[#3字下げ]第二章 信長の勢力京都及び近江伊勢に震ふ
[#5字下げ]【四】信長の意氣
有體《ありてい》に云《い》へば、信長《のぶなが》が義昭《よしあき》を追放《つゐはう》したるは、義昭《よしあき》が非信長同盟《ひのぶながどうめい》の張本《ちやうほん》であり、且《か》つ公然《こうぜん》信長《のぶなが》に敵對《てきたい》したばかりでなく。最早《もはや》義昭《よしあき》には、用《よう》がないからだ。信長《のぶなが》は義昭《よしあき》を、詳《くは》しく言《い》へば、足利將軍《あしかゞしやうぐん》としての義昭《よしあき》を、利用《りよう》し得《え》らるゝ丈《だ》け利用《りよう》して、此上《このうへ》は剩《あま》す所《ところ》幾許《いくばく》もなく。又《ま》た信長《のぶなが》の位置《ゐち》は、今《いま》となりては、何等《なんら》彼《かれ》を利用《りよう》せねばならぬ、必要《ひつえう》も無《な》いからだ。信長《のぶなが》は足利將軍家《あしかゞしやうぐんけ》の暖簾《のれん》を掛《か》けなくとも、寧《むし》ろ信長《のぶなが》の新舖《しんみせ》で澤山《たくさん》であると、觀念《くわんねん》したからだ。
信長《のぶなが》は義昭《よしあき》を退治《たいぢ》すると同時《どうじ》に、京攝《けいせつ》に於《お》ける其《そ》の殘黨《ざんたう》を退治《たいぢ》した。信長《のぶなが》は上京《かみきやう》放火《はうくわ》に就《つい》て、地子錢《ちしせん》、諸役錢《しよやくせん》を免除《めんぢよ》した。而《しか》して村井貞勝《むらゐさだかつ》を所司代《しよしだい》として、其《そ》の政務《せいむ》を執行《しつかう》せしめた。斯《か》くて元龜《げんき》四|年《ねん》七|月《ぐわつ》二十八|日《にち》、改元《かいげん》ありて天正《てんしやう》元年《ぐわんねん》となつた。即《すなは》ち年號《ねんがう》と與《とも》に、一|切《さい》が新奇《しんき》になつた譯《わけ》である。
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當時《たうじ》信長《のぶなが》の意氣《いき》は、頗《すこぶ》る旺盛《わうせい》であつた。彼《かれ》の苦手《にがて》たる信玄《しんげん》は、既《すで》に死《し》した。恒《つね》に針《はり》の如《ごと》く、蚊《か》の如《ごと》く、ちく/\彼《かれ》を刺《さ》したる義昭《よしあき》は、隱《かく》れた。憚《はゞか》るものは、恐《おそ》らくは謙信《けんしん》のみであつたであらう。さりとて別段《べつだん》畏《おそ》ろしき程《ほど》の者《もの》でもなかつた。されば信長《のぶなが》は、未《いま》だ天下《てんか》を取《と》らざるも、既《すで》に天下《てんか》一と呑《のみ》の氣分《きぶん》であつたらう。此《こ》れは予《よ》が想像《さうざう》ではない。當時《たうじ》毛利家《まうりけ》より上國《じやうこく》に使《つかひ》したる、安國寺惠瓊《あんこくじゑけい》の手紙《てがみ》が、之《これ》を證明《しようめい》して居《を》る。
信長《のぶなが》と義昭《よしあき》との葛藤《かつとう》に際《さい》し、毛利家《まうりけ》よりは、調停《てうてい》の爲《た》めに、輝元《てるもと》、吉川元春《きつかはもとはる》、小早川隆景等《こばやかはたかかげら》より使者《ししや》を遣《つか》はした。惠瓊《ゑけい》は其《そ》の一|人《にん》だ。彼等《かれら》の歸《かへ》るに際《さい》し、信長《のぶなが》は『某《それがし》は東國《とうごく》を治《おさ》め、凶徒退治可[#レ]仕候《きようとたいぢつかまつるべくさふらふ》。毛利《まうり》三|家《け》は、西地《さいち》を悉《こと/″\》く可[#レ]被[#二]攻隨[#一]候《せめしたがへらるべくさふらふ》。左候《ささふらう》て以後《いご》、輝元我等別《てるもとわれらべつし》て申合《まをしあはせ》、天下《てんか》の政《まつりごと》を改《あらた》め、窮民《きうみん》を救《すく》ひ可[#レ]申候《まをすべくさふらふ》。三|家《け》の衆《しゆう》も、對[#二]我等[#一]無[#二]別心[#一]樣《われらにたいしべつしんなきやう》に、和僧能心得可[#レ]被[#レ]申《わそうよくこゝろえまをさるべく》と被[#レ]仰《おほせられ》、御暇被[#レ]下一同《おんいとまくだされいちどう》に罷下候《まかりさがりさふらふ》。』〔吉田物語〕とある。
信長《のぶなが》は當分《たうぶん》、毛利氏《まうりし》と?《ひま》を發《ひ》らく積《つも》りでなかつた。彼《かれ》は姑《しば》らく東方《とうはう》の經略《けいりやく》を了《れう》し、而《しか》して後《のち》徐《おもむ》ろに、西方《せいはう》に著手《ちやくしゆ》せんとしたであらう。是《こ》れ巧慧《こうけい》なる惠瓊《ゑけい》を介《かい》し、毛利家《まうりけ》に向《むかつ》て、此《かく》の如《ごと》き甘言《かんげん》を啗《くら》はしめたる所以《ゆゑん》であらう。
使者《ししや》の一|人《にん》惠瓊《ゑけい》は、途中《とちゆう》浮?田《うきた》直家《なほいへ》見舞《みまひ》の爲《た》めに立寄《たちよ》り、書状《しよじやう》を以《もつ》て、上國《じやうごく》の形勢《けいせい》を元春《もとはる》、隆景《たかかげ》に報《はう》じた。此《こ》れは長文《ちやうぶん》であるが、其中《そのうち》の一二を掲《かゝ》ぐれば、
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一 公方樣《くばうさま》は、上下《じやうげ》二十|人《にん》の内《うち》にて、小船《こぶね》に召候《めしさふらう》て、紀州宮崎《きしゆうみやざき》の浦《うら》と申《まう》す所《ところ》へ御忍《おしの》び候《さふらふ》。信長《のぶなが》も唯今討果可[#レ]申《たゞいまうちはたしまをすべく》にても無[#レ]之候間《これなくさふらふあひだ》、彼所《かしこ》に可[#レ]有[#二]御滯留[#一]候《ごたいりうあるべくさふらふ》。先々此國《まづ/\このくに》へ御下向《ごげかう》なき事《こと》をば隨分申極候《ずゐぶんまをしきめさふらふ》、可[#二]御心易[#一]候《おんこゝろやすかるべくさふらふ》。
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此《こ》れにて義昭《よしあき》の毛利氏《まうりし》に寄《よ》ることは、毛利氏《まうりし》の欲《ほつ》する所《ところ》でなかつたことが判知《わか》る。毛利《まうり》三|家等《けら》は成《な》る可《べ》く、此《こ》の厄介物《やくかいもの》を近《ちかづ》けざらんとしたのであつた。
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一 日乘走舞異見《にちじようそうぶのいけんは》昔《むかし》の周公旦《しうこうたん》太公望《たいこうぼう》抔《など》の樣《やう》に候《さふらふ》。似合《にあひ》たる者《もの》出《いで》たる御事《おんこと》に候《さふらふ》。雖[#レ]然《しかれども》仕過《しすご》され候《さふら》はで、今《いま》の分《ぶん》にて候《さふらう》ては、藝州御爲重寶《げいしゆうおんためぢゆうはう》、今度《こんど》の調《しらべ》も、悉皆彼仁馳走《しつかいかのじんのちそう》にて候《さふらふ》、唯《たゞ》あぶなく存候《ぞんじさふらふ》/\。藤吉《とうきち》などの取成迄《とりなしまで》、日乘《にちぢよう》にて候《さふらふ》。是《これ》にて可[#レ]有[#二]御推量[#一]候《ごすゐりやうあるべくさふらふ》。
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當時《たうじ》朝山日乘《あさやまにちじよう》が、如何《いか》に卓歯例「《たくれいふうはつ》、意氣軒昂《いきけんかう》で、信長《のぶなが》の帷幄《ゐあく》に切《き》り廻《まは》しつゝあつたかは、此《こ》れにて想像《さうざう》するに餘《あま》りありだ。秀吉《ひでよし》さへも日乘《にちじよう》の取成《とりなし》にて、信長《のぶなが》の手前《てまへ》を繕《つくろ》ふ程《ほど》であれば、其《そ》の權勢《けんせい》の程《ほど》も知《し》る可《べ》しだ。其《そ》の日乘《にちじよう》が餘《あま》りに仕過《しすご》して、失脚《しつきやく》せんことを危《あやぶ》みたるは、流石《さすが》に烱眼《けいがん》と云《い》はねばならぬ。
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一 信長《のぶなが》の代《だい》五|年《ねん》三|年《ねん》は可[#レ]被[#レ]持候《もたるべくさふらふ》。來年《らいねん》あたりは、公家《くげ》などに可[#レ]被[#レ]成《ならるべく》と見及候《みおよびさふらふ》。左候《ささふらひ》て後《のち》高《たか》ころびにあふのけにころばれ候《さふらふ》ずると見申候《みまをしさふらふ》。藤吉《とうきち》さりとてはの者《もの》にて候《さふらふ》。
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是《こ》れ實《じつ》に天正《てんしやう》元年《ぐわんねん》十二|月《ぐわつ》十二|日《にち》附《づけ》である。當時《たうじ》に於《おい》て信長《のぶなが》、秀吉《ひでよし》の事《こと》を、斯迄《かくまで》豫言《よげん》するとは、如何《いか》にも天眼通《てんがんつう》と云《い》はねばならぬ。
但《た》だ信長《のぶなが》が百|難《なん》を排《はい》し來《きた》り、漸《やうや》く成功《せいこう》の七|分《ぶ》に達《たつ》せんとする當時《たうじ》に於《おい》て、既《すで》に其《そ》の十二|分《ぶん》の後《のち》を、他《た》より?破《しよは》せられたるは、意滿志驕《いまんしけう》の機微《きび》が、此際《このさい》に流露《りうろ》したるが爲《た》めであらう。將《は》た秀吉《ひでよし》が柴田《しばた》、丹羽《には》の徒《と》に伍《ご》しつゝある間《あひだ》に、他日《たじつ》龍飛《りゆうひ》の徴候《ちようこう》を看破《かんぱ》せられたるも、其《そ》の鋒芒《ほうばう》が自《おのづ》から穎脱《えいだつ》した爲《た》めであらう。何《いづ》れにしても惠瓊《ゑけい》と云《い》ふ坊主《ばうず》は、油斷《ゆだん》の出來《でき》ぬ坊主《ばうず》である。
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公方義昭卿織田信長御半不和之事
此折節義昭卿信長御半の儀被[#二]聞召[#一]、御取扱として輝元公よりは林木工允、安國寺惠瓊西堂、吉川殿よりは井下左衞門、小早川殿よりは兼久内藏丞被[#二]差越[#一]候、此衆上著仕、佐久間信盛木下藤吉日乘上人に致[#二]相對[#一]、御一命の儀御詫言申上候へば、信長被[#二]聞召[#一]、佐久間木下いか樣とも計ひ候へと被[#レ]仰に付、御一命無[#レ]恙、同年七月十六日河内國若江の城へ御退出、御法體にて昌山公と申候、爰に義昭公の御味方に、和田伊賀守と申侍攝州に一城を構へ居候に付、信長馬を向られ候時、三箇の條目を書て諸士の伺公の席に張せられ候、其三箇條は和田首を取候者には其賞いか程、又侍大將物頭を打取候者には其賞いか程、城の一番乘迫合の時先掛仕者には其賞いか程可[#レ]被[#二]宛行[#一]候間、左樣に存し候者は其箇條に點をかけ面々の名書仕候樣にと書付られ候、各是を見候ても我こそ御書出の通に可[#レ]仕と存候無[#レ]之候處に、生國攝州の侍中川瀬兵衞清秀と申者諸人の中を拔出、和田首と有[#レ]之箇條に點を掛て姓名を記す、各是を見て如何可[#レ]有[#レ]之哉と申あへり、清秀は急き宿所に歸りて支度を調へ、敵城に赴き候時、清秀の妻女海老を吸物にして盃を出され候、海老は跡へ退く時早き物なるに依てなり、於[#二]于今[#一]中川の家にて祝儀の時海老の吸物と承及候、瀬兵衞事、内々和田は自身城邊の夜廻り仕候とは聞及ひけれ共、男ぶりを不[#レ]知處に、清秀常に軍神を祈念仕候印にや山伏一人|風《ふ》と來り候に付、清秀?候は和田伊賀守は何方に居申候哉、山伏聞て彼所に居候と云、男ぶりはいか樣なる哉と問へは委細に物語仕候に付、最早打取たりと存じ城下の川を渡り河岸に柳一村有之候所に待居申候へば案の如く和田馬に乘下人?召連候て夜廻り仕候、得と見すへ和田首を一刀に打落し提て河へ飛込此方の岸へ游き上り候、夜中と云ひ、川深く候に付下人追掛候儀不[#二]相成[#一]候故、清秀無[#二]異儀[#一]御本陣へ罷歸り、和田首を信長備[#二]實檢[#一]候へば御感不[#レ]斜、則清秀身上御取立被[#レ]成候、大將討れ候に付城抱へ申事不[#二]相成[#一]即?時落去仕候、又渡邊宮内と申侍も義昭御味方仕り罷居候へ共、和田打死仕候に付信長へ降參仕候故、義昭若江に御滯留不[#二]相成[#一]和泉の堺へ御越被[#レ]成夫より紀州へ御退去被[#レ]遊候なり、又右に記し申候此御方四人の御使衆信長へ御暇の儀申上候處に則御對面被[#レ]遊候、其時西堂申上候は山中鹿之助儀雲伯兩國を望み申候通風聞御座候、於[#二]事實[#一]は御許容無[#レ]之樣に御次手を以て申上候へと輝元申付候と申候へば、信長被[#二]聞召[#一]毛利三家に對し聊疎意不[#レ]存候、鹿之助いか樣に申候共且以同心仕間敷候、某は東國ををさめ凶徒退治可[#レ]仕候、毛利三家の衆は西地を悉く可[#レ]被[#二]攻隨[#一]候、左候て以後輝元我等別て申合天下の政を改め窮民を救ひ可[#レ]申候、三家の衆も對[#二]我等[#一]無[#二]別心[#一]樣に和僧能心得可[#レ]被[#レ]申と被[#レ]仰、御暇被[#レ]下一同に罷下候刻、安國寺は浮田直家へ爲[#二]見舞[#一]參候に付、元春隆景へ以[#二]書状?[#一]京都の趣信長行跡委細申上候其状?に曰
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一筆申上候京都之儀如[#レ]形相調、今月十二日至[#二]備前[#一]岡山罷著候、尤其表可[#レ]致[#二]參上[#一]候へ共長途の儀候間先吉田へ罷下候、殊更從[#二]信長[#一]大事の馬被[#二]差下[#一]輝元公へ被[#レ]進候間片時も急申候、
一上樣御歸洛御操の事我等京著仕候翌日、羽柴藤吉郎日乘我等と被[#二]申操[#一]候處に、上意の事人質能々御取置候はではと被[#レ]仰候、人質の儀進上申間數と藤吉は申候、夫にて相支り候處に、羽柴何と分別候哉、左の上意にて底迄御□候はゝ一大事の儀候間行方不[#レ]知見え不[#レ]知見え不[#レ]申の通信長へは可[#レ]申候條、早々いつ方へも御退被[#レ]成候て可[#レ]然の由申候間、翌日大阪迄罷歸候、我等日乘をは一日跡に殘し置候て、一往の御異見可[#二]申上[#一]の由申候條、一通り御異見申上候へ共如何にも無[#二]御□[#一]候間、是迄藝州よりも申操り候上意の處、強て申上候も如何に候、扨此上にて自然西國などへ御下向候ては一大事たるべく候、能々御納得承りすゑ候て可[#二]罷下[#一]と申上候へば、西國へも唯今の分は礑と御下向有間敷候、紀州可[#レ]有[#二]御滯留[#一]候條、今度退座の御音信仕御返事取候て京都へ罷登り候
一公方樣は上下二十人の内にて、小船に召候て、紀州宮崎の浦と申す所へ御忍び候、信長も唯今討果可[#レ]申にても無[#レ]之候間、彼所に可[#レ]有[#二]御滯留[#一]候、先々此國へ御下向なき事をば、隨分申極候、可[#二]御心易[#一]候
一阿州三好許容有間敷の由、朱印相調申候
一但州の儀來二月に羽柴藤吉爲[#二]大將[#一]亂入の儀定候、唯今も半國程は羽柴へ御行候、來春御延引候ては不[#レ]可[#レ]然候、此御分別專一に候
一備播作の朱印宗景へ被[#レ]出候も、對[#二]藝州[#一]進之由殊の外の儀に候
一別所宗景の儀も當時持にと定候、別所も自身罷出候、一の座に双方へ被[#二]申渡[#一]候、宗景へ三箇國の朱印御禮、從[#二]夕庵[#一]過分に申掛候、おかしく候
一日乘走舞異見、昔の周公旦太公望などの樣に候、似合たる者出たる御事に候、雖[#レ]然仕過され候はで、今の分にて候ては、藝州御爲重寶、今度の調も、悉皆彼仁馳走にて候、唯あぶなく存候/\、藤吉などの取成迄日乘にて候、是にて可[#レ]有[#二]御推量[#一]候
一若君樣遣なりけに候、信長宿に置被[#レ]申候、來春は御禮申候て可[#レ]然の由、但過分の御禮、信長若君へも申通候、御推量よりも[#割り注]此下切て不見[#割り注終わり]の行はやく可[#レ]被[#二]申付[#一]候、國も則可[#二]相果[#一]候、是も箇條に被[#レ]載候、何と書候とも許容有間敷候由に候
一山中鹿之助柴田に付候て種々申候、是又聢と許容有間敷由朱印出候
一播州廣瀬の事雜掌付置候間、不[#レ]被[#二]仰聞[#一]候箇條に載候て、披露仕是は放状調申候、左候條今日十二日直家面談仕、來春先廣瀬へ被[#二]取懸[#一]候と申事に候、内々直家も其望候條彼表へ可[#二]罷向[#一]と令[#二]約諾[#一]候、被[#二]仰聞[#一]候條々多分此通かと存候、今度信長機嫌一段能く上下にて少々緩怠人も候はゞ按合則可[#二]申付[#一]候由に候、今度宗景の使者同道仕候、藤吉一段の被[#レ]申樣にて候、彼使も大汗をかき申候、頭に大やいとうすゑたる樣に候て目出候、左候條其御口無用の由不[#レ]捨御申候て無[#二]御無音[#一]存との信長直に被[#レ]申事に候
一今度三好左京大夫内衆成易腹を切候、代々如[#レ]此と申候か、さりとてはの腹を切候と申候
一河内高屋の城由佐と四國衆籠候相城被[#二]取付[#一]候、其人數打入候へば、信長も歸國の由に候、定て可[#レ]爲[#二]此月[#一]候
一信長の代五年三年は可[#レ]被[#レ]持候、來年あたりは公家などに可[#レ]被[#レ]成と見及候、左候て後高ころびにあふのけにころばれ候ずると 申候、藤吉さりとてはの者に候、面上の節一?に可[#二]申上[#一]候、明十三日吉田へ被[#レ]下候、吉田可[#レ]致[#二]言上[#一]候、此由宜預[#二]御披露[#一]候、恐惶謹言
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[#地から9字上げ]安 國 寺
[#地から2字上げ]十二月十二日 惠 瓊 判
[#9字下げ]山縣筑前守 殿
[#9字下げ]井上又右衞門殿
[#地から5字上げ]〔吉 田 物 語〕
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[#5字下げ]【五】朝倉退治
義昭《よしあき》の殘黨《ざんたう》は、殆《ほと》んど一|掃《さう》し盡《つく》した。淀城《よどじやう》の岩成主税《いはなりちから》は、細川藤孝《ほそかはふぢたか》の家人《けにん》下津權内《しもつごんない》が組討《くみうち》にて頸《くび》を取《と》つた。芥川城《あくたがはじやう》の和田惟政《わだこれまさ》は、荒木村重《あらきむらしげ》の甥《をひ》、中川瀬兵衞清秀《なかがはせへゑきよひで》が討取《うちと》つた。池田勝政《いけだかつまさ》、伊丹親興《いたみちかおき》も、それ/″\退治《たいぢ》せられた。攝津《せつつ》一|圓《ゑん》は、荒木村重《あらきむらしげ》が切取《きりとり》に任《まか》すと、信長《のぶなが》よりの恩諭《おんゆ》で、彼《かれ》は攝津守《せつのの?かみ》と改名《かいめい》した。〔總見記〕。信長《のぶなが》は事《こと》の序《つい》でに、例《れい》の大船《たいせん》に打乘《うちの》り、江州高島郡《がうしうたかしまごほり》の木戸《きど》、田中《たなか》兩城《りやうじやう》をも攻《せ》め落《おと》し、岐阜《ぎふ》に還《かへ》つたのは、天正《てんしやう》元年《ぐわんねん》八|月《ぐわつ》四|日《か》であつた。乃《すなは》ち彼《かれ》は一|箇月以内《かげついない》に、義昭事件《よしあきじけん》を、一|切《さい》片附《かたづ》けたのだ。
憐《あは》れなるは淺井《あさゐ》、朝倉《あさくら》である。彼等《かれら》が頼《たの》みにしたる信玄《しんげん》には、死去《しきよ》せられ、叡山《えいざん》は燒《や》かれ、義昭《よしあき》は追放《つゐはう》せられ、本願寺《ほんぐわんじ》一|派《ぱ》を除《のぞ》けば、今《いま》は全《まつた》く孤立《こりつ》となつた。而《しか》して本願寺《ほんぐわんじ》とても、援軍《ゑんぐん》を出《いだ》す餘力《よりよく》はない。乃《すなは》ち彼等《かれら》が往生《わうじやう》の時期《じき》は、刻《こく》一|刻《こく》迫《せま》り來《きた》りつゝある。如何《いか》なる世《よ》にも事大思想《じだいしさう》は、人《ひと》の去就《きよしう》の動力《どうりよく》ぢや。淺井《あさゐ》、朝倉《あさくら》の前途《ぜんと》を見《み》れば、如何《いか》なる呑氣漢《のんきかん》でも、心配《しんぱい》せずには居《を》れぬ。されば彼等《かれら》の被官《ひくわん》、家人共《けにんども》の内《うち》に、暗流《あんりゆう》が生《しやう》じ來《き》たのも、無理《むり》ではない。
先《ま》づ江州山本山《がうしうやまもとやま》の城主《じやうしゆ》阿閉淡路守《あべあはぢのかみ》が、心變《こゝろがは》りの先登者《せんとうしや》ぢや。信長《のぶなが》が此報《このはう》に接《せつ》したのは、八|月《ぐわつ》八|日《か》であつた。彼《かれ》は直《たゞ》ちに夜中《やちゆう》出馬《しゆつば》して、淺井方《あさゐがた》の月瀬城《つきがせじやう》を取《と》つた。彼《かれ》が岐阜滯在《ぎふたいざい》は、中間《ちゆうかん》只《た》だ三|日《か》であつた。同《どう》十|日《か》には、大嶽《おほづ?く》の北《きた》、山田村《やまだむら》に陣《ぢん》し、江北《かうほく》と、越前《ゑつ?ぜん》との通路《つうろ》を遮斷《しやだん》した。此《こゝ》に於《おい》て淺井《あさゐ》と、朝倉《あさくら》とは、互《たが》ひに相《あひ》救《すく》ふこと克《あた》はぬ破目《はめ》に陷《おちい》つた。
信長《のぶなが》は此《かく》の如《ごと》く淺井《あさゐ》、朝倉《あさくら》兩軍《りやうぐん》の聯絡《れんらく》を斷《た》ち、先《ま》づ朝倉《あさくら》に向《むか》つて打撃《だげき》を加《くは》へた。元來《ぐわんらい》朝倉家《あさくらけ》には、敏景入道英林以來《としかげにふだうえいりんいらい》、五|代《だい》の全盛《ぜんせい》を極《きは》め、義景《よしかげ》に至《いた》りて、其《そ》の一|家《か》は、既《すで》に精神的《せいしんてき》に死《し》し、纔《わづ》かに形骸的《けいがいてき》に存《そん》するのみであつた。義景《よしかげ》は信長《のぶなが》と對抗以來《たいかういらい》、其《そ》の必然《ひつぜん》の運命《うんめい》に對《たい》して、何等《なんら》の準備《じゆんび》をなさず、唯《た》だ眼前《がんぜん》の苟安《こうあん》を貪《むさぼ》つて居《ゐ》た。彼《かれ》が無意氣地屋《むいきぢや》たるは勿論《もちろん》であるが、彼《かれ》の家中《かちゆう》も、概《がい》して腐敗《ふはい》して、主從《しゆじゆう》何《いづ》れも大火《たいくわ》の風下《かざしも》に、高枕安眠《かうちんあんみん》して居《ゐ》た。而《しか》して今《いま》や彼等《かれら》が、目《め》を醒《さま》す可《べ》き時《とき》が來《き》たのである。
朝倉義景《あさくらよしかげ》は、淺井方《あさゐがた》の要請《えうせい》もだし難《がた》く、二|萬《まん》の兵《へい》を率《ひき》ゐ、江北《かうほく》の余吾《よご》、木本邊迄《きのもとへんまで》出陣《しゆつぢん》した。彼《かれ》はその家中《かちゆう》、一|族《ぞく》の者共《ものども》に出陣《しゆつぢん》を命《めい》じたけれども、一|人《にん》も應《おう》ずる者《もの》がなかつた爲《た》め、餘儀《よぎ》なく自《みづ》から出陣《しゆつぢん》したのだ。信長《のぶなが》は實《じつ》に之《これ》を以《もつ》て奇貨《きくわ》居《お》く可《べ》しとした。彼《かれ》は獵犬《れふけん》が兎《うさぎ》を狙《ねら》ふ如《ごと》く、決《けつ》して此《こ》の獲物《えもの》を取《と》り逃《にが》さぬ覺悟《かくご》をした。當時《たうじ》大嶽《おほづ?く》の下《もと》に燒尾城《やけをじやう》を築《きづ》き、淺井對馬《あさゐつしま》之《これ》を守《まも》つたが、彼《かれ》も變心《へんしん》して、八|月《ぐわつ》十二|日《にち》に、其城《そのしろ》に信長《のぶなが》の兵《へい》を引《ひ》き入《い》れた。同夜《どうや》は風雨《ふうう》に拘《かゝは》らず、信長《のぶなが》は其《そ》の子《こ》信忠《のぶたゞ》に、虎御前山《とらごぜやま》を留守《るす》せしめ、自《みづ》から疾風猛雨《しつぷうまうう》を冒《をか》し、其《そ》の馬廻《うままはり》若干《じやくかん》を率《ひき》ゐて馳《は》せ附《つ》け、既《すで》に大嶽《おほづ?く》に先懸《さきがけ》にて、攻《せ》め上《のぼ》らんとしたが、朝倉勢《あさくらぜい》は其《その》勢《いきほひ》に僻易《へきえき》して降參《かうさん》した。信長《のぶなが》は此《こ》の降兵《かうへい》を、敵方《てきがた》へ放歸《はうき》せしめ、更《さ》らに丁野城《やうのじやう》に向《むか》うた 丁野城《やうのじやう》を守《まも》れる平泉寺《へいせんじ》の衆徒《しゆうと》も、亦《ま》た開城《かいじやう》した。
信長《のぶなが》は今度此節《こんどこのせつ》、屹度《きつと》朝倉義景《あさくらよしかげ》を討取《うちと》る可《べ》しと決心《けつしん》し、彼《かれ》を取《と》り逃《にが》さぬ樣《やう》、其《そ》の先鋒《せんぽう》に訓令《くんれい》した。
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信長御諚《のぶながごぢやう》には、必定今夜朝倉左京大夫可[#二]退散[#一]候《ひつぢやうこんやあさくらさきやうだいふたいさんすべくさふらふ》。先手《さきて》に差向候衆《さしむかひさふらふしゆう》、佐久間右衞門《さくまうゑもん》、柴田修理《しばたしゆり》、瀧川左近《たきがはさこん》、蜂屋兵庫頭《はちやひやうごのかみ》、羽柴筑前《はしばちくぜん》、丹羽《には》五|郎左衞門《ろざゑもん》、氏家左京助《うぢいへさきやうのすけ》、伊賀伊賀守《いがいがのかみ》、稻葉伊豫《いなばいよ》、稻葉左京助《いなばさきやうのすけ》、稻葉彦《いなばひこ》六、蒲生右兵衞大輔《がまふうひやうゑだいう》、蒲生忠《がまふちゆう》三|郎《らう》、永原筑前《ながはらちくぜん》、進藤山城守《しんどうやましろのかみ》、永田刑部少輔《ながたぎやうぶせういう》、多賀新左衞門《たがしんざゑもん》、弓徳左近《きうとくさこん》、阿閉淡路《あべあはぢ》、同孫《どうまご》五|郎《らう》、山岡美作守《やまをかみまさかのかみ》、同孫太郎《どうまごたらう》、山岡玉林《やまをかぎよくりん》、此外歴々《このほかれき/\》の諸卒《しよそつ》、爰《こゝ》をのがし候《さふら》はぬ樣《やう》に、可[#二]覺悟仕[#一]之旨《かくごつかまつるべくのむね》、再往再《さいわうさい》三|被[#二]仰遣[#一]《おほせつかはされ》。其上御《そのうへおん》いらて?なされ、十三|日夜中《にちやちゆう》に越前衆陣所《ゑちぜんしゆうぢんしよ》へ、信長又被[#レ]成[#二]御先懸[#一]《のぶながまたおんさきがけなされ》、被[#二]懸付[#一]候《かけつけられさふらふ》。
然而度々被[#二]仰遣[#一]候《しかしてたび/\おほせつかはされさふらふ》、御先陣《ごせんぢん》にさし向候衆油斷候《むかひさふらふしゆうゆだんさふらう》て、信長《のぶなが》の御先懸被[#レ]成候《おんさきがけなされさふらふ》を承《うけたまは》り候而《さふらうて》、御跡《おんあと》へ參《まゐ》られ候《さふらふ》。地藏山《ぢざうやま》を越候《こえさふらう》て、御目《おめ》にかゝり候《さふら》へば、數度被[#二]仰含[#一]候《すどおほせふくめられさふらふ》に見合候段《みあはせさふらふだん》、各々手前《おの/\てまへ》の比興曲事《ひきようくせごと》の由御諚候處《よしごぢやうさふらふところ》に、信長《のぶなが》へこされ申《まをし》、面目《めんもく》も無[#二]御座[#一]《ござなき》の旨《むね》、瀧川《たきがは》、柴田《しばた》、丹羽《には》、蜂屋《はちや》、羽柴《はしば》、稻葉初《いなばはじめ》として、謹而被[#二]申上[#一]候《つゝしんでまをしあげられさふらふ》。
佐久間右衞門涙《さくまうゑもんなみだ》を流《なが》し、さ樣《やう》に被[#レ]仰候共《おほせられさふらふとも》、我々程《われ/\ほど》の内《うち》の者《もの》はもたれ間敷《まじく》と、自讃《じさん》を被[#レ]申候《まをされさふらふ》。信長御腹立不[#レ]斜《のぶながおはらだちなゝめならず》、其方《そのはう》は男《をとこ》の器用《きよう》を自慢《じまん》にて候歟《さふらふか》。何《なに》を何?《もつ》ての事《こと》、片腹痛申樣哉《かたはらいたきまをしやうかな》と被[#レ]仰《おほせられ》、御機嫌惡《ごきげんわる》く、如[#二]御分別[#一]《ごふんべつのごとく》、朝倉左京大夫義景廢《あさくらさきやうだいふよしかげはい》(敗《はい》?)軍候《ぐんさふらふ》のを、討捕頸共我《うちとりくびともわれ》も/\と持參候《ぢさんさふらふ》。〔信長公記〕。
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是《こ》れ諸將《しよしやう》の遲《おそ》きにあらず、信長《のぶなが》の速《はや》き也《なり》。如何《いか》なる機敏《きびん》の者《もの》も、とても信長《のぶなが》とは先駈《さきがけ》を爭《あらそ》ふ譯《わけ》には參《まゐ》らぬ。彼《かれ》が自《みづ》から鞭《むち》を揚《あ》げて、快犬《くわいけん》の疲兎《ひと》を追《お》ふ如《ごと》く、朝倉勢《あさくらぜい》を追撃《つゐげき》したる光景《くわうけい》は、如何《いか》に勇《いさ》ましきものであつたらう。
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[#6字下げ]北國勢退散|刀?《とね》坂合戰の事
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扨又前田又左衞門、佐々内藏助、戸田半右衞門、下方左近、岡田助右衞門、其子助三郎、赤坐七郎右衞門、高木左吉、福富平左衞門、湯淺甚助等は御觸を守り宵より支度し拵居ければ、けつく御先へ參りけるを、先に行は何者ぞと御尋あり、其時一々名乘て申上げれば、信長公御諚には、扨は今夜の先陣は某ならでは有まじと思ひければ、汝等にこされたる也と、御たはぶれ御機嫌宜敷御馬をはやめ玉ふ、御先へ參る人々は、朝倉方の逃行者とも、道々ひた切に打取て手に手に首を持參せしむ、彌※[#二の字点、1-2-22]御機嫌斜ならず、敵は中の河内口と刀根口と二方にわかれ、引退きける程に、何方へ付て追行き可[#レ]然候半やと、各伺ひ申ければ、何れも?議區々なるに、信長公御諚には敵は定めて引田敦賀の味方の城々、足がゝりを心がけ、大かた退く者なるべし、急ぎ引田口へ人數をつけ、刀禰山筋を追つけ見よとの下知し玉ふ、案のごとく朝倉は中河内椿井筋へは雜兵をのけ、義景其外隨一の者どもは敦賀表を心ざし、引田口を引て行く、初め柳瀬にて義景しばらく休み居て、兎角の?議をしたりけるに、家老山崎長門守吉家すゝみ出て申しけるは、今度當國へふか/\と御出馬の義、ひとへに當家運命のつきぬる所なり、其節某敦賀表に罷在候はゞ、涯分諫とめ候はんに、某並に詑美安藝守等さへ西地に罷向ひ居り、其儀更に存せずして、加樣に成行候事口惜き次第也、とても死なん命ならば、先祖相傳の我國にて敵を引受、尋常に一軍し腹切て失ん事、武將の期する所なり、今此路次の退口に、やみ/\と討死して、朝倉の者ともこそ、江北までは出たれども、然としたる軍もせで、追討に討れたるなんど天下の謗を招かん事、生前死後の耻辱なるべし、然れども運命限ある上は、千悔すとも益?有べからず、敵ははや疋田口を取切て、多勢跡より追來らん、某は切所にて一返し取て返し、晴なる軍し討死して君恩のために一命を敵國の地に投捨つべし、それにて時刻の延る内に君は早々越前へ御引入候て、先祖相傳の故國の地にて、心安く御腹めされ然るべし、是こそ君臣の御暇乞にて候と、申捨てぞ出たりける、詫美越後守も、吉家と一所に討死せんとて、是も同く取て返す、此者は僧落《そうおち》にて詩作の達者なりければ、矢立の硯を取出し、絶句一首即時に書置き、落てゆく味方につけて、故郷へとてぞ返しける。
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[#3字下げ]萬恨千悲有[#二]驀然[#一]。誰圖今夜溺[#二]黄泉[#一]。故郷更莫[#レ]成[#二]愁涙[#一]。 屍曝[#二]戰場[#一]只是天。
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されども義景は、いまだ引かねためらひ居けるを、一族朝倉掃部助頻に諫めて、馬を引よせ義景をいだきのせ、跡をも見せず引立て、越前さして落し遣はし、其身は又取て返し、越後守等と一手になる、其外の惣軍貴賤上下騒立て、いざ退けと云程こそあれ、右往左往にあわてふためき、草木の陰も恐ろしく、前後もしらず引立たり、折節此間雨のふりたる跡なれば、土滑に路塗れ、坂には足もたまり得ず、谷は深泥にて冑の毛さへ見えがたく、足跛氣勞て友具足につらぬかれ、討死同士討手死人馬具物を捨たる事、五六里が間に充滿たり、信長公は御身をもだへ、黒烟を立て追著玉ひ、敵をひた切にきりすて/\隙もなく、刀?坂にて馳著玉ひ、大音あげて切てかゝらる、前田又左衞門、佐々内藏助、下方左近、戸田半右衞門、津田金左衞門等、まつ先に進で働處に、山崎長門守案のごとく取て返し、四角八面に當て、飛龍廻天の威を振ひ、虎憤山をくづすが如く、散々に切てまはり、半時ばかり防ぎ戰ひ、さらば此時刻に義景もはや遙々と落延玉はん心安し、今は期したる討死なりとて、まつさきかけて討死す、吉家が討死を見て同子山崎小次郎吉次、?に同苗七郎左衞門吉延、同新左衞門、同珠寶坊、同御長、和田三郎左衞門、同清左衞門吉繼、鰐淵將監吉廣、神波九郎兵衞吉久、山内彌六左衞門、壁田圖書吉澄、同七郎兵衞吉房、三段崎六郎、清水三郎左衞門、岩崎惣左衞門、増井五郎左衞門、禾田惣兵衞宗俊、田尻十郎左衞門秀勝、西島彦五郎吉尚、鳥井與七生年十九歳、是等を始めて一人も不[#レ]退、此一備の面々等一同に討死けり、其内に時刻うつりて、夜のほの/\と明る時分、大將義景漸※[#二の字点、1-2-22]に木目峠へ引退けり。〔總見記〕
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[#5字下げ]【六】朝倉家の沒落
朝倉家《あさくらけ》の沒落《ぼつらく》は、實《じつ》にみじめなものであつた。此《こ》の間際《まぎは》になりて、主家《しゆか》の爲《た》めに、身《み》を致《いた》す重臣《ぢゆうしん》がなきにしもあらずだが、何等《なんら》思案《しあん》も、分別《ふんべつ》も出《で》なかつた。但《た》だ印牧《かねまき》彌《や》六|左衞門《ざゑもん》と申《まを》す、面白《おもしろ》き勇士《ゆうし》があつた。彼《かれ》は不幸《ふかう》にして捕虜《ほりよ》となつた、信長《のぶなが》は彼《かれ》を引《ひ》き出《いだ》し、何故《なにゆゑ》に生捕《いけど》られたかと問《と》うた。印牧《かねまき》は數合《すがふ》の戰《たゝかひ》に、息切《いきき》れ身《み》疲《つか》れ、餘儀《よぎ》なく此《こ》の始末《しまつ》となつたと答《こた》へた。信長《のぶなが》は勇者程《ゆうしやほど》あるぞ、正直《しやうぢき》なる申分《まをしぶん》かな、予《よ》に仕《つか》へん乎《か》と云《い》うた。
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御尋《おんたづね》に依《よつ》て、前後《ぜんご》の始末申上之處《しまつまをしあげたるのところ》、神妙《しんめう》の働無[#二]是非[#一]《はたらきぜひなき》の間《あひだ》、致[#二]忠節[#一]候《ちゆうせつをいたしさふらは》ば、一|命可[#レ]被[#レ]成[#二]御助[#一]《めいおんたすけなさるべく》と御諚候《ごぢやうにさふらふ》。爰《こゝ》にて印牧申樣《かねまきまをすやう》は、朝倉《あさくら》に對《たい》し、日比遺恨雖[#二]深重の事候[#一]《ひごろゐこんしんちようのことにさふらふといへども》、今此刻歴々討死候處《いまこのときれき/\うちじにさふらふところ》に、述懷《じゆつくわい》を申上生殘《まをしあげいきのこり》、御忠節不[#レ]叶時者《ごちゆうせつかなはざるときは》、當座《たうざ》を申《まをし》たると思召《おぼしめし》、御扶持《ごふち》も無[#レ]之候《これなくさふら》へば、實儀《じつぎ》も外聞《ぐわいぶん》も見苦候《みぐるしくさふら》はんの間《あひだ》、腹《はら》を可[#レ]仕《つかまつるべく》と申乞[#二]生害[#一]《まをししやうがいをこふ》、前代未聞《ぜんだいみもん》の働《はたらき》、名譽不[#レ]及[#二]是非[#一]《めいよぜひにおよばず》。〔信長公記〕
[#ここで字下げ終わり]
彼《かれ》は尋常《じんじやう》一|樣《やう》の上下《かみしも》著《き》たる、忠義振《ちうぎぶり》の文句《もんく》を並《なら》べず、我《わ》が腹《はら》の底《そこ》を、率直《そつちよく》に吐《は》き出《いだ》した。好男兒《かうだんじ》と云《い》ふ能《あた》はずんば、快男兒《くわいだんじ》に相違《さうゐ》ない。
朝倉勢《あさくらぜい》は、江北《かうほく》より越前《ゑちぜん》指《さ》して潰走《くわいそう》した。信長《のぶなが》は息《いき》をもつかず、追撃《つゐげき》した。退路《たいろ》には中《なか》の河内口《かはちぐち》と、刀根口《とねぐち》との二|線《せん》があり、人々《ひと/″\》何《いづ》れに向《むか》はんと詮議《せんぎ》したが。炯?眼《けいがん》なる信長《のぶなが》は、敵《てき》が敦賀方面《つるがはうめん》に逃《のが》る可《べ》きを察《さつ》して、刀根口《とねぐち》より追撃《つゐげき》せしめた。案《あん》の如《ごと》く刀根山《とねやま》の峠《たうげ》にて敵《てき》に追付《おひつ》き、大嶽《おほづ?く》より敦賀迄《つるがまで》、約《やく》十一|里《り》の間《あひだ》、追討《つゐたう》に三千|餘級《よきふ》の首《くび》を討取《うちと》つた。此中《このうち》には朝倉家中《あさくらかちゆう》の名《な》ある者《もの》も、少《すくな》くなかつた。
信長《のぶなが》の追撃戰《つゐげきせん》は、實《じつ》に雄快《ゆうくわい》であつた。彼《かれ》が如何《いか》に士氣《しき》を鼓舞《こぶ》したかは、左《さ》の插※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話《さふわ》にて判知《わか》る。
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去程《さるほど》に信長《のぶなが》年來《ねんらい》、御足《おんあし》なかを、御腰《おんこし》に付《つけ》させられ候《さふらふ》。今度《こんど》刀根山《とねやま》に而《て》、金松《かねまつ》又《また》四|郎《らう》武者《むしや》一|騎《き》山中《さんちゆう》を追懸《おひかけ》、終《つひ》に討止《うちとめ》、頸《くび》を持參候《もちまゐりさふらふ》。其時《そのとき》生足《すあし》に罷成《まかりなり》、足《あし》は紅《くれなゐ》に染《そみ》て參《まゐ》り候《さふらふ》。御覽《ごらん》じ、日比《ひごろ》御腰《おんこし》に付《つけ》させられ候《さふらふ》御足《おんあし》なか、此時《このとき》御用《ごよう》に立《たて》られ候由御諚候《さふらふよしごぢやうさふらう》て、金松《かねまつ》に被[#レ]下《くだされ》、且冥加《かつみやうが》の至《いた》り、面目《めんもく》の次第也《しだいなり》。〔信長公記〕
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斯《かゝ》る場合《ばあひ》に於《お》ける、一|隻《せき》の草履《ざうり》は、千|金《きん》の賜《たまもの》にも代《か》へ難《がた》し。嚢《さ》きには歴々《れき/\》の諸大將《しよたいしやう》が、信長《のぶなが》に先《せん》を越《こ》されたりとて、叱責《しつせき》せられ。今《いま》や旗下《はたもの》の一|士《し》が、拔群《ばつぐん》の働《はたらき》ありとて、此《こ》の寵賜《ちようし》あり。信長《のぶなが》の人《ひと》を使《つか》ふや、單《たん》に身《み》を以《もつ》て、自《みづ》から率《ひき》ゐるのみでなく、能《よ》く其《そ》の操縱《さうじゆう》の肯綮《こうけい》に中《あた》つて居《ゐ》た。
彼《かれ》は十四|日《か》より十六|日迄《にちまで》、敦賀《つるが》に滯陣《たいぢん》し、天正《てんしやう》元年《ぐわんねん》八|月《ぐわつ》十八|日《にち》には、愈《いよい》よ陣《ぢん》を府中《ふちゆう》龍門寺《りゆうもんじ》に進《すゝ》めた。朝倉義景《あさくらよしかげ》は、一|乘谷《じようがだに》の居城《きよじやう》に一|支《さゝへ》障《さゝ》ふることさへ敢《あへ》てせず、倉皇《さうくわう》として、大野郡《おほのごほり》の山田《やまだ》庄《しやう》六|坊《ばう》に遁《のが》れ失《う》せた。
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毎日《まいにち》百|人《にい?》、貮《に》百|人宛《にんづゝ》一|揆共《きども》、龍門寺御大將陣《りゆうもんじおんたいしやうぢん》へ括縛召列參《くゝりしばりめしつらねまゐ》り候《さふらふ》を、御小姓衆《おこしやうしゆう》に被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、無[#二]際限[#一]討《さいげんなくうた》させられ不[#レ]被[#レ]當[#レ]目樣體也《めもあてられざるやうだいなり》。爰《こゝ》に野仁《やじん》の者共《ものども》、けだかきかど有人《あるひと》と見《み》えたる女房《にようばう》の下女《げぢよ》をもつれ候《さふら》はで、唯《たゞ》一|人有[#レ]之《にんこれある》をさがし出《いだ》し、五三|日《にち》いたらぬ奴原止置候處《やつばらとめおきさふらふところ》に、或時硯《あるときすゞり》をかりて、はな紙《がみ》の端《はし》に書置《かきおき》をし、たばかり出《いで》て、井戸《ゐど》へ身《み》をなげ果《はて》られ候《さふらふ》。後《のち》に人《ひと》/\是《これ》を見《み》れば此歌也《このうたなり》。
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[#3字下げ]ありをればよしなき雲《くも》も立《たち》かゝるいさや入《いり》なむ山《やま》のはの月《つき》
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と一|首《しゆ》を書置《かきおき》、此世《このよ》の名殘是迄也《なごりこれまでなり》。見《み》る人哀《ひとあはれ》に思《おも》ひて、涙《なみだ》を流《なが》さずと云者《いふもの》なし。〔信長公記〕
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慘劇《さんげき》には、必《かな》らず婦人《ふじん》あり、婦人《ふじん》なくんば、慘劇《さんげき》たる能《あた》はず。朝倉家《あさくらけ》の沒落《ぼつらく》も、平家《へいけ》の沒落《ぼつらく》も、唯《た》だ大小《だいせう》の差《さ》あるのみ。
却説《さて》平泉寺《へいせんじ》僧徒《そうと》も、今《いま》は自個存在《じこそんざい》の必要上《ひつえうじやう》、裏切《うらぎ》りして朝倉義景《あさくらよしかげ》を包圍《はうゐ》した。其《そ》の一|族《ぞく》朝倉景鏡《あさくらかげたゞ》は、八|月《ぐわつ》廿|日《か》義景《よしかげ》に逼《せま》りて自殺《じさつ》せしめ、其頸《そのくび》を龍門寺《りゆうもんじ》に送《おく》つた。義景《よしかげ》行年《ぎやうねん》四十一|歳《さい》。義景《よしかげ》の母《はゝ》、及《およ》び嫡男《ちやくなん》も、搜出《さがしだし》の上《うへ》、生害《しやうがい》せしめた。歸順《きじゆん》の國侍等《くにざむらひら》、信長《のぶなが》の門前《もんぜん》に市《いち》を爲《な》した。信長《のぶなが》は越前《ゑちぜん》一|國《こく》を平定《へいてい》し、前波播磨守吉繼《まへなみはりまのかみよしつぐ》を守護代《しゆごだい》として、之《これ》を治《をさ》めしめた。前波《まへなみ》は義景《よしかげ》に反《そむ》いて、信長《のぶなが》に降《くだ》り、今度《こんど》の朝倉退治《あさくらたいぢ》の殊勳者《しゆこんしや》であつた。斯《か》くて信長《のぶなが》は八|月《ぐわつ》廿六|日《にち》、江北《かうほく》虎御前山《とらごぜやま》に歸陣《きぢん》して、淺井《あさゐ》打撃《だげき》に取《と》り掛《かゝ》つた。
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朝倉義景最後の事
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扨も朝倉義景は、江北の軍に利を失ひ、八月十四日越州敦賀に落着き、それより翌十五日の暮、居城一乘谷に歸り入る、士卒農商皆落散り、中々一戰にも及びがたし、于[#レ]時一族式部大輔景鏡寵臣鳥井兵庫頭、高橋甚三郎等色々にいさめ一先づ山林へ落かくれ、重て人數を催して一戰に家運を開かるべしとて、取物も取あへず、同十六日一乘谷をあけ、いづくともなく落て行く、母儀の廣徳院並室家同愛王丸と云男子今年四歳に成けるを、皆々同道せしめけり、女子二人有けるを、一人は大阪の本願寺へ兼て約束申ければ、福岡石見守と云者に此旨を申し付け、先立て落し遺す、今一人は此丘尼となる、扨右の女子を河合庄八杉喜兵衞と云者養育して、亂後程へて大阪へ忍びのぼり、本願寺の室家に備り玉?ひ、子孫繁昌とぞ聞へし、扨義景は豐原へ落て、加賀の國へ退かんと云しを、景鏡、色々に諫めて、己が在所亥山の城の近邊、大野郡は切所の地也、是へ御のき候へと云ふ、義景是より以後、諸事景鏡に任すべしとて、式部の大夫を先に立て、大野をさして逃行けり、築山清左衞門と云ふ七旬に餘る譜代の士あり、此者一人一乘谷に留り、朝倉先祖英林より五代、當地に居城をしめ、今更此所にて腹切る者もなき事こそ、朝倉が家の瑕瑾なれとて、館の内にて妻子を皆々指殺し、屋形に火をかけ其身尋常に腹切て失にけり、又朝倉が家に代々重器の蚫貝朝日夕日の鏡なんどゝ云物あり、是もはや家の亡びん凶兆にや、何方ともなく失にければ、義景是を隨身せず、大將加樣にさまよひ玉へば、下々の者どもは取物も取あへず、子をさかさまに負ごとく、あわてふためき、いまだ寄手の旗先も見えぬ内に、八方へ落ちり身をかくさんとす、同夜子の刻ばかりに義景父子は大野郡亥山の近所東雲寺に落つきたり、是より使札を以て平泉寺の衆徒を頼けれども、衆徒等一圓たのまれず、けつく義景を討て出し、信長へ降參申さずんば、平泉寺も又山門のごとく燒亡さるべきかとて、急謀叛の色をたて、義景を討とめんと、方々路を遮て斯彼《こゝかしこ》を燒たつる、柴田方へも使僧を遣し、平泉寺をさへ被[#二]立置[#一]ば、衆徒等味方に參て、隨分義景をさがし出し、忠節申上んと申す、又朝倉の家老魚住備後守景固は重代の者なれば、中河内西近江より攻入る敵を防ぐべしとて、府中表に指置けるに、此者俄に心替りし、嫡子彦三郎を敦賀へ遺し、信長公へ降參の御禮申し、案内して府中に待うけ、義景一乘谷退散の次第を申上る、朝倉三郎景胤、同孫三郎景健も、江北表をば隨分切ぬけ歸りけれども、大將はなし力盡て是も同く降參す、義景は彼を見これをきくごとに、肝を消し力を落して、危きながら東雲寺に隱れ居たる處を、稻葉伊豫入道一徹?より使者を遣し、ひそかに式部大夫景鏡に申す樣は、義景を其邊に隱し置玉ふと聞たり、早々搦出さるべし、然らば貴方助命の上に、本領安堵を給るべし、左もなくば景鏡ともにはや明日は攻殺さん由、懇に申送るにより、今まで義景が杖柱とも頼居たる式部大夫も忽に心かはりし、はや骨肉の親を忘れ、主從の恩を空う?せんとす、平野中道寺と云ふ者、色々に諫めけれども、景鏡終に是を用ひず、十九日の夜僞て東雲寺へ使を立、其許は我等が近所、亥山の城へ程遠して、諸事の軍談調がたし、今夜の内山田庄六坊へ御のき候へと申遣す故に、義景其夜酉刻に山田庄に移りけり、此時迄相したがふ供の者僅十人ばかり有けり、景鏡は平泉寺の衆徒と諜し合せ、手勢彼是二百ばかり、翌廿日の拂曉に山田庄六坊へ押寄せ閧を作り鐵砲を打かけ、平岡次右衞門と云者を使にして、御運盡きさせ玉ふと見え、敵はや御在所を知て、多勢此庄へ亂入候、とても叶はぬ御身なれば、尋常に腹めされ候へと云入ければ、義景是を聞て、にくき奴原が擧動かな、我死するならば惡靈と成て忽に取殺さんと詈り怒て郎黨どもには今しばらく自害の間防ぎ矢射よと云ひ捨て、其身は一間所へ入て、疊紙を取出し、辭世の詩を書て、尋常に腹切り、家に火をかけ生年四十一歳にて、終にそこにて死たりけり、其頌詩
七?八倒。四十年中。無[#レ]自無[#レ]他。四大本空。
高橋甚三郎防ぎ矢射けるが、走歸て義景を介錯し、其刀にて自害せしむ、鳥井兵庫頭は、景鏡を討取らんと、ひたぎりに切まはれども、つひにめぐりあはざりければ、走り返て是も自害す、相殘る者どもゝ、皆々腹切り討死したり。〔總見記〕
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[#5字下げ]【七】淺井家の沒落
朝倉家《あさくらけ》は既《すで》に沒落《ぼつらく》した、此上《このうへ》は淺井父子《あさゐふし》の運命《うんめい》である。信長《のぶなが》が虎御前山《とらごぜやま》に歸陣《きぢん》した翌夜《よくや》(天正元年八月二十七日の夜)羽柴秀吉《はしばひでよし》は、京極太《きやうごくつぶら》に上《のぼ》り、淺井久政《あさゐひさまさ》、長政父子《ながまさふし》の聯絡《れんらく》を經《た》ち、廿八|日《にち》遂《つひ》に久政《ひさまさ》の居城《きよじやう》を乘《の》り取《と》つた。『下野守久政《しもつけのかみひさまさ》は、今日《けふ》腹《はら》を切《き》るべしとて日比《ひごろ》情《なさけ》をかけたる舞手《まひて》の鶴松太夫《つるまつだいふ》と云者《いふもの》を呼《よ》び、彼《かれ》をして其《そ》の家人《けにん》に防矢《ばうし》の命《めい》を傳《つた》へしめ、今《いま》は心易《こゝろやす》しとて、淺井福壽菴《あさゐふくじゆあん》と死別《しべつ》の杯《さかづき》を献酬《けんしう》し、更《さ》らに之《これ》を鶴松太夫《つるまつだいふ》に與《あた》へた。福壽菴《ふくじゆあん》は、某《それがし》法體《はふたい》なれば、御案内《ごあんない》致《いた》す可《べ》しとて、先《ま》づ腹《はら》十|文字《もんじ》に切《き》つた。鶴松《つるまつ》は之《これ》を介錯《かいしやく》した。久政《ひさまつ?》もやがて追《お》ひ附《つ》く可《べ》しとて、切腹《せつぷく》した。鶴松《つるまつ》又《ま》た介錯《かいしやく》した。行年《ぎやうねん》六十一|歳《さい》。而《しか》して鶴松《つるまつ》は、某《それがし》が生害《しやうがい》に同《おな》じき御座敷《おざしき》を汚《けが》さんこと、憚《はゞかり》ありとて、態《わざ》と縁《えん》に下《お》り屈《かゞ》まり居《ゐ》て、其《その》刀《かたな》を咽《のど》に押當《おしあ》て、うつ伏《ぶせ》になつて死《し》んだ。』〔總見記〕されば太田《おほた》牛《うし》一も、『鶴松太夫《つるまつだいふ》も追腹《おひはら》は、名譽無[#二]是非[#一]次第也《めいよぜひなきしだいなり》。』と特筆《とくひつ》して居《を》る。
長政《ながまさ》は父《ちゝ》の生害《しやうがい》を聞《き》き、今《いま》は是迄《これまで》なりと、九|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、城《しろ》に火《ひ》を掛《か》け、切腹《せつぷく》した。行年《ぎやうねん》廿九|歳《さい》。而《しか》して其《その》妻《つま》は、信長《のぶなが》の妹《いもうと》なれば、三|人《にん》の娘《むすめ》と與《とも》に無事《ぶじ》出城《しゆつじやう》した。長女《ちやうぢよ》が即《すなは》ち淀君《よどぎみ》で、秀頼《ひでより》の母《はゝ》、次女《じぢよ》が京極高次《きやうごくたかつぐ》の室《しつ》で、常高院殿《じやうかうゐんでん》、三|女《ぢよ》が秀忠《ひでたゞ》の御臺所《みだいどころ》、崇源院殿《すげんゐんでん》で、家光《いへみつ》や、駿河大納言忠長《するがだいなごんたゞなが》や、東福門院《とうふくもんゐん》の母《はゝ》である。信長《のぶなが》は淺井《あさゐ》の舊領《きうりやう》を、羽柴秀吉《はしばひでよし》に與《あた》へた。此《こ》れは云《い》ふ迄《まで》もなく、秀吉《ひでよし》が多年《たねん》、江州《がうしゆう》に於《お》ける戰功《せんこう》の報酬《はうしゆう》であつた。
此《かく》の如《ごと》く信長《のぶなが》が、金《かな》ヶ|先《さき》退陣《たいぢん》(元龜元年四月)以來《いらい》、滿《まん》三|年《ねん》四|個月《かげつ》の後《のち》に於《おい》て、漸《やうや》く朝倉《あさくら》、淺井《あさゐ》の二|敵《てき》を全滅《ぜんめつ》するを得《え》た。彼等《かれら》は信長《のぶなが》の本據《ほんきよ》たる岐阜《ぎふ》と、京都《きやうと》との間《あひだ》に横《よこた》はる難物《なんぶつ》であつて、信長《のぶなが》も少《すくな》からざる當惑《たうわく》をした。
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正月朔日《しやうぐわつついたち》、京都隣國面々等《きやうとりんごくめん/\ら》、在岐阜《ざいぎふ》にて御出仕在《ごしゆつしあり》、各《おの/\》三|献《こん》にて召出《めしいだ》しの御酒有《ごしゆあり》、他國衆退出《たこくしゆうたいしゆつ》の已後《いご》、御馬廻許《おんうままはりばかり》にて、古今不[#レ]及[#レ]承珍奇《ここんうけたまはりおよばざるちんき》の御肴出候《おんさかないでさふらひ》て、又御酒有《またごしゆあり》、去年北國《きよねんほくこく》にて討《うち》とらせられ候《さふらふ》、一|朝倉左京大夫義景首《あさくらさきやうだいふよしかげのくび》、一|淺井下野首《あさゐしもつけのくび》、一|淺井備前首《あさゐびぜんのくび》、已上《いじやう》三つ薄濃《はくたみ》にして、公卿《くぎやう》に居置《すゑおき》、御肴《おんさかな》に出《いだ》され候《さふらひ》て、御酒宴《ごしゆえん》、各御謠御遊興《おの/\おんうたひごいうきよう》は千々萬々目出度《せん/\ばん/\めでたく》、御存分《ごぞんぶん》に任《まか》せられ御悦也《ぎよえつなり》。〔信長公記〕
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信長《のぶなが》は天正《てんしやう》二|年《ねん》正月元日《しやうぐわつぐわんじつ》、新年《しんねん》宴會《えんくわい》の二|次會《じくわい》に、朝倉《あさくら》、及《およ》び淺井父子《あさゐふし》三|人《にん》の首《くび》を肴《さかな》に、其《そ》の親近《しんきん》の者共《ものども》と、酒《さけ》を飮《の》んで樂《たのし》んだ。此事《このこと》や、頗《すこぶ》る惡趣味《あくしゆみ》ではあるが、如何《いか》に朝倉《あさくら》、淺井《あさゐ》が、最近《さいきん》數年間《すうねんかん》、彼《かれ》の心志《しんし》を惱《なやま》したる乎《か》を察《さつ》す可《べ》き、好證案《かうしようあん》ぢや。
彼《かれ》は兎《と》も角《かく》も、此《こ》れで一と安心《あんしん》した。然《しか》も淺井《あさゐ》、朝倉《あさくら》を滅《ほろぼ》した結果《けつくわ》は、やがて謙信《けんしん》と、國境《こくきやう》を接《せつ》す可《べ》き運命《うんめい》となつた。接觸《せつしよく》は衝突《しようとつ》の前提《ぜんてい》ぢや。拓地擴境《たくちくわくきやう》は、快《くわい》は則《すなは》ち快《くわい》、されど何時《いつ》かは強隣《きやうりん》に、出會《しゆつくわい》せねばならぬ。世界《せかい》は廣《ひろ》いが、無礙自在《むげじざい》の領域《りやうゐき》は、古今《ここん》に其《その》例《れい》がない。一|敵《てき》を滅《ほろぼ》せば、一|敵《てき》生《しやう》じ、一|國《こく》を平《たひら》ぐれば、一|國《こく》來《きた》る。信長《のぶなが》の前途《ぜんと》も、愈《いよい》よ多事《たじ》となりつゝある。
却説《さて》も信長《のぶなが》は、九|月《ぐわつ》四|日《か》(天正元年)淺井《あさゐ》退治《たいぢ》を訖《をは》り、佐和山城《さわやまじやう》に入《い》り、鯰江城《なまづえじやう》を攻《せ》めた。佐々木右衞門督《さゝきゑもんのかみ》(六角義弼)は降參《かうさん》して、何處《いづこ》ともなく退散《たいさん》した。彼《かれ》は同《どう》六|日《か》に岐阜《ぎふ》に歸城《きじやう》した。
信長《のぶなが》は九|月《ぐわつ》より十|月《ぐわつ》にかけて、北伊勢《きたいせ》に出馬《しゆつば》した。而《しか》して再《ふたゝ》び長島《ながしま》の一|揆《き》の爲《た》めに、其《そ》の歸路《きろ》を惱《なや》まされた。彼等《かれら》は天嶮地岨《てんけんちそ》を利用《りよう》し、弓鐵砲《ゆみてつぱう》にて、前《まへ》に待伏《まちぶせ》し、後《うしろ》より追打《おひうち》し、淺《あさ》からぬ痛傷《いたで》を信長勢《のぶながぜい》に負《お》はしめた。兎《と》も角《かく》も一|向《かう》門徒《もんと》は、信長《のぶなが》に取《と》りては、何《いづ》れの方面《はうめん》も苦手《にがて》であつた。
信長《のぶなが》は其志《そのこゝろざし》を果《はた》さず、十|月《ぐわつ》廿六|日《にち》に岐阜《ぎふ》に歸《かへ》り、更《さ》らに十一|月《ぐわつ》四|日《か》上洛《じやうらく》し、三好左京太夫義繼《みよしさきやうだいふよしつぐ》を、河内《かはち》の若江城《わかえじやう》に攻《せ》めた。義繼《よしつぐ》は長慶《ちやうけい》が弟《おとうと》、十河一存《そがうかづまさ》の子《こ》で、長慶《ちやうけい》の相續者《さうぞくしや》となつた。彼《かれ》は三好《みよし》一|門《もん》の代表者《だいへうしや》である。彼《かれ》が力《ちから》盡《つ》きて、自殺《じさつ》せんとするや、其《そ》の介錯《かいしやく》を遊佐入道與傳《うさにふだうよでん》に命《めい》じた。與傳《よでん》は介錯《かしやく》せんとして、其《その》後《うしろ》に立《た》つたが、甲《かぶと》深《ふか》く頸《くび》を掩《おほ》うて、刀《たう》を容《い》るゝの隙《すき》がない。彼《かれ》は其旨《そのむね》を義繼《よしつぐ》に告《つ》げたが、義繼《よしつぐ》は、自《みづ》から腹《はら》を十|文字《もんじ》に切《き》り置《お》きながら、兩手《りやうて》をさし伸《の》べ、其《その》甲《かぶと》を指《さ》し上《あ》げ、與傳《よでん》に頸《くび》を斬《き》らしめた。〔總見記〕太田《おほた》牛《うし》一は『無[#二]比類[#一]御働《ひるゐなきおんはたらき》、哀成有樣也《あはれなるありさまなり》。』と評《ひやう》した。
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去《さる》十|月《ぐわつ》下旬之《げじゆんの》珍簡近日到來《ちんかんきんじつたうらい》、令[#二]拜被[#一]候《はいひせしめさふらふ》、誠遼遠示給候《まことにれうゑんをしめしたまひさふらふ》、本懷不[#レ]淺候《ほんくわいあさからずさふらふ》。殊庭籠之鴾鷹《ことにていろうのぼうよう》一|聯《れん》、同巣主大小表[#二]相副[#一]候《どうさうしゆだいせうあひそへられさふらふ》、希有之至《けうのいたり》、歡悦不[#レ]斜候《くわんえつなゝめならずさふらふ》、鷹之儀累年隨[#レ]身異[#二]干他[#一]之處《たかのぎるゐねんみにしたがひたにことなるのところ》、執[#レ]之送給候《これをとりおくりたまひさふらふ》、別而自愛此節候《わけてじあいこのせつにさふらふ》。則構[#二]鳥屋[#一]可[#二]入置[#一]候《すなはちとやをかまへいれおくべくさふらふ》、秘藏無[#レ]他候《ひざうたなくさふらふ》。仍天下之儀《なほてんかのぎ》、如[#二]相聞[#一]候《あひきくがごとくさふらふ》、公儀《こうぎ》(足利義昭)[#「(足利義昭)」は1段階小さな文字]御入洛令[#二]供奉[#一]《ごじゆらくにぐぶせしめ》、城都被[#レ]遂[#二]御安座[#一]《じやうとごあんざをとげられ》、數年靜謐之處《すうねんせいひつのところ》、甲州武田《かふしゆうのたけだ》、越前朝倉已下《ゑちぜんのあさくらいか》、諸侯之佞人《しよこうのねいじん》一|兩輩相語申《りやうはいあひかたらひまをし》、妨[#二]公儀[#一]《こうぎをさまたげ》、被[#レ]企[#二]御逆心[#一]候《ごぎやくしんをくはだてられさふらふ》、無[#二]是非[#一]題目《ぜひなきだいもく》、無念不[#レ]少候《むねんすくなからずさふらふ》。然間爲[#レ]可[#レ]及[#二]其斷[#一]《しかるあひだそのだんにおよぶべきため》、上洛之處《じやうらくのところ》、若公被[#二]渡置[#一]京都有[#二]御退城[#一]《わかぎみわたしおかれきやうとはごたいじやうあり》、紀州熊野流落之由候《きしゆうくまのへるらくのよしにさふらふ》。然而武田入道《しかしてたけだにふだう》(晴信)[#「(晴信)」は1段階小さな文字]令[#二]病死[#一]候《びやうしせしめさふらふ》、朝倉義景於[#二]江越境目[#一]《あさくらよしかげかうゑつのさかひめにおいて》、去《さる》八|月遂[#二]一戰[#一]《ぐわついつせんをとげ》、即時得[#二]大利[#一]《そくじたいりをえ》、首《くび》三千|餘討捕《ようちとり》、直越國《たゞちにゑつこく》へ切入《きりいり》、義景刎[#レ]首《よしかげのくびをはね》、一|國平均《こくへいきん》に申付候《まをしつけさふらふ》、其以來若狹《それいらいわかさ》、能登《のと》、加賀《かゞ》、越中《ゑつちゆう》、皆以爲[#二]分國[#一]屬[#二]存分[#一]候《みなもつてぶんこくとなしぞんぶんにぞくしさふらふ》。五|畿内之儀不[#レ]及[#レ]申《きないのぎはまをすにおよばず》、至[#二]中國[#一]任[#二]下知[#一]候次第《ちゆうごくにいたつてげちにまかせさふらふしだい》、不[#レ]可[#レ]有[#二]其隱[#一]候《そのかくれあるべからずさふらふ》。來年甲州令[#二]發向[#一]《らいねんかふしゆうにはつかうせしめ》、關東之儀可[#二]成敗[#一]候《くわんとうのぎせいばいすべくさふらふ》。其砌深重可[#二]申談[#一]候《そのみぎりしんちようにまをしだんずべくさふらふ》、御入魂專要候《ごじゆつこんせんえうにさふらふ》、猶以芳問大慶候《なほもつてはうもんたいけいにさふらふ》、必從[#レ]是可[#二]申展[#一]之條《かならずこれによりまをしのぶべくのでう》、抛筆候《ほつひつさふらふ》。恐々謹言《きよう/\きんげん》。
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[#地から2字上げ]十二月廿八日(天正元年)[#「(天正元年)」は1段階小さな文字] 信 長 (朱印)
[#地から2字上げ]謹 上 伊 達 殿 〔伊達文書〕[#「〔伊達文書〕」は1段階小さな文字]
此《こ》れは信長《のぶなが》が、例《れい》の廣告《くわうこく》―新井白石《あらゐはくせき》の所謂《いはゆ》る、鬼面嚇人的《きめんかくじんてき》―手段《しゆだん》として見《み》る可《べ》きであるが。亦《ま》た以《もつ》て彼《かれ》が天正元年中《てんしやうぐわんねんちゆう》の、總勘定《そうかんぢやう》と、天正《てんしやう》二|年《ねん》に於《お》ける、總豫算《そうよさん》概計《がいけい》として見《み》る可《べ》きぢや。當時《たうじ》信長《のぶなが》の眼中《がんちゆう》、五|畿《き》は勿論《もちろん》、北陸《ほくろく》、東山《とうざん》、關東《くわんとう》なかりしもの、以《もつ》て知《し》る可《べ》きのみだ。
天正元年《てんしやうぐわんねん》は、信長《のぶなが》には、極《きは》めて收穫《しうくわく》多《おほ》き歳《とし》であつた。足利家《あしかゞけ》亡《ほろ》び、朝倉《あさくら》、淺井《あさゐ》二|氏《し》亡《ほろ》び、佐々木氏《さゝきし》(六角氏)[#「(六角氏)」は1段階小さな文字]亡《ほろ》び、三好氏《みよしし》亦《ま》た亡《ほろ》んだ。名家《めいか》舊家《きうか》の亡滅《ぼうめつ》は、無慘《むざん》には相違《さうゐ》ないが、新時代《しんじだい》の祭壇《さいだん》に供《きよう》する犧牲《ぎせい》と見《み》れば、是非《ぜひ》もない事《こと》ぢや。
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深井長政の最後の事
廿七日信長の先手木下藤吉郎、八千餘騎にて京極|太《つぶら》に打登りて、淺井久政と長政との間を取切る。于[#レ]時久政、討出で大に戰ふところに、裏切者之れあり、大宇大和守、門根次郎左衞門、山際出羽守等討死す。是に依つて淺井下野守源朝臣自殺す。行年六十一歳。淺井福壽軒、同宮内少輔、同新八郎殉死す。廿九日、信長の三萬八千餘騎、小谷の四方より平に攻登る。信長は木下藤吉郎が陣所京極太に移つて、兵を進めて大に戰ふ。城兵防ぎ戰ふ。河瀬壹岐守、澤田兵庫頭、手勢三百餘騎を一文字に進め、信長の陣取りたる太ケ嶽に討つてかゝり戰ふに、信長の兵多く討取る。木下藤吉郎が兵、横合に馳合せて戰ふ。是に於て河瀬壹岐守、澤田兵庫頭以下皆討死す。于[#レ]時長政、淺井石見守、赤尾美作守を招いて曰、吾れ二君に仕へず、死を遂ぐる事、是れ日頃の大望にして、悦是に過ぎず、然りと雖も稚屋形今年纔に十歳にして、眼前に御自殺を見、佐々木數代の屋形、こゝに繼絶に及ばん事、天命といひながら、是併、我等文道に疎く、武威の拙きがなす所なり。此恨永く泉下に繋るのみ。願はくは其方二人、我が死に殉はんよりは、稚屋形龍武御曹子を具し奉りて、城を出で信長に降參し、時の宜しきあらんを見て、今一度信長に此憤を報ぜば、我志といひ、各が志といひ、何の功か是に如かんや。凡そ士たる者、死期の術、遠大の計を致すこそ專要なれ。相構へて短慮の働をなすべからずと、打歎きていへば、石見守、美作守之を聞いて曰、尤も此を遁れて、信長に降らん事、一旦の計あるに似たりといへども、終に信長に事を悟らるゝ程ならば、稚屋形並に我等殺害に及ばん事必せり。然らば賤しき奴僕の手に墮ち、所存の外の死を取らん事、實に口惜しき次第なるべしと。長政復た曰、其こそ士たる者の本意なれ、恥にして恥ならず、謀略も無くして、只徒に死果つるは、恥にして恥なり。若し各推量の如く、此謀空しからば、但彼が武運強くして、我等忠義の足らざる所と思ひなし、只今生一往のみかは、歴却忘れざるの思深く、其心を運びなば、終には盍ぞ其恨を果さゞるべき。時刻移らば然るべからず、疾々といへば、兩人異議に及ばず、稚屋形を抱へ奉り、木下藤吉郎に便りて信長に降參すと呼んで馳出づ。長政之を看て大に悦び、即ち火を城に放つて自殺す。行年廿九歳。忠を子孫の上に貽し、名を萬代の鏡に懸く。本朝忠臣多しと雖も、天下武家の手に移りし以來、惟楠正成、淺井長政二人のみ。萬人の鏡にして武士の骨脈なり。信長木下を以て、先づ稚屋形を受取り、次に淺井石見守、赤尾美作守は降人なればとて、甲を脱がせ、弓絃をはなし太刀を取りて、木下に預けらる。稚屋形に供奉し、小谷城を出づる内、小姓の内加藤虎之助[#割り注]後號[#二]肥後守[#一][#割り注終わり]脇坂甚内[#割り注]後號[#二]中將[#一][#割り注終わり]稚屋形將軍義昭公の繼嗣となりし時、右三人の小姓秀吉卿に屬する七本鑓の内なり。七本鑓は、所謂加藤虎之助、片桐助作、脇坂甚内、加藤孫六、福島市松、平野權六、糟屋助右衞門等なり。九月朔日、信長、淺井石見守、赤尾美作守に對面して曰、汝等二人、既に長政自殺の場より心を飜し、我に降參する事、甚だ疑あり。龍武丸は我が孫なり。之を供して吾に屈せば、我れ汝等を賞せん。時節不意に長政が恩を報ぜんとの行なるべし。愚將は是等の謀に墮ちて不覺に死を取るべし、信長に於ては謀らるべからず。誠に爾曹は、節義を守るの義士なり。免し置きたくは之れありと雖も、是非に及ばざる次第なりとて、木下藤吉郎に申付けて二人共に之を誅す。二日稚屋形をば、木下藤吉郎秀吉之を預るところに、磯野丹波守秀昌、代々の主君たるに依つて、此度の軍功の賞に申し替へて、之を預り養育す。四日鯰江の城主佐々木右衞門督義祐を、信長家人柴田權六勝家に、兵四千餘騎を相副へ攻めしむ。之を義祐、城を保たず、即ち降參す。五日、信長岐阜に下る。十日、椙谷善住房、高嶋郡堀川阿彌寺に隱れ居けるを、磯野丹波守秀昌之を召捕り、岐阜に召具して信長に渡す。信長大に悦んで、土中に埋めて竹鋸を以て之を?殺す。是は先年信長、千草越の時、承禎の命を蒙りて、鐵砲を以て信長を打ちたる者なり。淺井備前守長政は、元祖淺井新三郎政重、三條大納言公綱卿の子にして、其姓藤原なり。久政の代に至りて實父の姓に反つて源姓なり。久政は佐々木管領氏綱朝臣の妾、淺井備前守助政が姉、北向殿の生る所なり、亮政之を給はりて養育して家に附す。世にいふ、久政、長政二代の淺井、忠を致し節を持する者、本朝開闢以來絶倫の義士なり。唯楠正成を除くのみと、長政子四人あり、嫡男は萬福丸とて、長政に先立つて早世す。餘三人は皆女子なり。一人は京極の宰相高次の室、常高院と號し、一人は豐臣秀吉公の室、淀殿と號し、右大臣秀頼公の御母なり。一人は征夷大將軍秀忠公の御臺所なり。崇源院殿と號す。征夷大將軍家光公、和子國母女院の御母公なり。二代の淺井信、無二の義士たる故に、沒後の佳名天下に輝けり。〔淺井日記〕
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[#5字下げ]【八】公家としての信長
天正《てんしやう》二|年《ねん》、信長《のぶなが》は四十一|歳《さい》にて、愈《いよい》よ前年《ぜんねん》安國寺《あんこくじ》惠瓊《ゑけい》が豫言《よげん》の如《ごと》く、公家《くげ》となつた。彼《かれ》は足利氏《あしかゞし》の舊《きう》に仍《よ》りて、征夷大將軍《せいいたいしやうぐん》たるを求《もと》めなかつた。彼《かれ》は公家《くげ》と、武家《ぶけ》とを一|視《し》した、彼《かれ》は最早《もはや》辭譲《じじやう》の場合《ばあひ》でないと認《みと》めた。故《ゆゑ》に三|月《ぐわつ》上京《じやうきやう》し、十八|日《にち》には參議《さんぎ》に任《にん》じ、從《じゆ》三|位《み》に叙《じよ》せられた。
彼《かれ》は内奏《ないそう》を經《へ》て、南都《なんと》東大寺《とうだいじ》の名香《めいかう》、蘭奢待《らんじやたい》を截《き》るの勅許《ちよくきよ》を得《え》た。此《こ》の黄熟香木《わうじゆくかうぼく》は、聖武天皇《しやうむてんわう》の御時《おんとき》、支那《しな》よりの傳來《でんらい》で、今《いま》も正倉院《しやうさうゐん》の御寶藏《ごほうざう》に、護持《ごぢ》せられてある。其《そ》の蘭奢待《らんじやたい》と稱《しよう》するは、東大寺《とうだいじ》の三|字《じ》を、此中《このなか》に寓《ぐう》する意味《いみ》だ。此《こ》れは信長《のぶなが》に取《と》りて、無上《むじやう》の光榮《くわうえい》で、且《か》つ其《そ》の光榮《くわうえい》に相當《さうたう》するの、鄭重《ていちよう》なる儀式《ぎしき》が伴《ともな》うた。
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十七|日《にち》志賀《しが》より坂本《さかもと》へ被[#レ]成[#二]御渡海[#一]《ごとかいなされ》、相國寺《さうこくじに》初而《はじめて》御寄宿《ごきしゆく》。南都《なんと》東大寺《とうだいじ》蘭奢待《らんじやたい》御所望《ごしよもう》の旨《むね》、内裡《だいり》へ御奏聞《ごそうもん》の處《ところ》、三|月《ぐわつ》廿六|日《にち》御勅使《ごちよくし》日野輝資《ひのてるすけ》殿《どの》、飛鳥井大納言《あすかゐだいなごん》殿《どの》、爲[#二]勅諚[#一]《ちよくぢやうとして》忝《かたじけなく》も被[#レ]成[#二]御院宣[#一]《ごゐんぜんなされ》、則《すなはち》南都《なんとの》大衆《たいしゆう》致[#二]頂拜[#一]御請申《ちやうはいをいたしおうけまをし》、翌日《よくじつ》三|月《ぐわつ》廿七|日《にち》、信長《のぶなが》奈良《なら》の多門《たもん》に至《いたつ》て御出《ごしゆつ》、御奉行《ごぶぎやう》塙《はなは》九|郎左衞門《らうざゑもん》、菅屋《すがや》九|右衞門《ゑもん》、佐久間右衞門《さくまうゑもん》、柴田修理《しばたしゆり》、丹羽《には》五|郎左衞門《らうざゑもん》、蜂屋兵庫頭《はちやひやうごのかみ》、荒木攝津守《あらきせつつのかみ》、夕菴《せきあん》、友閑《いうかん》、重《おもなる》御奉行《ごぶぎやう》、津田坊《つだばう》以上《いじやう》〔信長公記〕
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頗《すこぶ》る仰山《ぎやうさん》なる趣向《しゆかう》である。何《どう》やら一|種《しゆ》の大廣告《だいくわうこく》であるかの如《ごと》くも見《み》える。
信長《のぶなが》は本來《ほんらい》政治家《せいぢか》ぢや。彼《かれ》は固《もと》より所謂《いはゆ》る數寄者《すきしや》の一|人《にん》で、斯《かゝ》る方面《はうめん》には、深甚《しんじん》の趣味《しゆみ》を有《いう》して居《ゐ》たが、さりとて此《こ》れが唯《ゆゐ》一の物數寄《ものずき》とのみは、思《おも》はれぬ。彼《かれ》は正《まさ》しく此《こ》の一|事《じ》によりて、御《ご》一|人《にん》を、上《かみ》に戴《いたゞ》き、自《みづ》から天下《てんか》に臨《のぞ》まんとする位置《ゐち》を、天下《てんか》に標示《へうじ》したのであらう。何《なん》となれば是《これ》は足利義政《あしかゞよしまさ》以來《いらい》、未曾有《みぞう》の事《こと》であるからだ。當人《たうにん》の思付《おもひつき》であつた乎《か》。又《ま》た數寄道《すきだう》同好《どうかう》の一|人《にん》、松永久秀《まつながひさひで》等《ら》の入智慧《いれぢゑ》であつた乎《か》。何《いづ》れにしても面白《おもしろ》き趣向《しゆかう》と云《い》はねばならぬ。
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三|月《ぐわつ》廿八|日《にち》、辰刻《たつのこく》御藏開候《おんくらひらきさふら》へ訖《おはんぬ》。彼名香《かのめいかう》長《ながさ》六|尺《しやく》の長持《ながもち》に納《をさま》り有[#レ]之《これあり》、則《すなはち》多門《たもん》へ被[#二]持參[#一]《ぢさんせられ》、御成《おなり》之《の》間《あひだ》、於[#二]舞臺[#一]《ぶたいにおいて》、懸[#二]御目[#一]《おんめにかけ》、任[#二]本法[#一]《ほんぱふにまかせ》、一|寸《すん》八|分《ぶ》被[#二]切捕[#一]《きりとられ》。御供《おとも》の御馬廻《おうままはり》、末代《まつだい》の物語《ものがたり》に、拜見《はいけん》可[#レ]仕《つかまつるべく》の旨《むね》、御諚《ごちやう》にて、奉拜《ほうはい》の事《こと》、且《かつ》御威光《ごゐくわう》、且《かつ》御憐愍《ごれんみん》、生前《せいぜん》の思出《おもひで》、忝《かたじけなき》次第《しだい》不[#二]申足[#一]《まをすにたらず》。一|年《ねん》東山殿《ひがしやまどの》被[#二]召置[#一]《めしおかれ》候已來《さふらふいらい》、將軍家《しやうぐんけ》御望《おんのぞみ》の旁《かた/″\》、數多《あまた》雖[#レ]有[#レ]之《これありといへども》、唯《たゞ》ならぬ事《ことに》候《さふらふ》の間《あひだ》不[#二]相叶[#一]《あひかなはず》、佛天之《ぶつてんの》有[#二]加護[#一]《かごあり》て、三|國《ごく》無[#レ]隱《かくれなき》御名物《ごめいぶつ》被[#二]食置[#一]《めしおかれ》、於[#二]本朝[#一]《ほんてうにおける》御名譽《ごめいよ》、御面目之《ごめんぼくの》次第《しだい》何事《なにごとか》加[#レ]之《これにしかん》。〔信長公記〕
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此《こ》の文句《もんく》を仔細《しさい》に玩味《ぐわんみ》すれば、當時《たうじ》此事《このこと》が、天下《てんか》の人心《じんしん》に與《あた》へたる印象《いんしやう》の、如何《いか》なるかを知《し》るに足《た》らむ。乃《すなは》ち斯《かゝ》る印象《いんしやう》を、天下《てんか》の人心《じんしん》に與《あた》へんが爲《た》めに、信長《のぶなが》は此《こ》の恩賜《おんし》を奏請《そうせい》したものと判斷《はんだん》しても、恐《おそら》くは大過《たいくわ》なからう。信長《のぶなが》は政治家《せいぢか》ぢや、辭譲《じじやう》が必要《ひつえう》の場合《ばあひ》は、能《よ》く辭譲《じじやう》した、進取《しんしゆ》が必要《ひつえう》の場合《ばあひ》には、能《よ》く進取《しんしゆ》した。
但《た》だし信長《のぶなが》も人間《にんげん》である、特《とく》に血性《けつせい》多《おほ》き人間《にんげん》である。彼《かれ》を一|個《こ》の打算《ださん》機械視《きかいし》するは、彼《かれ》を知《し》る者《もの》でない。吾人《ごじん》は政治家《せいぢか》としての信長《のぶなが》以外《いぐわい》に、人間《にんげん》としての信長《のぶなが》をも、尋酌《しんしやく》せねばならぬ。斯《かゝ》る光榮《くわうえい》には、何人《なんぴと》よりも、彼《かれ》自身《じしん》が、最《もつと》も滿足《まんぞく》したのは、勿論《もちろん》であらう。
彼《かれ》は又《ま》た五|月《ぐわつ》五|日《か》、加茂《かも》祭禮《さいれい》の競馬《けいば》に、其《そ》の愛馬《あいば》を出《いだ》した。
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五|月《ぐわつ》五|日《か》、加茂祭《かもまつり》競馬《けいば》御神事《ごしんじ》、天下《てんか》御祈※禱《ごきたう》の事《ことに》候《さふらふ》。幸《さいはひ》御在洛《ございらく》の儀《ぎに》候《さふらふ》間《あひだ》、御馬《おんうま》被[#二]仰付[#一]候《おほせつけられさふらふ》樣《やう》にと伺申處《うかゞひまをすところ》、信長《のぶなが》度々《たび/\》勝合戰《かちいくさ》にめさせられ候《さふらふ》蘆毛《あしげ》御馬《おんうま》、並《ならびに》鹿毛《かげの》御馬《おんうま》二つ、其外《そのほか》御馬廻之《おんうままはりの》駿馬《しゆんめ》を揃《そろへ》十八|疋《ひき》、都合《つがふ》廿|疋《ぴき》十|番《ばん》の分《ぶん》被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、御馬《おんうま》の儀《ぎは》不[#レ]及[#レ]申《まをすにおよばず》、廿|疋《ぴき》の御馬《おんうま》、御鞍鐙《おんくらあぶみ》、御轡《おんくわつ》、一々|何《いづ》れも/\名物《めいぶつ》の御皆具《おんかいぐ》被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、生便敷《きびしく》被[#レ]成[#二]御結構[#一]《ごけつこうなされ》、舎人《とねり》是又《これまた》美々敷《びゞしく》出立《いでたち》、上古《じやうこ》も不[#レ]及[#レ]承《うけたまはりおよばず》、然而《しかして》黒装束《くろしやうぞく》の禰宜《ねぎ》十|人《にん》、赤装束《あかしやうぞく》の禰宜《ねぎ》十|人《にん》、右《みぎ》の廿|疋《ぴき》の御馬《おんうま》に乘《のり》、一|番宛《ばんづゝ》馬《うま》を走《はしら》かし、勝負《しようぶ》を爭申也《あらそひまをすなり》。蘆下《あしげ》の御馬《おんうま》、鹿毛《かげの》御馬《おんうま》、元來《ぐわんらい》駿馬《しゆんめ》にて達者《たつしや》なれば、不[#レ]及[#レ]申《まをすにおよばず》、御馬《おんうま》は、何《いづ》れも勝申《かちまをし》候也《さふらふなり》。末代《まつだい》の物語《ものがたり》、貴賤《きせん》老若《らうにやく》、群衆《ぐんしふ》無[#二]申許[#一]《まをすばかりなし》。〔信長公記〕
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謂《い》ふ勿《なか》れ是《こ》れ閑事業《かんじげふ》と、天下《てんか》の人心《じんしん》は、此《こ》の閑事業《かんじげふ》の中《うち》に、能《よ》く操縱《さうじゆう》するを得《う》るものぢや。彼《かれ》は獨《ひと》り樂《たの》しむを以《もつ》て足《た》れりとせず、衆《しゆう》と樂《たのしみ》を偕《とも》にするを解《かい》した。太閤《たいかふ》の北野《きたの》大茶湯《だいちやたう》も、要《えう》するに信長《のぶなが》の競馬《けいば》から脱化《だつくわ》し、更《さ》らに一|歩《ぽ》を進《すゝ》めたものではあるまい乎《か》。彼《かれ》が仕方《しかた》は、均《ひと》しく風流《ふうりう》と申《まを》すも、東山《ひがしやま》義政《よしまさ》が銀閣寺《ぎんかくじ》に、其《そ》の弄臣《ろうしん》と晏居《あんきよ》して、四|疊半《でふはん》の樂《たのしみ》を專《もつぱ》らにするものとは、同日《どうじつ》の論《ろん》でない。彼《かれ》は自《みづ》から公家《くげ》どなつたのみでなく、又《ま》た公家《くげ》を救濟《きうさい》した。
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四|月《ぐわつ》朔日《ついたち》(天正三年)被[#二]仰出[#一]趣《おほせだされしおもむき》、既《すで》に近代《きんだい》、禁中《きんちゆう》御廢壞之條《ごはいえのでう》、從[#二]先年[#一]《せんねんより》御修理《ごしゆうり》の儀《ぎ》、被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》令[#二]成就[#一]畢《じやうじゆせしめをはんぬ》。併公家方《しかしながらくげがた》被[#レ]及[#二]御怠轉[#一]《ごたいてんにおよばるゝ》の間《あひだ》、方々《かた/″\》御沽却《ごこきやく》の地《ち》、村井民部丞《むらゐみんぶのじよう》、仁羽《には》五|郎左衞門《らうざゑもん》兩人《りやうにん》に被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、爲[#二]徳政[#一]《とくせいとして》、公家衆《くげしゆう》の本領《ほんりやう》被[#二]還附[#一]《くわんぷせらる》。主上《しゆじやう》、公家《くげ》、武家《ぶけ》共《とも》に御再興《ごさいこう》、天下無双之《てんかむさうの》御名譽《ごめいよ》不[#レ]可[#レ]過[#レ]之《これにすぐべからず》。〔信長公記〕
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公家《くげ》が貧乏《びんばふ》して、其《そ》の領地《りやうち》を賣却《ばいきやく》したものを、悉《こと/″\》く彼等《かれら》に還附《くわんぷ》せしめた。信長《のぶなが》の政治《せいぢ》は、實《じつ》に痒《かゆ》き所《ところ》に手《て》が屆《とゞ》いた。牛《うし》一が天下無双《てんかむさう》の御名譽《ごめいよ》の一|句《く》も、溢辭《いつじ》ではなかつた。
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信長蘭奢待を切る事
一天正二年三月廿八日御開符有[#レ]之、舊記云、此年織田信長者懇望寶物拜見、蘭奢待南都多門城え年預五師淨實訓英執行藥師院實祐法眼三人御香に付て、信長よりは佐久間衞門相付持參之處、客殿※最中に舁[#二]居之[#一]寺より二人え對、信長蔭にて香を見れば私ケ間敷、被寺僧衆之前にて可[#レ]被[#レ]見、然者香之傍迄可[#レ]出由被[#レ]申間、香取出寺之大佛師仰て、一寸四方づゝ二つ切[#二]取之[#一]畢。信長寺の三人對、一ツ者 禁裏樣一ツ者我等拜領と被[#レ]申、然る後香箱受取、佐久間と本ノ倉へ納畢。又紅沈香拜見、多門山へ持參す、紅沈は不[#レ]切[#レ]之返納畢。
寺務四室院家
年預 五師淨實
執行 藥師院實祐
〔東大寺蘭奢待傳來書〕
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[#5字下げ]【九】長島全滅
信長《のぶなが》を中心《ちうしん》として、其《そ》の周圍《しうゐ》を見《み》れば、中國《ちゆうごく》には毛利氏《まうりし》がある、北國《ほくこく》には謙信《けんしん》がある、關東《くわんとう》には北條氏政《ほうでううぢまさ》がある。されど此《こ》の三|家《け》は、厚薄親疎《こうはくしんそ》の別《べつ》はあるとして、何《いづ》れも不即《ふそく》、不離《ふり》の間《あひだ》にある。正面《しやうめん》の敵《てき》は、信玄《しんげん》の子《こ》の勝頼《かつより》と、本願寺《ほんぐわんじ》である。彼等《かれら》は動《やゝ》もすれば策應《さくおう》して、信長《のぶなが》の隙《すき》を覗《うかゞ》はんとしつゝある。信長《のぶなが》は、先《ま》づ何《いづ》れより打撃《だげき》を加《くは》ふ可《べ》き乎《か》。
勝頼《かつより》の方《はう》は、兎《と》も角《かく》も家康《いへやす》に任《まか》せて措《お》くも、本願寺《ほんぐわんじ》の不埒《ふらち》は、實《じつ》に勘辨《かんべん》が出來《でき》ぬ。現《げん》に天正《てんしやう》二|年《ねん》の春《はる》、上洛《じやうらく》の砌《みぎり》も、本願寺《ほんぐわんじ》は、敵對《てきたい》の色《いろ》を現《あら》はしたから、信長《のぶなが》は足輕《あしがる》をかけ追《お》ひ拂《はら》ひ、近邊《きんぺん》を放火《はうくわ》し、作毛《さくまう》を薙捨《なぎす》て、聊《いさゝ》か威光《ゐくわう》を示《しめ》した。又《ま》た折角《せつかく》信長《のぶなが》が骨折《ほねを》りて、切取《きりと》りたる越前《ゑちぜん》は、其《そ》の守護代《しゆごだい》として置《お》きたる、前波播磨守《まへなみはりまのかみ》の匪政《ひせい》の爲《ため》に、國内《こくない》騷動《さうどう》を惹起《ひきおこ》し、一|向門徒《かうもんと》は、巧《たく》みに火事場泥坊《くわじばどろばう》を働《はたら》き、之《これ》を占領《せんりやう》しつゝあるではない乎《か》。
然《しか》も最《もつと》も遺恨《ゐこん》の重《かさ》なるは、長島《ながしま》ぢや。此《こ》れは伊勢《いせ》と、尾張《をはり》の堺目《さかひめ》に要地《えうち》を占《し》め、信長《のぶなが》に取《と》りては、腹心《ふくしん》の病《やまひ》ぢや。其《そ》の長島《ながしま》なる河内御堂《かはちみだう》の主《あるじ》は、勝頼《かつより》の妹婿《いもうとむこ》である。元龜《げんき》元年《ぐわんねん》十一|月《ぐわつ》には、信長《のぶなが》の朝倉《あさくら》、淺井《あさゐ》と事《こと》あるに乘《じよう》じ、其《そ》の弟《おとうと》織田彦七《おだひこしち》を取《と》り詰《つ》めて、切腹《せつぷく》せしめた。同《どう》二|年《ねん》五|月《ぐわつ》には、信長《のぶなが》出馬《しゆつば》にも拘《かゝは》らず、志《こゝろざし》を果《はた》さず、退去《たいきよ》の折《をり》、柴田勝家《しばたかついへ》を手負《てお》はしめ、氏家卜全《うじいへぼくぜん》を討死《うちじに》せしめた。天正《てんしやう》元年《ぐわんねん》十|月《ぐわつ》には、信長《のぶなが》重《かさ》ねて出馬《しゆつば》したるに拘《かゝは》らず、又《ま》たしも林新《はやししん》二|郎等《らうら》を失《うしな》はしめ、信長《のぶなが》もはう/\の體《てい》にて、退陣《たいぢん》したではない乎《か》。信長《のぶなが》は實《じつ》に、長島《ながしま》に屡《しばし》ば手《て》を傷《や》いた。
然《しか》も斯《かゝ》る事《こと》にて懲《こ》りる信長《のぶなが》ではない。彼《かれ》は愈《いよい》よ此《こ》の腹心《ふくしん》の病《やまひ》であり、且《か》つは遺恨《ゐこん》重《かさ》なる奴原《やつばら》を討伐《たうばつ》す可《べ》く、天正《てんしやう》二|年《ねん》六|月《ぐわつ》廿三|日《にち》出馬《しゆつば》した。彼《かれ》は六|月《ぐわつ》上旬《じやうじゆん》、勝頼《かつより》が遠州《ゑんしう》高天神城《たかてんじんじやう》を圍《かこ》むの報《はう》に接《せつ》し、家康《いへやす》に應援《おうゑん》す可《べ》く、中旬《ちうじゆん》に今切《いまき》りの渡《わたし》迄《まで》、其子《そのこ》信忠《のぶたゞ》と與《とも》に出掛《でか》けたが、高天神城《たかてんじんじやう》を守《まも》れる小笠原長善《をがさはらながよし》が、勝頼《かつより》に降《くだ》つたから、已《や》むを得《え》ず六|月《ぐわつ》廿一|日《にち》、岐阜《ぎふ》に還《かへ》り、更《さ》らに廿三|日《にち》に、武田氏《たけだし》に向《むか》つて用《もち》ふ可《べ》き兵力《へいりよく》を、長島《ながしま》に用《もち》ひんとした。彼《かれ》が意氣込《いきごみ》の旺《さかん》なるは云《い》ふ迄《まで》もない。
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抑《そも/\》尾張國《をはりのくに》河内長島《かはちながし》と申者《まをすは》、無[#レ]隱節所也《かくれなきせつしよなり》。濃州《のうしゆう》より流出《ながれいづ》る川《かは》餘多《あまた》へ、岩出川《いはてがは》、大瀧川《おほたきがは》、今洲川《いまずがは》、眞木田川《まきたがは》、市《いち》ノ瀬川《せがは》、くんせ川《がは》、山口川《やまぐちがは》、飛驛川《ひだがは》、木曾川《きそがは》、養老之瀧《やうらうのたき》、此外《このほか》山ゝ《やま/\》の谷水《たにみづ》の流《なが》れ末《すゑ》にて落合《おちあひ》、大河《たいが》となつて長島《ながしま》の東北《とうほく》五|里《り》、三|里《り》の内《うち》、幾重共《いくへとも》なく引廻《ひきまは》し、南者海上《みなみはかいじやう》漫々《まん/\》として、四|方之節所《はうのせつしよ》、申《まをす》は中々《なか/\》愚《おろか》也《なり》。〔信長公記〕
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此《これ》れが地勢《ちせい》の概略《がいりやく》だ。即《すなは》ち伊勢灣《いせわん》の頭《かしら》、美濃《みの》諸河川《しよかせん》の尾《び》、自《おのづ》から河海《かかい》の水《みづ》を廻《めぐ》らして、島嶼《たうしよ》をなし、天然《てんねん》の形勝《けいしよう》を占《し》めて、其《そ》の要害《えうがい》と爲《な》して居《ゐ》た。
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依[#レ]之《これにより》隣國之佞人《りんごくのねいじん》凶徒等《きようとら》相集《あひあつま》り住宅《ぢゆうたく》し、當時《たうじ》崇敬《すうけい》す。本願寺《ほんぐわんじ》念佛修行之道理《ねんぶつしゆぎやうのだうり》をば、本《もと》とせず、學文《がくもん》無智《むち》故《ゆゑ》誇[#二]榮花[#一]《えいぐわをほこり》、朝夕《てうせき》亂舞《らんぶ》に日《ひ》を暮《くら》し、構[#二]俗儀[#一]《ぞくぎをかまへ》、數《す》ケ所《しよ》端城《はじろ》を拵《こしらへ》、國方《こくはう》(法?)之儀《のぎ》を蔑如《ないがしろ》に持扱《もてあつかひ》、背[#二]御法度[#一]《ごはつとにそむき》御國《おくに》にて御折檻《ごせつかん》の輩《やから》をも、能《よき》隱家《かくれが》と拘置《かゝへおく》。〔信長公記〕
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其《そ》の專横《せんわう》此《かく》の如《ごと》しぢや。縱令《たとへ》公然《こうぜん》信長《のぶなが》に抗敵《かうてき》せざるも、尚《な》ほ退治《たいぢ》す可《べ》きものぢや。況《いは》んや前《さき》には朝倉《あさくら》、淺井《あさゐ》と、今《いま》は武田勝頼《たけだかつより》と、策應《さくおう》して、恒《つね》に其《そ》の隙《すき》に乘《じよう》ぜんとするに於《おい》てをや。
今回《こんくわい》信長《のぶなが》は大仕掛《おほじかけ》に、海陸《かいりく》諸手《もろて》より包圍《はうゐ》した。『諸手《もろて》の勢衆《せいしゆう》、船中《せんちゆう》に思《おも》ひ/\の旗標《はたしるし》を打立《うちたて》/\、綺羅星《きらほし》雲霞《うんか》の如《ごと》く、四|方《はう》より長島《ながしま》へ押寄《おしよせ》た。』〔信長公記〕而《しか》して攻撃《こうげき》は愈《いよい》よ激甚《げきじん》を加《くは》へた。『大鳥居《おほとりゐ、篠橋《しのはせ》(城名)取寄《とりよせ》、大鐵炮《おほてつぱう》を以《もつ》て、塀櫓《へいやぐら》打崩《うちくづし》、被[#レ]攻候《せめられさふらふ》の處《ところ》、兩城《りやうじやう》致[#二]迷惑[#一]《めいわくいたし》、御赦免《ごしやめん》の御詫言《おんわびごと》雖[#レ]申《まをすといへども》、迚《とて》も不[#レ]可[#レ]有《あるべからざる》程《ほど》の條《でう》、佞人《ねいしん》爲[#レ]懲干殺《こらしめのためひごろし》になされ、年來《ねんらい》の緩怠狼藉《くわんたいらうぜき》、可[#レ]被[#レ]散[#二]御欝憤[#一]《ごうつぷんをさんぜらるべき》の旨《むね》にて、御許容《ごきよよう》無[#レ]之《これなし》。』〔信長公記〕
彼《かれ》は之《これ》を全滅《ぜんめつ》せずんば止《や》まぬ決心《けつしん》であつた。八|月《ぐわつ》二|日《か》には、風雨《ふうう》に乘《じよう》じて、大鳥居城《おほとりゐじやう》より混《まぎ》れ出《い》でたる男女《だんぢよ》、約《やく》千|人《にん》を切《き》り捨《す》てた。十二|日《にち》には、篠橋籠城者《しのはせろうじやうしや》を、裏切《うらぎり》の約束《やくそく》にて、長島城《ながしまじやう》に追《お》ひ込《こ》んだ。七|月《ぐわつ》十三|日《にち》以來《いらい》、島中《たうちゆう》の男女《だんちよ》の各城《かくじやう》に逃入《にげい》りたるもの、今《いま》や半《なかば》は餓死《がし》しつゝある慘状《さんじやう》ぢや。
元來《ぐわんらい》信長《のぶなが》の長島《ながしま》に於《お》ける、※倐來※倐去《しゆくらいしゆくきよ》であつた。此度《このたび》もその通《とほ》りであらうと、一|揆等《きら》も高《たか》を縊《くゝ》つて居《ゐ》た。然《しか》るに信長《のぶなが》は飽迄《あくまで》根強《こんづよ》く、攻圍《こうゐ》三|個月《かげつ》に及《およ》んだ。九|月《ぐわつ》廿九|日《にち》には、落城《らくじやう》した。『九|月《ぐわつ》二十九|日《にち》、御詫言申《おんわびごとまうし》、長島明退候《ながしまをあけのきさふらふ》。餘多《あまた》の舟《ふね》に取乘候《とりのりさふらふ》を、鐵炮《てつぱう》を揃《そろへ》うたせられ、無[#二]際限[#一]《さいげんなく》川《かは》へ切《きり》すてられ候《さふらふ》。』〔信長公記〕彼等《かれら》は窮鼠猫《きうそねこ》を嚙《か》むの態度《たいど》となつた。『其中《そのうち》心有者《こゝろあるもの》ども裸《はだか》に成《なり》、|伐(抜?)刀《ばつたう》許《ばかり》にて七八百|許《ばかり》、切而懸《きつてかゝ》り、伐崩《きりくづ》し、御《ご》一|門《もん》を初奉《はじめたてまつり》り、歴々《れき/\》數多《あまた》討死《うちじに》、小口《こぐち》へ相働《あひはたらき》、留主《るす》のこ屋《や》/″\へ亂《みだ》れ入《いり》、思程《おもふほど》支度仕候《したくつかまつりさふらう》て、それより川《かは》を越《こえ》、多藝山《たげやま》伊勢口《いせぐち》へ、ちり/″\に罷退《まかりのき》、大阪《おほさか》へ迯入也《にげいるなり》。』〔信長公記〕實《じつ》に油斷大敵《ゆだんたいてき》とは、此事《このこと》であつた。
併《しか》し此《こ》れは、落城際《らくじやうぎは》の一|幕《まく》に過《す》ぎぬ。『中江城《なかえじやう》、屋長島城《やながしまじやう》の、兩城《りやうじやう》に在《ある》の男女《なんによ》二|萬許《まんばかり》、幾重《いくへ》にも尺《さく》(柵?)を付取《つけとり》籠被[#レ]置候《こめおかれさふらふ》。四|方《はう》より火《ひ》を付《つけ》燒《やき》ころしに被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》屬[#二]御存分[#一]《ごぞんぶんにぞくす》。』〔信長公記〕是《こ》れ實《じつ》に叡山《えいざん》以來《いらい》の、否《い》な叡山《えいざん》以上《いじやう》の大慘事《だいさんじ》である。如何《いか》に戰國時代《せんごくじだい》の風習《ふうしふ》とは云《い》へ、信長《のぶなが》の※忍人《にんじん》たることは、到底《たうてい》辯護《べんご》の辭《ことば》はない。彼《かれ》は九|月《ぐわつ》二十九|日《にち》に、長島門徒《ながしまもんと》を屠《ほふ》り盡《つ》くして、岐阜《ぎふ》へ凱旋《がいせん》した。