第四回 腕力世界 二(同上)
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第四回 腕力世界 二(同上)
 もし歴史的の眼孔をもってこれを観察せばアジア、ヨーロッパの二大陸は実に密着の関係を有するものといわざるべからず。試みに見よ。東亜の山脈は波濤《はとう》のごとく日本海よりビスケイ湾に連亘《れんこう》し、あるいは起き、あるいは伏し、あるいは続き、あるいは断《た》え、逶※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1-92-52]《いい》として不規則なる折線をもって二大陸を南北に横截《おうせつ》せり。しかして中央アジアの平原大野は渺茫《びょうぼう》として限りなくはるかにゲルマン、オランダの中腹に連なり、浩乎《こうこ》としてその津涯《しんがい》を知らず。太平洋の海岸より大西洋の海岸に至るまでおおよそ六千マイルに超ゆ。しかしてその高低はわずかに数百尺の相違に過ぎず。東亜の大陸は海面より突出する平均一一三〇フィートにして、西欧は平均六七一フィートに出でず。かつ気候温和人体に適し、至るところ草肥え泉甘し。しかして長江大河の横流してもって自然の境界をなさず。その形勢かくのごとし。はたしてしからば欧亜の二大陸は千兵万馬の大運動をなす最好の戦場といわざるべからず。けだしこの版図は実に英雄武を用うるの地なり。ゆえに蒙昧《もうまい》未開の上古より第十九世紀の今日に至るまで、人類の年代記はただ各人種がこの二大陸をば東西南北に往来漂泊したるの一大事実にして欧州古今の歴史はただ人種運動の歴史というもあえて過言にあらざるがごときを見るなり。
 そもそも今日のいわゆる欧州人民の先祖は中央アジアより西方に移住したるものにして、上古の歴史はむしろ東方の人種が西方に向かって旅行したる歴史といわざるべからず。試みに見よ。ケルト人種が在来の土人における、ラテン人種がケルト人種における、チュートン人種がラテンもしくはケルト人種における、スラブ人種がチュートン人種における、タタール人種がスラブ人種における、その運動はただ東よりして西に奔《はし》り、たがいにその踵《きびす》を追蹤《ついしょう》し、ついに欧州西岸の極端にあるスペイン人のごときはさらに西漸して大西洋を越え、米州に達するに至れり。これに反し、現今の歴史は実に人種が西方より東方に向かって運動するの歴史なりといわざるべからず。
 吾人は古今の歴史を通読してうたた奇異の感なきあたわず。人類がその歴史さえ記憶するあたわざる上古より第十三、四世紀に至るまで、欧州の歴史はそのこと多端なりといえども、あたかも冥々隠々裡に一の大将ありてこれを指揮したるがごとく、その随意運動にもかかわらず、みな一定の規律のもとに東方より西方に向かって運動したるの一大総括的の事実あるを見るなり(もちろんアレキサンダー王の東征、十字軍のごときは西より東を征したるなれどもこれみな原動にあらずして反動といわざるべからず。しかしてその反動を激成したるは、すなわちなお東方より西方に向かって圧力を加えたるがゆえなり)。しかして近世史の発端よりして今日に至るまでさらに一の大反動をなし、その方向を一変したるはあたかもかの大将が一号令のもとに、千軍万馬みなその馬首を回し、新奇の運動を始めたるがごとく、遠きは数千年、近きも数百年前その先祖が出立したるもしくは流寓したるの故郷に向かって各人種が旅行を始め、日にますますその歩を転ずるがごときの傾向を顕わすは吾人がもっとも驚くところの事実といわざるべからず。たとえばギリシア国がトルコの羈絆《きはん》を脱して独立国となりたるがごとき、イタリアがオーストリアの管轄を離れてその国体を新造したるがごとき、スペインの仏における、仏の独における、独のオーストリアにおける、英の露における、独の露における、欧州諸国のトルコにおける、その鋒先《ほこさき》はみな西より東に向かって運動を試みんとするにあらずや。試みに三百年前の政治地図と三百年後の政治地図とを採って比較せよ。必ず思い半ばに過ぎん。
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(註)たとえばトルコのごとき昔一四五三年にコンスタンチノープル府を取りしより、しだいに諸方の国土を併領し、モンテネグロを除きてバルカン半島の全体とペロポネソスと黒海およびアゾフ海の北岸等はみなトルコ国の手に属し、一七一一年のころトルコ国の領地は西はアドリア海およびダニューブ河に至り、東はドニエステルおよびドニエープル等の地方に達し、ベッサラビヤ、クリミアその他の蒙古《もうこ》地方もトルコ国の領分にして、その欧州大陸にある所有地は一万五四五四方英里あり。露国を除きては欧州のいずれの国よりも多くの領地を有したりしが、このときよりのち同国はようやく衰運に向かい一七三九年に一時オーストリア国に対して戦勝を得たることあれども、その後追々にその領地を失い、先年露国と戦争を始むるころはわずかに九四五六方英里の領地を有し、そのうち八九〇二方英里は諸公国に属し、これらはただ名義上トルコ国を宗国と仰ぐのみにてほとんど独立の邦国に均《ひと》しく、ついでまたベルリンの条約にてトルコ国は四五五八方英里の土地を取り上げられたれば、一七〇〇年より一八七八年までの間に同国は欧州にて一万〇六六六方英里を失い、そのうち、八九〇二方英里は露国に征服せられ、またそのうちの四八一六方英里はまったく露国の領地となれり。
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 近くはまたアイルランドのごとき、多年英人のために占領せられたる自由の権をも土地所有権をも回復せんとするの機会を得たるにあらずや(十九年四月八日グラッドストン氏愛国自治案。同十六日土地買上案)。一千年前ローマ帝国を鉄蹄《てってい》のもとに蹂躙《じゅうりん》したるの戦争はチュートン人種・ラテン人種・ケルト人種・スラブ人種の戦争なり。今日の戦争はいかん。アングロサクソン人種たる英人とスラブ人種たる露人との間における、ラテン人種たる仏人とチュートン人種たる独人との間における、みなこれ人種の戦争にあらずや。けだし世界は人種が優勝劣敗を争うの修羅場なり。いわゆるローマ覆滅の歴史も人種が生存競争の歴史なり。第十九世紀文明の歴史もまた人種が生存競争の歴史なり。その異なるところはその攻守の関係を一変し、その運動の方向を一転したるまでなり。吾人はこれを聞く。ビスマルクが将来の経綸《けいりん》たるや、オーストリアをゲルマン連邦より拒絶しこれを東方に擠《さい》し、バルカン諸小国を併滅せしめ、ダニューブにそうて東漸せしめ、サロニカをしてその首都たらしめ、しかしてみずからダニューブ大河をばゲルマン帝国が黒海に出るの大道となし、手に唾《つば》してコンスタンチノープルを取り、もって地中海の上游《じょうゆう》に拠《よ》り、さらに第十九世紀の世界において一個の新奇なるローマ東帝国を建設するにありと。吾人ははたしてしかるや否やを知らず。しかれども目今の現状よりこれを見ればあえてことごとく揣摩《しま》の見《けん》というべからざるがごとしといわざるべからず。かの露国のごときはポーランドを滅ぼし、駸々乎《しんしんこ》として西南に向かって長蛇の急坂を下るがごとく運動したるにかかわらず、今はゲルマン帝国がその進路を遮《さえぎ》り、あたかも猛虎の嵎《ぐう》を負うがごときの形勢なるがゆえに、寸進尺退一歩も動くことあたわず。しかれどもその南下の志はいまだ一日も忘るるあたわず。かのコンスタンチノープルに出でんと欲するの計画のごときは、決して一朝一夕に生じたるものにあらざれば、また決して一朝一夕にてこれを廃棄すべきにあらず。およそ第十九世紀東欧の運動は、多くはこれ露国がコンスタンチノープルに出るの踏み石たりしことは吾人が親しく観察するところのものなり。ゆえに欧州将来の問題はすなわちこのローマ東帝国の旧都府ははたしてたれの手に落つるかの一点に集合するというも不可なからん。ああこの旧都府は決して永遠にタタール人種が所有すべきものにあらず。しからばすなわちこれに代わるものはスラブ人種なるか、はたチュートン人種なるか。いずれにもせよ四百年前|回々《フイフイ》教徒のために奪掠せられたる旧都はふたたびその旧主人たるキリスト教徒の手に回復すべきはすでに歴史の眼中に髣髴《ほうふつ》たるを見るなり。
 しかりといえども欧州諸国は、寛《ゆる》めばすなわち両軍相攻め、迫ればすなわち杖戟《じょうげき》相《あい》撞《つ》くの勢いにしてほとんど立錐《りっすい》の閑地さえあらざるをもって、とうてい快活の運動を試みるあたわず。しかしてその運動を試みるに足るの地ははたしていずれの辺にある。おおよそ物体はそのもっとも障碍《しょうがい》の少なき点に向かって運動する自然の法則を有するものにして、人種の運動といえどもまったくこの理に従わずんばあらず。古《いにしえ》は東に難《かと》うして西に易し。これ古において西方の運動あるゆえんなり。今は西に難うして東に易し。これ今において東方の運動あるゆえんなり。ここにおいてか東方論なる大問題初めて世界の年代記に生じ来たれり。かの露国のごときその西方の運動においては寸進尺退、うっとうしきにもかかわらず、そのひとたび鋒を東するや、そのかつてみずから征服せられたるタタール人をば今は追いてこれを征服し、野獣を郊原に追うがごとく、したがって進み、したがって東し、あたかも無人の境を奔《はし》るがごとく、一瀉千里たちまちにして中央アジアに竜蟠《りゅうばん》し、アフガンに隣り、満州に接し、もってわが北門の鎖鑰《さやく》を叩《たた》き、黒竜《アムール》江上に東洋艦隊を浮かべ、長白山頭には猛鷲《もうしゅう》の旗影|飄々《ひょうひょう》として朔風に翻《ひるがえ》るの勢いをなせり。
 今を去ること二十五年徳川政府の末年に、露国の軍艦が対馬《つしま》に来たりて同島を占領せんと企て、時の政府は英国の力を借りてようやくその企てを拒みたることは、今なお世人の記憶するところにして、当時英国公使として日本に駐在し、親しくこのことに関係したるラザフォード・オルコック氏がさきごろ露国がふたたび対馬に事あらんとするの風聞を聞きて『タイムズ新聞』に投書したるを見るに、
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(註)氏はまず日本政府は近ごろ露国が対馬を覬覦《きゆ》するとの風説あるを聞きて憂慮するところある由なるが、先年予が日本に在職中にありたることを回想すればかかる風説は日本政府の心を疾《や》ましむるに相違なかるべしといい、それより露国人民の性質よりまたその専制政治の他に異なるところとてひとたび目指したることはつねにこれを固執し、長くその政略を変ぜざることを述べて、露国はその目指すところコンスタンチノープル府にあるもボスポラス海峡にあるも、中央アジアおよびシナにあるも、または黒竜江および蒙古地方にあるも、ひとたびこれに目をかけたるうえはなにほどの故障に遇うも決してこれを打ち棄つることなく、あるいは一時の都合にてこれを後回しとなすことなきにあらざれども、早晩時機を伺い、ふたたびこれを持ち出して、けっきょくその目的を達するに至らざればやまず。しかるに対馬は朝鮮海峡の東辺における無比の良地にしてその島の一港は水深く海湾遠く内地に入り気候暖和にして終歳氷結の憂えなく、海門|狭穿《きょうせん》にして容易に敵兵の侵入を防ぐに足れり。兵略上にていわばあたかも天然のセバストポールともいうべき要港にて、加うるにその地は平時において太平洋よりシナ海の貿易を支配し、事あるときは一挙して朝鮮または北京《ペキン》に攻め入ることを得るの便利あれば、露国にとりてはサガレン以北シベリヤの全地と沿海一帯の領地とを合わせたるにも勝れる価あるべく、先年欧米諸国が初めて日本と条約を結びたるのち、まもなく露国がこれを取らんとしたるを見ても同国が深くこの島に望みをかくるを見るべし。
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 霜を履《ふ》んで堅氷至る。ああわが邦の危機かくのごとし。わが人民たる者あにその眼孔を東洋の全局面に注がずして可ならんや。しかりといえどもかの露国が東洋に向かってその野心を逞《たくま》しゅうせんと欲するにもかかわらず、すでに東洋には一の主人あることを記憶せざるべからず。主人とはたれぞや。すなわち英国これなり。しかして英国のもっともその勢威を東洋に振うゆえんのものはインドあるがゆえなり。しからばすなわちかの露国が虎視眈眈《こしたんたん》つねにその機会をまってこれを英国の手より殄《てん》し奪わんと欲するはまたゆえなきにあらざるなり。しかしてかの露国はいかにしてこれを奪わんとするか。まずアフガニスタンよりしてこれを奪うの地をなさざるべからず。それ宇内《うだい》の運動は東洋に集まり、東洋の運動はインドに集まり、しかしてインドの運動はアフガニスタンに集まる。けだしアフガニスタンは英露の争地なり。英のインドを守らんとするかならずここにおいて守らざるべからず。露のインドを攻めんとするかならずここにおいて攻めざるべからず。これアフガン争論のつねに英露の間に絶えざるゆえんなり。しかしてこの問題は東方論の一大関鍵といわざるべからざるゆえんなり。よし年来破裂したるアフガニスタン境界論のごとき、去年ソールズベリ侯内閣が姑息《こそく》の手段をもって一時に弥縫《びほう》したるとはいえ、これなお噴火山上噴火の口を圧するがごとくかえって人をして後来において大噴火の大破裂あらんことを予想せしむるに足るなり。今やアフガニスタンのアミール、アブドゥル・ラーマンのごとき、その表面は英国の巨僕たるがごとしといえども、その実は露国の奇貨なることは少しく東方論に通達するの士はみな知るところなり。彼多年露国の域中に住し、しかして久しくその厚遇をこうむれり。しかして今や露国の密使は憧々《しょうしょう》としてその都城たるカブールに往来せり。その燕遊《えんゆう》一日の交情にあらざるもって知るべし。吾人はかつて前のペルシア駐箚《ちゅうさつ》合衆国公使ベンジャミン氏がペルシアに関する東方論を読むに、実に左の語を発見せり。
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露国の政略と雄図とは実に昨春(明治十八年)露国官吏の口より明快に公言せられたり。その言に曰く「汝は東方の境界に関する曖昧糢糊《あいまいもこ》の巧言を信ずるをやめよ。たとい何人かヘラート(アフガニスタンの西都)を取るの必要なしと誓うもこれを信ずるをやめよ。たとい余がこれを誓うもあるいはまたはツァー(皇帝陛下)その人のこれを誓うもこれを信ずるをやめよ。わが輩《はい》はヘラートを取るのやむべからざるの必要を感ず。ゆえにわが輩は早晩これを取るべし」
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 この言はたして信ならば、今日において隠伏したる禍機の破裂するは決して遠きにあらざるべし。吾人はただ西天を睨《げい》してその黒烟《こくえん》の上るをまつのみ。
 けだし英国がインドを征服したるの歴史はすなわち英国罪悪の歴史にして吾人がここに喋々するを要せず。天下の人士しかしてその本人たる英国人すら承認するところにして、その他|香港《ホンコン》における、清国における、日本における、あるいは昨年ビルマにおける、やむをえざるがために戦うなりと弁護すれども、やむをえざるがためとははたして他国を奪わざるべからざるのやむをえざるのゆえか。吾人はこれをほかにしてさらに他にやむをえざるの理を発見することあたわざるなり。その他英国が巨文島《きょぶんとう》における、露国が済州島《さいしゅうとう》における、ゲルマンがマーシャル群島における、あるいはカロライン島における、仏国が安南における、あるいは台湾福建における、吾人は渠輩《きょはい》がいかなる権理をもってこれを占領したるかを知らず。ただ強者の権をもってこれを占領したるのほかはさらに一も知らざるなり。
 これを要するに東方論なるものは、今日においてすでに早晩その無残無慈悲なる欧州人民より呑滅せらるるの命運を有したる憐れなる東洋の諸国が、はたしてそのいかなる人種により、いかなる国により、いかなるときにおいて呑滅せらるるかの問題なり。かのビルマのごときはその面積ほとんど仏国三分の二に過ぎ、三条の大河は茫々たる沃野を横ぎり、そのもっとも森林に富み、石油・石炭・金属・宝石、もしくはゴム・硫黄《いおう》等に富み、その郊原には三千万の農夫をしてその業を営ましむべき田地あるの大国なるにかかわらず、一朝にしてただ野蛮にして弱小なるの罪をもって英国のために滅ぼさるるや天下一人の涙をだに濺《そそ》ぐ人はあらざるなり。吾人はかのキャンベルがポーランド亡滅の詩を誦しために慨嘆せざるを得ず。
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ああ年代の歴史に書かれたる血腥《ちなまぐさ》き画図や。サルマシヤは罪なきに亡滅したり。しかして泣く者とてはあらず。矛《ほこ》を揮うてこれを救う義侠《ぎきょう》の友もなく、不運を憐れみ菩提《ぼだい》を弔う慈悲ある敵もあらず。
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 それ村落の農夫の死するやなおこれがために哭《こく》する者あり。しかして堂々たる大国の死するや天下の人みな冷眼に看過し知らざるがごときはなんぞや。
 吾人はこれを疑う。かの植物が動物のために生じたるがごとく、動物が人類のために生じたるがごとく、東洋なるものはあるいは欧州人のために生じたるにはあらざるかと。吾人かつて『神皇正統記』を読むに実に左の古伝説を見る。しかしてこの古伝説たるやさらにわが東洋の現状に適したるを見るなり。
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出雲《いずも》の簸《ひ》の川上というところにいたりたもう。そこにひとりの翁《おきな》と姥《うば》とあり。ひとりの少女《おとめ》をすえてかきなでつつ泣きけり。素戔烏尊《すさのおのみこと》たぞと問いたもう。われはこの国神《くにつかみ》なり。脚摩乳《あしなずち》手摩乳《てなずち》という。この少女はわが子なり奇稲田姫《くしいなだひめ》という。さきに八箇《やたり》の少女あり年ごとに八岐《やまた》の大蛇《おろち》のために呑まれて今このおとめまた呑まれんとすと申しければ、尊われにくれんやと宣《のたま》う。勅《みことのり》のままに奉ると申しければこのおとめを湯津《ゆづ》のつま櫛《くし》に取りなし、みずらにさし八※[#「酉+慍のつくり」、第3水準1-92-88]《やみおり》の酒を八つの槽《ふね》にもりて待ちたもうに、はたしてかの大蛇《おろち》来たれり。頭おのおの一槽に入れて呑み酔うてねぶりけるを、尊はかせる十握《とつか》の剣《つるぎ》をぬきて寸々《ずたずた》に切りつ。
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 ああインドすでに滅び、安南また滅び、ビルマまたついで滅ぶ。剰《あま》すところの国もただ名義上において独立国たるを得るのみ。おもうにこれもまた早晩大蛇の腹中に葬るの命運を免れざるや否や。第十九世紀の今日においては八岐の大蛇はあれども素戔烏尊はあらざるか。実に覚束《おぼつか》なき時代というべし。それペルシアの前途はいかん。シナの前途はいかん。朝鮮の前途はいかん。そもそもまたわが日本の前途はいかん。眥《まなじり》を決して前途を望めば雲行はなはだ急なるを見るなり。吾人は実にこれを掛念《けねん》するに堪えざるなり。おもうに吾人はただ第二十世紀の歴史においてその判決を待たんのみ。

 

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