第十二章 姉川合戰
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第十二章 姉川合戰
【七三】信長家康と共に京都に入る
元龜《げんき》元年《ぐわんねん》は、信長《のぶなが》及《およ》び家康《いへやす》に取《と》りて、頗《すこぶ》る多事多忙《たじたばう》の歳《とし》であつた。吾人《ごじん》は姑《しば》らく、此《こ》の日本中部同盟《にほんちうぶどうめい》の、協同《けふどう》の働《はた》らきに就《つい》て、觀察《くわんさつ》するであらう。
家康《いへやす》は二十九|歳《さい》にて、既《すで》に參遠《さんゑん》二|國《こく》の主《しゆ》となつた。武田氏《たけだし》との軋轢《あつれき》は、日《ひ》に増《ま》し激甚《げきじん》を加《くは》へたけれども、未《いま》だ公然《こうぜん》の破裂《はれつ》には至《いた》らなかつた。信長《のぶなが》は三十七|歳《さい》で、既《すで》に天下《てんか》の副將軍《ふくしやうぐん》たる權柄《けんぺい》を揮《ふる》うて居《ゐ》た。併《しか》し彼《かれ》の位置《ゐち》は、見掛《みか》け程《ほど》安全《あんぜん》ではなかつた。
信長《のぶなが》の力《ちから》に頼《よ》りて、擁立《ようりつ》せられたる、將軍義昭《しやうぐんよしあき》の心《こゝろ》が、不可測《ふかそく》ぢや。彼《かれ》の持病《ぢびやう》は陰謀症《いんばうしやう》ぢや。彼《かれ》は信長《のぶなが》を父《ちゝ》と呼《よ》び、陽《あら》はに其《そ》の恩《おん》に感謝《かんしや》の意《い》を表《へう》しつゝ、陰《いん》には四|方《はう》の大名《だいみやう》、及《およ》び地方的各勢力《ちはうてきかくせいりよく》に密書《みつしよ》を飛《と》ばし、非信長同盟《ひのぶながどうめい》を締結《ていけつ》し、信長《のぶなが》を斃《たふ》さんと企《くはだ》てた。
世《よ》の中《なか》には種々《しゆ/″\》の僻《へき》ある者《もの》が居《を》る。貴種《きしゆ》にして日影《ひかげ》に成長《せいちやう》した者《もの》には、別《わ》けて陰謀症《いんばうしやう》の患者《くわんじや》が多《おほ》い、義昭《よしあき》は既《すで》に其《その》症《しやう》が慢性《まんせい》となつたのであらう。英敏《えいびん》なる信長《のぶなが》も、薄々《うす/\》は此《これ》を感付《かんづい》たであらうが、彼《か》れも其《そ》れ者《しや》ぢや。未《いま》だ極内《ごくない》の事《こと》であれば、双方《さうはう》とも、知《し》らぬ振《ふ》りで、當分《たうぶん》打《う》ち過《す》ぎたのであらう。
併《しか》し信長《のぶなが》の立場《たちば》から見《み》れば、寸時《すんじ》も油斷《ゆだん》は出來《でき》ぬ。近畿《きんき》に接《せつ》して、有力《いうりよく》なる非信長《ひのぶなが》の一|勢力《せいりよく》は、越前《ゑちぜん》の朝倉《あさくら》である。叡山《えいざん》とは、大檀越《だいだんをつ》の關係《くわんけい》があり、本願寺《ほんぐわんじ》とは、縁類《えんるゐ》である。而《しか》して將軍義昭《しやうぐんよしあき》は、其《そ》の朝倉氏《あさくらし》を去《さ》るに際《さい》して、『就[#二]今度當國退座[#一]《このたびたうごくたいざにつき》、忠儀神妙思召候《ちうぎしんめうにおぼみめしさふらふ》。向後身上不[#レ]可[#二]見放[#一]候《きやうごしんじやうみはなすべからずさふらふ》。猶大藏局可[#レ]述候也《なほおほくらのつばねのぶべくさふらふなり》。』との自筆《じひつ》の一|札《さつ》を、義景《よしかげ》に渡《わた》した程《ほど》の關係《くわんけい》がある。斯《か》く算《さん》し來《きた》れば、朝倉《あさくら》は非信長同盟《ひのぶながどうめい》の主力《しゆりよく》の一たる資格《しかく》がある。
流石《さすが》に信長《のぶなが》ぢや、彼《かれ》は之《これ》に向《むかつ》て、打撃《だげき》を加《くは》ふ可《べ》く決心《けつしん》した。此《こ》の問題《もんだい》の爲《た》めに、信長《のぶなが》と、家康《いへやす》との間《あひだ》には、屡《しばし》ば打合《うちあはせ》があつた。然《しか》も機事《きじ》は密《みつ》を尚《たつと》ぶ。信長《のぶなが》は朝倉征伐《あさくらせいばつ》抔《など》とは、?《おくび》にも出《だ》さず、元龜《げんき》元年《ぐわんねん》二|月《ぐわつ》廿五|日《にち》、岐阜《ぎふ》を發《はつ》し、廿六|日《にち》江州《がうしう》の常樂寺《じやうらくじ》に抵《いた》り、悠々《いう/\》此處《ここ》に腰《こし》を据《す》ゑ。三|月《ぐわつ》三|日《か》には、相撲《すまふ》の興行《こうぎやう》をなし、同《どう》五|日《か》上京《じやうきやう》した。早馬《はやうま》にて、三|日路《かぢ》を二|日《か》に駈《か》ける信長《のぶなが》としては、良《まこと》に呑氣《のんき》な旅行《りよかう》であつた。此《こ》の相撲《すまふ》は、家康《いへやす》馳走《ちそう》の爲《た》め〔總見記〕とあれども、家康《いへやす》の濱松《はままつ》出立《しゆつた?》は、三|月《ぐわつ》七|日《か》〔武徳編年集成〕であれば、朝倉退治《あさくらたいぢ》の準備《じゆんび》として、常樂寺《じやうらくじ》滯在中《たいざいちう》の、欝散《うつさん》であつたらう。家康《いへやす》も亦《ま》た、上方見物《かみがたけんぶつ》の名義《めいぎ》で上洛《じやうらく》した。
信長《のぶなが》の物數寄《ものずき》は、今《いま》に始《はじま》らぬ事《こと》、彼《かれ》は半井驢菴《なからゐろあん》の家《いへ》に寓居《ぐうきよ》し、丹羽長秀《にはながひで》、松井友閑等《まつゐいうかんら》の手《て》にて、堺《さかひ》の豪富等《がうふら》の所持《しよぢ》する、名物茶器《めいぶつちやき》を徴發《ちようはつ》した。固《もと》より時價相當《じかさうたう》の代金《だいきん》を拂《はら》うた。同好《どうかう》の松永久秀《まつながひさひで》抔《など》も、亦《ま》た獻上《けんじやう》した。
四|月《ぐわつ》十四|日《か》には、將軍家《しやうぐんけ》普請《ふしん》落成《らくせい》の祝言《しうげん》として、能《のう》の興行《こうぎやう》があつた。飛騨?國司《ひだのこくし》姉小路中納言《あねこうぢちうなごん》、伊勢國司《いせのこくし》北畠中將《きたはたけちうしやう》、參遠國主《さんゑんのこくしゆ》徳川家康《とくがはいへやす》、畠山《はたけやま》、一|色《しき》、三好義繼《みよしよしつぐ》、松永久秀《まつながひさひで》、其《そ》の他《た》攝家《せつけ》、清華《せいくわ》の歴々《れき/\》、何《いづ》れも一|堂《だう》にて見物《けんぶつ》した。滿堂《まんだう》の和氣祥色《わきしやうしよく》は、人《ひと》をして泰平《たいへい》に醉《よ》はしめた。信長《のぶなが》は此節《このせつ》も亦《ま》た、其《そ》の官位《くわんゐ》を進《すゝ》む可《べ》く、頻《ひ?き》りに慫慂《しようよう》された。けれども彼《かれ》は固《かた》く辭退《じたい》した。彼《かれ》と義昭《よしあき》との關係《くわんけい》も、表面《へうめん》には何等《なんら》の異變《いへん》も現《あら》はれなかつた。京都《きやうと》の天地《てんち》は久《ひさ》し振《ぶ》りにて、此《かく》の如《ごと》き昇平《しようへう》の氣象《きしやう》を溢《あふ》らした。
然《しか》も信長《のぶなが》の目的《もくてき》は、泰平《たいへい》を粉飾《ふんしよく》せんが爲《た》めではなかつた。彼《かれ》の上京《じやうきやう》は、恐《おそ》らくは示威運動《じゐうんどう》を爲《な》して、將軍義昭《しやうぐんよしあき》を始《はじ》めとし、反側《はんそく》の徒《と》の禍心《くわしん》を、杜絶《とぜつ》せしめんが爲《た》めであつたらう。世《よ》の中《なか》には、如何《いか》なる場合《ばあひ》にも、不平者《いへいしや》はあるものだ。
京童《きやうわらへ?》は、
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ながらへば又《また》信長《のぶなが》や忍《しの》ばれん憂《う》しと三好《みよし》ぞ今《いま》は戀《こひ》しき
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との落首《らくしゆ》して、尚《な》ほ三好時代《みよしじだい》を慕《した》うた者《もの》もあつた。〔總見記〕京都《きやうと》の平和《へいわ》は、暴風雨前《ばうふううまへ》の大《おほ》なぎであつた。空氣《くうき》の鎭靜《ちんせい》は、寧《むし》ろ大時化《おほしけ》の前兆《ぜんてう》であつた。何《なに》を申《まを》すも將軍義昭《しやうぐんよしあき》が、非信長同盟《ひのぶながどうめい》の中樞《ちうすう》であるからには、劒呑至極《けんのんしごく》と云《い》はねばならぬ。此《こ》の機先《きせん》を制《せい》して、信長《のぶなが》が朝倉討伐《あさくらたうばつ》を企《くはだ》てたるは、良《まこと》に至當《したう》の籌略《ちうりやく》である。


【七四】朝倉征伐
朝倉家《あさくらけ》も亦《ま》た、第《だい》二の今川氏《いまがはし》であつた。斯波氏《しばし》を排《はい》して、越前《えちぜん》の守護職《しゆごしよく》となつた朝倉敏景《あさくらとしかげ》の、家訓《かくん》なるものを讀《よ》めば、
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一|於[#二]朝倉之家[#一]《あさくらのいへにおいて》、宿老《しゆくらう》を不[#レ]可[#レ]定《さだむべからず》、其身《そのみ》の器用《きよう》忠節《ちうせつ》に因《よ》り可[#レ]申之事《まをすべきのこと》。
一|代々持來抔《だい/\もちきたりなど》とて、無器用《ぶきよう》の人《ひと》に、團並《だんなみ》に奉行職被[#レ]預間敷事《ぶぎやうしよくあづけられまじきこと》。
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と云《い》ひ。世襲《せしふ》、閥暦《ばつれき》を排《はい》し、實材《じつざい》、眞能《しんのう》を擧用《きよよう》す可《べ》きを訓戒《くんかい》し。又《ま》た
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一|名作《めいさく》の刀脇差《かたなわきざし》左《さ》のみ被[#レ]好間敷候《このまれまじくさふらふ》。其故《そのゆゑ》は假令《たとへ》萬匹《まんびき》の太刀《たち》を持《もち》たり共《とも》、百|匹《ぴき》の鑓《やり》百|丁《ちやう》には勝《すぐ》れ間敷候《まじくさふらふ》。然《しか》れば萬匹《まんびき》を以《もつ》て、百|匹《ぴき》の鑓《やり》を百|丁《ちやう》求《もと》め、百|人《にん》に被[#レ]爲[#レ]持候《もたせられさふらは》ば、一|方《ぱう》は可[#二]相防[#一]事《あひふせがるべきこと》。
と云《い》ひ。武器《ぶき》の撰擇《せんたく》に付《つ》き、周到《しうたう》なる注意《ちうい》を與《あた》へ。其他《そのた》衣服《いふく》、調度《てうど》、馬鷹《うまたか》、猿樂《さるがく》の事《こと》に到《いた》る迄《まで》、最大《さいだい》漏《も》らす所《ところ》なく、子孫《しそん》の爲《た》めに計《はか》つた。而《しか》して其《そ》の孫《まご》教景入道宗滴《のりかげにふだうそうてき》の如《ごと》きも、十八|歳《さい》より七十九|歳《さい》迄《まで》、十二|度《たび》の合戰《かつせん》に、その武功《ぶこう》を顯《あら》はした。
されど滯水《たいすゐ》は子?子?《けつ/\》を生《しやう》じ、名門《めいもん》は庸闇《ようあん》を産《さん》す。敏景《としかげ》五|代《だい》の嫡流《ちよくりう》義景《よしかげ》に至《いた》りては、徒《いたづ》らに先代《せんだい》の餘慶《よけい》に依頼《いらい》し、退嬰《たいえい》、文弱《ぶんじやく》、自《みづ》から振《ふる》ふ能《あた》はず。其《そ》の氣位《きゐ》は、織田氏《おだし》の下風《かふう》に立《た》つを、屑《いさぎよし》とせざるに拘《かゝ》はらず、毫《がう》も織田氏《おだし》と並《なら》び馳《は》せて、先《さき》を爭《あら》ふの魄力《はくりよく》なく、唯《た》だ金《かね》ヶ|崎《さき》、手筒山《てづゝやま》に防禦線《ばうぎよせん》を張《は》りて、一|日《にち》の苟安《こうあん》を貪《むさぼ》つて居《ゐ》た。
信長《のぶなが》は愈《いよい》よ、今度《このたび》上京《じやうきやう》の本相《ほんさう》を發揮《はつき》し、元龜《げんき》元年《ぐわんねん》四|月《ぐわつ》廿|日《か》、北陸道《ほくろくだう》の雪融《ゆきと》け、花《はな》過《す》ぎるの佳期《かき》を卜《ぼく》し、家康《いへやす》と與《とも》に、京都《きやうと》を發《はつ》し、廿五|日《にち》には、直《たゞ》ちに敦賀表《つるがおもて》へ、人數《にんず》を繰《く》り出《だ》し、手筒山《てづゝやま》へ攻《せ》め掛《かゝ》つた。?敦賀《つるが》は朝倉《あさくら》の支流《しりう》教景入道宗滴《のりかげにふだうそうてき》、其《そ》の子《こ》景紀《かげのり》、其《そ》の子《こ》景恒《かげつね》、三|代《だい》相續《さうぞく》の知行所《ちぎやうしよ》である。當時《たうじ》織田氏《おだし》は、日本《にほん》膏沃《かうよく》の地《ち》を占《し》め、殷富《いんぷ》天下《てんか》に冠《くわん》たり。されば其《そ》の軍裝《ぐんさう》の華麗《くわれい》なる、北陸《ほくろく》の軍民《ぐんみん》、之《これ》を見《み》て、鬼人《きじん》の天降《あまくだ》りし感《かん》をなした。〔老談一言記〕信長《のぶなが》も眞先《まつさき》に、朽葉色《くちばいろ》の十|本《ぽん》のぼりの大旗《おほはた》指《さ》させ、弓《ゆみ》、鐵砲《てつぱう》、三|間柄《げんえ》の朱槍《しゆやり》三百|本《ぽん》、其次《そのつぎ》に一|樣《やう》の具足《ぐそく》著《つ》けたる武者《むしや》五百|餘騎《よき》、先驅《せんく》し、信長《のぶなが》は紺地《こんぢ》の金襴《きんらん》の包具足《つゝみぐそく》、白星《しろぼし》の三|枚甲《まいかぶと》、金作《こがねつく》りの太刀《たち》、利刀黒《りたうくろ》の馬《うま》に跨《またが》り、内外《ないぐわい》の御家人《ごけにん》、諸國《しよこく》の大名等《だいみやうら》を從《したが》へ、意氣揚々《いきやう/\》として乘《の》り込《こ》んだ。〔總見記〕手筒山《てづゝやま》は即日《そくじつ》に落城《らくじやう》した。
翌《よく》廿六|日《にち》は、金《かな》ヶ|先《さき》に詰《つ》め掛《か》けた。城主《じやうしゆ》朝倉景恒《あさくらかげつね》は、昨日《さくじつ》手筒山《てづゝやま》の後詰《ごづめ》に、其《そ》の鋭卒《えいそつ》を傷《きずつ》け、氣《き》屈《くつ》し、勢《いきほひ》挫《くじ》けて、今《いま》は如何《いかん》ともす可《べか》らず。朝倉義景《あさくらよしかげ》は、途中《とちう》迄《まで》往援《わうえん》に出掛《でか》けたれども、事件《じけん》出來《でき》たとて、一|乘谷《じようがたに》に引《ひ》き返《かへ》し。而《しか》して一|族《ぞく》朝倉景鏡《あさくらかげたゞ》をして、赴《おもむ》き救《すく》はしめんとしたるも、景鏡《かげたゞ》は織田勢《おだぜい》に氣《き》を奪《うば》はれ、府中《ふ?ちう》に兵《へい》を屯《たむろ》して、進《すゝ》み來《きた》らず。景恒《かげつね》も進退《しんたい》?《こゝ》に谷《きは》まり。同夜《どうや》開城《かいじやう》して、府中《ふちう》に退《しりぞ》いた。
此《かく》の如《ごと》く二|日《か》の間《あひだ》に、手筒《てづゝ》、金《かな》ヶ|崎《さき》二|城《じやう》を取《と》り、而《しか》して引壇城《ひきた》城《じやう》亦《ま》た落《お》ち、信長《のぶなが》は方《ま》さに木芽峠《きのめたうげ》を越《こ》えて、義景《よしかげ》の本城《ほんじやう》一|乘谷《じようがたに》に亂入《らんにふ》せんとするの刹那《せつな》に、淺井長政《あさゐながまさ》反覆《はんぷく》の警報《けいはう》に接《せつ》した。信長《のぶなが》は容易《ようい》に之《これ》を信《しん》ぜなかつた。其《そ》の理由《りいう》は、
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江北淺井備前手《かうほくあさゐびせんて》の反覆之由《はんぷくのよし》、追々其注進候《おひ/\そのちうしんにさふらふ》。然共淺井者《しかれどもあさゐは》、歴然爲[#二]御縁者[#一]之上《れきぜんごえんじやたるのうへに》、剩江北一圓《あまつさへかうほくいちゑん》に被[#二]仰付[#一]之間《おほせつけらるゝのあひだ》、不足不[#レ]可[#レ]有[#レ]之條《ふそくこれあるべからざるでう》、可[#レ]爲[#二]虚説[#一]《きよせつたるべし》と思食候《おぼしめしさふらふ》。〔信長公記〕
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此《こ》の通《とほ》りである。併《しか》し此《こ》れは信長側《のぶなががは》の理屈《りくつ》ぢや。
淺井側《あさゐがは》から見《み》れば、又《ま》た相當《さうたう》の申分《まをしぶん》がある。淺井家《あさゐけ》と、朝倉家《あさくらけ》との關係《くわんけい》は、信長《のぶなが》よりも以前《いぜん》からだ。織田家《おだけ》と縁組《えんぐみ》の際《さい》にも、此事《このこと》は特《とく》に理《こと》わつてあつたのだ。されば信長《のぶなが》は、朝倉《あさくら》と事《こと》あるに先《さきだ》ち、一|通《とほ》りの挨拶《あいさつ》は、淺井《あさゐ》に爲《な》す可《べ》きであつた。然《しか》るに彼《かれ》が無沙汰《ぶさた》にて出掛《でか》けたのは、餘《あま》りに淺井《あさゐ》を踏《ふ》み附《つ》けたる措置《そち》ではない乎《か》。
併《しか》し信長《のぶなが》は決《けつ》して、淺井《あさゐ》を莫迦《ばか》にしては居《を》らなかつた。淺井《あさゐ》は朝倉《あさくら》よりも、小邦《せうはう》ではあつたが、弱邦《じやくはう》ではなかつた。長政《ながまさ》は少壯《せうさう》ではあつたが、決《けつ》して柔懦《じうだ》の凡將《ぼんしやう》ではなかつた。箕作城《みつくりじやう》の役《えき》には、淺井勢《あさゐぜい》が信長《のぶなが》の註文通《ちうもんどほ》りに動《うご》かなかつた。さりとて信長《のぶなが》は、深《ふか》く之《これ》を咎《とが》めなかつた。京都《きやうと》に於《おい》て淺井方《あさゐかた》と、織田方《おだかた》とが、公方家《くばうけ》新館?《しんくわん》普請《ふしん》の際《さい》、小衝突《せうしようとつ》を生《しやう》じた時《とき》も、信長《のぶなが》は淺井方《あさゐかた》を庇《かば》うて、我《わ》が將士《しやうし》を叱責《しつせき》した。而《しか》して京都《きやうと》の市民《しみん》に向《むかつ》ても、淺井《あさゐ》は我《わ》が妹聟《いもうとむこ》であるから、我《かれ》を見廻《みまは》るよりも、彼《かれ》を見廻《みまは》れと云《い》うた。彼《かれ》の淺井長政《あさゐながまさ》を遇《ぐう》する、寧《むし》ろ懇切《こんせつ》を極《きは》めた。信長《のぶなが》は長政《ながまさ》に於《おい》て、確《たし》かに或物《あるもの》を認《みと》めたのであつた。
然《しか》るに信長《のぶなが》が此囘《このたび》の事《こと》を、通告《つうこく》せなかつたのは、恐《おそ》らくは淺井氏《あさゐし》の立場《たちば》の困難《こんなん》を恕察《じよさつ》したからであらう。若《も》し之《これ》を豫報《よはう》する場合《ばあひ》には、長政《ながまさ》も朝倉《あさくら》に向《むか》つて、何《なん》とか義理《ぎり》を立《た》てねばなるまい。此《こ》れは籔《やぶ》を突《つい》て、蛇《へび》を出《だ》す拙策《せつさく》ぢや。それよりも朝倉氏《あさくらし》退治《たいぢ》の後《のち》、既成《きせい》の事實《じじつ》として、長政《ながまさ》に承認《しようにん》せしむるが得策《とくさく》であると、商量《しやうりやう》したのであらう。少《すくな》くとも朝倉氏《あさくらし》平定《へいてい》の一|幕《まく》には、淺井《あさゐ》をして、中立《ちうりつ》にて濟《す》ましむる了見《れうけん》であつたらう。而《しか》して勿論《もちろん》淺井《あさゐ》も、斯《か》くするものと、確信《かくしん》したのであらう。
然《しか》るに淺井《あさゐ》が、朝倉《あさくら》と謀《はかりごと》を通《つう》じ、前後《ぜんご》より信長《のぶなが》を挾撃《はさみうち》にせんとは。是《こ》れ實《じつ》に信長《のぶなが》に取《とり?》りては、青天《せいてん》の霹靂《へきれき》である。信長《のぶなが》が容易《ようい》に之《これ》を信《しん》じなかつたのも、信長《のぶなが》としては當然《たうぜん》ぢや。されど長政《ながまさ》は信長《のぶなが》でない。信長《のぶなが》に思惑《おもわく》があれば、彼《かれ》にも思惑《おもわく》がある。彼《かれ》が何故《なにゆゑ》に朝倉氏《あさくらし》に加擔《かたん》したる乎《か》、此《こ》れは恐《おそ》らくは、朝倉氏《あさくらし》に對《たい》する、舊誼《きうぎ》のみではあるまい。淺井《あさゐ》も亦《ま》た將軍義昭《しやうぐんよしあき》に誘《いざな》はれて、非信長同盟《ひのぶながどうめい》の一|員《ゐん》となつたのであらう。或《あるひ》は其《その》父《ちゝ》久政《ひさまさ》が、強《し》ひて此《この》擧《きよ》に出《い》でしめたとの説《せつ》もある。何《いづ》れにしても信長《のぶなが》は、今《いま》や殆《ほと》んど死地《しち》に陷《おちい》つた。


【七五】金ヶ崎退却
信長《のぶなが》は正《まさ》しく違算《ゐさん》を覺《さと》つた。此上《このうへ》は如何《いか》にす可《べ》き、退《しりぞ》かん乎《か》、淺井勢《あさゐぜい》其《その》背《はい》を塞《ふさ》ぐ。進《すゝ》まん乎《か》、朝倉勢《あさくらぜい》其《その》腹《ふく》を壓《あつ》す。今《いま》や信長《のぶなが》は、全《まつた》く活路《くわつろ》を失《うしな》うた。老巧《らうこう》なる松永久秀《まつながひさひで》は、退陣《たいぢん》を勸《すゝ》めた。家康《いへやす》も淺井《あさゐ》の軍配《ぐんぱい》は、俊敏《しゆんびん》を缺《か》く、一|刻《こく》も速《すみや》かに退陣《たいぢん》すれば、退路《たいろ》の危險《きけん》を脱《だつ》するを得《う》可《べ》しと云《い》ふた。信長《のぶなが》は之《これ》に從《したが》うた。廿八|日《にち》(元龜《げんき》元年《ぐわんねん》四|月《ぐわつ》)夜《よ》、敦賀《つるが》を引《ひ》き拂《はら》うた。
大軍《たいぐん》の退却《たいきやく》は、みじめなものであつた。信長《のぶなが》は僅《わづ》かの從騎《じうき》と與《とも》に、佐柿《さがき》の城《しろ》に立寄《たちよ》り、粟屋越中守《あはやゑつちうのかみ》を頼《たの》み、此《こ》れより朽木越《くちきごえ》に向《むか》つた。朽木谷《くちきだに》は、近江高島郡《あうみたかしまごほり》に屬《ぞく》し、京都《きやうと》の北《きた》、八|瀬《せ》、大原《おほはら》より、此《この》谷《たに》を超《こ》えて、若狹《わかさ》、越前《ゑちぜん》に達《たつ》する間道《かんだう》ぢや。谷《たに》の形《かたち》は、南北《なんぼく》に長《なが》く、東西《とうざい》に狹《せま》い。其《そ》の領主《りやうしゆ》は、朽木信濃守元綱《くちきしなののかみもとつな》だ。松永久秀《まつながひさひで》は、信長《のぶなが》に向《むかつ》て、元綱《もとつな》は某《それがし》が舊知《きうち》にて候《さふらふ》、希《こひねがは》くは彼《かれ》を説《と》き、證人《しようにん》を出《いだ》させ、御案内《ごあんない》申《まを》させむ。若《も》し彼《かれ》聞《き》き入《い》れずば、刺違《さしちが》へて死《し》する迄《まで》にて候《さふらふ》と云《い》ひつゝ、自《みづ》から元綱《もとつな》の館《やかた》に赴《おもむ》き、悉《ことごと》く其《その》言《げん》の如《ごと》く行《おこな》はしめた。元綱《もとつな》は信長《のぶなが》を迎《むか》へて饗應《きやうおう》し、信長《のぶなが》は四|月《ぐわつ》晦日《みそか》、無事《ぶじ》京都《きやうと》に入《い》つた。
却説《さて》殿軍《でんぐん》は秀吉《ひでよし》であつた。此《こ》れは當人《たうにん》自《みづ》から進《すゝ》んで此《こ》の難局《なんきよく》に?《あたつ》たのだ。太田《おほた》牛《うし》一も、『金《かな》ヶ|崎《さき》城《じやう》には、木下藤吉郎《きのしたとうきちらう》殘《のこ》しおかせられ』と特筆《とくひつ》して居《を》る。諸將《しよしやう》も彼《かれ》が微勢《びせい》にして、敵國《てきこく》に殘《のこ》らんとするを歎美《たんび》し、一|隊《たい》毎《ごと》に譽《ほまれ》の士《し》五|騎《き》、十|騎《き》、二十|騎《き》宛《づゝ》を殘《のこ》し、其《そ》の援兵《えんぺい》とした。〔武徳編年集成〕秀吉《ひでよし》が柴田《しばた》、佐久間《さくま》、丹羽等《にはら》の諸將《しよしやう》に比《ひ》して、總《すべ》て不利益《ふりえき》なる位置《ゐち》に立《た》ちつゝ、遂《つ》ひに信長《のぶなが》の晩年《ばんねん》に於《おい》て、其《そ》の最《もつと》も寵信《ちようしん》を博《はく》するに至《いた》つた所以《ゆゑん》は、單《たん》に其《そ》の才能《さいのう》、機略《きりやく》の爲《た》めのみでない。彼《かれ》が恒《つね》に身《み》を以《もつ》て、他人《たにん》の難《かた》しとする所《ところ》に任《にん》ずるからである。金《かな》ヶ|崎《さき》殿軍《でんぐん》の如《ごと》きは、其《そ》の著明《ちよめい》なる一と云《い》ふ可《べ》しだ。
頼《さいは》ひに朝倉義景《あさくらよしかげ》は、此《こ》の千|載《さい》一|遇《ぐい》の好機《かうき》を逸《いつ》し、信長《のぶなが》をして死中《しちう》に活《くわつ》を得《え》せしめた。彼《かれ》は淺井《あさゐ》既《すで》に退路《たいろ》を絶《た》つ、最早《もはや》追撃《つゐげき》の要《えふ》なしと、放任《はうにん》したのであらう。而《しか》して淺井《あさゐ》も亦《ま》た、迅速《じんそく》に立《たち?》ち※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]はりて、其《その》網《あみ》を張《は》るを怠《おこた》り、空《むな》しく呑舟《どんしう》の居魚《きよぎよ》を、逸《いつ》し去《さ》つたのであらう。秀吉《ひでよし》も軍《ぐん》を全《まつた》うして、繰《く》り引《び》きに引《ひ》き上《あ》げた。彼《かれ》が家康《いへやす》の爲《た》めに、其《そ》の危急《ききふ》を脱《だつ》するを得《え》たとは、『烈祖成績《れつそせいせき》』其他《そのた》の書《しよ》に、散見《さんけん》する所《とこ》ぢや。
家康《いへやす》の退軍《たいぐん》に就《つい》ては、種々《しゆ/″\》の説《せつ》がある。『總見記《そうけんき》』には、家康《いへやす》は信長《のぶなが》に先《さき》んじ、寧《むし》ろ其《そ》の露拂《つゆばら》ひとして、廿八|日《にち》早朝《さうてう》、敦賀《つるが》を引《ひ》き上《あ》げたとある。然《しか》も『參河物語《みかはものがたり》』には、
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信長《のぶなが》も大事《だいじ》と思召《おぼしめし》て、家康《いへやす》を跡《あと》に捨置《すておき》給《たま》ひて、沙汰《さた》無《な》しに、宵《よひ》の口《くち》に引《ひ》き取《と》り給《たま》ひしを、御存知《ごぞんぢ》なくして、夜明《よあ》けて木下藤吉《きのしたとうきち》、御案内者《ごあんないしや》を申《まをし》て、退《の》かせられ給《たま》ふ。金《かな》ヶ|崎《さき》の退口《のきぐち》と申《まを》して、信長《のぶなが》の御爲《おんため》に、大事《だいじ》の退《の》き口《ぐち》也《なり》。此時《このとき》の藤吉《とうきち》は、後《のち》の世《よ》の太閤《たいかう》也《なり》。
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と云《い》ひ。信長《のぶなが》が家康《いへやす》を置去《おきざ》りにしたと明記《めいき》して居《を》る。又《ま》た『改正參河後風土記《かいせいみかはごふうどき》』には、
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木下藤吉郎秀吉《きのしたとうち?き?ち?うひでよし》、僅《わづか》に七百|餘騎《よき》にて、踏《ふ》み留《とゞま》りしが、急《いそ》ぎ神君《しんくん》の御陣營《ごぢんえい》に來《きた》り、此度《このたび》の難儀《なんぎ》を救《すく》ひ給《たま》はる可《べ》しと願《ねが》ひければ、神君《しんくん》快《こゝろよ》く請合《うけあひ》給《たま》ふ。……神君《しんくん》木下藤吉郎《きのしたとうきちらう》が方《かた》を、顧《かへり》み見給《みたま》へば、敵《てき》四|方《はう》より取圍《とりかこ》み、既《すで》に危《あやう》く見《み》えければ、御自《おんみづか》ら鐵炮《てつぱう》を放《はな》ち給《たま》ふ。……神君《しんくん》御心《おんこゝろ》靜《しづか》に椿峠《つばきたうげ》に引揚《ひきあげ》給《たま》ふ。秀吉《ひでよし》は神君《しんくん》の御馬前《ごばせん》に來《きた》り、今度《このたび》某《それがし》が後殿《しんがり》の働《はたら》きは、偏《ひとへ》に御影《おかげ》を蒙《かうむ》り、忝《かたじけなき》次第《しだい》也《なり》と、厚《あつ》く禮謝《れいしや》して、立《た》ち歸《かへ》る。
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とある。何《いづ》れにしても、家康《いへやす》の退陣《たいぢん》も容易《ようい》ではなかつた。
兎《と》も角《かく》も家康《いへやす》は、信長《のぶなが》とは別路《べつろ》を取《と》り、若狹《わかさ》の小濱《をばま》に抵《いた》り、根來谷《ねごろだに》に入《い》り、針畑《はりばた》を超《こ》え、鞍馬山《くらまやま》を過《す》ぎて、京都《きやうと》に還《かへ》つた。而《しか》して丹羽長秀《にはながひで》、明智光秀等《あけちみつひでら》も亦《ま》た、若狹《わかさ》より、武藤上野守《むとうかうづけのかみ》の人質《ひとじち》を取《と》り、五|月《ぐわつ》六|日《か》、無事《ぶじ》歸京《ききやう》した。此《これ》にて不首尾《ふしゆび》ながらも、一|同《どう》引《ひ》き上《あ》げは濟《す》んだ。
要《えふ》するに信長《のぶなが》の朝倉征伐《あさくらせいばつ》は、淺井《あさゐ》の反覆《はんぷく》の爲《た》めに、其《そ》の計畫《けいくわく》を水泡《すゐはう》に歸《き》せしめた。されど彼《かれ》の氣象《きしやう》は、此儘《このまゝ》にて放下《はうか》するを容《ゆる》さぬ。彼《かれ》は愈《いよい》よ大仕掛《おほじかけ》にて、朝倉《あさくら》、淺井《あさゐ》の聨合軍《れんがふぐん》を撃破《げきは》す可《べ》き、大決心《だいけつしん》を來《き》たした。此《これ》が則《すなは》ち姉?川《あねがは》の大血戰《だいけつせん》である。吾人《ごじん》は此《これ》に就《つい》て、更《さ》らに語《かた》る所《ところ》あるであらう。


【七六】姉?川合戰(一)
淺井長政《あさゐながまさ》の反覆《はんぷく》と同時《どうじ》に、江州《がうしう》の形勢《けいせい》は一|變《ぺん》せんとした。六|角《かく》承禎《しようてい》は、鯰江《なまづえ》の城《しろ》に籠《こも》り、觀音寺城以來《くわんおんじじやういらい》の殘黨《ざんたう》を驅《か》り聚《あつ》め、市原郷《いちはらがう》の近邊《きんぺん》に一|揆《き》を催《もよ》ほした。而《しか》して又《ま》た土民《どみん》の一|揆《き》は、各所《かくしよ》に蜂起《ほうき》した。
山科言繼等《やましなときつぐら》は、信長《のぶなが》が在京《ざいきやう》して、其《そ》の治安《ちあん》を保持《ほぢ》す可《べ》く勸説《くわんぜい》したが。信長《のぶなが》は元龜《げんき》元年《ぐわんねん》五|月《ぐわつ》九|日《か》、京都《きやうと》を出《い》で、宇佐山《うさやま》、永原《ながはら》、長光寺《ちやうくわうじ》、安土等《あづちとう》に諸將《しよしやう》を配置《はいち》し、十九|日《にち》野洲河原《やすがはら》にて、六|角《かく》承禎等《しようていら》の嘯集《せうしう》したる一|揆《き》を、蹴散《けち》らし、日野城主《ひのじやうしゆ》蒲生賢秀《がまふかたひで》父子等《ふしら》の案内《あんない》にて、千草越《ちぐさごえ》を過《す》ぎた。彼《かれ》が此《こ》の山路《さんろ》を上下《しやうか》する際《さい》、僅《わづ》かに十二三|間《げん》隔《へだ》てたる方《かた》より、砲玉《たま》二個《ふたつ》飛《と》び來《きた》りて、其《そ》の明衣《ゆかたびら》の袂《たもと》に中《あた》つた。隨行者《すゐかうしや》は驚《おどろ》いた、されど彼《かれ》は騷《さは》ぐ氣色《けしき》なく、之《これ》を搜索《そうさく》する事《こと》を制止《せいし》し、緩々《ゆる/\》と行《ゆ》き過《す》ぎた。此《こ》れは杉谷善住坊《すぎたにぜんぢうばう》とて、隱《かく》れなき鐵砲《てつぱう》の名手《めいしゆ》が、六|角《かく》承禎《しようてい》に頼《たの》まれて、狙撃《そげき》したと云《い》ふことであつた。彼《かれ》は不思議《ふしぎ》にも、一|命《めい》を拾《ひろ》うて、廿一|日《にち》に岐阜《ぎふ》に歸著《きちやく》した。
江州《がうしう》に在《あ》る柴田《しばた》、佐久間等《さくまら》の諸將《しよしやう》は、善《よ》く戰《たゝか》うた。然《しか》も六|角《かく》と淺井《あさゐ》とは、握手《あくしゆ》した。朝倉《あさくら》は越前《えちぜん》より出兵《しゆつぺい》して、淺井《あさゐ》と策應《さくおう》した。されば信長《のぶなが》は、其《その》席《せき》温《あたゝ》まるに遑《いとま》なく、六|月《ぐわつ》十九|日《にち》に岐阜《ぎふ》を發《はつ》し、廿一|日《にち》には、淺井《あさゐ》の本城《ほんじやう》小谷《をだに》に薄《せま》つた。當時《たうじ》織田氏《おだし》の領土《りやうど》は、二百四十|餘萬石《よまんごく》に上《のぼ》り、其《そ》の兵數《へいすう》も六|萬《まん》を超《こ》えた。現在《げんざい》信長《のぶなが》が動《うごか》した兵數《へいすう》は、恐《おそ》らくは其《そ》の半數《はんすう》であつたであらう。森《もり》、坂井等《さかゐら》は雲雀山《ひばりやま》に上《のぼ》り、町家《ちやうか》を燒《や》き拂《はら》うた。信長《のぶなが》は虎御前山《とらごぜんやま》に夜營《やえい》した。柴田《しばた》、佐久間《さくま》、丹羽《には》、木下《きのした》、蜂屋等《はちやら》は隨處《ずゐしよ》を放火《はうくわ》した。
信長《のぶなが》は、十二|分《ぶん》に淺井《あさゐ》を威嚇《ゐかく》したが、淺井《あさゐ》が鳴《なり》を靜《しづ》め、出《い》でゝ戰《たゝか》はぬを以《もつ》て、廿二|日《にち》引《ひ》き上《あ》げた。而《しか》して敵《てき》の追撃《つゐげき》を慮《おもんばか》つた爲《た》め、鐵砲《てつぱう》五百|挺《ちやう》に、弓《ゆみ》三十を加《くは》へ、簗田《やなだ》、中條《ちうでう》、佐々《さつさ》三|人《にん》を殿軍《でんぐん》とした。果然《くわぜん》淺井方《あさゐがた》は城門《じやうもん》を出《い》でゝ來《き》た。彼等《かれら》は何《いづ》れも返《かへ》り戰《たゝか》うて手柄《てがら》をした。而《しか》して信長《のぶなが》は此《これ》より横山城《よこやまじやう》を攻《せ》めた。横山城《よこやまじやう》は小谷城《をだにじやう》の東南《とうなん》に位《くらゐ》し、姉川《あねがは》の左岸《さがん》に近《ちか》き、臥龍山《ぐわりうさん》の頂《いたゞき》に在《あ》り。此歳《このとし》五六|月《ぐわつ》の交《かう》、新《あらた》に修築《しうちく》し、此《こ》れに淺井方《あさゐかた》の高坂《かうざ?か》、三|田村《たむら》、野村《のむら》抔《など》を入《い》れ、小谷城《をだにじやう》と※[#「特のへん+奇」、390-11]角《きかく》の勢《いきほひ》を爲《な》して居?た。
横山城《よこやまじやう》は急《きふ》には拔《ぬ》けなかつた。而《しか》して信長《のぶなが》は頸《くび》を延《の》べて、家康《いへやす》の來《きた》るを俟《ま》つた。信長《のぶなが》は今《い》ま横山城《よこやまじやう》の北《きた》、龍《りう》ヶ|鼻《はな》に野陣《やぢん》した。家康《いへやす》は六|月《ぐわつ》廿七|日《にち》、(或《あるひ》は廿四日とも云《い》ふ)龍《りう》ヶ|鼻《はな》に著《ちやく》した。信長《のぶなが》は極暑《ごくしよ》の折《をり》とて、甲冑《かつちう》を脱《だつ》し、白《しろ》き明衣《ゆかたびら》に、黒《くろ》き陣羽織《ぢんばおり》、銀箔《ぎんぱく》にて、桐蝶《きりてふ》の紋《もん》を押《お》したるを著《き》、黒《くろ》き笠《かさ》を被《かぶ》り、將几《しやうぎ》に腰掛《こしか》けて居《ゐ》たが。〔總見記〕立出《たちい》でゝ之《これ》を迎《むか》へ、其《そ》の手《て》を把《とつ》て悦《よろこ》んだ。〔東照軍鑑〕
織田《おだ》には徳川《とくがは》の援兵《えんぺい》あり、淺井《あさゐ》にも亦《ま》た、朝倉《あさくら》の加勢《かせい》が來《き》た。當時《たうじ》徳川《とくがは》の領土《りやうど》は、六十|餘萬石《よまんごく》にして、兵數《へいすう》約《やく》一|萬《まん》五千、家康《いへやす》の率《ひき》ゐ來《きた》れるもの、約《やく》五千。淺井《あさゐ》の領土《りやうど》三十九|萬石《まんごく》、兵員《へいゐん》九千七?百|餘人《よにん》。朝倉《あさくら》の領土《りやうど》八十七|萬石《まんごく》、兵員《へいゐん》凡《およ》そ二|萬人《まんにん》。義景《よしかげ》は例《れい》の如《ごと》く自《みづ》から出張《しゆつちやう》せず、其《そ》の一|族《ぞく》孫《まご》三|郎《らう》景健《かげたけ》が、約《やく》一|萬《まん》の兵《へい》を率《ひき》ゐ、廿六|日《にち》に小谷《をだに》に著陣《ちやくぢん》した。
横山城《よこやまじやう》の陷落《かんらく》は、指折《ゆびを》り數《かぞ》ふ間《ま》に迫《せま》つた。その以前《いぜん》に後詰《ごづめ》せんとは、淺井《あさゐ》、朝倉《あさくら》聨合軍《れんがふぐん》の決心《けつしん》だ。長政《ながまさ》は廿五|日《にち》小谷城《をだにじやう》の東《ひがし》、大寄山《おほよりやま》に陣《ぢん》を張《は》つた。朝倉勢《あさくらぜい》も翌《よく》廿六|日《にち》此《こゝ》に來《き》た。淺井《あさゐ》、朝倉《あさくら》兩軍《りやうぐん》は、六|月《ぐわつ》廿七|日《にち》の曉《あかつき》には、退却《たいきやく》の色《いろ》を見《み》せたが、翌《よく》廿八|日《にち》の未明《みめい》には、三十|町《ちやう》も進《すゝ》み來《きた》り、姉?川《あねがは》を前《まへ》にし、野村《のむら》、三|田村《たむら》兩郷《りやうがう》に分《わか》れて、展開《てんかい》した。大寄山《おほよりやま》より信長《のぶなが》の本陣《ほんぢん》たる、龍《りう》ヶ|鼻《はな》迄《まで》の距離《きより》は、約《やく》五十|町《ちやう》もあれば、横山城《よこやまじやう》に後詰《ごづめ》するには、不便《ふべん》なるが故《ゆゑ》に、特《とく》に其《その》軍《ぐん》を移《うつ》し、約《やく》三十|町《ちやう》前進《ぜんしん》したのだ。彼等《かれら》は廿七|日《にち》の夕《ゆふ》、軍議《ぐんぎ》に決《けつ》し、廿八|日《にち》の拂曉《ふつげう》に、總攻撃《そうこうげき》を開始《かいし》せんとしたのであつた。
姉?川《あねがは》は其《その》源《みなもと》を、江州《がうしう》東淺井郡《ひがしあさゐごほり》の北端《ほくたん》、金糞《かねくそ》ヶ|岳《だけ》に發《はつ》し、南流《なんりう》して伊吹山《いぶきやま》の西《にし》に至《いた》り、折《を》れて西流《せいりう》し、湖水《こすゐ》に入《い》る、湖北《こほく》第《だい》一の大川《おほかは》である。けれども平時《へいじ》には徒渉《とそ?ふ》も難《かた》くないが、其《そ》の右岸《うがん》の野村《のむら》の南《みなみ》より、三|田村《たむら》の西《にし》を過《す》ぎ、落村《おちむら》に亙《わた》り、延長《えんちやう》十八九|町《ちやう》は、高《たか》さ七|尺《しやく》以上《いじやう》の斷崖《だんがい》をなして、昇降《しようかう》に不便《ふべん》ぢや。
信長《のぶなが》は廿七|日《にち》の夜《よ》に、敵陣《てきぢん》の燒火《たきび》を見《み》て、扨《さ》ては彼《かれ》にも進撃《しんげき》の覺悟《かくご》があると看取《かんしゆ》し、寧《むし》ろ彼《かれ》に先《さき》んじて、我《われ》より明《みやう》廿八|日《にち》の早朝《さうてう》押《お》し寄《よ》せんと、軍議《ぐんぎ》を定《さだ》めた。最初《さいしよ》は家康《いへやす》を豫備隊《よびたい》に割《わ》り當《あ》てたが、武道《ぶだう》に掛《か》けては、一|歩《ぽ》も假借《かしやく》せぬ家康《いへやす》、いかで之《これ》を承知《しようち》す可《べ》き、信長《のぶなが》彼《かれ》の懇望《こんまう》に任《まか》せ、朝倉勢《あさくらぜい》に當《あた》らしむる※[#「こと」の合字、392-11]とした。而《しか》して稻葉伊豫守通朝《いなばいよのかみみちとも》をして、之《これ》を助《たす》けしめた。
木下藤吉郎《きのしたとうきちらう》は、此《この》地《ち》の案内者《あんないしや》であれば、織田勢《おだぜい》の先鋒《せんぱう》を望《のゞ?ぞ?》んだが、彼《かれ》は長濱《ながはま》に在《あ》りて、江州勢《がうしうぜい》を率《ひき》ゐ、其《そ》の兵士《へいし》は、何《いづ》れも淺井《あさゐ》の武威《ぶゐ》を畏《おそ》れたる者共《ものども》なれば、心許《こゝろもと》なしとて、三|番備《ばんそなへ》に立《た》たしめ、一|番《ばん》を坂井右近《さかゐうこん》、二|番《ばん》を池田信輝《いけだのぶてる》、旗本《はたもと》迄《まで》十三|段《だん》の備《そなへ》を立《た》てた。信長《のぶなが》は淺井軍《あさゐぐん》の、甚《はなは》だ與《くみ》し易《やす》からざるを、知《し》つて居《ゐ》たからである。
或《あるひ》は最初《さいしよ》は家康《いへやす》を、淺井方《あさゐかた》に當《あた》らしむる事《こと》に定《さだ》めたが、其《その》日《ひ》になりて、變更《へんかう》したと云《い》ふ説《せつ》もある、當時《たうじ》家康《いへやす》が小邦《せうはう》の主《しゆ》として、如何《いか》に其《そ》の地歩《ちほ》を占《し》めたるかは、『參河物語《みかはものがたり》』が、之《これ》を證明《しようめい》して居《ゐ》る。
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三十に足《た》らざる者《もの》が、(家康《いへやす》此時《このとき》二十九|歳《さい》)加勢《かせい》に參《まゐつ》て、一|番《ばん》を申請《まをしうけ》かねて、二|番《ばん》にあると、末世《まつせ》迄《まで》申《まをし》傳《つたへ》に罷《まか》り成《な》る可《べ》き事《こと》、迷惑《めいわく》仕《つかまつり》候《さふらふ》。兎角《とかく》に一|番《ばん》合戰《かつせん》を仰《あほ》せ付《つけ》られ候《さふら》へ、然《しか》らざれば明日《みやうにち》の合戰《かつせん》には、罷《まかり》出《いで》間敷《まじく》候《さふらふ》。然《しから》ば今日《こんにち》引拂《ひきはら》ひ罷《まか》り歸《かへ》り申《まをす》と、御返事《ごへんじ》ありければ、信長《のぶなが》聞《きこし》召《め》して家康《いへやす》の仰《おほせ》らるゝも、尤《もつともと》承《うけ》とゞけたり。左程《さほど》に思召《おぼしめし》給《たま》はゞ愈《いよ/\》忝《かたじけなく》存《ぞん》じ候《さふらふ》。其儀《そのぎ》ならば一|番《ばん》合戰《かつせん》を頼入《たのみいり》申《まをす》と仰《おほせ》られて、明日《みやうにち》の御合戰《ごが?つせん》は、家康《いへやす》の一|番陣《ばんぢん》となる。
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是《こ》れ豈《あ》に彼《かれ》が負嫌《まけぎら》ひと云《い》はん哉《や》、勝氣《かちき》強《づよ》しと云《い》はん哉《や》。此程《これほど》の覺悟《かくご》がなくしては、小邦《せうはう》として、大國《たいこく》と對等《たいとう》の交際《かうせい》は、出來《でき》ぬからである。我《われ》恒《つね》に他《た》に比《ひ》して、より重《おも》き負擔《ふたん》に耐《た》へて、始《はじ》めて他《た》と對立《たいりつ》することが出來《でき》るのぢや。家康《いへやす》の外交《ぐわいかう》は、無代價《むだいか》の外交《ぐわいかう》でない。彼《かれ》は最《もつと》も多額《たがく》の代價《だいか》を拂《はら》うて、而《しか》して最《もつと》も其《そ》の欲《ほつ》する所《ところ》を得《え》たのだ。
家康《いへやす》も家康《いへやす》だが、信長《のぶなが》も信長《のぶなが》だ。
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然《しか》る所《ところ》に各々《おの/\》申上《まをしあげ》けるは、此《こ》の以前《いぜん》より、一|番陣《ばんぢん》を仰《おほ》せ付《つけ》られ、只今《たゞいま》家康《いへやす》へ一|番陣《ばんぢん》を成《な》され候《さふら》へとの御諚《ごぢやう》の處《ところ》、迷惑《めいわく》仕《つかまつり》候《さふらふ》と申上《まをしあげ》ければ。信長《のぶなが》御腹《おんはら》を立《た》て給《たま》ひ、大《おほ》きなる聲《こゑ》をなされ、推參《すゐさん》なる忰共《せがれども》めが、何《なに》をしりて云《いふ》ぞと仰《おほせ》ければ、重《かさ》ねて音《ね》を出《だす》事《こと》ならざれば、家康《いへやす》の一|番陣《ばんぢん》に定《さだめ》ける。〔參河物語〕
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彼《かれ》は家康《いへやす》の爲《た》めに、其《そ》の面目《めんもく》を立《た》つ可《べ?》き役割《やくわり》を與《あた》へた。
         ―――――――――――――――
柴田勝家の守城
五月○元龜元年廿一日江州南郡の多勢○四千餘人を率し承禎○即ち七?角義賢自身鯰江の城を立て、柴田修理進勝家が籠り居たる長光寺○蒲生郡の城へ押寄せ、四面を取卷き此處を先途と攻ける程に、城中は小勢○四百餘人なり防ぎ兼ね惣構を押破られ、本丸ばかりに成けれども、柴田流石の剛の者にて少しも怯まず、毎度自身切て出で寄手數多討取ければ、攻あぐんで見えける處に、其近郷の百姓共は皆佐々木家○六角の譜代の民にて忽ち心を變じ、承禎に告げるは、此城には井水なし、城外より懸樋を以て水を掛け入候間、水の手を御取候へ、城兵渇に弱りて落申さんと申ければ、承禎此由を聞て頓て水の手を取切り樋を堀塞ぎける程に、城中日に水乏しく渇命に及ぶ、承禎頓て城兵の體を見んとて、平井甚助と云者を城内へ使に遣し申さるゝは、數日の籠城武勇の程は無[#レ]紛事なり、此上は無事にして城を渡し御退候へ、異議無く退かせ申すべき由云入けり、柴田對面して何樣にも城兵皆々相談せしめ、明日是より御返事申述べしと返答す、甚助態と小姓を近付け手水を遣ひ申し度と云ふ、小姓乃ち飯銅に水を入て二人して出たぶ※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]と甚助に手水を使はせ、殘りし水をば態と縁の上より庭の白砂に投捨たり、甚助見て歸て承禎に此由申し、城中存外に水多くして澤山に使ひ捨申す、此體にては中々に此城早速落難かるべしとて油斷して居たりけり、柴田は甚助をたばかり返して城中の水を點檢するに、此比迄こそ五月雨の軒の雫を溜め置て少し宛も呑たりしが、今は早や六月の炎天に雨水悉く竭き果てゝ、只二石入の水瓶に三つならでは無りけり、柴田是を見て遖れ水よ、此比中の諸卒の渇を止めさせんとて、三の瓶乍ら廣縁に舁据ゑさせ、大小上下の士卒を集め夜もすがら酒宴して、明朝は我等も各も切て出て討死すべし、迚も渇して死すべき上は是を最期の思出也、いざ各此水を呑盡して此間の渇を散せよとて、三つの瓶の水を人馬共に不[#レ]殘呑せて心を和し、人數一統に思ひ切り只一筋に討死を極む、其後勝家自身長刀の柄を以て石突にて件の三の水瓶を悉く?き破り、水の蓄是迄也と云内に、短夜已に明方なれば、六月四日の曉松明を點じ連れ、勝家眞先馳けて城兵不[#レ]殘切て出る佐々木勢一戰に突崩され四角八方へ敗軍す、鯰江相模寺三雲三郎左衞門父子高野瀬水原等を始て、佐々木方の宗徒の者共雜兵掛けて八百許討死せしむ、野洲河原邊死人?し承禎は辛き命活き殘て鯰江に引返す、柴田は快き軍に勝て委細の事を書記し、討捕る所の頸七百八十級は持せて使若?を以て岐阜へ申上ければ、信長公大に御感にて、柴田が手柄今に始めぬ事なれども、此度は猶勝れたりとて御感状に添三萬貫の地加増を?被[#レ]下、瓶破《かめわり?》り柴田殿へとぞ遊ばし被遣、誠に勝家名譽の手柄漢家の?將背水陣の類なるべし。(總見記、武家事紀、新武者物語)


【七七】姉?川合戰(二)
元龜《げんき》元年《ぐわんねん》六|月《ぐわつ》廿八|日《にち》午前《ごぜん》三|時《じ》、織田勢《おだぜい》は龍《りう》ヶ|鼻《はな》より西北《せいほく》に進《すゝ》み、徳川勢《とくがはぜい》は北《きた》に進《すゝ》み、岡山《をかやま》に至《いた》つた。前者《ぜんしや》二|萬《まん》三千、後者《こうしや》六千、其中《そのうち》一千は、稻葉通朝《いなばみちとも》の率《ひき》ゐる所《ところ》ぢや。淺井勢《あさゐぜい》八千、朝倉勢《あさくらぜい》一|萬《まん》の北軍《ほくぐん》は、攻勢《こうせい》を取《と》る可《べ》く豫期《よき》したるに、織田《おだ》、徳川《とくがは》の南軍《なんぐん》の方《はう》より弓《ゆみ》、鐵砲《てつぱう》を打《うち》かけ、開戰《かいせん》したれば、彼等《かれら》は寧《むし》ろ意外《いぐわい》であつた。
野村《のむら》には淺井《あさゐ》、三|田村《たむら》には朝倉《あさくら》、各《おの/\》姉?川《あねがは》を堺《さかひ》として、午前《ごぜん》四|時頃《じごろ》には備《そなへ》を立《た》てた。北軍《ほくぐん》は右岸《うがん》、南軍《なんぐん》は左岸《さがん》にあつた。而《しか》して戰《たゝかひ》は、徳川對朝倉《とくがはたいあさくら》の間《あひだ》に始《はじま》つた。當時《たうじ》姉?川《あねがは》の水《みづ》深《ふか》さ凡《およ》そ三|尺《じやく》、彼等《かれら》は姉?川《あねがは》を越《こ》しつ、越《こ》されつ、互《たが》ひに接戰《せつせん》した。徳川勢《とくがはぜい》の勇氣《ゆうき》は、晴《は》れの戰場《せんぢやう》なれば、恐《おそ》らくは平生《へいぜい》に一|倍《ばい》したであらう。然《しか》も朝倉勢《あさくらぜい》も善《よ》く戰《たゝか》うた、徳川勢《とくがはぜい》は右岸《うがん》に逼《せま》らんとして、屡《しばし》ば左岸《さがん》に蹙《すく》められた。
淺井方《あさゐがた》の驍將《げうしやう》磯野丹波守員昌《いそのたんばのかみかずまさ》は、自《みづ》から率先《そつせん》して殺到《さつたう》した。其《そ》の奮鬪《ふんとう》には、織田勢《おだぜい》も危《あやふ》かつた。先鋒《せんぽう》坂井右近《さかゐうこん》の子《こ》久藏《きうざう》、及《およ》び部兵《ぶへい》百|餘人《よにん》、皆《み》な討死《うちじに》した。二|陣《ぢん》の池田《いけだ》も切《き》り崩《くづ》され、十三|段《だん》の備《そなへ》十一|段《だん》迄《まで》潰《つひ》え、既《すで》に信長《のぶなが》の旗本《はたもと》に逼《せま》らんとした。家康《いへやす》は之《こた?》を見《み》て、愈《いよい》よ朝倉勢《あさくらぜい》に肉薄《にくはく》した。彼《かれ》の?下《きか》も亦《ま》た危《あやふ》かつた。而《しか》して榊原康政等《さかきばらやすまさら》をして、水田《みづた》、及《およ》び姉?川《あねがは》を渉《わた》り、側面《そくめん》より之《これ》を攻撃《こうげき》せしめた。朝倉勢《あさくらぜい》は狼狽《らうばい》した。家康《いへやす》は其機《そのき》に乘《じよう》じて、突撃《とつげき》した。此《こゝ》に於《おい》て朝倉勢《あさくらぜい》は敗北《はいぼく》した。是迄《これまで》手持無沙汰《てもちぶさた》であつた稻葉通朝《いなばみちとも》は、淺井勢《あさゐぜい》の右翼《うよく》を衝《つ》き、而《しか》して横山城《よこやまじやう》の牽制軍《けんせいぐん》たる、氏家卜全《うぢいへぼくぜん》も、安藤伊賀《あんどういが》も亦《ま》た、淺井勢《あさゐぜい》の左翼《さよく》を攻撃《こうげき》した。此《こゝ》に於《おい》て淺井勢《あさゐぜい》も、三|方《はう》攻撃《こうげき》に會《くわい》し、且《か》つ背後《はいご》を斷《た》たるゝ虞《おそれ》あるにより、總敗軍《そうはいぐん》となつた。
朝倉《あさくら》、淺井方《あさゐかた》の精英《せいえい》は、多《おほ》く此役《このえき》に死《し》した。
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六|月《ぐわつ》廿八|日《にち》卯刻《うのこく》(午前《ごぜん》四|時《じ》)己寅《つちのととら》へ向《むかつ》て、被[#レ]及[#二]御一戰[#一]《ごいつせんにおよばれ》、敵《てき》も姉?川《あねがは》へ懸《かゝ》り合《あひ》、推《おし》つ返《かへ》しつ散々《さん/″\》に入亂《いりみだ》れ黒烟《くろけむり》立《たて》て、鎬《しのぎ》を削《けづ》り、鍔《つば》を割《わ》り、?《こゝ》かしこにて、思《おも》ひ/\の働《はたらき》あり。終《つひ》に追崩《おひくづ》し、於[#二]手前[#一]討死頸之注文《てまへにおいてうちじにくびのちうもん》眞柄《まがら》十|郎左衞門《らうざゑもん》、此《この》頸《くび》青木所左衞門《あをきところざ?ゑもん》是《これ》を討《うち》とる。前波《まへなみ》新《しん》八、前波新太郎《まへなみしんたらう》、小林端周軒《こばやしはしうけん》、魚住龍文寺《うをずみりうもんじ》、黒坂備中《くろさかびつちう》、弓削《ゆげ》六|郎左衞門《らうざゑもん》、今村掃部助《いまむらかもんのすけ》、遠藤喜左衞門《ゑんどうきざゑもん》、此《この》頸《くび》竹中久作《たけなかきうさく》是《これ》を討取《うちと》る、兼《かね》て此《この》首《くび》を可[#レ]取《とるべし》と高言《かうげん》あり。淺井雅樂助《あさゐうたのすけ》、淺井齋《あさゐいつき》、狩野次郎左衞門《かりのじろざゑもん》、狩野《かりの》二|郎兵衞《ろべゑ》、細江左馬介《ほそえさまのすけ》、早崎吉兵衞《はやさききちべゑ》、此外《このほか》宗徒者《むねとのもの》千百|餘《よ》討捕《うちとり》。大谷《おほたに》(小谷《をだに》)迄《まで》五十|町《ちやう》追討《おひうち》、麓《ふもと》を御放火《ごはうくわ》、雖[#レ]然《しかりといへども》大谷《おほたに》(小谷《をだに》)者《は》高山《かうざん》、節所之地候間《せつしよのちにさふらふあひだ》、一|旦《たん》に攻上候事難[#レ]成思食《せめのぼりさふらふことなりがたくおぼしめし》、横山《よこやま》へ御人數《ごにんず》打返《うちかへ》し、勿論横山之城致[#二]降參[#一]《もちろんよこやまのしろかうさんいたし》、木下藤吉郎爲[#二]定番[#一]《きのしたとうきちらうぢやうばんとして》横山《よこやま》に被[#二]入置[#一]《いれおかる》。〔信長公記〕
記《き》する所《ところ》極《きは》めて簡略《かんりやく》ではあるが、又《ま》た極《きは》めて要領《えうりやう》を得《え》て居《を》る。遠藤喜左衞門《ゑんどうきざゑもん》は淺井方《あさゐがた》の重鎭《ちうちん》にて、味方《みかた》に紛《まぎ》れて、信長《のぶなが》を搏《う》つ可《べ》く近寄《ちかよ》りたるを、竹中久作《たけなかきうさく》に見出《みいだ》され、討《う》ち取《と》られた。久作《きうさく》は竹中重治《たけなかしげはる》の弟《おとうと》ぢや。重治《しげはる》の子《こ》重門《しげかど》の著《あらは》したる『豐鑑《ほうかん》』にも、『竹中氏久作《たけなかしきうさく》の某《それがし》、其折《そのをり》江北《かうほく》のみにあらず、あたりの國《くに》迄《まで》名《な》を擧《あ》げし遠藤氏《ゑんどうし》を討《う》つ可《べ》きと、かねて云《いひ》かたりに違《たが》はざりしぞ不思議《ふしぎ》に、皆《みな》人《ひと》思《おも》へりとなり。』と特筆《とくひつ》した。
又《ま》た淺井方《あさゐかた》の磯野丹波守《いそのたんばのかみ》は、敵軍《てきぐん》の中《なか》を突出《とつしゆつ》して、其《そ》の居城《きよじやう》佐和山《さわやま》に逃《のが》れた。而《しか》して安養寺《あんやうじ》三|郎左衞門經世《ろさゑもんつねよ》は、俘虜《ふりよ》となつたが、信長《のぶなが》は其《そ》の投降《とうかう》を諭《さと》したるも、應《おう》せざりしかば、之《これ》を小谷《をだに》に放歸《はうき》せしめた。秀吉《ひでよし》は此《こ》の機《き》に乘《じよう》じて、小谷城《をだにじやう》を陷《おとしい》る可《べ》しと云《い》ふ進言《しんげん》をしたと云《い》ふ説《せつ》もある。〔武徳編年集成〕果《はた》して然《しか》るや、否《いな》やは、知《し》る可《べか》らざるが。兎《と》も角《かく》も鐵《てつ》は熱《ねつ》したる時《とき》に打《う》つべしとの諺《ことわざ》通《どほ》りで、或《あるひ》は妙策《めうさく》であつたかも知《し》れぬ。
併《しか》し信長《のぶなが》は斯《かゝ》る場合《ばあひ》には、多少《たせう》の餘地《よち》を剩《あま》した。彼《かれ》は極《きは》めて性急《せいきふ》であるが、又《ま》た待《ま》つ可《べ》き場合《ばあひ》には、頗《すこぶ》る氣長《きなが》く待《ま》つて居《ゐ》る。彼《かれ》が武田勝頼《たけだかつより》に對《たい》したる仕打《しうち》を見《み》れば、此《こ》の作用《さよう》が判知《わか》る。
彼《かれ》は七|月《ぐわつ》一|日《にち》には、佐和山《さわやま》に磯野丹波守《いそのたんばのかみ》攻圍《こうゐ》の指揮《しき》をなし、七|月《ぐわつ》六|日《か》には、上洛《じやうらく》し、同《どう》八|日《か》には、岐阜《ぎふ》に歸著《きちやく》した。彼《かれ》が擧動《きよどう》は、何時《いつ》もながら輕快《けいくわい》であつた、神速《しんそく》であつた。
彼《かれ》は家康《いへやす》には、多大《ただい》の感謝《かんしや》をした。『今日大功不[#レ]可[#二]勝言[#一]《こんにちたいこうあげていふべからず》、前代無[#二]比倫[#一]《ぜんだいひりんなく》、後世誰爭[#レ]雄《こうせいたれかゆうをあらそはん》、可[#レ]謂[#二]當家綱紀、武門棟梁[#一]也《たうけのこうきぶもんのたうりやうといふべきなり》。』との感状《かんじやう》に、長光《ながみつ》の刀《かたな》を添《そ》へ與《あた》へた。此《これ》は將軍義輝《しやうぐんよしてる》の秘藏《ひざう》にして、三好下野入道謙齋《みよししもつけにふだうけんさい》が所持《しよぢ》したる、名物《めいぶつ》であつた。〔改正參河後風土記〕

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