第七章 織徳同盟
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第七章 織徳同盟
【四四】織田徳川の提携
桶狹間役《をけはざまえき》の永祿《えいろく》三|年《ねん》(西暦《せいれき》一五六〇|年《ねん》)は、信長《のぶなが》二十七|歳《さい》、家康《いへやす》十九|歳《さい》、而《しか》して秀吉《ひでよし》は二十五|歳《さい》、然《しか》も秀吉《ひでよし》は尚《な》ほ織田家《おだけ》の一|陣笠《ぢんがさ》に過《す》ぎなかつた。信長《のぶなが》は當然《たうぜん》家康《いへやす》が、此《こ》の一|戰《せん》の結果《けつくわ》、今川氏《いまがはし》を去《さ》りて、織田氏《おだし》に就《つ》くものと豫期《よき》したであらう。然《しか》るに彼《かれ》は、坐《ゐな》がら信長《のぶなが》の來《きた》りて、岡崎城《をかざきじやう》を攻《せ》むるを待《ま》たんよりも、自《みづか》ら進《すゝ》んで之《これ》を禦《ふせ》がんと覺悟《かくご》し。其《そ》の信長《のぶなが》の來《きた》らざるを見《み》るや、眼前《がんぜん》に横《よこた》はる、信長《のぶなが》與力《よりき》の徒《と》を退治《たいぢ》せんとて。擧母《ころも》、梅坪《うめつぼ》を攻《せ》め、廣瀬城主《ひろせじやうしゆ》三|宅《やけ》右衞門佐《うゑもんのすけ》を破《やぶ》り、更《さ》らに尾州《びしう》なる沓掛《くつかけ》に推《お》し寄《よ》せ、織田玄蕃《おだげんば》と鋒《ほこ》を交《まじ》へ、又《ま》た其《そ》の伯父《をぢ》たる水野忠元《みづのたゞもと》とも、石《いし》の瀬《せ》にて戰《たゝか》ひ、案外《あんぐわい》強硬《きやうかう》の態度《たいど》を示《しめ》した。而《しか》して彼《かれ》は今川氏眞《いまがはうぢざね》に向《むかつ》て、其《その》父《ちゝ》義元《よしもと》の弔合戰《とむらひかつせん》を慫慂《しようよう》し、さる場合《ばあひ》には、拙者《せつしや》先手《さきて》を承《うけたまは》り、錆矢《さびや》の一|筋《すぢ》も射《い》て、先公《せんこう》の恩誼《おんぎ》に報《むく》ゆ可《べ》しと申《まを》し送《おく》つた。されど氏眞《うぢざね》には、糠《ぬか》に釘《くぎ》ぢや。
信長《のぶなが》が那古野《なごや》に於《おい》て、我儘《わがまゝ》の限《かぎ》りを振舞《ふるま》うた、狂暴《きやうばう》の少年時代《せうねんじだい》には、家康《いへやす》も亦《ま》た同所《どうしよ》に在《あ》りて、百舌鳥《もず》、山雀抔《やまがらなど》の小鳥《ことり》を玩《もてあそ》びたる小童《せうどう》であつた。當時《たうじ》十六|歳《さい》の新主人《しんしゆじん》信長《のぶなが》の眼中《がんちう》に、八|歳《さい》の俘虜兒《ふりよじ》、家康《いへやす》が映《えい》ぜなかつたのも、不思議《ふしぎ》はない。然《しか》も今《いま》となつては、信長《のぶなが》も此《こ》の小忰《こせがれ》めを、識認《しきにん》せぬ譯《わけ》には參《まゐ》らぬ※[#「こと」の合字、226-6]となつた。眼快手利《がんくわいしゆり》の信長《のぶなが》、いかでか此《こ》の機會《きくわい》を見逃《みの》がす可《べ》き。
家康《いへやす》との講和《かうわ》は、水野忠元《みづのたゞもと》が橋渡《はしわた》しをした。けれども信長《のぶなが》に其《そ》の下《し》た心《ごゝろ》がなければ、之《これ》に同意《どうい》する筈《はず》がない。信長《のぶなが》は當時《たうじ》に於《おい》て、既《すで》に天下《てんか》を取《と》るの志《こゝろざし》があつた。地方《ちはう》の小《こ》ぜり合《あひ》に、一|生《しやう》を屈託《くつたく》するは、彼《かれ》の本意《ほんい》でなかつた。家康《いへやす》と握手《あくしゆ》し、參河方面《みかははうめん》に於《お》ける兵備《へいび》を徹《てつ》し、其《そ》の全力《ぜんりよく》を擧《あ》げて、西《にし》に向《むか》ふは、彼《かれ》の志《こゝろざし》を成《な》す所以《ゆゑん》であつた。彼《かれ》は瀧川一益《たきがはかずます》を以《もつ》て、家康《いへやす》の家長《おとな》石川數正《いしかはかずまさ》に申《まを》し込《こ》んだ。此《こ》れが永祿《えいろく》四|年《ねん》の春《はる》であつた。家康《いへやす》は其《そ》の腹心《ふくしん》の諸臣《しよしん》と、内議《ないぎ》を凝《こ》らした。如何《いか》に戰敗《せんぱい》の餘《よ》とは云《い》へ、又《ま》た氏眞《うぢざね》は恃《たの》み甲斐《がひ》なしとは云《い》へ、今川《いまがは》を去《さ》りて、織田《おだ》に就《つ》くは、徳川家《とくがはけ》世襲《せしふ》の政策《せいさく》を、根本的《こんぽんてき》に變更《へんかう》するものである。家康《いへやす》の妻子《さいし》は勿論《もちろん》、諸重臣《しよぢうしん》の妻子《さいし》も、駿河《するが》に人質《ひとじち》として在《あ》る。織田《おだ》との講和《かうわ》は、其《そ》の捨《す》て殺《ごろ》しである。されば其《そ》の家中《かちう》に、異論者《いろんしや》の多《おほ》かつた※[#「こと」の合字、227-4]も、當然《たうぜん》である。
併《しか》し信長《のぶなが》と、氏眞《うぢざね》とは、虎《とら》と猫《ねこ》との相違《さうゐ》ぢや。家康《いへやす》の立場《たちば》は、腹背《ふくはい》に敵《てき》を受《う》けて、平氣《へいき》である程《ほど》でない。問題《もんだい》は虎《とら》を味方《みかた》として、猫《ねこ》と戰《たゝか》ふ乎《か》、猫《ねこ》を味方《みかた》として、虎《とら》と戰《たゝか》ふ乎《か》、兩者《りやうしや》其《そ》の一を擇《えら》ばねばならぬ極所《きよくしよ》である。而《しか》して領土擴張《りやうどくわくちやう》亦《ま》た、已《や》む可《べか》らざる勢《いきほひ》であるとすれば、猫《ねこ》を制《せい》するを便宜《べんぎ》とする乎《か》、虎《とら》を搏《う》つを容易《ようい》とする乎《か》は、商量《しやうりやう》する迄《まで》もない。
總《すべ》て抵抗力《ていかうりよく》の薄弱《はくじやく》なる方面《はうめん》に向《むかつ》て動《うご》くが、運動《うんどう》の原則《げんそく》ぢや。若《も》し彼等《かれら》互《たがひ》に戰《たゝか》うたらば、武田《たけだ》、上杉《うへすぎ》川中島合戰《かはなかじまかつせん》と、殆《ほと》んど同《どう》一|脚色《きやくしよく》を、尾參《びさん》の間《かん》に展開《てんかい》したかも知《し》れぬ。家康《いへやす》の當惑《たうわく》は云《い》ふ迄《まで》もなく、信長《のぶなが》も常住《じやうぢう》其《その》後《うしろ》を襲《おそ》はれ、到底《たうてい》中原《ちうげん》に赤幟《せきし》を立《た》つるの機會《きくわい》はなかつたであらう。要《えう》するに信長《のぶなが》の利益《りえき》は、西進《せいしん》にあり。家康《いへやす》の利益《りえき》は、東略《とうりやく》にあり。彼等《かれら》は偶然《ぐうぜん》にも、其《そ》の利害《りがい》が一|致《ち》して居《を》る。されば酒井忠次《さかゐたゞつぐ》が、劈頭《へきとう》第《だい》一の賛成者《さんせいしや》であつたも、良《まこ》とに理由《りいう》あることぢや。打算《ださん》に明敏《めいびん》なる家康《いへやす》、いかで此《こ》の計較《けいかく》を誤《あやま》る可《べ》き。彼《かれ》は石川數正《いしかはかずまさ》を、瀧川《たきがは》が許《もと》に遣《つか》はして、同意《どうい》の旨《むね》を答《こた》へしめた。
然《しか》るに當時《たうじ》上樣《うへさま》乎《か》、將監?殿《しやうげんどの》乎《か》と、其《そ》の威權《ゐけん》主人《しゆじん》に迫《せま》る酒井將監忠尚《さかゐしやうげんたゞなほ》は、上野《うへの》の城《しろ》(岡崎《をかざき》の西北《せいほく》一|里半《りはん》)より出《い》で來《きた》り、家康《いへやす》に見《まみ》え、大《おほい》に其《その》非《ひ》を鳴《な》らし、御當家《ごたうけ》の弓矢《ゆみや》に疵《きず》が附《つ》いたと云《い》うた。家康《いへやす》は否々《いな/\》、弓矢《ゆみや》に疵《きず》の附《つ》くも、附《つ》かぬも、唯《た》だ斯《この》心《こゝろ》にあるものぞ。汝《なんぢ》が駿河《するが》に出《いだ》し置《お》く人質《ひとじち》は、我《わ》が妻子《さいし》と死生《しせい》を與《とも》にす可《べ》しと諭《さと》した。彼《かれ》は懌《よろこ》ばずして退去《たいきよ》した。侍臣《じしん》は之《これ》を見《み》て、將監《しやうげん》は謀反《むほん》するぞ、今《い》ま此處《ここ》にて打《う》ち果《はた》せと敦圉《いきま》いたが、家康《いへやす》は彼《かれ》の言《げん》にも一|理《り》あり、其儘《そのまゝ》に差《さ》し措《お》けと、之《これ》をなだめた。他日《たじつ》家康《いへやす》を惱《なやま》したる、一|向宗《かうしう》の蜂起《ほうき》は、恐《おそ》らくは將監《しやうげん》が、其《そ》の張本《ちやうほん》であらうと云《い》ふ者《もの》もある。何《いづ》れにしても、家康《いへやす》は家中《かちう》の異論《いろん》を排《はい》し、信長《のぶなが》と結《むす》ぶ※[#「こと」の合字、228-13]となつた。


【四五】信長家康の會盟
織田《おだ》徳川《とくがは》の修好《しうかう》は、思《おもひ》の外《ほか》すら/\と成就《じやうじゆ》した。休戰《きうせん》でなく、講和《かうわ》でなく、愈《いよい》よ同盟《どうめい》となつた。而《しか》して家康《いへやす》は、永祿《えいろく》四|年《ねん》の春《はる》(改正參河後風土記《かいせいみかはごふどき》には三|月頃《ぐわつごろ》とあり)には、兩將《りやうしやう》の會見《くわいけん》となつた。
家康《いへやす》は石川《いしかは》、酒井等《さかゐら》約《やく》百|人《にん》ばかりの供《とも》を連《つ》れ、清洲《きよす》に赴《か?もむ》いた。信長《のぶなが》は林佐渡《はやしさど》、瀧川左近將監《たきがはさこんしやうげん》、菅谷《すがや》九右|衞門等《ゑもんら》をして、熱田《あつた》迄《まで》出迎《でむか》へしめた。家康《いへやす》は正滿寺《しやうまんじ》に休息《きうそく》の後《のち》、清洲《きよす》に入《い》つたが、城門《じやうもん》の邊《ほとり》、見物人《けんぶつにん》喧噪《けんさう》を極《きは》めたれば、供《とも》の一|人《にん》十四|歳《さい》の少年《せうねん》、本多《ほんだ》平《へい》八|郎《らう》大長刀《おほなぎなた》を揮《ふる》うて、三|河《かは》の元康殿《もとやすどの》の參著《さんちやく》なるぞ、無禮《ぶれい》するなと呼《よ》ばゝりて之《これ》を制《せい》した。信長《のぶなが》自《みづ》から二丸《にのまる》迄《まで》出迎《でむか》へ、本丸《ほんまる》へ導《みちび》き、禮儀《れいぎ》嚴重《げんぢう》であつた。主人思《しゆじんおも》ひの植村《うゑむら》新《しん》六|郎《らう》は、家康《いへやす》の腰刀《こしがたな》を持《ぢ》して、其《その》側《そば》を離《はな》れなかつた。人々《ひと/″\》之《これ》を呵止《かし》したるに、主人《しゆじん》の刀《かたな》を持《も》つに何《なん》の不都合《ふつがふ》があると云《い》うた。
信長《のぶなが》は之《これ》を聞《き》いて、植村《うゑむら》が武名《ぶめい》は、豫《かね》て聞《き》き及《およ》んだ、退去《たいきよ》に及《およ》ばぬと慰諭《ゐゆ》した。會見《くわいけん》は好首尾《かうしゆび》であつた。信長《のぶなが》は家康《いへやす》に長光《ながみつ》の刀《かたな》と、吉光《よしみつ》の短刀《たんたう》とを貽《おく》り、植村《うゑむら》には行光《ゆきみつ》の刀《かたな》を與《あた》へた。而《しか》して彼《かれ》は家康《いへやす》を郊外《かうぐわい》に送《おく》り、前《まへ》の三|人《にん》をして、熱田《あつた》迄《まで》送《おく》らしめ、更《さら》に翌日《よくじつ》は、林《はやし》、菅谷《すがや》をして、岡崎《をかざき》迄《まで》挨拶《あいさつ》に赴《おもむ》かしめた。
此《こ》の會合《くわいがふ》に就《つい》て、徳川時代《とくがはじだい》に編纂《へんさん》せられたる諸書《しよしよ》には、今《いま》より兩家《りやうけ》水魚《すゐぎよ》の交《まじは》りを爲《な》し、兩旗《りやうき》を以《もつ》て、天下《てんか》を定《さだ》めむ。織田《おだ》天下《てんか》を一|統《とう》せば、徳川《とくがは》其《そ》の旗下《きか》となり、徳川《とくがは》天下《てんか》を一|統《とう》せば、織田《おだ》其《そ》の旗下《きか》となるとの盟書《めいしよ》を取《と》り交《か》はしたとある。〔武徳編年集成、武徳成業、烈祖成績等〕併《しか》し此《こ》れは徳川氏《とくがはし》の爲《た》めに、強《し》ひて面皮《めんぴ》を作爲《さくゐ》したる記事《きじ》で、當時《たうじ》の實際《じつさい》ではあるまい。
家康《いへやす》は崛強《くつきやう》であつた、家康《いへやす》よりは叩頭《こうとう》は爲《な》さなかつた。調停《てうてい》の申入《まをしい》れは、織田側《おだがは》からであつた。併《しか》し當時《たうじ》の織田家《おだけ》と、徳川家《とくがはけ》とは、對等《たいとう》の交際《かうさい》ではなかつた。其《そ》の勢力《せいりよく》に於《おい》ても、其《そ》の位地《ゐち》に於《おい》ても、織田《おだ》は主《しゆ》で、徳川《とくがは》は從《じう》であつた。織田《おだ》が徳川《とくがは》の旗下《きか》に就《つ》く抔《など》の話《はなし》は、如何《いか》なる事情《じじやう》を想像《さうざう》しても、出《い》で來《く》る可《べ》き場合《ばあひ》はなかつた。惟《おも》ふに海道方面《かいだうはうめん》は、徳川氏《とくがはし》の鋒先《ほこさき》に一|任《にん》し、木曾川流域《きそがはりうゐき》より東山《とうさん》、近畿《きんき》は、信長《のぶなが》の雄圖《ゆうと》に一|任《にん》し、然《しか》も緩急《くわんきふ》互《たが》ひに相濟《あひすく》ふ約束《やくそく》が、成立《せいりつ》したものであらう。
但《た》だ小國《せうこく》ながらも、家康《いへやす》が此際《このさい》に於《おい》て、地歩《ちほ》を占《し》めた事《こと》丈《だけ》は、識認《しきにん》す可《べ》きである。而《しか》して彼《かれ》は如何《いか》なる場合《ばあひ》にも、地歩《ちほ》を占《し》めずしては、決《けつ》して動《うご》かぬ漢《おのこ》であつた。
織田《おだ》との會盟《くわいめい》は、乍《たちま》ち今川氏眞《いまがはうぢざね》よりの詰問《きつもん》を招《まね》いた。家康《いへやす》は敢《あへ》て今川氏《いまがはし》に負《そむ》きたるにあらず、但《た》だ強敵《がうてき》に對《たい》して、小康《せうかう》を保《たも》つ所以《ゆゑん》と理《ことわ》つた。更《さ》らに人《ひと》を駿河《するが》に遣《つか》はし、氏眞《うぢざね》の寵臣《ちようしん》三|浦《うら》右衞門佐《うゑもんのすけ》に便《よ》りて、辯解《べんかい》をした。淺薄《せんぱく》なる氏眞《うぢざね》は、此《こ》の氣休《きやす》め文句《もんく》に欺《あざむか》れて、泣寢入《なきねいり》となつた。
家康《いへやす》は何時《いつ》も兩刀使《りやうたうつか》ひであつた。彼《かれ》は寛猛《くわんまう》兼《か》ね濟《な》した。詳《つまびらか》に言《い》へば、彼《かれ》は如何《いか》なる場合《ばあひ》も、武裝《ぶさう》を解《と》かなかつた。武力《ぶりよく》は彼《かれ》の生命《せいめい》であつた。但《た》だ彼《かれ》は決《けつ》して武力《ぶりよく》のみを、恃《たの》まなかつた。彼《かれ》は武力《ぶりよく》以外《いぐわい》の方便《はうべん》で能《あた》ふ事《こと》には、武力《ぶりよく》を使用《しよう》しなかつた。即《すなは》ち外交手段《ぐわいかうしゆだん》で辨《べん》じ得《う》可《べ》き事《こと》は、專《もつぱ》ら此《これ》を藉《か》りた。但《た》だ斯《かゝ》る場合《ばあひ》も、其《そ》の背後《はいご》に、戰鬪準備《せんとうじゆんび》を忽《ゆるがせ》にしなかつた。
彼《かれ》の武力《ぶりよく》は、外交的《ぐわいかうてき》武力《ぶりよく》であり、彼《かれ》の外交《ぐわいかう》は、武裝的《ぶさうてき》外交《ぐわいかう》であつた。天下《てんか》恐《おそ》らくは、彼程《かれほど》武力《ぶりよく》の眞價《しんか》を知《し》る者《もの》はあるまい。從《したが》つて又《ま》た彼程《かれほど》武力《ぶりよく》を大切《たいせつ》にする者《もの》はあるまい。大切《たいせつ》にするが故《ゆゑ》に、武力《ぶりよく》を濫用《らんよう》せなかつた。大切《たいせつ》なるが故《ゆゑ》に、武力《ぶりよく》の行使《かうし》を、必要《ひうえう》已《や》む可《べか》らざる範圍《はんゐ》に局限《きよくげん》した。
家康《いへやす》のみでなく、信長《のぶなが》も、秀吉《ひでよし》も、武力《ぶりよく》と外交《ぐわいかう》、軍略《ぐんりやく》と政策《せいさく》と、双々《さう/\》相《あ》ひ對用《たいよう》した。然《しか》も未《いま》だ家康《いへやす》の如《ごと》く、破綻《はたん》の少《すく》なき者《もの》はない。加《くは》ふるに彼《かれ》が氣魄《きはく》の雄厚《ゆうこう》にして、其《そ》の辛抱力《しんばうりよく》の無盡藏《むじんざう》なる、如何《いか》に割引《わりびき》しても、彼《かれ》には大《だい》なる成功者《せいこうしや》、大《だい》なる收穫者《しうくわくしや》の資格《しかく》がありと云《い》はねばならぬ。


【四六】天下の經綸
永祿《えいろく》四|年《ねん》、信玄《しんげん》と謙信《けんしん》とが、川中島《かはなかじま》で合戰《かつせん》の最中《さいちう》に、早《は》や信長《のぶなが》と、家康《いへやす》との、攻守同盟《こうしゆどうめい》は成立《せいりつ》した。此《こ》の日本中央部《にほんちうわうぶ》の織徳同盟《しよくとくどうめい》が、天下《てんか》統《とう》一の楔子《せつし》たらんとは、我《われ》も人《ひと》も思《おも》ひ及《およ》ばなかつた所《ところ》であらう。
勢力《せいりよく》の權衡《けんかう》より云《い》へば、信長《のぶなが》は日光《につくわう》であり、家康《いへやす》は月光《げつくわう》である。然《しか》も家康《いへやす》に、信長《のぶなが》の同盟《どうめい》が大切《たいせつ》であるかの如《ごと》く、信長《のぶなが》にも、家康《いへやす》の同盟《どうめい》が、より以上《いじやう》に大切《たいせつ》であつた。大國《たいこく》と小國《せうこく》との同盟《どうめい》は、恒《つね》に前者《ぜんしや》に割《わり》が善《よ》くて、後者《こうしや》に惡《わる》い。若《も》し永祿《えいろく》四|年《ねん》より、天正《てんしやう》十|年《ねん》、信長《のぶなが》本能寺《ほんのうじ》の變《へん》に至《いた》る、二十二|年《ねん》の期間《きかん》に於《おい》て、兩者《りやうしや》の貸借表《たいしやくへう》を作《つく》りたらば、家康《いへやす》の方《はう》が、信長《のぶなが》に對《たい》して、或《あるひ》は債權者《さいけんしや》であつたかも知《し》れぬ。併《しか》し信長《のぶなが》の經營《けいえい》も、畢竟《ひつきやう》すれば家康《いへやす》の露拂《つゆばらひ》たるに過《す》ぎぬ。總勘定《そうかんぢやう》の上《うへ》では、誰《たれ》よりも家康《いへやす》が、?得者《えいとくしや》であることは、爭《あらそ》はれぬ事實《じじつ》ぢや。
吾人《ごじん》が茲?《こゝ》に氣《き》を附《つ》く可《べ》きは、如何《いか》に彼等《かれら》の利害《りがい》が、多《おほ》くの點《てん》に於《おい》て、一|致《ち》したにもせよ。此《こ》の人心?變《じんしんしゆくへん》の世《よ》の中《なか》に於《おい》て、斯《かゝ》る長《なが》き期間《きかん》、何等《なんら》の衝突《しようとつ》なく、又《ま》た交情《かうじやう》の冷却《れいきやく》なく、双方《そうはう》與《とも》に同盟《どうめい》の誼《ぎ》を恪守《かくしゆ》し、眞《しん》に緩急《くわんきう》相《あひ》濟《たす》けたる事《こと》である。此《こ》れは兩雄《りやうゆう》の兩心《りやうしん》相《あひ》照《て》らし、互《たが》ひに其《そ》の見識《けんしき》が徹底《てつてい》しなければ、能《あた》はぬ事《こと》である。鎌倉《かまくら》以來《いらい》、徳川時代《とくがはじだい》に至《いた》る迄《まで》、未《いま》だ此《かく》の如《ごと》き確實《かくじつ》にして、且《か》つ有効《いうかう》なる同盟《どうめい》なるものはない。此《こ》の信用《しんよう》は、信長《のぶなが》に歸《き》す可《べ》き乎《か》、家康《いへやす》に歸《き》す可《べ》き乎《か》、將《は》た兩人《りやうにん》等分《とうぶん》に歸《き》す可《べ》き乎《か》。何《いづ》れにして極《きは》めて稀有《けう》なる、美談《びだん》と云《い》はねばならぬ。何《いづ》れにしても家康《いへやす》は、與《あた》ふるの取《と》りたる※[#「こと」の合字、234-5]を、能《よ》く合點《がてん》し、苦情《くじやう》を云《い》はず、概《おほむ》ね信長《のぶなが》の云《い》ふ儘《まゝ》に、働《はたら》いた。
吾人《ごじん》は此《これ》より、信長《のぶなが》の中原《ちうげん》經略《けいりやく》に向《むかつ》て、眼《まなこ》を轉《てん》ぜねばならぬ。桶狹間《をけはざま》の一|戰《せん》にて、尾張《をはり》一|國《こく》に於《お》ける、自衞《じゑい》の危惧《きぐ》は打《う》ち拂《はら》うた。家康《いへやす》との會盟《くわいめい》で、東顧《とうこ》の憂《うれひ》は、當分《たうぶん》殆《ほと》んど皆無《かいむ》となつた。
彼《かれ》が西《にし》に向《むかつ》て動《うご》き出《いだ》したるは、自然《しぜん》の發作《ほつさ》と云《い》はねばなるまい。彼《かれ》が天下《てんか》に志《こゝろざし》あつた證據《しようこ》は、枚擧《まいきよ》する迄《まで》もない。永祿《えいろく》四|年《ねん》秋《あき》、丹波栗田郡《たんばくりたごほり》長谷城主《はせのじやうしゆ》赤澤出雲守《あかさはいづものかみ》が、關東《くわんとう》へ赴《おもむ》き、善《よ》き鷹《たか》二|羽《は》を得《え》、其《その》一を信長《のぶなが》に進上《しんじやう》した。信長《のぶなが》は大《おほ》いに之《これ》を悦《よろこ》び、天下《てんか》を治《をさ》むるの日《ひ》、此《これ》を謝《しや》す可《べ》しと云《い》うた。〔武林叢話〕
太田《おほた》牛《うし》一は、前《まへ》と同《どう》一の話頭《わとう》を、左《さ》の如《ごと》く記《しる》して居《を》る。
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志《こゝろざし》の程《ほど》感悦至極《かんえつしごく》に候《さふらふ》、併《しかし》天下《てんか》御存知《ごぞんぢ》之《の》砌《みぎり》、被[#二]申請[#一]候間《まをしうけられさふらふあひだ》、預[#二]置之[#一]由候《これをあづかりおくよしさふらふ》て、返《かへ》し被下候《くだされさふらふ》。此《こ》の由《よし》京都《きやうと》にて物語《ものがたり》候《さふら》へば、國《くに》を隔《へだて》、遠國《ゑんごく》よりの望《のぞみ》、不[#レ]實《じつならず》と申候《まをしさふらふ》て、皆々笑申候《みな/\わらひまをしさふらふ》。然處不[#レ]經[#二]十個年[#一]《しかるところじつかねんをへずして》、信長御入洛被[#レ]成候《のぶながごじゆらくなされさふらふ》、希代不思議之事共也《きたいふしぎのことどもなり》。
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併《しか》し吾人《ごじん》の目《め》から見《み》れば、毫《がう》も不思議《ふしぎ》の事《こと》はない。
又《ま》た同年《どうねん》、彼《かれ》は上國《じやうこく》の形勢《けいせい》を視察《しさつ》す可《べ》く、熱田《あつた》より上船《じやうせん》、桑名《くはな》を經《へ》て上京《じやうきやう》した。信長公記《のぶながこうき》に曰《いは》く、
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去程《さるほど》に上總介殿《かづさのすけどの》、御上洛《ごじやうらく》の儀《ぎ》、俄《にはか》に被[#二]仰出[#一]《おほせいだされ》、御伴衆《おともしう》八十|人《にん》の御書立《おんかきたて》にて、被[#レ]成[#二]御上京[#一]《ごじやうきやうなされ》都《みやこ》、奈良《なら》、堺《さかひ》御見物《ごけんぶつ》にて、公方光源院義輝《くばうくわうげんゐんよしてる》へ御禮被[#レ]仰《おんれいおほせられ》、御在京候《ございきやうさふらひ》き。?《こゝ》を晴《はれ》成《なり》と拵《こしらへ》、大《おほ》のし付《つき》に車《くるま》を懸《かけ》て、御伴衆《おともしう》皆《みな》のし付《つき》にて候《さふらふ》也《なり》。
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彼《かれ》が志《こゝろざし》の那邊《なへん》に存《そん》するかは、此《これ》にて分明《ぶんみやう》ではない乎《か》。彼《かれ》は又《ま》た美濃《みの》齋藤家《さいとうけ》の刺客《せきかく》に附《つ》け狙《ねら》はれた。然《しか》も彼《かれ》は其《そ》の刺客共《せきかくども》を引見《いんけん》して、之《これ》を叱責《しつせき》した。汝等《なんぢら》の分際《ぶんざい》にて、我《わ》が討手《うつて》に上《のぼ》るとは、健氣《けなげ》の至《いた》りぢや。若《も》し眞《しん》に殺《ころ》す覺悟《かくご》あらば、只今《たゞいま》此處《こゝ》にて殺《ころ》して見《み》よと云《い》うた。刺客《せきかく》は皆《み》な色《いろ》を失《うしな》うた。『京童《きやうわらんべ》二|樣《やう》に褒貶《はうへん》也《なり》。大將《たいしやう》の詞《ことば》には、不似相《ふにあひ》と申《まをす》者《もの》もあり。又《ま》た若《わか》き人《ひと》には似相《にあひ》たると申《まをす》者《もの》も候《さふら》へき。』とは、太田《おほた》牛《うし》一の著語《ちやくご》である。何《いづ》れにしても、彼《かれ》が英氣?剌《えいきはつらつ》で、刺客《せきかく》を壓倒《あつたう》した樣《さま》が、眼前《がんぜん》に髣髴《ほうふつ》する。
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五三|日《にち》過《すぎ》候《さふらふ》て、上總介殿《かづさのすけどの》守山《もりやま》迄《まで》御下《おんくだり》、翌日雖[#二]雨降候[#一]《よくじつあめふりさふらふといへども》、拂曉《ふつげう》に御立候《おんたちさふらふ》て、あひ谷《たに》より八|風峠《かぜたうげ》を、清洲《きよす》迄《まで》廿七|里《り》、其日《そのひ》の寅刻《とらのこく》に清洲《きよす》へ御著《おんちやく》也《なり》。〔信長公記〕
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彼《かれ》は晝夜兼行《ちうやけんかう》にて、歸著《きちやく》した。此《これ》には定《さだ》めて、何《なに》かの理由《りいう》があつたであらう。兎《と》も角《かく》も此《こ》の一|遊《いう》で、彼《かれ》が積極的經營《せつきよくてきけいえい》に關《くわん》する、一|般《ぱん》方略《はうりやく》も、先《ま》づ定《さだ》まつたであらう。
又《ま》た信長《のぶなが》は、此際《このさい》近畿《きんき》に領地《りやうち》を得《う》るの必要《ひつえう》を感《かん》じ、尾張《をはり》の本國《ほんごく》を、三|好《よし》家《け》に進上《しんじやう》致《いた》す可《べ》く、其《そ》の代地《だいち》を、五|畿内《きない》に給《たま》はり、三|好《よし》殿《どの》の先手《さきて》仕《つかまつ》らんと申《まを》し入《い》れたが、松永彈正等《まつながだんじやうら》の異論《いろん》にて、事《こと》止《や》みになつた〔武邊咄聞書、續武物語等〕との説《せつ》もある。けれども此《こ》れは、信長《のぶなが》の大計大略《たいけいたいりやく》を知《し》らぬ、一|知《ち》半解者《はんかいしや》の揣摩《しま》の見《けん》に過《す》ぎぬ。尾張《をはり》は信長《のぶなが》の立脚地《りつきやくち》である。如何《いか》に彼《かれ》が功名《こうみやう》に急《きふ》なればとて、斯《かゝ》る突飛《とつぴ》の事《こと》を爲《な》す可《べ》きやは。彼《かれ》は急進《きふしん》である、されど其《そ》の急進《きふしん》には、順序《じゆんじよ》があり、次第《しだい》があり、階級《かいきふ》がある。那古野《なごや》よりして清洲《きよす》、清洲《きよす》よりして小牧山《こまきやま》、小牧山《こまきやま》よりして岐阜《ぎふ》、岐阜《ぎふ》よりして安土《あづち》。彼《かれ》の施設《しせつ》には、必《かな》らず秩序《ちつじよ》がある。况《いは》んや三|好《よし》の先手抔《さきてなど》は、思《おも》ひも寄《よ》らぬ事《こと》である。

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