第八章 天下布武の前程
【四七】美濃の經略
尾張《をはり》と美濃《みの》とは、木曾川《きそがは》を挾《さしはさ》んで唇齒《しんし》の關係《くわんけい》がある。齋藤氏《さいとうし》が美濃《みの》に蟠《わだかま》るは、織田氏《おだし》に取《と》りて、腹心《ふくしん》の病《やまひ》であつた。信秀《のぶひで》以來《いらい》、屡《しばし》ば干戈《かんくわ》を交《まじ》へた。但《た》だ信長《のぶなが》が道《だう》三の女《むすめ》を娶《めと》り、結婚《けつこん》政略《せいりやく》で、一|時《じ》休戰的《きうせんてき》平和《へいわ》を保《たも》つた。されば永祿《えいろく》四|年《ねん》家康《いへやす》との會盟《くわいめい》以來《いらい》、同《どう》七|年《ねん》八|月《ぐわつ》、齋藤龍興《さいとうたつおき》が井口城《ゐぐちじやう》を明《あ》け渡《わた》す迄《まで》、信長《のぶなが》の力《ちから》は、專《もつぱ》ら美濃經略《みのけいりやく》に竭《つ》くされた。而《しか》して信長《のぶなが》には、齋藤氏《さいとうし》と戰《たゝか》ふ可《べ》き名目《みやうもく》もあれば、機會《きくわい》も出來《でき》た。そは申《まを》す迄《まで》もなく、齋藤家《さいとうけ》の内訌《ないこう》である。
齋藤《さいとう》道《だう》三は、戰國《せんごく》の當時《たうじ》に於《おい》てさへ、世間《せけん》に指彈《しだん》せられた程《ほど》の、惡黨《あくたう》であつた。『主《しゆ》を斫《き》り聟《むこ》を殺《ころ》すは身《み》のをはり、昔《むか》しは長田《をさだ》今《いま》は山城《やましろ》』との落首《らくしゆ》は、其《そ》の證據《しようこ》ぢや。山城《やましろ》とは、山城入道《やましろにふだう》道《だう》三の※[#「こと」の合字、238-11]ぢや。
彼《かれ》は天資《てんし》慘酷《ざんこく》の男《をとこ》であつた。『小科《せうくわ》の輩《やから》をも、牛裂《うしざき》にし、或《あるひ》は釜《かま》を据置《すゑお》き、其《そ》の女房《にようばう》や、親兄弟《おやきやうだい》に火《ひ》をたかせ、人《ひと》を煎殺《いころ》せし事《こと》、冷敷《すさまじき》成敗《せいばい》也《なり》。』〔信長公記〕とあれば、其民《そのたみ》に莅《のぞ》んだ模樣《もやう》も、思《おも》ひやらるゝ。されど彼《かれ》は赤手《せきしゆ》にして、美濃《みの》の領主《りやうしゆ》となつた丈《だけ》の權略《けんりやく》、度胸《どきよう》ある男《をとこ》だ。彼《かれ》が健在《けんざい》の間《あひだ》は、信長《のぶなが》も美濃《みの》に向《むかつ》て、其《その》志《こゝろざし》を逞《たくまし》うする※[#「こと」の合字、239-5]を得《え》なかつた。然《しか》るに彼《かれ》は其《そ》の長子《ちやうし》義龍《よしたつ》と好《よ》からず、却《かへつ》て其《そ》の二|男《なん》孫《まご》四|郎《らう》、三|男《なん》喜平次《きへいじ》を愛《あい》した。義龍《よしたつ》は癩病《らいびやう》であつたが、身長《しんちやう》六|尺《しやく》五|寸《すん》、膝高《ひざたけ》一|尺《しやく》二|寸《すん》〔野史〕と云《い》へば、頗《すこぶ》る大男《おほをとこ》であつた。彼《かれ》は虚病《けびやう》を構《かま》へて、其《その》弟《おとうと》兩人《りやうにん》を招《まね》き寄《よ》せ、之《これ》を殺《ころ》した。此《これ》が弘治《こうぢ》元年《ぐわんねん》霜月《しもつき》の事《こと》ぢや。翌《よく》二|年《ねん》四|月《ぐわつ》、愈《いよい》よ父子《ふし》の合戰《かつせん》となり、道《だう》三は長良川畔《ながらせんぱん》に於《おい》て、六十三|歳《さい》にて討死《うちじに》した。
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信長公《のぶながこう》御出馬《ごしゆつば》被成候《なされさふら》へば、早《はや》山城入道《やましろにふだう》合戰《かつせん》に被[#レ]負《まけられ》、城《しろ》に火掛《ひかゝ》り申《まをし》候《さふらふ》を御覽《ごらん》候《さふらふ》て、扨《さて》も/\注進《ちうしん》遲《おそ》く候《さふらふ》事《こと》無念《むねん》也《なり》と、信長公《のぶながこう》御涙《おんなみだ》を御流《おながし》候《さふらひ》て御歸《おんかへり》候《さふらふ》。其内《そのうち》一|度《ど》は、彼《か》の癩殿《らいどの》の首《くび》を取《とり》、入道《にふだう》へ手向可申《たむけまをすべし》と御意《ぎよい》候《さふらふ》。〔利家夜話〕
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信長《のぶなが》が涙《なみだ》を流《なが》した乎《か》、否乎《いなか》は、確《たし》かでないが、彼《かれ》が美濃《みの》に向《むか》つて開戰《かいせん》の口實《こうじつ》を得《え》た※[#「こと」の合字、240-1]は、確《たし》かである。併《しか》し義龍《よしたつ》も、其《その》父《ちゝ》を殺《ころ》すほどの者《もの》で、却々《なか/\》手《て》にをへぬ強者《したゝかもの》であつた。彼《かれ》は『三十餘年、守護人天、刹那一句、佛祖不[#レ]傳。』の末期《まつご》の偈《げ》を殘《のこ》して、永祿《えいろく》四|年《ねん》五|月《ぐわつ》、三十五|歳《さい》で死《し》んだ。此時《このとき》から、信長《のぶなが》の美濃《みの》經略《けいりやく》が、愈《いよい》よ一|大《だい》促進《そくしん》をした。
信長《のぶなが》は其《そ》の策源地《さくげんち》を、清洲《きよす》から小牧山《こまきやま》に移《うつ》した。小牧山《こまきやま》は、那古野《なごや》の西北《せいほく》二|里半《りはん》で、平野《へいや》に直立《ちよくりつ》する標高《へうかう》八十六|米突《めーとる》の山《やま》ぢや。彼《かれ》は何時《いつ》でも、何處《どこ》迄《まで》も、信長式《のぶながしき》であつた。
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或時御内衆悉被[#二]召列[#一]《あるときおんうちしうこと/″\くめしつらねられ》、山中高山《さんちうたかやま》二の宮山《みややま》へ御上《おのぼ》り被成《なされ》、此山《このやま》にて御要害被仰付候《ごえうがいおほせつけられさふら》はんと上意《じやうい》にて、皆々家宅引越候《みな/\かたくひきこしさふら》へと御諚候《ごぢやうさふらひ》て、?《こゝ》の嶺《みね》、かしこの谷合《たにあひ》を、誰々《たれ/\》こしらへ候《さふら》へと、御屋敷被下《おやしきくだされ》、其日御歸《そのひおかへり》、又急御出有之《またきふにおんいでこれあり》、彌《いよ/\》右《みぎ》の趣御諚候《おもむきごぢやうさふらふ》。此《こ》の山中《さんちう》へ清洲《きよす》の家宅《かたく》、可[#二]引越[#一]事《ひきこすべきこと》難儀《なんぎ》の仕合成《しあはせなり》と、上下迷惑大形《しやうかのめいわくおほかた》ならず。左候處《ささふらふところ》後《のち》に小牧山《こまきやま》へ御越候《おんこしさふら》はんとて被仰出候《おほせいだされさふらふ》。小牧山《こまきやま》へは、麓《ふもと》迄《まで》川續《かはつゞ》きにて、資財《しざい》雑具《ざつぐ》取《とり》候《さふらふ》に、自由《じいう》の地《ち》にて候《さふらふ》也《なり》。?《どう》と悦《よろこん》で罷越《まかりこし》候《さふらふ》也《なり》。是《これ》も始《はじめ》より被仰出候《おほせいだされさふら》はゞ、?《こゝ》も迷惑可[#レ]爲[#二]同前[#一]《めいわくどうぜんたるべし》。〔信長公記〕
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信長《のぶなが》の心機《しんき》一|轉《てん》したる乎《か》、將《は》た當初《たうしよ》より其《そ》の巧《たく》みにてありし乎《か》。何《いづ》れにしても、永祿《えいろく》五|年《ねん》に、信長《のぶなが》は其《そ》の諸臣《しよしん》を率《ひき》ゐて、清洲《きよす》より小牧山《こまきやま》に移轉《いてん》した。然《しか》も彼《かれ》の美濃經略《みのけいりやく》は、決《けつ》して破竹《はちく》の勢《いきほひ》ではなかつた。所謂《いはゆ》る美濃衆《みのしう》とて、美濃《みの》には勇敢《ゆうかん》の精兵《せいへい》が少《すくな》くなかつた。義龍《よしたつ》の子《こ》、主將《しゆしやう》龍興《たつおき》は暗愚《あんぐ》でも、容易《ようい》に人心《じんしん》は離散《りさん》せなかつた。それに飛騨?川《ひだがは》、長良川《ながらがは》、(或《あるひ》は墨俣川《すのまたがは》とも云《い》ふ)揖斐川等《いびがはとう》の險《けん》あり。信長《のぶなが》も此《これ》が爲《た》めには、少《すくな》からず惱《なや》まされたであらう。特《とく》に墨俣河畔《すのまたかはん》の砦《とりで》は、屡《しばし》ば築《きづ》きて、屡《しばし》ば撤退《てつたい》を餘儀《よぎ》なくした。木下藤吉郎《きのしたとうきちらう》が初《はじ》めて、其《そ》の功名《こうみやう》を顯《あらは》したのも、此《こ》の砦《とりで》を防禦《ばうぎよ》し、且《か》つ調略《てうりやく》を以《もつ》て、美濃衆《みのしう》を籠絡《ろうらく》したからである。
然《しか》るに永祿《えいろく》七|年《ねん》、美濃《みの》三|人衆《にんしう》、稻葉《いなば》、氏家《うぢいへ》、安東《あんどう》の徒《と》、?《くわん》を納《い》れて來《き》た。信長《のぶなが》は其《そ》の人質《ひとじち》を受取《うけと》りに人《ひと》を遣《つかは》し、未《いま》だ還《かへ》り來《きた》らざるに、八|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、兵《へい》を參河《みかは》に出《いだ》すと?言《やうげん》して、突嗟《とつさ》に兵《へい》を率《ひき》ゐ、瑞龍寺山《ずゐりうじさん》に上《のぼ》り、井口《ゐぐち》に臨《のぞ》んで火《ひ》を放《はな》つた。
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是《こ》は如何《いか》に、敵《てき》か味方《みかた》かと申《まをす》所《ところ》に、早《はや》町《まち》に火《ひ》をかけ、即時《そくじ》に生《はだ》か城《じろ》に被成候《なされさふらふ》。其日以外風吹候《そのひもつてのほかかぜふきさふらふ》。翌日《よくじつ》御普請《ごふしん》くばり被仰付《おほせつけられ》、四|方《はう》鹿垣《しかがき》結《ゆひ》まはし、取籠《とりこめ》をかせられ候《さふらふ》。左候處《ささふらふところ》へ、美濃《みの》三|人衆《にんしう》も參《まゐ》り、消[#レ]肝御禮申上候《きもをけしおんれいまをしあげさふらふ》。信長《のぶなが》は何事《なにごと》もケ樣《やう》に、物輕《ものがる》に被[#レ]成[#二]御沙汰[#一]候也《ごさたなされさふらふなり》。〔信長公記〕
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信長《のぶなが》の疾雷《しつらい》耳《みゝ》を掩《おほ》はざるの活動《くわつどう》、見《み》るが如《ごと》しぢや。斯《か》くて八|月《ぐわつ》十五|日《にち》には、道《だう》三の孫《まご》、義龍《よしたつ》の子《こ》、龍興《たつおき》は、城《しろ》を開《ひら》いて退去《たいきよ》した。信長《のぶなが》は茲?《こゝ》に愈《いよい》よ美濃《みの》一|國《こく》を討平《たうへい》して、井口《ゐぐち》を改《あらた》めて岐阜《ぎふ》と名《なづ》け、小牧山《こまきやま》より此處《ここ》に移轉《いてん》した。移轉《いてん》したと云《い》ふは、天下《てんか》經略《けいりやく》の大本營《だいほんえい》を進《すゝ》めた※[#「こと」の合字、242-7]である。乃《すなは》ち此《かく》の如《ごと》くして道《だう》三の豫言《よげん》通《どほ》り、齋藤氏《さいとうし》の美濃《みの》は、信長《のぶなが》への聟《むこ》引出物《ひきでもの》となつた。
【四八】天下布武
信長《のぶなが》は永祿《えいろく》七|年《ねん》九|月《ぐわつ》、小牧山《こまきやま》より齋藤氏《さいとうし》の居城《きよじやう》たりし、稻葉山《いなばやま》に移《うつ》つた。澤?《たくげん》の岐阜山記《ぎふさんき》には、周《しう》が岐山《ぎざん》の下《もと》より起《おこ》つた故事《こじ》に因《ちな》みて、改《あらた》めて岐阜《ぎふ》と稱《とな》へたとあれども。山《やま》を岐山《ぎざん》と云《い》ひ、里《さと》を岐阜《ぎふ》と申《まを》す※[#「こと」の合字、243-2]、明應《めいおう》より永正《えいしやう》の頃《ころ》までの舊記《きうき》に多《おほ》く見《み》ゆ。但《た》だ信長《のぶなが》は其《そ》の地方《ちはう》の小字《こあざ》たる忠節《ちうせつ》、今泉《いまいづみ》、井口《ゐぐち》、早田等《はやだとう》を綜合《そうがふ》して、之《これ》を岐阜《ぎふ》と名《なづ》けたのぢや。〔美濃明細記附録〕然《しか》も岐阜《ぎふ》の名《な》は、信長《のぶなが》に至《いた》りて、大《おほ》いに顯《あら》はれた。舊地《きうち》は新主人《しんしゆじん》によりて、其名《そのな》を天下《てんか》に揚《あ》げた。彼《かれ》は天正《てんしやう》四|年《ねん》二|月《ぐわつ》、安土城《あづちじやう》に移《うつ》る迄《まで》、十三|年間《ねんかん》此《こ》の城《しろ》に在《あ》つた。而《しか》して其間《そのあひだ》が、彼《かれ》の最《もつと》も脂《あぶら》の乘《の》りたる時代《じだい》であつた※[#「こと」の合字、243-7]は、云《い》ふ迄《まで》もない。
稻葉山《いなばやま》は、今《いま》は金華山《きんくわざん》とも云《い》ふ。突兀《とつこつ》として美濃《みの》の平原《へいげん》に峙《そばだ》つ。山《やま》甚《はなは》だ高《たか》からざるも、其《そ》の周圍《しうゐ》巖石《がんせき》壁立《へきりつ》し、老樹《らうじゆ》鬱葱《うつさう》。東《ひがし》は日野村《ひのむら》を限《かぎ》り、北《きた》は長良川《ながらがは》に枕《のぞ》み、西麓《せいろく》は即《すなは》ち岐阜市街《ぎふしがい》ぢや。其《そ》の山脈《さんみやく》南《みなみ》に延《の》ぶこと十八|町《ちやう》、瑞龍寺山《ずゐりうじさん》に至《いた》る。其《そ》の山南《さんなん》は田野《でんや》ぢや。岐阜市街《ぎふしがい》より城《しろ》に登《のぼ》る坂路《はんろ》三あり、七|曲《まがり》、百|曲《まがり》、及《およ》び水《みづ》の手《て》と云《い》ふ。要害險固《えうがいけんご》と與《とも》に、上國《じやうこく》への出入《しゆつにふ》便利《べんり》にして、信長《のぶなが》の天下經略《てんかけいりやく》の策源地《さくげんち》として、差《さ》し當《あた》り、至上《しじやう》の場所《ばしよ》と云《い》はねばなるまい。而《しか》して岐阜《ぎふ》は、城下町《じやうかまち》として、頗《すこぶ》る佳麗《かれい》の地《ち》であつた。『環[#レ]郭皆山紫翠堆。夕陽人倚好數臺。香魚欲[#レ]上桃花落。三十六?春水來。』此《こ》の好風景《かうふうけい》は、古《いにしへ》も亦《また》た?今《いま》の如《ごと》しであつた。信長《のぶなが》の雄圖《ゆうと》は、滾々《こん/\》として此《こ》の中《うち》より湧《わ》き出《い》でゝ來《き》た。
彼《かれ》の雄圖《ゆうと》は、其《そ》の常用《じやうよう》したる印章《いんしやう》『天下布[#レ]武《てんかぶをしく》』の四|字《じ》で嚢括《なうくわつ》せられて居《を》る。彼《かれ》は又《ま》た其《その》子《こ》信雄《のぶを》には、『威加[#二]海内[#一]《ゐかいだいにくはゝる》』信孝《のぶたか》には『一|?平[#二]天下[#一]《けんてんかをたひらぐ》』の印文《いんぶん》を用《もち》ひしめた。此等《これら》は、悉《こと/″\》く、彼《かれ》が少時《せうじ》の保傳《ほふ》であつた平手政秀《ひらでまさひで》が、彼《かれ》の大々的《だい/\てき》不良少年《ふりやうせうねん》の行動《かうどう》を諫止《かんし》す可《べ》く、自殺《じさつ》したる、其《そ》の菩提《ぼだい》を弔《とむら》ふ爲《た》め、特《とく》に建立《こんりふ》したる、政秀寺《せいしうじ》開山《かいざん》の、澤彦和尚《たくげんをしやう》の撰文《せんぶん》に成《な》りたるも、其《そ》の志趣《ししゆ》の存《そん》する所《ところ》は、明白《めいはく》である。而《しか》して彼《かれ》は、今《いま》や其《そ》の志望《しばう》を大成《たいせい》す可《べ》き、端緒《たんしよ》を見出《みいだ》した。そは申《まを》す迄《まで》もなく、正親町天皇《あふぎまちてんわう》の御内旨《ごないし》である。
此事《このこと》に就《つい》ては、永祿《えいろく》五|年《ねん》説《せつ》と、永祿《えいろく》十|年《ねん》説《せつ》とがある。永祿《えいろく》五|年《ねん》説《せつ》は、『道家祖看記《だうけそかんき》』に由來《ゆらい》す。此書《このしよ》は、道家尾張守《だうけをはりのかみ》の末子《ばつし》、八十|歳《さい》の老翁《らうをう》、祖看《そかん》が、其《その》父《ちゝ》の物語《ものがたり》を記憶《きおく》の儘《まゝ》、書《か》き綴《つゞ》りたるものにて、寛永《くわんえい》二十|年《ねん》の末《すゑ》に出來《でき》た。語《かた》る者《もの》も、聞《き》く者《もの》も、全《まつた》く間違《まちがひ》なしとは云《い》へぬ。まして多年《たねん》の後《のち》、筆記《ひつき》したるに於《おい》てをやだ。『我等《われら》未《いま》だ尾張《をはり》さへ半國《はんごく》のあるじたるに、天下被[#二]仰付[#一]候《てんかおほせつけられさふらふ》、此御力《このおんちから》を以《もつ》て當國《たうごく》をば年内《ねんない》に從《したが》へ、來年《らいねん》は美濃國令[#二]退治[#一]候《みののくにをたいぢせしめさふら》はん事《こと》、此《これ》二|通《つう》の御力《おんちから》也《なり》』との如《ごと》き、宛《あたか》も信長《のぶなが》其《その》人《ひと》の口吻《こうふん》丸出《まるだ》しであるが。然《しか》も此事《このこと》に關《くわん》する顛末《てんまつ》の記事《きじ》は、餘《あま》りに面白《おもしろ》く、餘《あま》りに小説《せうせつ》じみて居《を》る。而《しか》して永祿《えいろく》十|年《ねん》説《せつ》には、立派《りつぱ》なる綸旨《りんし》二|通《つう》と、女房奉書《にようばうほうしよ》とがある。
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今般隣國早速屬[#二]御理運[#一]《こんぱんりんごくさつそくごりうんにぞくし》、諸人崇仰之由《しよにんすうかうのよし》、奇特《きどく》誠《まこと》に漢家當代無《かんかたうだいむ》二|之?策《のちうさく》、武運長久之基《ぶうんちやうきうのもとゐ》、併御幸名無[#レ]隱候《あはせてごかうめいかくれなくさふらふ》。就[#レ]其被[#レ]成[#二]勅裁[#一]之上者《それにつきちよくさいなさるゝのうへは》、被[#レ]存[#二]別忠[#一]《べつちうにぞんぜられ》、毎端馳走肝要候《まいたんちそうかんえうにさふらふ》。御料所等之儀《ごれうしよとうのぎ》、被[#レ]出[#二]御目録[#一]《おんもくろくをいだされ》、仍紅袗下進[#レ]之候《なほくれなひのひとへしたこれをしんじさふらふ》。表[#二]祝儀[#一]斗候《しうぎをへうすばかりにさふらふ》。猶立入左京亮可[#レ]申[#レ]旨候《なほたちいりさきやうのすけむねをまをすべくさふらふ》。謹言《きんげん》
十一月九日 惟房(萬里小路)
織田尾張殿
目録《もくろく》 御元服《ごげんぷく》、御修理《ごしうり》、御料所《ごれうしよ》、
以上《いじやう》
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又《ま》た
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今度國々屬[#二]本意[#一]由《このたびくに/″\ほんいにぞくせしよし》。武勇之長上《ぶゆうのちやうじやう》、天道之感應《てんだうのかんおう》、古今無双之名將《ここんむさうのめいしやう》、彌可[#レ]被[#レ]乘[#レ]勝之候爲[#二]勿論[#一]《いよ/\かちにじようぜらるべくさふらふもちろんなり》。兩國御料所《りやうごくごれうしよ》、且被[#レ]出[#二]御目録[#一]之候《かつおんもくろくこれをいだされさふらふ》、嚴重被[#二]申付[#一]者《げんぢうまをしつけらるれば》、可[#レ]爲[#二]神妙[#一]旨《しんめうたるべきむね》、綸命如[#レ]此《りんめいかくのごとし》、悉[#レ]之以[#レ]状《これをつくすにじやうをもつてす》。
永祿十年十一月九日 右中辨晴豐(勸修寺)
織田尾張殿
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御元服《ごげんぷく》とは、正親町天皇《あふぎまちてんわう》の皇子《わうじ》誠仁親王《まさひとしんわう》御元服《ごげんぷく》の事《こと》で、其《そ》の委詳《ゐしやう》は女房奉書《にようばうほうしよ》に掲《かゝ》げてある。それによれば同親王《どうしんわう》御元服《ごげんぷく》の事《こと》は、父《ちゝ》信秀《のぶひで》も、かねてより關心《くわんしん》して居《ゐ》たが。其《その》子《こ》信長《のぶなが》も、殊勝《しゆしよう》の者《もの》である故《ゆゑ》に、其《そ》の費用《ひよう》を上納《じやうなふ》する樣《やう》にとのことであつた。御修理《ごしうり》は、皇居《くわうきよ》の御破損《ごはそん》を營繕《えいぜん》する事《こと》である。御料所《ごれうしよ》の件《けん》は、第《だい》二の御綸旨《ごりんし》に盡《つ》くして居《を》る。即《すなは》ち現在《げんざい》武人共《ぶじんども》の占奪?《せんだつ》しつゝある尾張《をはり》、美濃《みの》兩國内《りやうこくない》の御料地《ごれうち》を、それ/″\恢復《くわいふく》せよと云《い》ふことである。信長《のぶなが》の勤王《きんわう》は、世襲的《せしふてき》である。此《こ》の綸旨《りんし》を拜戴《はいたい》して、彼《かれ》が感激《かんげき》したのは、當然《たうぜん》である。惟《おも》ふに彼《かれ》の身《み》は岐阜《ぎふ》にあるも、其《その》心《こゝろ》は既《すで》に飛《と》んで至尊《しそん》の側《かたはら》に赴《おもむ》いたであらう
* * * * * * *
因に云ふ、豐臣秀吉譜によれば、秀吉が墨俣河畔にて、武功を立てたのは、永祿九年の秋である。されば此の順序よりすれば、信長の美濃平定は、十年とせねばならぬ。十年の八月朔日とすれば、綸旨の日付十年十一月九日に、頗る恰當する樣でもある。渡邊(世祐博士)のごときは、安土桃山時代史概記には、永祿七年八月朔日と記し、又た安土桃山時代史には、永祿十年八月朔日と記して居る。又た黒板博士の『國史の研究』にも、永祿十年とある。然も予は姑らく信長譜、織田信長記、濃陽戰記等の説に從ひ、永祿七年八月朔日を以て、稻葉山落城の日と爲して措く。七年にせよ、十年にせよ、大體にはさしたる關係はない。
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信長内勅を拜する事
抑禁中御廢壞無正體之間立入右京進○宗繼萬里小路大納言惟房へ申上る次第、禁中之御領山科○山城岩倉○同上抔も近年は從ひ不申御當番の御公家衆も京都之御住居成難故に國々へ御下向被成候、餘り三好○長慶松永○久秀抔恣の有樣也、茲?に尾張の國にて織田彈正忠信長と申仁、父に少年○十六歳にて後れ候へ共少も跡を働かさず其上駿河國今川義元云々(中略)○此處に桶狹間役を略記す右に依り内々申上通信長へ御奉書綸旨を被遣天下被仰付可然通萬里小路殿へ立入申上惟房扨も大事申出しもの哉三好松永抔聞候はゝ君の御爲某汝も憂目に遇はん事按の内也立入承、御意の如くに兩人の者少の事をさへ大事に騒き候然共如何にも々々々々隱密被成上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]○典侍房子、惟房の妹陽光院母儀御里へ御出之刻奉聞有げにもと仰事候はゝ御奉書をば上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]遊ばし綸旨をば御手前遊ばし尾州への案内者には山中○近江の磯貝○新右衞門久次可仕通切々我等に申也我等一所の者なれば身の大事を仕出し候はん○此二句の上下恐くは脱字あらん惟房暫し物も申なく大事大事と計也奧より御用有暫し御立なし又上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]の御參幸の事、之に待候へ迚御立有立入心の内には神佛の御惠と存前後の事を思案也扨惟房奇特に御出、されば上樣○正親町天皇より談合の事仰ありて參也上樣御夢の告け有尾州熱田へは日數何程に參宮仕候はん君よりは近年例なし上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]爲め迚急き氣遣ひ無き者下し候へと御意也幸ひ面に立入居申也尋可申とて右之通御物語有扨天の與ふる事と存四日には可參由申上右の趣奏聞可然通也磯貝をも呼寄せ談合然る可し上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]も此通急き人を遣、上り候へと御申也然處に磯貝程なく參、萬里小路殿、如此通、上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]聞し召し扨は二人の口能く固めさせ給ひて上樣へ申上其上の申とて辨殿○頭左中辨輔房(惟房の子)の部屋にて上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]御對面右之次第一ツ書に仕二人○宗繼久次の宿へ歸?近年思案仕たる事なれば早々書立惟房へ進上受取被成大事々々計にて奧?へ御入候也上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]一ツ書御覽し又不審なる所を直に御尋被成候て御參内の事は脇へ成り此事大事に思出候然處に暮方に上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]召有、急き參内熱田路次御尋、有之儘に御申上扨善き序と思召右の次第奏聞有處に二人の者の存次第一ツ書御覽し御機嫌能く兎角に内侍所にて御?御取有て敕言可有由被仰明日の曉御はらひにて二ツ、一ツ上り候を明け御前へ持て被參候樣に仰也夜半過に御里へ御申越二人の者も明日は早朝に是へ參候樣に惟房御申也二人門へ出申時呼返し磯貝尾州にて知音の者の名字を今夜にても明日にても御尋の刻分明に候はては如何、書立置候へ道家尾張守とて光明峰寺殿御名乘○道家を名字に被成下美濃尾張三河三箇國の御調物又は御自分の御知行をも納め上申者の子孫にて代々尾張守と申候へ共今は尾州守と名乘可申風情も無し近年織田備後守○信秀に從ひ其後信長稚き時よりも奉公仕國々の目附を致し候て多分冬へ成り候ては國に居申候何たる心をも心易く申調へ申者也道家留守にても女房信長に申度事を申候信長も常々安井○道家の室と計被申候と申上候三人の人々は其夜一目もまどろみ候はで明くる侍掛候案の如く早朝に惟房を召し上げ札見も被成候此上は善きに分別して如何にも隱密專一也朕は内侍所のはからひ汝も心強く思ふ可し二人の者諜し合、音信の物をも用意仕候へ
一 退轉之公家相續之事 一 御領所之事 一 御修理之事
如此餘りくどき事は無用御道服御薫?物可[#レ]然由申上也今月○永祿五年十月廿七八日頃には尾州清須へ參候樣にと申合磯貝も山中へ歸立入を待可申由也萬事相調立入十月廿四日京都を立山中へ參候同廿五日二人罷立同廿八日に清須道家所へ磯貝新右衞參候折節馬に湯洗させ居申所へ參扨大儀にて御下り門に連と思しき人こなたへと申也扨内へ入引合右の次第申也先つ振舞抔申付信長今朝未明に鷹野に被[#レ]出候歸には何時も此所にて休息其刻具に申聞せ取次禮の事信長次第に可[#レ]仕とて其樣子具に尋ね先つ湯に御入候て拵へ候へと申御奉書綸旨道家○第二世の尾張守なり諱未た詳ならず此記を書きたる祖看の父包み乍ら戴?き手を拍つて是は扨も信長限り無く滿足致し候はん迚軈て女房に語る御歸りの事程有間敷候髮結ひ拵へ御待候へと申悦候事無[#レ]限案の如く七つ時の事なるに信長歸り馬を?迄掛いつもの如く振舞出し湯へ入らんとし給ひし時に右の次第申上即湯へ御入乍ら委しく尋ね給ふ使は山中の磯貝案内者にて御藏の立入右京進と申者參候由申上大内樣より日本國を殿へ被[#レ]參候由御綸旨附き申勅使參候御機嫌大方ならず安井を召し新しき小袖浴衣迄用意あるかと御尋ね何も揃ひ申由使に軈て對面と御申候道家申上候は取次は唯と申忍の事なれば唯此所にて對面汝仕候へ重而申上樣綸旨奉書の取扱如何と申左らば村井○貞勝を呼ひ候へ畫?より是に在りと申御綸旨奉書讀み申事村井扨は又取次は道家仕候へ九右衞○菅谷長頼?久太郎○堀秀政計置候へ給仕は汝子供二人○道家清十郎同助十郎仕候へ六人の者共長袴小さ刀是に候や村井道家日頃心掛し躾方今日御用に立つ事家の面目古へに復るかと心中に存御小性二人四人御供申奧へ入らせ給ひ御拵有て扨磯貝を召し勅使待遇は互に六ケ敷事我には不[#レ]苦候へ共上御爲又は二人の爲如何にも々々々々隱密にて人の知らさる樣に申付候はんとて御悦無[#二]申計[#一]候御奉書御綸旨三ケ條の書立をは立入持參此外進物披露は道家可[#レ]仕通被[#二]申付[#一]也座敷の次第奧六畳敷中間八畳次十二畳敷信長は中八畳敷に御入右の入たる箱立入持參直に信長請取被成戴き床に御置候扨奧の六畳敷に御直り候上樣よりの進物進上候て立入奧へ請し被[#レ]成候へ共唯是にと申扨上樣よりの御道服召し村井御綸旨奉書讀み申三ケ條の書立信長請取先つ日付の下に判加へ此所にて我等未尾州さへ半國の主たるに天下被[#二]仰付[#一]候此御力を以て當國をは年内に從へ○半國以下事實に合はず來年は美濃國令[#二]退治[#一]候はん事此二通の御力也とて三ケ條を立入に渡し給ふ即戴き候盃の式臺?度々也信長參りて先づ立入に差給ふ立入被[#レ]下信長聞し召磯貝被[#レ]下村井に差す又磯貝被[#レ]下立入飮み道家納め其時信長相伴可[#レ]被[#レ]成候へ共心安袴肩衣を取飯被[#レ]下候へ我等料理して振舞ん迚五三日も寛りと逗留仕候へ雁鶴を數多取京都への兩人土産にさせ候はんとて御立也袴肩衣御取候て安井を召し是れ之を拜み候へ汝方より人を遣三左衞○森可成權六○柴田勝家五郎左衞○丹羽長秀藤吉郎○木下秀吉瀧川○一益五人急ぎ呼寄候へ此事知らせ候はんと御申年寄共○林通勝佐久間信盛等をは如何と申隱密の事なれは此者計と被仰候扨御料理出來申候雁の汁鶴の刺身村井相伴にて以上座敷三人信長二三度出させ給ひて能々參り候へ酒の儀は心の儘に致し料理の樣子出來たるかと御尋兩人被[#レ]申樣には箇樣の新しき雁鶴一世の始と申上御機嫌不[#二]大方[#一]酒?二三遍にて取申刻右五人の者參候兩通拜見扨五人の者信長自身召連立入に御引合候?れも大慶不過之面目也上樣よりも熱田への御代參の事申上二三日過霜月朔日頃吉日を擇ひ可然案内者は村井道家仕候へ右五人にも御飯被下座敷九人也暮方に舟にて御城へ御歸寛りと休息明日は未明に鷹野に出候明日の晩は是れにて御料理可被成由也明日朝飯過て城の周圍を網を打たせ舟にて兩人振舞候へ右五人と小性○菅谷堀の外は一人も兩人に逢はせ候はぬ樣に致し候へ迚御立也明日夜半過に門を自身?かせ給ひて早や鷹野に出候とて御出也村井道家二人逗留の間は暇を取らす也寛りと休み候へと被仰候同廿九日夜の明を待兼裏より舟にて參面の門に人を置き一人も入間敷と被申付候亭主起き出各各?には何として忍?の所へ御出候や箇樣に寢ぼれ候ては如何早や料理急ぎ致せと被申候先づ々々湯を焚かせ候へ共※[#歌記号、1-3-28]?一つに入語らんと申候湯の中にて料理珍敷と申?る處に雁鶴取寄各々に料理有飯過舟二三艘集め五人の衆網を打つ子供二人以上六人して舟を刺す仕付け又船頭舟廻りて網打たんと申藤吉郎申樣には唯いつもの打ち候者に申付舟遊と申各々尤とて舟遊ひ瀧川小鼓久太郎大鼓村井笛子供大鼓京衆謠ひ候へ迚舟遊也七つ時に信長歸候て二人の者御尋也右之通申上小舟に取乘り二三人御連れ候て頭巾深々と召し舟遊所へ御出候何者にて候や忍?ひ遊の所へ曲者のと申す忍?びの舟遊囃珍らかなる物とて御機嫌不[#レ]斜扨肴はと御尋少しも取り不[#レ]申候と有の儘に申彌々御笑にて小鼓御打ち候て忍?びの囃有軈て舟より上らせ給ひて御料理也御振舞過候て朔日頃熱田參宮と申候へ共天氣能候は?明日可[#レ]然吉日は綸旨戴き候日吉日也と參宮の樣子被[#二]仰付[#一]候五人の人々には霜月朔日に岩倉の打入○岩倉伝々は永祿二年の時なり蓋し祖看傳聞の誤兩人の者に見せ候はん内々五人先驅にて其心得可[#レ]然通被[#二]仰付[#一]候同晦日參宮心靜に致され候へ明日も又未明に鷹野右之約束の土産用意仕候はんと被[#レ]仰御歸有晦日天氣能參被[#レ]歸候夜に入御對面?る處に雨降り候岩倉の御手遣ひも延ひ○同上二人暇乞ひ雁鶴身拔にして數多被[#レ]下其外金子抔被[#レ]下萬里小路殿へ御返事不[#レ]申候態と禁中樣へも詞にて申渡し一兩年中に出京仕急度御奉公可[#レ]申通御心得奉[#レ]憑計無[#レ]之候朔日逗留霜月二日未明清須罷立伊勢通歸京關役所道家捌き送り申也〔道家祖看記〕
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【四九】信長の苦手
美濃《みの》を討平《たうへい》したる信長《のぶなが》は、一|氣呵成《きかせい》に突進《とつしん》する※[#「こと」の合字、252-9]能《あた》はぬ。彼《かれ》は尚《な》ほ前《まへ》を?《み》、後《うしろ》を顧《かへり》みる必要《ひつえう》があつた。前《まへ》には江州《がうしう》の六|角氏《かくし》、淺井氏等《あさゐしら》あり、又《ま》た越前《ゑちぜん》には朝倉氏《あさくらし》あり、伊勢《いせ》には、北畠氏《きたばたけし》あり。更《さ》らに關東《くわんとう》の北條氏《ほうでうし》、越後《ゑちご》の上杉氏《うへすぎし》は姑《しば》らく措《お》くも、甲信《かふしん》の間《あひだ》に龍?虎?《りうはんこきよ》しつゝある武田氏《たけだし》は、動《やゝ》もすれば其《その》後《うしろ》を踏?《ふ》まんとし、實《じつ》に油斷《ゆだん》のならぬ難物《なんぶつ》であつた。惟《おも》ふに信長《のぶなが》一|生《しやう》の間《あひだ》に於《おい》て、眞《しん》に其《そ》の苦手《にがて》と云《い》ふ可《べ》きは、武田信玄《たけだしんげん》であつたらう。
信玄《しんげん》は永正《えいしやう》元年《ぐわんねん》の生《うま》れで、信長《のぶなが》には十三|歳《さい》の兄《あに》であつた。若《も》し彼《かれ》が天正《てんしやう》元年《ぐわんねん》四|月《ぐわつ》、五十三|歳《さい》で逝《ゆ》かなかつたならば、信長《のぶなが》の統《とう》一|事業《じげふ》も、恐《おそら》くは少《すくな》からざる困難《こんなん》であつたであらう。當時《たうじ》廣《ひろ》き天下《てんか》を見渡《みわた》すに、眞《しん》に信長《のぶなが》の好敵手《かうてきしゆ》と云《い》ひ得《う》可《べ》き人物《じんぶつ》は、信玄《しんげん》以外《いぐわい》に幾許《いくばく》もなかつた。されば信玄《しんげん》の生存中《せいぞんちう》は、信長《のぶなが》も出來《でき》得《う》る限《かぎ》り、信玄《しんげん》を腫物《はれもの》扱《あつかひ》にして、其《そ》の機嫌《きげん》を損《そん》せざらん※[#「こと」の合字、253-7]を?《つと》めた。已《む》むを得《え》ず斷交《だんかう》となるや、自《みづか》ら其《そ》の鋭鋒《えいほう》を避《さ》けて、成《な》る可《べ》く家康《いへやす》をして、之《これ》に當《あた》らしめた。信玄《しんげん》が三|方原《かたがはら》激戰《げきせん》の翌年《よくねん》に死《し》したのは、信長《のぶなが》に取《と》りては、意外《いぐわい》の僥倖《げうかう》であつたと云《い》はねばならぬ。
信玄《しんげん》は甲斐源氏《かひげんじ》の嫡流《ちやくりう》である、彼《かれ》の家《いへ》は新羅《しんら》三|郎《らう》義光《よしみつ》の後《のち》である。家柄《いへがら》には申分《まをしぶん》はない。父《ちゝ》の信虎《のぶとら》は兇暴《きようばう》であつたと申《まを》すも、凡庸《ぼんよう》ではなかつた。彼《かれ》は駿河《するが》にも、信濃《しなの》にも、屡《しばし》ば兵《へい》を出《いだ》した。信玄《しんげん》の精勁《せいけい》なる士馬《しば》は、其《その》父《ちゝ》に負《お》ふ所《ところ》、少《すくな》くない。但《た》だ彼《かれ》は餘《あま》りに自《みづ》から用《もち》ひて、其《そ》の士民《しみん》を疾《やま》しめたるが爲《た》めに、信玄《しんげん》が今川義元《いまがはよしもと》と相《あひ》謀《はか》りて、體善《ていよ》く彼《かれ》を駿河《するが》に拘留《こうりう》したるに際《さい》しても、甲斐《かひ》の人心《じんしん》は、信玄《しんげん》に謳歌《おうか》したのであらう。
齋藤《さいとう》道《だう》三が其《そ》の嫡子《ちやくし》義龍《よしたつ》を諒解《りやうかい》せざりし如《ごと》く、信虎《のぶとら》も亦《ま》た晴信《はるのぶ》―信玄《しんげん》―を諒解《りやうかい》せなかつた。彼《かれ》は次子《じし》信繁《のぶしげ》を愛《あい》して、廢嫡《はいちやく》せんとした。而《しか》して晴信《はるのぶ》の作爲《さゐ》は、義龍《よしたつ》に比《ひ》すれば、寧《むし》ろ巧妙《かうめう》と云《い》はねばならぬ。何《なん》となれば彼《かれ》は、甲州《かうしう》士民《しみん》の輿望《よぼう》により、今川義元《いまがはよしもと》と妥協《だけふ》の上《うへ》、其《その》父《ちゝ》を駿河《するが》に赴《おもむ》く可《べ》く、納得《なつとく》せしめたからである。義元《よしもと》は信虎《のぶとら》の聟《むこ》で、晴信《はるのぶ》とは、義兄弟《ぎきやうだい》である。義元《よしもと》が何故《なにゆゑ》に志《こゝろざし》を晴信《はるのぶ》と合《あは》せて、其《その》舅《しうと》を駿河《するが》に拘留《こうりう》したかは、其《そ》の動機《どうき》が明白《めいはく》でない。恐《おそ》らくは信虎《のぶとら》よりも、晴信《はるのぶ》が與《く》みし易《やす》しと考《かんが》へて、之《これ》に加擔《かたん》したのであらう。併《しか》し信虎《のぶとら》は駿河《するが》では、義元《よしもと》の死《し》する迄《まで》、お客樣《きやくさま》同樣《どうやう》の待遇《たいぐう》を受《う》けた。晴信《はるのぶ》との關係《くわんけい》も、先《ま》づ以《もつ》て圓滿《ゑんまん》であつた。此《これ》が天文《てんぶん》十|年《ねん》六|月《ぐわつ》の事《こと》であつた。
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此年《このとし》(天文《てんぶん》十|年《ねん》)六|月《ぐわつ》十四|日《か》に、武田大夫殿《たけだだいふどの》、親《おや》の信虎《のぶとら》を、駿河國《するがのくに》へ押《お》し越《こ》し御申《おんまをし》候《そうろう》。餘《あまり》に惡行《あくぎやう》を被[#レ]成候間《なされさふらふあひだ》、かやうに被[#レ]食候《めされさふらふ》。地家侍《ちけざむらひ》、出家《しゆつけ》男女共《なんによとも》に、喜滿足致候事無[#レ]限《よろこびまんぞくいたしさふらふことかぎりなし》。
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是《こ》れ妙法寺記《めうほふじき》の語《かた》る所《ところ》、事情《じじやう》明白《めいはく》ぢや。天文《てんぶん》七|年《ねん》三|月《ぐわつ》、信虎《のぶとら》が晴信《はるのぶ》を、駿河《するが》に拘禁《こうきん》せん爲《た》め、自《みづ》から駿河《するが》に赴《おもむ》きたるを好機《かうき》とし、今川義元《いまがはよしもと》と相《あひ》謀《はか》り、其《その》裏《うら》を掻《か》き、其儘《そのまま》信虎《のぶとら》を駿河《するが》に拘留《こうりう》したりとの、甲陽軍鑑《かふやうぐんかん》の記事《きじ》は、從來《じうらい》の通説《つうせつ》であるが、事實《じじつ》は寧《むし》ろ妙法寺記《めうほふじき》が正確《せいかく》であらう。併《しか》し其《その》父《ちゝ》が納得《なつとく》したにせよ、せぬにせよ、信玄《しんげん》が其《その》父《ちゝ》を追《お》ひ出《いだ》した事《こと》は、事實《じじつ》と云《い》はねばならぬ。但《た》だ國民《こくみん》が信玄《しんげん》に謳歌《おうか》した事實《じじつ》は、此《こ》の問題《もんだい》を判定《はんてい》するに際《さい》し、酌量《しやくりやう》す可《べ》き情状《じやうじやう》であらう。
されど信玄《しんげん》は、義元《よしもと》が想像《さうざう》した通《とほ》り、決《けつ》して與《く》みし易《やす》き漢《をのこ》ではなかつた。彼《かれ》は先《ま》づ信州《しんしう》の諏訪氏《すはし》、小笠原氏《をがさはらし》、木曾氏《きそし》、村上氏《むらかみし》と相《あひ》戰《たゝか》うた。而《しか》して殆《ほと》んど信州《しんしう》の過半《くわはん》を蠶食《さんしよく》し、更《さ》らに兵《へい》を上野《かうづけ》に出《いだ》した。而《しか》して村上義清等《むらかみよしきよら》は、何《いづ》れも越後《ゑちご》の上杉謙信《うへすぎけんしん》を頼?《たよ》りて之《これ》に投《とう》じた。
謙信《けんしん》が信玄《しんげん》と戰《たゝか》うたのは、必《かな》らずしも信濃《しなの》の敗將等《はいしやうら》を援?助《ゑんじよ》する、義侠?心《ぎけふしん》のみではない。若《も》し信州《しんしう》全部《ぜんぶ》が、信玄《しんげん》の手《て》に入《い》るに於《おい》ては、越後《ゑちご》の防禦《ばうぎよ》が危險《きけん》と爲《な》る。されば謙信《けんしん》が兵《へい》を川中島《かはなかじま》に出《いだ》したのは、寧《むし》ろ自衞《じゑい》の必要上《ひつえうじやう》からと云《い》はねばならぬ。謙信《けんしん》も其《その》志《こゝろざし》は上國《じやうこく》に在《あ》つた。信玄《しんげん》は猶更《なほさら》である。然《しか》るに彼等《かれら》が、弘治《こうぢ》元年《ぐわんねん》以來《いらい》、互《たがひ》に相《あひ》爭《あらそ》ひ、遂《つひ》に其《そ》の目的《もくてき》を遂《と》げ得《え》なかつたのは、彼等《かれら》の不幸《ふかう》であると同時《どうじ》に、信長《のぶなが》の幸福《かうふく》と云《い》はねばならぬ。信長《のぶなが》は如何《いか》にも幸運兒《かううんじ》であつた。
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武田信玄代立の事
抑※[#二の字点、1-2-22]父を逐ひたる事の世に傳へられしは、如何なる書なりしかといふに、また『甲陽軍鑑』なり。因てまづ左に軍鑑の原文を抄出せん。
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天文七年戊戌正月元日に、信虎公、子息晴信公へ御盃をつかはされず、次男次郎殿へ御盃をつかはさるゝ、さありて、正月廿日に、板垣信形をもつて、信虎公より嫡子晴信公へ仰つかはさる其旨は、太郎殿事、駿河義元の肝入をもつて、信濃守大膳大夫晴信と名乘申され候間、此上なから、義元へ付そひ、萬事意見を受け、心の至るものゝ機作法もしろしめされ候樣にとの儀なり。晴信公御返事に、ともかくも信虎公御意次第と仰せらる。かさねて飯富兵部御使にて、信虎公仰せらるゝ趣は、當三月より駿河へ晴信御越しありて、一兩年も駿府に於て、よろづ學問し給へとあれば、ゆく/\次郎殿を總領にして、嫡子太郎殿をなかく甲府へ歸しなさるまじとの模樣なり云々、三月九日に、信虎駿河へ御座候、晴信三月末に駿河より一左右次第越たまへと、晴信公を甘利備前守所に預け、次郎殿を御館の留守に置き給ふ。信虎公駿河へ御座候故、晴信衆内々支度なり、然處に板垣信形飯富兵部兩人を晴信公御頼?あり。信虎公甲府を御立有て九日目十七日に逆心なり、殊に駿河義元と内通し給ふ故、少も手間取ることなし、信虎公御供の侍衆、皆妻子を人質に取り給へば、信虎公をすて申、御供の衆、皆甲州へ歸るなり云々。
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即ち信玄は、父信虎がかねてより廢嫡の意あるを知り、その駿河へ往きたるを機とし、内は板垣、飯富の老臣に謀り、外は今川義元に通じて、信虎を拘置し、再び國へ歸らざらしむ。之に原きて、父を逐ひ自立すとの通説出でしなり。
然るに、之を今川義元が送れる當時の書翰に徴すれば、事實大に異り。この文書、伊豆國田方郡畑?毛村西原善右衞門の所藏にして、甲斐國誌にも之を引用して辨ぜり。その文に曰く、
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内々以[#二]使者[#一]可[#レ]令[#レ]申候之所、總印軒可[#レ]參候由承候條、令[#レ]啓候、信虎女中衆之事入[#二]十月之節[#一]、被[#レ]勘[#二]易?[#一]、可[#レ]有[#二]御越[#一]候由、尤もに候、於[#二]此方[#一]も可申付候、(中略)就[#レ]中信虎御隱居の事、去六月雪齋並岡部美濃守進候刻、御合點の儀に候、漸向[#二]寒氣[#一]候、毎年御不辨心痛候、一日も早被[#二]仰付[#一]、員數等具に承候はゞ、彼の御方へ可[#レ]有[#二]心得[#一]候旨、可[#二]申屆[#一]候、猶總印軒口上可[#二]申述[#一]候、恐々謹言
九月廿三日 義 元 華押
甲府へ參
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之に據りて觀れば、信虎が駿河へ退隱せしは、自諾に出づるものにして、決して從來傳ふるが如く、信玄が苛酷に逆心のために、逐ひ出せしにあらざるや明なり。〔武田信玄事蹟考〕
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【五〇】信長と信玄の關係
甲斐《かひ》の武田《たけだ》、小田原《をだはら》の北條《ほうでう》、越後《ゑちご》の上杉《うへすぎ》、駿河《するが》の今川《いまがは》、此《こ》の四|家《け》は、何《いづ》れも互角《ごかく》の勢力《せいりよく》であつた。然《しか》るに武田《たけだ》と今川《いまがは》とは、信玄《しんげん》、義元《よしもと》の時代《じだい》を始終《ししう》して、與國《よこく》であつた。北條《ほうでう》と今川《いまがは》とは、屡《しばし》ば戰《たゝか》うたが、信玄《しんげん》の肝煎《きもいり》にて、二|氏《し》を調停《てうてい》した。彼《かれ》は天文《てんぶん》廿一|年《ねん》に、其《そ》の長子《ちやうし》義信《よしのぶ》の爲《た》めに、義元《よしもと》の女《むすめ》を聘《へい》し、今川家《いまがはけ》と重縁《ぢうえん》を結《むす》んだ。而《しか》して軈《やが》て其《その》女《むすめ》を氏康《うぢやす》の子《こ》氏政《うぢまさ》に嫁《か》せしめ、又《ま》た氏康《うぢやす》の女《むすめ》を義元《よしもと》の子《こ》氏眞《うぢざね》に配《はい》せしめ、武田《たけだ》、今川《いまがは》、北條《ほうでう》の三|家《け》同盟《どうめい》が出來《でき》た。此《こ》れには今川家《いまがはけ》の謀主《ぼうしゆ》、雪齋長老等《せつさいちやうらうら》の斡旋《あつせん》與《あづか》りて、力《ちから》あるも、亦《ま》た信玄《しんげん》の外交的《ぐわいかうてき》經綸《けいりん》に基《もとづ》くものと、推定《すゐてい》す可《べ》き理由《りいう》がある。兎《と》に角《かく》信玄《しんげん》は、武略《ぶりやく》に於《おい》ても、天下無双《てんかむさう》であつたが、外交《ぐわいかう》にかけても、頗《すこぶ》る卓越《たくゑつ》したる眼識《がんしき》と、手腕《しゆわん》とを具有《ぐいう》した。
信長《のぶなが》の義元《よしもと》に?《か》ちたるは、彼《かれ》をして此《こ》の強敵《がうてき》と、料《はか》らずも接近《せつきん》せしむる※[#「こと」の合字、259-3]となつた。而《しか》して其《そ》の美濃《みの》を討平《たうへい》したる※[#「こと」の合字、259-4]は、更《さ》らに一|層?《そう》接觸《せつしよく》せしむる※[#「こと」の合字、259-4]となつた。何《なん》となれば、美濃《みの》と、信濃《しなの》とは、境土《きやうど》相《あひ》接《せつ》するからである。されば信長《のぶなが》にして、速《すみや》かに志《こゝろざし》を天下《てんか》に伸《の》べんとするからには、信玄《しんげん》に向《むか》つて、辭《じ》を卑《ひく》くし、禮《れい》を厚《あつ》うして、其《そ》の歓?心《くわんしん》を繋《つな》ぎたるは、當然《たうぜん》の事《こと》ぢや。
信玄《しんげん》には、謙信《けんしん》程《ほど》の無邪氣《むじやき》なる浮?誇?心《ふくわしん》はない。されど虎《とら》は其《その》尾《を》を?《う》つ可《べ》く、牛《うし》は其《その》角《つの》に觸《ふ》る可《べ》し。信玄《しんげん》たりとて人間《にんげん》なれば、彼《かれ》に取《と》り入《い》る手段《しゆだん》はないでもない。彼《かれ》は信玄《しんげん》を老功《らうこう》の名將《めいしやう》として、只管《ひたす》ら尊仰《そんかう》した。彼《かれ》は從來《じうらい》武田家《たけだけ》に仕《つか》へたる織田掃部助《おだかもんのすけ》なる、辯士《べんし》を遣《つか》はして、殷勤《いんぎん》を通《つう》じた。
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或時《あるとき》信玄《しんげん》申《まを》すは、信長《のぶなが》は信實《しんじつ》の深《ふか》き者《もの》也《なり》。某《それがし》が方《かた》へ度々《たび/\》の音物《いんもつ》を送《おく》るに、もし謀計《ぼうけい》の爲《た》めかと思《おも》ひ、念《ねん》を入《い》れて、ためし見《み》るに、一かわの思《おも》ひ入《い》れならば、音物《いんもつ》の見《み》ゆる所《ところ》ばかり、結構《けつこう》に拵《こしら》へ、内證?相《ないしようそさう》ならんに、某《それがし》が方《かた》へ呉服《ごふく》頭巾《づきん》を入《い》れて越《こ》したる、塗箱《ぬりばこ》削《けづ》らせ見《み》れば、皆《みな》堅地《かたぢ》にこしらへて、糊地《のりぢ》なるは一つもなし。加樣《かやう》に底《そこ》から底《そこ》まで、念《ねん》を入《い》れて拵《こしら》へる事《こと》は、眞實《しんじつ》に無《な》くてはならぬ者《もの》也《なり》。皆々《みな/\》若侍《わかざむらひ》ども能《よ》く見置《みおき》て手本《てほん》にせよ。〔總見記〕
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果《はた》して此《この》通《とほ》りであれば、信玄《しんげん》も隨分《すゐぶん》鼻毛《はなげ》が長《なが》いと云《い》はねばならぬ。然《しか》も信玄《しんげん》の鼻毛《はなげ》の長《なが》きよりも、信長《のぶなが》の用意《ようい》の周到《しうたう》なるが、寧《むし》ろ驚《おどろ》かるゝではない乎《か》。兎《と》も角《かく》も彼《かれ》は、永祿《えいろく》八|年《ねん》九|月《ぐわつ》冬《ふゆ》、信玄《しんげん》の次男《じなん》勝頼《かつより》に、其《そ》の養女《やうぢよ》を嫁《か》せしめん※[#「こと」の合字、260-7]を申《まを》し込《こ》み、同《どう》十二|月《ぐわつ》に入輿《じゆよ》せしめた。
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十二|月《ぐわつ》十三|日《にち》、織田信長《おだのぶなが》の養女《やうぢよ》、甲陽《かふやう》に入輿《じゆよ》、諏訪《すは》四|郎《らう》勝頼《かつ?より》に嫁《か》す。……當春《たうしゆん》信玄《しんげん》嫡男《ちやくなん》義信《よしのぶ》を廢《はい》し、其《その》母《はゝ》の寵《ちよう》に依《よつ》て、勝頼《かつより》嗣《し》とならん※[#「こと」の合字、260-10]を察《さつ》し、忽《たちま》ち其《その》妹婿《いもうとむこ》苗木《なへき》の遠山勘太郎《とほやまかんたらう》が女《むすめ》を養《やしな》つて勝頼《かつより》に配偶《はいぐう》を求《もと》む。〔武徳編年集成〕
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勝頼《かつより》が、果《はた》して信玄《しんげん》の後嗣《こうし》となるを當《あ》て込《こみ》ての結婚《けつこん》なるや、否《いな》やは別《べつ》として、信長《のぶなが》が信玄《しんげん》の歓?心《くわんしん》を求《もと》むるに汲々《きふ/\》たるの状《じやう》、想《おも》ひ見《み》る可《べ》しだ。同《どう》十|年《ねん》、夫人《ふじん》は一|子《し》を産《さん》した、此《こ》れが武田家《たけだけ》の家督《かとく》を相續《さうぞく》す可《べ》き、信勝《のぶかつ》である。然《しか》るに勝頼《かつより》の夫人《ふじん》産後《さんご》に逝《ゆ》いた、信長《のぶなが》は此《こゝ》に於《おい》て、其《そ》の嫡子《ちやくし》奇妙丸《きめうまる》(信忠《のぶたゞ》)の爲《た》めに、信玄《しんげん》の女《むすめ》を配《はい》せん※[#「こと」の合字、261-3]を請《こ》うた。信玄《しんげん》は又《ま》た之《これ》を欣諾《きんだく》した。
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同年《どうねん》(永祿《えいろく》十|年《ねん》)十二|月《ぐわつ》信長公《のぶながこう》より結入《むすびい》れの御進物《ごしんもつ》あり。先《ま》づ信玄《しんげん》へは虎《とら》の皮《かは》豹《へう》の皮《かは》各《かく》五|枚《まい》、緞子《どんす》百|卷《まき》、金具《きんぐ》の鞍《くら》鐙《あぶみ》各《かく》十|口《くち》、同《どう》契約《けいやく》の息女《そくぢよ》菊《きく》の御方《おんかた》へ厚板《あついた》、薄板《うすいた》、緯白織《よこしろおり》、紅梅《こうばい》各《かく》百|端宛《たんづゝ》、合《がつ》して四百|端《たん》、けかけの帶《おび》上中下《じやうちうげ》三百|筋《すぢ》、代物《しろもの》千|貫《ぐわん》進《しん》ぜられ、何《いづ》れも樽肴《たるさかな》は常《つね》の如《ごと》し。〔總見記〕
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信長《のぶなが》の贈遺《ぞうゐ》も、却々《なか/\》鄭重《ていちよう》と云《い》はねばならぬ。
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翌年《よくねん》の六|月《ぐわつ》、信玄《しんげん》より返禮《へんれい》の使者《ししや》あり。進物《しんもつ》は信長公《のぶながこう》へ蝋?燭《らふそく》三千|梃《ちやう》、漆《うるし》千|桶《をけ》、熊《くま》の皮《かは》千|枚《まい》、馬《うま》十一|疋《ぴき》、内《うち》一|疋《ぴき》關東《くわんとう》宇津《うつ》の宮《みや》より請《こひ》得《え》たる鬼河原毛《おにかはらげ》と云《い》ふ名馬《めいば》なり。其外《そのほか》樽肴《たるさかな》は式正《しきせい》の如《こ?と》し。奇妙《きめう》御曹司《おんざうし》方《かた》へ、同《おなじ》く式正《しきせい》の樽肴《たるさかな》、松倉郷《まつくらがうの》義弘《よしひろ》の御刀《おんかたな》、大左文字《だいさもんじ》安吉《やすよし》の御脇指《おんわきざし》、紅《べに》千|斤《ぎん》、綿《わた》千|把《ば》、馬《うま》十|疋《ぴき》の内《うち》一|疋《ぴき》は、奧州《あうしう》會津《あひづ》黒?《くろ》の名馬《めいば》也《なり》。〔總見記〕
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信玄《しんげん》は其《そ》の一|族《ぞく》秋山晴近《あきやまはるちか》を使者《ししや》とした。信長《のぶなが》は七五三の饗應《きやうおう》、七|献《こん》の盃《さかづき》、七|度《ど》の引出物《ひきでもの》等《とう》、饗應《きやうおう》殘《のこ》る隈《くま》なかつた。自《みづか》ら長良川《ながらがは》の鮎獵《あゆれふ》に案内《あんない》し、其《その》鮎《あゆ》を信玄《しんげん》に贈《おく》つた。此《かく》の如《ごと》くして信玄《しんげん》と、信長《のぶなが》の關係《くわんけい》は、當分《たうぶん》良好《りやうかう》であつた。而《しか》して此《この》年《とし》が則《すなは》ち、彼《かれ》が正親町天皇《おほぎまちてんわう》の内旨《ないし》を拜《はい》した翌年《よくねん》であつた。信長《のぶなが》が果《はた》して信玄《しんげん》を瞞《まん》し得《え》たのである乎《か》、信玄《しんげん》も瞞《まん》せられたる風情《ふぜい》で、當分《たうぶん》其《そ》の時節《じせつ》の到來《たうらい》を待《まつ》て居《ゐ》たのである乎《か》。兎《と》も角《かく》も信長《のぶなが》は、信玄《しんげん》よりも、地《ち》の利《り》に於《おい》て、先著《せんちやく》の便《べん》を占《し》めた。而《しか》して彼《かれ》は外交政略《ぐか?いかうせいりやく》で、信玄《しんげん》を繋《つな》ぎつゝ、獨《ひと》り專《もつぱ》ら此《この》便《べん》を利用《りよう》した。
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甲州法度之次第
一國中地頭人等不[#レ]申[#二]子細[#一]、恣稱?[#二]罪科之蹟[#一]私令[#二]沒收[#一]條、甚以自由之至也。若犯科人等、爲[#二]晴信被官者[#一]、不[#レ]可[#レ]有[#二]地頭綺[#一]、田畠之事者、如[#二]下知[#一]可[#レ]出[#二]別人[#一]、年貢諸役等、地頭速可[#二]辨償[#一]、至[#二]恩地[#一]者不[#レ]及[#二]書載[#一]、次在家?妻子資財之事者、如[#二]定法[#一]職可[#レ]渡[#レ]之。
一出[#二]公事沙汰場[#一]後、奉行人之外不[#レ]可[#レ]致[#二]披露[#一]、况於[#二]落著?之儀[#一]哉、若又未[#レ]出[#二]沙汰場[#一]以前者、雖[#レ]爲[#二]奉行人外[#一]、不[#レ]及[#レ]禁[#レ]之歟。
一不[#レ]得[#二]内儀[#一]、而他國遣[#二]音物書札[#一]事、一向令[#レ]停[#二]止之[#一]畢、但信州在國人、爲[#二]謀略[#一]一國中通用者、無[#二]是非[#一]次第也。若境目之人、日來通[#二]書状?[#一]來者、不[#レ]及[#レ]禁[#レ]之歟。
一他國結[#二]縁嫁[#一]、或取[#二]所領[#一]、或出[#二]被官[#一]、契約之條、甚以爲[#二]違犯之基[#一]歟。堅可[#レ]禁[#レ]之、若有[#下]背[#二]此旨[#一]輩[#上]、可[#レ]加[#二]炳誠[#一]者也。
一札狼藉田畠之事、於[#二]年貢地[#一]者、可[#レ]爲[#二]地頭之計[#一]、至[#二]恩地[#一]、以[#二]下知[#一]可[#レ]定[#レ]之、但就[#二]貢物等之儀[#一]者、隨[#二]分限[#一]可[#二]有其沙汰[#一]。
一百姓抑[#二]留年貢[#一]之事、罪科不[#レ]輕、於[#二]百姓地[#一]者、任[#二]地頭覺悟[#一]、可[#レ]令[#二]所務[#一]、若有[#二]非分之儀[#一]者、以[#二]檢使[#一]可[#レ]改[#レ]之。
一名田地無[#二]意趣[#一]取放之事、非法之至也。但年貢等、有[#二]過分無沙汰[#一]、剩至[#二]兩年[#一]者、不[#レ]及[#二]是非[#一]。
一山野之地、就[#二]打起[#一]四至榜示、論[#レ]境者、糺[#二]明本蹟[#一]可[#レ]定[#レ]之、若又依[#二]舊境[#一]、不[#レ]及[#二]分別[#一]者、可[#レ]爲[#二]中分[#一]、此上猶有[#二]諍論[#一]之族者、可[#レ]附[#二]別人[#一]。
一有[#二]地頭申旨[#一]下[#二]田札[#一]之處、無[#二]其斷[#一]至[#レ]捨[#二]作毛[#一]者、從[#二]翌年[#一]彼田地任[#二]地頭覺悟[#一]可[#二]相計[#一]、乍[#レ]去雖[#レ]不[#レ]刈[#二]取作毛[#一]、令[#レ]辨[#二]濟?年貢[#一]者、不[#レ]可[#レ]有[#二]別條[#一]、兼又於[#二]地頭非分[#一]者、知行半分可[#二]召上[#一]者也。
一各々恩地之事、自然雖[#レ]有[#二]水旱兩損[#一]、不[#レ]可[#レ]望[#二]替地[#一]、隨[#二]分量[#一]、可[#レ]致[#二]奉公[#一]、雖[#レ]然於[#下]抽[#二]忠節[#一]輩[#上]者、相當之地可[#レ]充[#二]給之[#一]。
一抱[#二]恩地[#一]人、天文辛丑以前十箇年、地頭夫公事無[#レ]勤者、不[#レ]及[#レ]改[#レ]之、但及[#二]九年[#一]者、隨[#二]事體[#一]可[#レ]加[#二]下知[#一]也。
一私領名田之外、恩地地頭無[#二]左右[#一]、令[#二]沽却[#一]事、停[#二]止之[#一]畢。雖[#レ]如[#二]此制[#一]、無[#レ]據者言[#二]上子細[#一]、定[#二]年期[#一]、可[#レ]令[#二]賣買[#一]之事。
一百姓出之處、於[#二]陣中[#一]被[#レ]殺者、彼主其砌三十箇日、可[#レ]令[#二]免許[#一]、然而如[#二]前々[#一]、可[#レ]出[#レ]夫、荷物失却之事者、不[#レ]及[#レ]改[#レ]之。次夫逐電之上、爲[#レ]不[#レ]屆[#二]本主人[#一]、令[#二]許容[#一]者、縱雖[#レ]經[#二]數年[#一]、難[#レ]免[#二]罪科[#一]。
付夫無[#二]指咎[#一]主人及[#二]殺害[#一]者、其地頭十箇年之間、右夫不[#レ]可[#レ]勤[#レ]之。
一親類被官私令[#二]誓約[#一]之條、可[#下]爲[#二]逆心[#一]同前[#上]、但於[#二]戰場之上[#一]、爲[#レ]勵[#二]忠節[#一]致[#二]盟約[#一]歟。
一譜代之被官、他人召仕之時、本主見合捕[#レ]之事、停[#二]止之[#一]畢。斷[#二]旨趣[#一]而可[#レ]請[#二]取之[#一]、兼又主人聞傳相屆之處、當主人領掌之上、令[#二]逐電[#一]者、以[#二]自餘者[#一]一人、可[#レ]辨[#レ]之、奴婢雜人之事者、無[#二]其沙汰[#一]、過[#二]十箇年[#一]者、任[#二]式目[#一]不[#レ]改[#レ]之。
一奴婢逐電之以後、自然於[#二]路頭[#一]見合、欲[#レ]糺[#二]當主人[#一]、本主私宅召連之事、非法之至歟。先當主人方可[#二]返置[#一]、但依[#二]境遙[#一]其理遲延之事、五三日迄者、不[#レ]可[#レ]苦歟。
一喧嘩之事不[#レ]及[#二]是非[#一]、可[#レ]加[#二]成敗[#一]。但雖[#二]取懸[#一]於[#下]令[#二]勘忍[#一]輩[#上]者、不[#レ]可[#レ]處[#二]罪科[#一]。然以[#二]贔屓偏頗[#一]令[#二]合力[#一]族者、不[#レ]論[#二]理非[#一]可[#レ]爲[#二]同科[#一]。若不慮犯[#二]殺害刄傷[#一]者、妻子家内之輩者、不[#レ]可[#レ]有[#二]相違[#一]。但科人令[#二]逐電[#一]者、縱雖[#レ]爲[#二]不慮之儀[#一]、先召[#二]置妻子[#一]、於[#二]當府[#一]可[#レ]相[#二]尋子細[#一]。
一被官人之喧嘩?盜賊等之事、不[#レ]可[#レ]懸[#二]主人[#一]之事勿論也。雖[#レ]然欲[#レ]糺[#二]實否[#一]之處、件之主人無[#レ]科之由頻陳申、相抱之半令[#二]逐電[#一]者、主人之所帶三個一可[#二]沒收[#一]。無[#二]所帶[#一]者可[#レ]處[#二]流罪[#一]。
一無[#二]意趣[#一]而嫌[#二]寄親[#一]事自由之至也。於[#下]如[#レ]然族[#上]者、自今以後理不盡之儀定出來歟。但寄親非分無[#二]際限[#一]者、以[#二]懈状[#一]可[#二]訴訟[#一]。
一耽[#二]亂舞、遊宴、野牧、河狩等[#一]、不[#レ]可[#レ]忘[#二]武道[#一]。天下戰國之上者、抛[#二]諸事[#一]武具之用意可[#レ]爲[#二]肝要[#一]。
一川流木?橋之事、於[#二]于木[#一]者如[#二]前々[#一]可[#レ]取[#レ]之。至[#二]于橋[#一]者木?所可[#二]返置[#一]。
一淨土宗日蓮黨於[#二]分國[#一]不[#レ]可[#レ]有[#二]法論[#一]。若有[#二]取持人[#一]者、師檀共可[#レ]處[#二]罪科[#一]。
一被官出仕座席之事、一兩人定置之上者、更不[#レ]可[#レ]論[#レ]之。惣別非[#二]戰場[#一]而諍[#二]意趣[#一]事、却而比興之次第也。
一於[#下]出[#二]沙汰[#一]輩[#上]者可[#レ]待[#二]裁許[#一]之處、相論之半不[#レ]決[#二]理非[#一]、致[#二]狼藉[#一]之條非[#レ]無[#二]越度[#一]。然者不[#レ]及[#二]善惡[#一]可[#レ]附[#二]論所於敵人[#一]。
一童部誤殺[#二]害朋友等[#一]者、不[#レ]可[#レ]及[#二]成敗[#一]。但於[#二]十三以後之輩[#一]者、難[#レ]遁[#二]其咎[#一]。
?ルビのよう?サシオキ
一閣[#二]本奏者[#一]就[#二]別人[#一]企[#二]訴訟[#一]、又望[#二]他寄子[#一]條、奸濫之至也。自今以後可[#レ]停[#二]止之[#一]旨、具以載[#二]先條[#一]畢。
一自分之訴訟、直不[#レ]可[#レ]致[#二]披露[#一]。就[#二]寄子訴訟[#一]可[#レ]致[#二]奏者[#一]事勿論也、雖[#レ]然依[#二]時宜[#一]可[#レ]有[#二]遠慮[#一]歟。沙汰之日事如[#レ]載[#二]先條[#一]。寄子、親類、縁家等申趣、一切可[#二]禁遏[#一]。
一縱雖[#レ]任[#二]其職[#一]分國諸法度之事者、不[#レ]可[#レ]令[#二]違犯[#一]。雖[#レ]爲[#二]細事之儀[#一]不[#レ]致[#二]披露[#一]、恣執行者可[#レ]令[#レ]改[#二]易彼職[#一]。
一近習之輩於[#二]番所[#一]、縱雖[#レ]爲[#二]留守[#一]、世間之是非並餘聲、可[#レ]令[#レ]停[#二]止之[#一]。
一他人養子之事達[#二]奏者[#一]、遺跡印判可[#二]申請[#一]。然而後父令[#二]死去[#一]者、縱雖[#レ]有[#二]實子[#一]不[#レ]能[#二]叙用[#一]。但對[#二]繼母[#一]爲[#二]不幸[#一]者可[#二]?還[#一]。次恩地之外田畠資用雜具等之儀者、可[#レ]任[#二]亡父讓状[#一]。
一棟別法度之事、既以[#二]日記[#一]其郷中相渡之上者、雖[#レ]爲[#下]或令[#二]逐電[#一]或死去[#上]、於[#二]其郷中[#一]速可[#レ]致[#二]辨償[#一]。爲[#レ]其不[#レ]改[#二]新屋[#一]。
一他郷有[#二]移家[#一]人者、追而可[#レ]執[#二]棟役錢[#一]事。
一其身或賣[#レ]家或賣[#二]田地[#一]國中徘徊者、何方迄茂追可[#レ]取[#二]棟別錢[#一]。雖[#レ]然其身一錢之無[#二]料簡[#一]者、其屋敷拘人可[#レ]濟[#レ]之。但於[#二]屋敷貳百匹内[#一]者、隨[#二]其分量[#一]可[#レ]有[#二]其沙汰[#一]。自餘者郷中令[#二]一統[#一]可[#レ]償[#レ]之。縱雖[#レ]爲[#二]他人之屋敷[#一]、同家屋敷相拘付而者、不[#レ]及[#二]是非[#一]歟。
一棟別詫言一向停止畢。但或逐電死去之者就[#レ]有[#二]數多[#一]、及[#二]棟別錢一倍[#一]者可[#二]披露[#一]。糺[#二]實否[#一]以[#二]寛宥之儀[#一]、隨[#二]其分限[#一]可[#レ]令[#二]免許[#一]。
一惡黨成敗家之事者、不[#レ]及[#二]是非[#一]。
一川流家之事、以[#二]新屋[#一]可[#レ]致[#二]其償[#一]。無[#二]新屋[#一]者、郷中令[#二]同心[#一]可[#レ]辨[#二]濟之[#一]。若|流事至[#二]十間[#一]《ナガルゝコト》者、不[#レ]及[#レ]改也。
付死去跡之事者、可[#レ]准[#レ]右。
一借錢法度之事、無沙汰人之田地從[#二]諸方[#一]相押之事、以[#二]先札[#一]可[#レ]用[#レ]之。但借状至[#二]無[#レ]紛者[#一]、其方可[#二]落着[#一]。
一同田畠等方々書入借状之事、可[#レ]用[#二]先状[#一]。雖[#レ]然至[#二]謀書謀反[#一]者、可[#レ]處[#二]罪科[#一]。
一親之負?物、其子可[#二]相濟[#一]事勿論也。子之負?物、親方不[#レ]可[#レ]掛[#レ]之。但親借状令[#二]加筆[#一]者、可[#レ]有[#二]其沙汰[#一]。若又就[#二]早世[#一]、親至[#レ]拘[#二]其遺跡[#一]者、雖[#レ]爲[#二]逆儀[#一]、子之負?物可[#レ]相[#二]濟之[#一]。
一負?物人或號[#二]遁世[#一]、或號[#二]逐電[#一]、分國令[#二]徘徊[#一]事、罪科不[#レ]輕者、於[#二]許容之族[#一]者、彼負?物可[#二]辨濟[#一]。但賣[#レ]身奴婢等之事者、可[#レ]任[#二]先例[#一]。
一惡錢之事、立[#二]市中之外[#一]不[#レ]可[#レ]選[#レ]之。
一載[#二]恩地於借状[#一]事、無[#二]披露[#一]不[#レ]可[#レ]請[#二]取之[#一]。其上以[#二]印判[#一]可[#レ]相[#二]定之[#一]。若彼所領主令[#二]逐電[#一]者、隨[#二]事體[#一]可[#レ]有[#二]其沙汰[#一]。過[#二]年期[#一]者擧[#二]先判[#一]、若依[#二]佗言[#一]就[#二]出置[#一]者、恩役等可[#レ]相[#二]勤之[#一]。
一逐電人之田地取[#二]借錢之方[#一]者、年貢夫公事以下地頭速可[#レ]辨[#二]濟之[#一]。但地頭負?物相濟者、彼田地可[#二]相渡[#一]。
一穀米負?物不[#レ]可[#レ]懸[#レ]之、但作人構[#二]虚言[#一]者、縱雖[#レ]絶[#二]年月[#一]可[#レ]處[#二]罪科[#一]。
一負?物人有[#二]死去[#一]者、正[#二]口入人之名判[#一]、其方可[#二]催促[#一]。
一以[#二]連判[#一]就[#レ]致[#二]借錢[#一]者、若彼人數之内令[#二]逐電[#一]、或死去者、縱雖[#レ]爲[#二]一人[#一]可[#レ]辨[#二]償之[#一]。
一相當之質物之儀者如[#レ]定。若過分之質物、以[#二]少分[#一]取[#レ]之者、縱雖[#レ]過[#二]兼約之期[#一]、聊爾不[#レ]可[#二]沽却[#一]。利潤之勘定至[#レ]無[#二]損亡[#一]者、五三月相待頻加[#二]催促[#一]、其上猶令[#二]無沙汰[#一]者、以[#二]證人[#一]可[#レ]賣[#レ]之。
一負?物之分、定[#二]年期[#一]渡[#二]田畠[#一]、又者書[#二]加士貢分量[#一]、欲[#レ]令[#二]沽却[#一]田畠者、賣人併買人、其地頭主人可[#二]相屆[#一]。無[#二]其儀[#一]上、或依[#二]折檻[#一]主人取[#二]放之[#一]、或有[#二]子細[#一]地頭改[#レ]之時、縱買人雖[#レ]帶[#二]負?物人之借状[#一]不[#レ]能[#二]信用[#一]。
一米穀借用之事、至[#二]一倍[#一]者、頻可[#レ]加[#二]催促[#一]。此上猶令[#二]難澁[#一]者、可[#レ]有[#二]其過怠[#一]。自然地下人等之借錢之處輕[#二]下輩[#一]、負?物人令[#二]無沙汰[#一]者可[#二]披露[#一]。是又右同前。
一藏主就[#二]逐電[#一]者、以[#二]日記[#一]相調。至[#二]錢不足[#一]者、其田地屋敷可[#二]取上[#一]。但永代之借状於[#二]二傳[#一]者、不[#レ]可[#レ]懸[#レ]之。年期地之事者、可[#レ]有[#二]其沙汰[#一]。年貢夫公事等者、當地頭速可[#レ]勤[#レ]之。
付借錢經[#二]年期[#一]者、負?物不[#レ]可[#レ]懸[#レ]之。
一?宜併山伏等之事者、不[#レ]可[#レ]頼?[#二]主人[#一]。若背[#二]此旨[#一]者、分國徘徊可[#レ]停[#二]止之[#一]。
一譜代被官不[#レ]屆[#二]主人[#一]而募[#二]權威[#一]、出[#二]子於他人之被官[#一]、剩田畠悉讓與事、自今以後令[#二]停止[#一]畢。但就[#レ]出[#二]嫡子[#一]於[#二]本主人[#一]者、自餘之子之事不[#レ]能[#二]禁制[#一]。
一百姓年貢夫公事以下無沙汰之時、取[#二]質物[#一]無[#二]其斷[#一]令[#二]分散[#一]之條、非據之至也。然而定[#二]年月[#一]、過[#二]其期[#一]者、不[#レ]及[#二]禁止[#一]。
於[#二]晴信[#一]形儀其外法度以下有[#二]旨趣相違之事[#一]者、不[#レ]撰[#二]貴賤[#一]、以[#二]?目安、可[#レ]申、依[#二]時宜[#一]可[#二]其覺悟[#一]者也。
右五十五箇條者、天文十六丁未年六月定[#二]置之[#一]畢。
一定[#二]年期[#一]之田畠、限[#二]十箇年[#一]、以[#二]敷錢[#一]可[#レ]合[#二]請取[#一]。彼主依[#二]貧困[#一]出無[#二]資用[#一]者、猶加[#二]十箇年[#一]可[#二]相待[#一]。過[#二]其期[#一]者可[#レ]任[#二]買人心[#一]。自餘之年期之積者、可[#レ]准[#レ]右。
一百姓有[#二]隱田[#一]者、雖[#レ]經[#二]數十年[#一]、任[#二]地頭之見聞[#一]可[#レ]改[#レ]之。然而百姓有[#二]申旨[#一]者、及[#二]對決[#一]、猶以不[#二]分明[#一]者、遣[#二]實檢使[#一]可[#レ]定[#レ]之。若地頭有[#二]非分[#一]者、可[#レ]有[#二]其過怠[#一]矣。
追加二箇條者、天文二十三甲寅年五月定[#レ]之畢。
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【五一】上杉謙信
信玄《しんげん》を語《かた》れば、勢《いきほ》ひ謙信《けんしん》にも及《およ》ばねばならぬ。兩人《りやうにん》は殆《ほと》んど總《すべ》ての點《てん》に於《おい》て、反照的《はんせうてき》一|對《つゐ》である。信玄《しんげん》が史的《してき》不人氣男《ふにんきをとこ》である如《ごと》く、謙信《けんしん》は史的《してき》人氣男《にんきをとこ》である。ョ山陽《らいさんやう》が謙信《けんしん》を詠《えい》じて『老賊齊[#レ]名長惜[#レ]君』と云《い》ひし一|句《く》は、恐《おそ》らくは世間《せけん》多數者《たすうしや》の意見《いけん》を、代表《だいへう》したものであらう。併《しか》し信玄《しんげん》其人《そのひと》をして、心底《しんてい》を吐《は》かしめば、乃公《だいこう》を謙信輩《けんしんはい》と同列《どうれつ》に取扱《とりあつか》ふは、難有迷惑《ありがためいわく》ぢやと云《い》ふやも、未《いま》だ知《し》る可《べ》からずだ。
信玄《しんげん》にョ朝《よりとも》の苦味《にがみ》があれば、謙信《けんしん》には義經《よしつね》の甘味《あまみ》がある。何《いづ》れにしても謙信《けんしん》は、戰國時代《せんごくじだい》の産物《さんぶつ》として、特殊《とくしゆ》の性格《せいかく》を發揮《はつき》したる、快男兒《くわいだんじ》である。彼《かれ》は軍事上《ぐんじじやう》の天才《てんさい》であつた、彼《かれ》は直覺的《ちよくかくてき》の英雄《えいゆう》であつた、彼《かれ》の英風《えいふう》は四|邊《へん》を拂《はら》うた、彼《かれ》は長短《ちやうたん》與《とも》に大《だい》なる小兒《せうに》であつた。彼《かれ》は日本男兒《にほんだんじ》に期待《きたい》す可《べ》き、多《おほ》くの美《び》なる性格《せいかく》を、具有《ぐいう》して居《ゐ》た。
謙信《けんしん》は享祿《きやうろく》三|年《ねん》正月《しやうぐわつ》二十一|日《にち》、越後《ゑちご》の春日山城《かすがやまじやう》に生《うま》れた。彼《かれ》は信玄《しんげん》には九|歳《さい》の弟《おとうと》にして、信長《のぶなが》には四|歳《さい》の兄《あに》である。彼《かれ》の家《いへ》長尾氏《ながをし》は、關東《くわんとう》八|平氏《へいし》の一で、上杉氏《うへすぎし》の被官《ひくわん》であつた。彼《かれ》の父《ちゝ》は長尾爲景《ながをためかげ》で、越後《ゑちご》の守護代《しゆごだい》で、守護職《しゆごしよく》の上杉氏《うへすぎし》を排し《はい》し、自《みづ》から其《そ》の權《けん》を專《もつぱ》らにし、天文《てんぶん》五|年《ねん》に逝《ゆ》いた。爲景《ためかげ》は正《まさ》しく、地方的《ちはうてき》豪俊《がうしゆん》の一であつた。時《とき》に謙信《けんしん》七|歳《さい》。彼《かれ》は二|男《なん》で、兄《あに》晴景《はるかげ》が家《いへ》を紹《つ》いだ。然《しか》も晴景《はるかげ》は優柔《いうじう》の性《せい》で、反覆《はんぷく》恒《つね》なき領内《りやうない》の人心《じんしん》を統《とう》一し、四|境《きやう》の外《ほか》に、威勢《ゐせい》を張《は》るの器《うつは》でなかつた。實力《じつりよく》の存《そん》する所《ところ》、即《すなは》ち是《こ》れ衆心《しうしん》の歸《き》する所《ところ》。謙信《けんしん》が其《その》兄《あに》の位置《ゐち》を、奪《うば》うたと云《い》ふよりも、周圍《しうゐ》の事情《じじやう》は、謙信《けんしん》兄弟《きやうだい》をして、互《たが》ひに干戈《かんくわ》に訴《うつた》へしめ、遂《つひ》に其《その》兄《あに》に取《と》りて、之《これ》に代《かは》らしめたのであらう。兎《と》も角《かく》も天文《てんぶん》十七|年《ねん》、彼《かれ》は十九|歳《さい》の時《とき》、兄《あに》晴景《はるかげ》に代《かは》りて、春日山城主《かすがやまじやうしゆ》となつた。此《こ》れが父《ちゝ》爲景《ためかげ》の死後《しご》、十三|年目《ねんめ》の事《こと》であつた。
越後《ゑちご》は京都《きやうと》との距離《きより》に於《おい》て、小田原《をだはら》の北條氏康《ほうでううぢやす》よりも、甲斐《かひ》の武田信玄《たけだしんげん》よりも、より多《おほ》く遠隔《ゑんかく》の地《ち》にあつた。然《しか》るに彼等《かれら》は、未《いま》だ一|回《くわい》だも、上京《じやうきやう》せずして止《や》みしに、謙信《けんしん》は天文《てんぶん》廿二|年《ねん》、二十四|歳《さい》の時《とき》に上京《じやうきやう》し、將軍義輝《しやうぐんよしてる》に謁《えつ》し、後奈良天皇《ごならてんわう》の天盃《てんばい》と、御劍《ぎよけん》を拜受《はいじゆ》し。更《さ》らに永祿《えいろく》二|年《ねん》、三十|歳《さい》の時《とき》、再《ふたゝ》び上京《じやうきやう》し、正親町天皇《おほぎまちてんわう》に拜謁《はいえつ》し。將軍義輝《しやうぐんよしてる》の内議《ないぎ》に參《さん》した。彼《かれ》が兩度《りやうど》の上京《じやうきやう》は、必《かなら》ずしも觀光《くわんくわう》の爲《た》めのみとは思《おも》はれぬ。彼《かれ》の志《こゝろざし》や、決《けつ》して北陸《ほくろく》に負嵎《ふぐう》して居《を》るのみにては、滿足《まんぞく》が出來《でき》なかつたであらう。天子《てんし》を擁《よう》し、將軍《しやうぐん》を挾《さしはさ》んで、威令《ゐれい》を天下《てんか》に布《し》くは、彼《かれ》が本望《ほんまう》であつたであらう。
彼《かれ》が第《だい》二|回目《くわいめ》の上京《じやうきやう》に際《さい》し、將軍《しやうぐん》より文《ふみ》の裏書《うらがき》、塗輿《ぬりこし》、菊桐《きくきり》の紋章《もんしやう》、朱柄《しゆゑ》の傘《かさ》、屋形號等《やかたがうとう》の使用《しよう》を特許《とくきよ》して、其《そ》の殊遇《しゆぐう》を示《しめ》し。彼《かれ》亦《ま》た將軍《しやうぐん》に向《むとつ》て、『就[#二]今度參洛[#一]《このたびのさんらくについて》、本國之事《ほんごくのこと》、縱如何體之禍亂雖[#下]致[#二]出來[#一]候[#上]《よしいかさまのくわらんしつたいいたしさふらふといへども》、相應有[#二]御用等[#一]《さうおうごようとうあり》、於[#レ]被[#二]召留[#一]者《めしとゞめらるゝにはおいては》、國之儀一向捨置《くにのぎかうすておき》、無二可[#レ]奉[#レ]守[#二]上意樣御前[#一]之由存詰候《むにじやういさまごぜんをまもりたてまつるべくのよしぞんじつめさふらふ》。然間先月中旬《しかるあひだせんげつちうじゆん》、從[#二]甲州[#一]《かうしうより》既《すで》に越國中《ゑつこくちう》え雖[#二]亂入[#一]《らんにふすといへども》、不[#レ]及[#二]御暇[#一]于[#レ]今在京仕事《おんいとまにおよばずいまにざいきやうつかまつること》。』と云《い》うたのは、兩心《りやうしん》相《あひ》契《ちぎ》る所《ところ》がなくてはならぬ。將《は》た關白近衞前嗣《くわんぱくこのゑさきつぐ》が、謙信《けんしん》と互《たが》ひに熊野牛王《くまのごわう》の起請文《きしやうもん》を交換《かうくわん》し、自《みづ》から越後《ゑちご》に下向《げかう》す可《べ》く、決心《けつしん》したるが如《ごと》き、其《そ》の消息《せうそく》の如何《いかん》を、察《さつ》するに難《かた》からぬのだ。
併《しか》し彼《かれ》は志《こゝろざし》餘《あま》りありて、力《ちから》足《た》らなかつた。彼《かれ》若《も》し長《なが》く京洛《きやうらく》に滯在《たいざい》せん乎《か》、彼《かれ》は其《そ》の根據《こんきよ》を失《うしな》ふ破目《はめ》に陷《おちい》らねばならぬ。如何《いか》に彼《かれ》にして本國《ほんごく》の事《こと》を、『一|向《かう》に捨置《すてお》かん』とするも、本國《ほんごく》ありての謙信《けんしん》ではない乎《か》。若《も》しそれなくば、彼《かれ》も亦《ま》た一|個《こ》の浮?浪人《ふらうにん》ぢや。二千や、三千の兵《へい》を提《ひつさ》げても、浮?浪人《ふらうにん》では仕方《しかた》がない。されば彼《かれ》は二|回《くわい》程《ほど》も、其《そ》の試《こゝろみ》を爲《な》しつゝ、愈《いよい》よの大舞臺《おほぶたい》となれば、却《かへつ》て信長《のぶなが》に先《せん》を越《こ》された。此《こ》れは彼《かれ》の不機敏《ふきびん》でもなく、不決斷《ふけつだん》でもない。彼《かれ》の地《ち》の利《り》が惡《あ》しかつたからだ。彼《かれ》は少《すくな》くとも武田氏《たけだし》、北條氏《ほうでうし》、織田氏《おだし》の何《いづ》れにか、挨拶《あいさつ》なくしては、京都《きやうと》に出《い》づる譯《わけ》には、參《まゐ》らぬのぢや。而《しか》して縱令《たとひ》一|旦《たん》通過《つうくわ》しても、始終《しじう》彼等《かれら》の仁惠《じんけい》の下《もと》に、在《あ》らねばならぬのぢや。
鷸蚌《いつぱう》の戰《たゝかひ》は、漁人《ぎよじん》の利《り》とは、古《ふる》き諺《ことわざ》であるが、謙信《けんしん》と、信玄《しんげん》との戰《たゝかひ》は、信長《のぶなが》に取《と》りては、洵《まこと》に願《ねが》うたり、叶《かな》うたりであつた。此《こ》の兩人《りやうにん》は何《いづ》れも信長《のぶなが》に對《たい》して、有力《いうりよく》なる競爭者《きやうさうしや》であつたが、彼等《かれら》互《たが》ひに相《あひ》競爭《きやうさう》しつゝある間《あひだ》に、信長《のぶなが》の膨脹政策《ぼうちやうせいさく》は、著々《ちやく/\》進行《しんかう》した。謙信《けんしん》は信長《のぶなが》の爲《た》めに、信玄《しんげん》を牽制《けんせい》した。信玄《しんげん》は信長《のぶなが》の爲《た》めに、謙信《けんしん》を牽制《けんせい》した。信長《のぶなが》は單《たん》に地《ち》の利《り》を占《し》めたのみでなく、又《ま》た時《とき》の運《うん》を得《え》た。彼《かれ》は信玄《しんげん》の驩心《くわんしん》を繋《つな》ぎたる如《ごと》く、謙信《けんしん》の驩心《くわんしん》を繋《つな》ぐ※[#「こと」の合字、273-3]も、等閑《とうかん》にしなかつた。信長《のぶなが》の外交政策《ぐわいかうせいさく》には、殆《ほと》んど遺算《ゐさん》がなかつた。
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筑摩河 ョ山陽
四條山。筑摩河。越公如虎峽公蛇。汝欲[#レ]螫。吾巳?。八千騎。夜衝[#レ]暗。』曉霧晴。大旗掣。兩軍搏。山欲[#レ]裂。快劍斫[#レ]陣腥風生。虎吼蛇逸河噴[#レ]雪。傍有[#三]毒龍待[#二]其?[#一]。
[#ここから1字下げ]
長尾謙信起[#二]於越後[#一]、略[#二]有北地[#一]、冐[#二]姓上杉[#一]、善用[#レ]兵、甲斐國主武田信玄、與[#レ]之勍敵、爭[#二]信濃[#一]、連年不[#レ]决、謙信出陣[#二]于西條山[#一]、信玄陣[#二]筑摩河側[#一]、潜分[#レ]兵爲[#レ]二、繞襲[#二]其背[#一]、謙信諜知[#レ]之、乃置[#二]疑兵山上[#一]、夜?[#レ]枚渉[#レ]河、壓[#二]信玄營[#一]而陣、黎明甲軍見[#二]謙信牙旗在[#一レ?]前、大鷲、於[#レ]是大戰、幾獲[#二]信玄[#一]、謙信牙兵毎不[#レ]過[#二]八千[#一]、織田右府窺[#二]山東[#一]日久、憚[#二]二人[#一]不[#二]敢發[#一]、及[#二]二人前後死[#一]、乃次第圖[#レ]之。
[#ここで字下げ終わり]
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【五二】近江と伊勢
永祿《えいろく》十|年《ねん》十一|月《ぐわつ》、信長《のぶなが》は、其《そ》の子《こ》信忠《のぶたゞ》の爲《ため》に、信玄《しんげん》の女《むすめ》と婚約《こんやく》を結《むす》び。同年《どうねん》五|月《ぐわつ》には、永祿《えいろく》六|年《ねん》に婚約《こんやく》を結《むす》びたる其《その》女《むすめ》を、岡崎《をかざき》に送《おく》りて、徳川家康《とくがはいへやす》の長子《ちやうし》、信康《のぶやす》に入輿《じゆよ》せしめた。背後《はいご》の掛念《けねん》は、此《これ》にて姑《しば》らく無《な》くなつたが、差《さ》し寄《よ》り伊勢《いせ》と、江州《がうしう》とが、心配《しんぱい》である。
江州《がうしう》は、近江源氏《あふみげんじ》の佐々木《さゝき》の根據地《こんきよち》であつた。佐々木氏《さゝきし》は六|角氏《かくし》と、京極氏《きやうごくし》との二|家《け》に分《わか》れ、本家《ほんけ》六|角氏《かくし》は觀音寺城《くわんおんじじやう》に據《よ》りて、屡《しばし》ば將軍《しやうぐん》の命《めい》に抗《かう》した。彼等《かれら》は動《やゝ》もすれば關門《くわんもん》を設《まう》け、上洛《じやうらく》の通路《つうろ》を塞《ふさ》ぎ、兵粮?《ひやうらう》の運輸《うんゆ》を遏《とゞ》め、此《これ》が爲《た》めに將軍家《しやうぐんけ》を惱《なや》ましたる※[#「こと」の合字、274-9]、一|再《さい》でなかつた。されば彼等《かれら》は、所謂《いはゆ》る怖《こ》は持《も》ての姿《すがた》にて、將軍家《しやうぐんけ》よりも優遇《いうぐう》せられ、其《そ》の家門《かもん》も繁昌《はんじやう》し、六|角《かく》義賢《よしかた》の時《とき》に至《いた》つた。義賢《よしかた》は將軍義輝《しやうぐんよしてる》の時《とき》には、左京大夫《さきやうだいふ》に補《ほ》せられ、管領代《くわんれいだい》となつた。彼《かれ》は其《そ》の家督《かとく》を義弼《よしすけ》に讓《ゆづ》り、自《みづか》ら剃髮《ていはつ》して承禎?《しようてい》と稱《しよう》した。
京極家《きやうごくけ》は支流《しりう》とは申《まを》しなから、尊氏《たかうぢ》より、義滿《よしみつ》に至《いた》る、三|代《だい》の出頭人《しゆつとうにん》、佐々木道譽?《さゝきだうよ》の後《のち》で、四|職《しよく》の一に任《にん》ぜられ、北江州《きたがうしう》の官山寺城《くわんざんじじやう》に在《あ》る名家《めいか》ぢや。然《しか》るに被官《ひくわん》上坂《かみさか》なるもの、權《けん》を擅《ほしいまゝ》にしたが、幾許《いくばく》もなく、他《た》の被官《ひくわん》淺井亮政《あさゐすけまさ》之《これ》を退治《たいぢ》し。爾來《じらい》淺井氏《あさゐし》は、越前《ゑちぜん》の朝倉氏《あさくらし》と相《あひ》結《むす》び、久政《ひさまさ》、長政《ながまさ》三|代《だい》相《あひ》接《せつ》して、今《いま》や京極氏《きやうごくし》に代《かは》り、江北《かうほく》に於《お》ける、儼然《げんぜん》たる一|勢力《せいりよく》となつた。
信長《のぶなが》の眼《め》には、舊《ふる》き六|角氏《かくし》の勢力《せいりよく》よりも、新《あた》らしき淺井氏《あさゐし》の勢力《せいりよく》が、鮮明《せんめい》に映《えい》じたであらう。彼《かれ》は決《けつ》して力《ちから》を以《もつ》て爭《あらそ》ふ※[#「こと」の合字、275-7]を、第《だい》一|義《ぎ》とはせぬ。能《あた》ふ可《べく》んば、平和手段《へいわしゆだん》を使用《しよう》するは、彼《かれ》の流義《りうぎ》ぢや。淺井長政《あさゐながまさ》は、十六|歳《さい》の時《とき》、其《そ》の家老等《からうら》と示《しめ》し合《あは》せ、其《その》父《ちゝ》久政《ひさまさ》に隱居《いんきよ》せしめ、屡《しばし》ば六|角《かく》承禎《しようてい》父子《ふし》を破《やぶ》り、其《そ》の領土《りやうど》を擴《ひろ》げ、今《いま》は愛知川《えちがは》を境《さかひ》とするに至《いた》つた程《ほど》の猛者《もさ》ぢや。信長《のぶなが》が彼《かれ》を妹聟《いもうとむこ》の候補者《こうほしや》に指定《してい》したのは、尤《もつと》もの事《こと》ぢや。淺井父子《あさゐふし》は篤《とく》と商量《しやうりやう》した。彼等《かれら》は織田氏《おだし》との結婚《けつこん》を否《いな》む可《べ》き、理由《りいう》を持《も》たぬ。但《た》だ茲?《こゝ》に熟慮《じゆくりよ》を要《えう》するは、朝倉氏《あさくらし》との關係《くわんけい》ぢや。
朝倉氏《あさくらし》と淺井氏《あさゐし》とは、京極《きやうごく》、六|角《かく》の聨合軍《れんがふぐん》の來寇《らいこう》に際《さい》し、朝倉氏《あさくらし》が、淺井氏《あさゐし》を援助《ゑんじよ》したる以來《いらい》、舊恩《きうおん》淺《あさ》からぬ關係《くわんけい》である。然《しか》るに織田氏《おだし》と、朝倉氏《あさくらし》とは、均《ひと》しく斯波家《しばけ》の被官《ひくわん》であつたが。朝倉《あさくら》は山名方《やまながた》なる、斯波義廉《しばよしかど》を裏切《うらぎ》りて、細川方《ほそかはがた》なる、斯波義敏《しばよしとし》に與《くみ》し、遂《つ》ひに義敏《よしとし》をして、越前《ゑちぜん》の守護職《しゆごしよく》を讓《ゆづ》らしめ。織田家《おだけ》は義廉《よしかど》に背《そむ》かず、其《そ》の子孫《しそん》を主君《しゆくん》と仰《あふ》ぎ、清洲《きよす》の城《しろ》に立《た》て置《お》き、其身《そのみ》は執權《しつけん》として、信長《のぶなが》の時迄《ときまで》、其《そ》の形式《けいしき》のみは殘《のこ》つて居《ゐ》た。されば織田《おだ》は、朝倉《あさくら》を逆臣《ぎやくしん》の家《いへ》と嘲《あざけ》り、朝倉《あさくら》は織田《おだ》を陪臣《ばいしん》の家《いへ》と賤《いやし》んだ。斯《かゝ》る成行《なりゆき》であつたから、織田《おだ》、齋藤《さいとう》の交戰《かうせん》には、朝倉《あさくら》は屡《しばし》ば齋藤《さいとう》に一|味《み》した。
如上《じよじやう》の歴史《れきし》を心得《こゝろえ》居《を》る淺井氏《あさゐし》が、此《こ》の問題《もんだい》に當惑《たうわく》したのは、何《なに》も不思議《ふしぎ》はない。そこは信長《のぶなが》ぢや、彼《かれ》は一|議《ぎ》にも及《およ》ばず、我等《われら》一|身《しん》を以《もつ》て、天下《てんか》を切《き》り從《したが》へ申《まを》すとも、朝倉義景《あさくらよしかげ》には、少《すこ》しも異變《いへん》申《まを》す間敷《まじく》との誓詞《せいし》を與《あた》へ。永祿《えいろく》十一|年《ねん》四|月《ぐわつ》下旬《げじゆん》、愈《いよい》よ其《その》妹《いもうと》を、小谷城《をだにじやう》なる淺井長政方《あさゐながまさかた》へ嫁《か》せしめた。此《こ》の結婚《けつこん》よりして、豐臣家《とよとみけ》の末期《ばつき》に名高《なだか》き、淀君《よどぎみ》や、又《ま》た徳川《とくがは》二|代《だい》將軍夫人《しやうぐんふじん》が、産《さん》し來《きた》つた。
江州《がうしう》の問題《もんだい》は、此《これ》で落著《らくちやく》したが、伊勢《いせ》は奈何《いかん》。伊勢《いせ》は南《みなみ》五|郡《ぐん》が、國司《こくし》北畠家《きたばたけけ》の領地《りやうち》であつた。北畠家《きたばたけ》は、神皇正統記《じんくわうせいとうき》の著者《ちよしや》、親房卿《ちかふさきやう》の三|男《なん》顯能卿《あきよしきやう》以來《いらい》、連綿《れんめん》壹志郡多藝《いつしぐんたけ》に住《ぢう》し、多藝《たけ》の御所《ごしよ》と稱《しよう》した。其《そ》の庶流《しよりう》は國内《こくない》に蕃殖《はんしよく》した。北伊勢《きたいせ》には長野家《ながのけ》あり、此《こ》れは工藤祐經《くどうすけつね》の後胤《こういん》ぢや。又《ま》た關《せき》、神戸《かんべ》の兩家《りやうけ》があつた。何《いづ》れも平重盛《たひらのしげもり》の裔《えい》と稱《しよう》して居《を》る。其他《そのた》四十八|家《け》の國侍《くにざむらひ》があつた。
信長《のぶなが》は伊勢經略《いせけいりやく》には、專《もつぱ》ら瀧川一益《たきがはかずます》を使用《しよう》した。彼《かれ》は信長《のぶなが》死後《しご》には、頗《すこぶ》る振《ふる》はなかつたが、信長《のぶなが》が泥土《でいど》の中《うち》より作《つく》り上《あ》げたる、名將《めいしやう》の一|人《にん》である。彼《かれ》は江州《がうしう》甲賀郡《かふがぐん》の者《もの》にて、浪人《らうにん》して尾州《びしう》に下《くだ》り、遂《つひ》に信長《のぶなが》に用《もち》ひられ、尾州《びしう》蟹江《かにえ》の城主《じやうしゆ》として、伊勢《いせ》の桑名《くはな》、員辨《ゐんべ》二|郡《ぐん》を切《き》り從《したが》へ、更《さ》らに信長《のぶなが》を慫慂《しようよう》して、永祿《えいろく》十|年《ねん》八|月《ぐわつ》、伊勢《いせ》討伐軍《たうばつぐん》を出《い》ださしめた。
水責《みづぜめ》が秀吉《ひでよし》の慣用手段《くわんようしゆだん》たる如《ごと》く、火攻《ひぜめ》は信長《のぶなが》の十八|番《ばん》である。彼《かれ》は放火《はうくわ》して、敵《てき》の氣勢《きせい》を挫《くじ》くが、其《そ》の第《だい》一|著《ちやく》である。彼《かれ》は此《こ》の手段《しゆだん》で、北伊勢《きたいせ》の國侍《くにざむらい》共《ども》を?伏《せふふく》せしめ。更《さら》に神戸《かんべ》の一|族《ぞく》、山路彈正《やまぢだんじやう》の楯籠《たてこも》れる、高岡城《たかをかじやう》に攻《せ》め掛《かゝ》り、先《ま》づ其《そ》の城外《じやうぐわい》に放火《はうくわ》して、裸城《はだかじろ》となしつゝある際《さい》に、信玄《しんげん》が美濃《みの》三|人衆《にんしう》と申《まを》し合《あは》せ、來襲《らいしふ》すとの報道《はうだう》に接《せつ》して、軍《ぐん》を旋《かへ》した。されど仕合《しあは》せにも、此《こ》れは虚説《きよせつ》であつた。
彼《かれ》は永祿《えいろく》十一|年《ねん》二|月《ぐわつ》、更《さ》らに大兵《たいへい》を催《もよ》ほして、北勢《ほくせい》に亂入《らんにふ》した。山路彈正《やまぢだんじやう》は其《そ》の敵《てき》す可《べか》らざるを見《み》て、神戸藏人《かんべくらんど》に説《と》き、信長《のぶなが》の子《こ》信孝《のぶたか》を、其《そ》の聟養子《むこやうし》となす※[#「こと」の合字、278-6]に取《と》り極《き》め、且《か》つ藏人《くらんど》の周旋《しうせん》にて、其《そ》の一|類《るゐ》を味方《みかた》に引《ひ》き附《つ》けた。又《ま》た長野家《ながのけ》には、當主次郎《たうしゆじろう》を追《お》ひ出《いだ》し、信長《のぶなが》の弟《おとうと》信兼《のぶかね》を容《い》るゝ※[#「こと」の合字、278-7]となつた。此《こゝ》に於《おい》て北勢《ほくせい》八|郡《ぐん》、關《せき》、工藤以下《くどういか》悉《こと/″\》く其《そ》の幕下《ばくか》に屬《ぞく》した。彼《かれ》の西上《せいじやう》の道路《だうろ》は、此《かく》の如《ごと》くして、極《きわ》めて秩序的《ちつじよてき》に開拓《かいたく》せられた。
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