第十四章 三方原役前の形勢
【八三】信長と信玄
畿内《きない》には、反覆《はんぷく》恒《つね》なき三|好《よし》殘黨《ざんたう》及《およ》び、松永等《まつながら》あり。更《さら》に手《て》に當《あた》らぬ本願寺《ほんぐわんじ》あり。江北《かうほく》より越前《ゑちぜん》にかけては淺井《あさゐ》、朝倉《あさくら》の動《やゝ》もすれば、其《その》虚《きよ》を覗《うかゞ》ふあり。而《しか》して最《もつと》も油斷《ゆだん》のならぬのは申《まを》す迄《まで》もなく、將軍義昭《しやうぐんよしあき》である。信長《のぶなが》の一|身《しん》は、百に割《わ》りても、尚《な》ほ足《た》らぬ程《ほど》の多忙《たばう》であつた。然《しか》るに例《れい》の苦手《にがて》たる武田信玄《たけだしんげん》は、愈《いよい》よ假面《かめん》を脱《だつ》して來《き》た。若《も》し此際《このさい》家康《いへやす》微《なか》りせば、信長《のぶなが》の困難《こんなん》は如何程《いかほど》であつたらう。此《これ》を思《おも》へば家康《いへやす》は、秀吉《ひでよし》よりも、信長《のぶなが》の相續者《さうぞくしや》として、寧《むし》ろ優先權《いうせんけん》を持《も》つて居《ゐ》たものではあるまい乎《か》。
武田信玄《たけだしんげん》も亦《ま》た、元龜《げんき》、天正時代《てんしやうじだい》の特産《とくさん》である。彼《かれ》は潰敗《くわいはい》し、分解《ぶんかい》しつゝある舊時代《きうじだい》の殘物《ざんぶつ》でなく、抱合《はうがふ》し、結晶《けつしやう》する新時代《しんじだい》の産物《さんぶつ》である。乃《すなち?》ち彼《かれ》も亦《ま》た時代精神《じだいせいしん》の表現《へうげん》である。彼《かれ》は最《もつと》も善《よ》く軍國主義《ぐんこくしゆぎ》の要領《えうりやう》を會得《ゑとく》し、且《か》つ之《これ》を實行《じつかう》したる一|人《にん》である。彼《かれ》は内《うち》自《みづ》から不敗《ふはい》の地《ち》を占《し》めて、而《しか》して後《のち》兵《へい》を四|境《きやう》の外《ほか》に出《い》だした。
彼《かれ》が遺惠《ゐけい》は、今《いま》尚《な》ほ甲斐《かひ》に儼存《げんそん》す。甲斐《かひ》の民《たみ》は、彼《かれ》を稱《しよう》して信玄公《しんげんこう》と云《い》ふ。此《こ》れは彼《かれ》が仁者《じんしや》にして、人民《じんみん》を愛撫《あいぶ》したからではない。彼《かれ》には、何《いづ》れの方面《はうめん》より觀察《くわんさつ》するも、仁者《じんしや》たる資格《しかく》はない。彼《かれ》は殘忍《ざんにん》を尋常《じんじやう》茶飯《さはん》としたる、戰國時代《せんごくじだい》に於《おい》てさへも、代表的《だいへうてき》忍人《にんじん》の一であつた。然《しか》も彼《かれ》は強兵《きやうへい》の基礎《きそ》は、民《たみ》にあることを知《し》つた。故《ゆゑ》に民政《みんせい》を善《よ》くするを以《もつ》て、其《そ》の第《だい》一|義《ぎ》とした。
彼《かれ》は強兵《きやうへい》の必須條件《ひつしゆでうけん》は、富《とみ》にあることを知《し》つた。故《ゆゑ》に國《くに》を富《と》ますの術《じゆつ》に於《おい》て、遺憾《ゐかん》なからしめた。金礦《きんくわう》開鑿《かいさく》の如《ごと》きは、乃《すなは》ち其《そ》の實例《じつれい》ぢや。而《しか》して勢力《せいりよく》を張《は》るには、強兵《きやうへい》に若《し》くはなく、強兵《きやうへい》の要《えう》は、軍兵《ぐんぴやう》の紀律《きりつ》、節制《せつせい》、訓練?《くんれん》、運用《うんよう》にあることを知《し》つた。故《ゆゑ》に軍事上《ぐんじじやう》の鍛錬《たんれん》に、殆《ほと》んど全力《ぜんりよく》を傾注《けいちう》した。彼《かれ》は直覺的《ちよくかくてき》天才《てんさい》にあらず、研究的《けんきうてき》天才《てんさい》であつた。
彼《かれ》が果《はた》して天下《てんか》を取《と》る丈《だ》けの大見識《だいけんしき》、大度胸《だいどきよう》、大氣魄《だいきはく》、大赤心《だいせきしん》、大力量《だいりきりやう》を有《いう》したる乎《か》、否乎《いなか》は、疑問《ぎもん》である、彼《かれ》は山國《やまぐに》に成長《せいちやう》したる者《もの》の性僻?《せいへき》を有《いう》し、褊狹《へんけふ》にして、猜疑心《さいぎしん》多《おほ》く、特《とく》に赤心《せきしん》を他《た》の腹中《ふくちう》に措《お》くが如《ごと》き、好漢《かうかん》とは思《おも》へない。併《しか》しながら彼《かれ》は、必要《ひつえう》萬能者《まんのうしや》ぢや。必要《ひつえう》の前《まへ》には、大抵《たいてい》の事《こと》は、辛抱《しんばう》が出來《でき》た。彼《かれ》は頗《すこぶ》る打算屋《ださんや》であつた。彼《かれ》には感情《かんじやう》の爲《た》めに、其《そ》の打算《ださん》を狂《くる》はすが如《ごと》き掛念《けねん》は、無《な》かつた。煮《に》ても燒《やい》ても、食《く》へぬ代物《しろもの》とは、先《ま》づ彼《かれ》が如《ごと》き者《もの》を評《ひやう》する言葉《ことば》であらう。
彼《かれ》と信長《のぶなが》とは、互《たが》ひに瞞著《まんちやく》の競爭《きやうさう》をした。但《た》だ信玄側《しんげんがは》より見《み》れば、信長《のぶなが》と喧嘩《けんくわ》したとて、何等《なんら》の得《とく》はなく。若《も》し自《みづ》から速《すみや》かに入京《にふきやう》するの機《き》を得《え》ざるならば、其《そ》の當面《たうめん》の競爭者《きやうさうしや》たる謙信《けんしん》よりも、寧《むし》ろ信長《のぶなが》に入京《にふきやう》せしむる方《はう》、尚《な》ほ忍《しの》び得《う》べしと考《かんが》へたであらう。
併《しか》し愈《いよい》よ自《みづ》から西上《せいじやう》の場合《ばあひ》となれば、邪魔者《じやまもの》は、信長《のぶなが》である。而《しか》して更《さ》らにより切近《せつきん》せる邪魔物《じやまもの》は、信長《のぶなが》の與黨《よたう》たる家康《いへやす》である。特《とく》に家康《いへやす》あるが爲《た》めに、遠州《ゑんしう》を我《わが》有《いう》とする事《こと》能《あた》はぬのぢや。されば先《ま》づ家康《いへやす》に向《むかつ》て、痛棒《つうぼう》を與《あた》ふるは、當然《たうぜん》ではない乎《か》。
家康《いへやす》と信玄《しんげん》との間《あひだ》は、永祿《えいろく》十一|年以來《ねんいらい》、屡《しばし》ば衝突《しようとつ》の徴候《ちようこう》を暴露《ばくろ》した。されど元龜《げんき》元年《ぐわんねん》六|月《ぐわつ》、家康《いへやす》が姉?川合戰《あねがはかつせん》に參加《さんか》する迄《まで》は、尚《な》ほ公然《こうぜん》の破裂《はれつ》は來《き》たさなかつた。家康《いへやす》既《すで》に然《しか》り、况《いは》んや信長《のぶなが》をやだ。信玄《しんげん》が將軍義昭《しやうぐんよしあき》と、信長《のぶなが》との力《ちから》を藉《か》り、謙信《けんしん》と講和《かうわ》せんとしたるは、永祿《えいろく》十二|年《ねん》正月《しやうぐわつ》の事《こと》ぢや。信長《のぶなが》が將軍義昭《しやうぐんよしあき》をして、信玄《しんげん》を諭《さと》し、信玄《しんげん》の口入《くにふ》にて、本願寺《ほんぐわんじ》と講和《かうわ》したるは、元龜《げんき》二|年《ねん》の冬《ふゆ》でなければ、恐《おそ》らくは三|年《ねん》の春《はる》であつたらう。三|月《ぐわつ》廿四|日《か》、信長《のぶなが》が京都《きやうと》の新館《しんくわん》を、上京《かみきやう》武者小路《むしやこうぢ》に營《いとな》むや、本願寺門跡《ほんく?わんじもんぜき》は、萬里《ばんり》江山《かうざん》の一|軸《ぢく》、及《およ》び白天目《しろてんもく》を、信長《のぶなが》へ進上《しんじやう》したのぢや。
併《しか》し此《こ》の時節《じせつ》には、信長《のぶなが》と信玄《しんげん》の關係《くわんけい》が、餘程《よほど》危險状態《きけんじやうたい》を帶《お》びて來《き》たことは、疑《うたがひ》を容《い》れぬ。何《なん》となれば同年《どうねん》の末《すゑ》には、既《すで》に家康《いへやす》、及《およ》び信長《のぶなが》の聨合軍《れんがふぐん》に對《たい》し、信玄《しんげん》は三|方原《かたがはら》の一|戰《せん》に於《おい》て、大捷?《たいせふ》を博《はく》したからである。
要《えう》するに、信玄《しんげん》も古狸《ふるたぬき》であり、信長《のぶなが》も古狸《ふるたぬき》である。されば、彼等《かれら》は虚々實々《きよ/\じつ/\》、互《たがひ》に利用《りよう》し得《え》らるゝ丈《だけ》は利用《りよう》し盡《つく》し、而《しか》して愈《いよい》よ已《や》むを得《え》ざる場合《ばあひ》に至《いた》りて、各々《おの/\》其《そ》の本性《ほんしやう》を暴露《ばくろ》して來《き》た。然《しか》も信玄《しんげん》が主働者《しゆうど?しや》で、信長《のぶなが》は受身者《じゆしんしや》であつた。
[#5字下げ]【八四】北條氏と上杉氏[#「【八四】北條氏と上杉氏」は中見出し]
茲《こゝ》に信玄《しんげん》の西上《せいじやう》を、容易《ようい》ならしめたる一は、再《ふたゝ》び北條?氏《ほうでうし》との舊交《きうかう》を恢復《くわいふく》したことである。元來《ぐわんらい》謙信《けんしん》と、氏康父子《うぢやすふし》とは、其《そ》の利害《りがい》兩立《りやうりつ》せぬ。北條氏《ほうでうし》は關東《くわんとう》一|圓《ゑん》を確實《かくじつ》に我《わ》が所領《しよりやう》にするが、早雲以來《さううんいらい》の世襲的《せしふてき》政策《せいさく》ぢや。謙信《けんしん》は上杉憲政《うへすぎのりまさ》の相續者《さうぞくしや》として、自《みづか》ら關東《くわんとう》の管領《くわんれい》を以《もつ》て任《にん》じて居《を》る。乃《すなは》ち關東《くわんとう》は彼等《かれら》の爭地《さうち》だ。?
北條氏《ほうでうし》より壓迫《あつぱく》せられたる、關東《くわんとう》の舊大名《きうだいみやう》は、謙信《けんしん》を驩迎《くわんげい》した。謙信《けんしん》に不服《ふふく》なる者《もの》は、又《ま》た北條氏《ほうでうし》に歸復《きふく》した。中《なか》には太田道灌《おほただうくわん》の曾孫《そうそん》、資正入道《すけまさにふだう》三|樂《らく》の如《ごと》き策士《さくし》ありて、謙信《けんしん》も聊《いさゝ》か、彼等《かれら》に翻弄《ほんろう》せられたる傾《かたむ》きがないでもない。謙信《けんしん》が?風《へうふう》の如《ごと》く、越後《ゑちご》より關東《くわんとう》へ入《い》れば、關東《くわんとう》の大小名《だいせうみやう》は、乍《たちま》ち彼《かれ》の馬蹄《ばてい》の下《もと》に?伏《せふふく》するも、一たび其《その》影《かげ》が見?えねば、復《ま》た乍《たちま》ち離反《りはん》の色《いろ》を現《あら》はした。要《えう》するに謙信《けんしん》の關東《くわんとう》經略《けいりやく》は、軍陣《ぐんぢん》の手柄《てがら》多《おほ》き割合《わりあひ》に、具體的《ぐたいてき》實入《みいり》は輕少《けいせう》であつた。而《しか》して北條氏《ほうでうし》の方《はう》は、寧《むし》ろその反對《はんたい》ぢや、?
北條氏康《ほうでううぢやす》は、非常《ひじやう》なる豪傑《がうけつ》とは云《い》へぬが、率《そつ》のない、正味《しやうみ》の多《おほ》き大將《たいしやう》であつた。信玄《しんげん》が武田《たけだ》、今川《いまがは》、北條《ほうでう》の三|家《け》同盟《どうめい》を破壞《はくわい》し、永祿《えいろく》十一|年《ねん》、今川氏眞《いまがはうぢざね》を駿河《するが》に攻《せ》めて以來《いらい》、氏康《うぢやす》が、その對策《たいさく》として、謙信《けんしん》と提携《ていけい》せんとしたるは、當然《たうぜん》の措置《そち》ぢや。謙信《けんしん》も亦《ま》た此《こ》の機會《きくわい》に、有利《いうり》なる條件《でうけん》の下《もと》に、北條氏《ほうでうし》と結《むす》ぶは、決《けつ》して不得策《ふとくさく》ではなかつた。然《しか》るに謙信《けんしん》の擧動《きよどう》は、兎角《とかく》煮《に》え切《き》らなかつた。彼《かれ》は種種?《しゆじゆ》の註文《ちうもん》をしたが、役《やく》に立《た》つ程《ほど》の策應《さくおう》を與《あた》へなかつた。詰《つ》まる所《ところ》は、北條氏《ほうでうし》は唯《た》だ謙信《けんしん》の攻撃《こうげき》を、自《みづか》ら免《まぬか》れた計《ばか》りで、謙信《けんしん》と與《とも》に、信玄《しんげん》を挾撃《けふげき》せんとする根本政策《こんぽんせいさく》には、別段《べ?つだん》の實効《じつかう》を見《み》なかつた。氏康《うぢやす》も氏政《うぢまさ》も、全《まつた》く謙信《けんしん》には失望《しつばう》した。
併《しか》し氏康《うぢやす》は苦勞人《くらうにん》ぢや、彼《かれ》は練達《れんたつ》の士《し》ぢや。彼《かれ》は十六|歳《さい》より陣頭《ぢんとう》に立《た》ち、一|生《しやう》の間《あひだ》に、勝軍《かちいくさ》三十六|度《ど》。就中《なかんづく》廿四|歳《さい》の時《とき》、川越《かはごゑ》の夜戰《やせん》に寡兵《くわへい》を以《もつ》て、兩上杉氏《りやううへすぎし》を破《やぶ》り、自《みづ》から強敵《がうてき》三十|餘騎《よき》を斬《き》つて、武名《ぶめい》を天下《てんか》に轟《とゞろか》した。彼《かれ》の身體《しんたい》には、槍刀《さうたう》の瘢《あと》七|箇所《かしよ》、其《そ》の頬?先《ほゝさき》には、太刀瘢《たちあと》一|箇所《かしよ》あつた。此《こ》れが爲《た》め世間《せけん》一|般《ぱん》に、武士《ぶし》の面《おもて》の疵《きず》を、氏康疵《うぢやすきず》と云《い》ひ習《なら》はすに至《いた》つた。彼《かれ》も其《その》志《こゝろざし》天下《てんか》に存《そん》せぬでは無《な》かつた。將軍《しやうぐん》近侍《きんじ》の、京都《きやうと》より來《きた》れる諸士《しよし》を寄寓《きぐう》せしめ、室町家《むろまちけ》の事《こと》も詮議《せんぎ》して居《ゐ》た。彼《かれ》が武器《ぶき》を精撰《せいせん》して、鐵砲鍛冶《てん?ぱうかぢ》を、堺《さかひ》より呼《よ》び下《く》だし。又《ま》た永樂錢以外《えいらくせんいぐわい》、鐚錢《びたせん》の通用《つうよう》を領内《りやうない》に禁止《きんし》し。或《あるひ》は東鑑《あづまかゞみ》を讀《よ》んで、鎌倉政治《かまくらせいぢ》の要綱《えうかう》を緯《たづ》ね。或《あるひ》は和歌《わか》を詠《えい》じて、雅壞《がくわい》を叙《じよ》したるを見《み》れば、決《けつ》して一|本調子《ぽんてうし》の田舍漢《でんしやかん》ではなかつた。けれども彼《かれ》は日暮《ひく》れて、道《みち》遠《とほ》き感《かん》があつた。關東《くわんとう》の形勢《けいせい》は、彼《かれ》をして心《こゝろ》を安《やす》んじて、起《た》つ可《べ》き機會《きくわい》を與《あた》へなかつた。
信玄《しんげん》にせよ、謙信《けんしん》にせよ、敵《てき》とすれば、何《いづ》れも勁敵《けいてき》であつた。彼《かれ》は謙信《けんしん》からも、信玄《しんげん》からも、小田原《をだはら》に薄《せま》られた。然《しか》も城門《じやうもん》を閉《と》ぢて、一|兵《ぺい》を出《い》ださず、却《かへつ》て彼等《かれら》をして、暖?簾《のれん》に腕押《うでおし》の感《かん》あらしめた。彼《かれ》は利害《りがい》の計較《けいかく》にも、周密《しうみつ》であり、又《ま》た政策《せいさく》の擧行《きよかう》にも、沈著《ちんちやく》であつた。されば彼《かれ》の存生中《ぞんしやうちう》には、一|度《たび》握《にぎ》りかけたる謙信《けんしん》の手《て》は、容易《ようい》に離《はな》さなかつた。
謙信《けんしん》が、其《そ》の提携《ていけい》に就《つい》て、申《まを》し入《い》れた條件《でうけん》の一は、氏政《うぢまさ》の子《こ》を養子《やうし》とする事《こと》であつた。養子《やうし》と云《い》ふも、實《じつ》は人質《ひとじち》である。然《しか》るに元龜《げんき》元年《ぐわんねん》三|月《ぐわつ》、氏政《うぢまさ》は更《さ》ら?に其《そ》の弟《おとうと》氏秀《うぢひで》を以《もつ》て、之《これ》に充《あ》つることゝした。四|月《ぐわつ》謙信《けんしん》と沼田城《ぬまたじやう》に相見《あひみ》、父子《ふし》の禮《れい》を行《おこな》ひ、伴《ともな》うて春日城《かすがじやう》に還《かへ》つた。而《しか》して其《そ》の幼字《えうじ》を與《あた》へて、景虎《かげとら》と稱《しよう》せしめた。此《こ》れより上杉《うへすぎ》、北條《ほうでう》の交情《かうじやう》は、愈《いよい》よ親密《しんみつ》に赴《おもむ》く可《べ》きであるが、事實《じじつ》はその通《とほり》には參《まゐ》らなかつた。それは相變《あひかは》らず、謙信《けんしん》が煮《に》え切《き》らなかつたからだ。
信玄《しんげん》は里見義弘《さとみよしひろ》を使嗾《しそう》して、伊豆《いづ》を侵《をか》さしめた、氏政《うぢまさ》は謙信《けんしん》の救《すくひ》を請《こ》うた。やがて信玄《しんげん》亦《ま》た兵《へい》を伊豆《いづ》に出《いだ》した。氏政《うぢまさ》は再《ふたゝ》び救《すくひ》を謙信《けんしん》に請《こ》うた。謙信《けんしん》は又《ま》たしも條件《でうけん》を持《も》ち出《だ》した。此《これ》が元龜《げんき》元年《ぐわんねん》八|月《ぐわつ》であつた。『豆州《づしう》に信玄張[#レ]陣《しんげんぢんをはり》、無[#二]手透[#一]候間《てすきなくさふらふあひだ》、申談《まをしだんじ》などとて送[#二]數日[#一]候者《すうじつをおくりさふらはゞ》、其内《そのうち》に豆州《づしう》黒土《こくど》に成《なり》、無[#二]所詮[#一]候間《しよせんなくさふらふあひだ》、成間數?由《なるまじきよし》、被[#二]仰拂[#一]候《おほせはらはれさふらふ》。』此《こ》れは謙信《けんしん》の條件《でうけん》に對《たい》する、氏政《うぢまさ》の返事《へんじ》を、謙信《けんしん》の特使《とくし》より、謙信方《けんしんがた》へ報告《はうこく》したる手紙《てがみ》の一|節《せつ》ぢや。氏政《うぢまさ》滿腔不平《まんこうふへい》の口吻《こうふん》は、描出《べうしゆつ》して以《もつ》て掬取《きくしゆ》するに足《た》る。
氏政《うぢまさ》は其《その》父《ちゝ》氏康《うぢやす》に比《ひ》すれば、苦勞《くらう》せぬ大將《たいしやう》であるから、謙信《けんしん》の煮《に》え切《き》らぬ態度《たいど》には、強腹《がうはら》であつた。彼《かれ》は永祿《えいろく》十二|年《ねん》八|月《ぐわつ》には、謙信《けんしん》が、北條氏《ほうでうし》をして管領職《くわんれいしよく》を承認?《しようにん》せしめ、上野《かうづけ》一|圓《ゑん》、武州岩槻《ぶしういはつき》をも割讓《かつじやう》したるに拘《かゝは》らず、尚《な》ほ彼是《かれこれ》難題《なんだい》を申込《まをしこ》み、援?兵《ゑんぺい》を出《いだ》さぬとて、寧《むし》ろ上野《かうづけ》を擧《あ》げて、由良成繁《ゆらなりしげ》に與《あた》へんと、成繁《なりしげ》に書《しよ》を送《おく》つた程《ほど》であつた。但《た》だ氏康《うぢやす》の、此間《このかん》に彌縫《びほう》した爲《た》めに、先《ま》づ北條《ほうでう》、上杉《うへすぎ》の關係《くわんけい》は繋《つな》がれたのであつた。然《しか》るに氏康《うぢやす》は、謙信《けんしん》が元龜《げんき》元年《ぐわんねん》八|月《ぐわつ》、特使《とくし》を北條氏《ほうでうし》に派《は》した際《さい》は、既《すで》に不起《ふき》の病牀《びやうしやう》に在《あ》つた。『食物《しよくもつ》も飯《めし》と粥《かゆ》を一|度《ど》に、もろい候《さふら》へば、喰度物《くひたきもの》に指計《ゆびばか》り御差《おんさ》し候《さふらふ》。一|向《かう》に御舌内叶《おんしたうちかな》ひ申《まを》さず候《さふらふ》』とは、是亦《これま》た前掲《ぜんけい》の手紙《てがみ》の一|節《せつ》ぢや。氏康《うぢやす》は全《まつた》く中風《ちうふう》に罹《かゝつ》たのぢや。彼《かれ》は元龜《げんき》元年《ぐわんねん》十|月《ぐわつ》三|日《か》、五十六|歳《さい》にて逝《ゆ》いた。而《しか》して彼《かれ》の死《し》は、忽《たちま》ち信玄《しんげん》の乘《じよう》ずる所《ところ》となり、北條氏《ほうでうし》をして、上杉氏《うへすぎし》と絶《た》ち、更《さ》らに武田氏《たけだし》と結《むす》ばしめた。此《こ》れは信玄《しんげん》の外交術《ぐわいかうじゆつ》の巧《かう》と云《い》ふ可《べ》き乎《か》、謙信《けんしん》の外交術《ぐわいかうじゆつ》の拙《せつ》と云《い》ふ可《べ》き乎《か》。何《いづ》れにしても關東《くわんとう》、東海《とうかい》に於《お》ける局面《きよくめん》は一|變《ぺん》した。
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[#6字下げ]北條氏康智仁勇の徳有事[#「北條氏康智仁勇の徳有事」は1段階小さな文字]
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其比氏康輝虎信玄三人の大將は、生れ性けなげに有し猛強の大將たり。然共弓矢の取樣は各別也、輝虎は合戰の度毎に鑓を取つて眞先にすゝみ、郎從等跡につゞけと下知し、物見をもわれとせられたり、これ小勇のふるまひ大將には不覺のはたらきなり、信玄は強威に着するゆへ、戰場に向てはみかたのつよみ計を郎從等に下知し、敵のてだてをはからず、無理につよく運に乘じて片意地に弓矢を取給ひぬ、此兩將はをこりをむねとし、武威を外にあらはし、前をおもひて後のかへりみなく、血氣の勇者のふるまひ專一也、氏康智仁勇の徳有て、兩將弓矢のかたきを兼て計知て、敵をこれ共さわがす、武略を内におさめて、人の國を切てとらんと智謀あるゆへ、はたして關八州を永久に治め給ひたり、其上戰に臨みては自身鑓を取太刀討し、故に身に數ヶ所の太刀疵有て猛大將の譽あり、此三將國を爭ひいどみたゝかふといへ共、信玄輝虎は強威にまかせ、雅意に有て政道みだりがはしき故民ふくせず、氏康は慈悲を專とし、民をなづる徳有て諸人おもひよる、文武智謀兼て備はりし達人にて、敵をあなどる事なかれと兼て士卒をいさめ、無事なる時諸國さかひ目の城々に人數をこめをき、敵俄にきほひ來るといへ共あへてもておどろかず、果して萬人に勝事をはかる大勇也、上武信の逆臣の侍共一度は輝虎信玄に屬すといへ共、以後かれら悔悲しみ降參す、氏康先非をたゞさずゆるさるゝ、此恩を感じ歸降の諸侍二心なくひとへに命をすて忠をいたさむとす、むかし大國に大王有、武勇の臣下おほし、其中にちやうしと云臣下をめして仰けるは、ちんが倉に七珍萬寶一ッとして不足なる事はなし、然らばならびの國の市にたからを賣よし聞、汝ゆきてわが倉になからん寶を買取て來るべしとて、おほくのたからを持せつかはさる、ちやうし彼市にゆきて見るに、一ッとしてもれたる物なし、され共王宮に善根なし、是を買とらんと彼國の貧人を集てたからをこと/″\くほどこし、手をむなしくして歸りぬ、大王買取所の珍寶を見んとのたまふ、ちやうし答て御寶藏の外の珍寶一ッもなし、然共王宮に善根なかりしかば、彼國の貧人をあつめて持所のたからをとらせ善根を買取よしを申、大王不思議におぼし召けれ共、賢人のはからひあしからじと過し給ふ、其比國のえびすおこり大王合戰負ならびの國ににげ給ふ、其時千人の臣下君恩を捨て皆にげ失ぬ、王一人に成てすでに自害せんとし給ふ時ちやうしが云、しばらく待給へ此國の市にて買置し善根此度尋て見むとて行、其寶をえたりし貧人の中にしはうといふ武勇の者、善根の心ざしを感じておほくの兵をかたらひ、此王のために城郭をこしらへ引こめ奉りぬ、はたして運をひらき二度國へ歸り給ふ事、これ偏にちやうしが買おきたる善根の故なりと國王かんじ給ふ、一人當千といふ事此時よりはじまれり、其時もとにげ失し千人の臣下又出てつかへんといふ、大王いはく又事出來なばにげべし別臣をつかふべしとのたまふ、ちやうしが云別臣は心しり難し、たゞもとのにげ失し舊臣を召仕給へ、二たびの恩を忘れんやと云、大王ことわりを聞召てもとの臣下を尋出しこと/″\く召つかふ、時に又國大きに亂おこつて大宮をかたぶく時、かの臣二度の恩をはぢて身命を輕じふせぎたゝかふ、されば勝事を千里の外にえ、位を永久に治め給ふ、氏康のはかりごとも又是におなじ、故に年をおひ他國をしたがへ、武藏下總上總下野常陸八ヶ國を治め、信濃するがの國のかたはしを切て取、近國の逆徒を討たひらげ、其うへ京都へせめ上り天下に旗をあげんと其いきほひのいかめしかりしが、氏康元龜元年庚午十月三日病死也。〔北條五代記〕
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[#6字下げ]謙信の特使大石芳綱の山吉豐守に贈?れる書状[#「謙信の特使大石芳綱の山吉豐守に贈?れる書状」は1段階小さな文字]〔本文對照〕[#「〔本文對照〕」は2段階小さな文字]
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今十日、小田原へ罷著候。則御状共可[#二]差出[#一]處に、從[#二]中途[#一]如[#二]申上候[#一]、遠左は親子四人韮山に在城。新太郎殿は御座候間、別に御奏者にては御状目渡申間敷由申上候。新太郎殿當地へ御越者十二日迄御待申候。氏邦、山形四郎左衞門尉、岩本太郎左衞門以[#二]三人を[#一]御状御請取候て、翌日被[#レ]成[#二]御返事[#一]候。互に半途まで御一騎にて御出、以[#二]御家老衆[#一]御同陣日限被[#二]相定[#一]歟、又は半途へ御出如何に候間、新太郎殿に松田成共一人も二人被[#二]相添[#一]利根川端迄御出候て、御申談候へと申候へ共、豆州に信玄張陣、無[#二]手透[#一]候間申談などゝて送[#二]數日[#一]候者、其内に豆州黒土に成、無[#二]所詮[#一]候間、成間敷由、被[#二]仰拂[#一]候。去又有[#二]御越山[#一]厩?橋へ被[#レ]納[#二]御馬[#一]間、御兄弟衆一人倉内え?御越候へ由、是も樣※[#二の字点、1-2-22]申候。若なかく證人とも又きかん(疑感)申やうに思召候者、輝虎十廿のゆひよりも、血を出し候て、三郎殿へ爲[#レ]見可[#レ]申由、山孫申候と、色々申候へ共、是も一ゑんに無[#二]御納得[#一]候。餘無[#二]了簡[#一]候間、去は左衞門太夫方の御子を兩人に一人、倉内へ御越候て、松田子成共御越候へと申候へども、是も無[#二]納得[#一]候 ?御越山に候者家老の者共子兄弟二人も三人も御陣下へ進置、又そなたよりも、御家老家の子一人 ?二人も申請、瀧川歟鉢形に可[#二]差置[#一]由、公事むきに被[#レ]仰候。御本城は煩能分歟にて、御子達をもしか/\と見知無[#二]御申[#一]候由、批判申候。くい(食)物もめしとかゆを一度にもろい候へば、くいたき物にゆひはかり(指計)御さし候由申候。一向に御せつかない(御舌叶)申さず候間、何事も御大途事など無[#二]御存知[#一]候由候。少し御本生候者、今度之御事は一途可[#レ]有[#二]御異見[#一]候歟、一向無[#二]正體[#一]御度候間、無[#二]是非[#一]由、各々批判申候。殊遠左 ?不[#レ]被[#レ]踞候、笑止に存候。某事は爰元に滯留一向無用之儀に候へ共、須田を先歸し申、某事は御一左右次第小田原に踞候へ由、御諚候間滯留申候。別に無[#二]御用[#一]候者、可[#二]罷歸[#一]由自[#二]氏政[#一]も被[#レ]仰へ候へ共、御一左右間は可[#レ]奉[#レ]期候。爰元之樣、須田被[#二]召出[#一]能※[#二の字点、1-2-22]御尋尤に奉[#レ]存候。無[#二]正體[#一]爲體に御座候。信玄は伊豆のきせ(木瀬)川と申所に被[#二]陣取[#一]、日々韮山を越しつめ、作をはき被申よし候。已前箱根をやふり、男女出家まできりすて申候間、彌々爰元御折角の爲體に候。某事可[#二]罷歸[#一]由、御諚候者、兄に候小二郎に被[#二]仰付[#一]候而、留守に置申候者なり共、早く御越可[#二]被下[#一]候。去又篠窪儀をば、新太郎殿へ直に申分候。是は一向あしらひ無[#レ]之候。自[#二]遠左[#一]之切紙二通、爲[#二]御披見[#一]差越申候。於[#二]子細[#一]者、須田可[#二]申分[#一]候。恐々謹言。
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追啓重而御用候者、須彌を可[#レ]有[#二]御越[#一]候哉。返※[#二の字点、1-2-22]某事は爰元に致[#二]滯留[#一]所詮無[#二]御座[#一]候間、罷歸候樣御申成、畢竟御前に候、御本城之御樣子、よく/\無體と可[#レ]被[#二]思召[#一]候。今度豆州へ信玄被[#レ]動候事、無[#二]御存知[#一]候由、批判申候。以上。
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[#地から3字上げ]八月十三日 大 石 總 介
[#地から3字上げ]山 孫 芳 綱
[#地から2字上げ]參人々御中 〔上杉古文書〕
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[#5字下げ]【八五】信玄の外交術(一)[#「【八五】信玄の外交術(一)」は中見出し]
講和《かうわ》は北條氏《ほうでうし》より求《もと》めたる乎《か》、武田氏?《たけだし》より求《もと》めたる乎《か》。何《いづ》れにしても氏康《うぢやす》死後《しご》の北條氏《ほうでうし》は、確《たしか?》かに列強《れつきやう》交渉《かうせふ》の位置《ゐち》に於《おい》て、一|格《かく》を下《くだ》つた。乃《すなは》ち武田氏《たけだし》は主《しゆ》で、北條氏《ほうでうし》は從《じう》であつた。而《しか》して其《そ》の成立《せいりつ》は、元龜《げんき》二|年《ねん》の末《すゑ》であつた。『北條左京大夫氏政《ほうでうさきやうたいふうぢまさ》、家督《かとく》を繼《つい》で、當年《たうねん》卅三|歳《さい》、父氏康《ちゝうぢやす》に別《わか》れ、心細《こゝろぼそ》くや思《おも》ひけん、小宰相《こさいしやう》と云《いふ》女房《にようばう》へ便《たよ》り、此後《このご》信玄《しんげん》と、和睦《わぼく》入魂《じゆつこん》の※[#「こと」の合字、439-6]を種《しゆ》々?かたはる。』〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は2段階小さな文字]とあるが、其實《そのじつ》は信玄《しんげん》が、氏政《うぢまさ》を誘《いざな》うたのであらう。
氏政《うぢまさ》の胸中《きようちう》には、信玄《しんげん》は惡辣《あくらつ》の漢《をのこ》ではあるが、約束《やくそく》は當《あ》てになる。應援《おうゑん》すると云《い》へば、屹度《きつと》應援《おうゑん》する。曾《かつ》ては松山陣《まつやまぢん》に際《さい》して、自《みづ》から兵《へい》を提《ひつさ》げて來會《らいくわい》したではない乎《か》。謙信《けんしん》は氣前《きまへ》の好《よ》き漢《をのこ》ではあるが、いざとなれば、文句《もんく》を並《なら》べて、一|向《かう》に當《あ》てにならぬ。信玄《しんげん》が伊豆《いづ》に亂入《らんにふ》の際《さい》にも、此方《こなた》よりの懇請《こんせい》にも拘《かゝは》らず、却《かへつ》て此方《こちら》に向《むかつ》て、上野迄《かうづけまで》來會《らいくわい》せよ、然《しか》らば共《とも》に甲州《かふしう》に討入《うちい》らん抔《など》と云《い》うて、遂《つひ》に一|兵《ぺい》も出《いだ》さなかつた。されば寧《むし》ろ信玄《しんげん》と舊盟《きうめい》を温《あたゝ》め、安房《あは》、上總《かづさ》の里見《さとみ》を征《せい》し、常陸《ひたち》の佐竹《さたけ》に當《あた》り、關東《くわんとう》の占領《せんりやう》を確實《かくじつ》にするが得策《とくさく》であらう。况《いは》んや信玄《しんげん》は、上野《かうづけ》の西部丈《せいぶだけ》を取《と》りて、其他《そのた》には野心《やしん》がない。謙信《けんしん》の上野《かうづけ》一|圓《ゑん》、武州《ぶしう》岩槻迄《いはつき?まで》もと、※[#「厭/(餮−殄)」、第4水準2-92-73]《あく》なき要求《えうきう》に比《ひ》すれば、良《まこと》に有利《いうり》な條件《でうけん》ではない乎《か》
要《えう》するに氏政《うぢまさ》の心事《しんじ》、概《がい》して此《かく》の如《ごと》しと思《おも》はる。
併《しか》し謙信《けんしん》が煮《に》え切《き》らぬのも、越相《えつさう》の利害《りがい》の一|致《ち》が、本來《ほんらい》緊切《きんせつ》でなかつたからだ。必《かなら》ずしも謙信《けんしん》の不信《ふしん》を、咎《とが》むるに及《およ》ばぬ。但《た》だ甲相《かふさう》の舊交《きうかう》恢復《くわいふく》は、寧《むし》ろ自然《しぜん》の勢《いきほひ》で、拔目《ぬけめ》なき信玄《しんげん》は、此《この》勢《いきほひ》を利用《りよう》したのに過《す》ぎぬ。
元龜《げんき》三|年《ねん》の正月《しやうぐわつ》には、氏政《うぢまさ》の弟《おとうと》氏忠《うぢたゞ》、氏堯《うぢたか》、人質《ひとじち》として甲府《かふふ》に赴《おもむ》き、愈《いよい》よ甲相《かふさう》の攻守同盟《こうしゆどうめい》は成立《せいりつ》した。餘《あま》りに北條氏《ほうでうし》の同盟《どうめい》を難有《ありがた》くは思《おも》はなかつた謙信《けんしん》も、事《こと》の此《こゝ》に至《いた》るを見《み》ては、憤慨《ふんがい》もし、困却《こんきやく》もした。而《しか》して彼《かれ》は、自《みづ》から信玄《しんげん》に修交《しうかう》を申込《まをしこ》んだ。けれども謙信《けんしん》は、信玄《しんげん》の競爭者《きやうさうしや》ぢや、單《たん》に地方的《ちはうてき》舞臺《ぶたい》のみでなく、天下《てんか》の大舞臺《だいぶたい》に於《お》ける競爭者《きやうさうしや》ぢや。信玄《しんげん》が今更《いまさ》ら之《これ》に應諾《おうだく》するは、却《かへつ》て謙信《けんしん》の志《こゝろざし》を幇《たす》くる所以《ゆゑん》で、其《そ》の志《こゝろざし》を幇《たす》くるは、我《わ》が目的《もくてき》を妨《さまた》ぐる所以《ゆゑん》ぢや。其《そ》の消息《せうそく》は、彼《かれ》が信長《のぶなが》の祐筆《いうひつ》武井夕菴《たけゐせきあん》に與《あた》へたる書中《しよちう》に分明《ぶんめい》ぢや。
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依[#二]遼遠之堺[#一]《れうゑんのさかひにより》、無音意外候《ぶいんいぐわいにさふらふ》。如露先書候《じよろせんしよさふらふ》。甲相存外遂[#二]和睦[#一]候《かふさうぞんぐわいわぼくをとげさふらふ》、就[#レ]之例式從三遠兩州可[#レ]有[#二]虚説[#一]歟《これにつきれいしきによりゑんりやうしうきよせつあるべきか》。縱扶桑國過半屬[#二]手裏?[#一]候共《よしふさうこくのくわはんしゆりにぞくしさふらふとも》、以[#二]何之宿意[#一]信長《なんのしゆくいをもつてのぶなが》へ可[#レ]存[#二]疎意[#一]候哉《そいをぞんずべくさふらふや》。被[#レ]勘[#二]辨佞者之讒言[#一]《ねいしやのざんげんをかんべんせられ》、無[#二]油斷[#一]信用候樣《ゆだんなくしんようさふらふやう》、取成可[#レ]爲[#二]祝著[#一]候《とりなししうちやくたるべくさふらふ》。仍近日者輝虎甲相越三國之和睦《なほきんじつはてるとらかふさうゑつごくのわぼく》、專悃望候《もつぱらこんまうにさふらふ》。雖[#レ]然存旨候間《しかりといへどもぞんずるむねさふらふあひだ》、不[#レ]致[#二]許容[#一]候《きよよういたさずさふらふ》。委曲市川十郎左衞門尉可[#レ]申候《ゐきよくいちかはろざゑもんのじやうまをすべくさふらふ》。恐々謹言《きよう/\きんげん》。
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[#地から1字上げ]正月廿八日(元龜三年)[#「(元龜三年)」は2段階小さな文字] 信玄
[#4字下げ]夕 菴
流石《さすが》に老狸《らうり》ぢや。彼《かれ》北條氏《ほうでうし》との提携《ていけい》に就《つい》て、定《さだ》めて家康《いへやす》より不利益《ふりえき》なる報告《はうこく》を、信長《のぶなが》に致《いた》すことを豫測《よそく》し、其《そ》の防禦線《ばうぎよせん》を張《は》つたのだ。而《しか》して信長《のぶなが》に向《むかつ》て、決《けつ》して從來《じうらい》の好意《かうい》を失《うしな?》はぬことを保障《ほしやう》し、飽迄《あくまで》信長《のぶなが》に安心《あんしん》せしめ、油斷《ゆだん》せしめんと企《くはだ》てたのである。彼《かれ》は家康《いへやす》と、信長《のぶなが》とを、同時《どうじ》に敵《てき》に取《と》ることを欲《ほつ》せず、出來得可《できうべく》んば、家康《いへやす》を退治《たいぢ》し去《さ》る迄《まで》は、甘言《かんげん》もて信長《のぶなが》の手足《てあし》を、縛《しば》つて居《ゐ》たいと考《かんが》へた。果《はた》して然《しか》らば其術《そのじゆつ》も亦《ま》た、巧妙《こうめう》と云《い》はねばならぬ。
信玄《しんげん》が謙信《けんしん》に對《たい》して、如何《いか》なる口實《こうじつ》を以《もつ》て、之《これ》を謝絶《しやぜつ》せし乎《か》は、分明《ぶんみやう》でない。併《しか》し同年《どうねん》の秋《あき》、信長《のぶなが》が將軍義昭《しやうぐんよしあき》の意《い》を承《う》けて、甲越《かふゑつ》の和睦《わぼく》を勸説《くわんぜい》したるに對《たい》し、信玄《しんげん》が拒絶《きよぜつ》の口實《こうじつ》は、左《さ》の如《ごと》くであつた。
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信長以[#二]取曖[#一]越甲一和意見之處《のぶながとりあつかひをもつてゑつかふわいけんのところ》、信玄如何分別候哉《しんげんいかにふんべつさふらふや》。朝倉義景於[#二]取刷[#一]者《あさくらよしかげとりさばくにおいては》、越甲無事《ゑつかふぶじに》、可[#レ]爲[#二]落著[#一]候《らくちやくなすべくさふらふ》。織田信長至[#二]于取刷[#一]者《おだのぶながとりさばくにいたつては》、爲[#二]同心[#一]間敷由候《どうしんたるまじきよしにさふらふ》。(天正《てんしやう》元年《ぐわんねん》三|月《ぐわつ》五|日《か》謙信《けんしん》より修驗者遊息菴《しゆけんじやいうそくあん》へ與《あた》へたる書簡《しよかん》)
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而《しか》して信玄《しんげん》は却《かへつ》て賀?賀《かが》、越中《ゑつちう》、能登《のと》の一|向門徒《かうもんと》、及《およ》び椎名《しゐな》、神保等《じんぼうら》の土豪《どがう》をして、謙信《けんしん》の進路《しんろ》を遮斷《しやだん》せしめんとした。
且《か》つ信玄《しんげん》は、年來《ねんらい》北條氏《ほうでうし》の背後《はいご》なる里見《さとみ》、及《およ》び佐竹氏《さたけし》に結《むす》び居《ゐ》たれば、萬《まん》一|北條氏《ほうでうし》に於《おい》て、反覆《はんぷく》するが如《ごと》きことあるも、其《そ》の背後《はいご》を牽制《けんせい》するに足《た》るの準備《じゆんび》は、既《すで》にあつたであらう。當今《たうこん》の言葉《ことば》で云《い》へば、所謂《いはゆ》る彼《かれ》は同盟《どうめい》の再保險《さいほけん》を爲《な》して居《ゐ》たのである。
[#5字下げ]【八六】信玄の外交術(二)[#「【八六】信玄の外交術(二)」は中見出し]
信玄《しんげん》は蜘蛛《くも》の如《ごと》く、其《そ》の網《あみ》を八|方《ぱう》に張《は》り廻《まは》した。而《しか》して彼《かれ》と、義昭《よしあき》との關係《くわんけい》は、?《いづ》れが主動者《しゆどうしや》であり、?《いづ》れが受動者《じゆどうしや》である乎《か》、一寸《ちよつと》見分《みわ》けが附《つ》かぬ程《ほど》、入《い》り組《く》んで居《を》る。信玄《しんげん》は元龜《げんき》元年《ぐわんねん》四|月《ぐわつ》に於《おい》て、將軍義昭《しやうぐんよしあき》に、京著《きやうちやく》一|萬匹《まんびき》の御料《ごれう》を進献《しんけん》し、其《そ》の侍臣《じしん》一|色《しき》式部少輔《しきぶせういう》に、同《おな》じく五千|匹《びき》を與《あた》へた。彼《かれ》が將軍家《しやうぐんけ》、及《およ》び其《そ》の周邊《しうへん》の驩心《くわんしん》を得《う》るに、配慮《はいりよ》したること、以《もつ》て知《し》る可《べ》しだ。而《しか》して義昭《よしあき》も亦《ま》た、松原道友《まつばらだういう》、尼子新左衞門《あまこしんざゑもん》をして、私《ひそ》かに信玄《しんげん》、謙信《けんしん》、氏康《うぢやす》を語《かた》らひ、淺井《あさゐ》、朝倉《あさくら》、及《およ》び山門《さんもん》の大衆《たいしう》と諜《しめ》し合《あは》せ、屡《しばし》ば甲《かふ》、越《ゑつ》、相《さう》へ内書《ないしよ》を達《たつ》した。信玄《しんげん》が義昭《よしあき》、信長《のぶなが》の間《あひだ》を離間《りかん》したと云《い》ふ説《せつ》があるが、義昭《よしあき》が信玄《しんげん》を挑發《てうはつ》したと思《おも》はるゝ節《ふし》もある。要《えう》するに彼等《かれら》はあんち???信長《のぶなが》の一|點《てん》に於《おい》て、其《そ》の利害《りがい》を同《おなじ》うするものであれば、互《たが》ひに擔《かつ》ぎたり、擔《かつ》がれたりしたものと、判斷《はんだん》す可《べ》しだ。
信玄《しんげん》の手《て》は、信長《のぶなが》正面《しやうめん》の敵《てき》たる淺井《あさゐ》、朝倉《あさくら》にも延《の》びた。本願寺《ほんぐわんじ》は、彼《かれ》の縁類《えんるゐ》ぢや、三|條《でう》公頼《きみより》の二|女《ぢよ》は信玄《しんげん》に嫁《か》し、三|女《ぢよ》は顯如《けんによ》に嫁《か》した。云《い》はゞ信玄《しんげん》と、本願寺門跡《ほんぐわんじもんぜき》とは、義兄弟《ぎきやうだい》ぢや。彼《かれ》は此《こ》の關係《くわんけい》を利用《りよう》し、一|方《ぱう》には加《か》、能《のう》、越《ゑつ》の門徒《もんと》を教?唆《けうさ》して、謙信《けんしん》を牽制?《けんせい》せしめ。他方《たはう》には石山本願寺《いしやまほんぐわんじ》をして、信長《のぶなが》に當《あた》らしめた。彼《かれ》は更《さ》らに松永久秀《まつながひさひで》をも誘拐《いうかい》した。久秀《ひさひで》は本來《ほんらい》謀反骨《むほんこつ》の強《がう》張《は》りたる漢《をのこ》である。彼《かれ》は信長《のぶなが》の下《もと》に、猫《ねこ》の如《ごと》く從順《じうじゆん》であるも、何時《いつ》かは其《その》爪《つめ》を出《だ》さずには居《を》らぬ性分《しやうぶん》である。されば彼《かれ》は?《さ》きに密書《みつしよ》を飛《と》ばして、岐阜《ぎふ》より信長《のぶなが》を招《まね》きたる如《ごと》く、今《いま》は信玄《しんげん》の上京《じやうきやう》を促《うな》がした。而《しか》して彼等《かれら》の間《あひだ》には、協商《けふしやう》が成立《せいりつ》した。
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珍札被見快然候《ちんさつひけんくわいぜんにさふらふ》。如[#二]來意[#一]《らいいのごとく》、今度到[#二]遠參發向[#一]《このたびゑんさんはつかうにいたつて》、過半屬[#二]本意[#一]候《くわはんほんいにぞくしさふらふ》、可[#二]御心易[#一]候《おこゝろやすかるべくさふらふ》。抑公方樣被[#レ]對[#二]信長[#一]御遺恨重疊故《そも/\くばうさまのぶながにたいせられごいこんぢうでふゆゑ》、爲[#二]御追伐[#一]《ごつゐはつのため》、被[#レ]立[#二]御色[#一]之由候條《おんいろをたてらるゝのよしにさふらふでう》、此時無二被[#レ]勵[#二]忠功[#一]事肝要候《このときむちうかうをはげまるゝことかんえうにさふらふ》。以[#二]公義御威光[#一]《こうぎのごゐくわうをもつて》、信玄《しんげん》も令[#二]上京[#一]者《じやうきやうせしめられば》、異[#二]于他[#一]可[#二]申談[#一]候《たにことなりまをしだんずべくさふらふ》。仍寒野川弓三十張到來《なほかんのがはゆみはりたうらい》、珍重候《ちんちようにさふらふ》。委曲附[#二]彼口上[#一]之間不[#レ]能[#レ]具候《ゐきよくかれのこうじやうにふするのあひだぐするあたはずさふらふ》。恐々謹言《きよう/\きんげん》。
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[#地から2字上げ]五月十七日(元龜二年)[#「(元龜二年)」は2段階小さな文字] 晴 信(花押)
[#5字下げ]岡 周 防 守 殿
岡《をか》は久秀《ひさひで》の部下《ぶか》である。此《こ》れは岡《をか》が久秀《ひさひで》の意《い》を受《う》けて、與《あた》へたるに對《たい》する返書《へんしよ》ぢや。
此《かく》の如《ごと》く信玄《しんげん》の上京《じやうきやう》の支度《したく》は、殘《のこ》る隈《くま》なく整《とゝの》うた。但《た》だ一|個《こ》の難物《なんぶつ》が、其《その》前《まへ》に横《よこたは》つて居《ゐ》る、それは家康《いへやす》ぢや。彼《かれ》は門前《もんぜん》の轉《ころ》び石《いし》の如《ごと》く、其《そ》の出入《しゆつにふ》の邪魔物《じやまもの》ぢや。縱令《たとひ》手數《てすう》はかゝるも、是非《ぜひ》此《これ》を取《と》つて除《の》けねばならぬ。此《こゝ》に於《おい》て家康《いへやす》との衝突《しようとつ》は、愈《いよい》よ眞劍《しんけん》となつた。
信玄《しんげん》が北條氏《ほうでうし》と戰《たゝか》ふ間《あひだ》は、家康《いへやす》も當分《たうぶん》、信玄《しんげん》に對《たい》する掛念《けねん》は少《すく》なく、却《かへつ》て信長《のぶなが》の援?軍《ゑんぐん》として、自《みづ》から金《かな》ヶ|崎《さき》に戰《たゝか》ひ、姉川《あねがは》に戰《たゝか》うた。然《しか》も信玄《しんげん》が北條氏《ほうでうし》と休戰状態《きうせんじやうたい》に入《い》るや、家康《いへやす》は己《おのれ》に對《たい》する壓迫《あつぱく》を、感《かん》ぜざるを得《え》ない。况《いは》んや其《そ》の甲相提携《かうさうていけい》以後《いご》に於《おい》てをやだ。
然《しか》も家康《いへやす》は、自《みづ》から窮地《きうち》に陷《おちい》りて、晏然《あんぜん》たる間拔漢《まぬけもの》でない。彼《かれ》は謙信《けんしん》に結《むす》んだ。彼《かれ》は元龜《げんき》元年《ぐわんねん》八|月《ぐわつ》、稻葉山權現堂叶坊淨全《いなばやまごんげんだうかなふばうじやうぜん》なる山伏《やまぶし》を、謙信《けんしん》に遣《つか》はし、相互《あひたが》ひに提携《ていけい》して、信玄《しんげん》を挾撃《けふげき》す可《べ》く申込《まをしこ》んだ。此《こ》れは姉川戰役《あねがはせんえき》約《やく》二|個月《かげつ》の後《のち》である。謙信《けんしん》が如何《いか》に欣諾《きんだく》したかは、左《さ》の文面《ぶんめん》で明白《めいはく》ぢや。
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雖[#下]未[#二]申通[#一]候[#上]《いまだまをしつうぜずさふらふといへども》、一|筆令[#レ]啓候《ぴつけいせしめさふらふ》。御使僧?誠大慶不[#レ]過[#レ]之候《ごしそうまことにたいけいこれにすぎずさふらふ》。向後之儀《きやうごのぎ》、無二可[#二]申合[#一]候《むにまをしあはすべくさふらふ》。必竟御取成頼入候《ひつきやうおんとりなしたのみいれさふらふ》。猶委曲可[#レ]有[#二]彼口上[#一]候《なほゐきよくはかれのこうじやうにあるべくさふらふ》。恐々謹言《きよう/\きんげん》。
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[#地から1字上げ]八月廿三日(元龜元年)[#「(元龜元年)」は2段階小さな文字] 輝 虎(花押)
[#5字下げ]松 平 左 近 殿
而《しか》して家康《いへやす》は、同年《どうねん》十|月《ぐわつ》更《さ》らに誓書《せいしよ》を、謙信《けんしん》に送《おく》つた。
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右今度愚拙心腹之通《みぎこのたびぐせつしんぷくのとほり》、以[#二]權現堂[#一]申屆候處《ごんげんだうをもつてまをしとゞけさふらふところ》、御?啄?本望候事《ごさいたくほんもうにさふらふこと》。
一|信玄《しんげん》え手切家康深存詰候間《てぎれいへやすをふかくぞんじつめさふらふあひだ》、少《すこし》も表裏打拔相違之儀《へうりうちぬきさうゐのぎ》、有間敷候事《あるまじくさふらふこと》。
一|信長輝虎御入魂候樣《のぶながてるとらごじゆつこんにさふらふやう》に、涯分可[#レ]令[#二]意見[#一]候《がいぶんいけんせしむべくさふらふ》、甲尾縁談之儀《かふびえんだんのぎ》も、事切之樣《こときれのやう》、可[#レ]令[#二]諷諫[#一]候事《ふうかんせしむべくさふらふこと》。
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[#地から2字上げ]十月八日(元龜元年)[#「(元龜元年)」は2段階小さな文字] 家 康
[#5字下げ]上 椙 殿
是《こ》れ家康《いへやす》が、自《みづ》から謙信《けんしん》に結《むす》ぶのみならず、信長《のぶなが》をして謙信《けんしん》に結《むす》ばしめ、且《か》つ信玄《しんげん》の息女《そくぢよ》を、信長《のぶなが》の子《こ》信忠《のぶたゞ》に貰《もら》ひ受《う》くる婚約《こんやく》を、破毀《はき》せしむ可《べ》く斡旋《あつせん》す可《べ》しとの誓書《せいしよ》ぢや。家康《いへやす》は信玄《しんげん》に對《たい》しては、愈《いよい》よ橋《はし》を斷《た》ち、舟《ふね》を燒《や》いた。但《た》だ信長《のぶなが》の態度《たいど》は、尚《な》ほ頗《すこぶ》る鮮明《せんめい》を缺《か》いだ。
要《えう》するに信玄《しんげん》と、信長《のぶなが》とは、互《たが》ひに瞞著《まんちやく》の競爭《きやうさう》をして居《ゐ》た。世間《せけん》では信長《のぶなが》の信玄《しんげん》を畏《おそ》るゝ虎《とら》の如《ごと》きを知《し》つて居《ゐ》るが、其實《そのじつ》は信玄《しんげん》も亦《ま》た、信長《のぶなが》に對《たい》して、隨分《ずゐぶん》外交的《ぐわいかうてき》言辭《げんじ》を弄《ろう》した。永祿《えいろく》十二|年《ねん》三|月《ぐわつ》、信玄《しんげん》が市川《いちかは》十|郎左衞門《らうざゑもん》に與《あた》へたる書中《しよちう》には、『信玄事《しんげんこと》は、只今馮[#二]信長[#一]之外《たゞいまのぶながによるのほか》、又無[#二]味方[#一]候《またみかたなくさふらふ》。此時聊《このときいさゝか》も於[#二]信長御疎略[#一]者《のぶながにごそりやくにおいては》、信玄滅亡無[#レ]疑候《しんげんめつばううたがひなくさふらふ》、被[#レ]遂[#二]分別[#一]可[#二]申理[#一]候《ふんべつをとげられまをしをさむべくさふらふ》。』とある。此《こ》れは信玄《しんげん》が上杉《うへすぎ》、北條《ほうでう》、今川《いまがは》、徳川《とくがは》(?)の包圍攻撃《はうゐこうげき》を受《う》けつゝあるに際《さい》して、信長《のぶなが》を懷柔《くわいじう》せんとしたのぢや。又《ま》た元龜《げんき》三|年《ねん》正月《しやうぐわつ》、彼《かれ》が武井夕菴《たけゐせきあん》に與《あた》へたる書中《しよちう》には、『縱扶桑國過半屬[#二]手裏[#一]候共《たとひふさうのくにくわはんしゆりにぞくしさふらふとも》、以[#二]何宿意[#一]《なんのしゆくいをもつて》、信長《のぶなが》へ可[#レ]存[#二]疎意[#一]候哉《そいをそんずべくさふらふや》。』とある。此《こ》れは信長《のぶなが》と謙信《けんしん》と結《むす》ばぬ樣《やう》、又《ま》た家康《いへやす》を應援《おうゑん》せぬ樣《やう》、乃《すなは》ち彼《かれ》が西上經營《さいじやうけいえい》の緒《ちよ》に就《つ》くを、妨害《ばうがい》せぬ爲《た》めの氣休文句《きやすめもんく》ぢや。信玄《しんげん》と、信長《のぶなが》との勝負《しようぶ》は、七|分通《ぶどほ》り迄《まで》は、先《ま》づ外交《ぐわいかう》の角力《すまふ》であつた。
[#5字下げ]【八七】信玄公然家康と絶つ[#「【八七】信玄公然家康と絶つ」は中見出し]
信玄《しんげん》と信長《のぶなが》と、互《たが》ひに虚々實々《きよ/\じつ/\》の祕術《ひじゆつ》を竭《つ》くして、飜弄《ほんろう》を競《きそ》ひつゝある間《あひだ》に、局面《きよくめん》は日《ひ》一|日《にち》と切迫《せつぱく》して來《き》た。元龜《げんき》二|年《ねん》以來《いらい》、信玄《しんげん》は北條氏《ほうでうし》に對《たい》する鋒《ほこさき》を轉《てん》じ、其《そ》の二|月《ぐわつ》には、自《みづ》から駿河《するが》なる田中城《たなかじやう》に移《うつ》り、小山《こやま》、相良《さがら》二|城《じやう》を築《きづ》き、三|月《ぐわつ》遠州《ゑんしう》に入《い》り、高天神城《たかてんじんじやう》に小笠原長善《をがさはらながよし》を攻《せ》めた。又《ま》た秋山晴近《あきやまはるちか》をして、東參河《ひがしみかは》を略《りやう》せしめ、菅沼《すがぬま》、奧平等《おくだひらら》を誘《いざな》ひ降《くだ》らしめた。而《しか》して其《そ》の水軍《すゐぐん》は、天龍河口《てんりうかこう》の掛塚《かけづか》を侵《をか》した。四|月《ぐわつ》には土兵《どへい》を煽動《せんどう》して、參河《みかは》に入《い》り、岩津《いはづ》を焚掠《ふんりやく》し、岡崎《をかざき》に逼《せま》らしめた。而《しか》して自《みづ》から其《その》子《こ》勝頼《かつより》と與《とも》に、參河《みかは》の西部《せいぶ》に入《い》り、足助城《あすけじやう》を拔《ぬ》き。又《ま》た東《ひがし》に轉《てん》じて野田城《のだじやう》の支壘《しるゐ》を取《と》り、二|連木《つれぎ》、牛窪《うしくぼ》、長澤《ながさは》を抄掠《せうりやく》した。乃《すなは》ち信玄《しんげん》の力《ちから》は、著々《ちやく/\》として、家康《いへやす》に肉薄《にくはく》して來《き》た。家康《いへやす》も亦《ま》た五|月《ぐわつ》には、駿河《するが》に入《い》り、島田附近《しまだふきん》を放火《はうくわ》して、聊《いさゝ》か報復《はうふく》した。〔日本戰史三方原役〕[#「〔日本戰史三方原役〕」は2段階小さな文字]
信長《のぶなが》は今《いま》や江越《かうえつ》より、京畿《けいき》にかけて、頗《すこぶ》る多事《たじ》である。信長《のぶなが》は鬼《おに》の來《こ》ぬ間《ま》に、洗濯?《せんたく》と出掛《でか》けて居《を》る。然《しか》るに今《いま》や鬼《おに》は、刻々《こく/\》近《ちかづ》き來《きた》りつゝある。彼《かれ》の焦慮《せうりよ》知《し》る可《べ》きぢや。彼《かれ》は其《そ》の七|月《ぐわつ》には、態※[#二の字点、1-2-22]《わざ/\》使者《ししや》を以《もつ》て、家康《いへやす》に濱松《はままつ》より岡崎《をかざき》に移轉《いてん》し、姑《しば》らく信玄《しんげん》の鋭鋒《えいほう》を避《さ》けよと忠告《ちうこく》した。斯《かゝ》る忠告《ちうこく》を聞《き》く家康《いへやす》ではない。彼《かれ》は信長《のぶなが》に、そは他日《たじつ》を竢《ま》つも、未《いま》だ晩《おそ》からざる可《べ》しと答《こた》へた。而《しか》して其《そ》の近臣《きんしん》に向《むかつ》て、我《われ》此《この》城《しろ》を避《さ》くる程《ほど》ならば、刀《かたな》を踏折《ふみをつ》て、武門《ぶもん》を捨?《す》つべしと云《い》うた。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は2段階小さな文字]彼《かれ》は、信玄《しんげん》の如《ごと》き勁敵《けいてき》に對《たい》しては、戰《たゝか》ふの他《ほか》、守《まも》るの手段《しゆだん》なきを熟知《じゆくち》した。信長《のぶなが》は自己《じこ》の背後《はいご》に、事無《ことな》かれと祈《いの》りて、斯《か》く忠告《ちうこく》した。家康《いへやす》は自個《じこ》の當面《たうめん》に、敵《てき》來《きた》れと覺悟《かくご》して、之《これ》を肯《がへん》ぜなかつた。均《ひと》しく同盟《どうめい》でも、相互《さうご》の利害《りがい》の關係《くわんけい》如何《いかん》によりて、其《そ》の所見《しよけん》も、自《おのづ》から相違《さうゐ》せざるを得《え》ぬのぢや。
明《あ》くれば元龜《げんき》三|年《ねん》正月《しやうぐわつ》、家康《いへやす》は大井川《おほゐがは》、金谷《かなや》附近《ふきん》を巡視《じゆんし》した。彼《かれ》は酒井忠次《さかゐたゞつぐ》、小笠原長善《をがさはらながよし》をして、陣《ぢん》を島田河原《しまだがはら》に張《は》らしめた。此《こ》れは信玄《しんげん》に對《たい》する、示威運動《じゐうんどう》であつたらう。然《しか》るに信玄《しんげん》は、家康《いへやす》が謙信《けんしん》との同盟《どうめい》既《すで》に成《な》りて、我《われ》を挾撃《けふげき》する企謀《きぼう》ありと聞《き》き、今《いま》は此迄《これまで》なりと、大《おほ》びらに家康《いへやす》に向《むかつ》て、難題《なんだい》を申《まを》し掛《か》けた。そは豫《かね》て天龍川《てんりうがは》を堺《さかひ》として、東西《とうざい》分領《ぶんりやう》すべしと約束《やくそく》したるに、今更《いまさ》ら大井川《おほゐがは》迄《まで》出張《しゆつちやう》せらるゝは、心得《こゝろえ》難《がた》しとの申分《まをしぶん》であつた。喧嘩《けんくわ》せんとすれば、口實《こうじつ》には事《こと》を缺《か》かぬ。此《かく》の如《ごと》くして永祿《えいろく》十二|年《ねん》以來《いらい》、陰然《いんぜん》たる敵國《てきこく》は、愈《いよい》よ公然《こうぜん》たる敵國《てきこく》となつた。
家康《いへやす》は覺悟《かくご》の前《まへ》ぢや。此《こゝ》に困却《こんきやく》したのは、信長《のぶなが》ぢや。彼《かれ》は家康《いへやす》の強情《がうじやう》男《をとこ》めが、乃公《だいこう》の言《げん》を聞《き》かず、遂《つひ》に乃公《だいこう》をして、腹背《ふくはい》に敵《てき》を受《う》けしむと、大息《たいそく》したであらう。併《しか》し家康《いへやす》は、信長《のぶなが》の信玄《しんげん》に對《たい》する、第《だい》一の、而《しか》して唯《ゆゐ》一の?藩《しようはん》である。彼《かれ》は萬障《ばんしやう》を排《はい》して、之《これ》を支持《しぢ》せねばならぬ。此《こ》れは家康《いへやす》に對《たい》する義理《ぎり》よりも、自個《じこ》に對《たい》する必要條件《ひつえうでうけん》ぢや。然《しか》も信玄《しんげん》と公然《こうぜん》手《て》を切《き》ることは、彼《かれ》の最《もつと》も好《この》まぬ所《ところ》ぢや。流石《さすが》の彼《かれ》も、此際《このさい》は若干《じやくかん》懊惱《あうなう》したであらう。彼《かれ》は信玄《しんげん》に向《むかつ》て、元龜《げんき》二|年《ねん》の末《すゑ》、故《ことさ》らに甲州漆《かふしううるし》を所望《しよまう》した。信玄《しんげん》は青沼忠吉《あをぬまたゞよし》に命《めい》じて、三千|桶《をけ》を贈《おく》らしめた。彼等《かれら》は依然《いぜん》裏《うら》に廻《まは》りて鎬《しのぎ》を削《けづ》りつゝ、表向《おもてむき》は舊交《きうかう》を維持《ゐぢ》して居《ゐ》た。
謙信《けんしん》は家康《いへやす》との約《やく》を踐《ふ》み、元龜《げんき》三|年《ねん》四|月《ぐわつ》、信州《しんしう》長沼《ながぬま》に入《い》つた。家康《いへやす》は之《これ》に策應《さくおう》す可《べ》く、五|月《ぐわつ》東參河《ひがしみかは》に向《むか》ひ、長篠城《ながしのじやう》附近《ひきん》に放火《はうはく》し、岡崎《をかざき》の守備《しゆび》を増《ま》した。其《そ》の八|月《ぐわつ》には、掛塚?港《かけづかみなと》を巡視《じゆんし》し、其《そ》の附近《ふきん》に砦《とりで》を築《きづ》き、武田方《たけだかた》の水軍《すゐぐん》に備《そな》へた。而《しか》して同月中旬《どうげつちうじゆん》、更《さ》らに謙信《けんしん》に向《むかつ》て、植村《うゑむら》與《よ》三|郎《らう》、中川市助《なかがはいちすけ》を使者《ししや》とし、其盟《そのめい》を尋《たづ》ねた。謙信《けんしん》の返事《へんじ》は左《さ》の如《ごと》しだ。
[#ここから1字下げ]
内々其口無[#二]心許[#一]處《ない/\そのくちこゝろもとなきのところ》、從[#二]家康[#一]以[#二]兩使[#一]彌可[#レ]有[#二]入魂[#一]之由承候《いへやすよりりやうしをもつていよ/\じゆつこんあるべきのよしにうけたまはりさふらふ》。依[#レ]之《これにより》無《む》二|無《む》三に可[#二]申談[#一]子細以[#二]誓紙[#一]申合候《まをしだんずべきしさいせいしをもつてまをしあはせさふらふ》、可[#レ]然樣《しかるべきやう》、演説任入迄候《えんぜつまかせいるゝまでにさふらふ》。晝夜有[#二]其口[#一]被[#レ]勵粉骨之條《ちうやそのくちにありてはげまるゝふんこつのでう》、無[#二]比類[#一]候《ひるゐなくさふらふ》。何樣於[#二]當方[#一]弓斷有間敷候《なにさまたうはうにおいてゆだんあるまじくさふらふ》、可[#二]心易[#一]候《こゝろやすかるべくさふらふ》。猶彼可[#レ]有[#二]兩口裏[#一]候《なほかれりやうくちうらあるべくさふらふ》。恐々謹言《きよう/\きんげん》。
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[#地から2字上げ]八月廿日(元龜三年) 謙 信
[#4字下げ]菅沼新八郎殿
謙信《けんしん》家康《いへやす》の關係《くわんけい》は、此《かく》の如《ごと》くであるが、信長《のぶなが》謙信《けんしん》の關係《くわんけい》は奈何《いかん》。
[#5字下げ]【八八】信長と謙信[#「【八八】信長と謙信」は中見出し]
外交《ぐわいかう》にかけては、信長《のぶなが》は天才《てんさい》ぢや。其氣《そのき》は要《かな》めの所《ところ》に附《つ》き、其手《そのて》は痒《かゆ》き所《ところ》に屆《とゞ》いた。大局《たいきよく》の打算《ださん》にも、小局《せうきよく》の措置《そち》にも、殆《お?と》んど水《みづ》も洩《も》れぬ程《ほど》であつた。乃《すなは》ち上杉謙信《うへすぎけんしん》の如《ごと》きも、彼《かれ》の藥籠中《やくろうちう》のものたるを、免《まぬ》かれなかつた。
信長《のぶなが》は、信玄《しんげん》に殷勤《いんぎん》を竭《つく》すが爲《た》めに、其《そ》の對手《あひて》たる謙信《けんしん》を閑却《かんきやく》せなかつた。彼等《かれら》は從來《じうらい》何等《なんら》利害《りがい》の、緊切《きんせつ》なる關係《くわんけい》はなかつた。されど其《そ》の交通《かうつう》は、久《ひさ》しき以前《いぜん》からだ。少《すくな》くとも信長《のぶなが》の、桶狹間後《をけはざまご》以來《いらい》の事《こと》であつたらしい。彼等《かれら》は互《たが》ひに音問《いんもん》を怠《おこた》らなかつた。特《とく》に永祿《えいろく》十一|年《ねん》九|月《ぐわつ》廿一|日《にち》、信長《のぶなが》が書《しよ》を謙信《けんしん》に與《あた》へ、三|日《か》の後《のち》に、義昭《よしあき》を奉《ほう》じて、入京《にふきやう》せんことを報《はう》じたるが如《ごと》きは、彼《かれ》が謙信《けんしん》の自負心《じふしん》を、傷《きずつ》けざらんが爲《た》めに、尤《もつと》も意《い》を致《いた》したものであらう。義昭《よしあき》が入京《にふきやう》して將軍《しやうぐん》となるや、謙信《けんしん》は之《これ》を賀《が》し、又《ま》た書《しよ》を信長《のぶなが》に送《おく》り、其《そ》の功勞《こうらう》を謝《しや》した。彼等《かれら》は政治的《せいぢてき》に、何等《なんら》交渉《かうせふ》はなかつたが、社交上《しやかうじやう》には、極《きは》めて圓滿《ゑんまん》なる關係《くわんけい》を繋《つな》いで居《ゐ》た。
然《しか》るに局面《きよくめん》の變化《へんくわ》は、信長《のぶなが》と、謙信《けんしん》とをして、政治的《せいぢてき》に握手《あくしゆ》せしむるの必要《ひつえう》に迫《せま》らしめた。それは信玄《しんげん》の態度《たいど》である。信玄《しんげん》が家康《いへやす》を壓迫《あつぱく》する以上《いじやう》は、家康《いへやす》は謙信《けんしん》と結《むす》ばねばならぬ。而《しか》して信長《のぶなが》と、家康《いへやす》とは、唯《ゆゐ》一|無《む》二の同盟國《どうめいこく》である。乃《すなは》ち家康《いへやす》の敵《てき》は、信長《のぶなが》の敵《てき》である如《ごと》く、家康《いへやす》の味方《みかた》は、信長《のぶなが》の味方《みかた》であらねばならぬ。况《いは》んや家康《いへやす》の敵《てき》たる信玄《しんげん》は、其實《そのじつ》信長《のぶなが》の大敵《たいてき》であり、強敵《がうてき》であるに於《おい》てをやだ。信長《のぶなが》が謙信《けんしん》と結《むす》ばねばならぬ理由《りいう》は、多言《たげん》を俟《ま》たぬ。
今川氏眞《いまがはうぢざね》が、家康《いへやす》と謙信《けんしん》との媒介者《ばいかいしや》であつた如《ごと》く、家康《いへやす》は又《ま》た、信長《のぶなが》と謙信《けんしん》との媒介者《ばいかいしや》であつた。而《しか》して此《こ》の新《しん》三|國同盟《ごくどうめい》を成立《せいりつ》せしめたものは、唯《た》だ一の信玄《しんげん》ぢや。乃《すなは》ち一|個《こ》の信玄《しんげん》を對象《たいしやう》として、信長《のぶなが》、家康《いへやす》、謙信《けんしん》の同盟《どうめい》は出來《でき》た。
家康《いへやす》、謙信《けんしん》の締交《ていかう》は、既記《きき》の通《とほ》りである。然《しか》も信長《のぶなが》の方《はう》は、左程《さほど》單純《たんじゆん》には參《まゐ》らぬ。彼《かれ》は表面《へうめん》信玄《しんげん》と絶《た》たずして、陰然《いんぜん》謙信《けんしん》と握手《あくしゆ》せんとした。彼《かれ》は元龜《げんき》三|年《ねん》九|月《ぐわつ》、三方原《みかたがはら》戰役《せんえき》三|月前《ぐわつぜん》に於《おい》て、尚《な》ほ信玄《しんげん》、謙信《けんしん》の調停《てうてい》を、將軍義昭《しやうぐんよしあき》の意《い》を承《う》けて、肝煎《きもい》つた。『越甲《ゑつかふ》一|和以[#二]上意[#一]《わじやういをもつて》、織田信長被[#二]取?[#一]候間《おだのぶながとりあつかはれさふらふあひだ》、定可[#レ]有[#二]一一途[#一]候《さだめていち/\みちあるべくさふらふ》。』とは、同年《どうねん》十|月《ぐわつ》六|日附《かづけ》を以《もつ》て、謙信《けんしん》が鮎川長盛《あゆがはながもり》に與《あた》へた書中《しよちう》の一|節《せつ》ぢや。併《しか》し形勢《けいせい》は日《ひ》に増《ま》し險惡《けんあく》となつた。信玄《しんげん》は信長《のぶなが》の口入《くにふ》では、承知《しようち》が出來《でき》ぬとはね附《つ》けた。同《おな》じく十|月《ぐわつ》十八|日附《にちづけ》の越中《ゑつちう》の陣《ぢん》より謙信《けんしん》が、沼田城代《ぬまたじやうだい》河田伯耆守《かはだはうきのかみ》に與《あた》へたる書中《しよちう》には、
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一|濃州《じやうしう》へ之信玄行相馳《のしんげんゆく/\あひはせ》、以[#二]其足[#一]《そのあしをもつて》、參州山方號[#二]山家三方[#一]《さんしうやまがたやまがさんぱうとがうする》へ、信玄成行候處《しんげんなりゆきさふらふところ》に、是《これ》茂?|家康取合被[#二]追拂[#一]《いへやすとりあひおひはらはれ》、信玄失[#レ]手駿州《しんげんてをうしなひすんしう》に有之候由申候《これありさふらふよしまをしさふらふ》。織田信長《おだのぶなが》、徳川家康《とくがはいへやす》、此度信玄成[#二]敵體[#一]《このたびしんげんてきたいなさるゝ》、?之事《のこと》、且無[#レ]擬《かつまがひなく》、且信玄運之極歟《かつしんげんうんのきはみか?》、さりとては大事之覺悟《だいじのかくご》、信玄怠候《しんげんおこたりさふらふ》。偏當家之弓矢《ひとへにたうけのゆみや》、わかやぐべき隨相《ずゐしやう》に候《さふらふ》。何樣此口打[#レ]釘《なにさまこのくちくぎをうち》、自[#二]春中[#一]《はるうちより》、信長家康申合《のぶながいへやすまをしあはせ》、信玄《しんげん》に汗《あせ》をかゝせべく候《さふらふ》。定而可[#レ]爲[#二]大慶[#一]候《さだめてたいけいたるべくさふらふ》。
一|織田方《おだかた》、徳川方《とくがはかた》、使者飛脚置詰行[#二]談合[#一]候間《ししやひきやくおきつめだんがふをおこなひさふらふあひだ》、是亦可[#二]心易[#一]候《これまたころゝ?やすかるべくさふらふ》。濃州《じやうしう》へ者當陣《はたうぢん》五|日路《かぢ》に候《さふらふ》。參州《さんしう》へ者《は》七|日路《かぢ》に候《さふらふ》。程近申合候《ほどちかくまをしあはせさふらふ》。
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此《これ》にて彼等《かれら》三|人《にん》の申合《まをしあは》せが判知《わか》る。又《ま》た此《こ》の書中《しよちう》の追伸《つゐしん》にも『兎角《とかく》に信玄《しんげん》蜂《はち》の巣?《す》に手《て》を指《さ》し、無用之仕事仕出候間《むようのしごとしだしさふらふあひだ》、信玄折角可[#レ]申候《しんげんせつかくとまをすべくさふらふ》。』とある。良《まこと》に一|波《ぱ》動《うご》いて萬波《ばんぱ》隨《したが》ふ。此《こ》の變局《へんきよく》は、實《じつ》に信玄《しんげん》の西上計畫《さいじやうけいくわく》が、其《そ》の動機《どうき》であつた。又《ま》た謙信《けんしん》の大行院《だいぎやうゐん》文書《ぶんしよ》中?にも、
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家康息《いへやすそく》は信長《のぶなが》の聟《むこ》にて候《さふらふ》。信長芳志故家康《のぶながのはうしゆゑいえやす》三|州《しう》、遠州被[#レ]入[#レ]手候《ゑんしうをてにいれられさふらふ》。依[#レ]之遠州《これによつてゑんしう》、三|州《しう》え信玄手出《しんげんてだし》、信長《のぶなが》え事切《こときれ》も同前《どうぜん》に候處《さふらふところ》、猶以[#二]濃州之内[#一]《なほじやうしうのうちをもつて》、遠州《ゑんしう》え信玄出[#二]物色[#一]候間《しんげんぶつしよくにいでさふらふあひだ》、彌信長家康《いよ/\のぶながいえやす》、無《む》二|無《む》三|當方《たうはう》え浮沈共《ふちんとも》に以[#二]數通之誓詞[#一]被[#二]申合[#一]候《すうつうのせいしをもつてまをしあはされさふらふ》。
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謙信《けんしん》の云《い》ふ所《ところ》、道理《だうり》明白《めいはく》である。謙信《けんしん》は寧《むし》ろ此《こ》の機會《きくわい》を利用《りよう》して、信玄《しんげん》に大打撃《だいだげき》を加《くは》へんと企《くはだ》てたのであらう。彼《かれ》は其《そ》の十一|月《ぐわつ》には、長景連《ちやうかげつら》を信長《のぶなが》に派《は》し、誓書《せいしよ》を送《おく》りて、信玄《しんげん》との斷交《だんかう》を促《うな》がした。信長《のぶなが》は異議《いぎ》なく應諾《おうだく》した。彼《かれ》は謙信《けんしん》の求《もとめ》に應《おう》じて、其子《そのこ》を養子《やうし》とすることをも同意《どうい》した。彼《かれ》は十一|月《ぐわつ》七|日附《かづけ》を以《もつ》て、謙信《けんしん》の重臣《ぢうしん》直江大和守《なほえやまとのかみ》に書《しよ》を與《あた》へて、『殊爲[#二]養子[#一]愚息可[#レ]被[#二]召置[#一]旨《ことにやうしとしてぐそくをめしおかるべきむね》、寔面目之至《まことにめんぼくのいたり》に候《さふらふ》。』と云《い》うた。彼《かれ》が同《どう》十一|月《ぐわつ》廿|日附《かづけ》を以《もつ》て、謙信《けんしん》に答《こた》へたる書中《しよちう》には、
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信長與信玄間之事《のぶながとしんげんとのあひだのこと》、御心底之外《ごしんていのほか》に、幾重之遺恨不[#レ]可[#レ]休候《いくぢうのゐこんやむべからずさふらふ》。然上者《しかるうへは》、雖[#下]經[#二]未來永劫[#一]候[#上]《みらいえいごふをへさふらふといへども》、再相通間敷候《ふたゝびあひつうじまじくさふらふ》。以[#二]誓詞[#一]蒙[#レ]仰候趣者《せいしをもつておほせをかうむりさふらふおもむきは》、愚意令[#二]?啄[#一]間《ぐいさいたくせしむるあひだ》、則飜[#二]牛王血判[#一]長與一顯[#二]眼前[#一]候《すなはちごわうけつぱんをひるがへしちやうよいちがんぜんにあらはしさふらふ》。貴邊與[#二]信長[#一]申談《きへんとのぶながとまをしだんじ》、信玄退治不[#レ]可[#レ]移[#二]年月[#一]候《しんげんたいぢはねんげつをうつすべからずさふらふ》。行等之儀《かうとうのぎ》、切々可[#レ]申[#レ]承候《せつ/\うけたまはりまをすべくさふらふ》。
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とあり。此《これ》にて同盟《どうめい》は全《まつた》く成立《せいりつ》したのである。而《しか》して同書中《どうしよちう》に、
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敵陣《てきぢん》廿|日《か》、卅|日之間《にちのあひだ》に可[#二]相果[#一]候趣《あひはつへくさふらふおもむき》に付《つい》ては、押詰可[#レ]被[#レ]決事候《おしつめけつせらるべきことにさふらふ》。若又來春迄《もしまたらいしゆんまで》も可[#レ]續[#レ]之樣《これをつゞくべきやう》に候《さふら》はゞ、先被[#二]差赦[#一]《まづさしゆるされ》、被[#二]納馬[#一]候《なふばせられさふらふ》て、信上表御行可[#レ]然候《しんじやうおもてへごかうしかるべくさふら》はん。左候《ささふら》はゞ從[#二]此方[#一]信州伊奈郡《このはうよりしんしういなごほり》、其成次第《そのなりしだい》、可[#二]發向[#一]候《はつかうすべくさふらふ》。遠州《ゑんしう》は家康《いへやす》與?|此方加勢之者共《このはうかせいのものども》一|手《て》に備《そなへ》、信玄《しんげん》に差向候者《さしむかひさふらはゞ》、彼是以敗軍案之圖《かれこれもつてはいぐんあんのづ》に候《さふらふ》。信玄足長《しんげんあしなが》に取出候事《とりいでさふらふこと》、時節到來幸之儀候間《じせつたうらいさいはひのぎにさふらふあひだ》、不[#レ]可[#レ]遁[#二]此期[#一]子細候《このきをのがすべからざるしさいにさふらふ》。信玄《しんげん》を被[#二]討果[#一]之上《うちはたさるゝのうへ》に至而《いたりて》は、加越之《かゑつの》一|揆御成敗《きごせいばい》、雖[#二]何時[#一]更以不[#レ]可[#レ]入[#二]手間[#一]候《なんどきといへどもさらにもつててまいるべからずささ?ら》はん。
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とある。乃《すなは》ち謙信《けんしん》若《も》し越中《ゑつちう》に於《おい》て、長陣《ながぢん》の虞《おそれ》あらば、姑《しば》らく軍《いくさ》を旋《かへ》して、信州《しんしう》上州《じやうしう》に入《い》り、信玄《しんげん》の後《うしろ》を躡《ふ》む可《べ》し。予《よ》は信州《しんしう》伊奈口《いなぐち》より攻《せ》め入《い》らむ。遠州方面《し?んしうはうめん》は家康《いへやす》、及《およ》び予《よ》が援兵《ゑんぺい》にて足《た》れり。斯《か》く三|方《ぱう》より信玄《しんげん》を攻《せ》め立《た》てれば、信玄《しんげん》一|擧《きよ》にて殄滅《てんめす?》す可《べ》し。此上《このうへ》は加越《かゑつ》の一|揆《き》の如《ごと》きは、刄《やいば》を迎《むか》へずして潰《つひ》えむとの意味《いみ》ぢや。寔《まこと》に痛快《つうくわい》なる文書《ぶんしよ》ぢや。特《とく》に『信玄足長《しんげんあしなが》』の一|節《せつ》は、信長《のぶなが》にあらざれば、云《い》ふ能《あた》はざる警句《けいく》ぢや。此《こ》れは三方原《みかたがはら》の戰役前《せんえきぜん》一|個月《かげつ》の事《こと》である。
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[#6字下げ]信長の謙信に答へたる書状?[#「信長の謙信に答へたる書状?」は1段階小さな文字]
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就[#二]越甲和與之義[#一]、被[#レ]加[#二]上意[#一]之條同事に、去秋以[#二]使者[#一]申演之處、信玄所行寔に前代未聞候。無道且者不[#レ]知[#二]侍之義理[#一]、且者不[#レ]顧[#二]都鄙之嘲弄[#一]次第、無[#二]是非[#一]題目候。
信玄既如[#レ]此上者、以[#二]專柳齋[#一]如[#二]誓約[#一]永可[#レ]爲[#二]我絶[#一]事勿論に候。自[#二]其方[#一]兩通之罰文加[#二]披見[#一]候。先書の御返答者、自他不[#レ]入[#二]子細[#一]候。今度改而被[#二]仰越[#一]候一儀專川に候。信長與信玄間之事、御心底之外に幾重之遺恨不[#レ]可[#レ]休候。然上者、雖[#下]經[#二]未來永劫[#一]候[#上]、再相通間敷候。以[#二]誓詞[#一]蒙[#レ]仰候趣者、愚意令[#二]?啄[#一]間、則飜[#二]牛王血判[#一]長與一顯[#二]眼前[#一]候。貴邊與[#二]信長[#一]申談、信玄退治不[#レ]可[#レ]移[#二]年月[#一]候。行等之儀切々可[#二]申承[#一]候。
一遠州表、信玄備之體、一向不首尾之由に候。駿遠間之通路慥切留候。然而自[#二]此方[#一]令[#二]出勢[#一]之條、信玄近日之陣場を引崩、信州を後に當山奧へ夜中に執入候。信州へ道を作、往還せん、是も深山節處人馬之足も?不[#レ]立之由候間、可[#レ]爲[#二]難儀[#一]候旨に候。畢竟可[#二]敗軍[#一]候。
一越中富山表之模樣、具承届候。一揆等並諸牢人、種々懇望申由候。雖[#下]不[#レ]珍候[#上]、堅固に被[#二]仰付[#一]候故候。就[#二]愚意[#一]可[#二]啓達[#一]之由候間、乍[#レ]憚申試候。敵陣廿日卅日之間に可[#二]相果[#一]候趣に付ては、押詰可[#レ]被[#レ]決事尤候。若又來春迄も可[#レ]續之樣に候はゞ、先被[#二]差赦[#一]、被[#二]納得[#一]候て、信上表御行可[#レ]然候はん。左候はゞ從[#二]此方[#一]信州伊家郡其外成次第、可[#二]發行[#一]候。遠州は家康與[#二]此方加勢之者[#一]一手は備、信玄に差向候者、彼是以敗軍案之圖に候。信玄足長に取出候事、時節到來幸之儀候間、不[#レ]可[#レ]遁[#二]此期[#一]子細候。信玄を被[#二]討果[#一]之上に至而は、加越之一揆御成敗、雖[#二]何時[#一]更以不[#レ]可[#レ]入[#二]手間[#一]候はん。前後之處御校量御分別專要に候。
一江北小谷表之事落居不[#レ]可[#レ]有[#二]幾程[#一]候。朝倉義景歸國之調儀無[#二]油斷[#一]候へとも、懸留候間、不[#レ]任[#二]心中[#一]由相聞候。士卒之難堪不[#レ]過[#レ]之候。然間籠城之體沙汰限候。
一度々如[#レ]申候處、御前山其外諸城に人數陶々入置候。信長自由に可[#レ]働支度、聊無[#二]越度[#一]樣に令[#二]覺悟[#一]候。於[#二]時宜[#一]者可[#二]御心安[#一]候。尚長與可[#レ]爲[#二]口上[#一]候。恐々謹言。
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[#地から3字上げ]十一月廿日 信 長 華押
[#4字下げ]不 識 庵
[#地から2字上げ]進覽之候 〔武家事紀、古今消息集〕
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