なる動機《どうき》の一であつた※[#こと、6-3]は、爭《あらそ》ふ可《べか》らざる事實《じじつ》だ。
秀吉《ひでよし》は、叡旨《えいし》を奉《ほう》ずると稱《しよう》して、天下《てんか》の群雄《ぐんゆう》に令《れい》したのは、新井白石《あらゐはくせき》は、鬼面嚇人《きめんかくじん》と評《ひやう》して居《を》るが、此《こ》れは邪推《じやすゐ》ぢや。素直《すなほ》に解釋《かいしやく》すれば、秀吉《ひでよし》は世間《せけん》に所謂《いはゆ》る、不學《ふがく》の猿冠者《さるくわんじや》と稱《しよう》せられたるに拘《かゝは》らず、其《そ》の實《じつ》能《よ》く大義名分《たいぎめいぶん》を辨《べん》じて居《ゐ》た大識者《だいしきしや》と、云《い》はねばならぬ。而《しか》して彼《かれ》の勤王《きんわう》は、信長《のぶなが》に比《ひ》して、更《さ》らに一|層《そう》の情味《じやうみ》があつた。彼《かれ》は恐《おそ》れながら皇室《くわうしつ》に、心《こゝろ》から同情《どうじやう》し參《まゐ》らせた。彼《かれ》は意《い》に於《おい》ても、智《ち》に於《おい》ても、決《けつ》して缺《かけ》て居《ゐ》なかつたが、其《そ》の本色《ほんしよく》は、情《じやう》の人《ひと》であつた。彼《かれ》の勤王《きんわう》は、專《もつぱ》ら打算的《ださんてき》ではなかつた。彼《かれ》は王室《わうしつ》を假《か》りて、齊桓《せいくわん》、晋文《しんぶん》の覇業《はげふ》を營《いとな》まんとする許《ばか》りでなく、眞成《しんせい》に皇室《くわうしつ》の御繁榮《ごはんえい》を謀《はか》つた。
秀吉《ひでよし》が詐術《さじゆつ》を以《もつ》て、天下《てんか》を取《と》つたとは、由來《ゆらい》史家《しか》の通論《つうろん》であるが、それ寧《むし》ろ通鑑綱目《つうかんかうもく》一|流《りう》の、繩墨《じようぼく》の見《けん》と云《い》ふものぢや。秀吉《ひでよし》の所爲《しよゐ》に就《つい》ては、議《ぎ》す可《べ》きもの固《もと》より少《すくな》くない。吾人《ごじん》は決《けつ》して秀吉《ひでよし》を、完全《くわんぜん》の英雄《えいゆう》と云《い》ふ程《ほど》、盲目的《まうもくてき》崇拜者《すうはいしや》でない。彼《かれ》には澤山《たくさん》脱線的《だつせんてき》の行動《かうどう》がある。併《しか》し概《がい》して言《い》へば、彼《かれ》は同時代《どうじだい》に於《お》ける、他《た》の群雄《ぐんゆう》に比《ひ》して、不道徳漢《ふだうとくかん》と云《い》ふ可《べ》き者《もの》でなかつた。決《けつ》して腹黒《はらぐろ》ではなかつた、決《けつ》して惡黨《あくたう》ではなかつた、否《い》な決《けつ》して小人《せうじん》ではなかつた。
彼《かれ》が如何《いか》に眞情《しんじやう》の人《ひと》であつたかは、前田利家《まへだとしいへ》の如《ごと》き、親友《しんいう》を有《いう》したるを以《もつ》て、此《こ》れを證明《しようめい》する事《こと》が能《あた》ふ。利家《としいへ》は家康《いへやす》に亞《つ》ぐ人傑《じんけつ》であつた。而《しか》して彼《かれ》は太閤《たいかふ》の死後《しご》も、尚《な》ほ其《そ》の遺孤《ゐご》の寄託《きたく》に拳々《けん/\》として、其《そ》の心力《しんりよく》を竭《つく》した。此《かく》の如《ごと》き親友《しんいう》は、決《けつ》して詐力《さりよく》では求《もと》め得《え》られるものではない。是《ぜ》にもせよ、非《ひ》にもせよ、彼《かれ》は天下《てんか》の快男兒《くわいだんじ》であつた。所謂《いはゆ》る磊々《らい/\》、落々《らく/\》、日月《じつげつ》の皎然《かうぜん》たるが如《ごと》しとは、彼《かれ》の事《こと》ぢや。而《しか》して桃山時代《もゝやまじだい》の特色《とくしよく》は、即《すなは》ち此《こ》れである。
吾人《ごじん》をして無遠慮《ぶゑんりよ》に語《かた》らしむれば、彼《かれ》は桃山時代《もゝやまじだい》の産物《さんぶつ》と云《い》はんよりも、桃山時代《もゝやまじだい》は、彼《かれ》の産物《さんぶつ》だ。日本《にほん》の歴史《れきし》に、赫々《かく/\》の光《ひかり》ある、太《ふと》く、短《みじか》く、而《しか》して雄麗《ゆうれい》、華富《くわふ》なる、桃山時代《もゝやまじだい》なるものは、寧《むし》ろ秀吉《ひでよし》其人《そのひと》が、時代化《じだいくわ》したるものと云《い》はねばならぬ。其《そ》の特徴《とくちよう》は飽迄《あくまで》豪宕《がうたう》にして、纎細《せんさい》ならざる所《ところ》にある。飽迄《あくまで》豐饒《ほうぜう》にして、寒酸《かんさん》ならざる所《ところ》にある。飽迄《あくまで》精光赫灼《せいくわうかくしやく》として、一|點《てん》の陰翳《いんえい》なき所《ところ》にある。飽迄《あくまで》鮮明《せんめい》にして、曖昧《あいまい》ならざる所《ところ》にある。其《そ》の永徳《えいとく》、山樂等《さんらくら》の繪畫《くわいぐわ》に顯《あら》はれたる、其《そ》の大阪《おほさか》、桃山等《もゝやまとう》の建築《けんちく》に現《あら》はれたる、其《そ》の一|切《さい》の生活《せいくわつ》、及《およ》び思想《しさう》に露《あら》はれたる、皆《み》な此《こ》の通《とほ》りである。されば桃山時代《もゝやまじだい》を卷《ま》けば、秀吉《ひでよし》となり、秀吉《ひでよし》を展《の》ぶれば、桃山時代《もゝやまじだい》となる。英雄《えいゆう》と、時代《じだい》とは、概《おほむ》ね其《そ》の諧調《かいてう》を保《たも》つものであるが、未《いま》だ桃山時代程《もゝやまじだいほど》、其《そ》の諧調《かいてう》の圓滿《ゑんまん》、具足《ぐそく》したる例《れい》は、古今東西《ここんとうざい》の歴史上《れきしじやう》、多《おほ》くない。
併《しか》し進《すゝ》んで考《かんが》ふれば、秀吉《ひでよし》ありての桃山時代《もゝやまじだい》で、桃山時代《もゝやまじだい》ありての秀吉《ひでよし》でない。秀吉《ひでよし》は寧《むし》ろ時代以上《じだいいじやう》であつた。されば秀吉《ひでよし》一《ひと》たび去《さ》りて、桃山時代《もゝやまじだい》は、桃山御殿《もゝやまごてん》と與《とも》に、現實《げんじつ》の社會《しやくわい》より、歴史《れきし》の中《うち》に葬《ほうむ》り去《さ》られた。吾人《ごじん》は桃山時代《もゝやまじだい》の文化《ぶんくわ》を以《もつ》て、寧《むし》ろ温室中《をんしつちう》の、促成植物視《そくせいしよくぶつし》せざるを得《え》ぬ。即《すなは》ち桃山時代《もゝやまじだい》其物迄《そのものまで》もが、一|種《しゆ》の夢幻界《むげんかい》の、影像視《えいざうし》せざるを得《え》ぬ。勿論《もちろん》社會《しやくわい》の風氣《ふうき》も、手傳《てつだ》うたに相違《さうゐ》ないが、這般《しやはん》の愉快《ゆくわい》なる時代《じだい》は、全《まつた》く時代《じだい》の中心人物《ちうしんじんぶつ》、時代《じだい》の主人公《しゆじんこう》たる、秀吉《ひでよし》の賜物《たまもの》と云《い》はねばならぬ。一|座《ざ》の中《うち》にても、其《そ》の主人《しゆじん》の取持《とりもち》如何《いかん》によりて、白《しら》けても來《く》るし、賑《にぎや》かにもなるものぢや。秀吉《ひでよし》は日本《にほん》でも、大《おほ》一|座《ざ》の主人公《しゆじんこう》ぢや。彼《かれ》が天下無雙《てんかぶさう》の快男兒《くわいだんじ》で、座中《ざちう》を賑《にぎ》はしたから、苦蟲《にがむし》を噛潰《かみつぶ》した樣《やう》な家康《いへやす》さへも、躍《おど》り出《だ》す樣《やう》になつた。家康《いへやす》既《すで》に然《しか》り、其《そ》の他《た》知《し》る可《べ》しだ。而《しか》して此《こ》の一|時《じ》張《は》り切《き》つた程《ほど》、緊張《きんちやう》した桃山時代《もゝやまじだい》は、其《そ》の主人公《しゆじんこう》と與《とも》に去《さ》りて、亦《ま》た平調《へいてう》に復《ふく》した。是《こ》れ洵《まこと》に止《やむ》を得《え》ぬ次第《しだい》である。
征韓《せいかん》の一|擧《きよ》の如《ごと》きも、正《まさ》しく桃山時代《もゝやまじだい》の、特徴《とくちよう》の一に數《かぞ》へねばならぬ。而《しか》して此《こ》の一|擧《きよ》に就《つい》て、秀吉《ひでよし》の遺算《ゐさん》があつたと云《い》ふよりも、一|擧《きよ》其物《そのもの》が、既《すで》に遺算《ゐさん》であつた。そは秀吉《ひでよし》は當時《たうじ》の人心《じんしん》が、安息期《あんそくき》に入《い》らんとしつゝあるに拘《かゝは》らず、猶《な》ほ之《これ》を驅《か》りて、活動《くわつどう》せしめんとしたからだ。其状《そのじやう》宛《あだか》も上戸《じやうこ》が、下戸《げこ》に酒《さけ》を強《し》ふるの類《るゐ》であつた。秀吉《ひでよし》は上戸《じやうこ》であれば、朝鮮《てうせん》は愚《お》ろか、明國《みんこく》をも征伏《せいふく》したく思《おも》うたも無理《むり》はない。併《しか》し百|姓《しやう》は兵賦《へいぶ》に疲《つか》れ、諸將《しよしやう》は泰平《たいへい》を樂《たのし》まん※[#こと、10-1]を希《こひねが》ふ。彼等《かれら》は戰爭《せんさう》には、既《すで》に厭《あ》き/\した。此時《このとき》に於《おい》て、新《あら》たに戰爭《せんさう》の局面《きよくめん》を、海外《かいぐわい》に拓《ひら》くことは、秀吉《ひでよし》以外《いぐわい》の者共《ものども》に取《と》りては、何《いづ》れも當惑至極《たうわくしごく》であつたに相違《さうゐ》ない。此《かく》の如《ごと》くして、秀吉《ひでよし》は下戸《げこ》に酒《さけ》を強《し》ひて、其《そ》の御馳走心《ごちそうしん》が、却《かへつ》て我身《わがみ》の仇《あだ》を成《な》したのだ。此《かく》の如《ごと》くして、秀吉《ひでよし》と、諸將《しよしやう》と、否《い》な社會《しやくわい》と、其《そ》の諧調《かいてう》が破《やぶ》れたるに於《おい》ては、其事《そのこと》の失敗《しつぱい》は、必然《ひつぜん》の結果《けつくわ》である。秀吉《ひでよし》の病死《びやうし》によりて、端《はし》なく其《そ》の局《きよく》を結《むす》んだのは、まだしもの仕合《しあわせ》と云《い》はねばならぬ。
されど此《これ》が爲《た》めに、征韓《せいかん》の一|擧《きよ》を以《もつ》て、有害無益《いうがいむえき》であつたと論評《ろんぴやう》するは、寧《むし》ろ沒眼兒《ぼつがんじ》の言《げん》である。吾人《ごじん》は此《こ》の問題《もんだい》に就《つい》て言《い》ふ可《べ》き事《こと》は、尚《な》ほ他《た》の機會《きくわい》を待《ま》ち。唯《た》だ此際《このさい》に於《おい》ては、秀吉《ひでよし》の一|切《さい》の成功《せいこう》は、其《そ》の周圍《しうゐ》を秀吉化《ひでよしくわ》したる點《てん》に存《そん》じ、其《そ》の失敗《しつぱい》は、秀吉化《ひでよしくわ》し得《え》ざる點《てん》に存《そん》すと云《い》ふを、適當《てきたう》と信《しん》ずる。別言《べつげん》すれば、時代《じだい》は秀吉《ひでよし》と與《とも》に進《すゝ》んだが、秀吉《ひでよし》の進《すゝ》む所迄《ところまで》は、進《すゝ》み得《え》なかつた。秀吉《ひでよし》は時代《じたい》と與《とも》に動《うご》いたが、時代《じだい》の止《とゞ》まる所《ところ》に、止《とゞ》まらなかつた。秀吉《ひでよし》の失敗《しつぱい》は、其《そ》の時代《じだい》に後《おく》れたるが爲《た》めにあらずして、時代《じだい》よりも進《すゝ》んだが爲《た》めと云《い》ふ可《べ》しぢや。
併《しか》し若《も》し活動期《くわつどうき》より、安息期《あんそくき》に入《い》るを、進歩《しんぽ》と云《い》ふを得《え》ば、秀吉《ひでよし》の失敗《しつぱい》は、文祿《ぶんろく》、慶長《けいちやう》の時代《じだい》に、強《し》ひて元龜《げんき》、天正《てんしやう》の氣分《きぶん》を押《お》し嵌《は》めんとした爲《た》めであると云《い》ふことも、出來《でき》よう。斯《か》く觀《み》來《き》たれば、流石《さすが》の秀吉《ひでよし》も、時勢後《じせいおく》れと云《い》ふ可《べ》きであらう。時代《じだい》より進《すゝ》んだと云《い》ふも、後《おく》れたと云《い》ふも、其《そ》の見樣如何《みやういかん》によるのぢや。
そは何《いづ》れにもせよ、彼《かれ》の成功《せいこう》は、時代《じだい》と諧調《かいてう》を保《たも》つに存《ぞん》し、其《そ》の失敗《しつぱい》は、諧調《かいてう》を破《やぶ》るに基《もとづ》いたと云《い》ふべきであらう。儘《まゝ》ならぬは世《よ》の中《なか》ぢや、秀吉《ひでよし》の如《ごと》き人間學《にんげんがく》の大博士《だいはかせ》にして、尚《な》ほ此《こ》の人間《にんげん》の集合《しふがふ》したる社會《しやくわい》を、我《わ》が思《おも》ふ通《とほ》りに引《ひ》き廻《まは》はす※[#こと、11-10]は、能《あた》はぬものぢや。併《しか》し能《あた》はぬと云《い》ふは、唯《た》だ征韓《せいかん》の一|幕《まく》であつた。
兎《と》も角《かく》も彼《かれ》は、總《すべ》ての他《た》の人《ひと》に比《ひ》して、我《わ》が思《おも》ふ如《ごと》く、世《よ》の中《なか》を支配《しはい》した。即《すなは》ち其《そ》の結果《けつくわ》が、桃山時代《もゝやまじだい》ぢや。秀吉《ひでよし》の偉大《ゐだい》なる性格《せいかく》は、山崎合戰《やまざきかつせん》よりも、朝鮮征伐《てうせんせいばつ》よりも、大阪城《おほさかじやう》よりも、桃山御殿《もゝやまごてん》よりも、其《そ》の一|切《さい》を引《ひ》き括《く》るめたる、此《こ》の桃山時代《もゝやまじだい》が其《そ》の記念碑《きねんひ》である。
[#2字下げ]大正八年七月廿一日 東京築地 林病院に於て
[#地から2字上げ]蘇峰學人
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