[#4字下げ]第十七章 舊時代去り新時代來る[#「第十七章 舊時代去り新時代來る」は大見出し]
[#5字下げ]【一〇〇】足利義昭の沒落[#「【一〇〇】足利義昭の沒落」は中見出し]
信長《のぶなが》は善《よ》く將軍義昭《しやうぐんよしあき》を解《かい》した。彼《かれ》が和談《わだん》を信長《のぶなが》に申入《まをしい》れたるは、一|時的《じてき》休戰《きうせん》たるを熟知《じゆくち》した。故《ゆゑ》に信長《のぶなが》は、豫《あらかじ》め臨機《りんき》の準備《じゆんび》として、湖上《こじやう》を横斷《わうだん》す可《べ》き、大船《たいせん》を造《つく》らしめた。
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五|月《ぐわつ》廿二|日《にち》(元龜《げんき》四|年《ねん》)佐和山《さわやま》へ被[#レ]移[#二]御座[#一]《ぎよざをうつされ》、多賀山田《たがやまだ》山中《さんちう》の材木《ざいもく》をとらせ、佐和山麓松原《さわやまふもとまつばら》へ、勢利川通引下《せりかはどほしひきおろ》し、國中鍛冶《こくちうのかぢ》、番匠《ばんしやう》、杣《そま》を召寄《めしよせ》、御大工《おだいく》岡部又右衞門《をかべまたうゑもん》棟梁《とうりやう》にて、舟之《ふねの》長《なが》さ三十|間《けん》、横《よこ》七|間《けん》、櫓《ろ》を百|挺《ちやう》下《おろ》し、艫舳《ろぢく》に矢藏《やぐら》を上可[#レ]致[#二]丈夫[#一]之旨《あげじやうぶにいたすべきのむね》、被[#二]仰聞[#一]《おほせきけられ》、在[#二]佐和山[#一]《さわやまにあり》なされ、無[#二]油斷[#一]《ゆだんなく》、夜《よ》を日《ひ》に繼仕候間《つぎつかまつりさふらふあひだ》、無[#レ]程《ほどなく》七|月《ぐわつ》三|日出來訖《かでをはんね》。〔信長公記〕
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事件《じけん》は殆《ほと》んど豫期通《よきどほ》りに起《おこ》つた。同《どう》五|日《か》には、義昭《よしあき》再擧《さいきよ》の注進《ちうしん》が來《き》た。信長《のぶなが》は六|日《か》に此《こ》の大船《たいせん》に乘《の》り、猛風《まうふう》を凌《しの》ぎ、坂本《さかもと》に抵《いた》り、七|日《か》には入洛《じゆらく》、二|條《でう》妙覺寺《めうかくじ》に陣《ぢん》を据《す》ゑ、公方邸《くばうてい》を取《と》り圍《かこ》んだ。義昭《よしあき》は已《すで》に宇治眞木島《うぢまきじま》に立《た》て籠《こも》り、公方邸《くばうてい》には、日野輝資《ひのてるすけ》、藤原永相等《ふじはらながすけら》在《あ》り、皆《み》な出《い》でゝ降《くだ》り、信長《のぶなが》の案内者《あんないしや》となりて、十六|日《にち》には、相共《あひとも》に眞木島《まきじま》に向《むか》うた。
時《とき》に秋霖《しうりん》の餘《よ》、宇治川《うぢがは》漲《みなぎ》つた。誰《たれ》しも之《これ》を渉《わた》らんとする者《もの》がない。『於[#レ]到[#二]延引[#一]者《えんいんいたすにおいては》、信長公可[#レ]被[#レ]成[#二]御先陣[#一]之旨候《のぶながこうごせんぢんなさるべきのむねにさふらふ》、難[#レ]遁題目也《のがれがたきだいもくなり》。』〔信長公記〕汝等《なんぢら》行《ゆ》かずんば、乃公《だいこう》自《みづ》から行《ゆ》かんとは、信長《のぶなが》の見幕《けんまく》ぢや。今《いま》は猶豫《いうよ》す可《べ》きでない、七|月《ぐわつ》十八|日《にち》午前《ごぜん》十|時《じ》、諸勢《しよぜい》川上《かはかみ》、川下《かはしも》の兩方《りやうはう》より、宇治川《うぢがは》を押《お》し渡《わた》り、眞木島《まきじま》を取《と》り詰《つ》めた。義昭《よしあき》も今《いま》は唯《た》だ一|命《めい》を乞《こ》ふのみであつた。信長《のぶなが》は『爰《こゝ》にて御《おん》腹《はら》めさせ候《さふら》はんずれ共《ども》、天命《てんめい》おそろしく、御行衞《おんゆくゑ》思食儘《おぼしめすまゝ》に有《ある》べからず。御《おん》命《いのち》を助《たす》け流《なが》し參《まゐら》せられ候《さふらひ》て、先々《さき/″\》にて人《ひと》の褒貶《ほうへん》にのせ申《まを》さる可《べ》き由《よし》にて、若公樣《わかぎみさま》をば被[#二]止置[#一]《とゞめおかれ》、怨《うらみ》をば恩《おん》を以《もつ》て被[#レ]報之由《むくいらるゝのよし》にて、河内國若江《かはちのくにわかえ》の城迄《しろまで》、羽柴筑前守秀吉《はしばちくぜんのかみひでよし》、御警固《ごけいご》にて、送被[#レ]屆《おくりとゞけらる》。』〔信長公記〕とある如《ごと》く處置《しよち》した。
信長《のぶなが》の意中《いちう》を忖度《そんたく》すれば、義昭《よしあき》の一|死《し》、尚《な》ほ足《た》らずだ。されど此《これ》が爲《た》めに、世上《せじやう》の物論《ぶつろん》を惹起《じやき》せんより、寧《むし》ろ彼《かれ》を放《はな》ち、彼《かれ》をして彼《かれ》自《みづ》からを、天下《てんか》の批判《ひはん》に一|任《にん》せんにはと、思《おも》うたのであらう。義昭《よしあき》の子《こ》を留置《りうち》したのは、聊《いさゝ》か人質《ひとじち》の意味《いみ》もあつたであらう。信長《のぶなが》としては、此《これ》が得策《とくさく》であつたかも知《し》れぬ。併《しか》し義昭《よしあき》は惡魔《あくま》の如《ごと》く、信長《のぶなが》の世《よ》を沒《ぼつ》する迄《まで》、執念深《しふねんぶか》く附《つ》き纒《まと》うて、其《そ》の妨害《ばうがい》をした。
義昭《よしあき》は若江城《わかえじやう》に入《い》つたが、城主《じやうしゆ》三|好《よし》義繼《よしつぐ》は、彼《かれ》を留《とゞ》むるを欲《ほつ》せなかつたから、天正《てんしやう》元年《ぐわんねん》十二|月《ぐわつ》には、堺《さかひ》より紀州宮崎《きしうみやざき》に赴《おもむ》き、熊野《くまの》の僧徒《そうと》や、雜賀《さいが》の徒《と》を煽動《せんどう》したが其《その》志《こゝろざし》を逞《たくまし》うするを得《え》なかつた。去《さ》りて備前《びぜん》に適《ゆ》いたが、宇喜田直家《うきたなほいへ》の爲《た》めに冷遇《れいぐう》せられた。天正《てんしやう》三|年《ねん》三|月《ぐわつ》には、備後《びんご》に往《ゆ》き、毛利輝元《まうりてるもと》を憑《たの》んだ。毛利《まうり》一|族《ぞく》も、實《じつ》は難有迷惑《ありがためいわく》に思《おも》うたが、今更《いまさ》ら致方《いたしかた》なく、之《これ》を鞆浦《とものうら》に館《くわん》した。
彼《かれ》の陰謀《いんばう》の生涯《しやうがい》は、信長《のぶなが》と與《とも》に終《をは》りを告《つ》げ、天正《てんしやう》十五|年《ねん》には、秀吉《ひでよし》に面《めん》し、一|萬石《まんごく》の捨扶持《すてぶち》を受《う》け、慶長《けいちやう》二|年《ねん》八|月《ぐわつ》、六十一|歳《さい》で逝《ゆ》いた。彼《かれ》は晩年《ばんねん》髮《はつ》を削《けづ》りて昌山《しやうざん》と號《がう》し、樂隱居《らくいんきよ》で終《をは》つた。
義昭《よしあき》の事《こと》に就《つい》ては、『徳川實記《とくがはじつき》』の評論《ひやうろん》、頗《すこぶ》る肯綮《こうけい》に中《あた》つて居《を》る。
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當時《たうじ》天下《てんか》の形勢《けいせい》を考《かんがふ》るに、織田殿《おだどの》足利義昭將軍《あしかゞよしあきしやうぐん》を翊戴《よくたい》し、三|好《よし》、松永《まつなが》を降參《かうさん》せしめ、佐々木《さゝき》、六|角《かく》を討《う》ち亡《ほろぼ》し、足利家《あしかゞけ》恢復《くわいふく》の功《こう》をなすにいたり、強傲專肆《きやうがうせんし》かぎりなく、跋扈《ばつこ》の振舞《ふるまひ》多《おほ》きを以《もつ》て、義昭《よしあき》殆《ほとん》ど之《これ》に倦《う》み苦《くる》しみ、陽《あらは》には織田殿《おだどの》を任用《にんよう》すと雖《いへど》も、その實《じつ》は是《これ》を傾覆《けいふく》せんとして、竊《ひそ》かに越前《ゑちぜん》の朝倉《あさくら》、近江《あふみ》の淺井《あさゐ》、甲州《かうしう》の武田《たけだ》に含《ふく》めらるゝ密使《みつし》あり。これ姉川《あねがは》の戰《たゝかひ》起《おこ》る所以《ゆゑん》也《なり》。その明證《めいしよう》は高野山《かうやさん》蓮華定院《れんげぢやうゐん》吉野山《よしのやま》勝光院《しようくわうゐん》に存《そん》する文書《ぶんしよ》に見《み》えき。又《ま》た其後《そのご》に至《いた》り甲州《かうしう》の武田《たけだ》、越後《ゑちご》の上杉《うへすぎ》、相模《さがみ》の北條《ほうでう》は、關東《くわんとう》北國《ほくこく》割據中《かつきよちう》最第《さいだい》一の豪傑《がうけつ》なる由《よし》聞《きい》て、此《こ》の三|國《ごく》へ大和《やまと》淡路守等《あはぢのかみら》を密使《みつし》として、信長《のぶなが》誅伐《ちうばつ》の事《こと》を頼《たのま》れける。その文書《ぶんしよ》も又《ま》た吉野山《よしのやま》勝光院《しようくわうゐん》に存《そん》す。然《さ》れば織田氏《おだし》を誅伐《ちうばつ》せんには、當時《たうじ》徳川家《とくがはけ》與國《よこく》の第《だい》一にて、織田氏《おだし》の頼《たの》む所《ところ》は、徳川家《とくがはけ》なり。故《ゆゑ》に先《まづ》徳川家《とくがはけ》を傾《かたむ》けて後《のち》、尾州《びしう》に攻入《せめいつ》て、織田《おだ》を亡《ほろぼ》し、中國《ちうごく》へ旗《はた》を擧《あげ》んと、信玄《しんげん》盟約《めいやく》を背《そむ》き、無名《むめい》の軍《いくさ》を興《おこ》し、遠參《ゑんさん》を侵掠《しんりやく》せんとす。是《これ》三方原《みかたがはら》の大戰《たいせん》起《おこ》る所以《ゆゑん》也《なり》。勝頼《かつより》が時《とき》に至《いた》り、又《また》義昭《よしあき》より北條《ほうでう》と謀《はかりごと》を同《おな》じくして、織田《おだ》を亡《ほろぼ》す可《べ》き事《こと》を頼《たの》まるゝ、その使《つかひ》は眞木玄蕃允《まきげんばのじよう》なり。此《こ》の文書《ぶんしよ》又《また》勝光院《しようくわうゐん》に傳《つた》ふ。是《こ》れ勝頼《かつより》が屡《しばし》ば參遠《さんゑん》を襲《おそ》はんとする所《ところ》にて、長篠大戰《ながしのたいせん》の起《おこ》る所以《ゆゑん》也《なり》。義昭《よしあき》遂《つひ》に本意《ほんい》を遂《と》けず、後《のち》に藝州《げいしう》へ下《くだ》り、毛利《まうり》を頼《たの》まる。これ豐臣氏《とよとみし》中國征伐《ちうごくせいばつ》の起《おこ》る所《ところ》也《なり》。然《さ》れば姉川《あねがは》、三方原《みかたがはら》、長篠《ながしの》の三|大戰《だいせん》は、當家《たうけ》(徳川氏)に於《おい》て尤《もつと》も險難《けんなん》、危急《ききふ》なりと雖《いへど》も、その實《じつ》は足利義昭《あしかゞよしあき》の詐謀《さぼう》に起《おこ》り、朝倉《あさくら》、武田等《たけだら》、己《おの》れが姦計《かんけい》を以《もつ》て又《ま》た簒奪《さんだつ》の志《こゝろざし》を成就《じやうじゆ》せんとせしもの也《なり》。總《すべ》て等持院《とうぢゐん》(尊氏)將軍《しやうぐん》より、此《こ》のかた、室町家《むろまちけ》は、人《ひと》の力《ちから》を假《か》りて、功《こう》を成《な》し、その功《こう》成《なつ》て後《のち》、又《ま》た他人《たにん》の手《て》を藉《か》りて、その功臣《こうしん》を除《のぞ》くを以《もつ》て、萬古不易《ばんこふえき》の良法《りやうはふ》として、國《くに》を建《たて》し餘習《よしふ》、十五|代《だい》の間《あひだ》、其《そ》の故智《こち》を用《もち》ひざるものなし。終《つひ》に其《そ》の故智《こち》を以《もつ》て、家國《かこく》を失《うしな》ひし※[#「こと」の合字、526-11]、豈《あ》に天《てん》ならずや。
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是《こ》れ義昭《よしあき》に對《たい》してのみならず、又《ま》た室町將軍全體《むろまちしやうぐんぜんたい》に向《むかつ》ての、彈劾文《だんがいぶん》である。聊《いさゝ》か牽強《けんきやう》の判斷《はんだん》もある樣《やう》だが、概説《がいせつ》すれば、義昭《よしあき》其《その》人《ひと》の陰謀《いんばう》を指摘《してき》して、餘蘊《ようん》なしぢや。乃《すなは》ち義昭《よしあき》彼《かれ》自身《じしん》を起《おこ》して、對決《たいけつ》せしむるも、恐《おそ》らくは其《そ》の言開《いひひら》きは能《あた》ふまい。義昭《よしあき》は無力《むりよく》の策士《さくし》ぢや。彼《かれ》は策《さく》の爲《た》めに、自《みづ》から誤《あやま》り、周圍《しうゐ》を誤《あやま》つた。
[#5字下げ]【一〇一】室町幕府の滅亡[#「【一〇一】室町幕府の滅亡」は中見出し]
然《しか》も若《も》し歴史的《れきしてき》眼孔《がんこう》を撥《ひら》いて、之《これ》を觀察《くわんさつ》せん乎《か》。將軍義昭《しやうぐんよしあき》は、時勢《じせい》の犧牲者《ぎせいしや》と云《い》はねばならぬ。彼《かれ》が智者《ちしや》であり、愚者《ぐしや》であり、賢者《けんしや》であり、不肖者《ふせうしや》であり、陽策士《やうさくし》であり、陰謀家《いんばうか》であるには、殆《ほと》んど何等《なんら》の關係《くわんけい》がない。彼《かれ》の運命《うんめい》は、既《すで》に歴史的《れきしてき》に豫定《よてい》せられて居《を》るとも、云《い》ひ得《え》らるゝであらう。何人《なんぴと》が其《その》位《くらゐ》に在《あ》るも、室町將軍時代《むろまちしやうぐんじだい》は、既《すで》に過《す》ぎ去《さ》つた。此《こ》の時勢《じせい》の推移《すゐい》は、如何《いか》なる力《ちから》を以《もつ》てするも、到底《たうてい》挽囘《ばんくわい》する※[#「こと」の合字、527-9]は叶《かな》はぬ。假《か》りに信長《のぶなが》其《その》人《ひと》を以《もつ》てするも、尚《な》ほ能《あた》はぬ。况《いは》んや屑々《せつ/\》乎《こ》たる、義昭《よしあき》其《その》人《ひと》に於《おい》てをやだ。
義昭《よしあき》と、信長《のぶなが》との衝突《しようとつ》は、個人的《こじんてき》に解釋《かいしやく》するよりも、社會的《しやくわいてき》に解釋《かいしやく》する方《はう》が、寧《むし》ろ其《その》事《こと》の眞相《しんさう》に觸《ふ》れて居《を》る。室町將軍時代《むろまちしやうぐんじだい》は、武家《ぶけ》對《たい》公家《くげ》の時代《じだい》であつた。即《すなは》ち日本《にほん》を武家《ぶけ》と、公家《くげ》とで二|分《ぶん》して、互《たが》ひに相《あひ》鬩《せめ》ぎ。而《しか》して室町將軍《むろまちしやうぐん》は、武家《ぶけ》の代表者《だいへうしや》として、公家《くげ》を滅《ほろぼ》し、若《も》しくは之《これ》を退治《たいぢ》し、之《これ》を抑制《よくせい》し、飽迄《あくまで》武家的《ぶけてき》社會《しやくわい》專制組織《せんせいそしき》を支持《しぢ》するが、其《そ》の職掌《しよくしやう》であつた。言《い》ひ換《か》ふれば、彼等《かれら》は日本《にほん》代表《だいへう》せず、武家《ぶけ》を代表《だいへう》した。而《しか》して彼等《かれら》の武家《ぶけ》なるものは、所謂《いはゆ》る全國《ぜんこく》の大地主《おほぢぬし》であつた。或《あるひ》は占領《せんりやう》、横領《わうりやう》により、或《あるひ》は相續《さうぞく》、分割《ぶんかつ》により、其《そ》の傳來《でんらい》したる事情《じじやう》、及《およ》び理由《りいう》は、必《かなら》ずしも同《どう》一ではなかつたが、兎《と》も角《かく》も大地主《おほぢぬし》であつた。其上《そのうえ》に國司《こくし》とか、守護《しゆご》とかと云《い》ふ大名《だいみやう》、若《も》しくは大々名《だい/\みやう》が位《くらゐ》して居《ゐ》た。而《しか》して彼等《かれら》は、其《そ》の支配《しはい》する領内《りやうない》の大地主《おほぢぬし》より、若干《じやくかん》の租税《そぜい》を徴集《ちようしふ》する迄《まで》であつた。一たび國司《こくし》、守護《しゆご》の勢力《せいりよく》衰《おとろ》へたる時《とき》には、却《かへつ》て其《そ》の被官《ひくわん》、配下《はいか》たる大地主等《おほぢぬしら》の鼻息《びそく》を、仰《おふ》がねばならぬ始末《しまつ》であつた。此《こ》れが足利中期《あしかゞちうき》以降《いかう》に於《おい》て、所謂《いはゆ》る下尅上《かこくじやう》の流行《りうかう》した所以《ゆゑん》ぢや。而《しか》して室町將軍家《むろまちしやうぐん?け》は、國司《こくし》、守護《しゆご》の更《さ》らに大《だい》なるものである。故《ゆゑ》に國司《こくし》、守護《しゆご》か、其《その》下《しも》に制《せい》せらるゝ如《ごと》く、將軍家《しやうぐんけ》も亦《ま》た其《そ》の勢力《せいりよく》の衰《おとろ》ふると與《とも》に、國司《こくし》、守護《しゆご》に制《せい》せられ、更《さ》らに其《その》下《しも》の被官《ひくわん》、若《もし》くは配下《はいか》に制《せい》せらるゝは、理《り》の當然《たうぜん》ぢや。
例《れい》せば斯波家《しばけ》の被官《ひくわん》に、甲斐《かひ》、朝倉《あさくら》、織田《おだ》あり。畠山家《はたけやまけ》の被官《ひくわん》に、神保《じんぼ》、遊佐《ゆさ》、杉原《すぎはら》、齊藤《さいとう》、平《たひら》あり。細川家《ほそかはけ》の被官《ひくわん》に、三|好《よし》、安富《やすとみ》、香川《かがは》、秋庭《あきば》あり。彼等《かれら》は被官《ひくわん》とは云《い》ふものゝ、隱然《いんぜん》獨立《どくりつ》の大地主《おほぢぬし》ぢや。三|好氏《よしし》の如《ごと》きは、本來《ほんらい》小笠原氏《をがさはらし》にして、阿波《あは》三|好郷《よしがう》に住《ぢゆう》し、始《はじ》めて三|好氏《よしし》を名乘《なのつ》たのだ。彼《かれ》は獨立《どくりつ》の地主《ぢぬし》であつたが、細川氏《ほそかはし》が阿波《あは》に勢力《せいりよく》を振《ふる》ふ場合《ばあひ》に、其《そ》の被官《ひくわん》となつたのぢや。故《ゆゑ》に細川氏《ほそかはし》の勢力《せいりよく》衰《おとろ》ふれば、三|好氏《よしし》が下尅上《かこくじやう》の標本《へうほん》を出《いだ》し來《きた》るも、異《い》とするに足《た》らぬ。
要《えう》するに足利幕府《あしかゞばくふ》は、後醍醐天皇《ごだいごてんわう》の公家政治《くげせいぢ》に反抗《はんかう》する、地主《ぢぬし》、土豪等《どがうら》が、現状維持《げんじやうゐぢ》を目的《もくてき》として、擁立《えうりつ》したものであつた。されば其《そ》の基礎《きそ》は、極《きは》めて散漫《さんまん》で、且《か》つ薄弱《はくじやく》であつた。將軍政治《しやうぐんせいぢ》と云《い》ふも、其《そ》の政治《せいぢ》は、畿内附近《きないふきん》に行《おこな》はれたる迄《まで》にて、何等《なんら》統《とう》一、徹底《てつてい》した所《ところ》はなかつた。此《かく》の如《ごと》き組織《そしき》の上《うへ》に立《た》つ政治《せいぢ》は、日本《にほん》統《とう》一の大目的《だいもくてき》とは、到底《たうてい》合致《がつち》することは能《あた》はぬ。帝國《ていこく》統《とう》一が、若《も》し新時代《しんじだい》の氣運《きうん》であらば、室町幕府《むろまちばくふ》は、何人《なんぴと》が其《その》局《きよく》に?《あた》るも、勢《いきほ》ひ亡滅《ばうめつ》せねばならぬ。
[#5字下げ]【一〇二】新時代の權化[#「【一〇二】新時代の權化」は中見出し]
足利《あしかゞ》第《だい》十五|代《だい》將軍義昭《しやうぐんよしあき》を以《もつ》て、徳川《とくがは》第《だい》十五|代《だい》將軍慶喜《しやうぐんけいき》と、比較《ひかく》するは、慶喜《けいき》其《その》人《ひと》に取《と》りては、當惑《たうわく》であらう。併《しか》し彼等《かれら》が時勢《じせい》の犧牲者《ぎせいしや》であつた一|點《てん》は、爭《あらそ》ふ可《べ》からざる事實《じじつ》ぢや。但《た》だ慶喜《けいき》は、時勢《じせい》に隻眼《せきがん》を開《ひ》らき、義昭《よしあき》は、全《まつた》く盲目《まうもく》であつた丈《だけ》が、兩人《りやうにん》の相違《さうゐ》ぢや。義昭《よしあき》は何等《なんら》自《みづ》から立《た》つ可《べ》き實力《じつりよく》を有《いう》せず、尚《な》ほ室町時代《むろまちじだい》の盛時《せいじ》を夢想《むさう》した。而《しか》して彼《かれ》は、空《むな》しく其《そ》の夢想《むさう》の爲《た》めに、一|生《しやう》を沒却《ぼつきやく》した。
然《しか》も時勢《じせい》は長足《ちやうそく》の進歩《しんぽ》をした。均《ひと》しく領土《りやうど》であつても、信長《のぶなが》や、信玄《しんげん》や、家康《いへやす》や、若《も》しくは謙信《けんしん》や、元就《もとなり》や、氏康《うぢやす》やの領土《りやうど》は、從前《じうぜん》の斯波氏《しばし》や、細川氏《ほそかはし》や、畠山氏《はたけやまし》や、山名氏《やまなし》抔《など》の領土《りやうど》とは、大《おほ》いに趣《おもむき》を殊《こと》にした。從前《じうぜん》は群小雄《ぐんせうゆう》並立《へいりつ》の上《うへ》に、其《そ》の領主《りやうしゆ》が在《あ》つた。云《い》はゞ彼等《かれら》は、諸《もろ/\》の小獨立《せうどくりつ》團體《だんたい》の、總管者《そうくわんしや》たるに止《とゞま》つた。されど現代《げんだい》に至《いた》りては、苟《いやしく》も領地《りやうち》と云《い》へば、確實《かくじつ》に領主《りやうしゆ》が之《これ》を支配《しはい》した。特《とく》に信長《のぶなが》、信玄《しんげん》、家康《いへやす》の如《ごと》きは、其《そ》の領内《りやうない》の一|木《ぼく》、一|石《せき》をも、隨意《ずゐい》に之《これ》を取扱《とりあつか》ふ程《ほど》、確實《かくじつ》に之《これ》を支配《しはい》した。若《も》し彼等《かれら》が、所領《しよりやう》を天下《てんか》に擴《ひろ》ぐるに於《おい》ては、天下《てんか》を掌上《しやうじやう》に廻《めぐ》らすことは、決《けつ》して不可能《ふかのう》ではなかつた。
室町時代《むろまちじだい》に於《おい》ては、社會《しやくわい》の小仕組《せうしくみ》其物《そのもの》が、既《すで》に天下《てんか》の不統《ふとう》一を表示《へうじ》した。然《しか》も信長時代《のぶながじだい》に於《おい》ては、社會《しやくわい》の小仕組《せうしくみ》其物《そのもの》が、既《すで》に天下《てんか》の統《とう》一を表示《へうじ》した。問題《もんだい》は統《とう》一の能《のう》、不能《ふのう》でなく、唯《た》だ誰《たれ》か能《よ》く之《これ》を統《とう》一する乎《か》であつた。而《しか》して天《てん》は信長《のぶなが》をして、其《その》任《にん》に?《あた》らしめた。信長《のぶなが》は新時代《しんじだい》の代表者《だいへうしや》である、義昭《よしあき》は舊時代《きうじだい》の代表者《だいへうしや》である。彼等《かれら》が衝突《しようとつ》は、良《まこと》に餘儀《よぎ》なき宿因《しゆくいん》と云《い》はねばならぬ。
信長《のぶなが》は新時代《しんじだい》の代表者《だいへうしや》であるのみでなく、寧《むし》ろ其《そ》の率先者《そつせんしや》であつた。彼《かれ》は日本《にほん》に於《おい》て、近世的《きんせいてき》中央集權《ちうあうしふけん》政治《せいぢ》の實行者《じつかうしや》であつた。然《しか》も其《その》業《げふ》は、二百|餘年《よねん》の後《のち》、岩倉《いはくら》、大久保等《おほくぼら》の時代《じだい》に於《おい》て、漸《やうや》く完成《くわんせい》した。藤原時代《ふぢはらじだい》は勿論《もちろん》、鎌倉幕府《かまくらばくふ》の如《ごと》き、政治《せいぢ》の最《もつと》も行《ゆ》き屆《とゞ》きたる時代《じだい》に於《おい》てさへ、土豪《どがう》跋扈《ばつこ》、地主《ぢぬし》專横《せんわう》の弊《へい》を矯《た》むることは、不可能《ふかのう》であつた。然《しか》も信長《のぶなが》の眼中《がんちう》には、縉紳《しんしん》もなく、僧侶《そうりよ》もなく、武士《ぶし》もなく、唯《た》だ政權《せいけん》は一に歸《き》す可《べ》きものたることを看破《かんぱ》し、其《そ》の全力《ぜんりよく》を擧《あ》げて、此《これ》が實行《じつかう》に勗《つと》めた。乃《すなは》ち信長《のぶなが》が、專《もつぱ》ら破壞的《はくわいてき》作用《さよう》を逞《たくまし》うしたのは、此《こ》の政權《せいけん》の不統《ふとう》一を、一|掃《さう》するに他《ほか》ならなかつた。舊大名《きうだいみやう》や、教權《けうけん》や、苟《いやしく》も正統《せいとう》なる政權《せいけん》と、相容《あひい》れざるものは、遠慮《ゑんりよ》會釋《ゑしやく》なく、之《これ》を撲滅《ぼくめつ》した、?
吾人《ごじん》が信長《のぶなが》に最《もつと》も多《よ》しとするは、彼《かれ》が日本全國《にほんぜんこく》を、施政《しせい》の單位《たんゐ》としたことである。彼《かれ》は室町氏《むろまちし》の如《ごと》き、日本全國《にほんぜんこく》を、公家國《くげこく》と、武家國《ぶけこく》に二|分《ぶん》するを、欲《ほつ》せなかつた。彼《かれ》は日本《にほん》には、坊主國《ぼうずこく》もなく、公家國《くげこく》もなく、土豪國《どがうこく》もなく、唯《た》だ日本國《にほんこく》ある可《べ》きものとした。而《しか》して其《その》上《うへ》に君臨《くんりん》するは、唯《た》だ天皇《てんわう》であることを體得《たいとく》した。何人《なんぴと》も、皇室《くわうしつ》を大切《たいせつ》に思《おも》はぬ者《もの》はない、信長《のぶなが》一|人《にん》に勤王家《きんわうけ》の名《な》を、擅《ほしいまゝ》にせらる可《べ》き理由《りいう》は、毛頭《まうとう》無《な》い。併《しか》し政治的《せいぢてき》に皇室中心主義《くわうしつちうしんしゆぎ》を、實行《じつかう》したのは、實《じつ》に彼《かれ》其人《そのひと》であつた。足利時代《あしかゞじだい》の看板《かんばん》は、將軍本位《しやうぐんほんゐ》であつた。信長時代《のぶながじだい》の看板《かんばん》は、天皇本位《てんわうほんゐ》であつた。此《こ》の看板《かんばん》は、秀吉《ひでよし》も之《これ》を踏襲《たうしふ》した。家康《いへやす》に至《いた》りて、將軍本位政治《しやうぐんほんゐせいぢ》の看板《かんばん》を、復活《ふくくわつ》せんとしたが、尚《な》ほ全《まつた》く之《これ》を取《と》り消《け》すことが出來《でき》なかつた。吾人《ごじん》が看板《かんばん》と云《い》うたのは、實際《じつさい》の天皇親政《てんわうしんせい》は、明治中興《めいぢちうこう》の時代《じだい》を竢《ま》つて、行《おこな》はれたからである。
然《しか》も日本《にほん》を政治《せいぢ》の單位《たんゐ》となし、皇室《くわうしつ》を政治《せいぢ》の本位《ほんゐ》となす。唯《た》だ此《こ》の一|事《じ》丈《だけ》でも、信長《のぶなが》は實《じつ》に近世日本《きんせいにほん》の偉人《ゐじん》と云《い》ふ可《べ》きである。近世《きんせい》日本《にほん》は、實《じつ》に信長《のぶなが》を産《さん》した、然《しか》も信長《のぶなが》も亦《ま》た、近世《きんせい》日本《にほん》を作《つく》つた。人《ひと》は彼《かれ》が其《そ》の用兵《ようへい》鬼神《きしん》の如《ごと》く、外交手腕《ぐわいかうしゆわん》尤《もつと》も卓越《たくゑつ》したるを稱《しよう》す。併《しか》し信長《のぶなが》に取《と》る可《べ》きは、其《そ》の大見識《だいけんしき》である、其《そ》の經世的《けいせいてき》大見識《だいけんしき》である。
勤王《きんわう》も、彼《かれ》に至《いた》りて、始《はじ》めて日本帝國《にほんていこく》の一|致《ち》と、存立《そんりつ》との上《うへ》に、大《だい》なる意義《いぎ》がある。天下統《てんかとう》一の事業《じげふ》も、彼《かれ》に至《いた》りて、始《はじ》めて帝國《ていこく》の國民的《こくみんてき》一|致《ち》の大氣運《だいきうん》と、合體《がつたい》することが出來《でき》る。彼《かれ》が泥土《でいど》の中《うち》より大將《たいしやう》を拾《ひろ》ひ上《あ》げたのは、階級《かいきふ》を無視《むし》した證據《しようこ》ぢや。彼《かれ》が關所《せきしよ》を廢《はい》し、交通税《かうつうぜい》を廢《はい》し、道路《だうろ》を修築《しうちく》したるは、其《そ》の一|國《こく》を見《み》る、一|家《か》の如《ごと》き證據《しようこ》ぢや。彼《かれ》が神領《しんりやう》、佛地《ぶつち》迄《まで》も、繩《なは》を入《い》れて、檢査《けんさ》をしたのは、正統《せいとう》なる政權《せいけん》以外《いぐわい》に、他《た》の權力《けんりよく》の蟠屈《ばんくつ》を容《ゆる》さゞる證據《しようこ》ぢや。彼《かれ》が耶蘇教師《やそけうし》を招致《せうち》し、之《これ》を使用《しよう》したるは、智識《ちしき》を世界《せかい》に求《もと》めたる證據《しようこ》ぢや。皇室中心主義《くわうしつちうしんしゆぎ》も、帝國主義《ていこくしゆぎ》も、平民主義《へいみんしゆぎ》も、殘《のこ》る隈《くま》なく彼《かれ》に表現《へうげん》した。彼《かれ》は實《じつ》に新時代《しんじだい》の權化《ごんけ》であつた。
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[#6字下げ]頼山陽の織田信長論[#「頼山陽の織田信長論」は1段階小さな文字]
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頼襄曰、應仁以還、七道分崩離折者極矣、百戰之餘英雄之才輩出、最成[#二]強大[#一]者五氏、毛利氏在[#レ]西、武田上杉與[#二]北條氏[#一]在[#レ]東、而織田氏居[#レ]中、其土境兵力莫[#二]大相過[#一]而獨稱[#二]織田氏[#一]以爲[#下]繼[#二]足利氏[#一]宰[#二]天下[#一]者[#上]、何故、以[#下]先據[#二]京師[#一]號[#中]令四方[#上]也、先據[#二]京師[#一]號[#二]令四方[#一]、足利氏之所[#二]以成[#一レ]覇也、及[#二]其衰且亂[#一]也、徒存[#二]其名[#一]莫[#三]肯復奉[#二]其令[#一]、而天下耳目所[#レ]屬、心意所[#レ]響、猶在[#二]於此[#一]、是以東國群雄其志無[#下]不[#レ]欲[#四]樹[#二]幟耀[#三]兵於京師[#一]者[#上]、特以[#下]其所[#レ]居隔絶、非[#三]多經[#二]人國[#一]不[#レ]可[#レ]達、地勢不[#レ]便[#上]放莫[#二]之能逐[#一]也、獨織田氏之國與[#二]京畿[#一]聲氣相通、而扼[#二]東國之襟喉[#一]、故塞[#二]他人入?[#レ]京之路[#一]、而己先入[#レ]京、既入[#レ]京矣、以[#レ]兵守[#二]畿甸[#一]、而遂西[#二]聲其鋒[#一]、西道之雄亦不[#レ]能[#レ]禦、不[#三]唯以[#二]其才過[#一レ]人也、地利便也、猶[#下]異時細川三好氏居[#二]攝河[#一]故、數得[#中]志京師[#上]也、大内義興甞一用[#二]防長之兵[#一]、擁[#二]將軍義稙[#一]以入[#二]京師[#一]矣、留焉七年、逡巡引去、而細川氏仍執[#二]京政[#一]、亦以[#二]其國遐遠[#一]寄[#二]泊京師[#一]、糧餉不[#レ]給爾、今織田氏之擁[#二]義昭[#一]入[#二]京師[#一]也、又猶[#二]大内氏之爲[#一]也、不[#二]肯留[#一]而去、去而復來、甞未[#二]困乏[#一]、又未[#三]甞失[#二]機會[#一]、而終代執[#二]其政[#一]者、地利便也、義昭既被[#レ]廢、西依[#二]毛利氏[#一]、而毛利氏出[#レ]兵東?、與[#二]織田氏[#一]抗、非[#三]亦欲[#レ]襲[#二]大内氏之爲[#一]也乎、毛利元就雖[#二]既沒[#一]、其二子之才有[#レ]過[#二]義興[#一]、無[#レ]不[#レ]及、而遂不[#レ]能[#レ]遏[#二]織田氏西下之鋒[#一]者、亦以[#二]其地勢自[#レ]卑向[#一レ]高、有[#レ]所[#二]不可[#一]焉爾、不[#二]唯地勢然[#一]也、有[#二]時勢不可者[#一]焉、何則天下心目、非[#レ]?[#二]足利氏[#一]也、?[#二]京師[#一]也、義稙椋之時猶可也。至[#二]於義昭[#一]既爲[#二]織田氏所[#一レ]立、又爲[#三]其所[#二]廢逐[#一]、如[#二]木偶?狗之故敗者[#一]、挟[#レ]之而來、欲[#レ]爭[#二]既據之京師[#一]、烏可[#レ]能哉、故曰時勢有[#二]不可[#一]也、武田氏長尾氏、又與[#二]毛利氏[#一]遙爲[#二]應援[#一]、欲[#三]夾攻[#二]織田氏[#一]、是亦不[#レ]知[#二]時勢[#一]也、以[#二]地勢[#一]論[#レ]之、二氏雖[#下]隔[#二]絶京師[#一]處[#中]其不便[#上]、然視[#二]高下之勢[#一]、與[#二]毛利氏[#一]反矣、而不[#レ]能[#レ]加[#二]於織田氏[#一]者、二氏内自相爭、而不[#レ]暇[#レ]及[#レ]焉、故雖[#レ]有[#二]地利[#一]不[#レ]知[#レ]用也、如[#二]織田氏[#一]則不[#レ]然、斷然廢[#二]義昭[#一]而不[#レ]顯者、知[#二]時勢[#一]也、知[#二]京師四戰之地[#一]也、不[#下]肯離[#二]其巣穴[#一]棲[#二]託於此[#一]以?[#中]義興之轍[#上]、又知[#三]東國之不[#レ]易[#二]仰攻[#一]、是以舍[#レ]之、而先攻[#二]易[#レ]攻之毛利氏[#一]、務大[#二]其土境[#一]、強[#二]其兵力[#一]、然後東面治[#レ]之者、知[#二]地勢[#一]也、知[#二]當時群雄之所[#一レ]不[#レ]能[#レ]知、所[#下]以能繼[#二]足利氏[#一]宰[#中]天下[#上]也、饒使[#三]其所[#レ]居、處[#二]地勢之便[#一]、不[#レ]知[#下]用[#二]其利[#一]、而避[#中]其不利[#上]、又不[#レ]知[#二]時勢之可否[#一]、則何能致[#レ]此乎、則果其才然也、曰如[#二]其用[#レ]兵之才[#一]、非[#レ]不[#レ]如[#二]武田上杉[#一]乎、曰雖[#レ]然、自知[#二]用[#レ]兵之才不[#一レ]如[#二]武田上杉[#一]而不[#二]與爭[#一]、使[#二]彼相爭而不[#一レ]暇[#レ]及[#レ]我、而我先爲[#二]彼之所[#一レ]欲[#レ]爲、是其才所[#三]以過[#二]武田上杉氏[#一]也、〔日本政記〕
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