第九章 天下布武の第一著
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第九章 天下布武の第一著
【五三】京都の現状
吾人《ごじん》は飜《ひるがへ》つて京都《きやうと》の現状《げんじやう》を、一|瞥《べつ》せねばならぬ。應仁以來《おうにんいらい》の京都《きやうと》は、亂脈《らんみやく》の二|字《じ》で盡《つく》して居《を》る。東山義政《ひがしやまよしまさ》の隱居《いんきよ》して、未《いま》だ死《し》せざるに先《さきだ》ち、其《そ》の子《こ》義尚《よしひさ》は死《し》んだ。義尚《よしひさ》の後《のち》は、義政《よしまさ》の弟《おとうと》義視《よしみ》の子《こ》義稙《よしたね》が繼《つ》いだ。彼《かれ》は任職《にんしよく》四|年《ねん》にして、越中《ゑつちう》に出奔《しゆつぽん》し、更《さ》らに周防《すはう》に赴《おもむ》き、大内義興《おほうちよしおき》にョ《よ》つた。而《しか》して其跡《そのあと》には、東山義政《ひがしやまよしまさ》の弟《おとうと》、所謂《いはゆ》る堀河御所政知《ほりかはごしよまさとも》の子《こ》義澄《よしずみ》が、明應《めいおう》三|年《ねん》、十六|歳《さい》にして、征夷大將軍《せいいたいしやうぐん》となつた。然《しか》も義稙《よしたね》は永正《えいしやう》五|年《ねん》正月《しやうぐわつ》に、大内義興《おほうちよしおき》に擁《よう》せられて、周防《すはう》より入京《にふきやう》し、其《そ》の七|月《ぐわつ》には、再《ふたゝ》び征夷大將軍《せいいたいしやうぐん》に補《ほ》せられた。二|人《にん》の征夷大將軍《せいいたいしやうぐん》が、同時《どうじ》にある譯《わけ》ぢや。同《どう》八|年《ねん》八|月《ぐわつ》には、義澄《よしずみ》は江州《がうしう》の岳山《たけやま》に逝《ゆ》いた。
義稙《よしたね》は將軍《しやうぐん》に再補《さいほ》したものゝ、其《そ》の運命《うんめい》は不定《ふてい》であつた。彼《かれ》は丹波《たんば》に奔《はし》り、江州《がうしう》の甲賀山中《かふがさんちう》に奔《はし》り、淡路《あはぢ》に奔《はし》り、更《さ》らに將軍職《しやうぐんしよく》を罷《や》め、大永《たいえい》三|年《ねん》四|月《ぐわつ》、阿波《あは》の撫養《むや》にて、其《そ》の最後《さいご》を遂《と》げた。彼《かれ》の一|生《しやう》は、洵《まこと》に流轉《るてん》極《きは》まりなき生涯《しやうがい》であつた。
其次《そのつぎ》は義晴《よしはる》である。彼《かれ》は義澄《よしずみ》の子《こ》、大永《たいえい》元年《ぐわんねん》十一|歳《さい》にて、將軍職《しやうぐんしよく》を襲《つ》いだ。彼《かれ》の在職《ざいしよく》は二十五|年《ねん》で、隨分《ずゐぶん》長《なが》しと云《い》はねばならぬ。されど殆《ほとん》ど一|日《じつ》も、治平《ちへい》の日《ひ》はなかつた。享祿《きやうろく》元年《ぐわんねん》には、京都《きやうと》の亂《らん》を避《さ》けて、江州《がうしう》の朽木谷《くちきだに》に入《い》つた。天文《てんぶん》十|年《ねん》には、坂本《さかもと》に出陣《しゆつぢん》した。同《どう》十五|年《ねん》には、其《そ》の子《こ》義輝《よしてる》に將軍職《しやうぐんしよく》を讓《ゆづ》つた。同《どう》十九|年《ねん》には、江州《がうしう》の穴太《あなぶと》の山中《さんちう》に死《し》した。而《しか》して彼《かれ》の子《こ》義輝《よしてる》が、即《すなは》ち不幸《ふかう》なる光源院《くわうげんゐん》である。
抑《そもそ》も將軍義澄《しやうぐんよしずみ》が、京都《きやうと》を沒落《ぼつらく》するや、其《そ》の子《こ》二|人《にん》あつた。一|人《にん》は細川高國《ほそかはたかくに》が取《と》り立《た》てたる、將軍義晴《しやうぐんよしはる》ぢや。他《た》の一|人《にん》は、管領細川澄元《くわんれいほそかはすみもと》に託《たく》したる、堺《さかひ》の冠者《くわんじや》義維《よしつな》ぢや。義維《よしつな》の子《こ》が義榮《よしひで》ぢや。父子《ふし》共《とも》に阿波《あは》の御所《ごしよ》と稱《しよう》した。而《しか》して公方家《くばうけ》は、前《さき》に義澄《よしずみ》と、義稙《よしたね》との爭《あらそひ》を見《み》たる如《ごと》く、又《ま》た義晴《よしはる》と、義維《よしつな》との爭《あらそひ》ありたる如《ごと》く、今《いま》又《ま》た義輝《よしてる》と、義榮《よしひで》との爭《あらそひ》を見《み》る※[#「こと」の合字、281-1]となつた。
當時《たうじ》三|管《くわん》の家柄《いへがら》たる畠山家《はたけやまけ》は、其《そ》の被官遊佐《ひくわんゆさ》に壓倒《あつたう》せられ、細川家《ほそかはけ》は、其《そ》の被官《ひくわん》三|好《よし》に其《そ》の勢力《せいりよく》を奪《うば》はれた。特《とく》に三|好《よし》長慶《ちやうけい》は、群小中《ぐんせうちう》の錚々《さう/\》であつて、一|時《じ》京畿《けいき》を風靡《ふうび》した。彼《かれ》は信長程《のぶながほど》の氣量《きりやう》はなかつたが、亦《ま》た一|種《しゆ》の傑物《けつぶつ》であつた。彼《かれ》は其《そ》の主筋《しゆすぢ》の細川晴元《ほそかははるもと》と戰《たゝか》ひ、之《これ》を破《やぶ》り、其《そ》の勢力《せいりよく》は山城《やましろ》、攝津《せつつ》、河内《かはち》、大和《やまと》、和泉《いづみ》、淡路《あはぢ》、阿波《あは》に及《およ》んだ。彼《かれ》は細川家《ほそかはけ》の被官《ひくわん》よりして、將軍家《しやうぐんけ》の御相伴衆《おしやうばんしう》に經《へ》上《のぼ》り、桐《きり》の御紋章《ごもんしやう》を賜《たま》はり、其《そ》の嫡子義長《ちやくしよしなが》は、永祿《えいろく》四|年《ねん》に、其《そ》の臣《しん》松永久秀《まつながひさひで》と與《とも》に、從《じゆ》四|位下《ゐげ》となり、久秀《ひさひで》には源姓《げんせい》を授《さづ》けられ、將軍義輝《しやうぐんよしてる》は、長慶《ちやうけい》の邸《てい》に臨《のぞ》むの寵榮《ちようえい》を與《あた》へた。三|好《よし》は本來《ほんらい》阿波御所義維《あはのごしよよしつな》の味方《みかた》であつて、前將軍義晴《ぜんしやうぐんよしはる》と戰《たゝか》うたが、周圍《しうゐ》の事情《じじやう》は、義輝《よしてる》、長慶《ちやうけい》の協和《けうわ》を成立《せいりつ》せしめた。然《しか》るに長慶《ちやうけい》は、永祿《えいろく》七|年《ねん》七|月《ぐわつ》に病死《びやうし》した。而《しか》して其《そ》の子《こ》義興《よしおき》(義長《よしなが》改名《かいめい》)は、父《ちゝ》にも勝《まさ》る傑物《けつぶつ》であつたが、其《そ》の前年《ぜんねん》八|月《ぐわつ》、二十二|歳《さい》で、攝州《せつしう》芥川城《あくたがはじやう》にて逝《ゆ》いた。世人《せじん》は松永久秀《まつながひさひで》が、其《そ》の英敏《えいびん》を忌《い》んで、之《これ》を毒殺《どくさつ》したと云《い》うた。
長慶《ちやうけい》死後《しご》の京畿《けいき》は、松永久秀《まつながひさひで》と、三|好《よし》三|人衆《にんしう》との、並頭政治《へいとうせいぢ》であつた。三|人衆《にんしう》とは、長慶《ちやうけい》の養子《やうし》、其《そ》の弟《おとうと》十河一存《そがうかずやす》の子《こ》、義繼《よしつぐ》が弱年《じやくねん》である故《ゆゑ》に、一|族《ぞく》三|好《よし》日向守《ひうがのかみ》、同下野守《どうしもつけのかみ》、岩成主税助《いはなりちからのすけ》三|人《にん》を、後見役《こうけんやく》としたのぢや。
將軍義輝《しやうぐんよしてる》は、長慶《ちやうけい》存生中《ぞんじやうちう》は、隱忍《いんにん》して居《ゐ》たが、其《そ》の死後《しご》は三|好《よし》、松永《まつなが》一|黨《たう》の手《て》より獨立《どくりつ》す可《べ》く、種々《しゆ/″\》計企《けいき》した。而《しか》して久秀等《ひさひでら》も、阿波御所義榮《あはのごしよよしひで》を奉《ほう》じて、其《その》志《こゝろざし》を逞《たくまし》うせんと欲《ほつ》し、茲?《こゝ》に三|好《よし》、松永《まつなが》對《たい》義輝《よしてる》の反目《はんもく》は、發揮《はつき》して來《き》た。彼等《かれら》は幕府《ばくふ》の修理《しうり》未《いま》だ成《な》らず、其《そ》の門扉《もんぴ》の未《いま》だ完《まつた》からざるに乘《じよう》じて、奇襲《きしふ》を企《くはだ》てた。彼等《かれら》は永祿《えいろく》八|年《ねん》五|月《ぐわつ》十九|日《にち》、清水詣《きよみづまうで》と披露《ひろう》し、人數《にんず》を催《もよ》ほし、更《さ》らに訴状《そじやう》を捧《さゝ》ぐる樣《さま》を爲《な》して、飽迄《あくまで》油斷《ゆだん》をなさしめ、四|方《はう》より取《と》り圍《かこ》み、亂入《らんにふ》した。將軍方《しやうぐんがた》にては、不用意《ふようい》の事《こと》であり、宿直《とのゐ》の者《もの》、何《いづ》れも奮鬪《ふんとう》したが、衆寡敵《しうくわてき》せず。而《しか》して義輝《よしてる》も、其《そ》の重圍《ぢうゐ》を脱《だつ》す可《べ》き望《のぞ》み斷《た》え、『五月雨《さみだれ》は露《つゆ》か涙《なみだ》か時鳥《ほととぎす》、我《わ》が名《な》をあげよ雲《くも》の上《うへ》まで』の辭世《じせい》を殘《のこ》して、討死《うちじに》した。
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扨《さて》も公方《くばう》は名劍《めいけん》を拔持給《ぬきもちたま》ひ、切《きつ》て出給《いでたま》ふを、三|好方《よしがた》の池田丹後守《いけだたんごのかみ》が子《こ》、こざかしき男《をとこ》にて、戸《と》の脇《わき》に隱《かく》れ居《ゐ》て、御足薙奉《おんあしなぎたてまつ》りければ、轉《まろ》び給《たま》ふ所《ところ》を、障子《しやうじ》を倒《たふ》し掛《か》け奉《たてまつ》りて、上《うへ》より鑓《やり》にて突伏《つきふせ》る。其《そ》の時《とき》奧《おく》より火《ひ》を放《はな》ちて燃《も》え立《たち》ければ、御頸《おんくび》をば取得《とりえ》ざりけり、御歳《おんとし》三十|歳《さい》、御供《おんとも》の討死《うちじに》の者《もの》三十一|人《にん》とぞ聞《きこ》えける。御母公慶壽院殿《おんはゝぎみけいじゆゐんでん》は、近衞殿下稙家公《このゑでんかたねいい?こう》の御息女《ごそくぢよ》なるが、火《ひ》の中《なか》へ忽《たちまち》飛入《とびい》り、終《つひ》に失《う》せさせ給《たま》ひけり。御臺所《みだいどころ》をば、日向守《ひうがのかみ》計《はから》ひにて、近衞殿《このゑでん》へ送《おく》り入《い》れ奉《たてまつ》る。〔總見記〕
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洵《まこと》に悲慘《ひさん》の最期《さいご》であつた。然《しか》るに夫人《ふじん》に關《くわん》しては、當時《たうじ》京都《きやうと》にありて、此《こ》の悲劇《ひげき》を目撃《もくげき》したる、葡萄牙《ぽるとがる》の宣教師《せんけうし》の報告《はうこく》は、左《さ》の如《ごと》くであつた。
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此《この》難《なん》を脱《だつ》したるは、獨《ひと》り公方《くばう》の夫人《ふじん》のみであつたが、三|日《か》を經《へ》て、京都《きやうと》の郊外《かうぐわい》半里許《はんりばかり》の、佛僧《ぶつそう》の閑室《かんしつ》に、潜居《せんきよ》せるを搜《さがし》出《いだ》した。逆徒《ぎやくと》の二|將《しやう》、二|卒《そつ》を遣《や》りて之《これ》を斬《き》らしめた。夫人《ふじん》時《とき》に歳《とし》二十七。其《そ》の容姿《ようし》艷?麗《えんれい》、儀容《ぎよう》端正《たんせい》、慈愛《じあい》深《ふか》く、勇氣《ゆうき》の逞《たく》ましき、男子《だんし》にも優《まさ》り、如何《いか》に高位《かうゐ》に即《つ》くも、耻《は》ぢざる女丈夫《ぢよぢやうふ》であつた。
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其《その》生《せい》、其《その》死《し》、何《いづ》れにしても、慘《さん》の又《ま》た慘《さん》であつた。


【五四】足利義昭
將軍義輝《しやうぐんよしてる》に二|人《にん》の弟《おとうと》があつた。一|人《にん》は北山鹿苑寺《きたやまろくをんじ》の周ロ《しうかう》ぢや、彼《かれ》は三|好《よし》、松永黨《まつながたう》の爲《た》めに、誑《あざむ》き殺《ころ》された。他《た》の一|人《にん》は覺慶《かくけい》で、南都《なんと》一|乘院《じようゐん》の門主《もんす》ぢや。彼《かれ》も危《あやふ》き運命《うんめい》に瀕《ひん》したが、細川藤孝《ほそかはふぢたか》と相謀《あひはか》り、假病《けびやう》を構《かま》へ、醫師《いし》米田宗賢《こめだそうけん》を招《まね》き、宿直《とのゐ》せしめ、更《さ》らに幾《いくばく》もなく病《やまひ》癒《い》えたりとて、守兵《しゆへい》に酒《さけ》を飮《の》ましめ、潜《ひそ》かに春日山《かすがやま》を踰《こ》えて、江州《がうしう》に逃《のが》れ、中郡矢島《なかごほりやじま》なる和田伊賀守惟政《わだいがのかみこれまさ》にョ《よ》つた。此《こ》れが則《すなは》ち足利《あしかゞ》十四|代《だい》最後《さいご》の將軍義昭《しやうぐんよしあき》である。彼《かれ》は天文《てんぶん》六|年《ねん》十一|月《ぐわつ》の生《うまれ》であれば、永祿《えいろく》八|年《ねん》は廿九|歳《さい》であつた。
和田《わだ》は小大名《こだいみやう》で、固《もと》より大望《たいまう》を託《たく》するに足《た》らぬ。そこで六|角《かく》義賢《よしかた》に依《よつ》た。彼《かれ》は上杉謙信《うへすぎけんしん》や、其他《そのた》にも書《しよ》を飛《とば》して、援?助《ゑんじよ》を請《こ》うた。彼《かれ》は此時《このとき》還俗《げんぞく》して義秋《よしあき》と稱《しよう》した。同志《どうし》の士《し》も、追々《おひ/\》と來集《らいしふ》した。されど六|角《かく》義賢《よしかた》には、其《その》志《こゝろざし》がない。永祿《えいろく》十|年《ねん》八|月《ぐわつ》には、其《そ》の子《こ》義弼《よしすけ》は、謀《はかりごと》を三|好黨《よしたう》に通《つう》じて、却《かへつ》て彼《かれ》を襲《おそ》はんとした。彼《かれ》は八|月《ぐわつ》十五|日《にち》夜《よ》、月明《げつめい》に琵琶湖《びはこ》を絶?《よ》ぎり、其《そ》の妹聟《いもうとむこ》武田義統《たけだよしみつ》の領地《りやうち》なる若狹《わかさ》に赴《おもむ》いた。『落[#二]魄江湖[#一]暗結[#レ]愁。孤舟一夜思悠悠。天公亦慰[#二]吾生[#一]否。月白蘆花淺水秋。』此《こ》れは是《こ》れ彼《かれ》が當時《たうじ》の作《さく》として、傳《つた》へられたるもの。其《そ》の流離《りうり》困頓《こんとん》の状《じやう》、想《おも》ひ見《み》る可《べ》しだ。然《しか》も武田《たけだ》は地《ち》小《せう》、力《ちから》微《び》に、當《あて》になる可《べ》きでない。因《よつ》て更《さら》に越前《ゑちぜん》の守護《しゆご》朝倉義景《あさくらよしかげ》に、其《その》意《い》を通《つう》じ、同年《どうねん》の末《すゑ》には、若狹《わかさ》より越前《ゑちぜん》に赴《おもむ》いた。
朝倉家《あさくらけ》は、敏景《としかげ》が文明年間《ぶんめいねんかん》に越前守護職《ゑちぜんしゆごしよく》となつた以來《いらい》、或《あるひ》は御供衆《おともしう》に列《れつ》せられ、或《あるひ》は御相伴衆《おしやうばんしう》に準《じゆん》ぜられ、或《あるひ》は白《しろ》き傘袋《かさぶくろ》、虎《とら》の皮《かは》の鞍覆《くらおほひ》の免許《めんきよ》あり、更《さ》らに塗輿《ぬりこし》迄《まで》も特許《とくきよ》あり。而《しか》して義景《よしかげ》の如《ごと》きも、本名《ほんみやう》信景《のぶかげ》を、義輝《よしてる》より一|字《じ》を賜《たま》はり、義景《よしかげ》と改《あらた》めたる程《ほど》の家柄《いへがら》なれば、義秋《よしあき》が此處《こゝ》を立脚地《りつきやくち》とせんとしたのも、決《けつ》して不思議《ふしぎ》ではない。不思議《ふしぎ》なのは、朝倉《あさくら》が此《こ》の奇貨《きくわ》居《お》く可《べ》き代物《しろもの》を、閑却《かんきやく》した事《こと》である。
義秋《よしあき》には機略《きりやく》があつた。彼《かれ》は年來《ねんらい》相《あ》ひ鬩《せめ》ぎたる加賀《かが》の一|向宗《かうしう》と、朝倉氏《あさくらし》とを講和《かうわ》せしめた。彼《かれ》は加冠《かくわん》して義昭《よしあき》と改《あらた》めた。而《しか》して先業《せんげふ》恢?復《くわいふく》の志《こゝろざし》は、愈《いよい》よ旺盛《わうせい》であつた。然《しか》も朝倉義景《あさくらよしかげ》は、依違《いゐ》して更《さ》らに動《うご》く可《べ》き模樣《もやう》がなかつた。故《ゆゑ》に彼《かれ》も愈《いよい》よ望《のぞみ》を朝倉氏《あさくらし》に絶《た》ち、更《さ》らにョ《よ》る可《べ》き者《もの》を物色《ぶつしよく》して、織田信長《おだのぶなが》を得《え》た。彼《かれ》は永祿《えいろく》十一|年《ねん》六|月《ぐわつ》、細川藤孝等《ほそかはふぢたから》を信長《のぶなが》に遣《つかは》し、戴翼《たいよく》を求《もと》めた。信長《のぶなが》は快諾《くわいだく》した、欣諾《きんだく》した。此《こ》の相談《さうだん》は寧《むし》ろ信長《のぶなが》の方《はう》より、持《も》ち掛《か》けたく望《のぞ》んだる事柄《ことがら》である。或《あるひ》は陰《いん》に彼《かれ》に倚《よ》る可《べ》く、義昭《よしあき》を諷《ふう》したかも知《し》れぬ。何《いづ》れにしても此《こ》の相談《さうだん》は、早速《さつそく》成立《せいりつ》した。
但《た》だ濟《す》まぬは、朝倉義景《あさくらよしかげ》ぢや。彼《かれ》は自《みづ》から義昭《よしあき》を奉《ほ?うじて》、京都《きやうと》に入《い》る丈《だけ》の氣魄《きはく》はないが、さりとて此《こ》の代物《しろもの》を、綺麗《きれい》に他人《たにん》に渡《わた》すのは、快《こゝろよ》くない。他人《たにん》尚《な》ほ然《しか》り、况《いは》んや平素《へいそ》から面白《おもしろ》からぬ、織田《おだ》に於《おい》てをやだ。されば義昭《よしあき》も、甘言《かんげん》を以《もつ》て義景《よしかげ》を納得《なつとく》せしめ、越前《ゑちぜん》より江州《がうしう》に赴《おもむ》き、淺井長政《あさゐながまさ》の小谷城《をだにじやう》に抵《いた》り、轉《てん》じて信長《のぶなが》に迎《むか》へられて、美濃《みの》に入《い》つた。
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朝倉事元來雖[#レ]非[#二]其者[#一]《あさくらことぐわんらいそのものにあらずといへども》、彼父掠[#二]上意[#一]任[#二]御相伴之次[#一]《かれのちゝじやういをかすめおしやうばんのなみににんじ》、於[#二]越國[#一]《ゑつこくにおいて》、雅意《がい》に振舞《ふるまひ》、御歸洛之事《ごきらくのこと》、中々不[#レ]被[#レ]出[#レ]詞之間《なかなかことばにいだされざるのあひだ》、是又公方樣無[#二]御料簡[#一]《これまたくばうさまごれうけんなく》、此上者織田上總介信長《このうへはおだかづさのすけのぶなが》を、偏被[#二]馮入[#一]度之趣被[#二]仰出[#一]《ひとへにたのみいれられたきのおもむきおほせいだされ》、既隔[#レ]國《すでにくにをへだて》、其上信長雖[#レ]爲[#二]?弱之士《そのうへのぶながわうじやくのしたりといへども》、天下之被[#レ]欲《てんかこれをほつせられ》、致[#二]忠功[#一]《ちうこうをいたし》、憚[#二]一命[#一]《いちめいをはゞかり》、被[#レ]成[#二]御請[#一]《おうけなされ》、永祿《えいろく》十一|年《ねん》七|月《ぐわつ》二十七|日《にち》、越前《ゑちぜん》へ爲[#二]御迎[#一]《おんむかへとして》、和田伊賀守《わだいがのかみ》、不破河内守《ふはかはちのかみ》、村井民部《むらゐみんぶ》、島田所之助《しまだところのすけ》、被[#レ]成[#二]進上[#一]《しんじやうなされ》、濃州西庄立正寺《じやうしうさいしやうりつしやうじ》に至而公方樣御成《いたりてくばうさまおなり》、末席《まつせき》に鳥目《てうもく》千|貫《ぐわん》積《つま》せられ、御太刀《おんたち》、御鎧《おんよろひ》、武具《ぶぐ》、御馬《おんうま》、色々《いろ/\》進上《しんじやう》申《まを》され、其外諸侯之御衆《そのほかしよこうのおんしう》、是又御馳走不[#レ]斜《これまたごちそうなゝめならず》、此上者片時《このうへはへんじ》も御入洛可[#レ]有《ごじゆらくあるべく》、御急《おいそぎ》と思食《おぼしめさる》。〔信長公記〕
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是《こ》れ信長《のぶなが》の祐筆《ゆうひつ》であつた、太田牛《おほたうし》一の記《き》する所《ところ》、宛《あたか》も信長《のぶなが》の口授《くじゆ》したのを、筆記《ひつき》したのではないかと思《おも》はるゝ程《ほど》ぢや。所謂《いはゆ》る信長《のぶなが》微力《びりよく》と雖《いへど》も、將軍《しやうぐん》の命《めい》とあらば、成敗《せいばい》利鈍《りどん》を顧《かへり》みず、御受《おう》け致《いた》すの意氣《いき》睹《み》るが如《ごと》しぢや。而《しか》して彼《かれ》が義昭《よしあき》に供奉《ぐぶ》する所《ところ》、亦《ま》た頗《すこぶ》る厚《あつ》しと云《い》ふ可《べ》しだ。機會《きくわい》は多《おほ》くの人《ひと》を見舞《みま》ふ、されど機會《きくわい》を捉《とら》へ得《う》る者《もの》は、幾許《いくばく》もない。信長《のぶなが》は則《すなは》ち其《そ》の一|人《にん》であつた。彼《かれ》が多年《たねん》養成《やうせい》したる羽翼《うよく》は、九|天《てん》に向《むかつ》て正《まさ》に大《おほ》いに搏《う》たんとする也《なり》。


【五五】信長京都に入る
信長《のぶなが》は愈《いよい》よ義昭《よしあき》を奉《ほう》じて、京都《きやうと》に入《い》る可《べ》く支度《したく》した。彼《かれ》は自《みづ》から江州《がうしう》佐和山《さわやま》へ出張《しゆつちやう》し、六|角《かく》承禎《しようてい》を諭《さと》し、義昭《よしあき》入洛《じゆらく》の上《うへ》は、天下《てんか》所司代《しよしだい》に任《にん》ぜらる可《べ》しとの約束《やくそく》をなし、逗留《とうりう》七|日《か》に及《およ》べども。當時《たうじ》承禎《しようてい》は、既《すで》に三|好黨《よしたう》と相《あひ》結託《けつたく》し、阿波御所義榮《あはのごしよよしひで》に與《く》みしたれば、頑《ぐわん》として之《これ》に應《おう》ぜなかつた。
信長《のぶなが》の計畫《けいくわく》此《こゝ》に於《おい》て齟齬《そご》した。今《いま》は力取《りよくしゆ》するの他《ほか》はない。よつて尾《び》、濃《じやう》、勢《せい》三|國《ごく》の勢《せい》を驅《か》り催《もよ》ほし、與國《よこく》たる參河《みかは》の徳川家康《とくがはいへやす》も、其《そ》の同族《どうぞく》松平信一《まつだひらのぶかず》をして、加勢《かせい》せしめ、淺井長政《あさゐながまさ》も、小谷城《をだにじやう》より親《みづか》ら將《しやう》として來《きた》り援?《たす》けた。斯《か》くて信長《のぶなが》は、永祿《えいろく》十一|年《ねん》九|月《ぐわつ》七|日《か》、岐阜《ぎふ》を出立《しゆつたつ》し、十一|日《にち》に江州《がうしう》愛知川《えちがは》附近《ふきん》に野陣《やぢん》を張《は》つた。六|角《かく》承禎《しようてい》、同《どう》義弼《よしすけ》父子《ふし》は、箕作《みつくり》、和田山《わだやま》十八|城《じやう》を構《かま》へて、信長《のぶなが》の進路《しんろ》を防禦《ばうぎよ》した。されど信長《のぶなが》は、多《おほ》くの小城《こじろ》には目《め》もくれず、直《たゞ》ちに美濃《みの》三|人衆《にんしう》其他《そのた》をして、和田山城《わだやまじやう》を牽掣《けんせい》し、以《もつ》て和田山《わだやま》、箕作間《みつくりかん》の聯絡《れんらく》を絶《た》たしめ、十二|日《にち》、自《みづ》から進《すゝ》んで箕作城《みつくりじやう》を攻《せ》めた。『佐久間右衞門《さくまうゑもん》、木下藤吉郎《きのしたとうきちらう》、丹羽《には》五|郎左衞門《らうざゑもん》、淺井《あさゐ》新《しん》八、被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、箕作山之城《みつくりやまのしろ》攻《せめ》させられ、申剋《さるのこく》(午後四時)より夜《よ》に入《いり》攻落訖《せめおとしをはる》』。〔信長公記〕木下藤吉郎《きのしたとうきちらう》の名《な》が、『信長公記《のぶながこうき》』に掲《かゝ》げられたるは、此《これ》が最初《さいしよ》ぢや。永祿《えいろく》元年《ぐわんねん》、彼《かれ》が信長《のぶなが》に仕《つか》へて以來《いらい》、既《すで》に十一|年《ねん》、嚢?裡《のうり》の錐《きり》は、漸《やうや》く頴脱《えいだつ》して、其《その》鋒《ほさき》を露《あら》はして來《き》た。
翌朝《よくてう》は六|角氏《かくし》の本城《ほんじやう》、觀音寺城《くわんおんじじよう》に取《と》り掛《かゝ》らんとの準備中《じゆんびちう》、承禎父子《しようていふし》は其《その》勢《いきほ》ひに辟易《へきえき》し、同夜《どうや》石部《いしべ》に向《むかつ》て退去《たいきよ》した。されば十三|日《にち》には、信長《のぶなが》は戰《たゝか》はずして觀音寺城《くわんおんじじやう》に入《い》つた。而《しか》して日野城《ひのじやう》の蒲生賢秀《がまふかたひで》を首《はじめ》として、諸城《しよじやう》皆《み》な風《ふう》を臨《のぞ》んで歸服《きふく》したれば、同《どう》十四|日《か》に其旨《そのむね》を、美濃西庄《みのさいじやう》に在《あ》る義昭《よしあき》に報《はう》じ。廿一|日《にち》には義昭《よしあき》も、愈《いよい》よ西庄《さいじやう》を出發《しゆつぱつ》し、廿六|日《にち》には信長《のぶなが》湖水《こすゐ》を渡《わた》りて、三|井寺極樂院《ゐでらごくらくゐん》に滯陣《たいぢん》、二十七|日《にち》義昭《よしあき》湖水《こすゐ》を渡《わた》りて、三|井寺光淨院《ゐでらくわうじやうゐん》滯陣《たいぢん》、廿八|日《にち》には信長《のぶなが》進《すゝ》んで、京都《きやうと》東福寺《とうふくじ》に其《その》陣《ぢん》を移《うつ》し、其《そ》の先陣《せんぢん》柴田《しばた》、蜂屋《はちや》、森《もり》、坂井《さかゐ》の徒《と》をして、岩成主税助《いはなりちからのすけ》の楯籠《たてこも》る青龍寺《せいりうじ》を攻《せ》めしめた。義昭《よしあき》も亦《ま》た、同日《どうじつ》清水《きよみづ》に著《つ》いた。
信長《のぶなが》は岐阜《ぎふ》發足以來《ほつそくいらい》、僅《わづ》かに三|週間《しうかん》にして、京都《きやうと》に入《い》つた。三|好《よし》、松永黨《まつながたう》の抵抗《ていかう》の案外《あんぐわい》手弱《てよわ》かつたのは、彼等《かれら》互《たが》ひに内訌《ないこう》を生《しやう》じたからである。三|好《よし》義繼《よしつぐ》、松永久秀《まつながひさひで》の徒《と》は、義榮《よしひで》を去《さ》りて、義昭《よしあき》に就《つ》かん※[#「こと」の合字、290-7]を企《くはだ》てゝ居《ゐ》た。而《しか》して當時《たうじ》攝津《せつつ》に滯在《たいざい》したる、阿波御所將軍義榮《あはのごしよしやうぐんよしひで》は、腫物《しゆもつ》を煩《わづら》ひ、既《すで》に死《し》に瀕《ひん》して居《ゐ》た。三|好《よし》三|人衆等《にんしうら》も、亦《ま》た風《かぜ》を喰《くら》つて、攝津方面《せつつはうめん》に退却《たいきやく》した。斯《か》くて信長《のぶなが》は、無人《むにん》の地《ち》を蹈《ふ》むが如《ごと》く、入京《にふきやう》の目的《もくてき》を遂《と》げた。
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扨《さて》洛中《らくちう》の者共《ものども》諸町人《しよちやうにん》、諸職人等《しよしよくにんら》、其外《そのほか》醫師《いし》、連歌師《れんがし》を始《はじ》めとし、諸道諸藝《しよだうしよげい》に名《な》を得《え》し者共《ものども》、我《われ》劣《おと》らじと進物《しんもつ》を捧《さゝ》げ、東福寺《とうふくじ》へ參上《さんじやう》申《まを》し、信長公《のぶながこう》へ御禮《おんれい》申《まを》す。皆々《みな/\》御對面《ごたいめん》にて、一人《ひとり》/″\それ/″\に御挨拶《ごあいさつ》ありければ、諸人《しよにん》皆《みな》悦《よろこ》び今《いま》まで音《おと》に聞《きこ》えしは、鬼神《きじん》の樣《やう》に承《うけたまは》りつるが、それとかはり候《さふらふ》て、扨々《さて/\》柔和《にうわ》に慈悲深《じひぶか》き信長公《のぶながこう》にて在《お》はすと、皆々《みな/\》譽《ほ》め合《あひ》悦《よろこ》びけり。中《なか》にも連歌師《れんがし》の紹巴法師《せうはほふし》は、末廣《すゑひろ》の扇子《せんす》二|本《ほん》、臺《だい》にのせて献上《けんじやう》申《まを》し、御禮《おんれい》申上《まをしあげ》ければ、信長公《のぶながこう》御覽《ごらん》じて
 二|本《ほん》手《て》に入《い》る今日《けふ》の悦《よろこ》び
と御出吟《ごしゆつぎん》あり、是《これ》に附《つ》けられ候《さふら》へと被仰《おほせられ》たりければ、紹巴《せうは》は取《とり》あへず、座《ざ》も去《さ》らで申《もを》し上《あぐ》るは、
 舞《ま》ひつる 千|世《よ》萬代《よろづよ》の扇子《せんす》にて
と付《つけ》申上《まをしあげ》ければ、殊《こと》に御感悦《ごかんえつ》あつて、御祝儀《ごしうぎ》の被下物《くだされもの》も、餘人《よにん》よりは、加増《かぞう》せらる。〔總見記〕
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當時《たうじ》信長《のぶなが》の意氣《いき》、既《すで》に日本《にほん》を呑《の》んだ。日本《にほん》(二|本《ほん》)は既《すで》に理想的《りさうてき》に、彼《かれ》の手《て》に入《い》つた。今後《こんご》は唯《た》だ如何《いか》にして、之《これ》を事實《じじつ》の上《うへ》に、現出《げんしゆつ》するかに在《あ》つた。而《しか》して彼《かれ》が得意《とくい》の時《とき》に際《さい》して、恭謙《きようけん》人《ひと》に下《くだ》り、善《よ》く人心《じんしん》を收攬《しうらん》したる作用《さよう》を見《み》ても。彼《かれ》が能《よ》く寛《くわん》、能《よ》く猛《まう》、克《よ》く柔《じう》、克《よ》く剛《がう》の調節《てうせつ》を、誤《あやま》らなかつた※[#「こと」の合字、292-1]が判《わ》かる。彼《かれ》は天下《てんか》一の我儘者《わがまゝもの》、氣隨者《きずゐもの》であるけれども、亦《ま》た之《これ》を裁制《さいせい》す可《べ》き所以《ゆゑん》と、場合《ばあひ》とを忘却《ばうきやく》せなかつた。
彼《かれ》が兵《へい》を率《ひき》ゐて、入京《にふきやう》せんとするや、京都《きやうと》の市民《しみん》は、何《いづ》れも其《そ》の奪掠《だつりやく》、殘害《ざんがい》を期待《きたい》した。京都《きやうと》は恒《つね》に兵火《へいくわ》の衢《ちまた》で、特《とく》に應仁以來《おうにんいらい》、其《そ》の慘禍《さんくわ》には、苦《にが》き經驗《けいけん》を繰返《くりかへ》して居《ゐ》た。正親町天皇《おほぎまちてんわう》も、内侍所《ないしどころ》に入《い》らせられ、三|日間《かかん》禍亂《くわらん》鎭定《ちんてい》の御祈祷?《ごきたう》があつた。而《しか》して豫《あらか》じめ、『諸勢無[#二]亂逆之[#一]樣《しよぜいらんぎやくこれなきやう》、可[#レ]被[#レ]加[#二]下知[#一]《げちをくはへらるべし》』との綸旨《りんし》を、信長《のぶなが》へ傳《つた》へられた。然《しか》るに事實《じじつ》は全《まつた》く杞憂《きいう》に屬《ぞく》した。信長《のぶなが》は菅谷《すがや》九|右衞門《ゑもん》をして、兵士《へいし》を取締《とりしま》らしめた。所謂《いはゆ》る號令《がうれい》嚴明《げんめい》、秋毫《しうがう》も犯《をか》さなかつた。
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今日《こんにち》(九月廿八日)御小人《おこびと》一|人《にん》、洛中《らくちう》にて、商人《あきうど》に出《い》で會《あ》ひ、權威《けんゐ》に募《つの》りて狼藉《らうぜき》しけるを、岩越藤藏《いはこしとうざう》と云《い》ふもの、行《ゆき》かゝりて件《くだん》の小人《こびと》をからめとり、東福寺《とうふくじ》へ奉《たてまつ》りければ、信長公《のぶながこう》其《その》まゝ庭前《ていぜん》の大木《たいぼく》に、其《そ》の小人《こびと》をからめ付《つけ》て、京中《きやうちう》より群參《ぐんさん》の諸人《しよにん》に見《み》せしめ給《たま》ふ。加樣《かやう》に政道《せいだう》私《わたく》しなければ、洛中洛外《らくちうらくぐわい》の者共《ものども》、安堵《あんど》して、皆々《みな/\》信長公《のぶながこう》へ心《こゝろ》を傾《かたむ》け奉《たてまつ》れり。〔總見記〕
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彼《かれ》が天下《てんか》の人心《じんしん》を得《え》たる所以《ゆゑん》の一は、此處《ここ》である。武強《ぶきやう》のみではまだ足《た》らぬ。程能《ほどよ》く武強《ぶきやう》の力《ちから》を用《もち》ふるもの、始《はじ》めて天下《てんか》の人心《じんしん》を服《ふく》するを得《う》るのぢや。信長《のぶなが》が天下《てんか》を得《え》たのは、力《ちから》ではない、力《ちから》の利用《りよう》である、力《ちから》の善用《ぜんよう》である。
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箕作和田山落城附松平勘四郎信一勳功之事
永祿十一年九月十二日織田上總介信長は、五箇國の大軍を引率し、近江國佐々木六角が所領を放火し箕作和田山兩城の間を取切、兩城を攻落さんと、軍令を嚴にし、美濃三人衆氏家常陸介卜全稻葉伊豫守一鐵伊賀守等に和田城を押へしめ佐久間右衞門尉信盛丹羽五郎左衞門長秀淺井新八郎木下藤吉郎秀吉等に五千餘騎を差添て、箕作の城におしよせしめ、閧を揚金鼓を鳴らし、曳々聲を出して攻させらる、この城の守將建部源八郎秀明吉田出雲守重高同新助、六千餘の城兵を引つれ、矢炮を飛して防戰し、時刻をうかがひ城門を開き突?て出、寄手散々に突?立られ、ほとんど責あぐんで見えければ、是程の小城を攻て日數をつひやし、兵を損して詮なし、此城に押を殘し置、都に攻登るべしとて、搦手の寄手既に引返んとす、織田殿佐久間右衞門尉を以て松平勘四郎信一の陣へ仰遣はされしは、今朝卯刻より午刻まで此城を攻れとも、味方討死手負のみ多くして城落べしと見えず依て右衞門尉始めとして責あぐんだり、徳川殿は寡を以て衆を破り、小を以て大を挫く事、神の如きは兼※[#二の字点、1-2-22]知る所也、當城大手の先陣をば勘四郎へ讓れば、先途して攻らるべし、信長旗本は後陣にありて、徳川勢手際の程を見物すべし、跡備は信長かくてあれば心安く思はるべしと有ければ、勘四郎返答には仰の趣武門の面目何事か是に過べき徳川の家人の中に勘四郎が如き小忰は、其數に候はねども、織田殿の仰を蒙り御先手を仕るにおいては、此城忽責落すか又討死を仕るか二つの中に安否を極め御覽に入申べし、徳川殿當時小國を領し候得共、武略においては、恐らくは日本六十餘州の諸大名肩を並ぶる人有べからず、其流を汲む勘四郎身不肖には候得ども、虚言は申上べからすと、かひ/″\敷返答すれば、織田殿聞給ひ大に感ぜらる、かくて勘四郎は八百餘騎の士卒にむかひ、只今織田殿使者の詞と、信一が返答の趣、面々たしかに聞給はん、勇士の面目是に過たる事やあるべき、今度發向する面々は、武功高名の秀たる徒を、諸手の中より撰出し遣されたる事、是面々の眉目ならずや、然るになまじひなる働きして、織田殿にも見落され、敵味方に笑はれなば、徳川家の名折するのみならず我君の御武名まで穢さん事、不忠是に過べからず、次には子孫後世までの耻辱なれば、面面?心を一にして死を一途に決し、此城忽に乘取べし、もしも乘取兼る程ならば、一人も生て古郷へ歸るべからずと、申合すべしと申渡す、士卒いづれも皆一同に、我々いかでか一命ををしみ君に不忠し、子孫に耻辱を殘し候べき、今度我々八百餘人が命を捨?ば此城を乘取ん事一瞬の間に有べしと、異口同音に返答す、信一大によろこび、徳川家の御旗を眞先に押立、大手の門際へひし/\と付て、堀をのり柵?を破り、討とも射れども、事ともせず、旗を投入我おとらじと先登す、松平勘四郎信一大手の一番乘と高らかに呼はれば、城兵終に一の曲輪を攻破られ、二の曲輪へ引入、信一息なつかせそ、ひた攻に責よと眞先かけて進んだり、織田殿後陣より此形勢を見給ひ、あれ/\勘四郎が一の木戸を乘取たるぞや、信一うたすなもの共と牙を噛?で下知あれば、木下秀吉をはじめ織田家の輩追々跡よりつゞき、二の木戸をおし破り亂入す、城の守將吉田出雲守櫓に上り、笠を出し招く故、寄手しばらく矢炮をとゝむれば、建部源八郎を始め城中將卒どもが命を助け給はゞ、城を開き渡すべしとの事を乞出ぬ、信一其由織田殿へ申送る、信長是をゆるし給へば、建部吉田の兩人は搦手より落行しが、東光寺といふ寺に入て、兩人忽入道し、源八郎は良仙とあらため、出雲守は道學とあらため、染衣の姿となり逃去ぬ、織田殿箕作の城を請取て、機嫌なゝめならず、信一を本陣に召て、汝今日の高名先の詞に少しも違はず、諸手責あぐみたる當城を、一手を以て責落す事、誠に天晴の武功といふべし、實に汝は生得小男ながら、肝に毛の生たる男かなと宣ひ、其日召れたる桐の紋縫たる革の道服をぬぎて賜ひけり、信一が紋は元來葵なれど、徳川家の御紋をはゞかり、酸醤?草を紋とせしが、この道服賜はりしより、桐をも紋とせしとなり、又和田山の守將田中治部山中山城も、箕城の形勢に聞おちして、ひそかに忍び落うせたり、〔改正三河後風土記〕
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【五六】畿内の平定
信長《のぶなが》は入京《にふきやう》と同時《どうじ》に、?風《へうふう》の如《ごと》く、三|好《よし》殘黨《ざんたう》を追撃《つゐげき》した。九|月《ぐわつ》廿九|日《にち》には、自《みづ》から青龍寺《せいりうじ》に出馬《しゆつば》して、岩成主税助《いはなりちからのすけ》を降伏《かうふく》せしめた。三十|日《にち》には、降人《かうじん》岩成《いはなり》を先鋒《せんぽう》として、攝津《せつつ》に向《むか》つた。三|好《よし》黨《たう》は義榮《よしひで》を奉《ほ?う》じて、阿波《あは》に逃《のが》れた。而《しか》して義榮《よしひで》は疔《ちやう》を病《や》んで逝《ゆ》いた。信長《のぶなが》は十|月《ぐわつ》二|日《か》、芥川城《あくたがはじやう》に入《い》つた。伊丹《いたみ》の城主《じやうしゆ》伊丹親興《いたみちかおき》は、元來《ぐらんらい》義昭《よしあき》に心《こゝろ》を寄《よ》せたる者《もの》であつたが、時節到來《じせつたうらい》と見《み》て、相《あひ》應《おう》じて三|好《よし》黨《たう》を攻《せ》めた。池田《いけだ》の城主《じやうしゆ》池田勝政《いけだかつまさ》は、信長《のぶなが》の兵《へい》に向《むかつ》て、能《よ》く防《ふせ》ぎ戰《たゝか》うたが、力《ちから》及《およ》ばず降服《かうふく》した。
『今度《このたど?》御動座《ごどうざ》の御伴衆《おともしう》、末代《まつだい》の高名《かうみやう》と、諸家存[#レ]之《しよけこれをぞんじ》、士力《しりき》日々《ひゞ》に新《あらた》にして、戰如[#二]風發[#一]《たゝかひへばふうはつするごとく》、攻如[#二]河決[#一]《せむればかはのけつするがごとし》、とは、夫是《それこれ》を謂歟《いふか》。』〔信長公記〕とは、實況《じつきやう》の目撃者《もくげきしや》ならでは、記《き》する能《あた》はざる文句《もんく》だ。攝津《せつつ》既《すで》に然《しか》り、河内《かはち》も同樣《どうやう》だ。大和《やまと》なる信貴《しぎ》の城主《じやうしゆ》松永久秀《まつながひさひで》、亦《ま》た來降《らいかう》した。
松永久秀《まつながひさひで》は、將軍《しやうぐん》義輝《よしてる》を殺《ころ》したる張本《ちやうほん》なれば、義昭《よしあき》も彼《かれ》を宥恕《いうじよ》する※[#「こと」の合字、296-11]は、頗《すこぶ》る異議《いぎ》があつた。併《しか》し信長《のぶなが》とは、久秀《ひさひで》從前《じうぜん》より音信《いんしん》を通《つう》じ、其《そ》の上京《じやうきやう》を促《うなが》したる縁故《えんこ》もあり、且《か》つ當時《たうじ》、歸順者《きじゆんしや》の誘致《いうち》に是《こ》れ急《きふ》なるの場合《ばあひ》でもあり。旁《かた/″\》彼《かれ》は優遇《いうぐう》せられ、大和《やまと》一|國《こく》は其《そ》の切取《きりとり》に任《まか》せられた。攝津《せつつ》をば、池田《いけだ》、伊丹《いたみ》及《およ》び大和《やまと》以來《いらい》、義昭《よしあき》に隨從《ずゐじう》したる和田惟政《わだこれまさ》に分與《ぶんよ》した。河内《かはち》を二|分《ぶん》し、畠山高政《はたけやまたかまさ》の子《こ》昭高《あきたか》に飯盛城《いひもりじやう》を與《あた》へ、三|好《よし》義繼《よしつぐ》に高屋城《たかやじやう》を與《あた》へた。
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御本陣《ごほんぢん》芥川之城《あくたがはのしろ》へ、御人數被[#二]打納[#一]《ごにんずうちいれられ》、五|畿内隣國《きないりんごく》、皆《みな》以《もつ》て被[#レ]任[#二]御下知[#一]《ごげちにまかせられ》。松永彈正者我朝無雙《まつながだんじやうはわがてうむさう》のつももかみ進上《しんじやう》申《まを》され、今井宗久是又無[#レ]隱名物《いまゐむねひさこれまたかくれなきめいぶつ》松島《まつしま》の壺《つぼ》、紹鴎?茄子《せうおうなす》進献《しんけん》、往昔判官殿《わうせきはんぐわんどの》一谷鐵皆《いちのたにてつかい》(?《かい》?)かかげ召《めさ》れし時《とき》の御鐙《おんあぶみ》、進上《しんじやう》申者《まをすもの》も有[#レ]之《これあり》、異國《いこく》本朝《ほんてう》の捧[#二]珍物[#一]《ちんぶつをさゝげ》、信長公《のぶながこう》へ御禮可申上《おんれいまをしあぐべし》と、芥川《あくたがは》十四|日《か》御逗留《ごとうりう》之《の》間《あひだ》、門前成[#レ]市事也《もんぜんいちをなすことなり》。〔信長公記〕
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如何《いか》なる世《よ》の中《なか》でも、事大思想《じだいしさう》はある。まして弱肉強食《じやくにくきやうしよく》の戰國時代《せんごくじだい》に於《おい》て、畿内《きない》の人心《じんしん》が、信長《のぶなが》の威風《ゐふう》に靡《なび》きたるは當然《たうぜん》ぢや。信長《のぶなが》は、芥川城《あくたがはじやう》に十|餘日《よじつ》滯在《たいざい》して、手《て》もなく山城《やましろ》、攝津《せつつ》、河内《かはち》、和泉《いづみ》を平定《へいてい》した。されど信長《のぶなが》は、決《けつ》して勝者《しようしや》の權《けん》を濫用《らんよう》せなかつた。
 禁制《きんせい》
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一|當手之軍勢亂妨狼藉之事《たうてのぐんぜいらんばうらうぜきのこと》
一|猥山林竹木伐採之事《みだりにさんりんちくぼくきりとりのこと》
一|押買押賣並追立之事《おしがひおしうりならびにおひたてのこと》
右條々於[#二]于違背[#一]速可[#レ]被[#レ]處[#二]嚴科[#一]者也仍如[#レ]件《みぎのでう/\ゐはいするにおいてはすみやかにげんくわにしよせらるべきものなりよつてくだんのごとし》
 永祿十一年十月十二日
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彼《かれ》は能《よ》く其《そ》の令《れい》する所《ところ》を、實行《じつかう》した。彼《かれ》が治下《ちか》の尾張《をはり》の如《ごと》きは、婦人《ふじん》の獨行《どくかう》に差支《さしつかへ》なく、夜《よ》戸《と》を鎖《とざ》さゞるも、盜賊《たうぞく》の心配《しんぱい》なき程《ほど》、戰國時代《せんごくじだい》に比類《ひるゐ》なき、治安《ちあん》を保《たも》つて居《ゐ》た。彼《かれ》は徹底的《てつていてき》の漢《をのこ》である。彼《かれ》は軍隊《ぐんたい》の風紀《ふうき》を維持《ゐぢ》するには、少《すくな》からざる苦心《くしん》をした。
彼《かれ》は公方家《くばうけ》再興《さいこう》に就《つ》き、其《そ》の經費《けいひ》に充《あ》つ可《べ》く、畿内《きない》の繁昌地《はんじやうち》及《およ》び社寺《しやじ》等《とう》に賦金《ふきん》申付《まをしつ》け、特《とく》に石山本願寺《いしやまほんぐわんじ》に五千|貫《ぐわん》、奈良《なら》に千|貫餘《ぐわんよ》、殷富《いんぷ》なる堺《さかひ》には二萬|貫《ぐわん》を課《くわ》した。何《いづ》れも之《これ》に應《おう》じたが、堺《さかひ》は三十六|人《にん》の庄官《しやうくわん》、其《その》命《めい》を奉《ほう》ぜず、却《かへつ》て塹壕《ざんがう》を鑿《うが》ち、城樓《じやうろう》を繕《つくろ》ひ、防戰《ばうせん》の用意《ようい》をした。信長《のぶなが》は癪《しやく》に障《さは》つたけれども、大事《だいじ》の前《まへ》の小事《せうじ》として、之《これ》を抛却《はうきやく》した。而《しか》して十|月《ぐわつ》十四|日《か》、彼《かれ》は義昭《よしあき》と與《とも》に京都《きやうと》に凱旋《がいせん》し、自《みづ》から軍隊《ぐんたい》取締《とりしまり》の必要上《ひつえうじやう》、洛外《らくぐわい》なる東山清水寺《ひがしやまきよみづでら》に館《くわん》した。
此際《このさい》特筆《とくひつ》す可《べ》きは、信長《のぶなが》が關所《せきしよ》を停止《ていし》したることである。當時《たうじ》隨處《ずゐしよ》に關所《せきしよ》を設《まう》け、行旅《かうりよ》の往來《わうらい》を沮《はゞ》み、商品《しやうひん》の運輸《うんゆ》を遏《とゞ》め、世運《せうん》の發展《はつてん》に多大《ただい》の妨害《ばうがい》を與《あた》へた。此《こ》れは兵事上《へいじじやう》よりも、寧《むし》ろ關税《くわんぜい》を取《と》る爲《た》めであつた。信長《のぶなが》は其《そ》の弊害《へいがい》を痛切《つうせつ》に認《みと》めたが故《ゆゑ》に、其《そ》の勢力範圍《せいりよくはんゐ》の地方《ちはう》に於《おい》ては、已《や》むを得《え》ざる要地《えうち》のみを留置《りうち》し、其他《そのた》は一|切《さい》停止《ていし》せしめた。此《こ》れは天下統《てんかとう》一の目的《もくてき》に向《むかつ》ての、一|大《だい》進轉《しんてん》と云《い》はねばならぬ。義昭《よしあき》の目的《もくてき》は、室町將軍家《むろまちしやうぐんけ》の再興《さいこう》であつた。信長《のぶなが》の目的《もくてき》は、天下統《てんかとう》一であつた。兩人《りやうにん》同床《どうしやう》に眠《ねむ》るも、其《その》夢《ゆめ》は、各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》別處《べつしよ》に飛《と》んだ。
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信長の松永久秀優遇に就て
按ずるに信長の此擧更に心得られず、義輝を討し逆賊の降を容て且賞するに國郡を以てす、されば此度の軍は何の爲なりしにや〔新井白石著『讀史餘論』〕
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【五七】信長の成功
信長《のぶなが》第《だい》一の成功《せいこう》は、其《その》功《こう》に伐《ほこ》らなかつた事《こと》である。一|口《くち》に云《い》へば、それ丈《だけ》であるが、却々《なか/\》容易《ようい》の業《げふ》ではない。彼《かれ》は本來《ほんらい》の恭謙者《きようけんしや》でない、退讓者《たいじやうしや》でない。さりとて僞善者《ぎぜんしや》でもない。然《しか》るに彼《かれ》が尋常人《じんじやうじん》の能《よ》くし難《がた》き事《こと》を、平氣《へいき》で仕遂《しと》げたのは、何《なん》であらう。唯《た》だ其《その》志《こゝろざし》が天下《てんか》に存《そん》したからである。彼《かれ》の目《め》には、管領《くわんれい》や、副將軍《ふくしやうぐん》の名號《めいがう》は、餘《あま》りに小兒《せうに》らしく映《えい》じた。
扨《さて》も義昭《よしあき》は、放浪《はうらう》、漂泊《へうはく》の甲斐《かひ》ありて、永祿《えいろく》十一|年《ねん》十|月《ぐわつ》十八|日《にち》、征夷大將軍《せいいたいしやうぐん》に補《ほ》せられ、禁色《きんしよく》昇殿《しようでん》を許《ゆる》され、參議左近衞中將《さんぎさこんゑのちうじやう》に任《にん》ぜられた。同《どう》二十二|日《にち》、信長《のぶなが》は參内《さんだい》し、天顏《てんがん》を咫尺《しせき》に拜《はい》した。將軍義昭《しやうぐんよしあき》は、此回《このたび》の慶事《けいじ》に、觀世太夫《くわんぜだいふ》を召《め》して、十三|番《ばん》の能《のう》を興行《こうぎやう》せんとした。されど信長《のぶなが》は、天下《てんか》未《いま》だ平《たひらか》ならずとして、之《これ》を五|番《ばん》に減《げん》ぜしめた。而《しか》して豫《かね》て信長《のぶなが》の鼓《つゞみ》に堪能《たんのう》なるを聞知《ぶんち》し、能樂《のうがく》演奏《えんそう》の際《さい》、之《これ》を所望《しよまう》したが、信長《のぶなが》は辭止《じし》した。蓋《けだ》し彼《かれ》は未《いま》だ泰平《たいへい》の氣分《きぶん》に殉《したが》ふ可《べ》く、自《みづ》から屑《いさぎよ》しとしなかつた。太田《おほた》牛《うし》一は記《しる》して曰《いは》く、
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當日《たうじつ》祝儀《しうぎ》の次第《しだい》、初献之御酌《しよこんのおしやく》細川典厩?《ほそかはてんきう》(藤賢《ふぢかた》)於[#レ]于[#レ]是《こゝにおいて》信長《のぶなが》へ久我殿《くがでん》(大納言晴通《だいなごんはるみち》)細川兵部大輔《ほそかわひやうぶたいふ》(藤孝《ふぢたか》)和田伊賀守《わだいがのかみ》(惟政《これまさ》)三|使《し》を以《もつ》て、再《さい》三|御使有[#レ]之《おんつかひこれあり》、副將軍歟《ふくしやうぐんか》、可[#レ]被[#レ]准[#二]管領職[#一]之趣《くわんれいしよくにじゆんぜらるべきのおもむき》、被[#レ]出[#レ]仰《おほせいだされ》、雖然《しかれども》、此時《このとき》に於《おい》ては、御斟酌《ごしんしやく》の旨《むね》、被[#二]仰出[#一]《おほせいだされ》御請無[#レ]之《おんうけこれなく》、希代之御存分之由《きだいのごぞんぶんのよし》、都鄙《とひ》の上下感[#レ]之申候《じやうげこれをかんじまをしさふらふ》。
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と。義昭《よしあき》は此《かく》の如《ごと》く祝宴《しゆくえん》の佳席《かせき》に於《おい》て、信長《のぶなが》に恩命《おんめい》を下《くだ》した。然《しか》も彼《かれ》は強《しひ》て之《これ》を辭退《じたい》した。如何《いか》にも彼《かれ》が其《その》功《こう》を伐《ほこ》らなかつた事《こと》は、京童《きやうわらべ》も意外《いぐわい》に感《かん》じたであらう。
彼《かれ》は唯《た》だ從《じゆ》五|位下《ゐげ》彈正忠《だんじやうのちう》を拜《はい》した。此《こ》れは父《ちゝ》信秀《のぶひで》同樣《どうやう》の儀《ぎ》であつた。而《しか》して義昭《よしあき》は、近江《あふみ》、山城《やましろ》、攝津《せつつ》、和泉《いづみ》、河内《かはち》の國々《くに/″\》、望《のぞ》み次第《しだい》知行《ちぎやう》す可《べ》しと申《まを》したが、彼《かれ》は悉《こと/″\》く之《これ》を辭《じ》して、唯《た》だ堺《さかひ》、大津《おほつ》、草津《くさつ》等《とう》に、其《そ》の代官《だいくわん》を置《お》く※[#「こと」の合字、301-11]とした。彼《かれ》は兵略上《へいりやくじやう》のみならず、經濟上《けいざいじやう》にも、非凡《ひぼん》の眼孔《がんこう》を有《いう》して居《ゐ》た。所謂《いはゆ》る關所《せきしよ》の撤廢《てつぱい》もそれであつたが、其手《そのて》を主《おも》なる物資《ぶつし》の集散地《しふさんち》に著《つ》けたのも、亦《ま》た然《しか》りだ。
義昭《よしあき》は信長《のぶなが》が一|切《さい》の辭退《じたい》に對《たい》し、茲?《こゝ》に二|通《つう》の感謝状《かんしやじやう》を與《あた》へた。
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今度國々凶徒等《このたびくに/″\のきようとら》、不[#レ]歴?[#レ]日《ひをへず》、不[#レ]移[#レ]時令[#二]退治[#一]之條《ときをうつさずたいぢせしむるのでう》、武勇《ぶゆう》天下《てんか》第《だい》一|也《なり》。當家再興之大忠不[#レ]可[#レ]過[#レ]之《たうけさいこうのだいちうこれにすぐべからず》、彌國家之安治《いよ/\こくかのあんち》、偏ョ入候之外無[#二]他事[#一]《ひとへにたのみいれさふらふのほかたじなし》、猶藤孝《なほふぢたか》、惟政可[#レ]申候也《これまさまをすべくそふらふなり》。
  永祿十一年十月廿四日    御判
   父  織田彈正忠殿
御追加《ごつゐか》
今度依[#二]大忠[#一]《このたびだいちうにより》、紋桐引兩筋遣[#レ]之候《もんきりひきりやうすぢこれをつかはしさふらふ》、可[#レ]受[#二]武功之力[#一]祝儀也《ぶこうのちからをうくべくしうぎなり》。
  永祿十一年十月廿四日    御判
   父  織田彈正忠殿
[#ここで字下げ終わり]
當時《たうじ》信長《のぶなが》は三十五|歳《さい》、義昭《よしあき》は三十二|歳《さい》、兄弟《きやうだい》と云《い》へば、相應《さうおう》であるが、父子《ふし》としては異常《いじやう》である。義昭《よしあき》が信長《のぶなが》を父《ちゝ》と喚《よ》んだのは、尊氏《たかうぢ》が赤松圓心《あかまつゑんしん》を父《ちゝ》と喚《よ》んだのと同樣《どうやう》、十二|分《ぶん》の感謝《かんしや》と、報恩《はうおん》の意《い》を寓《ぐう》したのであらう。一|覊客《きかく》の身《み》より、乍《たちま》ち天下《てんか》の大將軍《たいしやうぐん》となつた、彼《かれ》が生涯《しやうがい》の轉變《てんぺん》を見《み》ては、如何《いか》なる言葉《ことば》も、其《そ》の難有味《ありがたみ》を云《い》ひ盡《つ》くせぬであらう。
斯《か》くて信長《のぶなが》は、十|月《ぐわつ》廿五|日《にち》に京都《きやうと》を去《さ》り、廿八|日《にち》に岐阜《ぎふ》に著《ちやく》した。彼《かれ》が岐阜《ぎふ》を出《で》たのは、永祿《えいろく》十一|年《ねん》九|月《ぐわつ》七|日《か》であつた、乃《すなは》ち彼《かれ》は五十二|日間《にちかん》に、江州《がうしう》及《およ》び五|畿内《きない》を平定《へいてい》した。然《しか》も其《そ》の成功《せいこう》の、神速《しんそく》であつたのは、其《そ》の禍根《くわこん》の尚《な》ほ存《そん》する所以《ゆゑん》と認《みと》めねばならぬ。吾人《ごじん》は信長《のぶなが》の事業《じげふ》が、此《こ》れより順調《じゆんてう》に赴《おもむ》いたと云《い》ひたい、併《しか》しながら事實《じじつ》は、寧《むし》ろ逆調《ぎやくてう》となつた。彼《かれ》は從來《じうらい》有《いう》したる敵《てき》の外《ほか》に、新《あら》たに多《おほ》くの敵《てき》を加《くは》へた。而《しか》して彼《かれ》の成功《せいこう》は、曾《かつ》て其《そ》の味方《みかた》であつた者|迄《まで》も、敵《てき》たらしめた。彼《かれ》は寧《むし》ろ自《みづ》から好《この》んで、重圍《ぢうゐ》の裡《うち》に陷《おちい》つたと云《い》はねばなるまい。


【五八】近畿再度の平定
事實《じじつ》は豫想《よさう》よりも速《すみや》かであつた。三|好《よし》の殘黨《ざんたう》は、信長《のぶなが》の京都《きやうと》を去《さ》るや否《いな》や、直《たゞ》ちに蜂起《ほうき》の準備《じゆんび》をした。當時《たうじ》將軍義昭《しやうぐんよしあき》は、日蓮宗《にちれんしう》の本國時《ほんこくじ》を假館《かりやかた》とした。然《しか》るに永祿《えいろく》十二|年《ねん》正月《しやうぐわつ》四|日《か》、彼等《かれら》は美濃《みの》の落人《おちうど》齋藤龍興《さいとうたつおき》、長井隼人等《ながゐはやとら》と與《とも》に、之《これ》を襲《おそ》うた。急報《きふはう》は正月《しやうぐわつ》六|日《か》、岐阜《ぎふ》に達《たつ》した。彼《かれ》は來《きた》る九|日《にち》より伊勢《いせ》に向《むかつ》て、兵《へい》を出《いだ》す可《べ》く支度中《したくちう》であつたが、之《これ》を聞《き》いて、七|日《か》より直《たゞ》ちに京都《きやうと》へ出馬《しゆつば》した。
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正月《しやうがつ》六|日《か》、濃州岐阜《じやうしうぎふ》に至《いたつ》て、飛脚參著《ひきやくさんちやく》、其節意外大雪也《そのせついぐわいのおほゆきなり》。不[#レ]移[#二]時日[#一]可[#レ]有[#二]御入洛[#一]之旨相觸《じじつをうつさずごじゆらくあるべきのむねあひふれ》、一|騎懸《きがけ》に凌[#二]大雪中[#一]打立《だいせつちうをしのぎうちたち》、早《はや》御馬《おんうま》にめし候《さふらひ》つるが、馬借《うまがり》の者共《ものども》、御物《おもの》を馬《うま》に負候《おはせさふらふ》とて、かうかいを仕候《つかまつりさふらふ》。御馬《おんうま》より下《おろ》させられ、何《いづ》れも荷物《にもつ》一々|引見《いんけん》、御覽《ごらん》じて、同《おな》じ重《おも》さ也《なり》、急《いそ》ぎ候《さふら》へと被仰付候《おほせつけられさふらふ》。是者奉行之者《これはぶぎやうのもの》、依怙贔屓《えこひいき》も有《ある》かと思召《おぼしめ》しての事《こと》也《なり》。以外《もつてのほかの》大雪《おほゆき》にて、下々《しも/″\》夫《ふ》以下《いか》の者《もの》、寒死數人有[#レ]之事也《かんしすにんこれありしことなり》。三|日路之所《かぢのところ》、二日に京都《きやうと》へ、信長《のぶなが》馬上《ばじやう》十|騎《き》ならでは御伴《おとも》なく、六|條《でう》へ懸入《かけいり》給《たま》ふ。堅固之樣子《けんごのやうす》御覽《ごらん》じ、御滿足不[#レ]斜《ごまんぞくなゝめならず》。〔信長公記〕
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迅速《じんそく》は彼《かれ》の本色《ほんしよく》ぢや、精細《せいさい》も亦《ま》た然《しか》りだ。彼《かれ》が親《した》しく各《おの/\》の馬《うま》に負《お》はす可《べ》き、荷物《にもつ》の重量《ぢうりやう》を驗査《けんさ》したるが如《ごと》き、何等《なんら》の用意周到《よういしうたう》ぞ。將《は》た又《ま》た大雪中《たいせつちう》、三|日路《かぢ》を二|日《か》にて、快馳《くわいち》したる、何等《なんら》の機敏《きびん》ぞ。
彼《かれ》は二|條御所《でうのごしよ》の燒跡《やけあと》を、東北《とうほく》一|町《ちやう》づゝ取《と》り擴《ひろ》げ、堀《ほり》をほり廻《まは》し、二|丈《ぢやう》五|尺《しやく》の石垣《いしがき》を築《きづ》き上《あ》げ、義昭《よしあき》の爲《た》めに、其《そ》の居館《きよくわん》の造營《ざうえい》を始《はじ》めた。大建築《だいけんちく》は、天下《てんか》の人心《じんしん》を鎭定《ちんてい》する、最《もつと》も有効《いうかう》なる實物教育《じつぶつけういく》である。彼《かれ》が此《こ》の場合《ばあひ》に、此《こ》の事業《じげふ》を經始《けいし》したのも、將《は》た美濃《みの》、江州《がうしう》、伊勢《いせ》、參河《みかは》、五|畿内《きない》、若狹《わかさ》、兩丹《りやうたん》、播州《ばんしう》等《とう》十四|個國《かこく》の衆《しう》を徴《ちよう》して、此《これ》に從事《じうじ》せしめたのも、決《けつ》して深意《しんい》なきにあらずだ。彼《かれ》は村井民部《むらゐみんぶ》、島田所之助《しまだところのすけ》を、其《そ》の奉行《ぶぎやう》として、永祿《えいろく》十二|年《ねん》二|月《ぐわつ》二十七|日《にち》より著手《ちやくしゆ》した。
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細川殿《ほそかはどの》御屋敷《おやしき》に、美戸石《みといし》とて、往古《わうこ》よりの大石《おほいし》は、是《これ》を御庭《おには》に可被立置《たておかるべき》の由《よし》にて、信長《のぶなが》御自身《ごじしん》被成御越《おんこしなされ》、彼名石《かのめいせき》を綾錦《あやにしき》を以《もつ》て裏?《つゝ》ませ、色々《いろ/\》花《はな》を以《もつ》てかざり、大綱《おほつな》數多《あまた》付《つけ》させられ、笛《ふえ》、太鼓《たいこ》、鼓《つゞみ》を以《もつ》て囃《はや》し立《たて》、信長《のぶなが》被成御下知《おんげちなされ》、即時《そくじ》に庭上《ていじやう》へ御引付候《おんひきつけさふらふ》。並?《ならび》に東山慈照院《ひがしやまじせうゐん》御庭《おには》に一|年《ねん》被立置候《たておかれさふらふ》、九|山《ざん》八|海《かい》と申候《まをしさふらひ》て、都鄙《とひ》に無隱名石御座候《かくれなきのめいせきにござさふらふ》、是又被召寄御庭《これまためしよせられおんには》に据《すゑ》させらる。〔信長公記〕
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努力《どりよく》の効《かう》空《むな》しからず、四|月《ぐわつ》六|日《か》は、將軍《しやうぐん》移轉《いてん》の式《しき》を擧《あ》ぐるに至《いた》つた。惟《おも》ふに此《かく》の如《ごと》く急速《きふそく》に功《こう》を訖《をは》るには、尋常《じんじやう》の手段《しゆだん》では克《あた》はぬ。
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信長《のぶなが》は自《みづか》ら宮殿《きうでん》を圖《づ》し、凡《およそ》二萬|人《にん》の職工《しよくこう》を使用《しよう》し、京都《きやうと》の富者《ふしや》に金《きん》を課《くわ》し、自《みづか》ら虎皮《とらのかは》の行縢《むかばき》を著《つ》け、白刄《はくじん》を手《て》にし、仕事場《しごとば》の中央《ちうあう》に立《たち》て、自《みづか》ら之《これ》を監督《かんとく》した。人皆《ひとみ》な戰慄《せんりつ》した。偶《たまた》ま一|卒《そつ》あり、婦人《ふじん》の被覆《かつぎ》を揚《あげ》て、其《そ》の顏色《がんしよく》を見《み》んとした。信長《のぶなが》遙《はるか》に之《これ》を目《もく》し、直《たゞ》ちに其《その》卒《そつ》に近《ちかづ》き、無言《むごん》の儘《まゝ》、其《その》首《くび》を刎《はね》た。〔日本西教史〕
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是《こ》れ當時《たうじ》京都《きやうと》に在《あ》つた葡萄牙《ぽるとがる》耶蘇教師等《やそけうしら》の傳《つた》ふる所《ところ》ぢや。又《ま》た石材《せきざい》としては、多《おほ》く石佛像《せきぶつざう》を使用《しよう》し、内部《ないぶ》の粧飾《しやうしよく》は、京都《きやうと》と奈良《なら》の有名《いうめい》なる二|佛寺《ぶつじ》より、掠收《りやくしう》し來《き》たが爲《た》めに、此《かく》の如《ごと》く速成《そくせい》したとの説《せつ》も、彼等《かれら》が傳《つた》へて居《を》る。〔日本西教史〕
何《いづ》れにしても信長《のぶなが》は、當時《たうじ》の佛教《ぶつけう》に對《たい》しては、多《おほ》くの尊敬《そんけい》を持《も》たなかつた。彼《かれ》は假面《かめん》や、虚飾《きよしよく》や、風袋《ふうたい》やにて、安心《あんしん》する※[#「こと」の合字、306-12]の能《あた》はぬ性分《しやうぶん》であつた。彼《かれ》は直《たゞ》ちに其《そ》の實質《じつしつ》を見《み》た、本體《ほんたい》を見《み》た、内容《ないよう》を見《み》た、眞相《しんさう》を見《み》た。而《しか》して當時《たうじ》の佛教《ぶつけう》は、彼《かれ》をして此《こ》の意味《いみ》に於《おい》て、滿足《まんぞく》せしむる※[#「こと」の合字、307-1]を得《え》なかつた。彼《かれ》は總《すべ》てと云《い》はざるも、多《おほ》くの佛教《ぶつけう》に對《たい》しては、寧《むし》ろ腐敗《ふはい》其物《そのもの》の結晶《けつしやう》と認《みと》めた。彼《かれ》が佛教《ぶつけう》及《およ》び佛教徒《ぶつけうと》に對《たい》して、動《やゝ》もすれば手荒《てあ》らき待遇《たいぐう》を與《あた》へたのは、恐《おそ》らく此《これ》が爲《た》めであらう。
却説《さて》、先年《せんねん》二萬|貫《ぐわん》の納金《なふきん》を拒《こば》んだ堺《さかひ》は、今回《こんくわい》三|好黨《よしたう》に加擔《かたん》したが爲《た》めに、大《おほ》いに油《あぶら》を絞《しぼ》られた。即《すなは》ち今後《こんご》は町中《まちぢう》の者共《ものども》、浪人《らうにん》を抱《かゝ》へ置《お》く間敷《まじく》、又《ま》た武《ぶ》を好《この》み、公方家《くばうけ》の御敵《おんてき》仕《つかまつる》間敷《まじく》との一|札《さつ》を差《さ》し入《い》れ、且《か》つ首代《くびしろ》の科料《くわれう》二萬|兩《りやう》を納《をさ》めしめられた。多年《たねん》の間《あひだ》、殆《ほと》んど獨立市政《どくりつしせい》の一|團《だん》であつた堺《さかひ》も、今《いま》は愈《いよい》よ信長《のぶなが》の勢力圜内《せいりよくくわんない》に入《い》つた。爾來《じらい》信長《のぶなが》と、堺《さかひ》とは、極《きは》めて良好《りやうかう》の關係《くわんけい》であつた。


【五九】信長の勤王
勤王《きんわう》は、當時《たうじ》に於《お》ける人心《じんしん》の傾向《けいかう》であつた。毛利元就《まうりもとなり》も然《しか》り、上杉謙信《うへすぎけんしん》も然《しか》り、本願寺《ほんぐわんじ》も然《しか》り。乃《すなは》ち名《な》もなき地方《ちはう》の郷士《がうし》さへも、皇室《くわうしつ》に献金《けんきん》した程《ほど》であつた。乃《すなは》ち縱令《たとひ》自《みづ》から進《すゝ》んで、王事《わうじ》に勤《つと》めざる者《もの》迄《まで》も、誰《だれ》も綸旨《りんし》に奬順《しやうじゆん》せぬ者《もの》は無《な》かつた。
勤王《きんわう》は、織田信長《おだのぶなが》の獨專事業《どくせんじげふ》ではない。併《しか》し信長《のぶなが》の勤王《きんわう》は、他《た》に比《ひ》すれば、一|膜《まく》を進《すゝ》めて居《ゐ》た。彼《かれ》の勤王《きんわう》は、積極的《せききよくてき》であつた、徹底的《てつていてき》であつた。他人《たにん》が朧氣《おぼろげ》に感得《かんとく》したるものを、信長《のぶなが》は分明《ぶんみやう》に意識《いしき》した。他人《たにん》が間歇的《かんけつてき》に爲《な》したる事《こと》を、信長《のぶなが》は終始《しゆうし》一|貫《くわん》した。他人《たにん》が受働的《じゆどうてき》に勤《つと》めた事《こと》を、信長《のぶなが》は自働的《じどうてき》に勤《つと》めた。而《しか》して更《さ》らに特筆《とくひつ》す可《べ》きは、信長《のぶなが》が、傳統的《でんとうてき》、因襲的《いんしふてき》でなく、政治的《せいぢてき》に皇室《くわうしつ》の尊嚴《そんげん》を、認《みと》めた事《こと》である。皇室《くわうしつ》を以《もつ》て、天下《てんか》統《とう》一の中樞《ちうすう》と爲《な》した事《こと》である。
彼《かれ》は天下《てんか》を統《とう》一するには、力《ちから》の大切《たいせつ》なる事《こと》を、十二|分《ぶん》に自覺《じかく》した。然《しか》も日本《にほん》の人心《じんしん》は、如何《いか》なる力《ちから》にても、力《ちから》でさへあれば、歸服《きふく》するものとは、思《おも》はなかつた。彼《かれ》は皇室《くわうしつ》を中心《ちうしん》としたる力《ちから》にあらざれば、日本《にほん》を統《とう》一する克《あた》はずと直覺《ちよくかく》した。此《こ》の直覺的《ちよくかくてき》見識《けんしき》が、彼《かれ》の政治的《せいぢてき》天才《てんさい》たる所以《ゆゑん》である。信長《のぶなが》は勤王家《きんわうか》である、而《しか》して復《ま》た經世的《けいせいてき》勤王家《きんわうか》である。彼《かれ》は事業《じげふ》の中途《ちうと》にして逝《ゆ》いた、故《ゆゑ》に彼《かれ》が如何《いか》なる政治的《せいぢてき》仕組《しくみ》を以《もつ》て、統《とう》一せられたる天下《てんか》に臨《のぞ》むかは、終古《しうこ》未詳《みしやう》の問題《もんだい》である。併《しか》しながら皇室《くわうしつ》を中心《ちうしん》として、人心《じんしん》を此《これ》に繋《つな》ぐの一|事《じ》は、彼《かれ》が既成《きせい》の事暦?《じれき》に徴《ちよう》して、疑《うたがひ》を容《い》る可《べ》き餘地《よち》がない。
彼《かれ》は決《けつ》して足利家《あしかゞけ》の將軍制度《しやうぐんせいど》を以《もつ》て、完全無缺《くわんぜんむけつ》とは認《みと》めて居《ゐ》なかつた。而《しか》して公方家《くばうけ》を中心《ちうしん》としては、天下《てんか》を統《とう》一する能《あた》はぬと考《かんが》へて居《ゐ》た。人《ひと》或《あるひ》は信長《のぶなが》が天子《てんし》を挾《さしはさ》んで、群雄《ぐんゆう》に臨《のぞ》む、政治的態度《せいぢてきたいど》を見《み》て、彼《かれ》が勤王《きんわう》も亦《ま》た、天下《てんか》統《とう》一の方便《はうべん》ではないかと、猜《さい》する者《もの》もある。併《しか》しながら信長《のぶなが》の勤王《きんわう》の、具體的《ぐたいてき》、現實的《げんじつてき》なる所以《ゆゑん》、此《こゝ》に在《あ》る。而《しか》して信長《のぶなが》の勤王《きんわう》の時流《じりう》に比《ひ》して、卓越《たくゑつ》したる理由《りいう》、亦《ま》た此《こゝ》に在《あ》る。
他人《たにん》の皇室《くわうしつ》に於《お》ける、何《なん》となく神社佛閣《じんじやぶつかく》に於《お》けるが如《ごと》く、一|種《しゆ》の神祕的《しんぴてき》、歴史的《れきしてき》、信仰的《しんかうてき》に止《とゞま》つた。信長《のぶなが》に於《おい》ては、更《さ》らに政治的權威《せいぢてきけんゐ》の泉源《せんげん》として、之《これ》を奉戴《ほうたい》した。他人《たにん》は雲《くも》の上《うへ》の靈體《れいたい》として、遠《とほ》く皇室《くわうしつ》を見《み》た。信長《のぶなが》は日本帝國《にほんていこく》の實體《じつたい》として、近《ちか》く之《これ》を認《みと》めた。秀吉《ひでよし》の如《ごと》きも、其《そ》の皇室《くわうしつ》尊崇《そんしう》は、確《たし》かに信長《のぶなが》を蹈襲《たうしふ》したに他《ほか》ならぬ。
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信長《のぶなが》は永祿《えいろく》十一|年《ねん》、義昭《よしあき》を奉《ほう》じて、京都《きやうと》に入《い》り、五|畿《き》を平定《へいてい》するや、先《ま》づ金《きん》萬匹《まんびき》を朝廷《てうてい》に献《けん》じた。而《しか》して從來《じうらい》武人《ぶじん》の占掠《せんりやく》しつゝある御料地《ごれうち》の、恢復《くわいふく》を令《れい》した。公家《くげ》の諸領地《しよりやうち》の回收《くわいしう》にも、助力《じよりよく》した。
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禁裏御所山國庄之事《きんりごしよやまこくしやうのこと》、數年宇津右近大夫押領仕候《すうねんうづうこんだいふあふりやうつかまつりさふらふ》。今度信長逐[#レ]糺宇津《このたびのぶながきうをとげうづ》に可[#レ]停[#二]止違亂[#一]之由申付《ゐらんをていしすべきのよしまをしつけ》、兩家兩代官《りやうけりやうだいかん》え?信長以[#二]朱印[#一]申渉候《のぶながしゆいんをもつてまをしわたしさふらふ》。如[#二]前々[#一]爲[#二]御直務[#一]可[#レ]被[#二]仰付[#一]由《まへ/\のごとくごぢきむとしておほせつけらるべきよし》、御收納不[#レ]可[#レ]有[#二]相違[#一]候《ごしうなふさうゐあるべからずさふらふ》。宇津方《うづかた》え?堅申遣候《かたくまをしつかはしさふらふ》。此等之旨《これらのむね》、可[#レ]有[#二]御披露[#一]候《ごひろうあるべくさふらふ》。 恐々謹言《きよう/\きんげん》。
 四月十六日
      木下藤吉郎秀吉判
      丹羽五郎左衞門長秀判
      中川八郎右衞門重政判
      明智十兵衞尉光秀判
   立入左京亮殿
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此《これ》は信長《のぶなが》が丹波山國莊《たんばやまこくしやう》に關《くわん》して、取《と》りたる措置《そち》を、其《そ》の諸役人共《しよやくにんども》より、朝廷《てんてい》に上申《じやうしん》したる文書《ぶんしよ》の一である。年號《ねんがう》は明記《めいき》せざるも、恐《おそ》らくは永祿《えいろく》十二|年《ねん》、近畿《きんき》再度《さいど》の平定《へいてい》の頃《ころ》なるべし。唯《た》だ一|例《れい》であるが、他《た》は類推《るゐすゐ》が出來《でき》る。而《しか》して彼《かれ》は、公方家《くばうけ》の新館造營《しんくわんざうえい》と與《とも》に、禁裏修築《きんりしうちく》を思《おも》ひ立《た》ち、永祿《えいろく》十二|年《ねん》四|月《ぐわつ》三|日《か》より、朝山日乘《あさやまにちじよう》、島田彌右衞門尉《しまだやうゑもんのじやう》をして、著手《ちやくしゆ》せしめ。元龜《げんき》元年《ぐわんねん》二|月《ぐわつ》には、更《さ》らに村井貞勝《むらゐさだかつ》をも、奉行中《ぶぎやうちう》に加《くは》へ、大工共《だいくども》は、皆《みな》烏帽?子《ゑぼうし》を戴《いたゞ》き、素襖《すあう》を著《つ》け、古式《こしき》に從《したがつ》て工事《こうじ》を務《つと》め、元龜《げんき》二|年《ねん》十|月《ぐわつ》十五|日《にち》に至《いた》つて、落成《らくせい》した。費用《ひよう》凡《およ》そ一|萬貫《まんぐわん》。正親町天皇《おほぎまちてんわう》には、前代未聞《ぜんだいみもん》の盛儀《せいぎ》であるので、宸悦《しんえつ》で在《おは》せられた。〔山科言繼日記〕
彼《かれ》は正《まさ》しく、曾《かつ》て拜《はい》したる内旨《ないし》を、實行《じつかう》したのである。
彼《かれ》は又《ま》た元龜《げんき》二|年《ねん》、皇室《くわうしつ》の爲《た》めに、經濟法《けいざいはふ》を定《さだ》めた。是《こ》れ實《じつ》に彼《かれ》が勤王《きんわう》の如何《いか》に經濟的《けいざいてき》、實用的《じつようてき》であつたかを證《しよう》するに足《た》る。
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末代《まつだい》に於《おい》ても、御調物不[#レ]絶樣《おんみつぎものたえざるやう》に、信長公《のぶながこう》御思案《ごしあん》有《あつ》て、洛中《らくちう》諸町人《しよちやうにん》に、過分《くわぶん》の屬託《しよくたく》を被[#二]貸置[#一]《かしおかれ》、其《そ》の利足《りそく》毎月《まいげつ》献上《けんじやう》す。是《これ》は當時《たうじ》戰國《せんごく》の最中《さいちう》なれば、公領《こうりやう》のために知行所《ちぎやうしよ》を進上《しんじやう》申《まを》しては、誰人《たれびと》にか切取《きりと》られ、又《また》は土民《どみん》の一|揆《き》、盜賊《たうぞく》の所得《しよとく》と成《なつ》て、却《かへつ》て禁中《きんちう》の御爲《おんた》め成《なる》べからざるの間《あひだ》、金銀《きんぎん》を以《もつ》てかくの如《ごと》し。〔總見記〕
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要《えう》するに我《わ》が皇室《くわうしつ》は、信長《のぶなが》の出世《しゆつせ》と與《とも》に、妖雲《えううん》を排《はい》し來《きた》りて、其《そ》の光輝《くわうき》を赫灼《かくしやく》たらしめた。
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信長入洛當時と朝廷の御暮し向き
信長が入洛當時は朝廷の御收入と申すものも、誠に心細い次第でありますので、信長は元龜二年に一つの方法を立てゝ、御經濟の途をつけました。それは京都の町々に米を貸し與へて、其利子を取つて御所の御經費に致したのです。當時京都の町が上京下京となつて居て、上京の町數は八十四、下京の方は四十三あります。合せて百二十七箇町になります。其百二十七箇町のどれにも米五石宛貸與へまして、一年に三割の利子を取つて、これを經常費に致すといふ譯です。今日の京都は明治四十三年十二月末日の調査では、上京の町數が八百六十七、下京が八百二十五あります。都合千六百九十二箇町になります。今日の京都と信長時代とを比較すると、著しき差のある事がわかる。これで當時の京都がどんなものであつたかがほゞ想像出來る。さて百廿七箇町に米五石宛貸與して、一年に其三割の利をとると致すと、一ケ月に一箇町の負担致します米が凡そ一斗二升五合といふ割になる。一ケ月に京都全體から利子として納まつて來る米の總〆高は十五石八斗七升五合といふ計算になります。併し乍ら中々キチン/\と思ふ樣に其米がまた納まりかねました模樣で、元龜四年七月には十三石納まつた樣に見える。凡そ三四ケ月位の統計により考ふるに、矢張り十三石位は納まる。而して毎月若干宛殘餘が出ます。此間の消息は立入文書によりて窺ひ知る事が出來るのでありますが、御所に於ては毎月先づ十三石位あればソコ/\に御暮しが立つといふ有樣で、無論立派な御生活ではないのです。而して其十三石のうち大凡半分強は、御飯として召上り、半分弱は御醤?油とか、味噌とか、副食物の方に廻るのであります。そこで當時の御所に於てはどれ位の人數が居られたかといふに、幸に記録が殘つて居りますので、當時の天子樣は正親町天皇で、御附の女官が三人居られます。皇后は居られませぬ。御子樣は誠仁親王といふ方が居られまして、皇太子であります。此方の外に七人の皇女が居られましたが、七人の中三人は薨去せられまして、殘る四人の中二人は御寺に入て居られますから、最後の二人は御所に居らるゝ譯です。それから誠仁親王の御附女官が二人ありまして、誠仁親王の御子樣は後に百七代の天子樣(即ち御陽成天皇)になられまする方と其御妹が二人居られますが、これは寺に入て居られますので、合計十人となります。即ち皇室にては天子、皇太子、皇孫、皇女二人、天子及皇太子の御附女官が五人、都合十人であります。其他御召使の人々などは、明かにはわからぬが、十人乃至四十人位あつた樣です。そこで多い時は五十人と?致して、毎月十三石の米を以て御暮を御つけにならうといふ事になる。米に就てだけ考へても一人平均四合と見做す位の見當になる樣です。誠に申すも畏れ多い事ですが、朝廷の御暮しは御豐ではないのです。〔『安土桃山時代史論』吉川貞次郎氏の「信長の勤王」〕
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【六〇】永祿十二年の下半期
永祿《えいろく》十二|年《ねん》の下半期《しもはんき》は、但馬《たじま》征伐《せいばつ》と、伊勢《いせ》統《とう》一とが、重《おも》なる事件《じけん》であつた。但馬《たじま》は年來《ねんらい》山名氏《やまなし》の領所《りやうしよ》であつたが、當時《たうじ》は山名氏《やまなし》も微祿《ぶろく》して、次郎《じらう》祐豐《すけとよ》、僅《わづ》かに舊業《きうげふ》を繋《つな》いで居《ゐ》た。されば同年《どうねん》八|月《ぐわつ》一|日《じつ》、伊丹親興《いたみちかおき》、池田勝政等《いけだかつまさら》が、信長《のぶなが》の援兵《ゑんぺい》を藉《か》りて、進攻《しんこう》したから、乍《たちま》ち祐豐《すけとよ》を降參《かうさん》せしめ、十三|日《にち》には凱陣《がいぢん》した。而《しか》して生野《いくの》の銀山《ぎんざん》も、此《こ》れよりして彌《いよい》よ織田氏《おだし》の有《いう》となつた。而《しか》して經濟《けいざい》に拔目《ぬけめ》なき信長《のぶなが》は、早速《さつそく》之《これ》を採掘《さいくつ》せしむる※[#「こと」の合字、315-2]とした。
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南伊勢方面《みなみいせはうめん》は、此程《これほど》容易《ようい》には參《まゐ》らなかつた。北畠國司家《きたばたけこくしけ》の、多年《たねん》扶植《ふしよく》したる潜勢力《せんせいりよく》は、信長《のぶなが》の手《て》を以《もつ》てするも、一|朝《てう》にして、之《これ》を拔《ぬ》き去《さ》ることは、頗《すこぶ》る難事《なんじ》であつた。信長《のぶなが》は正月《しやうぐわつ》に兵《へい》を出《いだ》す計企《けいき》であつたが、三|好《よし》殘黨《ざんたう》蜂起《ほうき》の爲《た》めに、延引《えんいん》して八|月《ぐわつ》二十|日《か》に、桑名《くはな》迄《まで》出馬《しゆつば》した。二十六|日《にち》には淺香《あさか》の城《しろ》を攻《せ》め、之《これ》を降《くだ》した。『木下藤吉郎《きのしたとうきちらう》先懸《さきがけ》いたし攻《せめ》られ候《さふらひ》て、堀際《ほりぎは》へ詰《つめ》よせ、薄手《うすで》をかふむり被[#二]罷退[#一]《まかりしりぞかれ》、難[#レ]拘[#二]存知[#一]降參候《ぞんぢにかゝはりがたくかうさんさふらひ》て退散《たいさん》也《なり》。』〔信長公記〕とあれば、秀吉《ひでよし》の働《はた》らきの目覺《めざ》ましかりしも、思《おも》ひやらるゝ也《なり》。彼《かれ》は智將《ちしやう》のみでなく、又《ま》た勇將《ゆうしやう》でもあつたことが判《わ》かる。
信長《のぶなが》は沿道《えんだう》の小城《せうじやう》を無視《むし》して、直《たゞ》ちに北畠國司父子《きたばたけこくしふし》の大河内城《おほかうちじやう》に攻《せ》め寄《よ》せた。而《しか》して信長《のぶなが》一|流《りう》の放火《はうくわ》にて、町《まち》を燒《や》き、二十八|日《にち》より城《しろ》を攻圍《こうゐ》した。九|月《ぐわつ》八|日《にち》には、夜襲《やしふ》を行《おこな》うたが、同夜《どうや》降雨《かうう》にて、鐵砲《てつぱう》を使用《しよう》する能《あた》はず、計策《けいさく》齟齬《そご》して、味方《みかた》の將校《しやうかう》死傷《ししやう》少《すくな》くなかつた。『九|月《ぐわつ》九|日《か》、瀧川左近被[#二]仰付[#一]《たきがはさこんおほせつけられ》、多藝谷國司《たけたにこくし》の御殿《ごてん》を初《はじ》めとし、悉燒拂《こと/″\くやきはらひ》、作毛薙捨?《さくげなぎすて》、亡國《ぼうこく》にさせられ、城中《じやうちう》は可[#レ]被[#レ]成[#二]干殺[#一]御存分《ひごろしになさるべきごぞんぶん》にて、御在陣候《ございぢんさふらふ》の處《ところ》。俄走入候《にはかにはしりいりさふらふ》の者《もの》、既端々及[#二]餓死[#一]付《すでにはし/\がしにおよぶについ》て、種々御詫言《しゆ/″\おんわびごと》して、信長公《のぶながこう》の御《ご》二|男《なん》お茶箋《ちやせん》へ、家督《かとく》を讓《ゆづ》り申《まを》さるゝ御堅約《ごけんやく》にて、十|月《ぐわつ》四|日《か》大河内之城《おほかうちのしろ》、瀧川左近《たきがはさこん》、津田掃部兩人《つだかもんりやうにん》に相渡《あひわたし》、國司父子《こくしふし》は笠木坂《かさぎさか》ないと申《まをす》所《ところ》へ退城《たいじやう》候《さふらひ》し也《なり》。』〔信長公記〕乃《すなは》ち信長《のぶなが》は家《いへ》を燒《や》き、田畑《たはた》を荒《あら》し、城中《じやうちう》の人《ひと》を餓死《がし》せしむる手段《しゆだん》を取《と》つた爲《た》め、國司父子《こくしふし》も今《いま》は詮方《せんかた》なく、信長《のぶなが》の二|子《し》信雄《のぶを》を養子《やうし》として、一|切《さい》を讓與《じやうよ》し、自《みづ》から退轉《たいてん》した。此《かく》の如《ごと》くして南伊勢《みなみいせ》も、信長《のぶなが》の手《て》に入《い》り、伊勢《いせ》一|圓《ゑん》、全《まつた》く彼《かれ》の勢力圜内《せん?りよくくわんない》に歸《き》した。
彼《かれ》は國内《こくない》の諸城《しよじやう》を破却《はきやく》せしめ、『其上當國《そのうへたうごく》の諸關《しよくわん》、取分往還旅人之惱《とりわけわうくわんりよじんのなやみ》たる間《あひだ》、於[#二]末代[#一]《まつだいにおいて》、御免除之上《ごめんぢよのうへ》、向後關錢不[#レ]可[#二]召置[#一]《きやうごくわんせんめしおくべからざる》の旨《むね》、堅被[#二]仰付[#一]《かたくおほせつけらる》。』〔信長公記〕是《こ》れ實《じつ》に彼《かれ》の慣用政策《くわんようせいさく》である。苟《いやしく》も彼《かれ》の手《て》の觸《ふ》るゝ所《ところ》、彼《かれ》は必《かな》らず割據《かつきよ》の墻壁《しようへき》を撤去《てつきよ》して、統《とう》一の活路《くわつろ》を?通《そつう》した。彼《かれ》は當時《たうじ》の流行《りうかう》たる、關所《せきしよ》を設《まう》け、交通税《かうつうぜい》を徴課《ちようくわ》するの、甚《はなは》だ有害《いうがい》なるを、極《きは》めて痛切《つうせつ》に看取《かんしゆ》した。故《ゆえ》に機會《きくわい》ある毎《ごと》に、之《これ》を撤廢《てつぱい》した。此《こ》れは彼《かれ》の仁政《じんせい》と云《い》はんよりも、寧《むし》ろ彼《かれ》の主張《しゆちやう》だ。
彼《かれ》は十|月《ぐわつ》五|日《か》、山田《やまだ》に赴《おもむ》き、六|日《か》參宮《さんぐう》し、十一|日《にち》には上京《じやうきやう》し、將軍義昭《しやうぐんよしあき》に伊勢平定《いせへいてい》の報告《はうこく》をなし、十七|日《にち》には岐阜《ぎふ》に歸著《きちやく》した。彼《かれ》の擧動《きよどう》は、實《じつ》に神速《しんそく》であつた。
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元來《ぐわんらい》織田《おだ》と、朝倉《あさくら》とは、兩立《りやうりつ》し難《がた》き家柄《いへがら》であつた。然《しか》るに茲?《こゝ》に兩者《りやうしや》を衝突?《しようとつ》せしむ可《べ》き、問題《もんだい》が湧《わ》き出《い》でた。美濃《みの》に朝倉家《あさくらけ》の切取《きりと》りしたる、領地《りやうち》があつた。朝倉家《あさくらけ》に取《と》りては、寧《むし》ろ厄介《やくかい》なる飛地《とびち》なれば、之《これ》を延暦寺《えんりやくじ》に寄進《きしん》して、叡山《えいざん》の衆徒《しうと》と、朝倉家《あさくらけ》との間《あひだ》に、緩?急《くわんきふ》相《あひ》濟《すく》ふてふ、一|種《しゆ》の不文同盟《ふぶんどうめい》を取結《とりむす》んだ。叡山僧侶《えいざんそうりよ》の非行《ひかう》を、最《もつと》も嫌惡《けんを》したる信長《のぶなが》、朝倉《あさくら》一|個《こ》の私意《しい》にて、寄進《きしん》したる此《こ》の山門領《さんもんりやう》を、いかで其儘《そのまゝ》に看過《かんくわ》す可《べ》き。彼《かれ》は之《これ》を沒納《ぼつなふ》した。衆徒《しうと》は其《そ》の不法《ふはふ》を、奉行《ぶぎやう》に訴《うつた》へたが、奉行《ぶぎやう》は之《これ》を取《と》り上《あ》げて呉《く》れぬ。此《こ》の實例《じつれい》を見《み》て、江州邊《がうしうへん》の山門領《さんもんりやう》をも、勝手《かつて》に之《これ》を押領《あふりやう》する地頭《ぢとう》が出《い》で來《きた》つた。衆徒《しうと》は耐《こら》へ兼《かね》て、永祿《えいろく》十二|年《ねん》十|月《ぐわつ》二|日《か》、之《これ》を朝廷《てうてい》に訴《うつた》へた。同《どう》二十六|日《にち》、信長《のぶなが》へは還補《くわんぽ》の御沙汰《ごさた》が下《くだ》つた。京都《きやうと》に於《お》ける所司代《しよしだい》朝山日乘《あさやまにちじよう》、村井貞勝等《むらゐさだかつら》は、御請《おうけ》を申上《まをしあげ》たが、却々《なか/\》之《これ》を實行《じつかう》す可《べ》き模樣《もやう》がない。そこで衆徒《しうと》は愈《いよい》よ憤激《ふんげき》し、朝倉義景《あさくらよしかげ》に向《むかつ》て、信長《のぶなが》退治《たいぢ》の相談《さうだん》を持《も》ち込《こ》んだ。喧嘩《けんくわ》は信長《のぶなが》が賣《う》つた乎《か》、朝倉《あさくら》が買《か》うた乎《か》、或《あるひ》は朝倉《あさくら》が賣《う》つた乎《か》、信長《のぶなが》が買《か》うた乎《か》、何《いづ》れにしても織田《おだ》、朝倉《あさくら》の間《あひだ》には、早晩《さうばん》破裂《はれつ》す可《べ》き禍機《くわき》が孕《はら》んで來《き》た。

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