第二章 混沌社會
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第二章 混沌社會
【五】舊組織の分解
惡樹善果《あくじゆぜんくわ》を結《むす》ぶ。應仁《おうにん》の大亂《たいらん》は、近世《きんせい》日本《にほん》の成立《せいりつ》を促進《そくしん》する、無《む》二の機會《きくわい》であつた。言《い》ひ換《か》ふれば、中世《ちうせい》日本《にほん》の政治的《せいぢてき》、社會的《しやくわいてき》、經濟的《けいざいてき》組織《そしき》を分解《ぶんかい》せしむる、一|大作用《だいさよう》であつた。室町將軍《むろまちしやうぐん》政治《せいぢ》は、形式《けいしき》のみでも、其《そ》の時迄《ときまで》は不統《ふとう》一の中《うち》に、統《とう》一の大綱《たいかう》を握《にぎ》つて居《ゐ》た。然《しか》るに此《こ》の大亂《たいらん》の爲《た》めに、此《こ》の大綱《たいかう》が寸々《すん/″\》に切斷《せつだん》せられ、茲《こゝ》に愈《いよい》よ群雄割據《ぐんゆうかつきよ》の時代《じだい》となつた。而《しか》して此《こ》の群雄割據《ぐんゆうかつきよ》が、軈《やが》て近世《きんせい》日本《にほん》の新組織《しんそしき》の、素地《そち》をなしたことは、義政《よしまさ》より、義昭《よしあき》迄《まで》の年代《ねんだい》を一|瞥《べつ》すれば、分明《ぶんみやう》であらう。
要《えう》するに應仁《おうにん》、文明《ぶんめい》以來《いらい》、元龜《げんき》、天正《てんしやう》迄《まで》、約《やく》百|年《ねん》の間《あひだ》は、全《まつた》く亂世《らんせい》である。無政府《むせいふ》である。無秩序《むちつじよ》が即《すなは》ち秩序《ちつじよ》である。而《しか》して此《こ》の歳月《さいげつ》に於《おい》て、足利氏《あしかゞし》以前《いぜん》より、或《あるひ》は足利氏《あしかゞし》と與《とも》に興《おこ》りたる名門《めいもん》、舊家《きうか》の殆《ほと》んど十|中《ちう》八九|迄《まで》が、潰《つぶ》れた。畠山《はたけやま》、細川《ほそかは》、斯波《しば》の三|管《くわん》も、見《み》る影《かげ》もなくなつた。鎌倉《かまくら》の管領家《くわんれいけ》は勿論《もちろん》、兩上杉《りやううへすぎ》も同樣《どうやう》である。四|職《しよく》の山名《やまな》、一|色《しき》、京極《きやうごく》、赤松《あかまつ》も、全滅《ぜんめつ》せざる迄《まで》も、微祿《びろく》した。七|頭《とう》の兩吉良《りやうきら》、澁川《しぶかは》等《ら》より、關東《くわんとう》の八|館《くわん》たる千|葉《ば》、小山《こやま》、長沼《ながぬま》、結城《ゆふき》、小田《をだ》、那須《なす》、宇都宮《うつのみや》等《ら》の如《ごと》き、衰亡《すゐぼう》でなければ、不振《ふしん》となつた。但《た》だ其中《そのうち》に於《おい》て、周防《すはう》の大内《おほうち》、常陸《ひたち》の佐竹《さたけ》、駿河《するが》の今川《いまがは》、甲斐《かひ》の武田《たけだ》、薩摩《さつま》の島津《しまづ》等《ら》、其他《そのた》極《きは》めて少數《せうすう》の者《もの》が、信長《のぶなが》の勃興《ぼつこう》する前後《ぜんご》迄《まで》、存續《そんぞく》した。
應仁《おうにん》以前《いぜん》は、微弱《びじやく》ながらも、法度《はつと》が暴力《ぼうりよく》を制《せい》した。其《そ》の以後《いご》は、暴力《ぼうりよく》即《すなは》ち法度《はつと》となつた。露骨《ろこつ》に云《い》へば、切取《きりとり》、強盜《がうたう》、唯《た》だ力《ちから》の強《つよ》き者《もの》が、思《おも》ふ樣《やう》に振舞《ふるま》ふ世《よ》の中《なか》となつた。此《これ》が當時《たうじ》の流行語《りうかうご》の、下尅上《かこくじやう》ぢや。下尅上《かこくじやう》とは、下《しも》から上《かみ》を凌《しの》ぐと云《い》ふ意味《いみ》ぢや。天皇《てんわう》は、將軍《しやうぐん》に制《せい》せられ、將軍《しやうぐん》は、管領《くわんれい》に制《せい》せられ、管領《くわんれい》は、其《そ》の被官《ひくわん》に制《せい》せられ、被官《ひくわん》は、復《ま》た其《そ》の臣下《しんか》に制《せい》せらる。所謂《いはゆ》る萬乘《ばんじよう》の國《くに》、其君《そのきみ》を弑《しい》する者《もの》は、必《かな》らず千|乘《じよう》の家《いへ》で、千|乘《じよう》の國《くに》、其君《そのきみ》を弑《しい》する者《もの》は、必《かな》らず百|乘《じよう》の家《いへ》で、奪《うば》はざれば?《あ》かざるが、此《こ》の時代《じだい》の精神《せいしん》であつた。
元來《ぐわんらい》守護《しゆご》、地頭《ぢとう》の職《しよく》は、頼朝《よりとも》が國司《こくし》の廳《ちやう》に守護《しゆご》を惜《お》き、私領《しりやう》たる莊園《さうゑん》に地頭《ぢとう》を設《まう》け、無差別《むさべつ》に人民《じんみん》より、段別《だんべつ》五|升《しよう》の米《こめ》を收《をさ》め、兵糧《ひようろう》に充《あ》てん?を奏上《さうじやう》し、勅許《ちよくきよ》を得《え》て定《さだ》めたる制度《せいど》である。されば守護《しゆご》の役目《やくめ》は、大番役《おほばんやく》の催促《さいそく》―其國《そのくに》の地頭《ぢとう》、御家人《ごけにん》を催《もよ》ほして、京都《きやうと》、及《およ》び、鎌倉《かまくら》の番役《ばんやく》に從《したが》はしむる―やら、謀反人《むほんにん》、殺害人《せつがいにん》の檢斷《けんだん》等《とう》に止《とゞ》まつたが。北條氏《ほうでうし》の末期《まつき》より、守護《しゆご》は國司《こくし》を壓倒《あつたう》して、大小《だいせう》の事《こと》に干係《かんけい》し、且《か》つ世襲《せしふ》の傾向《けいかう》を生《しやう》じた。地頭《ぢとう》は本來《ほんらい》莊園《さうゑん》の領主《りやうしゆ》が、其《そ》の入租《にふそ》を監督《かんとく》せしむる爲《た》めに、私《わたくし》に置《お》きたるものであるが。頼朝《よりとも》の時《とき》より、御家人《ごけにん》を地頭《ぢとう》となし、兵糧米《ひやうろうまい》を收《おさ》むるを、重《おも》なる職掌《しよくしやう》とし、其他《そのた》守護《しゆご》の催促《さいそく》に應《おう》じて、軍務《ぐんむ》を勤《つと》め、常《つね》には京都《きやうと》、鎌倉《かまくら》の大番《おほばん》等《とう》に任《にん》じたが。其《そ》の兵糧米《ひやうろうまい》の中《うち》より、若干《じやくかん》私收《ししう》して、世襲《せしふ》する事《こと》となり、何時《いつ》の間《ま》にやら、其《そ》の莊園《さうゑん》の領主《りやうしゆ》を凌《しの》いだ。
守護《しゆご》が國司《こくし》を壓倒《あつたう》し、地頭《ぢとう》が領主《りやうしゆ》を凌《しの》ぎ、王朝《わうてう》以來《いらい》の地方制度《ちはうせいど》は、鎌倉時代《かまくらじだい》に於《おい》て、殆《ほと》んど一|變《ぺん》した。建武《けんむ》五|年《ねん》の令《れい》に曰《いは》く、
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守護《じゆご》の職《しよく》は、牧民《ぼくみん》を主《しゆ》とす。若《も》し治術《ちじゆつ》に短《たん》なれば、理《り》まさに職《しよく》を革《あらた》む可《べ》し。頃日《けいじつ》聞《き》く、軍功《ぐんこう》に誇《ほこ》り、勳勞《くんらう》を藉《か》り、擅《ほしいまゝ》に寺社《じしや》及《および》公卿《くげ》の采?邑《さいいう》を奪《うば》ひ、此《これ》を屬隷《ぞくれい》に授《さづ》け、以《もつ》て軍糧《ぐんりやう》に充《あ》つ。本主《ほんしゆ》に告發《こくはつ》せらるゝときは、引付《ひきつけ》の裁斷《さいだん》沮格《そかく》して行《おこな》はず。歳月《さいげつ》を稽留《けいりう》す。並《ならび》に本罪《ほんざい》を糾問《きうもん》し、速《すみやか》に褫奪《ちだつ》を行《おこな》ふ可《べ》し。
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此《こ》は尊氏《たかうぢ》が征夷大將軍《せいいたいしやうぐん》となつた當年《たうねん》の、建武式目《けんむしきもく》追加《つゐか》の一|條《でう》である。如何《いか》に守護《しゆご》が跋扈《ばつこ》したかは、此《こ》れを讀《よ》みても想像《さうざう》せらるゝ。又《ま》た太平記《たいへいき》にも、
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前代《ぜんだい》相模守《さがみのかみ》の天下《てんか》を成敗《せいばい》せし時《とき》、諸國《しよこく》の守護《しゆご》、大犯《たいはん》三|個條《かでう》等《とう》の檢斷《けんだん》の外《ほか》は、締?《いろ》ふことなかりしに。今《いま》は大小《だいせう》の事共《ことども》唯《たゞ》守護《しゆご》の計《はか》らひにて、一|國《こく》の成敗《せいばい》、雅意《がい》に任《まか》すれば、地頭《ぢとう》、御家人《ごけにん》を郎從《ろうじう》の如《ごと》く召《め》し仕《つか》ひ、寺社《じしや》本所《ほんじよ》の所領《しよりやう》を、兵糧《ひやうろう》料所《れうじよ》とて抑《おさ》へて管領《くわんりやう》す。其《そ》の權威《けんゐ》唯《たゞ》古《いにしへ》の六|波羅《はら》、九|州《しう》の探題《たんだい》の如《ごと》し。
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とある。足利氏《あしかゞし》の初期《しよき》でさへ、此《こ》の通《とは》りぢや。まして應仁《おうにん》の亂《らん》以來《いらい》、守護共《しゆごども》が、御料田《ごれうでん》、公卿《くげ》、社寺《しやじ》の莊田《さうでん》を我物《わがもの》とし、地頭《ぢとう》、御家人《ごけにん》を臣下《しんか》とし、獨立《どくりつ》君主《くんしゆ》の行動《かうどう》をなしたるも、必然《ひつぜん》の勢《いきほひ》と云《い》はねばなるまい。されば公卿《くげ》の面々《めん/\》も、京都《きやうと》に主上《しゆじやう》を置《お》き去《ざ》りにし、縁故《えんこ》の武家《ぶけ》に食客《しよくかく》として、各地《かくち》に分散《ぶんさん》したるも、餘儀《よぎ》なき事《こと》であつた。かくて一|天萬乘《てんばんじよう》の主上《しゆじやう》を、如何《いか》にし奉《たてまつ》る可《べ》きぞ。


【六】勤王思想の消亡
皇室《くわうしつ》の式微《しきび》を語《かた》る前《まへ》に、如何《いか》に勤王《きんわう》の思想《しさう》が、室町時代《むろまちじだい》に消亡《せうばう》したかを語《かた》るが、順序《じゆんじよ》であらう。後醍醐《ごだいご》天皇《てんわう》が、北條氏《ほうでうし》を征討《せいたう》し給《たま》ふのを、當時《たうじ》の言葉《ことば》では、『天皇《てんわう》御謀反《ごむほん》』と申《まう》した。又《ま》た足利尊氏《あしかゞたかうぢ》が、北朝《ほくてう》の天子《てんし》を擁立《ようりつ》し奉《たてまつ》るや、
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哀《あは》れ此《こ》の持明院殿《ぢみやうゐんでん》ほど、大果報《だいくわほう》の人《ひと》はおはせざりけり。軍《いくさ》の一|度《ど》をもし給《たま》はずして、將軍《しやうぐん》より、王位《わうゐ》を賜《たま》はせ給《たま》ひたりと、申《まをす》沙汰《さた》しけるこそ、をかしけれ。
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とは、當時《たうじ》の噂《うはさ》であつた。
更《さ》らに甚《はなは》だしきは、持明院《ぢみやうゐん》上皇《じやうわう》の乘輿《じようよ》に對《たい》し、土岐頼遠《ときよりとほ》が、狼藉《らうぜき》したる事《こと》である。太平記《たいへいき》に曰《いは》く、
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土岐《とき》彈正《だんじやう》少弼《せうひつ》頼遠《よりとほ》は、御幸《みゆき》も知《し》らざりけるにや、此比《このごろ》時《とき》を得《え》て、世《よ》をも恐《おそ》れず、心《こゝろ》の儘《まゝ》に振舞《ふるまひ》ければ。馬《うま》をかけ居《ゐ》て、此比《このごろ》洛中《らくちう》にて、頼遠《よりとほ》抔《など》を下《おろ》す可《べ》き者《もの》は、覺《おぼえ》ぬ者《もの》を、云《い》ふは如何《いか》なる馬鹿者《ばかもの》ぞ、一々|奴原《やつばら》、蟇目《ひきめ》負《おは》せてくれよと?《よばゝ》りければ。前驅《ぜんく》御隨身《ごずゐしん》馳散《はせちつ》て、聲々《こゑ/″\》に如何《いか》なる田舍人《ゐなかびと》なれば、斯樣《かやう》に狼藉《らうぜき》をば振舞《ふるまふ》ぞ、院《ゐん》の御幸《みゆき》にて有《ある》ぞと呼《よばは》りければ。頼遠《よりとほ》醉狂《すゐきよう》の氣《き》や萠《きざ》しけん、是《これ》を聞《きい》てから/\と打笑《うちわら》ひ、何《なに》、院《ゐん》と云《いふ》か、犬《いぬ》と云《いふ》か、犬《いぬ》ならば射《い》て落《おと》さんと云儘《いふまゝ》に、御車《みくるま》を眞中《まんなか》に取籠《とりこめ》て、馬《うま》を懸寄《かけよせ》追物射《おふものい》にこそ射《い》たりけれ。
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此程《これほど》の暴行《ばうかう》は、固《もと》より、當時《たうじ》に於《おい》ても、除外例《ぢよぐわいれい》であつたであらう。併《しか》し斯《かゝ》る出來事《できごと》が、苟《いやしく》も天地間《てんちかん》に實現《じつげん》したる、其《そ》の社會《しやくわい》の調子《てうし》は、如何《いか》に尊皇《そんくわう》の精神《せいしん》が、稀薄《きはく》に趨《おもむ》きつゝあつたかを、推察《すゐさつ》せらるゝではない乎《か》。
斯《かゝ》る世《よ》の中《なか》に、北畠親房《きたばたけちかふさ》は、戎馬間關《じうばかんくわん》の際《さい》、一の參考書《さんかうしよ》さへなく、全《まつた》く記憶《きおく》を辿《たど》りて、『神皇正統記《じんくわうせいとうき》』を著《あら》はし
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大日本《だいにほん》は神國《しんこく》なり、天租《てんそ》始《はじめ》て基《もとゐ》を開《ひ》らき、日神《ひのかみ》長《なが》く統《とう》を傳《つた》へ給《たま》ふ。我國《わがくに》のみ此事《このこと》あり、異朝《いてう》には、其《そ》の比《たぐ》ひなし。此故《このゆゑ》に神國《しんこく》と云《い》ふなり。
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と、其《そ》の冒頭《ぼうとう》に、萬國《ばんこく》無比《むひ》の我《わ》が國體《こくたい》を顯昭《けんせふ》にし。又《ま》た御醍醐《ごだいご》天皇《てんわう》崩御《ほうぎよ》の事《こと》を記《しる》して、
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むかし仲尼《ちうぢ》は獲麟《くわくりん》に筆《ふで》を絶《た》つとあれば、こゝに止《とどま》りたく侍《はべ》れど、神皇《じんくわう》正統《せいとう》のよこしまなるまじき理《ことわ》りを申《まを》し述《の》べて、素意《そい》のすゑをもあらはさまほしくて、強《しひ》てしるしつけ侍《はべ》るなり。
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と云《い》ひ、更《さら》に後村上《ごむらかみ》天皇《てんわう》の事《こと》に就《つい》て、
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今《いま》の御門《みかど》また天照大神《あまてらすおほみかみ》より已來《いらい》の正統《せいとう》を承《う》けまし/\ぬれば、此《こ》の御光《みひかり》に爭《あらそ》ひ奉《たてまつ》る者《もの》やはあるべき、中々《なか/\》斯《かく》て靜《しづ》まるべき時《とき》の運《うん》とぞ覺《おぼ》え侍《はべ》る。
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と云《い》うて居《ゐ》る。洵《まこと》に一|字《じ》一|涙《るゐ》ぢや。併《しか》し飜《ひるがへ》つて、彼《かれ》が何故《なにゆゑ》に此《かく》の如《ごと》く忠憤《ちうふん》、惻怛《しよくだつ》の言葉《ことば》を發《はつ》したかと考《かんが》ふれば、それは申《まを》す迄《まで》もなく、當時《たうじ》に於《お》ける勤王《きんわう》の精神《せいしん》や、國體《こくたい》の觀念《くわんねん》が、殆《ほと》んど天下《てんか》に湮沒《いんぼつ》したからと云《い》はねばなるまい。
勿論《もちろん》藤原藤房《ふぢはらふぢふさ》や、楠正成《くすのきまさしげ》や、南朝方《なんてうかた》には、勤王《きんわう》の公卿《くげ》や、武士《ぶし》も少《すくな》くなかつた。併《しか》し其《そ》の大體《だいたい》を概觀《がいくわん》すれば、當時《たうじ》の南北朝《なんぼくてう》は、勤王《きんわう》、不勤王《ふきんわう》の爭《あらそひ》ではなかつた。南朝《なんてう》は宮方《みやかた》、北朝《ほくてう》は武家方《ぶけかた》で、云《い》はゞ公家《くげ》と武家《ぶけ》の對抗《たいかう》と云《い》ふ可《べ》きぢや。更《さ》らに立《た》ち入《い》りて見《み》れば、南朝《なんてう》に屬《ぞく》する武家《ぶけ》は、概《おほむ》ね足利氏《あしかゞし》に叩頭《こうとう》するを、肯《がへん》ぜぬ者共《ものども》であつた。新田義貞《につたよしさだ》が、南朝《なんてう》無《む》二の味方《みかた》であつたも、足利尊氏《あしかゞたかうぢ》と、利害《りがい》相《あひ》反《はん》し、其《その》勢《いきほひ》兩立《りやうりつ》せざるが爲《た》めではなかつたとは、誰《た》れしも斷言《だんげん》する事《こと》は出來《でき》まい。
若《も》し南北朝《なんぼくてう》の對戰《たいせん》を、唯《た》だ利益《りえき》や、權勢《けんせい》のみを目安《めやす》として、全《まつた》く沒《ぼつ》理想《りそう》の爭《あらそひ》であると云《い》はゞ、酷評《こくひやう》である。併《しか》し其《そ》の重《おも》なる動機《どうき》は、公家《くげ》跋扈《ばつこ》の新《あら》たなる政治《せいぢ》に反抗《はんかう》し、鎌倉《かまくら》以來《いらい》の武家《ぶけ》政治《せいぢ》に隨喜《ずゐき》したる、所謂《いはゆ》る足利黨《あしかゞたう》と、否《ひ》足利黨《あしかゞとう》の爭《あらそ》ひである。且《か》つ南朝方《なんてうかた》の武人《ぶじん》は、新田氏《につたし》を始《はじ》め、足利氏《あしかゞし》の下《もと》に就《つ》くを、屑《いさぎよし》とせぬ舊家《きうか》、名族《めいぞく》や、若《もし》くは地方的《ちはうてき》利害《りがい》の衝突《しようとつ》の爲《た》め、南朝《なんてう》に屬《ぞく》したるものやら、又《ま》た足利氏《あしかゞし》に不平《ふへい》の爲《た》めに、一|時的《じてき》に投降《とうかう》したものやらであつた。何《いづ》れにしても室町時代《むろまちじだい》は、勤王《きんわう》思想《しさう》や、國體《こくたい》思想《しさう》の、殆《ほと》んど光《ひかり》を失《うしな》うた時代《じだい》であると云《い》はねばならぬ。
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凡そ言語文字は、時代に因りて變遷するものにして、鎌倉には、鎌倉の慣用あり、室町には室町の慣用あり・・・太平記に、天皇御謀叛と云ふ文句ありて、後世殊の外やかましく、議論することなれど、此謀叛の文字、當時に於ては、人知れず事を取企つるを云ふ迄の義と聞ゆ。叛を謀るなど、重き字義を以て咎めては、當時の語意に叶はず。後人の詩に、天皇謀叛叛[#二]何人[#一]とありて、其の時代上下みな名分大義の何物たるを知らずとて、言?るは古文書に明かならぬ説なり。(史論第一號 重野安繹)
一應尤の説なり。併し假りに重野博士の説の如く、天皇御謀叛の文字が、天皇御陰謀と同一の意義とするも、斯る言葉は、至尊の臣下に對し給ふ場合に、使用すべきものではない。輕きにせよ、重きにせよ、大義名分を辨せずと云ふ丈は、明白の事實ぢや。此れには辯護の餘地がない。


【七】皇室の式微
皇室《くわうしつ》の式微《しきび》と、勤王思想《きんわうしさう》の消亡《せうばう》とは、如何《いか》なる程度《ていど》迄《まで》、其《そ》の關係《くわんけい》を持《も》つたであらう乎《か》。即《すなは》ち勤王《きんわう》の思想《しさう》が、死灰《しくわい》の如《ごと》く冷《ひやゝ》かになりて、而《しか》して皇室《くわうしつ》の光《ひかり》は、彌《いよい》よ薄《うす》く成《な》り行《ゆ》きたる乎《か》。將《は》た皇室《くわうしつ》の式微《しきび》は、其《そ》の尊嚴《そんげん》を、國民《こくみん》の心《こゝろ》より失墜《しつつゐ》せしめ、從《したがつ》て勤王心《きんわうしん》も、此《これ》が爲《た》めに衰《おとろ》へたる乎《か》。順序《じゆんじよ》から云《い》へば、勤王心《きんわうしん》の消亡《せうばう》は、本《もと》であり、皇室《くわうしつ》の式微《しきび》は末《すゑ》である。併《しか》し式微《しきび》の爲《た》めに、忠臣《ちうしん》、義士《ぎし》の勤王心《きんわうしん》を感發《かんぱつ》せしめ、死灰《しくわい》をして復《ま》た燃《も》えしむ可《べ》く、その餘炎《よえん》を煽《あふ》りたる事情《じじやう》もある可《べ》きであらうが。亦《ま》た此《これ》が爲《た》めに、世上《せじよう》一|般《ぱん》には、皇室《くわうしつ》をば恐《おそ》れ多《おほ》くも、物《もの》の數《かず》とも思《おも》はぬ樣《やう》に導《みちび》いた事《こと》も、否定《ひてい》出來《でき》ぬ。
何《いづ》れにしても勤王思想《きんわうしさう》の消亡《せうばう》と、皇室《くわうしつ》の式微《しきび》とは、互《たが》ひに因《いん》となり、果《くわ》となりて、漸次《ぜんじ》に我《わ》が皇室《くわうしつ》中心《ちうしん》の國體《こくたい》を、朦朧《もうろう》たらしむるに至《いた》つた。即《すなは》ち此《こ》の時代《じだい》は、日蝕《につしよく》の時代《じだい》とも云《い》ふ可《べ》きであらう。承久《しようきう》の亂後《らんご》には、北條氏《ほうでうし》は一|天皇《てんわう》を廢《はい》し、三|上皇《じやうわう》を遠島《ゑんたう》に竄《ざん》し奉《たてまつ》つた。
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さして行《ゆ》く笠置《かさぎ》の山《やま》を出《いで》しより天《あめ》が下《した》には隱《かく》れ家《が》もなし
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とは、後醍醐《ごだいご》天皇《てんわう》の元弘《げんこう》年間《ねんかん》に於《おい》ての、御述懷《ごじゆつくわい》であつた。北條時代《ほうでうじだい》でも、皇室《くわうしつ》は決《けつ》して隆昌《りうしやう》であつたと、申《まを》し上《あ》ぐる?は出來《でき》ぬ。
それが足利氏《あしかゞし》となつては、先《ま》づ天皇《てんわう》に向《むかつ》て弓《ゆみ》を?《ひ》いて、室町將軍時代《むろまちしやうぐんじだい》の基《もとゐ》を發《ひら》いたのである。然《しか》も流石《さすが》に創業者《さうげふしや》尊氏《たかうじ》は、朝敵《てうてき》ながらも、後醍醐《ごだいご》天皇《てんわう》の殊遇《しゆぐう》に感激《かんげき》し、崩御後《ほうぎよご》は、特《とく》に天龍寺《てんりうじ》を建《た》てゝ、御冥福《ごみやうふく》を祈《いの》つた程《ほど》であつたが。其《その》孫《まご》義滿《よしみつ》に至《いた》りては、故《ことさ》らに朝廷《てうてい》に強要《きやうえう》して、太政大臣《だいじやうだいじん》の高位《かうゐ》に躋《のぼ》り、僭上《せんじやう》、横暴《わうぼう》を極《きは》め、古《いにしへ》の入鹿《いるか》、道鏡《だうきやう》にも讓《ゆづ》らなかつた。義持《よしもち》以後《いご》は、室町幕府《むろまちばくふ》自《みづ》から存立《そんりつ》する事《こと》さへ、覺束《おぼつか》なかつた次第《しだい》で、とても皇室《くわうしつ》迄《まで》には、恐《おそ》れ多《おほ》くも、手《て》が廻《ま》はりかねたのであつた。
應仁《おうにん》の大亂《たいらん》には、後花園《ごはなぞの》上皇《じやうわう》は、義政第《よしまさだい》中《ちう》にて崩御《ほうぎよ》せられ、後土御門《ごつちみかど》天皇《てんわう》は、十三|年間《ねんかん》も、内裡《だいり》に還《かへ》り給《たま》ふ?能《あた》はなかつた。それ以來《いらい》、天下《てんか》全《まつた》く亂世《らんせい》となり、皇室《くわうしつ》の式微《しきび》も、殆《ほと》んど其《そ》の極所《きよくしよ》に陷《おちい》つた。當時《たうじ》皇室《くわうしつ》の御料地《ごれうち》は、能登《のと》、加賀《かが》、越前《ゑちぜん》、攝津《せつつ》、丹波《たんば》、美濃《みの》等《とう》に散在《さんざい》したが、概《おほむ》ね武人《ぶじん》の押領《あふりやう》する所《ところ》となつた。偶《たまた》ま朝臣《てうしん》其《そ》の納租《なふそ》を催告《さいこく》するも、得《う》る所《ところ》は、十の二三に過《す》ぎなかつた。
山科言繼《やましなときつぐ》の日記《につき》に、
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御料所《ごれうしよ》、津《つ》の國《くに》そつぶんの事《こと》、去年《こぞ》よりなにかとたち候《さふら》はぬよし候《そろ》。もともとより相違《さうゐ》なき事《こと》にて候《そろ》に、たいてん然《しか》る可《べか》らず思召《おぼしめし》候《そろ》ひきと申附《まをしつけ》候《さふらふ》てたち候《そろ》樣《やう》に、右京《うきやう》大夫《だいふ》によく/\おほせ屆《とゞ》けられ候《さふらふ》べく候《そろ》よし申《まをす》とて候《さふらふ》。かしく
 左衞門督どのへ
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此《こ》れは天文《てんもん》十一|年《ねん》三|月《ぐわつ》六|日《か》附《づけ》の女房《にようぼう》奉書《ほうしよ》ぢや。左衞門督《さゑもんのかみ》とは、山科言繼《やましなときつぐ》のことぢや。
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就《つき》[#二]禁裏《きんり》御料所《ごれうしよ》攝州《せつしう》上郡《かみごほり》率?分《そつぶん》公事《くじ》の役《やく》の儀《ぎに》[#一]、女房《にようぼう》奉書《ほうしよ》如《ごとくに》[#レ]此《かくの》候《そろ》。急度《きつと》仰付《おほせつけられ》候者《さふらへば》、可《べき》[#レ]悦《よろこばる》思食《おぼしめし》の由《よし》可《べきの》[#二]申入《まをしいる》[#一]之旨《むねに》候《そろ》。尚《なほ》委曲《ゐきよく》飯尾《いひを》兵部丞《ひやうぶのじやう》可《べき》[#レ]被《さる》[#レ]申《まを》也《なり》、恐々《きやう/\》謹言《きんげん》
   三月六日                言繼
  細川右京大夫殿
此《これ》にて御料地《ごれうち》の小民共《せうみんども》迄《まで》が、皇室《くわうしつ》の公事役《くじやく》を、等閑《とうかん》に抛却《はうきやく》しつゝある状態《じやうたい》が、分明《ふんみやう》ではない乎《か》。一|事《じ》が萬事《ばんじ》ぢや。此《こ》れで皇室《くわうしつ》の御《おん》暮《く》らし向《むき》の事《こと》も、類推《るゐすゐ》せらるゝ。
明應《めうおう》九|年《ねん》、後土御門《ごつちみかど》天皇《てんわう》崩御《ほうぎよ》の節《せつ》は、大喪《たいさう》の禮《れい》を行《おこな》ふ費用《ひよう》さへなく、内裡《だいり》黒戸《くろと》に殯《ひん》し奉《たてまつ》る、四十|餘日《よにち》であつた。其《そ》の御在位《ございゐ》中《ちう》に、禪讓《ぜんじやう》の思召《おぼしめし》ありたれども、萬事《ばんじ》不如意《ふによい》にて、近臣《きんしん》に御衣《ぎよい》を下《くだ》し賜《たま》ふ可《べ》き物《もの》もなく、悲嘆《ひたん》に打過《うちす》ぎ給《たま》うたと申《まを》すことであつた。
斯《か》くて後柏原《ごかしはばら》天皇《てんわう》御踐祚《ごせんそ》ありしかど、御即位《ごそくゐ》の禮《れい》を行《おこな》ふ事《こと》が能《あた》はなかつた。幕府《ばくふ》に御沙汰《ごさた》があつたが、管領《くわんれい》の細川政元《ほそかはまさもと》は、天下《てんか》の政令《せいれい》は、將軍《しやうぐん》で充分《じうぶん》ぢや、御即位《ごそくゐ》の禮《れい》を擧《あ》げ給《たま》はでも、朝廷《てうてい》には別段《べつだん》輜重《けいちよう》はない事《こと》ぢやと申《まを》した。それより二十|年《ねん》の後《のち》、本願寺《ほんぐわんじ》の獻金《けんきん》にて、始《はじ》めて之《これ》を行《おこな》はせられた。大永《たいえい》六|年《ねん》四|月《ぐわつ》に、後柏原《ごかしはばら》天皇《てんわう》は、崩御《ほうぎよ》あらせられたが、幕府《ばくふ》は僅《わづ》かに八|萬疋《まんびき》を奉納《ほうなふ》して、此《これ》にて大喪《たいさう》丈《だけ》は濟《す》んだが。後奈良《ごなら》天皇《てんわう》即位《そくゐ》の大禮《たいれい》には及《およ》ばなかつた爲《た》め、漸《やうや》く四|方《はう》の武人《ぶじん》に、資料《しれう》を徴集《ちようしふ》して、之《これ》を行《おこな》ふこと?を得《え》た。新井白石《あらゐはくせき》の紳書《しんしよ》中《ちう》に、
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恒齋《こうさい》曰《いはく》、後奈良《ごなら》の院《ゐん》宸筆《しんぴつ》の物《もの》、世《よ》に多《おほ》きはことわりなり。此時《このとき》公家《くげ》以《もつて》の外《ほか》微《び》にして、紫宸殿《ししんでん》の御築地《おんついぢ》やぶれて、三|條《でう》の橋《はし》のほとりより内侍所《ないしどころ》の御《おん》あかしの光《ひかり》見《み》えしとや。右近《うこん》の橘《たちばな》のもとには、茶《ちや》を煎《に》てうるもの居《ゐ》てあきなふ。其《その》例《れい》によつて、其《その》茶《ちや》うりし人《ひと》の子孫《しそん》、年《ねん》に一たび天子《てんし》に茶《ちや》をたてまつるといふ。此時《このとき》銀《ぎん》など樣《やう》の物《もの》に札《ふだ》付《つけ》て、たとへば百|人《にん》一|首《しゆ》、伊勢物語《いせものがたり》などいふ札《ふだ》つけて、御簾《みす》に結《むすび》つけておくに、日《ひ》を經《へ》て後《のち》まゐれば、宸筆《しんぴつ》を添《そへ》てさし出《いだ》されたりといふ。此頃《このごろ》は、京中《きやうちう》を關白料《くわんぱくれう》とて、袋《ふくろ》にて米《こめ》を貰《もらう》てあるきし其《その》袋《ふくろ》、今《いま》も二|條殿《でうでん》にありとかやいふ也《なり》。
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とある。果《はた》して言葉《ことば》通《どほ》りに、信憑《しんぴよう》して差支《さしつかへ》なき乎《か》、否乎《いなか》は、姑《しばら》く措《お》き、此《これ》にて皇室《くわうしつ》式微《しきび》の御模樣《おんもやう》が、思《おも》ひやらるゝではない乎《か》。


【八】一向宗の勃興
室町時代《むろまちじだい》の中期《ちうき》以後《いご》に於《おい》て、見逃《みの》がす※[#「こと」の合字、37-3]の出來《でき》ぬ新現象《しんげんしやう》は、一|向宗《かうしう》の勃興《ぼつこう》である。一|向宗《かうしう》とは、申《まを》す迄《まで》もなく、親鸞《しんらん》を教祖《けうそ》とする今日《こんにち》の眞宗《しんしう》ぢや。何故《なにゆゑ》に此《こ》の宗派《しうは》が、此《こ》の時代《じだい》に勢力《せいりよく》を得《え》た乎《か》。そは時代的《じだいてき》要求《えうきう》と、之《これ》に順應《じゆんおう》す可《べ》く、努力《どりよく》したる人《ひと》を得《え》たからであらう。
如何《いか》なる宗教《しうけう》でも、播《ま》かぬ種《たね》は生《は》えはせぬ。播《ま》いたとて、石《いし》の上《うへ》では生《は》えはせぬ。土《つち》の上《うへ》でも、時《とき》が來《こ》ねば生《は》えはせぬ。つまり宗教《しうけう》の興隆《こうりう》には、人《ひと》と勢《いきほひ》とが、重《おも》なる要素《えうそ》ぢや。王朝《わうてう》時代《じだい》の傳教大師《でんけうだいし》や、弘法大師《こうばふだいし》は、其《そ》の人物《じんぶつ》の卓越《たくゑつ》したるは勿論《もちろん》であるが、彼等《かれら》は當時《たうじ》の政權《せいけん》を藉《か》りて、其《そ》の教權《けうけん》を擴張《くわくちやう》した。降《くだ》りて鎌倉《かまくら》時代《じだい》禪學《ぜんがく》の流行《りうかう》も、平《ひら》たく云《い》へば、北條家《ほうでうけ》の御用《ごよう》宗教《しうけう》たる、傾向《けいかう》があつた。要《えう》するに我國《わがくに》に於《おい》ては、法然《はふねん》の淨土宗《じやうどしう》や、親鸞《しんらん》の眞宗《しんしう》や、日蓮《にちれん》の法華宗《ほつけしう》やの、出《で》て來《く》る以前《いぜん》の佛教《ぶつけう》は、先《ま》づ爲政者《ゐせいしや》の宗教《しうけう》であつた。先《ま》づ貴族的《きぞくてき》階級《かいきふ》の宗教《しうけう》であつた。先《ま》づ智識的《ちしきてき》少數者《せうすうしや》の宗教《しうけう》であつた。南都《なんと》、北嶺《ほくれい》、僧兵《そうへい》を擁《よう》し、俗權《ぞくけん》に向《むか》つて、隱然《いんぜん》一|敵國《てきこく》を爲《な》したるも、それは爲政者《ゐせいしや》の力《ちから》を藉《か》り來《きた》りて、此《こ》の勢力《せいりよく》を養成《やうせい》し、却《かへつ》て爲政者《ゐせいしや》を脅《おびや》かすに至《いた》つた迄《まで》のもので、人民《じんみん》の中《うち》に其《そ》の根據《こんきよ》を扶植《ふしよく》しては、居《を》らなかつた。
佛教《ぶつけう》が國民《こくみん》の生活《せいくわつ》と、全《まつた》く融合《ゆうがふ》し、平民的《へいみんてき》勢力《せいりよく》となりたるは。淨土《じやうど》念佛《ねんぶつ》の主唱者《しゆしやうしや》法然《はふねん》や、彼《かれ》の衣鉢《いはつ》を承《う》け、更《さら》に一|歩《ぽ》を進《すゝ》めて、報恩《はうおん》行業《ぎやうごふ》の旨《むね》を潤色《じゆんしよく》したる親鸞《しんらん》や、又《ま》た毛色《けいろ》の異《ことな》りたる、一|天《てん》四|海《かい》皆歸《かいき》妙法《めうはふ》の日蓮《にちれん》やの、出《い》で來《きた》つた以後《いご》の事《こと》と云《い》はねばならぬ。而《しか》して自《みづ》から非僧《ひそう》非俗《ひぞく》愚禿《ぐとく》親鸞《しんらん》と稱《しよう》し、肉食《にくじき》妻帶《さいたい》の實例《じつれい》を示《しめ》し、欲惡《よくあく》煩悶《はんもん》を抱《かゝ》へつゝ、極樂《ごくらく》に往生《わうじやう》する捷?徑《せふけい》を教《をし》へたのは、實《じつ》に親鸞《しんらん》其人《そのひと》である。親鸞《しんらん》は、佛教《ぶつけう》を平民化《へいみんくわ》したる、世俗化《せぞくくわ》したる、唯《ゆゐ》一の人《ひと》と云《い》はれぬ迄《まで》も、其中《そのうち》で最有力《さいいうりよく》の人《ひと》であらう。而《しか》して足利《あしかゞ》の中期《ちうき》以後《いご》は、恰《あたか》も社會《しやくわい》が、此《こ》の濁世《だくせい》の宗教《しうけう》たる、一|向宗《かうしう》を受《う》け容《い》るゝに、最上《さいじやう》の潮合《しほあひ》であつた。
天下《てんか》は亂世《らんせい》となつた。社會《しやくわい》の混亂《こんらん》、無秩序《むちつじよ》は、總《すべ》ての人《ひと》に不安《ふあん》を與《あた》へた。言《い》ひ換《か》ふれば、從來《じうらい》醉生《すゐせい》夢死《むし》した社會《しやくわい》の人心《じん/\》は、繋《つな》がざる舟《ふね》の如《ごと》く、此《こ》の狂亂《きやうらん》怒濤《どたう》に掀蕩《きんだう》せられ、其《そ》の安心《あんしん》の綱《つな》を、佛教《ぶつけう》に求《もと》むるの必要《ひつえう》を感《かん》じて來《き》た。
當時《たうじ》の禪僧《ぜんそう》は、將軍家《しやうぐんけ》の顧問《こもん》でなければ、武將《ぶしやう》の庇蔭《ひいん》に頼《よ》り、蘇黄《そくわう》の詩《し》を説《と》き、眉目秀麗《びもくしうれい》の少年喝食《せうねんかつしき》を相手《あひて》に、文雅風流《ぶんがふうりう》に耽《ふけ》りて居《を》るものが多《おほ》かつた。弘法《こうばふ》の高野山《かうやさん》も、傳教《でんけう》の比叡山《ひえいざん》も、年來《ねんらい》爲政者《ゐせいしや》の恩寵《おんちやう》に浴《よく》したる結果《けつくわ》、今《いま》は餘《あま》りに肥大《ひだい》となりて、其《そ》の恩寵《おんちやう》さへも、無視《むし》する程《ほど》となつた。彼等《かれら》は宗教《しうけう》と云《い》ふよりも、宗教《しうけう》を看板《かんばん》としたる、一|種《しゆ》の超國法的《てうこくはふてき》團體《だんたい》となつた。
公家《くげ》や、武家《ぶけ》は、門閥世襲《もんばつせしふ》の結果《けつくわ》、何《いづ》れも凋落《てうらく》の已《や》むなきに至《いた》つた。高野《かうや》や、叡山《えいざん》は、流石《さすが》に新血液《しんけつえき》の注入《ちうにふ》ある爲《た》め、一|切《さい》の舊團體《きうだんたい》が分解《ぶんかい》しつゝある際《さい》にも、幾許《いくばく》か現状《げんじやう》を保持《ほぢ》することを得《え》た。併《しか》し宗教《しうけう》としては、既《すで》に化石《くわせき》であつた。固《もと》より此《こ》の不安《ふあん》なる一|般《ぱん》の人心《じんしん》を、慊《あきた》らしむる程《ほど》の生命《せいめい》を有《いう》せなかつた。彼等《かれら》は當時《たうじ》の新情態《しんじやうたい》に應酬《おうしう》するには、餘《あま》りに多《おほ》く舊境遇《きうきやうぐう》に囚《とら》はれて居《ゐ》た。云《い》はゞ彼等《かれら》は榮螺《さゞえ》の如《ごと》く、自《みづ》から一|個《こ》の殼《から》を作《つく》りて、其中《そのなか》に籠城《ろうじやう》し、自個《じこ》の生命《せいめい》丈《だけ》は、保有《ほいう》して居《ゐ》たが、さりとて他《た》を感化《かんくわ》する程《ほど》の活氣《くわつき》も、自由《じいう》も、有《も》たなかつたのである。
斯《かゝ》る場合《ばあひ》に於《おい》て、時代《じだい》の要求《えうきう》を充《み》たす可《べ》きは、實《じつ》に一|心《しん》一|向《かう》に、彌陀本願《みだほんぐわん》を旨《むね》とする一|向宗《かうしう》であつた。彼等《かれら》の教理《けうり》は、當世《たうせい》誂《あつら》へ向《む》きと云《い》はねばならぬ。何《なん》となれば、『親鸞《しんらん》におきては、たゞ念佛《ねんぶつ》して彌陀《みだ》にたすけられまゐらすべしと、よき人《ひと》のおほせをかうぶりて、信《しん》ずるほかに別《べつ》の仔細《しさい》なきなり』と云《い》ひ。又《ま》た『如來《によらい》大悲《だいひ》の恩徳《おんとく》は、身《み》を粉《こ》にしても報《はう》ずべし、師主《ししゆ》智識《ちしき》の恩徳《おんとく》も、骨《ほね》を粉《こ》にして謝《しや》す可《べ》し』と云《い》ひ。而《しか》して中興《ちうこう》の宗師《しうし》、蓮如《れんによ》の如《ごと》きも、『雜行雜修自力《ざふぎやうざふしゆじりき》のこころをすてゝ、一|心《しん》に後生《ごしやう》たすけたまへと、彌陀《みだ》をたのむべし』と云《い》ひ。其《そ》の教旨《けうし》の簡易《かんい》、明白《めいはく》にして、人心《じんしん》に浹洽《せふがふ》する、恰《あたか》も沙漠《さばく》に甘雨《かんう》を降《ふ》らすの趣《おもむき》があつた。約言《やくげん》すれば、門閥《もんばつ》打破《だは》の世《よ》の中《なか》に於《おい》て、一|向宗《かうしう》は、打破《だは》の急先鋒《きふせんぽう》であつたとも云《い》ふ可《べ》きではあるまい乎《か》。


【九】蓮如
一|向宗《かうしう》は、其《そ》の教理《けうり》、其《そ》の宗風《しうふう》が、時代《じだい》の要求《えうきう》に投合《とうがふ》したのみでなく、其《そ》の宗旨《しうし》の化導者《けだうしや》に於《おい》て、適材《てきざい》を見出《みいだ》した。それは眞宗《しんしう》中興《ちうこう》の宗師《しうし》、蓮如《れんによ》其人《そのひと》である。概《がい》して言《い》へば、眞宗《しんしう》が一|個《こ》の宗派《しうは》として、大成《たいせい》する迄《まで》には、專《もつぱ》ら三|人《にん》の力《ちから》を要《えう》した。第《だい》一は宗祖《しうそ》親鸞《しんらん》である。彼《かれ》は承安《しようあん》三|年《ねん》に生《うま》れ、弘長《こうちやう》三|年《ねん》に歿《ばつ》した。即《すなは》ち平家《へいけ》繁昌《はんじやう》の絶頂《ぜつちやう》の時《とき》に生《うま》れ、北條時頼《ほうでうときより》と同年《どうねん》に死《し》した。此《こ》の九十|年《ねん》に亙《わた》る期間《きかん》の中《うち》、約《やく》二十|年間《ねんかん》は、東北《とうほく》に於《おい》て道《みち》を傳《つた》へた。第《だい》二は第《だい》三|世《せい》覺如《かくによ》である。彼《かれ》は文永《ぶんえい》七|年《ねん》に生《うま》れ、正平《しやうへい》六|年《ねん》、八十二|歳《さい》にて逝《ゆ》いた。即《すなは》ち北條氏《ほうでうし》の末期《ばつき》より、南北朝《なんぼくてう》の時代《じだい》に亙《わた》つた。第《だい》三が本願寺《ほんぐわんじ》傳統上《でんとうじやう》第《だい》八|世《せい》たる、蓮如《れんによ》である。彼《かれ》は實《じつ》に眞宗《しんしう》を全然《ぜんぜん》平民化《へいみんくわ》し、庶民《しよみん》の生活《せいくわつ》と合致《がつち》せしめたる、廣大《くわうだい》教化主《けうけしゆ》である。
蓮如《れんによ》は應永《おうえい》二十二|年《ねん》に生《うま》れ、明應《めいおう》八|年《ねん》、八十五|歳《さい》にて逝《ゆ》いた。彼《かれ》の一|生《しやう》は、足利氏《あしかゞし》の漸衰期《ぜんすゐき》より、甚衰期《じんすゐき》に?《およ》んだ。時代《じだい》の要求《えうきう》に應《おう》ず可《べ》く、眞宗《しんしう》は存立《そんりつ》した。而《しか》して眞宗《しんしう》の要求《えうきう》に應《おう》ず可《べ》く、彼《かれ》は産出《さんしゆつ》した。彼《かれ》は實《じつ》に宗教界《しうけふかい》に於《お》ける、風雲兒《ふううんじ》と云《い》はねばならぬ。
彼《かれ》の成長時代《せいちやうじだい》に於《おい》ては、眞宗《しんしう》の別派《べつぱ》たる佛光寺《ぶつくわうじ》、錦織寺《きんしよくじ》抔《など》は、却《かへつ》て繁昌《はんじやう》して、其《そ》の本幹《ほんかん》たる本願寺《ほんぐわんじ》は、頗《すこぶ》る不振《ふしん》であつた。彼《かれ》は比較的《ひかくてき》困苦《こんく》の裡《うち》に成長《せいちやう》した。彼《かれ》が二十九|歳《さい》の時《とき》には、手《てづ》から其《そ》の嬰兒《えいじ》の襁褓《むつき》を洗濯《せんたく》した。三十五|歳《さい》の時《とき》には、油《あぶら》を購《あがな》はんには錢《ぜに》なく、黒木《くろき》を少《すこ》しづゝ燒《た》き、又《ま》たは月光《げつくわう》にて經典《きやうてん》を讀《よ》んだ。三十八|歳《さい》の時《とき》には、一|日《じつ》一|食《しよく》、或《あるひ》は無食《むしよく》のこともあつた。併《しか》し傳道《でんだう》の精神《せいしん》は、彼《かれ》の壯年《さうねん》より胸中《きようちう》に磅?《ばうはく》した。彼《かれ》は窮乏《きうばふ》の中《うち》にも、三十|歳代《さいだい》より、其席《そのせき》温《あたゝ》まるの遑《いとま》なく、或《あるひ》は東國《とうごく》に遊《あそ》び、或《あるひ》は北陸地方《ほくろくちはう》を巡廻《じゆんくわい》した。
彼《かれ》が化導者《けだうしや》としての、第《だい》一の資格《しかく》は、磁力《じりよく》の持主《もちぬし》たる事《こと》ぢや。即《すなは》ち彼《かれ》の周邊《しうへん》に、人《ひと》を吸《す》ひ寄《よ》する力《ちから》ぢや。彼《かれ》は蚤《つと》に其《そ》の股肱《ここう》として、江州《がうしう》金森《かなもり》の善從《ぜんじう》を得《え》た。而《しか》して彼《かれ》をして其力《そのちから》を北陸《ほくろく》に伸《の》ばさしめたるは、實《じつ》に下間蓮宗《しもづまれんしう》の功《こう》多《おほ》きに居《を》る。彼《かれ》の踵《くびす》の印《いん》する所《ところ》、必《かな》らず其《そ》の隨喜者《ずゐきしや》を生《しやう》じた。第《だい》二、彼《かれ》は無礙《むげ》の辯才《べんさい》を有《いう》し、且《か》つ平易《へいい》、暢達《ちやうたつ》にして剴切《がいせつ》なる、通俗文《つうぞくぶん》の作者《さくしや》であつた。彼《かれ》は寛正《くわんしやう》元年《ぐわんねん》四十六|歳《さい》の頃《ころ》、善從《ぜんじう》の懇請《こんせい》に應《おう》じ、正信偈大意《しやうしんげたいい》を著《あらは》して以來《いらい》、消息文《せうそくぶん》を綴《つゞ》りて、文書《ぶんしよ》傳道《でんだう》を爲《な》した。此《こ》れが眞宗《しんしう》に於《おけ》る無《む》二の寶典《ほうてん》たる、所謂《いはゆ》る御文章《ごぶんしやう》ぢや。第《だい》三、彼《かれ》は活眼家《くわつがんか》であつた。一|生《しやう》の間《あひだ》、行藏《かうざう》、進退《しんたい》の機《き》を誤《あやま》らなかつた。第《だい》四、彼《かれ》は無比《むひ》の精力家《せいりよくか》で、且《か》つ最後迄《さいごまで》の精力家《せいりよくか》であつた。第《だい》五、彼《かれ》の妥協的《だけふてき》、調和的《てうわてき》態度《たいど》ぢや。彼《かれ》は折《を》るゝよりも曲《まが》つた、而《しか》して曲《まがつ》ても、其《そ》の機會《きくわい》さへあれば伸《の》びた。第《だい》六、彼《かれ》は組織的《そしきてき》能力《のうりよく》を多量《たりやう》に有《いう》した。彼《かれ》の門徒《もんと》は、烏合《うがふ》の衆《しう》ではなかつた。概《おほむ》ね講社《かうしや》を結《むす》び、俗權《ぞくけん》、教權《けうけん》の契合《けいがふ》を緊密《きんみつ》にした。第《だい》七、彼《かれ》は樂天的《らくてんてき》精神家《せいしんか》で、如何《いか》なる憂苦《いうく》、艱難《かんなん》の場合《ばあひ》も、決《けつ》して失望《しつぼう》しなかつた。彼《かれ》は奮鬪家《ふんとうか》であると同時《どうじ》に、從容《しようよう》として、恰々《いゝ》として奮鬪《ふんとう》した。
彼《かれ》は寛正《くわんしやう》二|年《ねん》に、宗祖《しうそ》親鸞《しんらん》の二百|回忌《くわいき》を、大谷《おほたに》の本廟《ほんべう》に營《いとな》み。其寺《そのてら》の新門《しんもん》を作《つく》るや、日華門《につくわもん》なる勅額《ちよくがく》さへ賜《たま》はりし程《ほど》であつたが。寛正《くわんしやう》六|年《ねん》正月《しやうぐわつ》、彼《かれ》が五十一|歳《さい》の時《とき》、意外《いぐわい》にも、叡山《えいざん》衆徒《しうと》の掩襲《えんしふ》に遭《あ》ひ、悉《こと/″\》く焦土《せうど》に化《くわ》し、彼《かれ》は變裝《へんさう》して漸《やうや》く其《そ》の危難《きなん》を遁《のが》れた。應仁《おうにん》元年《ぐわんねん》以來《いらい》は、京師《けいし》の大亂《たいらん》を避《さ》けて、堅田《かただ》に赴《おもむ》き、やがて三|井寺《ゐでら》の南別所《みなみべつしよ》近松寺《きんしようじ》の跡《あと》に、顯證寺《けんしやうじ》を營《いとな》み。斯《か》くて六|個年間《かねんかん》假寓的《かぐうてき》生活《せいくわつ》の後《のち》、文明《ぶんめい》三|年《ねん》、五十七|歳《さい》北陸《ほくろく》に向《むか》ひ、越前《ゑちぜん》吉崎《よしざき》に、其《そ》の道場《だうぢやう》を設《まう》け、其《そ》の立脚地《りつきやくち》を得《え》た。
越前《ゑちぜん》は由來《ゆらい》、斯波氏《しばし》の封土《ほうど》であつたが、其《そ》の被官《ひくわん》たる朝倉《あさくら》と、甲斐《かひ》との交鬪《かうとう》にて、遂《つひ》に朝倉《あさくら》の有《いう》に歸《き》し、將軍《しやうぐん》も之《これ》を公認《こうにん》した。恰《あたか》も此《こ》れと同時《どうじ》に蓮如《れんによ》は、下間蓮宗《しもづまれんしう》を伴《ともな》ひ、此地《このち》に赴《おもむ》き、遂《つひ》に蓮宗《れんしう》の運動《うんどう》、畫策《くわくさく》によりて、吉崎《よしざき》の地《ち》を獲《え》た※[#「こと」の合字、44-12]と思《おも》はるゝ。此地《このち》は越前《ゑちぜん》を後《うしろ》に控《ひか》へ、加賀《かが》、能登《のと》、越中《ゑつちう》、越後《ゑちご》、信濃《しなの》等《とう》を前《まへ》に望《のぞ》み、北陸《ほくろく》を統制《とうせい》するには、崛強《くつきやう》の勝地《しようち》であつた。彼《かれ》は在留《ざいりう》四|年間《ねんかん》に、殆《ほと》んど北陸《ほくろく》一|帶《たい》の民心《みんしん》を風靡《ふうび》した。而《しか》して端《はし》なく此《これ》が爲《た》めに、加賀《かが》の領主《りやうしゆ》富樫政親《とがしまさちか》と、衝突《しようとつ》を惹起《ひきおこ》した。
加賀《かが》は眞宗《しんしう》の別派《べつぱ》、高田專修寺《たかたせんしうじ》の勢力範圍《せいりよくはんゐ》であつた。然《しか》るに蓮如《れんによ》の下向《げかう》以來《いらい》、本願寺派《ほんぐわんじは》侵蝕《しんしよく》し來《きた》り、遂《つひ》に兩者《りやうしや》の葛藤《かつとう》を來《き》たし、領主《りやうしゆ》の裁決《さいけつ》を請《こ》うた。領主《りやうしゆ》が高田派《たかたは》に贔屓《ひいき》した爲《た》め、加賀《かが》の門徒《もんと》は、之《これ》を憤《いきどほ》りて、吉崎《よしざき》に赴《おもむ》き、蓮如《れんによ》に訴《うつた》へんとした。然《しか》るに其《そ》の仲介者《ちうかいしや》たる下間蓮宗《しもづまれんしう》は、此機《このき》に投《とう》じて富樫《とがし》を亡《ほろぼ》さんと企《くはだ》てた。此報《このはう》を聞《き》いた富樫《とがし》は、吉崎《よしざき》を逆襲《ぎやくしふ》せんとした。蓮如《れんによ》は蓮宗《れんしう》の隱謀《いんばう》の爲《た》めに、斯《かゝ》る危難《きなん》を挑發《てうはつ》したるを見《み》て、蓮宗《れんしう》を破門《はもん》し、文明《ぶんめい》七|年《ねん》八|月《ぐわつ》、六十一|歳《さい》の時《とき》、舟《ふね》にて若州《じやくしう》小濱《をはま》に逃《のが》れ、徒歩《とほ》丹後《たんご》、丹波《たんば》を經《へ》、攝州《せつしう》富田《とみた》に著《ちやく》し、更《さ》らに河内《かはち》出口《でぐち》に錫《しやく》を留《とど》めた。
彼《かれ》は其《そ》の機縁《きえん》を得《え》て、叡山《えいざん》とも交渉《かうせふ》を遂《と》げ、山科《やましな》に本願寺《ほんぐわんじ》を新築《しんちく》した。文明《ぶんめい》十|年《ねん》、六十四|歳《さい》の時《とき》に始《はじ》め、同《どう》十三|年《ねん》、六十七|歳《さい》の時《とき》に、大谷《おほたに》退轉《たいてん》以來《いらい》、十六|星霜《せいさう》を經《へ》て、之《これ》に移居《いきよ》し。翌年《よくねん》完成《くわんせい》した。
若《も》し吉崎道場《よしざきだうぢやう》が、北陸《ほくろく》の要塞《えうさい》であれば、山科本願寺《やましなほんぐわんじ》は、畿内《きない》の本城《ほんじやう》であらう。然《しか》るに彼《かれ》は決《けつ》して此《これ》にて滿足《まんぞく》せなかつた。明應《めいおう》五|年《ねん》、彼《かれ》が八十二|歳《さい》の時《とき》、大阪《おほさか》石山《いしやま》の地《ち》を相《さう》して、坊舍《ばうしや》を建立《こんりふ》した。此《これ》が後年《こうねん》本願寺《ほんぐわんじ》の、畿内《きない》、南海《なんかい》、四|國《こく》、中國《ちうごく》にかけて、其《そ》の勢力《せいりよく》の根據《こんきよ》となつた石山城《いしやまじやう》である。而《しか》して彼《かれ》は同《どう》八|年《ねん》、八十五|歳《さい》にて、山科《やましな》にて逝《ゆ》いた。
彼《かれ》の筆《ふで》は、其《そ》の死《し》する前年迄《ぜんねんまで》、傳道《でんだう》の爲《た》めに動《うご》いた。彼《かれ》が如何《いか》に精力家《せいりよくか》であつたかは、二十八|名《めい》の子女《しぢよ》を有《いう》した一|事《じ》でも、分明《ふんみやう》ぢや。而《しか》して其《そ》の十五|女《ぢよ》は、彼《かれ》が八十二|歳《さい》の時《とき》に生《うま》れ、其《そ》の十三|男《なん》は、彼《かれ》が八十四|歳《さい》の時《とき》に生《うま》れた。彼《かれ》は老《おい》て益《ますま》す壯《さかん》であつた。而《しか》して斯《かゝ》る多子女《たしぢよ》が、多妻《たさい》の結果《けつくわ》であつた事《こと》は、言《い》ふ迄《まで》もない。戒律《かいりつ》を旨《むね》とする釋門《しやくもん》の高僧《かうそう》としては、如何《いか》にも奇異《きい》の看《かん》を免《まね》かれぬ。併《しか》し眞宗《しんしう》其物《そのもの》の宗風《しうふう》よりし、且《か》つ當時《たうじ》の社會的《しやくわいてき》標準《へうじゆん》よりして、別段《べつだん》此《これ》を不思議《ふしぎ》と思《おも》ふ者《もの》もなかつたであらう。
話《はなし》は前《まへ》に返《かへ》りて、富樫《とがし》は蓮如《れんによ》の遁《に》げ去《さ》りたる跡《あと》の、吉崎道場《よしざきだうぢやう》に攻《せ》め入《い》つた。それから十四|年間《ねんかん》は、富樫《とがし》と一|向宗徒《かうしうと》との爭鬩《さうげき》、間斷《かんだん》なかつた。而《しか》して富樫《とがし》は、長享《ちやうきやう》元年《ぐわんねん》、將軍《しやうぐん》義尚《よしひさ》より門徒退治《もんとたいぢ》の教書《けうしよ》を得《え》、愈《いよい》よ之《これ》を殄滅《てんめつ》せんとした。然《しか》るに門徒側《もんとがは》では、却《かへつ》て之《これ》に激昂《げきかう》した。
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本願寺門類《ほんぐわんじもんるゐ》、最《もつとも》不安《ふあん》に思《おも》ひ、此上《このうへ》は力《ちから》なし、富樫《とがし》こそ法敵《はふてき》なれとて、長享《ちやうきやう》二|年《ねん》戊申《つちのえさる》、加賀《かが》は云《いふ》に不及《およばず》、能登《のと》、越中《ゑつちう》、其外《そのほか》諸國《しよこく》の類葉等《るゐえふとう》に廻文《くわいぶん》約束《やくそく》相極《あひきは》め、同年《どうねん》五月|下旬《げじゆん》に、一|揆《き》悉《こと/″\》く加州《かしう》石川郡《いしかはこほり》に打臨《うちのぞみ》、高尾城《たかをじやう》に推寄《おしよせ》て、晝夜《ちうや》數日《すうじつ》火水《ひみづ》になれと攻《せめ》ける程《ほど》に、富樫《とがし》既《すで》に討負《うちま》けて、六月九日|遂《つひ》に生害《しやうがい》し給《たま》ひぬ。
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とは、朝倉始末記《あさくらしまつき》の語《かた》る所《ところ》ぢや。此《これ》が蓮如《れんによ》の七十四|歳《さい》の時《とき》ぢや。而《しか》して此《これ》から加賀《かが》は、全《まつた》く門徒《もんと》の手《て》に歸《き》した。是《こゝ》に於《おい》て教權《けうけん》が、俗權《ぞくけん》と對抗《たいかう》したばかりでなく、教權《けうけん》乃《すなは》ち俗權《ぞくけん》を支配《しはい》する事《こと》となつた。是《こ》れも此《こ》の時代《じだい》の、特色《とくしよく》の一つと云《い》ふ可《べ》きであらう。
如何《いか》に彼《かれ》が一|代《だい》の間《あひだ》に、其《そ》の手《て》を擴《ひろ》げたかと云《い》ふ事《こと》は、山科《やましな》の本山《ほんざん》以外《いぐわい》、越前《ゑちぜん》の吉崎《よしざき》、攝津《せつつ》の石山《いしやま》、泉州《せんしう》堺《さかひ》、大和《やまと》の飯貝《いひがひ》、紀州《きしう》の鷺森《さぎのもり》、播州《ばんしう》の英賀《あが》、江州《がうしう》の大津《おほつ》、三|河《かは》の土呂《とろ》、河内《かはち》の出口《でぐち》等《とう》に、それ/″\の別院《べつゐん》等《とう》を新設《しんせつ》した事《こと》で、推察《すゐさつ》せらるゝであらう。看《み》て此《こゝ》に到《いた》れば、彼《かれ》は舊時代《きうじだい》の分解《ぶんかい》したる要素《えうそ》の中《うち》より、新組織《しんそしき》を打出《だしゆつ》したる、率先者《そつせんしや》の一|人《にん》であると云《い》ふ可《べ》きであらう。
蓮如上人に就て大谷光瑞師來翰の一節
〔前略〕蓮如上人の事は小生別に心附きたる事は御座無く候得共唯眞宗を永く保存流通せしむるには十分の武力を用ひざれば不可なりとの考へは有之しか如しその理由は數回異宗派の武士の爲め燒打をされたるによりその爲めこの感を深くしたるか如し、從て上人創始の道場はその當時に於ては盡く要塞たるべき地點を撰定致され候最も顯著なるは越前の吉崎と大阪の二地に御座候山科本願寺の如き平川の中に在る地すら寺院の東西には小溪流有之特に西方京都に面する方に於てはや※[#二の字点、1-2-22]傾斜をなし水を決せば池となるべき形勝也東方も西方程には御座なきも同樣傾斜面有之候この築城的手腕に由り作られたる寺院に門徒の團まりたるか信長同時に各所に勇將の手古づられたる所謂一向賊なるものに御座候唯惜むべきは子孫の優柔不斷にして此遺業を繼承大成するものなく所謂一向賊に終り積極的に團結する能はず遂に徳川氏の懷柔去勢の爲め今日の衰頽を招きたる次第に御座候小生は眞宗は徳川氏に入りてより死亡し唯その形骸に貴族的高僧的の粉飾をなせるのみにして親鸞聖人の開宗も蓮如上人の中興も皆堙滅し唯舊骸のみ殘り生氣之無く候と存候
末世の護法は持戒と弓矢劍戟にありとの涅槃經の佛説を奉する弟子の少なきには慨嘆仕候眞宗の眞生命は宗祖の開宗にあり明々なから蓮如上人はこの實行者にして要は簡にして速なるにあり高僧的の粉飾は兩師とも尤も排斥したる所に御座候今日の眞宗は全く僞者の樣に小生の眼に相見申候つまらぬ事を申上恐懼千萬に御座候 艸※[#二の字点、1-2-22]
  大正七年六月二十日
    蘇峰先生 机下


【一〇】和寇(一)
必《かなら》ずしも足利時代《あしかゞじだい》の特産《とくさん》とは云《い》はれまい。和寇《わこう》は高麗朝時代《こまてうじだい》にも、屡《しばし》ば朝鮮《てうせん》を侵《をか》した。南宋時代《なんそうじだい》にも、支那《しな》の奸民《かんみん》と提携《ていけい》して、其《そ》の沿岸《えんがん》を剽掠《へうりやく》した。但《たゞ》し大袈裟《おほげさ》に和寇《わこう》として、支那《しな》、朝鮮《てうせん》の邊海《へんかい》を荒《あ》れ廻《ま》はり、其《そ》の沿岸《えんがん》は勿論《もちろん》、時《とき》としては内地《ないち》迄《まで》も、深入《ふかいり》したのは、南北朝《なんぼくてう》以來《いらい》、足利氏《あしかゞし》の末期《ばつき》迄《まで》の事《こと》ぢや。石《いし》を地中《ちちう》に投《とう》ずれば、其《そ》の波動《はどう》が周邊《しうへん》に及《およ》ぶが如《ごと》く、國内《こくない》の動搖《どうえう》が海外《かいぐわい》に波及《はきう》したものぢや。國内《こくない》の秩序《ちつじよ》が、紊亂《ぶんらん》すればする程《ほど》、其《そ》の波動《はどう》の程度《ていど》を大《だい》ならしめた。
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四十|餘年《よねん》が間《あひだ》、本朝《ほんてう》大《おほい》に亂《みだれ》て、外國《ぐわいこく》暫《しばらく》も靜《しづか》ならず。此《この》動亂《どうらん》に事《こと》を寄《よせ》て、山路《さんろ》には山賊《さんぞく》ありて、旅客《りよかく》緑林《りよくりん》の陰《かげ》を過《すぎ》得《え》ず。海上《かいじやう》には海賊《かいぞく》多《おほ》くして、船人《ふなびと》白浪《しらなみ》の難《なん》を去《さり》兼《かね》たり。欲心《よくしん》強盛《ごうせい》の溢者《あぶれもの》ども、類《るゐ》を以《もつ》て集《あつま》りしかば、浦々《うら/\》島々《しま/″\》多《おほ》く盜賊《たうぞく》に押取《おしとら》れて、驛路《うまやぢ》に驛屋《うまや》の長《をさ》もなく、關屋《せきや》に關守人《せきもりひと》を易《かへ》たり。結句《けつく》此《こ》の賊《ぞく》徒數《とすう》千|艘《そう》の船《ふね》をそろへて、元朝《げんてう》高麗《こま》の津々《つゝ》泊々《とまり/″\》に押寄《おしよせ》て、明州《めいしう》福州《ふくしう》の財寶《ざいほう》を奪取《うばひとり》、官舍《くわんしや》寺院《じゐん》を燒《やき》ける間《あひだ》、元朝《げんてう》三|韓《かん》の吏民《りみん》、是《これ》を防《ふせぎ》兼《かね》て、浦《うら》近《ちか》き國々《くに/\》數《すう》十|箇國《かこく》、皆《みな》住人《すみびと》もなく荒《あれ》にけり。
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とは、南北朝《なんぼくてう》當時《たうじ》の情態《じやうたい》を叙《じよ》したる、太平記《たいへいき》の一|節《せつ》ぢや。元末《げんまつ》の衰運《すゐうん》に附《つ》け入《い》りたる和寇《わこう》は、明朝《みんてう》の興運《こううん》に際《さい》しても、毫《がう》も減退《げんたい》せず、愈《いよい》よ其《そ》の猖獗《しやうけつ》を逞《たくまし》うした。明《みん》の太祖《たいそ》は、先《ま》づ其《そ》の取締《とりしまり》を、征西將軍《せいせいしやうぐん》懷良親王《かねながしんわう》に掛合《かけあ》うたが、要領《えうりやう》を得《え》なかつたから、更《さ》らに將軍《しやうぐん》義滿《よしみつ》に申込《まをしこ》んだ。義滿《よしみつ》は之《これ》を奇貨《きくわ》として、對明貿易《たいみんばうえき》の利《り》を占《し》めん爲《た》め、書幣《しよへい》を通《つう》じた。此《こ》れが永樂帝《えいらくてい》より正朔《せいさく》と、日本國王《にほんこくわう》の爵位《しやくゐ》を受《う》け、彼《かれ》が自《みづ》から臣《しん》と稱《しよう》するに至《いた》つた、最初《さいしよ》の動機《どうき》である。
此《こ》れも時《とき》に取《と》りての方便抔《はうべんなど》と、辯護《べんご》する輩《はい》もあらう。併《しか》し辯護《べんご》する丈《だけ》が野暮《やぼ》ぢや。義滿《よしみつ》が病《やまひ》に臥《ふ》すや、卜者《ぼくしや》は是《こ》れ彼《かれ》が外國《ぐわいこく》と交通《かうつう》し、暦《れき》及《およ》び其《そ》の册書《さくしよ》を受《う》けたる神譴《しんけん》であると云《い》うたとは、彼《かれ》の相續者《さうぞくしや》義持《よしもち》が、明《みん》に對《たい》する斷交《だんかう》の主旨《しゆし》であつた。是《こ》れは辭柄《じへい》であつたかも知《し》れぬ。但《た》だ當時《たうじ》に於《おい》ても、義滿《よしみつ》の仕打《しうち》には、神《かみ》は兎《と》も角《かく》も、人《ひと》の異議《いぎ》があつた事《こと》は明白《めいはく》ぢや。
然《しか》るに義教《よしのり》の時《とき》にも、相變《あいかは》らず、明廷《みんてい》に向《むか》つて、自《みづ》から日本國王《にほんこくわう》と云《い》ひ、臣《しん》と稱《しよう》し、義政《よしまさ》に至《いた》りては『守在[#二]遐方[#一]、專存[#二]外衞[#一]、屬國多[#レ]虞?、有[#レ]稽[#二]職貢[#一]。』抔《など》と云《い》ひ、全《まつた》く日本《にほん》を、支那《しな》の屬國《ぞくこく》としての立場《たちば》に措《お》いた。之《これ》を推古天皇《すゐこてんわう》の隋《ずゐ》の皇帝《くわうてい》に向《むか》ひ、『日出處天子、致[#二]書日沒處天子[#一]。』と宣《のたま》ひたるに比《ひ》すれば、足利氏《あしかゞし》が累葉《るゐえふ》、國體《こくたい》を傷《きずつ》けたる汚點《をてん》は、終古《しうこ》洗《あら》ひ去《さ》る※[#「こと」の合字、51-13]は能《あた》はぬ。然《しか》も義政《よしまさ》は、國用多端《こくようたたん》を名《な》として、頻《しきり》に明《みん》に錢《ぜに》を乞《こ》うた。彼《かれ》は最初《さいしよ》に銅錢《どうせん》五萬|文《もん》を得《え》た。此《これ》に味《あぢ》を占《し》めて、更《さら》に十萬|貫《ぐわん》を請《こ》うたが、明帝《みんてい》の答《こたへ》は却《かへつ》て『物薄情厚、以[#レ]小事[#レ]大之誠、良不[#レ]在[#レ]物也。』の文句《もんく》にて、其《そ》の進貢品《しんこうひん》―事實《じじつ》を云《い》へば、貿易品《ばうえきひん》―を制限《せいげん》して、毫《がう》も銅錢《どうせん》の事《こと》には及《およ》ばなかつた。高等乞食《かうとうこじき》も、閉口《へいこう》したであらう。
斯《かゝ》る時世《じせい》に於《おい》て、支那《しな》に對《たい》し、若《も》し日本《にほん》の氣焔?《きえん》を吐《は》くものがあつたとすれば、和寇《わこう》の他《ほか》にない。和寇《わこう》は海上《かいじやう》では海賊《かいぞく》、陸上《りくじやう》では陸賊《りくぞく》、苟《いやしく》も賊《ぞく》とあれば、讃美《さんび》す可《べ》き生業《せいげふ》ではない。併《しか》し如何《いか》に大和民族《やまとみんぞく》が、東洋《とうやう》に於《おい》て、勇猛《ゆうまう》、果敢《くわかん》の民族《みんぞく》であるかを證明《しようめい》するには、彼等《かれら》は活《い》ける證人《しようにん》であつた。一|方《ぽう》には征夷大將軍《せいいたいしやうぐん》が、明廷《みんてい》に臣事《しんじ》し、明廷《みんてい》の鼻息《びそく》を覗《うかゞ》うて、其《そ》の銅錢《どうせん》、物貨《ぶつくわ》を得《う》るに汲々《きふ/\》たるに反《はん》し、他方《たはう》には八幡《ばはん》の旗《はた》を押《お》し立《た》てたる海賊大將軍《かいぞくたいしやうぐん》が、腕力《うでぢから》にて支那沿岸《しなえんがん》を荒《あ》れ廻《まは》つた。
一|口《くち》に沿岸《えんがん》と云《い》へば、それ迄《まで》だが、渤海灣《ぼつかいわん》より山東角《さんとうかく》を越《こ》えて、江蘇《かうそ》、浙江《せつかう》等《とう》より揚子江《やうすかう》、大運河《だいうんか》の中心《ちうしん》にも飛《と》び込《こ》み、福建《ふくけん》、廣東《かんとん》、延《ひ》いて南洋《なんやう》にも及《およ》んだ。言《い》ひ換《か》ふれば、征夷大將軍《せいいたいしやうぐん》の爲《た》めに、失墜《しつつい》したる國權《こくけん》の幾分《いくぶん》は、變則《へんそく》ながらも、海賊大將軍《かいぞくたいしやうぐん》の爲《た》めに、恢復《くわいふく》したと云《い》うてもよからう。要《えう》するに和寇《わこう》其物《そのもの》が、國力《こくりよく》を膨脹《ばうちやう》せしめたとは、云《い》ふ※[#「こと」の合字、53-3]が能《あた》はぬにせよ、少《すくな》くとも膨脹《ばうちやう》の先觸《さきぶれ》と云《い》ふ可《べ》きであらう。和寇《わこう》は足利《あしかゞ》亂世《らんせい》の産物《さんぶつ》であつて、又《ま》た國運伸長《こくうんしんちやう》の媒介《ばいかい》であつた。
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明國と通信兩朝の書翰
大明書

[#レ]天承[#レ]運
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皇帝詔曰覆載之間、土地之廣、不[#レ]可[#二]以數計[#一]、古聖人彊而理[#レ]之、於[#下]貢[#二]賦力役[#一]、知[#上]禮義[#一]、達[#二]於君臣父子大倫[#一]者、號曰[#二]中國[#一]、而中國之外、有[#二]能慕[#レ]義而來王者[#一]、未[#三]甞不[#二]予而進[#一レ]之、非[#レ]有[#レ]他也、所[#下]以牽[#二]天下[#一]、同歸[#中]于善道[#上]也、朕自[#レ]嗣[#二]大位[#一]、四夷君長朝献者?、以[#二]十百[#一]計、苟非[#レ]戻[#二]於大義[#一]、皆思[#三]以[#レ]禮撫[#二]柔之[#一]、?爾日本國王源道義心存[#二]王室[#一]、懷[#二]愛[#レ]君之誠[#一]、踰[#二]越波濤[#一]、遣[#レ]使來朝、歸[#二]逋流人[#一]、貢[#二]寶刀、駿馬、甲冑、紙硯[#一]、副以[#二]良金[#一]、朕甚嘉[#レ]焉、日本素稱[#二]詩書國[#一]、常在[#二]朕心[#一]、第軍國事殷、未[#レ]暇[#二]存問[#一]、今王能慕[#二]禮義[#一]、且欲[#レ]爲[#二]國敵愾[#一]、非[#レ]篤[#二]於君臣之道[#一]、疇克臻[#レ]?、今遣[#二]使者道?一如[#一]、班[#二]示大統暦[#一]、俾[#レ]奉[#二]正朔[#一]、賜[#二]錦綺二十匹[#一]、至可[#レ]領也、嗚呼天無[#二]常心[#一]、惟敬是懷、君無[#二]常好[#一]、惟忠是綏、朕都[#二]江東[#一]、於[#二]海外國[#一]、惟王爲[#二]最近[#一]、王其悉[#二]朕心[#一]、盡[#二]乃心思[#一]、恭思順、以篤[#二]大倫[#一]、母[#レ]容[#二]逋逃[#一]、母[#レ]縱[#二]姦?[#一]、俾[#下二]天下[#一]以[#二]日本[#一]爲[#中]忠義之邦[#上]、則可[#レ]名[#二]于永世[#一]矣、王其敬[#レ]之以貽[#二]子孫之福[#一]、故?詔諭?、宜[#レ]體[#三]眷懷[#一]、
 建文四年二月初六日
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同九年
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日本國王臣源
表臣聞、太陽升[#レ]天、無[#二]幽不[#一レ]燭、時雨霑[#レ]地、無[#二]物不[#一レ]滋、矧大聖人、明並[#二]曜英[#一]、恩均[#二]天澤[#一]、萬方?[#レ]化、四海歸[#レ]仁、欽惟大明皇帝陛下、紹[#二]堯聖神[#一]、邁[#二]湯智勇[#一]、?[#二]定弊亂[#一]、甚[#二]於建[#一レ]?、?整[#二]頓乾坤[#一]、易[#二]於返[#一レ]掌、啓[#二]
中興之洪業[#一]、當[#二]太平之昌期[#一]、雖[#三]
垂?深居[#二]
北關之尊[#一]、而
皇威遠暢[#二]東濱之外[#一]、是以謹使[#二]僧圭密梵雲明空通事徐本元[#一]、仰觀[#二]
清光[#一]、伏?[#二]方物[#一]、生馬貮拾匹、硫?壹萬斤、馬腦大小參拾貮塊、計貮百斤、金屏風三副、?壹千柄、太刀壹佰把、鎧壹領、厘?硯一面、??扇壹佰把、爲[#レ]此謹具、

聞臣源
 年號 日    日本國王臣源
右應永八年以來、兩國通[#レ]信、建文永樂、兩朝來書、數通、見[#二]于左方[#一]、然日本書表、今纔得[#二]二通[#一]、此表其一也、表末不[#レ]記[#二]年號[#一]、盖天倫一庵歸國日、日本又令[#下二]密堅中[#一]隨[#レ]之行[#上]、恐此時表乎、又不[#レ]知此表何人製[#レ]之、訴笑雲曰、天龍寺永育書記堅中弟子、甞謂[#レ]人曰、我師三通[#二]使命於大明[#一]、其表皆我師所[#レ]作也、予謂此説必然、堅中壯年遊[#二]大明[#一]、能通[#二]方言[#一]、歸朝後、?通[#二]使命[#一]、如[#二]其應永年中[#一]、隨[#二]天倫一庵[#一]行、則謝[#二]建文帝來使[#一]之意也、然及[#レ]至[#二]彼國[#一]、永樂帝新即[#レ]位、天倫一庵爲[#二]前帝使[#一]、纔入[#レ]國耳、不[#レ]得[#二]反命[#一]、於[#レ]是堅中號[#下]賀[#二]新主[#一]之使[#上]、仍通[#二]此表[#一]也、彼國以[#二]吾國將相[#一]爲[#レ]王、盖推尊之義、不[#二]必厭[#一レ]之、今表中自稱[#レ]王、則此用[#二]彼國之封[#一]也、無乃不可乎、又用[#二]臣字[#一]非也、不[#レ]得[#レ]已、則日本國之下、如常當[#レ]書[#二]官位[#一]、其下氏與[#レ]諱之間、書[#二]朝臣二字[#一]、可乎、盖此方公卿恒例、則臣字、屬[#二]於吾皇[#一]而已、可[#下]以避[#中]臣[#二]於外國[#一]之嫌[#上]也、又近時遣[#二]大明[#一]表末、書[#二]彼國年號[#一]、或非乎、吾國年號、多載[#二]于唐書玉海等書[#一]、彼方博物君子、當[#レ]知[#下]此國自[#二]中古[#一]、別有[#中]年號[#上]、然則義當[#レ]用[#二]此國年號[#一]、不[#レ]然、ハ不[#レ]書[#二]年號[#一]、惟書[#二]甲子[#一]乎、此兩國上古、無[#二]年號[#一]時之例也、凡兩國通好之義、非[#下]林下可[#二]得而義[#一]者[#上]、若[#二]國王通[#一レ]信、則書當[#レ]世[#二]於朝廷[#一]、代言[#レ]之乎、近者大將軍、爲[#レ]利[#レ]國故、竊通[#二]書信[#一]、大抵以[#レ]僧爲[#レ]使、其書亦出[#二]於僧中[#一]爾、大外記清三位業忠近代博學之士也、與[#レ]予從遊者三十餘年矣、以[#二]向所謂年號、及朝臣二事[#一]告[#レ]之、三位以爲[#レ]是、且記[#二]於此[#一]諭?[#下]異日預[#二]此事[#一]者[#上]云、〔善隣國實記〕
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皇帝勅[#二]諭日本國王源義政[#一]、得[#下]奏[#二]本國經[#レ]亂、公庫索然[#一]、要[#二]照永樂年間事例[#一]、給[#二]賜銅錢[#一]、賑施等因[#レ]事下[#二]禮部[#一]査[#上]、無[#二]給賜之例[#一]、而使臣妙茂等、復懇?具奏、?不[#レ]違[#二]王意[#一]、特賜[#二]銅錢五萬文[#一]、付[#二]妙茂等[#一]領囘?、至可[#二]收用[#一]、故諭?
戌化十四年二月初九日 〔續善隣國實記〕
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皇帝勅[#二]諭日本國王源義政[#一]、?歳?羅等國、差[#二]使臣[#一]進貢回還、其通事夷人、多不[#レ]守[#二]禮法[#一]、沿途夾[#二]帶船隻[#一]、裝[#二]載私監[#一]、收[#二]買人口[#一]、姦淫?辱、又爭搶浩閙、刄[#二]傷平人[#一]、事發、守臣具奏、欲[#二]擒?問[#一レ]罪、朕念係[#二]遠人[#一]、姑從[#二]寛貸[#一]、但勅[#二]彼國王[#一]懲治、今次王差[#レ]人來貢、倶以[#レ]禮宴賞而回、前項事情、不[#レ]可[#レ]不[#レ]達[#二]王知[#一]、今後王差[#二]使臣通事人等[#一]、須[#レ]?[#下]知[#二]大體[#一]守[#二]禮法[#一]者[#上]、量帶[#二]夷伴[#一]、嚴加[#二]戒飾[#一]、俾[#二]其沿途往還[#一]、小心安[#レ]分、母[#レ]作[#二]非爲[#一]、以盡[#二]奉使之禮[#一]、以申[#二]納?之忱[#一]、其進貢?搭物件、禮部奏請、以後不[#レ]許[#二]過多[#一]、只照[#二]宣徳年間事例[#一]、各樣刀?、總不[#レ]過[#二]三十(原作千)把[#一]、庶彼此兩充[#二]勞費[#一]、朕已允、所[#レ]請亦達[#二]王知[#一]、蓋古稱、厚往薄來、又云、物薄情厚、以[#レ]小事[#レ]大之誠、良不[#レ]在[#レ]物也、王其體[#二]朕至懷[#一]、故諭
[#ここで字下げ終わり]
戌化二十一年二月十五日
勅[#二]諭日本國源義政[#一]、〔續善隣國實記〕
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箱者、二尺三寸五分餘、内黒漆一反塗[#レ]之、外赤漆一反塗[#レ]之、長二尺二寸五分、黄紙書之上卷押[#レ]之、
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【一一】和寇(二)
分析《ぶんせき》すれば和寇《わこう》は、單純《たんじゆん》の要素《えうそ》でない。當初《たうしよ》より海賊專門業者《かいぞくせんもんげふしや》もあらう、又《ま》た當座《たうざ》の行《ゆ》き掛《がゝ》りの爲《た》め、斯《か》くなりたるものもあらう。乃《すなは》ち玄人《くろうと》と、素人《しろうと》との差別《さべつ》がある。一|例《れい》を擧《あ》ぐれば、大永《たいえい》七|年《ねん》、明《みん》の嘉靖《かせい》六|年《ねん》六|月《ぐわつ》、大内義興《おほうちよしおき》の使者僧《ししやそう》宗設《さうせつ》が寧波《ニンポ》に達《たつ》した。數日《すじつ》の後《のち》、細川高國《ほそかはたかくに》の使者僧《ししやそう》瑞佐《ずゐさ》、及《およ》び明人《みんじん》の日本《にほん》に歸化《きくわ》したる宋素卿《そうそけい》が著《ちやく》した。從來《じうらい》の例《れい》では到著順《たうちやくじゆん》に、閲貨筵席《えつくわえんせき》を開《ひら》いたが、素卿《そけい》が市舶太監《しはくたいかん》に賄賂《まひなひ》した爲《た》めに、後者《こうしや》却《かへつ》て先《さき》となつた。そこで宗設《そうせつ》は立腹《りつぷく》し、太監等《たいかんら》を殺《ころ》し、寧波《ニンポ》、紹興《せうこう》を掠《かす》め、其城《そのしろ》を占領《せんりやう》し、日本國《にほんこく》の名《な》によりて、其《そ》の府庫《ふこ》を封《ふう》じ、淹留《えんりう》旬日《じゆんじつ》、帆《ほ》を揚《あ》げて去《さ》つた。諺《ことわざ》に居直《ゐなほ》り強盜《がうたう》と云《い》ふが、此等《これら》は居直《ゐなほ》り和寇《わこう》である。
元來《ぐわんらい》明國《みんこく》との通商《つうしやう》は、義滿《よしみつ》時代《じだい》、勘合信《かんがふしん》一百|通《つう》を送《おく》り、十|年《ねん》一|貢《こう》、其《そ》の人員《じんゐん》二百|人《にん》を限《かぎ》つた。義教《よしのり》の時《とき》には、船《ふね》は三|隻《せき》、人《ひと》は三百|人《にん》と限《かぎ》つた。義政《よしまさ》の時《とき》には、進貢船《しんこうせん》の物貨《ぶつくわ》、彌《いよい》よ多《おほ》きを加《くは》へ、明廷《みんてい》にても其《そ》の代償《だいしやう》の嵩《かさ》むを厭《いと》ひ、一|方《ぱう》には進貢品《しんこうひん》を制限《せいげん》し、且《か》つ其《そ》の償價《しやうか》をも輕減《けいげん》した。そこで使者《ししや》と、明廷《みんてい》との間《あひだ》に、?《しばし》ば折衝《せつしよう》があり、衝突《しようとつ》が起《おこ》つた。明廷《みんてい》が使者《ししや》の刀劍《たうけん》三千|把《ぱ》に過《す》ぐるを得《え》ずとしたるも、此間《このかん》の消息《せうそく》が推察《すゐさつ》せらるゝ。
進貢船《しんこうせん》には、大内《おほうち》、細川《ほそかは》諸家《しよけ》の附搭品《ふたふひん》を附載《ふさい》した。又《ま》た進貢船《しんこうせん》に隨行《ずゐかう》する商人《しやうにん》の、類船《るゐせん》もあつた。而《しか》して所謂《いはゆ》る私設進貢船《しせつしんこうせん》の類《るゐ》も、別《べつ》に多《おほ》かつたであらう。
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倭性點?、時載[#二]方物戎器[#一]出[#二]沒海濱[#一]、得[#レ]間則張[#二]其戎器[#一]而?[#二]侵掠[#一]、不[#レ]得則陳[#二]其方物[#一]而稱[#レ]貢、東南海濱患[#レ]之。
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とは、蓋《けだ》し彼等《かれら》の和戰兩樣《わせんりやうやう》の支度《したく》にて、支那邊海《しなへんかい》を往來《わうらい》した模樣《もやう》が、當時《たうじ》の支那人《しなじん》の目《め》に映《えい》じた文句《もんく》ぢや。都合善《つがふよ》ければ、平和《へいわ》の貢使《こうし》ぢや。都合惡《つがふわる》ければ、海賊《かいぞく》ぢや。
其後《そのご》明《みん》は進貢船《しんこうせん》の來往《らいわう》に惱殺《なうさつ》せられ、其《そ》の市舶《しはく》を禁《きん》じたが爲《た》め、却《かへつ》て密商《みつしやう》を獎勵《しやうれい》する事《こと》となつた。然《しか》るに密商《みつしやう》の弱味《よわみ》に附《つ》け込《こ》み、支那側《しながは》にては、其物《そのもの》を取《と》りて、代《だい》を拂《はら》はぬ横著者《わうちやくもの》も少《すくな》くなかつた。慓悍《へうかん》なる大和男兒《やまとだんじ》が、いかで指《ゆび》を啣《くは》へて引《ひ》き込《こ》む可《べ》き。密商獎勵《みつしやうしやうれい》は、一|轉《てん》して和寇獎勵《わこうしやうれい》となつた。然《しか》も此《これ》には止《とゞま》らぬ。遂《つひ》には彼國《かのくに》の奸民等《かんみんら》が、和寇《わこう》を誘致《いうち》し、和寇《わこう》の名《な》を藉《か》りて、亂暴《らんばう》を逞《たくまし》うした。彼《か》の有名《いうめい》なる王直《わうちよく》の如《ごと》きは、其《そ》の巨魁《きよくわい》ぢや。
元來《ぐわんらい》瀬戸内海《せとないかい》は、海賊《かいぞく》の搖籃《えうらん》である。土佐日記《とさにつき》を見《み》れば、王朝以來《わうてういらい》此《こ》の附近《ふきん》に海賊《かいぞく》の横行《わうかう》した事《こと》が分《わか》る。南北朝時代《なんぼくてうじだい》には、此《こ》の附近《ふきん》の海賊《かいぞく》は、海賊大將軍《かいぞくたいしやうぐん》の名《な》の下《もと》に、村上《むらかみ》三|郎左衞門義弘《らうざゑもんよしひろ》の爲《た》めに、統《とう》一された。彼《かれ》が死《し》してから、南朝《なんてう》の元老《げんらう》北畠親房《きたばたけちかふさ》の孫《まご》、顯家《あきいへ》の子《こ》、山城守師清《やましろのかみもろきよ》が、之《これ》に代《かは》つた。彼等《かれら》は内海《ないかい》の小仕事《こしごと》では、到底《たうてい》其《そ》の力《ちから》を?《あ》かしむることが出來《でき》ぬ。そこで朝鮮《てうせん》、支那《しな》の方面《はうめん》に出掛《でか》けたのであらう。大内義興《おほうちよしおき》が、朝鮮《てうせん》を伐《うつ》て、全羅道《ぜんらだう》の貢物《みつぎもの》を、其家《そのいへ》に納《をさ》めしむるに至《いたつ》たのも、此等《これら》海賊《かいぞく》を驅《か》り催《もよほ》した爲《た》めである。而《しか》して此《こ》の海賊《かいぞく》の流派《りうは》が、秀吉時代《ひでよしじだい》、我《わ》が水軍《すゐぐん》の素地《そち》をなした。
[#ここから1字下げ]
夫《それ》日本《にほん》の國俗《こくぞく》たる事《こと》、驕武《けうぶ》にして、居《きよ》常《じやう》に兵《へい》を身《み》に備《そな》へて、以《もつ》て不虞《ふぐ》を待《ま》つ。故《ゆゑ》に舟子《しうし》販夫《はんぷ》と云《い》へども、亦《ま》た自《おのづか》ら兵事《へいじ》に馴《な》れて、戰《たゝかひ》を好《この》むの意《い》あり。是《これ》を以《もつ》て海賊《かいぞく》?※[#二の字点、1-2-22]《しば/\》外邦《ぐわいはう》へ出《い》でゝ、戰《たゝかひ》を決《けつ》し勝《かち》を取《と》ること多《おほ》からずとせず。殊《こと》に能島《のしま》は水軍《すゐぐん》を職《つかさ》どつて、世《よ》に勇謀《ゆうばう》をあらはし、練習《れんしふ》の功《こう》なる故《ゆゑ》に、水兵《すゐへい》を用《もち》ふる道《みち》に於《おい》ては、倭漢《わかん》に獨立《どくりつ》せり。
[#ここで字下げ終わり]
とは、南海治亂記《なんかいちらんき》の一|節《せつ》也《なり》。多少《たせう》の誇張《くわちやう》はありとするも、海賊《かいぞく》が水上《すゐじやう》を見《み》る陸地《りくち》の如《ごと》く、天涯《てんがい》を見《み》る比隣《ひりん》の如《ごと》く、所謂《いはゆ》る萬里《ばんり》の波濤《はたう》を開拓《かいたく》するの先驅者《せんくしや》であつた事《こと》は、爭《あらそ》ふ可《べか》らざる事實《じじつ》ぢや。
明《みん》の謝肇?《しやてうせい》は、『莫[#レ]悍[#二]於韃靼[#一]、莫[#レ]狡[#二]於倭奴[#一]、惟有[#二]北虜南倭[#一]、震隣可[#レ]慮。』と云《い》うて居《を》る。
要《えう》するに和寇《わこう》は、日本《にほん》の組織《そしき》せられたる遠征軍《ゑんせいぐん》でなく、内海《ないかい》の海賊共《かいぞくども》や、又《ま》た種々《しゆ/″\》の彌次馬《やじうま》、浮浪《ふらう》、溢者《あぶれもの》を交《まじ》へたものに過《す》ぎぬ。其《そ》の入寇《にふこう》の順路《じゆんろ》は、一は對馬《つしま》より、朝鮮《てうせん》を經《へ》、遼東總路《りやうとうそうろ》に入《い》るもの、二は五|島《たう》より直浙總路《ちよくせつそうろ》に入《い》るもの、三は薩摩《さつま》より?廣《びんくわう》に入《い》るものであつた。何《いづ》れも春《はる》は清明《せいめい》の後《のち》、秋《あき》は重陽《じ?やうやう》の後《のち》、順風《じゆんぷう》に乘《じよう》じて往寇《わうこう》した。堂々《だう/\》たる明國《みんこく》が、二百|餘年間《よねんかん》、殆《ほと》んど寧日《ねいじつ》なく、其《そ》の國力《こくりよく》を傾《かたむ》けて、之《これ》に應酬《おうしう》し、空《むな》しく奔命《ほんめい》に疲《つか》れ、自《みづ》から斃《たふ》るゝに瀕《ひん》した事《こと》は、和寇《わこう》の侮《あなど》り難《がた》き勢力《せいりよく》の證馮《しようひよう》と云《い》はねばならぬ。


【一二】都市の發達
天下《てんか》は亂《みだ》れて麻《あさ》の如《ごと》しだ。匪徒《ひと》は横行《わうかう》した、百|姓《しやう》は疲弊《ひへい》した、群雄《ぐんゆう》は割據《かつきよ》して、互《たが》ひに鎬《しのぎ》を削《けづ》つた。盜賊《たうぞく》は禁中《きんちう》の内侍所《ないしどころ》に入《い》りて、物《もの》を掠《かす》め去《さ》つた。公卿《くげ》の邸宅《ていたく》には、亂民《らんみん》が押入《おしい》りした。宣陽殿《せんやうでん》陣座邊《ぢんのざへん》にさへ、假屋《かりや》を設《まう》け、公卿殿上人《くげでんじやうびと》を置《お》きて、守護《しゆご》せしめねばならぬ體《てい》たらくだ。但《た》だ斯《かゝ》る世《よ》の中《なか》に於《おい》ても、富《とみ》の聚《あつ》まる所《ところ》は、人《ひと》の聚《あつ》まる所《ところ》ぢや。關東《くわんとう》に於《おい》ては、北條氏《ほうでうし》の治下《ちか》たる小田原《をだはら》や、關西《くわんさい》に於《おい》ては、大内氏《おほうちし》の首府《しゆふ》たる山口《やまぐち》や、其《そ》の繁昌《はんじやう》は、目覺《めざ》ましかつた。
北條氏《ほうでうし》は、伊勢《いせ》新《しん》九|郎《らう》が、駿河《するが》の今川氏《いまがはし》を頼《たよ》りて、一|浪客《らうかく》の身《み》より、其子《そのこ》氏綱《うぢつな》、其孫《そのまご》氏康《うぢやす》に至《いた》り、關東《くわんとう》に龍蟠虎踞《りうばんこきよ》した。其《そ》の收入《しうにふ》は、百萬|石《ごく》乃至《ないし》、百五十萬|石《ごく》と云《い》ふ見當《けんたう》で、何《いづ》れにしても此處《こゝ》が關東《くわんとう》に於《お》ける、政權《せいけん》の中心點《ちうしんてん》である如《ごと》く、又《ま》た富《とみ》の中心點《ちうしんてん》となつた。
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關東《くわんとう》は永享《えいきやう》九|年《ねん》、足利持氏《あしかゞもちうぢ》の亂後《らんご》、鎌倉《かまくら》凋弊《てうへい》して、北條家《ほうでうけ》の小田原《をだはら》大《おほい》に繁昌《はんじやう》し、津々浦々《つゝうら/\》の町人《ちやうにん》、職人《しよくにん》、西國《さいこく》、北國《ほくこく》より群《むらが》り來《きた》り、一|色《しき》より、板橋《いたばし》に至《いた》るまで、其間《そのかん》一|里《り》の程《ほど》に、棚《たな》を張《は》り、賣買《ばいばい》數《かず》を盡《つく》しける。山海《さんかい》の珍物《ちんぶつ》、琴碁《ぎんき》、書畫?《しよぐわ》の細工《さいく》に至《いた》るまで、盡《つ》きずといふことなし。異國《いこく》の唐物《たうぶつ》、未《いま》だ目《め》に見《み》ず、未《いま》だ聞《きゝ》も及《およ》ばざる器物《きぶつ》を、幾等《いくら》といふことなく積置《つみお》きたり。交易《かうえき》賣買《ばいばい》の利潤《りじゆん》、四|條《でう》五|條《でう》の辻《つじ》に過《す》ぎたり。
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此《この》舊記《きうき》〔小田原記〕を五|割引《わりびき》に見《み》ても、其《そ》の繁昌《はんじやう》が思《おも》ひやらるゝ。
山口《やまぐち》は如何《いか》にと云《い》ふに、大内氏《おほうちし》は、中國《ちうごく》、九|州《しう》の咽吭《いんかう》を制《せい》し、石見《いはみ》の銀山《ぎんざん》を所有《しよいう》し、朝鮮《てうせん》や、明《みん》の貿易《ぼうえき》の利《り》を專《もつぱ》らにし、其《そ》の富《とみ》は天下《てんか》に冠《くわん》たりとも云《い》ふ勢《いきほひ》であつた。されば山口《やまぐち》を以《もつ》て京都《きやうと》に擬《ぎ》し、一|切《さい》の生活《せいくわつ》が、全《まつた》く上方風《かみがたふう》を丸寫《まるうつ》しにした。歴々《れき/\》の公卿抔《くげなど》も、大内氏《おほうちし》を便《たよ》つて來《き》た。堪能《たんのう》なる諸職《しよしよく》の名人《めいじん》や、縫物《ぬひもの》、織染《しよくせん》、彫刻《てうこく》の類《るゐ》まで、其《そ》の專門《せんもん》の者《もの》を呼《よ》び下《く》だした。四|方《はう》よりは諸商人《しよしやうにん》到來《たうらい》して、日毎《ひごと》に市《いち》を立《た》てゝ賣買《ばいばい》した。時《とき》の人《ひと》が山口《やまぐち》をば、中國《ちうごく》の花都《はなのみやこ》と申《まを》したのも、理《ことわ》りであらう。
併《しか》し此《こ》の二|者《しや》は、大名《だいみやう》の城下市《じやうかまち》たるに過《す》ぎぬ。堺《さかひ》の發達《はつたつ》は、全《まつた》く純然《じゆんぜん》たる都市《とし》としての發達《はつたつ》ぢや。堺《さかひ》は實《じつ》に、町人《ちやうにん》の王國《わうこく》であつた。堺《さかひ》の市民《しみん》は、其《その》富《とみ》を以《もつ》て、自立《じりつ》、自衞《じゑい》した許《ばか》りでなく、自衞《じゑい》の方便《はうべん》に、武士《ぶし》をも買收《ばいしう》した。戰國《せんごく》の時代《じだい》でも、黄金《わうごん》は尚《な》ほ其《そ》の神威《しんゐ》を保《たも》つて居《ゐ》た。堺《さかひ》は何故《なにゆゑ》に斯《か》く繁榮《はんえい》した乎《か》。そは云《い》ふ迄《まで》もなく、近畿《きんき》に於《お》ける要港《えうかう》であつたからぢや。而《しか》して單《たん》に内地《ないち》の取引《とりひき》のみならず、海外貿易《かいぐわいぼうえき》の要港《えうかう》であつたからぢや。
堺《さかひ》は元來《ぐわんらい》魚市場《うをいちば》であつた。商港《しやうかう》としては、兵庫《ひやうご》に讓《ゆづ》つて居《ゐ》た。然《しか》るに南北朝頃《なんぼくてうごろ》より追々《おひ/\》發展《はつてん》し、大内義弘《おほうちよしひろ》が、此地《このち》を領《りやう》してから、更《さ》らに長足《ちやうそく》の進歩《しんぽ》をした。
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應永《おうえい》の頃《ころ》、大内左京大夫《おほうちさきやうたいふ》、多々羅義弘《たゝらよしひろ》此地《このち》を領《りやう》し來《きたつ》て、再《ふたゝ》び津《つ》を開《ひら》き、呉越《ごゑつ》、三|韓《かん》、南蠻《なんばん》と好《よしみ》を結《むす》び、迭《たがひ》に商舶《しやうはく》を通《つう》じて、家《いへ》増《ま》し民《たみ》富《とみ》て、一|都會《とくわい》を爲《な》す。
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とは、糸亂記《べきらんき》の語《かた》る所《ところ》ぢや。此《この》勢《いきほひ》は、大内義弘《おほうちよしひろ》が、足利義滿《あしかゞよしみつ》に盾《たて》を衝《つ》き、敗亡《はいばう》した爲《た》め、一|時《じ》頓挫《とんざ》したのであるが。間《ま》もなく恢復《くわいふく》し、總《すべ》ての富《とみ》、及《およ》び富《とみ》より生《しやう》ずる一|切《さい》の文學《ぶんがく》、美術《びじゆつ》、遊樂《いうらく》、工藝《こうげい》、諸般《しよはん》の中心《ちうしん》となつた。而《しか》して堺《さかひ》の盛運《せいうん》は、足利氏《あしかゞし》の衰運《すゐうん》と、恰《あたか》も逆行《ぎやくかう》した。
南北朝時代《なんぼくてうじだい》、即《すなは》ち正平年間《しやうへいねんかん》に出版《しゆつぱん》せられたる『論語集解《ろんごしふかい』も、堺浦道祐居士《かいほだういうこじ》の名《な》によりて、開板《かいはん》せられた。又《ま》た大永年間《たいえいねんかん》より享祿《きやうろく》、天文年間《てんもんねんかん》に亙《わた》りて、此地《このち》阿佐井野氏《あさゐのし》の名《な》によりて、出板《しゆつぱん》せられたる書籍《しよじやく》には、『三|體詩註《たいしちう》』や、『韻鏡《ゐんきやう》』や、『醫學大全《いがくたいぜん》』や、『東京魯論《とうきやうろろん》』があつた。※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]花《さふくわ》、猿樂《さるがく》、音曲《おんぎよく》、漆工《しつこう》、染織《せんしよく》、造酒等《ざうしゆとう》、あらゆる方面《はうめん》に發達《はつたつ》し、東山義政《ひがしやまよしまさ》によりて流行《りうかう》の端《たん》を發《ひ》らきたる、茶《ちや》の湯《ゆ》さへも、此地《このち》に於《おい》て、其《そ》の大成《たいせい》を見《み》た。
斯《か》くて山口《やまぐち》の盛時《せいじ》は、大内氏《おほうちし》と與《とも》に逝《ゆ》き、小田原《をだはら》の殷富《いんぷ》は、徳川氏《とくがはし》の入部《にふぶ》と與《とも》に、江戸《えど》に轉《てん》じ。而《しか》して堺《さかひ》も亦《ま》た、太閤《たいかふ》の時代《じだい》に、其《そ》の商權《しやうけん》を、大阪《おほさか》に讓《ゆづ》らねばならぬことゝなつた。されど堺《さかひ》が自由都市《じいうとし》として、不完全《ふくわんぜん》ながらも、其《そ》の自治機關《じちきくわん》によりて、此《こ》の亂世《らんせい》に、獨立《どくりつ》を維持《ゐぢ》し、豪華《がうくわ》、冐險《ぼうけん》、大膽《だいたん》、矜貴《きようき》なる堺町人氣質《さかひちやうにんかたぎ》を發揮《はつき》した事實《じじつ》には、目《まなこ》を閉《と》ざすことは出來《でき》ぬ。


【一三】支那との交通
支那《しな》との交通《かうつう》は、北條時代《ほうでうじだい》を經《へ》、足利時代《あしかゞじだい》に於《おい》て、愈《いよい》よ頻繁《ひんぱん》と爲《な》つた。此《こ》れには航海術《かうかいじゆつ》や、造船術《ざうせんじゆつ》の進歩《しんぽ》も、手傳《てつだ》うたであらう。又《ま》た宋末《そうまつ》の亂《らん》が、幾許《いくばく》の避難者《ひなんしや》を日本《にほん》に驅《か》つた如《ごと》く、元末《げんまつ》の亂《らん》にも、同樣《どうやう》であつたであらう。而《しか》して精神的《せいしんてき》、及《およ》び生活的《せいくわつてき》の要求《えうきう》は、益※[#二の字点、1-2-22]《ます/\》我《われ》をして彼《かれ》に接觸《せつしよく》せしめた。多大《ただい》の影響《えいきやう》は、我《わ》が人文《じんぶん》の上《うへ》に及《およ》んだ。就中《なかんづく》其《そ》の著明《ちよめい》なるものは、禪學《ぜんがく》の流行《りうかう》を擧《あげ》ねばならぬ。
禪《ぜん》は北條氏《ほうでうし》の御用宗教《ごようしうけう》ぢや。勿論《もちろん》當時《たうじ》の朝廷《てうてい》でも、又《ま》た公家《くげ》でも、之《これ》を尊崇《そんしう》し、又《ま》た日本曹洞宗《にほんそうどうしう》の開祖《かいそ》道元《どうげん》の如《ごと》き、自《みづ》から北條氏《ほうでうし》庇蔭《ひいん》の下《もと》に立《た》つを、屑《いさぎよし》とせぬ漢子《をのこ》もあつたが。大雜把《おほざつぱ》に云《い》へば、禪宗《ぜんしう》を流行《りうかう》せしめたのは、北條氏《ほうでうし》の力《ちから》ぢや。
新渡《しんと》の宗教《しうけう》たる禪宗《ぜんしう》が、上流社會《じやうりうしやくわい》の思想《しさう》、行儀《ぎやうぎ》、趣味《しゆみ》、嗜好《しかう》、生活《せいくわつ》の上《うへ》に、如何《いか》なる感化《かんくわ》を與《あた》へたかは、當時《たうじ》の文學《ぶんがく》、繪畫《くわいぐわ》、建築《けんちく》、其他《そのた》あらゆる方面《はうめん》を見《み》れば、分明《ふんみやう》ぢや。而《しか》して室町時代《むろまちじだい》に於《おい》て、最《もつと》も顯著《けんちよ》となつた。禪學《ぜんがく》の相伴《しやうばん》として出《い》で來《きた》りたるものは、宋學《そうがく》である。禪學《ぜんがく》と程朱學《ていしゆがく》とは、異腹《いふく》の兄弟《けいてい》ぢや。仲《なか》は惡《わる》くても、血《ち》は何處《どこ》やら通《かよ》うて居《を》る。
宋學《そうがく》を日本《にほん》に輸入《ゆにふ》したるは、誰《たれ》である乎《か》、何時《いつ》である乎《か》。兎《と》に角《かく》鎌倉末期《かまくらばつき》、禪僧《ぜんそう》が舶載《はくさい》したのであらう。後醍醐天皇《ごだいごてんわう》の朝《てう》に於《おい》て、玄惠法師《げんゑはふし》が、其《そ》の宣傳者《せんでんしや》であつた事《こと》から見《み》れば、其《そ》の輸入《ゆにふ》は、尚《な》ほ以前《いぜん》からと云《い》はねばならぬ。爾來《じらい》義堂《ぎだう》は、將軍《しやうぐん》義滿《よしみつ》の爲《た》めに、孟子《まうし》を講《かう》じ、岐陽《ぎやう》は四|書《しよ》に和點《わてん》を施《ほどこ》し、桂菴《けいあん》は薩摩《さつま》に於《おい》て、大學章句《だいがくしやうく》を出版《しゆつぱん》し、降《くだ》りて南浦文之《なんぽぶんし》に至《いた》る迄《まで》、禪僧《ぜんそう》が日本《にほん》に於《お》ける、宋學《そうがく》の保育者《ほいくしや》であつたことは、爭《あらそ》はれぬ事實《じじつ》ぢや。けれども宋學《そうがく》は、禪僧《ぜんそう》の兼習位《けんしふぐらゐ》のもので、宋學《そうがく》其物《そのもの》が、獨立《どつりつ》して、世道人心《せだうじんしん》に其力《そのちから》を及《およ》ぼす迄《まで》には、參《まゐ》らなかつた。
室町社會《むろまちしやくわい》は、宋學《そうがく》の苗圃《べうほ》と云《い》うて可《よ》からう。而《しか》して其《そ》の禪學《ぜんがく》も、生死大事《しやうしだいじ》を究明《きうめい》する、大作用底《だいさようてい》の事《こと》でなく、權勢禪《けんせいぜん》、文字禪《もんじぜん》、風流禪《ふうりうぜん》となり下《さが》り。室町中期以後《むろまちちうきいご》は、却《かへつ》て禪餘《ぜんよ》の附隨物《ふずゐぶつ》たる築庭《ちくてい》、造屋《ざうをく》、筆翰《ひつかん》、繪畫《くわいぐわ》、喫茶《きつさ》等《とう》に流《なが》れ去《さ》つた。歴代《れきだい》の足利將軍《あしかゞしやうぐん》が、若《も》し北條泰時《ほうでうやすとき》の如《ごと》き人物《じんぶつ》であり、一|般《ぱん》の禪僧《ぜんそう》が、若《も》し關山國師《くわんざんこくし》の如《ごと》きであつたならば、とても室町時代《むろまちじだい》の文明《ぶんめい》は見《み》られ無《な》かつたであらう。要《えう》するに室町時代《むろまちじだい》の文明《ぶんめい》は、義政《よしまさ》の惡政《あくせい》と、禪坊主《ぜんばうず》の閑工夫《かんくふう》とに負《お》ふ所《ところ》少《すくな》くない。然《しか》も之《これ》を刺戟《しげき》し、之《これ》を指導《しだう》した者《もの》は、支那《しな》との接觸《せつしよく》と云《い》はねばならぬ。
?《こゝ》に注意《ちうい》す可《べ》き事實《じじつ》がある。日本《にほん》は支那《しな》の風氣《ふうき》を趁《お》うて、概《がい》して一|桁《けた》づゝ後《おく》れて歩《あゆ》んだ。禪學《ぜんがく》も、宋學《そうがく》も、宋末《そうまつ》が最《もつと》も盛《さか》んであつた。而《しか》して其《そ》の日本《にほん》に行《おこなは》れたのは、却《かへつ》て元末《げんまつ》、明初《みんしよ》である。足利氏《あしかゞし》は概《がい》して明《みん》と始終《ししう》したが、然《しか》も足利時代《あしかゞじだい》の幽玄趣味《いうげんしゆみ》は、明《みん》でなく、元《げん》若《も》しくは宋《そう》であつた。五|山僧《ざんそう》の詩《し》は、專《もつぱ》ら蘇黄《そくわう》を主《しゆ》とした。周文《しうぶん》、雪舟《せつしう》の繪《ゑ》は、專《もつぱ》ら梁楷《りやうかい》、牧溪《もくけい》、夏珪《かけい》、馬遠《ばゑん》等《ら》を狙《ねら》つた。而《しか》して此《こ》の一|桁《けた》後《おく》れに、支那《しな》の足跡《そくせき》を辿《たど》るの風《ふう》は、徳川時代迄《とくがはじだいまで》も持續《ぢぞく》した。
併《しか》し此《こ》の流行後《りうかうおく》れが、却《かへつ》て室町文明《むろまちぶんめい》をして、其《そ》の特色《とくしよく》を發揮《はつき》せしめたのである。此《こ》れが明《みん》と交通《かうつう》して、却《かへつ》て或物《あるもの》に於《おい》ては、明《みん》を凌駕《りようが》した所以《ゆゑん》ぢや。然《しか》も?《こゝ》に除外例《ぢよぐわいれい》がある。室町時代《むろまちじだい》に於《おい》て、支那《しな》の通貨《つうくわ》たる永樂錢《えいらくせん》が、日本《にほん》の標準貨幣《へうじゆんくわへい》であり、且《か》つ通用貨幣《つうようくわへい》であつた。代價《だいか》を拂《はら》ふにも、永幾文《えいいくもん》、知行《ちぎやう》を量《はか》るにも、永幾貫文《えいいくくわんもん》と云《い》うた。又《ま》た永樂錢《えいらくせん》以外《いぐわい》に、惡性《あくしょう》の鐚錢《びたせん》が通用《つうよう》した爲《た》めに、其《そ》の選擇《せんたく》に就《つい》て、?《しばし》ば取引上《とりひきじやう》に面倒《めんだう》なる問題《もんだい》を惹起《ひきおこ》した。
明《みん》の班示《はんじ》したる大統暦《だいとうれき》を受《う》け、明《みん》の封與《ほうよ》したる、日本國王《にほんこくわう》の稱《しよう》を受《う》け、明服《みんぷく》を著《つ》け、明與《みんよ》に乘《の》り、明人《みんじん》をして之《これ》を舁《か》かしめ、明人《みんじん》と遊《あそ》びたるは、足利義滿《あしかゞよしみつ》一|人《にん》であるが。明《みん》の通貨《つうくわ》たる永樂錢《えいらくせん》に至《いた》りては、上《かみ》は 至尊《しそん》より、下《しも》は庶民《しよみん》に至《いた》る迄《まで》、之《これ》を受用《じゆよう》して、其《その》便《べん》に頼《よ》つた。此《こ》れは足利氏《あしかゞし》の、對明《たいみん》官營貿易《くわんえいぼうえき》の結果《けつくわ》のみとは云《い》はぬが、重《おも》なる理由《りいう》である※[#「こと」の合字、69-2]は爭《あらそ》はれぬ。
要《えう》するに日本《にほん》は支那《しな》から、上《かみ》は精神界《せいしんかい》の宰《さい》たる、宗教《しうけう》を輸入《ゆにふ》し、下《しも》は人間《にんげん》日常《にちじやう》の必要品《ひつえうひん》たる、銅錢《どうせん》を輸入《ゆにふ》し、其《そ》の中間《ちうかん》には種々《しゆ/″\》、無量《むりやう》の物《もの》を輸入《ゆにふ》した。而《しか》して單《たん》に之《これ》を輸入《ゆにふ》したのみでなく、之《これ》を我物《わがもの》として利用《りよう》した。室町時代《むろまちじだい》が、一|方《ぱう》に於《おい》て極《きは》めて殺風景《さつぷうけい》でありながら、他方《たはう》に於《おい》て風雅《ふうが》、優美《いうび》、幽玄《いうげん》、清高《せいかう》にして、極《きは》めて氣品《きひん》ある文明《ぶんめい》を打出《だじゆつ》した所以《ゆゑん》は、支那《しな》の文物《ぶんぶつ》と接觸《せつしよく》し、之《これ》を我《われ》に適應《てきおう》せしめたが爲《た》めと云《い》ふを憚《はゞか》らぬ。此《こ》の方面《はうめん》から觀察《くわんさつ》すれば、室町時代《むろまちじだい》は、一|概《がい》に之《これ》を詛《のろ》ふ可《べ》きでもあるまいと思《おも》ふ。
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永樂錢之事
人王百一代
後小松院應永十年癸未八月二日大風吹て堂社佛閣民屋恭顛倒しける二日未刻より吹き翌三日巳刻迄夥しく吹三日申の下刻唐船一艘相州三崎浦へ漂著す于時鎌倉の公方足利左兵衞督滿兼卿(尊氏の三男左馬頭基氏の孫)下知ありて印東次郎左衞門尉貞次梶原能登守景守三浦備前守義高を奉行とし被遂詮義けるに被放惡風に着岸仕る由申す船中の雜物實檢するに唐朝の永樂錢數百萬貫積乘たり(應永十年は明の世三世太宗永樂元年にあたる永樂錢は永樂九年に鑄とあり此所追て可改)依て此船を抑留し使を京都へ上せ前將軍義滿入道道義新將軍義持の方へ巨細に被告けるに關東へ唐船着岸の上は偏滿兼の徳分可成と被仰下依之唐船中の財寶不殘抑留し唐人には可致歸唐被申日數積り餘分を考て兵糧被下??薪を施し唐人被追歸(倭漢合運に應永十年八月三日唐船來ると有大風の事無)扨滿兼評定有若干の永樂錢徒らに非可幣於關東に此錢を以て可致賣買旨頓て法を定め被用之然に遙に年を經て天文十九年の頃東國の諸民永樂錢に鐚と云惡錢を取雜て同直段に用之故に賣買の輩も所々の於市町に彼惡錢を撰論諍したる事喧し天正の始めには北條左京大夫氏康關東を討從へて諸十悉く彼下知を守る氏康の家臣山角信濃守定信小笠原越前守康朝其外奉行頭人を招集めて評定せられしは夫鳥目には品々替りあれども永樂には不如歟自今以後關東にては永樂一錢を用ひ他錢を不用やうにすべしと?思也一は錢の善惡日を同して不可謂二は民の爭論を正んが爲め三は賣買の隙を弊さんが爲也面々如何思ふと相談せらる皆尤と同しぬ依之辻々町々郡庄郷村里中に右の趣き高札を被建ける故永樂一色用ぬ此故に近國の者も鐚の内より永樂を撰び出し惡錢を除しかば自ら鐚は廢り上方へのみ上り永樂の一錢計り關東には留りぬ此時より鐚を名付けて京錢と云扨時代經て天正十八年七月十一日北條氏政子息氏直の時に至り秀吉公小田原城を攻て氏政は自害氏直は高野山に蟄居なれば關八州は徳川太政大臣源家康公領し給ふ慶長五年九月石田治部少輔三成諸大名を語ひ十七萬餘の軍を催し家康をほろぼし奉んとする處に討てのぼらせ玉ひ一戰に御勝利あり天下一統御下知に從ひしかば同九年の正月より永樂錢を用ひ然れども一向に鐚を可弃にあらずと永樂一錢の代りに鐚四錢を遣ふされとも善惡を撰び論じければ高夫惑多し公此事を被聞召同十一年十二月八日大久保忠隣本多正信に仰せて永樂錢制禁鐚の一錢計を可用旨江戸日本橋に高札を被建ければ永樂錢廢りぬ天文六年に秀て五十七年の暦數を經たりしに此節廢捨せられけり〔勝海舟著『吹塵録』〕
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【一四】不定と不安
室町時代《むろまちじだい》、將軍家《しやうぐんけ》の制度《せいど》は、實《じつ》に窮屈《きうくつ》千|萬《ばん》であつた。虚禮《きよれい》、飾儀《しよくぎ》は、其《そ》の家法《かはふ》であつた。尊氏《たかうぢ》は元來《ぐわんらい》大量《おほまか》にて、無頓着《むとんちやく》の英雄漢《えいゆうかん》であつたが、其《その》弟《おとうと》直義《たゞよし》は小細工師《こざいくし》で、彼《かれ》によりて此《こ》の輪郭《りんくわく》が描《ゑが》かれた。義滿《よしみつ》に至《いた》りては、彼自身《かれじしん》が虚榮《きよえい》の大塊《たいくわい》で、其《そ》の一|代《だい》に之《これ》を完成《くわんせい》した。
此《これ》が爲《た》めに足利氏《あしかゞし》を羽翼《うよく》する諸大名《しよだいみやう》にも、それ/″\の等級《とうきふ》、資格《しかく》が出來《でき》た。三|管領《くわんれい》の次《つぎ》には、相伴衆《しやうばんしう》があつた。此《こ》れは正月《しやうぐわつ》拜賀《はいが》の時《とき》に、管領《くわんれい》の次席《じせき》ぢや。それから國持衆《くにもちしう》で、此《こ》れは復《ま》た相伴衆《しやうばんしう》の次席《じせき》ぢや。國持衆《くにもちしう》は、或《あるひ》は外樣大名衆《とざまだいみやうしう》とも云《い》うた。其《そ》の次席《じせき》が准國衆《じゆんこくしう》、外樣衆《とざましう》ぢや。それから其《そ》の次《つぎ》が御供衆《おともしう》で、此《こ》れは建武《けんむ》元年《ぐわんねん》尊氏《たかうぢ》に從《したが》うて、京都《きやうと》に入《い》つた者共《ものども》の子孫《しそん》ぢや。彼等《かれら》は讀《よ》んで字《じ》の如《ごと》く、將軍《しやうぐん》側《そば》近《ちか》く仕《つか》へ、膳飮《ぜんいん》に供奉《ぐぶ》し、啓行《けいかう》に駕《か》を護《ご》する役目《やくめ》ぢや。
弓馬諸禮式《きうばしよれいしき》には、武田《たけだ》、小笠原兩家《をがさはらりやうけ》があつた。伊勢氏《いせし》は奏者《そうしや》として、人事諸禮《じんじしよれい》を司《つかさど》つた。即《すなは》ち面倒屋《めんだうや》の家元《いへもと》ぢや。將軍《しやうぐん》が其《そ》の將士《しやうし》の第《だい》に臨《のぞ》むにも、將士《しやうし》の方《はう》では、臨時《りんじ》に幾多《いくた》の奉行《ぶぎやう》を任命《にんめい》した。御酒奉行《おさけぶぎやう》あり、茶湯奉行《ちやのゆぶぎやう》あり、甚《はなは》だしきは厠《かはや》を設《まう》け、是《これ》に諸品《しよひん》を?備《へいび》するを、御栖淨奉行《おすみ?きよめぶぎやう》と云《い》うた。支那人《しなじん》の禮儀《れいぎ》三百|威儀《ゐぎ》三千も、恐《おそ》らくは此程《これほど》迄《まで》には、行《ゆ》き渡《わた》らなかつたであらう。
料理《れうり》も亦《ま》た此《こ》の時代《じだい》には、四|條《でう》、大草等《おほくさら》の專門家《せんもんか》を生《しやう》じた。魚鳥《ぎよてう》、精進《しやうじん》、各種《かくしゆ》の料理《れうり》は勿論《もちろん》、俎?板《まないた》の短長《たんちやう》、大小《だいせう》、庖刀《はうちやう》、魚箸《まなばし》の寸尺《すんしやく》、其《そ》の使用方法《しようはうはふ》、何《いづ》れも秘傳《ひでん》があつた。細川勝元《ほそかはかつもと》は、鯉《こひ》の料理《れうり》を喫《きつ》して、此《こ》れは淀川《よどがは》である抔《など》と、其《そ》の産地《さんち》を食《く》ひ分《わ》けたと云《い》ふ※[#「こと」の合字、72-12]ぢや。定《さだ》めて料理通《れうりつう》であつたであらう。而《しか》して其《そ》の料理《れうり》の食《く》ひ樣《やう》も、頗《すこぶ》る小面倒《こめんだう》であつた。飯《めし》は左《ひだり》を一|箸《はし》、右《みぎ》を一|箸《はし》、向《むかふ》を一|箸《はし》、此《こ》の三|箸《はし》を一|口《くち》に喰《く》はねばならぬ。?《さかな》も山海野里《やまうみのさと》と、次第《しだい》を立《た》てゝ喰《く》はねばならぬ。酒《さけ》を飮《の》むにも、三ほし、五ほしの飮樣《のみやう》、十|度《たび》のみ、鶯呑《うぐひすのみ》、一|露等《つゆとう》の方法《はうはふ》があつた。婦人《ふじん》には女房言葉《にようばうことば》とて、魚《うを》を『おまなから』豆腐《とうふ》を『白《しろ》もの』抔《など》と云《い》うた。斯《かゝ》る世《よ》の中《なか》では、赤裸々《せきらゝ》で、大碗酒《たいわんさけ》を飮《の》み、大塊肉《たいくわいにく》を喫《きつ》する快活《くわいくわつ》な樂事《らくじ》は、とても夢《ゆめ》にも及《およ》ばぬではない乎《か》。
然《しか》るに物《もの》極《きはま》れば變《へん》ずで、此《こ》の窮屈《きうくつ》なる家法《かはふ》の中《うち》に生活《せいくわつ》したる、室町將軍《むろまちしやうぐん》の武威《ぶゐ》が、地《ち》に墜《お》ちたと同時《どうじ》に。即《すなは》ち應仁《おうにん》の大亂《たいらん》以後《いご》には、世《よ》の中《なか》は、蜂《はち》の巣《す》を撞《つ》き破《やぶ》りたる如《ごと》く、全《まつた》く解放《かいはう》せられた。室町時代《むろまちじだい》の末期《ばつき》には、上《かみ》は將軍《しやうぐん》より、下《しも》は閭巷《りよかう》の小民《せうみん》に至《いた》る迄《まで》、一|人《にん》として其《そ》の位置《ゐち》に安著《あんちやく》したものはない。一|切《さい》の秩序《ちつじよ》も、制度《せいど》も、津波《つなみ》にさらはれ去《さ》つた。室町將軍《むろまちしやうぐん》の如《ごと》きは、其《そ》の破片《はへん》を捉《とら》へて、濤《なみ》に漂《たゞよ》うて居《ゐ》た。
誰《たれ》しもあれ、自《みづ》から安著《あんちやく》せんとするも、周圍《しうゐ》の事情《じじやう》は、之《これ》を許《ゆる》さぬ。此《こ》の時代《じだい》では、家《いへ》各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》鬪《たゝかひ》をなし、人《ひと》各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》爭《あらそひ》をなすと云《い》ふ形勢《けいせい》ぢや。油斷《ゆだん》をすれば、何時《いつ》寢首《ねくび》を掻《か》かれぬとも限《かぎ》らぬ世《よ》の中《なか》ぢや。そこで一|般《ぱん》に行《ゆ》き渡《わた》りたるは、人心《じんしん》の不安《ふあん》ぢや。其《そ》の不安《ふあん》は、各個人《かくこじん》の位置《ゐち》の不定《ふてい》が原因《げんいん》ぢや。飽《あ》きたる獅子《しし》は、餓《う》ゑたる狼《おほかみ》には敵《てき》せぬ。天下泰平《てんかたいへい》になれば、奸雄《かんゆう》も良民《りやうみん》ぢや。天下《てんが》亂世《らんせい》となれば、良民《りやうみん》も奸雄《かんゆう》たらざれば、亂民《らんみん》ぢや。不定《ふてい》と、不安《ふあん》とは、臆病者《おくびやうもの》をも、大膽者《だいたんもの》たらしむ。况《いは》んや本來《ほんらい》の大膽者《だいたんもの》に於《おい》てをやぢや。斯《かゝ》る世《よ》の中《なか》には門閥《もんばつ》も、格式《かくしき》もあつたものぢやない。全《まつた》く腕《うで》の世《よ》の中《なか》ぢや。當時《たうじ》の通用語《つうようご》たる下克上《かこくじやう》は、能《よ》くも此《こ》の眞相《しんさう》を道破《だうは》した。併《しか》し唯《た》だ下《しも》から上《かみ》を凌《しの》ぐのみと思《おも》うては、未《いま》だ盡《つく》さぬ。社會《しやくわい》の大地震《おほぢしん》は、上下動《じやうかどう》ばかりでなく、亦《ま》た水平動《すゐへいどう》であつた。
後妻打《うはなりうち》の風俗《ふうぞく》は、平安朝《へいあんてう》の末期《ばつき》から、始《はじま》つたと云《い》ふ※[#「こと」の合字、74-9]ぢや。此頃《このころ》は專《もつぱ》ら流行《りうかう》ぢや。此《こ》れは離婚後《りこんご》、一|個月以内《かげついない》に新妻《にひづま》を娶《めと》れば、先妻《せんさい》は其《そ》の縁邊《えんぺん》の膂力《りよりよく》ある婦人《ふじん》を、驅《か》り催《もよ》ほし、豫《あらか》じめ打入《うちいり》の日時《にちじ》を先方《せんぱう》に告《つ》げ。先妻《せんさい》は輿《こし》に乘《の》り、數多《あまた》の同勢《どうぜい》の婦人《ふじん》は、袴《はかま》を著《つ》け、襷《たすき》を掛《か》け、髮《かみ》を亂《み》だし、或《あるひ》は被物《かつぎもの》、鉢卷《はちまき》をなし、半《なか》ば武裝《ぶさう》して、手《て》に得物《えもの》を携《たづさ》へ、臺所《だいどころ》より亂《みだ》れ入《い》り、破壞的《はくわいてき》運動《うんどう》をなすのぢや。當時《たうじ》の婦人《ふじん》の氣《き》の荒《あ》らき事《こと》は、此《こ》れでも類推《るゐすゐ》せらるゝ。婦人《ふじん》且《か》つ然《しか》り、况《いは》んや男子《だんし》をやぢや。扨《さて》も物騷《ぶつさう》の世《よ》の中《なか》ぢや。
此《こ》の時代《じだい》では、社會《しやくわい》の無秩序《むちつじよ》は、世《よ》の中《なか》の人心《じんしん》をして、不安《ふあん》ならしめ、此《これ》が爲《た》めに偶《たまた》ま或《あるひ》は畏縮《ゐしゆく》、恐怖《きようふ》せしめたかも知れぬが。大體《だいたい》に於《おい》ては、一|切《さい》の桎梏《しつこく》解放《かいはう》の結果《けつくわ》、放恣《はうし》ならしめ、冐險《ぼうけん》ならしめ、大膽《だいたん》ならしめ。大山師《おほやまし》にあらざれば、小山師《こやまし》たらしめた。北條早雲《ほうでうさううん》でも、毛利元就《もうりもとなり》でも、齋藤《さいとう》道《だう》三でも、松永彈正《まつながだんじやう》でも、皆《み》な此《こ》の雰圍氣中《ふんゐきちう》の産物《さんぶつ》と云《い》はねばならぬ。
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細川勝元淀鯉料理之事
應永よりこのかた管領三職の人々以之外に威をまし四海擧て崇敬する事將軍にまされりこれも御當家前代のうちあるひは還俗の國主もありあるひは早世の君もあり赤松かことき君を殺し奉る逆罪の聞へもありその外の事大となく公方は耳の?所にきこしめして萬人三職のはからひにて御家督の口入も取つくろひけるによりてをのづから代々に勢をくわへ萬卒これにおそるゝ事虎狼のごとし就中去る管領右京大夫勝元は一家不双の榮耀人にてさま/″\のもてあそびに財寶をついやし奢侈のきこへもありといへり平生の珍膳妙衣は申に及ばず客殿屋形の美々しき事言語道斷なりと云※[#二の字点、1-2-22]此人つねに鯉をこのみて食せられけるに御家來の大名彼勝元におもねりて鯉をおくる事かそへがたし一口ある人のもとへ勝元を招請してさま/″\の料理をつくしてもてなしけり此奔走にも鯉をつくりて出しけり相伴の人三四人うや/\しく陪膳せり扨鯉を人々おほく賞?せられて侍るに勝元もおなじく一禮をのべられけるが此鯉はよろしき料理と斗ほめて外のこと葉はなかりけるを勝元すゝんで是は名物と覺え候さだめて客もてなしのために使をはせもとめられしとみえたり人々のほめよう無骨なりそれはおほやう膳事を賞?するまでの禮なり折角のもてなしに所をいはざる事あるべうもなし此鯉は淀より遠來の物とみえたりそのしるしあり外國の鯉はつくりて酒にひたす時一兩箸に及へば其汁にごれり淀鯉はしからずいかほどひたせども汁はうすくしてにごりなし是名物のしるしなりかさねてもてなしの人あらば勝元がをしへつること葉をわすれずしてほめ玉ふべしと申されけるとなりまことに淀鯉のみにかぎらず名物は大小となく其徳あるべきもの也かやうの心をもちてよろづに心をくばりて味ふべき事とてその時の陪膳の人の子あるひとのもとにてかたり侍るとぞ〔塵塚物語〕
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【一五】群雄割據
應仁《おうにん》の大亂《たいらん》は、人《ひと》と土地《とち》との關係《くわんけい》を破《やぶ》り、人《ひと》と人《ひと》との關係《くわんけい》を破《やぶ》り、人《ひと》と社會《しやくわい》との關係《くわんけい》を破《やぶ》つた。併《しか》し破壞《はくわい》は建設《けんせつ》ぢや。舊株《ふるかぶ》から新芽《しんめ》が吹《ふ》く。左《さ》なくば是迄《これまで》、大木《たいぼく》の影《かげ》に?《あつ》せられたる、附近《ふきん》の草木《さうもく》が成長《せいちやう》する。應仁《おうにん》の大亂《たいらん》と與《とも》に、是迄《これまで》刀劍《たうけん》を以《もつ》て、主《おも》なる武器《ぶき》としたものが、槍《やり》に變《へん》じた。從《したが》つて其《そ》の戰術《せんじゆつ》も、從來《じうらい》一|騎打《きうち》のものが、隊伍《たいご》を組《く》み、進退《しんたい》を與《とも》にし、勇者《ゆうしや》獨《ひと》り進《すゝ》む能《あた》はず、怯者《けふしや》獨《ひと》り退《しりぞ》く能《あた》はざる、團體的《だんたいてき》運動《うんどう》となつた。群雄割據《ぐんゆうかつきよ》の結果《けつくわ》は、主將《しゆしやう》は城《しろ》を築《きづ》き、固定的《こていてき》永久陣地《えいきうぢんち》を構《かま》へ、其《そ》の家來《けらい》は、何《いづ》れも其《そ》の城下《じやうか》に、住居《ぢうきよ》することゝなつた。此《これ》が爲《た》めに戰場《せんぢやう》に太刀《たち》を振《ふる》ひ、還《かへ》り來《きた》れば、田畑《たばた》に鋤鍬《すきくわ》を取《と》る、兵農《へいのう》一|如《じよ》の風《ふう》は、自然《しぜん》に熄《や》んだ。
從來《じうらい》の大名《だいみやう》は、何《いづ》れも其地《そのち》の名門《めいもん》、舊家《きうか》で、其《そ》の附近《ふきん》に散在《さんざい》する者《もの》は、所謂《いはゆ》る家《いへ》の子《こ》、郎黨《らうたう》ぢや。即《すなは》ち大名等《だいみやうら》は平和《へいわ》には、大家族《だいかぞく》の首長《しゆちやう》であり、戰爭《せんさう》には之《これ》を率《ひき》ゐて戰場《せんぢやう》に臨《のぞ》む大將《たいしやう》ぢや。そこで主從《しゆじう》の間《あひだ》も、云《い》はゞ親類《しんるゐ》の縁故《えんこ》で、左《さ》なくば、地主《ぢぬし》と小作人《こさくにん》の關係《くわんけい》であつた。
然《しか》るに應仁《おうにん》の大亂後《たいらんご》、名門《めいもん》、舊家《きうか》も概《おほむ》ね潰《つぶ》れた。偶《たまた》ま存在《そんざい》する者《もの》でも、看板《かんばん》は舊《ふる》くとも、内容《ないよう》は新《あた》らしくなつた。土地《とち》と人《ひと》との關係《くわんけい》も、打切《うちき》りとなつた、人《ひと》と人《ひと》との關係《くわんけい》も、斷絶《だんぜつ》した。昨日迄《さくじつまで》の敵地《てきち》は、今日《こんにち》我《わ》が領地《りやうち》となり、明日《みやうにち》は又《ま》た他人《たにん》に奪《うば》はるゝ事《こと》となつた。斯《かゝ》るせち辛《が》らき世《よ》の中《なか》では、主《しゆ》たる者《もの》が、其《そ》の家來《けらい》を吟味《ぎんみ》する樣《やう》に、家來《けらい》も亦《ま》た、其《そ》の主《しゆ》を吟味《ぎんみ》した。社會《しやくわい》は何日《いつ》の間《ま》にやら、大浪人《おほらうにん》、小浪人《こらうにん》、大渡者《おほわたりもの》、小渡者《こわたりもの》の世《よ》の中《なか》となつた。而《しか》して主從《しゆじう》相互《さうご》の吟味《ぎんみ》は、家柄《いへがら》よりも、人柄《ひとがら》となつた。所謂《いはゆ》る奇才《きさい》異能《いのう》の士《し》は、其《そ》の門地《もんち》の有無《うむ》に拘《かゝは》らず、何處《いづく》に於《おい》ても、何人《なんびと》よりも驩迎《くわんげい》せられた。
今《い》ま織田信長《おだのぶなが》の出生《しゆつしやう》、及《およ》び成立《せいりつ》した天文《てんぶん》、弘治《こうぢ》頃《ころ》の日本國《にほんこく》鳥瞰圖《てうかんづ》を描《ゑが》かんに。---
將軍義晴《しやうぐんよしはる》は、京都《きやうと》に居《ゐ》たゝまらず、江州《がうしう》に出奔《しゆつぽん》し、京都《きやうと》は兩細川《りやうほそかは》、三|好《よし》、佐々木等《さゝきら》交戰《かうせん》の衢《ちまた》となつた。而《しか》して細川氏《ほそかはし》の權《けん》は、其《そ》の被官《ひくわん》三|好氏《よしし》に移《うつ》り、三|好氏《よしし》の權《けん》は、遂《つひ》に其《そ》の臣下《しんか》松永彈正《まつながだんじやう》に移《うつ》つた。足利氏《あしかゞし》が細川氏《ほそかはし》に致《いた》され、細川氏《ほそかはし》が三|好氏《よしし》に致《いた》され、三|好氏《よしし》が松永氏《まつながし》に致《いた》さる。此《これ》が理想的《りさうてき》なる下克上《かこくじやう》の標本《へうほん》ではない乎《か》。
播州《ばんしう》、備前等《びぜんとう》には、赤松氏《あかまつし》が浦上氏《うらかみし》に致《いた》され、浦上氏《うらかみし》が、宇喜多氏《うきたし》に致《いた》された。此《こ》れも下克上《かこくじやう》だ。中國《ちうごく》の覇主《はしゆ》たる大内義隆《おほうちよしたか》は、其《そ》の老臣《らうしん》陶晴賢《すゑはるかた》の爲《た》めに殺《ころ》されたが、陶氏《すゑし》は又《ま》た毛利氏《まうりし》の爲《た》めに滅《ほろぼ》された。毛利元就《まうりもとなり》は、僅《わづ》かに吉田《よしだ》三千|貫《ぐわん》の領主《りやうしゆ》より、遂《つひ》に大内氏《おほうちし》の勢力《せいりよく》の相續者《さうぞくしや》となつた。
山陰《さんいん》の山名氏《やまなし》は微祿《びろく》した。京極氏《きやうごくし》の守護代《しゆごだい》であつた尼子氏《あまこし》は、京極氏《きやうごくし》より出雲《いづも》、隱岐《をき》を奪《うば》ひ、因幡《いなば》、伯耆《はうき》を略《りやく》した。而《しか》して山陰《さんいん》に於《お》ける一|勢力《せいりよく》となつた。
九|州《しう》は、名家《めいか》少貳氏《せうにし》振《ふる》はず、菊池氏《きくちし》は殆《ほと》んど亡滅《ぼうめつ》し、大友氏《おほともし》も亦《ま》た、昔日《せきじつ》の勢《いきほひ》がない。龍造寺氏《りうざうじし》は、少貳氏《せうにし》に代《かは》りて、肥前《ひぜん》に興《おこ》つた。代々《だい/″\》薩摩《さつま》の守護《しゆご》であつた島津氏《しまづし》は、日向《ひうが》の伊東氏《いとうし》と、相變《あひかは》らず鎬《しのぎ》を削《けづ》り、九|州《しう》に雄視《ゆうし》した。
四|國《こく》では、土佐《とさ》に長曾我部氏《ちやうそかべし》が、國司《こくし》一|條氏《でうし》を擁《よう》して、其《そ》の勢力《せいりよく》を張《は》り、遂《つひ》に一|條氏《でうし》に取《とつ》て、自《みづ》から之《これ》に代《かは》つた。自餘《じよ》の三|國《ごく》は、細川《ほそかは》、三|好《よし》の殘黨《ざんたう》の爭地《さうち》であつた。
近江《あふみ》には六|角氏《かくし》と、京極氏《きやうごくし》とあつた。何《いづ》れも佐々木氏《さゝきし》の出《しゆつ》であつて、互《たが》ひに相爭《あひあらそ》うたが、遂《つ》ひに京極氏《きやうごくし》の被官《ひくわん》淺井氏《あさゐし》が、京極氏《きやうごくし》を排《はい》して、其《そ》の勢力《せいりよく》を占《し》めた。越前《ゑちぜん》は、斯波氏《しばし》の被官《ひくわん》朝倉氏《あさくらし》の有《いう》となつた。加賀《かが》は、一|向宗《かうしう》一|揆《き》の爲《た》めに占領《せんりやう》せられた。
美濃《みの》は、土岐氏《ときし》代々《だい/\》守護職《しゆごしよく》であつたが、家宰《かさい》齋藤氏《さいとうし》は其權《そのけん》を專《もつぱ》らにした。齋藤氏《さいとうし》の下《もと》に、執事《しつじ》長井氏《ながゐし》ありて、又《ま》た齋藤氏《さいとうし》の權《けん》を奪《うば》うた。長井氏《ながゐし》も亦《ま》た、其臣《そのしん》西村《にしむら》に殺《ころ》された。西村《にしむら》は自《みづ》から長井《ながゐ》を名乘《なの》り、遂《つひ》に齋藤姓《さいとうせい》を冐《を》かし、土岐氏《ときし》を放逐《はうちく》して、美濃《みの》を奪《うば》うた。此《こ》れが齋藤道《さいとうだう》三ぢや。恰《あたか》も松永彈正《まつながだんじやう》と、下克上《かくこじやう》の二|幅對《ふくつゐ》ぢや。
尾張《おはり》は、斯波氏《しばし》の老職《らうしよく》織田氏《おだし》、斯波氏《しばし》に代《かは》つた。參河《みかは》は兩吉良《りやうきら》衰《おとろ》へて、松平氏《まつだひらし》興《おこ》り、而《しか》して海道筋《かいだうすぢ》は、足利氏《あしかゞし》の一|門《もん》なる今川氏《いまがはし》、依然《いぜん》其《そ》の勢《いきほひ》を占《し》めた。
關東《くわんとう》は、北條氏《ほうでうし》最《もつと》も優勢《いうせい》で、先《ま》づ中國《ちうごく》の毛利《まうり》と、一|對《つゐ》の大名成金《だいみやうなりきん》であらう。甲斐《かひ》では、武田氏《たけだし》が逸見氏《へんみし》を排《はい》して、其《そ》の雄《ゆう》を四|隣《りん》に振《ふる》うた。而《しか》して關東《くわんとう》の兩上杉《りやううへすぎ》も、兩御所《りやうごしよ》も、今《いま》は見《み》る影《かげ》もなく。上杉氏《うへすぎし》に代《かは》るものは、其《そ》の臣下《しんか》長尾氏《ながをし》であつて、其《その》勢力《せいりよく》の根據《こんきよ》は、越後《ゑちご》である。
東北《とうほく》では常陸《ひたち》の佐竹氏《さたけし》、奥州《あうしう》の伊達氏抔《だてしなど》が、先《ま》づ優勢《いうせい》と見《み》るべきであらう。併《しか》し彼等《かれら》の進退《しんたい》、盛衰《せいすゐ》は、日本《にほん》の大局《たいきよく》には、多《おほ》くの關係《くわんけい》を持《も》たなかつた。
以上《いじやう》は其《そ》の概觀《がいくわん》だ。天《てん》も、社會《しやくわい》も、此《こ》の群雄割據《ぐんゆうかつきよ》の形勢《けいせい》を打破《だは》す可《べ》く、大人物《だいじんぶつ》の發生《はつせい》を期待《きたい》したである可《べ》く見《み》ゆる。

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