第三章 長篠役前の形勢
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[#3字下げ]第三章 長篠役前の形勢
[#5字下げ]【一〇】武田勝頼
成敗《せいばい》の跡《あと》に就《つい》て、其人《そのひと》を論《ろん》ずれば、兎角《とかく》成功者《せいこうしや》はえらく見《み》え、失敗者《しつぱいしや》はつまらなく見《み》えるものぢや。されど公平《こうへい》なる史眼《しがん》は、好運《かううん》、薄運《はくうん》の風袋《ふうたい》を除《の》けて、其《そ》の實値《じつち》を鑑別《かんべつ》せねばならぬ。世《よ》の中《なか》には、武田勝頼《たけだかつより》を、不肖《ふせう》の子《こ》の一として數《かぞ》へて居《を》る。それは彼《かれ》が長坂《ながさか》、跡部《あとべ》抔《など》の佞臣《ねいしん》の言《げん》を用《もち》ひ、信玄《しんげん》が折角《せつかく》築《きづ》き上《あ》げたる大身上《だいしんじやう》を、臺《だい》なしに打《う》ち潰《つぶ》し、その身《み》も與《とも》に亡《ほろ》びたるからだ。併《しか》し是亦《これま》た成敗《せいばい》に囚《とら》はれた管見《くわんけん》と云《い》はねばならぬ。
勝頼《かつより》は今川氏實《いまがはうぢざね》ではない、彼《かれ》は武勇《ぶゆう》に於《おい》ては、信玄《しんげん》の子《こ》たるを辱《はづか》しめなかつた。然《しか》も如何《いか》に武勇《ぶゆう》に饒《と》むも、信長《のぶなが》、家康《いへやす》の中部《ちゆうぶ》日本同盟《にほんどうめい》に對抗《たいかう》して、勝者《しやうしや》たるは、到底《たうてい》不可能《ふかのう》である。それにも拘《かゝ》はらず、尚《な》ほ十|箇年《かねん》も自《みづ》から支持《しぢ》し、屡《しばし》ば此《こ》の大敵《たいてき》を惱《なやま》したるを見《み》れば、彼《かれ》は實《じつ》に健氣《けなげ》の漢《をのこ》と云《い》ふ可《べ》きではあるまい乎《か》。
惟《おも》ふに如何《いか》なる奇策《きさく》を出《い》だすも、勝頼《かつより》としては、此《こ》の強大《きやうだい》なる勢力《せいりよく》に對《たい》して、降服《かうふく》する乎《か》、亡滅《ばうめつ》する乎《か》の二|者《しや》を、擇《えら》ぶ他《ほか》はあるまい。父《ちゝ》の信玄《しんげん》生存《せいぞん》しても、尚《な》ほ此通《このとほ》りであらう。況《いは》んや彼《かれ》に於《おい》てをやだ。而《しか》して從來《じゆうらい》の行掛《ゆきがゝり》よりすれば、信長《のぶなが》に叩頭《こうとう》し、其《そ》の被官《ひくわん》となることは、自《みづ》から能《あた》はざるのみならず、信長《のぶなが》も亦《ま》た、之《これ》を容《い》る可《べ》しと思《おも》はれぬ。詮《せん》じ來《きた》れば亡滅《ばうめつ》は、殆《ほと》んど彼《かれ》が唯《ゆゐ》一の歸著點《きちやくてん》であつた。吾人《ごじん》は寧《むし》ろ彼《かれ》が最後迄《さいごまで》、其《そ》の宿命《しゆくめい》と戰《たゝか》うたるを、嘉《よ》みせねばならぬ。人《ひと》は彼《かれ》の剛愎《がうふく》自用《じよう》を咎《とが》むるも、自用《じよう》するも、せざるも、到底《たうてい》彼《かれ》は信長《のぶなが》に滅《ほろぼ》さる可《べ》き、定運《ぢやううん》であつたものと見《み》る可《べ》きであらう。
天正《てんしやう》元年《ぐわんねん》四|月《ぐわつ》、信玄《しんげん》の逝《ゆ》くや、勝頼《かつより》は二十八|歳《さい》で、其子《そのこ》信勝《のぶかつ》の成人迄《せいじんまで》、後見者《こうけんしや》として、信玄《しんげん》の跡目《あとめ》を相續《さうぞく》した。信玄《しんげん》の死《し》が、信長黨《のぶながたう》に多大《ただい》の安心《あんしん》を與《あた》へたるが如《ごと》く、非信長黨《ひのぶながたう》には、非常《ひじやう》なる失望《しつばう》と落膽《らくたん》とを與《あた》へた。就中《なかんづく》信玄《しんげん》膝元《ひざもと》の、甲信《かふしん》二|國《こく》の士民《しみん》に於《おい》て、最《もつと》も然《しか》りであつた。信玄《しんげん》の部下《ぶか》には、信玄《しんげん》に訓練《くんれん》せられた老練《らうれん》の將士《しやうし》、少《すくな》くなかつた。されど彼等《かれら》は、概《おほむ》ね信玄《しんげん》の手頃《てごろ》に驅使《くし》す可《べ》き、特製品《とくせいひん》であつて、所謂《いはゆ》る信玄《しんげん》ありての彼等《かれら》である。他人《たにん》の手《て》に隨意《ずゐい》に取扱《とりあつか》はる可《べ》き、代物《しろもの》でない。さりとて彼等《かれら》亦《ま》た、信玄《しんげん》に取《と》りて代《かは》る可《べ》き人物《じんぶつ》でもない。要《えう》するに信玄《しんげん》死後《しご》の甲信《かふしん》の將士《しやうし》は、牧羊者《ぼくやうしや》の死後《しご》の群羊《ぐんやう》であつた。國論《こくろん》の統《とう》一を缺《か》いたのも、思《おも》ひやらるゝではない乎《か》。
勝頼《かつより》の不幸《ふかう》は、其父《そのちゝ》に偉大《ゐだい》なる信玄《しんげん》を持《も》つたことである。彼《かれ》が如何程《いかほど》の手際《てぎは》を出《いだ》しても、働《はたら》きをしても、其《そ》の將士《しやうし》、就中《なかんづく》歴々《れき/\》の故老《こらう》は、生《い》ける勝頼《かつより》よりも、死《し》せる信玄《しんげん》に謳歌《おうか》したであらう。勝頼《かつより》が長坂《ながさか》、跡部《あとべ》の言《げん》のみを、採用《さいよう》したと云《い》ふも、其他《そのた》の老輩《らうはい》は、勝頼《かつより》とそりが合《あ》はぬからではあるまい乎《か》。要《えう》するに信玄《しんげん》以後《いご》、信玄《しんげん》なく、信玄《しんげん》ならざる勝頼《かつより》は、内外《ないぐわい》に處《しよ》して、頗《すこぶ》る苦境《くきやう》に陷《おちい》つた。
信玄《しんげん》の在世中《ざいせいちゆう》も、勝頼《かつより》は壯年《さうねん》ながら、能《よ》く一|方《ぱう》の將《しやう》たる資格《しかく》を發揮《はつき》した。三|方原《かたがはら》の勝利《しやうり》は彼《かれ》が側面攻※撃《そくめんこうげき》に負《お》ふ所《ところ》多《おほ》きに居《を》つた。元龜《げんき》三|年《ねん》四|月《ぐわつ》には、謙信《けんしん》が無慮《むりよ》一|萬《まん》の兵《へい》を率《ひき》ゐて、信州《しんしゆう》に出《い》で、火《ひ》を長沼《ながぬま》に放《はな》つた。勝頼《かつより》は警報《けいはう》を聞《き》いて、伊奈《いな》より八百|人《にん》を提《ひつさ》げて、之《これ》を拒《ふせ》いだ。其《そ》の健氣《けなげ》の振舞《ふるまひ》には、謙信《けんしん》も嘆賞《たんしやう》した。
斯《かく》の如《ごと》く彼《かれ》は勇氣《ゆうき》に於《おい》ては、何等《なんら》不足《ふそく》がなかつた。但《た》だ不足《ふそく》と云《い》へば、思慮《しりよ》の一|點《てん》だ。併《しか》し如何《いか》に思慮《しりよ》したとて、信長《のぶなが》、家康《いへやす》を凌《しの》ぐ可《べ》き智慧《ちゑ》も、出《で》て來《こ》まい。何《なん》となれば信長《のぶなが》は、既《すで》に國主《こくしゆ》の位置《ゐち》より、半《なか》ば天下《てんか》の主《しゆ》となりつゝあつた。況《いは》んや之《これ》を背景《はいけい》として、其《そ》の當面《たうめん》に立《た》つ、海道《かいだう》一の弓取《ゆみとり》家康《いへやす》あるに於《おい》てをやだ。守《まも》るも亡《ほろ》び、攻《せむ》るも亡《ほろ》ぶ、坐《ざ》して亡《ほろ》びるを待《ま》たんよりも、寧《むし》ろ進《すゝ》んで戰《たゝか》はんに若《し》かずと、勝頼《かつより》が考《かんが》へたのも、一|理《り》ありと云《い》はねばならぬ。或《あるひ》はそれ程《ほど》の思慮《しりよ》なく、唯《た》だ勝《かち》に誇《ほこ》り、勇《ゆう》を恃《たの》み、無我夢中《むがむちゆう》に、進攻《しんこう》を事《こと》として、遂《つひ》に敗亡《はいばう》を招《まね》きたりとするも。尚《な》ほ坐《ざ》して亡滅《ばうめつ》を招《まね》くよりも、我武《わがぶ》を辱《はづか》しめなかつたと云《い》ふ可《べ》きであらう。
徳川家康《とくがはいへやす》は、彼《かれ》を評《ひやう》して、強《つよ》き大將《たいしやう》であつたが、機轉《きてん》なくして、一|筋《すぢ》に強《つよ》き許《ばか》りにて、後《おく》れを取《と》つたと云《い》うた。〔武家秘笈〕勝頼《かつより》の滅《ほろ》ぶるや、秀吉《ひでよし》は中國《ちゆうごく》に於《おい》て、毛利氏《まうりし》と對陣《たいぢん》して居《ゐ》たが、之《これ》を聞《き》き大息《たいそく》して曰《いは》く、あたら人《ひと》を殺《ころ》したる事《こと》の、殘《のこ》り多《おほ》さよ。我《わ》れ軍中《ぐんちゆう》にあらば、強《し》ひて諫《いさ》め申《まを》して、勝頼《かつより》に甲信《かうしん》二|州《しゆう》を與《あた》へ、關東《くわんとう》の先陣《せんぢん》としたらんには、東國《とうごく》は平押《ひらおし》にす可《べ》き事《こと》をと、繰《く》り返《かへ》し嘆惜《たんせき》した。〔常山紀談〕信長《のぶなが》は勝頼《かつより》父子《ふし》の首《くび》を見《み》て、日本《にほん》に隱《かくれ》なき弓取《ゆみとり》なれども、運《うん》が盡《つ》きて、斯《か》くも果敢《はか》なくなつたと云《い》うた。〔參河物語〕公論《こうろん》敵讎《てきしう》より出《い》づ。果然《くわぜん》勝頼《かつより》は、不肖《ふせう》の子《こ》ではなかつた。但《た》だ彼《かれ》は信玄《しんげん》の餘業《よげふ》を承《う》け、織田《おだ》、徳川《とくがは》と兩立《りやうりつ》し難《がた》き立場《たちば》に在《あ》り、遂《つひ》に日本統《にほんとう》一|事業《じげふ》の、祭壇《さいだん》に供《きよう》せらるゝ、一の犠牲者《ぎせいしや》となつたのだ。彼《かれ》と織田《おだ》、徳川《とくがは》との交鬪《かうとう》の始末《しまつ》を、叙《じよ》するに先《さきだ》ち、聊《いさゝ》か彼《かれ》其人《そのひと》に就《つい》て、語《かた》る所《ところ》此《かく》の如《ごと》し。
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勝頼決して侮る可らず
成敗に依て人を論ずるは常人の情なり。武田勝頼其國を失ひ、身も亦刀刄に斃れたれば、後世史家より種々の惡評を加へられ、長坂長閑、跡部大炊介と云ふ佞臣を寵用し、老將宿臣を斥けしかば、遂に亡國に及びたりとて、恰も惡政の主人たる如く言ひ做され、其の顏に墨を塗られたり。さりながら國の盛衰興亡は、必ずしも一人の徳に依らず、亡ぶべき勢ありて、其時節が來れば、賢人國を守るとも遂に亡ぶべし。亡國の主なりとて、其人を酷論するは、輕薄なる毀譽褒貶を縱にするもののみ。たとへば家康にても、若し門徒一揆の騷動の時、鎧に中りし鐵砲の丸藥少し強く、其時命を失ひたらば、『あれ見よ三河の家康は若氣の血氣にはやり、門徒退治を企てたれば、戸樫氏の末路の如く命を失ひたり、誠に馬鹿者と謂つべし』など云はるべし。所詮は人間の事、九分まで運命に在り。運拙くして敗軍の將となつたりとて、直ちに其人物を惡口するは無識の至りと謂ひつべく、さる批判の行はるゝは人生の一大不幸とすべし。勝頼の 生を夷考するに、其人決して侮るべからず。甲州の武勇も信玄の死にたるが爲に衰へたるに非ず。十年の間たけく雄々しく其國を守り、常に合縱連衡の策を講じて信長を惱ましたれば、武將としては必ずしも力量なき人に非ずと謂つべき歟。さりながら信玄既に死にたる上は、勝頼たとへば父ほどの器なりとも、良將の後を承けたる若大將を信用せざるは世の常?なるを以て、甲州の威は自ら輕くなりたり。〔山路愛山著『徳川家康』〕
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