第十一章 家康と信玄
【六七】家康參河一國の主となる
今川氏眞《いまがはうぢざね》は、看《み》す/\其《そ》の機會《きくわい》を逸《いつ》し去《さ》つた。家康《いへやす》は今《いま》や内亂《ないらん》を鎭定《ちんてい》したれば、更《さ》らに其《その》鋒《ほこさき》を、東參河《ひがしみかは》に向《むかつ》て進《すゝ》めた。而《しか》して敵《てき》は吉田城《よしだじやう》に據《よつ》て之《これ》を防禦《ばうぎよ》した。主將《しゆしやう》は小原肥前守鎭實《をはらひぜんのかみしげざね》ぢや。家康《いへやす》は喜見寺《きみでら》、糟塚《かすづか》等《とう》に新塞?《しんさい》を築《きづ》き、之《これ》に當《あた》らしめた。小原《をはら》は佐脇《さわき》、八|幡《まん》の兩砦《りやうさい》を設《まう》け、三|浦《うら》左馬助《さまのすけ》に守《まも》らしめ、自《みづ》から守《まも》れる吉田城《よしだじやう》、及《およ》び牧野右馬允《まきのうまのじよう》の籠《こも》れる牛窪《うしくぼ》を、援?護《ゑんご》せしめた。家康《いへやす》は又《ま》た一宮《いちのみや》に砦《とりで》を作《つく》り、本多信俊《ほんだのぶとし》に五百の兵《へい》を與《あた》へて、之《これ》を守《まも》らしめた。氏眞《うぢざね》は吉田城《よしだじやう》の攻撃?《こうげき》急《きふ》なるを聞《き》き、自《みづ》から大兵《たいへい》を率《ひき》ゐて、八|幡砦《まんのとりで》に著陣《ちやくぢん》し、佐脇《さわき》の砦《とりで》迄《まで》、其《その》陣《ぢん》を張《は》つた。斯《か》くて兵《へい》を分《わかつ》て、一は吉田城《よしだじやう》を援?《たす》けしめ、一は一宮《いちのみや》の砦《とりで》を圍《かこ》ましめ、自《みづ》から中軍《ちうぐん》を以《もつ》て、八|幡《まん》、佐脇《さわき》に備《そな》へ、別《べつ》に武田信虎《たけだのぶとら》が一|隊《たい》を以《もつ》て、岡崎《をかざき》よりの援?兵《ゑんぺい》を抑《おさ》へしめた。洵《まこと》に仰山至極《ぎやうさんしごく》なる陣立《ぢんだて》であつた。
家康《いへやす》は之《これ》を聞《き》いて、直《たゞ》ちに寡兵《くわへい》を提《ひつさ》げて、一宮《いちのみや》の砦《とりで》の後詰《ごづめ》に出掛《でか》けた。衆《しう》皆《み》な其《そ》の無謀《むぼう》を諫《いさ》めた、然《しか》も家康《いへやす》は味方《みかた》の危急《ききふ》を見《み》て、之《これ》を捨殺《すてごろ》しにするは、武士《ぶし》の道《みち》でない。勝敗《しようはい》は時《とき》の運《うん》である、いざ打《う》ち立《た》てと激勵《げきれい》した。衆《しう》皆《み》な感奮《かんぷん》した。乃《すなは》ち酒井忠次《さかゐたゞつぐ》、石川數正《いしかはかずまさ》をして、牛窪《うしくぼ》より、佐脇《さわき》、八|幡《まん》の間《あひだ》に備《そなへ》て、氏眞《うぢざね》の旗本《はたもと》を抑《おさ》へしめ、自《みづ》から武田信虎《たけだのぶとら》の陣營《ぢんえい》を突過《とつくわ》した。然《しか》も今川《いまがは》の大軍《たいぐん》は、其《そ》の勢《いきほひ》に呑《の》まれて、動《うご》く氣色《けしき》もなかつた。家康《いへやす》は其《そ》の先鋒《せんぽう》石川日向守《いしかはひうがのかみ》に下知《げち》して、?地《まつしぐら》に敵《てき》の先陣《せんぢん》を目標《もくへう》として進《すゝ》ましめた。時分《じぶん》はよきぞと鬨《とき》を作《つく》り、貝《かひ》太鼓《たいこ》を鳴《な》らし、馬《うま》を進《すゝ》めた。されど今川勢《いまがはぜい》は動《うご》かなかつた。扨《さて》は敵《てき》に戰意《せんい》はなきぞと、直線《ちよくせん》に一宮《いちのみや》の砦《とりで》に向《むか》うた。今川勢《いまがはぜい》との間《あひだ》は、僅《わづ》かに三|町《ちやう》を隔《へだ》てた。敵《てき》も多少《たせう》抵抗《ていかう》したが、家康《いへやす》の兵《へい》は其《そ》の先陣《せんぢん》と、旗本《はたもと》との間《あひだ》を突《つ》き破《やぶ》り、難《なん》なく一宮《いちのみや》の砦《とりで》に入《い》つた。斯《か》くて家康《いへやす》は、此處《ここ》に一|泊《ぱく》し、翌朝《よくてう》は本多信俊等《ほんだのぶとしら》を引具《ひきぐ》して、岡崎《をかざき》へ引《ひ》き取《と》つた。此《こ》れが所謂《いはゆ》る一宮《いちのみや》の後詰《ごづめ》とて、大高《おほたか》の兵糧入《ひやうらういれ》と一|對《つゐ》の佳話《かわ》である。家康《いへやす》の傍若無人《ばうじやくぶじん》の英武《えいぶ》はさることながら、今川氏眞《いまがはうぢざね》が大軍《たいぐん》を擁《よう》して、之《これ》を傍觀《ばうくわん》したる無氣力《むきりよく》は、笑止《せうし》である。
同年《どうねん》六|月《ぐわつ》、家康《いへやす》は再《ふたゝ》び出馬《しゆつば》して、吉田城《よしだじやう》を攻《せ》めたが、守將《しゆしやう》小原鎭實《をはらしげざね》も、善《よ》く防戰《ばうせん》した。家康《いへやす》は酒井忠次《さかゐたゞつぐ》をして、開城《かいじやう》を諭《さと》さしめた。小原《をはら》は、若《も》し此《この》城《しろ》を明《あ》け渡《わた》すが爲《た》めに、今川《いまがは》、徳川《とくがは》の舊交《きうかう》を復《ふく》するを得《え》ば、異存《いぞん》はないが、それにしては人質《ひとじち》は如何《いかん》と云《い》うた。因《よつ》て家康《いへやす》は、其《そ》の異父弟《いふてい》松平康俊《まつだひらやすとし》と、酒井忠次《さかゐたゞつぐ》の女《むすめ》於風《おふう》とを與《あた》へた。小原《をはら》は之《これ》を携《たづさ》へて、駿河《するが》に還《かへ》つた。此《かく》の如《ごと》くして參河《みかは》八|郡《ぐん》悉《こと/″\》く家康《いへやす》に屬《ぞく》した。六|月《ぐわつ》二十二|日《にち》、家康《いへやす》は吉田《よしだ》を酒井忠次《さかゐたゞつぐ》に與《あた》へて、東參河《ひがしみかは》の旗頭《はたがしら》とした。而《しか》して翌《よく》永祿《えいろく》八|年《ねん》の春《はる》に至《いた》り、牛窪《うしくぼ》の牧野成定《まきのなりさだ》も、投降《たうかう》した。長篠《ながしの》、築手《つくて》、田嶺《たみね》、所謂《いはゆ》る山家《やまが》三|方衆《ぱうしう》の輩《はい》、皆《み》な西郷《さいがう》、菅沼《すがぬま》、白井等《しらゐら》三|人《にん》によりて降《くだ》つた。此《かく》の如《ごと》くして、參河《みかは》一|圓《ゑん》、全《まつた》く家康《いへやす》の勢力圜内《せいりよくくわんない》となつた。
家康《いへやす》は岡崎《をかざき》に於《おい》て、本多作左衞門重次《ほんださくざゑもんしげつぐ》、天野《あまの》三|郎兵衞《ろべゑ》康景《やすかげ》、高力左近清長《かうりきさこんきよなが》を奉行《ぶぎやう》として、政務《せいむ》、訴訟《そしやう》の事《こと》を掌《つかさど》らしめた。高力《かうりき》は温厚《おんかう》にして、汎《ひろ》く衆《しう》を愛《あい》し、天野《あまの》は寛弘《くわんこう》にて、思慮《しりよ》多《おほ》く、本多《ほんだ》は裁斷《さいだん》流《なが》るゝが如《ごと》く、果決《くわけつ》勇猛《ゆうまう?》であつた。されば佛《ほとけ》高力《かうりき》、鬼《おに》作左《さくざ》、いちへんなしの天野《あまの》三|郎兵衞《ろべゑ》との俗謠《ぞくえう》が出來《でき》た。家康《いへやす》は良《まこと》に適所《てきしよ》に、適材《てきざい》を配置《はいち》したものと云《い》ふ可《べ》きぢや。
此《こ》れより徳川氏《とくがはし》は、今川氏《いまがはし》との間《あひだ》に、當分《たうぶん》小康《せうかう》を得《え》た。此《こ》の永祿《えいろく》八|年《ねん》より十|年《ねん》迄《まで》、約《やく》三|年間《ねんかん》は、信長《のぶなが》に取《と》りては、極《きは》めて多事多忙《たじたばう》の時《とき》であつたが、家康《いへやす》に取《と》りては、何等《なんら》領土《りやうど》を開拓《かいたく》したる事《こと》も認《みと》められぬ。此《こ》れは信長《のぶなが》と、信玄《しんげん》との交情《かうじやう》頗《すこぶ》る密《みつ》で、而《しか》して信玄《しんげん》と、今川氏《いまがはし》との舊盟《きうめい》も、尚《な》ほ繋《つな》がりつゝあれば、信長《のぶなが》の與國《よこく》たる家康《いへやす》が、今川氏《いまがはし》に向《むかつ》て、其《そ》の蠶食《さんしよく》を逞《たくまし》うする※[#「こと」の合字、349-8]は、信長《のぶなが》と信玄《しんげん》との關係《くわんけい》を沮格《そかく》する所以《ゆゑん》で、信長《のぶなが》の最《もつと》も好《この》まざる所《ところ》なれば、家康《いへやす》も彼是《かれこれ》の尋酌《しんしやく》で、差《さ》し控《ひか》へても居《ゐ》たらう。
併《しか》し信長《のぶなが》に對《たい》する一|片《ぺん》の義理《ぎり》のみならず、永祿《えいろく》七|年《ねん》六|月《ぐわつ》、吉田《よしだ》開城以來《かいじやういらい》、彼《かれ》と今川氏《いまがはし》との舊交《きうかう》恢復《くわいふく》し、今更《いまさ》ら理由《りいう》なく之《これ》を破《やぶ》る可《べ》くもなく。否《い》な寧《むしろ?》ろ家康《いへやす》に於《おい》ては、永祿《えいろく》四|年《ねん》以來《いらい》、征戰《せいせん》討伐《たうばつ》に虚日《きよじつ》なかりし創痍《さうい》を醫《い》する爲《た》めに、且《か》つは其《そ》の獲得《くわくとく》した領地《りやうち》を整理《せいり》する爲《た》めに、此《こ》の小康《せうかう》は、必要《ひつえう》であつたとも思《おも》はるゝ。要《えう》するに此《こ》の三|年《ねん》は、家康《いへやす》の休戰期《きうせんき》であるも、決《けつ》して睡眠期《すゐみんき》ではなかつたであらう。
【六八】武田、今川、徳川
左《さ》なきだに今川氏《いまがはし》の弱肉《じやくにく》に向《むかつ》て、虎視耽々《こしたん/\》たる家康《いへやす》は、永祿《えいろく》十一|年《ねん》、武田信玄《たけだしんげん》より、大井川《おほゐがは》を境《さかひ》として、駿遠《すんゑん》分割《ぶんかつ》の提議《ていぎ》に對《たい》し、快諾《くわいだく》を與《あた》へた。抑《そもそ》も信玄《しんげん》は、何故《なにゆゑ》に俄然《がぜん》今川氏《いまがはし》と絶《た》ちたる乎《か》。其《そ》の動機《どうき》は如何《いかん》、其《そ》の因由《いんゆ》は如何《いかん》、其《そ》の事情《じじやう》は如何《いかん》。吾人《ごじん》は明白《めいはく》に之《これ》を知《し》る※[#「こと」の合字、350-8]を得《え》ず、けれども多少《たせう》推測《すゐそく》することは能《あた》ふ。要《えう》するに邦土《はうど》膨脹性《ばうちやうせい》の本能的《ほんのうてき》發作《ほつさ》に他《ほか》ならぬのだ。
甲斐《かひ》は四|塞《そく》の國《くに》である。虎《とら》が此《この》國《くに》に在《あ》れば、嵎《ぐ》を負《お》ふの虎《とら》だ、榮螺《さゞえ》が此《この》國《くに》に在《あ》れば、殼《から》の内《うち》に籠《こも》る榮螺《さゞえ》だ。引込思案《ひつこみじあん》の者《もの》には、此程《これほど》便利《べんり》の地《ち》はない、進取勇往《しんしゆゆうわう》の者《もの》に取《と》りては、此程《これほど》窮屈《きうくつ》の地《ち》はない。信玄《しんげん》が何《いづ》れの分類《ぶんるゐ》に屬《ぞく》する人物《じんぶつ》であるかを知《し》らば、彼《かれ》が父《ちゝ》信虎《のぶとら》を、駿河《するが》に追《お》うて自立《じりつ》した以來《いらい》、其《その》兵《へい》を信濃《しなの》に出《いだ》し、飛騨《ひだ》に出《いだ》し、越中《ゑつちう》に出《いだ》し、上野《かうづけ》に出《いだ》し、北條氏《ほうでうし》を援《たす》けて、武藏《むさし》に出《いだ》したのも、決《けつ》して異《あや》しむに足《た?》らぬ。
然《しか》るに信玄《しんげん》は何故《なにゆゑ》に、其《そ》の鋒《ほこさき》を一|變《ぺん》して、其《そ》の世襲的《せしうてき》同盟國《どうめいこく》にして、且《か》つ親縁《しんえん》たる今川氏眞《いまがはうぢざね》を攻《せ》め、駿河《するが》を取《と》らむとは企《くはだ》てたる乎《か》。信玄《しんげん》にして、若《も》し方隅《かたすみ》に割據《かつきよ》して、滿足《まんぞく》すれば止《や》む。苟《いやしく》も大旆?《たいはい》を京都《きやうと》に掲《かゝ》げんには、東海道《とうかいだう》を取《と》るは、其《そ》の順路《じゆんろ》ではあるまい乎《か》。特《とく》に永祿《えいろく》八|年《ねん》五|月《ぐわつ》、將軍義輝《しやうぐんよしてる》は、三|好《よし》、松永黨《なつながたう》の爲《た》めに殺《ころ》され、中原《ちうげん》主《しゆ》なきの時《とき》、彼《かれ》の雄心《ゆうしん》を刺戟《しげき》したるも、一|層?《そう》痛切《つうせつ》であつたであらう。
且《か》つ信越方面《しんゑつはうめん》は、蠶食《さんしよく》し得《え》らるゝ限《かぎ》りは、既《すで》に蠶食《さんしよく》し盡《つく》した。此上《このうへ》は勞《らう》して効《かう》少《すく》なき、最《もつと》も抵抗力《ていかうりよく》の頑強《ぐわんきやう》なる部分《ぶぶん》のみぢや。其《そ》れよりも寧《むし》ろ抵抗力《ていかうりよく》少《すくな》き、而《しか》して山國《やまぐに》の甲信《かふしん》には、是非《ぜひ》なくて叶《かな》はぬ海附《うみつき》の沃土《よくど》を、手《て》に入《い》るゝ方《はう》が、便利《べんり》ではあるまい乎《か》。それに氏眞《うぢざね》の領内《りやうない》は、風流《ふうりう》踊《をどり》なるもの流行《りうかう》し、所謂《いはゆ》る『村村?《むらむら》より市中《しちう》へ躍《をどり》をかけ、市中《しちう》より武士《ぶし》へ躍《をどり》をかけ、武士《ぶし》は府城《ふじやう》へかくる。』次第《しだい》にて、上下《じやうげ》擧《こぞ》りて軍國《ぐんこく》の事《こと》を閑却《かんきやく》し、人心《じんしん》既《すで》に今川氏《いまがはし》を去《さ》りつゝあるを見《み》。天文《てんぶん》十|年以來《ねんいらい》、此處《ここ》に食客《しよくかく》たる武田信虎《たけだのぶとら》は、頻《しき》りに其《そ》の子《こ》信玄《しんげん》に向《むかつ》て、踵《きびす》を擧《あ》ぐるを促《うなが》したるに於《おい》てをやだ。
されば信玄《しんげん》は、先《ま》づ其《そ》の内輪評定《うちわひやうぢやう》をなし、永祿《えいろく》十|年《ねん》十|月《ぐわつ》、其《そ》の異論者《いろんしや》たる重臣《ぢうしん》飯富兵部《いひとみひやうぶ》に切腹《せつぷく》せしめ、義元《よしもと》の婿《むこ》にして、氏眞《うぢざね》とは義兄弟《ぎきやうだい》たる其《そ》の長子《ちやうし》義信《よしのぶ》を殺《ころ》し、其《その》?《よめ》を駿河《するが》に送《おく》り還《かへ》し、茲《こゝ》に今川氏《いまがはし》と手《て》を切《き》り。山縣昌景《やまがたまさかげ》を岡崎《をかざき》に遣《つか》はし、家康《いえやす》に向《むかつ》て、大井川《おほゐがは》を境《さかひ》として、遠州《ゑんしう》一|國《こく》は、心《こゝろ》の儘《まゝ》に切《き》り取《とり》候《さふら》へと申《まを》し向《む》けた。或《あるひ》は曰《いは》く信玄《しんげん》は、初鹿傳右衞門《はしかのでんゑもん》を、氏眞《うぢざね》に遣《つか》はし、若《も》し遠州《ゑんしう》一|國《こく》を賜《たまは》らば、參河《みかは》の徳川《とくがは》を攻《せ》め、今川氏《いまがはし》の爲《た》めに、其《その》怨《うらみ》を報《むく》ゆ可《べ》しと告《つ》げたれども、氏眞《うぢざね》斥《しりぞ》けて聞《き》かざりし爲《た》め、徳川氏《とくがはし》に駿遠分割《すんゑんぶんかつ》を申込《まをしこ》んだ。〔改正參河後風土記〕と。
信玄《しんげん》は、權謀術數《けんばうじゆつすう》の世《よ》の中《なか》であつた當時《たうじ》に於《おい》てさへも、異常《いじやう》なる外交家《ぐわいかうか》であつた。彼《かれ》の仕事《しごと》には、何等《なんら》拔目《ぬけめ》がない。信長《のぶなが》が彼《かれ》に結託《けつたく》したる如《ごと》く、彼《かれ》も亦《ま》た信長《のぶなが》に結託《けつたく》した。當時《たうじ》小邦《せうはう》の主《しゆ》たる家康《いへやす》さへも、彼《かれ》は無視《むし》せなかつた。彼《かれ》は永祿《えいろく》七|年《ねん》十一|月《ぐわつ》には、下條彈正信氏《しもでうだんじやうのぶうぢ》を使《つかひ》として、家康《いへやす》の重臣《ぢうしん》酒井忠次《さかゐたゞつぐ》に書《しよ》を寄《よ》せ、好《よしみ》を通《つう》じた。而《しか》して駿遠分割《すう?ゑんぶんかつ》の誓詞交換《せいしかうくわん》は、永祿《えいろく》十一|年《ねん》二|月《ぐわつ》に行《おこな》はれた。
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聊雖[#下]不[#レ]存[#二]疑心[#一]候[#上]《いさゝかしんをそんせず?さふらふといへども》、誓紙之儀所望申候處《せいしのぎしよまうまをしさふらふところ》、則調給候《すなはちとゝのへたまひさふらふ》、祝着候《しうちやくさふらふ》。信玄事《しんげんこと》茂|如[#二]案文[#一]書寫《あんぶんのごとくかきうつし》、於[#二]使者眼前[#一]致[#二]血判[#一]進[#レ]之候《しゝやのがんぜんにおいてけつぱんいたしこれをすゝめさふらふ》。彌御入魂所[#レ]希候《いよ/\ごじゆこんこひねがふところにさふらふ》、恐々謹言《きよう/\きんげん》。
[#地から2字上げ]二月十六日 信 玄 判
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是《こ》れ信玄《しんげん》より家康《いへやす》へ誓詞《せいし》を徴《ちよう》し、更《さ》らに之《これ》に對《たい》して、家康《いへやす》へ信玄《しんげん》の誓詞《せいし》を送《おく》りたる添状?《そへじやう》である。
然《しか》も信玄《しんげん》が、遠州《ゑんしう》を家康《いへやす》に許《ゆる》したるは、一|時《じ》の假策《かさく》のみ。彼《かれ》の意中《いちう》には蚤《と》くに、駿遠《すんゑん》を擧《あ》げて我物《わがもの》と做《な》さんとした。されば兩者《りやうしや》の關係《くわんけい》は、早晩《さうばん》破裂《はれつ》す可《べ》き運命《うんめい》を有《いう》して居《ゐ》た。但《た》だ信玄《しんげん》の此《こ》の一|擧《きよ》よりして、武田《たけだ》、今川《いまがは》、北條《ほうでう》の三|家同盟《けどうめい》は、愈《いよい》よ破壞《はくわい》し、北條氏《ほうでうし》は、今川氏《いまがはし》を援《たす》けて、武田氏《たけだし》と相《あひ》戰《たゝか》ふことゝなつた。而《しか》して更《さ》らに北條氏《ほうでうし》は、上杉氏《うへすぎし》と結《むす》びて、茲《こゝ》に北條《ほうでう》、上杉《うへすぎ》、武田《たけだ》の新葛藤《しんかつとう》を惹起《じやつき》した。
【六九】武田徳川衝突の發端
惡魔《あくま》と會食《くわいしよく》する時《とき》には、長《なが》き匙《さじ》を用《もち》ひよ。信玄《しんげん》は油斷《ゆだん》も、虚隙《すき》も出來《でき》ぬ對手《あひて》ぢや。其《そ》の家康《いへやす》と駿遠分割《すんゑんぶんかつ》の約束《やくそく》が、果《はた》して相違《さうゐ》なく實行《じつかう》せられ得《う》可《へ?》き乎《か》、否《いな》乎《か》。到底《たうてい》力《ちから》づくにて、斯《か》く爲《せ》しむるより他《ほか》に、手段《しゆだん》はあるまい。併《しか》し家康《いへやす》も、小邦《せうはう》ながら、信玄《しんげん》の向《むか》ふに立《た》つに、決《けつ》して不足《ふそく》はない。彼《かれ》は理窟屋《りくつや》でない、實力屋《じつりよくや》である。屈《くつ》せず、撓《たゆ》まず、行《ゆ》く丈《だけ》は行《ゆ》く。
信玄《しんげん》は永祿《えいろく》十一|年《ねん》十一|月《ぐわつ》六|日《にち》、甲府《かふふ》を發《はつ》し、駿河《するが》に出《い》で、松野《まつの》に進《すゝ》んだ。松野《まつの》は、現時《げんじ》の東海道岩淵停車場《とうかいだういはぶちていしやぢやう》の北《きた》一|里半《りはん》、富士川《ふじがは》に添《そ》うたる地《ち》也《なり》。氏眞《うぢざね》は自《みづ》から薩?陲嶺《さつたみね》を前《まへ》にして、清見寺《せいけんじ》に陣《ぢん》し、之《これ》を邀《むか》へ撃?《う》たんとした。然《しか》も其《そ》の將士《しやうし》皆《み》な戰意《せんい》なく、武田勢《たけだぜい》進軍《しんぐん》の旗《はた》を見《み》るや、後陣《ごぢん》の朝比奈秀盛《あさひなひでもり》先《ま》づ逃《に》げ、續《つゞい》て瀬名《せな》、三|浦《うら》、蔦山等《つたやまら》、今川氏《いまがはし》の侍大將《さむらひたいしやう》二十一|人《にん》、何《いづ》れも氏眞《うぢざね》を置《お》きざりにして、駿府《すんぷ》へ逃《に》げ返《かへ》つた。氏眞《うぢざね》も今《いま》は詮方《せんかた》なく、一|戰《せん》もせずして、軍《いくさ》を旋《かへ》した。武田勢《たけだぜい》は無人《むじん》の地《ち》を行《ゆ》く如《ごと》く推《お》して來《き》た。氏眞《うぢざね》は其《そ》の近侍《きんじ》と共《とも》に、砥《と》城?の山家《やまが》に落《お》ち延《の》びた。軈《やが》て掛川《かけがは》の城主《じやうしゆ》朝比奈備中守泰能《あさひなびつちうのかみやすよし》は、彼《かれ》を迎《むか》へて、姑《しば》らく今川氏《いまがはし》の命脈《めいみやく》を支持《しぢ》した。
其他《そのた》藤枝城《ふぢえだじやう》には、長谷川治郎右衞門《はせがはぢろうゑもん》一|族《ぞく》二十一|人《にん》楯《た》て籠《こも》り、花澤城《はなざはじやう》には、小原鎭實《をばらしげざね》、其《そ》の子《こ》三|浦《うら》右衞門佐《うゑもんのすけ》と嬰守《えいしゆ》した。然《しか》も大勢《たいぜい》は全《まつた》く非《ひ》で、信玄《しんげん》は十二|月《ぐわつ》十三|日《にち》〔甲陽軍鑑〕駿府《すんぷ》を燒《や》かしめ、今川氏《いまがはし》の榮華《えいぐわ》を一|炬《きよ》に附《ふ》した。當時《たうじ》落首《らくしゆ》あり、
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甲斐《かひ》もなき大僧正《だいそうじやう》の官職《くわんしよく》を慾《よく》に駿河《するが》の甥《をひ》倒《たふ》し見《み》よ
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と。信玄《しんげん》は曾《かつ》て叡山《えいざん》の明應院《みやうおうゐん》に賂《まいな》うて、大僧正《だいそうじやう》の僧綱《そうかう》を得《え》た。氏眞《うぢざね》は其《その》姉《あね》の子《こ》である。乃《すなは》ち叔姪《しゆくてつ》の間柄《あひだがら》である。
信玄《しんげん》は山縣昌景《やまがたまさかげ》をして、駿府《すんぷ》を守《まも》らしめ、更《さ》らに久能山《くのうざん》に築《きづ》き。曾《かつ》て小原鎭實《をはらしげざね》が吉田開城《よしだかいじやう》の砌《みぎ》り、徳川氏《とくがはし》より渡《わた》したる人質《ひとじち》、家康異父弟《いへやすいふてい》松平康俊《まつだひらやすとし》、及《およ》び酒井忠次《さかゐたゞつぐ》の女《むすめ》を、氏眞《うぢざね》の家人《けにん》三|浦《うら》與《よ》一の手《て》より受取《うけとり?》り。『信玄《しんげん》大《おほい》に悦《よろこ》び、此《こ》の人質《ひとじち》を、我方《わがかた》に留置《とめおく》ものならば、徳川殿《とくがはどの》も、後々《のち/\》は我等《われら》が幕下《ばくか》に屬《ぞく》せられんは、必定《ひつぢやう》』〔改正參河後風土記〕と、之《これ》を携《たづさ》へて甲府《かふふ》へ凱旋《がいせん》した。
信玄《しんげん》の駿河經略《するがけいりやく》と、策應《さくおう》して、家康《いへやす》の遠州經略《ゑんしうけいりやく》も、亦《ま》た成功《せいこう》した。二|股《また》の二|股《また》左衞門佐《ざゑもんのすけ》、高藪《たかやぶ》の淺原主殿《あさはらとのも》、頭陀寺《づだでら》の松下嘉兵衞《まつしたかへゑ》、久野《くの》の久野宗能《くのむねよし》、及《およ》び井伊谷《ゐいだに》の地侍《ぢざむらひ》菅沼《すがぬま》、近藤《こんどう》、鈴木《すゞき》、皆《み》な彼《かれ》に歸順《きじゆん》した。而《しか》して?《さき》に讒言《ざんげん》の爲《た》めに、今川氏眞《いまがはうぢざね》に殺《ころ》されたる、井伊谷《ゐいだに》の城主《じやうしゆ》井伊直親《ゐいなほちか》の子《こ》、萬千代《まんちよ》は、青年《せいねん》の際《さい》、家康《いへやす》に嬖寵《へいちよう》せられ、壯大《さうだい》にして更《さ》らに、井伊兵部小輔直政《ゐいひやうぶせういふなほまさ》の名《な》を轟《とゞろ》かしたる股肱《ここう》の臣《しん》となつた。此《こ》れは後《のち》の事《こと》であるが、序《ついで》ながら記《しる》して置《お》く。
家康《いへやす》の遠州經略《ゑんしうけいりやく》は、此《かく》の如《ごと》く存分《ぞんぶん》に行《おこな》はれつゝある間《あひだ》に、果《はた》して惡魔《あくま》の手《て》と接觸《せつしよく》した。信玄《しんげん》は毛頭《まうとう》當初《たうしよ》より、駿河《するが》一|國《こく》にて滿足《まんぞく》する積《つも》りはなかつた。彼《かれ》は機會《きくわい》だにあらば、遠州《ゑんしう》迄《まで》其《そ》の手《て》を伸《のば》さんと企《くはだ》てた。乃《すなは》ち彼《かれ》は秋山伯耆守晴近《あきやまはうきのかみはるちか》を、信州《しんしう》伊奈《いな》高遠《たかとほ》より山道《さんどう》を經《へ》て、遠州《ゑんしう》に入《い》らしめ。周智郡《すちごほり》乾《いぬゐ》の庄《しやう》、天野宮内右衞門《あまのくないうゑもん》が、手引《てびき》により、愛宕《あたご》に働《はた》らき入《い》り、處々《しよ/\》に手《て》を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《ま》はして、國侍《くにざむらひ》を誘拐《いうかい》した。高天神《たかてんじん》の城主《じやうしゆ》小笠原長善《をがさはらながよし》、眞蟲塚《まむしづか》の城主《じやうしゆ》小笠原長秀等《をがさはらながひでら》は、信玄方《しんげんがた》に與《くみ》せん爲《た》め、長善《ながよし》は長秀《ながひで》の二|男《なん》を人質《ひとじち》として伴《ともな》ひ、秋山晴近《あきやまはるちか》に赴《おもむ》く途中《とちう》、小笠原康元《をがさはらやすもと》に出會《しゆつくわい》し、其《そ》の説諭《せつゆ》によりて、家康《いへやす》に歸順《きじゆん》した。晴近《はるちか》は久野城《くのじやう》へ使《つかひ》を派《は》し、久野宗能《くのむねよし》を招《まね》いた。然《しか》るに宗能《むねよし》は既《すで》に家康《いへやす》に歸順《きじゆん》した後《のち》で、固《もと》より之《これ》を拒絶《きよぜつ》した。秋山《あきやま》は大《おほ》いに憤《いきどほ》りて、之《これ》を攻《せ》めた。武田《たけだ》、徳川《とくがは》の交鬪《かうとう》は、既《すで》に開始《かいし》せらる可《べ》きで?あつた。家康《いへやす》は其《そ》の違約《ゐやく》を責《せ》めた。秋山《あきやま》は伊奈《いな》へ退却《たいきやく》した。家康《いへやす》は嚴《きび》しく信玄《しんげん》へ談判《だんぱん》を持《も》ち込《こ》んだ。信玄《しんげん》からは、追《お》つて左《さ》の挨拶状《あいさつじやう》があつた。
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今度預[#二]使者[#一]執著候《このたびししやにあづかりしふちやくにさふらふ》。信玄存分《しんげんのぞんぶん》、令[#三]附[#二]與山岡口上[#一]候《やまをかこうじやうにふよせしめさふらふ》。不[#レ]能[#二]重祝[#一]候《ぢうしゆくせざるあたはずさふらふ》。如[#レ]聞者《きくごとくは》、秋山伯耆守以下之信州衆《あきやまはうきのかみいかのしんしうしう》、其表在陣《そのおもてざいぢん》、因[#レ]茲遠州競望之樣《これによつてゑんしうきやうばうのやう》、御疑心之由候《ごぎしんのよしにさふらふ》、所[#レ]詮早々爲[#レ]始[#二]秋山[#一]下伊奈衆可[#レ]控[#二]當陣[#一]候《せんずるところさう/\あきやまをはじめとししもいなしうたうぢんにひかへべくさふらふ》。猶急度可[#レ]被[#レ]付[#二]掛川落去[#一]條肝要候《なほきつとかけがはらくきよにふせらるべくでうかんえうにさふらふ》、恐々謹言《きよう/\きんげん》。
[#地から2字上げ]正月八日(永祿十二年) 信 玄
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此《こ》の問題《もんだい》は、一|先《ま》づ落著《らくちやく》した。されど兩者《りやうしや》の關係《くわんけい》は、到底《たうてい》圓滿《ゑんまん》には收《をさま》らなかつた。其《そ》の衝突《しようとつ》は、早晩《さうばん》豫期《よき》す可《べ》き事件《じけん》であつた。
【七〇】今川氏の亡滅
家康《いへやす》は氏眞《うぢざね》の籠《こも》りたる掛川城《かけがはじやう》を攻《せ》めた。然《しか》も容易《ようい》に落城《らくじやう》せなかつた。奧平貞能《おくだひらさだよし》は、家康《いへやす》に向《むかつ》て、今川氏《いまがはし》との講和《かうわ》を勸《すゝ》めた。家康《いへやす》は氏眞《うぢざね》にして、速《すみやか》に遠江《とほたふみ》を、我《われ》に屬《ぞく》せしめば、北條氏《ほうでうし》と調略《てうりやく》し、駿府《すんぷ》の城《しろ》を取《と》り返《かへ》し、彼《かれ》に與《あた》ふ可《べ》しと云《い》うた。相談《さうだん》の基礎《きそ》が、果《はた》して此《こ》の通《とほ》りであつた乎《か》、否乎《いなか》は、分明《ぶんみやう》ではないが。兎《と》に角《かく》開城《かいじやう》の議《ぎ》は漸《やうや》く成立《せいりつ》し、永祿《えいろく》十二|年《ねん》五|月《ぐわつ》六|日《か》、今川氏眞《いまがはうぢざね》は、愈《いよい》よ掛川城《かけがはじやう》を家康《いへやす》に致《いた》し、遠州《ゑんしう》懸塚?《かけづか》より舟《ふね》を艤《ぎ》して、伊豆《いづ》戸倉《とくら》に著岸《ちやくがん》、相州《さうしう》小田原《をだはら》に竄《ざん》した。家康《いへやす》は松平家忠《まつだひらいへたゞ》をして、之《これ》を送《おく》らしめた。曾《かつ》て今川家《いまがはけ》に人質《ひとじち》となつた家康《いへやす》が、今《いま》は今川家《いまがはけ》の當主《たうしゆ》を、俘虜《ふりよ》として取扱《とりあつか》ふ。人間《にんげん》運命《うんめい》の變轉《へんてん》、窮極《きうきよく》なきには、彼《かれ》も亦《また》驚《おどろ》かざるを得《え》なかつたであらう。
今川氏《いまがはし》の滅亡《めつばう》は、洵《まこと》に味氣《あぢき》なきものであつた。彼《かれ》は何故《なにゆゑ》に斯《か》く速《すみや》かに、斯《か》く無雜作《むざふさ》に滅亡《めつばう》した乎《か》、氏眞《うぢざね》の闇愚《あんぐ》にして、亡國《ばうこく》の主《しゆ》たる資格《しかく》を具備《ぐび》したるは、申《まを》す迄《まで》もない。併《しか》し此《こ》れと同時《どうじ》に、其《そ》の舊大名《きうだいみやう》たる丈《だけ》に、其《そ》の機關《きくわん》の要部《えうぶ》が、全《まつた》く老?考?(間違い)朽《らうきう》し、全《まつた》く荒廢《くわうはい》して、役《やく》に立《た》たなかつたのも、亦《ま》た一|因《いん》だ。
此《こ》れは人間社會《にんげんしやくわい》の、あらゆる舊組織《きうそしき》、舊機關《きうきくわん》に於《お》ける共通《きようつう》の運命《うんめい》ぢや。義元《よしもと》が雪齋長老《せつさいちやうらう》一|人《にん》に、專任《せんにん》したと云《い》ふは、實際《じつさい》長老以外《ちやうらういぐわい》に、役《やく》に立《た》つ者《もの》が居《を》らなかつたからであらう。氏眞《うぢざね》が三|浦《うら》右衞門佐《うゑもんのすけ》を寵用《ちようよう》したるを以《もつ》て、其《そ》の亡國《ばうこく》の理由《りいう》と云《い》ふ者《もの》あるも、桶狹間《をけはざま》戰役《せんえき》の際《さい》、十八|人衆《にんしう》、二十一|人衆等《にんしうら》の門閥連《もんばつれん》、何《いづ》れも義元《よしもと》の生死《しやうし》さへ確《たしか》めずして、逃《に》げ返《かへ》りしを恥《は》ぢて、概《おほむ》ね閉門《へいもん》出仕《しゆつし》せず。暗愚《あんぐ》なる氏眞《うぢざね》さへも、彼等《かれら》は役《やく》に立《た》たぬ者《もの》と見縊《みくび》つた。
所謂《いはゆ》る政柄《せいへい》を專《もつぱ》らにしたと稱《しよう》せらるゝ三|浦《うら》父子《ふし》、小倉内藏助《をぐらくらのすけ》の如《ごと》き、何《いづ》れも今川家《いまがはけ》の譜代《ふだい》でなく、覊旅《きりよ》の臣《しん》であつた。三|浦《うら》の父《ちゝ》、小原鎭實《をはらしげざね》が江州《がうしう》の産?《さん》であつたが、義元時代《よしもとじだい》に抱《かゝ》へられ、吉田《よしだ》の城主《じやうしゆ》に取《と》り立《たて》られ、家康《いへやす》の鋭鋒《えいほう》に對《たい》して、其《そ》の外郭《ぐわいくわく》の壁《かべ》の一|間《けん》さへも、取《と》られなかつた程《ほど》の猛將《まうしやう》であつた。右衞門佐《うゑもんのすけ》も、引間城《ひくまじやう》攻《ぜめ》には、先登《せんとう》の高名《かうみやう》をした。單《たん》に皎面《かうめん》の輕薄《けいはく》少年《せうねん》とのみは、申《まを》されまい。而《しか》して父子共《ふしとも》に花澤城《はなざはじやう》を守《まも》り、今川氏《いまがはし》の爲《た》めに奮鬪《ふんとう》したのは。?信玄《しんげん》に内通《ないつう》し、戈《ほこ》を倒《さかしま》にして迎《むか》へ降《くだ》つた、二十一|人衆《にんしう》の門閥家《もんばつけ》に比《ひ》すれば、此《こ》の新參《しんざん》の父子《ふし》を以《もつ》て、今川家《いまがはけ》に忠《ちう》なるものと云《い》はねばなるまい。
小倉内藏助《をぐらくらのすけ》も、江州《がうしう》よりの新參者《しんざんもの》、小倉與助《をぐらよすけ》の子《こ》であつた。十八|歳《さい》の時《とき》、北條氏《ほうでうし》の援?兵《ゑんぺい》として、上杉氏《うへすぎし》と川越《かはごえ》に戰《たゝか》ひ、北條氏康《ほうでううぢやす》に稱美《しようび》せられ、遂《つひ》に今川氏《いまがはし》に於《おい》て、十八|人衆《にんしう》の總頭《そうがしら》と迄《まで》經上《へのぼ》つた。斯《か》く新參者《しんざんもの》が跋扈《ばつこ》するに至《いた》つたのは、偶《たまた》ま以《もつ》て今川家《いまがはけ》の舊門閥家《きうもんばつけ》が腐敗《ふはい》した※[#「こと」の合字、361-2]を、證明《しようめい》するではない乎《か》。義元《よしもと》の西上《せいじやう》に際《さい》して、其《そ》の軍評定《いくさひやうぢやう》が遷延《せんえん》して、容易《ようい》に決著《けつちやく》せなかつたと云《い?》ふ。是亦《これま》た今川氏《いまがはし》の舊門閥《きうもんばつ》に、人《ひと》なきを證《しよう》する一|例《れい》だ。
新陳交代《しんちんかうたい》は、進化《しんくわ》の原則《げんそく》ぢや。織田《おだ》、徳川《とくがは》の興隆《こうりう》も、其《そ》の主將《しゆしやう》の拔群《ばつぐん》の豪傑《がうけつ》であつた許《ばか》りでなく、克《よ》く自《みづ》から新《あ》らたにし、且《か》つ新《あら》たなる雰圍氣《ふんゐき》を吸集《きふしふ》して、其《そ》の周圍《しうゐ》を新《あら》たにしたからである。昨日《きのふ》の味方《みかた》、今日《けふ》の敵《てき》、冬《ふゆ》の外套《ぐわいたう》は、夏《なつ》の邪魔《じやま》、舊新代謝《きうしんたいしや》の調節程《てうせつほど》、經世《けいせい》の要務《えうむ》に大切《たいせつ》のものはない。
扨《さ》て家康《いへやす》と、信玄《しんげん》の衝突《しやうとつ》は、再《ふたゝ》び出《い》で來《きた》らんとした。家康《いへやす》は遠州《ゑんしう》を一|統《とう》し、永祿《えいろく》十二|月?年《ねん》五|月《ぐわつ》下旬《げじゆん》、小兵《せうへい》を率《ひき》ゐて、國中《こくちう》巡視《じゆんし》の際《さい》、山縣昌景《やまがたまさかげ》の大兵《たいへい》と、榛原郡金谷《はいばらごほりかなや》にて出會《しゆつくわい》した。同盟《どうめい》の好《よしみ》なれば、禮《れい》を成《な》して行《ゆ》き過《す》ぎけるに、山縣《やまがた》は好機《かうき》乘《じよう》ず可《べ》しとて、喧嘩《けんくわ》に事寄《ことよ》せて、打《う》ち懸《かゝ》つた。家康《いへやす》は之《これ》を撃退《げきたい》した。此《こ》れより武田《たけだ》、徳川《とくがは》の間《あひだ》は、一|層《そう》疏隔《そかく》して來《き》た。然《しか》も信玄《しんげん》は、此《これ》を以《もつ》て、全《まつた》く自《みづ》から關知《くわんち》せざる事《こと》となし、一|時《じ》山縣《やまがた》を蟄居《ちつきよ》せしめた。
信玄《しんげん》の横著《わうちやく》は、申《まを》す迄《まで》もない。されど家康《いへやす》とても、必《かな》らずしも正直《しやうぢき》とは云《い》へまい。彼《かれ》は一|方《ぱう》には武田《たけだ》と同盟《どうめい》して、駿遠《すんゑん》の分割《ぶんかつ》を約《やく》しつゝ、他方《たはう》には今川《いまがは》と握手《あくしゆ》し、駿遠《すんゑん》分領《ぶんりやう》を提議《ていぎ》したではない乎《か》。或《あるひ》は信玄《しんげん》の不信《ふしん》を見屆《みとゞ》けた結果《けつくわ》、此《こゝ》に出《い》でたるなりとの申譯《まをしわけ》も出來《でき》るであらう。けれども駿河《するが》を氏眞《うぢざね》に與《あた》ふるの日《ひ》には、信玄《しんげん》は唯《た》だ家康《いへやす》の爲《た》めに、遠州《ゑんしう》經略《けいりやく》の踏臺《ふみだい》たるに過《す》ぎないではない乎《か》。家康《いへやす》としては、餘《あま》りに蟲《むし》の善《よ》き話《はなし》ではない乎《か》。
孟子《まうし》が所謂《いはゆ》る、春秋《しゆんじう》に義戰《ぎせん》無《な》しで、當時《たうじ》に於《おい》て、信義《しんぎ》抔《など》と申《まを》す※[#「こと」の合字、362-8]は、全《まつた》く當《あ》てにはならなかつた。但《た》だ利害《りがい》の共通《きようつう》と、其《そ》の共通《きようつう》を透察《とうさつ》する見識《けんしき》と、其《そ》の共通點《きようつうてん》を把持《はぢ》する執著力《しふちやくりよく》とが、能《よ》く信義《しんぎ》を保《たも》たしめた。織田《おだ》、徳川《とくがは》の關係《くわんけい》の如《ごと》きが、乃《すなは》ち此《こ》れである。
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今川氏の末路
其一
或人語曰駿河今川義元公へ忍?○藏武成田○名未詳子息を目見させ給ふ時今川殿の童坊に菊阿彌と云あり成田彼菊阿彌に我等忰此許無案内に候間萬事お頼入と云扨明る日成田子息目見に被[#レ]出けれとも童坊見ぬ顏にて物も不[#レ]言して居る成田の子息歸らるゝ成田の曰今日菊阿彌馳走したるかと尋られければ子息の曰見ぬ顏にて居申とあれば成田の曰左樣あるべし我等菊阿彌めを思ふ樣打擲すべし左樣有らば其方へ念頃にすべしと宣ふ扨又明る日右の子息出仕致されければ菊阿彌玄關に迎に出あれへ御座候へこれへ御座あれと事の外馳走振り也子息内へ歸られし時成田又問給ふ今日は菊阿彌馳走振格別也と語る何迚菊阿彌は御擲き被成候へば馳走致し候やと申されければ其事也澤山に銀子を取らせたる故也と被仰兎角町人や賤き者には何も不[#レ]入銀子也と云り〔翁物語後集〕
其二
或夜翁語曰善大將惡大將の沙汰品々書記したる書を見るに付け善大將の風俗は次第に絶て惡大將の風俗は盛也信玄公を近代名將と申たるは先づ文武二道の備りたる大將なりし文を好みし大將其時代に多けれども或は文字を覺る事を以て表とし學文を上に顯はし自滿す信玄公は學を好ても其道理を胸に藏め表に出し給ふ事なく理を能く辨へ家の諸法度家風の能き樣にとのみ歎き給へ共上には不[#レ]見詩を作り歌を詠じ給へとも十八九の時の行ひの惡しかりしを能く思當て少も浮世並の風流伊達なる事なし駿河今川氏眞公は取分歌道達者なりし信玄公は氏眞公も歌學何れ劣り給ふと云ふ事なし殊更源氏伊勢物語は公家衆御下向在て幾度も聞せ給ひて歌道に其心を用ひ給ふ氏眞公は歌道にも又其身の行ひにも專ら源氏伊勢物語の風を用給ひ戀慕に過ぎ給ひ人の娘の妍きを聞及ては歌を詠じて遣り武道の家に生れ乍ら裙紅を差す樣に萬の仕形いつくしがらせ公家門跡の家風の如くに見えて男らしき事尠し妍きを集め給ふ計りの工夫のみ也側に使ひ給ふ者も男らしく一存分をも申樣なる者を殊外に嫌ひ當世の流行者のどうもこうもと云ふ頭巾の如くなる奉行人の女の腐りたる如くなる弱なる者計り氣に入て其者に其身の目懸たる女を呉れて毎日毎夜の踊酒宴には件の女輿に乘り歴?々の侍の上をも乘行かし出仕して主人の目懸とも内の者とも知れざる不行儀なりし惡將の風俗如[#レ]此信玄公とは各別也右の趣を以て善惡將を知るべしと云へり〔翁物語〕
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【七一】信玄駿河を取る
信玄《しんげん》が其《そ》の舊盟《きうめい》を破《やぶ》りて、今川氏《いまがはし》を攻《せ》むるや、北條氏《ほうでうし》いかで之《これ》を默過《もくくわ》す可《べ》き。今川氏眞《いまがはうぢざね》は、北條氏康《ほうでううぢやす》の婿《むこ》である。信玄《しんげん》を隣家《りんか》とするよりも、氏眞《うぢざね》を隣家《りんか》とするが、安全《あんぜん》なるは云《い》ふ迄《まで》もない。如何《いか》に信玄《しんげん》が富士川以東《ふじがはいとう》を、與《あた》ふ可《べ》しとの甘言《かんげん》を以《もつ》て、北條氏《はうでうし》を誘《いざな》ふも、いかで斯《かゝ》る氣休《きやすめ》文句《もんく》に應《おう》ず可《べ》き。武田氏《たけだし》と、北條氏《ほうでうし》との交《まじはり》は、此《こゝ》に於《おい》て斷絶《だんぜつ》した。北條氏《ほうでうし》は、越後《ゑちご》の上杉謙信《うへすぎけんしん》と結《むす》び、信玄《しんげん》を挾撃《けふげき》せんと企《くはだ》てた。而《しか》して氏眞《うぢざね》も亦《ま》た、頻《しき》りに謙信《けんしん》に向《むかつ》て、其《そ》の來援《らいゑん》を求《もと》めた。
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去《さ》る十三|日《にち》、信玄到[#二]于府中[#一]《しんげんふちうにいたり》、不具亂入《ふぐにらんにふし》、味方失[#レ]利間《みかたりをうしなひたるあひだ》、不[#レ]及[#レ]力《ちからおよばず》、至[#二]于掛川[#一]立[#レ]馬候《かけがはにいたりうまをたてさふらふ》。先年其國申談之處《せんねんそのくにまをしだんじのところ》、甲州横合故《かふしうよこあひゆゑ》、伐組模樣候《うちくみもやうにさふらふ》。前々之筋目與云《まへ/\のすぢめといひ》、御入魂候者《ごじゆつこんにさふらはゞ》、可[#レ]爲[#二]本望[#一]候《ほんまうたるべくさふらふ》。然者相州追《しかればさうしうおつ》て被[#二]仰談[#一]所[#レ]希候《おほせだんぜられこひねがふところにさふらふ》。定而氏康父子可[#レ]被[#二]申屆[#一]之條《さだめてうぢやすふしまをしとゞけらるべきのでう》、不[#レ]能[#レ]具候《ぐするあたはずさふらふ》。何樣以[#二]使僧[#一]可[#二]申屆[#一]候《なにさましそうをもつてまをしとゞくべくさふらふ》。恐々謹言《きよう/\きんげん》。
[#地から3字上げ]十二月廿五日 上總介氏眞
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此《こ》れは永祿《えいろく》十一|年《ねん》の末《すゑ》である。氏眞《うぢざね》が今川《いまがは》、上杉《うへすぎ》兩家《りやうけ》の舊交《きうかう》を辿《たど》り、北條《ほうでう》、上杉《うへすぎ》提携《ていけい》の上《うへ》、己《おのれ》を救援《きうゑん》せんことを求《もと》めたのである。而《しか》して北條氏《ほうでうし》よりも、頻《しき》りに謙信《けんしん》の出馬《しゆつば》を促《うな》がした。永祿《えいろく》十二|年《ねん》正月《しやうぐわつ》二|日附《かづけ》を以《もつ》て、氏康《うぢやす》は其《その》書《しよ》を、上杉氏《うへすぎし》の沼田《ぬまた》に在《あ》る松本《まつもと》、川田《かはだ》、上野《うへの》の三|將《しやう》に與《あた》へ、『武田信玄多年氏政即[#二]入魂[#一]《たけだしんげんたねんうぢまさじゆつこんにつき》、數枚之誓句取替《すうまいのせいくとりかはし》、忽打拔《たちまちうちぬき》、舊冬《きうとう》十三、不[#レ]謂駿府《おもはずもすんぷ》へ亂入《らんにふ》、今川氏眞無[#二]其構[#一]《いまがはうぢざねそのかまへなく》、至[#二]于時[#一]被[#レ]失[#レ]手候間《ときにいたりててをうしなはれさふらふあひだ》、遠州掛川之地被[#レ]移候《ゑんしうかけがはのちにうつられさふらふ》。愚老息女不[#レ]求[#二]得乘物[#一]體《ぐらうそくぢよのりものをもとめえざるのてい》、此恥辱難[#レ]雪候《このちじよくすゝぎがたくさふらふ》。就中今川家斷絶歎ヶ敷次第《なかんづくいまがはけだんぜつなげかはしきしだい》に候《さふらふ》。此時越《このときゑつ》を可[#二]頼入[#一]所存《たのみいるべきしよぞん》、父子共落著候《ふしともにらくちやくさふらふ》。』と云《い》うた。氏眞夫人北條氏《うぢざねふじんほうでうし》が、徒跣《はだし》の儘《まゝ》逃《に》げ出《いだ》したる状《さま》、想《おも》ふ可《べ》しである。當時《たうじ》北條氏《ほうでうし》が水軍《すゐぐん》を以《もつ》て、往援《わうゑん》した事《こと》は、北條氏照《ほうでううぢてる》が、謙信《けんしん》へ與《あた》へたる、正月《しやうぐわつ》七|日附《かづけ》の文書《ぶんしよ》にも、船《ふね》三百|餘艘《よそう》を以《もつ》て、如勢《かせい》差《さ》し遣《つか》はされたとあるにて、明《あきら》かである。
然《しか》も謙信《けんしん》は容易《ようい》に動《うご》かなかつた。關東《くわんとう》の非北條派《ひほうでうは》の佐竹《さたけ》、里見等《さとみら》は、何《いづ》れも謙信《けんしん》の北條氏《ほうでうし》と結《むす》ぶに反對《はんたい》した。關東《くわんとう》一の大策士《だいさくし》太田《おほた》三|樂《らく》資政《すけまさ》は、寧《むし》ろ此機《このき》に乘《じよう》じて、關東《くわんとう》を平定《へいてい》す可《べ》しと説《と》いた。將軍義昭《しやうぐんよしあき》は、信玄《しんげん》の指金《さしがね》にて、織田信長《おだのぶなが》と與《とも》に、謙信《けんしん》に向《むか》つて、信玄《しんげん》との協和《けふわ》を奬《すゝ》めた。
謙信《けんしん》は兩者《りやうしや》の間《あひだ》に、衣違《いゐ》した。然《しか》も北條氏《ほうでうし》は、頻《しき》りに謙信《けんしん》に哀求《あいきう》した。謙信《けんしん》は相《あ》ひ換《かは》らず、煮《に》え切《き》らなかつた。永祿《えいろく》十二|年《ねん》二|月《ぐわつ》六|日附《かづけ》の、北條氏政《ほうでううぢまさ》が、由良信濃守《ゆらしなのゝかみ》へ與《あた》へたる文書中《ぶんしよちう》には、『抑去《そも/\さる》廿六、三|島打立《しまうちたち》、薩陲山敵追崩《さつたやまのてきおひくづし》、彼嶺《かのみね》に張[#レ]陣《ぢんをはり》、甲相《かふさう》一|里之間《りのあひだ》に對陣候《たいぢんさふらふ》。此時信州《このときしんしう》へ越衆就[#二]出張[#一]者《え?つしうしゆつちやうにならば》、越相互之本意《ゑつさうたがひのほんい》、不[#レ]可[#レ]廻[#レ]踵候歟《くびすをかへすべからずさふらふか》。』とある。乃《すなは》ち北條氏《ほうでうし》が、永祿《えいろく》十二|年《ねん》正月《しやうぐわつ》廿六|日《にち》、三|島《しま》を發《はつ》し、薩陲嶺《さつたれい》に於《おい》て、武田勢《たけだぜい》と勢《たゝか》うて之《これ》を破《やぶ》つた事實《じじつ》は、此《こ》れで明《あきら》かだ。
甲相《かふさう》對陣《たいぢん》九十|餘日《よじつ》、四|月《ぐわつ》廿八|日《にち》信玄《しんげん》は、甲州《かふしう》に還《かへ》つた。此《こ》れは上杉氏《うへすぎし》の北條氏《ほうでうし》と策應《さくおう》して、其《その》虚《きよ》を擣《つ》かんことを、慮《おもんばか》つた爲《た》めである乎《か》。將《は》た徳川氏《とくがはし》が、北條氏《ほうでうし》と相應《あひおう》じて、武田氏《たけだし》を挾撃《けふげき》せんとするを、慮《おもんばか》つた爲《た》めである乎《か》。或《あるひ》は糧食《りやうしよく》に窮《きう》したる爲《た》めである乎《か》。武田氏《たけだし》が海運《かいうん》の便《べん》を、北條氏《ほうでうし》より斷《た》たれたるは、武田氏《たけだし》に取《と》りて、少《すくな》からざる打撃《だげき》であつたであらう。
併《しか》し信玄《しんげん》は、決《けつ》して此《これ》にて止《や》む可《べ》きでなかつた。彼《かれ》は上杉氏《うへすぎし》と、北條氏《ほうでうし》との提携《ていけい》が、有力《いうりよく》なる攻守同盟《こうしゆどうめい》となる迄《まで》に、進捗《しんちよく》せざるを見《み》た。彼《かれ》は謙信《けんしん》が越中《ゑつちう》に於《おい》て、椎名氏《しひなし》と戰《たゝか》ひ、其《その》力《ちから》を氏康父子《うぢやすふし》に假《か》す能《あた》はざるを見《み》た。故《ゆゑ》に彼《かれ》は六|月《ぐわつ》、甲府《かふふ》より富士山中《ふじさんちう》の金王通《こんわうどほり》、大宮《おほみや》に出《い》で、東駿河《ひがしするが》より伊豆《いづ》に入《い》り、三|島社《しましや》附近《ふきん》を放火《はうくわ》し、河鳴島《かはなるじま》に陣《ぢん》したが、洪水《こうずゐ》に遭《あ》うて、其《そ》の目的《もくてき》を果《はた》さなかつた。
されば八|月下旬《ぐわつげじゆん》には、更《さ》らに再擧《さいきよ》を謀《はか》り、兵《へい》を二手《ふたて》に分《わ》け、一|方《ぱう》は自《みづ》から信州佐久郡《しんしうさくごほり》より、西上野《にしかうづけ》を經《へ》て武藏《むさし》に入《い》り、北條氏邦《ほうでううぢくに》の守《まも》れる鉢形城《はちがたじやう》を攻《せ》め、高麗郡《こまごほり》に亂入《らんにふ》し。他方《たはう》は郡内《ぐんない》より小山田信茂《をやまだのぶしげ》をして、八|王子街道《わうじ?かいだう》を出《いで》て、八|王子城《わうぢ?じやう》を攻《せ》めしめ。兩軍《りやうぐん》相《あひ》合《がつ》して、厚木《あつぎ》に抵《いた》り、平塚?《ひらつか》を過《す》ぎ、九|月下旬《ぐわつげじゆん》、小田原《をだはら》に迫《せま》り、近郊《きんかう》に火《ひ》を放《はな》ち、大《おほ》いに北條氏《ほうでうし》を威嚇《ゐかく》した。
既《すで》に謙信《けんしん》の來寇《らいこう》によりて、此《こ》の經驗《けいけん》を甞《な》めたる氏康父子《うぢやすふし》は、城門《じやうもん》を閉《と》ぢて、出《い》でゝ戰《たゝか》はなかつた。十|月《ぐわつ》六|日《か》、信玄《しんげん》が小田原《をだはら》より軍《ぐん》を囘《かへ》すや、同《どう》八|日《にち》三|増峠《ますたふげ》に於《おい》て、北條氏輝《ほうでううぢてる》、同氏邦《どううぢくに》、同綱成等《どうつななりら》と戰《たゝか》ひ、大《おほ》いに之《これ》を敗《やぶ》つた。駿河《するが》を守《まも》れる北條氏《ほうでうし》の諸將《しよしやう》は、此《こ》の敗報《はいほう》を聞《き》いて、皆《み》な城寨《じやうさい》を捨《す》てゝ歸國《きこく》した。
十一|月《ぐわつ》の始《はじ》め、信玄《しんげん》は駿豆相《すんとうさう》三|國《ごく》の境《さかひ》に兵《へい》を出《いだ》し、諸城《しよじやう》に徇《とな》へ、更《さ》らに蒲原城《かんばらじやう》を略《りやく》し、再《ふたゝ》び駿府《すんぷ》に薄《せま》つた。駿府《すんぷ》の城《しろ》には信玄《しんげん》の命《めい》にて、山縣昌景《やまがたまさかげ》在城《ざいじやう》したが、家康《いへやす》之《これ》を追拂《おひはら》ひ、北條父子《ほうでうふし》と諜《しめ》し合《あは》せ、氏眞《うぢざね》を歸住《きぢう》せしめんと、其《そ》の修理中《しうりちう》であつた。〔改正參河後風土記〕信玄《しんげん》は十一|月《ぐわつ》七|日《か》、再《ふたゝ》び之《これ》を占領《せんりやう》した。
信玄《しんげん》は駿州《すんしう》に越年《をつねん》した。氏眞《うぢざね》駿府《すんぷ》沒落《ぼつらく》の際《さい》、信玄《しんげん》の手《て》に落《お》ち、甲府《かふふ》に拘置《こうち》せられたる、家康《いへやす》の異父弟《いふてい》松平康俊《まつだひらやすとし》は、山中《さんちう》の大雪《おほゆき》を踏《ふ》んで、參州《さんしう》へ逃《に》げ還《かへ》つた。彼《かれ》は之《これ》が爲《た》めに凍傷《とうしやう》して、一|生《しやう》世間《せけん》に出《い》でなかつた。酒井忠次《さかゐたゞつぐ》の女《むすめ》も、後《のち》岡崎《をかざき》に還《かへつ》て、松平伊昌《まつだひらこれまさ》に嫁《か》した。而《しか》して信玄《しんげん》と、家康《いへやす》の關係《くわんけい》は、未《いま》だ公然《こうぜん》破裂《はれつ》に及《およ》ばぬ丈《だけ》にて、名《な》は與國《よこく》でも、實《じつ》は敵國《てきこく》であつた。
【七二】家康濱松に移轉す
家康《いへやす》は、永祿《えいろく》十二|年《ねん》二|月《ぐわつ》九|日《か》、勅許《ちよくきよ》によりて、舊姓《きうせい》(?)徳川《とくがは》に復《ふく》した。
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改年之吉兆珍重々々《かいねんのきつてうちんちよう/\》、更不[#レ]可[#レ]有[#二]休期[#一]候《さらにきうきあるべからずさふらふ》。抑徳川之儀《そも/\とくがはのぎ》、遂[#二]執奏[#一]候處《しつそうをとげさふらふところ》、勅許候《ちよくきよさふらふ》。然者口宣並女房奉書申調差[#二]下之[#一]候《しかればこうせんならびににようぼうほうしよまをしとゝのへこれをさしくだされさふらふ》、尤目出度候《もつともめでたくさふらふ》、仍太刀《よつてたち》一|腰進[#レ]之候《こしこれをすゝめさふらふ》。誠表祝之儀計候《まことにへうしゆくのぎばかりにさふらふ》。萬々可[#二]申通[#一]候也《ばん/″\まをしつうずべくさふらふなり》。
[#地から3字上げ]正月三日(元龜元年) 義昭
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此《こ》れより前《さき》、彼《かれ》は已《すで》に私《ひそか》に、徳川姓《とくがはせい》を名乘《なの》つて居《ゐ》た。されど今後《こんご》は、天下《てんか》晴《は》れての徳川家康《とくがはいへやす》だ。此《こ》れを永祿《えいろく》九|年《ねん》の事《こと》とする説《せつ》もあるが、記者《きしや》は『徳川實記《とくがはじつき》』其他《そのた》に據《よ》りて、永祿《えいろく》十二|年《ねん》の末《すゑ》に繋《つな》ぐを、正當《せいたう》と信《しん》ずる。
永祿《えいろく》九|年《ねん》は、將軍義輝《しやうぐんよしてる》其《そ》の前年《ぜんねん》に弑《しい》せられ、京都《きやうと》は鼎沸《ていふつ》の最中《さいちう》であつた。永祿《えいろく》十二|年《ねん》は、信長《のぶなが》の力《ちから》によりて、將軍義昭《しやうぐんよしあき》先業《せんげふ》を紹《つ》ぎ、秩序《ちつじよ》恢復《くわいふく》し、家康《いへやす》も亦《ま》た織田氏《おだし》の與國《よこく》として、其《そ》の論功行賞《ろんこうかうしやう》に預《あづか》る可《べ》き一|人《にん》であつた。彼《かれ》が此時《このとき》に於《おい》て、將軍義昭《しやうぐんよしあき》に申請《しんせい》し、近衞前久《このゑさきひさ》によりて、之《これ》を叡聞《えいぶん》に達《たつ》したことは、有《あ》り得可《うべ》き樣《やう》の事《こと》と思《おも》ふ。
然《しか》らば何故《なにゆゑ》に彼《かれ》が松平《まつだひら》を改《あらた》めて、徳川《とくがは》と稱《しよう》するに至《いた》つた乎《か》。『是《これ》も矢張《やはり》革命的思想《かくめいてきしさう》から出《で》たことゝ思《おも》ふ。即《すなは》ち新田氏《につたし》は、足利氏《あしかゞし》の宿敵《しゆくてき》であるが、今《いま》や足利氏《あしかゞし》が衰《おとろ》へて仕舞《しまつ》たから、今度《こんど》は新田《につた》の子孫《しそん》の興《おこ》るべき運命《うんめい》が來《き》たのであると云《い》ふ考《かんがへ》から、徳川《とくがは》の姓《せい》に復《ふく》したのであらうと思《おも》ふ。』〔田中義成〕との説《せつ》もある。一|應《おう》尤《もつとも》の樣《やう》であるが、餘《あま》りに穿鑿《せんさく》に過《す》ぎては居《ゐ》まい乎《か》。
家康《いへやす》が如何《いか》に大志《たいし》があつたと云《い》うても、永祿《えいろく》十二|年《ねん》の當時《たうじ》、足利氏《あしかゞし》に取《と》つて代《かは》る考《かんがへ》があつた乎《か》、否乎《いなか》は、疑問《ぎもん》である。家康《いへやす》は早熟《さうじゆく》でもあるが、又《ま》た晩成《ばんせい》である。彼《かれ》は武將《ぶしやう》としては、前者《ぜんしや》であつたが、經世家《けいせいか》としては、寧《むし》ろ後者《こうしや》であつた。記者《きしや》は彼《かれ》の位置《ゐち》が、漸次《ぜんじ》高《たか》まるに從《したがつ》て、曾《かつ》て一|郷《がう》の長《ちよう》たり、一|城《じやう》の主《しゆ》たる時《とき》に用《もち》ひたる、松平姓《まつだひらせい》よりも、而《しか》して之《これ》を名乘《なの》る者《もの》、其《そ》の周邊《しうへん》に、甚《はなは》だ少《すくな》からざる松平姓《まつだひらせい》よりも、特《とく》に其《そ》の祖先《そせん》の舊姓《きうせい》(?)たる、徳川姓《とくがはせい》を用《もち》ふるを、相當《さうたう》と認《みと》めたからであらうと信《しん》ずる。
門地抔《もんちなど》は、英雄《えいゆう》の眼中《がんちう》にはないと云《い》ふ者《もの》あれども、そは英雄《えいゆう》を神仙《しんせん》と見《み》る解釋《かいしやく》ぢや。信長《のぶなが》でも、秀吉《ひでよし》でも、家康《いへやす》でも、人《ひと》を採用《さいよう》するには、實力《じつりよく》を以《もつ》てし、門地《もんち》を以《もつ》てせなかつた。併《しか》し其《そ》の採用《さいよう》した人物《じんぶつ》には、其《そ》の位置《ゐち》相當《さうたう》の待遇《たいぐう》を與《あた》へた。即《すなは》ち舊門閥《きうもんばつ》なきものには、新門閥《しんもんばつ》を與《あた》へた。他人《たにん》に對《たい》して既《すで》に然《しか》らば、自《みづ》から處《しよ》するも同樣《どうやう》ぢや。信長《のぶなが》が自《みづ》から平重盛《たひらのしげもり》の子孫《しそん》と稱《しよう》して、内大臣《ないだいじん》となつたも。秀吉《ひでよし》が征夷大將軍《せいいたいしやうぐん》たらんとし、義昭《よしあき》に向《むかつ》て其《そ》の養子《やうし》たる可《べ》く申込《まをしこ》み、其《そ》の目的《もくてき》を果《はた》すを得《え》ずして、關白《くわんぱく》となり、別《べつ》に豐臣氏《とよとみし》を賜《たまは》つたのも。將《は》た家康《いへやす》彼自身《かれじしん》が、源家《げんけ》を名乘《なの》りて、征夷大將軍《せいいたいしやうぐん》となつたも。皆《みな》同《どう》一の心理作用《しんりさよう》ぢや。
家康《いへやす》が元康《もとやす》を改《あらた》めて、家康《いへやす》と稱《しよう》したのも、自《みづ》から源家《げんけ》であり、八|幡太郎義家《まんたらうよしいへ》にあやかりての事《こと》〔伊東物語〕とあれば、彼《かれ》は新田氏《につたし》を以《もつ》て、自《みづ》から誇《ほこ》りとしたのであらう。尚《な》ほ詳《つまびらか》に言《い》へば、秀吉《ひでよし》が新《あら》たに天子《てんし》より、豐臣氏《とよとみし》を賜《たまはつ》たのも、家康《いへやす》が舊姓《きうせい》と申《まを》し立《た》て、勅許《ちよくきよ》を得《え》て、徳川氏《とくがはし》を名乘《なのつ》たのも、其《そ》の揆《き》一|也《なり》ぢや。少《すくな》くとも徳川《とくがは》は、松平《まつだひら》に比《ひ》すれば、平凡《へいぼん》でない、特色《とくしよく》がある。此《これ》が則《すなは》ち彼《かれ》の改姓《かいせい》、若《も》しくは復姓《ふくせい》の動機《どうき》であらう。
元龜《げんき》元年《ぐわんねん》正月《しやうぐわつ》、其《そ》の居城《きよじやう》を濱松《はままつ》に移《うつ》した。家康《いへやす》は其《そ》の前年《ぜんねん》八|月《ぐわつ》、見付《みつけ》に移《うつ》らんとて、經始《けいし》した。然《しか》るに信長《のぶなが》は佐久間信盛《さくまのぶもり》を使《つかひ》として、天龍《てんりう》、今切《いまきり》、本坂《もとさか》の節所《せつしよ》を越《こ》え、互《たがひ》に加勢《かせい》成《な》り難《がた》し、希《こひねがは》くは岡崎《をかざき》に在城《ざいじやう》ありたしと申《まを》し向《む》けた。此《こ》れは家康《いへやす》が信玄《しんげん》と事端《じたん》を生《しやう》ぜんことを慮《おもんばか》つたからであらう。家康《いへやす》は見付《みつけ》の地《ち》が、井《ゐ》深《ふか》く、人夫《にんぷ》多《おほ》く懸《かゝ》り、小身《せうしん》の輩《はい》、掘《ほ》り遂《と》ぐること叶《かは?》はず。且《か》つ城濠《じやうがう》も用水《ようすゐ》の便《べん》なく、遂《つひ》に之《これ》を中止《ちうし》し、同年《どうねん》十一|月《ぐわつ》七|日《か》に引間《ひくま》に新城《しんじやう》を築《きづ》き、之《これ》を濱松《はまゝつ》と名《な》づけた。而《しか》して岡崎《をかざき》には、其《その》子《こ》信康《のぶやす》を措《お》いた。彼《かれ》が信長《のぶなが》の異見《いけん》に拘《かゝは》らず、濱松《はまゝつ》に移轉《いてん》したのは、此《こゝ》に張《は》り出《だ》さねば、以《もつ》て武田氏《たけだし》に當《あた》るに足《た》らぬと信《しん》じたからであらう。
我《われ》退《しりぞ》けば、敵《てき》進《すゝ》む。退《しりぞ》くな、進《すゝ》め、當《あた》つて碎《くだ》けよ。家康《いへやす》が勁隣《けいりん》に對《たい》して、一|歩《ぽ》も假借《かしやく》せず、恒《つね》に積極的態度《せききよくてきたいど》を把持《はぢ》したるは、實《じつ》に彼《かれ》が海道《かいだう》一の弓取《ゆみと》りたる武名《ぶめい》を、天下《てんか》に轟《とゞろか》したる所以《ゆゑん》である。而《しか》して彼《かれ》が遂《つひ》に、天下《てんか》を取《と》るに至《いた》りたる因由《いんいう》、亦《ま》た此《こゝ》に存《そん》すと云《い》はねばならぬ。
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徳川家康濱松に移る
八月六日○永祿十二年織田信長、佐久間右衞門尉○信盛を御使として遠州見付の御住處を御定め被成の由承り候俄の時天龍今切本坂の節所を越え互に加勢成り難し未た御家人等有附不申由なれば見附の御住所被[#二]相止[#一]可[#レ]然旨御異見あり御譜代衆三河より早々引越候樣に被仰出けれ共何も無力仕り一日一日と躊躇ひ大身の衆計知行役なれば小屋懸を致し移りける井深く人夫多懸り少身の輩堀り遂る事不[#レ]叶御城堀形ち計にて用水の便なく皆※[#二の字点、1-2-22]迷惑仕る折節なれば信長の御異見に附き給ひ尤の由酒井○忠次石川○數正其外御家老衆達て諫言申上げり源君各々の存分難[#二]默止[#一]間三州へ引込む可けれ共遠江の内に不[#レ]有は駿遠の堺ひ無[#二]心許[#一]條岡崎をは竹千代○信康に讓り引間を居城に取立て可[#レ]爲[#二]住所[#一]左樣に御心得可[#レ]被[#レ]下の由御返事有て佐久間を御返し九月十一日引間へ被[#レ]成[#二]御座[#一]飯尾豊?前守○乘連家來の屋敷大形少身の輩に割與へ古城より坤の方に取り續けて新城を築き古城を惣構の内へ取込み普請被[#二]仰付[#一]引間は惡き名なり向後濱松と可[#レ]申由仰ける惣而引間は大名、濱松は小名なれば引間とならで不[#レ]申しが此時より引間の名止んで濱松と申なり同十一月七日新城へ御移徒有て御祝儀の御振舞あり〔東照軍鑑〕
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