第十五章 三方原合戰
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[#4字下げ]第十五章 三方原合戰[#「第十五章 三方原合戰」は大見出し]
[#5字下げ]【八九】信玄の西上[#「【八九】信玄の西上」は中見出し]
飜《ひるがへつ》て信玄《しんげん》を見《み》るに、彼《かれ》の西上《さいじやう》の志《こゝろざし》は、日《ひ》一|日《にち》熱切《ねつせつ》を加《くは》へて來《き》た。彼《かれ》は年齡《ねんれい》から云《い》ふも、五十二|歳《さい》、毛利元就《まうりもとなり》は元龜《げんき》二|年《ねん》六|月《ぐわつ》、七十五|歳《さい》にて、藝州吉田城《げいしうよしだじやう》に逝《ゆ》き、北條氏康《はうでううぢやす》は元龜《げんき》元年《ぐわんねん》十|月《ぐわつ》、五十六|歳《さい》にて、相州小田原城《さうしうをだはらじやう》に歿《ぼつ》した。一|世《せい》を見渡《みわた》せば、謙信《けんしん》は四十三|歳《さい》、信長《のぶなが》は三十九|歳《さい》、家康《いへやす》は三十一|歳《さい》。彼《かれ》は實《じつ》に此《こ》の仲間《なかま》に於《お》ける、第《だい》一の長者《ちやうじや》である。彼《かれ》に日暮途遠《ひくれてみちとほし》の感《かん》あるも、當然《たうぜん》と云《い》はねばならぬ。まして足利義昭《あしかゞよしあき》や、松永久秀《まつながひさひで》は、頻《しき》りに彼《かれ》の上京《じやうきやう》を促《うな》がすに於《おい》てをや。而《しか》して若《も》し此上《このうへ》遷延《せんえん》せん乎《か》。朝倉《あさくら》、淺井《あさゐ》は、信長《のぶなが》に滅《ほろぼ》され、信長《のぶなが》の根據《こんきよ》は、愈《いよい》よ鞏固《きようこ》となる可《べ》きに於《おい》てをや。果《はた》して然《しか》らば、信玄《しんげん》が踵《くびす》を擧《あ》げ來《きた》つたのは、寧《むし》ろ却《かへつ》て其《そ》の晩《おそ》きを怪《あや》しむ可《べ》きではない乎《か》。
扨《さて》も信玄《しんげん》は、元龜《げんき》三|年《ねん》十|月《ぐわつ》三|日《か》、宿昔《しゆくせき》の志《こゝろざし》を遂《と》ぐ可《べ》く、甲府《かふふ》を發《はつ》した。彼《かれ》は謙信《けんしん》が雪《ゆき》に隔《へだ》てられて、其後《そのうしろ》を襲《おそ》ふ心配《しんぱい》なき季節《きせつ》を、利用《りよう》したのであらう。彼《かれ》の領土《りやうど》は甲斐《かひ》、信濃《しなの》、駿河《するが》、遠江《とほたふみ》の北部《ほくぶ》、參河《みかは》の東部《とうぶ》、上野《かうづけ》の西部《さいぶ》、飛騨?《ひだ》の北部《ほくぶ》、越中《ゑつちう》の南部《なんぶ》に跨《またが》り、約《やく》百二十二|萬石《まんごく》、其《そ》の兵數《へいすう》約《やく》三|萬《まん》。彼《かれ》は若干《じやくかん》を殘《のこ》して上杉氏《うへすぎし》に備《そな》へ、自《みづ》から二|萬《まん》の兵《へい》と、北條氏《ほうでうし》の援兵《ゑんぺい》二千を加《くは》へ、遠州《ゑんしう》に向《むか》うた。而《しか》して別《べつ》に山縣昌景《やまがたまさかげ》をして、兵《へい》五千を率《ひき》ゐ、參河《みかは》の東部《とうぶ》を經《へ》て、遠州《ゑんしう》に來會《らいくわい》せしめた。
信玄《しんげん》の兵《へい》を行《や》るや、實《じつ》に周到《しうたう》なる準備《じゆんび》を盡《つく》した。彼《かれ》は此《この》役《えき》に先《さきだ》ち、參遠《さんゑん》二|州《しう》の地理《ちり》につき、十二|分《ぶん》の調査《てうさ》を遂《と》げ、其《そ》の運動《うんどう》に就《つい》て、豫算《よさん》なからしめた。勝《か》つことよりも、負《ま》けぬと云《い》ふ工夫《くふう》が、彼《かれ》に取《と》りては、專《せん》一であつた。彼《かれ》は十|月《ぐわつ》十|日《か》に、乾城主天野景貫《いぬゐじやうしゆあまのかげつら》を案内者《あんないしや》として、多々羅《たゝら》(或《あるひ》は只來《たゞら》に作《つく》る)飯田兩城《いひだりやうじやう》を攻《せ》め落《おと》し、進《すゝ》んで久野城《くのじやう》に薄《せま》つた。然《しか》も城主久野宗能《じやうしゆくのむねよし》堅守《けんしゆ》して、出《い》でゝ戰《たゝか》はなかつた。
當時《たうじ》徳川氏《とくがはし》は、遠《ゑん》、參《さん》、約《やく》五十六|萬石《まんごく》を有《いう》し、其《そ》の兵數《へいすう》一|萬《まん》四千、而《しか》して主將家康《しゆしやういへやす》は、三十一|歳《さい》の血氣《けつき》正《ま》さに剛《がう》なる盛時《せいじ》で、戰鬪力《せんとうりよく》最《もつと》も旺盛《わうせい》を極《きは》めて居《ゐ》た。彼《かれ》は謙信《けんしん》に約《やく》し、織田氏《おだし》に向《むかつ》て、援兵《ゑんぺい》を請《こ》ひ、以《もつ》て信玄《しんげん》の西上《さいじやう》を遮斷《しやだん》す可《べ》き、第《だい》一|線《せん》に立《た》つた。
彼《かれ》は信玄《しんげん》が、遠州《ゑんしう》に雪崩《なだれ》の如《ごと》く入《い》り來《きた》るを見《み》るや。十|月《ぐわつ》十三|日《にち》、大久保忠世《おほくぼたゞよ》、本多忠勝《ほんだたゞかつ》、内藤信成《ないとうのぶなり》をして、兵《へい》三千を率《ひゐ?》ゐて、之《これ》を偵察《ていさつ》せしめた。彼等《かれら》が三加野《みかの》、木原《きはら》、西島邊《にしじまへん》に至《いた》り、武田《たけだ》の軍備《ぐんび》を眺《なが》めつゝあるや、乍《たちま》ち武田勢《たけだぜい》の知《し》る所《ところ》となり、鋒先《ほこさき》を揃《そろ》へて向《むか》ひ來《き》た。内藤信成《ないとうのぶなり》は、衆寡《しうくわ》敵《てき》し難《がた》し、今《い》ま吾軍《わがぐん》を喪《うしな》はば、後日《ごじつ》の難儀《なんぎ》ならむ。寧《むし》ろ背進《はいしん》し、織田氏《おだし》援兵《ゑんぺい》の到著《たうちやく》を俟《ま》つて、雌雄《しゆう》を決《けつ》す可《べ》しと云《い》ひ、何《いづ》れも之《これ》に同意《どうい》した。本多《ほんだ》(平《へい》八|郎《らう》)忠勝《たゞかつ》、其《そ》の一|士《し》に輕卒《けいそつ》を附《ふ》して、見付《みつけ》に遣《つかは》し、民家《みんか》の戸板《といた》、疊《たゝみ》、筵《むしろ》等《とう》の燒草《やきぐさ》を道《みち》に積《つ》み、合圖《あひづ》次第《しだい》に火《ひ》を放《はな》つ可《べ》しと命《めい》じ。烟焔?《えんえん》に乘《じよう》じ、捷?路《せふろ》を取《と》りて、一言坂《ひとことさか》迄《まで》引《ひ》き揚《あ》げた。
武田勢《たけだぜい》は能《よ》く地理《ちり》を知《し》り、肯《あへ》て火《ひ》の爲《た》めに踟?《ちちう》せず、愈《いよい》よ追撃《つゐげき》して來《き》た。然《しか》も忠勝《たゞかつ》は、單騎《たんき》兩軍《りやうぐん》の間《あひだ》を馳驅《ちく》し、遂《つひ》に軍《ぐん》を全《まつた》うして濱松《はままつ》に歸著《きちやく》した。
[#1字下げ]家康《いへやす》に過《すぎ》たる物《もの》が二つあり唐《から》の頭《かしら》に本多《ほんだ》平《へい》八
此《こ》れは武田方《たけだかた》より、一言坂《ひとことざか》の上《うへ》に立《た》てたる落首《らくしゆ》である。唐頭《からのかしら》とは、?牛《りぎう》の尾《を》ぢや。元龜《げんき》二|年《ねん》、蠻人《ばんじん》初《はじ》めて輸入《ゆにふ》した。徳川家《とくがはけ》にては、本多忠勝以下《ほんだたゞかついか》七|人《にん》、之《これ》をかけて居《ゐ》た。
信玄《しんげん》は陣《ぢん》を江臺島《えだいじま》に移《うつ》し、其《その》子《こ》勝頼《かつより》、及《およ》び武田信豐《たけだのぶとよ》、穴山梅雪等《あなやまばいせつら》をして、二|俣城《またじやう》を攻《せ》めしめた。而《しか》して山縣昌景《やまがたまさかげ》も、?《さき》に投降《とうかう》したる山家《やまが》三|方《ぱう》の將士《しやうし》を案内者《あんないしや》とし、參河《みかは》の東部《とうぶ》に入《い》り、吉田城《よしだじやう》を略《りやく》し、伊平《いへい》の砦《とりて》を陷《おとしい》れ、濱松城《はままつじやう》を牽制《けんせい》した。
二|俣城《またじやう》の守將中根正照《しゆしやうなかねまさてる》、及《およ》び濱松《はままつ》よりの援將青木廣次《ゑんしやうあをきひろつぐ》、松平康定《まつだひらやすさだ》の徒《と》、善《よ》く防《ふせ》ぐ。家康《いへやす》自《みづ》から數《すう》千の兵《へい》を將《ひき》ゐ、後詰《ごづめ》したるも、武田勢《たけだぜい》の備立《そなへだて》整々堂々《せい/\だう/\》、容易《ようい》に手《て》を著《つ》く可《べか》らず。而《しか》して武田勢《たけだぜい》は其《そ》の汲道《きふだう》を絶《た》ちたれば、十二|月《ぐわつ》十九|日《にち》の夜《よ》、城將等《じやうしやうら》も今《いま》は詮方《せんかた》なく、開城《かいじやう》して濱松《はままつ》に還《かへ》つた。信玄《しんげん》は依田信守《よだのぶもり》をして、二|俣城《またじやう》を守《まも》らしめ、更《さら》に其《そ》の周邊《しうへん》の防備《ばうび》を措置《そち》し、進《すゝ》んで參河《みかは》の東部《とうぶ》に出《いで》んとした。此《これ》からが世《よ》に名高《なだか》き三方原《みかたがはら》の合戰《かつせん》ぢや。


[#5字下げ]【九〇】三方原合戰(一)[#「【九〇】三方原合戰(一)」は中見出し]
信玄《しんげん》は兵機《へいき》に明《あき》らかなる大將《たいしやう》也《なり》。彼《かれ》は家康《いへやす》と戰《たゝか》はんが爲《た》めに、軍《ぐん》を出《いだ》したのではない、彼《かれ》の目的《もくてき》は、西上《さいじやう》である。但《た》だ徳川勢《とくがはぜい》が、其《そ》の進路《しんろ》を遮《さへぎ》るが爲《た》めに、戰《たゝか》うたのである。彼《かれ》は手段《しゆだん》の爲《た》めに、目的《もくてき》を忘却《ばうきやく》する間拔《まぬけ》でない。されば彼《かれ》は脇目《わきめ》も振《ふ》らず、元龜《げんき》三|年《ねん》十二|月《ぐわつ》廿二|日《にち》、野部《のべ》の陣《ぢん》を引《ひ》き拂《はら》ひ、祝田《いはひだ》、刑部《おさかべ》を經《へ》、井伊谷《ゐいがだに》を過《す》ぎて、東參河《ひがしみかは》に向《むか》ふ可《べ》く發足《ほつそつ?》した。彼《かれ》が濱松城《はままつじやう》を攻《せ》めずして、別路《べつろ》より西上《さいじやう》せんとするは、大見識《だいけんしき》と云《い》はねばならぬ。若《も》し兵《へい》を濱松城下《はままつじやうか》に困疲《こんぴ》せしめ、織田大軍《おだたいぐん》後詰《ごづめ》し來《きた》るに於《おい》ては、西上《さいじやう》抔《など》は思《おも》ひも寄《よ》らぬ事《こと》。主客《しゆかく》の位置《ゐち》、自《みづ》から顛倒《てんたう》して、彼《かれ》は自《みづ》から死地《しち》に陷《おちい》らねばならぬ。惟《おも》ふに新鋭《しんえい》の薩兵《さつへい》を、熊本城下《くまもとじやうか》に頓挫《とんざ》せしめたる、西郷《さいがう》、桐野《きりの》の徒《と》は、信玄《しんげん》に學《まな》ぶ所《ところ》がなかつたからであらう。
信長《のぶなが》の援軍《ゑんぐん》は、佐久間信盛《さくまのぶもり》、平手汎秀《ひらてのりひで》、瀧川一益等《たきがはかずますら》三千|人《にん》を率《ひき》ゐて、既《すで》に來著《らいちやく》した。林通勝《はやしみちかつ》、水野信元等《みづののぶもとら》は尚《な》ほ途中《とちう》に在《あ》つた。而《しか》して情報《じやうはう》は、廿一|日《にち》の夜《よ》を以《もつ》て、家康《いへやす》に達《たつ》した。曰《いは》く、信玄《しんげん》は明日《みやうにち》野部《のべ》を出立《しゆつたつ》して、東參河《ひがしみかは》に出《い》づ可《べ》しと。そこで軍事會議《ぐんじくわいぎ》は開《ひら》かれた。織田家《おだけ》の諸將《しよしやう》は、何《いづ》れも信長《のぶなが》より、守《まも》りて戰《たゝか》ふ勿《なか》れの訓示《くんじ》を、齎《もた》らして來《き》た。徳川家《とくがはけ》の諸將《しよしやう》も、豫《かね》て甲州勢《かふしうぜい》の手並《てなみ》は、能《よ》く心得《こゝろえ》て居《ゐ》る。如何《いか》に味方《みかた》が元氣《げんき》に逸《はや》るも、衆寡《しうくわ》相《あひ》敵《てき》せぬは、火《ひ》を睹《み》るよりも明《あきら》かだ。されば家康《いへやす》以外《いぐわい》に、一|人《にん》の主戰論者《しゆせんろんしや》なかつたことは、不思議《ふしぎ》でない。否《い》な不思議《ふしぎ》なのは、家康《いへやす》が群議《ぐんぎ》を排《はい》して、頑強《ぐわんきやう》に其《そ》の我慢《がまん》を張《は》り通《とほ》したことである。曰《いは》く『敵《てき》が我《わ》が城外《じやうぐわい》を蹈《ふ》み付《つ》くるに、一|矢《し》をも酬《むく》いぬのは、男兒《だんじ》でない。』と。固《もと》より家康《いへやす》の事《こと》は、家康《いへやす》自《みづ》から決《けつ》す可《べ》きである。然《しか》も濱松《はままつ》の人心《じんしん》は、洶々《きよう/\》であつた。
明《あ》くれば十二|月《ぐわつ》廿二|日《にち》、家康《いへやす》は織田《おた》援軍《ゑんぐん》を合《あは》せ、約《やく》一|萬《まん》の兵《へい》を率《ひき》ゐ、濱松城《はままつじやう》を出《い》でゝ、三方原《みかたがはら》に到《いた》り、陣《ぢん》を犀《さい》ヶ|崖《だに》の北《きた》に布《し》き、武田勢《たけだぜい》の通過《つうくわ》を待受《まちう》けた。
抑《そもそ》も三方原《みかたがはら》は、濱松城《はままつじやう》の北《きた》に位《くらゐ》し、東北《とうほく》より西南《せいなん》に亙《わた》れる、縱《たて》三|里《り》、横《よこ》二|里《り》の高原《かうげん》である。地勢《ちせい》は北方《ほくはう》二百六十四|尺《しやく》、南方《なんぱう》犀《さい》ヶ|崖《だに》附近《ふきん》は、九十五|尺《しやく》、北《きた》より南《みなみ》に趨《おもむ》くに從《したが》ひ、漸次《ぜんじ》低下《ていか》し、犀《さい》ヶ|崖《だに》の西南《せんなん》五六町《ちやう》にして、高原《かうげん》の地脈《ちみやく》殆《ほと》んど盡《つ》く。而《しか》して犀《さい》ヶ|崖《だに》は、高原中《かうげんちう》の龜裂《きれつ》したる斷面《だんめん》で、裂孔《れつこう》の廣《ひろ》さ約《やく》三十|尺《しやく》、深《ふか》さ約《やく》十八|尺《しやく》、水《みづ》其《そ》の底《そこ》を流《なが》る。濱松《はままつ》の約《やく》十|町《ちやう》北方《ほくはう》に在《あ》る。
家康《いへやす》は酒井忠次《さかゐたゞつぐ》、及《およ》び織田家《おだけ》の援軍《ゑんぐん》を右翼《うよく》とし、石川數正《いしかはかずまさ》、小笠原長善《をがさはらながよし》、松平家忠等《まつだひらいへたゞら》を左翼《さよく》とし、自《みづ》から中軍《ちうぐん》を將《ひき》ゐて、其《そ》の後《うしろ》に備《そな》へた。彼《かれ》は必《かなら》ずして勝算《しようさん》があるではない、唯《た》だ勝敗《しようはい》を度外《どぐわい》に措《お》いて、一|戰《せん》せんと覺悟《かくご》したのだ。乃《すなは》ち縱令《たとひ》戰死《せんし》するも、我《わが》武《ぶ》をけがすよりもましであると、觀念《くわんねん》したからだ。彼《かれ》は眞《しん》に剛勇《がうゆう》の標本《へうほん》である。
家康《いへやす》と戰《たゝか》ふは、信玄《しんげん》の本意《ほんい》でない。彼《かれ》は二|萬《まん》七千の大軍《たいぐん》を率《ひき》ゐ、肅々《しゆく/\》として、野部《のべ》を發《はつ》し、天龍川《てんりうがは》を渡《わた》り、大菩薩《だいぼさつ》より三方原《みかがた?はら》に抵《いた》つた。而《しか》して家康《いへやす》が濱松城《はままつじやう》を出《い》でゝ、其《その》陣《ぢん》を張《は》つて居《ゐ》たを見《み》、若干《じやくかん》の部隊《ぶたい》を分《わか》つて、之《これ》を抑《おさ》へしめ、本軍《ほんぐん》は豫定《よてい》の如《ごと》く、其《そ》の進行《しんかう》を繼續《けいぞく》し、祝田《いはひだ》、刑部《おさかべ》に向《むか》はんとした。彼《かれ》は寧《むし》ろ此《かく》の如《ごと》き遭遇戰《さうぐうせん》に、其《その》兵《へい》を損《そん》ずるを欲《ほつ》せなかつた。
然《しか》るに小山田信茂《をやまだのぶしげ》は、其《そ》の部下《ぶか》上原能登守《うへはらのとのかみ》を拉《たづさ》へ來《きた》りて報告《はうこく》した。曰《いは》く、上原《うへはら》犀《さい》ヶ|崖《だに》方面《はうめん》に迂囘《うくわい》して、敵状《てきじやう》を偵察《ていさつ》するに、全軍《ぜんぐん》を鶴翼《かくよく》―今時《こんじ》の横隊《わうたい》―に排置《はいち》し、何《いづ》れも一|段《だん》備《そな》へにして、其《そ》の兵數《へいすう》も、我《わ》が五|分《ぶんの》一に過《す》ぎぬ。且《か》つ織田勢《おだぜい》は旗幟《きし》整《とゝの》はず、戰《たゝか》はざるに既《すで》に敗色《はいしよく》があると。信玄《しんげん》は念《ねん》を入《い》れて、更《さ》らに旗本《はたもと》の物見番《ものみばん》室賀信俊《むろがのぶとし》に命《めい》じ、上原《うへはら》と共《とも》に偵察《ていさつ》せしめた。果《はた》して其通《そのとほり?》りである。
今《いま》は勝算《しようさん》歴々《れき/\》ぢや、乃《すなは》ち行軍《かうぐん》序列《じよれつ》を、戰鬪《せんとう》序列《じよれつ》に變《へん》じ、魚麟《ぎよりん》―今時《こんじ》の縱隊《じうたい》―の陣形《ぢんけい》とした。第《だい》一|線《せん》が小山田信茂《をやまだのぶしげ》、山縣昌景《やまがたまさかげ》、内藤昌豐《ないとうまさとよ》、小幡信貞等《をばたのぶさだら》である。山家《やまが》三|方《ぱう》の兵《へい》も、之《これ》に屬《ぞく》した。第《だい》二|線《せん》が馬場信房《ばばのぶふさ》、武田勝頼等《たけだかつよりら》。信玄《しんげん》は總豫備隊《そうよびたい》を率《ひき》ゐて、其《その》後《うしろ》に在《あ》つた。此《こ》れが廿二|日《にち》の午後《ごご》四|時《じ》頃《ごろ》だ。
却説《さて》家康《いへやす》の方《はう》では、武田勢《たけだぜい》が既《すで》に三方原《みかたがはら》に上《のぼ》るを見《み》て、軍目付《いくさめつけ》鳥井忠廣《とりゐたゞひろ》は、之《これ》を偵察《ていさつ》し、信玄《しんげん》が引取《ひきと》るは幸《さいは》ひ也《なり》、速《すみか?》かに御先手《おんさきて》を呼《よ》び戻《もど》し給《たま》へ。若《も》し強《し》ひて御《ご》一|戰《せん》とあらば、敵《てき》の祝田邊《いはひだへん》へ打出《うちだし》候《さふら》はんとき、合戰《かつせん》を掛《か》け給《たま》へ、此《これ》とても危《あやふ》く候《さふらふ》と云《い》ふ。家康《いへやす》大《おほ》いに怒《いか》り、汝《なんぢ》は日頃《ひごろ》武功《ぶこう》の者《もの》なれば、大切《たいせつ》の役《やく》も申《まを》し付《つ》けたるに、今日《こんにち》敵《てき》の大軍《たいぐん》を見《み》て、臆病神《おくびやうがみ》に取付《とりつ》かれたる乎《か》、左樣《さやう》に腰《こし》が拔《ぬ》けては、何《なん》の用《よう》に立《た》つべきぞと罵《のゝし》つた。忠廣《たゞひろ》も腹《はら》を立《た》て、平生《へいぜい》は合戰《かつせん》に、念《ねん》を入過《いれす》ぎる程《ほど》の御大將《おんたいしやう》なるが、今日《こんにち》は何《なん》とやらん血氣《けつき》に逸《はや》らせ給《たま》ふこそ心得《こゝろ?》ね、今《いま》御覽《ごらん》候《さふら》へ、某《それがし》が申《まを》せし言葉《ことば》、思《おも》ひ當《あた》らせ給《たま》ふ可《べ》しと言捨《いひす》てゝ、先手《さきて》に進《すゝ》んだ。
家康《いへやす》は重《かさ》ねて渡邊守綱《わたなべもりつな》に偵察《ていさつ》を命《めい》じたが、守綱《もりつな》の報告《はうこく》も亦《ま》た、前者同樣《ぜんしやどうやう》であつた。然《しか》も家康《いへやす》は頑《ぐわん》として之《これ》を可《き》かず、而《しか》して大久保忠佐《おほくぼたゞすけ》、柴田康忠等《しばたやすたゞら》は、守綱《もりつな》の抑止《よくし》を聽《き》かず、足輕《あしがる》引具《ひきぐ》し、先手《さきて》に進《すゝ》み、甲州勢《かふしうぜい》へ向《む》け、鐵砲《てつぱう》を打《う》ち掛《か》けた。


[#5字下げ]【九一】三方原合戰(二)[#「【九一】三方原合戰(二)」は中見出し]
武田信玄《たけだしんげん》、水股《みづまた》の者《もの》と名付《なづけ》て、三百|人《にん》計《ばかり》眞先《まつさき》に立《た》て、彼等《かれら》には礫《つぶて》を打《う》たせて、推太鼓《おしだいこ》を打《うつ》て、人數《にんず》かゝり來《きた》る。〔信長公記〕當時《たうじ》甲州勢《かふしうぜい》が、密集隊《みつしふたい》を成《な》して、進撃《しんげき》し來《きた》れる状《じやう》、想《おも》ひ見《み》る可《べ》しだ。甲軍《かふぐん》の先鋒《せんぽう》小山田信茂《をやまだのぶしげ》は、先《ま》づ織田勢《おだぜい》と接戰《せつせん》した。山縣昌景等《やまがたまさかげら》は、山家《やまが》三|方《ぱう》の兵《へい》を先頭《せんとう》とし、内藤《ないとう》、小幡等《おばたら》と與《とも》に、徳川軍《とくがはぐん》の左翼《さよく》に向《むか》うた。小笠原長善《をがさはらながよし》、本多忠勝等《ほんだたゞかつら》之《これ》を撃退《げきたい》し、山家《やまが》三|方《ぱう》の兵《へい》先《ま》づ潰《つひ》え、山縣等《やまがたら》の隊《たい》も、三四|町《ちやう》追《お》ひまくられた。小山田隊《をやまだたい》は、織田勢《おだぜい》を攻《せ》め立《た》てた。佐久間《さくま》先《ま》づ走《はし》つた、瀧川《たきがは》も潰《つひ》えた、平手《ひらで》は奮鬪《ふんとう》して死《し》した。酒井忠次《さかゐたゞつぐ》は、苦戰《くせん》して之《これ》を撃退《げきたい》する三|町《ちやう》計《ばか》り。馬場信房《ばばのぶふさ》は、新手《あらて》を以《もつ》て、小山田《をやまだ》と代《かは》つた。
山縣隊《やまがたたい》の退《しりぞ》くや、武田勝頼《たけだかつより》は、來《きた》り代《かは》つて、大《おほ》いに旗色《はたいろ》を持直《もちなほ》した。『信玄《しんげん》が七|手《て》の先鋒《せんぱう》悉《こと/″\》く破《やぶ》れ、味方《みかた》勝軍《かちいくさ》と見《み》る所《ところ》に、四|郎《らう》勝頼《かつより》、白地《しろぢ》に黒?《くろ》き大文字《だいもんじ》、黒?地《くろぢ》に白《しろ》き大文字《だいもんじ》付《つけ》たる二|本《ほん》の馬印《うまじるし》を、左右《さいう》の脇《わき》に押立《おした》てゝ馬《うま》より下《お》り、山縣《やまがた》が人數《にんず》崩《くづ》れかゝる妻手《めて》の方《はう》へ、たゝき廻《まは》して、御旗本《おんはたもと》へ横筋違《よこすぢかひ》にかゝり突崩《つきくづ》す。』〔改正參河後風土記〕青木廣次《あをきひろつぐ》、中根正照等《なかねまさてるら》皆《み》な討死《うちじに》した。石川數正《いしかはかずまさ》は、部兵《ぶへい》をして、皆《み》な馬《うま》を下《お》り、槍《やり》を横《よこた》へ、膝折《ひざを》り敷《し》きて、敵《てき》を迎?《むか》へ撃《う》つた。斯《か》くて山縣隊《やまがたたい》も、小山田隊《をやまだたい》も、新手《あらて》の交代《かうたい》に力《ちから》を得《え》、更《さ》らに向《む》き直《なほ》りて、勇進《ゆうしん》した。
信玄《しんげん》は兩翼《りやうよく》の戰《たゝかひ》正《ま》さに酣《たけなは》なるを見《み》て、『甘利衆《あまりしう》横槍《よこやり》せよと下知《げち》すれば、米倉丹後重繼《よねくらたんごしげつぐ》心得《こゝ?え》たりと、小荷駄《こにだ》を捨《す》て、酒井《さかゐ》が備《そなへ》に突《つい》てかゝれば、酒井《さかゐ》が備《そなへ》も敗《やぶ》れ走《はし》る。信玄《しんげん》嚴《きび》しく下知《げち》し、典厩信豐《てんきうのぶとよ》、穴山梅雪《あなやまばいせつ》、内藤修理昌豐等《ないとうしゆりまさとよら》、左《さ》の窪《くぼ》より濱松勢《はままつぜい》の後《うしろ》に廻《まは》り、前後《ぜんご》より攻《せ》め立《た》つれば、濱松勢《はままつぜい》入替《いれか》へる味方《みかた》はなし、散々《さん/″\》に敗《やぶ》れて退《しりぞ》かんとする所《ところ》を、信玄《しんげん》諸軍《しよぐん》に下知《げち》して、總軍《そうぐん》一|同《どう》に鬨《とき》を發《はつ》して攻《せ》め立《たつ》る。申刻《さるのこく》(午後《ごゝ》四|時《じ》)に戰《たゝかひ》始《はじ》まり、はや黄昏《たそがれ》に及《およ》び、雪《ゆき》は頻《しきり》に降《ふつ》て、濱松勢《はままつぜい》は、總敗軍《そうはいぐん》となる。』〔改正參河後風土記〕徳川方《とくがはがた》にて、本多忠眞《ほんだたゞまさ》、鳥居忠廣《とりゐたゞひろ》、成瀬正義《なるせまさよし》、松平康純《まつだひらやすずみ》、米津政信等《よねづまさのぶら》、勇士《ゆうし》討死《うちじに》する者《もの》三百|人《にん》。
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神君《しんくん》は大久保忠世《おほくぼたゞよ》に命《めい》じ、犀《さい》ヶ|崖《だに》少《すこ》しこなたに御旗《おんはた》を押立《おしたて》、敗軍《はいぐん》の士卒《しそつ》を引《ひき》あげ給《たま》ふ。……馬場美濃《ばばみの》、小幡上總《をばたかづさ》が勢《せい》、横合《よこあひ》より突《つき》かゝる。水野左近正重《みづのさこんまさしげ》取《とつ》て返《かへ》し、追《お》ひ拂《はら》ふ。左近《さこん》危《あやふ》くなれば、神君《しんくん》轡《くつわ》を返《かへ》して救《すく》ひ給《たま》ふ。其所《そこ》へ又《また》城伊菴《じやういほり》が勢《せい》追《お》ひ來《きた》り、右《みぎ》より弓《ゆみ》、鐵砲《てつぱう》を放《はな》ち懸《か》け、今《いま》は逃《のが》るまじく見《み》ゆ。〔改正參河後風土記〕
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家康《いへやす》の危急《ききふ》實《じつ》に想《おも》ふべしだ。
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濱松《はままつ》御留守《おるす》に置《おか》れし夏目次郎左衞門正吉《なつめじらうざゑもんまさよし》、與力《よりき》二十四五|騎《き》引連《ひきつれ》馳《は》せ來《きたつ》て、某《それがし》御命《おんいのち》に代《かは》り申《まを》すべし、皆々《みな/\》早《はや》く御供《おとも》して、御歸城《ごきじやう》ある可《べ》しと申《まを》す。神君《しんくん》何《なん》ぞ汝《なんぢ》一|人《にん》を捨《す》て殺《ころ》す可《べ》き、我《われ》も一|所《しよ》に討死《うちじに》すべきぞと仰《おほせ》らるゝ。夏目《なつめ》大《だい》の眼《まなこ》を怒《いか》らし、言甲斐《いひがひ》なき御心《おこゝろ》哉《かな》。大將《たいしやう》たらん人《ひと》は、後度《ごど》の功《こう》を心懸《こゝろがけ》給《たま》ふこそ簡?要《かんえう》なれ、葉武者《はむしや》の働《はたらき》し給《たま》ひて、何《なん》の益《えき》かあらんと。怒《いか》れる眼《め》に涙《なみだ》を浮?《うか》め、御馬《おうま》の轡《くつわ》を取《とつ》て、濱松《はままつ》の方《はう》へ引《ひき》まはし、御側《おそば》に付居《つきゐ》たる畔柳助《くろやなぎすけ》九|郎武重《らうたけしげ》に、早《はや》く御供《おんとも》申《まを》せと云《いひ》ながら、指《さし》たる槍《やり》の柄《え》を以《もつ》て、御馬《おうま》の尻《しり》をたゝけば、御馬《おうま》は流石《さすが》に逸物《いつもの》也《なり》、飛《とぶ》が如《ごと》くに馳《はし》り行《ゆく》。其跡《そのあと》にて夏目《なつめ》は、十|文字《もんじ》の槍《やり》を揮《ふる》ひ、追來《おひく》る敵《てき》二|騎《き》突落《つきおと》し、其外《そのほか》を追拂《おひはら》ひつゝ、尚《な》ほ進《すゝ》んで敵中《てきちう》に入《いつ》て、與力《よりき》廿五|騎《き》と共《とも》に、一|人《にん》も殘《のこ》らず討死《うちじに》す。〔改正參河後風土記〕
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夏目《なつめ》は曾《かつ》て一|向宗《かうしう》の一|揆《き》に與《くみ》し、捕虜《ほりよ》となつた。然《しか》るに松平伊忠《まつだひらこれたゞ》が、此者《このもの》は御用《ごよう》に立《た》つからとて、生命乞《いのちごひ》をなし、爾來《じらい》家康《いへやす》は懇切《こんせつ》に彼《かれ》を遇《ぐう》した。即《すなは》ち彼《かれ》は、今《いま》や再生《さいせい》の恩《おん》に酬《むく》いたのであつた。
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斯《かく》て後《のち》は君臣《くんしん》彌《いよ/\》放《はな》ればなれにて、神君《しんくん》僅《わづか》に五|騎《き》計《ばかり》にて、追《おひ》くる敵《てき》を突破《つきやぶ》り、追拂《おひはら》うて退《のち》給《たま》ふ所《ところ》に、敵《てき》近《ちか》く狙《ねら》ひ寄《よつ》て神君《しんくん》を射《い》んとす。天野《あまの》三|郎兵衞康景《ろべゑやすかげ》、馳《は》せ來《きた》り、其《その》弓《ゆみ》を馬上《ばじやう》より蹴落《けおと》せば、敵《てき》も恐《おそ》れ引《ひき》退《しりぞ》く。又《ま》た敵《てき》三|騎《き》來《きた》り、一|槍《やり》參《まゐ》らん返《かへ》し給《たま》へと詞《ことば》をかくる。神君《しんくん》弓《ゆみ》を放《はなつ》て、其《その》敵《てき》一|騎《き》を射落《いおと》し給《たま》ふ。殘《のこ》る二|騎《き》は、天野《あまの》三|郎兵衞《らうべゑ》、大久保《おほくぼ》七|郎右衞門《らうゑもん》、成瀬小吉等《なるせこきちら》追拂《おひはら》ふ。又《また》敵《てき》一|騎《き》神君《しんくん》を目懸《めがけ》打《うつ》て掛《かゝ》るを、野中《のなか》三五|郎重政《らうしげまさ》討果《うちはた》す。〔改正參河後風土記〕
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記《き》して茲《こゝ》に至《いた》れば、家康《いへやす》の生還《せいくわん》は、寧《むし》ろ奇蹟《きせき》の感《かん》がある。
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高木《たかぎ》九|助《すけ》、其時《そのとき》法師武者《はふしむしや》の首《くび》討取《うちとつ》て、持參《ぢさん》しければ、神君《しんくん》御覽《ごらん》じて、汝《なんぢ》早《はや》く其《その》首《くび》濱松《はままつ》の城門《じやうもん》迄《まで》持《も》ち行《ゆ》き、信玄《しんげん》が首《くび》討取《うちとり》しと呼《よば》はれと仰《おほ》せらる。依《よつ》て九|助《すけ》かしこまり、急《いそ》ぎ城門《じやうもん》迄《?で》馳《か》け付《つけ》て、敵《てき》の大將《たいしやう》信玄《しんげん》の首《くび》、高木《たかぎ》九|助《すけ》討取《うちとつ》たりと呼《よば》はれば、城中《じやうちう》には、今日《こんにち》敗軍《はいげ?ん》と聞《きい》て、大《おほい》に騷動《さうどう》せし所《ところ》、此《こ》の聲《こゑ》を聞《きい》て、上下《しやうか》勇《いさ》み悦《よろこ》びける。程《ほど》なく畔柳《くろやなぎ》城門《じやうもん》を高《たか》らかに打《うち》たゝき、屋形樣《やかたさま》御歸《おかへ》りありと呼《よばゝ》りければ、頓《やが》て城門《じやうもん》をひらき、恙《つゝが》なく御歸城《ごきじやう》ありしにより、諸人《しよにん》始《はじ》めて安堵《あんど》の思《おも》ひをなしにけり。〔改正參河後風土記〕
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家康《いへやす》は能《よ》く群集心理《ぐんしふしんり》を解《かい》した。虚言《きよげん》も一|時《じ》の方便《はうべん》ぢや。家康《いへやす》は生死《しやうし》の最後《さいご》に至《いた》るも、尚《な》ほ方便《はうべん》を出《い》だす丈《だけ》の餘裕《よゆう》は、保留《ほりう》して居《ゐ》た。
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[#6字下げ]松平伊忠の?識と夏目次郎左衞門尉忠死の事[#「松平伊忠の?識と夏目次郎左衞門尉忠死の事」は1段階小さな文字]
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永祿六年九月一向の宗門一揆を企る時、三州額田郡野羽の古壘に要害を構へ、夏目次郎左衞門尉、大津半右衞門尉、乙部八兵衞尉等一揆の賊徒に與して、是を守りて近郷を略せんと欲す。大神君、松平主殿助伊忠に命じて、此壘を攻撃せしめ給ふ。伊忠命を蒙りて深溝城より兵を發して、野羽城を圍む、夏目は三州の家士なるに因りて、伊忠攻めて屡※[#二の字点、1-2-22]其利を得ると雖も、能く守りて城陷らず。時に乙部八兵衞尉?に志を伊忠に通じて内應し、伊忠が兵を野羽の古壘に導き入る、城兵是を拒く事を得ず、大津半右衞門尉は僅に城を免れて針崎の一揆に加はる。夏目も城を免れ去らんと欲す、伊忠速に城を圍むの間、夏目城を出去る事を得ず、伊忠士卒を指揮し大津の從兵を悉く攻撃して、軍士をして堅く夏目を圍む、夏目狼狽して倉庫に迫る、伊忠岡崎に使を馳て野羽の古壘を陷れ、城將夏目を擒にす、大津半右衞門尉は伊忠が兵城中に攻入らんと欲する時、敵是を拒き戰ふの隙に城を出走して針崎に免れ、一揆の逆徒に加はる、乙部八兵衞尉は城未だ陷らざる以前に志を伊忠に通じ城を攻る時内通す、此反忠に因りて一命を助け置の旨を達す。大神君命ありて曰く、夏目は三州の豪士武功の者也、然るに伊忠城を圍みて日ならず彼壘を陷るのみに非らず、剩へ城將夏目を擒にする條是れ奇なりと謂ふ可しと、大に伊忠が武略を感稱し給ふ。乙部八兵衞尉は夏目と連年好交の友なり、是に由りて今度も同意して一揆に與す、乙部八兵衞尉、主殿助伊忠に謂て曰く吾れ志を變じて反忠する事是全く本意に非ずと雖も、野羽の壘始終守り難きを知る故に、夏目の一命を助けんが爲めに吾れ伊忠に降る、今度の忠に代へて夏目が命を助くべき事を乞ふ。伊忠乙部が志を感じて此由を大神君の台聽に達して夏目及乙部の赦免を請ふ、大神君是を伊忠に許し給ふて夏目乙部を主殿助伊忠に賜はる、伊忠悦びて二士の命を助る、夏目乙部是を謝して伊忠に屬す。其後伊忠夏目の武名を惜んで麾下に屬せしめん事を大神君に請ふて曰く、忠義武略の士を探りて君に奉仕せしむるは是れ臣の忠なり、此夏目次郎左衞門尉は伊忠に屬して年あり、吾彼が志を知る、勇にして忠あり、君能く是を用ひ給はゞ恐らくは臣が言を許し給ひて、彼を召て幕下に屬せしめ給へと請ふ、大神君伊忠が忠信を大に感じ給ひて遂に是を許し給ふ。故に夏目次郎左衞門尉、大神君に謁して麾下に屬す、主殿助伊忠悦びて拜謝す。大神君夏目が忠義武略の士たるの由伊忠が云ふ所を信じ給ひて、夏目をして三郎信康君に屬せしめ給ふ、元龜三年遠州味?方原合戰の時、大神君の軍利無くして其の多勢競ひ來りて危急なり、時に夏目次郎左衞門尉勇を奮ひて忠死す、是に由りて大神君其危を脱れ給ふ、最も是れ夏目の大なる忠にして又主殿助伊忠が忠と謂ふ可し。君の命に代るべき忠士を伊忠兼て明察して、請て麾下に屬せしむる、伊忠其人を知る事を違へず、乙部八兵衞尉は伊忠が家に在りて永く主殿助の從士となる。〔天慶日次記、榮松武鑑〕
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[#5字下げ]【九二】三方原合戰(三)[#「【九二】三方原合戰(三)」は中見出し]
戰爭《せんさう》は十二|月《げ?わつ》廿二|日《にち》の午後《ごご》四|時《じ》に始《はじ》まり、六|時《じ》には徳川方《とくがはがた》の總敗軍《そうはいぐん》となつた。家康《いへやす》は鳥居元忠等《とりゐもとたゞら》をして、濱松城《はままつじやう》の玄默口《げんもくぐち》を守《まも》らしめた。鳥居《とりゐ》が門《もん》を閉《とざ》さんと云《い》ふや。
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神君《しんくん》聞召《きこしめ》して、必《かなら》ず門《もん》を閉《とざ》すべからず。跡《あと》より追々《おひ/\》歸《かへ》る味方《みかた》城中《じやうちう》に入《い》らんが爲《た》め也《なり》。縱令《たとひ》門《もん》を開《ひら》き置《おく》とも、我《わ》が籠《こも》りし城《しろ》へ、敵兵《てきへい》押入《おしいる》事《こと》は、叶《かな》ふ可《べか》らず。若《もし》又《また》門《もん》を閉《とぢ》なば、却《かへつ》て敵《てき》に氣《き》を呑《のま》る可《べき》ぞ。結局《けつきよく》門内《もんない》にも、門外《もんぐわい》にも、大篝《おほかゞり》を燒《たか》せよと命《めい》ぜられ、篝《かゞり》を白晝《はくちう》の如《ごと》く燒《たか》せられ。其後《そののち》御奧《おんおく》へ渡《わた》らせ給《たま》ひ、御夜食《おやしよく》を仰付《おほせつけ》られ、久野《くの》と云《い》へる女房《にようばう》、御湯漬《おゆづけ》を奉《たてまる?》る、三|椀《わん》迄《まで》御替《おかは》り有《あつ》て、召上《めしあが》られ、頓《やが》て御枕《おんまくら》を召《めし》て、高鼾《たかいびき》して、御寢《ぎよしん》なりければ。寔《まこと》に大勇不敵《たいゆうふてき》の御大將《おんたいしやう》に在《おは》しけるとて、上下《しやうか》皆《みな》感《かん》じ奉《たてまつ》れり。〔改正參河後風土記〕
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家康《いへやす》の總敗軍《そうはいぐん》も、此《こゝ》に於《おい》て別樣《べつやう》の色彩《しきさい》を發揮《はつき》した。敗軍《はいぐん》は誇《ほこ》る可《べ》きでない、併《しか》し敗軍《はいぐん》に處《しよ》する彼《かれ》の態度《たいど》は、誇《ほこ》る可《べ》きである。而《しか》して山縣《やまがた》、馬場等《ばばら》の武田勢《たけだぜい》も、是迄《これまで》追撃《つゐげき》して來《き》たものゝ、城門《じやうもん》推《お》し開《ひ》らき、篝火《かゞりび》晝《ひる》の如《ごと》きを見《み》て、扨《さ》ては敵《てき》にも、何《なに》か計略《けいりやく》あるぞと引《ひ》き返《かへ》した。全勝《ぜんしよう》を占《し》めたる信玄《しんげん》は、其《その》軍《ぐん》を犀《さい》ヶ|崖《だに》附近《ふきん》に屯《たむろ》し、警戒《けん?かい》を嚴《げん》にし、夜襲《やしふ》に備《そな》へた。果然《くわぜん》奇襲《きしふ》は來《き》た。
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大久保《おほくぼ》七|郎右衞門《ろゑもん》が申上《まをしあげ》けるは、箇樣《かやう》に弱々《よわ/\》としては、彌《いよい》よ敵方《てきがた》氣《き》おひ申《まを》す可《べ》し。然《しか》れば諸手《もろて》の鐵砲《てつぱう》を御集《おんあつ》め被成《なされ》給《たま》へ、我等《われら》が召連《めしつ》れて、夜打《ようち》を仕《つかまつ》らんと申上《まをしあげ》ければ、尤《もつとも》と御諚《ごぢやう》にて、諸手《もろて》を集《あつ》め申共《まをすとも》、出《いづ》る者《もの》なし。漸《やうや》く諸手《もろて》よりして、鐵砲《てつぱう》二三十|挺?計《ちやうばかり》出《い》づるを、我《わ》が手前《てまへ》の鐵砲《てつぱう》に相《あひ》加《くは》へて、百|挺?計《ちやうばかり》召連《めしつ》れて、犀《さい》ヶ|崖《だに》に行《ゆ》きて、つるべて敵陣《てきぢん》へ打込《うちこ》みければ、信玄《しんげん》是《これ》を御覽《ごらん》じて、扨《さて》も/\勝《かつ》ても強《こは》き敵《てき》にてあり。是程《これほど》にここはと云《いふ》者共《ものども》を數多《あまた》打《うち》とられて、さこそ内《うち》もみだれてあるやらんと存知《ぞんぢ》するに、斯程《かほど》の負《ま》け陣《ぢん》には、箇樣《かやう》にはならざる所《ところ》に、今夜《こよひ》の夜《よ》ごみは、扨《さて》も/\したり。未《いま》だよき者共《ものども》のありと見《み》えたり、兎角《とかく》に勝《か》ちても、強《つよ》き敵《てき》なりとて、そこを引《ひき》のけ給《たま》ひて、井伊谷《ゐいがだに》へ入《いり》て、長篠《ながしの》へ出《いで》給《たま》ふ。〔參河物語〕
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此《かく》の如《ごと》く大久保忠世《おほくぼたゞよ》、天野康景等《あまのやすかげら》は、家康《いへやす》に請《こ》うて、各隊《かくたい》の銃手《じうしゆ》を集《あつ》めたが、敗北《はいぼく》の餘《よ》とて、思《おも》はしく集《あつま》らなかつた。乃《すなは》ち己等《おのれら》が部兵《ぶへい》と與《とも》に、僅《わづ》か百にも足《た》らぬ鐵砲《てつぱう》を以《もつ》て、間道《かんだう》より敵《てき》の背後《はいご》に廻《まは》り、射撃《しやげき》した。武田勢《たけだぜい》は暗夜《あんや》の事《こと》とて、其《そ》の多寡《たくわ》を知《し》らず、驚擾《きやうぜう》して、人馬《じんば》の犀《さい》ヶ|崖《だに》に陷《おちい》りて死《し》する者《もの》、少《すくな》くなかつた。兎《と》も角《かく》も此《こ》の奇襲《きしふ》は、物質的《ぶつしつてき》損害《そんがい》を、敵《てき》に與《あた》ふることは、何程《なにほど》でもなかつたにせよ、精神的《せいしんてき》に、敵《てき》に打撃《だげき》を與《あた》へ、味方《みかた》の元氣《げんき》を恢復《くわいふく》したる功《こう》は、頗《すこぶ》る多大《ただい》であった。
要《えう》するに此《こ》の主人《しゆじん》ありて、此《こ》の家來《けらい》あり、此《こ》の家來《けらい》ありて、此《こ》の主人《しゆじん》ありだ。彼等《かれら》が敵愾心《てきがいしん》の旺盛《わうせい》にして、頑強《ぐわんきやう》なるには、流石《さすが》に日本《にほん》一の精兵《せいへい》の主將《しゆしやう》たる信玄《しんげん》も、舌《した》を咋《か》んだであらう。
信玄《しんげん》は翌《よく》二十三|日《にち》、三方原《みかたがはら》にて、首實見《くびじつけん》をした。甲斐《かひ》の諸將《しよしやう》は、此《この》勢《いきほひ》に乘《じよう》じて、濱松城《はままつじやう》を攻《せ》めんと請《こ》うた。獨《ひと》り高坂昌宣《かうざかまさのぶ》は、之《これ》を不可《ふか》とした。用心深《ようじんぶか》き信玄《しんげん》は、其《その》言《げん》に從《したが》ひ、二十四|日《か》營《えい》を撤《てつ》して、刑部《おさかべ》に赴《おもむ》き、此地《このち》にて兵馬《へいば》を休養《きうやう》し、新年《しんねん》を迎《むか》へた。
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刑部《おさかべ》の陣中《ぢんちう》にて、馬場美濃守《ばばみのゝかみ》信玄《しんげん》へ申《まをし》けるは、此度《このたび》三方原《みかたがはら》御合戰《ごかつせん》に、討死《うちじに》の參河武士《みかはぶみ?》、雜兵《ざふひやう》、下々《しも/″\》に至《いた》る迄《まで》、勝負《しようぶ》を仕《つかまつ》らざるもの一|人《にん》もなしと見《み》え候《さふらふ》。其《そ》の證據《しようこ》には、尸骸《しがい》此《こ》の方《はう》に轉《ころ》びたるは、うつむきになる、濱松《はままつ》の方《はう》へ轉《ころ》びたるは、あをのけに成申候《なりまをしさふらふ》。あはれ五|年《ねん》以前《いぜん》、始《はじ》めて駿河《するが》へ御出陣《ごしゆつぢん》の砌《みぎり》、相違《さうゐ》なく遠州《ゑんしう》一|圓《ゑん》、徳川殿《とくがはどの》次第《しだい》と御讓《おゆづ》りありて、御入魂《ごじゆつこん》を結《むす》ばれ、御縁者《ごえんしや》などに遊《あそ》ばし、徳川殿《とくがはどの》に先手《さきて》をさせ給《たま》はゞ、當年《たうねん》頃《ごろ》は、中國《ちうごく》九|州《しう》迄《まで》も、武田家《たけだけ》の御手《おんて》に入《いり》て、五三|年間《ねんかん》に、日本《にほん》も大略物云《たいりやもく?のい》ひ御座《ござ》あるまじきものをと申《まをし》ける。〔改正參河後風土記〕
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是《こ》れ果《はた》して馬場信房《ばばのぶふさ》の口《くち》より出《い》でたる、述懷《じゆつくわい》である乎《か》、或《あるひ》は他人《たにん》の假託《かたく》である乎《か》。何《いづ》れにもせよ、信玄《しんげん》が家康《いへやす》を敵《てき》としたるは、彼《かれ》が一|生《しやう》の不幸《ふかう》で、信長《のぶなが》が家康《いへやす》を味方《みかた》としたるは、彼《かれ》が一|生《しやう》の幸福《かうふく》であつた。信長《のぶなが》が天下《てんか》を取《と》りたるも、信玄《しんげん》が取《と》らなかつたのも、其《そ》の唯《ゆゐ》一とは云《い》はぬが、其《そ》の重《おも》なる一の原因《げんいん》は、乃《すなは》ち此《これ》である。


[#5字下げ]【九三】信玄信長と絶つ[#「【九三】信玄信長と絶つ」は中見出し]
三方原《みかたがはら》合戰《かつせん》の結果《けつくわ》は、信長《のぶなが》に多大《ただい》の影響《えいきやう》を與《あた》へた。其《その》一は信玄《しんげん》との公然《こうぜん》たる絶交《ぜつかう》である。其《その》二は將軍義昭《しやうぐんよしあき》との關係《くわんけい》の破裂《はれつ》である。何《いづ》れも多年《たねん》潜在《せんざい》したる禍機《くわき》が、爆發《ばくはつ》したのだ。
信長《のぶなが》は、概《がい》して淺井《あさゐ》、朝倉《あさくら》との對抗《たいかう》の爲《た》めに、元龜《げんき》三|年《ねん》の下半期《しもはんき》を經過《けいくわ》した。七|月《ぐわつ》より八|月《ぐわつ》にかけては、淺井《あさゐ》の小谷城《をだにじやう》を攻《せ》めた。彼《かれ》は小谷城《をだにじやう》を見下《みおろ》す可《べ》く、虎御前山《とらごぜやま》に半永久的《はんえいきうてき》城寨《じやうさい》を作《つく》り、横山城《よこやまじやう》迄《まで》、三|里《り》の間《あひだ》に、八|相山《さうざん》、宮部郷《みやべがう》、兩所《りやうしよ》の要害《えうがい》を設《まう》け。特《とく》に虎御前《とらごぜ》より宮部《みやべ》迄《まで》は、出入《しゆつにふ》困難《こんなん》なれば、新《あら》たに三|間《げん》の軍用道路《ぐんようだうろ》を造《つく》り、敵《てき》に對《たい》して高《たか》さ一|丈《ぢやう》、長《なが》さ五十|町《ちやう》の?壁《しようへき》を築《きづ》き、水《みづ》を堰《せ》き入《い》れ、其《そ》の往來《わうらい》を安全《あんぜん》にし、持久《ぢきう》の計《けい》をなしつゝ、更《さ》らに朝倉《あさくら》、淺井《あさゐ》に向《むかつ》て、會戰《くわいせい?》の期《き》を促《うなが》した。されど彼等《かれら》は出《い》で來《きた》らず。さりとて之《これ》を放擲《はうてき》すれば、彼等《かれら》は乍《たちま》ち其《その》虚《きよ》に乘《じよう》じて起《た》つ。信長《のぶなが》に取《と》りては、淺井《あさゐ》、朝倉《あさくら》は、良《まこ》とに五月蠅《うるさ》き邪魔者《じやまもの》であつた。
然《しか》も更《さ》らに甚《はなは》だしきは、將軍義昭《しやうぐんよしあき》ぢや。彼《かれ》を京都《きやうと》の眞中《まんなか》に、將軍《しやうぐん》として奉《たてま?》つて置《お》くは、宛《あたか》も食卓《てーぶる》の上《うえ》に、毒藥《どくやく》を措《お》くも同樣《どうやう》ぢや。頗《すこぶ》る劍呑至極《けんのんしごく》である。併《しか》し大義名分《たいぎめいぶん》を大切《たいせつ》にする信長《のぶなが》に於《おい》ては、天下《てんか》の人心《じんしん》を服《ふく》するに足《た》る理由《りいう》を、見出《みいだ》す迄《まで》は、容易《ようい》に手《て》を下《く》だす譯《わけ》には參《まゐ》らぬ。それ迄《まで》は唯《た》だ監視《かんし》するより他《ほか》に、方便《はうべん》はない。然《しか》も陰謀大博士《いんばうだいはかせ》の義昭《よしあき》を監視《かんし》して、其《そ》の陰謀《いんぼう》を杜絶《とぜつ》することは、殆《ほと》んど不可能《ふかのう》である。彼《かれ》の心配《しんぱい》も却々《なか/\》一《ひ》と通《とほり》の事《こと》ではなかつた。斯《かゝ》る場合《ばあひ》に信玄《しんげん》は、入洛《じゆらく》の計畫《けいくわく》を著々《ちやく/\》實行《じつかう》し始《はじ》めた。如上《じよじやう》の事情《じじやう》を詳《つまびらか》にすれば、信長《のぶなが》が親《みづ》から來《きた》りて、家康《いへやす》を應援《おうゑん》せなかつたのも、無理《むり》はない。其《そ》の應援《おうゑん》の兵數《へいすう》の多《おほ》くなかつたのも、恕《じよ》す可《べ》きぢや。
案《あん》の如《ごと》く信玄《しんげん》は、三方原《みかたがはら》戰後《せんご》、直《たゞ》ちに平手汎秀《ひらてのりひで》の首《くび》を岐阜《ぎふ》に送《おく》り、此《これ》を證據《しようこ》に絶交《ぜつかう》の意《い》を表示《へうじ》した。其《そ》の申分《まをしぶん》は、此方《こちら》では未《いま》だ曾《かつ》て、一|味《み》誓約《せいやく》の信義《しんぎ》を失《うしな》はぬに、何故《なにゆゑ》に吾《わが》敵《てき》には加勢《かせい》した乎《か》。今《いま》より以後《いご》は、永《なが》く御手切《おてぎれ》致《いた》すと云《い》ふことであつた。併《しか》しながら此《こ》れは、信玄《しんげん》舌長《したなが》しと云《い》はねばならぬ。彼《かれ》は蚤《つと》に將軍義昭《しやうぐんよしあき》と相《あひ》謀《はか》りて、信長《のぶなが》退治《たいぢ》を企《くはだ》てたではない乎《か》。否《い》な元龜《げんき》三|年《ねん》十一|月《ぐわつ》には、秋山晴近《あきやまはるちか》をして、信州飯田城《しんしういひだじやう》より、兵《へい》を濃州岩村城《じやうしういはむらじやう》に、進《すゝ》めしめたではない乎《か》。其《そ》の岩村城《いはむらじやう》には、城主遠山景任《じやうしゆとほやまかげたふ?》の寡婦《くわふ》たる、信長《のぶなが》の叔母《をば》と、其《そ》の養子《やうし》にして、信長《のぶなが》の第《だい》五|子《し》たる勝長《かつなが》が、守《まも》つて居《ゐ》たのに拘《かゝは》らず、十一|月《ぐわつ》十四|日《か》には、之《これ》を攻《せ》め取《とつ》たではない乎《か》。而《しか》して秋山《あきやま》は、信長《のぶなが》の叔母《をば》たる遠山《とほやま》の寡婦《くわふ》を我《わ》が妻《つま》とし、信長《のぶなが》の子《こ》を、人質《ひとじち》として甲斐《かひ》に送《おく》つたではない乎《か》。是《これ》皆《み》な信玄《しんげん》の指全?《さしがね》より來《き》たと云《い》ふも、過言《くわごん》でない。
違約《ゐやく》、不信《ふしん》の咎《とが》め立《だ》てをすれば、信長《のぶなが》も、信玄《しんげん》も、先《ま》づ五|分《ぶ》/\であらう。信長《のぶなが》は既《すで》に、(元龜三年十一月廿日附を以て)謙信《けんしん》に向《むかつ》ては、信玄《しんげん》と未來永劫《みらいえいごふ》絶交《ぜつかう》すと斷言《だんげん》しつゝも、尚《な》ほ公然《こうぜん》信玄《しんげん》と手《て》を切《き》るを欲《ほつ》せなかつた。彼《かれ》は元龜《げんき》四|年《ねん》、即《すなは》ち天正《てんしやう》元年《ぐわんねん》正月《しやうぐわつ》、織田掃部《おだかもん》を、刑部《おさかべ》に遣《つか》はし、信長《のぶなが》更《さら》に別心《べつしん》あるにあらず、家康《いへやす》若氣《わかげ》故《ゆゑ》に、萬《まん》一|心得違《こゝろえちがひ》の事《こと》もあらば、扱《あつか》ひ候《さふら》へとて、我等《われら》家人共《けにんとも》遣《つか》はし候《さふらふ》處《ところ》、御敵對《ごてきたい》致《いた》したる上《うへ》は、御成敗《ごせいばい》御尤《ごもつとも》に候《さふらふ》。〔改正參河後風土記〕と辯疏《べんそ》せしめた。されど信玄《しんげん》は、固《もと》より此《これ》に耳《みゝ》を傾《かたむ》く可《べ》くもなかつた。從來《じうらい》信長《のぶなが》は、信玄《しんげん》に一|年《ねん》七|度《ど》宛《づゝ》も、音信《いんしん》を通《つう》じ、種々《しゆ/″\》贈遺《ぞうゐ》した。彼《かれ》が信玄《しんげん》を憚《はゞか》りたるは、一|通《とほ》りでなかか?つた。されば其《そ》の最後《さいご》迄《まで》も、出來《でき》得可《うべ》くば、彼《かれ》を正面《しやうめん》の敵《てき》とはしたくなかつたのだ。然《しか》も形勢《けいせい》は、信長《のぶなが》の註文《ちうもん》通《どほり》には參《まゐ》らなかつた。
足利將軍義昭《あしかゞしやうぐんよしあき》も亦《ま》た、上野中務大輔秀政《うへのなかつかさたいふひでまさ》を、刑部《おさかべ》に遣《つか》はし、信玄《しんげん》に向《むかつ》て、織田《おだ》徳川《とくがは》と和信《わしん》す可《べ》く諭《さと》した。此《こ》れは果《はた》して義昭《よしあき》の眞意《しんい》であつた乎《か》。將《ま》た信長《のぶなが》より強要《きやうえう》せられて、止《や》むを得《え》ず、此《こゝ》に至《いた》つた乎《か》。そは詮議《せんぎ》の限《かぎ》りでない。但《た》だ信玄《しんげん》は其旨《そのむね》を奉《ほう》ぜぬのみか、逆《さか》しまに義昭《よしあき》に向《むかつ》て、信長《のぶなが》の五|罪《ざい》を擧《あ》げて、彈劾《だんがい》した。さらば今《いま》は是迄《これまで》なりとて、信長《のぶなが》も亦《ま》た、信玄《しんげん》の七|罪《ざい》を擧《あ》げて、之《これ》を訴《うつた》へた。今《いま》は武田《たけだ》、織田《おだ》の確執《かくしつ》は、公然《こうぜん》の事實《じじつ》となつた。然《しか》も此《こ》れと同時《どうじ》に、破裂《はれつ》したのは、信長《のぶなが》と、義昭《よしあき》との關係《くわんけい》であつた。
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[#6字下げ]信玄より信長へ贈りたる手紙の書状[#「信玄より信長へ贈りたる手紙の書状」は1段階小さな文字]
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一書申達候、然者其方種々理りを以て、信玄と縁者に罷成度由申さるゝに付、無[#レ]據其儀に任せ所望を叶て、其國當方入魂の上、近年内々家康に讒言有[#レ]之は、其方邪欲を存せらるゝ賊心頓て顯はれ、一々逆儀の事、喩ば蜜裏は砒霜有が如し、錦に毒石を包むに相似たる者哉。就中其方弓箭を執つて其名を得、和朝當時戰國の最中にも、輝虎、信長者四人と無[#レ]之樣に仕成、殊更其方若輩なりと雖も、生國都近き故か、果報勇々敷故か、公方義昭公を致[#二]御供[#一]、上洛の後武名を以て天下に雷動するは眼前に見えたり。然共穢き欲心有て、表裏の事業《コトワザ》皆如[#レ]此の段は、累年執り來る弓箭の譽を捨置、邪の思ひに耽り、聖賢の政、夢だも知らざれば、必天道に放たれ、軍神の御罰忽に蒙り、結局手飼の犬などに骨肉を咬み挫かれ、身命を空しく失ひ、末代まで惡名を得ん事、信長疑有間布候。向後予れ二度其方信長と不[#レ]可[#二]申通[#一]者也。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]正月十七日[#割り注]○天正元年[#割り注終わり]     大 僧 正 信     玄
[#8字下げ]織田上總守とのへ[#割り注]○守は介の誤[#割り注終わり]
此御書眞名にて候得共讀み能き爲假名に直し置候〔甲陽軍鑑〕
[#ここで小さな文字終わり]
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[#6字下げ]信長信玄の七罪を擧て訴ふる書状[#「信長信玄の七罪を擧て訴ふる書状」は1段階小さな文字]
[#ここから3段階小さな文字]
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織田彈正忠平信長謹而言上。抑※[#二の字点、1-2-22]武田入道信長讒訴を搆五ヶ條を捧げ 上聞に達するの族粗其聞有。於[#二]事實[#一]者誠に狂言綺語と云つべきをや。其濫觴は三好一黨逆心有て。忽に  光源院殿御 自害被[#レ]成。諸侯之輩大半討死候而。御當家一度及[#二]御退轉[#一]之處 當御所樣ひそかに南都を御出行有て。伊賀甲賀路を經。江州矢島へ御座を被[#レ]移處に。佐々木承禎義賢。嚢祖の遺言を背き。主從の道を忘れ。なさけなく追出申の間。越前へ御下向被[#レ]成畢。朝倉事元來其者にあらず。殊には彼父上意を掠め。御相伴に任ずるの上。己が國に於て雅意を振※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ふ。依[#レ]之其の子公儀を重んせず。既に以て御歸洛の事。前代未聞の次第也。然而 公方樣御料簡なく岐阜へ御坐を被[#レ]成。頼思召旨被[#二]仰出[#一]候間。信長?弱の儀たりといへども。公儀上用是に過んをや。併天下草創の忠功を致さんと欲し。國家を忘れ一命を輕じ。御供申し罷上候處に。至[#二]江州[#一]佐々木所々に相支といへども。悉く攻崩し罷上り候處に。畿内の逆黨數ヶ所の城郭を構へ相支ゆ。一所も不[#レ]殘十四日の内に功崩し。畿内の事は不[#レ]及[#レ]申。四國中國遠島遠路に至まで。皆御味方に馳參じ。征夷大將軍に備へ奉り。御參内を被[#レ]遂事。偏に信長忠功にあらずや。
一信玄事。父信虎已に八十に及ぶ老父追放せしめ。京田舍に迷惑し。街に餓る風情前代未聞の次第也
一嫡子太郎いはれなき籠舍に行ひ。剩毒を以て殺す事法に過ぐ。父を追放し息を殺し。其外親類數多めし失事。
一年來の?屬一戰を勵し。を?蒙る者數輩。一所へ追入燒殺す段。大惡行の最たり。誰か彼に隨順たるべきをや。殊に信玄が與力淺井は。對[#二]信長[#一]雖[#レ]不[#二]相似[#一]爲[#二]妻女[#一]某が妹を遣し置候。其上江北一圓に令[#二]扶助[#一]處に。何の故に信長金崎へ發向之後詰。前代未聞之次第之事。
一信玄剃髮染衣の姿として。人の國を貧民を害し。内には破戒の業を成し。外には五常を背而已。たとへばまいすの僧のごとし。就[#レ]中比叡山傳教大師。桓武天皇國家護持の靈場の處に。衆徒等近年不覺之所行をあらはし。結戎を破り。牛馬の糞尿を伽藍の佛前に犯し。魚鳥を服用す。天道時刻到來して。山上山下悉く燼と成る事。更に信長斷行にあらず。自業自得果の理也。
一信玄時節を伺ひ。支那震檀大俗の身として。大僧正號の事其例をきかず。
一駿河の今川氏眞は。信玄ために甥也。彼家老を相屬け。甥の國を乘取事。前代未聞の次第也。
一關東の北條氏政は。信玄ために聟也。然る處に關東へ亂入し。剩氏政が門外迄燒拂。北條縁類郎黨盡切捨。聟に天下の耻をあたふる事。前代未聞の次第也。
一諏訪の頼茂が息女を信玄が妻と定め。末子たりといへども。彼腹に四郎勝頼を持ながら。頼茂をたばかり甲府へ請待し。馳走の爲に猿樂を集め興行し。其心を宥めさせ。近習の者に申し付け。頼茂を討する事。是又前代未聞の沙汰也。
右之惡逆千古に無之。况末代に有がたし。如此無道之儀。佛神のにくみを得る故か。信玄國を十と不[#二]知行[#一]。信長は五常を愼存する故に。 禁中を重じ 公方を仰ぎ奉り。民を憐む心ざし。天道に通ぜし故か。天下の仕置被[#二]仰付[#一]。國家を興隆し子孫を榮茂せんとする事。祈らずとても神佛に叶ふ故也。信玄皆々僞て申す處。御承引に於ては。又天下の破れ成べし。古語曰君用[#二]佞人[#一]時必受[#二]禍殃[#一]と云云。?臣の訴大亂の基たるべき旨。宜上聞達せらるべし。信長誠恐惶謹言。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]元龜四年癸酉?正月十七日        平   信   長
[#6字下げ]上野中務太輔殿
[#地から1字上げ]〔※[#「てへん+總のつくり」、第3水準1-84-90] 見 記〕
[#ここで小さな文字終わり]

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