高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正、再校正予定
[#4字下げ][#大見出し]運命と人[#大見出し終わり]
予《よ》は今《いま》にして愈《いよい》よ人間《にんげん》の無力《むりよく》なるを感《かん》ず。如何《いか》に先見《せんけん》の明《めい》に誇《ほこ》るも、寸前《すんぜん》は暗黒《あんこく》だ。人《ひと》を支配《しはい》する最後《さいご》にして、且《か》つ最大《さいだい》の力《ちから》は、運命《うんめい》だ。運命《うんめい》の由來《ゆらい》を尋繹《じんえき》すれば、種々《しゆ/″\》の解説《かいせつ》も出《で》て來《く》るであらう。併《しか》し窮極《きうきよく》の所《ところ》は、尚《な》ほ是《こ》れ運命《うんめい》は依然《いぜん》運命《うんめい》だ。或《あるひ》は天《てん》と云《い》ひ、或《あるひ》は命《めい》と云《い》ひ、或《あるひ》は神《しん》と云《い》ひ、或《あるひ》は數《すう》と云《い》ふも、尚《な》ほ是《こ》れ不可思議力《ふかしぎりよく》である、不可抗力《ふかかうりよく》である。區々《くゝ》たる唯物觀《ゆゐぶつくわん》にて、人間《にんげん》の歴史《れきし》を説明《せつめい》し盡《つく》さんとするが如《ごと》きは、大《だい》なる不心得《ふこゝろえ》だ。別言《べつげん》すれば、そは餘《あま》りに人間《にんげん》を高《たか》く買被《かひかぶ》つたのだ。人間《にんげん》が自惚過《うぬぼれす》ぎたのだ。
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一|月《ぐわつ》一|日《じつ》、予《よ》は昨年《さくねん》豫期《よき》の課程《くわてい》を了《れう》したれば、心安《こゝろやす》く新年《しんねん》を迎《むか》へたり。先《ま》づ吾皇《わがくわう》の聖壽無疆《せいじゆむきやう》を頌《しよう》し奉《たてまつ》り、次《つ》ぎに九十一|齡《れい》の母上《はゝうへ》に祝儀《しうぎ》を述《の》べ、早朝《さうてう》新年《しんねん》の日課《につくわ》として、豐臣氏甲篇《とよとみしかうへん》の總論《そうろん》を草《さう》したり。
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不[#レ]希[#二]利達[#一]希[#二]平康[#一]。 修史前程萬里長。
日課今年始[#二]今日[#一]。 曉窓揮[#レ]翰説[#二]猿郎[#一]。
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是《こ》れ予《よ》が大正《たいしやう》八|年《ねん》元朝《ぐわんてう》の記事《きじ》の一|節《せつ》だ。然《しか》るに予《よ》が全幅《ぜんぷく》の祈願《きぐわん》であつた平康《へいかう》は來《きた》らずして、病魔《びやうま》は來《き》た。予《よ》が故郷《こきやう》の親戚《しんせき》は、予《よ》の五十七|歳《さい》を厄年《やくどし》なりとし、更《さ》らに一|歳《さい》を加《くは》へ迎《むか》ふ可《べ》しとて、三百|里《り》外《ぐわい》より餠《もち》を贈《おく》り來《きた》つた。予《よ》には厄年抔《やくどしなど》と云《い》ふ掛念《けねん》は、毛頭《まうとう》無《な》かつた。併《しか》し其《そ》の好意《かうい》に對《たい》し、且《か》つは從來《じゆうらい》最《もつと》も餠《もち》を嗜《たしな》みたれば、殆《ほと》んど其《そ》の過半《くわはん》を、予《よ》一|人《にん》にて喫《きつ》し盡《つく》した。而《しか》して厄拂《やくはらひ》の餠《もち》が既《すで》に盡《つ》くるに垂《なんな》んとする頃《ころ》、予《よ》の大患《たいくわん》は來《きた》つた。予《よ》は二|月《ぐわつ》十六|日《にち》の夕《ゆふべ》より病《やまひ》に臥《ふ》し、爾來《じらい》大正《たいしやう》八|年《ねん》は殆《ほと》んど病中《びやうちゆう》に暮《く》らした。予《よ》は實《じつ》に麺麭《ぱん》を求《もと》めて石《いし》を得《え》た。而《しか》して臥病《ぐわびやう》二|夕《せき》の後《のち》、予《よ》が老母《らうぼ》を亡《うしな》うた。予《よ》は今更《いまさ》ら上記《じやうき》の詩《し》を回想《くわいさう》して、人間《にんげん》の頼《たの》み甲斐《がひ》なき事《こと》を、しみ/″\と感《かん》ぜざるを得《え》ない。
併《しか》しながら飜《ひるがへ》つて思《おも》へば、人間《にんげん》は微力《びりよく》ではあるが、無力《むりよく》ではない。人《ひと》は運命《うんめい》を支配《しはい》すること克《あた》はぬが、運命《うんめい》を若干《じやくかん》調節《てうせつ》することは可能《かな》ふ。予《よ》は一|方《ぱう》病魔《びやうま》と戰《たゝか》ひつゝも、本年《ほんねん》は一|月《ぐわつ》一|日《じつ》に起稿《きかう》したる豐臣氏甲篇《とよとみしかふへん》を、六|月《ぐわつ》五|日《か》に脱稿《だつかう》し。六|月《ぐわつ》六|日《か》に起稿《きかう》したる同《どう》乙篇《おつへん》を、十|月《ぐわつ》五|日《か》に脱稿《だつかう》し。十|月《ぐわつ》六|日《か》に起稿《きかう》したる同《どう》丙篇《へいへん》を、十二|月《ぐわつ》廿三|日《にち》に脱稿《だつかう》した。病苦《びやうく》の爲《た》めに、作輟《さくてつ》恒《つね》なく、規則的《きそくてき》に豫定《よてい》の計畫《けいくわく》を成就《じようじゆ》する能《あた》はざりしも、兎《と》も角《かく》も曲《まが》りなりにも、豐臣氏《とよとみし》の甲《かふ》乙《おつ》丙《へい》の三|篇《ぺん》は、本年《ほんねん》の收穫《しうくわく》である。別言《べつげん》すれば、豐稔滿作《ほうねんまんさく》を祷《いの》りたる百|姓《しやう》が、天候《てんこう》の變《へん》にて、兇荒《きやうくわう》に遭《あ》うたが、然《しか》も尚《な》ほ自《みづ》から支《さゝ》へるに足《た》る程《ほど》の收穫《しうくわく》に有《あ》り附《つい》た類《るゐ》ぢや。
予《よ》は豐臣氏時代《とよとみしじだい》を、果《はた》して幾册《いくさつ》にて完成《くわんせい》し得可《うべ》き乎《か》、否乎《いなか》を斷言《だんげん》し得《え》ない。但《た》だ剩《あま》す所《ところ》二|册《さつ》にせよ、三|册《さつ》にせよ、明年《みやうねん》一|杯《ぱい》には、必《かな》らず之《これ》を完成《くわんせい》せん※[#こと、510-7]を期《き》す。予《よ》は既《すで》に北條征伐《ほうでうせいばつ》、東北平定《とうほくへいてい》、即《すなは》ち年代《ねんだい》を以《もつ》てすれば、天正《てんしやう》十九|年《ねん》秀吉《ひでよし》五十六|歳《さい》迄《まで》を脱稿《だつかう》した。剩《あま》す所《ところ》は、文祿元年《ぶんろくぐわんねん》より慶長《けいちやう》三|年《ねん》秀吉《ひでよし》六十三|歳《さい》にして逝《ゆ》く、約《やく》七|個年《かねん》の事《こと》だ。然《しか》も此際《このさい》には、例《れい》の征韓《せいかん》の大舞臺《だいぶだい》が展開《てんかい》せられて居《ゐ》る。此《こ》れは史家《しか》に取《と》りて、輕々《けい/\》に看過《かんくわ》し難《がた》き好題目《かうだいもく》だ。予《よ》は此《こ》の問題《もんだい》に接觸《せつしよく》して、渾身《こんしん》の血《ち》を湧《わ》かしむる心地《こゝち》する。
予《よ》は何人《なんびと》に對《たい》しても、出來得《できう》る限《かぎ》りに於《おい》て、公平《こうへい》ならん※[#こと、510-13]を期《き》して居《ゐ》る。但《た》だ秀吉《ひでよし》に向《むかつ》ては、最《もつと》も其《そ》の困難《こんなん》を感《かん》ずる。是《これ》は三百|幾《いく》十|年《ねん》の後《のち》に於《おい》て、尚《な》ほ秀吉《ひでよし》に魅殺《みさつ》せられんとするからだ。秀吉《ひでよし》は同時代《どうじだい》の英雄豪傑《えいゆうがうけつ》に、催眠術《さいみんじゆつ》を施《ほどこ》した許《ばか》りでなく、百|世《せい》子孫《しそん》に迄《まで》、之《これ》を及《およ》ぼしつゝあるのだ。秀吉《ひでよし》は決《けつ》して僞善者《ぎぜんしや》でなかつた。秀吉《ひでよし》の素行《そかう》の甚《はなは》だ亂脈《らんみやく》であつたことは、元龜《げんき》天正《てんしやう》の亂脈時代《らんみやくじだい》に於《おい》てさへも、尚《な》ほ指摘《してき》を免《まぬか》れ得《え》ない程《ほど》甚《はなは》だしかつた。彼《かれ》は瑕瑜《かゆ》併《あはせ》て掩《おほ》ひ得《え》ぬのみならず、寧《むし》ろ大瑕者《おほきずもの》であつた。併《しか》し一|切《さい》の過失《くわしつ》、缺點《けつてん》、乃至《ないし》罪惡《ざいあく》の暴露《ばくろ》に拘《かゝは》らず、彼《かれ》は尚《な》ほ吾人《ごじん》を愛著《あいちやく》せしむる魔力《まりよく》を有《いう》した。如何《いか》に割引《わりびき》しても、彼《かれ》は蓋世《がいせい》の英雄《えいゆう》である。家康《いへやす》の如《ごと》きさへも、彼《かれ》の前《まへ》には、太陽《たいやう》の側《かたはら》の星《ほし》に過《す》ぎざる感《かん》じがある。但《た》だ信長《のぶなが》は、彼《かれ》に比《ひ》して、更《さ》らに畏《おそ》る可《べ》き點《てん》が多《おほ》かつた樣《やう》だが。吾人《ごじん》は信長《のぶなが》を人間《にんげん》としてよりも、寧《むし》ろ自然力《しぜんりよく》の權化《ごんげ》として、之《これ》を取扱《とりあつか》ふのが、却《かへつ》て適當《てきたう》ではない乎《か》との感《かん》じがある。單《ひと》り秀吉《ひでよし》のみは、飽迄《あくまで》も人間《にんげん》だ、何處迄《どこまで》も人間《にんげん》だ。彼《かれ》は強弱共《きやうじやくとも》に人間《にんげん》だ。彼《かれ》の長所《ちやうしよ》も、人間《にんげん》としての長所《ちやうしよ》だ。彼《かれ》の短所《たんしよ》も、人間《にんげん》としての短所《たんしよ》だ。吾人《ごじん》は悉《こと/″\》く彼《かれ》の短所《たんしよ》に隨喜《ずゐき》するものではない、併《しか》し其中《そのちう》には、時《とき》として隨喜《ずゐき》禁《きん》ずる能《あた》はざらしむる程《ほど》のものがある。彼《かれ》は一|大《だい》情塊《じやうくわい》であつた。彼《かれ》は如何《いか》なる場合《ばあひ》にも、乾燥無味《かんさうむみ》なる事《こと》が出來《でき》なかつた。彼《かれ》は本來《ほんらい》の大役者《だいやくしや》であつたが、彼《かれ》の一|代《だい》も亦《ま》た一|大演劇《だいえんげき》であつた。世界《せかい》古今《ここん》如何《いか》なる作家《さくか》あるも、恐《おそ》らくは彼《かれ》の一|代記《だいき》程《ほど》の變化《へんくわ》、開闔《かいかふ》、抑揚《よくやう》、頓挫《とんざ》、波瀾《はらん》、曲折《きよくせつ》。色《いろ》あり、澤《つや》あり、情《じやう》あり、韻《ゐん》ある好戯曲《かうぎきよく》を撰出《せんしゆつ》する事《こと》は不可能《ふかのう》であらう。而《しか》して蓋世《がいせい》の英雄《えいゆう》たる彼《かれ》さへも、運命《うんめい》に對《たい》しては、眇《べう》たる大海《たいかい》の一|粟《ぞく》に過《す》ぎない點《てん》に於《おい》て、更《さ》らに深甚《しんじん》の妙味《めうみ》がある。
天下《てんか》に英雄《えいゆう》は多《おほ》い、併《しか》し眞《しん》に愛好《あいかう》す可《べ》き英雄《えいゆう》は少《すくな》い。其《そ》の少《すくな》い英雄《えいゆう》の中《うち》にて、眞《しん》に愛好《あいかう》す可《べ》き英雄《えいゆう》の一|人《にん》は、秀吉《ひでよし》だ。而《しか》して此《こ》の愛好《あいかう》す可《べ》き英雄《えいゆう》が、運命《うんめい》の手《て》に翻弄《ほんろう》せらるゝ|最後《さいご》の一|齣《せつ》に於《おい》て、更《さ》らに其《そ》の脈々《みやく/\》の情緒《じやうしよ》の饒《ゆた》かなるを感《かん》ずる。予《よ》は此《こ》の好題目《かうだいもく》を、明年《みやうねん》の課程《くわてい》として、愛度《めでたく》大正《たいしやう》九|年《ねん》を迎《むか》へんとして居《ゐ》る。
而《しか》して運命《うんめい》の手《て》が、如何《いか》なる方面《はうめん》に廻《まは》りて來《きた》るかは、豫期《よき》する能《あた》はぬが。出來得可《できうべく》んば、予《よ》が修史事業《しうしじげふ》の豫定計畫《よていけいくわく》に、大《だい》なる妨《さまた》げなからん※[#こと、512-13]を祈《いの》つて置《お》く。而《しか》して予《よ》も亦《ま》た微力《びりよく》ながら、之《これ》を遂行《すゐかう》す可《べ》く決心《けつしん》して居《ゐ》る。
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大正八年十二月廿六日午前七時、湘南觀瀾亭に於て、時に旭光蓮岳の白雪と相映じ、天地の美、我を吸入し去らんとするに似たり
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[#地から2字上げ]蘇峰學人