第五章 桶狹間役
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第五章 桶狹間役
【三三】新舊要素の衝突
今川義元《いまがはよしもと》と、織田信長《おだのぶなが》の衝突《しようとつ》は、室町時代《むろまちじだい》の舊要素《きうえうそ》と、安土桃山時代《あづちもゝやまじだい》の新要素《しんえうそ》との衝突《しようとつ》也《なり》。或《あるひ》は貴族的《きぞくてき》文弱趣味《ぶんじやくしゆみ》と、平民的《へいみんてき》武強趣味《ぶきやうしゆみ》の、衝突《しようとつ》と云《い》うてもよからう。
今川家《いまがはけ》は、足利將軍家《あしかゞしやうぐんけ》の同宗《どうそう》で、名門《めいもん》ぢや。足利家《あしかゞけ》に相續人《さうぞくにん》がなければ、參河《みかは》の吉良《きら》之《これ》を續《つ》ぎ、吉良《きら》になければ、駿河《するが》の今川《いまがは》之《これ》に續《つ》ぐとは、當時《たうじ》の通《とほ》り文句《もんく》であつた。義元《よしもと》十|世《せい》の祖《そ》國氏《くにうぢ》、始《はじ》めて今川氏《いまがはし》と稱《しよう》し、其《その》孫《まご》範國《のりくに》は、駿河《するが》を領《りやう》し、範國《のりくに》の二|子《し》貞世《さだよ》は、遠江《とほたふみ》の守護《しゆご》となり、又《ま》た鎭西《ちんぜい》の探題《たんだい》となり、頗《すこぶ》る戰功《せんこう》があつた。
貞世《さだよ》は人口《じんこう》に膾炙《くわいしや》する、今川状《いまがはじやう》の作者《さくしや》で、又《ま》た太平記《たいへいき》の紕謬《ひびう》を正《たゞ》さん爲《た》め、難太平記《なんたいへいき》を著《あら》はした。細川頼之《ほそかはよりゆき》も、彼《かれ》の廉讓《れんじやう》に傾倒《けいたう》した〔大日本史〕程《ほど》の漢《をのこ》で、文武《ぶんぶ》の達人《たつじん》今川了俊《いまがはれうしゆん》とは彼《かれ》の※[#「こと」の合字、170-2]ぢや。彼《かれ》の養子《やうし》―其實《そのじつ》は弟《おとうと》―仲秋《なかあき》早世《さうせい》した爲《た》め、遠江《とほたふみ》は幕府《ばくふ》に收《おさ》めたが、それでも久野《くの》、小笠原等《をがさはらら》の諸城主《しよじやうしゆ》は、駿河《するが》なる今川家《いまがはけ》に屬《ぞく》し、又《ま》た尾張《をはり》の斯波《しば》に通《つう》じた者《もの》もあり、遠州《ゑんしう》は二|分《ぶん》の姿《すがた》であつたが。義元《よしもと》の父《ちゝ》氏親《うぢちか》の時《とき》に、悉《こと/″\》く之《これ》を統《とう》一し、駿遠《すんゑん》二|州《しう》は、今川氏《いまがはし》の領土《りやうど》となつた。
參河《みかは》は吉良氏《きらし》に屬《ぞく》したが、東條《とうでう》、西條《さいでう》の兩家《りやうけ》に別《わか》れ、互《たが》ひに權力《けんりよく》の爭奪《さうだつ》を事《こと》とし、諸城主中《しよじやうしゆちう》には、今川《いまがは》に頼《よ》らんとした者《もの》もあり、今川《いまがは》も頗《すこぶ》る色氣《いろけ》があつたが。家康《いへやす》五|世《せい》の祖《そ》松平長親《まつだひらながちか》、此間《このかん》に勃興《ぼつこう》し、其《その》孫《まご》清康《きよやす》に至《いた》りては、西參河《にしみかは》の豪族《がうぞく》五十|人《にん》を從《したが》へ、岡崎《をかざき》に據《よ》りて、儼然《げんぜん》たる一|勢力《せいりよく》となつた。故《ゆゑ》に氏親《うぢちか》の子《こ》、義元《よしもと》の兄《あに》、今川氏輝《いまがはうぢてる》は、松平清康《まつだひらきよやす》と好《よしみ》を通《つう》じ、松平氏《まつだひらし》も亦《ま》た、今川氏《いまがはし》の與國《よこく》となつた。此《かく》の如《ごと》くして、今川氏《いまがはし》の勢力《せいりよく》は、歩《ほ》一|歩《ぽ》づゝ尾張《をはり》に接近《せつきん》して來《き》た。而《しか》して織田氏《おだし》も漸《やうや》く此頃《このごろ》に於《おい》て、斯波氏《しばし》に代《かは》り、尾張《をはり》にて頭首《とうしゆ》を擡《もた》げ出《だ》した。
今川家《いまがはけ》は其《そ》の領民《りやうみん》よりは、屋形《やかた》と唱《とな》へられた。其《そ》の尊大《そんだい》の状?《じやう》、知《し》る可《べ》しだ。室町御所《むろまちごしよ》の雛形《ひながた》を、駿河《するが》に製造《せいざう》した。而《しか》して義元《よしもと》の祖父《そふ》義忠《よしたゞ》の時《とき》より、京都《きやうと》の朝紳《てうしん》と結婚《けつこん》し、頻繁《ひんぱん》なる公家《くげ》交際《かうさい》の結果《けつくわ》は、自家《じか》も公家《くげ》其者《そのもの》となつた。高等《かうとう》食客《しよくかく》の公家《くげ》も、續々《ぞく/\》京都《きやうと》から舞《ま》ひ込《こ》んだ。府中《ふちう》の地名《ちめい》さへも、清水《きよみづ》、愛宕《をたぎ》、北山《きたやま》、西山《にしやま》抔《など》と唱《とな》へた。蹴鞠《けまり》やら、和歌《わか》やら、風流《ふうりう》の嗜《たしな》みは、追々《おひ/\》と長《ちやう》じて來《き》た。西《にし》の大内《おほうち》、東《ひがし》の今川《いまがは》、宛《あたか》も是《こ》れ擬室町家《ぎむろまちけ》の二|幅對《ふくつゐ》ではあるまい乎《か》。大内《おほうち》は海外貿易《かいぐわいぼうえき》から、其《その》利《り》を占《し》めた。今川《いまがは》は領内《りやうない》の聚斂《しうれん》から、其《その》富《とみ》を集《あつ》めた。而《しか》して何《いづ》れも之《これ》を驕奢《けうしや》に使用《しよう》した。
今川義元《いまがはよしもと》は、氏輝《うぢてる》の弟《おとうと》で、幼《えう》にして富士《ふじ》善徳寺《ぜんとくじ》に入《い》りて、禪僧《ぜんそう》となつた。兄《あに》が廿四|歳《さい》で死《し》んだ爲《た》め、其跡《そのあと》を相續《さうぞく》した。母《はゝ》は中御門大納言宣胤《なかみかどだいなごんのぶたね》の女《むすめ》ぢや。彼《かれ》は足《あし》短《みじか》く、胴《どう》長《なが》く、片輪《かたわ》であつた。〔武功雜記〕彼《かれ》は總髮《そうはつ》、口《くち》に鐵漿《おはぐろ》附《つけ》て公家衆《くげしう》の面《かほ》であつた。〔集覽桶廻間記〕併《しか》し彼《かれ》は凡物《ぼんぶつ》ではなかつたらしい。そは彼《かれ》が衆望《しうばう》により、其《その》兄《あに》花倉寺《くわさうじ》の住持《ぢうぢ》良眞《りやうしん》を超《こ》えて還俗《げんぞく》し、氏輝《うぢてる》の後《あと》を襲《つ》いだ事《こと》でも分《わか》るではない乎《か》。又《ま》た彼《かれ》は雪齋《せつさい》長老《ちやうらう》に、軍國《ぐんこく》の大務《たいむ》を委《ゐ》し、長老《ちやうらう》在世《ざいせい》の間《あひだ》、其《その》威《ゐ》四|隣《りん》に振《ふる》うたのでも分《わか》るではない乎《か》。彼《かれ》は駿《すん》、遠《ゑん》、參《さん》三|個國《かこく》の主《しゆ》たる、氣高《けだか》き樣子《やうす》があつた。〔甲陽軍鑑〕彼《かれ》は周邊《しうへん》の形勢《けいせい》を見《み》て、之《これ》に應酬《おうしう》するの略《りやく》もあつた。
然《しか》も累代《るゐだい》の富貴《ふうき》は、驕奢《けうしや》、文弱《ぶんじやく》の弊《へい》を助長《じよちやう》した。兩家老《りやうからう》、兩奉行《りやうぶぎやう》、十八|人衆等《にんしうとう》の格式《かくしき》は、無能《むのう》を奬《すゝ》めて、實材《じつざい》を?《ちゆつ》せしめた。義元《よしもと》も雪齋《せつさい》死後《しご》は、孤掌《こしやう》鳴《な》り難《がた》き感《かん》があつたであらう。然《しか》も義元《よしもと》彼《かれ》自身《じしん》さへも、幡《はた》を京都《きやうと》に立《た》つ可《べ》く、出陣《しゆつぢん》の首途《かどで》、沓掛《くつかけ》にて具足《ぐそく》を著《つ》け、馬《うま》に乘《の》りたるに、落馬《らくば》したり〔集覽桶廻間記〕とあれば、彼《かれ》の文弱《ぶんじやく》の程《ほど》も、思《おも》ひやらるゝではない乎《か》。之《これ》を信長《のぶなが》が、其《その》弟《おとうと》秀孝《ひでたか》の變《へん》を聞《き》き、清洲《きよす》より守山《もりやま》迄《まで》、三|里《り》の路《みち》を、唯《た》だ一|騎《き》がけに、一|時《とき》に驅《か》け、更《さ》らに又《ま》た三|里《り》の路《みち》を、其儘《そのまゝ》驅《か》け還《か》へり、『信長《のぶなが》は朝夕《あさゆふ》御馬《おうま》をせめさせられ候《さふらふ》間《あひだ》、今度《こんど》も上下《じやうげ》あらくめし候《さふら》へども、こたへ候《さふらふ》て、不[#レ]苦候《くるしからずさふらふ》。』〔信長公記〕と嘆美《たんび》せしめたるに比《くら》べて、其《そ》の優劣《いうれつ》如何《いかん》である。
信長《のぶなが》には門閥《もんばつ》の誇《ほこ》りがない、因襲《いんしふ》の桎梏《しつこく》がない。彼《かれ》は唯《た》だ己《おのれ》を恃《たの》んだ、彼《かれ》は唯《た》だ我《わ》が思《おも》ふ通《とほ》りにやりつけた。而《しか》して彼《かれ》は、極《きは》めて平民的《へいみんてき》であつた。彼《かれ》は公家《くげ》上臈?《じやうらふ》と偕《とも》に樂《たの》しむよりも、將士《しやうし》と樂《たのし》み、民衆《みんしう》と樂《たのし》んだ。
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一|上總介殿《かづさのすけどの》は、天人《てんにん》の御仕立《おしたて》に御成《おなり》候《さふらふ》て、小鼓?《こつゞみ》を遊《あそば》し、女《をんな》をどりを被成候《なされさふらふ》。津島《つしま》にては、堀田道空《ほつただうくう》、庭《には》にて一をどり遊《あそば》し、それより清洲《きよす》へ御歸《おかへり》也《なり》。津島《つしま》五ヶ|村《そん》の年寄共《としよりども》、おどりの返《かへ》しを仕候《つかまつりさふらふ》。是又結構無[#二]申計[#一]樣體也《これまたけつこうまをすばかりなきやうだいなり》、清洲《きよす》へ至《いた》り候《さふらふ》、御前《ごぜん》へめししかられ、是《これ》はひよう?けたり、又《また》は似相《にあひ》たり抔《など》と、それ/\あひ/\としほらしく、一々|御詞《おことば》懸《かけ》られ、御團《おんうちは》にて、無[#二]冥加[#一]《めうがなく》あふがせられ、御茶《おんちや》を給候《たまへさふら》へと被下《くだされ》、忝《かたじけなき》次第《しだい》、天《てん》の幸《さち》、身《み》を忘《わす》れ難有皆感涙《ありがたくみなかんるゐ》を流《なが》し被[#レ]歸候《かへられさふらふ》。〔信長公記〕
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彼《かれ》は自《みづ》から其《そ》の將士《しやうし》と踊《をど》るのみならず、民衆《みんしう》の踊《をど》りを見物《けんぶつ》し、之《これ》を品評《ひんぴやう》し、之《これ》を讃稱《さんしよう》し、自《みづ》から踊者《をどるもの》を扇《あふ》ぐに至《いた》つた。此《こ》れで收攬《しうらん》が出來《でき》ぬ人心《じんしん》ならば、それは石《いし》である。
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今川氏の制法
一譜代の名田地頭無[#二]意趣[#一]に取放事停止之事
但年貢等無沙汰に於ては是非に不[#レ]及也兼又彼名田年貢を可[#二]相増[#一]由望む人あらば本百姓に望の如く可[#二]相増[#一]歟の由尋之上無[#二]其儀[#一]は年貢増に付て可[#二]取放[#一]也但地頭本名主を取替ん爲め新名主を語らひ可[#二]相増[#一]の虚計を構へは地頭に於ては彼所領を可[#二]沒收[#一]至[#二]新主[#一]可[#レ]處[#二]罪科[#一]也
一田畠?山野を論する事あり本跡糺明之上剩新儀を構ふる輩於[#レ]無[#二]道理[#一]者彼所領の中三分一を可[#二]沒收[#一]此儀先年議定畢
一川成海成之地打起すに付て境を論する儀あり彼地年月を經て本跡難くは相互に立つる所の境の内中分に可[#二]相定[#一]歟又各別の給人をも可[#レ]被[#レ]付也
一相論央手出の輩理非を不[#レ]論越度たる事舊規よりの法度なり雖[#レ]然道理分明の上横妨の咎永代に及て不便たる歟自今以後は三ヶ年の後公事を翻理非を糺明し可[#レ]有[#二]落居[#一]也此條評論之上?以[#二]追加[#一]爲[#レ]定也
一古被官他人召使ふ時本主人見合に取事停[#二]止之[#一]畢唯※[#二の字点、1-2-22]道理に任裁許に預り請取へきなり兼又主人聞出し當主に相届の上は被官逐電せしめば自餘の者以[#二]一人[#一]可[#二]返付[#一]也
一譜代の者自然召使ふ者逐電の後廿餘年を經ば本主人之を糺すに不[#レ]及但失あつて逐電の者に於ては此定に在らさるべし
一夜中に及他人の門の中へ入獨佇む輩或知者なく或は兼約なくは當座搦捕又は計らさる殺害に及ぶとも亭主其誤ある可からざるなり兼又他人の下女に嫁する輩兼て其主人に不[#レ]届又は傍輩に知らさず夜中に入來は屋敷の者其咎掛かる可からず但糺明之後下女に嫁す儀於[#二]顯然[#一]者分國中を追放す可きなり
一喧嘩に及輩不[#レ]論[#二]理非[#一]兩方共に可[#レ]行[#二]死罪[#一]也將又相手取掛くると云ふとも令[#二]堪忍[#一]剩被[#レ]疵に於ては事は非儀たりと云ふとも當座穩便の働利運たる可き也兼又與力の輩其芝に於て疵を蒙り又は死するとも不[#レ]可[#レ]及[#二]沙汰[#一]の由先年完了次喧嘩人の成敗當座其身一人所罪たる上妻子家内等に掛かる可からず但芝より落行跡に於ては妻子其咎掛かる可き歟雖[#レ]然死罪迄は有る可からざるか
一喧嘩相手の方人より取々に申本人分明ならざる事あり所詮其芝に於て喧嘩を取持走り廻り剩疵を蒙る者本人成敗に及ふ可きなり於[#二]以後[#一]本人露顯せば主人の覺悟に有べきなり
一被官人喧嘩並に盜賊の咎主人掛からさる事は勿論なり雖[#レ]然未分明ならず子細を可[#レ]尋と號し拘へ置く内彼者逃失せば主人の所領一所を可[#二]沒收[#一]此所帶は可[#レ]處[#二]罪過[#一]
一童イサカヒの事童の上は不[#レ]及[#二]是非[#一]但兩方の親制止を加ふ可き所へ鬱?憤を致さば父子共に可[#レ]爲[#二]成敗[#一]也
一童過ちて友を殺害し無意趣の上は不[#レ]可[#レ]及[#二]成敗[#一]但十五以後の輩は其咎免かれ難き歟
一知行分無[#二]左右[#一]沽却する事停[#二]止之[#一]畢但難[#レ]去要用あらば子細を言上せしめ以[#二]年期[#一]定べきか自今以後自由の輩は可[#レ]處[#二]罪過[#一]
一知行の田畠年期を定め沽却之後年期未畢らさるに地檢を遂る事停[#二]止之[#一]了但沽却以前に地檢之儀令[#二]契約[#一]沽券に載又は百姓私として賣置名田者沙汰の限に在らざる也雖[#レ]然地頭沽券に判形を加へは同可[#レ]停[#二]止之[#一]
一新井溝近年相論する事に及へり所詮他人の知行を通す上は或は替地或は井料勿論也然は奉行人を立て速に井溝の分限を計らふ可し奉行人に至りては至[#二]罪文[#一]私なき樣に可[#二]沙汰[#一]也但自[#二]往古[#一]井料の沙汰なき所に於ては沙汰の限りに在らざる也
一他國人に出置知行沽却する事頗謂れざる次第なり自今以後停止之事
一故なき古文書を尋取名田等を望事一向停[#二]止之[#一]畢但讓状あるに於ては可[#レ]爲[#二]各別[#一]借米之斷りは其年一年は契約の如くたるべし次の年より本米計に一石には一石五ヶ年の間に本利合六石たるべし十石には十石本利合六十石たるべし六年に及びて無沙汰に付ては子細を當奉行並領主に斷り譴責に可[#レ]及也
一借錢の事一杯に成りて後二ヶ年之間は錢主相待べし及[?