第十三章 本願寺と比叡山
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第十三章 本願寺と比叡山
【七八】信長と義昭
信長《のぶなが》は何故《なにゆゑ》に屡《しばし》ば上京《じやうきやう》したのである乎《か》、そは將軍義昭《しやうぐんよしあき》を監視《かんし》する爲《た》めであつたであらう。彼《かれ》は實《じつ》に信長《のぶなが》に取《と》りては、一|大《だい》重荷《おもに》であつた。敵《てき》ならば、敵《てき》としての待遇《たいぐう》がある、味方《みかた》ならば、味方《みかた》としての取扱《とりあつかひ》がある。然《しか》るに將軍義昭《しやうぐ?よしあき》は、其《そ》の面《おもて》が味方《みかた》で、其《そ》の心《こゝろ》が敵《てき》である。如何《いか》に信長《のぶなが》が之《これ》を看破《かんぱ》したりとて、世間《せけん》が之《これ》を承知《しようち》せぬ前《まへ》に、自《みづ》から公方樣《くばうさま》として擁立《ようりつ》したる、將軍《しやうぐん》の面皮《めんぴ》を剥《は》ぐ譯《わけ》には參《まゐ》るまじ。さりとて其儘《そのまゝ》に放抛《はうほう》すれば、如何《いか》なる惡計《あくけい》を、目論見《もくろみ》るかも知《し》れぬ。惟《おも》ふに信長《のぶなが》も、此《こゝ》には少《すくな》からず其《そ》の心思《しんし》を勞《らう》したのであらう。
信長《のぶなが》と、義昭《よしあき》との關係《くわんけい》が、圓滿《ゑんまん》を缺《か》く樣《やう》になつたのは、恐《おそ》らく彼《かれ》が義昭《よしあき》を奉《ほう》じて、入京《にふきやう》したる永祿《えいろく》十一|年《ねん》九|月《ぐわつ》を距《さ》る、約《やく》一|年前後《ねんぜんご》の事《こと》であらう。彼《かれ》が永祿《えいろく》十二|年《ねん》四|月《ぐわつ》二十一|日《にち》、京都《きやうと》を發《はつ》して、岐阜《ぎふ》に歸《かへ》らんとするや、義昭《よしあき》に對《たい》し、彼是《かれこれ》心殘《こゝろのこ》りなく申《まを》し置《お》き、義昭《よしあき》も其《そ》の好意《かうい》に感《かん》じ、互《たが》ひに落涙《らくるゐ》して別《わか》れた。義昭《よしあき》は之《これ》を門外《もんぐわい》に送《おく》り、且《か》つ彼《かれ》が一|行《かう》の粟田口《あはたぐち》に入《い》り、其《そ》の影《かげ》の沒《ぼつ》する迄《まで》之《これ》を目送《もくそう》した。〔言繼卿記〕然《しか》るに永祿《えいろく》十二|年《ねん》十|月《ぐわつ》十一|日《にち》、彼《かれ》は伊勢平定報告《いせへいていほうこく》の爲《た》め上京《じやうきやう》し、十六|日《にち》に退京《たいきやう》したが、此頃《このごろ》から衝突《しようとつ》の兆《てう》があつたことは、多聞院日記《たもんゐんにつき》に、『信長《のぶなが》十二|日《にち》に上京《じやうきやう》、十六|日《にち》上意《じやうい》とせりあひて下《くだ》る。』の一|句《く》にて察《さつ》せらる。此《これ》が爲《た》めに正親町天皇《おほぎまちてんわう》には、又《また》も騷亂《さうらん》を惹起《じやき》せずやと、宸襟《しんきん》を惱《なや》まし給《たま》うた。
其《そ》の翌《よく》永祿《えいろく》十三|年《ねん》、即《すなは》ち元龜《げんき》元年《ぐわんねん》正月《しやうぐわつ》二十三|日《にち》には、義昭《よしあき》と信長《のぶなが》との間《あひだ》に、協約《けふやく》が締結《ていけつ》された。其《そ》の詳悉《しやうしつ》は、頼《さいは》ひに信長《のぶなが》から、其《そ》の全權委員《ぜんけんゐいん》とも云《い》ふ可《べ》き朝山日乘《あさやまにちじよう》、明智光秀《あけちみつひで》に當《あ》てたる朱印状《しゆいんじやう》が、保存《ほぞん》されて居《ゐ》る。
義昭實? 黒印
條々
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一|諸國《しよこく》へ御内書被[#二]仰出[#一]子細有[#レ]之者《ごないしよおほせいださるゝしさいこれあらば》、信長《のぶなが》に被[#二]仰聞[#一]《おほせきけられ》、書状《しよじやう》を可[#二]添申[#一]事《そへまをすべきこと》。
一|御下知之義《ごげちのぎ》、皆以有[#二]御棄破[#一]《みなもつてごきはあり》、其上被[#レ]成[#二]御思案[#一]可[#レ]被[#二]相定[#一]事《そのうへごしあんなされあひさだめらるべきこと》。
一|奉[#レ]對[#二]公儀[#一]《こうぎにたいしたてまつり》、忠節之輩《ちうせつのやから》に雖[#レ]被[#レ]加[#二]御恩賞[#一]《ごおんしやうをくはへらるゝといへども》、御褒美度々領中等於[#レ]無[#レ]之《ごほうびたび/\りやうちうとうこれなきにおいて》は信長領分之内《のぶながりやうぶんのうち》を以《もつ》ても、上意次第《じやういしだい》に可[#二]申付[#一]事《まをしつくべきこと》。
一|天下之儀《てんかのぎ》、何樣《なにやう》にも信長《のぶなが》に被[#二]任置[#一]之上者《まかしおかるゝのうへは》、不[#レ]寄[#二]誰々[#一]不[#レ]及[#レ]得[#二]上意[#一]《たれ/″\によらずじやういをうるにおよばず》、分別次第《ふんべつしだい》、可[#レ]爲[#二]成敗[#一]之事《せいばいをなすべきこと》。
一|天下御靜謐之條《てんかごぜいひつのでう》、禁中之儀《きんちうのぎ》、毎事不[#レ]可[#レ]有[#二]油斷[#一]之事《まいじゆだんあるべからざるの※[#「こと」の合字、403-7]?》。
巳上
永祿十三 正月廿三日
(天下布武)信長朱印
日乘 上人
明智十兵衞尉殿
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今《い》ま其《そ》の要旨《えうし》を説明《せつめい》すれば、
(第《だい》一)は義昭《よしあき》が諸國《しよこく》へ内書《ないしよ》を發《はつ》する場合《ばあひ》には、必《かな》らず之《これ》を信長《のぶなが》に告《つ》げ、信長《のぶなが》の添状《そへじやう》を要《えう》することである。此《こ》れは義昭《よしあき》の交通《かうつう》の自由《じいう》を、束縛《そくばく》したもので、陰謀《いんばう》を唯《ゆゐ》一の利器《りき》としたる、彼《かれ》に取《と》りては、最《もつと》も當惑《たうわく》でもあり、苦痛《くつう》でもあるが。此《これ》によりて又《ま》た如何《いか》に彼《かれ》が、内書《ないしよ》を濫發《らんはつ》したことが思《おも》ひやらるゝ。(第《だい》二)は從前《じうぜん》の下知《げち》、命令《めいれい》一|切《さい》を破毀《はき》して、新《あら》たにやり直《なほ》す事《こと》。(第《だい》三)は公儀《こうぎ》に對《たい》して忠勤《ちうきん》の輩《はい》を褒賞《ほうしやう》するに、若《も》し知行《ちぎやう》が不足《ふそく》ならば、信長《のぶなが》の知行中《ちぎやうちう》より分與《ぶんよ》せられても、苦《くる》しからず。(第《だい》四)は天下《てんか》の全權《ぜんけん》、信長《のぶなが》に御委任《ごゐにん》を被《かうむ》りたる以上《いじやう》は、信長《のぶなが》の存分《ぞんぶん》に成敗《せいばい》致《いた》す可《べ》しとの事《こと》。即《すなは》ち義昭《よしあき》の手中《しゆちう》より、政權《せいけん》全部《ぜんぶ》を信長《のぶなが》に引《ひ》き渡《わた》した事《こと》である。(第《だい》六)は禁中《きんちう》を大切《たいせつ》にする事?。
若《も》し如上《じよじやう》の文句通《もんくどほ》りに、行《おこな》はるゝとすれば、義昭《よしあき》は一|切《さい》信長《のぶなが》に封《ふう》じ込《こ》められて、手《て》も足《あし》も出《で》ぬことゝなる。彼《かれ》は固《もと》より不服《ふふく》であつたらう、併《しか》し何事《なにごと》も最後《さいご》は力《ちから》の沙汰《さた》である。彼《かれ》も力《ちから》及《およ》ばず、此《こ》の屈辱的《くつじよくてき》協約《けふやく》に調印《てういん》したのであらう。勿論《もちろん》彼《かれ》の胸中《きようちう》では、何時《いつ》かは之《これ》を破却《はきやく》せずして措《お》く可《べ》きかと、自問自答《じもんひたふ》して、枉《ま》げて一|時《じ》を瞞過《まんくわ》したのであらう。
義昭《よしあき》と信長《のぶなが》の葛藤《かつとう》に就《つい》ては、固《もと》より義昭《よしあき》のみを咎《とが》む可《べ》きでない。泥坊《どろばう》にも五|分《ぶ》の申譯《まをしわけ》がある、まして將軍《しやうぐん》たる義昭《よしあき》が、自《みづ》から將軍《しやうぐん》の權柄《けんぺい》を握《にぎ》り、且《か》つ揮《ふる》はんとするに、何《なん》の不都合《ふつがふ》かある。それを彼是《かれこれ》干渉《かんせふ》がましく、信長《のぶなが》が世話燒《せわや》くは、何事《なにごと》である。まして俘虜《ふりよ》同樣《どうやう》、一|切《さい》の自由《じいう》を剥奪《はくだつ》し、唯《た》だ將軍《しやうぐん》の虚名《きよめい》と、空位《くうゐ》とのみを與《あた》へ措《お》くに於《おい》ては、反抗的運動《はんかうてきうんどう》に出《い》づるも、當然《たうぜん》ではない乎《か》。
義昭《よしあき》の立場《たちば》より云《い》へば、信長《のぶなが》退治《たいぢ》の隱謀《いんばう》も、自衞上《じゑいじやう》已《や》むを得《え》ぬではない乎《か》。信長《のぶなが》の飛揚《ひやう》跋扈《ばつこ》も、餘《あま》りに傍若無人《ばうじやくむじん》ではない乎《か》。併《しか》し義昭《よしあき》は、誰《たれ》の力《ちから》に頼《よ》りて、將軍《しやうぐん》とは爲《な》りたる乎《か》。自力《じりき》乎《か》、他力《たりき》乎《か》。自力《じりき》ならば、彼《かれ》の理窟《りくつ》も通《とほ》る、されど彼《かれ》は信長《のぶなが》の恩惠《おんけい》の下《もと》に、漸《やうや》く其《そ》の目的《もくてき》を達《たつ》したのではない乎《か》。
信長《のぶなが》は足利氏《あしかゞし》の爲《た》めに、盡《つく》さねばならぬ義務《ぎむ》を、自《みづ》から認《みと》めて居《ゐ》ない。但《た》だ旗《はた》を洛中《らくちう》に入《い》るゝ方便《はうべん》として、彼《かれ》を奉《ほう》じたのに過《す》ぎぬ。露骨《ろこつ》に云《い》へば、義昭《よしあき》は信長《のぶなが》が天下《てんか》を取《と》る道具《だうぐ》に、使用《しよう》せられたのである。彼《かれ》さへ正直《しやうぢき》であれば、信長《のぶなが》にも世間體《せけんてい》があつて、彼《かれ》を蹈《ふ》み付《つ》け、蹴《け》り去《さ》ることも出來《でき》まい。彼《かれ》の爲《ため》に計《はか》れば、只管《ひたすら》神妙《しんめう》に、信長《のぶなが》の御機嫌《ごきげん》を取《と》り、その云《い》ふが儘《まゝ》、爲《な》すが儘《まゝ》になつて居《ゐ》る他《ほか》はない。
併《しか》し此《こ》れは誰《たれ》でも容易《ようい》に出來《でき》ぬ辛抱《しんばう》ぢや。况《いは》んや足利家《あしかゞけ》の貴種《きしゆ》たる義昭《よしあき》をや。義昭《よしあき》が信長《のぶなが》に對《たい》して反抗《はんかう》したとて、強《あなが》ち義昭《よしあき》を罪《つみ》す可《べ》きではない。信長《のぶなが》も義昭《よしあき》を隨分《ずゐぶん》いぢめたが、義昭《よしあき》も亦《ま》た、頗《すこぶ》る信長《のぶなが》に徒《いたづ》らをした。實《じつ》は信長《のぶなが》を、其《そ》の入洛以後《にふらくいご》最《もつと》も困《くるし》めたのは、義昭《よしあき》と、信玄《しんげん》と、本願寺《ほんぐわんじ》とであるが、其《そ》の張本《ちやうほん》は義昭《よしあき》である。信長《のぶなが》は義昭《よしあき》を利用《りよう》した、然《しか》もより以上《いじやう》の代價《だいか》を、彼《かれ》より仕拂《しはら》はされた。


【七五?九のはず】信長と本願寺
姉?川《あねがは》の大捷?《たいせふ》は、朝倉《あさくら》、淺井《あさゐ》に、痛快《つうくわい》なる打撃?《だげき》を喫《きつ》せしめたるも、未《いま》だ致命傷《ちめいしやう》ではなかつた。信長《のぶなが》は岐阜《ぎふ》に還《かへ》りて、人馬《じんば》を休《きう》する間《ま》もなく。元龜《げんき》元年《ぐわんねん》八|月《ぐわつ》二十|日《か》、岐阜《ぎふ》より横山城《よこやまじやう》に赴《おもむ》き、廿六|日《にち》には、三好《みよし》の殘黨《ざんたう》の楯《た》て籠《こも》れる野田《のだ》、福島《ふくしま》に推《お》し寄《よ》せた。九|月《ぐわつ》三|日《か》には、攝津國中島《せつつのくになかじま》なる細川藤賢《ほそかはふぢたか》の居城《きよじやう》迄《まで》、將軍義昭《しやうぐんよしあき》も出張《しゆつちやう》した。同《どう》十二|日《にち》には、義昭《よしあき》も、信長《のぶなが》も、野田《のだ》、福島《ふくしま》の北《きた》十|町《ちやう》を隔《へだ》てたる、海老江《えびえ》に陣《ぢん》を進《すゝ》め、『先陣《せんぢん》は勿論《もちろん》、夜《よ》な/\に土手《どて》を築《きづ》き、其手々々《そのて/\》を爭《あらそ》ひ、塀際《へいぎは》へ詰《つめ》よせ、其《その》數《すう》を盡《つく》し、城樓《じやうろう》を上《のぼ》り、大鐵砲《おほてつぱう》にて打入被[#レ]責候《うちいりせめられさふらふ》。根來《ねごろ》、雜賀《さいが》、湯川《ゆがは》、紀伊國奧郡衆《きいのくにおくのごほりしう》二|萬計《まんばかり》罷立《まかりたち》、遠里小野《うりうの》、住吉《すみよし》、天王寺《てんわうじ》に陣取候《ぢんどりさふらふ》。鐵砲《てつぱう》三千|挺有[#レ]之由候《ちやうこれあるよしにさふらふ》。毎日《まち?にち》參陣《さんぢん》候《さふらふ》て、被[#レ]攻候《せめられさふらふ》。御敵方《おんてきがた》の鐵砲《てつぱう》、誠《まこと》に日夜《にちや》天地《てんち》も響計候《とゞろくばかりにさふらふ》。』〔信長公記〕乃《すなは》ち信長《のぶなが》は、攻城砲《こうじやうはう》を使用《しよう》し、敵方《てきがた》の援軍《ゑんぐん》は、三千|挺《ちやう》の小銃《せうじう》を使用《しよう》した。而《しか》して双方《さうはう》の主《おも》なる武器《ぶき》は、鐵砲《てつぱう》であり、主《おも》なる戰爭《せんさう》は射撃?戰《しやげきせん》であつた。此《こ》れが日本《にほん》に鐵砲《てつぱう》渡來《とらい》より、僅《わづか》に二十八|年後《ねんご》の事《こと》であつたことを思《おも》へば、如何《いか》に長足《ちやうそく》の進歩《しんぽ》であつたかゞ推察《すゐさつ》せらるゝであらう。
野田《のだ》、福島《ふくしま》は、開城《かいじやう》を請《こ》うたが、信長《のぶなが》は一|擧《きよ》に之《これ》を殱《つく》さんと敦圉《いきま》き、許容《きよよう》せなかつた。然《しか》るに意外《いぐわい》にも、九|月《ぐわつ》十三|日《にち》の夜《よ》、唇《くちびる》亡《ほろ》ぶれば齒《は》寒《さむ》しと感《かん》じ、石山《いしやま》―大阪《おほさか》―の本願寺《ほんぐわんじ》は、信長《のぶなが》の軍《ぐん》に向《むかつ》て發砲《はつぱう》した。斯《か》くて信長《のぶなが》の後半生《こうはんせい》の統《とう》一|事業《じげふ》に、十|數年間《すうねんかん》、即《すなは》ち彼《かれ》の最後《さいご》迄《まで》附《つ》き纒《まと》うたる難題《なんだい》の端《たん》は發《はつ》した。
          *  *  *  *  *  *  *
信長側《のぶなががは》より云《い》はしむれば、本願寺《ほんぐわんじ》よりの發砲《はつぱう》は、籔《やぶ》から棒《ぼう》であるが。本願寺側《ほんぐわんじがは》から云《い》はしむれば、畢竟《ひつきやう》自衞《じゑい》の爲《ため》であつた。信長《のぶなが》が石山《いしやま》に眼《め》を著《つ》けたのは、恐《おそ》らくは彼《かれ》が永祿《えいろく》四|年《ねん》、上國觀光《じやうこくくわんくわう》の時《とき》からであらう。果然《くわぜん》彼《かれ》は元龜《げんき》元年《ぐわんねん》正月《しやうぐわつ》、使者《ししや》を以《もつ》て、石山本願寺《いしやまほんぐわんじ》の移轉《いてん》を要望《えうばう》した。彼《かれ》は實《じつ》に大阪《おほさか》の地《ち》が、彼《かれ》の西國經營《さいこくけいえい》の咽吭《いんかう》であることを、看取《かんしゆ》した。信長《のぶなが》が之《これ》を獲《え》んことを欲《ほつ》するの意《い》、切《せつ》なるに比例《ひれい》して、顯如《けんによ》、及《およ》び其《そ》の門徒等《もんとら》は、之《これ》を與《あた》ふるを欲《ほつ》しない情《じやう》、亦《ま》た頗《すこぶ》る熾《さかん》であつた。本願寺《ほんぐわんじ》は之《これ》を謝絶《しやぜつ》した。此《これ》からが信長《のぶなが》との葛藤《かつとう》の始《はじ》まりだ。
惟《おも》ふに本願寺《ほんぐわんじ》も、早晩《さうばん》信長《のぶなが》の鐵拳《てつけん》の伸《の》び來《きた》るを、豫期《よき》したであらう。從《したがつ》て其《そ》の準備《じゆんび》をしたであらう。而《しか》して今《いま》や信長《のぶなが》の野田《のだ》、福島《ふくしま》の三好殘黨征伐《みよしざんたうせいばつ》は、或《あるひ》は本願寺《ほんぐわんじ》に對《たい》する奇襲《きしふ》となるかも、知《し》れぬのぢや。否《い》な斯《か》く推定《すゐてい》す可《べ》き理由《りいう》もある。故《ゆゑ》に本願寺《ほんぐわんじ》は、信長《のぶなが》の裏《うら》を掻?《か》き、我《われ》より不意打《ふいうち》を與《あた》へたのだ。
顯如《けんによ》は、蓮如《れんによ》程《ほど》の徳望家《とくばうか》ではない、されど彼《かれ》は又《ま》た凡庸《ぼんよう》の長袖者《ちやうしうしや》ではない。其《そ》の坊官下間頼廉《ばうくわんしもづまよりかど》、同頼龍《どうよりたつ》、同仲之《どうなかゆき》の如《ごと》き、何《いづ》れも相當《さうたう》の武略《ぶりやく》を具《そな》へて居《ゐ》た。信長《のぶなが》は本願寺《ほんぐわんじ》をば、左程《さほど》の勁敵《けいてき》とは、考《かんが》へ及《およ》ばなかつたであらう。若《も》し之《これ》を豫知《よち》したならば、彼《かれ》は恐《おそ》らくは他《た》の方法《はうはふ》を以《もつ》て、之《これ》を操縱《さうじう》したのであらう。要《えう》するに對《たい》本願寺《ほんぐわんじ》の一|事《じ》は、信長《のぶなが》に取《と》りて、殆《ほと》んど避《さ》け難《がた》き事《こと》であつたとは申《まを》しながら、大々的違算《だい/\てきゐさん》の一と云《い》はねばなるまい。
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信長《のぶなが》が攝津《せつつ》に於《おい》て、三好殘黨《みよしざんたう》、本願寺《ほんぐわんじ》と對峙《たいぢ》する虚《きよ》を覗《うかゞ》ひ、朝倉《あさくら》、淺井《あさゐ》は、九|月《ぐわつ》十六|日《にち》、坂本《さかもと》を襲《おそ》うた。同《どう》十九|日《にち》、城將《じやうしやう》森《もり》三|左衞門《ざゑもん》、及《およ》び信長《のぶなが》より、『日本《にほん》一|之勇士也《のゆうしなり》』との、自筆《じひつ》の旗《はた》を與《あた》へられたる、道家《だうけ》清《せい》十|郎《らう》、同《どう》助《すけ》十|郎《らう》兄弟《きやうだい》、亦《また?》た討死《うちじに》した。廿|日《か》には大津《おほつ》、馬場《ばば》、松本《まつもと》に放火《はうくわ》し、廿一|日《にち》には逢坂《あふさか》を越《こ》え、醍醐《だいご》、山科《やましな》を燒《や》き拂《はら》ひ、既《すで》に京都《きやうと》に迫《せま》らんとした。廿二|日《にち》には警報《けいはう》、攝津中島《せつつなかじま》なる、信長《のぶなが》の陣所《ぢんしよ》に達《たつ》した。信長《のぶなが》は和田惟政《わだこれまさ》、柴田勝家《しばたかついへ》に殿《しんがり》を命《めい》じ、敵《てき》の爲《た》めに、渡舟《としう》を押取《あふしゆ》せられたるに拘《かゝは》らず、自《みづ》から衆《しゆう》に率先《そつせん》して、馬《うま》を淀川《よどがは》に打《う》ち入《い》れて渡《わた》り、廿三|日《にち》、義昭《よしあき》と與《とも》に歸洛《きらく》した。


【八〇】叡山の攻圍
姉?川《あねがは》の一|戰《せん》にて、信長《のぶなが》の武威《ぶゐ》に屈《くつ》したる朝倉《あさくら》、淺井勢《あさゐぜい》は、進《すゝ》んで京都《きやうと》に入《い》るを敢《あへ》てせず、又《ま》た信長《のぶなが》の兵《へい》と邀《むか》へ戰《たゝか》ふを敢《あへ》てせず。九|月《ぐわつ》廿四|日《か》、信長《のぶなが》の逢坂《あふさか》を越《こ》え、坂本《さかもと》に抵《いた》るや、何《いづ》れも叡山《えいざん》に迯《に》げ上《のぼ》つた。信長《のぶなが》は叡山《えいざん》に向《むかつ》て、若《も》し我《われ》に應援《おうゑん》するに於《おい》ては、其《そ》の分國中《ぶんこくちう》の山門領《さんもんりやう》を、返還《へんくわん》す可《べ》し。應援《おうゑん》成《な》し難《がた》ければ、せめて中立《ちうりつ》せよ。若《も》し此《こ》の二|個條《かでう》を聞《き》き入《い》れざるに於《おい》ては、根本中堂《こんぽんちうだう》、三|王《わう》廿一|社《そう》、悉《こと/″\》く燒《や》き拂《はら》ふ可《べ》しと嚴命《げんめい》した。『山門之衆《さんもんのしう》、兎角《とかく》を不[#二]申上[#一]《まをしあげず》、時刻到來候而《じこくたうらいさふらふて》、淺井《あさゐ》、朝倉令[#二]贔屓[#一]《あさくらをひいきせしめ》、魚鳥女人等迄《ぎよてうによにんらまで》上《のぼ》せ、恣之惡逆也《ほし?いまゝあくぎやうなり》。』〔信長公記〕叡山《えいざん》と、朝倉《あさくら》淺井《あさゐ》とは、何《いづ》れも同穴《どうけつ》の狢《むじな》ぢや。彼等《かれら》が信長《のぶなが》の言《げん》を聞《き》かぬのは尤《もつとも》ぢや。
此《こゝ》に於《おい》て叡山《えいざん》は、信長《のぶなが》の爲《た》めに包圍《はうゐ》せられた。信長《のぶなが》は叡山《えいざん》一|圓《ゑん》の僧俗《そうぞく》を、悉《こと/″\》く干乾《ひぼし》にす可《べ》く企《くはだ》てた。然《しか》も彼等《かれら》は、窃《ひそ》かに湖水《こすゐ》を横斷《わうだん》して、北國《ほくこく》より食料《しよくれう》を取《と》り入《い》れた。信長《のぶなが》は十|月《ぐわつ》廿|日《か》、菅原《すがはら》九|右衞門《うゑもん》を以《もつ》て、朝倉方《あさくらかた》へ決戰《けつせん》の期日《きじつ》を促《うな》がした。されど朝倉《あさくら》は固《かた》く守《まも》りて、山《やま》を下《くだ》らなかつた。信長《のぶなが》は十一|月《ぐわつ》十六|日《にち》に、勢多《せた》に舟橋《ふなはし》を架《か》けしめた。此《こ》れは軍事行動《ぐんじかうどう》の便宜《べんぎ》の爲《た》めぢや。
十一|月《ぐわつ》廿二|日《にち》、江南《かうなん》の六|角《かく》承禎《しようてい》は、投降《とうかう》した。江北《かうほく》の十|個寺《かじ》は、大阪本願寺《おほさかほんぐわんじ》の命《めい》を奉《ほう》じて、一|揆《き》を起《おこ》したが、程《ほど》なく鎭靜《ちんせい》した。此《こ》れにて信長《のぶなが》と、岐阜《ぎふ》との連絡《れんらく》は、維持《ゐぢ》せられた。但《た》だ伊勢長島《いせながしま》の門徒《もんと》一|揆《き》は、頗《すこぶ》る優勢《いうせい》であつた。信長《のぶなが》の弟《おとうと》彦《ひこ》七|信興?《のぶとも》は、彼等《かれら》に攻《せ》められ、十一|月《ぐわつ》廿一|日《にち》に自殺《じさつ》した。信長《のぶなが》の周圍《しうゐ》は、頗《すこぶ》る多事《たじ》であつた、然《しか》も彼《かれ》は一|意《い》叡山《えいざん》の攻圍《こうゐ》を事《こと》とした。
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云[#二]寒天[#一]《かんてんといひ》、云[#二]深雪[#一]《みゆきといひ》、北國之通路難[#レ]續故候歟《ほくこくのつうろつゞけがたきゆゑにさふらふか》、公方樣《くばうさま》へ朝倉《あさくら》色々《いろ/\》歎申《なげきまをす》に付《つい》て、無爲之儀《むゐのぎ》、被[#二]仰出[#一]候《おほせいだされさふらふ》。信長公御同心無[#レ]之處《のぶながこうごどうしんこれなきのところ》に、霜月晦日三井寺迄《しもつきみそかみゐでらまで》、公方樣御成有《くばうさまおなりあつ》て、頻《しきり》に上意候間《じやういにさふらふあひだ》、難[#二]默止[#一]被[#二]思食[#一]《もだしがたくおぼしめされ》、十二|月《ぐわつ》十三|日《にち》御和談相究《ごわだんあひきはまる》。〔信長公記〕
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此《これ》によれば信長《のぶなが》は、將軍義昭《しやうぐんよしあき》の懇請《こんせい》、默止《もくし》し難《がた》く、朝倉淺井《あさくらあさゐ》と講和《かうわ》した。即《すなは》ち信長《のぶなが》の本意《ほんい》は、彼等《かれら》を此《こ》の機會《きくわい》に、全滅《ぜんめつ》するにあつたが、義昭《よしあき》の解諭《かいゆ》もだし難《がた》く、此《こゝ》に及《およ》んだのだ。然《しか》るに他方《たはう》には、全《まつた》く反對《はんたい》の見解《けんかい》がある。
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嗚呼拙哉《あゝせつなるかな》。淺井《あさゐ》、朝倉《あさくら》、山上《さんじやう》に越年《をつねん》して、和睦《わぼく》をせずといつとなく、對陣《たいぢん》取《とつ》て、四|國《こく》攝州《せつしう》諸方《しよはう》一|味《み》の輩《やから》に申《まを》し合《あは》せ、斯《こゝ》かしこより蜂起《ほうき》して、京都《きやうと》に押寄《おしよ》せ、坂本《さかもと》へも馳集《はせあつま》らば、信長公《のぶながこう》の御勢《ごせい》は、數月《すうげつ》の疲《つか》れ、諸國《しよこく》の人數《にんず》口々《くち/″\》に申《まを》し出《いで》、退屈《たいくつ》の上《うへ》に、兵粮《ひやうらう》も乏《とぼ》しくなり、終《つひ》には敗軍《はいぐん》して、大將《たいしやう》迄《まで》も危《あやふ》からんに、和睦《わぼく》にたばかられ、淺井《あさゐ》、朝倉《あさくら》陣《ぢん》を拂《はらつ》て、何事《なにごと》なく故郷《こきやう》に歸《かへ》る。今《いま》に見《み》よ、頓《やが》て討取《うちと》られて後悔《こうくわい》しても、甲斐《かひ》あるまじとて、其比《そのころ》の人々《ひと/″\》笑合《わらひあひ》けり。〔總見記〕
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此《こ》れにて見《み》れば、和議《わぎ》は全《まつた》く信長《のぶなが》の方《はう》より、義昭《よしあき》に依頼《いらい》して、成立《せいりつ》したのぢや。而《しか》して『參河物語《みかはものがたり》』には、
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越前衆《えちぜんしう》は三|萬餘《まんよ》あり、殊更《ことさら》に近江《あふみ》の國《くに》は、大方《おほかた》越前《えちぜん》の領分《りやうぶん》なれば、岐阜《ぎふ》への道《みち》も塞《ふさ》がれば、信長《のぶなが》纔《わづか》一|萬《まん》の内《うち》なれば、叶《かな》はじとて、あつかひをかけさせ給《たま》ひ、天下《てんか》は朝倉殿《あさくらどの》持《も》ち給《たま》へ、我《われ》は二|度《ど》望《のぞ》み無《な》しと、起請《きしやう》を書《か》き給《たま》うて、無事《ぶじ》を作《つく》りて、岐阜《ぎふ》へ退《ひ》き給《たま》ふ。
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とあり。果《はた》して然《しか》らば、是《こ》れ信長《のぶなが》は講和《かうわ》よりも、其實《そのじつ》は殆《ほと》んど降服《かうふく》も同樣《どうやう》ぢや。此《こ》れは論外《ろんぐわい》であるが、信長《のぶなが》の與國《よこく》家康《いへやす》の部下《ぶか》には、斯《かゝ》る風説《ふうせつ》もあつたであらう。此《こ》れでも信長《のぶなが》が窮地《きうち》に陷《おちい》つて居《ゐ》たことが判知《わか》る。
予《よ》は双方《さうはう》の觀察《くわんさつ》、倶《とも》に多少《たせう》の理由《りいう》ありと思《おも》ふ。但《た》だ『信長公記《のぶながこうき》』の記事《きじ》は、信長側《のぶなががは》の御用記事《ごようきじ》と認《みと》めてよからう。事《こと》の表面《へうめん》は、全《まつた》く此《こ》の通《とほ》りに他《ほか》ならぬ。併《しか》し信長《のぶなが》は、自《みづ》から不可《ふか》と信《しん》ずる事《こと》に同意《どうい》する程《ほど》、將軍義昭《しやうぐんよしあき》には、重《おも》きを措《お》かなかつたであらう。彼《かれ》が義昭《よしあき》の言《げん》に從《したが》うたのは、彼自身《かれじしん》も亦《ま》た、講和《かうわ》が得策《とくさく》であることを、認《みと》めたからではあるまい乎《か》。彼《かれ》は此《これ》を好《よ》き潮合《しほあひ》として、退《ひ》き上《あ》げたのではあるまい乎《か》。
當時《たうじ》信長《のぶなが》の地位《ちゐ》は、最《もつと》も危殆《きたい》であつた。斯《か》く客土《かくど》に曠日彌?久《くわうじつびきう》するは、信長《のぶなが》の中心《ちうしん》、安《やすん》ずる所《ところ》ではなかつた。予《よ》は義昭《よしあき》が不本意《ふほんい》なる信長《のぶなが》を、其《その》意《い》に從《したが》はしめたと云《い》ふよりは、信長《のぶなが》が義昭《よしあき》のお節介《せつかい》を、或《あ》る程度《ていど》迄《まで》、利用《りよう》したのではない乎《か》と思《おも》ふ。信長《のぶなが》は徹底家《てつていか》であると同時《どうじ》に、守株者《しゆしゆしや》でない。一|度《ど》出直《でなほ》して來《く》ることは、彼《かれ》の慣用手段《くわんようしゆだん》である。時《とき》としては二|度《ど》も、三|度《ど》も出直《でなほ》して來《く》る。此《こ》の講和《かうわ》も亦《ま》た、彼《かれ》が此《こ》の慣用手段《くわんようしゆだん》ではあるまい乎《か》。
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南北兩軍の講和
元龜元年の歳も極月に迫りければ、雪甚く降積りぬれば、敵味方の足輕迫合も止けれども、軍兵殊の外勇氣を疲らし侍れば、信長卿より御内意こそ侍りけめ、室町殿○足利義昭時分を測り給ひ、信長も淺井朝倉も對陣に疲るべし?を可入と思召、雙方中和せしむ可き趣、信長卿の許へ仰越されければ、本より信長卿は内通し給ひける事なり、其上森三左衞門○可成坂井右近○政尚左右の臣は、兩月の間に討たれぬ朝倉淺井は、山門○延暦寺を城に構へ陣取勢ひを成せば幸と思ひ給ひ、兎も角も御諚次第と御請申上させ給ふ故、淺井朝倉兩人の方へも將軍の御使として中和可[#レ]仕旨被[#二]仰越[#一]ければ、兩人右の趣承將軍の仰尤忝奉[#レ]存候得共、信長卿は善く契約を違へ被[#レ]申人?の事にて御座候へば、相心得難く奉[#レ]存旨申上、承引申さゞれども、御使再三に及び、其上將軍義昭諚公御自身御出被[#レ]成達て、[#二]仰付[#一]けるに、長陣にや疲れけん軈て御請申上る、將軍御諚として向後よりしては互の領分へ手指し有間敷旨誓紙を取替し、和睦重て相調ひける、其よりして信長勢を引取給へば、朝倉淺井も諸勢悉く叡山面?を引取ける、其時淺井朝倉叡山にて對陣を張り、越年して大坂野田福島と云ひ合せ後卷をせさする物ならば、難無く信長卿を討取べきものを、兒童の樣なる淺き?哉と京童は笑ひける、扨信長卿は室町殿に御暇乞し給ひて坂本を立て、佐和山の麓鳥井本に着せ給へば、丹波?五郎左衞門左衞門尉秀長?水野下野守○信元御迎に罷出被[#レ]申けるは、今度は永々御對陣被[#レ]成候之所に味方無?渡らせ給ひ、朝倉淺井と御和睦被[#レ]成候段目出度奉[#レ]存旨申上げ?れば、信長卿戯れさせ給ひ、世間の世話にて被[#レ]仰けるは、我等の無事は申待《さるまち》の夜の歌なりと宣ひ打笑はせ給ひ、やゝ有て丹波?五郎左衞門尉を近付、潜に被[#二]仰付[#一]けるは汝は隨分智謀を運らし當城磯野丹波守○員昌を味方に引入可[#レ]申と被[#二]仰置[#一]、極月十日に岐阜に歸城し給ひける。〔淺井三代記〕


【八一】危殆の位置
信長《のぶなが》の位置《ゐち》は、元龜《げんき》二|年《ねん》の首《はじめ》に於《おい》ては、決《けつ》して羨《うらや》む可《べ》きでなかつた。彼《かれ》が味方《みかた》は、唯《た》だ徳川家康《とくがはいへやす》のみであつた。然《しか》も家康《いへやす》は、主《しゆ》として武田信玄《たけだしんげん》に當《あた》るの必要《ひつえう》生《しやう》じ、自《みづ》から來《きた》りて、信長《のぶなが》を援《たす》くることは、當分《たうぶん》不可能《ふかのう》であつた。而《しか》して所謂《いはゆる》信長《のぶなが》の苦手《にがて》たる、信玄《しんげん》の鋒芒《ほうばう》が、漸《やうや》く暴露《ばくろ》せんとした。
朝倉《あさくら》、淺井《あさゐ》は、一|時的《じてき》講和《かうわ》を遂《と》げたるも、是《こ》れ唯《た》だ休戰情態《きうせんじやうたい》で、何日《いつ》たりとも双方《さうはう》の都合《つがふ》では、開戰《かいせん》する乎《か》知《し》る可《べか》らずだ。決《けつ》して油斷《ゆだん》は出來《でき》ぬ。三好《みよし》の殘黨《ざんたう》は、龜《かめ》の子《こ》の首《くび》の如《ごと》く、放《はな》てば首《くび》を京畿《けいき》に伸《の》ばし、打《う》てば首《くび》を四|國《こく》に縮《ちゞ》む。是《これ》亦《ま》た安心《あんしん》は能《あた》はぬ。
叡山《えいざん》は如何《いか》にと云《い》ふに、固《もと》より朝倉《あさくら》、淺井《あさゐ》の一|味《み》ぢや。否《い》な其《そ》の一|味《み》たるのみならず、信長《のぶなが》には、其《そ》の所領《しよりやう》を沒收《ぼつしう》せられたる宿怨《しゆくえん》ある佛敵《ぶつてき》ではない乎《か》。
特《とく》に危險至極《きけんしごく》は、石山《いしやま》の本願寺《ほんぐわんじ》である。彼《かれ》は前年《ぜんねん》九|月《ぐわつ》十四|日《か》、天滿《てんま》ヶ|森《もり》の合戰《かつせん》にて、佐々成政《さつゝなりまさ》を手負《てお》はしめ、野村越中《のむらえつちう》を討死《うちじに》せしめ、前田又左衞門《まへだまたざゑもん》利家の力戰《りよくせん》にて、纔《わづ》かに吾軍《わがぐん》の退却《たいきやく》を得《え》せしめた程《ほど》の勁敵《けいてき》である。今《いま》や檄《げき》を天下《てんか》の門徒《もんと》に傳《つた》へ、信長《のぶなが》を佛敵《ぶつてき》、法仇《はふきう》として蜂起《ほうき》せしめ、否《しから》ざれば金穀《きんこく》、人力《じんりよく》を寄附《きふ》せしめつゝある。
就中《なかんづく》伊勢《いせ》の長島《ながしま》の長圓寺《ちやうゑんじ》は、其《そ》の勢《いきほひ》最《もつと》も猖獗《しやうけつ》を極《きは》め、男《をとこ》たる者《もの》は、一足《ひとあし》も退《ひ》く可《べか》らず、女《をんな》たる者《もの》は、一|言《ごん》も悔《くや》む可《べか》らずと、一|向《かう》の誓詞《せいし》を立《た》て。昨年《さくねん》は信長《のぶなが》の弟《おとうと》彦《ひこ》七をも、切腹《せつぷく》せしめ、今尚《いまな》ほ大阪《おほさか》と呼應《こおう》して、信長《のぶなが》に抗《かう》しつゝある。
將《は》た京都《きやうと》に在《あ》る公方家《くばうけ》は奈何《いかん》。昨年《さくねん》正月《しやうぐわつ》、内書《ないしよ》は單獨《たんどく》、且《か》つ内密《ないみつ》には發送《はつそう》せぬ、軍國《ぐんこく》の政務《せいむ》は、擧《あ》げて信長《のぶなが》に一|任《にん》すとの協約《けふやく》は成立《せいりつ》しても、將軍義昭《しやうぐんよしあき》は、固《もと》より之《これ》を遵奉《じゆんぽう》する人柄《ひとがら》ではない。彼《かれ》は實《じつ》に非信長同盟《ひのぶながどうめい》の張本《ちやうほん》、若《もし》くは主腦《しゆなふ》の一|人《にん》である。彼《かれ》は其《そ》の位地《ゐち》から云《い》へば、非信長黨《ひのぶながたう》の總理《そうり》である、信長退治會社《のぶながたいぢくわいしや》の社長《しやちやう》である。然《しか》し表面《へうめん》は尚《な》ほ信長《のぶなが》を父《ちゝ》と呼《よ》んだる、信長《のぶなが》の味方《みかた》である。縱?令《たとひ》彼《かれ》其人《そのひと》が惧《おそ》る可《べ》き敵《てき》でないとしても、彼《かれ》其人《そのひと》の位置《ゐち》は、畏《おそ》る可《べ》き位置《ゐち》である。京都《きやうと》の眞中《まんなか》に於《おい》て、足利將軍《あしかゞしやうぐん》の位置《ゐち》に立《たつ》て、天下《てんか》にアンチ信長《のぶなが》の毒瓦斯《どくがす》を、散布《さんぷ》するに於《おい》ては、信長《のぶなが》の迷惑《めいわく》知《し》る可《べ》しぢや。
上《かみ》の如《ごと》く數《かぞ》へ來《きた》れば、信長《のぶなが》の幸運《かううん》を羨《うらや》むよりも、寧《むし》ろ其《そ》の厄運《やくうん》を憐《あはれ》む可《べ》きであらう。併《しか》し信長《のぶなが》は、厄運《やくうん》に屈《くつ》する漢《をのこ》でない。彼《かれ》は恒《つね》に厄運《やくうん》と戰《たゝか》ひ、且《か》つ之《これ》を切《き》り拔《ぬ》くるを以《もつ》て、寧《むし》ろ一|種《しゆ》の愉快《ゆくわい》とし、且《か》つ誇《ほこ》りとする漢《をのこ》である。彼《かれ》は左右前後《さいうぜんご》に敵《てき》を受《う》けても、決《けつ》して狼狽《らうばい》はせぬ。彼《かれ》は順次《じゆんじ》に之《これ》を處理《しより》して、敵《てき》をして却《かへつ》て應接《おうせつ》に遑《いとま》なからしむる、天才《てんさい》を有《いう》して居《ゐ》た。
          *   *   *   *
元龜《げんき》二|年《ねん》二|月《ぐわつ》には、淺井方《あさゐかた》の重鎭《ぢうちん》磯野丹波守《いそのたんばのかみ》が歸降《きかう》して、佐和山城《さわやまじやう》を致《いた》した。彼《かれ》は全軍《ぜんぐん》敗《やぶ》れて北走《ほくさう》したるに、彼《かれ》獨《ひと》り敵中《てきちう》を突破《とつぱ》して南馳《なんち》し、佐和山《さわやま》に引《ひ》き上《あ》げたる程《ほど》の猛者《まうしや》であつた。信長《のぶなが》は丹羽長秀《にはながひで》をして、此《この》城《しろ》を守《まも》らしめた。五|月《ぐわつ》には、淺井長政《あさゐながまさ》、盟約《めいやく》を破《やぶ》りて、自《みづか》ら兵《へい》を出《いだ》し、横山城《よこやまじやう》を壓《あつ》して陣《ぢん》し、一|揆《き》を煽動《せんどう》し、處々《しよ/\》を放火《はうくわ》した。木下藤吉郎《きのしたとうきよ?らう》は打《うつ》て之《これ》を退《しりぞ》けた。五|月《ぐわつ》十二|日《にち》には、信長《のぶなが》愈《いよい》よ長島《ながしま》の門徒《もんと》退治《たいぢ》に出掛《でか》けた。信長《のぶなが》は此處《ここ》にても、門徒等《もんとら》に致《いた》された。五|月《ぐわつ》十六|日《にち》、彼《かれ》は處々《しよ/\》放火《はうくわ》して、軍《ぐん》を返《かへ》すに際《さい》し、門徒等《もんとら》鐵砲隊《てつぱうたい》を先《さき》へ廻《まは?》はし、其《そ》の歸路《きろ》を斷《た》つた。右手《めて》は大河《たいか》也《なり》、左方《さはう》は山《やま》の下道《したみち》、一|騎打《きうち》の難所《なんしよ》也《なり》。柴田《しばた》は負傷《ふしやう》した、氏家卜全《うぢいへぼくぜん》は討死《うちじに》した。信長《のぶなが》は遂《つひ》に其《そ》の目的《もくてき》を達《たつ》するを得《え》ずして、岐阜《ぎふ》に歸《かへ》つた。
八|月《ぐわつ》十八|日《にち》より、九|月《ぐわつ》十一|日《にち》迄《まで》は、彼《かれ》は江州《がうしう》の北《きた》より南《みなみ》にかけて、軍事上《ぐんじじやう》の行動《かうどう》を取《と》つた。然《しか》も彼《かれ》は未《いま》だ淺井《あさゐ》、朝倉《あさくら》に對《たい》しては、最後《さいご》の打撃《だげき》を加《くは》へず、却《かへつ》て其《そ》の與黨《よたう》たる叡山《えいざん》に向《むかつ》て、其《そ》の志《こゝろざし》を逞《たくまし》うす可《べ》く直進《ちよくしん》した。此《こ》れは枝葉《しえふ》を絶《た》ちて、本幹《ほんかん》を枯《か》らすの策《さく》であつた。


【八二】叡山燒打
信長《のぶなが》の叡山燒打《えいざんやきうち》は、千|載《ざい》の快擧《くわいきよ》だ。此《こ》れは信長《のぶなが》でなからねば出來《でき》ぬ仕事《しごと》だ。此《こ》の一|事《じ》は、殆《ほと》んど信長《のぶなが》の全性格《ぜんせいかく》の發揮《はつき》と云《い》うてもよい。政策《せいさく》として、此《こ》れが最善《さいぜん》であつた乎《か》、否乎《いなか》は、研究《けんきう》の餘地《よち》がある。併《しか》し舊時代《きうじだい》の積弊《せきへい》を、一|掃《さう》す可《べ》き場合《ばあひ》には、此程《これほど》の果斷《くわだん》は必要《ひつえう》である。而《しか》して平氣《へいき》で之《これ》を成《な》し遂《と》げ得可《うべ》き者《もの》は、秀吉《ひでよし》でもなく、家康《いへやす》でもない。斯《かゝ》る思《おも》ひ切《き》つた、無鐵砲《むてつぱう》の振舞《ふるまひ》は、信長以外《のぶながいぐわい》には、殆《ほと》んど期待《きたい》することが能《あた》はぬ。此《こ》の一|事《じ》は、信長《のぶなが》の全生涯《ぜんしやうがい》を飾《かざ》る、大善行《だいぜんかう》とは云《い》へぬ、大美事《だいびじ》とも云《い》へぬ。併《しか》し彼《かれ》の特色《とくしよく》を、遺憾《ゐかん》なく露呈《ろてい》したる快擧《くわいきよ》である。反對者《はんたいしや》は或《あるひ》は、不快擧《ふくわいきよ》であるとも云《い》ふであらう。是非《ぜひ》の論《ろん》は何《いづ》れにしても、他人《たにん》には企《くはだ》て及《およ》ばぬ離《はな》れ業《わざ》である。
叡山《えいざん》の僧徒《そうと》が、厄介者《やくかいもの》であつた事《こと》は、古《ふる》き歴史《れきし》ぢや。彼等《かれら》は恐《おそ》れ多《おほ》くも、至尊《しそん》からして、殆《ほと》んど不可抗力視《ふかかうりよくし》せられた。朕《ちん》が心《こゝろ》に叶《かな》はぬ者《もの》は、双《すご》六の賽《さい》と、鴨河《かもかは》の水《みづ》と、山法師《やまほふし》とは、白河法皇《しらかはほふわう》の御言葉《みことば》と承《うけたまは》る。彼等《かれら》が日吉《ひよし》の神輿《みこし》を奉《ほう》じて、山《やま》を下《くだ》り來《きた》る時《とき》には、朝廷《てうてい》も其《そ》の尊嚴《そんげん》を失《うしな》うた。清盛《きよもり》の福原遷都《ふくはらせんと》も、實《じつ》は叡山《えん?ざん》の僧兵《そうへい》を避《さ》くる爲《た》めが、其《そ》の理由《りいう》の一であつたと云《い》ふ説《せつ》もある。南北朝《なんぼくてう》の戰亂《せんらん》にも、叡山《えいざん》は屡《しばし》ば干係《かんけい》した。室町時代《むろまちじだい》となつて以來《いらい》、從前程《じうぜんほど》の暴威《ばうゐ》を振《ふる》ふことを得《え》なかつた、けれども尚《な》ほ居然《きよぜん》たる一|勢力《せいりよく》であつた。されば叡山《えいざん》に對《たい》しては、腫物《はれもの》に對《たい》するも同樣《どうやう》、誰《たれ》も之《これ》に觸《ふ》るゝものはなかつた。
但《た》だ信長《のぶなが》は、先《ま》づ己《おのれ》が分國《ぶんこく》の山門領《さんもんりやう》を沒收《ぼつしう》し、之《これ》に制裁《せいさい》を加《くは》へた。又《ま》た朝倉《あさくら》、淺井《あさゐ》を援助《ゑんじよ》するに於《おい》ては、之《これ》を全滅《ぜんめつ》せんと聲言《せいげん》して、包圍《はうゐ》した。而《しか》して今《いま》や昨年《さくねん》の聲言《せいげん》を、實行《じつかう》する機會《きくわい》を見出《みいだ》し、愈《いよい》よ實行《じつかう》に取《と》り掛《かゝ》つた。信長《のぶなが》の臣下《しんか》にも、佐久間信盛《さくまのぶもり》、武井夕庵等《たけゐせきあんら》は、之《これ》を諫止《かんし》した。されど斯《かゝ》る言《げん》に耳《みゝ》を傾《かたむ》くる信長《のぶなが》ではない。彼《かれ》は元龜《げんき》二|年《ねん》九|月《ぐわつ》十二|日《にち》、愈《いよい》よ之《これ》を實行《じつかう》した。彼《かれ》が燒打《やきうち》の理由《りいう》は、叡山《えいざん》が前年《ぜんねん》信長《のぶなが》の相談《さうだん》に應《おう》ぜざるのみか、
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山門山下僧衆《さんもんさんかのそうしう》、雖[#レ]爲[#二]王城之鎭守[#一]《わうじやうのちんじゆたりといへども》、行體行法出家之不[#レ]拘[#二]作法[#一]《ぎやうたいぎやうはふしゆつけのさはふにかゝはらず》、天下嘲哢《てんかのあざけり》も不[#レ]耻《はぢず》、不[#レ]顧[#二]天道之恐[#一]《てんだうのおそれをかへりみず》、婬亂魚鳥令[#二]服用[#一]《いんらんぎよてうをふくようして》、耽[#二]金銀賄[#一]《きんぎんのまいないにふけり》、而淺井朝倉令[#二]贔屓[#一]《しかうしてあさゐあさくらをひいきして》、恣相働之條《ほしいまゝにあひはたらくのでう》。〔信長公記〕
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とある。乃《すなは》ち信長《のぶなが》は、昨年《さくねん》の鬱憤《うつぷん》を散《さん》じ、且《か》つ破戒《はかい》の佛徒《ぶつと》懲罰《ちようばつ》の爲《た》めに、此《こ》の荒療治《あられうぢ》を行《おこな》うたと云《い》ふ意味《いみ》ぢや。
山法師《やまほふし》の腐敗《ふはい》は、今《いま》に始《はじま》つた事《こと》ではない。併《しか》し當時《たうじ》彼等《かれら》が、破戒亂行《はかいらんぎやう》の態《さま》は、南都《なんと》多聞院《たもんゐん》の日記《につき》によりて、想像《さうざう》が出來《でき》る。
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ひわたぶきの大堂本尊《だいどうほんぞん》は、拜《をが》まれず、燈明《とうみやう》二三|如[#レ]形在[#レ]之《かたのごとくこれあり》、堂《だう》も舍坊《しやぼう》も、一|圓《ゑん》はてきれたる體《てい》也《なり》。淺猿々々《あさまし/\》。僧衆《そうしう》は大旨《おほむね》坂本《さかもと》に下《くだつ》て、亂行不法無[#レ]限《らんぎやうふはふかぎりなし》、修學廢怠《じゆがくはいたい》の故《ゆゑ》如[#レ]此《かくのごとし》。一|山相果式也《さんあひはてしきなり》と。各被[#レ]語[#レ]之《おの/\これをかたらる?》、諸寺併此式也《しよじあはせてこのしきなり》、可[#レ]悲《かなしむべし》、可[#レ]悲《かなしむべし》。
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此《こ》れは多聞院《たもんゐん》の僧侶《そうりよ》が、現状《げんじやう》を目撃《もくげき》した實記《じつき》である。彼等《かれら》は如何《いか》に信長《のぶなが》より、破戒亂行《はかいらんぎやう》を譴《せ》められても、到底《たうてい》辯護《べんご》の辭《じ》は無《な》いのだ。然《しか》も其《そ》の燒打《やきうち》は、實《じつ》に慘酷《ざんこく》であつた。
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九|月《ぐ?つ》十二|日《にわ?ち》、叡山《えいざん》を取詰《とりつめ》、根本中堂《こんぽんちうだう》、三|王《わう》廿一|社《そう》を初《はじめ》奉《たてまつ》り、靈佛《れいぶつ》、靈社《れいしや》、僧坊《そうばう》、經卷《きやうくわん》、不[#レ]殘[#二]一宇[#一]《いちうをのこさず》、時《とき》に如[#二]雲霞[#一]燒拂爲[#二]灰燼之地[#一]社哀《くもかすみのごとくやきはらひくわいじんのちとなすこそあはれ》なれ。山下《さんか》の男女老若《なんによらうじやく》、右往左往《うわうさわう》に致[#二]廢忘[#一]《はいもういたし》、取物《とるもの》も不[#二]取敢[#一]《とりあへず》、悉《こと/″\く》かちはだしにて、八|王寺山《わうじさ?ん》へ迯上《にげのぼ》り、社内《しやない》へ迯籠《にげこもり》、諸卒《しよそつ》四|方《はう》より鬨音《とき》を上《あげ》て攻上《せめのぼ》る。
僧俗《そうぞく》、兒童《じどう》、智者《ちしや》、上人《しやうにん》、一々に頸《くび》をきり、信長之懸[#二]御目[#一]《のぶながのおんめにかけ》、是者於[#二]山頭[#一]無[#二]其隱[#一]高僧《これはさんとうにおいてそのかくれなきかうそう》、貴僧《きそう》、有智之僧《うちのそう》と申《まをし》、其外美女《そのほかびぢよ》、小童《せうどう》、不[#レ]知[#二]其員[#一]《そのかずをしらず》、召捕召列《めしとりめしつらね》、御前《ごぜん》へ參《まゐ》り、惡僧《あくそう》之|儀者不[#レ]及[#二]是非[#一]《ぎは?そうのぎはぜひにおよばず》、是者被[#レ]成[#二]御扶[#一]候《これはおんたすけなされさらふ?》へと聲々《こゑ/″\》に雖[#二]申上候[#一]《まをしあげさふらふといへども》、中々無[#二]御許容[#一]《なか/\ごきよようなく》、一々に頸《くび》を打落《うちおと》され、目《め》も當《あて》られぬ有樣也《ありさまなり》。數《す》千|之屍《のかばね》、算《さん》を亂《みだ》し、哀成仕合也《あはれなるしあはせなり》。年來之被[#レ]散[#二]御胸朦[#一]訖《ねんらいのおんむねのもやをさんぜられをはんぬ》。〔信長公記〕
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此《これ》は直筆《ちよくひつ》ぢや。信長《のぶなが》は玉石倶《ぎよくせきとも》に焚《や》いた。是《こ》れは所謂《いはゆ》る、彼《かれ》が胸朦《きようもう》を散《さん》ずる爲《た》めに、やり過《す》ぎたに相違《さうゐ》はない。吾人《ごじん》は何等《なんら》信長《のぶなが》の爲《た》めに、之《これ》を辯護《べんご》する理由《りいう》を持《も》たぬ。彼《かれ》は一|種《しゆ》の憎惡者《ぞうをしや》である。惡《あく》を惡《にく》むの餘《あまり》、必要以上《ひつえういじやう》に、至當以外《したういぐわい》に、其《そ》の懲罰《ちようばつ》を加《くは》へて打撃?《だげき》を與《あた》ふることは、彼《かれ》の性僻《せいへき》で、且《か》つ弱點《じやくてん》である。併《しか》し大體《だいたい》に於《おい》ては、叡山《えいざん》の燒打《やきうち》は、叡山《えいざん》彼自身《かれじしん》の自業自得《じごふじとく》である。或《あるひ》は併《あは》せて當時《たうじ》の叡山《えいざん》が、八百|年來《ねんらい》、積《つも》りに積《つも》つたる積惡《せきあく》を、一|時《じ》に仕拂《しはら》うたとも、解説《かいせつ》せらるるであらう。
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信長《のぶなが》は比叡山《ひえいざん》の僧徒《そうと》を憎《にく》む一|日《にち》でない。曩《さき》に軍《ぐん》を囘《かへ》したのは、嚴寒《げんかん》の爲《た》めのみではない、兵《へい》が不足《ふそく》したからだ。今度《こんど》は歸國《きこく》の樣《さま》をなしつゝ、中途《ちうと》より路《みち》を轉《てん》じ、不意《ふい》に叡山《えいざん》を圍《かこ》んだ。僧徒《そうと》は莫大《ばくだい》の償金《しやうきん》を出《いだ》して和《わ》を講《かう》ぜんとしたるも、信長《のぶなが》は肯《うべな》はなかつた。僧徒《そうと》は、賄賂《わいろ》も、虚喝《きよかつ》も、其効《そのかう》なく、今《いま》は唯《た》だ朝廷《てうてい》と公方《くばう》とを頼《たの》んだ。併《しか》し信長《のぶなが》は無頓著《むとんちやく》に兵《へい》を進《すゝ》め、坂本《さかもと》と山麓《さんろく》の二|村《そん》を燒《や》き、烟焔《えんえん》に乘《じよう》じ、兵《へい》を山上《さんじやう》に登《のぼ》らしめ、悉《こと/\》く僧徒《そうと》を殺戮《さつりく》し、全山《ぜんざん》宛《あたか》も僧徒《そうと》の屠場《とぢやう》となつた。信長《のぶなが》の命令《めいれい》は周到《しうたう》にして、觀音堂《くわんおんだう》、及《およ》び其他《そのた》の殿堂《でんだう》、寺院《じゐん》を燒《や》き、猛獸《まうじう》を?《あさ》るが如《ごと》く、兵《へい》を洞窟《どうくつ》に入《い》れ、逃《に》げ?《かく》れる者《もの》を搜《さ》がし出《だ》し、悉《こと/\》く之《これ》を戮《ころ》した。上帝《じやうてい》が此《こ》の大敵《たいてき》に罰《ばつ》を加《くは》へたのは、一五七一|年《ねん》聖《セント》ミツセルの祭日《さいじつ》であつた。〔日本西教史〕
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此《こ》れは耶蘇教側《やそけうがは》の觀察《くわんさつ》であつた。當時《たうじ》洛西《らくせい》の天龍寺《てんりうじ》に在《あ》つた策彦和尚《さくげんをしやう》は、斯《か》く詠《えい》じた。
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法衰比叡大中堂。  嘆息三炎焦[#二]上蒼[#一]。
陽温廿四郡湖水。  灰冷三千刹道場。
天子願輪懸[#二]日月[#一]。  山王權現歴[#二]星霜[#一]。
白髮曾斯有[#二]神在[#一]。  七看東海變爲[#レ]桑。
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何人《なんぴと》も此《こ》の異常《いじやう》の出來事《できごと》には、驚魄《きやうはく》、駭魂《がいこん》せぬ者《もの》はなかつた。併《しか》し『山門《さんもん》を亡《ほろぼ》す者《もの》は山門《さんもん》也《なり》、信長《のぶなが》にあらざるべし。』〔甫菴信長記〕の斷案《だんあん》には、何人《なんぴと》も賛成《さんせい》せざるを得《え》ないであらう。
信長《のぶなが》は、志賀郡《しがごほり》を明智光秀《あけちみつひで》に與《あた》へ、坂本《さかもと》に在城《ざいじやう》せしめた。而《しか》して彼《かれ》は、九|月《ぐわつ》廿|日《か》に岐阜《ぎふ》に還《かへ》つた。

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