篇外剩筆
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[#5字下げ]篇外剩筆[#「篇外剩筆」は大見出し]
予《よ》は大正《たいしやう》七|年《ねん》六|月《ぐわつ》三|日《か》を以《もつ》て、第《だい》一|囘《くわい》『總論《そうろん》』を起稿《きかう》し、八|月《ぐわつ》十一|日《にち》を以《もつ》て、第《だい》百|零《れい》二|囘《くわい》、『新時代《しんじだい》の權化《ごんげ》』を終稿《しうかう》す。此《こゝ》に於《おい》て織田氏《おだし》に關《くわん》する前篇《ぜんぺん》成《な》る。是《こ》れ實《じつ》に予《よ》が修史《しうし》行路《かうろ》の、第《だい》一|程《てい》である。宛《あたか》も往昔《わうせき》江戸《えど》より京都《きやうと》に上《のぼ》る、東海道《とうかいだう》の旅客《りよかく》が、日本橋《にほんばし》を發足《はつそく》して、品川驛《しながはえき》に著《つ》いたも同樣《どうやう》だ。前途《ぜんと》を望《のぞ》めば、箱根《はこね》八|里《り》の嶮所《けんしよ》もあり、大井川《おほゐがは》渡《わた》しの難場《なんぢやう》もある。予《よ》が努力《どりよく》の大主腦《だいしゆなう》たる、明治天皇《めいぢてんわう》御宇史《ぎようし》に到達《たうたつ》する迄《まで》には、幾許《いくばく》の歳月《さいげつ》を要《えう》す可《べ》き乎《か》、幾册《いくさつ》の書《しよ》を成《な》す可《べ》き乎《か》、予《よ》自《みづ》から之《これ》を知《し》らず。唯《た》だ望洋《ばうやう》の嘆《たん》のみである。而《しか》も予《よ》は最善《さいぜん》の努力《どりよく》を以《もつ》て、斯《この》志《こゝろざし》に報《むく》いんとす。
今更《いまさ》ら繰《く》り返《かへ》す迄《まで》もなく、予《よ》が修史《しうし》の目的《もくてき》は、明治天皇《めいぢてんわう》の盛徳《せいとく》大業《たいげふ》を、百|代《だい》に傳《つた》ふると。近世日本《きんせいにほん》の構成《こうせい》、發達《はつたつ》、及《およ》び之《これ》に貢獻《こうけん》したる人物《じんぶつ》の事功《じこう》と、近世日本國民《きんせいにほんこくみん》の生活《せいくわつ》と、思想《しさう》とを叙《じよ》し。現代《げんだい》、及《およ》び後來《こうらい》の我《わ》が同胞《どうほう》をして、其《そ》の教訓《けうくん》を此中《このうち》より得《え》せしむるに存《そん》ず、手短《てみじか》く云《い》へば、最近《さいきん》三百五六十|年間《ねんかん》の、通俗的《つうぞくてき》日本國民《にほんこくみん》の傳記《でんき》を作《つく》りて、其《その》活《い》ける教訓《けうくん》を、子孫《しそん》に殘《のこ》さんとするに他《ほか》ならぬ。
予《よ》には創設《さうせつ》もなく、新論《しんろん》もなく、獨得《どくとく》の見《けん》もなく、一として世《よ》に誇《ほこ》る可《べ》きものはない。但《た》だ本書《ほんしよ》にして、如上《じよじやう》の目的《もくてき》に、幾分《いくぶん》にても副《そ》ふを得《え》ば、それで滿足《まんぞく》だ。予《よ》は殊更《ことさ》らに、前人《ぜんじん》、及《およ》び現代人《げんだいじん》の意見《いけん》を踏襲《たふしう》するを欲《ほつ》せず。さりとて故《ことさ》らに我意《がい》、我見《がけん》を振《ふ》り廻《まは》すことも好《この》まぬ。雷同《らいどう》が弱點《じやくてん》であれば、矯異《けうい》も弱點《じやくてん》だ。予《よ》は自《みづ》から信《しん》ずる所《ところ》によりて、直説《ちよくせつ》し、平叙《へいじよ》した。若《も》しそれが他人《たにん》の意見《いけん》と、符合《ふがふ》したとて、剽竊《へうせつ》とは思《おも》はぬ、反對《はんたい》したとて、拗僻《えうへき》とは信《しん》ぜぬ。
本書《ほんしよ》は、周知《しうち》の事實《じじつ》を根據《こんきよ》として、組《く》み立《た》てたものである。而《しか》して其《そ》の事實《じじつ》は古人《こじん》、及《およ》び今人《こんじん》が、努力《どりよく》の結果《けつくわ》に他《ほか》ならぬ。予《よ》は之《これ》を採用《さいよう》したるにせよ、せざるにせよ、其《そ》の負《お》ふ所《ところ》の少《すくな》からざるを、特筆《とくひつ》、明記《めいき》するの義務《ぎむ》を、剴切《がいせつ》に感《かん》ずる。就中《なかんずく》我《わ》が帝國大學《ていこくだいがく》の史料編纂《しれうへんさん》に關係《くわんけい》ある、諸君《しよくん》の勞《らう》に負《お》ふ所《ところ》は、多大《ただい》と云《い》ふも、溢言《いつげん》でない。
世《よ》には某氏《ぼうし》の説《せつ》は、某氏《ぼうし》の説《せつ》より脱化《だつくわ》したとか、某書《ぼうしよ》は某書《ぼうしよ》の燒《や》き直《なほ》しであるとか、詮索?《せんさく》する者《もの》がある。乃《すなは》ち頼山陽《らいさんやう》の如《ごと》きも、白石《はくせき》の説《せつ》を剽竊《へうせつ》したとか、何《なに》とか、批難《ひなん》せられて居《を》る。併《しか》しながら山陽《さんやう》をして云《い》はしむれば、恐《おそ》らくは其《そ》の申分《まをしぶん》があるであらう。縱令《たとひ》白石《はくせき》の説《せつ》を採用《さいよう》したとて、それは山陽《さんよう》の累《わづらひ》とはならぬ。彼《かれ》の『日本外史《にほんぐわいし》』は彼《かれ》の一|家言《かげん》である。彼《かれ》には、彼《かれ》の獨自《どくじ》一|己《こ》の目的《もくてき》があり、それを達《たつ》する方便《はうべん》として、之《これ》を採用《さいよう》したのだ。山陽《さんやう》を史家《しか》として評《ひやう》するには、外史《ぐわいし》の全部《ぜんぶ》を以《もつ》てせねばならぬ。其《そ》の一|句《く》一|節《せつ》、一|篇《ぺん》一|章《しやう》に就《つい》て、指摘《してき》するが如《ごと》きは、毛《け》を吹《ふ》いて瘢《きず》を求《もと》むるの類《るゐ》ぢや。
聊《いさゝ》か口廣《くちびろ》き申分《まをしぶん》ながら、本篇《ほんぺん》の著者《ちよしや》に對《たい》しても、斯《か》くあらんことを望《のぞ》む、著者《ちよしや》は材料《ざいれう》の撰擇《せんたく》に就《つい》ては、何等《なんら》の制限《せいげん》を設《まう》けない。自分《じぶん》で材木《ざいもく》を切《き》り出《いだ》すが如《ごと》きは、著者《ちよしや》の力《ちから》の及《およ》ぶ所《ところ》でない。著者《ちよしや》は唯《た》だ材木店《ざいもくてん》より、自己《じこ》の好《このみ》次第《しだい》の物《もの》を獲《え》來《きた》りて、之《これ》を我《わ》が建築《けんちく》の料《れう》とするのみだ。併《しか》し之《これ》を無斷《むだん》で使用《しよう》するは、泥坊《どろばう》も同樣《どうやう》と心得《こゝろえ》居《を》るから、成《な》る可《べ》く其《そ》の馮據《ひようきよ》や、出處《しゆつしよ》を明記《めいき》した積《つも》りである。多數《たすう》のことであれば、失念《しつねん》もあらう。或《あるひ》は自《みづ》から寡聞《くわぶん》、淺識《せんしき》で、著者《ちよしや》の所見《しよけん》が、既《すで》に故人《こじん》の所見《しよけん》であつた場合《ばあひ》もあらう。若《も》し斯《かゝ》る事《こと》あらば、予《よ》は甘《あまん》じて疎漏《そろう》を謝《しや》し、甘《あまん》じて遼東《れうとう》の豕《いのこ》たる譏《そしり》を、受《う》くる覺悟《かくご》である。
古人《こじん》の著作中《ちよさくちう》にて、織田氏《おだし》に關《くわん》する事《こと》は、專《もつぱ》ら太田《おほた》牛《うし》一の『信長公記《のぶながこうき》』に據《よ》つた。讀者《どくしや》は予《よ》が『信長公記《のぶながこうき》』に馮據《ひようきよ》し、且《か》つ其《そ》の文句《もんく》を、其儘《そのまゝ》引用《いんよう》したることの、餘《あま》りに多《おほ》きに過《す》ぎたるを病《や》むであらう。併《しか》し信長《のぶなが》は、其《そ》の史家《しか》に於《おい》ても亦《ま》た、好運兒《かううんじ》ぢや。太田《おほた》牛《うし》一の『信長公記《のぶながこうき》』は、事實《じじつ》の上《うへ》に於《おい》ても、觀察《くわんさつ》の上《うへ》に於《おい》ても、文章《ぶんしやう》の上《うへ》に於《おい》ても、信長《のぶなが》其人《そのひと》を辱《はづか》しめざる、好《かう》傳記《でんき》ぢや。予《よ》は日本《にほん》い於《おい》て、此《かく》の如《ごと》き史筆《しひつ》の存《そん》したるを、何《なん》となく誇《ほこ》りと思《おも》ふのである。『總見記《そうけんき》』は、半《なかば》は稗史《はいし》なれども、事實《じじつ》は概《おほむ》ね『信長公記《のぶながこうき》』を根據《こんきよ》としたれば、甫菴《ほあん》の『信長記《のぶながき》』に比《ひ》して、却《かへつ》て取《と》る可《べ》きものがある。
家康《いへやす》に關《くわん》しては、『參河物語《みかはものがたり》』、『徳川實紀《とくがはじつき》』、『烈祖成績《れつそせいせき》』、『改正參河後風土記《かいせいみかはごふどき》』、及《およ》び山路愛山《やまぢあいざん》の『徳川家康《とくがはいへやす》』其他《そのた》參照《さんせう》の書《しよ》は、擧《あ》ぐるに遑《いとま》なかつた。而《しか》して各書中《かくしよちう》にて、苟《いやしく》も面白《おもしろ》き文字《もんじ》は、其儘《そのまゝ》之《これ》を採用《さいよう》した。予《よ》は愛山氏《あいざんし》の『徳川家康《とくがはいへやす》』を再讀《さいどく》して、斯《か》く迄《まで》意見《いけん》の多《おほ》く合致《がつち》するかと、自《みづ》から驚《おどろ》いた程《ほど》であつた。併《しか》し中《なか》には、相違《さうゐ》の點《てん》もあつた。所謂《いはゆ》る和《わ》して同《どう》せずで、予《よ》は自己《じこ》の所見《しよけん》の儘《まゝ》記載《きさい》した。唯《た》だ愛山氏《あいざんし》を九|原《げん》に作《おこ》して、之《これ》を細論《さいろん》するを得《え》ぬのが遺憾《ゐかん》だ。
其他《そのた》、『史學雜誌《しがくざつし》』、『歴史《れきし》と地理《ちり》』、『史籍集覽《しせきしふらん》』、『正續群書類從《せいぞくぐんしよるゐじふ》』、『國史眼《こくしがん》』、『安土桃山時代史論《あづちもゝやまじだいしろん》』、渡邊世祐氏《わたなべせいゆうし》の『安土桃山時代史《あづちもゝやまじだいし》』、參謀本部《さんぼうほんぶ》の『日本戰史《にほんせんし》』等《とう》、其《そ》の書目《しよもく》のみを掲《かゝ》ぐるも、尚《な》ほ數頁《すうけつ》を埋《うづ》むるに足《た》る。予《よ》は故《ことさ》らに博渉《はくせふ》を衒《てら》ふの嫌《きらひ》を避《さ》け、姑《しば》らく茲《こゝ》に一|括《くわつ》して、其《その》負《お》ふ所《ところ》の少《すくな》からざるを、言明《げんめい》して置《お》く。
予《よ》は山陽《さんやう》の『日本外史《にほんぐわいし》』を讀《よ》んで、其《そ》の譯文《やくぶん》の簡錬明淨《かんれんめいじやう》なるに敬服《けいふく》した。然《しか》も此《こ》れと同時《どうじ》に、原文《げんぶん》の精神《せいしん》、氣脈《きみやく》、香味《かうみ》が、殆《ほと》んど漢文化《かんぶんくわ》したのを遺憾《ゐかん》とせざるを得《え》ない。山陽《さんやう》尚《な》ほ然《しか》り、况《いは》んや予《よ》をや。予《よ》は一|切《さい》の引用書《いんようしよ》を時代化《じだいくわ》することが、讀者《どくしや》に取《と》りて、輕便《けいべん》であると考《かんが》へぬではない。然《しか》も折角《せつかく》古人《こじん》の苦心《くしん》を、埋沒《まいぼつ》せしむるは、頗《すこぶ》る殘念《ざんねん》である。故《ゆゑ》に出來《でき》得《う》る限《かぎ》り、原文《げんぶん》其儘《そのまゝ》引用《いんよう》した。此《こ》れは予《よ》が勞《らう》を省《はぶ》く爲《た》めではない。唯《た》だ原作者《げんさくしや》に對《たい》し、且《か》つ讀者《どくしや》に對《たい》して、忠實《ちうじつ》ならんと欲《ほつ》するからである。讀者《どくしや》若《も》し多少《たせう》の面倒《めんだう》を忍《しの》び、之《これ》を熟讀《じゆくどく》し、之《これ》を精讀《せいどく》せん乎《か》、宛《あた》かも甘蔗《かんしよ》を喫《きつ》する如《ごと》く、愈《いよい》よ久《ひさし?》しくて、愈《いよい》よ滋味《じみ》の饒《おほ》きを覺《さと》るであらう。
最後《さいご》に申《まを》し述《の》べたきは、予《よ》が口語體《こうごたい》を採用《さいよう》した事《こと》だ。此《これ》に就《つい》ては、江湖異論者《かうこいろんしや》も頗《すこぶ》る多《おほ》く、著者《ちよしや》の友人中《いうじんちう》よりも、苦情《くじやう》を持《も》ち込《こ》みたる向《むき》、亦《ま》た尠《すくな》くなかつた。併《しか》し此《こ》れは著者《ちよしや》が熟慮《じゆくりよ》の上《うへ》、採用《さいよう》したのだ。之《これ?》を採用《さいよう》する爲《た》め、著者《ちよしや》は多大《ただい》の犧牲《ぎせい》を拂《はら》うた。その重《おも》なる一は、口語體《こうごたい》は著者《ちよしや》に於《おい》ては、散文體《さんぶんたい》よりも、起草《きさう》に骨《ほね》が折《を》れることである。世上《せじやう》或《あるひ》は、著者《ちよしや》が漫《みだ》りに易《やす》きに附《つい》たものと思《おも》ふ樣《やう》であるが、それは全《まつた》く反對《はんたい》だ。著者《ちよしや》は一|倍《ばい》骨折《ほねをり》の多《おほ》きことを知《し》りつゝ、故《ことさ》らに之《これ》を採用《さいよう》したのだ。それは此《こ》の口語體《こうごたい》の方《はう》が、廣《ひろ》く、遠《とほ》く、久《ひさ》しく、讀者《どくしや》を得《う》ることが出來《でき》るであらうと、信《しん》じたからである。
又《ま》た著者《ちよしや》が口語體《こうごたい》を採用《さいよう》したのを、世間《せけん》に雷同《らいどう》したと嘲《あざけ》る人《ひと》もあれば、或《あるひ》は新《あら》たなる試《こゝろ》みと賞美《しやうび》する人《ひと》もある。毀譽《きよ》倶《とも》に間違《まちがひ》ぢや。得意《とくい》、不得意《ふとくい》、長所《ちやうしよ》、不長所《ふちやうしよ》は別《べつ》として、口語體《こうごたい》は、著者《ちよしや》に於《おい》て決《けつ》して珍《めづ》らしくない。大正《たいしやう》二|年《ねん》に出版《しゆつぱん》したる、『政治家《せいぢか》としての桂公《かつらこう》』の如《ごと》きは、全書《ぜんしよ》を通《つう》じて、口語體《こうごたい》ぢや。明治《めいぢ》四十三|年《ねん》に出版《しゆつぱん》したる、『元田先生進講録《もとだせんせいしんかうろく》』の如《ごと》き、著者《ちよしや》の手《て》に成《な》つた大部分《だいぶぶん》は、口語體《こうごたい》ぢや。其他《そのた》『國民新聞《こくみんしんぶん》』に年々歳々《ねん/\さい/\》掲《かゝ》げ來《きた》れる、長篇《ちやうへん》の口語體《こうごたい》の雜録類《ざつろくるゐ》で、著者《ちよしや》の名《な》を署《しよ》せざる著者《ちよしや》の文字《もんじ》は、決《けつ》して鮮《すくな》くない。
又《ま》た口語體《こうごたい》は、本來《ほんらい》冗漫《じやうまん》、蕪雜《ぶざつ》である。所謂《いはゆ》る文章《ぶんしやう》の妙《めう》は、散文體《さんぶんたい》でなければ能《あた》はぬと思《おも》ひ込《こ》み、著者《ちよしや》が口語體《こうごたい》を採用《さいよう》したことを、慨《がい》し且《か》つ嘆《たん》ずる同情者《どうじやうしや》もある。併《しか》し著者《ちよしや》は、必《かなら》ずしも然《しか》りとは信《しん》ぜぬ。散文《さんぶん》でも、惡文《あくぶん》があり、拙文《せつぶん》があり、口語體《こうごたい》でも、名文《めいぶん》があり、雄文《ゆうぶん》がある。著者《ちよしや》は自個《じこ》の口語體《こうごたい》が、理想通《りさうどほ》りであるとは思《おも》はぬが。せめて口語體《こうごたい》にて、簡錬《かんれん》、明淨《めいじやう》、雄勁《ゆうけい》、奇拔《きばつ》の文章《ぶんしやう》を作《つく》りたいとは、著者《ちよしや》の希望《きばう》である。今後《こんご》歳月《さいげつ》と與《とも》に、錬磨《れんま》の功《こう》を積《つ》まば、或《あるひ》は其《そ》の萬《まん》一を、庶幾《しよき》することが能《あた》ふであらう。希《こひねがは》くは讀者諸君《どくしやしよくん》が、氣《き》を永《なが》くして待《ま》たれんことを。
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大正七年八月十二日、西伯利出征軍總司令部東京出發の當日、午前七時逗子觀瀾亭に於て
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[#地から3字上げ]蘇 峰 學 人

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