第三章 西力東漸
【一六】東西の接觸
日本《にほん》の開國《かいこく》を、嘉永《かえい》、安政《あんせい》以後《いご》の事《こと》と思《おも》ふは、大《だい》なる間違《まちがひ》ぢや。日本《にほん》は足利氏《あしかゞし》末期《ばつき》に、既《すで》に開國《かいこく》した。支那《しな》との交通《かうつう》頻繁《ひんぱん》となつた計《ばか》りではない、我《わ》が膨脹的《ばうちやうてき》動作《どうさ》は、ゆくりなくも、彼《かれ》の膨脹的《ばうちやうてき》動作《どうさ》と、滿剌加《マラツカ》方面《はうめん》に於《おい》て、接觸《せつしよく》し、軈《やが》て西歐《せいおう》の文明《ぶんめい》は、我《わ》が日本《にほん》を見舞《みま》うた。而《しか》して此《こ》の文明《ぶんめい》は、物質的《ぶつしつてき》には鐵砲《てつぱう》を、精神的《せいしんてき》には耶蘇教《やそけう》を齎《もた》らした。鐵砲《てつぱう》と、耶蘇教《やそけう》とは、足利《あしかゞ》末期《ばつき》より、徳川氏《とくがはし》初期《しよき》にかけて、我《わ》が帝國《ていこく》に最大《さいだい》感化《かんくわ》を與《あた》へた、二|大《だい》要素《えうそ》ぢや。此《これ》に就《つい》ては、尚《な》ほ追々《おひ/\》と語《かた》るであらう。今《いま》は如何《いか》にして、日本人《にほんじん》は歐洲人《おうしうじん》と、接觸《せつしよく》した乎《か》の問題《もんだい》より始《はじ》める。
歐洲人《おうしうじん》が、日本《にほん》ある※[#「こと」の合字、82-11]を知《し》りたるは、マルコ・ポロ―一二七一―一二九五―の紀行《きかう》からだ。ポロは伊太利《いたりー》威尼士《ヴヱニス》の産《さん》である。彼《かれ》は歐亞《おうあ》の兩大陸《りやうたいりく》を股《また》にかけ、元主《げんしゆ》忽必烈《グブライ》の寵任《ちようにん》を得《え》、其《そ》の冐險的《ぼうけんてき》生涯《しやうがい》の終局《しうきよく》は、紀行文《きかうぶん》となりて、其名《そのな》を百|世《せい》に留《とゞ》めたが。其《そ》の文中《ぶんちう》の日本《にほん》に關《くわん》する、一|小記事《せうきじ》が、端《はし》なく歐洲《おうしう》復興時代《ふくこうじだい》、企業熱《きげふねつ》の沸騰《ふつとう》せる時機《じき》に投《とう》じ。閣龍《コロンブス》をして此《これ》を求《もと》むべく西航《せいかう》せしめて、却《かへつ》て意外《いぐわい》にも、亞米利加《あめりか》を發見《はつけん》するに至《いた》つたと云《い》ふことぢや。
ポロは日本《にほん》を以《もつ》て、黄金島《わうごんたう》となした。彼《かれ》は其《そ》の王宮《わうきう》の屋根《やね》が、精金《せいきん》にて張《は》り、床《ゆか》も階《きざはし》も皆《み》な數寸《すすん》の厚《あつ》さある、黄金《わうごん》の延板《のべいた》にて敷《し》き詰《つ》め、窓戸《そうこ》も黄金《わうごん》にて造《つく》つたと云《い》うて居《を》る。又《ま》た桃色《もゝいろ》の眞珠《しんじゆ》に富《と》み、其《そ》の大粒《おほつぶ》にして微妙《びめう》、豐圓《ほうゑん》なる、白色《はくしよく》眞珠《しんじゆ》の價値《かち》と、相若《あひし》くと讃稱《さんしよう》した。斯《かゝ》る仙郷《せんきやう》を、如何《いか》でか見逃《みの》がす可《べ》き、閣龍《コロンブス》が之《これ》を目標《もくへう》に西航《せいかう》したのも、無理《むり》ではない。彼《かれ》が米國《べいこく》發見《はつけん》は、一四九二|年《ねん》、我《わ》が明應《めいおう》元年《ぐわんねん》ぢや。而《しか》して此《こ》の方角《はうがく》よりしては、爾來《じらい》三百六十|餘年《よねん》の後《のち》、彼理《ペルリ》によりて、漸《やうや》く其《そ》の目的《もくてき》が達《たつ》せられたが。反對《はんたい》の方面《はうめん》よりは、却《かへつ》て直截《ちよくせつ》に、日本《にほん》との接觸《せつしよく》が、葡萄牙人《ぽるとがるじん》によりて遂《と》げられた。
葡萄牙人《ぽるとがるじん》は、近世《きんせい》歐洲《おうしう》に於《おけ》る航海《かうかい》、遠略《ゑんりやく》の急先鋒《きふせんぽう》ぢや。ヘンリー航海王《かうかいわう》―一四一八―一四六〇―は、自《みづ》から大葡萄牙《だいぽるとがる》王國《わうこく》の建設《けんせつ》を思《おも》ひ立《た》つた。彼《かれ》は一|方《ぱう》には阿非利加《あふりか》の奴隷《どれい》商賣《しやうばい》を目的《もくてき》として、他方《たはう》には、異教徒《いけうと》―回教徒《くわいけうと》―を一|掃《さう》して、耶蘇教《やそけう》を宣傳《せんでん》せんと欲《ほつ》し、阿非利加《あふりか》の西沿岸《にしえんがん》に傍《そ》うて、遠征《ゑんせい》航隊《かうたい》を派遣《はけん》した。而《しか》して彼《かれ》の志《こゝろざし》は、其《そ》の死後《しご》も愈《いよい》よ遂行《すゐかう》せられ、一四八六|年《ねん》には、勇敢《ゆうかん》なるヂアズは、南下《なんか》して喜望岬《きばうみさき》を廻《めぐ》つた。而《しか》して閣龍《コロンブス》の米國《べいこく》發見《はつけん》に刺戟《しげき》せられ、大膽不敵《だいたんふてき》にして、奇智縱横《きちじうわう》なるワスコ・ダ・ガマは、一四九七|年《ねん》には、喜望岬《きばうみさき》を越《こ》えて、印度《いんど》に達《たつ》した。
閣龍《コロンブス》の西航《せいかう》、葡萄牙人《ぽるとがるじん》の東航《とうかう》、何《いづ》れも東洋《とうやう》を到著點《たうちやくてん》としたが、印度《いんど》方面《はうめん》は、愈《いよい》よ東航者《とうかうしや》の勝利《しやうり》となつた。西班牙《すぺいん》が南北米洲《なんぼくべいしう》に先鞭《せんべん》を著《つ》けたる如《ごと》く、東洋《とうやう》に向《むかつ》ては、葡萄牙《ぽるとがる》が先鞭《せんべん》を著《つ》けた。彼等《かれら》は印度《いんど》の臥亞《ゴア》を占領《せんりやう》して、其《そ》の根據地《こんきよち》とした。而《しか》して西班牙人《すぺいんじん》も亦《ま》た、其後《そのあと》を趁《お》うて、比律賓諸島《ひりつびんしよたう》を取《と》つた。
中古《ちうこ》に於《お》ける回教徒《くわいけうと》の活動《くわつどう》は、目覺《めざ》ましかつた。所謂《いはゆ》る大食《タージー》國人《こくじん》の足跡《そくせき》は、西《にし》は大西洋《たいせいやう》より、東《ひがし》は日本海《にほんかい》に及《およ》んだ。第《だい》十五|世紀《せいき》頃《ごろ》に於《おい》ても、紅海《こうかい》より支那《しな》近海《きんかい》に至《いた》る通商《つうしやう》は、彼等《かれら》によりて營《いとな》まれた。當時《たうじ》の日本《にほん》で、南蠻人《なんばんじん》と唱《とな》へたるは、恐《おそ》らくは彼等《かれら》を總稱《そうしやう》したものであらう。滿剌加《マラツカ》は、極東《きよくとう》貿易《ぼうえき》に於《おけ》る極西端《きよくせいたん》の停留場《ていりうぢやう》であつた。而《しか》して回教徒《くわいけうと》に取《と》りて代《かは》つたのが、乃《すなは》ち葡萄牙人《ぽるとがるじん》ぢや。
支那《しな》の商船《しやうせん》が、此《こ》の附近《ふきん》を往來《わうらい》した事《こと》は、疑《うたがひ》を容《い》れぬ。但《た》だ日本《にほん》商船《しやうせん》の通航《つうかう》は、何《なん》とも斷言《だんげん》は出來《でき》ぬが、恐《おそ》らくは和寇《わこう》の餘勢《よせい》は、此《こゝ》に及《およ》んだであらう。然《しか》も葡萄牙人《ぽるとがるじん》は、滿剌加《マラツカ》を越《こ》え、一五一七|年《ねん》、明《みん》の武宋正徳《ぶそうせいとく》十二|年《ねん》、我《わ》が永正《えいしやう》十四|年《ねん》には、支那《しな》に赴《おもむ》き、先《ま》づ廣州府《くわうしうふ》に向《むか》つて、互市《ごし》を求《もと》めた。
爾來《じらい》三十|年間《ねんかん》、北京《ぺきん》なる明廷《みんてい》にも使節《しせつ》を派《は》し、廣東《かんとん》、福建《ふくけん》、浙江《せつかう》の沿岸《えんがん》に互市場《ごしぢやう》を得《え》たけれども、全《まつた》く之《これ》を保持《ほぢ》する※[#「こと」の合字、85-10]は、出來《でき》なかつたが。彼等《かれら》が和寇《わこう》の本場《ほんば》たる、此《こ》の方面《はうめん》に於《おい》て、日本人《にほんじん》と接觸《せつしよく》したことは、必然《ひつぜん》の事《こと》と思《おも》ふ。
予《よ》が和寇《わこう》を目《もく》して、日本帝國《にほんていこく》膨脹《ばうちやう》の媒介者《ばいかいしや》と言《い》うたのも、決《けつ》して偶然《ぐうぜん》ではない。第《だい》二|回《くわい》の開國《かいこく》に際《さい》しては、日本《にほん》を米國《べいこく》に紹介《せうかい》したのは、捕鯨船《ほげいせん》の漂流人《へうりうにん》であつたが、第《だい》一|回《くわい》の開國《かいこく》の紹介者《せうかいしや》は、和寇《わこう》であつたらしい。和寇《わこう》の功績《こうせき》は、何等《なんら》文書《ぶんしよ》の間《あひだ》には存《そん》せぬ、併《しか》し吾人《ごじん》は、此《こ》の勇敢《ゆうかん》にして、冐險《ぼうけん》なる先人《せんじん》の嘉惠《かけい》を、忘却《ばうきやく》す可《べ》きでない。
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日本島と元寇
日本は、大陸から千五百哩隔てた東方海上にある島で、甚だ大きい。人民は白?で文雅で容貌は美しい。彼等は金を無限に持つてゐる、金は此島に産出されるが、國王が其の輸出を許さぬ。且つ大陸から遠いから、商人が餘り往かぬ、即ち金の貯へが計り知られぬ程になつた。
私は此島の王の宮殿に驚くべき事があるのを話さう。國王の大宮殿の屋根は全部金である。丁度吾吾の寺院の屋根が鉛である如なもので、とても其價を計算する事は出來ぬ。其上、宮殿の庭も坐板も、吾々が石の板を使ふ所を、全部金の板で敷きつめてゐる、其板は指二本並べた厚さで、窓も金ごしらへ。だから、此宮殿の價値のある事は無限で想像も及ばぬ。又眞珠が澤山ある。其色は薔薇色だが、奇麗で大きくて圓るい。其價値は白眞珠と變らぬ。此島では死人は其儘埋たり、或は火葬にする。火葬の時は習慣で、眞珠を一つ口に入れる。他の寶石も澤山ある。
現在の蒙古大王忽必烈は、此島にある無限の富を開いて、之を手入れる計畫を立てた。此爲めに其大將二人に大海軍と歩兵騎兵の大軍を付けて派遣した。此の大將は有爲果敢の人であつて、其名は一人はアバカン、一人はヴオンサイチンと云つた。彼等はゼートン、及キンセーの港を出でゝ、前述の島に到著し、之に上陸して空地の村落を占領した。併し町や城を取る事は出來なかつた、其中に後に話す如き災難に遭つた。
此二人の大將は仲が惡るくて、お互に助ける事はしない。?に猛烈な北風が起つて、港の少ない此海岸に大損害があつた。大王の艦隊も到底此の大風には敵はぬと見た大將達は、此儘にして置けば、海軍が全滅すると思つた。二人は其軍全部を船に乘せて此國を去らんとした。海上四哩も往くと、彼等は或小島に吹き上げられた、之は如何に防いでも力及ばなかつたのであつた。艦隊の大部分は難破し、軍の大勢は死んだ。殘る者三萬人は此島に逃れた。
彼等は死んだ氣でゐた。食物はなし、何んとする術もなかつた。其上に陸から見て居れば、難船せぬ船は帆を上げて本國に向ひ、陸に居る者を見向きもせぬ。是は兩大將互に憎んで、難船せぬ大將には、少しも此島に殘された大將を助ける氣がなかつたからであつた。尤も暴風は長くなかつたから。助けやうと思へば容易に助けられた。併し一方はそんなことはせずに、眞直に本國に向つた。蒙古軍の逃れた島は無人島で、外には誰れも居ない。
次に船で逃がれた人々、島に殘された人々が何うなつたかを話すとしよう。
前に話した如く、島に殘つた三萬人は逃れる道を知らず、最早死んだ者の氣になつてゐた。所が大きな島の王は蒙古軍の一部は小島で助かり一部は散亂逃亡したと聞いて非常に喜んだ、そして其國の船を悉く聚め、今は海も靜かであつたから、國王は其軍を率ゐて此島に來り、四方から上陸した。蒙古軍が見てゐると日本軍は此島に到著すると全軍上陸して、船に番兵を殘しておかぬ。こんな戰には不馴れと見えた、蒙古軍は謀をめぐらして逃げる如に見せた。此島は眞中が高かつた。敵が一本路を追つて來ると、蒙古人は外の路をぐるりと回つて、敵の船を乘り取つた。船には敵兵が居らぬから、是は容易であつた。彼等は船に乘るや否や、本島に向つて走り、此所に上陸した。其時彼等は島の國王の旗印を立てゝ首府迄進んだ。都の兵は旗印を見て、是は將軍の歸り來るものと思つて、少しも疑はず、町に入れた。蒙古軍は都に入ると、直ちに悉く城郭を占領し、町に居る者は悉く之を追ひ出し、只美しい女のみを殘して自分のものにした。斯樣にして蒙古大王の軍は都を奪つた。
島の國王と其軍は、船を奪はれ、町を奪はれて甚だしく憂へた、併し尚殘つた船があつた故、之に乘つて本島に歸へつた。?に國王は全軍を集めて町を圍んだ、其圍や密にして、何人の出入を許さぬ。圍まれた蒙古軍は七ヶ月に亙つて支へた。蒙古大王に音信を通ぜんと、あらゆる手段を盡くしたが、全く徒勞に歸した。最早此町を保つ事が出來なくなつて、彼等は降參した。其時の條件は、命は助ける、併し決して此島を去らぬと云ふ事であつた。是は我が紀元一二七九年の事である。蒙古王は不名譽にも逃歸つた大將の首を斬つた。後に至つて島に殘つた大將の命をも奪つた。是は大將の行ひは、良將のなすべき所でないと云ふ理由であつた。
此遠征中の出來事で一つ不思議な事がある、忘れてゐたから?にて話す。此遠征の初め蒙古軍が前に述べた大きな島に上陸して空地を占領した時、降參せぬ島人の立て籠つて居る塔に突撃した。其時其塔を守つてゐた兵士は悉く首を斬られたが、只八人丈は傷を付ける事さへ出來ぬ。其の理由は此八人は肉と皮の間に或石を入れて居る。其石は外部からは見えぬ樣に、巧みに入れてある。此石の徳で、之を持つて居る者は、決して鋼鐵では死なぬ。蒙古の大將は此事を知つた故、八人の者を棒を以て打ち殺ろした。其息の絶えた後に、此石を八人の身體から拔出して大に重寶がつた。
蒙古人民災難の物語は斯の如うな譯であるが、此は此邊に止めて本題に歸るとしやう。〔マルコ・ポロ旅行記〕
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【一七】鐵砲の傳來
天文《てんぶん》てふ年號《ねんがう》は、如何《いか》に我《わ》が帝國《ていこく》の歴史《れきし》に、偉大《ゐだい》なる印象《いんしやう》を留《とゞ》めたるよ。其《そ》の三|年《ねん》には、信長《のぶなが》が生《うま》れた、其《そ》の五|年《ねん》には、秀吉《ひでよし》が生《うま》れた。其《そ》の十一|年《ねん》には、家康《いへやす》が生《うま》れた。而《しか》して葡萄牙人《ぽるとがるじん》の、日本《にほん》に來《き》たりたるも、所謂《いはゆ》る第《だい》一|回《くわい》の日本《にほん》開國《かいこく》も、同年《どうねん》であつた。三|個《こ》の巨人《きよじん》が、帝國《ていこく》の運命《うんめい》に、如何《いか》なる大貢献《だいこうけん》を爲《な》したるかは、別題《べつだい》として、?《こゝ》には白皙人種《はくせきじんしゆ》の先登者《せんとうしや》として、葡萄牙人《ぽるとがるじん》が日本《にほん》に渡來《とらい》したる、物語《ものがたり》を爲《な》すであらう。
葡萄牙人《ぽるとがるじん》アルブケルクが臥亞《ゴア》を取《と》つたのが、一五一〇|年《ねん》、我《わ》が永正《えいしやう》七|年《ねん》ぢや。滿剌加《マラツカ》を取《と》つたのが、其《そ》の翌年《よくねん》ぢや。而《しか》して葡萄牙王《ぽるとがるわう》ヱムマニュエルの特使《とくし》として、アンドラドが、支那《しな》に赴《おもむ》いたのが、一五一八|年《ねん》、即《すなは》ち支那《しな》の正徳《せいとく》十三|年《ねん》、我《わ》が永正《えいしやう》十五|年《ねん》ぢや。此《こ》れからは目《め》をつぶつても、行附《ゆきつく》先《さき》は、日本《にほん》でなからねばならぬ。然《しか》るに約《やく》二十五|年《ねん》を空過《くうくわ》したのは、寧《むし》を不思議《ふしぎ》と云《い》ふ可《べ》きではあるまい乎《か》。
然《しか》も彼等《かれら》は、日本《にほん》に來航《らいかう》したのでなく、漂著《へうちやく》したのぢや。乃《すなは》ち一五五七|年《ねん》、我《わ》が弘治《こうぢ》三|年《ねん》刊行《かんかう》されたる、ガルワノの書《しよ》によれば、一五四二|年《ねん》―我《わ》が天文《てんぶん》十一|年《ねん》―?羅《しやむ》より支那《しな》寧波《ニンポ》に赴《おもむ》かんとしたる、三|人《にん》の葡萄牙人《ぽるとがるじん》は、非常《ひじやう》の暴風《ぼうふう》に出會《しゆつくわい》し、遂《つひ》に日本《にほん》に漂著《へうちやく》したとある。然《しか》るに自《みづ》から日本《にほん》發見《はつけん》の隨《ずゐ》一|人《にん》と誇《ほこ》る、ピントの自傳《じでん》たる、東洋紀行《とうやうきかう》には、此《これ》を一五四五|年《ねん》に繋《つな》ぎて、其《そ》の一|月《ぐわつ》十二|日《にち》、我《わ》が天文《てんぶん》十三|年《ねん》閏《うるふ》十一|月《ぐわつ》二十九|日《にち》、交趾《かうち》の首府《しゆふ》を發《はつ》したる※[#「こと」の合字、90-12]となして曰《いは》く。葡萄牙人《ぽるとがるじん》相互《さうご》の間《あひだ》に、澳門《まかを》にて葛藤《かつとう》を生《しやう》じ、其中《そのうち》ピント等《ら》三|人《にん》は、支那《しな》海賊《かいぞく》の部下《ぶか》となりて、其《その》船《ふね》に乘込中《のりこみちう》、更《さ》らに他《た》の海賊船《かいぞくせん》に襲《おそ》はれ、漸《やうや》く海岸《かいがん》に沿《そ》うて航行《かうかう》しつゝある三|日目《かめ》に、暴風《ぼうふう》に惱《なや》まされ、二十三|日間《にちかん》大洋《たいやう》に漂《たゞよ》ひ、端《はし》なく島影《たうえい》を見《み》たと。此《こ》れが種子島《たねがしま》ぢや。而《しか》して南浦文之《なんぽぶんし》の鐵砲記《てつぱうき》には、葡萄牙人《ぽるとがるじん》種子島《たねがしま》漂著《へうちやく》の年月《ねんげつ》を、天文《てんぶん》癸卯《きばう》八|月《ぐわつ》廿五|丁酉《ていいう》と明記《めいき》した。即《すなは》ち明《みん》の嘉靖《かせい》二十二|年《ねん》、西暦《せいれき》一五四三|年《ねん》九|月《ぐわつ》二十三|日《にち》ぢや。
此《かく》の如《ごと》く、或《あるひ》は天文《てんぶん》十一|年《ねん》と云《い》ひ、或《あるひ》は天文《てんぶん》十三|年《ねん》と云《い》ひ、或《あるひ》は天文《てんぶん》十二|年《ねん》と云《い》ふが、吾人《ごじん》は姑《しば》らく南浦文之《なんぽぶんし》の、鐵砲記《てつぱうき》を信頼《しんらい》して、天文《てんぶん》十二|年《ねん》、西暦《せいれき》一五四三|年《ねん》として置《お》く。而《しか》して家康《いへやす》の出生《しゆつしやう》は、陰暦《いんれき》の天文《てんぶん》十一|年《ねん》十二|月《ぐわつ》廿六|日《にち》であるから、之《これ》を太陽暦《たいやうれき》に引《ひ》き直《なほ》せば、一五四三|年《ねん》二|月《ぐわつ》十|日《か》となる。如何《いか》なる計算《けいさん》の仕方《しかた》でも、鎖國《さこく》の家元《いへもと》たる、徳川幕府《とくがはばくふ》の始祖《しそ》の出生《しゆつしやう》と、開國《かいこく》の紀元《きげん》と合符《がつぷ》するは、不思議《ふしぎ》と云《い》へば、云《い》へぬ※[#「こと」の合字、91-11]もあるまい。
種子島《たねがしま》は、大隈《おほすみ》に屬《ぞく》する南北《なんぼく》凡《およそ》十四|里《り》、東西《とうざい》凡《およそ》二|里半《りはん》の島《しま》ぢや。當時《たうじ》の領主《りやうしゆ》は、種子島彈正忠時堯《たねがしまだんじようのじようときたか》ぢや。日本《にほん》の社會《しやくわい》組織《そしき》を一|變《ぺん》す可《べ》き、大原動力《だいげんどうりよく》たる鐵砲《てつぱう》が、此《こ》の南海《なんかい》の孤島《こたう》を經由《けいゆ》して、傳來《でんらい》したることは、我《われ》も人《ひと》も、思《おも》ひ設《まう》けぬ造化《ざうくわ》の配劑《はいざい》である。其《そ》の顛末《てんまつ》は、南浦文之《なんぽぶんし》の鐵砲記《てつぱうき》に詳《つまびら》かである。此《この》文《ぶん》は慶長《けいちやう》十一|年《ねん》、當時《たうじ》を距《さ》る六十|餘年後《よねんご》、時堯《ときたか》の子《こ》久時《ひさとき》に代《かは》りて作《つく》りたるもので、最《もつと》も馮據《ひようきよ》するに足《た》るものと云《い》はねばならぬ。其《そ》の要領《えうりやう》は左《さ》の如《ごと》し。
西村《にしむら》の小浦《せうほ》に、何處《いづこ》ともなく、一|大船《だいせん》が來《き》た。見《み》た※[#「こと」の合字、92-5]もなき言語《げんご》不通《ふつう》の、異形《いぎやう》の人《ひと》計《ばか》りぢや。其中《そのうち》に支那人《しなじん》が居《ゐ》た。そこで西村《にしむら》の地頭《ぢとう》が、杖《つゑ》にて沙上《さじやう》に書《か》き、何者乎《なにものか》と問《と》うた。支那人《しなじん》は、彼等《かれら》は遠方《ゑんぱう》の商人《しやうにん》ぢや、決《けつ》して胡亂《うろん》の者《もの》ではない、心配《しんぱい》に及《およ》ばぬと答《こた》へた。そこで島主《たうしゆ》時堯《ときたか》が、彼等《かれら》を引見《いんけん》した。其《そ》の頭目《とうもく》とも云《い》ふ可《べ》き三|人中《にんちう》の一|人《にん》が、奇妙《きめう》の器《うつは》を所持《しよぢ》した。之《これ》を試《ため》すに効果的面《かうくわてきめん》ぢや。時堯《ときたか》は遂《つひ》に重値《ぢうね》を投《とう》じて、其《そ》の二|個《こ》を購《あがな》うた。而《しか》して其《そ》の技術《ぎじゆつ》と、火藥《くわやく》調製《てうせい》の方法《はうはふ》とを、其《そ》の臣下《しんか》に傳授《でんじゆ》せしめた。時堯《ときたか》は、此《こ》の鐵砲《てつぱう》の製造《せいざう》に取《と》り掛《かゝ》つたが、其《そ》の底《そこ》を塞《ふさ》ぐ工夫《くふう》が出來《でき》ぬ。ョ《さいは》ひに其《そ》の翌年《よくねん》、同島《どうたう》熊野浦《くまのうら》に來舶《らいはく》した葡萄牙船《ぽるとがるせん》の中《うち》に、鐵匠《てつしやう》が居《ゐ》て、それに就《つい》て、八|板《いた》金兵衞《きんべゑ》をして學《まな》ばしめた。
鐵砲記《てつぱうき》には掲《かゝ》げてないが、八|板氏《いたし》系譜《けいふ》には、左《さ》の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話《さふわ》がある。同家《どうけ》に若狹《わかさ》てふ十七|歳《さい》の處女《しよぢよ》が居《ゐ》た。金兵衞《きんべゑ》が鐵砲《てつぱふ》製造法《せいざうはふ》を葡萄牙人《ぽるとがるじん》に承《う》くる爲《た》め、彼女《かれ》を葡萄牙人《ぽるとがるじん》に與《あた》へた。而《しか》して翌年《よくねん》、彼女《かれ》は葡萄牙人《ぽるとがるじん》と與《とも》に來島《らいたう》した。此時《このとき》金兵衞《きんべゑ》は、船中《せんちう》の鐵匠《てつしやう》に就《つい》て、卷《ま》きて底《そこ》を塞《ふさ》ぐの法《はふ》を會得《ゑとく》した。而《しか》して彼《かれ》は其女《そのむすめ》を家《いへ》に伴《ともな》ひ、數日《すうじつ》の後《のち》、大病《たいびやう》にて死《し》したと稱《しよう》し、葬式《さうしき》を營《いとな》んだ。其《そ》の家譜《かふ》に、蠻人《ばんじん》之《これ》を見《み》て涕《なみだ》を流《なが》さずとあれば、其《そ》の胡魔化《ごまくわ》しである※[#「こと」の合字、93-6]は、蚤《つと》に葡萄牙人《ぽるとがるじん》に看破《かんぱ》されたのであらう。何物《なにもの》も無代價《むだいか》では、得《え》られぬ。鐵砲《てつぱう》製造術《せいざうじゆつ》完成《くわんせい》の爲《た》めにも、斯《かゝ》る悲劇《ひげき》が隨伴《ずゐはん》した。
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鐵炮記 代[#二]種子島久時公[#一] 南浦文之
隈州之南有[#二]一島[#一]。去[#レ]州一十八里。名曰[#二]種子[#一]。我祖世世居[#レ]焉。古來相傳。島名[#二]種子[#一]者。此島雖[#レ]小。其居民庶而且富。譬[#レ]如[#下]播種之下[#二]一種子[#一]。而生生無[#上レ]窮。是故名[#レ]焉。先[#レ]是。天文癸卯秋八月二十五丁酉。我西村小浦有[#二]一大船[#一]。不[#レ]知[#下]自[#二]何國[#一]來[#上]。船客百餘人。其形不[#レ]類。其語不[#レ]通。見者以爲[#二]奇怪[#一]矣。其中有[#下]大明儒生一人。名五峰者[#上]。今不[#レ]詳[#二]其姓字[#一]。時西村主宰有[#二]織部丞者[#一]。頗解[#二]文字[#一]。偶遇[#二]五峰[#一]以[#レ]杖書[#二]於沙上[#一]云。船中之客。不[#レ]知何國人也。何其形之異哉。五峰?書云。此是西南蠻種之賈胡也。粗雖[#レ]知[#二]君臣之義[#一]。未[#レ]知[#三]禮貌之在[#二]其中[#一]。是故。其飮也杯飮而不[#レ]杯。其食也手食而不[#レ]箸。徒知[#三]嗜欲?[#二]其情[#一]。不[#レ]知[#三]文字之通[#二]其理[#一]也。所謂賈胡到[#二]一處[#一]輙止。此其種也。以[#二]其所[#一レ]有。易[#二]其所[#一レ]無而巳。非[#二]可[#レ]怪者[#一]矣。於[#レ]是織部丞又書云。此去十又三里。有[#二]一津[#一]。津名[#二]赤尾木[#一]。我所[#二]由ョ[#一]之宗子。世世所[#レ]居之地也。津口有[#二]數千戸[#一]。戸富家昌。西南西北賈往還如[#レ]織。今雖[#レ]繋[#二]船於此[#一]不[#レ]若[#二]要津深而且不[#レ]漣之愈[#一]也。告[#三]之於我祖父惠時與[#二]老父時堯[#一]。時堯?使[#下]扁艇數十?[#レ]之至[#二]於二十七日己亥[#一]。入[#中]船於赤尾木津[#上]。丁[#二]期時[#一]。津有[#二]忠首座者[#一]。日州龍源之徒也。欲[#レ]聞[#二]法花一乘之妙[#一]寓[#二]止津口[#一]。終改[#レ]禪爲[#二]法華之徒[#一]。號曰[#二]住乘院[#一]。殆通[#二]經書[#一]揮[#レ]筆敏捷。偶遇[#二]五峰[#一]以[#二]文字[#一]通[#二]言語[#一]。五峰亦以爲知己之在[#二]異邦[#一]也。所謂同?相應。同氣相求者也。賈胡之長有[#二]二人[#一]。一曰[#二]牟良叔舍[#一]。一曰[#二]喜利志多侘孟太[#一]。手携[#二]一物[#一]。長二三尺。其爲[#レ]體也。中通外直。而以[#レ]重爲[#レ]質。其中雖[#二]常通[#一]。其底要[#二]密塞[#一]。其傍有[#二]一穴[#一]。通[#レ]火之路也。形象無[#三]物之可[#二]比倫[#一]也。其爲[#レ]用也。入[#二]妙藥於其中[#一]。添以[#二]小團チ[#一]。先置[#二]一小白於岸畔[#一]。親手[#二]一物[#一]。修[#二]其身[#一]。眇[#二]其目[#一]。而自[#二]其一穴[#一]放[#レ]火。則莫[#レ]不[#二]立中[#一]矣。其發也。如[#二]掣電光[#一]。其鳴也。如[#二]驚雷之轟[#一]。聞者莫[#レ]不[#レ]掩[#二]其耳[#一]矣。置[#二]一小白[#一]者。如[#下]射者之?[#二]鵠於俟中[#一]之比[#上]也。此物一發。而銀山可[#レ]摧。鐵壁可[#レ]穿。姦?之爲[#二]仇於人之國[#一]者。觸[#レ]之。則立喪[#二]其魄[#一]。況於[#下]?鹿之禍[#二]於苗稼[#一]者[#上]乎。其用[#二]於世[#一]者。不[#レ]可[#レ]勝[#レ]數矣。時堯見[#レ]之以[#二]爲希世珍[#一]矣。始不[#レ]知[#二]其何名[#一]。亦不[#レ]詳[#三]其爲[#二]何用[#一]。既人名[#二]鐵炮[#一]者。不[#レ]知明人之所[#レ]名乎。抑不[#レ]知我一島者之所[#レ]名乎。一日時堯重譯謂[#二]二人蠻種[#一]曰。我非[#レ]曰[#レ]能[#レ]之。願學焉。蠻種亦重譯答曰。君若欲[#レ]學[#レ]之。我亦?[#二]其?奧[#一]以告[#レ]焉。時堯曰。?奧可[#二]得聞[#一]乎。蠻種曰。在[#二]正[#レ]心與[#一レ]眇[#レ]目而已。時堯曰。正[#レ]心者。先聖之所[#二]以教[#一レ]人。而我之所[#二]以學[#一レ]之也。大凡天下之理。不[#レ]從[#二]事於斯[#一]。動靜云爲。自不[#レ]能[#レ]無[#レ]差矣。公之所[#レ]謂正心。豈復有[#レ]異乎。眇[#レ]目者。其明不[#レ]足[#二]以燭[#一レ]遠。如[#レ]之何。而眇[#二]其目[#一]乎。蠻種答曰。夫物要[#レ]守[#レ]約。守[#レ]約者。以[#二]博見[#一]爲[#レ]未[#レ]至矣。眇[#レ]目者。非[#二]見之不[#一レ]明。欲[#下]守[#二]其約[#一]以致[#中]之遠[#上]也。君其察[#レ]之。時堯喜曰。老子之所謂見小曰[#レ]明。其斯之謂歟。是歳重九之節。日在[#二]辛亥[#一]。涓[#二]取良辰[#一]。試入[#下]妙藥與[#二]小團鉛[#一]於其中[#上]。置[#二]一小白於百歩之外[#一]。放[#二レ]之火[#一]。則其殆庶幾乎。時人始而驚。中而恐而畏[#レ]之。終而翕然亦曰。願學。時堯不[#レ]言[#二]其價之高而難?[#一レ]及。而求[#二]蠻種之二鐵炮[#一]。以爲[#二]家珍[#一]。其妙藥之擣飾和合之法。令[#二]小臣篠川小四郎即?學[#一レ]之。時堯朝磨夕淬。勤而不[#レ]已。?之殆庶者。於[#レ]是百發百中。無[#二]一失者[#一]矣。於[#二]此之時[#一]。紀州根來寺有[#二]杉坊某公者[#一]。不[#レ]遠[#二]千里[#一]欲[#レ]求[#二]我鐵炮[#一]。時堯感[#二]人之求[#レ]之之深[#一]也。其心解[#レ]之曰。昔者徐君好[#二]季札?[#一]。徐君雖[#三]口弗[#二]敢言[#一]。季札心已知[#レ]之。終解[#二]寶?[#一]。吾島雖[#二]?小[#一]。何敢愛[#二]一物[#一]。且復。我不[#レ]求自得。喜而不[#レ]?。十襲秘[#レ]之。而况求而不[#レ]得。豈復快[#二]於心[#一]歟。我之所[#レ]好。亦人所[#レ]好也。我豈敢獨私[#二]於己[#一]而?[#レ]?而藏諸。即遣[#三]津田監物丞。持以贈[#二]其一於杉坊[#一]矣。且使[#四レ]之知[#三]妙藥之法與[#二]放[#レ]火之道[#一]也。時堯把玩之餘。使[#三]鐵匠數人熟視[#二]其形象[#一]。月鍛季錬。新欲[#レ]製[#レ]之。其形制頗雖[#レ]似[#レ]之。不[#レ]知[#三]其底之所[#二]以塞[#一レ]之。其翌年蠻種賈胡復來[#二]於我島熊野一浦[#一]。浦名[#二]熊野[#一]者。亦小廬山小天竺之比也。賈胡之中。幸有[#二]一人鐵匠[#一]。時堯以爲[#二]天之所[#一レ]授。即使[#三]金兵衞尉清定者。學[#二]其底之所[#一レ]塞。漸經[#二]時月[#一]。知[#二]其卷而藏[#一レ]之。於[#レ]是。歳餘而新製[#二]數十之鐵砲[#一]。然後制[#下]造其臺之形制。與[#中]其飾之如[#二]鍵鑰[#一]者[#上]。時堯之意。不[#レ]在[#三]其臺與[#二]其飾[#一]。在[#二]乎可[#一レ]用[#二]之於行[#レ]軍之時[#一]也。於[#レ]是乎。家臣之在[#二]遐邇[#一]者。視而效[#レ]之。百發百中者。亦不[#レ]知[#二]其幾多[#一]矣。其後和泉界有[#二]橘屋又三郎者[#一]。商客之徒也。寓[#二]止我島[#一]者一二年。而學[#二]鐵炮[#一]者。殆熟矣。歸旋之後。人皆不[#レ]名。而呼曰[#二]鐵炮又[#一]矣。然後畿内之近邦。皆傳而習[#レ]之。非[#二]翅畿内關西之得而學[#レ]之而已[#一]。關東亦然。我嘗聞[#二]之於故老[#一]曰。天文壬寅癸卯之交。新貢之三大船。將[#三]南遊[#二]大明國[#一]。於[#レ]是。畿内以西。富家子弟。進爲[#二]商客[#一]者。殆乎千人。?師?師之操[#レ]舟如[#レ]神者數百人。艤[#二]船於我小島[#一]。既而待[#二]天之時[#一]。解[#レ]?齊[#レ]橈。望[#レ]洋向[#レ]若。不幸而狂風掀[#レ]海怒濤捲[#レ]雪。坤軸亦欲[#レ]折。吁。時耶命耶。一貢船檣傾?摧。化[#二]鳥有[#一]去。二貢船漸而達[#二]於大明國寧波府[#一]。三貢船不[#レ]得[#レ]乘。而回[#二]我小島[#一]。翌年再解[#二]其?[#一]遂[#二]南遊之志[#一]。飽載[#二]海貨蠻珍[#一]。將[#レ]歸[#二]我朝[#一]。大洋之中。黒風忽起。不[#レ]知[#二]西東[#一]。船遂飄蕩。達[#二]於東海道伊豆州[#一]。州人掠[#二]取其貨[#一]。商客亦失[#二]其所[#一]。船中有[#二]我僕臣松下五郎三郎者[#一]。手携[#二]鐵炮[#一]。既發而莫[#レ]不[#レ]中[#二]其鵠[#一]矣。州人見而奇[#レ]之。窺伺傚慕。有[#二]多學[#レ]之者[#一]矣。自[#レ]?以降。關東八州。?率士之濱。莫[#レ]不[#二]傳而習[#一レ]之。今夫此物行[#二]乎我朝[#一]也。盖六十有餘年矣。鶴髪之翁。猶有[#下]明記[#レ]之者[#上]矣。是知?之蠻種二鐵炮。我時堯求[#レ]之學[#レ]之。一發而?[#二]動於扶桑六十州[#一]。且復使[#下]鐵匠知[#二]製[#レ]之之道[#一]。而?[#中]於五畿七道[#上]。然則鐵炮之?[#二]?於我種子島[#一]也明矣。昔者採[#二]一種子之生生無[#レ]窮之義[#一]。名[#二]我島[#一]者。今以爲[#レ]符[#二]其讖?[#一]矣。古曰。先徳有[#レ]善不[#レ]能[#レ]昭[#二]昭於世[#一]者。後世之過也。因而書[#レ]之。
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【一八】鐵砲の流布
鐵砲流布《てつぱうるふ》に就《つい》ては、幾許《いくばく》の異説《いせつ》がある。堺港《さかひみなと》の商人《しやうにん》橘屋《たちばなや》又《また》三|郎《らう》なる者《もの》、種子島《たねがしま》に滯在《たいざい》一|兩年《りやうねん》、鐵砲《てつぱう》を學《まな》び、歸來《きらい》之《これ》を近畿《きんき》に傳《つた》へ、延《ひ》いて關東《くわんとう》にも及《およ》んだ。人《ひと》彼《かれ》を稱《しよう》して、鐵砲又《てつぱうまた》と稱《しよう》した。又《ま》た種子島家《たねがしまけ》の臣《しん》松下《まつした》五|郎《ろ》三|郎《らう》が、明國《みんこく》貢船《みつぎぶね》に乘《の》り、彼地《かのち》に赴《おもむ》き、其《そ》の歸航《きかう》の際《さい》、伊豆《いづ》に漂著《へうちやく》し、此處《ここ》にて彼《かれ》が鐵砲《てつぱう》を使用《しよう》したるを見《み》て、州人《しうじん》之《これ》を學《まな》んだ。此《かく》の如《ごと》く種子島時堯《たねがしまときたか》は、蠻族《ばんぞく》の二|鐵砲《てつぱう》を求《もと》め一|發《ぱつ》して扶桑《ふさう》六十|州《しう》を聳動《しようどう》せしめ、鐵匠《てつしやう》をして、之《これ》を製《せい》するの道《みち》を知《し》らしめ、而《しか》して五|畿《き》七|道《だう》に普及《ふきふ》せしめたと、文之和尚《ぶんしをしやう》は其《そ》の鐵砲記《てつぱうき》に於《おい》て、大氣焔《だいきえん》を吐《は》いて居《を》る。
之《これ》に對《たい》して豐後《ぶんご》輸入説《ゆにふせつ》もある。曰《いは》く、天文《てんぶん》十|年《ねん》、二百八十|人《にん》を搭載《たふさい》したる葡萄牙《ぽるとがる》の大船《たいせん》、豐後《ぶんご》の神宮浦《じんぐううら》に漂著《へうちやく》し、其《そ》の鳥銃《てうじう》を國主《こくしゆ》大友宗麟《おほともそうりん》に献《けん》じ、貿易《ぼうえき》を請《こ》うたと。〔新井白石采覽異言〕日本《にほん》は島國《しまぐに》であり、彼《かれ》より來《きた》る計《ばか》りでなく、我《われ》よりも海外《かいぐわい》に出掛《でか》けた。又《ま》た種子島《たねがしま》計《ばか》りが船著《ふなつき》ではない、何《いづ》れの津々浦々《つゝうら/\》にも、其《そ》の便宜《べんぎ》がある。堺《さかひ》の如《ごと》きは、立派《りつぱ》な貿易港《ぼうえきかう》である。されば玉瀧坊《ぎよくりうばう》と云《い》へる山伏《やまぶし》、永正《えいしやう》七|年《ねん》、唐國《からくに》より渡來《とらい》したと云《い》ふ鐵砲《てつぱう》を、堺《さかひ》より享祿《きやうろく》の初《はじめ》に求《もと》め、之《これ》を氏綱《うぢつな》に献《けん》じ、氏綱《うぢつな》は關東《くわい?とう》に比類《ひるゐ》なき寶《たから》とて、秘藏《ひざう》した〔北條五代記〕と云《い》ふ説《せつ》もある。
永正《えいしやう》七|年《ねん》は、西暦《せいれき》一五一〇|年《ねん》で、葡萄牙人《ぽるとがるじん》が、滿剌加《マラツカ》を取《と》る前年《ぜんねん》なれば、葡萄牙船《ぽるとがるせん》が、直接《ちよくせつ》に之《これ》を日本《にほん》に齎《もた》らしたとは、想像《さうざう》がつかぬ。併《しか》し南蠻人《なんばんじん》の手《て》を經《へ》て、若《もし》くは和寇《わこう》の手《て》を經《へ》て、輸入《ゆにふ》せられぬとも限《かぎ》られぬ。又《ま》た大永《たいえい》六|年《ねん》に、村上新左衞門《むらかみしんざゑもん》てふ西國牢人《さいこくろうにん》、之《これ》を武田信虎《たけだのぶとら》に傳《つた》へた〔甲陽軍記〕と云《い》ふ説《せつ》もある。
何《いづ》れにしても、鐵砲《てつぱう》を最初《さいしよ》に、實戰《じつせん》に應用《おうよう》したのは、九|州《しう》でなくて、關東《くわんとう》、若《も》しくは東海筋《とうかいすぢ》であつたらしい。弘治《こうぢ》元年《ぐわんねん》の川中島《かはなかじま》大合戰《だいかつせん》には、武田信玄《たけだしんげん》は、鐵砲《てつぱう》三百|挺《ちやう》を旭《あさひ》の要害《えうがい》へ入《い》れた〔妙法寺記〕とある。此《こ》れは鐵砲《てつぱう》の種子島《たねがしま》に傳來《でんらい》したと稱《しよう》する、天文《てんぶん》十二|年《ねん》を隔《へだ》つる、僅《わづ》かに十二|年後《ねんご》ぢや。
要《えう》するに種子島時堯《たねがしまときたか》が、果《はた》して唯《ゐ》一の鐵砲《てつぱう》傳來者《でんらいしや》であつた乎《か》、否乎《いなか》は、姑《しば》らく措《お》き、其《そ》の實戰《じつせん》に使用《しよう》せられたるは、天文《てんぶん》以前《いぜん》でなく、以後《いご》であつたらしい。而《しか》して戰爭《せんさう》を以《もつ》て、日常《にちじやう》の職業《しよくげふ》と心得《こゝろえ》居《を》る當時《たうじ》に於《おい》て、新知識《しんちしき》に渇《かつ》し、好奇心《かうきしん》の旺盛《わうせい》なる、解放時代《かいはうじだい》の日本人《にほんじん》にして、然《しか》も戰爭《せんさう》に取《と》りて、無《む》二の調法《てうはふ》なる此《こ》の武器《ぶき》を、いかでか閑却《かんきやく》す可《べ》き。彼等《かれら》が競《きそ》うて之《これ》を使用《しよう》せんとしたるは、當然《たうぜん》の事《こと》ぢや。併《しか》し其《そ》の行渡《ゆきわた》りの程度《ていど》に就《つい》ては、聊《いさゝ》か商量《しやうりやう》を要《えう》する。
鐵砲《てつぱう》は、弓矢《ゆみや》を作《つく》るが如《ごと》く、容易《ようい》に製造《せいざう》する事《こと》が出來《でき》ぬ。從《したがつ》て頗《すこぶ》る高價《かうか》である。ピントの紀行《きかう》には、種子島時堯《たねがしまときたか》は、二|個《こ》の鐵砲《てつぱう》の代《かは》りに、二千|兩《りやう》を贈《おく》つたとある。此《こ》れは普通《ふつう》の相場《さうば》にはならぬ。併《しか》し廉價《れんか》でなかつたことは、明白《めいはく》ぢや。而《しか》して其《そ》の使用《しよう》にも、多少《たせう》の技術《ぎじゆつ》と、習練《しふれん》とを要《えう》し、棒《ぼう》にて叩《たゝ》き合《あ》ひ、刀《かたな》を拔《ぬ》いて切《き》りまくるものとは、同日《どうじつ》の論《ろん》でない。そこでピントの紀行《きかう》に云《い》へる、日本人《にほんじん》は手《て》器用《きよう》なることを以《もつ》て、名高《なだか》ければ、直《たゞ》ちに鐵砲《てつぱう》の鍛法《たんぱふ》を始《はじ》め、吾等《われら》が半年程《はんねんほど》後《のち》に出帆《しゆつぱん》したる時《とき》、種子島《たねがしま》に六百|挺《ちやう》の餘《よ》あつた。後《のち》一五五六|年《ねん》―我《わ》が弘治《こうぢ》二|年《ねん》―日本《にほん》に到《いた》りしに、此國《このくに》の都城《とじやう》は、皆《みな》此《こ》の武器《ぶき》を以《もつ》て充《みた》された。此《こ》の人民《じんみん》は最《もつと》も戰爭好《せんさうずき》にて、戰爭《せんさう》にかけては、總《すべ》ての隣國人《りんこくじん》に超越《てうゑつ》して居《ゐ》たから、鐵砲《てつぱう》は大《だい》なる利益《りえき》ある商品《しやうひん》となつたとの一|節《せつ》には、若干《じやくかん》の割引《わりびき》を要《えう》するは勿論《もちろん》ぢやが、其《そ》の實戰《じつせん》の要具《えうぐ》として、天文年間《てんぶんねんかん》に使用《しよう》せられたる事丈《ことだけ》は、爭《あらそ》ふ可《べ》からざる事實《じじつ》ぢや。
それは天文《てんぶん》十八|年《ねん》、足利將軍義晴《あしかゞしやうぐんよしはる》が、東山慈照寺《ひがしやまじせうじ》の大嶽《おほたけ》に、城《しろ》を築《きづ》き始《はじ》め、翌年《よくねん》二|月《ぐわつ》、細川晴元等《ほそかわはるもとら》と議《ぎ》して、其《そ》の工事《こうじ》を進《すゝ》める記事中《きじちう》にも、尾《を》さきをば三|重《ぢう》に堀切《ほりきつ》て、二|重《ぢう》に壁《かべ》を付《つ》けて、其間《そのあひだ》に石《いし》を入《い》れたり。是《これ》は鐵砲《てつぱう》の用心《ようじん》也《なり》〔萬松院殿穴太記〕とある。既《すで》に鐵砲《てつぱう》の攻撃《こうげき》を用心《ようじん》して、城塞《じやうさい》の防禦工事《ばうぎよこうじ》を施《ほどこ》しつゝあるを見《み》れば、鐵砲《てつぱう》が攻城用《こうじやうよう》にも、使用《しよう》せられて居《ゐ》たことは、明白《めいはく》である。攻城《こうじやう》已《すで》に然《しか》らば、野戰《やせん》にも同樣《どうやう》と推定《すゐてい》し得可《うべ》しだ。
日本《にほん》は鐵砲《てつぱう》を、自《みづか》ら利用《りよう》したのみでなく、之《これ》を支那《しな》、朝鮮《てうせん》にも傳《つた》へた。支那《しな》の大砲《たいはう》あるは、久《ひさ》しき以前《いぜん》からだ。併《しか》し小銃《せうじう》は、彼《かれ》の嘉靖年間《かせいねんかん》、我《わ》が天文《てんぶん》弘治《こうぢ》の頃《ころ》、支那《しな》内地《ないち》に入《い》りたる、和寇《わこう》より傳《つた》へたとある。支那《しな》に傳《つた》へたる和寇《わこう》は、日本《にほん》にも亦《また》、之《これ》を傳《つた》へたのではあるまい乎《か》。朝鮮《てうせん》には、宗對馬守《そうつしまのかみ》が傳《つた》へた。此《こ》れは太閤征韓役《たいかふせいかんえき》、少《すこ》し以前《いぜん》の事《こと》ぢや。
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關八州に鐵砲はじまる事
見しは昔相州小田原に玉瀧坊と云て年よりたる山伏あり愚老若き比其山伏物語せられしは我國東より毎年大峰へのぼる享祿はじまる年和泉の堺へ下りしにあらけなく鳴物のこゑする是は何事ぞやといへは鐵炮と云物唐國より永正七年に初て渡りたると云て目當とてうつ我是を見扨も不思議きとくなる物かなとおもひ此鐵炮一挺かひて關東へ持て下り屋形氏綱公へ進上す此鐵炮を放させ御覽有て關東にたぐひもなき寶なりとて秘藏し給へは近國他國弓矢にたつさはる侍此よしを聞是は武家のたからなり昔鎭西八郎爲朝は大矢束を引日本無雙の精兵なり弓勢をこゝろみんためよろひ三領をかさね木の枝にかけ六重を射とほしたる強?弓なり保元の合戰に新院の味方に八郎一人有て忽射ころす者おほし數萬騎にてむせるといへ共此矢にをそれ院の御門破る事かなはずとかや今弓は有てもよきよろひをたいすればをそるゝにたらずいかにいはんや彼鐵炮は八郎か弓にも勝るなるへし所帶にかへても一挺ほしき物かなとねかはれしか氏康時代堺より國康といふ鐵炮はりの名人をよび下し給ひぬ扨又根來法師に杉房二王坊岸和田なとゝいふ者下りて關東をかけまはつて鐵炮ををしへしか今見れは人毎に持しと申されし然は一年北條氏直公小田原籠城の時節敵は堀きはまて取より海上は波間もなく舟をかけをき秀吉公西にあたつて山城を興し小田原の城を目の下に見て仰けるは秀吉數度の合戰城責せしといへともか程軍勢をそろへ鐵炮用意せし事さいはひなるかな時刻を定め一同にはなさせ敵味方の鐵炮のつもりを御覽せんと仰有て敵かたよりよは?りけるは來五月十八日の夜數萬挺の鐵炮にて忽せめして楯も矢倉も殘りなく打くすつへしといふ氏直も關八州の鐵炮を兼て用意し籠をきたる事なれは敵にも劣るまし鐵砲くらべせんと矢狹間一ツに鐵炮三挺つゝ其間※[#二の字点、1-2-22]に大鐵炮をかけをき濱手の衆は舟に向て海きはへ出暮るをおそしと相待處に十八日の暮かたより放しはじめ敵も味方も一夜かあひだ放しけれは天地震動し月の光も烟に埋れひとへにくらやみとなるされ共火のひかりはあらはれ限りなく見ゆる事萬天の星のごとし氏直高矢倉に揚り是を遠見有て狂歌に『地にくたる星か堀邊のほたるかと見るや我うつ鐵炮の火を』と口すさび有しかは御前に候する人※[#二の字点、1-2-22]中ていはく御詠吟のごとく敵は堀邊の草むらに螢火の見えかくれたるかごとし城中の鐵炮の光はさなから星月夜にことならずと申けれは氏直ゑみをふくませ給ふ事なゝめならず誠に其夜の鐵炮に敵味方耳目をおどろかす事前代未聞なり愚老相州の住人小田原にろうじやうし其節今のやうにおもひ出られたり然は鐵炮唐國より永正七年に渡りそれよりはんじやうし慶長十九年迄は百五年なり扨又關八州にてはなし始し事は享祿元年より今年迄八十七年以來と聞えたり〔北條五代記〕
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武田信玄鐵砲使用の事
天文廿四乙卯?閏月十月也
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此年正月暖氣御座候二月も?に御座候五月廿八日信州知文殿與四郎殿舟津にて生害被成候宮下?六方打被申候
去程此年七月廿三日武田晴信公信州へ御馬を被出候村上殿高梨殿越後守護長尾景虎を奉ョ同景虎も廿三日に御馬被出候而善光寺に御陣を張被食候武田殿は三十一の砦成り大塚に御陣を被成候善光寺の堂主栗田殿は旭の城に御座候旭の要害へも武田晴信公人數三千人サケハリをいる程の弓を八百張鐵炮三百挺入候去程に長尾景虎再々責候得共不叶後には駿河今川義元御扱にて和議被成在十月十五日双方御馬の入被食候以上二百日にて御馬入申候去程に人馬勞無申候〔甲斐國妙法寺記録 伴信友寫〕
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支那に鐵砲傳來の事
格致鏡原曰。鳥嘴木銃。小銃の事なり?。嘉靖間日犯[#レ]淅。倭奴被[#レ]檎。得[#二]其器[#一]。遂使[#二]傳造[#一]焉。
七修類藁?曰。嘉靖年間倭入[#二]内地[#一]。有[#二]被[#レ]擒者[#一]。?得[#二]其銃[#一]。遂令[#三]所[#レ]檎之倭奴演[#二]中國[#一]。遂傳[#二]其法[#一]。今且遍[#二]天下[#一]。
何氏兵録曰。中國無[#二]鳥銃[#一]。傳[#レ]自[#二]倭夷[#一]得[#レ]之。此與[#二]各種兵器[#一]不[#レ]同。利洞[#レ]甲。射能命中。弓矢勿[#レ]及。
經國雄略曰。鳥銃傳[#レ]自[#二]倭夷[#一]。十發九中。即飛鳥皆可[#二]射落[#一]。因[#レ]是得[#レ]名。
武備志曰。鳥銃中國本無[#二]此器[#一]。得[#二]之倭奴[#一]。
懲?録曰。天正十四年宗義智渡[#二]鳥銃於朝鮮[#一]。朝鮮有[#二]鳥銃[#一]也始[#二]於此[#一]。
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【一九】鐵砲と統一力
鐵砲《てつぱう》の輸入《ゆにふ》は、實《じつ》に時機《じき》に投《とう》じた。鐵砲《てつぱう》は贅澤物《ぜいたくぶつ》でなく、必要品《ひつえうひん》だ。然《しか》り戰國《せんごく》の時代《じだい》には、無《な》くて叶《かな》はぬ必要品《ひつえうひん》だ。而《しか》して此《こ》の鐵砲《てつぱう》が、當時《たうじ》に於《お》ける最大《さいだい》有効《いうかう》の、統《とう》一|力《りよく》となつた※[#「こと」の合字、104-4]は、誰《たれ》しも思《おも》ひ設《まう》けぬ結果《けつくわ》であらう。
應仁《おうにん》の大亂《たいらん》以來《いらい》、各地《かくち》の小名《せうみやう》、城主《じやうしゆ》、土豪《どがう》が、漸次《ぜんじ》に併呑《へいどん》せられ、排除《はいぢよ》せられ、その代《かは》りに一|方《ぱう》に覇威《はゐ》を振《ふる》ふ、大大名《おほだいみやう》を生《しやう》ずる傾向《けいかう》となつた。小敵《せうてき》は大敵《たいてき》の擒《とりこ》ぢや、此《これ》は自然《しぜん》の大勢《たいせい》ぢや。此《こ》の傾向《けいかう》は、鐵砲《てつぱう》傳來《でんらい》以前《いぜん》からの事《こと》ぢや。北條氏《ほうでうし》の關東《くわんとう》に興《おこ》り、毛利氏《まうりし》の關西《くわんさい》に起《おこ》る、其《そ》の根源《こんげん》は、必《かな》らずしも鐵砲《てつぱう》の恩惠《おんけい》とは云《い》はれまい。
然《しか》し日本全國《にほんぜんこく》を押《お》しなべて、鐵砲《てつぱう》の傳來《でんらい》が、此《こ》の統《とう》一|的《てき》、兼併的《けんぺいてき》、求心的《きうしんてき》傾向《けいかう》を、著《いちじる》しく助長《じよちやう》したる事實《じじつ》は、何人《なんぴと》も之《これ》を識認《しきにん》せねばなるまい。鐵砲《てつぱう》は日本《にほん》の天下《てんか》統《とう》一の殊勳者《しゆくんしや》と云《い》うても、過言《くわごん》ではあるまい。源氏《げんじ》は馬《うま》を用《もち》ひた、平氏《へいし》は舟《ふね》を用《もち》ひた。織田氏《おだし》に至《いた》りては、鐵砲《てつぱう》を用《もち》ひた。東北《とうほく》は騎兵《きへい》である、西南《せいなん》は水軍《すゐぐん》である。中央日本《ちうわうにほん》は歩兵《ほへい》であり、歩兵《ほへい》の利器《りき》は、槍《やり》であり、槍《やり》よりも更《さ》らに大《だい》なる利器《りき》は、鐵砲《てつぱう》である。極言《きよくげん》すれば織田氏《おだし》の天下《てんか》は、鐵砲《てつぱう》の天下《てんか》である。併《しか》し織田氏《おだし》許《ばか》りではない、群雄《ぐんゆう》何物《なにもの》か之《これ》を利用《りよう》せざる者《もの》ある可《べ》き。西《にし》は島津《しまづ》、大友《おほとも》より、東《ひがし》は伊達《だて》、最上《もがみ》に至《いた》る迄《まで》、皆《み》な用《もち》ひた。
當時《たうじ》に於《おい》ては、槍《やり》が主要兵器《しゆえうへいき》で、鐵砲《てつぱう》は、補助機關《ほじよきくわん》の役目《やくめ》であつた。云《い》はゞ現時《げんじ》の砲兵《はうへい》の如《ごと》きであつた。而《しか》して砲兵同樣《はうへいどうやう》に、必需《ひつじゆ》であつた。當時《たうじ》軍法《ぐんぱふ》の本家本元《ほんけほんもと》と云《い》はるゝ、甲州《かふしう》の信玄《しんげん》、越後《ゑちご》の謙信等《けんしんら》に於《おい》ては、其《そ》の行軍《かうぐん》の方法《はうはふ》も、自《おのづ》から科學的《くわがくてき》に組織《そしき》せられ、斥候《せきこう》あり、傳令使《でんれいし》あり、總司令部《そうしれいぶ》あり、輜重《しちよう》あり。其《そ》の陣立《ぢんだて》の如《ごと》きも、弓《ゆみ》、鐵砲隊《てつぱうたい》を前《まへ》に備《そな》へ、槍隊《やりたい》其次《そのつぎ》に控《ひか》へ、其《そ》の背《うしろ》に騎士《きし》あり、本陣《ほんぢん》あり、馬廻《うままは》りの護衞兵《ごゑいへい》あり、輜重隊《しちようたい》は最後《さいご》にあり。而《しか》して豫備隊《よびたい》とも云《い》ふ可《べ》き遊兵《いうへい》は、列外《れつぐわい》に在《あ》つた。
愈《いよい》よ開戰《かいせん》となれば、先《ま》づ互《たが》ひに弓《ゆみ》や、鐵砲《てつぱう》を打《う》ち掛《か》け、槍《やり》にて敵《てき》を突《つ》き崩《くづ》し、騎士《きし》は馬《うま》を下《お》りて、進撃《しんげき》し、或《あるひ》は槍隊《やりたい》の側面《そくめん》より、或《あるひ》は槍隊《やりたい》の中央《ちうわう》より、馬《うま》を躍《をど》らせて突撃《とつげき》し、いざとなれば、主將《しゆしやう》の馬廻《うままは》りの兵《へい》を以《もつ》て、其《そ》の勝敗《しようはい》の機《き》を決《けつ》したものぢや。勿論《もちろん》弓銃併用《きうじうへいよう》したけれども、弓《ゆみ》は追々《おひ/\》と廢《はい》せられ、鐵砲《てつぱう》が之《これ》に代《かは》つた。即《すなは》ち鐵砲《てつぱう》が現時《げんじ》に於《お》ける大砲《たいはう》の用《よう》を勤《つと》め、槍《やり》が小銃《せうじう》の用《よう》を勤《つと》めた。槍《やり》の使用《しよう》が、既《すで》に源平以來《げんぱいいらい》の亂戰《らんせん》、混鬪《こんとう》の風《ふう》を一|變《ぺん》して、略《ほ》ぼ節制《せつせい》あるものたらしめた。鐵砲《てつぱう》の使用《しよう》せらるゝに至《いた》りて、愈《いよい》よ節制《せつせい》の度《ど》を緊切《きんせつ》ならしめた。併《しか》し此《こ》れは唯《た》だ直接《ちよくせつ》の効果《かうくわ》ぢや。間接《かんせつ》の影響《えいきやう》に至《いた》りては、更《さ》らに深甚《しんじん》、多大《ただい》のものがある。
鐵砲《てつぱう》は至大《しだい》の統《とう》一|力《りよく》ぢや。土豪《どがう》、小名等《せうみやうら》が勝手《かつて》の眞似《まね》をして、其《その》城《しろ》に立《た》て籠《こもつ》ても、鐵砲《てつぱう》で攻《せ》め立《た》てられては、とても叶《かな》はぬものぢや。一|挺《ちやう》や、二|挺《ちやう》やは兎《と》も角《かく》も、幾《いく》百|挺《ちやう》の鐵砲《てつぱう》となれば、貧乏《びんぼう》の身上《しんしやう》では、とても辨《べん》ずる譯《わけ》には參《まゐ》らぬ。鐵砲《てつぱう》の前《まへ》には、地方《ちはう》の小英雄《せうえいゆう》も、我儘《わがまゝ》が云《い》へぬ始末《しまつ》となつた。鐵砲《てつぱう》は實《じつ》に大敵《たいてき》の、小敵《せうてき》に加《くは》ふる、最《もつと》も有効《いうかう》、有利《いうり》の威嚇力《ゐかくりよく》となつた。
鐵砲《てつぱう》の傳來《でんらい》よりして、戰爭《せんさう》が從前《じうぜん》の如《ごと》く、手輕《てがる》く參《まゐ》らぬ※[#「こと」の合字、107-1]となつた。戰爭《せんさう》が節制的《せつせいてき》となつたのは、即《すなは》ち小面倒《こめんだう》になり、專門的《せんもんてき》になつたことぢや。此《これ》が爲《た》めに兵農《へいのう》も、分離《ぶんり》の必要《ひつえう》を加《くは》へた。軍國《ぐんこく》の大務《たいむ》は、小作米《こさくまい》取立《とりた》ての片手間《かたてま》には、行《おこな》はれぬ事《こと》となつた。各地《かくち》の中心力《ちうしんりよく》たる群雄《ぐんゆう》は、其《そ》の勢力《せいりよく》の範圍《はんゐ》を擴張《くわくちやう》し、其《そ》の周圍《しうゐ》に有爲《いうゐ》なる人物《じんぶつ》を吸集《きふしふ》し、其《そ》の不逞《ふてい》の徒《と》を、どし/\退治《たいぢ》し、其《そ》の四|隣《りん》を、どし/\蠶食《さんしよく》し、遂《つひ》に群雄《ぐんゆう》相互《さうご》の交鬪《かうとう》となつた。武田《たけだ》、上杉《うへすぎ》の合戰《かつせん》の如《ごと》きも、此《こ》れである。
鐵砲《てつぱう》の傳來《でんらい》は、大《だい》は愈《いよい》よ大《だい》となり、小《せう》は益々《ます/\》小《せう》とならしめた。固《もと》より交通不便《かうつうふべん》の日本《にほん》なれば、田舍《ゐなか》の片隅《かたすみ》や、山奧《やまおく》には、尚《な》ほ舊式的《きうしきてき》の小雄《せうゆう》も殘存《ざんぞん》した。併《しか》し全局《ぜんきよく》の傾向《けいかう》を見《み》れば、日本全國《にほんぜんこく》に若干《じやくかん》の中心的勢力《ちうしんてきせいりよく》を生《しやう》じ、世《よ》は統《とう》一の方面《はうめん》に、大踏歩《だいたうほ》し、大回轉《だいくわいてん》しつゝあつた。即《すなは》ち應仁以來《おうにんいらい》の舊社會《きうしやくわい》分解作用《ぶんかいさよう》を完成《くわんせい》し、元龜《げんき》、天正《てんしやう》の新結合《しんけつがふ》を打出《だしゆつ》した。此《これ》が即《すなは》ち群雄割據《ぐんゆうかつきよ》の現状《げんじやう》である。併《しか》し此《こ》の現状《げんじやう》は、何時迄《いつまで》維持《ゐぢ》せらるゝであらう乎《か》。割據《かつきよ》は即《すなは》ち天下《てんか》統《とう》一の前提《ぜんてい》ではない乎《か》。
【二〇】耶蘇教傳來の發端
耶蘇教《やそけう》は鐵砲《てつぱう》の傳來《でんらい》より、約《やく》七|年《ねん》の後《のち》に傳來《でんらい》した。聖《セント》・撒美惠《ザビヱー》の鹿兒島《かごしま》に到著《たうちやく》したのが、一五四九|年《ねん》、我《わ》が天文《てんぶん》十八|年《ねん》八|月《ぐわつ》十五|日《にち》ぢや。此《こ》れは日本《にほん》の歴史《れきし》に、記念《きねん》す可《べ》き日《ひ》の一である。
話《はなし》が聊《いさゝ》か旁徑《わきみち》に渉《わた》る虞《おそれ》があるが、耶蘇教《やそけう》の日本《にほん》に入《い》り來《きた》りたるも、實《じつ》は歐洲《おうしう》に於《お》ける、宗教改革《しうけうかいかく》の捲《ま》き起《おこ》した驚瀾《きやうらん》の餘波《よは》に過《す》ぎぬ。如何《いか》なる場合《ばあひ》でも、日本《にほん》は世界《せかい》と沒交渉《ぼつかうせふ》ではない。况《いは》んや東西接觸《とうざいせつしよく》の、此《こ》の潮合《しほあひ》に於《おい》てをや。
獨逸《どいつ》の田舍僧《ゐなかそう》、路錫《ルーテル》が、羅馬法王《ろーまはふわう》の權威《けんゐ》に對《たい》して、反抗《はんかう》の旗《はた》を翻《ひるがへ》して以來《いらい》、宗教改革《しうけうかいかく》の氣運《きうん》は、中歐《ちうおう》より北歐《ほくおう》を風靡《ふうび》した。榮華《えいぐわ》の夢《ゆめ》に沈醉《ちんすゐ》せる羅馬舊教《ろーまきうけう》も、今《いま》は覺醒《かくせい》せねばならぬ危機《きき》となつた。而《しか》して此《こ》の神教勃興《しんけうぼつこう》の風潮《ふうてう》に、刺戟《しげき》せられて、舊教《きうけう》の中心《ちうしん》より湧《わ》き出《い》でたる、運動《うんどう》の一が、乃《すなは》ち耶蘇會《ゼスイツト》の結社《けつしや》ぢや。其《そ》の發起者《ほつきしや》がロヨラ?で、其《そ》の參加者《さんかしや》の主《おも》なる一|人《にん》が、聖《セント》・撒美惠《ザビヱー》ぢや。
撒美惠《ザビヱー》は、西班牙《すぺいん》の貴族《きぞく》で、一五〇六|年《ねん》、我《わ》が永正《えいしやう》三|年《ねん》、其《そ》の母《はゝ》の持物《もちもの》である、フィリニース?連山《れんざん》の麓《ふもと》なる、撒美惠城《ザビヱーじやう》に生《うま》れた。彼《かれ》は心身與《しんしんとも》に長大《ちやうだい》、剛健《がうけん》、活?《くわつぱつ》にして、極《きは》めて快活《くわいくわつ》の好男兒《かうだんじ》であつた。但《た》だ武事《ぶじ》よりも、文事《ぶんじ》を好《この》んだが爲《た》め、其《その》父《ちゝ》は彼《かれ》を巴里《ぱりー》の大學《だいがく》に入《い》れた。彼《かれ》は長足《ちやうそく》の進歩《しんぽ》をした。一五二八|年《ねん》、未《いま》だ業《げふ》を卒《を》へざるに、彼《かれ》はアリストートレス?哲學《てつがく》の講師《かうし》に擢《ぬき》んでられた。一五三〇|年《ねん》には、學位《がくゐ》を得《え》た。彼《かれ》は在學中《ざいがくちう》に、思《おも》ひ掛《が》けなき人物《じんぶつ》と交際《かうさい》した。それはロヨラ?である。是《こ》れが、彼《かれ》の一|生涯《しやうがい》い於《お》ける、大轉回《だいてんくわい》の動機《どうき》となつた。
ロヨラ?も亦《ま》た、西班牙《すぺいん》の貴族《きぞく》ぢや。彼《かれ》は壯《さう》にして軍《ぐん》に從《したが》ひ、砲彈《はうだん》に其《その》脚《あし》を劈《つんざ》かれて、跛《ちんば》となつた。爲《た》めに戎衣《じうい》を脱《だつ》して、教門《けうもん》に身《み》を委《ゆだ》ねんと心掛《こゝろが》けた。彼《かれ》はエルサレム?の聖墓《せいぼ》に詣《けい》した。彼《かれ》は種々《しゆ/″\》の困厄《こんやく》を經《へ》た。而《しか》して學問《がくもん》の已《や》む可《べか》らざるを自覺《じかく》して、三十三|歳《さい》にして、始《はじ》めて學《がく》に志《こゝろざ》した。撒美惠《ザビヱー》が二十二|歳《さい》にして、巴里大學《ぱりーだいがく》の講師《かうし》に擢?《えら》ばれたる當時《たうじ》に、三十七|歳《さい》の彼《かれ》は、其《そ》の學問《がくもん》を完成《くわんせい》す可《べ》く、同校《どうかう》に赴《おもむ》いた。ロヨラ?が耶蘇會《ゼスイツト》組織《そしき》の目論見《もくろみ》は、已《すで》に以前《いぜん》より胸中《きようちう》に萠《きざ》して居《ゐ》た。彼《かれ》は其《そ》の同志《どうし》を物色《ぶつしよく》した。而《しか》して撒美惠《ザビヱー》に於《おい》て、其《そ》の理想的《りさうてき》の人物《じんぶつ》を見出《みいだ》した。好漢《かうかん》、好漢《かうかん》を知《し》る。されど撒美惠《ザビヱー》は、容易《ようい》にロヨラ?の手《て》に篏《はま》らなかつた。然《しか》も彼《かれ》の山《やま》をも動《うご》かす一|念《ねん》は、遂《つひ》に撒美惠《ザビヱー》をも動《うご》かした。而《しか》してロヨラ?を首魁《しゆくわい》としての七|人組《にんぐみ》が、巴里《ぱりー》に於《おい》て出來《でき》た。此《こ》れが一五三四|年《ねん》、我《わ》が天文《てんぶん》三|年《ねん》ぢや。即《すなは》ち世界《せかい》の歴史《れきし》と大關係《だいくわんけい》ある、耶蘇會《ゼスイツト》の創立《さうりつ》は、信長《のぶなが》の誕生《たんじやう》と同年《どうねん》ぢや。
彼等《かれら》の當初《たうしよ》の目的《もくてき》は、パレステナ?の聖地《せいち》に赴《おもむ》き、異教徒《いけうと》を教化《けうくわ》するにあつた。併《しか》し土耳古人《とるこじん》の爲《た》めに妨《さまた》げられ、之《これ》を果《は》たす※[#「こと」の合字、110-7]が出來《でき》ぬを見《み》て、何《いづ》れなりとも、法王《はふわう》の命《めい》を奉《ほう》じて、布教《ふけう》に身《み》を竭《つ》くす可《べ》く決心《けつしん》した。即《すなは》ち彼等《かれら》の誓約《せいやく》は、第《だい》一|清淨不犯《しやうじやうふは?ん》なる事《こと》、第《だい》二|貧苦困厄《ひんくこんやく》に耐《た》ふる事《こと》、第《だい》三|絶對從順《ぜつたいじうじゆん》なる事《こと》、而《しか》して第《だい》四は即《すなは》ち、挺身《ていしん》以《もつ》て聖教《せいけう》を世界《せかい》に流布《るふ》する事《こと》ぢや。撒美惠《ザビヱー》の如《ごと》きは、此《こ》の誓約《せいやく》に恰當《かふたう》するのみならず、寧《むし》ろそれ以上《いじやう》の人物《じんぶつ》と云《い》ふ可《べ》きであらう。
凡《およ》そ耶蘇教派中《やそけうはちう》で、最《もつと》も詭譎《ききつ》、陰險《いんけん》の者《もの》は、何人《なんぴと》も耶蘇會徒《ゼスイツトと》ぢやと云《い》ふ。所謂《いはゆ》る目的《もくてき》は方法《はうはふ》を正認《せいにん》する、即《すなは》ち善《よ》き目的《もくてき》を遂行《すゐかう》する爲《た》めには、手段《しゆだん》は擇《え?ら》ばぬとは、此《こ》の仲間《なかま》の信條《しんでう》である。それが必然《ひつぜん》の結果《けつくわ》として、謀叛《むほん》も教唆《けうさ》する、離間《りかん》もする、暗殺《あんさつ》もする。如何《いか》なる罪惡《ざいあく》でも、目的《もくてき》の爲《た》めには、用捨?《ようしや》せぬ。爲《な》さゞる所《ところ》なく、忍《しの》びざる所《ところ》なしとは、彼等《かれら》の事《こと》ぢやとは、世間《せけん》一|般《ぱん》の批判《ひはん》である。併《しか》し此《こ》れを事實《じじつ》とすれば、其《そ》の流幣《りうへい》ぢや。耶蘇會《ゼスイツト》發起者《ほつきしや》の動機《どうき》は、半死半生《はんしはんしやう》の羅馬舊教會《ろーまきうけうくわい》に、新鮮《しんせん》の血液《けつえき》を注入《ちうにふ》せんとするに、他《ほか》ならなかつた。
葡萄牙王《ぽるとがるわう》ジヨン?三|世《せい》は、六|人《にん》の耶蘇會士《やそくわいし》を、印度《いんど》に送《おく》る可《べ》く法王《はふわう》に請願《せいぐわん》した。併《しか》しロヨラ?は、二|人《にん》丈《だけ》より派遣《はけん》する※[#「こと」の合字、111-7]を肯《がへん》ぜなかつた。然《しか》も其中《そのうち》の一|人《にん》が病《やまひ》に罹《かゝ》りて、赴《おもむ》く能《あた》はざるを見《み》て、漸《やうや》く其《そ》の秘書《ひしよ》たる撒美惠《ザビヱー》に向《むかつ》て、明日《みやうにち》より羅馬《ろーま》を出立《しゆつたつ》す可《べ》く命《めい》じた。斯《か》くて撒美惠《ザビヱー》が東方《とうはう》に向《むかつ》て、葡萄牙《ぽるとがる》のリスボン?港《かう》を解纜《かいらん》したるは、一五四一|年《ねん》、我《わ》が天文《てんぶん》十|年《ねん》四|月《ぐわつ》七|日《か》、彼《かれ》が三十五|回《くわい》の誕生日《たんじやうび》であつた。
【二一】聖徒、撒美惠
撒美惠《ザビヱー》は一五四二|年《ねん》五|月《ぐわつ》六|日《か》に、印度《いんど》なる臥亞《ゴア》に著《ちやく》した。前年《ぜんねん》の四|月《ぐわつ》七|日《か》に、葡萄牙《ぽるとがる》のリスボン?港《かう》を解纜《かいらん》したれば、其《そ》の航海《かうかい》は、實《じつ》に一|年《ねん》と一|個月《かげつ》を要《えう》した。此《こ》の間《あひだ》に於《お》ける、彼《かれ》が殊勝《しゆしよう》なる行動《かうどう》は、何人《なんぴと》も感激《かんげき》するを禁《きん》じ得《え》ない。彼《かれ》は眞《しん》の耶蘇教者《やそけうしや》であつた。彼《かれ》は實《じつ》に奉仕的《ほうしてき》生活《せいくわつ》の模範《もはん》を示《しめ》した。而《しか》して彼《かれ》の聖徒的《せいとてき》行動《かうどう》は、彼《かれ》自《みづか》ら毫《がう》も其《そ》の自覺心《じかくしん》の痕跡《こんせき》なき程《ほど》、それ丈《だ》け崇高《しうかう》に、それ丈《だ》け自然《しぜん》であつた。
當時《たうじ》航海《かうかい》の艱險《かんけん》は、想像《さう/″\》の外《ほか》ぢや。葡萄牙《ぽるとがる》より印度《いんど》への船客《せんきやく》で、其《そ》の難船者《なんせんしや》は別《べつ》として、無事《ぶじ》に到達《たうたつ》し得《う》る者《もの》は、その六|割《わり》であつた。
彼《かれ》は新《あら》たに赴任《ふにん》する、總督《そうとく》の一|行中《かうちう》に加《くは》はり、固《もと》より一|等《とう》船客《せんきやく》であつた。併《しか》し彼《かれ》は何時《いつ》の間《ま》にやら、醫員《いゐん》となり、事務長《じむちやう》となり、給仕頭《きふじがしら》となり、看護員《かんごゐん》となり、傳道師《でんだうし》となり、先生《せんせい》となり、遊仲間《あそびなかま》となり、料理番《れうりばん》となり、一|身《しん》を以《もつ》て、百|務《む》に應酬《おうしう》した。曾《かつ》て此《こ》の船中《せんちう》の給仕《きふじ》であつた小僮《せうどう》が、他日《たじつ》屡?《しばし》ば物語《ものがた》つた。如何《いか》に此《こ》の驚嘆《きやうたん》す可《べ》き大人《たいじん》が、船客《せんきやく》の爲《た》めに、あらゆる賤役《せんえき》を自《みづ》から取《と》り、時《とき》としては彼等《かれら》の襯衣《しやつ》を自《みづ》から洗濯《せんたく》し、又《ま》た病者《びやうしや》の爲《た》めに、己《おの》れの船室《せんしつ》を明《あ》け渡《わた》し、大綱《おほづな》の捲《ま》きて堆《うづたか》くなりたる上《うへ》に、自《みづ》から眠《ねむ》つたかと。
彼《かれ》が船中《せんちう》第《だい》一の、人望家《じんばうか》となつたのは當然《たうぜん》ぢや。然《しか》も彼《かれ》は毫《がう》も善《ぜん》に伐《ほこ》らなかつた、彼《かれ》は決《けつ》して超然高擧《てうぜんかうきよ》せなかつた。船中《せんちう》の少壯《せうさう》、放蕩《はうたう》の徒《と》を導《みちび》く爲《た》めには、自《みづ》から其《そ》の骨牌遊戯《かるたいうぎ》の、仲間入《なかまいり》をも敢《あへ》てした。而《しか》して何時《いつ》の間《ま》にやら、彼等《かれら》の鄙俚《ひり》なる船謠《ふなうた》の代《かは》りに、讃美歌《さんびか》が、唱《とな》へらるゝことゝなつた。但《た》だ彼《かれ》は酒《さけ》を飮《の》まなかつた。僧侶《そうりよ》は水《みづ》を飮《の》む可《べ》しぢや、此《こ》の飮料《いんれう》は、劣情《れつじやう》を刺戟《しげき》せず、狂言《きやうげん》、綺語《きご》を挑發《てうはつ》せず、又《ま》た胸奧《きようあう》に愼藏《しんざう》す可《べ》き事《こと》をも、暴露《ばくろ》せしめずと。彼《かれ》は水《みづ》を飮《の》みつゝ、酒《さけ》を飮《の》む者《もの》と樂《たのしみ》を與《とも》にした。又《ま》た曰《いは》く、一|切《さい》の諸物《しよぶつ》をして、彼等《かれら》の門戸《もんこ》に入《い》らしめよ、然《しか》も予《よ》は彼等自身《かれらじしん》が、予《よ》の門《もん》に來《きた》り集《あつま》らんことを望《のぞ》むと。蓋《けだ》し彼《かれ》は其《そ》の有《いう》する總《すべ》ての物《もの》を、彼等《かれら》に與《あた》へて、彼等《かれら》の靈魂《れいこん》を得《う》るが、彼《かれ》の天職《てんしよく》を竭《つく》す所以《ゆゑん》であると、信《しん》じて居《を》つた。
彼《かれ》は總督《そうとく》と、同《どう》一の食卓《しよくたく》に就《つ》く可《べ》くあつた。然《しか》も彼《かれ》は群集《ぐんしう》と與《とも》に食《しよく》した、而《しか》して彼《かれ》の爲《た》めに、上卓《じやうたく》より頒《わか》ち來《きた》る美味《びみ》は、悉《こと/″\》く之《これ》を病者《びやうしや》に施《ほどこ》した。
船《ふね》は壞血病《くわいけつびやう》を流行《りうかう》せしめた。船中《せんちう》病者《びやうしや》は勿論《もちろん》、屍體《したい》と、半死《はんし》の者《もの》とで、填充《てんじう》した。彼《かれ》は傳染《でんせん》の虞《おそれ》あるを知《し》らぬではない、併《しか》し彼《かれ》は垂死者《すゐししや》の懺悔《ざんげ》を聽《き》き、祈祷?《きたう》をなし、病者《びやうしや》の體《からだ》を清《きよ》め、其《そ》の病衣《びやうい》を濯《そゝ》ぎ、其《そ》の食膳《しよくぜん》を作《つく》り、病者《びやうしや》の口《くち》に適《てき》す可《べ》く、肉片《にくへん》を細《こまか》く?《き》り刻《きざ》み、之《これ》を侑《すゝ》めた。肉體《にくたい》の病《やまひ》には、藥《くすり》を與《あた》へた、精神《せいしん》の沮喪《そさう》には、元氣《げんき》を與《あた》へた。而《しか》して彼《かれ》は自《みづか》ら發熱《はつねつ》、頭痛《づつう》しつゝあるに拘《かゝは》らず、枉《ま》げて其身《そのみ》に受用《じゆよう》したる、一の粗《そ》なる毛布《まうふ》をも脱《だつ》して、他《た》の病者《びやうしや》に與《あた》へた。
此《かく》の如《ごと》くして、彼《かれ》は自《みづ》からも病苦《びやうく》に惱《なや》まされ、稍《やうや》く之《これ》を凌《しの》ぎ、遂《つひ》に臥亞《ゴア》に到著《たうちやく》するを得《え》た。然《しか》も東洋《とうやう》に於《お》ける白皙人《はくせきじん》は、彼《かれ》を失望《しつばう》せしめた。彼等《かれら》の中《うち》には、其《そ》の郷國《きやうごく》の?絆《きはん》を脱《だつ》して、勝手《かつて》の振舞《ふるまひ》を爲《な》す者《もの》が少《すくな》くない。耶蘇教徒《やそけうと》と自稱《じしよう》しつゝ、異教徒《いけうと》の目《め》に餘《あま》る程《ほど》の、自墮落漢《じだらくかん》もある。而《しか》して其《そ》の改宗者《かいしうしや》も亦《ま》た、如何《いかゞ》はしき者《もの》が多《おほ》い。
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此處《ここ》の人間《にんげん》は、皆《み》な腐敗《ふはい》して居《を》る。人民《じんみん》は道理《だうり》を失墜《しつつゐ》したとでも言《い》ふ可《べ》きであらう。信徒《しんと》となつた者《もの》も、世俗的《せぞくてき》の意味《いみ》で、否《い》な往々醜惡《わう/\しうあく》の目的《もくてき》の爲《た》めぢや。回教徒《くわいけうと》や、拜偶像者《はいぐうざうしや》の奴隷《どれい》が、耶蘇教徒《やそけうと》となるのは、解放《かいはう》せられんが爲《た》め、若《もし》くは其《そ》の壓制者《あつせいしや》の手《て》を離《はな》れて、保護《ほご》せられんが爲《た》めぢや。其他《そのた》の改宗者《かいしうしや》は、新帽《しんぼう》を被《かぶ》り、鮮衣《せんい》を著《つ》けんが爲《た》め、さなくば絞首《かうしゆ》より脱《のが》れ、若《もし》くは耶蘇教徒《やそけうと》の妻《つま》を、娶《めと》らんが爲《た》めぢや。
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此《こ》れは或者《あるもの》が書《か》いた臥亞《ゴア》の眞相《しんさう》である。併《しか》し撒美惠《ザビヱー》は、臥亞《ゴア》には數個月《すうかげつ》より滯在《たいざい》せなかつた。彼《かれ》は傳道《でんだう》の爲《た》めに、其《その》席《せき》温《あたゝ》まるに暇《いとま》なかつた。彼《かれ》は當時《たうじ》三十六|歳《さい》の、血氣《けつき》正《まさ》に剛《がう》なる時《とき》であつた。而《しか》して爾來《じらい》の十|年間《ねんかん》、彼《かれ》が其《そ》の最後《さいご》の息《いき》を、支那《しな》の三|?島《さうたう》の海濱《かいひん》にて引取《ひきと》る迄《まで》、東洋《とうやう》は實《じつ》に、此《こ》の聖徒《せいと》の、献身的《けんしんてき》舞臺《ぶたい》であつた。
【二二】日本最初の耶蘇教者
撒美惠《ザビヱー》は、如何《いか》なる結縁《けつえん》によりて、日本《にほん》には渡來《とらい》した乎《か》。一は彼《かれ》が印度《いんど》、及《およ》び馬來方面《まれーはうめん》に於《お》ける傳道《でんだう》の情態《じやうたい》に、滿足《まんぞく》せざりし爲《た》め、他《た》は彼《かれ》が滿剌加《マラツカ》に於《おい》て、日本人《にほんじん》彌次郎《やじらう》―或《あるひ》は安次郎《あんじろ》と稱《しよう》す―に邂逅《かいこう》した爲《た》めである。
彼《かれ》は東洋《とうやう》に於《お》ける耶蘇教徒《やそけうと》と稱《しよう》する、葡萄牙人《ぽるとがるじん》の行動《かうどう》に、多大《ただい》の悔恨《くわいこん》を禁《きん》じ得《え》なかつた。彼等《かれら》は印度《いんど》に十|字架《じか》の新宗教《しんしうけう》を輸入《ゆにふ》し、其《そ》の代《かは》りに自《みづ》から東洋流《とうやうりう》の新惡徳《しんあくとく》を習得《しふとく》した。彼等《かれら》は周邊《しうへん》の監視者《かんししや》なきに乘《じよう》じ、其《そ》の境遇《きやうぐう》に挑發《てうはつ》せられ、淫蕩《いんたう》、放逸《はういつ》、あらゆる醜惡《しうあく》の事《こと》に耽《ふけ》つた。賣淫窟《ばいいんくつ》は、東洋《とうよう》に於《お》ける葡萄牙人《ぽるとがるじん》の、普通制度《ふつうせいど》であつた。葡萄牙人《ぽるとがるじん》と、土人《どじん》との合《あひ》の子《こ》は、ごろごろと街頭《がいとう》に彷徨《はうくわう》し、半《なかば》は奴隷《どれい》となり、半《なかば》は乞食《こじき》となつて居《ゐ》た。
撒美惠《ザビヱー》は、土人《どじん》の靈魂《れいこん》を救《すく》ふの前提《ぜんてい》として、先《ま》づ此《こ》の自稱《じしよう》耶蘇教徒《やそけうと》の靈魂《れいこん》を、救《すく》はねばならぬ必要《ひつえう》を認《みと》めた。而《しか》して此《こ》の地方《ちはう》に商權《しやうけん》を握《にぎ》りて、活動《くわつどう》しつゝある回教徒《くわいけうと》、猶太教徒《ゆだやけうと》の如《ごと》き、却々《なか/\》齒《は》も立《た》たぬ有樣《ありさま》であつた。彼《かれ》は葡萄牙王《ぽるとがるわう》に向《むかつ》て、異端糺審廳《インタイジシヨン》を設置《せつち》す可《べ》く建白《けんぱく》した。然《しか》も彼《かれ》は遂《つひ》に、葡萄牙王《ぽるとがるわう》の力《ちから》も、印度《いんど》に於《お》ける信仰問題《しんかうもんだい》には、徹底《てつてい》せぬ事《こと》を諦《あきら》めた。
彼《かれ》は如何《いか》にして、日本《にほん》に眼《まなこ》を轉《てん》じた乎《か》。彼《かれ》が一五四八|年《ねん》一|月《ぐわつ》、羅馬《ろーま》なる耶蘇會本部《ゼスイツトほんぶ》に當《あ》てたる書翰《しよかん》は、簡明《かんめい》に之《これ》を語《かた》つた。
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予《よ》が滿剌加《マラツカ》の町《まち》に滯留《たいりう》の際《さい》、葡萄牙《ぽるとがる》の或《あ》る商人《しやうにん》が、一|大《だい》快報《くわいほう》を齎《もた》らした。先頃《さきごろ》日本《にほん》と云《い》ふ一|大《だい》島國《とうこく》が發見《はつけん》せられた。此處《ここ》には聖教《せいけう》が、印度《いんど》の何《いづ》れの地方《ちはう》よりも、必《かな》らず多大《ただい》の効果《かうくわ》を獲《う》るであらう。それは日本人《にほんじん》は、印度《いんど》の異教徒《いけうと》抔《など》に絶《た》えて見《み》ざる所《ところ》の、最《もつと》も知識《ちしき》を探求《たんきう》する國民《こくみん》であるからだと、葡萄牙商人《ぽるとがるしやうにん》は申《まを》した。而《しか》して予《よ》は葡萄牙人《ぽるとがるじん》の同伴《どうはん》したる、彌次郎《やじらう》なる日本人《にほんじん》を見《み》た。彼《かれ》は葡萄牙人《ぽるとがるじん》より予《よ》の名《な》を傳《つた》へ聞《き》き、予《よ》に面會《めんくわい》せん爲《た》め、態※[#二の字点、1-2-22]《わざ/″\》日本《にほん》から來《き》た。彼《かれ》は其《そ》の少年《せうねん》の時《とき》に犯《おか》せる罪《つみ》に就《つい》て、葡萄牙人《ぽるとがるじん》に語《かた》り、如何《いか》にして神《かみ》より其《そ》の赦《ゆる》しを得《う》可《べ》き乎《か》と問《と》うた。葡萄牙人《ぽるとがるじん》は予《よ》に親《した》しく見《まみ》えて、其《そ》の誨《をしへ》を請《こ》はんため、同伴《どうはん》を勸《すゝ》めた。然《しか》るに彼《かれ》が滿剌加《マラツカ》に來著《らいちゃく》したる頃《ころ》、折《をり》惡《あ》しくも、予《よ》はマルッコ[#「マルッコ」に二重傍線]に去《さ》つた。彼《かれ》は悵然《ちやうぜん》として日本《にほん》に引《ひ》き返《かへ》した。然《しか》るに日本《にほん》の島影《しまかげ》を眼前《がんぜん》に見《み》る頃《ころ》、暴風《ばうふう》に襲《おそ》はれ、九|死《し》に一|生《しやう》を得《え》て、復《ま》たしも滿剌加《マラツカ》に到《いた》つた。而《しか》して恰《あたか》も予《よ》と面會《めんくわい》した、彼《かれ》の喜《よろこ》び知《し》る可《べ》しぢや。彼《かれ》は善《よ》く葡萄牙語《ぽるとがるご》を解《かい》した、彼我《ひが》の情意《じやうい》を通《つう》ずるには、何等《なんら》の差支《さしつかへ》がない。若《も》し總《すべ》ての日本人《にほんじん》にして、彌次郎《やじらう》の如《ごと》く、學問《がくもん》に鋭意《えいい》ならしめば、彼等《かれら》は從來《じうらい》發見《はつけん》せられたる、諸國《しよこく》の中《うち》にて、最《もつと》も研究的《けんきうてき》人民《じんみん》と云《い》はねばならぬ。
予《よ》は彌次郎《やじらう》に問《と》うた、若《も》し予《よ》が汝《なんぢ》と與《とも》に日本《にほん》に赴《おもむ》いたならば、日本人《にほんじん》は果《はた》して耶蘇教徒《やそけうと》となるであらうかと。彼《かれ》答《こた》へて曰《いは》く、日本人《にほんじん》は一直《ひたぶる》に耶蘇教徒《やそけうと》とはなるまい。先《ま》づ予《よ》に向《むかつ》て、種々《しゆ/″\》の質問《しつもん》をなすであらう。而《しか》して予《よ》が答辯《たふべん》を聞《き》き、予《よ》が知《し》る所《ところ》の深淺《しんせん》、厚薄如何《こうはくいかん》を探《さぐ》り、更《さ》らに予《よ》が行状《ぎやうじやう》を察《さつ》し、而《しか》して言行《げんかう》一|致《ち》するや、否《いな》やを、見《み》るであらう。若《も》し予《よ》の語《かた》る所《ところ》、彼等《かれら》の惑《まどひ》を解《と》くに足《た》り、予《よ》の行《おこな》ふ所《ところ》、彼等《かれら》の信《しん》を博《はく》するに足《た》らば、予《よ》と相知《あひし》る半年《はんねん》の後《のち》には、國王《こくわう》も、貴族《きぞく》も、一|般《ぱん》人民《じんみん》も、皆《み》な耶蘇教徒《やそけうと》となるであらう。要《えう》するに日本人《にほんじん》は、唯《た》だ道理《だうり》にてのみ、支配《しはい》することが出來《でき》る人民《じんみん》であると。
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彌次郎《やじらう》が鹿兒島《かごしま》を出帆《しゆつぱん》したのは、一五四七|年《ねん》―天文《てんぶん》十六|年《ねん》―の四|月《ぐわつ》で、其《そ》の撒美惠《ザビヱー》と滿剌加《マラツカ》に於《おい》て、相見《あひみ》たるは、十一|月頃《ぐわつごろ》ぢや。抑《そもそ》も彌次郎《やじらう》とは、何人《なんぴと》である乎《か》。
日本《にほん》の歴史《れきし》には、彼《かれ》の姓名《せいめい》は書《か》き留《とめ》られて居《を》らぬ。彼《かれ》は唯《た》だ鹿兒島《かごしま》の者《もの》で、門地《もんち》も卑《いや》しからず、資産《しさん》もあり、三十五|歳《さい》にして、少年《せうねん》よりの放縱《はうじう》の行爲《かうゐ》を悔《く》い、佛僧《ぶつそう》を叩《たゝ》いて、其《そ》の煩悶《はんもん》を排《はい》せんと欲《ほつ》して、其意《そのい》に滿《み》つる能《あた》はず。偶《たまた》ま葡萄牙人《ぽるとがるじん》より、撒美惠《ザビヱー》の名《な》を聞《き》き、行《ゆい》て其《そ》の教《おしへ》を承《う》けんとするも、妻子《さいし》に別《わか》れ、航海《かうかい》の危險《きけん》を冐《をか》すを憚《はゞ》かり、遲疑《ちぎ》の際《さい》。偶《たまた》ま爭鬪《さうとう》の餘《よ》、人《ひと》を殺《ころ》し、死者《ししや》の父母《ふぼ》より追踪《つひそう》せられ、今《いま》は百|計《けい》盡《つ》きて、葡萄牙船《ぽるとがるせん》に身《み》を託《たく》したとは、クラセ[#「クラセ」に傍線]の日本耶蘇教史《にほんやそけうし》に語《かた》る所《ところ》ぢや。
兎《と》にも角《かく》にも、此《こ》の日本《にほん》の歴史《れきし》に名《な》もなき一|人《にん》は、東洋《とうやう》に於《お》ける、耶蘇教傳道師《やそけうでんだうし》ありて以來《いらい》の、第《だい》一|人《にん》たる撒美惠《ザビヱー》を、日本《にほん》に導《みちび》きたる手引者《てびきしや》であつた。
【二三】外來の福音
彌次郎《やじらう》は、撒美惠《ザビヱー》に面會《めんくわい》する以前《いぜん》に、既《すで》に耶蘇教《やそけう》に就《つい》て、其《そ》の概略《がいりやく》を聞《き》いて居《ゐ》た。撒美惠《ザビヱー》は更《さ》らに彼《かれ》を臥亞《ゴア》に誘《いざな》うて、其《そ》の教義《けうぎ》を學《まな》ばしめた。此處《ここ》にて愈《いよい》よ從者《じうしや》二|名《めい》と與《とも》に、洗禮《せんれい》を受《う》け、保羅《ぼろ》の法名《はふみやう》を得《え》た。『此《こ》の日本人《にほんじん》は聰明《そうめい》敏捷《びんせふ》で、且《か》つ記憶力《きおくりよく》が善《よ》い。何事《なにごと》も果斷《くわだん》で、聊《いさゝか》の時日《じじつ》に、羅甸語學《らてんごがく》に通《つう》じ、漸《やうや》く之《これ》を讀《よ》み、且《か》つ書《か》くことも出來《でき》た。又《ま》た福音書《ふくいんしよ》の馬太傳《またいでん》を暗記《あんき》し、之《これ》を日本語《にほんご》に譯述《やくじゆつ》した。』とは、是《こ》れ撒美惠《ザビヱー》が、一五四八|年《ねん》十一|月《ぐわつ》、在羅馬《ざいろーま》耶蘇會《ゼスイツト》の總理《そうり》ロヨラ[#「ロヨラ」に傍線]に、報告《はうこく》した文句《もんく》ぢや。
彌次郎《やじらう》は、機敏《きびん》の漢《をのこ》であつた。曾《かつ》て撒美惠《ザビヱー》が、希臘《ぎりしや》、羅馬《ろーま》、及《およ》び歐洲人《おうしうじん》は、何《いづ》れも文字《もんじ》を左《ひだり》より右《みぎ》へ書《か》き、希伯來人《へぶらいじん》は、右《みぎ》より左《ひだり》へ書《か》く。然《しか》るに日本人《にほんじん》は、柱《はしら》を並《なら》べたる如《ごと》く、縱行《じうぎやう》に書《か》くは、何故《なにゆゑ》ぞと問《と》うた。然《しか》るに彌次郎《やじらう》は、神《かみ》が人《ひと》を作《つく》るには、頭《あたま》を上《うへ》にし、脚《あし》を下《した》にした。書法《しよはふ》も同樣《どうやう》でなからねばならぬ。故《ゆゑ》に歐洲人《おうしうじん》の書法《しよはふ》は變則《へんそく》で、日本人《にほんじん》の書法《しよはふ》が、自然《しぜん》の筋道《すぢみち》に適《かな》うて居《を》ると答《こた》へた。
印度《いんど》及《およ》び香料諸島《かうれうしよたう》の土人《どじん》は、福音《ふくいん》を驩迎《くわんげい》せず。葡萄牙人《ぽるとがるじん》は動《やゝ》もすれば有心無心《いうしんむしん》に、福音《ふくいん》の宣傳《せんでん》を妨害《ばうがい》す。撒美惠《ザビヱー》は愈《いよい》よ日本《にほん》に向《むか》ふ心《こゝろ》を生《しやう》じた。併《しか》し臥亞《ゴア》にある彼《かれ》の朋友《ほういう》は、途中《とちう》の危險《きけん》と、假令《たとひ》到達《たうたつ》しても、言語不通《げんごふつう》であり、且《か》つ異邦人《いはうじん》を賤《いや》しむ國柄《くにがら》なれば、成功《せいこう》覺束《おぼつか》なしとして、之《これ》を苦止《くし》した。然《しか》も彼《かれ》は斷然《だんぜん》として、教師《けうし》トレー[#「トレー」に傍線]、修道士《しうだうし》フェルナンデス[#「フェルナンデス」に傍線]、彌次郎《やじろう》と其《その》僕《しもべ》なる日本人《にほんじん》二|名《めい》、及《およ》び彼《かれ》の從者《じうしや》たる支那人《しなじん》、アラバル[#「アラバル」に二重傍線]人《じん》各《かく》一|名《めい》を伴《ともな》ひ、一五四九|年《ねん》六|月《ぐわつ》廿四|日《か》、支那《しな》の海賊船《かいぞくせん》に乘組《のりく》み、滿剌加《マラツカ》を出帆《しゆつぱん》した。途中《とちう》の困苦《こんく》は云《い》ふ迄《まで》もなく、然《しか》も辛《から》うじて同年《どうねん》―天文《てんぶん》十八|年《ねん》―八|月《ぐわつ》十五|日《にち》、鹿兒島《かごしま》に入港《にふかう》した。
此《かく》の如《ごと》く鐵砲《てつぱう》と、耶蘇教《やそけう》の傳來《でんらい》が、中間《ちうかん》僅《わづ》かに七|年《ねん》を隔《へだ》て、然《しか》も均《ひと》しく島津家《しまづけ》の領内《りやうない》に於《おい》てしたことは、偶中《ぐうちう》とは云《い》へ、面白《おもしろ》き事實《じじつ》の對照《たいせう》である。當時《たうじ》の島津家《しまづけ》は、第《だい》十五|代《だい》の貴久《たかひさ》の時代《じだい》であつた。貴久《たかひさ》は外《ほか》には伊東氏《いとうし》との對抗《たいかう》あり、内《うち》には不服《ふふく》の豪族《がうぞく》あり、討伐《たうばつ》、征戰《せいせん》、殆《ほと》んど寧日《ねいじつ》なかつた。然《しか》も彼《かれ》は彌次郎《やじらう》の言《げん》によりて、耶蘇教師《やそけうし》は貿易船《ぼうえきせん》の先觸《さきぶれ》なりと信《しん》じ、撒美惠《ザビヱー》を厚遇《こうぐう》した。彼《かれ》は其《その》母《はゝ》と與《とも》に、聖母《せいぼ》が神童耶蘇《しんどうやそ》を懷《いだ》くの圖《づ》に隨喜《ずゐき》した。而《しか》して布教《ふけう》の免許《めんきよ》を與《あた》へた。然《しか》も其《そ》の効果《かうくわ》は、思《おも》ふ程《ほど》に著大《ちよだい》でなかつた。撒美惠《ザビヱー》は、日本語《にほんご》に譯《やく》したる、耶蘇教《やそけう》の信條《しんでう》、及《およ》び十|誡《かい》等《とう》を、羅馬字《ろーまじ》にて記載《きさい》し、之《これ》を聽衆《ちやうしう》に讀《よ》み聞《きか》せ、然《しか》る後《のち》彌次郎《やじらう》をして、之《これ》を説明《せつめい》せしめた。彼《かれ》には隨處《ずゐしよ》に、其《そ》の國語《こくご》を解《かい》し得《う》る靈能《れいのう》、現《あら》はれたりとの説《せつ》あれども、此《こ》れは彼《かれ》を聖徒《せいと》としての奇蹟製造者《きせきせいざうしや》の、小説《せうせつ》であらう。滯在《たいざい》一|個年餘《かねんよ》、其《そ》の改宗者《かいしうしや》は、百五十|名《めい》を出《い》でなかつた。
然《しか》も佛教徒《ぶつけうと》の反抗《はんかう》は出《い》で來《きた》つた。彼《かれ》は何物《なにもの》に對《たい》しても、寛弘《くわんこう》であつた。但《た》だ異端《いたん》を排《はい》するに於《おい》ては、餘力《よりよく》を剩《あま》さなかつた。云《い》ふ迄《まで》もなく、西班牙《すぺいん》、葡萄牙《ぽるとがる》は、異教徒《いけうと》拷問《がうもん》の本場《ほんば》である。彼等《かれら》が數《す》百|年間《ねんかん》、囘教徒《くわいけうと》と、肉薄接戰《にくはくせつせん》した記憶《きおく》は、尚《な》ほ新《あら》たである。耶蘇會《ゼスイツト》なるものは、天主教會《てんしゆけうくわい》の萎靡不振《ゐびふしん》を慷慨《かうがい》して、之《これ》を革新《かくしん》す可《べ》く創設《さうせつ》せられたものである。されば彼《かれ》が佛教徒《ぶつけうと》に向《むかつ》て、破邪顯正的《はじやけんしやうてき》態度《たいど》を取《と》りたるは、決《けつ》して意外《いぐわい》でない。
佛教徒《ぶつけうと》も、其《そ》の法師《はふし》が印度《いんど》から來《き》たと云《い》ひ、且《か》つ其《そ》の僧衣《そうい》を纒《まと》ひ、僧形《そうぎやう》を爲《な》したるを見《み》て、當初《たうしよ》は佛教中《ぶつけうちう》の一|派《ぱ》であらうと思惟《しゐ》した。然《しか》るに正面《しやうめん》より偶像教《ぐうざうけう》を攻撃《こうげき》し、僧侶《そうりよ》の人身攻撃《じんしんこうげき》を爲《な》すを見《み》て、彼等《かれら》も勢《いきほ》ひ正當防衞《せいたうばうゑい》の必要《ひつえう》を、感《かん》ぜざるを得《え》なかつた。然《しか》も島津貴久《しまづたかひさ》の心《こゝろ》を動《うごか》したのは、此《こ》れではない。彼《かれ》は當初《たうしよ》から耶蘇教《やそけう》を、驩迎《くわんげい》したのではない、寧《むし》ろ海外貿易《かいぐわいぼうえき》の景物《けいぶつ》として、之《これ》を認容《にんよう》したのぢや。撒美惠《ザビヱー》の目的《もくてき》は、天堂《てんだう》の寶《たから》を與《あた》ふるにあり、貴久《たかひさ》の目的《もくてき》は、世間《せけん》の寶《たから》を享《う》くるにあり。具體的《ぐたいてき》に云《い》へば、一|方《ぱう》の與《あた》へんとするは、聖書《せいしよ》で、他方《たはう》の得《え》んと欲《ほつ》するは、鐵砲《てつぱう》ぢや。此《こ》の双方《さうはう》の齟齬《そご》は、早晩《さうばん》衝突《しようとつ》を免《まぬ》かれぬ。然《しか》るに豫期《よき》したる葡萄牙《ぽるとがる》の貿易船《ぼうえきせん》は、鹿兒島《かごしま》に入港《にふかう》せずして、平戸《ひらど》に入港《にふかう》するに於《おい》ては、彼《かれ》が耶蘇教《やそけう》に對《たい》して、冷淡《れいたん》となり、更《さ》らに之《これ》を嚴禁《げんきん》するに到《いた》つたのも、彼《かれ》としては寧《むし》ろ當然《たうぜん》ぢや。當時《たうじ》の日本人《にほんじん》は、上下《しやうか》を推《お》しなべて、外來《ぐわいらい》の福音《ふくいん》よりも、外來《ぐわいらい》の貿易船《ぼうえきせん》を驩迎《くわんげい》した。
【二四】宗教と政權
人《ひと》を射《い》らば、馬《うま》を射《い》よ、敵《てき》を擒《とりこ》にすれば、王《わう》を擒《とりこ》にせよ。撒美惠《ザビヱー》は、本來《ほんらい》鹿兒島《かごしま》に久住《きうぢう》する意《い》はなかつた。彼《かれ》は京都《きやうと》に上《のぼ》り、天子《てんし》及《およ》び將軍《しやうぐん》の力《ちから》に頼《よ》りて、其《そ》の教門《けうもん》を擴《ひろ》げんと期待《きたい》した。彼《かれ》は政治《せいぢ》の爲《た》めに、宗教《しうけう》を利用《りよう》するを、屑《いさぎよし》とせぬ。されど宗教《しうけう》の爲《た》めに、政治《せいぢ》を利用《りよう》するは、耶蘇會《ゼスイツト》の慣用手段《くわんようしゆだん》ぢや。彼《かれ》は平戸《ひらど》に赴《おもむ》いた。平戸《ひらど》は從來《じうらい》支那《しな》との交通《かうつう》の要津《えうしん》で、葡萄牙船《ぽるとがるせん》が、始《はじ》めて此《こ》の港灣《かうわん》に入《い》り來《きた》りたるは、撒美惠《ザビヱー》の鹿兒島《かごしま》到著《たうちやく》數月《すげつ》の後《のち》であつた。爾來《じらい》平戸《ひらど》には和蘭人《おらんだじん》、英人《えいじん》等《とう》、相接《あひせつ》して來《きた》り、天文《てんぶん》より寛永《くわんえい》に到《いた》る、殆《ほと》んど百|年《ねん》に垂《なんな》んとする間《あひだ》、日本《にほん》に於《お》ける貿易港《ぼうえきかう》の、重《おも》なる一となつた。
彼《かれ》の船《ふね》が平戸《ひらど》に入《い》るや、葡萄牙人《ぽるとがるじん》は、祝砲《しゆくはう》を放《はな》ち、その船《ふね》に旗《はた》を掲《かゝ》げ、幕《まく》を張《は》り、滿艦《まんかん》飾《しよく》を施《ほどこ》し、喇叭?《らつぱ》を鳴《な》らして驩迎《くわんげい》した。而《しか》して其《そ》の上陸《じやうりく》するや、彼《かれ》の固辭《こじ》するに拘《かゝは》らず、強《し》ひて儀仗《ぎぢやう》を備《そな》へて、彼《かれ》を領主《りやうしゆ》の館《やかた》に誘《いざな》うた。身《み》に弊衣《へいい》を纒《まと》ひ、手《て》に一|卷《くわん》の日課經《につくわきやう》を携《たづさ》へたる法師《ほふし》が、鮮帽?《せんぼう》、美服《びふく》の葡萄牙人《ぽるとがるじん》に簇擁《ぞくよう》せられて、繰《く》り込《こ》み來《きた》れる光景《くわうけい》は、頗《すこぶ》る周邊《しうへん》の驚異《きやうい》を惹《ひ》いた。領主《りやうしゆ》松浦隆信《まつうらたかのぶ》は、彼《かれ》を優待《いうたい》した。即日《そくじつ》布教《ふけう》の許可《きよか》を與《あた》へた。彼《かれ》が此地《このち》に於《おい》て、二十日|間《かん》に洗禮《せんれい》を施《ほどこ》したる人數《にんず》は、鹿兒島《かごしま》に於《お》ける一|個年《かねん》の人數《にんず》よりも多《おほ》かつた。
彼《かれ》は眇乎《べうこ》たる小大名《こだいみやう》を擒《とりこ》にしてさへ、此《かく》の如《ごと》く効果《かうくわ》の著大《ちよだい》なるを見《み》て、其《そ》の初《しよ》一|念《ねん》を果《は》たす可《べ》く、一五五〇|年《ねん》―天文《てんぶん》十九|年《ねん》―十月、山口《やまぐち》に立《た》ち寄《よ》つた。山口《やまぐち》は大内氏《おほうちし》の城下《じやうか》で、中國《ちうごく》の雄都《ゆうと》ぢや。富《とみ》の榮華《えいぐわ》と、富《とみ》に伴《ともな》ふ諸《もろ/\》の罪惡《ざいあく》とは、遺憾《ゐかん》なく此處《こゝ》に發揮《はつき》せられて居《ゐ》た。然《しか》も彼《かれ》の異樣《いやう》なる風采《ふうさい》と、其《そ》の大膽《だいたん》なる破邪的《はじやてき》言動《げんどう》は、市民《しみん》の嘲笑《てうせう》と、反對《はんたい》とを挑發《てうはつ》した。彼《かれ》は鳩《はと》の如《ごと》く柔和《にうわ》なるは、必《かなら》ずしも日本人《にほんじん》を教化《けうくわ》する所以《ゆゑん》にあらざるを、認得《にんとく》した。尊大《そんだい》、驕慢《けうまん》なる日本貴族《にほんきぞく》に對《たい》しては、其《そ》の頭上《づじやう》より一|喝《かつ》を與《あた》ふるを、彼《かれ》は敢《あへ》てした。彼《かれ》は其《そ》の同行者《どうかうしや》のフェルナンデス[#「フェルナンデス」に傍線]に、飽《あ》く迄《まで》大膽《だいたん》にして、死《し》を怖《おそ》れざるを示《しめ》すは、此《こ》の驕傲《けうがう》なる日本人《にほんじん》を制《せい》する方便《はうべん》ぢやと告《つ》げた。フェルナンデス[#「フェルナンデス」に傍線]は、枉《ま》げて此《この》言《げん》に從《したが》うたが、何時《いつ》日本人《にほんじん》より、其《そ》の頭上《づじやう》に白刄《はくじん》を加《くは》へらるゝかと、其《その》心《こゝろ》惴々焉《ずゐ/\えん》であつたと云《い》ふことぢや。彼《かれ》は山口《やまぐち》に滯在《たいざい》する一|個月餘《かげつよ》にして、京都《きやうと》に向《むか》うた。
彼《かれ》はフェルナンデス[#「フェルナンデス」に傍線]と、鹿兒島《かごしま》にて、信徒《しんと》となりし日本人《にほんじん》と、同行《どうぎやう》三|人《にん》にて出掛《でか》けた。時《とき》は嚴冬《げんとう》であつた、衣《い》單《たん》に、食《しよく》乏《とぼ》し。食物《しよくもつ》とては、同行《どうかう》の日本人《にほんじん》が蓄《たくは》へたる糒《ほしひ》のみ。偶《たまた》ま投宿《とうしゆく》せんとしたるも、彼等《かれら》に宿《やど》を假《か》す家《いへ》はなかつた。或日《あるひ》彼等《かれら》は道《みち》を蹈《ふ》み迷《まよ》うて、深林中《しんりんちう》に入《はひ》つた。偶《たまた》ま撒美惠《ザビヱー》は、京都《きやうと》に赴《おもむ》く騎者《きしや》に會《くわい》し、從行《じうかう》を約《やく》し、騎者《きしや》の行李《かうり》を擔《にな》うて、其《そ》の後《あと》に從《したが》うたが。其《そ》の快馳《くわいち》したるに、隨伴《ずゐはん》す可《べ》く疾走《しつそう》した彼《かれ》は、荊?棘《けいきよく》、石塊等《せきくわいとう》の爲《た》めに、膝《ひざ》は破《やぶ》れ、兩足《りやうあし》與《とも》に血《ち》に染《そ》みたるを、後《あと》より追《お》ひ及《およ》びたる兩人《りやうにん》は見出《みいだ》した。然《しか》も彼《かれ》は毫《がう》も恨色《こんしよく》なく、其《そ》の口《くち》恒《つね》に讃美歌《さんびか》を誦《しよう》して、同行者《どうかうしや》を慰藉《ゐしや》、獎勵《しやうれい》した。彼等《かれら》は堺《さかひ》に著《ちやく》し、市外《しぐわい》の松林中《しようりんちう》に松枝《まつえだ》を翳《かざ》して寢《ね》た。惡戯《あくぎ》の小童等《せうどうら》は小石《こいし》を投《とう》じた。彼《かれ》は遂《つひ》に大寒熱《たいかんねつ》に冒《をか》された。然《しか》も藥《くすり》をも服《ふく》せず、平癒《へいゆ》した。
彼《かれ》の破邪的《はじやてき》言動《げんどう》は、愈《いよい》よ激楚《げきそ》に趨《おもむ》いた。彼《かれ》は公然《こうぜん》日本《にほん》の諸宗派《しよしうは》を誹謗《ひばう》し、諸神《しよしん》を嘲侮《てうぶ》したと認《みと》められ、此《これ》が爲《た》めに、其《そ》の身體《しんたい》の危險《きけん》を招《まね》きたることは、一|再《さい》でなかつた。佛教徒《ぶつけうと》に捕《とら》へられ、市外《しぐわい》に於《おい》て、石《いし》にて撃殺《げきさつ》されんとした事《こと》も、二|度《ど》あつたと云《い》ふ事《こと》ぢや。何《いづ》れにしても、此《こ》の慈眼愛膓《じがんあいちやう》の聖僧《せいそう》が、異端《いたん》に對《たい》して、惡鬼羅刹《あくきらせつ》の如《ごと》きは、不思議《ふしぎ》と云《い》へば、不思議《ふしぎ》だが、そこが耶蘇會《ゼスイツト》の特色《とくしよく》ぢや。
斯《か》くて彼等《かれら》は、漸《やうや》く一五五一|年《ねん》―天文《てんぶん》二十|年《ねん》―二月、京都《きやうと》に到著《たうちやく》した。來《き》て見《み》れば、意外《いぐわい》も意外《いぐわい》、都《みやこ》とは名《な》のみで、滿目荒涼《まんもくくわうれう》、見《み》る影《かげ》もない。將軍《しやうぐん》義輝《よしてる》に、又《ま》た後奈良天皇《ごならてんわう》に、謁見《えつけん》せんとするも、多額《たがく》の謁見料《えつけんれう》を要求《えうきう》せられ、空嚢《くうなう》の彼《かれ》は、之《これ》を辨《べん》ず可《べ》くもなかつた。偶《たまた》ま道傍《だうばう》説教《せつけう》を試《こゝろ》みたるも、恟々《きよう/\》たる人心《じんしん》は、蹈《ふ》み止《とゞ》まりて之《これ》を聽《き》く可《べ》き、餘裕《よゆう》だもなかつた。彼《かれ》は此處《こゝ》に來《きた》りて、皇權《くわうけん》は全《まつた》く地《ち》に墜《お》ち、曾《かつ》て赫々《かく/\》たる將軍《しやうぐん》さへも、其《そ》の威令《ゐれい》畿甸《きでん》の間《あひだ》にさへ、十|分《ぶん》行《おこな》はれ難《がた》きを知《し》り。今《いま》は日本《にほん》に、倚頼《いらい》す可《べ》き中央《ちうわう》の政權《せいけん》なきを認《みと》め、滯京《たいきやう》十五|日《にち》の後《のち》、再《ふたゝ》び平戸《ひらど》に復歸《ふくき》す可《べ》く、踵《くびす》を回《めぐ》らした。
【二五】大内氏と大友氏
撒美惠《ザビヱー》は舟《ふね》にて淀河《よどがは》を下《くだ》りつゝ、京都《きやうと》を回看《くわいかん》し、以色列人《イスラエルじん》が埃及《えぢぷと》を出《い》づるを詠《えい》じたる、太闢王《ダビデわう》の聖歌《せいか》を吟《ぎん》じ、京都《きやうと》が早晩《さうばん》神《かみ》の手《て》に濟《すく》はる可《べ》き、感懷《かんくわい》を洩《も》らした。彼《かれ》は一五五一|年《ねん》―天文《てんぶん》二十|年《ねん》―二月の末《すゑ》、平戸《ひらど》に歸著《きちやく》する間《ま》もなく、再《ふたゝ》び山口《やまぐち》に赴《おもむ》いた。
彼《かれ》は其《そ》の常用《じやうよう》たる、暹羅製《しやむせい》の弊帽《へいばう》、襤褸《らんる》の法衣《ほふい》にては、到底《たうてい》日本人《にほんじん》の尊敬《そんけい》を得《う》る所以《ゆゑん》にあらざるを、忠告《ちうこく》せられ、改《あらた》めて日本製《にほんせい》の衣服《いふく》を纒《まと》ひ、大内義隆《おほうちよしたか》に面會《めんくわい》した。彼《かれ》は從來《じうらい》深《ふか》く藏《をさ》めたる、葡萄牙王《ぽるとがるわう》より日本國王《にほんこくわう》に對《たい》して親交《しんかう》を表《へう》する、印度總督《いんどそうとく》、及《およ》び臥亞《ゴア》に於《お》ける天主教《てんしゆけう》僧正《そうじやう》の書翰《しよかん》、及《およ》び其《そ》の贈物《おくりもの》たる歐洲出版《おうしうしゆつぱん》の書籍《しよじやく》、遠眼鏡《ゑんがんきやう》、音譜《おんふ》七十|個《こ》を有《いう》する樂器《がくき》、錦襴《きんらん》、葡萄牙製《ぽるとがるせい》の衣服《いふく》、火繩銃《ひなはじう》、三|個《こ》の精美《せいび》なる玻璃花瓶《はりくわびん》、鏡《かゞみ》、及《およ》び奇麗《きれい》に裝飾《さうしよく》せられたる時計等《とけいとう》を献《けん》じた。義隆《よしたか》は滿悦《まんえつ》であつた。乃《すなは》ち大金《たいきん》を報《むく》いた。撒美惠《ザビヱー》は受《う》けなかつた。義隆《よしたか》は大《おほ》いに驚《おどろ》いて、日本《にほん》の僧侶《そうりよ》は、金銀《きんぎん》を貪《むさ》ぼるに、外僧《ぐわいそう》は金銀《きんぎん》を欲《ほつ》せぬかと云《い》うた。然《しか》も撒美惠《ザビヱー》は、宣教《せんけう》の公認《こうにん》を得《う》る以外《いぐわい》に、何等《なんら》の慾望《よくばう》なきを宣明《せんめい》したから、彼《かれ》は之《これ》が爲《た》めに、大内家《おほうちけ》の上下《しやうか》より、非常《ひじやう》なる尊敬《そんけい》を享《う》けた。
彼《かれ》の日本語《にほんご》は、格別《かくべつ》の進歩《しんぽ》を見《み》なかつたが、フェルナンデス[#「フェルナンデス」に傍線]は、日本語《にほんご》にて、説教《せつけう》するに不自由《ふじいう》なく、追々《おひ/\》好成績《かうせいせき》を得《え》た。特《とく》にフェルナンデス[#「フェルナンデス」に傍線]の説教中《せつけうちう》、一|暴客《ばうかく》出《い》で來《きた》り、嘲罵《てうば》と與《とも》に其面《そのめん》に唾《つば》したるに、フェルナンデス[#「フェルナンデス」に傍線]は、自若《じじやく》として其面《そのめん》を拭《ぬぐ》ひ、説教《せつけう》を繼續《けいぞく》したるを見《み》て、聽衆《ちゃうしう》一|同《どう》、其《そ》の忍辱心《にんにくしん》の深厚《しんこう》なるに感動《かんどう》した。此《かく》の如《ごと》くして二|個月間《かげつかん》に、山口《やまぐち》に於《おい》て受洗《じゆせん》の者《もの》、五百|人《にん》の多《おほ》きに達《たつ》した。
其中《そのうち》にて一の獲物《えもの》は、魯連須《ローレンス》である。彼《かれ》は何人《なんぴと》である乎《か》。當時《たうじ》山口町《やまぐちまち》に一|個《こ》の琵琶法師《びはほふし》があつた、一|眼《がん》は全盲《ぜんまう》、他眼《たがん》は半盲《はんまう》。彼《かれ》は富家《ふか》を巡《めぐ》りて、面白《おもしろ》き物語《ものがたり》をなし、其《そ》の口《くち》を糊《のり》した。彼《かれ》は天性聰敏《てんせいそうびん》で、記憶力《きおくりよく》に富《と》んで居《ゐ》た。彼《かれ》は撒美惠《ザビヱー》に面《めん》し、種々《しゆ/″\》の質問《しつもん》をなし、日《ひ》一|日《にち》と其《そ》の疑團氷釋《ぎだんひようしやく》し、親《した》しく洗禮《せんれい》を受《う》け、魯連須《ローレンス》の法名《はふみやう》を得《え》た。而《しか》して彼《かれ》は日本人《にほんじん》にして、耶蘇會《ゼスイツト》に加入《かにふ》した第《だい》一|人《にん》で、且《か》つ日本人《にほんじん》の最初《さいしよ》の説教師《せつけうし》、傳道師《でんだうし》であつたとは、フロア[#「フロア」に傍線]の語《かた》る所《ところ》ぢや。之《これ》に反《はん》してクラセ[#「クラセ」に傍線]は曰《いは》く、二十五|歳《さい》の青年《せいねん》で、日本《にほん》の有名《いうめい》なる大學校《だいがくかう》を卒業《そつげふ》し、才智學識《さいちがくしき》、卓越《たくゑつ》し、衆人《しうじん》に尊敬《そんけい》せられ、佛僧《ぶつそう》たらんと欲《ほつ》して、山口《やまぐち》に來《きた》りしも、其意《そのい》に適《てき》する者《もの》なかつたが、撒美惠《ザビヱー》に親炙《しんしや》して、豁然貫通《くわつぜんくわんつう》する所《ところ》あり、洗禮《せんれい》を受《う》け、爾後《じご》三十|年間《ねんかん》、宣教師《せんけうし》として偉功《ゐこう》を奏《そう》したのは、此人《このひと》ぢやと。
彼《かれ》の素性《すじやう》は何《いづ》れにしても、日本《にほん》に於《お》ける耶蘇教《やそけう》の宣傳《せんでん》は、此《こ》の日本人《にほんじん》に負《お》ふ所《ところ》が、多大《ただい》である。保羅《ぼろ》の彌次郎《やじらう》は、撒美惠《ザビヱー》の鹿兒島《かごしま》出立後《しゆつたつご》、約《やく》五|箇月間《かげつかん》は、忠實《ちうじつ》に其《そ》の留守居《るすゐ》を?《つと》めたが、周圍《しうゐ》の壓迫《あつぱく》に辛抱《しんばう》しきれず、自《みづ》から船《ふね》を購《あがな》ひ、支那沿海《しなえんかい》に奔《はし》りて、海賊《かいぞく》に餘生《よせい》を送《おく》つた。されば撒美惠《ザビヱー》の播《ま》きたる種《たね》は、寧《むし》ろ此《こ》の魯連須《ローレンス》にありと云《い》ふ可《べ》きであらう。
撒美惠《ザビヱー》は山口《やまぐち》に於《おい》て、三千|餘人《よにん》に洗禮《せんれい》を授《さづ》けた。其中《そのうち》には内藤隆世《ないとうたかよ》の如《ごと》き貴族《きぞく》もあつた。予《よ》が頭髮《とうはつ》は全白《ぜんぱく》となつたが、心身《しん/\》兩《ふたつ》ながら健全《けんぜん》ぢや。予《よ》が經歴中《けいれきちう》、未《いま》だ山口《やまぐち》に於《お》ける如《ごと》き、愉快《ゆくわい》を覺《おぼ》えた地《ち》はないと語《かた》つた。彼《かれ》は實《じつ》に山口《やまぐち》に於《おい》て、佛教退治《ぶつけうたいぢ》に、全力《ぜんりよく》を注《そゝ》いだ。而《しか》して彼《かれ》の天文學上《てんもんがくじやう》の知識《ちしき》は、幼穉《えうち》であつたらしかつたが、尚《な》ほ此《これ》が異教徒《いけうと》を折伏《せつぷく》し、第《だい》三|者《しや》を感服《かんぷく》せしむる、最好《さいかう》の武器《ぶき》となつた。
彼《かれ》が印度《いんど》に還《かへ》る可《べ》く、豐後《ぶんご》の府内《ふない》に向《むか》つて、山口《やまぐち》を出發《しゆつぱつ》したのは、一五五一|年《ねん》九|月《ぐわつ》中旬《ちうじゆん》であつた。彼《かれ》は海路《かいろ》の便《べん》に頼?《よ》らず、自《みづ》から大理石《だいりせき》の祭器《さいき》と、其他《そのた》の日用品《にちようひん》とを背《せ》にして歩行《ほかう》した。豐後《ぶんご》の日出港《ひじみなと》に碇泊《ていはく》せる、葡萄牙《ぽるとがる》船長等《せんちやうら》は、途中《とちう》迄《まで》出迎《でむか》へ、其《そ》の船體《せんたい》を盛裝《せいさう》し、祝砲《しゆくはう》を連發《れんぱつ》した。府内《ふない》の大友宗麟《おほともそうりん》は、祝砲《しゆくはう》の轟《とゞろ》くに驚愕《きやうがく》し、海賊船《かいぞくせん》が葡萄牙船《ぽるとがるせん》を襲撃《しうげき》したのではない乎《か》と、警戒《けいかい》した程《ほど》であつた。葡萄牙人《ぽるとがるじん》は、彼《かれ》の固辭《こじ》するにも拘《かゝは》らず、彼《かれ》をして黒羅紗《くろらしや》の法衣《ほふい》を著《ちやく》し、其《その》上《うへ》に緑天鵝絨《みどりびろうど》の巾頸《きんけい》と、金總《きんぶさ》の附《つ》きたる袈裟《けさ》を襲《よそほ》はしめ。一|行《かう》三十|人《にん》、各々《おの/\》美裝《びさう》し、帶形《おびがた》の金鎖《きんぐさり》を肩《かた》に掛《か》け、頭《かしら》には羽飾《はねかざり》を戴《いたゞ》き、從僕等《じうぼくら》もそれ/″\之《これ》に準《じゆん》じ、威儀堂々《ゐぎだう/″\》と大友氏《おほともし》の館《やかた》に練《ね》り行《ゆ》いた。大友宗麟《おほともそうりん》は云《い》ふ迄《まで》もなく驩迎《くわんげい》した。大友家《おほともけ》の福《ふく》の神《かみ》と頼《たの》む、葡萄牙船《ぽるとがるせん》の船長《せんちやう》、商人等《しやうにんら》が、神樣《かみさま》の如《ごと》く崇拜《しうはい》する撒美惠《ザビヱー》なれば、彼《かれ》が恭敬殷勤《きようけいいんぎん》を極《きは》めたのも、當然《たうぜん》ぢや。まして宗麟《そうりん》は、未《いま》だ大友家《おほともけ》を相續《そうぞく》せざる以前《いぜん》、其《その》父《ちゝ》が、葡萄牙船《ぽるとがるせん》に滿載《まんさい》したる貨物《くわぶつ》を、奪掠《だつりやく》せんとしたるを諫止《かんし》し、是《これ》を以《もつ》て葡萄牙人《ぽるとがるじん》は、大《おほ》いに彼《かれ》を徳《とく》とし、從來《じうらい》兩者《りやうしや》の親交《しんかう》は、等閑《とうかん》でなかつた縁故《えんこ》あるに於《おい》てをやだ。
撒美惠《ザビヱー》が山口《やまぐち》を去《さ》つてより、一|個月《かげつ》を出《いで》ずして、山口《やまぐち》は一|時《じ》兵亂《へいらん》の巷?《ちまた》となり、大内義隆《おほうちよしたか》は、陶晴賢《すゑはるかた》の爲《た》めに、自殺《じさつ》せしめられた。然《しか》も山口《やまぐち》の耶蘇教徒《やそけうと》には、さしたる影響《えいきやう》も及《およぼ》さなかつた。彼《かれ》は豐後《ぶんご》に於《おい》て、相變《あひかは》らず僧侶《そうりよ》と論戰《ろんせん》し、之《これ》を説破《せつぱ》した。而《しか》して一五五一|年《ねん》、十一|月《ぐわつ》二十|日《か》、印度《いんど》に向《む》け、府内《ふない》を去《さ》つた。彼《かれ》は日本《にほん》より何等《なんら》の珍寶《ちんぽう》をも齎《もた》らさなかつた。唯《た》だ山口《やまぐち》に於《おい》て授洗《じゆせん》したる、二|名《めい》の日本人《にほんじん》を携《たづさ》へたのみであつた。而《しか》して宗麟《そうりん》の印度總督《いんどそうとく》に特派《とくは》したる使臣《ししん》も、彼《かれ》と同行《どうかう》した。
【二六】撒美惠の見たる日本人
撒美惠《ザビヱー》の日本《にほん》に滯在《たいざい》したるは、天文《てんぶん》十八|年《ねん》八|月《ぐわつ》中旬《ちうじゆん》より、同《どう》廿|年《ねん》十一|月《ぐわつ》下旬《げじゆん》迄《まで》にて、二十七|個月《かげつ》に過《す》ぎぬ。併《しか》しながら爾來《じらい》九十|年間《ねんかん》、日本《にほん》に於《お》ける耶蘇教《やそけう》の運動《うんどう》は、殆《ほと》んど渾《すべ》て彼《かれ》の蹈《ふ》み出《いだ》したる型《かた》を出《い》でなかつた。是《こ》れ予《よ》が彼《かれ》に就《つい》て、詳《つまびら》かに語《かた》つた所以《ゆゑん》ぢや。若《も》し彼《かれ》にして、缺點《けつてん》ありとせば、そは耶蘇會《ゼスイツト》の一|人《にん》であつた事《こと》ぢや。然《しか》も如何《いか》に耶蘇會《ゼスイツト》の習僻《しふへき》を厭《いと》ふ者《もの》も、彼《かれ》其人《そのひと》に對《たい》しては、聖徒《せいと》の名《な》を唱《とな》ふるを禁《きん》じ得《え》ない。日本《にほん》が斯《かゝ》る神《かみ》に近《ちか》き人間《にんげん》を、最初《さいしよ》の宣教師《せんけうし》として迎《むか》へたるは、日本《にほん》の幸福《かうふく》と云《い》ふ能《あた》はずは、少《すくな》くとも誇《ほこ》りと云《い》ふ可《べ》きであらう。
彼《かれ》は何故《なにゆゑ》に日本《にほん》を去《さ》りたる乎《か》、支那《しな》を教化《けうくわ》せんが爲《た》めぢや。彼《かれ》は局部《きよくぶ》に齷齪《あくそく》する守成者《しゆせいしや》でない、恒《つね》に無限《むげん》の新天地《しんてんち》を、開拓《かいたく》せんとする創業者《さうげふしや》ぢや。其《そ》の日本《にほん》を去《さ》りたるは、日本《にほん》に失望《しつばう》したるが爲《た》めでなく、日本人《にほんじん》が由來《ゆらい》支那《しな》崇拜者《しうはいしや》たるが故《ゆゑ》に、支那人《しなじん》を教化《けうくわ》するは、日本人《にほんじん》を教化《けうくわ》する所以《ゆゑん》と、推定《すゐてい》したからぢや。併《しか》し彼《かれ》は其《そ》の志《こゝろざし》を達《たつ》せず、天文《てんぶん》二十一|年《ねん》十二|月《ぐわつ》、日本《にほん》を去《さ》りたる滿《まん》一|個年後《かねんご》、四十七|歳《さい》にて、支那《しな》南端《なんたん》の海島《かいたう》にて逝《ゆ》いた。然《しか》も彼《かれ》は不朽《ふきう》の人物《じんぶつ》ぢや。彼《かれ》の燃《も》ゆるが如《ごと》き赤心《せきしん》は、耶蘇會《ゼスイツト》の桎梏《しつこく》以上《いじやう》に閃《ひら》めき、千|古《こ》の靈火《れいくわ》燈臺《とうだい》となり、今《いま》尚《な》ほ耀《かゞや》いて居《を》る。
彼《かれ》は或《あ》る意味《いみ》に於《おい》ては、日本國民《にほんこくみん》の知己《ちき》ぢや。日本人《にほんじん》と接觸《せつしよく》したる外人《ぐわいじん》で、彼《かれ》の如《ごと》く能《よ》く日本人《にほんじん》を諒解《れうかい》し得《え》たもの、幾許《いくばく》かある。
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予《よ》が知《し》る限《かぎ》りでは、不信徒《ふしんと》の國民中《こくみんちう》、未《いま》だ日本人《にほんじん》に優《まさ》る者《もの》はない。彼等《かれら》は其類《そのるゐ》に於《おい》て、最善《さいぜん》の者《もの》ぢや。彼等《かれら》は行儀《ぎやうぎ》善《よ》く、温?良《をんりやう》にして、毫《がう》も意地《いぢ》惡《わる》からず、而《しか》して驚《おどろ》く可《べ》く矜重《きようちよう》である。彼等《かれら》は何物《なにもの》よりも體面《たいめん》を重《おも》んず。概《がい》して貧乏《びんぼふ》ぢや、併《しか》し貴賤《きせん》共《とも》に貧乏《びんぼふ》を恥《はぢ》とせぬ。彼等《かれら》には吾等《われら》耶蘇教徒中《やそけうとちう》に見出《みいだ》す能《あた》はざる、一|種《しゆ》の特色《とくしよく》がある、そは如何《いか》なる貧乏《びんぼふ》の貴族《きぞく》でも、金持《かねもち》の平民《へいみん》は、之《これ》を尊敬《そんけい》し、而《しか》して貧乏《びんぼふ》の貴族《きぞく》は、如何《いか》なる代償《だいしやう》を得《う》るも、金持《かねもち》の平民《へいみん》とは、結婚《けつこん》を肯《がへん》ぜぬ。彼等《かれら》は富《とみ》よりも、體面《たいめん》を尊《たつと》ぶ。彼等《かれら》相互《さうご》の交際《かうさい》は、恭敬《きようけい》である。高下《かうげ》の差別《さべつ》なく、十四|歳《さい》より双刀《さうたう》を帶《お》び、之《これ》を尊《たつと》び、之《これ》を頼《たの》みとす。彼等《かれら》は侮辱《ぶじよく》の行動《かうどう》、若《も》しくは輕蔑《けいべつ》の言語《げんご》に對《たい》して、一|切《さい》用捨?《ようしや》を爲《な》さぬ。平民《へいみん》は貴族《きぞく》を敬《けい》し、貴族《きぞく》は其《そ》の領主《りやうしゆ》に事《つか》ふるを光榮《くわうえい》とし、而《しか》して甚《はなは》だ從順《じうじゆん》である。此《かく》の如《ごと》くならざれば、其《そ》の體面《たいめん》を失墜《しつつゐ》すと信《しん》ずるからであらう。酒《さけ》は隨分《ずゐぶん》飮《の》むが、食物《しよくもつ》は節制《せつせい》す。賭博《とばく》をせぬ、我《わが》有《いう》にあらざる物《もの》を獲《え》んとするは、泥坊《どろばう》の始《はじ》めと思《おも》ふからだ。人民《じんみん》の大部分《だいぶぶん》は、讀《よ》み書《か》きを能《よ》くす。
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是《こ》れ彼《かれ》が一五四九|年《ねん》十一|月附《ぐわつづけ》、鹿兒島發《かごしまはつ》書翰《しよかん》の要領《えうりやう》の一|片《ぺん》である。即《すなは》ち該地《がいち》上陸《じやうりく》以後《いご》、未《いま》だ三|個月《かげつ》を過《す》ぎざる際《さい》の判斷《はんだん》なれば、速了《そくれう》の見《けん》もあるであらう。併《しか》し爾後《じご》彼《かれ》が日本人《にほんじん》に對《たい》する觀察《くわんさつ》は、大體《だいたい》に於《おい》て、此《こ》の通《とほ》りであつた。
彼《かれ》が日本《にほん》に特派《とくは》す可《べ》き、宣教師《せんけうし》の資格《しかく》に就《つい》て、書《か》き送《おく》りたる文中《ぶんちう》に、
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(第《だい》一)品行方正《ひんかうはうせい》を要《えう》す。日本人《にほんじん》は外貌《ぐわいばう》を以《もつ》て、心中《しんちう》を卜《ぼく》し、品行《ひんかう》の良不良《りやうふりやう》によりて、宗説《しうせつ》の正邪《せいじや》を判《はん》ず。(第《だい》二)才學《さいがく》博識《はくしき》を要《えう》す。日本人中《にほんじんちう》には學者《がくしや》あり、精確《せいかく》なる道理《だうり》を以《もつ》て、事物《じぶつ》を證明《しようめい》せざれば、決《けつ》して承服《しようふく》せず。(第《だい》三)困苦《こんく》、危險《きけん》に耐《た》へ、一|死《し》を辭《じ》せざる勇氣《ゆうき》を要《えう》す。(第《だい》四)天文《てんもん》算數《さんすう》の知識《ちしき》を要《えう》す。(第《だい》五)暴客《ぼうかく》の爲《た》めに、日夜《にちや》不快《ふくわい》なる質問《しつもん》に困《くるし》められ、貴人《きじん》より屡?《しばし》ば招待《せうたい》せられ、爲《た》めに誦經《じゆけう》祈祷《きたう》の餘間《よかん》さへなきことを、覺悟《かくご》するを要《えう》す。
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如上《じよじやう》は撒美惠《ザビヱー》自個《じこ》の經驗《けいけん》を、其儘《そのまゝ》丸出《まるだ》しにしたものと見《み》て、差支《さしつかへ》なからう。流石《さすが》に辛抱強《しんばうづよ》き彼《かれ》も、頑童《ぐわんどう》の惡戯《あくぎ》と、暴客《ぼうかく》の質問《しつもん》には、頗《すこぶ》る興《きよう》を醒《さま》した樣《やう》であつた。併《しか》し彼《かれ》は印度人《いんどじん》、馬來人《まれいじん》に於《お》けるが如《ごと》く、日本人《にほんじん》には失望《しつばう》せなかつた。但《た》だ渡航前《とかうぜん》に想像《さうざう》した程《ほど》の仙郷《せんきやう》でなく、又《ま》た日本人《にほんじん》を教化《けうくわ》するは、決《けつ》して容易《ようい》でないと云《い》ふ事《こと》は、實驗《じつけん》の上《うへ》より、會得《ゑとく》した樣《やう》であつた。
更《さ》らに見落《みおと》し難《がた》きは、彼《かれ》が人《ひと》を介《かい》して、西班牙王《すぺいんわう》に日本征服《にほんせいふく》を思《おも》ひ止《とゞま》らせたる、忠告《ちうこく》である。
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西班牙《すぺいん》の船《ふね》が、墨西哥《めきしこ》より、白銀島《はくぎんたう》―日本《にほん》―を征服《せいふく》せんが爲《た》めに、渡航《とかう》する事《こと》は、是非《ぜひ》見合《みあは》せて貰《もら》ひたい。到底《たうてい》無事《ぶじ》に到著《たうちやく》は難《かた》い。萬《まん》一|到著《たうちやく》し、武力《ぶりよく》を以《もつ》て、征服《せいふく》せんとしても、對手《あひて》は慾《よく》も張《は》り、力《ちから》も張《は》る人民《じんみん》で、如何《いか》なる強大《きやうだい》な艦隊《かんたい》でも、決《けつ》して辟易《へきえき》せぬ。然《しか》も土地《とち》荒涼《くわうれう》、食《しよく》を得《う》るに道《みち》なく、未《いま》だ戰《たゝか》はぬに、餓死《がし》せねばなるまい。加《くは》ふるに沿海《えんかい》不時《ふじ》に大風《たいふう》あり、避難《ひなん》の港灣《かうわん》を得《え》ずんば、破船《はせん》の厄《やく》は免《まぬか》れじ。繰《く》り返《かへ》して申《まを》す、日本人《にほんじん》は武器《ぶき》を得《う》るに熱中《ねつちう》す、單《たん》に此《こ》の一|念《ねん》よりしても、西班牙人《すぺいんじん》を?《みなごろし》にせずば止《や》めまい。
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彼《かれ》は流石《さすが》に當時《たうじ》の日本《にほん》、及《およ》び日本人《にほんじん》に就《つい》て、其《そ》の觀察《くわんさつ》の正鵠《せいこう》を過《あやま》らなかつた。力《ちから》を以《もつ》て日本《にほん》を征服《せいふく》す可《べか》らざる事《こと》は、彼《かれ》の徹底的《てつていてき》に、透見《とうけん》した點《てん》である。彼《かれ》は唯《た》だ福音《ふくいん》を以《もつ》て、征服《せいふく》を企《くはだ》てた、併《しか》し此《これ》さへも遂《つひ》に失敗《しつぱい》した。 |