第一章 天正時代の日本
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[#割り注]近世日本國民史[#割り注終わり]織田氏時代 中篇

[#地から1字上げ]蘇峰學人

[#3字下げ]第一章 天正時代の日本
[#5字下げ]【一】天正元年の日本
嚴正《げんせい》に云《い》へば、織田時代《おだじだい》は、信長《のぶなが》が元龜《げんき》四|年《ねん》(天正元年)七|月《ぐわつ》、將軍義昭《しやうぐんよしあき》を追放《つゐはう》し、自《みづ》から天皇《てんわう》の下《もと》に、天下《てんか》の政柄《せいへい》を掌《つかさど》らんとしたる時《とき》より、天正《てんしやう》十|年《ねん》六|月《ぐわつ》、本能寺《ほんのうじ》の變《へん》に、其《そ》の最期《さいご》を遂《と》ぐる迄《まで》、約《やく》十|個年《かねん》である。足利氏《あしかゞし》の亡《ほろ》びたるや久《ひさ》し。されど永祿《えいろく》八|年《ねん》、將軍義輝《しやうぐんよしてる》が、三|好《よし》、松永等《まつながら》に弑《しい》せられるゝ迄《まで》は、兎《と》も角《かく》も虚器《きよき》を擁《よう》して居《ゐ》た。即《すなは》ち建武《けんむ》二|年《ねん》、足利尊氏《あしかゞたかうぢ》が、征夷大將軍《せいいたいしやうぐん》の位《くらゐ》を僭《せん》して以來《いらい》、十四|代《だい》、二百三十一|年《ねん》。それに義昭《よしあき》を加《くは》へ、永祿《えいろく》九|年《ねん》より、元龜《げんき》四|年間《ねんかん》の八|年《ねん》を算《さん》すれば、十五|代《だい》、二百三十九|年《ねん》。此《こゝ》に於《おい》て足利氏《あしかゞし》は、名實《めいじつ》共《とも》に全《まつた》く滅《ほろ》びた。
此《こ》れと同時《どうじ》に、信長《のぶなが》は名實《めいじつ》與《とも》に、時代《じだい》の主人公《しゆじんこう》となつた。然《しか》も彼《かれ》は唯《た》だ中央《ちゆうあう》の要部《えうぶ》を支配《しはい》した迄《まで》で、日本全國《にほんぜんこく》を見渡《みわた》せば、依然《いぜん》たる群雄割據《ぐんゆうかつきよ》である。本願寺《ほんぐわんじ》は依然《いぜん》として、京畿《けいき》の咽喉《いんこう》なる大阪《おほさか》に龍蟠《りゆうばん》した。淺井《あさゐ》、朝倉《あさくら》は、江州《がうしう》の一|揆《き》と與《とも》に、動《やゝ》もすれば信長《のぶなが》の京都《きやうと》、岐阜間《ぎふかん》の連絡線路《れんらくせんろ》を、遮斷《しやだん》せんとした。紀州《きしう》の雜賀《さいが》、伊勢灣《いせわん》の長島《ながしま》、何《いづ》れも油斷《ゆだん》は出來《でき》ぬ。
飜《ひるがへつ》て東海道《とうかいだう》を見《み》れば、家康《いへやす》は信玄《しんげん》の大軍《たいぐん》に、昨年來《さくねんらい》打撃《だげき》を受《う》け、尋常《じんじやう》ならぬ痛手《いたで》を負《お》うたが、才《わづ》かに信玄《しんげん》の死去《しきよ》で、姑《しば》らく一|息《いき》をついた。然《しか》も其子《そのこ》の勝頼《かつより》は、今川氏眞《いまがはうぢざね》ではなかつた。彼《かれ》は父程《ちゝほど》の智略《ちりやく》はないが、鬪將《とうしやう》としては、天下《てんか》に比倫《ひりん》少《すくな》き一|人《にん》である。彼《かれ》在《あ》るが爲《た》めに、信長《のぶなが》をして背顧《はいこ》の憂《うれひ》を絶《た》たざらしむる、約《やく》十|年《ねん》の歳月《さいげつ》を要《えう》した。關東《くわんとう》には北條氏政《ほうでううぢまさ》が、其父《そのちゝ》氏康《うぢやす》の舊業《きうげふ》を繼紹《けいせう》して、守《まも》りて失《うしな》ふことなかつた。越後《ゑちご》の謙信《けんしん》は、只管《ひたす》ら信玄《しんげん》退治《たいぢ》の計策《けいさく》を講《かう》じつゝあつたが、端《はし》なく其《そ》の對手《あひて》を失《うしな》うて、茫然自失《ばうぜんじしつ》の態《てい》なきにしもあらずだ。然《しか》も彼《かれ》が第《だい》二の信玄《しんげん》となりて、信長《のぶなが》に鋒《ほこさき》を向《む》け來《きた》る迄《まで》には、今後《こんご》四五|年《ねん》を要《えう》した。
東北方面《とうほくはうめん》には、會津《あひづ》に蘆名氏《あしなし》あり、山形《やまがた》に最上氏《もがみし》あり、米澤《よねざわ》に伊達氏《だてし》あり、而《しか》して伊達氏《だてし》最《もつと》も上國《じやうこく》に通《つう》じ、其《その》志《こゝろざし》小《せう》ならずであつた。伊達晴宗《だてはるむね》は、將軍義晴《しやうぐんよしはる》より、其《その》子《こ》輝宗《てるむね》は、將軍義輝《しやうぐんよしてる》より、何《いづ》れも偏諱《へんい》を受《う》けた。而《しか》して晴宗《はるむね》は、奧州探題《あうしうたんだい》であつて、其《そ》の資望《しばう》は、自《おのづ》から高《たか》かつた。伊達氏《だてし》は、結婚政策《けつこんせいさく》と、陰謀《いんばう》と、兵力《へいりよく》とによりて、漸次《ぜんじ》奧羽《あうう》の間《あひだ》に、其《そ》の勢力《せいりよく》を伸長《しんちやう》した。而《しか》して信長《のぶなが》とも消息《せうそく》を通《つう》じ、互《たが》ひに利用《りよう》し、且《か》つ利用《りよう》せられた。
四|國《こく》の三|好《よし》一|黨《たう》は、概《おほむ》ね信長《のぶなが》に降《くだ》つた。然《しか》も四|國《こく》に於《おい》て、最《もつと》も目醒《めざ》ましきは、土佐《とさ》なる長曾我部氏《ちやうそかべし》の勃興《ぼつこう》である。長曾我部國親《ちやうそかべくにちか》は、永祿《えいろく》三|年《ねん》に逝《ゆ》いたが、其《その》子《こ》元親《もとちか》に至《いた》りて國司《こくし》一|條氏《でうし》と、仁淀川《によどがは》を堺《さかひ》として、土佐《とさ》を分割《ぶんかつ》し、遂《つひ》には一|條氏《でうし》を併《あは》せ、進《すゝ》んで兵《へい》を阿波《あは》、讃岐《さぬき》、伊豫《いよ》に出《い》だし、四|國《こく》を掩有《えんいう》せんとした。
其《そ》の對岸《たいがん》の中國《ちゆうごく》に於《おい》ては、毛利元就《まうりもとなり》既《すで》に逝《ゆ》くも、其《そ》の遺業《ゐげふ》は、其《そ》の二|子《し》吉川元春《きつかはもとはる》、小早川隆景《こばやかはたかかげ》によりて、倍※[#歌記号、1-3-28]?《ます/\》充實《じゆうじつ》せられ、擴大《くわくだい》せられ、山陽《さんやう》、山陰《さんいん》に鬱然《うつぜん》たる大勢圜《たいせいくわん》を成《な》した。而《しか》して其《そ》の勢力《せいりよく》は、四|國《こく》、九|州《しゆう》、畿内《きない》迄《まで》も、衣被《いひ》せんとした。信長《のぶなが》の勢力《せいりよく》が西漸《せいぜん》するに際《さい》し、到底《たうてい》衝突《しようとつ》を免《まぬか》れざるは、此《こ》の勢力《せいりよく》であつた。其他《そのた》播州《ばんしゆう》に別所《べつしよ》、小寺等《こでらら》あり、出雲《いづも》に尼子氏《あまこし》あり、備前《びぜん》に宇喜多氏《うきたし》あり。是等《これら》は概《おほむ》ね皆《み》な、信長《のぶなが》勢力《せいりよく》未達《みたつ》の地《ち》であつた。
九|州《しう》方面《はうめん》は少貳氏《せうにし》に代《かは》りて、龍造寺氏《りゆうざうじし》起《おこ》り、大友氏《おほともし》と相《あひ》爭《あらそ》うた。大友氏《おほともし》は、豐後《ぶんご》を本據《ほんきよ》として、豐前《ぶぜん》、筑前《ちくぜん》、肥後《ひご》、筑後《ちくご》に、其《そ》の勢圜《せいくわん》を擴張《くわくちやう》したるも、一たび龍造寺氏《りゆうざうじし》と戰《たゝか》うて、交綏《かうすゐ》し、更《さ》らに島津氏《しまづし》と爭《あらそ》うて、大敗《たいはい》を招《まね》き、遂《つひ》に振《ふる》ふなきに至《いた》つた。
島津氏《しまづし》は、貴久《たかひさ》の子《こ》義久《よしひさ》に至《いた》りて、其《そ》の宿敵《しゆくてき》たる日向《ひうが》の伊東氏《いとうし》を破《やぶ》り、大友氏《おほともし》を破《やぶ》り、龍造寺氏《りゆうざうじし》を破《やぶ》り、遂《つひ》に九|州《しゆう》の一|大雄鎭《だいゆうちん》となつた。然《しか》も天下《てんか》の大勢《たいせい》には、殆《ほと》んど何等《なんら》の影響《えいきやう》をも、與《あた》へなかつた。
但《た》だ看逃《みのが》し難《がた》きは、九|州《しゆう》の小大名《せうだいみやう》たる、大村《おほむら》、有馬《ありま》、松浦《まつうら》諸氏《しよし》が、大友氏《おほともし》と與《とも》に、耶蘇教《やそけう》に歸依《きえ》し、若《もし》くは耶蘇教《やそけう》を利用《りよう》し、盛《さか》んに外國貿易《ぐわいこくぼうえき》を營《いとな》んだことである。世《よ》の中《なか》は複雜《ふくざつ》ぢや、一|方《ぽう》には日本國中《にほんこくちゆう》戰爭《せんそう》酣《たけなは》なるに、他方《たはう》には外國《ぐわいこく》との商賣取引《しやうばいとりひき》が、盛《さか》んに流行《りうかう》して居《ゐ》た。而《しか》して耶蘇教《やそけう》も亦《ま》た、其《そ》の副産物《ふくさんぶつ》として、追々《おひ/\》弘通《ぐつう》して來《き》た。

[#5字下げ]【二】天正時代の日本人
當時《たうじ》に於《お》ける、國民《こくみん》の生活状態《せいくわつじやうたい》は奈何《いかん》。吾人《ごじん》は幸《さいはひ》に耶蘇宣教師等《やそせんけうしら》の書《か》き殘《のこ》したる、文書《ぶんしよ》の中《うち》に於《おい》て、其《そ》の約略《やくりやく》を知《し》る※[#「こと」の合字、5-9]が出來《でき》る。
日本國《にほんこく》には、各地方《かくちはう》に、澤山《たくさん》の獨立《どくりつ》の君主《くんしゆ》がある、故《ゆゑ》に恒《つね》に爭鬪《さうとう》が絶《た》えぬ。乃《すなは》ち日本全國《にほんぜんこく》が、丸《ま》るで一|大戰場《だいせんぢやう》の樣《やう》である。
貴族《きぞく》は二|階《かい》作《づく》りの美屋《びをく》に住《す》む。一|階《かい》は外方《ぐわいはう》にありて、家族等《かぞくら》住《す》み、主人《しゆじん》は二|階《かい》に居《を》る。又《ま》た立派《りつぱ》な別室《べつしつ》がある。畫壁《ぐわへき》金屏《きんぺい》、人目《じんもく》を?耀《げんえう》す。床《とこ》には名畫《めいぐわ》を掲《かゝ》げ、花瓶《くわへい》は異香《いかう》ある花《はな》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《さしはさ》み、茶器《ちやき》、刀劍《たうけん》等《とう》を飾《かざ》り置《お》く。平民《へいみん》は木造屋《もくざうや》にて、金持《かねもち》は白堊《はくあ》を塗《ぬ》り、屋根《やね》は片板《きれいた》を以《もつ》て、瓦?《かはら》に代《か》へ、貧乏者《びんばうもの》は藁葺《わらぶき》で、粘土《ねんど》の壁《かべ》ぢや。此類《このるゐ》の家《いへ》が最《もつと》も多《おほ》くある。
日本人《にほんじん》は概《おほむ》ね強壯《きやうさう》にて、戰鬪《せんとう》に堪《た》ふ。容貌《ようばう》は橄欖色《おりーぶいろ》で、躯?幹《くかん》は先《ま》づ中等《ちゆうとう》ぢや。精神《せいしん》は活溌?《くわつぱつ》で、擧動《きよどう》は敏捷《びんせふ》ぢや。少年《せうねん》は頭髮《とうはつ》の前部《ぜんぶ》を剃《そ》り、職工《しよくこう》、農夫等《のうふら》は其《そ》の半《なかば》を削《そ》り落《おと》し、貴族《きぞく》は全部《ぜんぶ》の頭髮《とうはつ》を蓄《たくは》へ、後部《こうぶ》に髻《もとゞり》を結《むす》ぶ。日本人《にほんじん》は如何《いか》にも辛抱力《しんばうりよく》が強《つよ》い。飢渇《きかつ》、寒暑《かんしよ》にも、屈《くつ》せず、勤勞《きんらう》にも倦《う》まず、如何《いか》なる困苦《こんく》にも、堪《た》へ忍《しの》ぶ美質《びしつ》を持《もつ》て居《を》る。職工《しよくこう》、農夫《のうふ》迄《まで》も、歐洲《おうしう》のそれとは、丸《ま》るで反對《はんたい》に、尊敬《そんけい》、丁寧《ていねい》、良《まこ》とに上品《じやうひん》で、恰《あたか》も宮中《きうちゆう》で教育《けういく》を受《う》けた樣《やう》に見受《みうけ》らるゝ。概《がい》して言《い》へば、日本人《にほんじん》は活溌?《くわつぱつ》、頴敏《えいびん》で、聞見《ぶんけん》を廣《ひろ》むるに急《きふ》に、理《り》に鋭《するど》く、義《ぎ》に勇《いさ》む風《ふう》がある。撒美惠師《ザビヱ?ーし》の書翰《しよかん》にも、日本人《にほんじん》は能《よ》く予《よ》が言《げん》を諦聽《ていちやう》し、其《そ》の質問《しつもん》を發《はつ》するや敏捷《びんせふ》に、一たび會得《ゑとく》すれば、必《かな》らず之《これ》を實行《じつかう》すとあるが、先《ま》づ其《そ》の通《とほ》りぢや。
日本人《にほんじん》の最《もつと》も練?習《れんしふ》するは、武術《ぶじゆつ》也《なり》。男子《だんし》は十二|歳《さい》より、刀《たう》を佩《お》び、夜間《やかん》休憩《きうけい》の他《ほか》は、之《これ》を脱《ぬ》がぬ。睡時《すゐじ》も之《これ》を枕頭《ちんとう》に措《お》く。武器《ぶき》は劍《けん》、短劍《たんけん》、槍《やり》、弓《ゆみ》、小銃《せうじう》等《とう》がある。然《しか》も刀劍《たうけん》の鋭利《えいり》は、歐洲《おうしう》の劍《けん》を兩斷《りやうだん》しても、其《その》刃《やいば》に何等《なんら》の痕跡《こんせき》を、殘《のこ》さない程《ほど》である。日本人《にほんじん》は武《ぶ》を尊《たつと》び、刀劍《たうけん》を其《そ》の徴象《ちようしやう》として、最《もつと》も之《これ》を大切《たいせつ》にし、其《そ》の裝飾《さうしよく》等《とう》にも頗《すこぶ》る意《い》を用《もち》ひ、互《たが》ひに之《これ》を誇耀《くわえう》して居《を》る。
日本人《にほんじん》には、一|年間《ねんかん》、一|定《てい》の更衣期《かういき》がある。其《そ》の期日《きじつ》に至《いた》れば、皆《み》な其《そ》の衣服《いふく》を、季節《きせつ》相應《さうおう》のものに更《あら》たむ。婦人《ふじん》の衣服《いふく》の華美《くわび》なるは、日本《にほん》に及《およ》ぶものがない。首飾《くびかざり》はそれ程《ほど》仰山《ぎやうさん》でもないが、可《か》なりに見《み》るべきものがある。頭髮《とうはつ》は巧《たくみ》に頭《かうべ》の後部《こうぶ》に垂下《すゐか》し、絲《いと》を以《もつ》て結《むす》んで居《を》る。眞珠《しんじゆ》の指輪《ゆびわ》、金銀縫箔《きんぎんぬひはく》の帶《おび》、五|?《かさね》より十二|?《かさね》に至《いた》る、精美《せいび》なる絹衣《けんい》、實《じつ》に美麗《びれい》のものぢや。平民《へいみん》の著衣《ちやくい》は、其《そ》の膝頭《ひざがしら》に止《とゞ》まる。都市《とし》、村落《そんらく》の別《べつ》なく、刀《たう》を帶《お》び、何《いづ》れも杖《つゑ》を持《も》つて居《を》る。男女《だんぢよ》に拘《かゝは》らず、皆《み》な扇子《せんす》を携《たづさ》へ、貴人《きじん》は門外《もんぐわい》に出《で》る時《とき》には、僕從等《ぼくじゆうら》日傘《ひがさ》を差掛《さしか》く。
日本《にほん》高貴《かうき》の婦人《ふじん》程《ほど》、好遇《かうぐう》せらるゝものはない。居室《きよしつ》は善美《ぜんび》を盡《つく》し、庭《には》に花卉《くわき》あり、池《いけ》に魚鳥《ぎよてう》あり、女嬬《ぢよじゆ》五十|人《にん》乃至《ないし》五百|人《にん》奉仕《ほうし》し、一として意《い》の如《ごと》くならざるなし。但《た》だ規律《きりつ》嚴《げん》にして、自由《じいう》を妨《さまた》ぐるのみだ。配合《はいがふ》は一|夫《ぷ》一|婦《ぷ》であるが、些細《ささい》の事《こと》にして、其《その》婦《ふ》を離別《りべつ》する※[#「こと」の合字、8-6]は、珍《めづ》らしくない。
日本人《にほんじん》の食饌《しよくせん》は、清潔《せいけつ》にして、美《び》を盡《つ》くして居《を》る。室内《しつない》には、履物《はきもの》を脱《だつ》して進《すゝ》む。何《いづ》れも坐《ざ》して脚《きやく》を屈《くつ》す。食卓《しよくたく》は一|人《にん》一|卓《たく》で、方形《はうけい》にして、低《ひく》き一の脚《きやく》がある。食饌《しよくせん》の更《か》はる毎《ごと》に、其《その》器《うつは》を改《あらた》む。食卓《しよくたく》には畫《ゑが》きたるもの、漆《うるし》したるもの、金銀《きんぎん》を鏤《ちりば》め蒔繪《まきゑ》したるもの、何《いづ》れも精巧《せいこう》である。客《きやく》を招《まね》けば、先《ま》づ茶菓《ちやくわ》を供《きよう》して、酒饌《しゆせん》に及《およ》ぶ。中等《ちうとう》以下《いか》の人《ひと》は、米《こめ》、野菜?《やさい》、魚肉《ぎよにく》を常食《じやうしよく》とす。富者《ふしや》は美食《びしよく》に誇《ほこ》り、肉菜?《にくさい》を盛《も》り立《たて》、時《とき》としては鳥《とり》の全體《ぜんたい》を用《もち》ひ、脚《あし》を去《さ》らず、嘴《くちばし》を飾《かざ》るに、金《きん》を以《もつ》てする※[#「こと」の合字、8-13]がある。肉?《にくさし》、匙《さじ》、刀《たう》を用《もち》ひず、唯《た》だ箸《はし》を用《もち》ふ。箸《はし》は象牙《ざうげ》、杉《すぎ》、其他《そのた》香木《かうぼく》にて、長《なが》さ一|尺《しやく》餘《よ》。
日本人《にほんじん》の飮料《いんれう》は、滾湯《たぎりゆ》に茶葉《ちやえふ》を入《い》れたるものだ。貴人《きじん》は總《すべ》て此《こ》の茶葉《ちやえふ》を珍重《ちんちよう》し、之《これ》を用《もち》ふる器《うつは》は、木《もく》、泥《でい》、或《あるひ》は鐵製《てつせい》にて、主人《しゆじん》自《みづ》から之《これ》を調理《てうり》し、自《みづ》から之《これ》を護持《ごぢ》す一五八六|年《ねん》(天正十四年)豐後《ぶんご》の國主《こくしゆ》大友宗麟《おほともそうりん》が、教師《けうし》ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]に示《しめ》したる、泥造《でいざう》の一|小《せう》茶器《ちやき》は、一|萬《まん》四千『デユカー』にて買《か》ひ得《え》たと云《い》うた。
日本人《にほんじん》一|般《ぱん》の氣質《きしつ》として、名譽《めいよ》を重《おも》んじ、他《た》より賤《いや》しめ、下《さ》げすまるゝ※[#「こと」の合字、9-6]を、嫌忌《けんき》、憤激《ふんげき》する※[#「こと」の合字、9-7]、到底《たうてい》外國人《ぐわいこくじん》の相像《さうざう》の及《およ》ぶ所《ところ》でない。要《えう》するに日本人《にほんじん》は、事事物々《じじぶつ/\》、此《こ》の名譽《めいよ》、面目《めんもく》の爲《た》めに拘束《こうそく》せられて、其《そ》の動作《どうさ》をなしつゝある。例《たと》へば人《ひと》に雇役《こえき》せらるゝものにても、若《も》し雇主《やとひぬし》の待遇《たいぐう》其《その》意《い》に適《てき》せざれば、直《たゞ》ちに去《さ》る。多言《たげん》を卑《いやし》み、愁訴《しうそ》を怯《けふ》とし、感覺《かんかく》の強鋭者《きやうえいしや》は、婦女子《ふぢよし》の類《るゐ》とし、親友《しんいう》にも憂苦《いうく》を告《つ》げず。是《こ》れは我《わ》が柔懦《じうだ》を示《しめ》すを欲《ほつ》せぬからだ。盜賊《たうぞく》を惡《に》くみ、貪慾《どんよく》を賤《いや》しめ、不正《ふせい》を嫌《きら》ふ。親《おや》に孝《かう》に、貧困《ひんこん》を恥《はぢ》とせぬ。其《そ》の勇猛《ゆうまう》にして、堪忍力《かんにんりよく》の強《つよ》きは、實《じつ》に測知《そくち》す可《べ》らざるものがある。
以上《いじやう》は彼等《かれら》の目《め》に映《えい》じたる。一|斑《ぱん》だ。吾人《ごじん》より觀察《くわんさつ》すれば、何《なん》となく日本人《にほんじん》の頌徳表《しようとくへう》の如《ごと》くも見《み》える。併《しか》し其《そ》の裡面《りめん》には、日本人《にほんじん》の缺點《けつてん》も、自《おのづ》から暴露《ばくろ》するかの如《ごと》くにも思《おも》はるゝ。

[#5字下げ]【三】生活と流行
室町時代《むろまちじだい》の末期《まつき》より、元龜《げんき》、天正《てんしやう》にかけては、國民《こくみん》の生活情態《せいくわつじやうたい》も、漸次《ぜんじ》に進歩《しんぽ》した樣《やう》に思《おも》はるゝ。此《こ》れは富《とみ》の進歩《しんぽ》が、其《そ》の原因《げんいん》であり、而《しか》して富《とみ》の進歩《しんぽ》は、支那《しな》との交通《かうつう》、延《ひ》いて南蠻人《なんばんじん》、西洋人《せいやうじん》との交通《かうつう》に由來《ゆらい》する所《ところ》、恐《おそ》らくは少《すくな》からずであつたらう。
當時《たうじ》京都《きやうと》の物價《ぶつか》は、漆《うるし》四十|貫目《くわんめ》にて、錢《ぜに》五百|文《もん》、砂糖《さたう》一|斤《きん》が、百四十|文《もん》、蜜《みつ》は四百六十八|文《もん》、酒《さけ》は三|斗《と》三|升《じよう》で、三百三十|文《もん》、緞子《どんす》は一|端《たん》三|貫《くわん》四百|文《もん》、布《ぬの》一|端《たん》は鐚錢《びたせん》八百|文《もん》、?《しほ》一|斗《と》六|升《しよう》を、米《こめ》一|斗《と》、綿《わた》十五|把《は》を、五|石《こく》七|斗《と》、昆布《こんぶ》一|束《たば》(五十本)を一|斗《と》三|升《じよう》、墨《すみ》五十|挺《ちやう》を、一|石《こく》六|斗《と》に換《か》へた。賣買《ばい/\》には錢《ぜに》を用《もち》ふ可《べ》しと法令《はふれい》はあつたが、依然《いぜん》米《こめ》を通貨《つうくわ》の代《かは》りとしたる者《もの》が、多《おほ》かつた。〔國史眼〕軍國《ぐんこく》の多事《たじ》につけて、鑛業《くわうげふ》も大《おほ》いに進歩《しんぽ》した。金銀《きんぎん》の産出《さんしゆつ》も、恐《おそ》らくは此《こ》の時代《じだい》に、鮮少《せんせう》ではなかつたであらう。又《ま》た農業《のうげふ》も、必要上《ひつえうじやう》漸次《ぜんじ》改良《かいりやう》せられたであらう。
喫茶《きつさ》の事《こと》は、當時《たうじ》來朝《らいてう》したる西洋人《せいやうじん》の目《め》にも、異常《ゐじやう》に映《えい》ずる程《ほど》にて、頗《すこぶ》る流行《りうかう》した。此《こ》れは上下《しやうか》を通《つう》じての事《こと》であつた。足利氏《あしかゞし》は衰《おとろ》へた、併《しか》し足利氏《あしかゞし》によりて獎勵《しやうれい》せられた數寄《すき》の道《みち》は、却《かへつ》て隆盛《りゆうせい》になつた。當時《たうじ》の最急進黨《さいきふしんたう》、舊習破壞《きうしふはくわい》の大先達《だいせんだつ》であつた信長《のぶなが》さへも、入洛《じゆらく》すると同時《どうじ》に、茶器《ちやき》を漁《あさ》り、堺《さかひ》の富豪《ふがう》より徴發《ちようはつ》し。松永久秀《まつながひさひで》の如《ごと》き、本願寺《ほんぐわんじ》の如《ごと》き、信長《のぶなが》に對《たい》し、謀反《むほん》の過料《くわれう》に、茶器《ちやき》献上《けんじやう》で、其《そ》の首尾《しゆび》を繕《つくろ》うたるかを見《み》れば、其《そ》の消息《せうそく》が解《かい》せらるゝであらう。
改《あらた》めて講釋《かうしやく》する迄《まで》もなく、茶《ちや》は鎌倉時代《かまくらじだい》に行《おこな》はれ、建仁寺《けんにんじ》の千光國師《ちくわうこくし》には、喫茶養生論《きつさやうじやうろん》の著《ちよ》があり、栂尾《とがのを》の明慧上人《みやうゑしやうにん》も、茶《ちや》を栽培《さいばい》したが。其《そ》の最《もつと》も流行《りゆうかう》し出《だ》したのは、東山義政《ひがしやまよしまさ》以後《いご》と云《い》うてもよからう。而《しか》して義政《よしまさ》に茶事《さじ》を傳授《でんじゆ》したのは、南都稱名寺《なんとしようみやうじ》の僧《そう》珠光《じゆくわう》ぢや。當時《たうじ》京都《きやうと》の大徳寺《だいとくじ》に、宋《そう》より渡來《とらい》した臺子《だいす》があつたが、誰《たれ》も其《そ》の何《なん》の道具《だうぐ》であるかを知《し》らぬ。然《しか》るに珠光《じゆくわう》は、其《そ》の茶器《ちやき》であることを知《し》りて、始《はじ》めて之《これ》を用《もち》ひた。それは風?《ふろ》、釜《かま》、熟盂《みづさし》、分盞建《ひしやくたて》、炭?《ひばし》、建水《みづこぼし》等《など》である。珠光《じゆくわう》の後《のち》に紹?《せうおう》が堺《さかひ》に起《おこ》つた。彼《かれ》は元來《ぐわんらい》、武田因幡守《たけだいなばのかみ》てふ武人《ぶじん》であつたが、剃髮《ていはつ》して一|閑齋紹?《かんさいせうおう》と號《がう》した。信長時代《のぶながじだい》には、彼《かれ》の流儀《りうぎ》が大《おほ》いに行《おこな》はれた。其《そ》の門人《もんじん》が、千|利休《りきう》ぢや。而《しか》して民間《みんかん》では、道傍《だうばう》に茶《ちや》を煮《に》て、一|盞《さん》一|錢《せん》で賣《う》つたものぢや。
當時《たうじ》和歌《わか》は、聊《いさゝ》か下火《したび》となり、連歌《れんか》が最《もつと》も繁昌《はんじやう》した。東山時代《ひがしやまじだい》に出《い》でたる連歌師《れんかし》の開山《かいさん》、宗祇《そうぎ》を首《はじめ》として、爾後宗長《じこそうちやう》、宗牧《そうぼく》抔《など》、能《よ》く諸國《しよこく》を行脚《あんぎや》した。而《しか》して五十|句《く》、百|韵《いん》、甚《はなは》だしきは千|句《く》に至《いた》るものがあつた。三|好長慶《よしちやうけい》が、連歌《れんか》の會《くわい》に出席《しゆつせき》の際《さい》、
[#2字下げ]すゝきにまじる葦《あし》の一むら
の一|句《く》出《い》で來《きた》り、人々《ひと/″\》附句《つけく》に當惑中《たうわくちゆう》、折《をり》から長慶《ちやうけい》に使者《ししや》來《きた》りて、一|封《ぷう》の書簡《しよかん》を渡《わた》した。彼《かれ》は之《これ》を披見《ひけん》し、徐《おもむ》ろに之《これ》を收《をさ》め、自《みづ》から
[#2字下げ]沼水《ぬまみづ》の淺《あさ》き方《かた》より野《の》となりて
の句《く》を附《つ》け。改《あらた》めて申《まを》す樣《やう》、只今《たゞいま》弟《おとうと》實休《じつきう》、和泉《いづみ》にて討死《うちじに》の報《はう》來《きた》る、されば今席《こんせき》は、此《これ》にて御免候《ごめんさふら》へと、直《たゞ》ちに戰場《せんぢやう》に赴《おもむ》いたと云《い》ふ話《はなし》がある。明智光秀《あけちみつひで》が愛宕山西坊《あたごやませいばう》の連歌《れんか》百|韵《いん》興行《こうぎやう》の如《ごと》きも、亦《ま》た插※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話《さうわ》の一であらう。
能樂《のうがく》も亦《ま》た觀阿彌《くわんあみ》、世阿彌《せあみ》以來《いらい》、彌《いよい》よ盛《さか》んになり、種々《しゆ/″\》の新曲《しんきよく》が出來《でき》た。狂言《きやうげん》も亦《ま》た、獨立《どくりつ》の專門家《せんもんか》が出來《でき》た。此《こ》れを見《み》れば室町時代《むろまちじだい》の、上流社會《じやうりうしやくわい》の面影《おもかげ》が、今尚《いまなほ》あり/\と眼前《がんぜん》に髣髴《はうふつ》する。又《ま》た幸若舞《かうわかまひ》も流行《りうかう》した。今樣《いまやう》の歌《うた》、漸《やうや》く廢《はい》せられて、小歌《こうた》之《これ》に代《かは》つた。當時《たうじ》民間《みんかん》の流行《りうかう》歌中《うたちゆう》には、
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一|天《てん》四|海《かい》をうち治《をさ》めたまへば、國《くに》も動《うご》かぬあらがねの、土《つち》の車?《くるま》の我等《われら》まで、道《みち》狹《せま》からぬ大君《おほぎみ》の、みかげの國《くに》なるをば、一人《ひとり》せかまたまふな。
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の類《るゐ》があつた。信長《のぶなが》が平生《へいせい》愛誦《あいしよう》したる敦盛《あつもり》も亦《ま》た、此《こ》の小歌《こうた》の一ぢや。又《ま》た信長《のぶなが》の兵《へい》が、淺井《あさゐ》の小谷《をだに》を攻《せ》むるや、
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淺井《あさゐ》が城《しろ》はちひさい城《しろ》や、あゝ、よい茶《ちや》の子《こ》、朝茶《あさちや》の子《こ》。
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と歌《うた》うた。淺井《あさゐ》の兵《へい》は、
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淺井《あさゐ》が城《しろ》を茶《ちや》の子《こ》とおしやる、赤飯《せきはん》茶《ちや》の子《こ》で強茶《こはちや》の子《こ》。
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と答《こた》へた。而《しか》して更《さ》らに、
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信長殿《のぶながどの》は橋《はし》の下《した》のどら龜《がめ》、ひよつと出《で》て引込《ひつこ》み/\、も一|度《ど》でたら首《くび》を取《と》ろ。
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と嘲《あざけ》つた。
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一にうきこと金《かな》が崎《さき》、二にはうきこと志賀《しが》の陣《ぢん》、三に福島《ふくしま》、野田《のだ》ののき口《ぐち》/\。
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是《これ》亦《ま》た世間《せけん》が、信長《のぶなが》の敗軍《はいぐん》を嘲《あざけ》つた流行歌《はやりうた》ぢや。龍《りう》に翼《つばさ》を添《そ》へたる如《ごと》き信長《のぶなが》でも、世間《せけん》の口《くち》には、打《う》ち勝《か》つことは能《あた》はぬ。滿《まん》は損《そん》を招《まね》き、謙《けん》は益《えき》を受《う》く。嫉妬《しつと》其物《そのもの》は、香《かんば》しからぬ物《もの》であるが、是《これ》亦《ま》た社會《しやくわい》の一|大《だい》平均力《へいきんりよく》である。天下《てんか》に宰《さい》たる人《ひと》は、此《こ》の嫉妬《しつと》を、如何《いか》に善《よ》く處理《しより》するかを、考慮《かうりよ》せねばならぬ。

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