第十章 家康の門徒一揆平定
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第十章 家康の門徒一揆平定
【六一】家康氏眞と絶つ
此《これ》より信長《のぶなが》の與國《よこく》たる、家康《いへやす》の方面《はうめん》に就《つい》て語《かた》らしめよ。
家康《いへやす》は一|方《ぱう》に信長《のぶなが》と會盟《くわいめい》し、提携《ていけい》を約《やく》しつゝ、他方《たはう》には甘言《かんげん》もて、今川氏眞《いまがはうぢざね》を瞞過《まんくわ》し、只管《ひたす》ら參河《みかは》の經略《けいりやく》を努《つと》めた。而《しか》して諸城《しよじやう》風《ふう》を望《のぞ》んで氏眞《うぢざね》を去《さ》り、家康《いへやす》に就《つ》いた。獨《ひと》り東條《とうでう》の屋形《やかた》吉良義諦《きらよしあき》は、最《もつと》も善《よ》く抗戰《かうせん》した。然《しか》るに其《そ》の弟《おとうと》荒川持ョ《あらかはもちより》は、兄《あに》と不和《ふわ》にて、酒井正親《さかゐまさちか》を以《もつ》て、家康《いへやす》に降《くだ》り、其《そ》の手引《てびき》を以《もつ》て、西尾城《にしをじやう》を下《くだ》し、斯《か》くて義諦《よしあき》も餘儀《よぎ》なく、力窮《ちからきはま》りて降《くだ》つた。家康《いへやす》は名家《めいか》なるを以《もつ》て、彼《かれ》を優待《いうたい》し、且《か》つ持ョ《もちより》には、其《そ》の異父妹《いふまい》を娶《めあ》はした。
當時《たうじ》家康《いへやす》の妻子《さいし》は、駿河《するが》に在《あ》つた。氏眞《うぢざね》は屡《しばし》ば之《これ》を殺《ころ》さんとしたが、家康《いへやす》の妻《つま》は、其《そ》の叔母聟《をばむこ》關口親永《せきぐちちかなが》の女《むすめ》であり、家康《いへやす》の子《こ》信康《のぶやす》は、孫《まご》であるを以《もつ》て、手《て》を下《くだ》さなかつた。然《しか》るに永祿《えいろく》五|年《ねん》三|月《ぐわつ》、家康《いへやす》は西郡《にしごほり》の鵜殿長持《うどのながもち》を攻《せ》め、之《これ》を殺《ころ》し、其《そ》の二|子《し》長照《ながてる》、長忠《ながたゞ》を生捕《いけど》つた。而《しか》して茲《こゝ》に愈《いよい》よ其《そ》の交換《かうくわん》は行《おこな》はれ、曾《かつ》て殉死《じゆんし》す可《べ》く、駿河《するが》に赴《おもむ》きたる石川數正《いしかはかずまさ》は、之《これ》を伴《ともな》ひ還《かへ》つた。
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然《さ》れば石川伯耆守《いしかははうきのかみ》申《まをし》けるは、幼《をさな》き若君《わかぎみ》御一人《おんひとり》、御生害《ごしやうがい》させ申《まを》さば、御供《おんとも》も申《まを》すもの無《なく》して、人《ひと》の見《み》る目《め》にもすご/\として、在《おは》しますべし。然《さ》れば我等《われら》が參《まゐ》りて、御最期《ごさいご》の御供《おんとも》申《まを》さんとて、駿河《するが》え下《くだり》けるを、貴賤上下《きせんじやうげ》感《かん》ぜぬ者《もの》もなし。然《しか》る所《ところ》に鵜殿長持《うどのながもち》子供《こども》に、人質換《ひとじちがへ》にせんと申越《まをしこ》しければ、上下萬民《じやうげばんみん》喜《よろこ》び申《まを》す※[#「こと」の合字、320-8]限《かぎ》り無《なく》して、さらばと云《い》うて返《がへ》させ給《たま》ふ。其時《そのとき》石川伯耆守《いしかははうきのかみ》、御供《おんとも》申《まを》して岡崎《をかざき》え入《いら》せ給《たま》ふ。其時《そのとき》石川伯耆守《いしかははうきのかみ》は、大髯?《おほひげくひ》そらして、若君《わかぎみ》を頭馬《かしらうま》に乘《の》せ奉《たてまつ》り、(鞍《くら》の前輪《まへわ》に乘《の》するの意《い》)念子原《ねんしはら》に打上《うちあ》げ、通《とほら》せ給《たま》ふ事《こと》の見事《みごと》さ、何《なん》たる物見《ものみ》にも、是《これ》に過《すぎ》たる事《こと》はあらじ。〔參河物語〕
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大久保彦?左衞門《おほくぼひこざゑもん》の記事《きじ》、今尚《いまな》ほ生色《せいしよく》あり。岡崎君臣《をかざきくんしん》の滿悦《まんえつ》知《し》る可《べ》き也《なり》。斯程《かほど》の忠臣《ちうしん》石川數正《いしかはかずまさ》が、他日《たじつ》家康《いへやす》に背《そむ》き、秀吉《ひでよし》の家人《けにん》となつたは、扨《さて》もョ《たの》み難?《がた》きは人心《ひとごゝろ》、變轉極《へんてんきはま》りなきは人心《ひとごゝろ》である。
徳川氏《とくがはし》方《かた》は、今《いま》は心安《こゝろやす》しとて、此《こ》れより愈《いよい》よ無遠慮《ぶゑんりよ》に振舞《ふるま》うた。流石《さすが》鈍物《のろま》の今川氏眞《いまがはうぢざね》も、漸《やうや》く目《め》が醒《さ》め、關口親永《せきぐちちかなが》には、切腹《せつぷく》申《まを》し附《つ》け、豫《かね》て岡崎將士《をかざきしやうし》の子女《しぢよ》の人質《ひとじち》として、吉田城《よしだじやう》に入《い》れ置《お》きたるもの、十一|人《にん》を、城外《じやうぐわい》龍念寺口《りうねんじぐち》にて、串指《くしざし》にして殺《ころ》した。此《こ》れも畢竟《ひつきやう》人心《じんしん》の岡崎《をかざき》に向《むか》ふを、防止《ばうし》する策《さく》であつたらう。此《かく》の如《ごと》くして徳川《とくがは》、今川《いまがは》の關係《くわんけい》は、公然《こうぜん》斷絶《だんぜつ》となつた。家康《いへやす》は永祿《えいろく》五|年《ねん》八|月《ぐわつ》、義元《よしもと》の元字《もとじ》を返却《へんきやく》し、元康《もとやす》を改《あらた》めて家康《いへやす》とした。然《しか》も彼《かれ》は尚《な》ほ松平姓《まつだひらせい》を名乘《なの》つて居《ゐ》た。從來《じうらい》は松平元康《まつだひらもとやす》で、此《こ》れからは松平家康《まつだひらいへやす》である。
當時《たうじ》家康《いへやす》は、何故《なにゆゑ》に其手《そのて》を參河《みかは》に擴《ひろ》ぐるを得《え》た乎《か》。今川《いまがは》、武田《たけだ》、北條《ほうでう》の三|家《け》同盟《どうめい》は、未《いま》だ解體《かいたい》して居《を》らなかつた。されば今川氏《いまがはし》の領土《りやうど》の、日《ひ》に削《けづ》らるゝに際《さい》しては、彼等《かれら》は多少《たせう》の援助《ゑんじよ》を、與《あた》ふ可《べ》きではない乎《か》。縱令《たとひ》それ丈《だけ》の義心《ぎしん》があらぬでも、家康《いへやす》をして、隨意《ずゐい》に行動《かうどう》せしむ可《べ》き筈《はず》はない。されど怪《あや》しむ勿《なか》れ、信玄《しんげん》と、謙信《けんしん》とは、永祿《えいろく》四|年《ねん》に川中島《かはなかじま》にて、相《あひ》戰《たゝか》うたのみならず。四|年《ねん》、五|年《ねん》、六|年《ねん》に亙《わた》りて、謙信《けんしん》對《たい》氏康《うぢやす》信玄《しんげん》は、關東《くわんとう》に於《おい》て、互《たが》ひに其《そ》の雌雄《しゆう》を爭《あらそ》ひ、到底《たうてい》他《た》を顧《かへり》みるの遑《いとま》がなかつた。
家康《いへやす》が此《こ》の機會《きくわい》に於《おい》て、弱者《じやくしや》たる氏眞《うぢざね》の領土《りやうど》を蠶食《さんしよく》したのは、所謂《いはゆ》る鬼《おに》の來《こ》ぬ間《ま》の洗濯《せんたく》で、彼《かれ》に取《と》りては、實《じつ》に偶然《ぐうぜん》の仕合《しあはせ》であつた。然《しか》も彼《かれ》は茲《こゝ》に意外《いぐわい》なる障礙《しやうがい》に、出會《しゆつくわい》せねばならぬ事《こと》となつた。そは彼《かれ》の領地《りやうち》に於《お》ける、一|向宗徒《かうしうと》の蜂起《ほうき》である。乃《すなは》ち彼《かれ》の長《なが》き、奇《く》しき生涯《しやうがい》に、二|度《ど》となき内亂《ないらん》は、彼《かれ》の脚下《きやくか》より爆發《ばくはつ》した。


【六二】俗界に於ける一向宗の勢力
家康《いへやす》の一|向宗《かうしう》一|揆《き》征伐《せいばつ》を語《かた》るに先《さきだ》ち、當時《たうじ》に於《お》ける一|向宗《かうしう》の形勢《けいせい》を、瞥見《べつけん》するの必要《ひつえう》がある。一|向宗《かうしう》は中興《ちうこう》の蓮如以來《れんによいらい》、心靈的《しんれいてき》團體《だんたい》たるのみでなく、儼然《げんぜん》たる物質的《ぶつしつてき》勢力《せいりよく》となつた。教權《けうけん》が、俗權《ぞくけん》に變《へん》じたと云《い》ふよりも、教權《けうけん》の上《うへ》に、俗權《ぞくけん》を加《くは》へ來《きた》つた。當時《たうじ》物資《ぶつしつ》の力《ちから》以外《いぐわい》、殆《ほと》んど何等《なんら》の力《ちから》をも認《みと》めぬ世《よ》の中《なか》に於《おい》て、教權《けうけん》と、俗權《ぞくけん》とを双手《さうしゆ》に握《にぎ》るに於《おい》ては、其《そ》の勢力《せいりよく》の無限《むげん》なる可《べ》きは、論《ろん》を俟《ま》たぬ。果《はた》して然《しか》りとすれば、吾人《ごじん》は一|向宗《かうしう》が、日本《にほん》に及《およ》ぼしたる勢力《せいりよく》の、過大《くわだい》なるに驚《おどろ》くよりも、何故《なにゆゑ》に尚《な》ほ此《これ》に止《とゞ》まりたるかを、却《かへ》つて怪《あや》しむ可《べ》きではあるまい乎《か》。
北陸地方《ほくろくちはう》には、一|向宗門徒《かうしうもんと》が最《もつと》も跋扈《ばつこ》した。特《とく》に加賀《かが》にては、守護職《しゆごしよく》の富樫家《とがしけ》を打《う》ち潰《つぶ》し、一|向宗國《かうしうこく》を建立《こんりふ》した。越前《ゑちぜん》の朝倉家《あさくらけ》の如《ごと》きも、屡《しばし》ば此《これ》に手《て》を燒《や》いた。上杉謙信《うへすぎけんしん》も、頗《すこぶ》る之《これ》に苦《くるし》んだ。今日《こんにち》に至《いた》る迄《まで》、北陸《ほくろく》の眞宗《しんしう》の勢力《せいりよく》の旺盛《わうせい》なるは、其《そ》の由來《ゆらい》久《ひさ》しと云《い》ふ可《べ》しだ。
石山《いしやま》―大阪《おほさか》―は本願寺《ほんぐわんじ》の本據《ほんきよ》であつた。此《こ》れは蓮如《れんによ》の晩年《ばんねん》に、自《みづ》から其《そ》の地相《ちさう》を見立《みた》て置《お》きたる程《ほど》ありて、眞《しん》に日本《にほん》の形勝《けいしよう》を占《し》めて居《ゐ》た。加州《かしう》より築城者《ちくじやうしや》を招《まね》き、八|町《ちやう》四|面《めん》に要害《えうがい》を構《かま》へ、其中《そのなか》に大御堂《おほみだう》を造《つく》り、寺院《じゐん》と云《い》ふも可《か》、城郭《じやうくわく》と云《い》ふも可《か》。而《しか》して海運《かいうん》は四|國《こく》、南海《なんかい》、中國《ちうごく》、九|州《しう》に通《つう》じ、川流《せんりう》は五|畿《き》を控《ひか》へ。守《まも》るに利《り》、攻《せむ》るに不利《ふり》、眞《しん》に金城湯池《きんじやうたうち》であつた。炯眼《けいかん》なる信長《のぶなが》をして、一|見《けん》直《たゞ》ちに流涎《りうぜん》せしめたるも、決《けつ》して無理《むり》からぬ※[#「こと」の合字、324-3]ぢや。
江州《がうしう》も亦《ま》た、本願寺《ほんぐわんじ》の兵站部《へいたんぶ》と云《い》ふ可《べ》き地《ち》であつた。坂田《さかた》、淺井《あさゐ》、伊香《いか》三|郡《ぐん》なる北郡《ほくぐん》十|個寺《かじ》、即《すなは》ち箕浦《みのうら》の誓願寺《せいぐわんじ》、新庄《しんじやう》の金光寺《こんくわうじ》、朽木《くちき》の常願寺《じやうぐわんじ》、上坂《かみさか》の順慶寺《じゆんけいじ》、須木《すき》の清願寺《せいぐわんじ》、木本《きもと》の信敬坊《しんけいばう》、益田《ますだ》の眞宗寺《しんしうじ》、唐川《からかは》の超照寺《てうせうじ》、長澤《ながさは》の福田寺《ふくでんじ》、下坂《しもさか》の福照寺《ふくせうじ》等《とう》の如《ごと》きも、何《いづ》れも各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》城主以上《じやうしゆいじやう》の勢力《せいりよく》を有《いう》し、いざとなれば門徒《もんと》を驅《か》り催《もよ》ほして、戰爭《せんさう》を事《こと》とした。信長《のぶなが》の如《ごと》きも、聊《いさゝ》か閉口《へいこう》せぬではなかつた。
長島《ながしま》に至《いた》りては、屡《しばし》ば信長《のぶなが》を惱《なや》ました難物《なんぶつ》ぢや。此《これ》は今《いま》は伊勢《いせ》の桑名郡《くはなぐん》であるが、信長時代《のぶながじだい》には、尾張國《をはりのくに》海西郡《かいさいごほり》二の江邊《えへん》迄《まで》、四|面《めん》河《かは》を廻《めぐ》らして、川内郡《かはちぐん》と云《い》ひ、尾張國《をはりのくに》に屬《ぞく》して居《ゐ》た。此地《このち》は木曾川《きそがは》を始《はじ》め、美濃《みの》より流《なが》れ出《い》づる、諸々《もろ/\》の河川《かせん》の海《うみ》に注《そゝ》ぐ所《ところ》にて、東西北《とうざいほく》は、五|里《り》三|里《り》の内《うち》、幾重《いくへ》となく川流《せんりう》にて引《ひ》き廻《めぐら》し、南《みなみ》は伊勢《いせ》の内海《ないかい》を擁《よう》し、其《そ》の要害《えうがい》の堅固《けんご》は、寧《むし》ろ大阪《おほさか》に超越《てうえつ》して居《ゐ》た。
以上《いじやう》は其《そ》の重《おも》なる例《れい》を擧《あ》げたに過《す》ぎぬ。足利時代《あしかゞじだい》の亂世《らんせい》に於《おい》ては、如何《いか》なる深甚微妙《しんじんびめう》の佛理《ぶつり》も、廣大無邊《くわうだいむへん》の佛恩《ぶつおん》も、實力《じつりよく》がなくては、何等《なんら》の効《かう》なきを看取《かんしゆ》し、力《ちから》の基礎《きそ》の上《うへ》に、其《そ》の布教《ふけう》を爲《な》した蓮如《れんによ》は、其《そ》の子孫《しそん》に至《いた》りて、確《たし》かに其《そ》の目的《もくてき》の若干《じやくかん》を達《たつ》し得《え》た。
併《しか》し餘《あま》りに力《ちから》に熱中《ねつちう》して、却《かへつ》て俗權《ぞくけん》に執著《しふちやく》するの、傾向《けいかう》を來《きた》したことも、亦《ま》た看過《かんくわ》することが出來《でき》ぬ。御奈良天皇《ごならてんわう》の享祿《きやうろく》二|年《ねん》には、本願寺《ほんぐわんじ》の坊官《ばうくわん》下間ョ秀《しもづまよりひで》の如《ごと》きは、當時《たうじ》の法主《ほつす》證如《しようによ》を國王《こくわう》とし、自《みづ》から將軍《しやうぐん》たらんとの陰謀《いんぼう》を企《くはだて》た抔《など》と、〔加越爭鬪記〕傳《つた》へられて居《を》る。此《こ》れは固《もと》より、信憑《しんぴよう》す可《べ》き限《かぎ》りではないが、如何《いか》に教權《けうけん》が、俗權《ぞくけん》を侵蝕《しんしよく》したかゞ判知《わか》る。要《えう》するに當初《たうしよ》に於《おい》ては、宗教《しうけう》を保護《ほご》する爲《た》めの武力《ぶりよく》が、後《のち》には武力《ぶりよく》を保護《ほご》する爲《た》めの、宗教《しうけう》となつた。
併《しか》しながら、皇室《くわうしつ》は式微《しきび》であり、將軍《しやうぐん》は有《あ》れども無《な》きが如《ごと》く、國司《こくし》や、守護《しゆご》や、皆《み》な下尅上《かこくじやう》の祭壇《さいだん》に供《きよう》せらるゝ、犧牲《ぎせい》となりつゝある時代《じだい》に於《おい》ては。一|向宗《かうしう》の如《ごと》き、平民的《へいみんてき》、凡俗的《ぼんぞくてき》、世間的《せけんてき》宗教《しうけう》が、單《たん》に人心《じんしん》を支配《しはい》するのみならず、併《あは》せて物質上《ぶつしつじやう》に、統治《とうち》の權《けん》を及《およ》ぼし來《きた》つたのは、已《や》むを得《え》ずと云《い》ふよりも、寧《むし》ろ時勢《じせい》の必要《ひつえう》であつた。
單《たん》に一|向宗《かうしう》のみでなく、日蓮宗《にちれんしう》の如《ごと》きも、當時《たうじ》に於《おい》ては、殆《ほと》んど同樣《だうやう》の發達《はつたつ》を見《み》た。管領細川晴元《くわんれいほそかははるもと》は、京都《きやうと》二十一|個寺《かじ》の日蓮宗《にちれんしう》に囑《しよく》して、本願寺《ほんぐわんじ》を攻《せ》めしめた※[#「こと」の合字、326-6]がある。日蓮宗《にちれんしう》も、一|揆《き》も起《おこ》せば、戰爭《せんさう》もする丈《だけ》に武裝《ぶさう》して居《ゐ》た。但《た》だ法華宗《ほつけしゆう》は、一|向宗《かうしう》の如《ごと》く、寺院《じゐん》が世襲的《せしふてき》でない爲《た》め、人心統治《じんしんとうぢ》の道《みち》に於《おい?》て、及《およ》ばざる所《ところ》があり。又《ま》た一|向宗《かうしう》は、門徒《もんと》の喜捨金《きしやきん》を蒐《あつ》むる方便《はうべん》に於《おい》て、頗《すこぶ》る巧者《かうしや》であつたるも、日蓮宗《にちれんしう》は、此《こ》の必需條件《ひつじゆでうけん》に於《おい》て、一|向宗《かうしう》に讓《ゆづ》る所《ところ》が多《おほ》く。此等《これら》の爲《た》めに、獨《ひと》り一|向宗《かうしう》の一|揆《き》をして、當時《たうじ》に名《な》を專《もつぱ》らにせしむるに至《いた》つたのであらう。


【六三】家康と門徒一揆
家康《いへやす》と、一|向宗《かうしう》との喧嘩《けんくわ》は、何《いづ》れより惹《ひ》き起《おこ》したる乎《か》と云《い》へば、固《もと》より家康《いへやす》からである。併《しか》し家康《いへやす》は拔本的《ばつぽんてき》に、徹底的《てつていてき》に、其《そ》の領内《りやうない》より一|向宗《かうしう》の勢力《せいりよく》を、驅逐《くちく》する大計企《だいけいき》、大豫算《だいよさん》、大決心《だいけつしん》ありて、此《こゝ》に至《いた》りたる乎《か》と云《い》ふに、恐《おそ》らくはそれ程《ほど》迄《まで》には、當初《たうしよ》から考《かんが》へては居《を》らなかつたであらう。
家康《いへやす》の立場《たちば》から打算《ださん》すれば、今《いま》少《すこ》しく其《そ》の武《ぶ》を、今川氏《いまがはし》に向《むかつ》て用《もち》ひ、而《しか》して後《のち》徐《おもむ》ろに之《これ》に及《およ》ぶも、晩《おそ》しとせぬのである。斯《か》くすれば勞《らう》は少《すくな》くして、効《かう》は多《おほ》かつたかも知《し》れぬ。されば此《こ》の騷動《さうどう》の始《はじ》まりは、恐《おそ》らくは偶然《ぐうぜん》の行掛《ゆきがゝ》りであつたであらう。併《しか》し一たび機會《きくわい》が生《しやう》ずれば、決《けつ》して之《これ》を取《と》り逃《にが》さぬが、家康《いへやす》の流儀《りうぎ》である。一たび事端《じたん》を生《しやう》ずれば、始末《しまつ》を附《つ》けねば止《や》まぬは、家康《いへやす》の家法《かはふ》である。事《こと》の難易《なんい》の如《ごと》きは、彼《かれ》の問《と》ふ所《ところ》でない。彼《かれ》は眞《しん》に耳《みゝ》に怯《けふ》にして、目《め》に勇《ゆう》なる大將《たいしやう》ぢや。斯《かゝ》る騷動《さうどう》を、斯《かゝ》る時節《じせつ》に惹起《ひきおこ》したのは、彼《かれ》の本意《ほんい》ではなかつたかも知《し》れぬ。然《しか》も既《すで》に生《しやう》じた上《うへ》は、彼《かれ》は此《これ》を以《もつ》て、一|向宗《かうしう》の勢力《せいりよく》を驅逐《くちく》する、好機會《かうきくわい》として、之《これ》を捉《とら》ふるに、最善《さいぜん》の力《ちから》を竭《つく》したのであらう。
山路愛山氏《やまぢあいざんし》の『徳川家康《とくがはいへやす》』には、太田《おほた》牛《うし》一の信長公記《のぶながこうき》を?《ひ》き來《きた》りて、
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『參河《みかは》の國端《くにはづれ》に、土呂《とろ》、佐座喜《さざき》(佐崎《さざき》)、大濱《おほはま》、鷲塚《わしづか》とて、海手《うみて》に付《つき》て、然《しか》る可《べ》き要害《えうがい》、富貴《ふうき》にして人《ひと》多《おほ》き湊《みなと》なり。大阪《おほさか》より代坊主《だいばうず》を入《い》れ置《お》き、門徒《もんと》繁昌《はんじやう》候《さふらひ》て、國中《こくちう》過半《くわはん》門徒《もんと》になるなり。家康《いへやす》無《む》二に、彼《か》の一|揆《き》を御退治《おんたいぢ》なさる可《べ》きの御存分《ごぞんぶん》にて、御退屈《ごたいくつ》なく、此處彼處《ここかしこ》にて、自身《じしん》數《す》ケ度《ど》の戰《たゝかひ》をなされ、一|度《ど》も不覺《ふかく》なく、本意《ほんい》を達《たつ》せられ、一|國《こく》平均《へいきん》す。』
此《この》文《ぶん》に依《よ》れば、家康《いへやす》は領内《りやうない》統《とう》一の目的《もくてき》にて、積極的《せききよくてき》、攻撃的《こうげきてき》に、門徒《もんと》を迫害《はくがい》し、其《その》威《ゐ》を挫《くじ》きて、遂《つひ》に其《その》志《こゝろざし》を遂《と》げたるものなり。
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と云《い》ひ。宛《あたか》も家康《いへやす》が豫定《よてい》の計企《けいき》にて、此《こ》の騷動《さうどう》を挑發《てうはつ》したかの如《ごと》く斷《だん》じて居《を》る。併《しか》し『信長公記《のぶながこうき》』の文句《もんく》は、必《かなら》ずしも斯《か》く解釋《かいしやく》せねばならぬ理由《りいう》はない。何《なん》となれば其《そ》の主旨《しゆし》は、既《すで》に起《おこ》りたる一|揆《き》の退治《たいぢ》に、家康《いへやす》が餘力《よりよく》を剩《あま》さなかつたと云《い》ふ迄《まで》にして、家康《いへやす》が其《そ》の一|揆《き》を退治《たいぢ》せんが爲《た》めに、故《ことさ》らに之《これ》を挑發《てうはつ》したとの意味《いみ》は、含《ふく》まれて居《を》らぬ。愛山氏《あいざんし》が斯《か》く判斷《はんだん》したとて、記者《きしや》は別《べつ》に異論《いろん》はない。但《た》だ『信長公記《のぶながこうき》』の著者《ちよしや》を、證人《しようにん》に引《ひ》き來《きた》るに於《おい》ては、聊《いさゝ》か一|言《ごん》なきを得《え》ぬ。
參河《みかは》の一|向宗《かうしう》も、又《ま》た蓮如《れんによ》によりて興隆《こうりう》した。其《そ》の根原《こんげん》は、宗祖《しうそ》親鸞《しんらん》が、北國行脚《ほくこくあんぎや》の歸途《きと》、天福《てんぷく》元年《ぐわんねん》矢作《やはぎ》の藥師堂《やくしだう》にて、十七|日《にち》の法談《ほふだん》に始《はじ》まり。蓮如《れんによ》が文安《ぶんあん》三|年《ねん》の秋《あき》、下野巡錫《しもつけじゆんしやく》の際《さい》、小山政康《こやままさやす》に邂逅《かいこう》し、參河《みかは》に於《お》ける、作崎《さざき》、土呂《とろ》、針崎《はりさき》等《とう》、一|向宗《かうしう》の大寺《たいじ》を外護《げご》せしむ可《べ》く、彼《かれ》に依ョ《いらい》し、彼《かれ》と與《とも》に參河《みかは》に至《いた》つた以來《いらい》、愈《いよい》よ隆盛《りうせい》に赴《おもむ》き。文明年間《ぶんめいねんかん》には國中《こくちう》に廣《ひろ》がり、斯《か》くて其《そ》の佐崎《さざき》の上宮寺《じやうぐじ》、針崎《はりざ?き》の勝?寺《しようまんじ》、野寺《のでら》の本證寺《ほんしようじ》は、院家《ゐんけ》の三|個寺《かじ》として、儼然《げんぜん》守護不入《しゆごふにふ》と稱《しよう》し、自《おのづ》から獨立國《どくりつこく》の體《たい》を爲《な》して居《ゐ》た。
守護不入《しゆごふにふ》は、納税《なふぜい》もせず、法令《はふれい》にも服《ふく》せず、全《まつた》く一|種《しゆ》の治外法權《ちぐわいはふけん》である。政權《せいけん》が微弱《びじやく》なる間《あひだ》は、此《かく》の如《ごと》き教權《けうけん》の侵蝕《しんしよく》も、致方《いたしかた》ないが、一たび政權《せいけん》が確立《かくりつ》するに於《おい》ては、斯《かゝ》る獨立體《どくりつたい》が、其《そ》の圜内《くわんない》に存《そん》する※[#「こと」の合字、329-13]は、一|日《にち》たりとも容《ゆる》す可《べ》きでない。家康《いへやす》の勢力《せいりよく》が、西參河《にしみかは》に確立《かくりつ》したる曉《あかつき》に於《おい》て、端《はし》なく其《そ》の衝突《しようとつ》を惹起《じやき》したのは、其《そ》の事端《じたん》が、偶然《ぐうぜん》の事《こと》から生《しやう》じたとは云《い》へ、固《もと》より必然《ひつぜん》の勢《いきほひ》と云《い》はねばなるまい。其《そ》の顛末《てんまつ》は概《がい》して左《さ》の如《ごと》しだ。
永祿《えいろく》六|年《ねん》九|月《ぐわつ》、家康《いへやす》は今川氏《いまがはし》に備《そな》ふる爲《た》め、佐崎《さざき》に新塞?《しんさい》を築《きづ》いた。而《しか》して其《そ》の糧米《りやうまい》をば、酒井正親《さかゐまさちか》の差圖《さしづ》にて、菅沼定顯《すがぬまさだあき》をして、同所《どうしよ》の上宮寺《じやうぐじ》より借《か》らしめた。當時《たうじ》寺中《じちう》には、籾?《もみ》を餘多《あまた》乾《かわ》かして在《あ》つた。寺《てら》よりの返答《へんたふ》を聞《き》かぬ間《ま》に、氣早《きばや》の輕卒《けいそつ》は、悉《こと/″\》く之《これ》を新塞?《しんさい》に運《はこ》び入《い》れた。上宮寺《じやうぐじ》の僧?徒《そうと》は、守護不入《しゆごふにふ》の特權《とくけん》を、蹂躙?《じうりん》せられた※[#「こと」の合字、330-8]を瞋《いか》つた。針崎《はりざき》、野寺《のでら》、土呂《とろ》の僧?徒《そうと》を招集《せうしふ》し、復讐《ふくしう》として、菅沼《すがぬま》の屋敷《やしき》に押《お》し掛《か》け、散々《さん/″\》に之《これ》を荒《あら》し、其《そ》の家人《けにん》を打擲《ちやうちやく》し、家財《かざい》を運《はこ》び去《さ》つた。岡崎《をかざき》に在《あ》つた菅沼《すがぬま》は、之《これ》を酒井正親《さかゐまさちか》に訴《うつた》へた。正親《まさちか》は詰問状《きつもんじやう》を送《おく》つた。然《しか》るに僧?徒《そうと》は陳謝《ちんしや》せぬのみか、其《そ》の使者《ししや》を侮辱《ぶじよく》した。家康《いへやす》も領主《りやうしゆ》の面目《めんもく》、最早《もはや》默止《もくし》する※[#「こと」の合字、330-12]の能《あた》はぬ場合《ばあひ》となつた。此《こゝ》に於《おい》て嚴重《げんぢう》に之《これ》を糺明《きうめい》す可《べ》しと沙汰《さた》した。一|向宗《かうしう》の僧?俗《そうぞく》一|同《どう》、今《いま》は宗門破滅《しうもんはめつ》の時《とき》が來《き》た、寧《むし》ろ我《われ》より先《さき》んじて、一|揆《き》を起《おこ》し、佛敵《ぶつてき》を退治《たいぢ》せんと申《まを》し合《あは》せた。


【六四】一揆の分析
流石《さすが》の家康《いへやす》も、其《そ》の騷動《さうどう》の大袈裟《おほげさ》なるには、案外《あんぐわい》であつた。彼《かれ》は酒井正親《さかゐまさちか》を重《かさ》ねて上宮寺《じやうぐじ》に遣《つか》はし、其《そ》の事由《じいう》を質《たゞ》した。又《ま》た岡崎《をかざき》の專福寺《せんぷくじ》祐歡《いうくわん》、渡村《わたりむら》の善秀《ぜんしう》なる兩僧《りやうそう》に命《めい》じて、和順《わじゆん》の事《こと》を扱《あつか》はしめたが、門徒《もんと》の僧俗《そうぞく》は、却《かへつ》て此《こ》の兩僧《りやうそう》の首《くび》を切《きつ》て、血祭《ちまつり》にせんとひしめき、兩僧《りやうそう》は其《そ》の使命《しめい》を果《はた》さずして、逃《に》げ返《かへ》つた。家康《いへやす》も今《いま》は是迄《これまで》なりと、愈《いよい》よ討伐《たうばつ》の臍《ほぞ》を固《かた》めた。
然《しか》るに家康《いへやす》譜代《ふだい》の御家人中《ごけにんちう》にも、君臣《くんしん》は現世《げんせ》限《かぎ》りの契《ちぎ》り、佛祖如來《ぶつそによらい》は、未來永劫《みらいえいごふ》のョ《たの》む所《ところ》との教旨《けうし》を信《しん》じ。夜半迄《やはんまで》も、勤仕《きんし》したる者《もの》にして、今朝《けさ》は銘々《めい/\》思《おも》ひ思《おも》ひに針崎《はりざき》、土呂《とろ》、佐崎《さざき》、野寺《のでら》等《とう》に落《お》ち失《う》せた輩《はい》も少《すくな》くなかつた。所謂《いはゆ》る參河武士《みかはぶし》の、忠義骨髓《ちうぎこつずゐ》を填?《うづ》めたる輩《はい》にして、斯《かゝ》る擧動《きよどう》は不審《ふしん》の樣《やう》であるが、此《これ》が則《すなは》ち宗教《しうけう》の力《ちから》ぢや。
日本人《にほんじん》は宗教心《しふけふしん》が稀薄《きはく》だ、日本人《にほんじん》は宗教《しうけう》に對《たい》して冷淡《れいたん》だとは、中外《ちうぐわい》一|般《ぱん》の通論《つうろん》であるが、事實《じじつ》は之《これ》を反證《はんしよう》して居《を》る。吾人《ごじん》は日本國民《にほんこくみん》が、世界列國《せかいれつこく》の人民《じんみん》に比《ひ》して、格段《かくだん》に宗教心《しうけうしん》が濃厚《のうこう》であるとは云《い》はぬ。併《しか》し彼等《かれら》よりも稀薄《きはく》であるとは、信《しん》ずる事《こと》が能《あた》はぬ。參河武士《みかはぶし》が、其《そ》の主人《しゆじん》に向《むかつ》て、弓《ゆみ》を彎《ひ》いたのは、彼等《かれら》の忠義心《ちうぎしん》が薄《うす》かつたと云《い》ふよりも、宗教心《しうけうしん》が厚《あつ》かつたからと云《い》ふが、適當《てきたう》なる見解《けんかい》と思《おも》ふ。
併《しか》し此《こ》の一|揆《き》を分析《ぶんせき》すれば、必《かな》らずしも悉《こと/″\》く皆《み》な單純《たんじゆん》なる、護教心《ごけうしん》の發作《ほつさ》と云《い》ふ譯《わけ》には參《まゐ》らぬ。上野城主酒井將監忠尚《うへのじやうしゆさかゐしやうげんたゞなほ》の如《ごと》き、又《ま》た松平《まつだひら》一|門《もん》の櫻井《さくらゐ》の松平監物宗次《まつだひらけんもつむねつぐ》、佐崎《さざき》の松平《まつだひら》三|藏《ざう》信次《のぶつぐ》、大草《おほくさ》の松平《まつだひら》七|郎《らう》昌久《まさひさ》の如《ごと》き、何《いづ》れも念佛專修《ねんぶつせんしう》の徒《と》でない者《もの》が、一|揆《き》を興《おこ》したるのみか。酒井將監《さかゐしやうげん》の如《ごと》きは、其《そ》の張本人《ちやうほんにん》であり、煽動者《せんどうしや》であると云《い》はれた程《ほど》であつた。乃《すなは》ち彼等《かれら》は岡崎《をかざき》の人心《じんしん》が、宗教問題《しうけうもんだい》で激昂?《げきかう》しつゝあるを奇貨《きくわ》とし、政治上《せいぢじやう》の不平《ふへい》を漏《も》らし、野心《やしん》を逞《たくまし》うせんとしたものである。極《きは》めて大雜把《おほざつぱ》に云《い》へば、酒井將監《さかゐしやうげん》を始《はじ》め、徳川家中《とくがはかちう》の今川黨《いまがはたう》は、概《おほむ》ね一|揆方《きがた》であつた。其《そ》の他《た》失意漢《しついかん》、不平黨《ふへいたう》、浪人者等《らうにんものら》、何《いづ》れも之《これ》に馳《は》せ參《さん》じた。
反徒《はんと》は、前東條《ぜんとうでう》の城主吉良義諦《じやうしゆきらよしあき》を擁立《ようりつ》した。吉良家《きらけ》は舊屋形《きうやかた》で、今川《いまがは》の上《かみ》に立《た》つも、下《しも》には落《お》ちぬ門閥《もんばつ》ぢや。其《その》弟《おとうと》荒川ョ持《あらかはよりもち》も、家康《いへやす》の妹婿《いもうとむこ》であつたが、亦《ま》た之《これ》に與《く》みした。反徒《はんと》にも、其《そ》の幹部《かんぶ》には、本多《ほんだ》彌《や》八|郎《らう》―後《のち》に佐渡守正信《さどのかみまさのぶ》―の如《ごと》き策士《さくし》あれば、家康《いへやす》對《たい》舊臣《きうしん》の戰爭《せんさう》でなく、少《すくな》くとも其《そ》の表面《へうめん》丈《だけ》は、屋形《やかた》對《たい》松平家《まつだひらけ》の戰爭《せんさう》たらしめんとしたのであらう。
禍《わざはひ》は實《じつ》に蕭牆《せうしよう》の内《うち》より生《しやう》じた、鳥《とり》は實《じつ》に脚下《あしもと》から起?《た》つた。然《しか》も參河武士《みかはぶし》の、主家《しゆか》を中心《ちうしん》とする團結《だんけつ》は、此《これ》が爲《た》めに瓦解《ぐわかい》する心配《しんぱい》は無《な》かつた。松平《まつだひら》一|門《もん》の大多數《だいたすう》は、何《いづ》れも家康《いへやす》に忠實《ちうじつ》であつた。大久保《おほくぼ》、石川《いしかは》、酒井等《さかゐら》の諸家《しよけ》も、始終《ししう》家康《いへやす》の爲《た》めに、身《み》を粉《こ》にして働《はたら》いた。されど家康《いへやす》の恃《たの》みとしたるは、家康《いへやす》彼自身《かれじしん》であつた。
家康《いへやす》は隨分《ずゐぶん》苦境《くきやう》に立《た》つた。土呂《とろ》、針崎《はりさき》は、岡崎《をかざき》の南《みなみ》一|里餘《りよ》、野寺《のでら》、佐崎《さざき》、櫻井《さくらゐ》は、岡崎《をかざき》の西南《せいなん》、約《やく》一|里《り》、酒井將監《さかゐしやうげん》の上野城《うへのじやう》は、岡崎《をかざき》の西《にし》、半里《はんり》、彼等《かれら》は相約《あひやく》して、兵《へい》を出《いだ》す毎《ごと》に烽火《ほうくわ》を揚《あ》げ、互《たが》ひに應援《おうゑん》した。乃《すなは》ち家康《いへやす》は、反徒《はんと》の圍中《ゐちう》に陷《おちいつ》て居《ゐ》た。若《も》し今川氏眞《いまがはうぢざね》にして、其《そ》の大兵《たいへい》を提《ひつさ》げ、來《きた》り攻《せ》めば、家康《いへやす》の智勇《ちゆう》も、頗《すこぶ》る窮《きう》す可《べ》きであつた。然《しか》も豎子《じゆし》與《とも》に謀《はか》るに足《た》らず、おめ/\と其《そ》の機會《きくわい》を逸《いつ》した。今川氏《いまがはし》との境目《さかひめ》なる長澤《ながさは》には、松平康忠《まつだひらやすたゞ》あり、伊奈《いな》には本多忠俊《ほんだたゞとし》あり、近頃《ちかごろ》家康《いへやす》に屬《ぞく》したる、東參河奧郡《ひがしみかはおくぐん》の奧平《おくだひら》、菅沼《すがぬま》、西郷《さいがう》、設樂《しだら》諸氏《しよし》、何《いづ》れも居城《きよじやう》を守《まも》りて動《うご》かず、されば家康《いへやす》も、何等《なんら》外敵《ぐわいてき》の心配《しんぱい》なくして、飽《あ》く迄《まで》内亂《ないらん》を鎭壓《ちんあつ》するを得《え》た。
されど反徒《はんと》は、却々《なか/\》手剛《てごは》かつた。家康《いへやす》にして、若《も》し心弱《こゝろよわ》き大將《たいしやう》であつたならば、或《あるひ》は反徒《はんと》に最《もつと》も便利《べんり》なる條件《でうけん》の下《もと》にて、調停《てうてい》が成立《せいりつ》したかも知《し》れぬ。但《た》だ彼《かれ》は此度《このたび》、此節《このせつ》、拔本的《ばつぽんてき》に退治《たいぢ》す可《べ》く決心《けつしん》した。故《ゆゑ》に毫《がう》も攻撃《こうげき》の手《て》を緩《ゆる》めなかつた。


【六五】家康の個人的勇氣
反徒《はんと》は何《いづ》れも、僧徒《そうと》より『進足者《しんそくしや》、徃[#二]生極樂世界[#一]《ごくらくせかいにわうじやうし》、退足者《たいそくしや》、墮[#二]落無間地獄[#一]《むげんぢごくにだらくす》、』の一|札《さつ》を請《こ》ひ受《う》け、兜《かぶと》の眞甲《まつかふ》に建《た》てゝ進《すゝ》んだ。防《ふせ》ぐ者《もの》も、攻《せ》むる者《もの》も、朝夕《あさゆふ》顏見合《かほみあは》せたる朋輩《ほうはい》である、或《あるひ》は血族《けつぞく》である、或《あるひ》は縁類《えんるゐ》である。其《その》勇《ゆう》、其《その》怯《けふ》、何《いづ》れも晴《は》れの場所《ばしよ》であつて、旅《たび》の恥《はぢ》はかき捨《ず》てと云《い》ふ儀《ぎ》に參《まゐ》らぬ。隨《したが》つて其《そ》の戰鬪《せんとう》の猛烈《まうれつ》、深刻《しんこく》であつた※[#「こと」の合字、335-6]も、思《おも》ひやらるゝ。而《しか》して反徒《はんと》が、此《こ》の際《さい》單《ひと》り辟易《へきえき》したのは、主君《しゆくん》たる家康《いへやす》のみである。家康《いへやす》の向《むか》ふ所《ところ》、反徒《はんと》概《おほむ》ね回避《くわいひ》した。而《しか》して勇猛《ゆうまう》なる家康《いへやす》は、何時《いつ》も眞先《まつさき》に馬《うま》を躍《をど》らせ、叱咤《しつた》、奮進《ふんしん》した。
戰國《せんごく》に際《さい》しては、如何《いか》なる諸徳《しよとく》を具備《ぐび》するも、勇《ゆう》を缺《か》けば、人心《じんしん》を服《ふく》する※[#「こと」の合字、335-9]が、能《あた》はぬ。自《みづ》から好《この》んで、身《み》を矢石《しせき》の間《かん》に措《お》くの勇《ゆう》は、所謂《いはゆ》る匹夫《ひつぷ》の勇《ゆう》であるが、此《こ》の匹夫《ひつぷ》の勇《ゆう》が、戰國時代《せんごくじだい》では、主將《しゆしやう》たる可《べ》き者《もの》の、頗《すこぶ》る重要《ぢうえう》なる資格《しかく》の一である。信長《のぶなが》も、秀吉《ひでよし》も、此點《このてん》には不足《ふそく》はなかつた、家康《いへやす》の如《ごと》きは、最《もつと》も然《しか》りであつた。當時《たうじ》家康《いへやす》は二十二|歳《さい》、血氣《けつき》正《ま》さに剛《がう》の時《とき》であつた。彼《かれ》は烽火《ほうくわ》の揚《あが》るを見《み》る毎《ごと》に、自《みづ》から陣頭《ぢんとう》に立《た》つて、反徒《はんと》を撃退《げきたい》した。永祿《えいろく》六|年《ねん》十一|月《ぐわつ》廿五|日《にち》、厚木坂《あつきざか》の合戰《かつせん》の際《さい》には、
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水野《みづの》藤《とう》十|郎《らう》(水野忠重《みづのたゞしげ》弟《おとうと》)今日《けふ》も御供《おとも》にありしが、蜂屋《はちや》(半之允《はんのじよう》)が逃《にぐ》るを見《み》て、逃《のが》さじと渡《わた》し合《あ》ふ。半之允《はんのじよう》取《とつ》て返《かへ》し、脛《すね》の白《しろ》き武者振《みしやぶり》にて、我《われ》と槍《やり》を組《くま》んとは、笑止《せうし》なりとつぶやきながら、突伏《つきふせ》んとすれば、神君《しんくん》も御馬《おんうま》を馳《はせ》、槍《やり》を揮《ふるつ》て向《むか》ひ給《たま》へば、蜂屋《はちや》槍《やり》を伏《ふ》せて逃去《にげさ》る。松平金助《まつだひらきんすけ》是《これ》を見《み》て、きたなし返《かへ》せと大音《だいおん》揚《あげ》て呼《よば》はれば、蜂屋《はちや》顧《かへり》みて、主君《しゆくん》の渡《わた》らせ給《たま》ふ故《ゆゑ》逃《にぐ》るぞ、其方《そのはう》の爲《ため》に逃《にぐ》る事《こと》あらんやとて、取《とつ》て返《かへ》し、忽《たちまち》に金助《きんすけ》を突殺《つきころ》し、首《くび》を取《と》らんとする所《ところ》へ、神君《しんくん》馬《うま》を馳寄《かけよせ》給《たま》ひ、憎《にく》き奴原《やつばら》と宣《のたま》へば、蜂屋《はちや》は主君《しゆくん》と見《み》て、大《おほい》に恐《おそ》れ、逃去《にげさり》ぬ。一|揆方《きがた》、筧助太夫《かけひすけだいふ》は、平岩《ひらいは》七|之助《のすけ》親吉《ちかよし》を射《い》る、親吉《ちかよし》耳《みゝ》を射《い》られしが、薄手《うすで》故《ゆゑ》立上《たちあが》らんとする所《ところ》へ、神君《しんくん》槍《やり》を取《とつ》て、馬驅《うまか》け寄《よ》せ、助太夫《すけだいふ》に向《むか》はせ給《たま》へば、助太夫《すけだいふ》も大《おほい》に恐《おそ》れ、逃《にげ》さる。〔改正參河後風土記〕
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參河武士《みかはぶし》は、彼《かれ》の臣下《しんか》のみの擅《ほしいまゝ》にす可《べ》き、佳名《かめい》ではない。彼《か》れ家康《いへやす》が參河武士《みかはぶし》である、武士中《ぶしちう》の武士《ぶし》である。又《ま》た永祿《えいろく》七|年《ねん》正月《しやうぐわつ》三|日《か》、大善坂《だいぜんざか》の戰《たゝかひ》にも、
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近藤《こんどう》新《しん》一|郎《らう》が射《い》たる矢《や》、神君《しんくん》の手綱《たづな》にあたりけれども、御身《おんみ》には恙《つゝが》なし。神君《しんくん》大《おほい》に怒《いか》らせ給《たま》ひ、御馬《おんうま》を馳《はせ》て賊軍《ぞくぐん》に突《つい》て懸《かゝ》り給《たま》へば、賊軍《ぞくぐん》こらへ兼《かね》て八|方《ぱう》へ散走《さんそう》す………浪切《なみきり》孫《まご》七|郎《らう》は、其場《そのば》をば遁《に》げのびて、大善坂《だいぜんざか》へ逃登《にげのぼ》る。神君《しんくん》諸鐙《もろあぶみ》を合《あは》せて、追《おひ》ざまに二|槍《やり》迄《まで》突給《つきたま》へども、少《すこ》しく程《ほど》や遠《とほ》かりけん、薄手《うすで》なれば、捨鞭打《すてむちうつ》て逃《にげ》のびたり。〔改正參河後風土記〕
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又《ま》た同《どう》十一|日《にち》、上和田《かみわだ》の戰《たゝかひ》にも、
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神君《しんくん》唯《たゞ》一|騎《き》魁《さきがけ》出《だ》し玉《たま》ふ。宇津《うづ》與《よ》五|郎《らう》、御馬《おんうま》の側《かたはら》を離《はな》れず、神君《しんくん》御鎧《おんよろひ》に火砲《くわはう》中《あた》るといへども、御肌《おんはだ》を侵《をか》すに至《いた》らず。彌《いよ/\》御弱氣《おんよわき》を敵《てき》に見《み》せじと、駿馬《しゆんめ》を進《すゝ》め給《たま》ふ。石川《いしかは》十|郎左衞門《らうざゑもん》、槍《やり》を揮《ふるつ》て、神君《しんくん》に向《むか》ふ。内藤正成《ないとうまさなり》呼《よん》で曰《いは》く、石川《いしかは》は吾《わ》が縁族《えんぞく》(母方《はゝかた》の叔父《をぢ》、或《あるひ》は曰《いは》く舅《しうと》)なれども、今日《こんにち》の勝負《しようぶ》は、君《きみ》の爲《ため》也《なり》、逃《にが》すまじと矢《や》を發《はつ》し、十|郎左衞門《らうざゑもん》が兩股《りやうもゝ》を射貫《いぬ》き、即《すなは》ち倒《たふ》る。土屋長吉重治《つちやちやうきちしげはる》(二十八|歳《さい》)は、神君《しんくん》の近臣《きんしん》也《なり》。一|向門徒《かうもんと》たる故《ゆゑ》、一|揆《き》に黨《くみ》すと雖《いへど》も、今日《こんにち》神君《しんくん》の危《あやふ》きを見《み》て、逆徒《ぎやくと》に?ユニコード《さゝや》きて曰《いは》く、今《いま》や主君《しゆくん》の御味方《おみかた》小勢《こぜい》にて危《あやふ》し、此身《このみ》縱令《たとひ》無間地獄《むげんぢごく》に墮《おつ》るとも、主君《しゆくん》を打《う》たせ奉《たてまつ》る可《べ》きやはと、鋒《ほこ》を倒《さかしま》にして、逆賊《ぎやくぞく》と戰《たゝか》ひ、深手《ふかで》を負《お》うて死《し》す。岡崎《をかざき》へ歸後《きご》、御鎧《おんよろひ》の紐《ひも》を解《と》かせ給《たま》へば、砲玉《たま》二つ落《おつ》るを見《み》る。〔武徳編年集成〕
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彼《かれ》が苦戰《くせん》と同時《どうじ》に、其《そ》の個人的《こじんてき》勇氣《ゆうき》の異常《いじやう》なる、以《もつ》て知《し》る可《べ》きではない乎《か》。彼《かれ》は實《じつ》に死神《しにがみ》に見捨《みす》てられ、運命《うんめい》の神《かみ》に、其《そ》の一|命《めい》を拾《ひろ》はれたのであつた。
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後年《こうねん》伏見《ふしみ》にて、加藤主計頭清正《かとうかずへのかみきよまさ》が謁見《えつけん》せし時《とき》、木山彈正《きやまだんじやう》を討取《うちとり》しを、清正《きよまさ》いつも名譽《めいよ》に思《おも》ひ、誇《ほこ》りがに云《い》ひ出《いづ》ることあれど、我《われ》も昔《むかし》領内《りやうない》に一|揆《き》起《おこ》りて、日毎《ひごと》に苦戰《くせん》度々《たび/\》なりきとて、新野何某《にひのなにがし》と云《い》ふ者《もの》を召《め》し出《いだ》し、彼等《かれら》も弓《ゆみ》もて我《われ》に近《ちかづ》き、既《すで》に射《い》むとせし時《とき》、我《われ》に睨《にら》まれ、弓《ゆみ》を捨《すて》て遁《にげ》たるを、汝《なんぢ》は今《いま》に覺《おぼ》え居《を》るかと仰《おほせ》られしかば、清正《きよまさ》此《これ》を承《うけたまは》りて、己《おの》が武功《ぶこう》は云《い》ふに足《た》らぬ事《こと》と思《おも》ひ、且《かつ》感《かん》じ、且《かつ》恥《はぢ》て、御前《ごぜん》を退《しりぞ》きけるとぞ。〔續明良洪範〕
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所謂《いはゆ》る夜叉上官《やしやじやうくわん》も、家康《いへやす》の前《まへ》には、大言壯語《たいげんさうご》は出來《でき》なかつた。家康《いへやす》が當時《たうじ》の諸將《しよしやう》を威服《ゐふく》したる所以《ゆゑん》は、決《けつ》して智略《ちりやく》、術數《じゆつすう》のみではなかつた。彼《かれ》は勿論《もちろん》、前田利家《まへだとしいへ》の如《ごと》きも、當時《たうじ》信長《のぶなが》、秀吉《ひでよし》の後《のち》を承《う》けて、群雄《ぐんゆう》に長《ちやう》たる者《もの》は、他《た》の點《てん》に於《おい》ては、云《い》ふ迄《まで》もなく、乃《すなは》ち個人的勇氣《こじんてきゆうき》に於《おい》ても、彼等《かれら》の企《くはだ》て及《およ》ぶ可《べか》らざるものがあつた。家康《いへやす》の永祿《えいろく》六|年《ねん》九|月《ぐわつ》より、同《どう》七|年《ねん》三|月《ぐわつ》に至《いた》る、約《やく》半歳間《はんさいかん》、領内《りやうない》一|揆《き》退治《たいぢ》に於《お》ける、其《そ》の奮鬪《ふんとう》の如《ごと》きは、彼《かれ》が海道《かいだう》一の弓矢取《ゆみやと》りの、資格取得《しかくしゆとく》の一|大《だい》試驗《しけん》であつた。斯《か》く觀來《みきた》れば、彼《かれ》の崎嶇《きく》百|折《せつ》の生涯《しやうがい》には、是亦《これま》た決《けつ》して徒勞《とらう》ではなかつた。
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家康浪切孫七郎を突撃の事
浪切孫七郎は其場を逃のびて、大善坂へ逃登る、神君諸鐙を合せて、追樣に二鑓まで突給へども、少しくほどや遠かりけん、薄手なれば捨鞭打て逃のびたり。後に一揆平均し御家人等御免を蒙り、浪切も再度奉仕しけるに及び、或時神君浪切を召て、大善坂にて汝が逃たる時、我汝を二鎗まで突たりしが、薄手なりやと御尋有けるに、孫七郎朋輩の聞所や耻たりけん、某は生涯後疵を蒙りたる覺えなし、大善坂にて突せ給ふは、餘人にてや侍らんと申上る。神君聞せ給ひ、凡武士の法は虚言を吐て僞飾ざるを以て本意とす、汝勇はあれども信なくては、扇の要なく車の?のなきが如し、我突たる所は、總角付の鐶より右方一二寸程下を一ヶ所と、妻手の灸穴章門の邊を、慥に二鑓まで突たれども、程遠くして死に至らざるなり、汝が體に疵有べし、我鑓に其時血の付て有ければ、裏かきたるには相違なし、汝猶も陳じなば、只今衣類を脱で鑓疵の虚實を示すべしと仰ければ、孫七郎大に赤面せしかど、猶も遁辭をつくり、いかにも某が體に二ヶ所鎗疵候得共、是は餘人の爲に手負候、君の御鑓痕には候はずと申上る。神君大に笑はせ給ひ、然らば汝何方の軍に逃疵をば蒙りけるぞ、後疵にはあるべからず、もし逃尻の疵ならば、我等が所爲なるぞと宣へば、一座の輩もみな/\大に笑ひしとなり。〔改正參河後風土記〕
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【六六】雨降りて地固まる
土呂《とろ》善秀寺《ぜんしうじ》に籠《こも》りたる、吉田源太左衞門《よしだげんたざゑもん》は、元來《ぐわんらい》一|向門徒《かうもんと》ではなかつたが、本多《ほんだ》彌《や》八|郎《らう》正信《まさのぶ》と、斷金《だんきん》の交《まじはり》あり、友情《いうじやう》禁《きん》じ難《がた》く之《これ》に加擔《かたん》した。されば吉田《よしだ》の友人《いうじん》齋藤《さいとう》與《よ》五|右衞門《うゑもん》が、歸降《きかう》を勸《すゝ》むるや、彼《かれ》も尤《もつとも》と思《おも》ひ、本多《ほんだ》、蜂屋《はちや》の徒《と》を説《と》いた。蜂屋《はちや》は大久保黨《おほくぼたう》の近縁《きんえん》であつたから、大久保忠勝《おほくぼたゞかつ》、忠佐《たゞすけ》抔《など》よりも諭《さと》され、愈《いよい》よ其氣《そのき》になつた。忠勝《たゞかつ》、忠佐《たゞすけ》は、歸降者《きかうしや》と家康《いへやす》の間《あひだ》に立《たつ》て、(第《だい》一)一|揆《き》輩《やから》、本領安堵《ほんりやうあんど》、(第《だい》二)道場僧俗《だうぢやうそうぞく》、現状維持《げんじやうゐぢ》、(第《だい》三)一|揆《き》張本人《ちやうほんにん》助命《じよめい》の三|條件《でうけん》を齎《もた》らし、若《も》し此《これ》を許容《きよよう》あるに於《おい》ては、東條《とうでう》、上野《うへの》、八|面《めん》等《とう》の城《しろ》を攻落《せめおと》し、殘黨退治《ざんたうたいぢ》す可《べ》しとの意《い》を通《つう》じた。
家康《いへやす》は一|揆《き》張本人《ちやうほんにん》の助命《じよめい》丈《だけ》は、叶《かな》ふまじと云《い》ひ張《は》つたが、岡崎《をかざき》の元老《げんらう》たる、忠勝《たゞかつ》の父《ちゝ》忠俊入道常源《たゞとしにふだうじやうげん》の諫言《かんげん》と、此《こ》れより先《さき》に信長《のぶなが》が、瀧川一益《たきがはかづます》もて、一|揆《き》歸順《きじゆん》を謀《はか》る可《べ》く忠告《ちうこく》し、且《か》つ水野信元《みづののぶもと》も、屡《しばし》ば同樣《どうやう》の意見《いけん》を陳《の》べたる※[#「こと」の合字、341-9]なれば。旁《かたが》た悉《こと/″\》く三|箇《こ》の條件《でうけん》を容《い》れ、永祿《えいろく》七|年《ねん》二|月《ぐわつ》廿八|日《にち》、家康《いへやす》自《みづか》ら上和田村《かみわだむら》に出張《しゆつちやう》し、其《そ》の印書《いんしよ》を渡《わた》した。
此《こゝ》に於《おい》て反徒《はんと》の面々《めん/\》、一|同《どう》歸順《きじゆん》したが、其《そ》の張本《ちやうほん》、若《も》しくは幹部《かんぶ》とも目《もく》せらるる輩《はい》は、概《おほむ》ね逐電《ちくでん》した。其中《そのうち》には、他日《たじつ》徳川家《とくがはけ》佐命《さめい》の元勳《げんくん》たる、本多《ほんだ》彌《や》八|郎《らう》正信《まさのぶ》もあつた。酒井將監《さかゐしやうげん》は駿府《すんぷ》に赴《おもむ》き、今川氏眞《いまがはうぢざね》に頼《よ》つた。佐崎《さざき》の松平信次《まつだひらのぶつぐ》は、九|州《しう》に赴《おもむ》き、後《のち》に加藤清正《かとうきよまさ》に仕《つか》へ、加藤佐助《かとうさすけ》と名乘《なの》り、天草《あまくさ》にて討死《うちじに》した。大草《おほくさ》の松平昌久《まつだひらまさひさ》も、逃亡《たうばう》した。獨《ひと》り櫻井《さくらゐ》の松平家次《まつだひらいへつぐ》は、大久保《おほくぼ》、酒井等《さかゐら》の取成《とりなし》にて、其《そ》の本領《ほんりやう》を安堵《あんど》した。荒川頼持《あらかはよりもち》も再《ふたゝ》び降人《かうにん》となつたが、家康《いへやす》の妹聟《いもうとむこ》と迄《まで》なりながら、一|揆《き》に與《く》みしたりとて、八|面《めん》の城《しろ》を取《と》り上《あ》げられたれば、河内國《かはちのくに》に落魄《らくはく》して死《し》んだ。吉良義諦《きらよしあき》は、江州《がうしう》六|角《かく》承禎《しようてい》を頼《たの》み、其《そ》の寄客《きかく》と爲《な》り、後《の》ち攝州芥川《せつしうあくたがは》の合戰《かつせん》に討死《うちじに》した。
却説《さて》僧侶《そうりよ》に對《たい》しては、如何《いか》なる制裁《せいさい》を加《くわ》へたかと云《い》ふに、『列祖成績《れつそせいせき》』等《とう》には、凶惡《きようあく》の僧徒《そうと》のみを罰《ばつ》して、寺領《じりやう》も、元《もと》の如《ごと》く與《あ》へたとある。併《しか》し『參州《さんしう》一|向宗《かうしう》一|揆《き》宗亂記《しうらんき》』には、
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道場《どうぢやう》悉《こと/″\》く破却《はぎやく》仰《おほ》せ出《いだ》されしかば、一|向門徒等《かうもんとら》、是《これ》は御誓詞《ごせいし》に、前々《まへ/\》の如《ごと》くなし置《おか》るべき旨《むね》、仰《おほ》せ出《いだ》されしに、如何《いか》なる事《こと》ぞと申《まをし》ける。前々《まへ/\》は此地《このち》野原《のはら》なれば、前々《まへ/\》の如《ごと》く道場《だうぢやう》を破《やぶ》り捨《す》て、野原《のはら》にせよと仰《おほせ》られ、參州中《さんしうちう》の門徒寺《もんとでら》は悉《こと/″\》く破却《はぎやく》せらる。其後《そのご》二十|年《ねん》を經《へ》て、石川日向守《いしかはひうがのかみ》が母《はゝ》の願《ねがひ》により、國中《こくちう》一|向宗《かうしう》寺々《てら/″\》再興《さいこう》を免許《めんきよ》せらる。
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とある。何《いづ》れにしても一|向宗《かうしう》は、大打撃《だいだげき》を喰《く》つた。守護不入《しゆごふにふ》抔《など》の文句《もんく》は、今後《こんご》は到底《たうてい》口外出來《こうぐわいでき》ぬことゝなつた。此《かく》の如《ごと》くして西參河《にしみかは》に於《お》ける教權《けうけん》は、全《まつた》く家康《いへやす》政權《せんけん》の下《もと》に歸服《きふく》した。
雨《あめ》降《ふつ》て地《ぢ》固《かた》まる。此《こ》の内亂《ないらん》の掃蕩《さうたう》には、頗《すこぶ》る骨《ほね》が折《を》れたが、又《また》それ丈《だけ》の効果《かうくわ》もあつた。參河《みかは》に於《お》ける屋形《やかた》の吉良家《きらけ》を一|掃《さう》し去《さ》つた。岡崎《おかざき》に於《お》ける今川派《いまがはは》を、一|掃《さう》し去《さ》つた。父祖以來《ふそいらい》相傳《さうでん》したる、時代後《じだいおく》れの政策《せいさく》の遺物《ゐぶつ》を、悉皆《しつかい》一|掃《さう》し去《さ》つた。内訌《ないこう》の爲《た》めに、彼我《ひが》の間《あひだ》に、幾許《いくばく》の勇士《ゆうし》を亡《うしな》うたのは、惜《お》しむ可《べ》きであつた。されど淘汰《たうた》、鍛煉《たんれん》、醇《じゆん》の又《ま》た醇《じゆん》なるものを打出《だしゆつ》したのは、寧《むし》ろ悦《よろこ》ぶ可《べ》きであつた。
惟《おも》ふに家康《いへやす》は、此《こ》の内亂《ないらん》の爲《た》めに、多大《ただい》の教訓《けうくん》を受《う》けたであらう。彼《かれ》が後日《ごじつ》、天下《てんか》を掌握《しやうあく》するの時《とき》に於《おい》て、如何《いか》に宗教問題《しうけうもんだい》を解決《かいけつ》す可《べ》き乎《か》の鍵《かぎ》は、此囘《このたび》に與《あた》へられたであらう。彼《かれ》は宗教《しうけう》の力《ちから》とは、如何《いか》に偉大《ゐだい》なるものであり、之《これ》を制御《せいぎよ》するには、深甚《しんじん》の商量《しやうりやう》を要《えう》することを、此《こ》の經驗《けいけん》より獲來《えきた》つたであらう。彼《かれ》が他日《たじつ》、本願寺《ほんぐわんじ》を東西《とうざい》に分割《ぶんかつ》して、兩々《りやう/\》相《あひ》牽掣《けんせい》せしめたる妙用《めうよう》の如《ごと》きも、自《おのづ》から由來《ゆらい》する所《ところ》を知《し》らねばならぬ。
茲《こゝ》に記憶《きおく》す可《べ》きは、大樹寺《だいじゆじ》の登譽上人《とよしやうにん》が、家康《いへやす》の招《まね》きに應《おう》じて、加勢《かせい》したる一|事《じ》である。彼《かれ》は自《みづ》から『厭離穢土《おんりゑど》、欣求淨土《ごんくじやうど》、』の八|字《じ》を書《か》きたる旗《はた》を推《お》し立《た》て、千|餘人《よにん》の僧俗《そうぞく》を募《つの》りて、一|揆《き》と戰《たゝか》うた。〔改正參河後風土記〕又《ま》た天野康景《あまのやすかげ》の如《ごと》きは、門徒《もんと》より淨土《じやうど》に改宗《かいしう》して、馬場小平太《ばばこへいだ》なる、大剛《だいがう》の賊徒《ぞくと》を討取《うちと》つた。〔天野譜〕又《ま》た石川《いしかは》又《また》四|郎《らう》は、一|向宗亂《かうしうらん》の後《のち》、信長《のぶなが》に隨《したが》うたが、舊情《きうじやう》抑《おさ》へ難《がた》く、立《た》ち返《かへ》りて、家康《いへやす》に鷹狩《たかがり》の道筋《みちすぢ》に謁《えつ》した。
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又《また》四|郎《らう》が胸《むね》取《とつ》て引《ひ》き寄《よ》せ、御膝《おんひざ》の下《した》に、組敷《くみし》かれ、汝《なんじ》淨土《じやうど》に改宗《かいしう》はすまじき哉《や》と宣《のたま》へば、如何《いか》にも成《な》りがたしと申《まを》す。よて衝《つ》き放《はな》ち給《たま》ひて、汝《なんじ》は譜第《ふだい》の者《もの》にてはなきかと仰《おほせ》らる。又《また》四|郎《らう》やがて起《お》き揚《あが》り、容《かたち》を改《あらた》めて仰《おほせ》の如《ごと》く淨土《じやうど》に改《あらた》むべし。さきの如《ごと》く御膝下《おんひざした》に組敷《くみし》かれては、如何《いか》に主君《しゆくん》にても、御受《おう》け申上《まをしあげ》難《がた》しとあれば、咲?《わら》はせられしとなり。〔池田正印覺書〕
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以上《いじやう》によりて淨土宗《じやうどしう》が、家康《いへやす》の御用宗教《ごようしうけう》であつた※[#「こと」の合字、345-3]が判知《わか》る。兎《と》も角《かく》も家康《いへやす》は、淨土宗《じやうどしう》を以《もつ》て、一|向宗《かうしう》を制《せい》せんとした。家康《いへやす》の淨土宗《じやうどしう》は、傳統的《でんとうてき》とも云《い》ひ得《う》るが、信長《のぶなが》も淨土宗《じやうどしう》には、多少《たせう》の贔屓《ひいき》をした樣《やう》である。それは安土宗論《あづちしうろん》の一|件《けん》でも明白《めいはく》である。此《こ》れは同《おな》じく念佛門《ねんぶつもん》でも、一|向宗《かうしう》は、自《みづ》から俗權《ぞくけん》を掌握《しやうあく》して立《た》たんとし、淨土宗《じやうどしう》は、他《た》の俗權《ぞくけん》に頼《よ》つて立《た》たんとしたからではあるまい乎《か》。乃《すなは》ち徳川氏《とくがはし》以後《いご》の眞宗《しんしう》は、淨土宗《じやうどしう》と、更《さ》らに擇《えら》ぶ所《ところ》なく、寧《むし》ろ俗權《ぞくけん》に追隨《つゐずゐ》するを、是《こ》れ急《きふ》なりとする宗風《しうふう》となつた。是亦《これま》た時代《じだい》の一|變化《へんくわ》であらう。

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