第壹章 室町時代
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近世日本國民史織田氏時代 前篇

蘇峰學人

第壹章 室町時代
【一】總論
此《これ》より近世日本《きんせいにほん》の國民史《こくみんし》を叙《じよ》し始《はじ》む。抑《そもそ》も何《いづ》れの時代《じだい》より、近世日本《きんせいにほん》とは稱《しよう》す可《べ》き。精確《せいかく》に云《い》へば、明治天皇《めいぢてんわう》御踐祚《ごせんそ》以來《いらい》であらう。即《すなは》ち皇政維新《わうせいゐしん》、神武創業《じんむさうげふ》の大經大綸《たいけいたいりん》、再《ふたゝ》び世《よ》に昭《あきら》かなりしは、明治《めいぢ》の御代《みよ》の特徴《とくちやう》である。此《これ》が即《すなは》ち近世日本《きんせいにほん》の標柱《へうちう》である。
併《しか》しながら事《こと》の成行《なりゆき》は、一|朝《てう》一|夕《せき》の故《ゆゑ》で無《な》い。維新中興《ゐしんちうこう》の氣運《きうん》は、其《そ》の淵源《えんげん》する所《ところ》、極《きは》めて宏遠《こうゑん》也《なり》。而《しか》して近《ちか》く其《そ》の手掛《てがゝ》りを辿《たど》れば、先《ま》づ織田《おだ》、豐臣時代《とよとみじだい》であらう。皇室《くわうしつ》を目標《もくへう》としての政治《せいぢ》も、此《こ》の時代《じだい》から。日本全國《にほんぜんこく》を統《とう》一するの政治《せいぢ》も、此《こ》の時代《じだい》から。門流《もんりう》、格式《かくしき》に頓著《とんちやく》なく、實力《じつりよく》の世《よ》の中《なか》となりしも、此《こ》の時代《じだい》から。内《うち》に國力《こくりよく》を統《とう》一して、之《これ》を外《ほか》に發揮《はつき》せんと試《こゝろ》みたるも、此《こ》の時代《じだい》から。要《えう》するに織田《おだ》、豐臣《とよとみ》の施設《しせつ》は、維新中興《ゐしんちうこう》の皇謨《くわうぼ》と、悉《こと/″\》く其揆《そのき》を一にしたとは云《い》へない迄《まで》も、少《すくな》くも其《そ》の前觸《まへぶれ》であつたとは、明言《めいげん》して差支《さしつかへ》なからう。
吾人《ごじん》が信長《のぶなが》に對《たい》して、識認《しきにん》す可《べ》きは、(第《だい》一)日本《にほん》をして、天皇《てんわう》の御國《みくに》たらしめた事《こと》である。(第《だい》二)日本《にほん》をして、日本《にほん》全國民《ぜんこくみん》の日本《にほん》たらしむるの端《たん》を、發《ひ》らきたる事《こと》である。或《あるひ》は是《こ》れ天子《てんし》を挾《さしはさ》んで、覇者《はしや》の政《まつりごと》をなしたるもので、信長《のぶなが》の勤王《きんわう》は、一|種《しゆ》の方便《はうべん》であつたと云《い》ふ説《せつ》もあらう。將《は》た全國《ぜんこく》統《とう》一も、彼《かれ》の?《あ》くなき征服慾《せいふくよく》の發作《ほつさ》に過《す》ぎぬとの論《ろん》もあらう。されど何《いづ》れにしても、彼《かれ》には維新中興《ゐしんちうこう》の急先鋒《きふせんぽう》と云《い》ふ可《べ》き、資格《しかく》がある。雄才大略《ゆうさいたいりやく》の秀吉《ひでよし》も、概《がい》して彼《かれ》の足跡《そくせき》を趁《お》うた。乃《すなは》ち家康《いへやす》の如《ごと》きも、其《その》志《こゝろざし》は頼朝《よりとも》を師《し》とするにあつたも、信長《のぶなが》の定《さだ》めて置《お》いた輪郭《りんくわく》を、全《まつた》く脱《だつ》することは、出來《でき》なかつた。
但《た》だ家康《いへやす》の征夷大將軍《せいゐたいしやうぐん》となりたる慶長時代《けいちやうじだい》より、米國《べいこく》水師提督彼理《すゐしていとくペルリ》が、浦賀灣《うらがわん》に闖入《ちんにふ》する迄《まで》、約《やく》二百五十|年間《ねんかん》の幕政《ばくせい》は、織田《おだ》、豐臣《とよとみ》の政治《せいぢ》と鎌倉《かまくら》、室町《むろまち》の政治《せいち》とを捏《こ》ね交《まじ》へ。其《そ》の主旨《しゆし》に於《おい》ては、家康《いへやす》の本尊《ほんぞん》たる、頼朝流《よりともりう》の幕府《ばくふ》本位《ほんゐ》制度《せいど》を、一|貫《くわん》したる樣《やう》にも思《おも》はるゝ。されば近世日本國民史《きんせいにほんこくみんし》的《てき》觀察《くわんさつ》よりすれば、寧《むし》ろ此《こ》の中間《ちうかん》の二百五十|年間《ねんかん》は、除者《のけもの》として、一|足飛《そくと》びに、織田《おだ》、豐臣《とよとみ》時代《じだい》より、孝明《かうめい》天皇《てんわう》の御宇《ぎよう》に接續《せつぞく》する方《はう》が、却《かへつ》て適當《てきたう》ではあるまい乎《か》。
然《しか》し吾人《ごじん》は如上《じよじやう》の理由《りいう》によりて、徳川《とくがは》幕政《ばくせい》を詛《のろ》ふ譯《わけ》には參《まゐ》らぬ。徳川《とくがは》幕政《ばくせい》時代《じだい》は、皇室《くわうしつ》中心《ちうしん》主義《しゆぎ》の史家《しか》よりすれば、極《きは》めて不愉快《ふゆくわい》なる時代《じだい》である。又《ま》た巨人《きよじん》、大人《たいじん》の輩出《はいしゆつ》を驩迎《くわんげい》する、英雄《えいゆう》崇拜《しうはい》的《てき》の史家《しか》よりすれば、此《こ》の侏儒《しゆじゆ》時代《じだい》に長《なが》く低徊《ていくわい》するは、極《きは》めて面白《おもしろ》くない。さりながら近世的《きんせいてき》日本國民性《にほんこくみんせい》も、先《ま》づ此間《このかん》に陶冶《たうや》せられた。武士道《ぶしだう》と云《い》ひ、國民的《こくみんてき》精神《せいしん》と云《い》ひ、概《おほむ》ね此《こ》の時代《じだい》の賜物《たまもの》ぢや。乃《すなは》ち皇室《くわうしつ》中心《ちうしん》の思想《しさう》さへも、此《こ》の時代《じだい》に合理的《がふりてき》に、研究《けんきう》せられ、鼓吹《こすゐ》せられ、扶植《ふしよく》せられた。愛國心《あいこくしん》の涵養《かんやう》、敵愾心《てきがいしん》の長成《ちやうせい》、亦《ま》た此《こ》の時代《じだい》の恩惠《おんけい》と云《い》はねばならぬ。
徳川幕府《とくがはばくふ》、二百五十|年間《ねんかん》は、我《わ》が國民《こくみん》の練磨《れんま》の期間《きかん》であつた。禪僧《ぜんそう》が大悟《だいご》徹底《てつてい》する迄《まで》、石上《せきじやう》に十|年《ねん》枯坐《こざ》したのと同《どう》一ぢや。但《た》だ此《こ》の期間《きかん》が、餘《あま》りに長《なが》かつた爲《た》め、練磨《れんま》が爛熟《らんじゆく》して、却《かへつ》て萎靡《ゐび》、不振《ふしん》となつた傾向《けいかう》がないでもない。
若《も》し、米國《べいこく》水師《すゐし》提督《ていとく》彼理《ペルリ》が、嘉永《かえい》、安政《あんせい》でなく、元祿《げんろく》、享保《きようほ》に來《き》たならば、却《かへつ》て我《わ》が帝國《ていこく》の爲《た》めには仕合《しあはせ》であつたかも知《し》れぬ。けれども此《これ》は天體《てんたい》の運行《うんかう》を、己《おのれ》が隨意《ずゐい》に變更《へんかう》せんとする如《ごと》き、勝手《かつて》の註文《ちうもん》ぢや。吾人《ごじん》が久《ひさ》しく辛抱《しんばう》すれば、した丈《だけ》の効能《かうのう》は、何時《いつ》かは、何處《どこ》にか、現《あら》はれて來《く》るものと觀念《くわんねん》せねばなるまい。乃《すなは》ち徳川《とくがは》幕政《ばくせい》も、其《そ》の功罪《こうざい》は公平《こうへい》に分析《ぶんせき》す可《べ》きものとして、概括的《がいくわつてき》に論《ろん》ずれば、一|種《しゆ》の國民學校《こくみんがくかう》であつたと云《い》ひ得《う》可《べ》き理由《りいう》がある。
要《えう》するに近世《きんせい》日本《にほん》と、一口《ひとくち》には申《まを》すものゝ、織田《おだ》、豐臣《とよとみ》、徳川《とくがは》を經《へ》て、孝明《かうめい》天皇《てんわう》御宇《ぎよう》より、明治《めいぢ》天皇《てんわう》の御代《みよ》に達《たつ》するには、隨分《ずゐぶん》遼遠《れうゑん》の長途《ちやうと》を行《ゆ》かねばならぬ。予《よ》は成《な》る可《べ》く旁脈《ばうみやく》、支派《しは》に立《た》ち寄《よ》らず、其《そ》の浩々《かう/\》、汨々《いつ/\》たる本流《ほんりう》に棹《さほさ》して、到著點《たうちやくてん》に達《たつ》す可《べ》く、努力《どりよく》せねばならぬ。


【二】室町政治の弱點
鎌倉《かまくら》の政治《せいぢ》は、實《み》ありて花《はな》なく、室町《むろまち》の政治《せいぢ》は、花《はな》ありて實《み》なし。治國《ちこく》の政策《せいさく》に於《おい》ては、足利氏《あしかゞし》は、北條氏《ほうでうし》を祖述《そじゆつ》したる迄《まで》で、然《しか》も其《そ》の實行《じつかう》は、北條氏《ほうでうし》の足元《あしもと》にも、寄《よ》り附《つ》くと叶《かな》はぬ。
足利氏《あしかゞし》の天下《てんか》は、大腹《たいふく》なる尊氏《たかうぢ》と、辛辣《しんらつ》なる直義《たゞよし》との、兄弟《けいてい》會社《くわいしや》である。然《しか》るに未《いま》だ其《そ》の仕組《しくみ》の出來上《できあが》らぬ先《さき》に、端《はし》なく兄弟《きやうだい》の仲違《なかたがひ》となり、未製品《みせいひん》の儘《まゝ》、之《これ》を子孫《しそん》に傳《つた》ふる?となつた。然《しか》るに尊氏《たかうぢ》より、義昭《よしあき》に至《いた》る十五|世《せい》、二百三十九|年《ねん》の間《あひだ》、空《むな》しく未製品《みせいひん》の儘《まゝ》、相傳《さうでん》し、政治《せいぢ》らしき政治《せいぢ》は、一|日《じつ》も見《み》る?が出來《でき》なかつた。室町時代《むろまちじだい》の文藝《ぶんげい》とか、美術《びじゆつ》とかの方面《はうめん》には、隨分《ずゐぶん》誇《ほこ》る可《べ》きものが、ないでもない。されど肝腎《かんじん》の政治《せいぢ》は、全《まつた》く物《もの》に成《な》りて居《お》らぬ。
後醍醐《ごだいご》天皇《てんわう》の公家政治《くげせいぢ》に對《たい》して、反旗《はんき》を飜《ひるがへ》したるが、足利氏《あしかゞし》の身上《しんしやう》であつた。然《しか》し又《ま》た此《これ》が身上《しんしやう》破滅《はめつ》の因《いん》であつた。足利氏《あしかゞし》腹心《ふくしん》の病《やまひ》は、實《じつ》に南朝《なんてう》を敵《てき》としたるに由來《ゆらい》した。如何《いか》に北朝《ほくてう》の天子《てんし》を擁立《ようりつ》しても、一|旦《たん》朝敵《てうてき》の名《な》を負《お》うたる弱點《じやくてん》は、始終《しじう》附《つ》き纒《まと》うた。義滿《よしみつ》に至《いた》りて、漸《やうや》く南北《なんぼく》調和《てうわ》、神器《しんき》一に歸《き》したれども、南朝《なんてう》の餘炎《よえん》は、其後《そのご》に至《いた》りても、尚《な》ほ屡《しばし》ば發現《はつげん》したではない乎《か》。
如何《いか》に鎌倉時代《かまくらじだい》以來《いらい》、勢力《せいりよく》の重《おも》なる要素《えうそ》である武家《ぶけ》の推戴《すゐたい》によりて、天下《てんか》の名門《めいもん》足利氏《あしかゞし》が、北條氏《ほうでうし》の後《のち》を襲《つ》ぐも、天皇《てんわう》を敵《てき》として、天下《てんか》を統《とう》一する事《こと》の出來《でき》ぬは、當然《たうぜん》ぢや。新田《につた》、北畠《きたばたけ》、楠《くすのき》、菊池《きくち》、名和《なわ》等《とう》の眞《しん》の南朝方《なんてうがた》は勿論《もちろん》、苟《いやしく》も足利氏《あしかゞし》に不平《ふへい》の者《もの》は、足利家《あしかゞけ》の弟《おとうと》たり、子《こ》たり、親族《しんぞく》たり、眷類《けんるゐ》たり、股肱《ここう》たる者《もの》さへも南朝《なんてう》に趨《おもむ》いた。足利《あしかゞ》合名會社《がふめいくわいしや》の一|人《にん》たる直義《ただよし》さへも、進退《しんたい》谷《きはま》れば、南朝《なんてう》に降參《かうさん》した。即《すなは》ち南朝《なんてう》は、アンチ足利《あしかゞ》の巣窟《さうくつ》と爲《な》つた。
南朝《なんてう》を敵《てき》に持《も》つた足利尊氏《あしかゞたかうぢ》は、其《そ》の足元《あしもと》の弱味《よわみ》に附《つ》け込《こ》まれて、倒行逆施《たうかうぎやくし》を、餘儀《よぎ》なくした。苟《いやしく》も己《おのれ》に味方《みかた》するものには、有《あ》らん限《かぎ》りの物《もの》を分與《ぶんよ》した。尊氏《たかうじ》の無慾《むよく》は、彼《かれ》に親炙《しんしや》したる者《もの》の、隨喜《ずゐき》したる美徳《びとく》であるが。假《か》りに彼《かれ》をして、無慾《むよく》でないとするも、周圍《しうゐ》の事情《じじやう》は、彼《かれ》を然《しか》らしめた。何《なん》となれば彼《かれ》は、背《せ》に腹《はら》は代《か》へられぬ境遇《きやうぐう》に立《たつ》て居《ゐ》た。彼《かれ》は濫賞《らんしやう》した。彼《かれ》は多《おほ》くの國郡《こくぐん》を代物《しろもの》として、惜氣《をしげ》もなく、味方《みかた》たる可《べ》き者《もの》を買收《ばいしう》した。此《こ》の買收《ばいしう》が、南朝《なんてう》を敵《てき》としたるに次《つ》ぎて、足利氏《あしかゞし》の天下《てんか》を攪亂《かうらん》したる動機《どうき》と爲《な》つた。即《すなは》ち尾大不振《びだいふしん》の原因《げんいん》と爲《な》つた。
二|代《だい》の義詮《よしあきら》は、凡庸《ぼんよう》であつた。三|代《だい》の義滿《よしみつ》は、幼少《えうせう》にして其《その》職《しよく》を繼《つ》いだが、彼《かれ》は幸《さいはひ》にも室町時代《むろまちじだい》第《だい》一にして、恐《おそ》らくは唯《ゐ》一の政治家《せいぢか》たる細川頼之《ほそかはよりゆき》を、其《そ》の輔佐者《ほさしや》とした。頼之《よりゆき》は四|國《こく》を管領《くわんりやう》し、足利氏《あしかゞし》と同宗《どうそう》の巨族《きよぞく》である。
頼之《よりゆき》は當時《たうじ》にありて、文武《ぶんぶ》の全才《ぜんさい》とも云《い》ふ可《べ》き一|人《にん》で有《あ》つた。幕府《ばくふ》の紀綱《きかう》を振肅《しんしゆく》したのも彼《か》れ、南朝《なんてう》の勢力《せいりよく》を削平《さくへい》し、南北《なんぼく》統《とう》一の基《もとゐ》を定《さだ》めたのも彼《か》れ。而《しか》して明《みん》と通商貿易《つうししやうぼうえき》を開始《かいし》し、其《そ》の錢貨《せんくわ》を輸入《ゆにふ》したのも彼《か》れ。彼《かれ》は實《じつ》に義滿《よしみつ》を補導《ほだう》して、富強《ふきやう》の長策《ちやうさく》を實行《じつかう》し、室町時代《むろまちじだい》中《ちう》の黄金時代《わうごんじだい》を打出《だしゆつ》した。
然《しか》も足利氏《あしかゞし》の衰兆《すゐてう》は、實《じつ》に義滿《よしみつ》より萠《きざ》した。彼《かれ》は畿内《きない》に於《お》ける、南朝《なんてう》の版圖《はんと》を蕩除《たうぢよ》し、山名《やまな》、大内《おほうち》の亂《らん》を平《たひら》げ、九|州《しう》の南朝方《なんてうがた》を一|掃《さう》し、關東《くわんとう》に於《お》ける尊氏《たかうぢ》の二|男《なん》、基氏《もとうぢ》以來《いらい》の管領家《くわんれいけ》を壓迫《あつぱく》し。室町《むろまち》將軍《しやうぐん》政治《せいぢ》の爲《た》めに、氣《き》を吐《は》く可《べ》き幸運《かううん》を齎《もた》らした。但《た》だ彼《かれ》は北條泰時《ほうでうやすとき》の謙抑《けんよく》、清儉《せいけん》の行《おこなひ》に則《のつと》らずして、豪奢《がうしや》、僭上《せんじやう》、自《みづ》から裁《さい》する所以《ゆゑん》を知《し》らなかつた。然《しか》も内《うち》に於《おい》ては、其《そ》の出入《しゆつにふ》乘輿《じようよ》に擬《ぎ》しつゝ、外《ほか》に對《たい》しては、明國《みんこく》の皇帝《くわうてい》より日本《にほん》國王《こくわう》の封《ほう》を受《う》け、之《これ》に向《むかつ》て臣《しん》と稱《しよう》した。
彼《かれ》が三十七|歳《さい》の折《をり》、太政大臣《だじやうだいじん》たらん?を要望《えうぼう》したるに。朝臣《てうしん》の面々《めん/\》、清盛入道《きよもりにふだう》の外《ほか》に、武家《ぶけ》にて、此官《このくわん》に任《にん》ぜられしものなしとの擬議《ぎぎ》をなせしかば。彼《かれ》大《おほ》いに怒《いか》りて、されば公家《くげ》の御領《ごりやう》を押《おさ》へ、自《みづか》ら國王《こくわう》と爲《な》り、細川《ほそかは》、畠山《はたけやま》等《ら》を攝家《せつけ》となし、土岐《どき》、赤松《あかまつ》等《ら》を清華《せいくわ》となす可《べ》きぞとの、見幕《けんまく》を示《しめ》せしかば、軈《やが》て勅許《ちよくきよ》ありしとの舊記《きうき》は、恐《おそ》らくは訛傳《くわでん》ではあるまい。而《しか》して後小松《ごこまつ》天皇《てんわう》の御母《おんはゝ》通用門院《つうようもんゐん》崩《ほう》ずるや、諒闇《りやうあん》をも行《おこな》はず、其妻《そのつま》日野氏《ひのし》を入内《じゆだい》せしめ、准母《じゆんぼ》となし、北山院《ほくさんゐん》の號《がう》を進《すゝ》めしめた。彼《かれ》が死後《しご》太上《たじやう》天皇《てんわう》の尊號《そんがう》を、朝廷《てうてい》より御贈與《ごそうよ》になりたるも、行《ゆ》き掛《かゝ》りの駄賃《だちん》であつたかも知《し》れぬ。
室町時代《むろまちじだい》の痼疾《こしつ》たる、虚禮虚文《きよれいきよぶん》も、概《おほむ》ね彼《かれ》の時代《じだい》に制定《せいてい》せられた。所謂《いはゆる》三|管《くわん》、四|職《しよく》、七|頭《とう》等《とう》の格式《かくしき》も、當時《たうじ》の産物《さんぶつ》である。獨自《どくじ》一|己《こ》の見地《けんち》に立《た》ち、簡素《かんそ》、質直《しつちよく》、令《れい》する所《ところ》必《かな》らず行《おこな》はるゝ、鎌倉政治《かまくらせいぢ》に比《ひ》すれば、徒《いたづ》らに公家《くげ》の眞似《まね》をなし、朝廷《てうてい》に僭擬《せんぎ》するを能事《のうじ》としたる、室町政治《むろまちせいぢ》は、沙汰《さた》の限《かぎり》である。
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足利義滿太政大臣要望の事
義滿公傳奏を以て申させ給ひけるは義滿既に職を義持に讓り武家の裁斷を執らず此上は太政大臣に任せられん事大望なりと仰けれは諸卿不殘參内して舊記を勘て曰く武家相國に任する事終に例なし平相國清盛任之事雅意の振ふ處是例とせは弓削道鏡任之事誠にはあらず源氏の長者も武任の事例なしといへとも將軍一方の源家たれは是非なく是を掛らる誠に無念と云べし極官の事如何と有し處に將軍委く聞召て仰けるはよし/\義滿日本の國王と成て斯波細川畠山六角山名を以て五攝家とし土岐赤松仁木京極大内一色武田を七清華とし其外の諸大名を其姓に任て菅家江家の職とし或橘清中の伯を以て其家々を立てゝ諸卿とし倍臣の名高を以て武家とし鎌倉の管領氏滿を以て將軍として武道をたゝしめ義滿帝道にかしこく仁義を糺し文道を發ば是そ聖帝とも云つべし吾は是清和の末なれは非理の道にあらじとて以の外に御不豫にて有りければ堂上の面々是を聞て氣を失て十方なき處に既に公家の領地を押へて誰某に賜るなと聞えければ關白殿下より滿高朝臣を密に招請し給ひて和解の儀を談せらる滿高の曰く何の品にても義滿公の相國の御望を遂げられすんば可難叶也と有しかば關白經嗣公則皇聞に達せられ安事成べしとて同月の廿五日太政大臣の補任を書出されて天下の大事一時に解て氷解し大内山も俄に長閑く成て孟春の如く諸卿ふる雪を詠めてもまた來春の花かと疑ふばかり也〔足利治亂記〕
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財政と細川頼之の所置
邦内如麻亂れ弱肉強食と成り黎民耕耘に安んせず豪族皆困弊疲勞する時に當りて誰か能く富國の策を施すや足利三代の時に及で執權細川頼之あり幼子を補翼し能く早く富強の策を施す者は眞に以て羨むべき也氏の施政哉耕耘にあらすして貿易に在り此時泉州堺浦之豪商をして明國に交通せしめ力めて彼錢貨を輸入せしむ果して永樂錢我國に輸入するもの極て多く後終に永幾貫を以て祿仕之俸給田租を定むるに至る惜むらくは實記散佚し其徴をとるに足るものなしといへとも此錢の我邦貨幣と成て通用全國に及びしものは其實昭々として不滅其他金銀錠の我に入るものまた夥多終に義滿の驕豪子孫の奢侈を以て衰弱に至るもの頼之か罪にあらざる也義滿爲人頼之死するに及べとも猶其遺策に困る甚敷明之封册を奉じて不顧に至るものもまた頼之の遺策にあらざるなり堺浦唐船の來往勘合船の定額出入之員敬不可知といへとも豪商の多き流通の宜敷邦内此地に比するなし足利の末織田氏未た志を伸さゝる時既に微行して堺浦に至れるは何之用ぞ此地の殷富を目撃し後成する爲也豐臣氏に及で遺策に則とり終に金銀を積みて大判小判の製造を盛にし邦内の諸侯に賜ふの擧に至る頼之の如きは能く財理に通曉し是を實事に徴して失錯無きもの足利一代の人物と稱すべき也〔勝海舟著『吹塵録』〕
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【三】東山義政
藝術《げいじゆつ》、風雅《ふうが》の天堂《てんだう》、治國《ちこく》、安民《あんみん》の地獄《ぢごく》とは、東山義政時代《ひがしやまよしまさじだい》を申《まを》すなれ。亂脈《らんみやく》なる室町時代《むろまちじだい》も、此《こゝ》に至《いた》りて其《そ》の極所《きよくしよ》に達《たつ》した。所謂《いはゆ》る應仁《おうにん》の亂《らん》は、其《そ》の外面《ぐわいめん》に展開《てんかい》せられたる一|齣《せつ》である。
義滿《よしみつ》の四|子《し》義教《よしのり》は、還俗《げんぞく》して將軍《しやうぐん》となり、剛果《がうくわ》、峻酷《しゆんこく》、幕威《ばくゐ》を振起《しんき》せんと試《こゝろ》みつゝある最中《さいちう》に斃《たふ》れた。却説《さて》義教《よしのり》の二|子《し》義政《よしまさ》は、足利《あしかゞ》第《だい》八|代《だい》の將軍《しやうぐん》として三十|年《ねん》、隱居《いんきよ》として十八|年《ねん》、此《こ》の四十八|年間《ねんかん》に、室町政治《むろまちせいぢ》は、衰亡《すゐぼう》の分水嶺《ぶんすゐれい》を急轉直下《きふてんちよくか》した。
彼《かれ》は遊《あそ》ぶ爲《た》めの將軍《しやうぐん》であつた。彼《かれ》は其《そ》の高貴《かうき》なる位地《ゐち》を、出來得《できう》る限《かぎ》り、遊興《いうきよう》に利用《りよう》した。而《しか》して其《そ》の政務《せいむ》は動《やゝ》もすれば、内宴《ないえん》の席《せき》に於《おい》て、佞倖《ねいかう》、婦嬬《ふじゆ》の口入《くにふ》に左右《さいう》せられた。賞罰《しやうばつ》常《つね》なく、進退《しんたい》度《ど》なし。京童《きやうわらべ》は、勘當《かんだう》に科《とが》無《な》く、赦免《しやめん》に忠《ちう》無《な》しとて、嘲《あざけ》り笑《わら》うた。
花御所《はなのごしよ》の甍《いらか》、珠玉《しゆぎよく》を磨《みが》き、金銀《きんぎん》をちりばむ、其費《そのひ》六十五|萬緡《まんびん》。義政《よしまさ》の母《はゝ》高倉御所《たかくらごしよ》の住邸《ぢうてい》、腰《こし》障子《しやうじ》一|間《けん》の價《あたひ》、二|萬錢《まんせん》。驕奢《けうしや》は苛税《かぜい》の案内者《あんないしや》ぢや。諸國《しよこく》の土民《どみん》、百|姓《しやう》等《ら》が、課役《くわえき》、段錢《たんせん》、棟別《むねべつ》等《とう》樣々《さま/″\》の掛《かゝ》り物《もの》の爲《た》めに、家《いへ》を捨《す》てゝ乞食《こつじき》となりたるも、當然《たうぜん》の事《こと》ぢや。所謂《いはゆ》る富商《ふしやう》、豪戸《がうこ》に強借《がうしやく》する倉役《くらやく》なるもの、義滿《よしみつ》將軍《しやうぐん》の時《とき》に、一|年《ねん》四|度《ど》、義教《よしのり》將軍《しやうぐん》の時《とき》には、それが三|倍《ばい》して十二|度《ど》となり。義政《よしまさ》に至《いた》りては、臨時《りんじ》の倉役《くらやく》多《おほ》く、大甞會《だいじやうゑ》のありし十一|月《ぐわつ》には、臨時《りんじ》九|度《ど》、十二|月《ぐわつ》には八|度《ど》であつた。又《ま》た借金《しやくきん》踏《ふ》み倒《たふ》しの、所謂《いはゆ》る徳政《とくせい》なるもの、彼《かれ》の時代《じだい》に、十三|度迄《どまで》行《おこな》はれたと云《い》ふではない乎《か》。
彼《かれ》は斯《か》くばかり誅求《ちうきう》を事《こと》としつゝも、其《そ》の手元《てもと》の頗《すこぶ》る窮乏《きうばふ》、不如意《ふによい》であつた事《こと》は、東寺《とうじ》八|幡宮《まんぐう》の修理《しうり》に際《さい》し、番匠方《ばんしやうかた》卅五|貫文《くわんもん》、檜皮《ひはだ》五十|貫文《くわんもん》の費《ひ》をば、漸《やうや》く其《そ》の具足《ぐそく》を、代金《だいきん》八十|貫文《くわんもん》に賣《う》りて、之《これ》を辨《べん》じ。又《ま》た其妾《そのせう》の産室費《さんしつひ》に充《あ》つる爲《た》めに、甲冑《かつちう》を抵當《ていたう》として、五百|貫文《くわんもん》を借金《しやくきん》した事實《じじつ》が證明《しやうめい》する。
けれども彼《かれ》の夫人《ふじん》日野富子《ひのとみこ》は、專《もつぱ》ら貨殖《くわしよく》を事《こと》とし、大小名《だいせうみやう》に、金《かね》を貸附《かしつ》けた。管領《くわんれい》畠山政長《はたけやままさなが》さへも、千|貫《ぐわん》の借用《しやくよう》を申《まを》し込《こ》んだ。又《ま》た米倉《こめぐら》を設《まう》けて、商業《しやうげふ》を營《いとな》み、或《あるひ》は内裡《だいり》修繕《しうぜん》の名《な》を假《か》り、京都《きやうと》の七|口《くち》に新關《しんせき》を設《まう》け、其《そ》の通行税《つうかうぜい》を私《わたくし》し、??《ざうとく》、收賄《しうわい》、至《いた》らざる所《ところ》なかつた。
惡政《あくせい》に加《くは》へて、享徳年間《きやうとくねんかん》には、饑饉《ききん》や、兵亂《へうらん》やにて、小民《せうみん》の逃《のが》れて京都《きやうと》に入《い》り、餓死《がし》する者《もの》日《ひ》に七八百|人《にん》。然《しか》も義政《よしまさ》は、平氣《へいき》で驕奢《けうしや》を逞《たくまし》くした。されば後花園《ごはなぞの》天皇《てんわう》には、
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殘民爭採首陽薇。   處處閉[#レ]廬關[#二]竹扉[#一]。
詩興吟酸春二月。   滿城紅緑爲[#レ]誰肥。
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の御製《ぎよせい》ありて、彼《かれ》を諷《ふう》し給《たま》うた。然《しか》も彼《かれ》の心《こゝろ》は、さまで動《うご》かなかつた。世《よ》は追追《おひおひ》と斯《かゝ》る悲慘《ひさん》の段階《だんかい》を經由《けいゆ》して、遂《つひ》に應仁《おうにん》の大亂《たいらん》には、到著《たうちやく》した。
足利氏《あしかゞし》は御家騷動《おいへさうどう》の家《いへ》である。尊氏《たかうぢ》、直義《たゞよし》不和《ふわ》にして、直義《たゞよし》は毒殺《どくさつ》せられた。義詮《よしあきら》は其《そ》の庶兄《しよけい》直冬《たゞふゆ》とも、同母弟《どうぼてい》基氏《もとうぢ》とも不快《ふくわい》であつた。直冬《たゞふゆ》は父《ちゝ》と弟《おとうと》とに刄向《はむか》うた。義持《よしもち》は其《その》弟《おとうと》義嗣《よしつぐ》を殺《ころ》し、義教《よしのり》は義昭《よしあき》を殺《ころ》し、持氏《もちうぢ》父子《ふし》を殺《ころ》し、其《その》身《み》も赤松滿祐《あかまつまんいう》に殺《ころ》された。上《かみ》の好《この》む所《ところ》、下《しも》此《こ》れより甚《はなは》だしきものありて、細川《ほそかは》、畠山《はたけやま》、斯波《しば》三|管領《くわんれい》の家《いへ》も、何《いづ》れも御家騷動《おいへさうどう》が、殆《ほと》んど間斷《かんだん》なく行《おこな》はれた。應仁大亂《おうにんたいらん》の起因《きいん》は、此《こ》の將軍家《しやうぐんけ》と、管領家《くわんれいけ》との御家騷動《おいへさうどう》が、交《こもご》も錯綜《さくそう》して演出《えんしゆつ》された、喜劇《きげき》とも、悲劇《ひげき》とも、名附《なづ》け樣《やう》なき狂言《きやうげん》である。
手短《てみぢか》く筋書《すぢがき》を語《かた》れば、義政《よしまさ》は夫人《ふじん》日野氏《ひのし》の外《ほか》、多《おほ》くの寵嬖《ちようへい》に擁《よう》せられつゝも、三十|歳《さい》迄《まで》、其《そ》の繼嗣《けいし》を得《え》なかつた。そこで其《その》弟《おとうと》義尋《ぎじん》を強《し》ひて還俗《げんぞく》せしめ、名《な》を義視《よしみ》と改《あらた》め、細川勝元《ほそかはかつもと》を執事《しつじ》となし、今出川《いまでがは》の第《だい》に居《を》らしめた。此《これ》が寛正《くわんしやう》五|年《ねん》の十二|月《ぐわつ》であつた。然《しか》るに思《おも》ひきや、彼《かれ》の夫人《ふじん》日野富子《ひのとみこ》は、其《そ》の翌年《よくねん》十一|月《ぐわつ》に、一|子《し》を産《う》んだ。
應仁廣記《おうにんくわうき》には『其比《そのころ》皆人《みなひと》の囁《さゝや》きける樣《やう》は、此《こ》の若君《わかぎみ》と申《まを》すは、公方家《くばうけ》の御子《おんこ》にあらず。御臺所《みだいどころ》禁中《きんちう》にましましける中《うち》に、主上《しゆじやう》密々《みつ/\》御《おん》通《かよ》ひまし/\て儲《まう》け給《たま》へる御子《おんこ》也《なり》』と特筆《とくひつ》してある。此《これ》は強《あなが》ち信憑《しんぴよう》す可《べ》き説《せつ》ではあるまい。但《た》だ義政《よしまさ》夫人《ふじん》富子《とみこ》が、貞淑《ていしゆく》の賢婦《けんぷ》でない丈《だけ》は、明白《めいはく》ぢや。此《こ》の疑問《ぎもん》の子《こ》が、他日《たじつ》の將軍《しやうぐん》義尚《よしひさ》ぢや。
富子《とみこ》は彼《かれ》を山名宗全《やまなそうぜん》に託《たく》した。細川氏《ほそかはし》は三|管《くわん》の家柄《いへがら》である、山名氏《やまなし》は四|職《しよく》の首席《しゆせき》である。而《しか》して當時《たうじ》の山名氏《やまなし》は、赤松氏《あかまつし》追討《つゐたう》の功《こう》に頼《よ》り、權勢《けんせい》赫々《かく/\》、其《そ》の一|門《もん》の領地《りやうち》十|州《しう》に及《およ》んだ。然《しか》も宗全《そうぜん》と勝元《かつもと》とは、舅《しうと》、婿《むこ》の間柄《あひだがら》であり、曾《かつ》て畠山持國《はたけやまもちくに》に對抗《たいかう》する便宜上《べんぎじやう》、協同《けふどう》したる事《こと》あつたに拘《かゝは》らず。勝元《かつもと》が宗全《そうぜん》の子《こ》を養《やしな》ひつゝも、實子《じつし》が産《うま》れたからとて、之《これ》を僧《そう》となした爲《た》め。又《ま》た山名氏《やまなし》か、赤松氏《あかまつし》を飽迄《あくまで》追及《つゐきう》するに反《はん》し、細川氏《ほそかはし》は、之《これ》を援護《ゑんご》したる爲《た》め。其他《そのた》詮《せん》じ來《きた》れば、兩雄《りやうゆう》權力《けんりよく》競爭《きやうさう》の結果《けつくわ》、今《いま》は極《きは》めて面白《おもしろ》からぬ關係《くわんけい》となつて居《ゐ》た。
此《かく》の如《ごと》くして、應仁大亂《おうにんたいらん》の地雷火《ぢらいくわ》は伏《ふ》せられた。而《しか》して其《そ》の導火線《だうくわせん》は、實《じつ》に畠山氏《はたけやまし》の御家騷動《おいへさうどう》であつた。即《すなは》ち管領《くわんれい》畠山持國《はたけやまもちくに》が、其《そ》の庶子《しよし》義就《よしなり》を相續者《さうぞくしや》としたるに、其《そ》の家宰《かさい》神保《じんばう》、遊佐《ゆさ》等《ら》、持國《もちくに》の病《やまひ》篤《あつ》きに乘《じよう》じ、其《その》弟《おとうと》持富《もちとみ》の子《こ》政長《まさなが》を立《た》て、細川勝元《ほそかはかつもと》に頼《よ》りて、之《これ》に抗《かう》し、此《こゝ》に畠山氏《はたけやまし》の内訌《ないこう》は出《い》で來《きた》つた。而《しか》してゆくりなくも義就《よしなり》は、山名宗全《やまなそうぜん》の庇保《ひほ》する所《ところ》となつた。當時《たうじ》の落首《らくしゆ》に、
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右衞門《うゑもん》の佐《すけ》頂《いたゞ》くものが二つある山名《やまな》が足《あし》と御所《ごしよ》の盃《さかづき》
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とある。右衞門佐《うゑもんのすけ》とは義就《よしなり》の事《こと》ぢや。此《かく》の如《ごと》くして畠山氏《はたけやまし》の内訌《ないこう》は、細川《ほそかは》、山名《やまな》兩氏《りやうし》の對抗《たいかう》となつた。
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足利義政榮耀驕慢の事
應仁大亂の起れる事は大樹義政公御幼稚の御時より泰平の世を知しめされ榮耀を極めて御成長御心の儘にのみ擧動れける故か今御政務の時と云へとも天下の治亂に御心を掛たまはず只明暮華奢遊興を好ませ給ひて美麗風流をのみ事とせられ公務遂[#レ]日廢怠す因茲天下の成敗を管領老臣に不[#レ]被[#レ]任又奉行頭人の評定なんとも名のみにて御臺所の御口入とだに云へば不[#レ]分[#二]邪正[#一]恣に被[#二]遂行[#一]或は又香樹院尼春日局眞蘂西堂伊勢守貞親なん?云ふ理非をも不[#レ]知愚不肖なる女房僧尼佞奸の者共出頭して邪義私欲を專らとし用事政道を御酒宴遊會の紛れに申し行ふ事多し加樣に萬端猥にして一向我儘にのみ沙汰せられける程に譬ば唯今まで贔屓に募て論人に可[#レ]與知行をも俄に賄賂に耽て訴人に理を附け相渡し或は奉行所檢斷の上に本主安堵を賜りたる所領をも又御臺所より忽に被[#二]取放[#一]他の恩賞に行はれて別人に下し賜る此故に忠ある者も不[#レ]被[#レ]賞動もすれば罪科を蒙り不忠の者も不[#レ]罰却て恩賞に預る事もあり諸事加樣に成行ける間公方家の權柄悉く零落し一天下の政道壞亂斯に窮りぬ就中畠山家の兩雄政長義就去ぬる文安甲子の年より今茲文正丙戌の年迄僅廿餘年の中互に御勘氣を蒙る事三箇度又同く赦免せらるゝ事三箇度也其度々何の不義も無く又何の忠も無りし故京童の諺に勘當に科なく赦免に忠無しと云て嘲り笑ふ又伊勢守貞親色に溺れ賄賂に耽て申し沙汰せし故を以て武衞家の兩將義敏義廉も十箇年の間に改動せらるゝ事兩度に及ぶ如之上を學ぶ下なれば當時の貴賤押なべて侈を極め美麗を好む且又數年の中一度二度の晴儀さへ皆是諸家の大儀なるに五六箇年僅の間に大分の晴儀を九箇度まで被[#二]執行[#一]先一番に公方家大將の御拜賀結構二番に寛正五年觀世音阿彌河原猿樂同年七月當今御即位四番に同六年三月華頂山若王寺大原野花見の會五番に同八月八幡の上卿六番に同年九月春日社御社參七番に同十二月大甞會八番に文正元年丙戌三月伊勢御參宮九番に花の御幸なり中にも花御覽の結構は一入に美を盡され百味を以て百果を作り御相伴衆の箸は金を以て展[#レ]之御供衆の箸は沈を削て金を以て逆鰐口を入しと也諸事の美麗珍奇の體とも是を推て知るべし加樣に奢侈の世となりて華麗を先途とする程に諸人の所帶は悉く貧窮し朝夕を送り兼ると云へども此時の人心押なべて世は何ともならば成れ人は兎もあれ角もあれ我いちましに富貴に誇り侈を極めて人よりは猶彌増りて美麗をせんと朝暮奔走する故に皆人所領を質に置き財寶を沽却し勤[#レ]之其れも盡き果て諸國の土民百姓に非法の課役臨時の段別棟別錢を譴責す國々の名主百姓等一旦の難を遁ん爲に農具所帶を賣拂て其催促に貢する程に追々耕作遂げ難く田畑を荒し捨て土民離散して足に任せて乞食し郷里村縣は大方野原に成もあり嗚呼鹿苑院殿御代には倉役四季に課《はた》りしを普廣院殿の御時一年に十二度と成ぬ是さへ過分の事なりしに當御代近年は臨時の倉役とて大甞會の有し十一月は倉役九箇度十二月又八箇度也扨又天下の借金を破んとて前代未[#レ]聞徳政と云ふ法を當代十三箇度行はれける程に倉方も地下方も所帶悉く絶なんとす皆人眉を顰め此世は如何成行んと囁合ふより外は無し〔應仁廣記〕
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【四】應仁の亂
應仁《おうにん》の大亂《たいらん》は、從來《じうらい》家督《かとく》爭《あらそ》ひの葛藤《かつとう》を續《つゞ》けたる畠山政長と、其《そ》の從兄弟《じうけいてい》義就《よしなり》が、應仁《おうにん》元年《ぐわんねん》正月《しやうぐわつ》に於《お》ける開戰《かいせん》から、端《たん》を發《ひら》いた。子供《こども》の喧嘩《けんくわ》に親《おや》が出《で》る。政長《まさなが》の後援《こうゑん》は勝元《かつもと》で、義就《よしなり》の味方《みかた》が宗全《そうぜん》で、茲《こゝ》に愈《いよい》よ細川《ほそかは》、山名《やまな》の對抗戰《たいかうせん》を惹起《じやき》した。何《いづ》れも其《そ》の同勢《どうぜい》を驅《か》り催《もよ》ほした。細川方《ほそかはがた》が十|萬人《まんにん》、或《あるひ》は十六|萬人《まんにん》と云《い》ひ、義政《よしまさ》室町第《むろまちだい》の東《ひがし》に屯《たむろ》し。山名方《やまながた》が九|萬人《まんにん》、或《あるひ》は十一|萬人《まんにん》と云《い》ひ、其西《そのにし》に陣《ぢん》どつた。
細川方《ほそかはがた》の勢力範圍《せいりよくはんゐ》は、勝元《かつもと》の領國《りやうこく》攝津《せつつ》、丹波《たんば》、土佐《とさ》、讃岐《さぬき》、同《どう》成之《なりゆき》の領國《りやうこく》阿波《あは》、三河《みかは》、同《どう》勝久《かつひさ》の領國《りやうこく》備中《びつちう》、同《どう》成春《なりはる》の領國《りやうこく》淡路《あはぢ》、同《どう》政有《まさあり》の領國《りやうこく》和泉《いづみ》、同《どう》教春《のりはる》の領國《りやうこく》丹波《たんば》、同《どう》道賢《みちかた》の領國《りやうこく》讃岐《さぬき》、又《ま》た斯波義敏《しばよしとし》の領國《りやうこく》越前《ゑちぜん》、畠山政長《はたけやままさなが》の領國《りやうこく》紀伊《きい》、河内《かはち》、越中《ゑつちう》の一|部《ぶ》、京極持清《きやうごくもちきよ》の領國《りやうこく》出雲《いづも》、飛騨《ひだ》、近江《あふみ》、富樫正親《とがしまさちか》の領國《りやうこく》加賀《かゞ》、武田國信《たけだくにのぶ》の領國《りやうこく》安藝《あき》、若狹《わかさ》である。山名方《やまなかた》は宗全《そうぜん》領國《りやうこく》但馬《たじま》、播磨《はりま》、備後《びんご》、同《どう》教之《のりゆき》領國《りやうこく》伯耆《はうき》、備前《びぜん》、同《どう》勝豐《かつとよ》領國《りやうこく》因幡《いなば》、同《どう》政清《まさきよ》領國《りやうこく》美作《みまさか》、石見《いはみ》、一|色義直《しきよしなほ》領國《りやうこく》丹後《たんご》、伊勢《いせ》、土佐《とさ》、土岐成頼《ときなりより》領國《りやうこく》美濃《みの》、六|角高頼《かくたかより》領國《りやうこく》近江《あふみ》、斯波義廉《しばよしかど》領國《りやうこく》越前《ゑちぜん》、尾張《をはり》、遠江《とほたふみ》、畠山義就《はたけやまよしなり》領國《りやうこく》大和《やまと》、河内《かはち》、紀伊《きい》の一|部《ぶ》、同《どう》義統《よしむね》領國《りやうこく》能登《のと》、大内政弘《おほうちまさひろ》領國《りやうこく》周防《すはう》、長門《ながと》、豐前《ぶぜん》、筑前《ちくぜん》、河野道春《かうのみちはる》領國《りやうこく》伊豫《いよ》である。此《かく》の如《ごと》く兩軍《りやうぐん》對抗《たいかう》の幅員《ふくゐん》は、奧羽《あうう》、關東《くわんとう》、及《およ》び東海《とうかい》、九|州《しう》の一|部《ぶ》を除《のぞ》き、殆《ほと》んど日本《にほん》の要部《えうぶ》に亙《わた》つた。而《しか》して京都《きやうと》は、固《もと》より交戰《こうせん》の焦點《せうてん》であるが、各方面《かくほうめん》にも、それ/″\地方戰《ちはうせん》が蔓延《まんえん》した。
開戰《かいせん》の間際《まぎは》は、義政《よしまさ》は固《もと》より、後花園《ごはなぞの》上皇《じやうわう》も、後土御門《ごつちみかど》天皇《てんわう》も、山名方《やまながた》の擁《よう》する所《ところ》となつたが。遠謀深慮《ゑんぼうしんりよ》ある勝元《かつもと》は、應仁《おうにん》元年《ぐわんねん》八|月《ぐわつ》、上皇《じやうわう》及《およ》び天皇《てんわう》を、義政《よしまさ》の室町第《むろまちだい》に迎《むか》へ奉《たてまつ》り、幕府《ばくふ》も、朝廷《てうてい》も、愈《いよい》よ細川方《ほそかはかた》の挾《さしはさ》む所《ところ》となつた。而《しか》して義政《よしまさ》の弟《おとうと》義視《よしみ》は、周邊《しうへん》の事情《じじやう》に居《ゐ》たゝまらず、室町第《むろまちだい》を逃《に》げ出《い》だし、伊勢《いせ》に赴《おもむ》き、義政《よしまさ》の迎《むか》ふる所《ところ》となりて、復歸《ふくき》したが。義政《よしまさ》夫人《ふじん》日野氏《ひのし》一|黨《たう》の壓迫《あつぱく》に耐《た》へ得《え》ず、西軍《せいぐん》に入《はひ》つた。斯《か》くて兩畠山《りやうはたけやま》相互《さうご》の爭《あらそひ》は、一|轉《てん》して細川《ほそかは》、山名《やまな》の爭《あらそ》ひとなり、再轉《さいてん》して義政《よしまさ》、義視《よしみ》兄弟《きやうだい》の爭《あらそ》ひとなるの觀《くわん》を呈《てい》した。
此《こ》の戰爭《せんさう》の如何《いか》に慘淡《さんたん》たりしかは、京都《きやうと》が兵火《へいくわ》の爲《た》めに、一|掃《さう》せられたる事《こと》で、推測《すゐそく》されよう。『近代《きんだい》予《わ》が見及處《みおよぶところ》、京《きやう》白川《しらかは》へかけて、二十|萬間《まんげん》の人家《じんか》、皆《みな》郊野《かうや》と成《なり》ぬる、先《ま》づ惜《おい》て、佛閣《ぶつかく》僧坊《そうばう》大家《たいけ》大仁《たいにん》の舊迹《きうせき》、悉《こと/″\》く絶《た》え果《は》てゝ、名《な》をさへ不《ざる》[#レ]殘《のこら》事《こと》を、嘆敷《なげかはしく》存《ぞん》ずる』とは、當時《たうじ》目撃者《もくげきしや》の記《き》する所《ところ》ぢや。二十|萬間《まんげん》の人家《じんか》は、聊《いさゝ》か受取《うけと》り難《がた》きも、其《そ》の概念《がいねん》を得可《うべ》き歟《か》。又《ま》た
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二|條殿《でうでん》の御事《おんこと》は、驪山《りざん》の昔《むかし》を眞似《まね》、温泉《をんせん》臨《のぞむ》華清宮《くわせいきうに》、四|季《き》に絶《たえ》せぬ詠《ながめ》あり……
此殿《このでん》の跡《あと》をし見《み》れば、賤《しづ》が屋《や》を、御池《みいけ》の上《うへ》に作《つく》り懸《か》け、不淨《ふじやう》を流《なが》す有樣《ありさま》は、
古《いにしへ》の金谷詩《きんこくし》に顯《あらは》す、當時歌舞地。不[#レ]説草離離。今日歌舞盡。滿園秋露垂。
と、是《これ》を和《わ》して云《いは》く、當時二條地。不[#レ]説糞離離。今日二條盡。滿園屎尿垂。
と、淺猿《あさまし》/\
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とあり。而《しか》して
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なれやしる都《みやこ》は野邊《のべ》の夕雲雀《ゆふひばり》あがるを見《み》ても落《お》つる涙《なみだ》は
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とあり。荒涼《くわうりやう》の状《じやう》、想《おも》ふ可《べ》きぢや。
戰爭《せんさう》は牛《うし》の涎《よだれ》の如《ごと》く、延長《えんちやう》した。應仁《おうにん》三|年《ねん》は、四|月《ぐわつ》に改元《かいげん》して、文明《ぶんめい》元年《ぐわんねん》となり、而《しか》して文明《ぶんめい》五|年《ねん》三|月《ぐわつ》、西軍《せいぐん》の總帥《そうすゐ》、山名宗全《やまなそうぜん》は、七十|歳《さい》にて、陣中《ぢんちう》に歿《ぼつ》し、同《どう》五|月《ぐわつ》、東軍《とうぐん》の大將《たいしやう》細川勝元《ほそかはかつもと》も、四十四|歳《さい》にて逝《ゆ》いた。されど頭《かしら》は斷《た》てども、尾《を》は搖《うご》き、兩軍《りやうぐん》依然《いぜん》持久戰《ぢきうせん》を繼續《けいぞく》し、文明《ぶいめい》九|年《ねん》の末《すゑ》、漸《やうや》く西軍《せいぐん》撤退《てつたい》して、茲《こゝ》に十一|年間《ねんかん》の戰亂《せんらん》は、其《そ》の局《きよく》を收《おさ》めた。
此《こ》の戰亂中《せんらんちう》に、後花園《ごはなぞの》上皇《じやうわう》は、文明《ぶんめい》二|年《ねん》十二|月《ぐわつ》、寶算《ほうさん》五十二にして、義政《よしまさ》の室町第《むろまちだい》にて、崩御《ほうぎよ》あらせられた。『泉殿《いづみでん》の床《とこ》の三|間《げん》の御座敷《おざしき》に、北《きた》を枕《まくら》となし、夜《よる》の御衾《おんふすま》なども、只《たゞ》其《そ》のまゝ引掛《ひきか》けて、近侍《きんじ》御宿直《おんとのゐ》せり』とは、目《ま》のあたり見奉《みたてまつ》る心地《こゝち》す。
上皇《じやうわう》崩御《ほうぎよ》以來《いらい》、後土御門《ごつちみかど》天皇《てんわう》も、世《よ》を悲觀《ひくわん》あらせられ、文明《ぶんめい》三|年《ねん》三|月《ぐわつ》、出家《しゆつけ》の御企《おんくはだ》てあり、同《どう》十|年《ねん》十|月《ぐわつ》、又《ま》た薙髮《ちはつ》せんとの思召《おぼしめし》ありしも、漸《やうや》く群臣《ぐんしん》の諫《いさめ》にて、思《おも》ひ止《とゞ》まり給《たま》うた。而《しか》して文明《ぶんめい》十一|年《ねん》四|月《ぐわつ》より、内裡《だいり》造營《ざうえい》の工事《こうじ》を起《おこ》し、十二|月《ぐわつ》落成《らくせい》せしかば、還幸《くわんかう》あらせられた。應仁《おうにん》元年《ぐわんねん》八|月《ぐわつ》、室町第《むろまちだい》に行幸《ぎやうかう》以來《いらい》、約《やく》十三|年《ねん》を經《へ》た。應仁《おうにん》の亂《らん》は、皇家《くわうけ》に取《と》りても、大《だい》なる打撃《だげき》であつた。

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