普及版刊行に就て
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普及版刊行に就て


 『近世日本國民史』が愈※[#二の字点、1-2-22]五十册の峠を登りたるに就いて、發行者明治書院から、普及版を出すことゝなつた。これは著者たる予にとつても、本懷の次第である。著者は天下百世の讀者を持つといふものゝ、現代に於ても、成可く一册でも多く頒布せられ、一人でも多く讀者を得んことは、固より希ふ所にして、明治書院が此事を企てたのは、著者が心から賛成する所にして、江湖の諸君が出來得る限りの力もて、援助せられんことを、懇望して止まない。
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 月日の經つのは早きものだ。當初は十年計畫でやりかけたこの仕事が、今や足掛け十七年となり、正確に云へば十六年を過ぎてゐる。而して完成の期は何時であるかと云へば、著者よりも、寧ろ神樣に聽く外はあるまい。今日は既に册數から云へば、五十三册、元治甲子役の第百十五囘を草し、正に五十三册目を完結してゐる。當初からの囘數を見れば、最早や六千二十囘となつてゐる。而して十五字詰八行の原稿用紙で十萬枚、字數で一千二百萬字に上つてゐる。固よりこれは概算ではあるが、大差無き積りである。
 予は果して幾囘にて完成するを得るや否や、即ち豫じめ本書の大團圓と定めたる、明治天皇の崩御遊された、明治四十五年七月三十日迄、完結するを得るや否や。恐らくはそれまでに囘數では一萬囘、册數では百册に幾きものになるであらう。それが果して幾年の後に出來上るべきか、七十二歳の著者としては、心細く感ぜぬではないが、天若し本書を完成せしむるに意あらば、きつとそれ迄は餘命が存へるであらうと信じてゐる。
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 抑※[#二の字点、1-2-22]予が修史に志したのは、決して晩年の出來心ではない。謂はゞ歴史は予の初戀であつた。少年時代に最も耽讀したのは、歴史であつた。中年時代も亦歴史であつた。晩年に至つて愈※[#二の字点、1-2-22]歴史である。而して啻に讀むばかりでなく、自分も亦た書いて見たいといふ志が當初からあつた。
 日本の歴史では山陽の『外史』『政記』、白石の『讀史餘論』、親房卿の『神皇正統記』などはいふ迄もなく、支那の歴史では『左傳』『史記』、西洋の歴史ではギボンの『ローマ衰亡史』マコレーの『英國史』などは、何れも壯年時代に耽讀したるものにして、今尚ほ其の時代の戀人に接する如き心を以て、此等の書籍に接してゐる。
 されば予は竊かに志を立て、他日その機會を得ば、必ず、孝明天皇の御宇より、明治天皇の御宇にかけての、維新史を書いて見度いものと考へて、その爲に材料を集め、且又た維新の古老、諸先輩にも、親しく聽く所があつたのは、恐くは明治十五六年、予が二十歳前後からの事であつたと思ふ。
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 然るに明治十九年家を携へて東京に出て以來、二十年に『國民之友』を發刊し、二十三年には『國民新聞』を發刊し、予は單に新聞の主筆として、その筆政を司るばかりでなく、社長として一切の經營に任ぜねばならぬ事となり、その爲に殆んど寸暇さへもなかつた。
 然かのみならず、時と共に予が政治上に於ける活動は、愈※[#二の字点、1-2-22]加はり來り、躬自ら代議士となるでもなく、政黨員となるでもなかつたが、論ずる所、これを實際に行ふことを期するの餘り、殆んどその半身を政界に投沒し、これが爲に愈※[#二の字点、1-2-22]多忙を加へ來つたが、明治四十五年七月三十日、明治天皇の崩御と同時に、予は今更らながら、明治天皇の難有き御宇に生を享けたるを感激し、せめて報恩の一端として、明治天皇御宇史を編し、これを百世子孫に傳へんとするの志を決し、漸くその爲に筆を執らんとするの意が動き初めた。謂はゞ青年時代より志したる修史の業が、愈※[#二の字点、1-2-22]具體的となりかけた。
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 適※[#二の字点、1-2-22]桂公爵新政黨發起の事あり、予又た從來の縁故より、その事に參畫し、姑らく修史を實行するを中止したが、大正三年予が實際政界と全く絶縁するに至つて、愈※[#二の字点、1-2-22]この實行に著手した。當時予は五十二歳、予の父淇水翁は九十三歳。而して予が此事を淇水翁に申送つたところ、淇水翁は逗子老龍菴より、左の如き返書を與へられた。
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御來書忝々誠に以御同慶、愈順運伏祈仕候。御著述最早御着手爲萬世折角御愛養、御頭腦を時々御慰有之度、頑翁在世中全部拜觀可致、相樂居申候。久々之幽栖只々何か物足らぬ心地、御一笑可給候也。
  五月十三日
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[#地から2字上げ]老  龍  菴
  成  簣  堂
     御  主  人
 此の如く九十三歳の予の父は、五月十三日附にて『頑翁在世中全部拜觀可致相樂居申候』と、返書を送り來りたるに拘らず、同月二十六日には、溘焉として長逝した。
 予が如何に失望落膽したかは、とても言葉には盡せない。今日から考ふれば予は實に薄志弱行であつたと思ふ。若し大正三年から愈※[#二の字点、1-2-22]稿を續けたならば、予の修史の進境は、更に見るべきものがあつたであらう。
 然るに父の死は、予に非常なる精神的打撃を與へ、その爲に姑らく修史の筆を擲つの止むなきに至つた。大正四年には『世界の變局』を著し、大正五年には『大正政局史論』及び『大正の青年と帝國の前途』を著し、大正六年には『公爵桂太郎傳』を完成し、而して第二囘の支那漫遊を試み、更に『杜甫と彌耳敦』を著し、大正七年に至つて漸く大正三年の當時に立戻り、その五月二十五日に『修史述懷』を草し、六月三日より愈※[#二の字点、1-2-22]織田氏時代第一囘を起稿し、牛歩遲々、以て今日に至つた。
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 此の十七年間に於ては、凡有る事件があつた。世界も大變動した。日本も大變動をした。而して日本國民の一人たる予、及び予の身邊にも亦た一大變動があつた。予が起稿し初めたる大正七年六月頃は、今尚ほ世界大戰最中であつた。予は實に世界大戰が東洋にも渦卷き、日本はシベリア出兵の問題などにて、國論が沸騰してゐる最中に、遙かに想を元龜天正の古に囘らし、三百數十年前の社會と思想と、舞臺と役者とを檢討し、且つ描寫し初めた。
 斯くて大正八年二月に至つて、思ひがけなく予は大患に罹り、而して予の母も亦た九十一歳を以て逝いた。予は大手術を爲さねばならなかつたが、尠くとも予の周邊の人々は悉くとは云はぬが、半ば以上危惧の念に驅られ、予も亦た死生を天命に一任した程であつたが、仕合せにも一命を取止め、予の史筆は中絶したること頗る短期にして、依然繼續し、殆んど豫定の行程を以て進歩することが出來た。
 然るに大正九年の一月に至つて、予は徒らに過去の歴史にのみ全心全力を盡す能はざる責任を感じ、新聞記者たる立場より、愈※[#二の字点、1-2-22]『大戰後の世界と日本』なる大題目に就いて稿を起し、それが大正九年一月六日に初まり、同じく七月十五日に至る迄、實に二百十囘の長篇を作した。今日より考ふれば、この半年以上の日子に亙つて、修史の筆を中止したるは、甚だ遺憾に堪へないが、然も自ら顧みて、當時これ丈の犧牲を拂つたのも、新聞記者の立場として、又た餘儀なき事であつたと思ふ。
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 それにも拘らず、大正九年中に豊臣氏時代の甲乙二篇を刊行することを得たるは、又た仕合せの事であつた。大正八年の大患以來、予は隨時地方に旅行し、史蹟を探るの外は、大概ね逗子の野史亭に在つて、痾を養ふ傍ら、修史に從事した。東京に時々來往して、社務を見たことは勿論である。
 斯くて大正十年には、青山の邸宅を全部提供して、青山會館設立の企圖を發表し、十一年には愈※[#二の字点、1-2-22]居を大森山王に移すことになつた。大正十二年は予にとつては實に思出多き年である。當時予は六十一歳、所謂る還暦であつた。予は相變らず逗子野史亭にあつたが、元日には左の如き詩を作つた。
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嶽雪波光帶[#二]瑞烟[#一]。笑迎華甲一周天。人間百事消磨盡。唯祷殘生二十年。?
唯祷殘生二十年。文章敢擬馬遷編。巍巍明治聖天子。盛徳宣揚千古傳。?
盛徳宣揚千古傳。君民相信道相全。文章報國非[#レ]無[#レ]意。唯祷殘生二十年。
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これを見れば、當時に於ける予の心境は、多言を俟たず、分明であらう。
 當時殘生二十年を祷ると云つたが、最早やその二十年の半ばは過ぎ去つた。今日から云へば、更に年限擴張を祷らねばならぬ事となつた。人間の豫算は兎角に間違ひ勝である。
 同年五月には、當時出版の『近世日本國民史』織田氏時代三册、豐臣氏時代七册に對して、帝國學士院より恩賜賞を授與せられ、六月には恩賜賞拜受の祝賀會を帝國ホテルに開かれた。予は初より草莽の老書生たるを以て自ら甘んじ、何等學問上に於ける名譽を求むる心は無つたが、偶然にも此の如き恩賜賞を授與せらるゝことは、全く予にとつては、意外千萬であつた。
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 然るに歡樂極りて哀情多しと云はんか、九月一日關東大震火災の爲に、予の畢生の事業たる、國民新聞社、及び民友社は、全部灰燼に委し去つた。これは予にとつては少からざる打撃であつた。更に大なる打撃は、大正十三年九月十六日、予の次男徳富萬熊の死であつた。然も予は寧ろ憂悶を排せんが爲に、愈※[#二の字点、1-2-22]力めて修史の業に邁進した。
 更に昭和四年に至つて、予には又た大なる打撃が來つた。それは同年一月上旬、予が自ら發起し、自ら扶植し、自ら予の生命の一部分とも思うたる、國民新聞社を去らねばならぬ事であつた。關東大震火災は、物質的の打撃であつたが、國民新聞社退去は、全く精神的の打撃であつた。然も予は此等の刺戟の爲に、愈※[#二の字点、1-2-22]予の力を修史の上に加へ來つた。而して昭和六年九月九日に至り、又た予の長男徳富太多雄は逝いた。これも亦た予にとつては多大の打撃であつた。予の兩兒は、予にとつては左右の腕であつた。然るに兩兒を失うて以來、予は全く兩腕を殺がれ去つた、憐れむべき一老翁となつた。予は昭和六年九月八日、左の如き詩を作つた。
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大正震災後。六囘寒暑更。寒暑何須[#レ]説。人事轉堪[#レ]驚。阿熊墓木拱。阿雄病床横。交友半凋落。史業奈[#二]孤※[#「てへん+掌」、第4水準2-13-47][#一]。昨日鳳凰宿。今作[#二]鴟梟營[#一]。舊歡追難[#レ]及。新愁拂復生。學[#レ]頭看[#二]岳雪[#一]。照[#レ]顏有[#二]餘清[#一]。
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 而してその翌日、實に予の長男は逝いた。諺に『死兒の齡を數ふ』と云ふが、彼等は兩人とも既に一人前の人間となつて、今更ら數ふべき齡ではなかつた。それ故尚更ら予に於ては打撃であつた。
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 予は此間種々の事件に遭遇した。今悉くそれを語る必要はない。但だ予が昭和七年七十歳に達し、同年三月、古稀祝賀會を帝國ホテルに催さるゝに際し、忝くも高松宮宣仁親王殿下より、『近世日本國民史』に對し、有栖川宮獎學金三千圓を下賜せられたる一事は、實に感激に堪へないことゝして、今此に特筆するを禁じ能はざるものがある。此の恩賜が予に如何程の獎勵と慰撫と刺戟と鞭韃とを與へたかは、くだ/\しく申す迄もあるまい。
 比ろ修史六千囘に達するや、予は實に左の一詩を作した。
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慨然志[#二]修史[#一]。沒頭故紙堆。辛苦十七歳。新編六千囘。字數千※[#「百+百」、第4水準2-81-78]萬。藁重十萬枚。翩翩山陽子。快馬度[#二]崔嵬[#一]。堂堂源白石。老吏斷[#レ]獄來。欽仰正統記。忠憤大義開。記實期[#二]千古[#一]。蕉蔓少[#二]剪裁[#一]。完成知何日。前途眇悠哉。人事不[#レ]如[#レ]意。天意自恢恢。
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 一切のことは此の一詩に概括してある。今更ら多言する必要はない。
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 元來歴史を一箇の科學と見る者もある。歴史を一箇の藝術と見るものもある。予の『近世日本國民史』は、科學的製品としては寧ろ科學的精確を缺き、藝術品としては藝術的技巧を缺いてゐる。予は科學的の歴史家でもなく、又た藝術的の歴史家でもない。それで予を以て頼山陽や新井白石と比較せらるゝ事は、予にとつては正直のところ難有迷惑である。予は彼等諸先輩と決して自ら長短を比べる程の野心は無い。又た抱負もない。只だ予は、明治天皇の御宇が如何なる御宇であつたか。明治の御代は如何なる御代であつたか。又たその御代を統治し給ふ、明治天皇の盛徳大業は、如何なるものであつたか。更に明治の御代を來たす、孝明天皇の御代は如何なる御代であつたか。その御代を治らす、孝明天皇は如何なる、天皇にて在したか。又たその時代に於て、それ/″\の役を勤めたる人物には、如何なる人々がゐたか。それ等の事を極めて如實に語ることが、予の目的である。
 然るにその時代を語るには、その以前を語らねばならず、その爲め前奏曲として、織田、豐臣、徳川の三時代を語る事とした。予は織田氏時代の第一囘を書く時から、明治天皇の御宇史の終結を、頭の中に入れて書いた積りである。それで大體から云へば、此書の完成が九十册となるか、百册となるか、或は百數十册となるか、それは未定の問題だが、兎も角も本書の中に書れたる一字でも一行でも、悉く全體に關係を持つことは、髮の毛一筋でも、その人の全身に關係を持つと同じ意味である。それで本書は、これを全體として讀まれることが、予の望みである。全體として見なければ、本書の大なる規模と、大なる仕組みとは、諒解することが出來ない。
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 併し又た予は部分的にも、亦たこれを分讀するに適當なる樣に編纂したる積りである。例へば織田氏時代は織田氏時代で完結し、豐臣氏時代は豐臣氏時代で完結し、朝鮮役は朝鮮役で完結し、又た一箇の題を持つ或る一册は、一册づつにて完結するものにして、必しも全體を通じて讀んで、初めて譯が判るといふではなく、部分的に讀んでも譯が判るものである。その爲に恩賜賞なども、織田氏時代三册、豐臣氏時代、及び朝鮮役七册に授けられたものと思ふ。恩賜賞の審査要旨に、『この十册も又た將來公けにせらるべき他の部分と分割して、獨立せる史書と見做し得るものとす』と云つたのは、よく著者の意を得たるものと云つて差支あるまい。
 更に一歩を進めて云へば、百册には百册の意味があり、一册には一册の意味があり、一章には一章の意味があり、一囘には一囘の意味があると云つても差支ない。全體は全體として見ることが出來、部分は部分として見る事が出來、部分の中にも小部分は小部分として見ることが出來、大部分は大部分として見ることが出來る樣に、著者は豫じめ工作してゐる。
 但しこれを一囘一囘に見るのは、如何にも※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りくどく、又た長い丁場の一部で、前後の聯絡が判らぬ樣な心地もするが、これを一册の著として纒めて見れば、自らその中にすべての聯絡があつて、首尾相應ずる常山の蛇の如く、或る場合には、小説以上の興味も贏ち得らるゝものがある。
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 著者は歴史をかりて我が意見を陳述せんとするものではないが、同時に只だ無意義に事件の平面描寫を爲すものでもない。著者は日本國に對し、大なる信念を持つてゐる。此の日本國の運命に對し、大なる信頼を持つてゐる。而して日本の歴史、特に著者が辿り來たれる近世日本の歴史は、三千年の我國の歴史中、殆んど前後に比類無き時代であることを信じてゐる。中間徳川氏の時代は兎も角も、前に於ては織田、豐臣、徳川の初期、後に於ては 孝明天皇の御時代より 明治天皇の御時代に至るまで、とても他國にもその例なく、日本自身の歴史にも亦たその例無きものと見てゐる。
 此の如く大いなるドラマを描くには、大史筆が必要であるが、著者は不幸にしてその人でない。併しその人でなき迄も、自らその先を爲して、後の賢者を俟たんとするが、著者の企圖である。
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 或人は早く結論を聽かしてくれといふが、これは著者にとつては、無理である。著者の目的は前提を語るでもなく、結論を語るでもない。寧ろ重きを兩者の中間にある由縁に置き、これを語る爲である。前提から結論に飛ぶことは、何の雜作もない。併し歴史の歴史たる要は、單に事實そのものゝ描寫ではない。又た何故に此に至つたかといふ論理的推究でもない。それよりも如何なる道行きを辿り、如何にして此に至つたかといふことを、公平に、明白に、適切に語ることが、最も大切である。歴史が人間學たるは、これが爲である。歴史が政治家の六蹈三略たる所以も、これが爲である。歴史がすべての人の處世教訓たる所以も、これが爲である。歴史が我々に大なる世界を展開し、大なる視野を開披するのも、これが爲である。故に予は因を語り、果を語るばかりでなく、その中間の縁を語ることに最も努めてゐる。予の苦心は即ち此にある。
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 或は餘計なる資料をごて/\と並べ立つるに及ばずといふ者があるが、予は我が歴史を精巧なる藝術品として取扱はず、寧ろ出來得る限りに於て、資料そのものを、そのまゝにて使用せんことを欲してゐる。資料を作り直して、予がものとして使用することは、予にとつては寧ろ樂な仕事である。併しそれでは只だ予が一家言としての歴史に過ぎぬ。併し予の歴史は出來得る限りに於て、凡有る歴史の寶庫であることを期待してゐる。それで資料をその儘用ふる所以は、歴史の材料に用ふるだけでなく、その材料が歴史そのものである意味に於てこれを用ひる。
 抑※[#二の字点、1-2-22]文體にしても、織田氏時代には此の如き文體があり、豊臣氏時代には此の如き文體があり、徳川氏時代には此の如き文體があり、又た維新前後には此の如き文體がある。その文體をその儘使用する事に依つて、如何に時代の變遷をそれにて卜することが出來るか。又た文體はその時代相應のものを用ひて、初めて時代の精神、風尚を、手にとる如く明白に了解することが出來る。
 且又た例を擧ぐれば、同じ上書建白、往復書翰の類でも、佐久間象山は此の如き文字を用ひ、長井雅樂は此の如き文字を用ひ、藤田東湖は此の如き文字を用ひ、大久保甲東、西郷南州は又各※[#二の字点、1-2-22]此の如き文字を用ひてゐるといふことが判り、文字でその人を知る事も出來る。僅かに一言半句の日記帖より抄録したる文字にも、その人その人によつて、各々個性が發揮せられてゐる。
 予はこれを敬重して、各人各個をして各※[#二の字点、1-2-22]自ら語らしめ、強ひて悉く予の手に書き直して、總ての人が予によつて同一化せらるゝが如きことを好まない。
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 曾て予は屡※[#二の字点、1-2-22]云つたが、『漢書』は多くは各個人の文書をその儘引用し、『史記』は殆んど悉くこれを改刪してゐるが、後世に於ては、名文としては『史記』を讀むが、歴史としては『漢書』に重きを置いてゐる。予は繰返して云ふが、材料を其儘用ふるは決して勞を省くが爲ではない。歴史的眞價を失墜せざらんが爲に、進んで云へば、歴史的眞價を保存せんが爲である。今日はいざ知らず、百年の後には凡有る堙滅すべき貴重なる資料が、予の『近世日本國民史』に保存せられるものゝ少くない事は、今日より斷じて疑はない。
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 支那では左史言を記し、右史事を記すと云つて、事件ばかりでなく、言も亦た史實として取扱つてゐる。これは最も賢明なる仕方である。世の中を動かすものは大概理想である。理想は大概ね言論に依つて陳述せらるゝ。故に歴史的に大なる資料は、必しも事件のみに限らない。
 此の如くにして言論、文章なども、歴史家は大切に取扱はねばならぬ。或る場合には一の上書、建白が、一の戰爭より大なる意義を持つ場合が無いとも限らぬ。故に歴史家はその眼光を、有形、無形に論なく、事と言とを問はず、その必要なるものは、擧げてこれを採集せねばならぬ。
 而して時としては事實そのものでは無きも、巷談、街説などゝいふものも、亦た資料として入用である。これはそれが直に事實を語るものではないが、尠くともその雰圍氣を語るものである。
 時代にはその時代に行はれたる事實ばかりでなく、その事實の由つて來る雰圍氣がある。又た事實に由つて生ぜられたる雰圍氣がある。所謂る時代の精神、時代の風尚がこれである。これを知るには、縱令その語る所は正確を缺くも、若くは半ば信ずべからざるも、それはそれとして、尚ほこれを無視する譯にはゆかぬ。風説を信ずるのでもなく、風説を事實とするでもない。併し風説は風説として傳ふべき價値がその間に存する。これ等の凡有る資料を撰擇陶汰して、一代の歴史を著すことは、非常なる氣魄と、非常なる勉強とを要する。著者は固よりその人ではないが、その志す所は即ちこれである。
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 凡そ唯物史觀に偏する人は、世の中に殆んど宿命で決つた如く考へてゐる。故に唯物史觀論者と、宿命論者とは、一は物質萬能であり、他は心靈萬能であるが、その到著點は同一である。即ち一は物質の力に人間は支配せらるゝものと信じ、一は神の力に人間は支配せらるゝものと信じてゐる。彼等は人事に於て、個人を無視し、且つ個人の自由なる働きを無視してゐる。但だ予は併せて個人の力なるものを信じてゐる。人間の自由なるものを信じてゐる。
 昔から時代が人物を作るか、人物が時代を作るかといふことは、水掛け論で、今以て決著しない。けれども決著しないのが當然である。或る場合には時代が人物を作り、或る場合には人物が時代を作る。時代あつての人物であり、人物あつての時代である。個人あつての社會であり、社會あつての個人である。著者は何れにも偏せず、常に時代の趨勢を洞察すると同時に、この時代を如何にして推移せしむるか、如何にして進化せしむるかに就いて、常に考察を忘れない。
 此の如くにして著者は環境なるものに重きを置くと同時に、その環境を支配し、環境を作爲する個人にも、亦た重きを置いてゐる。著者は哲學史家ではない。然も、哲學の力を借らざるも、社會に生存するものは、如何にして社會が我等を育くみ、又た我等は如何にして社會に報ゆるかを知つてゐる。我等と環境とは、謂ゆる魚が水に於ける如く、鳥が空氣に於ける如きものである。それのみならず、我等は時としては我等の力によつて、環境を一變する事さへも出來る。吉田松陰、橋本左内などの諸先生は、正しくその人であつた。
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 予は曾て明治史に就いて考ふる所あり、伊藤公の論を聽くことが少くなかつた。而して公は元田永孚先生に就いて語り、尚ほ露國の旅行より歸り來らば、更に改めて語る所あるを約せられた。然るに公はハルピン停車場に於て、空しく刺客の難に罹つて逝かれ、それを果されなかつた。
 予は又た本書の編纂に當り、大正七年五月十五日、山縣公に向つて、愈※[#二の字点、1-2-22]修史の筆を執るに際し、左の一書を呈した。
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却説豫て申上候小子修史の業は、約三期に分ち、第一期緒篇織田信長より孝明天皇迄。第二期孝明天皇御宇史。第三期明治天皇御宇史と申す順序に相成候。緒論は一氣呵成に候得共、此れには白石も山陽も思ひ附かざる若干の鄙見も可[#レ]有[#レ]之、何れ近日より起稿可[#レ]仕候。但正味は明治天皇御宇史にして、此れには當代の巨人たる元勳諸公の公的生活も詳悉可[#レ]致、而して其の直言不諱は官選と類を殊にし、其の眞相を闡明し、老閣其他諸公の冥々裡の苦衷丹誠をも無[#二]遺憾[#一]發揮し、以て信を天下百世に取るの精神に有[#レ]之候間、何卒老閣に於せられても、其の御尋酌を以て、小子に御訓誨被[#レ]下候樣奉[#二]合掌[#一]候。獨逸にはトライチケの獨逸國民史あり、英國にはマコレー卿の英國近世史あり。何れも國民教科書の隨一と相成、實物教育を以て、各自の國民的精神を陶冶し候。小子無似なりと雖も、聊か二史家と其の旨趣を一にし、聊か文章報國の積忱を抽んと欲す。
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 然るに公は大正十一年二月に逝かれた爲に、公の活躍せる時代に及ぶ記事を見ることが出來ない。今や馬關攘夷の記事を草しつゝ、公にこれを示すことの出來ないことを、尤も痛恨とする。
 且又た松方公の如きは、最も予の修史に同情を表せられ、曾て『修史報國恩』といふ文句を記して贈られた。然るに最近松方公十年祭は行はれ、切角記事が公等の直接關係したる生麥事件に及んでも、これを公の一覽に供へることが出來ぬは、かへす/″\も遺憾である。尚ほ予の親友故舊の此の十七年に凋落したるもの、數ふるに遑なく、今更ら起稿の當初を囘想し、此の十七年間の歴史を繰返せば、殆んど隔世の感がある。然も予は更に繰返して云ふが、天若し本書を完成するに意あらば、冀くは予に若干年の健康を與へよ。

  昭和九年七月七日   東京民友社に於て
蘇峰七十二叟


昭和九年七月念二 岳麓山中湖畔旭日丘雙宜莊に於て
蘇峰老人一校過

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