第四章 少壯時代の信長
戻る ホーム 上へ 進む

 

第四章 少壯時代の信長
【二七】信長の時代
漸《やうや》く織田信長《おだのぶなが》の時代《じだい》に到著《たうちやく》した。應仁《おうにん》の大亂《たいらん》以來《いらい》、七八十|年《ねん》、蜂《はち》の巣《す》を突《つ》き壞《こは》したる如《ごと》き、騷亂《さうらん》の結果《けつくわ》は、日本全國《にほんぜんこく》に群雄割據《ぐんゆうかつきよ》の形勢《けいせい》を來《き》たし、世《よ》の中《なか》は自動的《じどうてき》に、統《とう》一の傾向《けいかう》を生《しやう》じた。但《た》だ此《こ》の傾向《けいかう》を促進《そくしん》して、各個《かくこ》の小丸《せうぐわん》を打《うつ》て、一|大丸《だいぐわん》となすは、英雄漢《えいゆうかん》の事業《じげふ》ぢや。舞臺《ぶたい》は開《ひら》いた、役者《やくしや》は誰乎《たれか》。第《だい》一|幕《まく》は、信長《のぶなが》ぢや。
時機《じき》は、信長《のぶなが》の製造《せいざう》した時機《じき》でない。此《こ》の乘《じよう》ず可《べ》き時機《じき》は、群雄《ぐんゆう》に對《たい》して、一|切《さい》平等《びやうどう》であつた。毛利元就《まうりもとなり》にも、北條氏康《ほうでううぢやす》にも、上杉謙信《うへすぎけんしん》にも、武田信玄《たけだしんげん》にも、今川義元《いまがはよしもと》にも、乃至《ないし》九|州《しう》の島津《しまづ》、奧州《あうしう》の伊達《だて》にも、皆《み》な同《どう》一だ。但《た》だ之《これ》に乘《じよう》じ得《え》たのは、信長《のぶなが》のみであつた。其故《そのゆゑ》は何《なん》ぞ、手近《てぢか》き理由《りいう》の一としては、彼《かれ》が地《ち》の利《り》を得《え》たからと云《い》はねばならぬ。
地《ち》の利《り》とは、尾張《をはり》が京都《きやうと》に近《ちか》からず、遠《とほ》からず、恰《あたか》も適當《てきたう》の距離《きより》を保《たも》つたからだ。畠山氏《はたけやまし》の河内《かはち》に於《お》ける、三|好《よし》、松永等《まつながら》の攝津《せつつ》、山城《やましろ》に於《お》ける、形勝《けいしよう》の地《ち》を占《し》めて居《を》るに相違《さうゐ》ない。併《しか》し動《やゝ》もすれば其《そ》の領地《りやうち》が、交戰《かうせん》の衢《ちまた》となるを免《まぬ》かれぬ。乃《すなは》ち恒《つね》に震源地《しんげんち》たる虞《おそれ》あるが爲《た》めに、一|日《にち》も其《そ》の民人《みんじん》を安息《あんそく》せしむる※[#「こと」の合字、139-5]が能《あた》はぬ。之《これ》に反《はん》して毛利《まうり》、北條《ほうでう》の如《ごと》きは、一|方《ぽう》に雄長《ゆうちやう》たるには、餘《あま》りあるの勢力《せいりよく》ぢやが、幟《はた》を京都《きやうと》に立《た》て、天下《てんか》に號令《がうれい》するには、甚《はなは》だ飛《と》び離《はな》れて、二|階《かい》から目藥《めぐすり》の嫌《きらひ》がある。特《とく》に謙信《けんしん》、信玄《しんげん》の如《ごと》きは、畢生《ひつせい》の目的《もくてき》、唯《た》だ此《これ》に存《そん》したるに拘《かゝは》らず、遂《つひ》に之《これ》を果《は》たすことの能《あた》はなかつたのは、越後《ゑちご》や、甲斐《かひ》の地《ち》の利《り》が、惡《あ》しかつた爲《た》めと云《い》ふ可《べ》き事情《じじやう》も、確《たし》かにある。彼等《かれら》は進《すゝま》んとすれば、背《はい》を襲《おそ》はれ、後《うしろ》を顧《かへりみ》れば、前《まへ》を塞《ふさ》がる。單騎長驅《たんきちやうく》、とても思《おも》ふ樣《やう》には參《まゐ》らなかつた。信長《のぶなが》も當初《たうしよ》から、安土《あづち》迄《まで》出張《でば》ることが出來《でき》たならば、猶更《なほさ》ら好都合《かうつがふ》であつたかも知《し》れぬが。何《いづ》れにせよ、彼《かれ》は同時《どうじ》の群雄《ぐんゆう》に比《ひ》して、多大《ただい》の便宜《べんぎ》を占《し》めて居《ゐ》た。
且《か》つ尾張《をはり》は、木曾川流《きそせんりう》の沖積層《ちうせきそう》で、豐沃《ほうよく》の地ぢや。木曾川《きそがは》を控《ひか》へたる、南東《なんとう》は一|望《ぼう》平野《へいや》で、美田《びでん》、饒土《ぜうと》ぢや。東方《とうはう》參河《みかわ》に接《せつ》したる地《ち》、及《およ》び知多半島《ちたはんたう》、何《いづ》れも岡陵《かうりよう》で、其《そ》の一|州中《しうちう》、三百|米突《めーとる》以上《いじやう》の山《やま》は無《な》い。信長《のぶなが》が此處《ここ》より起《おこ》つたは、良《まこ》とに仕合《しあはせ》と云《い》はねばならぬ。如何《いか》なる原始的《げんしてき》戰爭《せんさう》でも、無代價《むだいか》では出來《でき》ぬ。若《も》し商賣《しやうばい》とすれば、戰爭《せんさう》は最《もつと》も資本《しほん》を要《えう》する商賣《しやうばい》ぢや。まして戰爭《せんさう》が漸《やうや》く節制的《せつせいてき》となり、大部隊《だいぶたい》の驅《か》け引《ひ》きを事《こと》とし、長槍《ちやうさう》、火銃《くわじう》の使用《しよう》せらるゝの時《とき》に於《おい》ては、人《ひと》と、貨《くわ》とは、戰爭《せんさう》に必需《ひつじゆ》の要素《えうそ》ぢや。然《しか》るに尾張《をはり》は人《ひと》庶《おほ》く、家《いえ》富《と》む、信長《のぶなが》の覇業《はげふ》の基《もとゐ》は、確《たし》かに此《これ》より成《な》るとも云《い》ひ得可《うべ》きではない乎《か》。
假《か》りに信長《のぶなが》が、應仁《おうにん》の頃《ころ》、奧州《あうしう》に生《うま》れたならば、彼《かれ》は果《はた》して日本《にほん》統《とう》一の業《げふ》を、大成《たいせい》し得可《うべ》き乎《か》。將《は》た今川氏眞《いまがはうぢざね》、織田信雄《おだのぶを》の如《ごと》き輩《はい》をして、信長《のぶなが》の時《とき》と、地《ち》とを占《し》めしめば、果《はた》して信長《のぶなが》程《ほど》の仕事《しごと》を成《な》し遂《と》ぐ可《べ》き乎《か》。何《いづ》れも覺束《おぼつか》なしと云《い》はねばなるまい。單《たん》に人物《じんぶつ》のみに重《おも》きを措《お》くも、偏見《へんけん》ぢや。さりとて單《たん》に境遇《きやうぐう》、氣運《きうん》のみに重《おも》きを措《お》くは、猶更《なほさ》らの偏見《へんけん》ぢや。船《ふね》は潮《しほ》に浮《うか》び、帆《ほ》は風《かぜ》に從《したが》ふ、されど船《ふね》を目的《もくてき》の港《みなと》に達《たつ》するは、船頭《せんどう》の力《ちから》である。龍《りう》は雲《くも》に乘《じよう》じ、人《ひと》は勢《いきほひ》に乘《じよう》ず。吾人《ごじん》は信長《のぶなが》に就《つい》て語《かた》るにも、時《とき》と、地《ち》とに關《くわん》する、若干《じやくかん》の風袋《ふうたい》を控除《こうぢよ》せねばならぬ。併《しか》し控除《こうぢよ》しても、正味《しやうみ》の信長《のぶなが》は、愈《いよい》よ偉大《ゐだい》の英雄《えいゆう》である※[#「こと」の合字、141-4]を、識認《しきにん》せねばならぬ。
但《た》だ然《しか》らば何故《なにゆゑ》に、信長《のぶなが》の如《ごと》き人物《じんぶつ》は生《しやう》じたる乎《か》と云《い》へば、其《そ》の一|半《ぱん》は、時勢《じせい》が加工《かこう》したとも云《い》ひ得可《うべ》きであらう。併《しか》し如何《いか》に加工《かこう》しても、石《いし》を珠《たま》と爲《な》す※[#「こと」の合字、141-7]は出來《でき》ぬ、鉛《なまり》を鋼《はがね》と爲《な》す※[#「こと」の合字、141-8]は出來《でき》ぬ。一|切《さい》外來《ぐわいらい》の感化《かんくわ》を控除《こうぢよ》しても、信長《のぶなが》は、天成《てんせい》の英雄《えいゆう》であつたと云《い》はねばならぬ。然《しか》らば彼《かれ》は何故《なにゆえ》に生《しやう》じた、之《これ》を答《こた》へ得《う》る者《もの》は、唯《た》だ天《てん》のみである。


【二八】信長の家系
信長《のぶなが》は桓武天皇《くわんむてんわう》より出《い》でたる、平重盛《たひらのしげもり》の子孫《しそん》と稱《しよう》せられて居《を》る。秀吉《ひでよし》は恐《おそ》れ多《おほ》くも、至尊《しそん》の御落胤《ごらくいん》との説《せつ》もある。徳川家康《とくがはいへやす》は新田義貞《につたよしさだ》と同宗《どうそう》と云《い》ふ事《こと》である。秀吉《ひでよし》の御落胤説《ごらくいんせつ》は勿論《もちろん》、他《た》の二|者《しや》に就《つい》ても、研究《けんきう》の餘地《よち》がある。但《た》だ秀吉《ひでよし》は筑阿彌《ちくあみ》の繼子《まゝこ》で、家康《いへやす》は徳阿彌《とくあみ》の裔《えい》であることは確實《かくじつ》だ。英雄《えいゆう》が風雲《ふううん》に乘《じよう》じて興《おこ》つた後《のち》には、種々《しゆ/″\》の附會説《ふくわいせつ》が出《で》て來《く》るものぢや。
月並的《つきなみてき》の説《せつ》では、小松重盛《こまつしげもり》の次子《じし》が資盛《すけもり》で、彼《かれ》が壇《だん》の浦《うら》に沒《ぼつ》する前《まへ》、其《その》妾《せふ》は一|子《し》親眞《ちかざね》を懷《ふところ》にしつゝ、近江國《あふみのくに》津田邑《つだのいふ》に匿《かく》れた。妾《せふ》は美人《びじん》であつて、津田《つだ》の邑長《いふちやう》に嫁《か》した。親眞《ちかざね》は追々《おひ/\》成長《せいちやう》したが、容貌《ようばう》端麗《たんれい》で、越前《ゑちぜん》の織田神社《おだじんじや》の神主《かんぬし》に見込《みこ》まれ、其《そ》の養子《やうし》となつた。よつて織田氏《おだし》を名乘《なの》り、又《ま》た津田權大夫《つだごんだいふ》とも云《い》うた、後《の》ち入道《にふだう》して覺盛《かくせい》と號《がう》した。其《そ》の子孫《しそん》、爾來《じらい》越前《ゑちぜん》の斯波家《しばけ》に仕《つか》へ、同家《どうけ》が尾張《をはり》の守護《しゆご》ぢやによつて、尾張《をはり》に移《うつ》つた。
併《しか》し此《こ》の説《せつ》は、浮《う》かと信《しん》ずる譯《わけ》には參《まゐ》らぬ。覺盛《かくせい》と云《い》ふ坊主《ばうず》は、叡山《えいざん》には居《ゐ》たが、信長《のぶなが》の祖先《そせん》たる證據《しようこ》はない。然《しか》も織田氏《おだし》は元來《ぐわんらい》藤原氏《ふぢはらし》で、現《げん》に天文《てんぶん》十八|年附《ねんづけ》の制札《せいさつ》に、藤原信長《ふぢはらのぶなが》と署《しよ》してある。越前《ゑちぜん》の織田劍神社《おだつるぎじんじや》は、其《そ》の氏神《うぢがみ》である。よつて其《そ》の先祖《せんぞ》は、越前《ゑちぜん》丹生郡《にふぐん》織田莊《おだのしやう》の、莊官《しやうくわん》ではあるまいかとの説《せつ》〔文學博士田中義成〕もある。併《しか》し平氏《へいし》にせよ、藤原氏《ふぢはらし》にせよ、重盛《しげもり》の子孫《しそん》であるにせよ、なきにせよ、信長《のぶなが》の歴史《れきし》には、多少《たせう》の關係《くわんけい》あるが、歴史《れきし》の信長《のぶなが》には、先《ま》づ沒交渉《ぼつかうせふ》ぢや。但《た》だ信長《のぶなが》の家《いへ》も、當時《たうじ》流行《りうかう》の下尅上《かこくじやう》にて、其《そ》の門戸《もんこ》を擴大《くわくだい》した事《こと》を、知《し》れば足《た》る。
[#ここから1字下げ]
去程《さるほど》尾張國《をはりのくに》八|郡《ぐん》也《なり》。上《かみ》の四|郡《ぐん》、織田伊勢守《おだいせのかみ》、諸將《しよしやう》手《て》に付《つき》進退《しんたい》して、岩倉《いはくら》と云《いふ》處《ところ》に居城《きよじやう》也《するなり》。半國《はんこく》下《しも》の四|郡《ぐん》織田大和守《おだやまとのかみ》下知《げち》に隨《したが》へ、上下《じやうげ》川《かは》を隔《へだて》清洲《きよす》の城《しろ》に武衞樣《ぶゑいさま》置申《おきまをし》、大和守《やまとのかみ》も城中《じやうちう》に候《さふらふ》て守立《まもりたて》申也《まをすなり》。大和守《やまとのかみ》内《うち》に三|奉行《ぶぎやう》在《あり》[#レ]之《これ》、織田因幡守《おだいなばのかみ》、織田藤左衞門《おだとうざゑもん》、織田彈正忠《おだだんじやうのちう》、此《この》三|人《にん》奉行人《ぶぎやうびと》也《なり》。彈正忠《だんじやうのちう》と申《まをす》は、尾張國端《をはりのくにはづれ》勝幡《かつばた》と云《いふ》所《ところ》に、居城《きよじやう》也《するなり》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは信長《のぶなが》の傳記《でんき》として、最《もつと》も信憑《しんぴよう》す可《べ》き、織田家《おだけ》の祐筆《いうひつ》太田《おほた》牛《うし》一の、『信長公記《のぶながこうき》』の冒頭《ぼうとう》ぢや。乃《すなは》ち信長《のぶなが》は、斯波家《しばけ》―所謂《いはゆ》る武衞樣《ぶゑいさま》―の被官《ひくわん》、尾張《をはり》守護代《しゆごだい》の織田家《おだけ》に生《うま》れたのでなく。其《その》家《いへ》の一で、尾張《をはり》下《しも》の四|郡《ぐん》の清洲《きよす》にある、織田大和守《おだやまとのかみ》の奉行《ぶぎやう》の織田彈正忠《おだだんじやうのちう》、後《のち》に備後守《びんごのかみ》と稱《しよう》したる者《もの》の子《こ》ぢや。門閥《もんばつ》は信長《のぶなが》に取《と》りて、何等《なんら》の特典《とくてん》を與《あた》へなかつた。彼《かれ》は唯《た》だ時勢《じせい》の兒《こ》であつた。併《しか》し又《ま》た其《その》父《ちゝ》の子《こ》であつたことを看過《かんくわ》してはならぬ。信長《のぶなが》は、其《その》父《ちゝ》信秀《のぶひで》を辱《はづか》しめぬ子《こ》であると云《い》ふよりも、信秀《のぶひで》は、其《その》子《こ》信長《のぶなが》の父《ちゝ》たる價値《かち》ありと云《い》ふが、或《あるひ》は妥當《だたう》かも知《し》れぬ。何《いづ》れにしても信秀《のぶひで》は、池中《ちちう》の物《もの》ではなかつた。
信秀《のぶひで》の志《こゝろざし》は、恐《おそ》らくは大《だい》であつたらう。『備後殿《びんごどの》は取分《とりわけ》器用《きよう》の仁《じん》にて、諸家中《しよけちう》の能者《のうしや》、御知音《ごちおん》成《な》され、御手《おて》に付《つけ》られ』とあれば、〔太田牛一〕其《そ》の廣《ひろ》く人材《じんざい》を收攬《しうらん》したる樣《さま》、想《おも》ひやらるゝ。而《しか》して時世柄《じせいがら》とは申《まを》せ、頗《すこぶ》る權詐《けんさ》に長《た》けて居《ゐ》た。享祿《きやうろく》年中《ねんちう》、彼《かれ》は清洲《きよす》奉行《ぶぎやう》であり、今川氏豐《いまがはうぢとよ》は、那古野城《なごやじやう》に住《ぢう》し、互《たが》ひに連歌《れんか》の親友《しんいう》で、書筒《しよとう》往來《わうらい》の餘《よ》、氏豐《うぢとよ》は遂《つひ》に信秀《のぶひで》を那古野《なごや》に誘《いざな》ひ、天文《てんぶん》元年《ぐわんねん》に至《いた》りて、彼《かれ》を其《そ》の城中《じやうちう》の一|室《しつ》に寓《ぐう》せしめた。然《しか》るに信秀《のぶひで》は病氣《びやうき》と稱《しよう》して、其《そ》の從者《じうしや》を招《まね》き、虚《きよ》に乘《じよう》じて那古野《なごや》の牙城《がじやう》を襲《おそ》ひ、氏豐《うぢとよ》を放逐《はうちく》して、之《これ》を占領《せんりやう》した。〔濃陽戰記〕
但《ただ》し其《そ》の勤王《きんわう》の志《こゝろざし》も、尋常《じんじやう》ではなかつた。彼《かれ》は天文《てんぶん》十二|年《ねん》二|月《ぐわつ》、其《その》臣《しん》平手中務丞政秀《ひらてなかつかさのじようまさひで》を遣《つか》はし、内裏《だいり》四|面《めん》の築地蓋《ついぢおほひ》の修理《しうり》の爲《た》めに、四千|貫文《ぐわんもん》を朝廷《てうてい》に献《けん》じた。又《ま》た伊勢外宮《いせげぐう》の造營《ざうえい》にも、其《その》力《ちから》を?《つく》した。而《しか》して朝廷《てうてい》よりは、其《そ》の翌年《よくねん》連歌師《れんかし》宗牧《そうぼく》の東下《とうか》に託《たく》し、女房《にようばう》奉書《ほうしよ》、古今集《こきんしふ》等《とう》を賜《たまは》つた。『今度《こんど》於《おいて》[#二]濃州《じやうしう》[#一]不慮《ふりよ》の合戰《かつせん》、勝利《しようり》を失《うしな》ひて、彈正忠《だんじやうのちう》一|人《にん》やうやう無事《ぶじ》に歸宅《きたく》、無興《ぶきよう》散々《さん/″\》の折節《をりふし》ながら、早々《はや/″\》まかり下《くだ》る可《べ》きよし』とは、宗牧《そうぼく》の照會《せうくわい》に對《たい》して、彼《かれ》の答《こた》へ振《ぶ》りであつた。彼《かれ》は平手《ひらて》をして宗牧《そうぼく》を接伴《せつばん》せしめ、其《そ》の殷勤《いんぎん》を極《きは》めた。彼《かれ》は宗牧《そうぼく》に面會《めんくわい》し、恩賜品《おんしひん》を頂戴《ちやうだい》した。『今度《こんど》不慮《ふりよ》の存命《ぞんめい》も、このためにこそありける、家《いへ》の面目《めんもく》不《からず》[#レ]可《べ》[#レ]過《すぐ》[#レ]之《これは》など、敗軍《はいぐん》無興《ぶきよう》の氣色《けしき》も見《み》えず。濃州《じやうしう》の儀《ぎ》一度《ひとたび》達《たつする》[#二]本意《ほんいを》[#一]事《こと》も侍《はべ》らば、重《かさ》ねて御修理《ごしうり》の儀《ぎ》ども仰《おほ》せ下《くだ》され候《さふらふ》やうに、内々《ない/\》可申上《まをしあぐべし》』とは、宗牧《そうぼく》によりて描《ゑが》き出《い》だされたる、彼《かれ》の言動《げんどう》であつた。〔東國紀行〕而《しか》して彼《かれ》は此《こ》の急迫《きふはく》の際《さい》にも、平手《ひらて》をして、宗牧《そうぼく》の爲《た》めに、連歌《れんか》の會《くわい》を興行《こうぎやう》せしめた。彼《かれ》は實《じつ》に英雄《えいゆう》の父《ちゝ》たる英雄《えいゆう》ぢや。
-------------------------------------------------------
織田信秀勤王心の事
其年織田彈正(信秀)禁裡御修理の儀依[#レ]被[#二]仰下[#一]。平手中務丞罷上り。御料物進納。其後?感の趣を仰下されたくは覺しめしながら。所※[#二の字点、1-2-22]出陣など聞召及ばれ旁とかく怠られしを。態勅使をなど下さるべき事は。國の造作なれば。我等下國に。女房奉書などこと傳らるべきよし。廣橋殿より仰聞せられたり。便路とは申ながら憚おほくて。しんさくの趣再三申上たれども。強て仰なれば御請を申たり。この次參河へまかり可[#二]仰下[#一]とて。是は典侍殿の御局より。三條右府(公條)へ仰の旨傳へ上られて。御局樣御盃御服など頂戴の事也。面目身に餘れる事なり。友軌平手方まで遣して内議申たれば。今度於[#二]濃州[#一]不慮の合戰。勝利を失なひて。彈正忠一人やう/\無事に歸宅。無興散々の折節ながら。早々まかり下るべきよし返事あり。宗丹伊勢まで迎にきたれば。桑名より川舟にて津島に着たり。翌日やがて那古野に下着。平手出迎ひて。けふの寒ささこそなど。先何やらむ手を温めよ。口を温めよ。湯風呂石風呂よなど。念比に人をもてなす事。生得の數奇の樣なれば。さまで禮にも及ばず。誠におほかたなる所へ落着たらば。發病もすべきあらしにぞ有ける。岸宗玖賢桃知春など尋來られ。夕食のしたで手づからの爲[#レ]體。息三郎次郎菊千代盃取々。けふのてい身をも忘れたり。翌日霜臺に見參。朝食巳前女房奉書古今集など拜領。今度不慮の存命も。このためにとぞ有ける。家の面目不[#レ]可[#レ]過[#レ]之など。敗軍無興の氣色も見えず。濃州之儀一度達[#二]本意[#一]事も侍らば。重ねて御修理の儀とも仰下され候やうに。内々可?[#二]?申上云々。武勇の心きはみえたる申されやう。御言傳迷惑も忘れて。老後滿足也。御書の御返事催して罷立べきよし申たり。一座興行の事。この?など一かう其さたも有まじくおぼえしを。於[#レ]愚ては難[#レ]去故障の事有。平手に興行すべき由内議にて。發句の事申されて。はや連衆の事方々へ人遣しつゝ。瀧坊織田丹波守。喜多野右京亮。遙々來り。今度殘命高名虎口を遁れし物語。誠に不慮の再會なり。發句めされて。
 色かへぬ世や雪の竹霜の松
王?公か昔を思ひよせたり。わが興行の外聞に。脇をば霜?作名にと内議有けん。強きせい成べし。〔東國紀行〕
-------------------------------------------------------


【二九】父は子の縮圖
尾張《をはり》は四|通《つう》八|達《たつ》の地《ち》ぢや、攻むるに善《よ》い丈《たけ》、守《まも》るには惡《わる》い。進攻《しんこう》を以《もつ》て防御《ばうぎよ》となす他《ほか》には、妙策《めうさく》がない。織田信秀《おだのぶひで》が、征戰《せいせん》に虚日《きよじつ》なかつたも、要《えう》するに已《や》むを得《え》ぬ譯《わけ》ぢや。參河《みかは》には徳川氏《とくがはし》が在《あ》つた、徳川氏《とくがはし》は清康《きよやす》、其《そ》の臣下《しんか》に殺《ころ》され、家變《かへん》の爲《た》めに、一|時《じ》頓挫《とんざ》したが、其《そ》の背後《はいご》には、駿河《するが》の今川氏《いまがはし》があつて、寧《むし》ろ織田氏《おだし》に取《と》りては、より大《だい》なる敵《てき》と接近《せつきん》する事《こと》となつた。美濃《みの》には齋藤《さいとう》道《だう》三が興《おこ》つた。極端《きよくたん》なる下剋上《かこくじやう》の標本《へうほん》だけありて、是亦《これま》た容易《ようい》の敵《てき》ではなかつた。信秀《のぶひで》は内《うち》にしては、尾張《をはり》八|郡《ぐん》を取《と》り纒《まと》むるの必要《ひつえう》があり、外《ほか》にしては、是等《これら》の敵《てき》に當《あた》るの必要《ひつえう》があつた。
信秀《のぶひで》が如何《いか》に腹背《ふくはい》の敵《てき》に對《たい》し、奇拔《きばつ》の戰法《せんぱふ》を實行《じつかう》したかは、『備後殿《びんごどの》は、國中《こくちう》?《たの》み勢《ぜい》をなされ、一|個月《かげつ》は美濃國《みののくに》へ御働《おはたらき》、又《ま》た翌月《よくげつ》は參河《みかは》の國《くに》へ御出勢《ごしゆつぜい》』と云《い》ふにて推察《すゐさつ》せらる。天文《てんぶん》十一|年《ねん》には、今川義元《いまがはよしもと》が四|萬《まん》と稱《しよう》する大兵《たいへい》に對《たい》し、其《そ》の十|分《ぶん》の一なる四千の兵《へい》を率《ひき》ゐて、小豆坂《あづきざか》に?《むか》へ撃《う》つた。彼《かれ》の部下《ぶか》は善《よ》く戰《たゝか》うた。小豆坂《あづきざか》の七|本槍《ほんやり》とは、此時《このとき》の事《こと》ぢや。同《どう》十六|年《ねん》には美濃《みの》に打《う》ち入《い》つた。
[#ここから1字下げ]
九|月《ぐわつ》三|日《か》尾張《をはり》國中《こくちう》の人數《にんず》を被成御?《おんたのみなされ》、美濃國《みののくに》へ御亂入《ごらんにふ》、在々《ざい/\》所々《しよ/\に》放火《はうくわ》候て、九|月《ぐわつ》廿二|日《にち》齋藤山城《さいとうやましろ》道《だう》三|居城《きよじやう》稻葉山《いなばやま》山下村《やましたむら》に推詰《おしつめ》燒拂《やきはらひ》、町口《まちぐち》まで取寄《とりよせ》、既《すでに》及《および》[#二]晩日《ばんじつ》申刻《さるのこくに》[#一]、御人數《ごにんず》被《られ》[#二]引退《ひきしりぞけ》[#一]、諸手《もろて》半分《はんぶん》計《ばかり》引取《ひきとり》候《さふらふ》所《ところ》へ、山城《やましろ》道《だう》三|?《どつ》と南《みなみ》へ向《むかつ》て切《きり》かゝり、雖《いへども》[#二]相支候《あひさゝへさふらふと》[#一]、多人數《たにんず》くづれ立《たち》の間《あひだ》、守備《しゆび》事《すること》不《ず》[#レ]叶《かなは》、備後殿《びんごどの》御舍弟《ごしやてい》織田《おだ》與《よ》三|郎《らう》……を初《はじ》めとし、歴々《れき/\》五千|計《ばかり》討死《うちじに》也《なり》。〔信長公記〕
[#ここで字下げ終わり]
彼《かれ》は敵《てき》の城下《じやうか》に肉薄《にくはく》し、凱歌《がいか》を奏《そう》して、軍《ぐん》を還《かへ》すの刹那《せつな》に於《おい》て、乍《たちま》ち逆襲《ぎやくしふ》せられ、意外《いぐわい》の大敗《たいはい》を招《まね》いた。五千の討死《うちじに》とは、稍※[#二の字点、1-2-22]《やゝ》受取《うけと》り難《がた》きも、彼《かれ》が僅《わづ》かに身《み》を以《もつ》て免《まぬか》れたる、痛楚《つうそ》なる敗北《はいぼく》の模樣《もやう》は、分明《ぶんみやう》である。
其《そ》の十一|月《ぐわつ》には、齋藤《さいとう》道《だう》三が、尾張《をはり》の者《もの》は、最早《もはや》足《あし》も腰《こし》も立間敷《たつまじ》く、此際《このさい》大垣《おほがき》を取詰《とりつ》む可《べ》しとて、近江《あふみ》より援兵《ゑんぺい》を假《か》り、攻《せ》め寄《よ》せた。然《しか》るに信秀《のぶひで》は木曾川《きそがは》、飛騨?川《ひだがは》の大河《おほかは》舟渡《ふなわたし》を打渡《うちわた》り、美濃國《みののくに》に亂入《らんにふ》し、處々《しよ/\》に放火《はうくわ》し、道《だう》三をして、退却《たいきやく》せしめた。『備後守《びんごのかみ》輕々《かる/″\》と御發足《ごはつそく》、御手柄《おてがら》無《なき》[#二]申計《まをすはかり》[#一]次第《しだい》也《なり》』とは、簡《かん》にして、能《よ》く盡《つく》した言《げん》ではない乎《か》。輕々《かる/″\》の二|字《じ》は、傳神《でんしん》の筆《ふで》ぢや。
彼《かれ》は兒福者《こぷくしや》ぢや、十二|男《なん》七|女子《ぢよし》があつた。信長《のぶなが》は天文《てんぶん》三|年《ねん》五|月《ぐわつ》、古渡城《ふるわたりじやう》に生《うま》れた。彼《かれ》は那古野城《なごやじやう》を築《きづ》き、信長《のぶなが》を居《を》らしめ、林《はやし》、平手《ひらて》、青山《あをやま》、内藤《ないとう》の四|人《にん》を、守役《もりやく》とした。其小《そのこ》字《あざ》は吉法師《きちはふし》、天文《てんぶん》十五|年《ねん》、十三|歳《さい》で古渡城《ふるわたりじやう》で元服《げんぷく》し、信長《のぶなが》と稱《しよう》し、三|郎《らう》と字《あざな》した。其《そ》の翌年《よくねん》、十四|歳《さい》で、始《はじ》めて戰陣《せんぢん》の洗禮《せんれい》を受《う》けた。
[#ここから1字下げ]
織田《おだ》三|郎《らう》信長《のぶなが》、御武者始《おんむしやはじ》めとして、平手中務丞《ひらてなかつかさのじよう》、其時《そのとき》の仕立《したて》、紅筋《べにすぢ》の頭巾《づきん》羽織《はおり》、馬鎧出立《うまよろひいでたち》にて、駿河《するが》より人數《にんず》入置《いれおき》候《さふらふ》、參州《さんしう》の内《うち》吉良大濱《きらおほはま》へ御手遣《おんてをつかはし》、所々《しよ/\》放火《はうくわ》候《さふらふ》て、其日《そのひ》は野陣《のぢん》を懸《かけ》させられ、次日《つぎのひ》那古野《なごや》に至《いたつ》て御歸陣《ごきぢん》。〔信長公記〕
[#ここで字下げ終わり]
なんと勇壯《ゆうさう》の武者始《むしやはじ》めではない乎《か》。而《しか》して信秀《のぶひで》が、平手《ひらて》の肝煎《きもいり》で、信長《のぶなが》の爲《た》めに、美濃《みの》の齋藤《さいとう》道《だう》三の女《むすめ》と、婚約《こんやく》を結《むす》びたるも、此年《このとし》ぢや。斯《か》くて信秀《のぶひで》は、天文《てんぶん》十八|年《ねん》三|月《ぐわつ》、四十二|歳《さい》で逝《ゆ》いた。此時《このとき》信長《のぶなが》は十六|歳《さい》であつた。
信秀《のぶひで》は、信長《のぶなが》の縮圖《しゆくづ》とも云《い》ふ可《べ》きぢや。彼《かれ》は活動的《くわつどうてき》の漢《をのこ》で、寸時《すんじ》も愚圖々々《ぐつ/\》して居《を》らぬ。彼《かれ》は如何《いか》なる危險《きけん》にも、恐怖《きようふ》せず、如何《いか》なる不幸《ふかう》にも、失望《しつばう》せぬ。彼《かれ》の脊椎骨《せきつゐこつ》は、全《まつた》く彈機《だんき》で作《つく》られた樣《やう》だ。全身《ぜんしん》皆《み》な彈力《だんりよく》ぢや。彼《かれ》は引込思案《ひつこみじあん》するよりも、寧《むし》ろ自《みづ》から進《すゝ》んで押《お》し出《だ》した。彼《かれ》は人心《じんしん》を收攬《しうらん》し、人材《じんざい》を吸集《きふしふ》するに、最《もつと》も力《ちから》を竭《つく》し、且《か》つ此點《このてん》に於《おい》て、最《もつと》も成功《せいこう》した。其《そ》の證據《しようこ》には、彼《かれ》が信長《のぶなが》に遺《のこ》した、諸將《しよしやう》の顏觸《かほぶれ》を見《み》ても、猝《には》か大名《だいみやう》としては、拔群《ばつぐん》と云《い》はねばなるまい。彼《かれ》は相應《さうおう》に文雅《ぶんが》の嗜《たしな》みもあつた。彼《かれ》は道《だう》三や、久秀《ひさひで》程《ほど》の忍?人《にんじん》ではなかつたであらう。併《しか》し目的《もくてき》の爲《た》めに、手段《しゆだん》を擇《えら》まぬ位《くらゐ》は、彼《かれ》に取《と》りては何《なん》でもなかつた。彼《かれ》の勤王心《きんわうしん》は、彼《か》れ獨特《どくとく》のものではなかつた、當時《たうじ》の大名《だいみやう》、若《もし》くは其他《そのた》にも、彼《か》れ同樣《どうやう》の奉公《ほうこう》をなした者《もの》が少《すくな》くない。併《しか》し彼《か》れは確《たし》かに、勤王心《きんわうしん》を有《いう》した者《もの》の一|人《にん》であつた。


【三〇】少壯の信長
蛇《じや》は一|寸《すん》にして、人《ひと》を呑《の》む氣象《きしやう》がある。信長《のぶなが》も生《うま》れながらに、人《ひと》を人臭《ひとくさ》しと思《おも》はぬ、面魂《つらだましひ》を具《そな》へて居《ゐ》た。彼《かれ》は手《て》に終《を》へぬ大腕白者《おほわんぱくもの》ぢや、彼《かれ》は飛切《とびき》りの大我儘者《おほわがまゝもの》ぢや。傍若無人《ばうじやくぶじん》は、彼《かれ》が一|生《しやう》を始終《ししう》しての振舞《ふるまひ》ぢや。若《も》し此丈《これだ》けなれば、彼《かれ》は唯《た》だ狂童《きやうどう》ぢや、老《お》いても尚《な》ほ穉心《ちしん》を改《あらた》めぬ狂漢《きやうかん》ぢや。否々《いな/\》、彼《かれ》には恒《つね》に他《た》の諒解《れうかい》し易《やす》からぬ、目的《もくてき》があつた。其《そ》の性癖《せいへき》も、却《かへつ》て之《これ》を成就《じやうじゆ》する方便《はうべん》となり、又《ま》た時《とき》としては、その方便《はうべん》であつた。
室町時代《むろまちじだい》の生氣《せいき》は失《う》せた、殘《のこ》るは唯《た》だ其《そ》の虚禮虚文《きよれいきよぶん》だ。恰《あたか》も蜘蛛《くも》が去《さ》つた後《のち》に、其《そ》の十重百重《とへもゝへ》の網巣《あみのす》が殘《のこ》る樣《やう》に。誰《たれ》か之《これ》を打破《だは》する。信長《のぶなが》ぢや。天正《てんしやう》頃《ごろ》に出來《でき》た小笠原貞慶《をがさはらさだよし》の『諸禮集《しよれいしふ》』と云《い》ふ本《ほん》がある。それを讀《よ》めば、室町時代《むろまちじだい》の禮法《れいはふ》がらみの、窮屈《きうくつ》な有樣《ありさま》の一|斑《ぱん》が、想像《さうざう》せらるゝ。一寸《ちよつと》した手紙《てがみ》の封《ふう》じ目《め》さへも、中々《なか/\》小面倒《こめんだう》ぢや。斯《かゝ》る窮屈《きうくつ》な世《よ》の中《なか》では、傍若無人《ばうじやくぶじん》は、濟世《さいせい》の妙藥《めうやく》である。時勢《じせい》の兒《じ》信長《のぶなが》は、寧《むし》ろ時勢《じせい》の案内者《あんないしや》、豫想者《よさうしや》、先驅者《せんくしや》と云《い》ふ方《はう》が、妥當《だたう》かとも思《おも》はるゝ。
彼《かれ》が十六|歳《さい》にて、其《その》父《ちゝ》信秀《のぶひで》の跡《あと》を相續《さうぞく》したる時《とき》、彼《かれ》には如何《いか》なる分別《ふんべつ》があつたか。彼《かれ》が其《その》父《ちゝ》の葬儀《さうぎ》に於《お》ける行動《かうどう》は、頗《すこぶ》る奇怪《きくわい》であつた。
[#ここから1字下げ]
信長《のぶなが》御燒香《ごせうかう》に御出《おんいで》、其時《そのときの》信長公《のぶながこう》御仕立《おんしたて》、長柄《ながつか》の太刀《たち》脇差《わきざし》を三五繩《しめなは》にて捲《まか》せられ、髮《かみ》は茶筅《ちやせん》に卷立《まきたて》、袴《はかま》もめし候《さふら》はで、佛前《ぶつぜん》へ御出有《おんいであつ》て、抹香《まつかう》をくわつと御《おん》つかみ候《さふらふ》て、佛前《ぶつぜん》へ投懸《なげかけ》御歸《おかへり》。御舍弟《ごしやてい》勘《かん》十|郎《らう》は、折目《をりめ》高成《たかなる》肩衣袴《かたぎぬはかま》めし候《さふらふ》て、有《ある》べき如《ごと》くの御沙汰《ごさた》也《なり》。三|郎《らう》信長公《のぶながこう》を、例《れい》の大《おほ》うつけよと執々《とり/″\》評判《ひやうばん》候《さふらひ》し也《なり》。其中《そのうち》に筑紫《つくし》の客僧《きやくそう》一|人《にん》、あれこそ國《くに》は持人《もつひと》よと申《まをし》たる由《よし》也《なり》。〔信長公記〕
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは故《ことさ》らに傍目《わきめ》を暗《くら》ます爲《た》めであつた乎《か》。將《は》た此《こ》の通《とほ》り撥《は》ね廻《まは》さねば、自《みづ》から滿足《まんぞく》が出來《でき》なかつた乎《か》。何《いづ》れにしても人《ひと》を食《く》つた仕方《しかた》には相違《さうゐ》ない。
[#ここから1字下げ]
?《こゝに》見惡事《みにくきこと》有《あり》、町《まち》を御通《おとほり》の時《とき》、人目《ひとめ》をも無《なく》[#二]御憚《おんはゝ″かり》[#一]、栗柿?《くりがき》は不及申《まをすにおよばず》、瓜《うり》をかぶりくひになされ、町中《まちなか》にて立《たち》ながら餅?《もち》を□?り、人《ひと》に倚《よ》り懸《かゝ》り、人《ひと》の肩《かた》につらさがりてより外《ほか》は、御《おん》ありきなく候《さふらふ》。
其比《そのころ》は世間《せけん》公道《こうだう》成《なる》折節《をりふし》にて候間《さふらふあひだ》、大《おほ》うつ氣《け》とより外《ほか》に申《まを》さず候《さふらふ》。〔信長公記〕
[#ここで字下げ終わり]
洵《まこと》に言語道斷《ごんごだうだん》の振舞《ふるまひ》ぢや。然《しか》も是《こ》れは彼《かれ》の不眞面目《ふまじめ》の半面《はんめん》ぢや。
[#ここから1字下げ]
信長《のぶなが》十六七八までは、別《べつ》の御遊《おんあそび》は無御座《ござなく》、馬《うま》を朝夕《あさゆふ》御稽古《おけいこ》、又《また》三|月《ぐわつ》より九|月《ぐわつ》までは川《かは》に入《いり》、水練《すゐれん》の御達者《おたつしや》也《なり》。其《その》折節《をりふし》竹槍《たけやり》にて、扣合《たゝきあひを》御覽《ごらん》じ、兎角《とかく》槍《やり》は短《みじか》く候《さふらふ》ては、惡《あし》く候《さふら》はんと被仰《おほせられ》候《さふらふ》て、三|間柄《げんえ》、三|間々中柄《げんまなかえ》抔《など》にさせられ、其比《そのころ》の御形儀《おんぎやうぎ》、明衣《ゆかたびら》の袖《そで》をはづし、半袴《はんばかま》?袋《ひうちぶくろ》色々《いろ/\》餘多《あまた》付《つけ》させられ、御髮《おぐし》は茶筅《ちやせん》に、紅絲萠黄絲《あかいともえぎいと》にて卷立《まきたて》結《ゆ》はせられ、大刀《たいたう》朱鞘《しゆざや》を指《さ》させられ、悉《こと/″\く》朱武者《しゆむしや》被仰付《おほせつけられ》。市川大介《いちかはだいすけ》召寄《めしよせ》られ、御弓《おゆみ》御稽古《おけいこ》、橋本《はしもと》一|巴《ぱ》師匠《ししやう》として、鐵砲《てつぱう》御稽古《おけいこ》、平田《ひらた》三|位《ゐ》、不斷《ふだん》召寄《めしよせ》兵法《ひやうはふ》御稽古《おけいこ》、御鷹野《おたかの》等《とう》也《なり》。〔信長公記〕
[#ここで字下げ終わり]
如何《いか》に彼《かれ》が修養《しうやう》を事《こと》としたかは、此《こ》れでも瞭《あきらか》ではない乎《か》。他人《たにん》の肩《かた》に倚《よ》り掛《かゝ》り、瓜《うり》を其儘《そのまゝ》頬張《ほゝば》りつゝ、異樣《いやう》の風體《ふうてい》で、町中《まちなか》を往來《わうらい》したる彼《かれ》と、一|心不亂《しんふらん》、武事精勵《ぶじせいれい》の彼《かれ》とが、同《どう》一|人《にん》であるとは、凡慮《ぼんりよ》の及《およ》ぶ所《ところ》ではない。
特《とく》に彼《かれ》が三|間柄《げんえ》、若《もし》くは三|間半柄《げんはんえ》の長槍《ちやうさう》を獎勵《しやうれい》したるは、確《たし》かに一|大《だい》見解《けんかい》ぢや。彼《かれ》は武器《ぶき》を精撰《せいせん》するの道《みち》を知《し》つた。刀《かたな》よりも短槍《たんさう》、短槍《たんさう》よりも長槍《ちやうさう》、長槍《ちやうさう》よりも鐵砲《てつぱう》、此《こ》れが進化《しんくわ》の順序《じゆんじよ》ぢや。而《しか》して織田氏《おだし》の兵《へい》が、向《むか》ふ所《ところ》克《か》たざる無《な》く、甲州《かふしう》の老兵《らうへい》に對《たい》してさへも、尚《な》ほ最後《さいご》の勝利《しようり》を得《え》たのは、畢竟《ひつきやう》鐵砲《てつぱう》の効能《かうのう》ぢや。而《しか》して長槍《ちやうさう》は、鐵砲《てつぱう》程《ほど》の利器《りき》ではないが、其《そ》の取扱《とりあつかひ》の輕便《けいべん》なるは、又《ま》た鐵砲《てつぱう》の比《ひ》ではない。信長《のぶなが》が少年時代《せうねんじだい》に、此《こゝ》に著眼《ちやくがん》したのは、此《こ》の一|事《じ》でも、彼《かれ》が其《そ》の眼孔《がんこう》、群雄《ぐんゆう》の上《うへ》に卓越《たくゑつ》して居《ゐ》た※[#「こと」の合字、155-3]が、知《し》らるゝではない乎《か》。
所詮《せんずるところ》信長《のぶなが》は時勢《じせい》の兒《じ》であり、又《ま》た信秀《のぶひで》の子《こ》であるが、然《しか》も信長《のぶなが》は、何處迄《どこまで》も信長《のぶなが》である。彼《かれ》は他人《たにん》の足跡《そくせき》を辿《たど》る者《もの》ではない。彼《かれ》は傍人《ばうじん》に我《わ》が行《ゆ》く可《べ》き道《みち》を聽《き》いて、然《しか》る後《のち》歩《あゆ》み出《だ》す漢《をのこ》ではない。彼《かれ》自《みづ》からが舊社會《きうしやくわい》の破壞力《はくわいりよく》ぢや、彼《かれ》自《みづ》からが新社會《しんしやくわい》の建設力《けんせつりよく》ぢや。彼《かれ》は天下《てんか》の氣運《きうん》に乘《じよう》じたのみでなく、彼自身《かれじしん》が其《そ》の氣運《きうん》ぢや。
-------------------------------------------------------
平手中務諫言切腹の事
信長公異風なる御學動逐[#レ]日さかんになり、加之御心立ても不[#レ]揃して、行儀作法もさながら狂人の如し。此の比の樣體にては中々國郡を治め玉はん事、叶難く見えける故、諸人皆危く思て、安堵の心更になし。御傳の長臣平手中務政秀、此事を深く歎きて、毎度諫を奉るといへども、御承引の儀曾てなし。?に政秀に三人の子あり、惣領を五郎右衞門、二男を監物、三男を甚左衞門と云ふ、其比五郎右衞門類なき名馬を所持す、信長公御所望有けるに、五郎右衞門返答には、某は武道を心掛申候間、御諚旨罷成間敷由、苦々しく申放て、馬を進らせざる間、信長公御立腹あり、其より五郎右衞門と御不和也。中務丞も内々此事は、五郎右衞門が僻事なりとて戒めけるが、子の惡きあまりにや、父の平手もいつ共なく、信長公の御前宜しからず、然れ共中務度々諫言を奉つて、信長御氣隨の儀どもを、申止めんとしけるに、信長公一旦御承引有といへ共未御若年なる故、たしかに守り玉ふ事なし。中務是を嘆きて所詮頼もしからぬ主人を守り立て、事ゆくべしとも思はざれば、忠諫の爲に腹切て無ん跡までも、責て忠義の志を立んと決定して、一通の書を殘して曰く、度々の諫言御用ひなき事、身の不肖不[#レ]過[#レ]之因[#レ]?自害致し候者也、あはれ某が死を不便にも被[#二]思召[#一]ば、申上置きたる處一箇條にても御用ひに於ては、草の陰にても難[#レ]有仕合に可[#レ]奉[#レ]存由、遺書に諫状を指添へ留め置きて、政秀即ち腹切て死去しけり、誠に是末代無雙の忠臣とぞ聞へし。信長公大きに驚き思召て、御後悔不[#レ]斜、屡?愁涙を垂給ひて平手が諫状の趣を一々御信服あり、是より御心立行儀作法を改られ、日々眞實の御嗜也、然れ共異相は未だやみ玉はず、其後信長公平手が菩提の爲にとて、一宇の寺を御建立有て政秀寺と名付け、自身御參詣御燒香あり、それより後代々此寺にて、平手が後世を弔らひ玉ふ。扨又時々に平手が忠志を思召され、天下一統の後も、我如[#レ]此國郡を切取事は、皆中務が厚恩なりと、仰られし事度々なり。又鷹野に出玉ひ、河狩をし玉ふ時も、俄に中務が事を思召出されて、或は鷹取たる鳥を引さきては、政秀是を食せよとて虚空に向て投たまふ、或は河水を立ながら御足にて蹴かけ玉ふて、平手是を呑よとの玉ひ、双眼に御涙を浮べ玉ふ事多し。皆人是を見て、かかる異相の人ながらも、御信實の御手向、寔に奇特の御芳志なれば、平手が亡魂いか計か、忝く存べきとて各信感し奉る。〔ハ見記〕
-------------------------------------------------------


【三一】婿と舅との會見
信秀《のぶひで》は其《その》業《げふ》半途《はんと》にして逝《ゆ》いた。十六|歳《さい》の信長《のぶなが》は自《みづ》から受領《じゆりやう》して、上總介《かづさのすけ》と名乘《なの》つた。他人《たにん》が相手《あひて》にするにせよ、せぬにせよ、彼《かれ》は自《みづ》から其《そ》の位置《ゐち》の主人公《しゆじんこう》ぢや。併《しか》し彼《かれ》は其儘《そのまゝ》錦《にしき》の褥《しとね》の上《うへ》に、坐《すわ》り込《こ》む譯《わけ》には參《まゐ》らぬ。四|圍《ゐ》を見廻《みまは》せば、滿願《まんがん》の荊?棘《けいきよく》ぢや。否《い》な其《そ》の身邊《しんぺん》さへも、油斷《ゆだん》は出來《でき》なかつた。
彼《かれ》は相《あ》ひ變《かは》らず、狂童《きやうどう》の故態《こたい》を改《あらた》めなかつた。彼《かれ》の守役《もりやく》たる平手《ひらて》さへも、其《そ》の放縱《はうじう》、不羈《ふき》に當惑《たうわく》して、諫死《かんし》した。彼《かれ》の惡評《あくひやう》は、四|隣《りん》に廣《ひろ》がつた。其《そ》の舅《しうと》の齋藤《さいとう》道《だう》三は、彼《かれ》が鼎《かなへ》の輕重《けいちよう》を問《と》ふ可《べ》く、富田《とんだ》にて會見《くわいけん》を申《まを》し込《こ》んだ。道《だう》三は坊主《ばうず》より、油賣《あぶらう》りとなり、油賣《あぶらうり》より、美濃《みの》長井《ながゐ》の家臣《かしん》となり、其《そ》の長井《ながゐ》を殺《ころ》し、更《さ》らに長井《ながゐ》の主人《しゆじん》たる、土岐《とき》を放逐《はうちく》したる強《したゝ》か者《もの》である。此《こ》の老獪《らうくわい》の道《だう》三と、漸《やうや》く二十|歳《さい》になつた信長《のぶなが》との會見《くわいけん》は、如何《いか》にも面白《おもしろ》い對照《たいせう》ではない乎《か》。
此《こ》の顛末《てんまつ》は、頼《さいはひ》に太田《おほた》牛《うし》一の筆《ふで》で、質實《しつじつ》、精詳《せいしやう》に記《しる》された。
四月(天文《てんぶん》二十二|年《ねん》)下旬《げじゆん》の事《ことに》候。齋藤《さいとう》山城《やましろ》道《だう》三、富田《とんだ》の寺内《じない》正徳寺《しやうとくじ》まで可[#二]罷出[#一]候間《まかりいづべくあひだ》、織田上總介殿《おだかづさのすけどの》も、是《これ》まで御出《おんいで》候《さふら》はゞ可[#レ]爲[#二]祝著[#一]《しうちやくたるべく》候。對面有度之趣申越《たいめんこれありたきおもむきまをしこし》候。此《この》子細《しさい》は、此比《このごろ》上總介《かづさのすけ》を偏執《へんしふ》候て、聟殿《むこどの》は、大《おほ》たわけにて候と、道《だう》三|前《まへ》にて口々《くち/″\》に申《まをし》候《さふらひ》き。左樣《さよう》に人々《ひと/″\》申《まをし》候|時《とき》は、たわけにてはなく候とて、山城《やましろ》連々《つれ/″\》申《まをし》候《さふらひ》き。見參《げんざん》候て善惡《ぜんあく》を見《み》候《さふら》はん爲《ため》と聞《きこ》え候。上總介公無[#二]御用捨[#一]被[#レ]成[#二]御請[#一]《かづさのすけこうごようしやなくおうけなされ》、木曾川《きそがは》、飛騨川《ひだがは》、大河《おほかは》舟渡《ふなわた》し打越《うちこえ》御出《おんいで》候。富田《とんだ》と申《まをす》所《ところ》は、在家《ざいか》七百|間《けん》在之《これあり》、富貴《ふうき》之《の》所《ところ》也《なり》。大阪《おほさか》より代坊主《だいばうず》を入置《いれおき》、美濃《みの》、尾張《をはり》之《の》判形《はんぎやう》を取《とり》候《さふらふ》て免許《めんきよ》の地《ち》也《なり》。
乃《すなは》ち道《だう》三は、信長《のぶなが》が不評判《ふひやうばん》の男丈《をとこだけ》、それ丈《だけ》、何《なに》やら一|物《もつ》あるかと猜《さい》し、兎《と》も角《かく》も之《これ》を試《こゝろ》む可《べ》く、一|向僧《かうそう》の勢力範圍《せいりよくはんゐ》で、美濃《みの》、尾張《をはり》の中立地帶《ちうりつちたい》たる富田《とんだ》にて、會見《くわいけん》を企《くはだ》てた。信長《のぶなが》が平氣《へいき》で之《これ》に應《おう》じたるは、抑《そもそ》も如何なる機略《きりやく》かある。
[#ここから1字下げ]
齋藤《さいとう》山城《やましろ》道《だう》三|存分《ぞんぶん》には、實目《げにめ》に無[#レ]人之由取沙汰候間《ひとなきのよしとりざたさふらふあひだ》、仰天《ぎやうてん》させ候《さふらふ》て笑《わら》はせ候《さふら》はんとの巧《たくみ》にて、古老《こらう》の者《もの》七八百|折目高成肩衣袴衣裝公道成仕立《をりめたかなるかたぎぬはかまいしやうこうだうなるしたて》にて、正徳寺《しやうとくじ》御堂《みだう》の縁《えん》に並居《なみゐ》させ、其《その》まへを上總介《かづさのすけ》御通《おとほり》候《さふらう》樣《やう》に構《かまへ》て、先《まづ》山城《やましろ》道《だう》三は、町末《まちずゑ》の小家《こいへ》に忍《しのび》居《ゐ》て、信長公《のぶながこう》の御出《おいで》の樣體《やうだい》を見申《みまをし》候《さふらふ》。其時《そのとき》信長《のぶなが》の御仕立《おんしたて》、髮《かみ》は茶筅《ちやせん》に遊《あそば》し、萠黄《もえぎ》の平打《ひらうち》にて、茶筅《ちやせん》の髮《かみ》を卷立《まきたて》、ゆかたびらの袖《そで》をはづし、のし付《つけ》の太刀《たち》脇差《わきざし》二つながら長《なが》つかにて、みごなわにてまかせ、ふとき苧《を》なわ、腕貫《うでぬき》にさせられ、御腰《おんこし》のまはりには、猿《さる》つかひの樣《やう》に、火燧袋《ひうちぶくろ》ひよたん七ツ八ツ付《つけ》させられ、虎《とらの》革《かは》豹《へうの》革《かは》四ツかわりの半袴《はんばかま》をめし、御伴衆《おともしう》七八百、甍《いらか》を並《ならべ》、健者《けんしや》先《さき》に走《はし》らかし、三|間《げん》間中柄《まなかえ》の朱槍《しゆやり》五百|本《ぽん》、弓《ゆみ》鐵砲《てつぱう》五百|梃《ちやう》もたせられ、寄宿《きしゆく》の寺《てら》へ、
[#ここで字下げ終わり]
とあり。如何《いか》にも人《ひと》を莫迦《ばか》にした出立《いでたち》ぢや。町末《まちずゑ》の小家《こいへ》より、忍《しの》び見《み》したる道《だう》三も、呆《あき》れはてたであらう。併《しか》し面白《おもしろ》き一|齣《せつ》は、此《こ》れからの※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り舞臺《ぶたい》である。
[#ここから1字下げ]
御着《おつき》にて屏風《びやうぶ》引廻《ひきまは》し、
一|御髮《おぐし》折曲《をりまげ》に、一|世《せ》の始《はじめ》にゆわせられ。
一|何染被置候《いつそめおかせられさふらふ》、知人《しるひと》なき、かちんの長袴《ながばかま》めし。
一ちいさ刀《がたな》、是《これ》も人《ひと》に知《し》らせず拵《こしらへ》をかせられ候《さふらふ》を、さゝせられ、御出立《おんいでたち》を、御家中《ごかちう》の衆《しう》見申《みまをし》候《さふらふ》て、去而《さて》は此比《このごろ》たわけを、態御作《わざとおつくり》候《さふらふ》よと肝《きも》を消《けし》、各《おの/\》次第々々《しだい/\》に斟酌《しんしやく》仕《つかまつり》候《さふらふ》也《なり》。
[#ここで字下げ終わり]
彼《かれ》の家來《けらい》さへも、此《こ》の通《とほ》りぢや。まして他人《たにん》に於《おい》ては、彼《かれ》を誤解《ごかい》したのが、寧《むし》ろ當然《たうぜん》ぢや。
[#ここから1字下げ]
御堂《みだう》へする/\と御出《おいで》有《あり》て、縁《えん》を御上《おあが》り候《さふらふ》の處《ところ》に、春日丹後《かすがたんご》、堀田道空《ほつただうくう》前《まへ》へ向《むき》、はや/″\被[#レ]成[#二]御出[#一]候《おんいでなされさふらふ》と申《まをし》候《さふら》へども、知《し》らぬ顏《かほ》にて、御侍《おんさむらひ》居《ゐ》ながれたる前《まへ》を、する/\御通《おとほ》り候《さふらふ》て、縁《えん》の柱《はしら》にもたれ御座候《ござさふらふ》。暫《しばら》く候《さふらふ》て屏風《びやうぶ》を推《おし》のけて、道《だう》三被出候《いでられさふらふ》。又《また》是《これ》も知《し》らぬ顏《かほ》にて御座候《ござさふらふ》を、堀田道空《ほつただうくう》さしより、是《これ》ぞ山城殿《やましろどの》にて御座候《ござさふらふ》と申《まをす》時《とき》、であるかと被仰候《おほせられ》て、敷居《しきゐ》より内《うち》へ御入候《おいりさふらふ》て、道《だう》三に御禮《おんれい》ありて、其《その》まゝ御座敷《おざしき》に、御直《おなほ》り候《さふらひ》し也《なり》。去《さ》て道空《だうくう》御湯付《おゆづけ》を上申候《あげまをしさふらふ》。互《たがひ》に御盃《おさかづき》參《まゐ》り、道《だう》三に御對面《ごたいめん》無[#二]殘所[#一]《のこるところなき》、御仕合《おんしあはせ》也《なり》。附子《ふし》をかみたる風情《ふぜい》にて、又《また》やがて可[#二]參會[#一]《さんくわいすべし》と申罷立候也《まをしまかりたちさふらふなり》。
[#ここで字下げ終わり]
宛《あたか》も演劇《えんげき》を見《み》る樣《やう》だ、愈《いよい》よ出《い》でゝ、愈《いよい》よ妙《めう》だ。舅《しうと》の道《だう》三は氣《き》も魂《たましひ》も、莫迦聟殿《ばかむこどの》に呑《のま》れて仕舞《しま》つた。獨闢《どくびやく》、奇創《きさう》は彼《かれ》の本領《ほんりやう》ぢや。彼《かれ》は此《こ》の一|點《てん》に於《おい》て、確《たし》かに天才《てんさい》ぢや。
[#ここから1字下げ]
廿|町《ちやう》許《ばかり》御見送候《おんみおくりさふらふ》。其時《そのとき》美濃衆《みのしう》の槍《やり》は短《みじか》く、此方《こなた》の槍《やり》は長《なが》く、扣立候《たゝきたてさふらふ》て參《まゐ》らるゝを、道《だう》三|見申候《みまをしさふらふ》て、興《きよう》をさましたる有樣《ありさま》にて、有無《うむ》を申《まを》さず罷歸候《まかりかへりさふらふ》。途中《とちう》あかなへと申《まをす》所《ところ》にて、猪子兵介《ゐのこひやうすけ》山城《やましろ》道《だう》三に申樣《まをすやう》は、何《なん》と見申候《みまをしさふらふ》ても、上總介《かづさのすけ》はたわけにて候《さふらふ》と申候時《まをしさふらふとき》。道《だう》三|申樣《まをすやう》に、されば無念《むねん》成事候《なることにさふらふ》。山城《やましろ》が子供《こども》たわけが門外《もんぐわい》に、馬《うま》を可[#レ]繋事案《つなぐべきことあん》の内《うち》にて候《さふらふ》と計申候《ばかりまをしさふらふ》。自今已後《いまよりいご》道《だう》三が前《まへ》にて、たわけ人《びと》と云事申人無[#レ]之《いふことまをすひとこれなし》。
[#ここで字下げ終わり]
流石《さすが》は惡黨《あくとう》でも、道《だう》三は道《だう》三ぢや。美濃《みの》が婿《むこ》引出物《ひきでもの》となることは、道《だう》三の豫言通《よげんどほ》りである。此《こ》の會見《くわいけん》は、尾張方《をはりがた》に取《と》りては、戰鬪《せんとう》に十|倍《ばい》する平和《へいわ》の大勝利《だいしようり》であつた。
-------------------------------------------------------
齋藤道三の事
松波、代々上北面の侍なりしが、基宗が代に至り、故ありて、山城國乙訓郡西の岡に居住す、道三は、永正元甲子年五月出生、童名峯丸といふ。生れつき美々しく、諸人に勝れ、幼少の砌より智慮賢く、成人の後は然るべき者ともならんと、寵愛甚しかりける。父基宗、峯丸が生得只ならざるを察して、凡下になし置かん※[#「こと」の合字、162-9]殘念なりとて、峯丸十一歳の春出家させ、京都妙覺寺の日善上人の弟子となし、法蓮房と號す。元來利發の者なれば、日善上人に隨身して、學は顯密の奧旨を極め、辯舌は、富樫?那にも劣らず、内外を能く悟り、頗る名僧の端ともなりぬ。
然るに、又此日善上人の同じ弟子に、南陽房といふあり。此南陽房は、法蓮房が次弟子にして、年齡も二歳下なり。此故兄弟子法蓮房を慕ひて學を極め、其間斷金の交にして、殊に睦じかりける。扨此南陽房といふは、美濃國土岐氏の慕下長井豐後守藤原利隆が舍弟にしてありけるが、是も仔細ありて出家し、幼少より日善上人の弟子となり、法蓮房の傍輩たりしが、元來發明の生れなりし故に、諸學の奧旨を極め、法蓮房にも劣らざりける。其後、段々諸學に達し、近代の名僧となりて、日蓮上人と號しける。然る所、永正三丙子年二月、舍兄長井豐後守が請待に依つて、濃州厚見郡今泉の郷鷲林山常在寺の住職となりて、美濃國に歸りぬ。扨又法蓮房は、常々南陽房を引廻す程の者なれば、專ら無雙の名僧なりしが、或時如何なる心か付きけん、三衣を脱ぎて還俗し、西の岡に歸りて住居し、奈良屋又兵衞といふ者の娘を娶りて妻となし、彼の家名を改め、山崎屋庄五郎と名乘りて燈油を商内す。後に父が氏を用ひて、松波庄五郎と號す。元來此者、心中に大志もありけん、出家の間にも、和漢の軍書に眼を晒し、合戰の指揮、進退懸引の奥義を學び、又能く音曲に達し、或は弓炮の術に妙を得たり。大永の頃より、毎年美濃國に來り、油を賣りけるが、彼の厚見郡今泉の常在寺の住職日運上人は、幼少の砌の朋友、其知邊あるに依りて、數日常在寺に來り、樣々の物語などして、當國の容體を窺へり。元來聰明英智にして、武勇剛計を志して、身は賤しき商民なれども、心剛にして、思、内にありと雖も、時を得ずして本國を離れ、斯の如く身を落し、濃州に來り、立身出世を心懸け、川手、稻葉、鷲山などの城下に至り、日々燈油を賣り歩行きけるが、辯舌を以て諸人を欺き、或時、人に向つて申しけるは、我等油を計るに、上戸を用ふる事之なく、一文の錢を以て、この穴より通すべし。若し穴より外へ、少しにても懸りしならば、油を無價にて進ずべしといひければ、皆人、是は希有の油賣なりとて、城下の者共、餘人の油は曾て求めず、只庄五郎の油をのみ買ひける故に、暫時の内に、數多の利分を得て、大に金銀を貯へ、猶も油を商内しける故、稻葉山の城主長井藤左衞門長張が家臣矢野五左衞門といふ者、此由を聞きて、庄五郎を呼びて、自ら油を求めければ、畏つて錢一文を取出し、件の油を、四角なる柄杓にて汲み出し、流るゝ事糸筋の如く、細く滴つて、錢の穴を通しければ、五左衞門大に感じて申して曰く、誠に是れ不思議の手の内なり。能くも手練?せしものぞかし。去り乍ら惜むべし。是程に業を能く得たれども、賤しき藝なる故に、熟したる所が、僅の町人の業なり。哀れ斯程の手練を、我が嗜む所の武術に於て得る程ならば、?れ後代に、其名を知らるゝ武士ともなるべきに、殘念なる事よと申しける。庄五郎之を聞きて、實にや?矢野が一言、其理に至極せりと、我が家に歸り、其儘油道具を賣拂ひ、右の商賣を止め、心中に思へらく、我れ聊か軍書に心を寄すると雖も、未だ熟せず。何れの藝を嗜むも、其極意の至る所は、一文の錢の穴より油の通るに、外へ懸らざる如く、皆手の内に究まる所なり。弓矢鐵炮の能く的當するも、此理に等し。さらば長槍を手練せんと欲し、自ら工夫をして、我が家の後に行き、?のありけるに、錢一文を、竹の先に釣り置き、三間半の長鑓を拵へ、穗先は細き釘を以て製し、一心不亂に、毎日々々錢の穴を目懸け、下より之を突きけるが、中々始めの程は、掌定まらず、突通すこと能はざりしかども、極志も業も一心にありと、兵書にいへる如く、一心二業一眼二早速一心眼に入り、早速心に入りて業定まり、後には終に、之を突通す程になりしかば、百度千度突くと雖も、一つ外す事なく、其術殆んど一心定に止りたり。即ち之を旨として、名師とさへ聞けば、忽ち隨身してこれを勵み、切瑳琢磨の功を積み、武藝兵術一つとして缺くるなく、實に希代の名士とぞ相なりける。世に三間半の長鑓流布して遣ひけるが、是より始めたり。尤其徳普く多かりぬ。又炮術に妙を得たり。細やかにして、提針をも外さず、天正の頃、明智光秀炮術に妙を得たりといふて、其名を知られしは、始め此道三を師として、之を手練せし故なり。〔美濃國諸舊記〕
-------------------------------------------------------


【三二】地盤整理
天文《てんぶん》十八|年《ねん》、信長《のぶなが》が十六|歳《さい》にて、父《ちゝ》信秀《のぶひで》の後《あと》を相續《さうぞく》して以來《いらい》、永祿《えいろく》三|年《ねん》二十七|歳《さい》にて、今川義元《いまがはよしもと》を、桶狹間《をけはざま》の一|戰《せん》に斃《たふ》し、威名《ゐめい》を天下《てんか》に轟《とゞろ》かすに至《いた》る迄《まで》。中間《ちうかん》十一|年《ねん》は、其《そ》の立脚地《りつきやくち》を、踏《ふ》み固《かた》むる爲《た》めの努力《どりよく》に、消磨《せうま》された。主孤《しゆこ》に、臣《しん》疑《うたが》ひ、親戚《しんせき》反噬《はんぜい》し、四|境《きやう》其《そ》の虚《きよ》を覗《うかゞ》ふは、彼《かれ》の立場《たちば》であつた。彼《かれ》が進《すゝ》んで敵《てき》に對《たい》するに先《さきだ》ち、自《みづ》から不敗《ふはい》の地《ち》を占《し》むる迄《まで》の苦勞《くらう》、骨折《ほねをり》は、一と通《とほ》りではなかつた。
織田氏《おだし》の一|門《もん》は、尾張《をはり》に充《み》ち擴《ひろ》がつた。けれども信長《のぶなが》の家《いへ》は、其《そ》の末流《まつりう》ぢや。守護代《しゆごだい》の一にして、下《しも》四|郡《ぐん》を支配《しはい》する、織田大和守《おだやまとのかみ》の家中《かちう》、三|奉行中《ぶぎやうちう》の一に過《す》ぎぬ。信秀《のぶひで》の在世中《ざいせいちう》、彼《かれ》が爲《た》めに、壓迫《あつぱく》せられたる宗家《そうけ》其他《そのた》が、如何《いか》で其《そ》の死後《しご》の機會《きくわい》を、取《と》り逃《に》がす可《べ》き。信長《のぶなが》の周圍《しうゐ》が、殆《ほと》んど皆《み》な敵《てき》となつたも、決《けつ》して意外《いぐわい》の事《こと》ではあるまい。
彼《かれ》は先《ま》づ其《そ》の宗家《そうけ》たる、清洲城主《きよすじやうしゆ》の織田《おだ》彦?《ひこ》五|郎《らう》と相鬩?《あひせめ》いだ。當時《たうじ》、清洲城《きよすじやう》に在《あ》つた守護家《しゆごけ》の斯波義統《しばよしむね》が、陰《ひそか》に信長《のぶなが》を右《たす》けた爲《た》め、遂《つひ》に彦《ひこ》五|郎等《らうら》の爲《た》めに殺《ころ》され、其《そ》の子《こ》義銀《よしかね》は信長《のぶなが》に奔《はし》つた。信長《のぶなが》は彼《かれ》を那古野《なごや》の天主坊《てんしゆばう》に置《お》き、二百|人扶持《にんふち》を與《あた》へ。守護家《しゆごけ》翼戴《よくたい》を名分《めいぶん》として、清洲《きよす》に薄《せま》つた。而《しか》して彦?《ひこ》五|郎等《らうら》が、信長《のぶなが》の叔父《しゆくふ》守山城主《もりやまじやうしゆ》信光《のぶみつ》に援助《えんじよ》を請《こ》ふや。信光《のぶみつ》は其《そ》の裏《うら》を掻?《か》き、信長《のぶなが》と相謀《あひはか》りて、清洲城《きよすじやう》を占領《せんりやう》し、彦?《ひこ》五|郎《らう》を殺《ころ》した。斯《か》くて信長《のぶなが》は那古野《なごや》より、清洲《きよす》に移《うつ》つた。此《こ》れは弘治《こうぢ》元年《ぐわんねん》四|月《ぐわつ》、彼《かれ》が二十二|歳《さい》の時《とき》である。
宗家《そうけ》との一|段落《だんらく》は、此《こ》れにて附《つい》たが、尚《な》ほ此《こ》れよりも困《こま》つた事《こと》が出來《でき》た。其《その》弟《おとうと》信行《のぶゆき》擁立《ようりつ》の陰謀《いんぼう》是《こ》れ也《なり》。此《こ》れには林佐渡守《はやしさどのかみ》、同《どう》弟《おとうと》美作守《みまさかのかみ》、柴田《しばた》權《ごん》六|抔《など》、歴々《れき/\》が發頭人《ほつとうにん》ぢや。信長《のぶなが》の那古野《なごや》より清洲《きよす》に移《うつ》るや、其《そ》の叔父《しゆくふ》信光《のぶみつ》をして、那古野《なごや》に居《を》らしめた。然《しか》るに間《ま》もなく、其《そ》の臣下《しんか》に殺《ころ》されたから、更《さら》に林佐渡守《はやしさどのかみ》を城代《じやうだい》とした。而《しか》して今《いま》や那古野《なごや》が、陰謀《いんぼう》の本部《ほんぶ》となつた。信長《のぶなが》も聊《いさゝ》か之《これ》を感附《かんづ》いた。そこで弘治《こうぢ》二|年《ねん》五|月《ぐわつ》、彼《かれ》は其《その》四|弟《てい》信時《のぶとき》を伴《ともな》ひ、自《みづか》ら探索《たんさく》旁《かた/″\》那古野《なごや》に赴《おもむ》いた。時《とき》こそ來《き》たれと、弟《おとうと》の美作《みまさか》は、兄《あに》の佐渡《さど》に耳語《じご》した。けれども兄《あに》は『眼前《がんぜん》?《こゝ》にて手《て》に懸《かけ》、討可申事《うちまをすべきこと》、天道《てんだう》おそろしく候《さふらふ》』とて、其儘《そのまゝ》信長《のぶなが》を歸《かへ》らしめた。林佐渡守《はやしさどのかみ》は信長《のぶなが》最初《さいしよ》の守役《もりやく》であつた。忍《しの》びなかつたも當然《たうぜん》ぢや。
謀反《むほん》は愈《いよい》よ爆發《ばくはつ》した。柴田勝家《しばたかついへ》權六は末森城《すゑもりじやう》より、林光春《はやしみつはる》美作守|等《ら》は那古野《なごや》より、兵《へい》を率《ひき》ゐて、佐久間大學《さくまだいがく》が、信長《のぶなが》の爲《た》めに守《まも》れる名塚《なづか》を攻《せ》めた。信長《のぶなが》は清洲《きよす》より出馬《しゆつば》して、之《これ》を救《すく》うた。勝家《かついへ》は負傷《ふしやう》した、光春《みつはる》は、信長《のぶなが》自身《じしん》の手《て》にて突《つ》き伏《ふ》せられた。此《こ》の合戰《かつせん》は、双方《さうはう》共《とも》に頗《すこぶ》る猛烈《まうれつ》であつた。『?《こゝ》にて上總介殿《かづさのすけどの》大音聲《だいおんじやう》を上《あげ》、御怒《おんいかり》なされ候《さふらふ》を見申《みまをし》、流石《さすが》に御内之《みうちの》者共《ものども》候間《さふらふあひだ》、御威光《ごゐくわう》に恐《おそ》れ、立《たち》とゞまり、終《つひ》に迯《にげ》崩《くづ》れ候《さふらひ》き。』〔太田牛一〕とは、活描《いきうつし》ぢや。此《こ》の勝利《しようり》は、全《まつた》く信長《のぶなが》の個人的《こじんてき》勇氣《ゆうき》の賜物《たまもの》ぢや。其《そ》の結果《けつくわ》は、遂《つひ》に信長《のぶなが》の母《はゝ》六|角氏《かくし》の取成《とりなし》で、信行《のぶゆき》、勝家等《かついえら》、何《いづ》れも法衣《ほふい》を著《つ》けて謝罪《しやざい》し、通勝《みちかつ》佐渡守も亦《また》與《とも》に宥免《いうめん》せられた。信長《のぶなが》は必《かなら》ずしも、殺《さつ》を嗜《たしな》む者《もの》ではなかつた。
然《しか》も信行《のぶゆき》は尚《な》ほ悛《あらた》めなかつた。彼《かれ》の野心《やしん》は、柴田勝家《しばたかついへ》によつて密告《みつこく》せられた。或《あるひ》は若干《じやくかん》誣告《ぶこく》も加《くは》はつたかも知《し》れぬ。信長《のぶなが》は自《みづか》ら大病《たいびやう》で、家督《かとく》を信行《のぶゆき》に讓《ゆづ》る可《べ》しとの旨《むね》を、其《その》母《はゝ》六|角氏《かくし》に通《つう》じ、母氏《はゝし》を介《かい》して信行《のぶゆき》を清洲《きよす》に誘《いざな》うた。信行《のぶゆき》は欣然《きんぜん》として來《き》た。彼《かれ》が信長《のぶなが》の臥内《ぐわない》に入《い》らんとするに際《さい》して、彼《かれ》は乍《たちま》ち其《そ》の最期《さいご》を遂《とげ》た。
又《ま》た信長《のぶなが》の庶兄《しよけい》の信廣《のぶひろ》も、美濃《みの》の齋藤氏《さいとうし》と相謀《あひはか》り、清洲城《きよすじやう》より内應《ないおう》を企《くはだ》てた。信長《のぶなが》は何時《いつ》も輕擧《けいきよ》するから、若《も》し美濃勢《みのぜい》來《きた》り侵《をか》さば、必《かな》らず城《しろ》を空《むなし》うして出《い》でて戰《たゝか》ふであらう。信廣《のぶひろ》は其虚《そのきよ》に乘《じよう》じて、清洲《きよす》に立《た》て籠《こも》り、之《これ》を防《ふせ》がんと企《くはだ》てた。併《しか》し信長《のぶなが》は其手《そのて》に嵌《はま》らなかつた。而《しか》して信廣《のぶひろ》も一|旦《たん》は謀反《むほん》したが、力《ちから》屈《くつ》して、信長《のぶなが》に降《くだ》り、遂《つひ》に心《こゝろ》から其《そ》の股肱《ここう》となつた。
信長《のぶなが》は、内《うち》は其《そ》の兄弟《けいてい》、宿將等《しゅくしょうら》の爲《た》めに謀《はか》られ、外《ほか》は耽々《たん/\》たる強敵《きやうてき》を控《ひか》へ、十|年《ねん》一|日《じつ》、殆《ほと》んど寧處《ねいしよ》に遑《いとま》がなかつた。當時《たうじ》彼《かれ》の勢力《せいりよく》は、尾張《をはり》半國《はんこく》に及《およ》んだ。海西郡《かいさいぐん》の一|部《ぶ》は、一|向宗徒《かうしうと》が?居《はんきよ》した。知多半島《ちたはんたう》及《およ》び愛知《あいち》、東春日井《ひがしかすかゐ》の東部《とうぶ》は、今川氏《いまがはし》の勢力《せいりよく》に侵蝕《しんしよく》せられて居《ゐ》た。然《しか》も彼《かれ》の地盤《ぢばん》は、漸次《ぜんじ》に?固《きやうこ》となつた。彼《かれ》は今川氏《いまがはし》の勢力《せいりよく》と接觸《せつしよく》して、漸《やうや》く守勢《しゆせい》を攻勢《こうせい》に一|轉《てん》す可《べ》く勗《つと》めた。而《しか》して遂《つひ》に彼《かれ》が開運《かいうん》の一|轉機《てんき》たる、桶狹間《をけはざま》合戰《かつせん》とはなつた。

戻る ホーム 上へ 進む

僕の作業が遅くて待っていられないという方が居られましたら、連絡を頂ければ、作業を引き渡します。また部分的に代わりに入力して下さる方がいましたら、とてもありがたいのでその部分は、何々さん入力中として、ホームページ上に告知します。メールはこちらまで