織田氏時代中篇刊行に就て
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[#4字下げ]織田氏時代中篇刊行に就て[#「織田氏時代中篇刊行に就て」は大見出し]
織田氏時代《おだしじだい》中篇《ちゆうへん》を刊行《かんかう》するに際《さい》し、聊《いさゝ》か數言《すげん》を陳《ちん》ずるの自由《じいう》を容《ゆる》されよ。
著者《ちよしや》は修史《しうし》の事業《じげふ》を、決《けつ》して苦痛《くつう》とは思《おも》はぬ。但《た》だ即今《そくこん》では、此《こ》の事業《じげふ》を以《もつ》て、著者《ちよしや》の生存《せいぞん》の重《おも》なる理由《りいう》の、一|片《ぺん》として居《を》る。著者《ちよしや》は『國民新聞《こくみんしんぶん』に關《くわん》する、當然《たうぜん》の職務《しよくむ》に鞅掌《あうしやう》する他《ほか》は、殆《ほと》んど一|切《さい》の精力《せいりよく》と、時間《じかん》とを、此《こ》の事業《じげふ》に傾倒《けいたう》して居《を》る。是《これ》が爲《た》めに、殆《ほと》んど世間的《せけんてき》交際《かうさい》を、謝絶《しやぜつ》した。是《これ》が爲《た》めに、大《だい》なる義理《ぎり》を缺《か》かぬ程度《ていど》に於《おい》て、周邊《しうへん》とは一|切《さい》關係《くわんけい》を斷《た》つた。而《しか》して『一|日不[#レ]作《じつなさゞれば》一|日不[#レ]食《じつしよくせず》』の覺悟《かくご》を以《もつ》て、孜々《しゝ》、兀々《こつ/\》として、毎日《まいにち》近世史《きんせいし》の幾頁《いくページ》宛《づゝ》かを、書《か》き綴《つゞ》りつゝある。
著者《ちよしや》の所志《しよし》は、誰者《たれでも》が『近世日本國民史《きんせいにほんこくみんし》』を讀《よ》んでも、若干《じやくかん》の興味《きようみ》と、諷示《ふうし》と、教訓《けうくん》とを得可《うべ》きものたらしむる事《こと》に存《そん》する。老人《らうじん》にも、青年《せいねん》にも、婦人《ふじん》にも、壯夫《さうふ》にも、或《あるひ》は普通《ふつう》一|般《ぱん》の讀者《どくしや》にも、或《あるひ》は政治家《せいぢか》、軍人《ぐんじん》、實業家《じつげふか》、教育家《けういくか》、宗教家《しゆうけうか》、其他《そのた》特種《とくしゆ》の階級《かいきふ》の人《ひと》にも、苟《いやしく》も之《これ》を讀《よ》む人《ひと》には、必《かな》らず何物《なにもの》かを、寄貽《きい》す可《べ》きものたらしむる事《こと》に存《そん》する。併《しか》し是《こ》れは著者《ちよしや》の理想《りさう》で、棒程《ぼうほど》希《こひねが》うて針程《はりほど》叶《かな》ふや、否《いな》や、それさへ覺束《おぼつか》なく思《おも》ふ。
或《あるひ》は餘《あま》りに、信長《のぶなが》の個人的《こじんてき》叙述《じよじゆつ》に偏《へん》し、織田氏時代《おだしじだい》の歴史《れきし》よりも、信長《のぶなが》其人《そのひと》の傳記《でんき》ではないかとの批難《ひなん》も、出《い》で來《きた》るであらう。併《しか》し著者《ちよしや》が、極力《きよくりよく》信長《のぶなが》其人《そのひと》に就《つい》て語《かた》るは、乃《すなは》ち信長《のぶなが》の時代《じだい》に就《つい》て、語《かた》るのぢや。何《なん》となれば信長《のぶなが》は、時代《じだい》の代表的《だいへうてき》人物《じんぶつ》であるからだ。されば一|個《こ》の信長《のぶなが》を叙《じよ》するは、取《と》りも直《なほ》さず、同時《どうじ》に輩出《はいしゆつ》したる無數《むすう》の小信長《せうのぶなが》を、叙《じよ》する所以《ゑ?ゑん》ではあるまい乎《か》。
著者《ちよしや》は成《な》る可《べ》く、既定《きてい》の史實《しじつ》に基《もとづ》き、既出《きしゆつ》の史書《ししよ》に據《よ》り、故《ことさ》らに拗僻《えうへき》、新異《しんい》の資料《しれう》を援《ひい》て、前人《ぜんじん》の斷案《だんあん》を翻《ふるがへ》さんと試《こゝろ》みるが如《ごと》き事《こと》を避《さ》けて居《を》る。但《た》だ同《どう》一の東海道《とうかいだう》五十三|驛《つぎ》でも、探幽《たんいう》のスケッチと、廣重《ひろしげ》の錦繪《にしきゑ》とは、自《おのづ》から趣《おもむき》が異《こと》なる。同《どう》一の富士山《ふじさん》でも、百|人《にん》の畫家《ぐわか》に描《ゑが》かしむれば、百|樣《やう》の富士山《ふじさん》となる。如何《いか》に古人《こじん》の熟路《じゆくろ》を辿《たど》りても、著者《ちよしや》には著者《ちよしや》相應《さうおう》の見所《みどころ》がある可《べ》き筈《はず》だ。果《はた》して然《しか》らば、熟路《じゆくろ》を避《さ》けて曲徑《きよくけい》を歩《ある》かねばならぬ理由《りいう》、焉《いづ》くにある乎《か》。
著者《ちよしや》は三十|年來《ねんらい》、新聞事業《しんぶんじげふ》に從《したが》うて居《を》る。されば所謂《いはゆ》る事實《じじつ》なるものゝ覈査《かくさ》に就《つい》ては、聊《いさゝ》か若干《じやくかん》の經驗《けいけん》を有《いう》して居《を》る。現在《げんざい》其《そ》の場所《ばしよ》に在《あ》りて、其事《そのこと》を傳《つた》ふるに、十|人《にん》が十|人《にん》同《おな》じくない。斯《か》く現場《げんぢやう》目撃《もくげき》の新聞《しんぶん》探訪者《たんばうしや》の手帳《てちやう》が、餘《あま》りに當《あ》てにならぬならば、世上《せじやう》の噂《うはさ》を傳聞《でんぶん》して、筆記《ひつき》したる、公家《くげ》や、坊主《ばうず》の日記《につき》とて、固《もと》より悉《こと/″\》く當《あ》てになる可《べ》きものでない。然《しか》るに其《そ》の一|行《ぎやう》、一|句《く》を見出《みいだ》して、從前《じゆうぜん》の成案《せいあん》を飜《ひるがへ》し、鬼《おに》の首《くび》でも取《と》りたる樣《やう》に、彼是《かれこれ》云《い》ひ囃《はや》すは、全《まつた》く素人《しろうと》了見《れうけん》と云《い》はねばならぬ。併《しか》し當《あ》てにならぬとて、又《ま》た全《まつた》く捨《す》てたものでもない。要《えう》するに世《よ》の中《なか》の事《こと》は、嘘《うそ》の中《なか》に實《じつ》あり、實《じつ》の中《なか》に嘘《うそ》ありで、此《こ》れを判別《はんべつ》するが、史家《しか》の能事《のうじ》と云《い》ふ可《べ》きであらう。
併《しか》し新聞《しんぶん》にせよ、舊聞《きうぶん》にせよ。間違《まちが》ひの多《おほ》きは、枝葉《しえふ》の點《てん》にありて、大體《だいたい》の事《こと》に就《つい》ては、却《かへつ》て其《そ》の間違《まちがひ》が少《すくな》い。固《もと》より中《なか》には、新《あら》たなる事實《じじつ》の發見《はつけん》によりて、前人《ぜんじん》の斷案《だあん》を、根底《こんてい》より覆《くつがへ》す可《べ》き事《こと》もあるが、斯《かゝ》る場合《ばあひ》は、概《がい》して稀有《けう》だ。著者《ちよしや》は古人《こじん》の所謂《いはゆ》る信《しん》を以《もつ》て、信《しん》を傳《つた》へ、疑《ぎ》を以《もつ》て、疑《ぎ》を傳《つた》ふの例《れい》に則《のつと》り、異説《いせつ》の存《そん》する際《さい》には、之《こ》れを歴擧《れききよ》して、概《おほむ》ね讀者諸君《どくしやしよくん》の判斷《はんだん》に一|任《にん》することゝした。歴史《れきし》に大切《たいせつ》なのは、其《そ》の歸著點《きちやくてん》である。此《これ》に達《たつ》する道行《みちゆき》は、如何《いか》なる筋《すぢ》を辿《たど》りても、大《だい》なる妨《さまた》げはない。歴史家《れきしか》の第《だい》一|議諦《ぎたい》は、大處《たいしよ》大觀《たいくわん》である。樹木《じゆもく》の吟味《ぎんみ》も、無用《むよう》ではないが、それより大切《たいせつ》なのは、森《もり》の測量《そくりやう》だ。
歴史《れきし》は或《あ》る意味《いみ》に於《おい》ては、人《ひと》と、境遇《きやうぐう》との接觸《せつしよく》の記録《きろく》である。境遇《きやうぐう》も人《ひと》によりて變《かは》るが、人《ひと》も境遇《きやうぐう》によりて換《かは》る。世《よ》の中《なか》には、人間《にんげん》を型《かた》から打《う》ち出《だ》した樣《やう》に思《おも》ふ者《もの》もあるが、此《こ》れ程《ほど》大《だい》なる間違《まちがひ》はない。其《そ》の同《おな》じき境遇《きやうぐう》に投《とう》ずれば、百|人《にん》も一|人《にん》となる。其《そ》の異《ことな》りたる境遇《きやうぐう》に措《お》けば、一|人《にん》も百|人《にん》となる。同中異《どうちゆうい》あり、異中同《いちゆうどう》あり、此《こ》の變化《へんくわ》、?忽《しゆくこつ》、端睨《たんげい》す可《べか》らざる裡《うち》に、自《おのづ》から歴史《れきし》の妙味《みやうみ》は存《そん》するものだ。
如何《いか》なる清水《せいすゐ》でも、之《これ》を分析《ぶんせき》すれば、若干《じやくかん》の含有物《がんいうぶつ》がある。如何《いか》なる單純《たんじゆん》なる人間《にんげん》でも、苟《いやしく》も人間《にんげん》として、眞醇《しんじゆん》の者《もの》はない。但《た》だ善分《ぜんぶん》多《おほ》きを善人《ぜんにん》と云《い》ひ、惡分《あくぶん》多《おほ》きを惡人《あくにん》と云《い》ふのぢや。乃《すなは》ち善人《ぜんにん》も、惡人《あくにん》も、程度《ていど》の問題《もんだい》ぢや。善人《ぜんにん》は何處迄《どこまで》も善《ぜん》、惡人《あくにん》は何處迄《どこまで》も惡《あく》と、宛《あたか》も先天的《せんてんてき》に善人種族《ぜんにんしゆぞく》と、惡人種族《あくにんしゆぞく》と、分類《ぶんるゐ》せられて、産《うま》れ出《い》でたる如《ごと》く見做《みな》すは、人間《にんげん》を全《まつた》く塑像視《そざうし》する者《もの》ぢや。
滿腹《まんぷく》の場合《ばあひ》には、盜跖《たうせき》も食《しよく》を讓《ゆづ》り、空腹《くうふく》の場合《ばあひ》には、伯夷《はくい》も食《しよく》を爭《あらそ》ふ。人《ひと》の一|生《しやう》は、其《そ》の境遇《きやうぐう》によりて、幾回《いくくわい》の變遷《へんせん》あり。奈翁《なおう》三|世《せい》も、巴里大博覽會《ぱりーだいはくらんくわい》前後《ぜんご》に死《し》したらば、長《とこし》へに大奈翁《だいなおう》を辱《はづか》しめざる賢姪《けんてつ》として、英名《えいめい》を遺《のこ》したであらう。獨逸皇帝《どいつくわうてい》も、今《いま》より半個年前《はんかねんぜん》に逝《ゆ》かしめば、尚《な》ほ世界的《せかいてき》大覇者《だいはしや》の未成品《みせいひん》として、惜《お》しまれたであらう。賢者《けんしや》必《かな》らずしも、恆《つね》に賢《けん》ならず。愚者《ぐしや》必《かな》らずしも、恆《つね》に愚《ぐ》ならず。吾人《ごじん》が歴史的《れきしてき》人物《じんぶつ》を取扱《とりあつか》ふには、人間《にんげん》は寒暖計《かんだんけい》の如《ごと》く、周圍《しうゐ》の温度《をんど》の高低《かうてい》如何《いかん》によりて、昇降《しようかう》するものとして見《み》ねばならぬ。大禁物《だいきんもの》は、歴史的《れきしてき》人物《じんぶつ》を、塑像視《そざうし》する事《こと》である。
それたゞ塑像視《そざうし》するが故《ゆゑ》に、其《そ》の論理的《ろんりてき》辻褄《つじつま》を合《あは》す可《べ》く、無理《むり》が出《い》で來《きた》るのだ。即《すなは》ち惡人《あくにん》は何處迄《どこまで》も、惡人《あくにん》らしくせねばならぬ故《ゆゑ》に、惡人《あくにん》の善行《ぜんぎやう》も、惡行《あくぎやう》とせねばならず。善人《ぜんにん》は何處迄《どこまで》も、善人《ぜんにん》とせねばならぬ故《ゆえ》に、善人《ぜんにん》の惡行《あくぎやう》も善行《ぜんぎやう》とせねばならず。此《こゝ》に於《おい》てか所謂《いはゆ》る舞文《ぶぶん》、曲筆《きよくひつ》の已《や》むを得《え》ざる次第《しだい》とはなるのだ。朱子《しゆし》の通鑑綱目《つがんかうもく》や、馬琴《ばきん》の八|犬傳《けんでん》や、何《いづ》れも此《こ》の謬見《びうけん》の爲《た》めに、囚《とら》はれたる適例《てきれい》である。彼等《かれら》は頼《たのま》れぬに、自《みづ》から辯護士《べんごし》となりて、辯護《べんご》し、役目《やくめ》でもなきに、自《みづ》から檢察官《けんさつくわん》となりて、彈糾《だんきう》し、餘計《よけい》なる苦勞《くらう》を、自《みづ》からせねばならぬ破目《はめ》に、陷《おちい》つたのぢや。
但《た》だ如何《いか》なる境遇《きやうぐう》の變化中《へんくわちう》に、打《う》ち込《こ》んでも、其《その》人《ひと》の特色《とくしよく》は、悉《こと/″\》く失墜《しつつゐ》する譯《わけ》には參《まゐ》らぬ。吾人《ごじん》は人間《にんげん》は時々《じゞ》、刻々《こく/\》、境遇《きやうぐう》と與《とも》に變化《へんくわ》する、活物《いきもの》であるを認《みと》むると與《とも》に、如何《いか》なる變化《へんくわ》の中《うち》にも、自《おのづ》から抛却《はうきやく》し得《え》ざる、性格《せいかく》あることを認《みと》めねばならぬ。此《こゝ》に於《おい》てか變化《へんくわ》の中《うち》に一|致《ち》あり、一|致《ち》の中《うち》に變化《へんくわ》ありとは云《い》ふことが可能《あた》ふ。
社會《しやくわい》の人《ひと》を分類《ぶんるゐ》して、一|代《だい》の氣運《きうん》を作爲《さくゐ》する人《ひと》と、一|代《だい》の氣運《きうん》に支配《しはい》せらるる人《ひと》との、二|者《しや》と爲《な》す。されど著者《ちよしや》は、寧《むし》ろ氣運《きうん》に先《さきだ》つ人《ひと》、氣運《きうん》に伴《ともな》ふ人《ひと》、氣運《きうん》に後《おく》るゝ人《ひと》の三|者《しや》に分類《ぶんるゐ》するを、恰當《かふたう》と信《しん》ずる。社會《しやくわい》の進行《しんかう》は、一|大《だい》縱列《じゆうれつ》行軍《かうぐん》の如《ごと》く、前進者《ぜんしんしや》あり、中央本隊者《ちゆうあうほんたいしや》あり、後列者《かうれつしや》あり。前進者《ぜんしんしや》必《かな》らずしも、氣運《きうん》の創造者《そうざうしや》でない。或《あ》る場合《ばあひ》には、氣運《きうん》の敏感者《びんかんしや》と云《い》ふ可《べ》きであらう。彼等《かれら》は其《そ》の神經《しんけい》の鋭敏《えいびん》にして、他《た》に先《さきん》じて之《これ》を感得《かんとく》し、此《これ》が爲《た》めに自《みづ》から社會《しやくわい》の急先鋒《きふせんぽう》たるを、禁《きん》ずる能《あた》はざるに至《いた》るのだ。
然《しか》も同《どう》一|人《にん》にして、時《とき》に前進者《ぜんしんしや》となり、時《とき》に後列者《かうれつしや》、若《も》しくは落伍者《らくごしや》となるものなきにあらず。是《こ》れが即《すなは》ち、人間《にんげん》の活者《いきもの》たる所以《ゆゑん》ぢや。吾人《ごじん》は昨日《きのふ》の過激黨《くわげきたう》が、今日《けふ》の保守黨《ほしゆたう》たるを、怪《あや》しむ可《べ》き理由《りいう》はない。世《よ》の中《なか》が進《すゝ》んで、當人《たうにん》が進《すゝ》まねば、斯《か》くあるのも、不思議《ふしぎ》はない。但《た》だ世《よ》の中《なか》も變《かは》る、其《そ》の中《うち》なる個人《こじん》も變《かは》る。然《しか》も變《かは》らぬものは、如何《いか》なる社會《しやくわい》でも、時勢《じせい》の率先者《そつせんしや》、時勢《じせい》の隨伴者《ずゐはんしや》、時勢《じせい》の落伍者《らくごしや》の、三|者《しや》の分類《ぶんるゐ》がある事《こと》だ。而《しか》して社會《しやくわい》の微動《びどう》しつゝある時代《じだい》と、大動《だいどう》しつゝある時代《じだい》とによりて、三|者《しや》の間隔《かんかく》に近遠《きんゑん》を來《き》たし、三|者《しや》相互《さうご》の交替《かうたい》に、緩?急《くわんきふ》を及《およ》ぼすは、勿論《もちろん》の事《こと》と思《おも》ふ。
以上《いじやう》は唯《た》だ著者《ちよしや》の管見《くわんけん》の一|斑《げん》を、陳《の》べたるに過《す》ぎぬ。併《しか》し讀者《どくしや》諸君《しよくん》にして、若《も》し之《これ》を理會《りくわい》して、而《しか》して後《のち》拙著《せつちよ》に接《せつ》せられん乎《か》、其《そ》の得《う》る所《ところ》、必《かな》らず多大《ただい》であらう。何《なん》となれば著者《ちよしや》は、自《みづ》から解説《かいせつ》するよりも、寧《むし》ろ讀者《どくしや》諸君《しよくん》の自得《じとく》を、期待《きたい》して居《を》るからである。人間《にんげん》其物《そのもの》、社會《しやくわい》其物《そのもの》に就《つい》ての理會《りくわい》なき限《かぎ》りは、歴史《れきし》は全《まつた》く無味《むみ》、乾燥《かんさう》なる、一|個《こ》の過去帳《くわこちやう》に過《す》ぎぬのだ。
拙著《せつちよ》は、或《あ》る意味《いみ》に於《おい》ては、前人《ぜんじん》の勞力《らうりよく》の結果《けつくわ》を、資料《しれう》として利用《りよう》したる、一|種《しゆ》のモザイック細工《ざいく》の如《ごと》きものだ。モザイック細工《ざきく》は、餘《あま》り近寄《ちかよ》りて之《これ》を見《み》れば、寧《むし》ろ剪嵌《へりばめ》の痕《あと》が、甚《はなは》だ著明《ちよめい》に過《す》ぎて、其《そ》の統《とう》一を缺《か》くかの如《ごと》き感《かん》がある。然《しか》も或《あ》る距離《きより》を隔《へだ》てゝ、之《これ》を眺《なが》むれば、亦《ま》た一|種《しゆ》の美觀《びくわん》がないでもない。著者《ちよしや》の苦心《くしん》は、毎節《まいせつ》、毎回《まいくわい》、毎章《まいしやう》の上《うへ》に存《そん》せずして、少《すくな》くとも各篇《かくへん》の上《うへ》に存《そん》して居《を》る。而《しか》して著者《ちよしや》の目的《もくてき》は、モザイックの合天井《がふてんじやう》の如《ごと》き、精巧《せいかう》、美妙《びめう》のものを、構成《こうせい》するにあらずして、寧《むし》ろ宏壯《かうさう》、雄麗《ゆうれい》なる羅馬《ろーま》の聖彼得寺院《セントピーターじゐん》の如《ごと》き、若《も》しくは君府《くんぷ》の聖蘇希亞殿堂《セントソフィアでんどう》の如《ごと》き、大伽藍《だいがらん》の建築《けんちく》である。但《た》だ憾《うら》む所《ところ》は、力《ちから》の之《これ》に副《そ》はざる一|事《じ》だ。然《しか》も其《そ》の微力《びりよく》を忘《わす》れて、日夜《にちや》此業《このげふ》に從《したが》ふ所以《ゆゑん》は、讀者《どくしや》諸君《しよくん》の同情《どうじやう》に頼《たの》む所《ところ》、決《けつ》して少《すくな》くないからだ。
惟《おも》ふに新井白石《あらゐはくせき》が、藩翰譜《はんかんふ》を編《へん》するや、元祿《げんろく》十四|年《ねん》正月《しやうぐわつ》、甲府參議綱豐卿《かふふさんぎつなとよきやう》(後に六代將軍家宣)の命《めい》を承《う》け、同年《どうねん》七|月《ぐわつ》に起稿《きかう》し、十|月《ぐわつ》に脱稿《だつかう》し、自《みづ》から淨書《じやうしよ》し、翌《よく》十五|年《ねん》二|月《ぐわつ》には、之《これ》を上《たてまつ》つた。當時《たうじ》彼《かれ》が四十五|歳《さい》の、最《もつと》も膏《あぶら》の乘《の》りたる年齡《ねんれい》であつたとは云《い》へ、其《そ》の雄文《ゆうぶん》、快筆《くわいひつ》、實《じつ》に驚《おどろ》く可《べ》きものだ。著者《ちよしや》の如《ごと》きは、自《みづ》から顧《かへり》みて、眞《しん》に跛?《はべつ》の青天《せいてん》を?《み》て、之《これ》を達《たつ》せんとする心地《こゝち》がある。然《しか》も勞《らう》其中《そのうち》にあれば、樂《たのしみ》も亦《ま》た其中《そのうち》にある。若《も》し寛大《くわんだい》なる讀者《どくしや》諸君《しよくん》が、著者《ちよしや》の樂《たのしみ》を樂《たのしみ》とし、著者《ちよしや》をして、徐《おもむ》ろに其《そ》の志《こゝろざし》を達《たつ》するを得《え》せしめば、著者《ちよしや》に取《と》りて、是《こ》れより以上《いじやう》の幸福《かうふく》はない。

[#3字下げ]大正七年十一月六日 青山?堂に於て
[#地から1字上げ]蘇  峰  學  人

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