修史述懷
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修史述懷
予は本年五十六歳である。文章報國は、予が晩節の天職である。而して此の天職を盡す可く、畢生の事業として、『明治天皇御宇史』の著述を思ひ立ちたるは、先帝御昇遐と、殆んど同時であつた。爾來所謂る大正政變やら、且つ吾父の遠逝の爲め、將た桂公傳編纂を依託せられたる爲め、一時中止の已むなきに到つたが、大正六年の春を以て、桂公傳も彌※[#二の字点、1-2-22]出版せられ、吾が心身の元氣も、聊か恢復したれば、更らに其事に取掛つた。
予は何故に、『明治天皇御宇史』の著述を思ひ立ちたる乎。(第一)明治天皇の盛徳大業と、天皇を輔弼したる、維新の元勳、明治の良臣、其他國民の指導者たり、率先者たる幾多の人物と、此の國家の祥運に際して、活動發展したる一般國民とは、之を百世の龜鑒として、傳ふ可き必要ありと信ずるからである。
(第二)予は文久三年正月の出生なれば、明治天皇御代の初期より終期迄、聖澤に浴したる一人である。不肖微力、涓埃の以て鴻恩に報ゆるなし。但だ苟も操觚者として、世に立つからには、聖明を對揚し、實物教科を齎らし、後昆をして、趨嚮する所を知らしむるは、偏へに予が當然の任務と自覺をしたからである。
(第三)明治の初期は、予が幼童の時代なれば、聞いて之を知るのみ。其の中期に於ては、見て之を知る事も小くない。而して明治二十年以後に於ては、見聞のみならず、聊か關與した事も、皆無でない。特に二十七八年役前後より、三十七八年役前後に際して、予は偶然にも國政運用の中樞、若くは其の附近に接觸したれば、之を知るの機會も、隨分多かりしと思ふ。
(第四)予は不幸にして、所謂る維新三傑西郷、木戸、大久保諸公を知らず。されど維新史に於て、三傑同樣の働きを爲したる勝海舟翁の如きは、親しく其の膝下に教を奉ずる事多年であつた。又た 明治天皇の聖徳を成就し、其の背後の一大勢力と、伊藤公より認められたりし、元田永孚先生の如きも、同郷の先進として、吾父の師友として、聊か知る所があつた。而して自餘の元勳諸公の如き、其の既に故人となりしと、現存しつゝあるとに論なく、親疎、厚薄の相違こそあれ。何れも其の知遇を忝うし、其の抱負、經綸、功勞、事業、人品、性行等に就ても、會得したる所少くないと思ふ。
以上は、予をして自から揣らず、此の事業に著手せしめたる理由、若くは動機の重なる點である。
然し『明治天皇御宇史』を書かんとするには、『孝明天皇御宇史』を看過する事は能はぬ。何となれば、嘉永安政以降の波瀾曲折を經て、始めて維新囘天の偉業は、出來したのである。言ひ換ふれば、『孝明天皇御宇史』を腹の中に入れ置かねば、『明治天皇御宇史』を、理會することは、難いのである。そこで予は、更らに進で、『孝明天皇御宇史』より筆を援らんと試みた。
此の時代に就て、如何に予が興味を有するかは、拙者『吉田松陰』を一讀したる君子の、蚤くも知悉せらるゝ所であらう。予が父の如きも、平凡の生涯ながらも、横井小楠門下として、産を破りて、國事に奔走したる一人である。予が家の如きも、肥薩の界に在りし爲め、往來の志士の屡※[#二の字点、1-2-22]宿泊し、來訪したるは、云ふ迄もない。予は幼時より、桃太郎、かち/\山以上の興味を以て、維新志士に關する噺を聞いたのである。されば『孝明天皇御宇史』に溯ぼることは、予に取りては、一倍の負擔の増加を意味すると與に、更らに一倍の愉快を意味する。
併しながら、『孝明天皇御宇史』に著手するに際して、知らねばならぬは、徳川時代である。此が即ち『孝明天皇御宇史』の前提である。一方より見れば、明治中興の新勢力、新結合の漸く出來せんとし、他方より見れば、徳川幕府の舊權威、舊組織の已に潰崩しつゝあるは、孝明天皇時代の特徴である。孝明天皇時代ありての、『明治天皇時代』たるが如く、徳川時代ありての、孝明天皇時代である。されば『明治天皇御宇史』を著述する爲め、『孝明天皇御宇史』に溯らしめたる同一の理由は、更らに予をして、『徳川時代』に溯ぼらしむる、必要を生じた。
然も徳川時代の創業者は、徳川家康でありて、家康の事業は、信長、秀吉の事業を基礎として、築き上げたのである。徳川の天下は、家康、秀忠、家光の合同事業と云ふよりも、寧ろ信長、秀吉、家康の合同事業と云ふ方が、適切かも知れぬ。何れにしても、徳川時代を了解するには、織田、豐臣時代を無視する譯には參らね。そこで予が、『明治天皇御宇史』を編せんとする一念は、遂に予を驅りて、先づ筆を信長時代より起す可く、決心せしめた。
予が徳川時代、若しくは織田、豐臣時代に關する知識は、何等格段の物はない。多大の興味は、我が國民の多數と與に、此の巨人勃興の時代たる、元龜天正、文祿慶長の歴史に有しつゝあるも、そは興味丈にして、特別の研究を費した事はない。併し予は、信長に對する新井白石、其他前人の論評に就ては、頗る不服である。偶然の行き掛りとは云ひながら、此の日本の快男兒、千古の英雄より書き初むるは、予に取りて如何に會心の業であらうよ。
歴史は川流の如く、之を溯れば、殆んど際限もない。畢竟歴史は緜々不斷のものにして、時代を劃するは、史家の勝手なる方便に過ぎぬ。併し皇室を中心とし、國家を統一し、其の統一したる勢力を、世界に發揮する明治中興の皇謨の淵源は、足利時代にあらず、北條時代にあらず。實に織田、豐臣時代にありと云ふ可きであらう。そこで『明治天皇御宇史』の緒篇として、此の時代を源頭とするは、比較的妥當と信ずる。
兎にも角にも、維新三傑活動の天地を描く序幕として、元龜天正の三巨人―信長、秀吉、家康―の時代を叙するは、聊か縁遠き樣なれども、其の針線、脉絡の貫通は、斷じて疑を容れぬ。
されば予の修史の事業は、如上の理由によりて、三期に別たねばならぬ。
 第一期  織田、豐臣時代より徳川時代
 第二期  孝明天皇時代
 第三期  明治天皇時代
後奈良天皇天文の末期より、明治天皇明治の終期に亙り、年數に積れば、三百七十年内外となる。記述の方針は、概して前に略して後に詳に、即ち年代と與に、其の精要を加ふるつもり。即ち第一期は緒論であり、第二期は中論であり、第三期は結論である。予が滿腹精神の注ぐ所は、繰り返す迄もなく、『明治天皇御宇史』である。
我が政府には、維新史料編纂の爲め、又た明治天皇御實記編纂の爲め、已に局を設け、館を開らき、其業に從事しつゝある。織田、豐臣、徳川氏時代も、帝國大學に於ては、史料編纂中である。予が眇乎たる一個人として、此の三時期に亙る史を編せんとするは、大膽であり、又た僭越であらう。併し官史には、官史の體あり。私史には、私史の體あり。若し予が私史にして、我が大和民族の精神的食糧となり、我が大日本帝國興隆の不盡的泉源となるを得ば、予が渾身の肝血を、此に向て絞り盡すも、肯て悔ゆる所はない。
頼山陽の日本外史は、彼が二十歳を超えざる以前に著手した。然るに予が五十六歳の今日より、此の大業に著手するは、聊か日暮途遠の嘆を免かれぬ。併し伊能忠敬が、日本全國測量の大事業を創めたるは、恰も予と同年、彼が五十六歳の時である事を憶へば、予に於ても稍※[#二の字点、1-2-22]心強き感が無いでも無い。予は即今一切世間への應酬をも省略し、成る可き丈時間と、精力とを、此の一方に傾倒しつゝある。其の果して此を完成す可き乎、將た完成の何時にある乎は、唯だ天之を知る。
   大正七年五月廿六日 淇水老人第四週忌の當日
   逗子觀瀾亭に於て
蘇峰學人

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