第十六章 信長、信玄、及義昭
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[#4字下げ]第十六章 信長、信玄、及義昭[#「第十六章 信長、信玄、及義昭」は大見出し]
[#5字下げ]【九四】所謂る信長の諫書(一)[#「【九四】所謂る信長の諫書(一)」は中見出し]
吾人《ごじん》は信長《のぶなが》と義昭《よしあき》とが、水臭《みづくさ》き交際《かうさい》を做《な》しつゝ、最近《さいきん》三|年間《ねんかん》持續《ぢぞく》したるを、寧《むし》ろ意外《いぐわい》に思《おも》ふ。義昭《よしあき》の慢性《まんせい》陰謀症《いんばうしやう》患者《くわんじや》たることは、申《まを》す迄《まで》もないが、信長《のぶなが》の方《はう》にも、全《まつた》く責任《せきにん》がないとは云《い》へぬ。信長《のぶなが》の家來《けらい》たることは、名《な》に負《お》ふ隙間《すきま》見《み》の大將《たいしやう》の下《もと》であれば、隨分《ずゐぶん》苦《くる》しきに相違《さうゐ》ないが、尚《な》ほ眼快《めばや》く其《そ》の手柄《てがら》を認《みと》められ、手利《てざと》く其《そ》の恩賞《おんしやう》に預《あづか》るの愉快《ゆくわい》がある。されど信長《のぶなが》の上《うへ》に立《た》たんことは、恐《おそ》れ多《おほ》くも、一|天萬乘《てんばんじよう》の、天皇《てんわう》以外《いぐわい》には、誰《たれ》しも困難《こんなん》である。元來《ぐわんらい》信長程《のぶながほど》我儘《わがまゝ》の者《もの》はない、彼《かれ》は自個《じこ》の意志《いし》以外《いぐわい》に、何等《なんら》の權威《けんゐ》をも認《みと》めぬ漢《をのこ》ぢや。されば聊《いさゝ》かたりとて、己《おの》れなるものを把持《はぢ》して、信長《のぶなが》の上《うへ》に位《くらゐ》せんことは、絶對的《ぜつたいてき》不可能《ふかのう》である。吾人《ごじん》は義昭《よしあき》の爲《ため》にも、若干《じやくかん》同情《どうじやう》すべき理由《りいう》がないでもない。
破裂《はれつ》の動機《どうき》は、信長《のぶなが》が元龜《げんき》四|年《ねん》(天正元年)正月《しやうぐわつ》、義昭《よしあき》に十七|個條《かでう》の諫書《かんしよ》を與《あた》へたるに起因《きいん》する。此《こ》れは甫庵信長記《ほあんのぶながき》には、頗《すこぶ》る修飾《しうしよく》して、學者《がくしや》臭《くさ》き文句《もんく》に造《つく》り換《か》へたるも、何《なん》となく鐵《てつ》を點《てん》じて、鉛《なまり》となすの嗤《わらひ》を免《まぬか》れぬ。今《い》ま書《か》き卸《おろ》しの儘《まゝ》なる原文《げんぶん》を掲《かゝ》ぐれば、左《さ》の通《とほ》りである。
[#5字下げ]條 々
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一|御參内之儀《ごさんだいのぎ》、光源院殿《くわうげんゐんどの》、御無沙汰《ごぶさた》に付《つい》て、果而無[#二]御冥加[#一]次第事舊《はたしてごみやうがなきしだいのことふる》く、依[#レ]之當御代之儀《これによつてたうみよのぎ》、年年無[#二]懈怠[#一]樣《ねん/\けたいなきやう》にと御入洛《ごじゆらく》の刻《とき》より申上候處《まをしあげさふらふところ》、早被[#二]思食忘[#一]《はやおぼしめしわすれられ》、近年御退轉《きんねんごたいてん》、無[#二]勿體[#一]存候事《もつたいなくぞんじさふらふこと》。
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此《こ》れが冐頭《ぼうとう》第《だい》一である。起《おこ》し得《え》て堂々《だう/\》ぢや。前代《ぜんだい》義輝《よしてる》も、勤王《きんわう》の事《こと》を忽《ゆるがせ》にし、その爲《た》め不幸《ふかう》を招《まね》いた。御身《おんみ》には、入洛《じゆらく》當初《たうしよ》より、篤《とく》と皇室《くわうしつ》を大切《たいせつ》にす可《べ》き事《こと》を申上《まをしあげ》置《お》きたるに、今更《いまさ》ら之《これ》を閑却《かんきやく》するとは、何事《なにごと》であると、大痛棒《だいつうぼう》を喫《きつ》せしめたのである。
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一|諸國《しよこく》へ御内書《ごないしよ》を被[#レ]遣《つかはされ》、馬其外御所望《うまそのほかごしよもう》の體《てい》、外聞如何《ぐわいぶんいかゞ》に候《さふらふ》の間《あひだ》、被[#レ]加[#二]御遠慮[#一]尤存候《ごえんりよをくはへらるゝもつともにぞんじさふらふ》。但被[#二]仰遣[#一]候《たゞしおほせつかはされさふら》はで不[#レ]叶子細者《かなはざるしさいは》、信長《のぶなが》に被[#二]仰聞[#一]《おほせきけられ》、添状可[#レ]仕《そへじやうつかまつるべき》の旨《むね》、兼《かね》て申上被[#レ]成《まをしあげなされ》、其心得《そのこゝろえ》の由候《よしさふらひ》つれ共《とも》、今《いま》はさも無[#二]御座[#一]《ござなく》、遠國《ゑんごく》へ被[#レ]成[#二]御内書[#一]《ごないしよなされ》、?御用被[#レ]仰之儀《ごようおほせらるゝのぎ》、最前首尾相違候《さいぜんしゆびさうゐさふらふ》。何方《いづかた》にも可[#レ]然馬《しかるべくうま》など御耳《おみゝ》に入候《いれさふら》はゞ?信長馳走申進上可[#レ]仕《のぶながちさうまをししんじやうつかまつるべき》の由《よし》、申舊候《まをしふるしさふらひ》き。左樣《さやう》には候《さふら》はで、以[#二]密々[#一]直《みつみつをもつてたゞちに?》に被[#二]仰遣[#一]候義不[#レ]可[#レ]然存候事《おほせつかはされさふらふぎしかるべからずとぞんじさふらふこと》。
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此《こ》れは元龜《げんき》元年《ぐわんねん》正月《しやうぐわつ》、信長《のぶなが》對《たい》義昭《よしあき》の協約《けふやく》に、義昭《よしあき》自《みづ》から内書《ないしよ》を發《はつ》せずとの一|條《でう》を、爾來《じらい》無視《むし》したるを咎《とが》めたのだ。彈劾《だんがい》の意味《いみ》が、馬《うま》其《そ》の他《た》の事《こと》に關《くわん》する内書《ないしよ》に止《とゞ》まりて、信長《のぶなが》退治《たいぢ》の陰謀《いんばう》に言及《げんきふ》せざるは、信長《のぶなが》も頗《すこぶ》る尋酌《しんしやく》する所《ところ》があつたからであらう。
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一|諸侯《しよこう》の衆《しう》、方々御屆申《かた/″\おとゞけまをす》、忠節無[#二]疎略[#一]輩《ちうせつそりやくなきのはい》には、似相《にあひ》の御恩賞不[#レ]被[#二]宛行[#一]《ごおんしやうあておこなはれず》、今々《いま/\》の指者《さしたるもの》にもあらざるには被[#レ]加[#二]御扶持[#一]候《ごふちをくはへられさふらふ》。さ樣《やう》に候《さふらう》ては忠不忠《ちうふちう》も不[#レ]入《いらざること》に罷成候《まかりなりさふらふ》、諸人《しよにん》のおもはく不[#レ]可[#レ]然事《しかるべからざること》。
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此《こ》れは恩賞《おんしやう》の不公平《ふこうへい》にして、其《そ》の當《たう》を得《え》ざるを咎《とが》めたのぢや。
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一|今度雜説《こんどざふせつ》に付《つい》て、御物《おんもの》をのけさせられ候由《さふらふよし》、都鄙無[#二]其隱[#一]候《とひそのかくれなくさふらふ》。就[#レ]其京都以外?意《それについてきやうともつてのほかそうい》たる由《よし》、驚存候《おどろきぞんじさふらふ》。御構《おんかまへ》に普請以下苦[#二]勞造作[#一]《ふしんいかざうさくにくらう》を仕候《つかまつりさふらう》て、再何方《ふたた?びいづかた》へ可[#レ]被[#レ]移[#二]御座[#一]之哉《おんぎをうつさるべきや》、無念《ぶねん》の子細候《しさいにさふらふ》。さ候時《さふらふとき》は、信長辛勞《のぶながしんらう》も徒《いたづら》に罷成候事《まかりなりさふらふこと》。
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信長《のぶなが》は、義昭《よしあき》が其《そ》の什物《じふもつ》を、京都以外《きやうといぐわい》の場所《ばしよ》に送致《そうち》したるを以《もつ》て、愈《いよい》よ敵對行爲《てきたいかうゐ》開始《かいし》の徴候《ちようこう》と、認《みと》めたのであらう。但《た》だ言《げん》の此《これ》に及《およ》ばざるは、言《い》はぬが花《はな》であるからであらう。
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一|加茂《かも》の儀《ぎ》、岩成《いはなり》に被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》百|姓前堅御糺明《しやうまへかたくごきうめい》の由《よし》、表向御沙汰候《おもてむきごさたさふらひ》て、御内儀《ごないぎ》は御用捨?《ごようしや》の樣《やう》に申觸《まをしふら》し候《さふらふ》。惣別加樣《そうべつかやう》の寺社方《じしやがた》、御缺落如何《おんけつらくいか》にと存候《ぞんじさふら》へ共《ども》、岩成堪忍?不[#レ]屆《いはなりかんにんとゞかず》、令[#二]難儀[#一]《なんぎせしむる》の由候間《よしにさふらふあひだ》、先此分《まづこのぶん》にも被[#二]仰付[#一]御耳《おほせつけられおんみゝ》をも被[#レ]休《やすませられ》、又《また》一|方《ぽう》の御用《ごよう》にも被[#レ]立候樣《たゝせられさふらふやう》にと存候處《ぞんじさふらふところ》、御内儀如[#レ]此候《ごないぎかくのごとくにさふら》へば、不[#レ]可[#レ]然存候事《しかるべからずぞんじさふらふこと》。
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是《こ》れ義昭《よしあき》が加茂神領處分《かもしんりやうしよぶん》に關《くわん》する措置《そち》の、不徹底《ふてつてい》にして、表裏《へうり》不《ふ》一|致《ち》なるを咎《とが》めたのぢや。
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一|信長《のぶなが》に對《たい》し無[#二]等閑[#一]輩《とうかんなきはい》、女房衆以下《にようばうしういか》までも、思食《おぼしめし》あたらるゝ由候《よしにさふらふ》、令[#二]迷惑[#一]候《めいわくせしめさふらふ》。我等《われら》に無[#二]疎略[#一]者《そりやくなきもの》と被[#二]聞食[#一]候《きこしめされさふら》はゞ、一入被[#レ]懸[#二]御目[#一]候樣《ひとしほおんめをかけられさふらふやう》に御座候《ござさふらふ》てこそ、忝可[#レ]存候《かたじけなくぞんずべくさふらふ》を、かひさまに御心得《おんこゝろえ》なされ候《さふらふ》、如何《いかゞ》の子細候哉《しさいにさふらふや》の事《こと》。
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信長《のぶなが》に懇意《こんい》の者《もの》は、一|切《さい》之《これ》を疎遠《をゑん》するは、何故《なにゆゑ》である。斯《かゝ》る者《もの》は特《とく》に懇切《こんせつ》に、取扱《とりあつか》ふ可《べ》きではない乎《か》との申分《まをしぶん》ぢや。信長《のぶなが》の立場《たちば》からは尤《もつとも》であるが、義昭《よしあき》の方《はう》では、迷惑《めいわく》と云《い》はねばなるまい。


[#5字下げ]【九五】所謂信長の諫書(二)[#「【九五】所謂信長の諫書(二)」は中見出し]
信長《のぶなが》の義昭《よしあき》に對《たい》する苦情《くじやう》は、綿々《めん/\》として盡《つ》きない。
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一|無[#レ]恙致[#二]奉公[#一]何《つゝがなくほうこういたしなん》の利《とが》も御座候《ござさふら》はね共《ども》、不[#レ]被[#レ]加[#二]御扶持[#一]《ごふちをくはへられず》、京都《きやうと》の堪忍?不[#レ]屆者共《かんにんとゞかざるものども》、信長《のぶなが》にたより歎申候《なげきまをしさふらふ》。定《さだめ》て私言上候《わたくしごんじやうそふら》はゞ、何《なに》とぞ御憐《おんあはれみ》も可[#レ]有[#レ]之《これあるべき》かと存候《ぞんじさふらひ》ての事候間《ことにさふらふあひだ》、且《かつ》は不便《ふびん》に存知《ぞんぢ》、且《かつ》は公儀御爲《こうぎのおんため》と存候《ぞんじさふらひ》て御扶持《ごふち》の義申上候《ぎまをしあげさふら》へ共《ども》、一|人《にん》も無[#二]御許容[#一]候《ごきよようなくさふらふ》。餘文緊《あまりぶんきん》なる御諚共候間《ごぢやうどもさふらふあひだ》、其身《そのみ》に對《たい》しても、並[#二]面目[#一]存候《めんぼくなくぞんじさふらふ》。勸《くわん》(觀《くわん》?)世與左衞門《ぜよざゑもん》、古田可兵衞《ふるたかへゑ》、上野紀伊守類《うへのきいのかみるゐ》の事《こと》。
一|若州安賀庄御代官《じやくしうあかのしやうおだいくわん》の事《こと》、粟屋孫《あはやまご》八|郎訴訟申上候間《らうそしようまをしあげさふらふあひだ》、難[#レ]去存種々執申參《さりがたくぞんじしゅ/″\しつしまをしまら?》られ候《さふらふ》も、御意得不斷《ぎよいえたへず》、過來候事《すぎきたりさふらふこと》。
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何《いづ》れも信長《のぶなが》の意見《いけん》を、採用《さいよう》せざるを咎《とが》めたのぢや。併《しか》し義昭《よしあき》の側《がは》より見《み》れば、信長《のぶなが》を便《たよ》りて泣《な》き附《つ》き、若《もし》くは信長《のぶなが》に由《よ》りて、願意《ぐわんい》を達《たつ》せんとしたる者共《ものども》に對《たい》しては、殊更《ことさ》らに之《これ》を採用《さいよう》せなかつたであらう。誰《たれ》しも押附《おしつけ》がましき要請《えうせい》には、癪《しやく》に障《さは》るもの也《なり》。一|寸《すん》の蟲《むし》にも、五|分《ぶ》の魂《たましひ》とかや。まして義昭《よしあき》は、十二|分《ぶん》の自覺心《じかくしん》ある、浮?誇漢《ふくわかん》なれば、信長《のぶなが》の思《おも》ふ通《とほ》りにならぬ處《ところ》に、却《かへつ》て其《そ》の自己《じこ》存在《そんざい》の愉快《ゆくわい》を、見出《みいだ》したのであらう。
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一|小泉女家預《こいづみによけあづ》け置雜物《おくざふもつ》、再質物《ふたゝびしちもつ》に置候《おきさふらふ》、腰刀脇指等《こしがたなわきざしとう》まで被[#二]召置[#一]《めしおかるゝ》の由候《よしにさふらふ》。小泉何《こいづみなに》とぞ謀叛《むほん》をも仕《つかまつり》、造意曲事《ざういくせごと》の仔細《しさい》も候《さふらひ》て、根《ね》を斷《たち》葉《は》を枯《から》しても勿論候《もちろんにさふらふ》。是者不[#レ]計喧嘩《これははからずもけんくわ》にて果候間《はてさふらふあひだ》、一|旦被[#レ]守[#二]法度[#一]《たんはつとをまもらるゝ》は尤候《もつともにさふらふ》。是程迄被[#二]仰付[#一]候儀《これほどまでおほせつけられさふらふぎ》は、御欲徳?《おんよくとく》の儀《ぎ》によりたると、世間《せけん》に可[#レ]存候事《ぞんずべくさふらふこと》。
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御欲徳《おんよくとく》の三|字《じ》、直《たゞち》に胸《むね》を刺《さ》す。此《これ》には義昭《よしあき》も答辯《たふべん》が出來《でき》まい。
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一|元龜《げんき》の年號不吉候間《ねんがうふきつにさふらふあひだ》、改元可[#レ]然《かいげんしかるべく》の由《よし》、天下之沙汰《てんかのさた》に付《つい》て申上候《まをしあげさふらふ》。禁中《きんちう》にも御催《おんもよほし》の由候處《よしにさふらふところ》、聊《いさゝか》の雜用不[#レ]被[#二]仰付[#一]《ざふようおほせつけられず》、于[#レ]今延々候《いまにのび/″\さふらふ》。是《これ》は天下《てんか》の御爲候處《おんためにさふらふところ》、御油斷不[#レ]可[#レ]然存候事《ごゆだんしかるべからずとぞんじさふらふこと》。
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義昭《よしあき》が、輕少《けいせう》なる經費《けいひ》を出《だ》し澁《しぶ》りて、改元《かいげん》の期《き》を誤《あやま》りつゝあるを、責《せ》めたのぢや。
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一|烏丸事被[#レ]蒙[#二]勘氣[#一]《からすまることかんきをかうむらるゝ》の由候《よしにさふらふ》。息《そく》の儀《ぎ》は御憤《おんいきどほり》も無[#二]餘儀[#一]候處《よぎなくさふらふところ》、誰哉覽[#二]内儀[#一]《たれかないぎをみる》の御使者申候《おししやまをしさふらひ》て、金子《きんす》を被[#二]召置[#一]出頭《めしおかれしゆつとう》させられ候由候《さふらふよしにさふらふ》、歎敷候《なげかはしくさふらふ》。人《ひと》により罪《つみ》に依《よつ》て、過怠《くわたい》として被[#二]仰付[#一]候趣《おほせつけられさふらふおもむき》も可[#レ]有[#レ]之候《これあるべくさふらふ》。是《こ》は賞性《しやうしやう》の仁候《ひとにさふらふ》。當時公家《たうじくげ》には、此仁《このひと》の樣《さま》の處《ところ》、如[#レ]此次第《かくのごときしだい》、外聞咲?止《ぐわいぶんせうし》に存候《ぞんじさふらひ》つる事《こと》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは其《その》罪《つみ》にあらざる烏丸《からすまる》を、義昭《よしあき》が過怠金《くわたいきん》を徴《ちよう》して、出頭《しゆつとう》せしめたることを咎《とが》めたのだ。
[#ここから1字下げ]
一|他國《たこく》より御禮申上《おんれいまをしあげ》、金銀《きんぎん》を進上歴?然候處《しんじやうれきぜんにさふらふところ》、御隱密候《ごをんみつさふらひ》て、をかせられ、御用《ごよう》にも不[#レ]被[#レ]立候段《たてられずさふらふだん》、何《なん》の御爲候哉之事《おんためにさふらふやのこと》。
[#ここで字下げ終わり]
若《も》し義昭《よしあき》をして、露骨《ろこつ》に答辯《たふべん》せしめん乎《か》、其方《そのはう》退治《たいぢ》の軍用金《ぐんようきん》の積《つも》りぢやと云《い》ふであらう。
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一|明智地子錢《あけちぢしせん》を納置《をさめおき》、買物《かひもの》の代《かは》りに渡遣候《わたしやりさふらふ》を、山門領之由被[#二]仰懸[#一]《さんもんりやうのよしおほせかけられ》、預《あづ》け置候者《おきさふらふもの》の御押《おんおさへ》の事《こと》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは明智光秀《あけちみつひで》の置?物代金《かひものだいきん》を、横取《よこど》りしたるを咎《とが》めたのだ。
[#ここから1字下げ]
一|去夏御城米被[#レ]出《きよかごじやうまいをいだされ》、金銀《きんぎん》に御賣買《ごばい/\》の由候《よしにさふらふ》。公方樣御商賣《くばうさまごしやうばい》の儀《ぎ》、古今不[#レ]及[#レ]承候《ここんうけたまはりおよばずさふらふ》。今《いま》の時分候間《じぶんにさふらふあひだ》、御倉《おんくら》に兵粮在[#レ]之體《ひやうらうこれあるてい》こそ外聞尤存候《ぐわいぶんもつともにぞんじさふらふ》。如[#レ]此《かくのごとき》の次等?驚存候事《しだいおどろきぞんじさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
罵《のゝし》り得《え》て痛快《つうくわい》。『公方樣御商賣《くばうさまごしやうばい》の儀《ぎ》、古今不[#レ]及[#レ]承候《ここんうけたまはりおよばずさふらふ》。』の一|句《く》、何等《なんら》の奇警《きけい》ぞ。的《まさ》に是《こ》れ信長《のぶなが》の語《ご》。
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一|御宿直《おんとのゐ》に被[#二]召寄[#一]候若衆《めしよせられさふらふわかしゆう》に、御扶持《おふち》を被[#レ]加度思食候《くはへられたくおぼしめしさふら》はゞ、當坐《たうざ》/\何成共《なんなりとも》、可[#レ]有[#二]御座[#一]候處《ござあるべくさふらふところ》、或御代官職被[#二]仰付[#一]《あるひはおだいくわんしよくおほせつけられ》、或非分《あるひはひぶん》の公事《くじ》を申《まをす》につかせられ候事《さふらふこと》、天下褒貶沙汰限候事《てんかほうへんさたのかぎりにさふらふこと》。
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此《こ》れは面首《めんしゆ》の徒《と》を寵《ちよう》するに、天下《てんか》の公職公務《こうしよくこうむ》を以《もつ》てしたるを、非難《ひなん》したのである。
[#ここから1字下げ]
一|諸侯《しよこう》の衆武具兵粮以下《しうぶぐひやうらういか》の嗜《たしなみ》はなく、金銀《きんぎん》を專《もつぱら》に蓄之由候《たくはふるのよしにさふらふ》。牢人之支度《らうにんのしたく》と存候《ぞんじさふらふ》。是《これ》も上樣金銀《うへさまきんぎん》を被[#二]取置[#一]《とりおかれ》、雜説砌者御構《ざふせつのみぎりはおかまひ》を被[#レ]出候《いだされさふらふ》に付《つき》て、下々迄《しも/″\まで》も、さては京都《きやうと》を捨?《すて》させらる可《べ》き趣《おもむき》と見及候《みおよびさふらう?》て之儀《のぎ》たるべく、上《かみ》一|人《にん》を守候段不[#レ]珍事《まもりさふらふだんめづらしからざること》。
[#ここで字下げ終わり]
義昭《よしあき》が、信長《のぶなが》退治《たいぢ》の支度金《したくきん》調達《てうたつ》を、暗《あん》に諷《ふう》したのである。
[#ここから1字下げ]
一|諸事《しよじ》に付《つい》て、御欲《おんよく》がましき儀《ぎ》、理非《りひ》も、外聞《ぐわいぶん》にも不[#レ]被[#二]立入[#一]由《たちいられざるよし》、其聞候間《そのきこえさふらふあひだ》、不思議《ふしぎ》の土民《どみん》百|姓《しやう》に至迄《いたるまで》も、惡御所《あくごしよ》と申成由候《まをすなるよしにさふらふ》。普光院殿《ふくわうゐんでん》(將軍義教《しやうぐんよしのり》)をさ樣《やう》に申《まをし》たりと傳承候《でんしようさふらふ》。其《そ》は各?別《かくべつ》の儀候《ぎにさふらふ》。何故此如御影事《なにゆゑかくのごときおんかげごと》を申候哉《まをしさふらふや》、爰《こゝ》を以《もつ》て、御分別參《ごふんべつまゐ》るべき歟《か》の事《こと》。
[#ここで字下げ終わり]
[#3字下げ]以  上
是《こ》れが全文《ぜんぶん》の歸結《きけつ》ぢや。勤王心《きんわうしん》退轉《たいてん》を以《もつ》て起《おこ》り、惡御所《あくごしよ》を以《もつ》て結《むす》ぶ。中間《ちうかん》の彈詞《たんし》、微《び》に入《い》り、細《さい》を穿《うが》ち、筆路《ひつろ》繚繞《れうねう》にして、然《しか》も句々《くゝ》、字々《じゝ》、一として義昭《よしあき》の究所《きうしよ》に中《あた》らざるはない。信長《のぶなが》自《みづ》からの執筆《しつぴつ》でなければ、少《すくな》くとも其《そ》の口授《くじゆ》に相違《さうゐ》あるまい。其《そ》の言句《げんく》の深刻《しんこく》、?切《ざんせつ》にして、首尾《しゆび》一|貫《くわん》したる、到底《たうてい》其《そ》の作者《さくしや》の何人《なんぴと》たるかを、裏切《うらぎ》らざるを得《え》ない。
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[#6字下げ]新井白石の『諫書』に對する意見[#「新井白石の『諫書』に對する意見」は1段階小さな文字]
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信長天下に威名有し事は義多を奉ぜられしによれり、但其志を得し後義昭を廢せんと思はれし事は明かなる歟、義昭を京都へ入られし後、やがて禁裏を修造して公家の人々の絶たる家を起さる、且は義昭を諫められし十七條の第一に、御參内の儀光源院殿御無沙汰に付果して無[#二]御冥加[#一]次第に候依[#レ]之當御代年々無[#二]懈怠[#一]樣にと御入洛の刻より申上之處早被[#二]思召忘[#一]近年御退轉無[#二]勿體[#一]存候事と載られたり、都ては此諫言義昭の爲に忠を盡されしとは見えず、義昭の惡を世に顯はさんとの謀と見べし、されば義昭も其怒に堪ずして兵を擧らる、是則天子を挾で天下に令すべきの機既に露はれしに非ずや、秀吉其故智を用ひて朝威を假り私家を營まれき、されば信長の義昭を扶持し、秀吉の信忠の男岐阜殿を翼載せられし、皆是暫時の詐謀にして其名を假らむ爲なるべし。〔新井白石『讀史餘論』〕
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[#6字下げ]義昭老臣等の信長に對する意見[#「義昭老臣等の信長に對する意見」は1段階小さな文字]
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信長は公方の所爲不正なるを以て之を甚た不快とし、悉く其意旨を擧て諫れとも、公方は敢て以て意となさず、此に於て事の曲直を斷ずるは、干戈を用ふるに非れば能はざるの形勢を見て、只管城砦を修め軍備を爲すを要務とせり。信長は此所行を見て、益忿怒に耐ふる能はず、是に至りて遂に師を起さんと思想せり。信長は元より策略に富むを以て、必先公方の非理を顯著ならしめ、而して後事を擧れば更に怨望の爲にあらず、公平の正義に由り事の巳むを得ざるに出づるを、天下の諸侯をして信ぜしめんと欲し、信長は公方に書を贈り丁寧に説て曰く、公の老臣等は公と我とを離間せんと欲し、巧言を盡して我れを公に訴へしに、公も亦之を容れたるは是我が不快なる所なり、我既に公の生命を救ひ、又公の國を護する其勤勞亦少しとせず、公願くは之を顧慮せよ、我は公と親交を厚うせんと欲する赤心なるを表證せんが爲めに、我子をして公に侍せしめ以て質と爲んと約す。
此に於て公方は、信長の潔白にして且公正なる所行に感じ、其疑心を散したるものゝ如し。然れども老臣等は信長の抑制に愈堪ふる能はず、故に信長の書翰及ひ人質を以て公方を欺くの方略となし、隙を構へん事を謀り公方に説て曰く、敵既に降服の情を表する此の如し、是怯懦の徴なり、信長は人を侮慢すること甚しきを以て、天下の諸侯誰か之を忌憎せざるものあらん、殊に佛僧等は其寺院を破却せられ、殿堂を燒亡せられたるを以て、信長を忌む尤甚し、今公若し兵を擧て信長を伐んとせば、佛僧等亦必強兵を擧け、以て公を援くべし、信長は人民及ひ神佛の怨敵たるを以て、人民も亦此機に乘じて起るべし。故に兵を擧るは唯此時を然りと爲す、京都の住民は家を燒かれ其餘烟未消滅せず、比叡山の僧徒は其法友を斬殺せられ鮮血を以て靈山を汚染せらる、是皆信長に因て生れたるの禍なり、是を以て今日一たび令を發すれば、衆皆饗應し、信長に向て戰鬪すべし、加之君主たる者、其下に屈して屬奴とならんより、寧ろ兵を手にし戰死するの愈るに如かざるなりと。〔日本西教史〕
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[#5字下げ]【九六】兩人の思惑[#「【九六】兩人の思惑」は中見出し]
所謂《いはゆ》る信長《のぶなが》の諫書《かんしよ》なるものは、果《はた》して誠心誠意《せいしんせいい》、義昭《よしあき》の過《あやまち》を補《おぎな》ひ、非《ひ》を匡《たゞ》すが爲《た》めであつた乎《か》。將《は》た名《な》を諫書《かんしよ》に藉《か》りて、其《そ》の罪《つみ》を天下《てんか》に鳴《な》らし、義昭《よしあき》討伐《たうばつ》の檄文《げきぶん》たらしむるにあつた乎《か》。信長《のぶなが》は恐《おそ》らくは、兩天秤《りやうてんびん》に掛《か》けたであらう。併《しか》し輕《かる》きは前者《ぜんしや》にありて、重《おも》きは後者《こうしや》にあつたであらう。信長《のぶなが》は虚飾者《きよしよくしや》ではない。僞善者《ぎぜんしや》ではない。されど大義名分《たいぎめいぶん》が、人事《じんじ》の處理《しより》に、大切《たいせし?》なる要求《えうきう》たる※[#「こと」の合字、499-6]を、切實《せつじつ》に認《みと》めて居《ゐ》た、故《ゆゑ》に彼《かれ》は決《けつ》して無名《むめい》の師《し》を起《おこ》さなかつた。其《そ》の義昭《よしあき》に對《たい》する政策《せいさく》に就《つい》ても、精細《せいさい》なる注意《ちうい》を拂《はら》つた。乃《すなは》ち此《こ》の諫書《かんしよ》の如《ごと》きも、信長《のぶなが》對《たい》義昭《よしあき》の立場《たちば》を、天下《てんか》に明白《めいはく》ならしむる爲《た》めに、若《もし》くは其《そ》の場合《ばあひ》を考慮《かうりよ》して、而《しか》して後《のち》立案《りつあん》したのであらう。
何故《なにゆゑ》に信長《のぶなが》は、元龜《げんき》四|年《ねん》の正月《しやうぐわつ》に於《おい》て、此《かく》の如《ごと》さ?諫書《かんしよ》を上《たてまつ?》つたのであらう乎《か》。其《そ》の事柄《ことがら》にこそ、多少《たせう》の相違《さうゐ》はある可《べ》けれ。斯《かゝ》る諫書《かんしよ》は、何時《なんどき》でも作成《さくせい》することが出來《でき》たであらう。然《しか》るに特《とく》に元龜《げんき》四|年《ねん》の劈頭《へきとう》を擇《えら》んだのは、如何《いか》なる理由《りいう》である乎《か》。此《こ》れは義昭《よしあき》の陰謀《いんばう》が、今《いま》や公然《こうぜん》の秘密《ひみつ》となり、其《そ》の信長《のぶなが》退治《たいぢ》運動《うんどう》が、大《おほ》びらに手《て》を擴《ひろ》げ來《きた》り、爲《た》めに信長《のぶなが》をして、即今《そつこん》制裁《せいさい》を彼《かれ》に加《くは》へ置《お》く必要《ひつえう》を、認《みと》めしめたからであらう。言《い》ひ換《か》ふれば、破裂《はれつ》の期《き》、眼前《がんぜん》に迫《せ》まりたるを見《み》たる信長《のぶなが》は、自《みづ》から進《すゝ?》で機先《きせん》を制《せい》したのであらう。
有體《ありてい》に言《い》へば、信長《のぶなが》は最後《さいご》迄《まで》義昭《よしあき》を利用《りよう》した。信長《のぶなが》微《なか》りせば、義昭《よしあき》は將軍《しやうぐん》たるを得《え》なかつたであらう。併《しか》し義昭《よしあき》あるが爲《た》めに、信長《のぶなが》が利益《りえき》を得《え》たことも、決《けつ》して少《すくな》くなかつた。當時《たうじ》足利將軍《あしかゞしやうぐん》の位置《ゐち》は、古店《ふるみせ》の看板《かんばん》に過《す》ぎなかつた。併《しか》し此《こ》の看板《かんばん》は、信長《のぶなが》の新肆《しんみせ》開店《かいてん》の前景氣《まへけいき》として、顧客《こかく》を招致《せうち》するには、若干《じやくかん》の効能《かうのう》があつた。双方《さうはう》の損得勘定《そんとくかんぢやう》から云《い》へば、信長《のぶなが》のみが、義昭《よしあき》に恩《おん》を被《き》せたのではない。信長《のぶなが》は天成《てんせい》の利用家《りようか》ぢや、されば義昭《よしあき》奉戴《ほうたい》の利《り》が、其《その》害《がい》よりも多《おほ》き間《あひだ》は、如何《いか》に其《その》害《がい》あるも、先《ま》づ辛抱《しんばう》したのであらう。然《しか》も彼《かれ》は、其《その》害《がい》の利《り》よりも大《だい》なる場合《ばあひ》に至《いた》るも、尚《な》ほ辛抱《しんばう》する程《ほど》の呑氣男《のんきをとこ》でない。彼《かれ》は義昭《よしあき》の徒《いたづ》らが、餘《あま》りに大袈裟《おほげさ》となり、此儘《このまゝ》放下《はうか》する時《とき》には、如何《いか》なる大事《だいじ》を出來《しゆつたい》するやも、知《し》る可《べ》からざるを看破《かんぱ》し、彌《いよい》よ心中《しんちう》に決《けつ》する所《ところ》あり。所謂《いはゆ》る諫書《かんしよ》の外皮《ぐわいひ》に、挑戰状《てうせんじやう》の内容《ないよう》を包《つゝ》み、之《こ》れを義昭《よしあき》に投《な》げ付《つ》け、義昭《よしあき》其《その》人《ひと》の擧措《きよそ》奈何《いかん》を、試《ため》し見《み》たのであらう。
然《しか》も義昭《よしあき》の、第《だい》一に頼《たの》みとしたるは、武田信玄《たけだしんげん》である。されば彼《かれ》は信玄《しんげん》の西上《せいじやう》迄《まで》は、蟲《むし》を殺《こ》ろして、信長《のぶなが》とは從前《じうぜん》の關係《くわんけい》を維持《ゐぢ》し、之《これ》を待《ま》ち合?《う》けたのであらう。然《しか》るに信玄《しんげん》は、西上《せいじやう》の途《と》に就《つ》き、元龜《げんき》三|年《ねん》の暮《くれ》には、三方原《みかたがはら》にて、大勝利《だいしようり》を得《え》た。但《た》だ遺憾《ゐかん》なるは、徳川《とくがは》に打撃《だげき》を與《あた》へた程《ほど》には、織田《おだ》には與《あた》へ得《え》なかつた。されど信長《のぶなが》は、今《いま》や奔命《ほんめい》に疲《つか》れた。信玄《しんげん》とは愈《いよい》よ手切《てぎれ》となつた。此上《このうへ》は妥協《だけふ》の餘地《よち》はない。越前《ゑちぜん》の朝倉《あさくら》、江北《かうほく》の淺井《あさゐ》父子《ふし》、今尚《いまな》ほ猖獗《しやうけつ》を逞《たくまし》うして居《を》る。
義昭《よしあき》も今《いま》は好《よ》き潮合《しほあひ》と見《み》たのであらう。彼《かれ》は三方原《みかたがはら》合戰《かつせん》の翌春《よくしゆん》、元龜《げんき》四|年《ねん》即《すなは》ち天正《てんしやう》元年《ぐわんねん》の正月《しやうぐわつ》、信長《のぶなが》諫書《かんしよ》の提出《ていしゆつ》を機《き》として、愈《いよい》よ信長《のぶなが》退治《たいぢ》の旗《はた》を揚《あ》げた。信長《のぶなが》は朝山日乘《あさやまにちじよう》、島田所之助《しまだところのすけ》、村井長門守《むらゐながとのかみ》を以《もつ》て、義昭《よしあき》の望《のぞみ》に任《まか》せ、人質《ひとじち》及《およ》び誓紙《せいし》を與《あた》へ、和談《わだん》せんと試《こゝろ》みた。然《しか》も義昭《よしあき》は之《これ》を容《い》れず、却《かへつ》て堅田《かただ》、石山《いしやま》に新寨《しんさい》を構《かま》へ、信長《のぶなが》の入京《にふきやう》を拒《こば》まんとした。信長《のぶなが》は、柴田《しばた》、明智《あけち》、丹羽《には》、蜂屋等《はちやら》をして、之《これ》を討伐《たうばつ》せしめた。二|月《ぐわつ》廿四|日《か》に、勢田《せた》を渡《わた》り、廿六|日《にち》に、石山《いしやま》を降《くだ》し、廿九|日《にち》に堅田《かただ》に逼《せま》り、午前《ごぜん》八|時《じ》に攻《せ》め初《はじ》め、正午《しやうご》には之《これ》を陷《おとしい》れた。京童《きやうわらんべ》落書《らくしよ》して曰《いは》く、『かぞいろもやしなひ立《たて》し甲斐《かひ》もなく、いたくも花《はな》を雨《あめ》のうつ音《おと》』と。
三|月《ぐわつ》廿五|日《にち》、信長《のぶなが》入洛《じゆらく》の爲《た》め岐阜《ぎふ》を發《はつ》す。廿九|日《にち》、細川藤孝《ほそかはふぢたか》、荒木村重等《あらきむらしげら》逢坂《あうさか》迄《まで》來《きた》り迎《むか》へた。四|月《ぐわつ》三|日《か》、信長《のぶなが》は先《ま》づ洛外《らくぐわい》の寺院《じゐん》、堂塔《だうたふ》を除《のぞ》き、所々《しよ/\》を燒立《やきた》て、義昭《よしあき》の心《こゝろ》を翻《ひるがへ》さんと勗《つと》めた。然《しか》も彼《かれ》は頑《ぐわん》として之《これ》を容《ゆる》さず、此《これ》を以《もつ》て信長《のぶなが》は上京《かみきやう》に放火《はうくわ》し、軍兵《ぐんぴやう》を以《もつ》て、義昭《よしあき》の邸第《ていだい》、二|條御所《でうごしよ》を追取《おつと》り捲?《ま》いた。義昭《よしあき》も今《いま》は此迄《これまで》なりと、彼《かれ》より和談《わだん》を乞《こ》ひ來《き》た。
信長《のぶなが》は四|月《ぐわつ》六|日《か》、津田信廣《つだのぶひろ》を名代《みやうだい》として、其《そ》の挨拶《あいさつ》に差《さ》し出《いだ》し、同《どう》七|日《か》京都《きやうと》を發《はつ》し、守山《もりやま》に陣《ぢん》し、鯰江《なまづえ》の城《しろ》に佐々木右衞門督《さゝきうゑもんのすけ》(六|角義弼《かくよしすけ》)を攻《せ》め、百濟寺《くだらじ》が此《この》城《しろ》に應援《おうゑん》したるが爲《た》めに、四|月《ぐわつ》十一|日《にち》に之《これ》を燒《や》き、同日《どうじつ》岐阜《ぎふ》に歸《かへ》つた。
今囘《こんくわい》の事件《じけん》に就《つい》て、信長《のぶなが》の出馬《しゆつば》の、平生《へいぜい》の迅速《じんそく》なるに似氣《にげ》なく、頗《すこぶ》る遲緩《ちくわん》なりしは、信玄《しんげん》の西上《せいじやう》に備《そな》へる爲《た》めであつたらう。然《しか》らざれば彼《かれ》は、三|月《ぐわつ》の初《はじめ》には入洛《じゆらく》せねばならぬ筈《はず》ぢや。然《しか》るに廿五|日《にち》迄《まで》延引《えんいん》したのは、全《まつた》く此《これ》が爲《た》めであつたであらう。されど信玄《しんげん》の方面《はうめん》、最早《もはや》殺急《さつきふ》なる掛念《けねん》なきを見《み》て、自《みづ》から出馬《しゆつば》し、義昭《よしあき》の處分《しよぶん》に手《て》を下《く》だしたのであらう。信玄《しんげん》の死《し》は、實《じつ》に信長《のぶなが》の生涯《しやうがい》に、新局面《しんきよくめん》を開展《かいてん》せしめた。信玄《しんげん》は其《そ》の一|死《し》を以《もつ》て、天下統《てんかとう》一の業《げふ》に貢獻《こうけん》した。


[#5字下げ]【九七】信玄の死去[#「【九七】信玄の死去」は中見出し]
英雄《えいゆう》恨《うらみ》多《おほ》し、天《てん》は信長《のぶなが》に祉《さいはひ》して、信玄《しんげん》に災《わざはひ》した。信玄《しんげん》は三方原《みかたがはら》大勝後《たいしようご》、刑部《おさかべ》に其《そ》の軍隊《ぐんたい》と與《とも》に、元龜《げんき》三|年《ねん》を送《おく》り、天正《てんしやう》元年《ぐわんねん》を迎《むか》へた。朝倉義景《あさくらよしかげ》の使者《ししや》は、舊年《きうねん》の末《すゑ》に來《き》た、信玄《しんげん》は之《これ》に對《たい》し、
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去《さる》廿二|日當國於[#二]見方原[#一]《にちたうごくみかたがはらにおいて》、遂[#二]一戰[#一]參遠兩國之凶徒《いつせんをとげさんゑんりやうごくのきようと》、並岐阜之加勢衆《ならびにぎふのかせいしう》千|餘人討捕達[#二]本意[#一]候間《よにんうちとりほんいをたつしさふらふあひだ》、可[#二]御心易[#一]候《おんこゝろやすかるべくさふらふ》。
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と云《い》ひ、其《そ》の戰捷《せんせふ》を報《はう》じ。更《さ》らに
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又如[#二]巷説[#一]者《またかうせつのごとくは》、御手之衆過半歸國之由驚入候《おんてのしうくわはんきこくのよしおどろきいりさふらふ》。各勞[#レ]兵勿論候《おの/\へいをらうするはもちろんにさふらふ》。然雖此節信長滅亡時刻到來候處《しかりといへどもこのせつのぶながめつばうじこくたうらいさふらふところ》、唯令[#二]寛宥[#一]御歸《たゞくわんいうせしめおんかへりは》、勞而無[#レ]功歟《らうしてこうなきか》。不[#レ]可[#レ]過[#二]御分別[#一]候《ごふんべつにすぐべからずさふらふ》。
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と云《い》ひ、其《そ》の漫《みだ》りに師《し》を回《か》へし、信長《のぶなが》を逸《いつ》し去《さ》りたるを責《せ》めた。彼《かれ》は正《まさ》しく今《いま》や『信長《のぶなが》滅亡《めつばう》の時刻《じこく》到來《たうらい》』したものと信《しん》じて居《ゐ》た。否《い》な彼《かれ》は自《みづ》から信長《のぶなが》滅亡者《めつばうしや》を以《もつ》て任《にん》じて居《ゐ》た。焉《いづくん》ぞ知《し》らむ死《し》の手《て》は、既《すで》に彼《かれ》に迫《せま》り來《きた》らんとは。
新年《しんねん》の首《はじめ》には、北條氏政《ほうでううぢまさ》から戰勝《せんしよう》の祝詞《しゆくじ》が來《き》、且《か》つ此上《このうへ》とも必要《ひつえう》に應《おう》じ、援兵《ゑんぺい》を増遣《ぞうけん》せんことを告《つ》げた。信長《のぶなが》とは愈《いよい》よ表《おも》て立《だつ》ての手切《てぎれ》となつた。彼《かれ》は正月《しやうぐわつ》七|日《か》、將軍《しやうぐん》義昭《よしあき》の信玄《しんげん》對《たい》信長《のぶなが》家康《いへやす》の、修和《しうわ》の諭旨《ゆし》を謝絶《しやぜつ》したのみならず、公々然《こう/\ぜん》信長《のぶなが》の罪《つみ》を鳴《な》らした。而《しか》して同日《どうじつ》刑部《おさかべ》を發《はつ》し、參河《みかは》に入《い》り、十一|日《にち》に野田城《のだじやう》を圍《かこ》んだ。
城主《じやうしゆ》菅沼定盈《すがぬまさだみつ》、濱松《はままつ》の援將《ゑんしやう》松平忠正等《まつだひらたゞまさら》、四百|餘人《よにん》の兵《へい》にて嬰守《えいしゆ》した。家康《いへやす》は後詰《ごづめ》の爲《た》めに、笠頭山《かさがみやま》迄《まで》來《き》たが、今更《いまさ》ら武田勢《たけだぜい》に打《う》ち衝《つ》かる譯《わけ》には參《まゐ》らず、信長《のぶなが》に援軍《ゑんぐん》を請《こ》うた。信長《のぶなが》は恰《あたか》も將軍義昭《しやうぐんよしあき》と、葛藤《かつとう》の最中《さいちう》で、力《ちから》及《およ》ばぬ。されば家康《いへやす》は、謙信《けんしん》に向《むかつ》て、二|月《ぐわつ》四|日《か》附《づけ》を以《もつ》て、其《そ》の策應《さくおう》を促《うなが》した。
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抑信玄至[#二]于野田城[#一]《そも/\しんげんのだじやうにいたり》、在陣候《ざいぢんさふらふ》。就[#レ]其三州吉田《それにつきさんしうよしだ》へ相移《あひうつり》、尾濃之衆同陣候《びじやうのしうどうぢんさふらふ》。後詰之儀《ごづめのぎ》、近日信長出馬候間《きんじつのぶながしゆつばさふらふあひだ》、其節討果覺悟候《そのせつうちはたすかくごにさふらふ》。然者賀州表《さればかしうおもて》、被[#レ]屬[#二]御存分[#一]之由《ごぞんぶんにぞくせらるゝのよし》、大慶候《たいけいにさふらふ》。殊《こと》に向[#二]信州[#一]可[#レ]有[#二]御出張[#一]之爲《しんしうにむかつてごしゆつちやうあるべきのため》、急速御手分願望候《きふそくおてわけぐわんまうにさふらふ》。
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然《しか》も謙信《けんしん》は、越中《ゑつちう》に滯陣《たいぢん》して果《はた》さず。二|月《ぐわつ》十|日《か》、殘念《ざんねん》ながら野田城《のだじやう》は、部兵《ぶへい》の宥赦《いうしや》を條件《でうけん》として、開城《かいじやう》した。二|將《しやう》は降參《かうさん》を肯《がへん》ぜず、爲《ため》に長篠《ながしの》に禁錮《きんこ》せられた。而《しか》して山家《やまが》三|方《はう》の質子《ちし》の、濱松《はままつ》に在《あ》る者《もの》と交換《かうくわん》し、二|將《しやう》は濱松《はままつ》に歸《かへ》つた。
野田城《のだじやう》は眇乎《べうこ》たる孤城《こじやう》ぢや。然《しか》も信玄《しんげん》は之《これ》を取《と》るに、殆《ほと》んど一|個月《かげつ》を費《つひや》した。彼《かれ》は此《こ》の攻圍《こうゐ》軍中《ぐんちう》に於《おい》て、病《やまひ》を得《え》た。恐《おそ》らくは其《そ》の以前《いぜん》よりも、徴候《ちようこう》があつたであらう。彼《かれ》が西上《せいじやう》を急《いそ》ぎ立《たつ》たのも、此《これ》が爲《た》めではあるまい乎《か》。或《あるひ》は曰《いは》く、城中《じやうちう》に善《よ》く笛《ふえ》を吹《ふ》く村松芳休《むらまつはうきう》と云《い》ふ者《もの》が居《ゐ》た。信玄《しんげん》の之《これ》を聽《き》くを、城兵《じやうへい》鳥居《とりゐ》三|左衞門《ざゑもん》、之《これ》を狙撃《そげき》し、其《そ》の耳朶《じだ》を傷《きずつ》けた。信玄《しんげん》遂《つひ》に此《こ》の疵《きず》の爲《た》めに死《し》した。〔柏崎物語〕何《いづ》れにしても信玄《しんげん》は、野田城《のだじやう》を收《をさ》めた後《のち》、退《しりぞ》いて長篠《ながしの》に次《じ》し、二|月《ぐわつ》十六|日《にち》には、山縣昌景《やまがたまさかげ》を、此《こゝ》に留《とゞ》め、自《みづ》から鳳來寺《ほうらいじ》に移《うつ》りて病《やまひ》を養《やしな》うた。
信長《のぶなが》退治《たいぢ》會社《くわいしや》の社長《しやちやう》とも云《い》ふ可《べ》き將軍義昭《しやうぐんよしあき》は、目覺《めざま》しき活動《くわつどう》をした。彼《かれ》は信長《のぶなが》以外《いぐわい》の各要素《かくえうそ》、各分子《かくぶんし》を糾合《きうがふ》して、以《もつ》て其《そ》の目的《もくてき》を果《はた》さんとした。乃《すなは》ち信長《のぶなが》無《む》二の味方《みかた》たる家康《いへやす》さへも、信長《のぶなが》追討《つゐたう》の教書《けうしよ》を受取《うけと》るの光榮《くわうえい》に預《あづか》つた。然《しか》も信玄《しんげん》の發病《はつびやう》は、一|切《さい》の計畫《けいくわく》を水泡《すゐはう》に歸《き》せしめた。
當時《たうじ》伊勢《いせ》の前國司《ぜんこくし》にして、三|瀬《せ》に退隱《たいいん》したる北畠具教《きたばたけとものり》の如《ごと》きも、信玄《しんげん》に向《むかつ》て、速《すみや》かに上京《じやうきやう》せよ、吉田《よしだ》迄《まで》船舶《せんぱく》を廻《ま》はし、其《その》用《よう》に供《きよう》せんと申《まを》し來《きた》つた。朝倉《あさくら》、淺井《あさゐ》、三|好《よし》、山門《さんもん》の殘黨《ざんたう》、及《およ》び大阪《おほさか》、長島《ながしま》の門徒等《もんとら》の如《ごと》き、何《いづ》れも信玄《しんげん》の西上《せいじやう》を、首《くび》を長《なが》くして待《ま》ち受《う》けた。
謙信《けんしん》の如《ごと》きは、信長《のぶなが》に説《と》いて、比叡山《ひえいざん》を再興《さいこう》せしめ、以《もつ》て信玄《しんげん》計畫《けいくわく》の裏《うら》を掻《か》き、更《さ》らに朝倉義景《あさくらよしかげ》の請《こひ》を容《い》れて、淺井《あさゐ》攻撃《こうげき》を停止《ていし》し。織田《おだ》、徳川《とくがは》、上杉《うへすぎ》の三|家《け》同盟《どうめい》を以《もつ》て、信玄《しんげん》の西上《せいじやう》を阻遏《そあつ》せんと企《くはだ》てた。蓋《けだ》し謙信《けんしん》の競爭者《きやうさうしや》は、信玄《しんげん》であつて、信玄《しんげん》に先《さきん》ぜらるゝことは、誰《たれ》に先《さきん》ぜらるゝよりも、苦痛《くつう》であるからだ。然《しか》も自然《しぜん》の手《て》は、此《こ》の計畫《けいくわく》の必要《ひつえう》なからしめた。
信玄《しんげん》は病《やまひ》少《すこ》しく?《ひま》ありけれぼ?、三|月《ぐわつ》十五|日《にち》、愈《いよい》よ再擧《さいきよ》を計《はか》り、勝頼《かつより》をして、兵《へい》一|萬《まん》を以《もつ》て、家康《いへやす》を抑《おさ》へしめ、自《みづ》から大軍《たいぐん》を率《ひき》ゐて、不日《ふじつ》に吉田《よしだ》を取《と》らんとしたが、再《ふたゝ》び病《やまひ》の爲《た》めに軍《ぐん》を返《か》へし、四|月《ぐわつ》十一|日《にち》病《やまひ》俄《にはか》に重《おも》く、十二|日《にち》、信州《しんしう》下伊那郡《しもいなごほり》波合《なみあひ》の治部《はるべ》(或《あるひ》は曰《いは》く駒馬《こまば》)にて歿《ぼつ》した。行年《ぎやうねん》五十三|歳《さい》。彼《かれ》は死《し》に臨《のぞ》んで、山縣昌景《やまがたまさかげ》を呼《よ》び、『明日《みやうにち》旗《はた》をば瀬田《せた》に立《た》てよ』と云《い》うた。彼《かれ》の雄心《ゆうしん》は勃々《ぼつ/\》として、尚《な》ほ活躍《くわつやく》した。『大底還[#二]他肌骨好[#一]。不[#レ]塗[#二]紅粉[#一]自風流。』の句《く》は、末期《まつご》の偈《げ》として、傳《つた》へられて居《を》る。
彼《かれ》の死因《しいん》に就《つい》ては、諸説紛々《しよせつふんぷん》であるが、御宿大監物《みじゆくだいけんもつ》の書中《しよちう》に、『元來玄公懸[#二]望于天下[#一]《ぐわんらいげんこうのぞみをてんかにかけ》、胸呑[#二]於四海[#一]《むねにしかいをのみ》、卷[#二]舌於九河[#一]《したをきうがにまき》、振[#二]家名於海内[#一]《かめいをかいだいにふるひ》、可[#レ]被[#三]名貽[#二]於後代[#一]《なをこうだいにのこさるべく》、襟懷徹[#二]骨髓[#一]《きんくわいこつずゐにてつす》。由[#レ]苦[#二]肺肝[#一]《はいかんをくるしむるにより》、病患忽萠《びやうくわんたちまちきざす》、腹心不[#レ]安切也《ふくしんやすんぜざるせつなり》。』とあれば、全《まつた》く病氣《びやうき》であり、且《か》つ病氣《びやうき》もどうやら、肺病《はいびやう》であつたらしい。信玄《しんげん》の死《し》によりて、否《アンチ》信長黨《のぶながたう》は、其《そ》の巨魁《きよくわい》を失《うしな》うた。信長《のぶなが》の運星《うんせい》は此《こ》れが爲《た》めに、愈《いよい》よ光《ひかり》を加《くは》へた。世《よ》の中《なか》の事《こと》は、人間《にんげん》の思《おも》ふ通《とほ》りには參《まゐ》らぬ、眞《しん》に是《こ》れ七|分《ぶ》の人事《じんじ》、三|分《ぶ》の天《てん》ぢや。


[#5字下げ]【九八】信玄の本領(一)[#「【九八】信玄の本領(一)」は中見出し]
如何《いか》に贔屓目《ひいきめ》に考《かんが》へても、信玄《しんげん》は、天下《てんか》を取《と》る可《べ》き資格《しかく》の漢《をのこ》とは思《おも》はれぬ。併《しか》し自《みづ》から天下《てんか》を取《と》る技倆《ぎりやう》と、他人《たにん》の天下《てんか》を取《と》るを妨《さまた》ぐる技倆《ぎりやう》とは、別種《べつしゆ》に屬《ぞく》する。彼《かれ》をして十|年《ねん》生存《せいぞん》せしめば、信長《のぶなが》が天下《てんか》を取《と》ることも、或《あるひ》は十|年《ねん》晩《おく》れたかも知《し》れぬ。
彼《かれ》は武田家《たけだけ》の嫡流《ちやくりう》であつた。されど彼《かれ》は決《けつ》して、舊時代《きうじだい》の殘物《ざんぶつ》ではない、彼《かれ》は正《まさ》しく時代《じだい》の兒《こ》である。當時《たうじ》に於《おい》て、未《いま》だ彼程《かれほど》力《ちから》の効能《かうのう》を會得《ゑとく》した者《もの》はない。而《しか》して彼《かれ》は實《じつ》に、強兵富國《きやうへいふこく》の實行者《じつかうしや》であつた。吾人《ごじん》は富國強兵《ふこくきやうへい》と云《い》はずして、強兵富國《きやうへいふこく》と云《い》ふ。何《なん》となれば彼《かれ》の目的《もくてき》は、強兵《きやうへい》であつて、其《そ》の方便《はうべん》が、富國《ふこく》であるからだ。然《しか》も彼《かれ》は殆《ほと》んど科學的《くわがくてき》に、此《この》力《ちから》の二|大《だい》要素《えうそ》を研究《けんきう》し、且《か》つ其《そ》の實行《じつかう》に盡瘁《じんすゐ》した。彼《かれ》が眇乎《べうこ》たる甲斐《かひ》の山國《やまぐに》より打《うつ》て出《い》で、兎《と》も角《かく》も天下《てんか》の爭覇舞臺《さうはぶたい》に於《おい》て、一|個《こ》の大立者《おほたてもの》となつたのは、偶然《ぐうぜん》でない。
彼《かれ》は國《くに》の本《もと》は、民《たみ》であることを知《し》つた。彼《かれ》は軍國主義《ぐんこくしゆぎ》の基礎《きそ》は、民本主義《みんぽんしゆぎ》に惜《お》かねばならぬことを、會得《ゑとく》した。此《こ》の意味《いみ》に於《おい》ては、彼《かれ》はフレデリッキ[#「フレデリッキ」に傍線]大王《たいわう》と、比較《ひかく》することが出來《でき》る。彼《かれ》は仁惠《じんけい》よりも、公正《こうせい》が善政《ぜんせい》であることを會得《ゑとく》した。乃《すなは》ち人民《じんみん》は、恩惠《おんけい》を與《あた》へらるゝよりも、公正《こうせい》なる取扱《とりあつかひ》に滿足《まんぞく》する者《もの》であることを、會得《ゑとく》した。彼《かれ》が民政《みんせい》に就《つい》て、甲州法度《かうしうはつと》なるものを設《まう》け、若《も》し信玄《しんげん》自《みづ》から其《そ》の旨趣《ししゆ》に、違背《ゐはい》するが如《ごと》きことあるに於《おい》ては、貴賤《きせん》を問《と》はず、目安《めやす》にて申《まを》し出《い》でよと、達《たつ》したるが如《ごと》きは、身《み》を以《もつ》て、民《たみ》を率《ひき》ゆる者《もの》であつて、彼《かれ》が如何《いか》に人民《じんみん》の疾苦《しつく》、休戚《きうせき》に、深《ふか》く心《こゝろ》を致《いた》したるかゞ判知《わか》る。
所謂《いはゆ》る甲州《かうしう》の大小切《だいせうぎり》は、徳川幕府《とくがはばくふ》より明治《めいぢ》五|年《ねん》迄《まで》、蹈襲《たうしふ》せられた税法《ぜいはふ》ぢや。それは田畑《たはた》の税《ぜい》を三|分《ぶん》し、其《そ》の二|分《ぶ》を大切《だいぎり》と云《い》ひ、籾納《もみなふ》となし、他《た》の一|分《ぶ》を金納《きんなふ》とした。此《こ》れは信玄《しんげん》が、軍資調達《ぐんしてうだつ》の便法《べんはふ》として設《まう》けたのぢや。
彼《かれ》は隨分《ずゐぶん》重税《ぢうぜい》を課《くわ》した。山《やま》には入山料《にふさんれう》を徴《ちよう》し、各戸《かくこ》には棟別錢《むねべつせん》を徴《ちよう》した。又《ま》た市場税《いちばぜい》、關所税《せきしよぜい》等《とう》、あらゆる税目《ぜいもく》もあつた。此《こ》れは彼《かれ》が如《ごと》き山國《やまぐに》にて、彼《かれ》が如《ごと》き軍國主義《ぐんこくしゆぎ》を行《おこな》ふには、勢《いきほ》ひ已《や》むを得《え》ぬのぢや。されど此《こ》れと同時《どうじ》に、政治《せいぢ》の公正《こうせい》と、物産《ぶつさん》の獎勵《しやうれい》等《とう》には、特《とく》に力《ちから》を竭《つく》した。乃《すなは》ち漉紙《すきがみ》、染屋《そめや》、桶屋《をけや》、鍛冶《かぢ》、大工《だいく》、塗師《ぬ?し》の如《ごと》き、それ/″\之《これ》を待遇《たいぐう》し、其《そ》の奉公《ほうこう》勤勉《きんべん》の者《もの》には、租税《そぜい》を免除《めんぢよ》した。甲州漆《かふしううるし》の如《ごと》きも、當時《たうじ》に於《おい》ては、有名《いうめい》なる産物《さんぶつ》の一であつた。
治水《ちすゐ》に至《いた》りては、最《もつと》も信玄《しんげん》の意《い》を用《もち》ひたる所《ところ》であつた。今《いま》も信玄堤《しんげんづゝみ》とて、釜無川《かまなしがは》の東岸《とうがん》に沿《そ》ふ、二十五|町《ちやう》の堤防《ていばう》がある。馬蹈《うまふみ》三|間《げん》乃至《ないし》六|間《けん》、敷《しき》九|間《けん》乃至《ないし》十二|間《けん》、根堅《ねがた》めの竹木《ちくぼく》鬱葱《うつそう》たりだ。然《しか》も彼《かれ》をして成功《せいこう》せしめたのは、恐《おそ》らくは礦業《くわうげふ》であつたらう。
一|面《めん》より觀察《くわんさつ》すれば、世界《せかい》の覇權《はけん》は、礦脈《くわうみやく》を趁《お》うて移轉《いてん》する傾向《けいかう》がある。乃《すなは》ち日本《にほん》戰國《せんごく》時期《じき》に於《おい》ても、亦《ま》た此《こ》の感《かん》がある。當時《たうじ》甲州《かうしう》には、黒川山《くろかはやま》、芳山《はうさん》、黒桂山《つゞらやま》、栃?代山《とちよざん》、金山嶺《かなやまみね》、五|座石《ざいし》等《とう》の諸金山《しよきんざん》があつた。特《とく》に黒川山《くろかはやま》は、多量《たりやう》の金《きん》を出《いだ》した。乃《すなは》ち現存《げんぞん》する甲州金《かうしうきん》が是《こ》れぢや。此《こ》れは太鼓判《たいこばん》と稱《しよう》し、目方《めかた》一|匁《もんめ》より、十|匁《もんめ》に至《いた》り、圓形《ゑんけい》にして表面《へうめん》に桐《きり》の紋《もん》と、周圍《しうゐ》に七の星《ほし》を刻《こく》した。信玄《しんげん》が屡《しばし》ば大軍《たいぐん》を四|境《きやう》の外《ほか》に出《いだ》して、更《さ》らに困弊《こんぺい》せなかつた所以《ゆゑん》は、主《しゆ》として此《こ》の金鑛《きんくわう》に、手《て》を著《つ》けたが爲《た》めであらう。彼《かれ》に取《と》る可《べ》きは、後人《こうじん》の半《なか》ば以上《いじやう》假託《かたく》したる、所謂《いはゆ》る甲州流《かうしうりう》軍學《ぐんがく》の鼻祖《びそ》であるが爲《た》めでなく、此《こ》の軍國主義《ぐんこくしゆぎ》の經營《けいえい》を、民政《みんせい》と、産業《さんげふ》との上《うへ》に、措《お》いたが爲《た》めであらう。
信玄《しんげん》が一度《ひとたび》手《て》に入《い》れたる國民《こくみん》の、二度《ふたたび》反《そむ》きたる例《れい》なしとは、故書《こしよ》の記《き》する所《ところ》であるが。此《こ》れは彼《かれ》が戰功《せんこう》の士《し》を賞《しやう》するに、新附《しんぷ》の地《ち》を以《もつ》てせず。新附《しんぷ》の地《ち》には、特《とく》に民政《みんせい》に堪能《たんのう》なる者《もの》を遣《や》りて、之《これ》を治《をさ》めしめ。戰功《せんこう》の士《し》には、舊來《きうらい》の領内《りやうない》の地《ち》を擇《えら》んで、與《あた》へたからと云《い》うことだ。
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[#6字下げ]信玄鎭國安民の智ある事[#「信玄鎭國安民の智ある事」は1段階小さな文字]
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信玄はたゞ敵を挫ぎ戰を決するに長ずるのみに非らず、鎭國安民に智あり。他國を切取ては、その地を將士の知行に與ふることなし。新に得たる郡邑は、青沼助兵衞、小堀伊勢二人を郡代として、賦税を寛し、撫安を旨とせらる。一には、久しく戰場になりたる村里なれば、耕耘も力足らずして五穀登らじ、先づ之を惠んで、その業を樂ましめんがためなり。二つには、小身者僅かの知行を頼むに、瘠田を與へては、妻子を育み、鞍鎧の繕もなり難きためなり。三つには、人情皆昔を戀ひ、始を慕ふ習なれば、今の政を本の領主に比べて、利害損益同じからば、劣れりと思ひ、勝る事二三分ならば、同じものと思ひ、又勝る事五六分にて、始めて善しと思はんが爲なり。この故に、他國には一揆を企つる者あれど、信玄一代の間、手に入れたる國民の二度叛きたること、終になかりき。〔武將感状記〕
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[#6字下げ]信玄と租税賦役の事[#「信玄と租税賦役の事」は1段階小さな文字]
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當時國々の地頭御家人は、既に守護の家人となりて、守護は即ち國主にして、各々己がまゝに治制の法を布き、賦税の制を定めければ、諸國一樣ならず、寛なるもあれば酷なるもあり、三公七民なるあり、公三分一民三分二なるあり、四公六民なるあり、五公五民又は六公四民なるあり。而して軍役、夫役、雜役及び臨時の課役、段錢、棟別、目錢、倉役等の類もあり。されば、三公七民も寛なるにあらず、六公四民も酷なるにあらず、信玄が規定せる租税法は如何か、文書の徴すべきもの乏しく、從つて之が詳細を知るに由なしと雖も、甲州人がその餘徳を欽仰するの深きを觀れば、必ず士宜に從ひ、民衆に便なる仁法たりしならん。
甲州には公租徴收に特法あり、俗に大小切法といひ、信玄の制定と稱す。徳川治世中、すべてこの舊法に循へり。その法、田畠の税を合算して三分し、その二を大切といひ、籾納とし、その一を小切といひ、金納とせり。後、大切の内、その三分の一を金納とし、毎年十月の御張紙値段とて、公より定めらる。小切は安石代といひ、金壹兩に付米四石一斗四升替にて、毎年九月上納することの定めなり。〔武田信玄事蹟考〕
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[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ]【九九】信玄の本領(二)[#「【九九】信玄の本領(二)」は中見出し]
信玄《しんげん》の名《な》は、元龜《げんき》、天正《てんしやう》の戰國時代《せんごくじだい》に於《おい》てさへも、惡人帳《あくにんちやう》の筆頭《ひつとう》である。彼《かれ》は實際《じつさい》それ程《ほど》の惡黨《あくたう》であつた乎《か》、否乎《いなか》。彼《かれ》が惡黨《あくたう》としての罪惡《ざいあく》の一は、其《その》父《ちゝ》信虎《のぶとら》を追《お》うたことである。他《た》の一は、其《その》子《こ》義信《よしのぶ》を殺《ころ》したことである。又《ま》た諏訪頼茂《すはよりしげ》の女《むすめ》を納《い》れて、頼茂《よりしげ》を殺《ころ》したことである。其《そ》の聟《むこ》たる北條氏政《ほうでううぢまさ》の國《くに》に、亂入《らんにふ》したことである。其《そ》の甥《をひ》たる今川氏眞《いまがはうぢさね》の國《くに》を、奪《うば》うたることである。併《しか》し仔細《しさい》に觀察《くわんさつ》すれば、信玄《しんげん》の罪惡《ざいあく》は、信玄《しんげん》獨特《どくとく》の罪惡《ざいあく》ではない、云《い》はゞ時代《じだい》共通《きようつう》の罪惡《ざいあく》ぢや。
子《こ》を殺《ころ》した者《もの》には、家康《いへやす》もある。兄弟《きやうだい》を殺《ころ》したものには、信長《のぶなが》もある。姪?《をひ》を殺《ころ》した者《もの》には、秀吉《ひでよし》もある。信玄《しんげん》が其《その》父《ちゝ》信虎《のぶとら》を、今川義元《いまがはよしもと》と謀《はか》りて、駿河《するが》に寓公《ぐうこう》たらしめたると、淺井長政《あさゐながまさ》が、其《そ》の家老《からう》と謀《はか》りて、父《ちゝ》久政《ひさまさ》を隱居《いんきよ》せしめたると、云《い》はゞ五十|歩《ぽ》、百|歩《ぽ》である。淺井長政《あさゐながまさ》は、信長《のぶなが》の聟《むこ》ではない乎《か》、然《しか》も信長《のぶなが》は之《これ》を殺《ころ》して、其《その》國《くに》を取《と》つた。北條氏直《ほうでううぢなほ》は、家康《いへやす》の聟《むこ》ではない乎《か》、豐臣秀頼《とよとみひでより》は其《そ》の孫聟《まごむこ》ではない乎《か》。然《しか》も家康《いへやす》は、北條氏《ほうでうし》を攻《せ》めて、其《そ》の後釜《あとがま》に坐《すわ》つたではない乎《か》。豐臣氏《とよとみし》を全滅《ぜんめつ》して、秀頼《ひでより》は勿論《もちろん》、其《そ》の一|子《し》七|歳《さい》の國松丸《くにまつまる》さへも、殺《ころ》したではない乎《か》。
若《も》し單《たん》に現代《げんだい》の倫理思想《りんりしさう》より批判《ひはん》せん乎《か》。家康《いへやす》も、秀吉《ひでよし》も、信長《のぶなが》も、信玄《しんげん》と相《あひ》距《さ》る、幾許《いくばく》もなしと云《い》ふ可《べ》きであらう。吾人《ごじん》は信玄《しんげん》を辯護《べんご》するではない、信玄《しんげん》のみが惡黨《あくとう》であると云《い》ふは、不公平《ふこうへい》であると云《い》ふのだ。
但《た》だ特《とく》に信玄《しんげん》が、評判《ひやうばん》の惡《あ》しかつた所以《ゆゑん》は、(一)彼《かれ》が有《いう》する總《すべ》ての要素《えうそ》に、涙《なみだ》の要素《えうそ》を缺《かい》たが爲《た》めであらう。彼《かれ》は如何《いか》なる場合《ばあひ》でも、泣《か?》くことの出來《でき》ぬ漢《をのこ》ぢや。泣蟲《なきむし》は困《こま》るが、泣《な》かぬ蟲《むし》は尚《な》ほ困《こま》る。涙《なみだ》は人間《にんげん》の全生命《ぜんせいめい》ではないが、生命《せいめい》の一|部《ぶ》ぢや。家康《いへやす》でさへもあつた、尊氏《たかうぢ》の如《ごと》きは、餘《あま》りに涙《なみだ》が多過《おほす》ぎた。然《しか》るに信玄《しんげん》には、本來《ほんらい》此《こ》の泉源《せんげん》が涸渇《こかつ》して居《ゐ》た。故《ゆゑ》に彼《かれ》の一|擧《きよ》一|動《どう》が、巉刻《ざんこく》に、骨組《ほねぐみ》その儘《まゝ》暴露《ばくろ》せられた。(二)彼《かれ》は當時《たうじ》に於《おい》て、餘《あま》りに兵力《へいりよく》が精勁《せいけい》であつた。彼《かれ》は強兵《きやうへい》、富國《ふこく》、士勇《しゆう》、民安《みんあん》、何等《なんら》他《た》より指《ゆび》を差《さ》さるゝ程《ほど》の、缺點《けつてん》がなかつた。即《すなは》ち彼《かれ》は倫理《りんり》以外《いぐわい》には、完全《くわんぜん》にあり過《す》ぎた。故《ゆゑ》に其《そ》の缺陷《けつかん》たる倫理《りんり》方面《はうめん》に向《むか》つて、一|世《せい》の非難《ひなん》を集中《しふちう》した。(三)彼《かれ》は織田《をだ》、徳川《とくがは》の有力《いうりよく》なる競爭者《きやうさうしや》であつて、而《しか》して其《その》子《こ》勝頼《かつより》に至《いた》りて、敗亡者《はいばうしや》となつた。されば彼《かれ》の立場《たちば》は、辯護人《べんごにん》もなく、單獨《たんどく》に敵《てき》の前《まへ》に引《ひ》き出《いだ》されて、宣告《せんこく》を受《う》くる罪人《ざいにん》と、同樣《どうやう》であつた。裁判官《さいばんくわん》が敵《てき》であり、敵《てき》が裁判官《さいばんくわん》である。其《そ》の判決《はんけつ》の峻酷《しゆんこく》は、寧《むし》ろ當然《たうぜん》ぢや。
上《かみ》の如《ごと》く觀察《くわんさつ》し來《きた》れば、信玄《しんげん》が今日《こんにち》迄《まで》惡黨《あくたう》の標本《へうほん》として、元龜《げんき》、天正時代《てんしやうじだい》の史上《しじやう》に聳峙《しようぢ》したるも、決《けつ》して不思議《ふしぎ》ではあるまい。
信玄《しんげん》は當代《たうだい》の武將《ぶしやう》に稀《ま》れなる、教養《けうやう》ある一|人《にん》であつた。彼《かれ》が如何《いか》に文藝《ぶんげい》に、嗜好《しかう》を有《いう》したるかは、其《そ》の少壯時代《せうさうじだい》詩賦《しふ》に耽《ふけ》りて、軍國《ぐんこく》の大務《たいむ》を閑却《かんきやく》したと云《い》ふ一|事《じ》でも、分明《ぶんみやう》ぢや。其《そ》の詩《し》の如《ごと》きも、五|山《さんの》僧侶等《そうりよら》と角逐《かくちく》して、殆《ほと》んど遜色《そんしよく》を見《み》ぬ。『?外風光分外新、捲[#レ]簾山色惱[#二]吟身[#一]。?顏亦有[#二]?眉趣[#一]。一笑?然如[#二]美人[#一]。』是《こ》れ春山如[#レ]笑《しゆんざんわらふがごとき》を賦《ふ》したのぢや。又《ま》た松間花《しようかんのはな》を詠《えい》じて曰《いは》く、『立《た》ち並《なら》ぶ甲斐《かひ》こそなけれ櫻花《さくらばな》、松《まつ》に千歳《ちとせ》の色《いろ》は習《なら》はで』と。和歌《わか》も亦《ま》た、毛利元就《まうりもとなり》、北條氏康等《ほうでううぢやすら》と與《とも》に、優《いう》に作家《さくか》の群《むれ》に入《い》る。而《しか》して彼《かれ》は善《よ》く孫子《そんし》を讀《よ》み、其《た?》の原理《げんり》を實戰《じつせん》に應用《おうよう》した。
彼《かれ》は佛教《ぶつけう》に對《たい》しては、夙好《しゆくかう》があつた。其《そ》の家法《かはふ》にも、『參禪可[#レ]嗜事《さんぜんたしなむべきこと》』『佛神可[#レ]信事《ぶつしんしんずべきこと》』の條項《でうこう》ありて、單《ひと》り快川國師《くわいせんこくし》を請《しやう》じて、惠林寺《ゑりんじ》に在《あ》らしめたるのみならず。自《みづか》ら大僧正《だいそうじやう》法性院《はうしやうゐん》と名乘《なの》り、僧綱《そうかう》を帶《お》び、僧名《そうめい》を稱《しよう》した。其《そ》の禪學《ぜんがく》に就《つい》て得《う》る所《ところ》あるのみならず、深《ふか》く台教《たいけう》を信《しん》じ、叡山《えいざん》龍仙院《りうせんゐん》に就《つい》て、護摩供正覺《ごまぐしやうがく》を授《さづ》かり、特《とく》に毘沙門堂《びしやもんだう》を築《きづ》き、自《みづ》から其《その》法《はふ》を修《をさ》めた。
信長《のぶなが》は宗教《しうけう》に就《つい》では、懷疑者《くわいぎしや》であつたが、信玄《しんげん》は殆《ほと》んど迷信者《めいしんしや》とも云《い》ふ可《べ》き程《ほど》にて、高野山《かうやさん》成慶院《じやうけいゐん》には、今《いま》尚《な》ほ大威徳明王《たいゐとくみやうわう》に、謙信《けんしん》調伏《てうふく》を祈《いの》りたる、自筆《じひつ》の願文《ぐわんもん》が保存《ほぞん》されて居《を》る。〔武林叢話〕而《しか》して此《この》點《てん》に就《つい》て、信玄《しんげん》と一|對《つゐ》の信者《しんじや》は、實《じつ》に謙信《けんしん》である。彼《かれ》も亦《ま》た調伏《てうふく》や、呪詛《じゆそ》や、祈祷?《きたう》に於《おい》ては、信玄《しんげん》に一|歩《ぽ》も讓《ゆづ》らぬ、迷信者《めいしんしや》であつた。
要《えう》するに彼《かれ》は、偉大《ゐだい》なる人格《じんかく》ではあるまい、併《しか》し最《もつと》も獨自《どくじ》一|己《こ》の發達《はつたつ》したる、人格《じんかく》である。但《た》だ彼《かれ》の缺點《けつてん》は、餘《あま》りに理詰《りづ》めであつた。餘《あま》りに全《まつた》きを求《もと》め過《す》ぎた。從《したがつ》て餘《あま》りに思慮《しりよ》が多過《おほす》ぎた。故《ゆゑ》に乘《の》るか、そるかの一六|勝負《しようぶ》は、彼《かれ》が敢《あへ》てせぬ所《ところ》であつた。善《よ》く百|尺《せき》竿頭《かんとう》迄《まで》は行《ゆ》くが、頭上《とうじやう》一|歩《ぽ》を進《すゝ》むることが、彼《かれ》に於《おい》ては不可能《ふかのう》であつた。併《しか》し彼《かれ》は其《そ》の敵方《てきがた》に、偉大《ゐだい》なる門人《もんじん》を見出《みいだ》した。それは家康《いへやす》ぢや。家康《いへやす》は信玄《しんげん》に取《と》りて、出藍《しゆつらん》の門人《もんじん》ぢや。そは信玄《しんげん》の缺點《けつてん》を控除《こうぢよ》し、殆《ほと》んど其《そ》の長所《ちやうしよ》のみを學《まな》んだからである。
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[#6字下げ]石水寺物語抄録[#「石水寺物語抄録」は1段階小さな文字]([#割り注]御館廿町許りかさに、石水寺の要害とて山城あり。信玄公の御前にての取沙汰を石水寺物語とかき申候。[#割り注終わり])
[#ここから3段階小さな文字]
[#8字下げ]○工夫と思案
[#ここから2字下げ]
或夜の事なるが、信玄公御話衆その外の者共へ御尋ねたまふ。「工夫と思案とは別か、同じきか」と。もろ/\の中に、長坂長閑一ツのことなりと申上ぐ。信玄公の御諚には、「そは別なり、古語に工夫乾坤通[#二]幽微[#一]。思案唯心在[#二]好望所[#一]と云ふ、則ち工夫と思案とは少し違ふなり」と。
[#ここで字下げ終わり]
[#8字下げ]○分別と才覺
[#ここから2字下げ]
又或夜、信玄公仰せらるゝは、「工夫と思案とかはる如く、分別と才覺とは別なり。その仔細は、世間に分別ありて才覺なき人もあり、才覺ありてまた分別なき者もあり。分別は、心にてする。才覺は、氣のきいたる者のわざなり。分別者には越度まれなり、才覺ばかりで分別なきはあやまり多し。
[#ここで字下げ終わり]
[#8字下げ]○遠慮の二字
[#ここから2字下げ]
或時信玄公仰せらるゝに、「人は遠慮の二字肝要なり、遠慮さへあれば、分別にもなる。その仔細は遠慮して我が分別に及ばざる所をば、大身はよき家老に向ひ、少身は親類か扨は傍輩に尋ねて理をすますなれば、越度少し。げに分別のもとは遠慮なりと、信玄は存ずるぞ。惣別人間は遠慮深くして才覺ありて分別あるならば、何にても仕出し、後の世までも留め置かん。されど、分別才覺にて、工夫思案に及ばぬこと唯一つあるぞ、各々これをあたりてみよと。」さあれども、誰一人もかなはず。信玄公のたまふは「人間命の縮まりたる義は、何にても及び難し」と、仰せられ笑ひ給ふ。
[#ここで字下げ終わり]
[#8字下げ]○七分殘して三分言へ
[#ここから2字下げ]
或夜、信玄公古語を引いて仰せらる。「陳孔璋が逢[#レ]人只説[#二]三分話[#一]、未[#レ]可[#三]全抛[#二]一片心[#一]と。人の奧ふかく物いふ事、七分殘して三分言へ、これ耻に遠ざかる儀なり。されど、分別なき人は、物を卒爾に申すは惡しとて、一圓物いはず、萬づ大事とばかりといたす。なほ臺澁柿切りて木練につぐはあしき儀なりと、人の云ふを聞きて、いたらぬ心より賢だてに久しくつぎてあるきざはしの、しかも能く實のなるを切りて、澁柿につぐが如し。これ又よき事をせんとて、惡うしなすなり。古語に曰く金屑雖[#レ]貴落[#レ]眼成[#レ]翳とは、右の樣子をいはんか。
[#ここで字下げ終わり]
[#8字下げ]○いやと思ふことを爲せ
[#ここから2字下げ]
或夜、又仰せらるゝに「人は只我したき事せずして、いやと思ふことを仕るならば、分々體々全身を保つべし」と。
[#ここで字下げ終わり]
[#8字下げ]○見そこなひ
[#ここから2字下げ]
信玄公のたまふ。世間に侍の事は申すに及ばず、奉公人下々までも、その生れつき形義あるべし。右の人を見そこなひの事あらん、一つには分別ある者を佞人と見る。二つには遠慮の深き者を臆病と見る。三つにはがさつなる人を兵《つはもの》と見る。
[#ここで字下げ終わり]
[#8字下げ]○まなぶを學といふ
[#ここから2字下げ]
或時、信玄公仰せらる。「人の學あるは木の枝葉あるが如し、只人は學なくんばあるべからず。學と云ふは、物をよむばかりにあらず。おのれ/\が道々に付て、まなぶを學とは申すなり。先づ弓矢の家に生まるゝ人は、大小上下共に武功忠功の人に近付き、一日に一條聞くとも、一月には三十ヶ條の事あり、いはんや年中を申さば、三百六十ヶ條のすゑを知らば、去年の我等に今年は又はるばる増すならん」と。
[#ここで字下げ終わり]
[#8字下げ]○相手におそろしき人
[#ここから2字下げ]
或時、信玄公仰せらる。「奉公人の上に、大身小身の侍は申すに及ばず、下々の者まで相手におそろしき人は、無分別の人なり。その仔細は、彼の無分別人あとさきをふまず、口にまかせ、手にまかせ、法外の仕形あり、左樣の人は、かね/″\せんさくをよくいたすにより、無分別者、のがれたがるとも、申いだしてからは、のがさず、勝負を付ける。よき分別者が、あしき無分別の者と相手になり、いたづらに身を果すなれば、是を思案して見られよ、分別なき者程おそろしきはなし」とのたまふ。
[#ここで字下げ終わり]
[#8字下げ]○三四、十二又は七つ
[#ここから2字下げ]
或時、信玄公宣ふ。「國持大將人をつかふに、一向の侍をすき候て、その崇敬する者ども、おなじ行儀作法の人ばかり念比して召仕ふこと、信玄は大嫌なり。春は櫻の色めき、柳の緑をめで、秋はかへでが紅葉し、暮煙秋雨と吟じ、冬は常にかはらぬ松を賞するが如く、世間の體も一むきに一つかたぎを好むべからず、國持の非儀ならん、三四十二、又は三四七つともいはん」と。
[#地から1字上げ]〔甲陽軍鑑〕
[#ここで字下げ終わり]
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