第六章 徳川氏の初期
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第六章 徳川氏の初期
【三九】徳川氏の起原
此《こ》の機會《きくわい》に於《おい》て、徳川氏《とくがはし》の起原《きげん》に就《つい》て、少《すこ》しく語《かた》るであらう。桶狹間《をけはざま》の一|戰《せん》は、信長《のぶなが》の運命《うんめい》の、一|轉機《てんき》たるのみでなく、又《ま》た家康《いへやす》のそれである。廣《ひろ》く考《かんが》ふれば、近世的《きんせいてき》統《とう》一|國家組織《こくかそしき》の促進期《そくしんき》である。而《しか》して信長《のぶなが》と、家康《いへやす》とは、其《そ》の二|大《だい》動力《どうりよく》である。固《もと》より對等《たいとう》の力《ちから》ではない。併《しか》し家康《いへやす》の信長《のぶなが》に對《たい》する戮協《りくけふ》は、餘計《よけい》な加勢《かせい》でなく、必要《ひつえう》なる、必須《ひつしゆ》なる、是非共《ぜひとも》なくて叶《かな》はぬ、助力《じよりよく》であつた。
秀吉《ひでよし》の功業《こうげふ》は、餘《あま》りに赫灼《かくしやく》たるが故《ゆゑ》に、聊《いさゝ》か人目《じんもく》を眩惑《げんわく》したる感《かん》がある。但《たゞ》し彼《かれ》は要《えう》するに、信長《のぶなが》の相續者《さうぞくしや》に他《ほか》ならぬ。家康《いへやす》はそれではない、彼《かれ》は最初《さいしよ》より信長《のぶなが》の相棒《あひぼう》であつた。秀吉《ひでよし》の大株主《おほかぶぬし》たるは、信長《のぶなが》の株《かぶ》をその儘《まゝ》引《ひ》き受《う》け、其上《そのうへ》に増株《ましかぶ》をしたのぢや。家康《いへやす》の株數《かぶすう》は、信長《のぶなが》に對《たい》して、六|分《ぶ》四|分《ぶ》の割合《わりあひ》迄《まで》も行《ゆ》かず、或《あるひ》は七|分《ぶ》三|分《ぶ》位《ぐらゐ》であつたかも知《し》れぬ。けれども此《こ》の三|分《ぶ》の株《かぶ》は、發起株《ほつきかぶ》ぢや。年齡《ねんれい》こそ秀吉《ひでよし》が、家康《いへやす》に比《ひ》して、六|歳《さい》の長者《ちやうしや》であるが、事功《じこう》の上《うへ》では、家康《いへやす》を先輩《せんぱい》と云《い》はねばならぬ。
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徳川氏《とくがはし》の先祖《せんぞ》は、新田義重《につたよししげ》より出《い》で、新田義貞《につたよしさだ》と同宗《どうそう》也《なり》とは、宛《あたか》も織田信長《おだのぶなが》が、平重盛《たひらのしげもり》の裔?《えい》であるとの説《せつ》同樣《どうやう》、世間《せけん》一|般《ぱん》に通用《つうよう》せられて居《を》る。此《こ》れには隨分《ずゐぶん》異説《いせつ》がないでもない。
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家康《いへやす》徳川氏《とくがはし》を稱《しよう》す、因《よつ》て新田義重《につたよししげ》を先祖《せんぞ》とす、義重《よししげ》及《および》父《ちゝ》廣忠《ひろたゞ》に贈官《ぞうくわん》を請《こ》ひ、以《もつ》て新田氏《につたし》を顯榮《けんえい》す。或《あるひ》は云《い》ふ松平氏《まつだひらし》は、陰陽家《をんやうか》幸徳井《かうとくせい》の支族《しぞく》、姓《せい》は賀茂《かも》の朝臣《あそん》なりと。
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此《こ》れは我《わ》が修史局《しうしきよく》編纂《へんさん》に係《かゝ》る『國史眼《こくしがん》』の所記《しよき》也《なり》。家康《いへやす》は家康《いへやす》である、彼《かれ》は自力《じりき》の英雄《えいゆう》である。新田義重《につたよししげ》の後《のち》と云《い》うたとて、別段《べつだん》名譽《めいよ》でなく、又《ま》た乞食坊主《こじきばうず》の子孫《しそん》と云《い》うたとて、別段《べつだん》恥辱《ちじよく》でもない。吾人《ごじん》の知《し》り得《う》る限《かぎ》りでは、長阿彌《ちやうあみ》、徳阿彌《とくあみ》なる父子《ふし》の時宗僧《じしうそう》、漂泊《へうはく》して參河《みかは》に來《きた》り、大濱《おほはま》の稱名寺《しようみやうじ》に厄介《やくかい》となり居《ゐ》たりしに。長阿彌《ちやうあみ》は死《し》し、徳阿彌《とくあみ》は還俗《げんぞく》して、親氏《ちかうぢ》と名乘《なの》り、松平太郎左衞門信重《まつだひらたらうざゑもんのぶしげ》の入聟《いりむこ》となり、此處《ここ》に徳川家《とくがはけ》の基《もとゐ》を發《ひら》いたと云《い》ふ、一|事《じ》である。但《た》だ此《こ》の親氏《ちかうぢ》が、果《はた》して何人《なんぴと》であつた乎《か》、又《ま》た何人《なんぴと》の末《すゑ》であつた乎《か》は、強《し》ひて穿鑿《せんさく》する迄《まで》もなく。姑《しば》らく長阿彌《ちやうあみ》を、世良田修理亮親季《せらだしゆりのすけちかすゑ》の子《こ》、左京亮有親《さきやうのすけありちか》とし、徳阿彌《とくあみ》を有親《ありちか》の子《こ》、三|郎《らう》親氏《ちかうぢ》として置《お》くであらう。此《こ》れが永享年間《えいきやうねんかん》の事《こと》ぢや。
親氏《ちかうぢ》の子《こ》が泰親《やすちか》、其子《そのこ》が信光《のぶみつ》、それから親忠《ちかたゞ》、長親《ながちか》、信忠《のぶたゞ》、清康《きよやす》、廣忠《ひろたゞ》を經《へ》て、家康《いへやす》に至《いた》る、凡《およ》そ九|代《だい》。其中《そのうち》で泰親《やすちか》が、參河《みかは》流寓《りうぐう》の公家《くげ》洞院中納言實?《どうゐんちうなごんさねひろ》を、厚遇《かうぐう》した恩返《おんがへ》しに、實?《さねひろ》歸洛《きらく》の後《のち》、泰親《やすちか》を三|河《かは》一|國《こく》の眼代《がんだい》に推薦《すゐせん》し、參河守《みかはのかみ》と稱《しよう》するに至《いた》つた。乃《すなは》ち松平家《まつだひらけ》の門戸《もんこ》は、此《こゝ》に於《おい》て張大《ちやうだい》の因《いん》を成《な》した。其子《そのこ》信光《のぶみつ》は、男女《だんぢよ》の子《こ》四十八|人《にん》を設《まう》け、附近《ふきん》に其《そ》の血脈《けつみやく》を滋蔓《じまん》せしめた。親忠《ちかたゞ》も、先業《せんげふ》を墜《おと》さず、其子《そのこ》長親《ながちか》に至《いた》りては、武勇《ぶゆう》卓絶《たくぜつ》、寛弘《くわんこう》にして衆心《しうしん》を得《え》、西參河《にしみかは》を蕩平《たうへい》し、更《さら》に其《そ》の勢力範圍《せいりよくはんゐ》は、東參河《ひがしみかは》に及《およ》び、漸《やうや》く今川氏《いまがはし》に薄《せま》らんとするの氣勢《きせい》を示《しめ》した。今川氏親《いまがはうぢちか》は、伊勢《いせ》新《しん》九|郎《らう》北條早雲をして、來《きた》り侵《をか》さしめたが、長親《ながちか》が之《これ》を撃退《げきたい》した爲《た》め、其《そ》の威風《ゐふう》四|隣《りん》に振《ふる》うた。但《た》だ彼《かれ》は壯歳《さうさい》剃髮《ていはつ》して、道閲《だうえつ》と號《がう》し、連歌《れんか》を樂《たのし》み、風月《ふうげつ》を事《こと》とし、此《これ》が爲《た》めに方《ま》さに振興《しんこう》す可《べ》かりし勢力《せいりよく》は、茲?《こゝ》に頓挫《とんざ》した。其子《そのこ》信忠《のぶたゞ》は得川記《とくせんき》にも、
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此人替[#二]先祖五代[#一]、無[#二]慈悲[#一]、舊功譜代家臣疎[#レ]之、諫言逆[#レ]耳、一門佗家不[#レ]思[#二]忠義[#一]、僅領[#二]安祥[#一]。
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とある通《とほ》りで、間《ま》もなく彼《かれ》は退隱《たいいん》を餘儀《よぎ》なくせられ、其子《そのこ》清康《きよやす》に家《いへ》を讓《ゆづ》つた、時《とき》に大永《たいえい》三|年《ねん》、清康《きよやす》十三|歳《さい》也《なり》。
清康《きよやす》は、家康《いへやす》の祖父《そふ》として、恥《はづ》かしからぬ人物《じんぶつ》であつた。彼《かれ》は父《ちゝ》の時代《じだい》に離散《りさん》した、舊臣《きうしん》を糾合《きうがふ》し、自《みづ》から安祥《あんしやう》に居《を》り、岡崎《をかざき》を恢復《くわいふく》し。更《さ》らに東參河《ひがしみかは》に向《むかつ》て、兵《へい》を出《いだ》し、豪族《がうぞく》牧野氏等《まきのしら》を平《たひら》げ、殆《ほと》んど參河《みかは》一|國《こく》を切《き》り從《したが》へたれば、甲斐《かひ》の武田信虎《たけだのぶとら》も、使《つかひ》を遣《つか》はして、隣好《りんかう》を結《むす》ぶに至《いた》つた。彼《かれ》にして長生《ちやうせい》したらば、松平氏《まつだひらし》は、今川《いまがは》、織田《おだ》の間《あひだ》に於《お》ける、一|大《だい》勢力《せいりよく》となつたであらう。然《しか》るに好事魔多《かうずまおほ》し、彼《かれ》は二十五|歳《さい》で横死《わうし》した。

※松平系圖

【四〇】徳川氏の衰運
清康《きよやす》は更《さ》らに鋒《ほこ》を西《にし》にして、尾張《をはり》に向《むか》うた。尾張《をはり》には信長《のぶなが》の父《ちゝ》信秀《のぶひで》ありて、崛強《くつきやう》の好敵手《かうてきしゆ》であつた。時《とき》は天文《てんぶん》四|年《ねん》十二|月《ぐわつ》、清康《きよやす》は信秀《のぶひで》の弟《おとうと》信光《のぶみつ》の内通《ないつう》によりて、森山《もりやま》に至《いた》つた。然《しか》るに清康《きよやす》の叔父《をぢ》内膳信定《ないぜんのぶさだ》、織田《おだ》に?《くわん》を納《い》れ、安祥《あんしやう》の虚《きよ》を覗《うかゞ》はんとする姦計《かんけい》を耳《みゝ》にし、軍《ぐん》を旋《めぐ》らす可《べ》く決心《けつしん》した。
折《を》りしも彼《かれ》の老臣《らうしん》、阿部大藏《あべおほくら》定吉|織田家《おだけ》へ返忠《かへりちう》の風説《ふうせつ》があつた。定吉《さだよし》之《これ》を聞《き》き、心安《こゝろやす》からず、其子《そのこ》彌《や》七に其事《そのこと》を語《かた》り、予《よ》は死《し》するも悔《く》いず、汝《なんぢ》は必《かな》らず父《ちゝ》の冤《ゑん》を明《あきらか》にせよと申《まを》し聞《き》けたるに。その翌《よく》五|日《か》(十二|月《ぐわつ》)の朝《あさ》、陣中《ぢんちう》に馬《うま》を取《と》り放《はな》し、騷動《さうどう》しければ、清康《きよやす》は自《みづか》ら出《い》でゝ之《これ》を制《せい》し、木戸《きど》を閉《し》めよ、取《と》り逃《にが》すなと差圖《さしづ》したるに。其《その》聲《こゑ》を聞《き》きたる彌《や》七は、扨《さ》ては愈《いよい》よ吾父《わがちゝ》の誅死《ちうし》ならんと誤解《ごかい》し。清康《きよやす》の肩先《かたさき》より、脇《わき》にかけて、村正《むらまさ》の利刄《りじん》を浴《あび》せ掛《か》けた。之《これ》を見《み》て扈從《こじう》の植村《うゑむら》新《しん》六|郎《らう》てふ、十六|歳《さい》の若者《わかもの》、直《たゞ》ちに彌《や》七を切《き》り伏《ふ》せた。此《こ》れが則《すなは》ち徳川家《とくがはけ》の森山崩《もりやまくづ》れである。時《とき》に清康《きよやす》は二十五|歳《さい》であつた。
當時《たうじ》仙《せん》千|代《よ》と稱《しよう》した其子《そのこ》廣忠《ひろたゞ》は、僅《わづ》かに十|歳《さい》の小童《せうどう》ぢや。兎《と》も角《かく》も彼《かれ》を擁立《ようりつ》したものゝ、いかで威令《ゐれい》の行《おこな》はる可《べ》き。彼《かれ》の曾祖父《そうそふ》長親《ながちか》道閲は、尚《な》ほ健在《けんざい》ではあるが、國政《こくせい》には頓著《とんちやく》せぬ。其《そ》の大叔父《おほをぢ》内膳信定《ないぜんのぶさだ》は、其《その》父《ちゝ》道閲《だうえつ》の意《い》を迎《むか》へ、岡崎《をかざき》に在《あ》りて、自《みづ》から後見《こうけん》と稱《しよう》し、政柄《せいへい》を專《もつぱ》らにした。
されば阿倍定吉《あべさだよし》は、幼君《ようくん》仙《せん》千|代《よ》を伴《ともな》ひ、岡崎《をかざき》を?《のが》れ、清康《きよやす》の妹聟《いもうとむこ》なる伊勢神戸城主《いせかんべのじやうしゆ》東條持廣《とうでうもちひろ》を便《たよ》つた。持廣《もちひろ》は彼《かれ》を首服《しゆふく》して、廣忠《ひろたゞ》と名乘《なの》らしめた。程無《ほどな》く持廣《もちひろ》は逝《ゆ》き、其《その》子《こ》義安《よしやす》は、廣忠《ひろたゞ》を織田方《おだかた》に人質《ひとじち》に遣《や》らんと企《くはだ》てた。故《ゆゑ》に定吉《さだよし》は更《さ》らに廣忠《ひろたゞ》を伴《ともな》ひ、此處《ここ》を去《さ》りて、遠州《ゑんしう》に隱《かく》れ。自《みづ》から駿河《するが》に往復《わうふく》し、今川氏《いまがはし》に、廣忠《ひろたゞ》歸國《きこく》の事《こと》を依頼《いらい》した。時《とき》宛《あたか》も義元《よしもと》は、其《その》兄《あに》の後《あと》を襲《つ》ぎたるばかりにて、奇貨《きくわ》居《お》く可《べ》しとなし、其《その》請《こひ》を容《い》れ。廣忠《ひろたゞ》は其《その》力《ちから》によりて、參河《みかは》牟呂城《むろじやう》に還《かへ》り、天文《てんぶん》六|年《ねん》五|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、舊臣《きうしん》一|同《どう》岡崎《をかざき》に廣忠《ひろたゞ》を迎《むか》ふる※[#「こと」の合字、206-12]となつた。曾祖父《そうそふ》道閲《だうえつ》も、寧《むし》ろ驩迎《くわんげい》した。大叔父《おほをぢ》信定《のぶさだ》も、餘儀《よぎ》なく恭順《きようじゆん》を表《へう》した。
曾《かつ》ては今川氏《いまがはし》の大兵《たいへい》に將《しやう》として、來《きた》り寇《こう》したる北條早雲《ほうでうさううん》を追《お》ひ捲?《まく》りたる、長親《ながちか》の盛時《せいじ》や、又《ま》た尾州《びしう》に攻《せ》め入《い》り、織田信秀《おだのぶひで》に一|沫《あわ》を吹《ふ》かせんとしたる、清康《きよやす》の意氣《いき》に比較《ひかく》すれば。唯《た》だ今川氏《いまがはし》の鼻息《びそく》を覗《うかが》うて、其《そ》の保護《ほご》の下《もと》に、松平氏《まつだひらし》の血食《けつしよく》を保《たも》たんとしたる、岡崎《をかざき》に於《お》ける君臣《くんしん》の苦心《くしん》は、洵《まこと》に諒《りやう》とす可《べ》きであるが、又《ま》た如何《いか》にも悲慘《ひさん》の極《きよく》と云《い》はねばならぬ。
廣忠《ひろたゞ》は家康《いへやす》の父《ちゝ》であるけれども、如何《いか》なる方面《はうめん》にも、家康《いへやす》を聯想《れんさう》す可《べ》き資格《しかく》は持《も》つて居《を》らなかつた。松平家《まつだひらけ》には由來《ゆらい》臆病漢《おくびやうもの》は皆無《かいむ》ぢや、廣忠《ひろたゞ》とても戰國《せんごく》の主將《しゆしやう》として、勇武《ゆうぶ》の點《てん》に、多《おほ》くの不足《ふそく》はなかつた。併《しか》し彼《かれ》は子供《こども》の時《とき》より、家《いへ》の不幸《ふかう》に出會《しゆつくわい》し、飽迄《あくまで》人情《にんじやう》の反覆《はんぷく》波瀾《はらん》に似《に》たる裡《うち》に、出入《しゆつにふ》したから、自《おのづ》から猜忌心《さいきしん》も多《おほ》かつた。加《くは》ふるに其《そ》の身體《しんたい》も健康《けんかう》でなかつたから、自《おのづ》から神經過敏《しんけいくわびん》となつたであらう。其爲《そのた》めに部下《ぶか》統御《とうぎよ》には、頗《すこぶ》る缺點《けつてん》を暴露《ばくろ》した。
彼《かれ》は天文《てんぶん》十|年《ねん》十六|歳《さい》にして、刈屋城主《かりやのじやうしゆ》水野忠政《みづのたゞまさ》の女《むすめ》を聘《へい》した。此《こ》れが家康《いへやす》の生母《せいぼ》傳通院夫人《でんづうゐんふじん》である。而《しか》して其《そ》の翌年《よくねん》十二|月《ぐわつ》廿六|日《にち》に、家康《いへやす》は生《うま》れた。然《しか》るに十二|年《ねん》七|月《ぐわつ》、忠政《たゞまさ》の子《こ》信元《のぶもと》が、織田氏《おだし》に加擔《かたん》したるにより、今川氏《いまがはし》の思惑《おもわく》を憚《はゞか》りて、同《どう》十三|年《ねん》、夫人《ふじん》水野氏《みづのし》を離別《りべつ》した。乃《すなは》ち家康《いへやす》は、生《うま》れて僅《わづ》かに足《あし》かけ三|歳《さい》の時《とき》、全《まつた》く其《そ》の生母《せいぼ》の手《て》を離《はな》れた、不幸兒《ふかうじ》である。
水野氏《みづのし》は、其後《そのご》久松俊勝《ひさまつとしかつ》に嫁《か》し、七|人《にん》の男女《だんぢよ》を擧《あ》げ、且《か》つ七十|餘歳《よさい》迄《まで》長生《ちやうせい》したれば、其《そ》の健康《けんかう》の程《ほど》も、想像《さうざう》するに餘《あま》りありだ。將《は》た廣忠《ひろたゞ》が從者《じうしや》を具《ぐ》して、其《その》兄《あに》刈屋《かりや》の城主《じやうしゆ》水野信元《みづののぶもと》に送《おく》り還《かへ》すに際《さい》し。從者《じうしや》に向《むか》ひ、吾兄《わがあに》は短慮《たんりよ》一|徹《てつ》の氣象《きしやう》なれば、卿等《けいら》の來《き》たるを見《み》ては、その儘《まゝ》にては濟《す》ませまじ、さすれば他日《たじつ》兩家《りやうけ》協和《けふわ》の邪魔《じやま》となるとて、諭《さと》し返《かへ》らしめ。自《みづか》ら刈屋《かりや》領内《りやうない》の百|姓《しやう》に輿《こし》を?《かゝ》せて、去《さ》りたるを見《み》れば、確《たし》かに思慮《しりよ》ある婦人《ふじん》である。何《いづ》れにしても家康《いへやす》の母《はゝ》たる面影《おもかげ》の、若干《いくら》か偲《しの》ばるゝではない乎《か》。
廣忠《ひろたゞ》は天文《てんぶん》十四|年《ねん》三|月《ぐわつ》、殆《ほと》んど父《ちゝ》清康《きよやす》と、同樣《どうやう》の厄難《やくなん》に罹《あ》うた。彼《かれ》は臣下《しんか》の岩松《いはまつ》八|彌《や》、一|目《もく》眇《べう》たりしが爲《た》め、片目《かため》八|彌《や》と綽名《あだな》せられたる者《もの》の爲《た》めに、不意《ふい》に閑室《かんしつ》に於《おい》て、其《その》股《もゝ》を刺《さ》された。八|彌《や》は逃《のが》れて門外《もんぐわい》に出《で》たが、恰《あたか》も橋上《けうじやう》で植村《うゑむら》新《しん》六|郎《らう》に出會《しゆつくわい》し、組打《くみうち》して與《とも》に空湟《からぼり》の中《なか》に墜《お》ちた。折《おり》しも松平信孝《まつだひらのぶたか》鑓《やり》引《ひ》き提《さ》げて、何事《なにごと》ぞと呼《よ》ぶ。植村《うゑむら》大事《だいじ》のやつぢや、我諸共《われもろとも》に刺《さ》せと云《い》ふ。信孝《のぶたか》ためらふ際《さい》、植村《うゑむら》遂《つ》ひに八|彌《や》を仕留《しと》めた。植村《うゑむら》は清康《きよやす》の?殺者《しさつしや》、阿倍《あべ》彌《や》七を打《う》ち果《はた》した漢《をのこ》ぢや。
此《こ》れは唯《た》だ一の插※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話《さふわ》に過《す》ぎぬが、廣忠《ひろたゞ》の一|代《だい》は、織田氏《おだし》との交戰《かうせん》にあらざれば、其《そ》の門葉《もんえふ》、末流《まつりう》の叛亂退治《はんらんたいぢ》に、維《こ》れ日《ひ》も足《た》らぬ有樣《ありさま》であつた。而《しか》して彼等《かれら》の中《うち》には、織田氏《おだし》に味方《みかた》して、其《そ》の手引者《てびきしや》となつた輩《やから》も、少《すくな》くなかつた。單獨自立《たんどくじりつ》する※[#「こと」の合字、209-8]能《あた》はぬ、弱國《じやくこく》の悲《かな》しさは、今川黨《いまがはたう》と、織田黨《おだたう》とが、松平氏《まつだひらし》一|家《け》一|門中《もんちう》に生《しやう》じ、且《か》つ内《うち》に於《お》ける權力《けんりよく》の爭奪等《さうだつとう》より、内訌《ないこう》續出《ぞくしゆつ》し。遂《つひ》には廣忠《ひろたゞ》の叔父《をぢ》信孝迄《のぶたかまで》も、彼《かれ》が今川氏《いまがはし》に賀正《がせい》に赴《をもむ》きたる留守中《るすちう》に、其《そ》の所領《しよりやう》若干《じやくかん》を沒收《ぼつしう》せられたりと云《い》ふの故《ゆゑ》を以《もつ》て、織田家《おだけ》に内通《ないつう》するに至《いた》つた。
斯《かゝ》る事情《じじやう》の下《もと》に於《おい》ては、今川氏《いまがはし》が人質《ひとじち》を、廣忠《ひろたゞ》に徴《ちよう》し、廣忠《ひろたゞ》が其《その》子《こ》竹《たけ》千|代《よ》―後《のち》に家康《いへやす》―を、之《これ》に充《あ》てたるも、亦《ま》た止《や》むを得《え》ぬ次第《しだい》である。此《こ》れは天文《てんぶん》十六|年《ねん》十二|月《ぐわつ》、織田信秀《おだのぶひで》が砦《とりで》を六|所《しよ》に築《きづ》きて、岡崎《をかざき》に逼《せま》り、廣忠《ひろたゞ》に取《と》りては、實《じつ》に危急存亡《ききふぞんばう》の時《とき》であつて、所謂《いはゆ》る背《せ》に腹《はら》は代《か》へられぬ場合《ばあひ》であつた。今川氏《いまがはし》は脚元《あしもと》の弱味《よわみ》に附《つ》け込《こ》み、附庸待遇《ふようたいぐう》の人質《ひとじち》を徴《ちよう》し。廣忠《ひろたゞ》は如何樣《いかやう》にしても、織田氏《おだし》の侵攻《しんこう》を防禦《ぼうぎよ》する必要《ひつえう》ありて、之《これ》に應《おう》じた。而《しか》して無心《むしん》なる六|歳《さい》の半孤兒《はんこじ》家康《いへやす》は、今《いま》や又《ま》た父《ちゝ》の膝下《しつか》を離《はな》れ、人質《ひとじち》の任務《にんむ》を果《は》たす可《べ》く、岡崎《をかざき》を出立《しゆつたつ》した。


【四一】參河の君臣
人質《ひとじち》として今川氏《いまがはし》に赴《おもむ》く可《べ》き家康《いへやす》は、却《かへつ》て其《そ》の敵《てき》たる、織田氏《おだし》の奪《うば》ふ所《ところ》となつた。そは廣忠《ひろたゞ》の繼室《けいしつ》、即《すなは》ち家康《いへやす》の繼母《けいぼ》の父《ちゝ》戸田康光《とだやすみつ》が、其《その》子《こ》五|郎《らう》政直《まさなほ》と謀《はか》り、陰《ひそか》に織田氏《おだし》に通《つう》じ、海路《かいろ》の方《はう》が安全《あんぜん》なりと欺《あざむ》き、家康《いへやす》を舟《ふね》に乘《の》せ、途中《とちう》より其《そ》の方向《はうかう》を轉《てん》じ、之《これ》を熱田《あつた》に送《おく》り附《つ》けたからである。
信秀《のぶひで》は廣忠《ひろたゞ》に向《むかつ》て、竹千代殿《たけちよどの》は確《たし》かに預《あづか》つた、此上《このうへ》は我方《わがはう》に加擔《かたん》あれと、申《まを》し遣《つかは》したが。流石《さすが》は廣忠《ひろたゞ》で、人質《ひとじち》の一個二個《ひとつふたつ》にて、其《その》心《こゝろ》を動《うご》かす者《もの》では御座《ござ》らぬと刎附《はねつ》け、愈《いよい》よ戰備《せんび》を修《をさ》めた。今川氏《いまがはし》では、廣忠《ひろたゞ》の心底《しんてい》も、此《こ》れで見屆《みとゞ》けた、此上《このうへ》は人質《ひとじち》の有無《うむ》に關《かゝは》らず、援助《ゑんじよ》す可《べ》しとて、雪齋《せつさい》長老《ちやうらう》を主將《しゆしやう》とし、大軍《たいぐん》を催《もよほ》して、織田勢《おだぜい》と戰《たゝか》うた。故《ゆゑ》に廣忠《ひろたゞ》も聊《いさゝ》か小康《せうかう》を得《え》た。然《しか》るに信秀《のぶひで》もさるもの、彼《かれ》は別段《べつだん》此《これ》が爲《た》めに家康《いへやす》を虐待《ぎやくたい》する事《こと》もなく、熱田《あつた》より、那古野《なごや》萬|松寺《しようじ》の天王坊《てんわうばう》に移《うつ》し、勤番《きんばん》の士《し》をして、之《これ》を監護《かんご》せしめた。當時《たうじ》彼《かれ》の生母《せいぼ》水野氏《みづのし》は、知多《ちた》なる阿古野城主《あこやじやうしゆ》久松俊勝《ひさまつとしかつ》に再嫁《さいか》して居《ゐ》たが、信秀《のぶひで》は母氏《はゝし》をして、家康《いへやす》を存問《そんもん》せしむるに、遺憾《ゐかん》なからしめた。されば家康《いへやす》も、敵方《てきがた》の俘虜《ふりよ》となりつゝも、先《ま》づ食客《しよくかく》同樣《どうやう》の生活《せいくわつ》は出來《でき》たであらう。
然《しか》も不幸《ふかう》の神《かみ》は、徳川家《とくがはけ》を何處迄《どこまで》も追跡《つゐせき》し、天文《てんぶん》十八|年《ねん》三|月《ぐわつ》六|日《か》、廣忠《ひろたゞ》は二十四|歳《さい》で逝《ゆ》いた。而《しか》して其《そ》の三|日前《かぜん》に、織田信秀《おだのぶひで》も四十二|歳《さい》で死《し》した。今《いま》は參河《みかは》は全《まつた》く無主人《むしゆじん》の地《ち》となつた。人心《じんしん》は恟々《きよう/\》として其《そ》の方向《はうかう》に惑《まど》ひ、或《あるひ》は織田氏《おだし》に内附《ないふ》して、新主人《しんしゆじん》―家康《いへやす》―を迎《むか》ふ可《べ》しと云《い》ひ、或《あるひ》は今《い》ま今川氏《いまがはし》と手《て》を切《き》るは、危策《きさく》なりと云《い》ひ、衆議《しうぎ》紛々《ふんぷん》の際《さい》、義元《よしもと》は重臣《ぢうしん》を遣《つか》はして、岡崎城《をかざきじやう》を收《をさ》め、命令《めいれい》悉《こと/″\》く今川氏《いまがはし》より出《い》づる※[#「こと」の合字、212-3]となり。此《こゝ》に於《おい》て徳川氏《とくがはし》の家中《かちう》一|同《どう》、其《そ》の節度《せつど》に從《したが》ふ※[#「こと」の合字、212-4]となつた。されど家康《いへやす》は、依然《いぜん》織田氏《おだし》の俘虜《ふりよ》であつた。
然《しか》るに茲?《こゝ》に信長《のぶなが》の庶兄《しよけい》、織田信廣《おだのぶひろ》の籠《こも》りたる安祥城《あんしやうじやう》、今川勢《いまがはぜい》に圍《かこ》まれ、信廣《のぶひろ》亦《ま》た其《そ》の俘虜《ふりよ》となつた。そこで今川方《いまがはかた》より、俘虜《ふりよ》交換《かうくわん》を申《まを》し込《こ》んだ。信長《のぶなが》は容易《ようい》に承諾《しようだく》せなかつたが、老臣共《らうしんども》の調停《てうてい》にて、愈《いよい》よ其事《そのこと》實行《じつかう》せられ、家康《いへやす》は天文《てんぶん》十八|年《ねん》十一|月《ぐわつ》十|日《か》、信長《のぶなが》によりて參河《みかは》の西《にし》、笠寺迄《かさでらまで》放還《はうくわん》せられ、岡崎《をかざき》に還《かへ》り、同月《どうげつ》二十三|日《にち》、更《さ》らに駿河《するが》に向《むか》ふことゝなつた。
六|歳《さい》にして國《くに》を出《い》で、思《おも》ひ掛《が》けなくも、敵國《てきごく》の俘虜《ふりよ》となり、八|歳《さい》にして家《いへ》に還《かへ》れば、父《ちゝ》在《あ》らず。更《さ》らに其座《そのざ》の温?《あたゝ》まるを待《ま》たず、他郷《たきやう》に人質《ひとじち》に赴《おもむ》く。凡《およ》そ人生《じんせい》のあらゆる苦杯《くはい》は、家康《いへやす》生來《せいらい》の第《だい》一|期間《きかん》に、殆《ほと》んど滿喫《まんきつ》し盡《つく》した。
今川義元《いまがはよしもと》は、家康《いへやす》の臣下《しんか》には、本領安堵《ほんりやうあんど》の命《めい》を與《あた》へ、然《しか》も一|切《さい》の財賦《ざいふ》は、悉《こと/″\》く之《これ》を今川家《いまがはけ》に納《をさ》め、家康《いへやす》には聊《いさゝ》かの扶持《ふち》を給《きふ》した。されば駿河《するが》に於《お》ける家康《いへやす》の生計《せいけい》は、決《けつ》して潤澤《じゆんたく》ではなかつた。臣下共《しんかども》も、既定知行《きていちぎやう》の切盛《きりもり》のみにて、其他《そのた》何等《なんら》、主人《しゆじん》よりの恩惠《おんけい》に預《あづか》る便宜《べんぎ》もなく、何《いづ》れも頗《すこぶ》る困窮《こんきう》した。而《しか》して此《こ》の君臣《くんしん》の十二|年間《ねんかん》の辛苦《しんく》が、當時《たうじ》天下《てんか》に比類《ひるゐ》なき、所謂《いはゆ》る參河武士氣質《みかはぶしかたぎ》を打成《だせい》したる、重《おも》なる原因《げんいん》の一に擧《あ》げねばならぬ。
彼等《かれら》は今川氏《いまがはし》に對《たい》しては、一と通《とほ》りならぬ氣兼《きがね》をした。『御譜代衆《ごふだいしう》家康家人は、駿河衆《するがしう》今川家人と云《い》へば、氣《き》を取《と》り、這《は》ひつくばひ、折《をり》かゞみて、肩《かた》の骨《ほね》をすぼめて、恐《おそれ》をなして歩《ある》くとも、若《も》しいかなる事《こと》をも、仕出《しだ》して、君《きみ》の御大事《おんだいじ》にも成《なり》もやせんと思《おも》ひて、其《それ》のみ計《ばか》りに、各々《おの/\》御譜代衆《ごふだいしう》、有《ある》にもあられぬ氣遣《きづかひ》をし、はしりめぐる。』〔參河物語〕とは、如何《いか》にも彼等《かれら》の精神状態《せいしんじやうたい》の活描《いきうつし》ぢや。
又《ま》た『年《ねん》には五|度《ど》三|度《ど》づゝ、駿河《するが》より尾張國《をはりのくに》にはたらきとてあり。竹千代殿《たけちよどの》の衆《しう》に先懸《さきがけ》をせよと申越《まをしこ》しけれども。竹千代樣《たけちよさま》は御座《ござ》なされず。誰御主《たれおんしゆ》としての先懸《さきがけ》をせんとは思《おも》へども、然《しか》れども御主《おんしゆ》は、何處《いづこ》に御座候《ござさふらふ》とも、譜代《ふだい》の御主樣《おしゆさま》えの御奉公《ごほうこう》なれば、各《おの/\》殘《のこ》らず罷出《まかりい》で、先驅《さきがけ》をして、親《おや》を打死《うちじに》させ、伯父姪從兄弟《をぢをひいとこ》を打死《うちじに》させ、其《その》身《み》も數多《あまた》の疵《きず》を蒙《かうむ》り、其間《そのあいだ》には尾張《をはり》よりはたらきければ、出《い》で候《さふらふ》て禦《ふせ》ぐ。晝夜《ちうや》心《こゝろ》を盡《つ》くし、身《み》を碎《くだ》きて働《はたら》く。』〔參河物語〕とあり。如何《いか》にも今《い》ま面《ま》のあたり、彼等《かれら》の述懷《じゆつくわい》を聽《き》くの感《かん》がある。
勞《らう》ありて報《はう》なく、功《こう》ありて賞《しやう》なく、眞《しん》に骨折損《ほねをりぞん》の草臥《くたび》れ?《まう》けとは、此事《このこと》ぢや。然《しか》も參河武士共《みかはぶしども》は、何《いづれ》の時《とき》か舊主《きうしゆ》を戴《いたゞ》き、先業《せんげふ》を恢弘《くわいこう》にせんと思《おも》ひ。一|念《ねん》の凝《こ》る所《ところ》、萬|苦《く》も厭《いと》はず、唯《た》だ其《そ》の時節《じせつ》の到來《たうらい》を待《ま》つて居《ゐ》た。而《しか》して此《かく》の如《ごと》くして、徳川氏《とくがはし》武力《ぶりよく》の中樞點《ちうすうてん》たる、參河武士氣質《みかはぶしかたぎ》は、鍛錬《たんれん》せられて來《き》た。


【四二】幼時の家康
八|歳《さい》より十九|歳《さい》迄《まで》、今川氏《いまがはし》の寄客《きかく》として、駿河《するが》に於《お》ける約《やく》十二|年間《ねんかん》は、家康《いへやす》の一|生《しやう》に取《と》りて、最《もつと》も不幸《ふかう》の時代《じだい》であつたと與《とも》に、又《ま》た最《もつと》も有益《いうえき》の時代《じだい》であつた。要《えう》するに家康《いへやす》其《その》人《ひと》の性格《せいかく》は、此間《このかん》の險《け》はしき世情《せじやう》、冷《ひやゝ》かなる人情《にんじやう》に、揉《も》みに揉《も》まれ、遂《つひ》に彼《かれ》が如《ごと》き、打《う》てども壞《やぶ》れず、推《お》せども倒《たふ》れぬ、自力宗《じりきしう》の一|大《だい》信念《しんねん》を、發起《ほつき》したものであらう。今川義元《いまがはよしもと》其人《そのひと》の心事《しんじ》は、如何樣《いかやう》に解釋《かいしやく》するにせよ、彼《かれ》は實《じつ》に此《こ》の英雄《えいゆう》の素質《そしつ》に向《むかつ》て、第《だい》一|鉗鎚《かんつゐ》を與《あた》へたる恩師《おんし》と云《い》はねばならぬ。
艱難《かんなん》其人《そのひと》を玉《たま》にすとは、決《けつ》して一|般《ぱん》に通用《つうよう》す可《べ》き金言《きんげん》ではない。弱質《じやくしつ》の者《もの》は、艱難《かんなん》に壓窄《あつさく》せられて、玉《たま》と成《な》らぬのみか、粉末《ふんまつ》となり、汚泥《をでい》となる。艱難《かんなん》に玉成《ぎよくせい》せらるゝ人物《じんぶつ》は、其《そ》の天稟《てんぴん》に、自《おのづ》から玉成《ぎよくせい》せらる可《べ》き、素質《そしつ》がなくてはならぬ。家康《いへやす》の如《ごと》きは、其《そ》の素質《そしつ》も十二|分《ぶん》、又《ま》た艱難《かんなん》も十二|分《ぶん》、所謂《いはゆ》る鬼《おに》に金棒《かなぼう》とは、此事《このこと》であつた。
彼《かれ》の駿河《するが》生活《せいくわつ》には、種々《しゆ/″\》の口碑《こうひ》が傳《つた》はつて居《を》る。然《しか》しながら其《そ》の居所《きよしよ》さへも定《さだ》かならぬ。徳川實記《とくがはじつき》の、所謂《いはゆ》る少將宮町《せうしやうみやまち》と云《い》ふは、現在《げんざい》靜岡停車場《しづをかていしやぢやう》附近《ふきん》の小梳神社《をぐしじんじや》ならむとの説《せつ》、〔山路愛山〕尤《もつとも》らしく聞《きこ》ゆる。寄客《きかく》とは申《まを》すものゝ、隨行《ずゐかう》の小姓《こしやう》、其他《そのた》の雜役《ざつえき》迄《まで》には、百|人《にん》以上《いじやう》の大家内《おほかない》であつたらう。當時《たうじ》彼《かれ》の外祖母《ぐわいそぼ》、俗稱《ぞくしよう》お萬《まん》の方《かた》、大河内元綱《おほかうちもとつな》の女《むすめ》にして、水野忠政《みづのたゞまさ》に嫁《か》し、家康《いへやす》の母《はゝ》傳通院《でんづうゐん》夫人《ふじん》を生《う》み、後《のち》剃髮《ていはつ》して玉桂慈仙《ぎよくけいじせん》と稱《しよう》する老尼《らうに》、此處《ここ》に在《あ》りて小菴《せうあん》を結《むす》び、僧智短《そうちたん》を住持《ぢうぢ》とした。家康《いへやす》は此處《ここ》にて手習《てならひ》し、老尼《らうに》は其《そ》の愛孫《あいそん》の面倒《めんだう》を見《み》た。家康《いへやす》は之《これ》を記念《きねん》すべく、龍變《りようへん》の後《のち》、華陽院《くわやうゐん》を建立《こんりう》し、智短《ちたん》を開山《かいざん》とした。〔烈祖成績〕而《しか》して其《そ》の生母《せいぼ》水野氏《みづのし》も、遙《はる》かに資給《しきふ》する所《ところ》ありたりと云《い》へば、彼《かれ》は又《ま》た不如意《ふによい》の中《うち》にも、幾許《いくばく》か人情《にんじやう》の温?光《をんくわう》にも、浴《よく》したる※[#「こと」の合字、216-7]と思《おも》はるゝ。特《とく》に其《そ》の老臣《らうしん》鳥居忠吉《とりゐたゞよし》が、岡崎《をかざき》より供贈《ぐぞう》を怠《おこた》らなかつた故《ゆゑ》に、餘《あま》りに不自由《ふじいう》はなかつたであらう。
本文《ほんぶん》の記者《きしや》は、屡《しばし》ば靜岡《しづをか》の賤機山《しづはたやま》の後《うしろ》なる、臨濟寺《りんざいじ》に遊《あそ》び、家康《いへやす》の手習《てならひ》の間《ま》や、其《そ》の手道具抔《てだうぐなど》を見《み》て、彼《かれ》が雪齋長老《せつさいちやうらう》に訓育《くんいく》せられた當時《たうじ》を、偲《しの》んだ。長老《ちやうらう》は今川義元《いまがはよしもと》の伯父《をぢ》で、今川家《いまがはけ》の諸葛孔明《しよかつこうめい》であつた。家康《いへやす》を尾張《をはり》より取《と》り出《いだ》したのも、彼《かれ》の計《はから》ひであつた。駿河《するが》に於《おい》て、彼《かれ》を手鹽《てしほ》にかけたと云《い》ふ事《こと》も、必《かなら》ずしも小説《せうせつ》のみではなからう。併《しか》し家康《いへやす》は、子供《こども》の時《とき》より、他人《たにん》の指揮《しき》で動《うご》く漢《をのこ》でなく、自《みづ》から動《うご》く漢《をのこ》であつた。彼《かれ》に取《と》りては、雪齋長老《せつさいちやうらう》の教育《けういく》よりも、自發《じはつ》の教育《けういく》が、より重大《ぢうだい》であつたと信《しん》ぜらるゝ。
家康《いへやす》晩年《ばんねん》には、頗《すこぶ》る學問《がくもん》を獎勵《しやうれい》し、保護《ほご》したが、彼《かれ》自身《じしん》は決《けつ》して學究《がくきう》でもなく、風流人《ふうりうじん》でもなく、又《ま》た讀書子《どくしよし》でもなかつた。其《そ》の小童時代《せうどうじだい》の傳説《でんせつ》は、石合戰《いしがつせん》とか、鷹狩《たかがり》とか、悉《こと/″\》く武張《ぶば》りたる事《こと》のみである。彼《かれ》が海道《かいだう》一の弓取《ゆみとり》と云《い》はるゝに至《いたつ》たのも、偶然《ぐうぜん》でない。彼《かれ》が阿部河原《あべがはら》に、近侍《きんじ》に負《お》はれて、石打《いしうち》を見物《けんぶつ》に赴《おもむ》きしに、一|隊《たい》は三百|人《にん》あまり、他隊《たたい》は其《そ》の半數《はんすう》計《ばか》りであつたが、彼《かれ》は其《そ》の寡勢《くわぜい》の方《はう》に與《く》みし、軈《やが》て彼《かれ》の先見通《せんけんどほ》り、此方《こなた》が勝《かつ》たとて、是《これ》を以《もつ》て彼《かれ》の聰明夙成《そうめいしゆくせい》の證徴《しようちよう》と云《い》ひ傳《つた》へたが。彼《かれ》としては、左程《さほど》深《ふか》き考《かんが》へがあつての事《こと》でもあるまいが、子供《こども》ながらも、自分流儀《じぶんりうぎ》の見識《けんしき》があつたには、相違《さうゐ》なからう。〔故老諸談〕
又《ま》た彼《かれ》が天文《てんぶん》廿|年《ねん》正月《しやうぐわつ》元日《ぐわんじつ》、今川屋形《いまがはやかた》群臣《ぐんしん》拜賀《はいが》の節《せつ》、
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君《きみ》幼《おさな》くてそが中《なか》におはしますを、松平清康《まつだひらきよやす》が孫《まご》なりと云《い》ふ者《もの》あれど、信《しん》ずる者《もの》なし。其時《そのとき》君《きみ》御座《おんざ》をたちて、縁先《えんさき》に立《たゝ》せられ、なにげなく、便溺《べんでき》し給《たま》ふに、自若《じじやく》として羞色《しうしよく》おはしまさず。此《これ》により、衆人《しうじん》驚嘆《きやうたん》せしとぞ。〔紀念録?〕
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十|歳《さい》の小童《せうどう》、宿將《しゆくしやう》老臣《らうしん》の、綺羅星《きらほし》を列《なら》ぶる間《あひだ》に於《おい》て、傍若無人《ばうじやくぶじん》の態《さま》睹《み》るが如《ごと》し。氣取《きど》るにあらず、衒《てら》ふにあらず、はにかむにあらず、唯《た》だ我《われ》自《みづ》から我《わ》が事《こと》を做《な》すのみ。小兒《せうに》は大人《たいじん》の父《ちゝ》ぢや。
彼《かれ》は又《ま》た鷹狩《たかがり》を好《この》み、蒲原《かんばら》に赴《おもむ》き、小鳥《ことり》を?《かり》し、孕石主水《はらみいしもんど》なる者《もの》の、邸後《ていご》の林《はやし》を屡《しばし》ば蹈《ふ》み荒《あら》した。主水《もんど》も餘《あま》りの煩《わづらは》しさに耐《た》へ兼《か》ね、參河《みかは》の忰《せがれ》にはあきれ果《はて》たりと言《い》ひ罵《のゝし》つた。彼《かれ》が志《こゝろざし》を得《え》たる後《のち》、其事《そのこと》を意趣《いしゆ》に持《も》ち、孕石《はらみいし》には切腹《せつぷく》を申《まを》し附《つ》けた。〔東武談叢〕
彼《かれ》は又《ま》た大祥寺《だいしやうじ》と云《い》ふ禪寺《ぜんでら》に、鷄《にはとり》二十|羽《ば》計《ばか》りあるを見《み》て、此《この》鳥《とり》一|羽《は》與《あた》へよと云《い》うた。住僧《ぢうそう》は答《こたへ》て皆《みな》なりとも献《たてまつ》らむ、菜園《さいゑん》を啄《ついば》まれて閉口《へいこう》なれども、自《みづ》から成育《せいいく》したものなれば、其儘《そのまゝ》に致《いた》し置《お》いたと申《まを》した。彼《かれ》は傍人《ばうじん》に向《むかつ》て、此《こ》の法師《はふし》は、鷄卵《たまご》喰《く》ふ※[#「こと」の合字、218-12]を知《し》らぬかと笑《わら》うた。〔君臣言行録〕油斷《ゆだん》のならぬ子忰《こせがれ》ではない乎《か》。
又《ま》た鳥居忠吉《とりゐたゞよし》は、其《その》子《こ》元忠《もとたゞ》の十三|歳《さい》になりけるを、遊《あそ》びの友《とも》として、十|歳《さい》の家康《いへやす》に近侍《きんじ》せしめた。或時《あるとき》家康《いへやす》百舌鳥《もづ》を飼《か》ひ立《た》て、鷹《たか》の如《ごと》く据《す》ゑよと申《まを》し附《つ》けた。然《しか》るに元忠《もとたゞ》の据《す》ゑ方《かた》、意《い》に叶《かな》はぬとて、縁《えん》の下《した》に突《つ》き落《おと》した。當時《たうじ》忠吉《たゞよし》は參河《みかは》の財賦《ざいふ》を主宰《しゆさい》し、家康《いへやす》も彼《かれ》の私財《しざい》にて、周濟《しうさい》せられつゝあれば、子供心《こどもごゝろ》にも、多少《たせう》の尋酌《しんしやく》ある可《べ》きに、聊《いさゝか》も其《そ》の痕跡《こんせき》なきは、行末《ゆくすゑ》如何《いか》なる名將《めいしやう》賢主《けんしゆ》にやなり給《たま》ふらむ。予《よ》老《お》いて其時《そのとき》に逢《あ》はざるを憾《うら》むと、忠吉《たゞよし》は云《い》へりとかや。〔鳥居家譜〕
以上《いじやう》は其《そ》の一|斑《ぱん》也《なり》。されど彼《かれ》が如何《いか》に、蛇《じや》は一|寸《すん》にして人《ひと》を呑《の》むの氣象《きしやう》あるかは、約略《やくりやく》の中《うち》に、看取《かんしゆ》する事《こと》が出來《でき》るであらう。彼《かれ》は徹上徹下《てつじやうてつか》、自力宗《じりきしう》の信者《しんじや》である、否《い》な寧《むし》ろ其《そ》の本尊《ほんぞん》である。三|歳兒《さいじ》の智慧《ちゑ》は、百|歳《さい》迄《まで》ぢや。彼《かれ》は歳《とし》と與《とも》に練達《れんたつ》した、然《しか》も當初《たうしよ》より彼《かれ》は、依然《いぜん》たる彼《かれ》であつた。


【四三】家康の成人
三|年《ねん》立《た》てば、三齡《みつつ》となる。家康《いへやす》の腕白時代《わんぱくじだい》も、何時《いつ》かは過《す》ぎ去《さ》つた。弘治《こうぢ》二|年《ねん》正月《しやうぐわつ》十五|日《にち》、十五|歳《さい》の竹千代《たけちよ》は、今川義元《いまがはよしもと》の手《て》にて加冠《かくわん》し、義元《よしもと》の身内《みうち》關口親永《せきぐちちかなが》理髮《りはつ》し、義元《よしもと》の一|字《じ》を取《と》りて、元信《もとのぶ》と名乘《なの》つた。同夜《どうや》親永《ちかなが》の女《むすめ》を迎《むか》へた。此《こ》れが他日《たじつ》家康《いへやす》の家庭《かてい》に於《お》ける、悲劇《ひげき》の女主人公《をんなしゆじんこう》築山殿《つきやまでん》とは、神《かみ》ならぬ身《み》の知《し》る由《よし》もなかつた。
彼《かれ》は義元《よしもと》に請《こ》うて、展墓《てんぼ》の爲《た》めに、岡崎《をかざき》に赴《おもむ》くの許可《きよか》を得《え》た。八|歳《さい》の時《とき》に、織田《おだ》を去《さ》り、今川《いまがは》に赴《おもむ》く途次《とじ》、一寸《ちよつと》立《た》ち寄《よ》りて以來《いらい》、初《はじ》めての歸城《きじやう》であれば、悔《くや》し涙《なみだ》を飮《の》みつゝ、多年《たねん》辛抱《しんばう》したる舊臣《きうしん》の面々《めん/\》、如何《いか》に驩迎《くわんげい》したる可《べ》き。彼《かれ》は今川氏《いまがはし》より入《い》れ置《お》きし、山田新右衞門《やまだしんゑもん》の本丸《ほんまる》にあるを見《み》て、弱年《じやくねん》の拙者《せつしや》、故老《こらう》に諮問《しもん》の要務《えうむ》もあればとて、自《みづか》ら讓《ゆづ》りて二の丸《まる》に宿《しゆく》した。思慮《しりよ》は彼《かれ》の天分《てんぶん》である、退《たい》一|歩《ぽ》は彼《かれ》の強味《つよみ》である。
鳥居忠吉《とりゐたゞよし》は、既《すで》に八十|餘《よ》の老人《らうじん》であつたが、内證《ないしよう》に蓄《たくは》へ置《お》きたる、庫中《こちう》の金穀《きんこく》を示《しめ》し、其手《そのて》を取《と》りて、此《これ》にて他日《たじつ》士《し》を養《やしな》ひ給《たま》へと申《まを》せしかば、家康《いへやす》も涙《なみだ》を流《なが》して之《これ》を謝《しや》した。忠吉《たゞよし》は錢《ぜに》を十|貫《くわん》づゝ束《たば》ねて、竪《たて》に積《つ》み置《お》きしを指《ゆびさ》し、斯《か》くすれば損《そん》ずる憂《うれ》ひなし。横《よこ》に積《つ》めば、わるゝものなりと語《かた》つた。家康《いへやす》は後年《こうねん》に至《いた》る迄《まで》、之《これ》を守《まも》りて、此《こ》れは伊賀《いが》忠吉が教《をしへ》しなるぞと云《い》うた。〔鳥居家譜〕
斯《か》くて彼《かれ》は翌年《よくねん》の春《はる》、再《ふたゝ》び駿河《するが》へ還《かへ》つた。而《しか》して元康《もとやす》と改《あらた》めた。此《こ》れは祖父《そふ》清康《きよやす》にあやかりての事《こと》であつた。彼《かれ》の理想《りさう》は、其《その》父《ちゝ》でなく、其《そ》の祖父《そふ》であつた。
永祿《えいろく》元年《ぐわんねん》、彼《かれ》は十七|歳《さい》にして初陣《うひぢん》をした。義元《よしもと》曰《いは》く、西參河《にしみかは》は、元來《ぐわんらい》貴家《きか》の領地《りやうち》也《なり》、然《しか》るに今《い》ま信長《のぶなが》の所屬《しよぞく》となりつゝあるは、怪《け》しからぬ次第《しだい》ならずや、切《き》り取《と》りて從前通《じうぜんどほ》りに爲《な》し給《たま》へと。蓋《けだ》し義元《よしもと》には、西上《せいじやう》の志《こゝろざし》があつて、家康《いへやす》を其《そ》の先驅者《せんくしや》としたものに他《ほか》ならぬぢや。
家康《いへやす》は先《ま》づ寺部《てらべ》を攻《せ》め、城守《じやうしゆ》鈴木日向守《すゞきひうがのかみ》を降參《かうさん》せしめた。義元《よしもと》は之《これ》を賞《しやう》して、腰刀《こしがたな》を贈《おく》り、併《あは》せて舊領《きうりやう》山中《やまなか》三百|貫《くわん》の地《ち》を返《かへ》した。武勳《ぶくん》を以《もつ》て、一|生《しやう》を始終《ししう》したる彼《かれ》は、此《かく》の如《ごと》くして戰陣《せんぢん》の首途《かどで》をした。
岡崎《をかざき》の舊臣共《きうしんども》は、家康《いへやす》既《すで》に成人《せいじん》したれば、岡崎《をかざき》に歸還《きくわん》せしむ可《べ》き旨《むね》を、義元《よしもと》に請《こ》うた。されど義元《よしもと》は、近々《きん/\》尾張《をはり》に出師《すゐし》するに就《つ》き、それ迄《まで》は此儘《このまゝ》にてと答《こた》へた。而《しか》して永祿《えいろく》二|年《ねん》三|月《ぐわつ》、彼《かれ》の長子《ちやうし》信康《のぶやす》は、關口氏《せきぐちし》によりて駿河《するが》に産《さん》した。此《こ》れが他日《たじつ》の岡崎《をかざき》三|郎《らう》で、彼《かれ》の家庭悲劇《かていひげき》の男主人公《をとこしゆじんこう》であつた。彼《かれ》は父《ちゝ》廣忠《ひろたゞ》十七|歳《さい》の子《こ》であつたが、彼《かれ》亦《ま》た十八|歳《さい》で父《ちゝ》となつた。而《しか》して此歳《このとし》、彼《かれ》の武功《ぶこう》の歴史《れきし》を飾《かざ》る可《べ》き、所謂《いはゆ》る大高兵糧入《おほたかひやうらうい》れの事《こと》があつた。
此事《このこと》に就《つい》ては、諸説區々《しよせつくゝ》である。兎《と》に角《かく》大高《おほたか》は、敵地《てきち》に斗出《としゆつ》したる要塞《えうさい》にて、小荷駄《こにだ》を此《こ》の城中《じやうちう》に運《はこ》び入《い》るゝには、敵《てき》の重圍《ぢうゐ》を突破《とつぱ》せざる可《べか》らずと云《い》ふ丈《だけ》は、明白《めいはく》である。而《しか》して家康《いへやす》が成功《せいこう》した事《こと》も、明白《めいはく》である。問題《もんだい》は如何《いか》にして、其《そ》の目的《もくてき》を達《たつ》し得《え》たるかにある。
一|説《せつ》には、信長《のぶなが》寺部《てらべ》、擧母《ころも》、廣瀬《ひろせ》の三|城《じやう》へ兵《へい》を籠《こ》め置《お》き、今川《いまがは》より軍糧《ぐんりやう》を大高《おほたか》に入《い》るゝ※[#「こと」の合字、222-11]あらんには、鷲津《わしづ》、丸根《まるね》兩城《りやうじやう》へ諜《しめ》し合《あは》せて、遮《さへぎ》り止《とゞ》めんと待《ま》ち設《まう》けた。然《しか》るに家康《いへやす》は其機《そのき》を察《さつ》し、先《ま》づ鷲津《わしづ》、丸根《まるね》を捨《す》てゝ、寺部《てらべ》の城下《じやうか》に放火《はうくわ》し、その城《しろ》を攻《せ》むる體《てい》を示《しめ》した。鷲津《わしづ》、丸根《まるね》の兩城《りやうじやう》は、寺部《てらべ》を救《すく》はんと用意《ようい》した其《そ》の虚隙《きよげき》に乘《じよう》じて、彼《かれ》は難《なん》なく兵糧《ひやうらう》を大高《おほたか》に運《はこ》び入《い》れた。〔武邊咄聞書〕
又《ま》た一|説《せつ》には、老功《らうこう》の武者共《むしやども》物見《ものみ》して、敵《てき》は大勢《たいぜい》也《なり》、今日《こんにち》の事《こと》、頗《すこぶ》る覺束《おぼつか》なしと、悲觀的《ひくわんてき》の報告《はうこく》をしたが。獨《ひと》り杉浦《すぎうら》八五|郎《らう》のみは、否々《いな/\》決《けつ》して然《しか》らず、敵《てき》には戰意《せんい》なし、若《も》し戰意《せんい》あらば、敵將《てきしやう》の旌幟《はたじるし》は、山《やま》を下《くだ》りて麓《ふもと》に至《いた》る可《べ》きに、左《さ》はなくて、漸次《ぜんじ》山上《さんじやう》に引《ひ》き揚《あ》げつゝあるは、是《こ》れ其《そ》の證據《しようこ》ぢや、速《すみやか》に斷行《だんかう》ありて然《しか》る可《べ》しと申《まを》した。家康《いへやす》は直《たゞ》ちに之《こ》れに聽《き》いて、其《そ》の目的《もくてき》を達《たつ》したともある。〔參河物語〕
又《ま》た如上《じよじやう》の二|件《けん》が、同時《どうじ》に行《おこな》はれたとする説《せつ》〔烈祖成績〕もある。何《いづ》れにしても大《だい》なる差支《さしつかへ》はない。家康《いへやす》が大高《おほたか》兵糧入《ひやうらうい》れに成功《せいこう》した事《こと》は、確實《かくじつ》と云《い》ふ可《べ》きぢや。事實《じじつ》は此《こ》れで澤山《たくさん》ぢや。
彼《かれ》が永祿《えいろく》三|年《ねん》、桶狹間役《をけはざまえき》に於《お》ける丸根《まるね》の戰功《せんこう》より、岡崎城《をかざきじやう》に復歸《ふくき》したる迄《まで》の事《こと》は、已《すで》に桶狹間役《をけはざまえき》の記事《きじ》に於《おい》て、叙《の》べ置《お》きたれば、茲?《こゝ》に繰《く》り返《かへ》す必要《ひつえう》はない。但《た》だ彼《かれ》が當時《たうじ》出陣《しゆつぢん》に際《さい》し、尾張知多郡阿古野《をはりちたぐんあこや》の久松俊勝《ひさまつとしかつ》の許《もと》なる、其《そ》の生母《せいぼ》を訪問《はうもん》したのは、寔《まこと》に殊勝《しゆしよう》の事《こと》と云《い》はねばならぬ。彼《かれ》は三|歳《さい》の時《とき》其《その》母《はゝ》に別《わか》れ、十九|歳《さい》にて對面《たいめん》す。此《こ》の母子再會《ぼしさいくわい》の眞情《しんじやう》は、果《はた》して奈何《いかん》。家康《いへやす》は決《けつ》して冷血動物《れいけつどうぶつ》ではなかつた。彼《かれ》には血《ち》もあり、涙《なみだ》もあつた。但《た》だ鋼鐵《かうてつ》の如《ごと》き意志《いし》が、恒《つね》に之《これ》を制裁《せいさい》して居《ゐ》た。又《ま》た打算的《ださんてき》機略《きりやく》が、恒《つね》に之《これ》を調節《てうせつ》して居《ゐ》た。
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家康家人を憐む事
岡崎に還らせ給ひし比にや、一日放鷹にならせ給ひけるに、折しも早苗とる頃なるが、御家人近藤何がし農民の内に交り早苗を挿て在しが、君の出ませしを見て、わざと田土もて面を汚し知られ奉らぬ樣したれど、とくに御見とめありて、かれは近藤にてはなきか、こゝへよべと仰あれば、近藤もやむことを得ず面を洗ひ、田畔に掛置し腰刀をさし、身には澁帷子の破れしに繩を手織にかけ、おぢ/″\はひ出し樣目も當られぬ樣なり、そのときわれ所領ともしなければ、汝等をもおもふまゝはごくむ事を得ず、汝等いさゝかの給分にては武備の嗜もならざれば、かく耕作せしむるに至る、さりとは不便の事なれ、何事も時に從ふ習なれば、今の内は上も下もいかにもわびしくいやしの業なりともつとめて、世を渡るこそ肝要なれ、憂患に生れて安樂に死すといふ古語もあれば、末長くこの心持うしなふな、いさゝか耻るに及ばずと仰有て御泪ぐませ給へば、近藤はいふもさらなり、供奉の者どもいづれも袖をうるほし、盛意のかしこきを感じ奉りけるとぞ。〔岩淵夜話別集〕

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